« 2007年04月 | メイン | 2007年06月 »
2007年05月31日
後藤ハンナ先生の日本語授業
晴天。 休肝日
午前中35度。午後曇り小雨。
午前7時朝食。ブンボー。
午前8時半、徒歩、ベトナム事務所。
バオミンさん、サンさんと夏のスタディーツアーについての
打ち合わせ。出来るだけ見積もりを安くし、訪問者が
ベトナムに来られ易くすることを基本に見積もりをすることを
話し合う。
今朝、7時前に日本料理店に来た仁枝さん。
日本料理店の机と椅子を作る業者が7時に机椅子を搬入する
との連絡があり、7時前に日本料理店で待っていた。
結局、今日は1日待ったが来なかった。明日8時に持ってくる
とのこと。約束できないのなら朝7時などという無理な時間を
指定するなと言いたい。
かなりのメール受信、返信。
昼食 コムディア。
昼寝。1時間。
午後1時半読書「漢字の起源」
文字の「文」と「字」の意味の違いを知る。
「文」は「「紋」のこと。模様。象形文字の原型を意味し
月、日など。
「字」は、「文」を組み合わせて出来た漢字。
会意文字など。信、武など。
午後4時。日本語学校へ。今日は札幌出身の後藤ハンナ先生
の授業の様子を見る。
観光基礎コース20人ほどの授業。4時~6時まで。
一人だけで授業をするようになって4回目。
授業は月~木まで。午後2時~4時の日と4時~6時
までの日がある。
今日の授業は最初に教科書第16課の復習テスト。
漢字をひらがなに、ひらがなを漢字に直すテスト。
まだ習っていない漢字を事前に説明する。
ゆっくりした大きな声で説明していた。教師の第一歩は
学生が教師の言うことが聞こえるということ。
第一関門は立派に突破している。
後藤先生の説明を聞く生徒。
観光基礎コースは、今年1月から開講。5ヶ月ほど日本語を
勉強した。後藤先生は一人の質問に丁寧に答えていた。
●テスト問題と生徒の回答の一部
学生の中には、「問題が簡単で直ぐ出来た」などと豪語
している者もいた。
後藤先生は順調に日本語教師の第一歩をスタートしたと見た。
午後5時半、ベトナム事務所日本料理店へ。
子どもたち、日本人と夕食。骨付き豚肉の甘辛煮。
空芯菜ニンニク唐辛子炒め。唐辛子入り野菜ごった煮スープ。
午後6時半、日本料理店開店。
開店直ぐにヨーロッパ系のお客さん1人。
午後7時、オーストラシアのシドニーから2組の夫婦。4人。
天ぷらやフエ生ビールを飲む。
パイナップルジュースの注文があった。厨房にパイナップルが
ない。ニー店長が自転車で急いで買出しに行く。
りー副店長が自転車を店長に出してやる。力仕事はリー君の
専売。やさしい気持ちをもっている副店長である。
午後8時過ぎ、お馴染みの日本人1人。
今日の「おすすめ」メニュー。
午後9時、閉店。今日のお客さんは欧米5人、日本人1人。
合計6人。
日本料理店は今日で開店8日目。おなじみのお客さんも
付き、通りすがりのお客さんも入ってくれるようになった。
2007年05月30日
フールー小学校終業式
晴天
気温35度。
既に10日間ほど35度から40度の日が続いている。
生きているだけで体力を消耗する。
夕食の時、お酒を飲まず、しっかりと食事を摂ることにした。
1週間に4日~5日程度はしっかりと食事をし体力をつける。
ストレスも溜まるので週に2回程度ビールを飲むという生活
態度に変更する。日記に「休肝日」とある。
午前7時朝食。フォー。
午前8時、昨夜から届いたいくつかのメールに返事。
この1ヶ月ほどのベトナム事務所での複雑な出来事の説明も
あり1通のメールを書くのに1時間ほどかかることもしばしばある。
午前8時45分、徒歩、ベトナム事務所へ。
県営人材派遣会社社長と懇談。いくつかの問題を話し合う。
午前9時半。ベトナム事務所2階に以前のオーナーが鳩の巣を
作っていたい。今でもたくさんの鳩が来て、フンをしていく。
2階、3階のテラスには大量の鳩のフンがある。
日本料理店関係者が水で流し、きれいにあらう。
鳩がテラスに入らないように「釣り糸」を細かく張る。
ベトナム事務所で仕事。
午前11時過ぎ、徒歩帰宅。
昼食。
午後12時、昼寝。午後1時半まで熟睡。やはりかなり体力を
消耗している。NHK衛星放送ではハノイの気温が34度とのこと。
午後1時半、読書「漢字の起源」
私たちが普通に使っている漢字の起源がどんな意味があったのかを
知ることは当時の中国の歴史と文化を知ることになる。
また、その文字が付いている漢字には何らかの意味で文字の
発祥の歴史の緒がつながっている。
「人民」の『民』の象形文字は「目」を針金で指すという残酷な形
から出発している。奴隷が逃げ出さないように針で目をつつき、
見えにくくしたのが原義。当時、まつりごとがあると「いけにえ」
を神に捧げた。奴隷がいけにえになる。多いときには一度に
300人以上のいけにえの首を切っている。
『民』の原義は、奴隷という意味。
なるほど、「全てを人民のため」になどという言葉を使う
ニセ社会主義国。中国・ソ連など多くの
社会主義国は文字通り「民」の原義通りに政治を行っていた
訳である。天安門事件で、数千人もの『人民』を
戦車でひき殺したもの『民』の原義に忠実だったのだ。
人民は奴隷であり、人間扱いしていなかったことが良く分かる。
「妾」は、辛(針)の下に女。奴隷の女と言う意味。
奴隷の女は性的な奴隷だった。そこから転じて2号さんなどに
使う言葉にもなったとのこと。
午後3時半、フールー小学校の終業式に招待される。
さすがはベトナム流の招待。午後3時半の終業式招待が
その日の午前中に来るのである。
フールー小学校は600人弱の生徒のうち半数が船上生活者で
ある。フエでも一番貧しい地区の子どもたちが通う。
船上生活者の半数は中学に進学しない。卒業するのは20%。
今日は終業式。成績最優秀、優秀などの子どもたちに
賞状と賞品を授与する。気温40度近く。いるだけで汗が
吹き出てくる。子どもたちは暑い校庭に1時間以上座って
いた。一人も「倒れる子ども」はいなかった。日本なら
バタバタ子どもたちは倒れるだろうと思った。
校長先生の話
最優秀は79人、優秀122人。再試験38人。
続いて最優秀・優秀の子どもたちに賞状と賞品を手渡す。
1時間ちょっとの式典。
午後5時半夕食。
鯖の煮物、竹の子とビーフンの炒め物、ポテトサラダ、
ニガウリのスープ、ご飯。全て子どもたちが計画し仕入れをし、
料理を作った。
子どもたち、日本人スタッフと夕食を摂る。
厨房のターオ君がこのところ全く出勤してこない。
午後6時半、日本料理店開店。
シンガポール人2人。日本人1人来店。
厨房は調理に大忙し。
商売は飽きない。お店を開いて入れば、徐々にお客さんは
付いてくるというものである。開店初日2人、3日間連続ゼロ。
その後は毎日5人前後のお客さんがある。新日本料理店も
軌道にのりつつある。
お客さんがいないちょっとした瞬間。店長と副店長は
業務連絡の深い話し合いを真剣にしていた、・・・・・
かどうかは分からないが
副店長の顔が多少ニヤけていたのが気にはなったが・・・・・。
お客さんがいない待ち時間。トゥオイさんとグエットさんから
「何故、小山先生はベトナムに来てこういう仕事をしているのか?」
と聞かれた。
8時45分。少し早く閉店。3つのエヤコンをつけると停電していた。
今日、業者に直してもらったが、不安なので3つのエヤコンを
つけ、どの程度涼しくなるのか、調べてみる。
ボーッとしていても仕方がないので、リー君、仁枝さんを誘って、
生ビールを飲む。大塚さんや子どもたちはソーダやコーラ。
9時過ぎ子どもたちは帰宅。その後もカウンターで
リー君たちと四方山話。
帰宅は午後10時半過ぎ。
2007年05月29日
フエの町並み、名所などをビデオに収める
晴天。 休肝日
午前中暑い、昼雷雨、夕方暑い。午後8時半豪雨。
気温35度。
午前7時朝食。ブンボー。
午前8時、ベトナム事務所へ。ベトナム事務所員のソン君の
オートバイの後ろに乗り、フエの町並み、名所旧跡などの
ビデオ撮影を行う。
初めにフォンザンホテルからフエ駅までの一直線。レロイ通り。
両側の町並み、並木道、みやげ物店、ホテル街、フエ師範大学、
フエ市人民委員会、テンティエン橋、フースン橋、省人民委員会、
ハイバーチュン高校、コッくホック高校などを大雑把に撮影し
フエ駅へ。更にフースアン橋でオートバイを降り、フォン川を
通してラオス側の山岳風景、そして反対の河口側を撮影。
フースアン橋の近くにフエ市花『火焔樹の花』が咲き始めていた。
いよいよ火焔樹街道の季節となった。
チャンフンダオ通りに入り、「旧市街」を撮影。ドンバー市場、
船上生活者のコロニー、フエの秋葉原電気街。
日本語学校を経由して王宮へ。旗台を通り、王宮前。
更にグエンフエ高校を通り、タイロック市場。縫製研修センター。
●完成した縫製研修センター
最後に「子どもの家」へ行き、2学期の試験が終わり、成績表を
もらった子どもたちに話を聞く。子どもたちは既に3ヶ月間の
夏休みに入った。宿題のない子どもたちの天国期間。
幼稚園1人、小学校10人、中学校23人、高校8人、合計42人が
通学。
(フエ医医科大1人、フエ教育大1人、フエ美術専門学校1人は
まだ成績結果が出ていない)
ベトナムの成績は、1学期・2学期のテストの合計を平均し
10点満点に換算。8以上が最優秀賞。日本流に言えば、
1年間のテストを全て平均し、平均点が80点以上が最優秀
ということになる。
●最優秀(8点以上) 5人(幼稚園1、小1、中2、高1)
●優秀(7点以上) 13人(小8、中3、高2)
●普通(5点以上) 17人(小1、中12、高4)
●再試験(5点未満) 7人(中6、高1)
最優秀になった幼稚園のTY君
最優秀の小学校2年生のユイ君
1日3時間位勉強したとのこと。将来は警察官になりたい
と言っていた。
最優秀の中学生女子3人に聞いた。
(問い)成績は? 1日何時間位自習しているの?将来は?
(答え)●ニューさん左
(中1)8、2点。5時間は自習をする。政治家になりたい。
●ホンニーさん 真ん中
(中2)8、7点。5時間以上自習する。グエンフエ高校に
入りたい。
●フオンさん 右
(中1)8、4点。5時間は自習。将来は医者になりたい。
再試験7人の子どもたちのうち、中学3年生2人は「落第」となり
更に1年中学3年に通うことになる。
残りの5人は、再試験で10点満点で5点以上を取れば進級、
5点未満なら落第となる。再試験は7月。全員が進級して
欲しいと祈るのみ。
ご前10時半、ベトナム事務所へ。
午前11時半、トンチンカンホテルへ戻る。
昼食。パン。ヨーグルト、牛乳
昼寝。1時間半。
午後2時。読書。「漢字の起源」
午後4時、徒歩ベトナム事務所。
メールの受信と返信。
午後5時半、夕食。子どもたちと日本人スタッフ。
午後6時半、日本料理店開店。
リー君は深く反省したのか、そもそも注意が上の空なのか
分からないが、元気に日本料理店に復帰。今日は掃除から
準備と非常に熱心に仕事をした。夕食中も冗談を言って
明るく過ごしていた。
午後7時、4人の日本人のお客さんが来店。
午後9時まで食事と生ビール・お酒を楽しむ。
午後9時過ぎ閉店。徒歩トンチンカンホテルへ。
サギ国家「美しい国・日本」の実態
国会の争点は年金問題。参院選の最大の争点の一つである。
松岡農水省の縊死(いし)問題も結局、政権政党(自公)の
無能を露呈したとも言えるが、年金問題は、無能だけでなく
政権政党の犯罪ともいえるサギ国家の実態を暴露している。
5000万件の年金資料が誰のものか分からないまま放置されている。
年金受給者が3000万人というから、べらぼうな数の年金
資料が杜撰(ずさん)な管理のまま放置されていた訳である。
私なども23年間共済年金に「源泉徴収」でお金を取られていた。
取るときは源泉徴収でとっておきながら、そのお金の管理が
全くでたらめだった。使途がでたらめだったことは今まで繰り返し
報道されていた。誰も使わない赤字施設を作り続けたなどなど・・・。
今度は、収めた年金が誰から納められたのかが分からないまま
放置されていた、しかも5000万件。
柳沢厚生労働大臣は、「不安な人は自分で申し出ろ」と言っている。
この傲慢な態度。泥棒がお金を盗み、被害者に「盗まれた人は
申し出ろ」と言っているようなもの。盗人猛々しいとはこういうことだ。
私たち団塊の世代など人数が多い。高い年金を大量に徴収された。
60歳から年金を支給すると国家は約束していた。
ところがいざもらう頃になると「65歳」からにしますと支給を
5年延ばされた。65歳で当初の金額がもらえるのかと
思っていたら「100年安心」の年金改革と称するインチキ・
サギ改革で支給金額が大幅に削減されてしまった。
支給年限が一方的に5年延期され、その金額も大幅に
削減。納入時の約束と全く違う年金支給。これだけかと
思ったら、更に今回支払っていたお金が誰のものかも
管理しないまま今日まで放置されていた。納入していたのに
更に年金額が削減されることになる。
自民党の中川政調会長は「社会保険庁の職員が悪い」
と言っている。しかし、常識的に考え、職員の責任は
上司の責任でしょうといいたい。「漫才の人生こうろ」だったら
「責任者、でてこい」と言ったところ。
柳沢厚生労働大臣の責任は免れないし、
自民党・公明党という政権政党の責任こそ重大である。
既に国家的サギ行為を行っている政府自民党・公明党であるが、
5000万件もの納入者不明の資料問題が明るみに出ても
「誰一人責任者」が出てこない、ふざけた政権政党である。
腐っているとはこういうことを言うのだろう。
「100年安心」を主張した宗教政党の責任は重大である。
「100年・1000年不安のインチキ年金」と訂正すべきである。
私などこの年金問題は生活に直結している。怒らずには
いられない。夏の参議院選挙にこの怒りをぶつけるしかない。
「美しい国」の輪郭が見えてきた。
2007年05月28日
暗澹たる一日=松岡農水大臣の縊死
晴天。34度。 休肝日
夕方から雨雲。
午前7時朝食。フォー。
早朝から隣りのホテル前で大型バス、ワゴン車などのエンジン音
が響く。
午前8時過ぎ、徒歩、ベトナム事務所へ。
事務所へ行く途中、副店長のリー君と出会う。
「ベトナム事務所に行ったが、怒られた。午後、事務所に行く」と
言う。「土曜日はどうして来なかったの?」と聞く。
想像通り「疲れた」とのこと。疲れたのは事実だろう。
何しろ、今まで半日働き1日休みと言った調子の勤務態度だった
のが、4月20日の旧日本料理店閉店以来、日曜日も含めて
毎日朝から夜9時過ぎまで出勤していたのだから、彼の
言い分にも一理あるのはあるのだが・・・・。
「休むときには連絡しないと行けない」「今後、黙って休まない
ように」と路上の立ち話をする。
ベトナム事務所で仕事。必要なメールへの返信。
某賞申請書の添付資料について、何人かの方と連絡打ち合わせ。
5月31日必着で資料が届かない状況となり、緊急措置をとる。
昼食。コムディア(75円)。
NHK衛星放送で松岡農水大臣縊死のニュースを知る。驚き。
経過と事情は別にして、松岡大臣の冥福をお祈りする。
事件の経過と問題は別にして、松岡氏を支える仲間や相談する
自民党の友人はいなかったのかとつくづく思う。
死屍に鞭打つ気はないが。
ちょっと前の自民党だったら自殺などしなくても済んだのでは
ないかと悔やまれる。自民党の人情家や知恵者が松岡氏への
サポート、助言などをしていたはずだからである。
自民党は義理・人情があった政党でもあったはずだ。
言い方は変であるが、人間や党員・仲間をもっと大事にして
いたように思う。
小泉・安倍首相になってから、人間・党員を『物扱い』するように
なった。「郵政民営化」問題で除名されたり、「土下座」同様の
措置を受けて復党したりと、人間としての暖かさのなくなった
自民党である。松岡氏が何故自殺をしたのかは、分からない。
本人のキャラクターもあるだろうが、自民党自体が松岡氏への
きちんとした対応が出来なかったことだけは事実である。
安倍首相にとっては佐田大臣の辞任についでの辞任が
政権の信頼度を揺るがす問題である。安倍首相は
ある意味で松岡氏を「さらし者」にしたきらいがある。
任命権者の首相が「松岡更迭」を決める責任があった。自己の
政権保持のためにインチキ松岡大臣をさらし者にした、
と言われてもしかたがない。国会で多数を握った
自民・公明のおごった国会運営は目に余るものがある。
一昔前なら松岡氏がどんなに頑迷固陋に辞任を拒否しても、
首相が更迭せざるを得なかった。多数に胡坐をかいた自民の
おごりのツケでもある。日本社会を象徴する悲しい出来事
である。子どもたちの自殺が相次いだ。政府は子どもたちに
「人間の命の大切さ」を教え、「仲間で助けあおう」「困った
仲間がいたら親身になって相談に乗ってあげよう」と呼びかけて
いた。呼びかけた政府・内閣の大臣の自殺、そしてその自殺を
防げなかった政治家たち。日本社会の崩壊が深刻なところまで
来ていることを実感する。本当に話せる仲間がいたら
自殺にまでは至らなかったと思えてならない。
事務所費問題、光熱費問題、緑資源機構の献金問題など
常識的に考え、世間の批判に耐えられるものではなかった。
自民党内の人情家・知恵者が「松岡更迭」を首相に迫る
ことが何故出来なかったのか? 任命権者の安倍首相の大きな
責任が残った。同時に首相も自民党内の親分どもも含めて
『人間関係の希薄さ』がここまで来たのかと思った。
自民党・公明党など与党内の人間関係の希薄さを改めて
感じてしまう。政治的な立場を別にして、いち人間として
松岡大臣縊死の報を聞いて、こんなことを考えた。
松岡氏の冥福を祈る。
午後3時、リー君の問題ででリー君とミンさんで話し合う。
その後判明したことは、午前8時に日本料理店に入った
リー君は勝手に冷蔵庫をあけて料理を作り始めてしまった。
それを知ったベトナム事務所関係者が厳しく叱責。
リー君は副店長なので何をしてもよいと勘違いしている
節がある。
リー君に、何故勝手に日本料理店で調理を始めたのか聞いた。
『お腹が空いたから』との返事。毎日仕事の帰りに日給月給
1日13000ドンを上げていることを指摘。土曜日の午後、
リー君が来なかったから日給月給がもらえなかったので、
責任は自分自身にある。すると、日曜日の日給ももらっていない
と言い訳。土曜日に無断出勤したから日曜日分ももらえないのは
当たり前と。ああ言えばこう言うリー副店長であった。
私は今回は厳しくと思い以下の3点を言う。
①副店長は勝手なことをしてよいと言う役職ではない。
朝食は自分のもらった給料の中で自分で処理するもの。
冷蔵庫の食品はお客さんに出す大事なもの。
②勝手に仕事を休むことは、今後許されない。仕事をしないで
給料だけをもらおうという考えは間違っている。
③副店長として期待しているので、今後①②をしっかりと守り
みんなの見本となるような仕事をして欲しい。
リー君は一応納得したようだ。
続いて、日本料理店関係者と日本料理店頭に飾る『看板』の
デザインを話し合う。
子どもたちの写真、寿司、天ぷらの写真を入れ、
JASS家庭料理「子どもの家」 と入れることにした。
午後5時半、夕食。子どもたちと日本人スタッフ。
「ブン・チャーカー」(米うどんのつけ麺)
午後6時、日本人スタッフに「フエで起こった重大な問題」に
ついて報告。
午後6時半、日本料理店開店。
●平常業務に就くリー副店長。
午後7時、日本人のお客さん(2回目)が来店。明日から
4人日本人が来るとのこと。来週、パーティーを日本料理店
でやりたいと言う。ありがたいお客さんである。フエの下水道
工事のスタッフだという。「子どもの家」の趣旨にも賛同し
協力してくれる気持ちもあるようだ。
その後、ベトナム人が2人。お寿司などを頼む。
厨房は大忙し。
●お寿司を握るトゥオイさん
●来客があり喜ぶ接客係りの二人
今日は3人のお客さん。
午後9時閉店。
今日は昼から松岡大臣縊死の報を聞き、政治的な
問題を抜きにしても、日本社会の人間関係が
ここまで希薄になったのかと暗澹たる気持ちになった
1日であった。
2007年05月27日
バンベー全原稿を通読
晴天
午前9時起床。昨夜痛飲。
午前10時過ぎ、入浴。NHKのど自慢を見ながら
フダ缶ビール2本。ベトナム米1合で全がゆを作る。
半分食べる。
1時間ほど、横になる。
午後12時半。JASS機関紙バンベー原稿全てに目を通し、
問題点などをチェックする。全ての原稿の見出しをつける。
読書「石の肺」読了。
京都の豊田さんから贈られた本。読む価値の十分ある本である。
無知は犯罪だと思った。自分自身の自戒である。
アスベスト問題がアスベスト工場関連者や付近に在住していた
人だけの問題ではない、深刻な問題だということを
改めて知った。全国民の生死に関わる重大問題。しかも
国家が先導しておこなった国家犯罪ともいえる問題。
石綿は絶縁体、耐熱のために色々なところで使われている。
アスベスト繊維を車のブレーキライニング、ゴムと混ぜて
クラッチ、ブレーキ。エレベーター機械室。水道管。
学校などの緞帳(どんちょう)に防火のためにアスベストが
使われている。豚舎、畜舎、消防車、消防基地、耐火金庫、
歯科技工士(歯形を取る電気炉に使われている)、
学校給食の揚げ釜、ご飯を炊くところ、ジッポのライター。
ピアノの椅子(椅子に張ってあるジュート布を船で運ぶ
時の麻袋)、ビルなどの天井裏にアスベストが吹き付けられ
ている。空調ダクトから室内に拡散されている。多くの人が
吸っている。
今後、10年、20年、40年後にアスベストで肺がんや中皮腫に
なる人たちは相当数出てくることが予想される。
読書「漢字の起源」(藤堂明保著:講談社学術文庫)
興味のある本。中国の歴史と象形文字としての漢字の解説と
歴史。私たち『美しい日本人』は、数千年前に中国人が
発明した素晴らしい文字を何の対価も払わず「コピー」して
今日に至っている。中国が日本製品のコピーをしていると
してWTOに訴える動きある。アメリカは提訴した。
確かに中国のコピー商品は目に余るものがある。
同時に538年とも552年とも言われる日本への漢字伝来。
日本人の文化と精神構造そのものに重大かつ最大の
影響を与えた漢字。私たちの祖先はコピーをしていたのだ。
ありがたいことである。ベトナムに来て「文字」というものと
その国家の精神構造文化の伝統とは大きなかかわりが
ありことを知った。
ベトナムが正式に文字を持ったのは、1945年9月である。
ベトナムが公式の文字をもってからまだ62年しか経っていない。
中国の漢字の影響を強く受けたのに、フランスの宣教師が
作ったローマ字中心の文字を国字にしている。
ローマ字表記の言葉自体の基礎は漢字である。
複雑なベトナムの文字事情がある。
私たちは、漢字をコピーし、中国文化を学んで1500年近く経つ。
その間に漢字のコピーから自分たちの文字にしてしまった。
一部の日本人は「反中国感情」ばかりを扇動しているが、
2000年間という長い間の中国との交流の歴史を知るべきである。
午後4時。バオミンさんから電話。ベトナム事務所で仕事をして
いるとのこと。
テレビで相撲を見る。白鵬が朝青龍を破って全勝優勝。
見ごたえのある相撲だった。純然たるスポーツとして
見ているが、肉体と肉体とのぶつかり合いという
スポーツという視点で見ると今日の朝青龍と白鵬の
相撲が久しぶりの力相撲。見て楽しかった。
白鵬は横綱昇進を確実にした。テレビのインタビューに答えた
町の人の声。「国技の相撲なので日本人に横綱になって
欲しい」との声が結構多いようだ。
国技の相撲に外国人が多数入っている現状は、今後の
日本社会の進むべき道を象徴しているように思える。
この数日、相撲を見た。白鵬は立派だった。
ほとんどの力士がサポーターや足袋をはいていた。
見苦しい。白鵬は一切そうした類のものをつけていない。
相撲はこうあるべきだと思った。
横綱朝青龍はどうみても相撲を舐めていた。稽古不足が
私のような素人にも分かった。途中で息が上がっていた。
午後8時、フダ缶ビール2本。残りのおかゆを食べる。
ビールを飲みながら、リー君・ターオ君兄弟の今後の行く末
を考えた。二人は何を考え何をしようとしているのだろうか?
14年前から付き合って来た二人である。これも何かの縁である。
兄弟ととことん付き合って行こうと思いながらも、彼らの
行動様式が推測できないことも多い。
言葉が十分通じないこともかなり問題ではあるが、彼らが
何をしようと「愛情」と「厳しさ」の二つをもって対処することが
必要なのではないかと思いながら、更にフダビールを1本飲んで
しまった。愛情と甘やかしの狭間で揺れている。
愛情と厳しさは表裏一体のもの。愛情と甘さは峻別すべきである。
甘さは子どもたちを駄目にする。愛情は子どもたちを生き返らす。
理屈では分かるのだが・・・・・・・。
2007年05月26日
ベトナム事務所員会議:日本料理店来客
猛暑。天気予報36度。外気40以上が続く。
数分外に出ると汗まみれ。1週間続けて猛暑。
午前7時朝食ブンボー。美味しい。
午前8時、徒歩ベトナム事務所へ。15分。2000歩程度。
午前8時半定例のベトナム事務所員会議。
事務所の電話番はリー副店長。電話の取次ぎをする。
なかなか役立つ男。
(ソン)在宅支援の子どもたちの写真を撮る。里親への
夏のメッセージ用。
日本料理店の子どもたちに日本語を教えた。
(石塚)月曜:新日本料理店開店祝賀会で司会をした。
金曜:観光基礎コースのテスト
(ハンナ)月:日本語を15分間教えた。
火:日本語を30分間教えた。
水:通常の授業を初めて行った。
金:会話のテストを手伝った。
日本語を教えるのはなかなか難しい。
頑張ります。
(ハン)子どもたちから里親へのメッセージの翻訳。
ソン君と一緒に在宅支援の子どもたちの写真撮影。
今年は里親へのメッセージと絵を描く。
奨学生400人のお礼状の翻訳。大変。
(フーン)週3回の授業を行った。
(サン)JASS観光スタディーツアーの見積もりを作る。
日本語学校は週2回(上級4、5クラス)
上級4クラスは生徒が5人程。他クラスへ生徒を
振り分け閉鎖した方が良いと思うが、皆さんどうでしょうか?
★基本的にはその方向で日本語学校関係者で検討する
こととなる。
(ミン)サン副社長とスタディーツアー関係の打ち合わせ
バンベーの整理。
フエ中央病院小児科で『白血病患者父母の会』をした。
先月家庭訪問した3軒の入所。6月中旬を目処に。
船上生活者の入所希望兄弟。子どもたちの出生届など
本来提出しておくべき書類がない。現在、「子どもの家」
で必要な書類を作成中。出来るだけ早く入所させたい。
1時間ほどでベトナム事務所員会議終了。
ベトナム事務所会議で出された「子どもの家」の近況。
昨夜、「子どもの家」の倉庫に泥棒が入った。
1階C棟の絵画教室の隣りにある倉庫に2人の泥棒。
窓の鉄枠を壊し、倉庫に入り、「金目」のものを取って
外に出ようとしたら、壊した鉄枠に体が「はまって」出られなく
なってしまい、捕まった。間抜けな泥棒。顔を見たら
「子どもの家」の男子2名。現在動機を調査中。影に
糸を引く人物がありそうとの伝聞。
色々と問題が起こるものである。
新日本料理店では、店内の壁に「子どもの家」の子どもたちの
写真を拡大して貼っていた。
旧日本料理店あった写真に新たな写真を加える。大塚さん
仁枝さんたちが写真を選ぶ。
病気で休んでいた店長のホンニーさんが出勤。
3キロさせて31キロになったという。まだ本調子ではないようだ。
昼食。パン、ヨーグルト、ミルク。
昼寝。1時間。
読書「石の肺」。
朝から1日かけて某新聞社系国際関連の賞の申請書を書く。
締め切りが今月一杯とのこと。半日で申請書を
書き上げる。何人かの方々に資料などを探してもらい
協力を頂く。
午後5時半、夕食。今夜は「チャオバンカン」。小麦粉のうどん
の煮込み。豚肉と海老でだしをつる。
●小麦のうどん
●チャオバンカンの薬味(香草など)
こげご飯
今週は昨日まで4日間、ビールなどを飲んでいなかった。
今日は解禁。夕食にフダ生ビールを飲む。
午後6時半。日本料理店開店。昨日まで3日間来客ゼロ。
午後7時過ぎベルギー人2人が入店。ハノイで少数民族の
支援をしているNGOだという。
その後、同僚のフランス人2人も。
しばらくして日本人。フエの下水道工事支援でベトナムに
来たという。
厨房はターオ君がいないため大忙し。
4日ぶりに来客があり笑顔が出た店長とグエットさん
午前中出勤していたリー君が午後は「無断欠勤」。どうなって
いるのだろう?
午後9時過ぎ、閉店。今日は5人の来客。
やっと本格的な日本料理店となってきたような気がする。
子どもたちが帰ったあと、日本人スタッフで今後の日本料理店
の運営などを真剣に話し合う会議を行う。気づくと午前0時を
過ぎていた。
2007年05月25日
バンベー・JASS観光等の業務
晴天
今日も外気温40度。日陰の廊下36度。
暑い。1日中、体がダラーッとしている。
仕事を始めようという気力が出ない。
午前7時、朝食。フォー。今朝から税田さんがいない。
4人の朝食となる。少し寂しい。
午前8時半、徒歩ベトナム事務所へ。
徒歩15分。事務所に着いた時点で体中、汗まみれ。
ベトナム事務所2階の会議室では、子どもたちが
日本語の勉強。日本料理店開店後、子どもたち
から英語と日本語の勉強を続けたいとの要望がでた。
子どもたちの体力も考え、水曜日英語、金曜日日本語の
勉強をすることにした。
今日も「ソン先生」の指導の下、日本語の実践的な会話
の勉強をしていた。日本料理店での会話が基本。
ベトナム事務所で多くのメールへの返信。
JASS観光の夏のスタディーツアーの見積もりのチェック。
今後、見積もりは誰が見ても分かるよう親切な見積もりを
作るようにした。
午前10時。バオミンさんと一緒にフエの秋葉原電気街へ。
日本料理店のカウンター部分が暗く、外から見て一番
目立つカウンターが目立たず、室内全体が暗いイメージ
に見える。大塚さんのアイディアでカウンターにスポットを
当てようということになった。中程度の強さのスポットライト
2つを買う。扇風機2台買う。
午前11時半。ベトナム事務所を出てフンボン通りの
フランス製のパン屋さんへ。パンをいくつか買う。
途中でヨーグルトを10個買う。1つ20円。
昼食はパンとヨーグルトとミルク。
昼寝。1時間半。熟睡。やはり疲れているようだ。
読書「石の肺」。読めば読むほど、「無知の怖さ」と犯罪性が
分かる。私自身がアスベストについては、学校のアスベスト
問題と昨年、クボタが発表したアスベスト被害者への支援
問題程度。明治からアスベストは病気になり死んでいくと
知られていた。関空付近の地域は日本最大のアスベスト
工業地帯。同和地区のひとたち、在日朝鮮人、極貧の
人々が『命と引き換えに』アスベスト産業に関わっていた
ことを知った。日本政府はアスベストを建材などに使うことを
法律で義務付けていた。アスベストは鉱物であり永久に
溶けたり変質したりしない。吸ってから20年~40年後に
発症し、気管支炎から中皮腫、肺がんなどに死亡する。
アスベスト被害は今後数十年して更に大量に発生する
状況だということも改めて分かった。エイズ問題と
同様、国家の犯罪でありながら、他人事のような態度を
とっている「美しい国」日本である。
午後、バオミンさんと連絡を取りながら、6月15日に
来るピースボートの受け入れ態勢を作る。見積もり。
午後4時。日本料理店の厨房。
おやつタイム。小さなフランスパン(肉と野菜と唐辛子入り)
で休憩。
午後5時半、夕食。
大塚さん、仁枝さん、私、リー副店長、グエットさん、
フエンさん、トゥオイさんの7人。
今週は毎日40度の猛暑。皆さん体力を相当消耗し、
消化機能が減退している。今夜の食事は「」おかゆ」。
海老と卵でだしを取った「おかゆ」。実に美味しい。
日本語学校の先生は授業があり、午後7時からの夕食。
昨日、一昨日とお客さんは「ゼロ」。
しかし、子どもたちは嫌がらずに今日も頑張っている。
1年間の体験は大したものである。商いは飽きないである。
良い時もあればお客さんが来ない時もあるという体験を
既に何度もしている。子どもたちは平静にお客さんゼロを
受け入れている。
お客さんが来るのを待っているいる間に店の前のシクロで。
新日本料理店店内の模様
店長のホンニーさんは、まだ体調不良のため欠勤。
暑い部屋の中で苦労しているのだろうと思うと可愛そうな
気もするが、ベトナムの子どもたちの大半は同じ境遇。
ターオ君は今週になって1日も出てこない。昨夜も
「子どもの家」に行ったがいなかった。寮母さんに聞くと
午後11時頃、塀を乗り越えて「子どもの家」に入り、
ベッドで寝て、寮母さんたちが起きる前にどこかへ
行ってしまうという。どこで何をしているのだろうか?
今夜もお客さんはゼロ。
午後9時閉店。リー君と途中まで歩いて一緒に帰る。
トンチンカンホテル着9時20分。
トンチンカンホテル廊下気温36度。湿度60%。
うーん、夜9時半でも36度か・・・・。やはり暑く湿気も高い。
2007年05月24日
JASS機関紙「BAN VE」原稿チェック
晴天 休肝日
朝7時、トンチンカンホテルの日陰で36度。
日中の外は40度を越えている。体中から汗が吹き出る。
急激な気候の変化。体調を崩す人が多い。
今日は日本料理店店長のホンニーさんが病気になり休む。
この1ヶ月間、新日本料理店工事、旧日本料理店の荷物整理、
そして、店長指名と慌しい毎日だったと思う。特に18歳で店長
を引き受けるに至った心境はかなり複雑であり、挑戦的な
意気込みがあったと思う。日本料理店6人の中で最年少の
ホンニーさんが店長を引き受けた中には、相当の決意が
あったものと推測される。体も一番小さい。この暑さと精神的
疲労でダウンしたのではないかと心配している。
午前8時半。日本料理店打ち合わせ。
今日は、1日中、バンベーの全ての原稿に目を通し、全体的な
文章と記事等の整合性をチェックした。
朝から夕方までかかった。途中で暑さと体力の消耗で
「頭が動かなく」なってしまった。
昼食は日本料理店隣の「精進料理屋」のほか弁(37円)。
昼寝。1時間半。とにかく暑さとこの1ヶ月の疲れでいくら寝ても
寝られる状態。
読書「石の肺」。読んでいくうちに怖くなる。
午後3時過ぎ、税田さんが一時帰国のためトンチンカンホテルを
出発する。リー君が自主的にフエ空港まで見送るという。
今日から6月14日までの短期休暇。ゆっくりと休みリフレッシュ
してフエへ戻って来て欲しい。
午後3時40分、徒歩ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所で再度、バンベーの原稿チェック。
午後7時、全てのチェックが終了しバオミンさんに送る。
夕方、日本料理店接客係りのグエットさんのお姉さんが
フエ高等師範大学の帰りに日本料理店に寄る。
来年の9月から小学校の先生になる。二人とも
「子どもの家」に住んでいる。仲の良い姉妹である。
午後5時半。子どもたちと夕食。野菜サラダ、イカの煮物、
貝の澄まし汁。
今日はリー君、グエットさん、フエンさん、トゥオイさん、
大塚さん、仁枝さん、私の7人。午後6時過ぎ、石塚さん
後藤さんが日本語学校の教育を終わり夕食へ。
午後6時半、日本料理店開店。
午後7時半、来客なし。
「子どもの家」へ。「子どもの家」ではこの猛暑に子どもたちが
相当参っていた。何人もの子どもたちが発熱や下痢、咳で
苦しんでいた。「子どもの家」医師のタムさんが診療し
投薬。日本料理店のホンニー店長も発熱、嘔吐、下痢で
静かに寝ていた。日本料理店のことが気になるらしく、
お客さんは? 日本料理店のみんなは何をしている?
などと質問。
一方、男子は至って元気。
「子どもの家」に入っている姉妹に会いに兄と姪が遊びに
来ていた。
やはり兄弟姉妹である。こうして時間を見つけては、
姪も含めて家族親族が一緒にいたいのである。
「親は子どもたちを育てる義務がある」と記者団に語った
わが首相。「さはさりながら・・」である。家族一緒に
暮らしたいと思っても暮らせない生活と社会がある。
建前とお説教では人間は育たない。
などと思いながら、ふと前を見ると昨年心臓の手術を
したターオちゃんだ。左手を包帯で包んでいる。
「どうしたの?」と聞くと、部屋の2段ベッドの上の段から
落ちて左手を骨折したとのこと。一難去ってまた一難と
言ったところだ。本人はあまりショックはないようで明るい
顔をしていたのだ救いである。
しばらく「子どもの家」で子どもたちの様子を見る。
日本料理店に帰ろうかと思い庭を見ると、おいてあった
電動バイクがない。大塚さんと同様『盗まれた』と思った。
「子どもの家」の庭中を探したがない。やっぱり。
と思っていると、タン君がスイスイと外から電動バイクに
乗ってやって来た。
午後8時半、日本料理店に戻るが、来客なし。
午後9時、閉店。
2007年05月23日
JASS観光打ち合わせ
晴天 休肝日
気温38度。外気は40度以上。息をしているだけでフラフラする。
午前7時朝食。フォー。
この1ヶ月、日本料理店閉店、新日本料理店開店工事、
観光会社設立ととにかく忙しく過ごした。
この1週間ほど急に40度近い猛暑。1ヶ月間の疲労が
たまり猛暑で抵抗力をなくした皆さんが、体調を崩している。
バオミンさん、大塚さん。休息をとって体力の回復を
祈る。
午前8時半、徒歩、ベトナム事務所へ。
肌に太陽の光が刺さる。町中の空気が沸騰しそうな朝である。
既にリー副店長は出勤していた。4月20日旧日本料理店閉店
以来、1ヶ月。リー君は1日も休まず出勤している。理屈を抜きに
立派。
ベトナム事務所でJASS観光の打ち合わせ。
既に7月8月9月のスタディーツアーの問い合わせが多数来ている。
見積もりを取るための打ち合わせ。JASS観光を立ち上げたのは
全ての利益が子どもたちに100%還元するようにするため。
同時に日本の観光会社の利益アップ、スタディーツアー参加者の
参加費用が少しでも安くなるよう、改めてホテル、レストラン、車の
会社などと交渉することにした。
地球の歩き方ツアー、全国大学生協ツアー、その他のスタディーツアー
などを逐一検討し、ツアーの内容、費用、参加者の満足度などを
検討する。
昼食 パン、ヨーグルト、ミルク
昼寝。30分。
読書「石の肺」
アスベスト(石綿)はエジプトでミイラを包む材料として使われ
「竹取物語」にも出てくる。日本では平賀源内が秩父で
燃えない火浣布(かかんぷ)を作り、アスベストを工業用
として最初に開発したそうだ。輸入したアスベストの
93%は建材製品に使用されている。断熱材としては
建物のボイラー室、船の機関室。
天井裏に吹き付けられたアスベストも多い。水道管の
腐食を防ぐためにアスベストが使われ疾患を引き起こし
ている。一般住宅の石綿スレートの屋根、外壁、床、
天井、職場としては造船所、製造業、建築業、発電関係
などに患者が多い。アスベストを吸って20年から
40年で発症する。悪性中皮腫など。
午後3時、徒歩ベトナム事務所へ。相変わらず
外気温40度と思われるほど、暑い。
ベトナム事務所でたくさんのメールへの返事。
昨日の火焔樹日記を書き込む。
午後5時半、子どもたち、日本人スタッフと夕食。
リー副店長は積極的に皆さんの食事を運ぶ。
午後6時半、開店。
しばらくお客さんがこない。
午後7時半、フランス人2人が入り口に来る。値段を聞いて
「さよなら」と行ってしまう。リー君が得意のフランス語で
説得したが無理だった。
子どもたちはお客さんを待って日本料理店入り口で雑談
午後8時になっても来客なし。
子どもたちと日本人スタッフ雑談中。
今日は残念ながらお客さんはゼロ。
お店に看板がないのでどんな料理を出すのか分からないこと、
現在、観光シーズンではなくお客さんが町に出てないことなどが
来客ゼロの理由と思われる。やはり数ヶ月は存在をしってもらう
期間として必要。
午後9時半、トンチンカンホテルへ。
読書「石の肺」。
2007年05月22日
新日本料理店開店初日:ベトナム中部白血病父母の会結成総会
晴天。38度。 休肝日
数分外にいるだけで汗が吹き出る。
外の温度は40度とのこと。急に暑くなった。
午前8時過ぎ、徒歩、ベトナム事務所へ。
午前8時半。新日本語教師後藤ハンナさんに
「JASSの歴史」「フエにおけるJASSの役割り」
フエでの様々な問題、JASS活動をする上での政治的な諸問題、
新日本料理店、JASS観光設立の意義、JASSのめざしているもの
などを話す。1時間半。
午前10時。京都教育大学4年生の学生さん(1年休学し
アジアのボランティアを体験旅行中)にボランティア、アジア、
JASSのめざすもの、現在の到達点などの話をする。
2時間。
午後12時半、トンチンカンホテルへ。
昼食。昨夜の開店祝賀会の残りの食料をもらっていた。
パスタ、フライ等を食べる。
昼寝。30分。あまり眠れない。
読書「石の肺」(佐伯一麦著)
半分ほど読んだが衝撃的な内容。
午後2時45分、バオミンさんと一緒にフエ中央病院小児科へ。
ACCL(アジア・チャイルド・ケヤ・リーグ)が主催し行う
「3星プロジェクト」(小児白血病の子どもたちの生存率を高め
そのケヤを支援する)実施のため。
今日は、ベトナム中部「小児白血病父母の会」結成総会が
行われる。私とミンさんがフエ中央病院小児科の会議室に
到着すると既に白血病の子どもたちと親、担当の医師、
小児科医長、小児科白血病棟主任などが待っていた。
会員は最終的には30人ほどになる見通しだが、
今日は14組の家族が参加していた。クアンチ省・クアンビン省、
ダナン省、ダックラット省(少数民族)、フエ省など。
「白血病患者父母の会」と書かれた横断幕がはられていた。
ベトナムで初めての小児白血病患者の父母の会の発足である。
初めにフエ中央病院小児科医長のフオン先生が挨拶。
『今日、「ベトナム小児白血病患者父母の会」結成総会を開けて
大変嬉しい。ACCLの渡辺和代さんの主導で先日、私たちは
インドネシアのバリ島の「世界小児がん父母の会総会」に出席した。
そこで小児白血病は、家族と患者の子どもたちが協力して忍耐強く
治療に当たることが大切なことを学んだ。今日、こうしたACCLと
JASSの協力のお陰で「小児白血病患者父母の会」が出来たことは
本当に嬉しい。父母の会をとも協力しながらベトナム中部の
小児白血病の子どもたちの治療と生活支援を行って行きたい。』
(フエ中央病院小児科医医長フオン先生の話の概要)
続いてACCLの現地代理人としてJASS代表の私の挨拶。
『日本での皆さん方と同じ病気と闘っている子どもたちがたくさにる。
私の弟も16歳の時、小児白血病になり苦労した。
小児科医長フオン先生と協力して病気を治して行きましょう。
諦めずにフエ中央病院に通ってきたください。
長い時間がかかりますが、病院の指導を受けて、栄養や
感染に注意してください。渡辺和代さんが代表を勤める
ACCLでは皆さんが遠い地方からフエ中央病院へ通う
交通費、薬代などの支援を行います。3ヶ月に4日間
フエ中央病院小児科に入院して治療を行ってください。
皆さんの元気が回復することを祈ります』
白血病主任のリン医師が白血病治療について話を
する。リン医師は昨年まで半年間フランスに留学し
小児白血病の研究をして来ている。
「治療は医師が面倒見るので安心して欲しい。4日間の
入院を繰り返すが、頑張って欲しい。入院は3月末、
6月末、9月末、12月末を基準としたい。通院を継続すれば
必ずよくなるので頑張って欲しい。治療にこなくなる子どもたち
もいるので家族の皆さん、どんなに大変でも年間4回
治療に必ず来て入院し、薬をもらって欲しい。男の子は
最低3年間の治療が必要、女の子は2年間」
その後、参加家族14家族で話し合い、父母の会代表一名、
副代表2名を選出した。
代表はクアンチ省、副代表はダクッタク省(南の山岳少数民族)、
そして地元フエ省。
続いて親の意見や希望を聞く。
「地元の病院にいてフエ中央病院に転院したが、
手続きが複雑で私たちには分からない。何とか、私たちにも
分かるような手続きの変えて欲しい」
ACCLから支援される交通費を支給する。
自宅からバスなどで来る交通費を援助する。
親が実際にかかったバス代を記入する。
14人の子どもたちはクアンビン省(3人)フエから車で5~6時間
クアンチ省(6人)フエから車で3時間から5時間。
ダナン省(1人)
フエ省(3人)
ダックラック省(1人)フエから車で8時間。
●父母会の親と一緒に記念写真
●最後の親子と記念写真を撮る
抗がん剤のせいであろうか? 脱毛している子どもたちの
姿が痛々しかった。40年前、弟が罹った白血病と闘っている
子どもたちと付き合える機会が出来たのも何かの縁である。
ACCLの現地代理人として子どもたちのために出来るだけの
協力をして行きたいと思っている。
午後5時、ベトナム事務所へ戻る。
午後5時半から子どもたち、日本人スタッフとの夕食会が
再開された。私は個人的に本当に助かる。この1ヶ月間、
3食自分でとなるとなかなか大変だった。相当、いい加減な
食事と相成った。これから朝食と夕食はしっかりとして食事を
摂ることが出来る。1ヶ月間、忙しく、食事を用意する時間がなく
食事をする気力が出ないときもあった。
こうして10数人で食事をすれば、食欲も出てくるというものである。
新日本料理店開店初日。子どもたちや日本人スタッフが
協力して開店準備。
店長・副店長が「微妙な雰囲気」で打ち合わせ。
午後7時、新日本料理店第1号のお客様が来店。
日本料理店の看板も出ていない。赤提灯だけがシンボル。
午後8時、2番目のお客様が来店。
午後9時過ぎ閉店。
現在のフエは旅行の「OFF」シーズン。あまりお客さんが
町に出ていない。隣の精進料理屋は8時過ぎには早々と
閉店してしまった。
新日本料理店が出来たことを知っている地元の人は
ほとんどいない。看板もまだ出来ていない。
初日に二人のお客さんが来てくれたことは有難い
ことである。
午後9時半。帰宅。皆さんは自転車た電動バイク。
私は徒歩。リー副店長が心配して、途中まで
一緒に帰ってくれた。
トンチンカンホテル帰宅午後9時45分。
その後、昨日の日本料理店開店記念祝賀会の
日記を書く。昨夜から今まで日記やメールを
開く時間がなかった。
ベトナムの「インチキ選挙」
一昨日5月20日はベトナムの国会議員選挙だった。
定数500人に875人が立候補し、体裁上は競争選挙の
格好をとってはいるが、その内実は「インチキ選挙」。
新聞報道では独立系候補などと書いてあるが、けして
独立してはいない。
ベトナムの国会議員選挙が何故インチキかといえば、
選べる政党が一つしかないことに尽きる。
ベトナム共産党の一党独裁を是認した人以外は立候補
出来ないこと。複数政党制を主張したり、社会主義を
否定する意見そのものを表明したり発表したら
逮捕投獄されるというのが実態である。
戦前の日本と同じく「国体の変革」(天皇制打倒)は
治安維持法で最高刑は死刑であった。「天皇制打倒」
をベトナムでは「共産党一党独裁反対」に置き換えれば、
戦前の日本と今のベトナムとは瓜二つである。
カソリックのグエン・バン・リー神父が民主主義、複数政党制を
主張したことで逮捕され8年間の禁固刑が確定し、投獄されて
いる。「共産党の一党独裁」に触れた瞬間、社会から抹殺される
のがベトナムの実情である。
国民が主権者であるなら、多様な国民の政治意識が政治に
反映される政治的なシステムが必要である。
今回の国会議員選挙は、国民の選択肢が一つしかないの
である。
インチキ選挙その2。
一般市民は候補者がだれか分からないということ。
ベトナム共産党は町中に「5月20日 第12期国会議員選挙。
選挙は権利であり国民の義務である」との横断幕を
張り巡らしていた。
しかし、候補者が政見を市民に訴えるということはなかった。
また、候補者の政見と履歴、ポスターが町に貼られることもない。
一度だけ、「子どもの家」入所希望者の自宅を訪問した際、
農村の集会場で選挙の集まりがあったのを見た。農村人民委員会
の役員などに対して候補者が話をしていた。
政見は市民(主権者)に語るのではなく、人民委員会の幹部を
集めて語るだけである。候補者が国民に政見を語ることはないし、
本当に市民が思っていることを語ることも出来ない。
インチキ選挙その3
ベトナムでは選挙は「共産党政治体制」への踏み絵となっている。
選挙に行かない人間や家庭は「反政府主義者」と認定されてしまう。
そうした背景がありかなりの家庭では家族の誰か一人が「代表」して
投票所へ行き、家族全員の投票をするというインチキ選挙が横行
している。私の知り合いの皆さんの多くの家庭が同様の
『家族代理選挙』を行っている。
インチキ選挙 その4
毎回、投票率が「99、999%」となり、国民の圧倒的多数が
選挙を支持したということになっているが、実態は「その3」で
述べたようである。
更に投票率を100%にするのは、各村、群、市、省人民委員会の
「任務」である。
市人民委員会は村の人民委員会に「投票率はどのくらいかね」と
問い合わせをする。村の人民委員会は「投票率100%が課題」
となっていることを知っているので、うそでも「100%です」と
答える。官僚主義社会の典型的な図式である。
こうして積み上げられた数字が投票率99、99%の実態である。
日本の新聞は、「ベトナムの国会議員選挙で独立派が立候補」
などとボケた記事を書いていた。
ベトナムに独立派などその存在を許されていない。
5月25日当選者が発表される。発表前から当選者は既に
決まっていると共産党の幹部が私にささやいていた。
選挙管理委員会も独立したものではない。共産党の皆さんだけ
の開票である。家族の代理人が一人で10人分の投票をする
ことを黙認している選挙である。インチキ選挙と言っては駄目
だろうか? 公正な選挙が出来るシステムではない。
2007年05月21日
新日本料理店開店祝賀会
晴天・快晴
気温34度。湿度高し。
午前7時朝食。フォー。
午前8時過ぎ、徒歩ベトナム事務所へ。
既にリー副店長が出勤している。日本料理店の出勤時間は
午後2時半だが、リー副店長は『やる気満々』。
日本料理店の掃除、玄関の掃除などをしている。
静岡の巣山さんから贈られたハンカチをベトナム事務所員に
渡す。夜、子どもたちにも渡す。
バンベ31号の原稿に目を通す。夏のスタディーツアー関連の
見積もりに目を通す。
いくつかの観光会社から夏のスタディーツアーについての
連絡がある。
午前10時。「子どもの家」卒業生で現在在宅支援の
DUOC君が在宅支援金を取りにベトナム事務所へ来る。
近況を聞く。
「子どもの家」を退所する際は、喫茶店で仕事をして
月給80万ドン(7000円)程度もらっているので自立できる。
母親が病気なので同居して面倒を見たいと言っていた。
自分は資本金を十分持っているので、母親にパン屋をさせて、
その売り上げで十生活と通学は可能と言う。
私たちは、喫茶店(朝6時半から夜10時まで)で仕事をしながら
フエ高等師範大学へ通うのは難しいのでしばらく「子どもの家」にいて
大学を卒業したら母親と同居するようにと説得したが、既に
事実上、「子どもの家」を出てしまっていたDUOC君は
私やミンさん・セン所長の説得を十分聞かずに退所した。
今日、話を聞くと、喫茶店の仕事は既に辞めてしまっていた。
現在、駐輪場の警備員。午前中だけの仕事で月給20万ドン。
病気だと言っていた母親が天秤棒を担いで物売りをし、
その売り上げで生活しているという。里親の支援金と母親の
天秤棒での物売りで何とか生活が出来ている状況ということが
分かった。「子どもの家」を退所する時は、自分の力で全て
出来ると言っていたのだが、退所してまだ2ヶ月ほどで、
母親の仕事に頼っての生活に入ってしまった。23歳。
何とか頑張って大学を卒業し、音楽の先生になることを
願っている。JASSベトナムで出来る応援はして行きたいと
思っているが、本人が人の説得を受け入れないところに
難しさがある。既に23歳。一人前の大人である。母親と
協力して生活することは立派なことである。何か相談する
ことはあるの? と聞くが大丈夫と言っている。
午前11時、トンチンカンホテルへ。
昼食。パン、ヨーグルト、牛乳。
昼寝。30分。
ACCL(アジア・チャイルド・ケヤ・リーグ)代表の渡辺さんから
電話。明日の小児白血病の親を集めたプロジェクト説明会
について。
午後2時過ぎ、ベトナム事務所へ。
日本料理店の店長以下、子どもたちが出勤。
今夜6時からの新日本料理店開店祝いの準備を始める。
昨日、相談した特別メニューの料理作り。部屋の整理と
机の配置。
ホンニー店長とリー副店長は35人がきちんと座れるように
机の配置を考え、机を並べる。
接客のグエットさんは、生ビールのサーバー、コップを冷やす
など、飲み物関係の専門家。
厨房のフエンさん、トゥオイさんは料理作り。
ターオ君は無断欠勤。
ホンニー店長を連れて新日本料理店の隣の
「精進料理屋」へ開店の挨拶に行く。
ホンニー店長が「太巻き寿司」など何種類かの
日本料理を挨拶代わりに渡す。
イン君とソン君で今日の祝賀会の横断幕を張っている。
中央の横断幕は
「祝 日本料理店開店 歓迎 後藤ハンナ先生」
●フエ着任1週間目の後藤ハンナ先生
副横断幕は「祝 フーン先生ご懐妊、サン先生観光副社長
就任、ソンさん日本語教師就任」。
お祝いの花輪が届く。
(平本さんより寄贈)
(青少年教育の会より寄贈)
(刺繍みやげ物店の皆さんから生花の寄贈)
ホーチミン市在住の只木良枝さんからお祝いのメールあり。
午後6時、招待した皆さん、ベトナム事務所員、
刺繍の先生、建築関係のみなさんなど総勢40人ほどが
参集。
石塚啓子先生とハン会計部長の司会で始まる。
初めにJASSベトナム運営委員長のバオミンさんが
挨拶。
続いて来賓挨拶。フエ市人民委員会ニエン外務部長。
セン「子どもの家」所長。
セレモニーの最後にホンニー店長とリー副店長の
音頭で乾杯。息の合った乾杯の音頭だった。
工事、刺繍、ベトナム事務所、来賓、子どもたちなど
テーブル毎にすわり、開店を祝った。
●工事関係者:1ヶ月の突貫工事を請け負ってくれ
見事に成功させてくれた功労者。
生ビール、日本酒をかなり飲んだ。お土産に
日本酒を1本ずつ渡す。
●ベトナム事務所・来賓
●東京平和産業のラームさんとソン君
●刺繍みやげ物店の皆さん
●子どもたち
●フーン先生のお目出度をお祝いする
●リー君と飲み比べ。私が敗北する
「リー君と小山は顔が似ている」との噂が巷に広がっている。
そう言われれば確かに・・・・。 既に14年間の付き合いになる。
午後8時半。開店祝賀会は終了。しばらく子どもたちが
食事やデザートを楽しんでいた。
4月20日に旧日本料理店を閉店してちょうど1ヶ月。
見事に新日本料理店が完成した。ベトナム事務所員や
工事関係者の努力で超短期間で仕上げられたことに
感謝している。
今日1日、新店長、副店長の下、子どもたちは一生懸命
仕事をし、見事に子どもたちだけで準備から運営を
やり終えた。子どもたちも相当疲れてはいるが、精神的には
一つのことをやり終えたという達成感と満足感が残ったので
ないだろうか? 明日から本格的開店。
その後、日本人スタッフで諸問題について深い反省会を
挙行した。
2007年05月20日
最後の机、台などが届く
晴天
気温33度。
午前7時起床。昨夜飲みすぎ。
直ぐに昨夜の新日本料理店開店前夜祭の日記を書く。
2時間かかる。出来るだけ子どもたちの様子を写真で
載せるよう努力する。
午前10時、入浴。昨夜の前夜祭で残った食料を持ち帰り
朝食とする。魚のフライ、もち米のご飯・・・。
フダ缶ビール2本。NHKのど自慢を見ながら。
午後12時。昼寝。疲れが出たのか午後2時過ぎまで
寝てしまう。
午後3時過ぎ、ベトナム事務所へ。今日は最後の家具類が
搬入される日。
子どもたち(5人:ターオ君欠)、仁枝さん、税田さんが
既に新日本料理店で待機中。
3時といってもそこはベトナム時間。3時40分頃、家具類が
到着。厨房にあった特製の台を作る。
リー副店長は今日も先頭に立って力仕事をこなしていた。
自覚が出てきたのか?
子どもたちは自分の役割といる場所が必要なのだ。
子どもたちに「居場所を」。
午後3時過ぎ、新日本料理店の中は気温35度以上。
湿度90%。数分いるだけで汗が噴出してくる。
子どもたちは日曜日の暑い午後、新日本料理店に参集。
厨房のフエンさんとトゥオイさんは、ホンニー店長と
明日の開店祝い(40人参加予定)の食事内容を検討して
いる。どんな料理を作るのかを大人に聞かないで自分たちで
考えようとの姿勢に頭が下がる。
日本の子どもたちはこうした仕事を一体どこまで出来るんのだろうか?
「可愛そうなストリートチルドレン」などと泣きべその子どもの写真を
新聞に載せて、支援を訴える大手NGO団体もあるが、ベトナムの
生活困難を抱える子どもたちは日本の子どもたち以上に知的で
行動的で積極的なのだ。
可愛そうな子どもたちは「わが美しい日本」の子どもたちだ。
会津若松の高校生。行った犯罪は許せないものであるが、
彼をそこまで追い詰めたのは何なのだろうか?
厨房の子どもたちは、明日参加予定の40人の内訳(日越の人数)
を見ながら、ベトナム料理と日本料理を混ぜ合わせて献立を
考え、それぞれ材料をどの程度買うかの見積もりを相談して
作っていた。
今日は日曜日なのに仁枝さん、税田さんも出勤。
子どもたちのサポートをしながら、子どもたちが自分自身で
全てが出来るよう「つきつ離れず」子どもたちを見守っている。
なかなか難しい仕事である。一歩下がって子どもたちを
暖かく見守りながら、子どもたちが自分自身に自信をもち
仕事を積極的にすすめるようサポートしている。
最後に明日の40人のパーティーの机の配列を子どもたちが
相談していた。日本で教員をしていて年々子どもたちの
自主性が減退していることを実感していた。
「子どもの家」の6人の子どもたちの自主性、自発性は素晴らしい
ものがある。子どもたちだけで日本料理店を運営するのだ、
という気迫を感ずる。特にホンニーさんは、全身全霊を使って
店長の仕事をやり抜こうとの挑戦心を感ずる。
午後5時過ぎ、全ての仕事を終わり解散。
トンチンカンホテルに帰り、20通のメール受信。必要な返信。
午後7時半。フダ缶ビールを3本。おかゆ少々。
2007年05月19日
ベトナム事務所員会議:日本料理店開店子どもたちパーティー
晴天
気温33度。暑い。
血圧を測る。この10年以上、毎朝、血圧を計り記録し、
主治医に見せている。血圧降下剤などを服用しているので
130ー80程度に抑えている。この1ヶ月、160-100
と血圧急上昇が続く。降下剤を飲んでも下がらない。
午前7時朝食。ブンボー。
トンチンカンホテル1階の旧日本料理店から全ての荷物を
ベトナム事務所1階の新日本料理店に移動した。
トンチンカンホテル1階はガランとしている。つい1ヶ月前まで
たくさんのお客さんで賑わっていたのだが・・・・・・。
平家物語ではないが「諸行無常」である。
午前8時、徒歩でベトナム事務所へ。
午前8時半、ベトナム事務所員会議。
(ミン)今日は初めてハンナさんが出席。ハンナさん、
これから毎週土曜日の午前8時半から「ベトナム事務所員
会議」をします。今週行った活動報告、来週の日程、問題点
などを出してください。まだフエに来て3日目なので慣れて
いないと思いますが、少しでも早く慣れてください。
初めにソンさん、報告をお願いします。
(ソン)日本料理店の子どもたちに日本語を教えました。
みんな、一生懸命勉強しました。
(税田)水と金、日本語学校で教えました。バンベー31号の
取材で「子どもの家」へ行きました。日本料理店建築の
手伝いをしました。観光基礎クラスの授業。火曜日に
テストをしました。また上級3クラスの授業もしました。
(石塚)上級3火曜日にテストをしました。、観光基礎クラス。
(ハンナ)木曜日から観光基礎コースと上級4クラスの授業
参観をしました。私は日本語を話すのが速いので
最初生徒さんは私の日本語が分からないところも
あったようですが、昨日はコミュニケーションが
取れて良かったです。これから色々な生徒さんと
出会って、楽しく生活できたらと思っています。
皆さん、どうぞ宜しくお願いいたします。
(フーン)今週3回授業をしました。
(ハン)今週、19日支給の月給の準備をしました。
子どもたちから里親への手紙、フエ中央病院
小児科医長のフオン先生の手紙を日本語に
翻訳しました。
(サン)上級クラステスト、水曜日ハンナさんを出迎え。
(ミン)家庭調査に行った。水上生活者。ロックさんの
方で
7月末から9月中旬までのスタディーツアーの
日程を考えた。今後は、サンさんとハンさんが
分担等は担当することになった。
日本料理店は今日が最後の日。机と
ビールのサーバーを持ってくるということになっているが、
どうでしょうか?午後持ってくると言っていた。
火焔樹日記に「予定は未定」と書いてあった。
バンベー31号の原稿、大体揃いました。
20日までが締め切りなので分担した人は宜しく。
(税田)ハンナさんの紹介も入れたい。授業をしている写真を
入れたい。
(ミン)今日、午後6時から日本料理店開店「前夜祭」。
子どもたちを中心にパーティーをする。出来だけ参加
してください。正式な開店記念祝賀会は5月21日(土)。
祝賀会のお祝いに「花輪」を贈呈してくれるとの
連絡が日本人からあった。有難いこと。
9時過ぎにベトナム事務所員会議を終了し、全員で
日本料理店開店の最終日の準備に取り掛かる。
大塚さんが待ちに待った特注「机」「椅子」が届く。
普通の店にある安い机を使い易いように改良したもの。
実用第一主義で作った。値段も安い。
机と椅子が出来上がったので今夜の「子どもたちパーティー」
は実施可能となった。万一の場合は、床にゴザを敷いて
と話し合っていたのだが、これで一安心。
厨房は最後のガス台のセメント付けが終わり、最終完成。
最終的に厨房が完成した。特注のブリキで出来た排煙ダスト。
大口コンロ2、3つコンロ。調理台、流し。大塚さんを中心に
仁枝さんや子どもたちなどと考えた厨房である。仕事が
し易いように良く工夫されている。お金はかけてないが、
実用的に出来上がっている。
子どもたちはお店の掃除。ターオ君も頑張って掃除に加わる。
厨房裏には4つほどの食器棚が置かれている。食器を入れて、
カーテンで清潔を保つ。
ホンニー店長は、今夜の日本料理店開店「前夜祭」の
予算と実際に買った食料品などの清算をしている。
「損や無駄遣いをしない」との強い気持ちをもっている。
ホンニーさんは既に店長としての自覚が出てきている。
今後は、経験を積んで更に磨きをかけ、一人前の
店長に成長していって欲しい。こうしたことも広い意味
での「教育」である。人を育てるということは、学校だけ
ではない。日本では中小企業がまさに人間教育・社会教育
を行っている最大の教育施設ともいえる。
新日本料理店でもホンニー店長、リー副店長をはじめ
6人の子どもたちが日本料理店に責任を持って仕事をする
ということがどんなことかをこれから「体験・実習」して
行くことになる。人間は、学校で育つのではなく、
「仕事」で育つのだ。「働くこと」は人間を育てることでもある。
子どもたちに働く喜びと厳しさを学んで欲しい。
新日本料理店は、単なる日本料理店ではない。
総合的な教育機関なのである。
このところ「絶縁状態」だったリー・ターオ兄弟も
仕事を通して「復縁」の兆しありか?
今日は気温33度(テレビの予報)。しかし実際には
35度以上はありそうだ。湿度も相当高い。立っているだけで
体中に汗が吹き出る。ベトナム事務所員一同、子どもたち、
大塚さん、仁枝さん。皆さんが一致協力して午前中の
作業を終わる。日本料理店開店に向けて90%の準備完了。
残りは、「フダ生ビール」のサーバー付けだけ。
未だにいつつくのか不明。本来は一昨日にはついている
筈なのだだが・・・・。
一つの重大な心残りを抱えつつ、午前中の仕事が終わり、
トンチンカンホテルへ戻る。
トンチンカンホテルで昼食。パン、ヨーグルト。
1週間ほど前からエヤコンから水がこぼれている。
エヤコン下の机の上に茶筒やプラスチックの
箱を置いて水を受けている。
昼寝をしようとしたがエヤコンの水が入れ物に
「ポツ」「ポツ」と落ちる音が聞こえ、気になり
眠れない。体は相当疲れているのだが・・・・・。
この1週間、時々、大量の水がこぼれてくる。
そんな時はエヤコンを切る。暑い部屋での生活は
なかなか大変である。
午後2時半、徒歩、ベトナム事務所へ。歩道を歩くと真夏の
太陽の照り返しで顔が焼けるようだ。
厨房では子どもたちだけで『前夜祭』の食事作りが始まっていた。
大塚さんの考えである。子どもたちだけで作る力を持っていると。
料理が好きなターオ君も入り、子どもたちが好きなベトナム料理を
作る。今日は、子どもたちのための食事会。
私にとって日本料理店のメーイイベント・エンタテーナーは
「フダ生ビール」。新日本料理店工事開始時から直ぐに
生ビールのサーバーを入れる交渉を始めた。
フダビール会社(県営企業)は極度の官僚主義というのか
親方日の丸企業。私たちが生ビールのサーバーを入れたい
と何度も交渉するのだが、「東京平和産業の所有となっている
古いサーバーの解約手続きをしないかぎり、新日本料理店に
は入れられない」と繰り返す。フエには旧日本料理店にあった
サーバーしかないとのこと。ところが、なかなか東京平和産業
名義のサーバー解約手続きが進まない。
こんなサーバー一つ付けるのに「フダビールの社長の承認印
がもらえないので出来ない」(社長が出張)とか、色々と
理由を言って持ってこない。不思議な国である。
私たちはサーバーを買いたいというお客さんである。
フダビールは売り手。フエビールに「サーバーを付けたい」
と連絡すると「会社へ来い」という。買い手がペコペコし
売り手が威張っているというのが、県営企業の実態である。
新日本料理店は「私営企業」に建築を依頼した。
1月28日から今日までの3週間でほぼ工事を完成させて
くれた。
今日も結局、ゴタゴタ言って、生ビールのサーバーが
こないのか・・・・。仕方ない、まずい缶ビールで乾杯だ、
と思っていた矢先、生ビールのサーバーが届く。
このフダ生ビールのサーバーを見た瞬間、この1ヶ月の苦労が
一気に吹き飛んだような気がした。素晴らしい色と艶のサーバーだ。
早速、カウンターに取り付け工事。今まで四の五の言っていた
「フダビールのヤツラメ」などと思っていた社員の皆さん方の
頭に後光が射しているかに見えた。
ホンニー店長を呼び、サーバーの付け方、使い方を良く見て
おくようにいう。
念願のサーバー取り付け完了。きちんとした味が出ているか
業務上・仕事上の要請から「純技術的」にサーバーの具合を
チェックする。
午後5時半。「前夜祭」準備完了。
今夜は私的な会合。子どもたちとスタッフだけ。
バオミンさん一家に声をかける。
バオミンさんの乾杯の音頭で前夜祭スタート。挨拶は一切なし。
子どもたち手作りのベトナム料理
●豚肉と海老の唐辛子入り塩辛(ビールのおつまみに最高)
下ごしらえの際、豚肉の油を落としてある。ビタミンB,そして
発酵した海老と唐辛子が体に良い。最高の健康食品
豚の生ハム。発酵した豚肉ハムも入っている。
●海の魚のフライ
●各種野菜(青いバナナ、下痢止めの苦い野菜・・・・・・・)
生ビールがすすむ。60リットルの樽を入れる。
中ジョッキ10杯を目指したが、6杯くらいで挫折。
リー君は9杯飲んだと言う。リー副店長は「絶好調」。
子どもたちは「もち米」を炊き、スープとここれらをおかずに、
食事をしていた。最後に「チョムチョム(ランブータン)の
デザート。
前夜祭は午後9時頃まで続く。
いよいと明後日(5月21日)に新日本料理店の開店となる。
長い1日が終わる。これで新日本料理店開店の準備は
99%終わる。ほっとする。
2007年05月18日
日本料理店引越し
晴天。午後小雨。
午前7時朝食。フォー。
午前8時、電動バイクでベトナム事務所へ。
バオミンさん、税田さん、大塚さんと一緒にフエに初めて
出来た「刺身・冷凍魚・活き魚専門店」視察。
生きたイセエビが250円~300円。冷凍鯖(越語でバサ)、
冷凍鮭などがあった。
ベトナム事務所では、子どもたち全員が集まり、旧日本料理店
から新日本料理店への荷物移動が始まった。
トラックを1台借りて、トンチンカンホテル1階の旧日本料理店へ。
しばらくするとトラックが戻ってくる。既に子どもたちが新聞紙などで
包んでおいた大量の食器類などを運んで来た。皆で日本料理店
へ運び込む。
第2回目のトラック移動で3台の冷蔵庫、1台の冷凍庫、
冷水温水器などを運んで来る。
最後にベトナム事務所1階にあったピアノを「子どもの家」へ
運搬する。
ベトナムは「超リサイクル社会」である。
新日本料理店建築工事で出た「ゴミ」をゴミ収集業の
皆さんがしっかりと回収しリサイクルしてくれる。
午前中の仕事を終わり、トンチンカンホテルへ帰る。
日本の支援者から電話あり。5月21日の日本料理店開店祝いに
花輪を送りたいがベトナムにあるのか?との問い合わせ。
バオミンさんに聞く。寄贈者名付きの大きな生花(1500円前後)
を贈るのが一般的とのこと。電話をすると直ぐ持ってくるそうだ。
早速、支援者に連絡する。
昼食はパン、ヨーグルト。
午後2時、再度徒歩ベトナム事務所へ。
運び込まれた食器類を食器棚へ入れてる作業が始まる。
カウンターの後ろに生ビール用のグラスを並べる。
日本料理店内の整理。
午後、仕事は中断し、つかの間の休息。
チェー(ベトナム版、あんみつ)を食べる
その後、日本の支援者の方にメールを出す。
午後6時過ぎ、最後の仕事であるガス台取り付け工事が
終わらない。私、バオミンさん、大塚さん、仁枝さんが
終了を待つ。
その間に大塚さん、仁枝さんは日本料理店に飾る子どもたち
の写真の枠に色を塗る作業をする。
ガス台の最終取り付け作業は午後7時半に終了。
今日の予定に入っていた「机・椅子搬入」「生ビールサーバー」
が結局、取り付けられなかった。
ベトナムでは「予定は未定」。
2007年05月17日
後藤先生新任の挨拶
トンチンカンホテルのパソコンがおかしい。
日本からの受信メールには全て返信をしているのだが、
届いていないものが多数あった。ダナンのプロバイダーが
恣意的にか、日本への送信をストップし、削除している。
昨日の朝からトンチンカンホテルのメール、インターネットが
一切使えず困っている。メール、火焔樹日記等はベトナム事務所
で行っている。いつもベトナム事務所での仕事が終わり、
トンチンカンホテルに帰って夕食後、メールの整理、返信、
火焔樹日記書き込みを行っているが、出来なくなった。
そうした理由で火焔樹日記は翌日の午前中、ベトナム事務所
で書かざるを得ない。忙しいので中々書く時間がない。
メールを送信された方で私から返信がない場合には、
ご連絡を。私はメールを受信した場合、原則的に
その日に返信メールを送っている。
=======================
晴天。33度。真夏。
午前7時朝食。ブンボー。
新任日本語教師の後藤先生、初めての朝食。
午前8時。徒歩、ベトナム事務所へ。
今日は新任日本語教師後藤先生の初出勤。
ベトナム事務所員との対面と歓迎。
初めにベトナム事務所員の自己紹介。
続いて後藤先生赴任の挨拶。
これから1年間、体に気をつけて静岡フエ青年交流会館日本語学校
の先生として、地元の青年たちへの日本語教育に邁進して欲しい。
対面式後、後藤先生の席へ。
その後、日本語教師の打ち合わせ会
ベトナム事務所2階会議室では、ソン先生の日本語教育。
しばらく見ていたが、かなり厳しい日本語教育が行われていた。
これはソン先生を教えた先生方の「真似」をしているとしか思えない
程、きちんとして厳しさと尊厳を持っていたい。
この数週間勉強して日本語や接客などの総決算的な内容。
ソン先生がベトナム語で言った内容を日本語で言う。
一人に質問をする。出来ないと厳しく叱責。子どもたちは
笑う余裕もなく必死に日本語を思い出し、回答する。
ギリシャ時代の学問の基本である「対話法」。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本語教育終了後、新日本料理店店員会議を開催。
初めに私が挨拶。
4月20日に突然日本料理店を閉店し、皆さんに迷惑を
かけたことをお詫びしたい。その後、皆さんからの
『日本料理店再開』の嘆願書をもらった。嬉しかった。
皆さんの期待に応えるよう、JASSベトナム事務所、
大塚さん、仁枝さんとよく話し合い、4月28日に
新日本料理店開店を決定した。その後、皆さんには
旧日本料理店の整理、新日本料理店開店のための
工事、準備などで協力してもらった。皆さんのおかげで
5月19日(土)に新日本料理店が完成する運びとなった。
5月19日(土)午後6時からは、みなさんの協力に
感謝する簡単なパーティーをしたい。
さて、5月21日(月)には、新日本料理店開店パーティー
を開催する。参加者は40人程度。
5月22日(火)午後6時半から通常の日本料理店の営業を
始める。
今後の新日本料理店はJASSベトナムが作ったものである。
そして、新日本料理店を作った目的は、皆さんのための
日本料理店にするためである。皆さんのためと言う意味は
①運営をみなさんがするということ ②収益も全額、「子どもの家」
や「子どもの家」、関係するスタッフの生活費に充てたいという
意味である。
以上①②を具体化したい。
①新日本料理店は、全て子どもたちの皆さんが運営するように
した。今まで1年間、色々な日本人に教えてもらってきた。
また、皆さんも2000人近いお客さんを迎い入れて、様々な
経験を積んできた。既に今日時点で、みなさんの力で
日本料理店を運営する力を持つっている。5月21日からは
皆さん方6人がお互い協力して、日本料理店を運営して
行って欲しい。「日本料理店が自分たちのもの」と思い、大事に
節約し、お客さんに喜ばれ、たくさんのお客さんが来るような
素晴らしい日本料理店にして欲しい。
続いて人事については、「JASSベトナム」運営委員長の
バオミンさんが発表する。
新日本料理店の店長に「ホンニーさん」。副店長に「リー君」。
店長になったホンニーさん挨拶を。
ミンさんに促されてホンニーさんが、店長就任の挨拶をする。
「小山先生を初め皆さんが私のことを評価して店長に
推薦してくれて嬉しいです。1年間した仕事をしていない
私の活動を日本人やベトナム事務所の皆さんが評価し
信用してくれたことが嬉しいです。まだ経験も少ないので
ミスやうまく行かないことがあると思いますが、そんな
時が色々と教えてください。私はこの責任ある仕事を
頑張ってやるつもりです。宜しくお願いします。
●店長就任の挨拶をするホンニーさん(18歳)
6人の子どもたちの中では一番年下であるが、
統率力、全体を見る力、仕事を最後までやり遂げる能力、
頑張る力、どの点を取っても抜群の力をもっている。
高校には行っていないが、人間の力は「学歴」ではない。
生きた人間の持っている『総合的な能力』と経験である。
18歳で日本料理店1店を突然任された訳である。
普通の子どもなら「出来ません」と言って逃げてします。
ホンニーさんは今朝から「笑い顔」がない。多分、「子どもの家」
で私とミンさんとで店長就任を依頼し,受諾した後、悶々と
考えたことであろう。だれでも自信をもって店長など
出来るわけがない。私が感動しているのは、
そうして大きな不安と心の中で戦いながら、小さな体で
この大役に『挑戦しようとする』気構えである。
私はこの挑戦心が本当に素晴らしいことだと思う。
ホンニーさんの挑戦心は必ず大成するものと思う。
今後、しばらく、挫折と苦悩が続くと思うが、そうした
ことを恐れずに「前進する気力のある人間」が伸びて
行くのである。
続いて、副店長のリー君の挨拶。
「僕は副店長に指名され、皆さんの見本となるような人間になり、
またそうした仕事もしたいと思っている。宜しくお願いします」。
リー君も大役を引き受けた訳だが、その大役がどこまで大変なの
かが、どれだけ分かっているのかは、分からないが、こうした
機会に更に人間的に飛躍して行って欲しい。
子どもたち一人一人に意見を聞く。
フエンさん「二人に協力してやっていきたい」。
ターオ君「何も言うこことはない」。
グエットさん「恥ずかしくて意見がいえない」。
トゥオイさん「・・・・・・・・・・」。
グエットさん、トゥオイさんは、こうした場で自分の
意見を言う経験があまりないようで、みんなの前で
意見を言うこと自体が恥ずかしい行為と感じているようである。
続いて日本人スタッフのことば。
大塚さん
「今度は6人で仕事をする。旧日本料理店よりお店が大きい。
またお客さんもたくさん来ると思う。6人がチームワーク良く
仕事をして欲しい。一人でも休むと皆に迷惑がかかることを
理解して欲しい。フエン、ターオ、トゥオイさんの3人が協力
して料理をやって欲しい。今度は、幸い、2階にベトナム事務所
がある。困ったことがあったらミンさん、ハンさんなどに相談
して欲しい。今までのように冷蔵庫に長期間食べ物を保管し
捨ててしまうようなもったいないことはしないように。
ここでしかりと仕事をして皆さんのために収益をあげるように。
6人の団結を強めて欲しい。一人一人が勝手な行動をしないで
協力して欲しい」。
仁枝さん
「5月21日から新日本料理店がスタートします。
新しい出発を皆さんも受け入れてくれて新しい日本料理店
作りに協力してくれた。新日本料理店を作ったJASSへの
感謝の気持ちを忘れないようにし協力して頑張って欲しい。
微力ですが、私も努力します」。
税田さん
「今まで皆さんに厳しく言ってきたことをありましたが、
これからは、日本人に言われるまでになく自分たちの
頭で考えて行動して欲しい。」
日本料理店会議が終わり、ベトナム事務所1階の日本料理店
の整理・清掃作業が始まる。
早速、店長、副店長は仲良く仕事を始めた。
日本料理店の仕事を通して、二人が一層親密になり
仲良くなることを期待している。
この1週間ほど「行方不明」だった、ターオ君が久々の出勤。
清掃作業を一生懸命やっている。ターオ君はやれば6人中
一番力があるのだが、何しろ「超気分屋」。今日から仕事に
復帰してくれて私も嬉しい。このまま、日本料理店開店まで
何も仕事をしないでいたら、新日本料理店開店以降、
5人の仲間の輪に入りにくくなる。
日本料理店は残り①ガス台の据付工事 ②日本料理店机・椅子
③生ビールのサーバー ④旧日本料理店からの冷蔵庫等引越し
⑤ピアノの「子どもの家」へ移転
これらは明日5月18日に全て行う計画になっているが・・・・・・。
2007年05月16日
大抜擢人事を決める
★インターネット・メールの事情が悪い。小山へ必着の場合は
koyama1947@yahoo.co.jp まで
朝から晴天 気温33度。
久しぶりに例年の暑さになる。
朝から気持ちの良い晴天。ドアを開ける。隣りのホテルの
玄関に大型バスがアイドリングをしている。大量の
真っ黒な排気ガスが噴出している。到底、人間の
住める居住環境ではない。部屋中のドアをしめるしか
対策はない。本当に困っている。
昨夜、トンチンカンホテル1階で夕食を摂っていた大塚さんの
電動バイクが盗まれた。物騒な社会になってきたものだ。
午前7時45分。バオミンさんと一緒に船上生活者の多い
フールー小学校へ。校長先生と懇談。現在生徒は588人。
5年生(最上級生)は110人。中学へ進学する子どもは
110人中50人。更に中学を卒業する子どもが20人程度。
この10年間にフールー小学校を卒業した子どもたちは
1000人強。大学進学は2人のみ。
フールー小学校の50%の子どもたちは船上生活者の師弟。
私たちは50人の子どもたちに奨学金を贈呈している。
今日は船上生活者の師弟で「子どもの家」に入所を希望している
船を訪ねることが目的。校長先生は既に母親を学校へ呼んで
いた。フールー小学校は船上生活者のセンターにもなっている。
三男がフールー小付属の夜間識字教室に通っている。
識字教室はフオン川の中州の真ん中にあり、1990年中ごろの
洪水で流されてしまった。その後、私たちが中州にある識字学校を
再建し寄付したという経過がある。三男がフールー小識字教室
に通っている関係で、母親との連絡がついた。
母親の案内で船で「自宅の船」まで案内してもらう。
「子どもの家」入所希望の子どもたちの家兼船に到着。
家族と親戚が待っていた。
船に乗り込む。犬と猫がいる。川の生臭い匂いと、犬猫の
匂いが複合して、室内に入った途端、「ウゥー」となる。
ご両親に家族構成を聞く。
父(46歳) 漁業 (月収40万ドン~50万ドン)3600円程度
小学校2年までしか行っていない
母(44歳) 家事 学校へは行っていない
長男(24歳) ラデン細工の研修中
長女(21歳) 結婚し2歳の子どもあり
次女(19歳)ホーチミン市で帽子作りの研修
次男(17歳)同上
三男(13歳) A君 学校へ行っていない
三女(12歳) 学校へ行っていない
四男(5歳から7歳?)B君 学校へ行っていない
家族の収入は、父親が川魚を獲って得る収入だけである。
平均月収は40万ドン~50万ドン(3000円~3600円)。
祖母も入れると家族7人が3000円~3600円で生きていく
のだ。到底、子どもたちを学校へは通わせられない。
食べていくだけでも大変である。普通の生活をするのは
無理な実態である。
両親は三男のA君と4男のB君の二人の入所を希望している。
B君の年齢は不明確。出生届けを出していない。両親も
今何歳だか分からないという。時には5歳、時には7歳と言っている。
72歳の祖母。祖母の祖父母も両親も船上生活者だったとのこと。
この家庭は少なくとも100年以上続いた船上生活者である。
両親も学校へ行っていないので、読み書きが出来ない。
勉強するということの意味と価値が必ずしも十分分かっている
わけでもない。
家族、親戚がたくさん集まる。皆さん、至って明るい。
こういう生活もあるのだなと改めて感じたが、同時に
両親が子どもたちを学校へ行かせないという権利はないはず。
子どもたちには『学ぶ権利』がある。この船の中で、
「そもそも子どもたちを通学できないようにしているのは誰だ」
などと論議をしても始まらない。私たちが、通学していない
子どもたちを知ったからには、何らかの支援を子どもたちに
すべきである。
「JASSベトナム」運営委員長のバオミンさんと相談し、
三男、四男の入所を決める。
この船上生活者の家庭を訪問して、ベトナム社会主義が極端な
『格差社会』『二重構造社会』であることが分かる。
一方では字も書けず、子どもたちの勉学や将来について
明確な展望を考えることもなく家庭生活を送っている人々が
いる。一方で、共産党幹部や行政幹部や一時成金層の
人々は子どもたちに必要以上の物を与え、家庭教師をつけ、
高額な費用を支払い特別塾に通わせる家庭もある。
「二極化」した社会は、今後固定し、『上流階級・特権階級』
『成金階級』は引き続き子どもたちもその後を継ぎ、
船上生活者の家庭は引き続き学校へ行かず、貧困生活に
甘んじるという社会である。
ご両親にA君、B君をどうしたいのか?希望を聞く。
「学校へ行かせて欲しい。読み書きを教えて欲しい」とのこと。
A君・B君に「子どもの家」への入所の意思を確認する。
二人とも『「子どもの家」へ入り、勉強したい』とのこと。
「子どもの家」の目的、設備、生活などを説明する。
私が今出来ることは、こうした子どもたちを「子どもの家」に迎え入れ
日本人の里親の方々に支援をして頂く仲介者役をすることである。
A君、B君に幸せな人生を歩んでもらいたいと願うのみである。
船上生活者の船からベトナム事務所へ帰る途中、昨夜大塚さん
が盗まれた電動バイクどと同型の電動バイクを買いに行く。
前回より安くなっていた。
ベトナム事務所では日本料理店の子どもたちが
英語を勉強していた。非常に熱心にやっている。
ホンニーさんは、腹痛で休む。
午前10時。新日本料理店の打ち合わせを行う。
バオミンさん・大塚さん・税田さん・小山
5月21日に開店する新日本料理店。今後の運営の基本を
相談する。日本料理店を移転した最大の理由は、
日本料理店を子どもたちのものにするため。運営も
収益も全て子どもたちや子どもたちを支えるスタッフに
役立てるようにしたい。2月4日JASS第14回総会決定
でも「ベトナム現地の完全自立を達成する」との方針が
明記されている。
様々な問題があった旧日本料理店。4月20日に閉店とし、
新たな日本料理店を開店する。
今回は抜本的な人事刷新を決めることにした。
①日本料理店の運営を全て子どもたちに任せる
子どもたちが責任を持って日本料理店を運営していく中で
子どもたちは様々なことを学び、大人に成長していくものと
思う。既に1年間、子どもたちは鳥取の徳岡さん、茨城の
中村さん、大塚さんや日本人スタッフなど様々な人々から
日本料理の作り方を学んだ。また、2000人弱のお客さんの
応対を経験した接客係り。この1年で日本語も学び、日本料理・
接客を学び、ほぼ、ひとり立ちできるところまで来たと判断した。
②具体的には、店長「ホンニーさん」・副店長に「リー君」
を抜擢することにした。4人の一致した意見である。
③日本人スタッフは、ホンニー店長、リー副店長が日本料理店
の運営をしっかりとできるよう「側面」から援助することを
基本とすることにした。
以上の決定は、かなり挑戦的な内容を含んでいる。
果たして18歳のホンニーさんが日本料理店全体を
見渡しての仕事が出来るのか?
気分屋で仕事をしたりしなかったりの警備員のリー君が
日本料理店全体の運営を「ホンニーさん」と協力して
うまくやっていけるのか? 直ぐに飽きてしまわないか?
子どもたちには、荷が重過ぎないか?
など様々な躊躇もある。しかし、いずれは、日本人が
いなくなるのである。子どもたちに「新しい峰に挑戦する」
チャンスを与えたい。自信をなくしたら応援し、成功したら
励ましすることが、子どもたちを「育てる」ことである。
2月4日JASS総会で決めた「子どもたちを育てる」
「子どもたちの自立を促進する」ことになるのではないかと
考えた。人間は、無限の可能性を秘めている。
ホンニーさんとリー君、更に4人の子どもたちが力を
あわせ、新しい課題に挑戦して行って欲しい。
子どもたちの能力と力はチャンスを与え、挑戦する中で
必ず引き出され伸びていくものと信じている。
打ち合わせ会終了後、臨時のベトナム事務所員会議を
開き、店長、副店長人事を提案し皆さんの意見を聞く。
皆さん、賛成してくれる。
直ぐに『リー君』を呼んで副店長の件を話す。
4月20日、旧日本料理店閉店以後、リー君は毎日新日本料理店
建築工事現場に来ている。今まで直ぐに仕事に飽きてしまう
弱点を持っていたリー君が「変身」したような気もしないでもない。
バオミンさんが、ベトナム語で副店長就任要請の話をする。
リー君がどんな反応を示すか非常に興味があった。
想像通り、「私は自信がある。頑張って副店長をしたい」との
答えだった。
私の方から次のことを話す。
①副店長になったからには、自分だけでなく、6人の
スタッフ全員が楽しく仕事が出来るように心がけるのが
仕事だということを頭において欲しい。
②気分で仕事をすることはやめるように。
③店長のホンニーさんと協力して、日本料理店全体の
問題をいつも考えて解決して行って欲しい。
④ベトナム事務所のみんなは、リー君の活躍に期待している。
昼食。
昼寝(30分)
読書「石の肺ーアスベスト渦を追う」(佐伯一麦著:新潮社)
午後2時半、バオミンさんと一緒に「子どもの家」へ。
新日本料理店店長候補のホンニーさんと会い、店長就任を
打診。
バオミンさんがベトナム語でJASSが何故ホンニーさんを
店長に推挙したのかを説明。店長の仕事内容なども話す。
セン「子どもの家」所長も「店長は大変な仕事だ。あなたに
とっては人生で初めての大役。できるかどうか自信がないとは
思うが、今、目の前にある課題に全力で挑戦して欲しい。
あなたの能力と力なら、必ずやれると思う」と励ます。
「私は店長をやります」とホンニーさんはきっぱりと言う。
私が店長の仕事について、何か質問や疑問はないか?
と尋ねる。『私は今聞いたばかりの話なので、まだ良く考えて
いない。これからゆっくりと考えてみる。明日、日本料理店会議
を開くそうなので、その時、私が考えていることを皆に言いたい」
と話す。
ホンニーさんは賢い子である。1年間、日本料理店で仕事を
している。店長という仕事が、実際、どんなに大変かを知っている。
知っているからこそ「簡単に出来ます」などとは、到底いえないの
である。ホンニーさんは店長就任という重大な課題を真正面から
受け止め、ぶつかって行こうと決意したものと思われる。
ホンニーさんの成長と活躍を期待したい。
「子どもの家」からベトナム事務所へ戻る。天気快晴。
真夏の気温。
途中、バオミンのお母さんが経営しているドンバ市場内の
布地屋へ行き、スボン用の布(今はパンツと言うらしいが、
パンツは下着という語感が強いのでこの際はズボン)3着分
長袖ワイシャツ用布2着分を買う。3500円相当。
ベトナム事務所隣の縫製屋へ布の持ち込み採寸、縫製を
依頼。3年前に同様の方法でスボンを3着作った。
新日本料理店は着々と工事も進みカーテン、ついたて、
ガス台の穴あけ(明日、ガス台関連取り付け)などが
終わった。
店内の仕切りにつかう「衝立」(ついたて)
ガス台
午後5時、トンチンカンホテルへ戻る。今日は暑い1日だった。
私は暑いフエが大好き。暑くなると体調が良くなる。
里子の件で関係者にメール送信。25通のメール受信。
全てに目を通すだけでもかなり大変。
今夜、新日本語教師の後藤さんがフエに着任する。
当初、午後8時フエ空港着の予定だったが午後8時40分に
変更となり、午後7時45分、サンさん、リー君とフエ空港へ
出迎えに行く。
空港では午後9時に遅延予定との表示。空港入り口の
ガードマンに聞くと、午後9時から午後8時半に変更に
なったと言う。空港待合室に行き、日本語学校の卒業生
の警備員に聞くと、午後8時50分だとのこと。
訳の分からない状態。午後8時に空港到着後、約1時間
弱待つ。結局午後8時50分に到着。後藤さんは元気な姿で
フエ空港へ姿を現す。
午後9時20分。空港を出てフエ市内へ。フエ市内の「フォーサイゴン」
レストランで遅い夕食。
無事着任の簡単な祝杯を挙げる。リー君は上機嫌でビールを
ぐんぐん飲む。
結局、午後10時までフォー(米うどん)やチャーハンなどを
食べ、トンチンカンホテルへ。
午後10時過ぎトンチンカンホテルへ無事到着。
後藤さんに取っては「超長い1日」だったことだろう。
トンチンカンホテルでは、日本人スタッフが出迎えて
くれる。
後藤さんにとっても私に取っても「長い長い1日」が終わる。
2007年05月15日
子どもたちの日本語教育
曇りのち晴れ
午前7時朝食。ブンボー。
午前8時。受信メールのチェック。必要な送信。
午前9時。徒歩、ベトナム事務所へ。
新日本料理店は基礎的な部分はほぼ完成。室内、個室、
厨房などは完成した。今後は厨房のガス設置、来客用の
机と椅子そして一番大事な「フダ生ビール」のサーバー設置が
残るのみ。今週末、旧日本料理店にある食器、冷蔵庫、
テレビなどを新日本料理店に移転する作業を行い、5月19日
には全てを完了する予定。
今日、フエ市人民委員会外務部長ニエン氏、ホアン部員、
「子どもの家」セン所長、東京平和産業ラーム氏に
5月21日(月)午後6時からの新日本料理店開店祝いへの
参加を呼びかける。全員参加の予定との返事。
ベトナム事務所2階では日本料理店店員の子どもたちが
ソン先生の指導で日本語を勉強していた。
今日の勉強は、接客。お客さんの飲み物の注文を聞くという設定。
ソン先生が見本を話し、子どもたちがリピートする。
しばらく発音、イントネーションなどの勉強をし、実際に
一人一人話させる。子どもたちは恥ずかしがらずに
真面目に日本語を話す。
その後、実際にお客と店員になって練習。
リー君は本当に店員になりきり練習していた。
真面目な子である。少し「化け」始めたか?
などという期待をもつと直ぐに「ドンデン返し」を食らう
リー君でもあるのだ。今回は「本化け」かはたまた
通常の仮化けか? そろそろ本化けになることを
期待している。頑張れリー君。
その後、JASS観光関連の問題で関係者と長時間打ち合わせ。
いくつかの問題を検討。
日本の支援者から電話。夏のスタディーツアーの件。
料理人のターオ君。兄弟喧嘩がひどい状況なので
当面、兄弟を離して生活させることにし、ターオ君に
下宿を借りてやった。
「子どもの家」に訪問者を案内している税田さんから
電話。
ターオ君が毎日「子どもの家」に来て寝ていると言う。
更に「子どもの家」を退所した子ども2人も連れて
いるという。昼間はゲームセンターなどで遊び、
夜になると3人で「子どもの家」に入って来て
寝て帰ると言う。寮母さんはターオ君が怖くて
注意できないとのこと。セン所長から「小山、ミンさんと
ターオ君のことで緊急に話し合いたい」との言付け。
本人の希望もあり下宿を見つけ、借りてあげたのに。
なかなか「手ごわい相手」だ。一筋縄ではいかないな・・・。
まだまだ人生を舐めている態度がありあり。
昼食、精進ほか弁(35円)。
昼寝。30分。
読書「海も暮れきる」(吉村昭著:講談社文庫」読了。
全文を読んで「暮れきる」の『きる』に込めた著者の気持ちが
理解できたような気がする。放哉(ほうさい)が、42才で
死ぬ間際の8ヶ月を住んだ小豆島での生活は、放哉の
最後の人生と生との苦闘であった。苦闘を戦い抜いた
という意味が強く込められているように思った。
肺結核が刻々と深刻な状況になっていく様子が、あまりに
リアルで具体的である。最後に体中がやせ細り、自分で
立てなくなり、近所の漁師のおばさんが、ボランティアで
面倒を見てくれる。トイレもいけなくなる。村の医者が来て
死期が近いこと放哉に婉曲に伝える。「知り合いの方を
呼んだらどうですか?」と。放哉は、親、兄弟などは
一切の係わり合いがないとして、家族に知らせることを拒否。
ただ、放哉のもとを出て行った妻の薫の写真が欲しいと言う。
放哉の肺結核(当時は不治の病)の進行状況を克明に
記述出来たのは筆者の吉村昭が同じ病気で長期間療養。
戦後、薬が開発され助かったという経験を持っているからだ
と分かったのは、あとがきを呼んでからである。
本書は死の8ヶ月前、小豆島に渡ってから亡くなるまでを
詳細に書き綴っている。41歳までの放哉がどのような
生き方をしたのか? 何故、臨終に家族を呼ぶことを
拒否したのか、など小豆島へ放浪せざるを得なかった
放哉の人生の詳細を知れば、更に小豆島の8ヶ月の
意味が明らかになたのではないかと思った。
しかし、小豆島での8ヶ月間の詳細な闘病生活、
刻一刻と死に近づいていることを知りながら、
家族、社会への反撥なのか、現世を否定し、ただ、
自由律俳句の世界だけに入り込んでいた放哉の
俳句の簡単そうで実に深い意味が少し理解できたような
気がする。
「はるの山のうしろからけむりが出だした」が最後の句となった。
「咳をしても一人」が私には、放哉の小豆島での生活を
端的にあらわしている句に思えた。エリート意識が強く、
甘えん坊で、寂しがり屋で実に人間的な放哉が
たった一人で死んでいく道を選んだ「達観」した句とも
読める。
午後4時、徒歩ベトナム事務所へ。
バオミンさんといくつかの打ち合わせ。太平観光から電話。
午後6時、大塚さんの料理で夕食。久しぶりの『真っ当な』
夕食だった。4月20日に日本料理店を閉店してから
3食を自分で賄わなければならない。大変なこと。
時間がなくて食事をしないことも多い。カップめんなども
あり、相当、手抜きの食事となっていることは、否めない。
時々、大塚さんの作ってくれる食事が栄養源。
5月21日新日本料理店開店後は子どもたちと一緒に
夕食を摂ることが出来る。もう少しの辛抱。
ピースインツアーに夏のスタディーツアーの見積もりの件
でメールを入れる。
2007年05月14日
JASS観光打ち合わせ
終日曇り・雨模様(雨が降りそう)
トンチンカンホテルの湿度90%。
湿度が高く1日中、ぼーっとしている。体もだるい。
午前7時朝食。フォー。
血圧・体重測定。メールチェック。必要な返事を出す。
午前9時。ベトナム事務所で「JASS観光会社」打ち合わせ。
バオミン社長、サン副社長、税田さん、小山。
打ち合わせの内容は、当面の諸問題。
6月、7月、8月のスタディーツアーなどで既に予約されている
ものについて全て洗い出し、訪問者が困らないようホテル、
レストラン等の予約の再確認をすることにした。
当面、6月15日のピースボートの「子どもの家」等訪問の
諸準備の打ち合わせ。
昼食。インスタントラーメン。
昼寝、1時間。
読書「海も暮れきる」(著:吉村昭)
午後3時、ベトナム事務所へ。新日本料理店工事の進捗状況を
チェックする。
日本料理店内、基本的にはほぼ完成に近づいている。
厨房の外に食器等を洗う部屋を作る。総ガラス張り。ほぼ完成
に近い。
ベトナム事務所3階の刺繍みやげ物店。テラスに1部屋増築。
ほぼ完成。今日は刺繍みやげ物を飾る棚も設置。
このところ元気の良いリー君が刺繍作業場に行き、皆さんと
雑談。刺繍を作っている若い女性を笑いの渦に巻き込む。
リー君は憎めない性格だ。どこへ行っても笑いが起こる。
特異なキャラクターだ。リー君がいるだけで、「場」が明るくなる。
日本料理店の隣りにある通路。日本料理店の食器などを入れる棚
が置けるよう改修。ほぼ出来上がる。
今日は4人の方から電話を頂く。
午前中は栃木からホーチミン市に出張し明日帰国する方。
「縫製研修センター」などについての話。
午後、JICAタイ事務所から。6月の視察訪問の件。
日本の支援者から心暖まる激励の電話。
ACCL代表のWさんより、ベトナム中部の「小児ガン支援」
プロジェクトの実施についての話。
国民投票法案が成立。憲法という国民の生命と生活を
規定する重要な案件を決めるためのルール作りですら
国民的論議と合意がないまま強行した安部首相の
「美しい国」とはこういうことか、と実感。これから
一層、「美しい国」になるのでしょう。
イラク支援法の「改正案」が衆議院の特別委員会を通過。
イラクへのアメリカの侵略は衆目の一致する所。
侵略の名目である「大量破壊兵器がある」「フセイン大統領
がアルカイダを支援している」が全てウソだということが米政府
によって表明されている。その後の推移を見れば、「テロとの戦い」が
テロの誘発、民族、宗教間の一層の対立を生んでいることは
誰の目にも明らかである。イラクはアメリカが既にもてあましている
状態である。自衛隊がイラクにいる何の理由もない。
イラクで民生支援をしているわけでもない。自衛隊の航空機を
使ってアメリカ兵の運搬である。
自公政権は、国会を事実上、ないがしろにしている。論議を
つくしていない。国会を形式としか見ていない。
国会が多数党の「操り人形」になれば、三権分立の意味もない。
こうしたことが常態化することを恐れる。違う意見を論じ合うのが
民主主義であり国会であるはず。
以前、ポーランドのアウシュビッツ収容所に行ったことが
ある。収容所の入り口に「Arbeit Macht Fre」
(英語訳:WORKS GETS FREE))「労働は自由への入り口」と言った
内容の看板が架けてあった。
★25年ほど前のことであったが、「アウシュビッツ」という
言葉は、ドイツ侵略時にドイツによって作られたことば。
ボーランドの地元の人は「アウシュビッツ」という言葉を嫌い
もともとの市の名前「オシフィエンチム」と言っていた。
入り口では、楽器などの演奏をしていたそうだ。
甘い言葉は時にその実態が反対になることが多い。
大東亜共栄圏、五族協和など「ひどい実態」を異常に
甘い言葉をつけて、カムフラージュする経験を私たちはたくさん
持っている。
「テロとの闘い」rという言葉が実際は壮大な市民の虐殺で
あったように。
「美しい国」が隠そうとしているその実態は?
ファシズムはいつでも音もなく、そよ風とあまい蜜の
香り、そして排外主義(外国人追放)を伴ってやってくるのである。
午後8時。夕食時だが、食欲なし。冷蔵庫を開けるが
おつまみなし。近くの大衆飲み屋に行き、「するめ」を
2枚焼いてもらう。お店のあばさん。「あんた、日本料理店
の人でしょう?」と。隣りに70歳の旦那がいた。
椅子を片付けたり、ゴミを拾ったり。スルメ2枚を焼いて5万ドン
(360円)だという。ついでに「豚肉のソーセージ」を4つ買う。
12000ドン(80円)。合計、62000ドン(450円)。
70歳の旦那に7万ドンを渡す。旦那が会計をするのかと
思ったら「かあちゃん。62000ドンだが7万ドンもらったので
おつり。8000ドン頂戴い」と言っている。
60歳代後半の「お母さん」は、床に腰をおろし、アルコールを
お皿に入れ火をつけ、スルメを焼いている。
おやじは、お母ちゃんの回りで「ウロウロ」するだけ。
典型的なフエの夫婦像を見た。「お客さんに8000ドンおつり」
と70歳のおじちゃんは妻に訴える。
妻は「今、私はスルメを焼いてるの。分かってるでしょう」
とのお答え。私はつい「わが身」を70歳のおじちゃんに
投影してしまった。「おつりはいりません」と、つい言って
しまった。スルメを焼いているおばあさんの回りをウロウロ
しているおじいちゃんを見て本能的且つ強い連帯感を感じ
てしまった。
部屋へ戻り、フダ缶ビール3本。2枚のスルメをハサミで切り
醤油に漬ける。スルメと豚肉ソセージで飲む。
4月20日に日本料理店を閉店して以降、いつも「これからどうする」
「こうしたら、どうなる」「こんなことが起こったらどう対処する」など、
朝から晩まで色々なシュミレーションを考えていた。
体は使っていないが、頭の中は、飽和状態。尾崎放哉ではないが
「飲まないといられない」状態。「海も暮れきる」を読めば読むほど
「人間は基本的人権(生まれながらにして持っている権利)としての
『飲酒権』があることを実感」した。70歳のお父さん、ご苦労様。
『あなたの人生の不満、悩みの奥深さと深刻さは良く分かります。
奥さんとの『おつり問答』を聞いて自分を振り返りました。ご苦労様です。
これからも「奥さんの回りウロウロ生活」をエンジョイしてください。
私も同じ道を歩んでいます。奥さんの回りウロウロ生活は
あなただけではありませんよ。日本でも私以外に最低2組
のカップルが間違いなく存在します。長男と次男夫婦。これは
DNAで引き継がれるものなのですね』と言ってやりたいな、
などと思いながらフダビールを一人飲むのであった。
2007年05月13日
新日本料理店工事続行
終日雨。
午前4時頃から暴風雨。
午前4時、大雨の音で目が覚める。眠れなくなり
読書。
「海も暮れきる」(吉村昭著:講談社文庫)
自由律俳句の先駆者「尾崎放哉」(おざき ほうさい)本名秀雄、
が小豆島に渡り死んでいく過程を描いている。
今日は空いている時間は、ほぼ読書。ベトナムでは
読書と飲酒が最大の娯楽。
明治18年鳥取県で生まれ、鳥取1中を最優秀の成績で
卒業。東京の1高文科入学。同級生には、安倍能成、
小宮豊隆などがいた。その後、東大法学部を卒業。
大学卒業頃から「大酒飲み」といわれるようになる。
その後、東洋生命保険の課長となり10年勤めるが、
酒を飲んでは絡んで異常な行動を繰り返し、クビになる。
その後、朝鮮火災海上保険支配人となるが、これも
酒でクビ。妻にも離別され、収入もなく、東大の1年先輩
である荻原井泉水の世話で小豆島の寺の庵に居住する。
肺結核が悪化。毎日、死にたいと思いながら、
「東大を出て、一流の会社に入り、自由律俳句では
第一人者の一人である自分がどうして、小豆島の
お遍路さんが来る小さなお寺の墓守などをしなければ
ならないのか?」と呻吟しつつ毎日を過ごす。毎日の
苦悩を自由律俳句を通して表現した。
私が知っている句は「咳をしても一人」。
小豆島の墓守をしながら支援者の援助で生活をし、肺結核と
闘うと言うのか、いつも海に入水したいと思っている。
悲しいこと、人生の悲哀を感じると、飲んでしまう。
飲むと人に絡み、徹底的に他人を罵倒してしまい世間から顰蹙
(ひんしゅく)を買う。しばらくは禁酒するが、また飲まなければ
やりきれない現実の中で酒を飲む。酒を飲んで肺結核を悪化させ
酒乱状態で世間からひんしゅくをかうと言ったことを繰り返す。
放哉が、酒を飲んでしまう気持ちが本当に良く分かる。
お酒を飲んで良いのか悪いのかではないのだ。自分の人生を
どう生きるのかということ。意味なく長生きはしたくない。
健康・長生きブームには乗りたくない。いつも何かに
「熱中」していたい。死ぬ寸前まで何かに熱中し、死んで行きたい。
死ぬと言うことはけして否定的なことではない。死ぬと言うことを
前提に人間は精一杯生きてゆくことが大事なのだ。
午前9時、ベトナム事務所へ。1階の新日本料理店工事は
日曜日でも行われていた。
大塚さん、仁枝さん、リー君、ソン君、税田さんが来ていた。
日曜日、休みの日に仕事に出てくる皆さん。
月給がいくらかなどソロバン勘定ではない人生を歩んでいる。
金金金に取り付かれた人間の醜い姿を見ている。
大塚さん、仁枝さん、税田さん、ソン君そしてリー君。
金儲けは「はなから」頭にない。感謝。
豪雨の中、コムディアを買いにいく。
フダ缶ビール2本。ブランチ。
読書「海も暮れきる」(吉村昭著:講談社文庫)
午後4時。再度、新日本料理店工事現場へ。
日本料理店い使う「ついたて」が出来ていた。
観光関連の新しい事態について関係者にメール送信。
2007年05月12日
ベトナム事務所員会議
朝晴天。のち曇り。午後雨。
変な天気。
午前7時、朝食。ブンボー。
午前8時、徒歩ベトナム事務所へ。
1階新日本料理店工事現場。既に大塚さん、仁枝さん
リー君が来ていた。細かいところの指示を行っていた。
新日本料理店の工事が始まった4月28日以来15日間。
毎朝7時前に工事現場に来ている。有難いことである。
大塚さん、仁枝さんに深謝。
午前8時半、ベトナム事務所員会議。
バオミン・「JASSベトナム」運営委員長の司会。
(ソン)日本料理店の後輩5人に日本語を教える。
1週間2回のペースで。
(税田)水金 日本語学校上級の授業。木観光基礎コース授業。
上級は来週テスト。
(石塚)火曜日上級3授業。月水金土は観光基礎コース。
金観光テスト(来週火曜は上級3テスト)
木曜日夜、サン先生の誕生会(上級3)に参加。
(ハン)4月の会計決算を行う。子どもたちの里親への
手紙を翻訳。
(フーン)月火水観光基礎コース授業。体調不良のため
少し授業を減らしてもらっている。
(サン)月木上級授業。
(ミン)バンベーの編集。新日本料理店の工事関係の仕事
船上生活者の子どもを「子どもの家」に入れる件で
フールー小学校と交渉。
JASS観光会社関係の仕事が大変だった。
その後、討論。
5月21日に新日本料理店開店パーティーを行うことが
決まる。同時にいくつかのお祝いもすることになった。
5月21日(月)午後6時からのパーティーのスローガン
「祝 新日本料理店開店 歓迎 後藤ハンナ先生」
「祝 フーン先生御懐妊 祝サン先生観光副社長就任
祝 ソンさん日本語教師就任」パーティー。
招待者:ニエン外務部長、セン「子どもの家」所長
ラーム東京平和産業社長
午前9時半ベトナム事務所員会議終了と同時に
会場は「誕生会」に変身。
今日はサン先生とソン君の誕生祝。
●フーン先生からサン先生に誕生祝いの記念品贈呈
●サン先生・ソン君への記念品と誕生ケーキの贈呈
●サン先生に誕生記念の寄せ書き贈呈
●サン先生寄せ書き 表
●サン先生寄せ書き裏
●ソン君 寄せ書き贈呈
●ソン君寄せ書き表
●ソン君寄せ書き裏
●サン先生・ソン君誕生会記念写真
JASSベトナム事務所にいるベトナム人と日本人。
更に日本料理店にいる大塚さんと仁枝さん。
「縁」があって遠くフエの地で一緒に生活する
ことになった。長い一生の中の貴重な1年間。
せっかく一緒に生活しているのである。
できるだけ「フエでみんなと出会って良かった。
一緒に生活出来て良かった」と皆さんが思える
ような出会いの場にしたいと常日頃思っている。
誕生祝いが終わり、誕生ケーキをみんなで食べる。
リー君も相伴。リー君はサン先生に「女性の口説き方は
女性の手相を見ると言って手を握るのが一番良い」との
素晴らしいアドバイスをし、みんなの爆笑を誘った。
さすがに場数を踏んでいるリー君ではある。
リー君は偉いところもある。4月20日の日本料理店閉店。
4月28日の新日本料理店工事開始以降、毎日
ベトナム事務所1階の日本料理店工事現場に来ている。
今まで気分で来たり来なかったりを繰り返していた
リー君であるが、今回は何か「異変の匂いを本能的に
感じたのか?」毎日出勤している。
午前10時、ミンさんと一緒にフエ中央病院小児科医長と
懇談。
渡辺和代さんが代表を勤める「ACCL」(アジア・チャイルド・ケア・リーク)
とフエ中央病院小児科との提携による「小児白血病」支援
プロジェクトについての詳細打ち合わせ
午後12時過ぎ終了。
バオミンさんに頼み「コムディア屋」へ。ご飯を半分に。
午後12時過ぎ、トンチンカンホテルへ。
自室で昼食。半分程度しか食べられない。
昼寝をする気も起こらず、久しぶりに読書。
「ダライ・ラマ」読了。
3歳で13世ダライラマの化身探索隊によって発見され
5歳で14世ダライラマになった。
その後、中国のチベット侵略。海外亡命。様々な試練を
体験する。中国のチベット侵略の実態が生々しく記述
されている。1950年、中国のチベット侵略から1991年
までの間に125万人のチベット人が中国の侵略者に
よって殺されている。本書を読んで「寛容の精神」
「人を許すこと」「広い気持ちで生きる」などという
私にとっての日常生活で必要な徳目を学んだ。
ニセ共産主義者が口では「人民のため」と称しながら
『実際にはどれだけの暴力と抑圧』を人民に与えたか?
の実例がチベットで分かると言うものである。
民主主義と人権思想のないニセ共産主義思想は敗北する。
人間を人間と見る思想こそ一番大事なのだと改めて
感じた次第である。
生きた人間を人間と見ないいかなる思想も誤っている。
中国、ベトナムの未来を予測するような著書でもある。
午後4時。ベトナム事務所へ。
新日本料理店の工事は土曜の午後も続けられていた。
2007年05月11日
JASS観光会社打ち合わせ
朝晴れ、のち曇り、時々小雨。
気候の変化大。最高気温32度。
午前7時、朝食。フォー。
午前8時、ベトナム事務所へ。既に日本料理店工事の
業者が入り仕事をしている。シンナーを吹き付けての
大変な工事。1階には大塚さん、仁枝さんが工事の
進捗状況を査察。
昨日、下宿を借りてやったターオ君。今日は午前8時前に
ベトナム事務所にやってきたそうだ。直ぐに帰ったらしいが。
午前8時半。子どもたちの英語レッスン日。5人の子どもたちが
しっかりと勉強していた。ターオ君は勉強はしないと公言。
今日の勉強は、日本料理店に予約の電話が入った時の
対応の仕方。
●楽しみながら真面目に勉強をしている子どもたち
●ホワイトボードに答えを書くリー君
午前10時。JASS観光会社の方針、今後の取り組みに
ついて意思統一をする。
昼食。カップめん。
昼寝。
午後1時半、ベトナム事務所へ。バオミンさんと一緒に
A会社社長と懇談。
今後の様々なことを話す。
社長の話。近々にモーリンホテル内に証券会社が
できるそうだ。又、フエ省立ホテルの株を売りだし、
ハノイの証券市場に上場するとのこと。
ホーチミン市は既に「株ブーム」。日本からホーチミン市へ
株を買うツアーがあるそうだが、近々にフエでも
「株に狂う」一時成金が出てくることが予想される。
午後4時過ぎ、フエ市最大のスーパーへ。
土日の食料品の買出し、と言ってもパスタ、卵、ハム、
ツナなど。調理をしないで食べられるものしか買えない。
夜、JASS観光会社に関わる諸状況を関係者に報告する
メールを書く。
2007年05月10日
緊急ベトナム事務所員全員会議
晴れのち曇り
午前7時朝食。ブンボー。カニの甲羅と肉をミンチにした
カニ団子が入っていた。甲羅が「ガッリッ」と歯にあたる。
午前8時半、緊急にベトナム事務所員全員会議を開く。
昨日、東京平和産業のラームさんと話した観光会社問題の
結果報告と今後の「JASSベトナム」としての対応方針を
皆で協議する。
初めに私の方から昨日の話し合いの内容を報告する。
その後質疑応答。
次に「JASSベトナム」としての対処方針を提案。
「JASSベトナム」内に観光担当責任者を置く。
サンさんに就任してもらう。「JASSベトナム」全体の
責任者はミンさん。観光はサンさん、日本語学校はフーンさん、
会計はハンさん。全体を総合的に研修体験をするソン君と
いう布陣で今後「JASSベトナム」は活動していくことを
確認。
今回の「JASS観光会社」設立の最大の目的は
「JASSベトナム」で企画立案・宣伝、案内等をしている
各種スタディーツアーの収益を100%子どもたちに
還元することである。今後、状況を見て、「子どもの家」スタッフ
の給料引き上げ実施(現在は米・仏「子どもの家」の半額)、
「子どもの家」の環境整備。「JASSベトナム」事務所スタッフ
の労働条件改善等を行うことを話し合う。
観光担当責任者に就任したサンさんは、「今後、色々な
問題があっても自分は頑張っていく」との決意を表明。
ベトナム事務所員全員が一丸となっ7月8月9月の
スタディーツアー受け入れ業務に当たろうと話し合った。
私としては、ベトナム事務所員にこれと言った「動揺」もなく
皆さん、今回の大きな変革・改革を受け入れてくれたことに
感謝したい。ベトナム事務所員全員が一家族だと思い、
お互い助けないながら子どもたちのために頑張るという
活動スタイルを更に作って行こうと改めて決意した。
午前9時半。日本料理店個室の電気を買いに観光責任者の
サンさんとフエの「秋葉原」へ行く。2個の和風伝統を買う。
日本料理店の工事はかなり進み、ほぼ工事自体は終わりに
近づいているような雰囲気を感じる。
生ビールのサーバーを置くカウンターができる。
個室のドアの取り付け、ニス塗りが行われ、シンナーの
強い匂いがベトナム事務所中を覆う。
厨房の流し台の設置も完了。大塚店長の希望取りの
二つの水道が付けられた。
午後112時過ぎ、トンチンカンホテル。
昼食はフランスパン、牛乳、ヨーグルト、チーズ。
昼寝。さすがに疲れる。1時間半熟睡。
午後2時半、徒歩ベトナム事務所へ。
バオミンさん、観光責任者サンさんと今後の
観光をめぐる様々な動きと留意点を話し合い、当面の
対応策を検討する。
午後4時、トンチンカンホテルへ。たくさんのメールを受信。
一つ一つの返事を出す。
日本のピースインツアー本部、太平観光へ電話。
太平観光北垣会長、ピースインツアーのスタディーツアー
責任者に今回の「JASS観光会社」設立の経緯と今後の
協力を依頼。太平観光、ピースインツアーとも「JASS観光会社」
と協力してスタディーツアーを進めたい旨回答を得る。
午後6時半。大塚さん手作りの夕食を頂く。
今夜は「冷やし中華」。
2007年05月09日
東京平和産業と話し合い
晴れのち曇り
気温の変化が大きい。
昨夜は一晩中眠れなかった。
午前7時朝食。フォー。
午前7時半、徒歩でベトナム事務所へ。
午前8時、ベトナム事務所で東京平和産業のラームさん
と懇談。ベトナム事務所側はバオミンさん、税田さん、小山。
約1時間の話し合いの結論は以下のようになった。
①ラームさんは今後東京平和産業を中心にビジネス業界に
進出し、一層ビジネスに邁進する。そのため、ベトナム事務所員
は辞める。
②ベトナム事務所は、更に一層、「子どもの家」や子どもたちの
ためのボランティア活動を推進する。
③今まで東京平和産業が行っていたJASS関連のスタディーツアー
の業務は今後、「JASS観光会社」を設立し、JASSベトナム事務所
が直接運営する。
④ラームさんはJASSベトナム事務所員をやめて「ビジネス業界」
に進出するが、引き続き、できることはお互い協力・共同して行く。
要旨こんな話し合いを行った。その背景は、以下のようである。
2007年2月4日「第14回JASS総会」が行われ、
「現地自立」、とりわけ「現地財政自立」のために努力すること
が決まった。具体的には、JASSを「JASSベトナム」と「JASS日本」の
二つの機能に分けそれぞれの役割を果たしながら、「子どもの家」や
生活困難な子どもたち、障害児などの支援を行っていくことが決まった。
2月4日の総会決定を受けて、「JASSベトナム」(旧ベトナム事務所)
では、できるだけベトナム事務所で全ての活動が行えるよう様々な
機構改革、意識改革=構造改革を実行している。
更にできるだけ日本からの支援に頼らずに、ベトナムでベトナム人スタッフ
を中心に子どもたちの自立、ベトナム事務所の自立を進めようとの
決意を固め、できるところから具体化してきた。
「JASSベトナム」がベトナムでのJASS活動を全て決定するように
機構改革が行われ、バオミンさんが「JASSベトナム」運営委員長
に就任。ベトナムで行うJASS活動を代表し、JASSのベトナムに
おける最高責任者となった。
更に財政改革にも着手。2月4日総会以前は、日本の会計担当
山西副代表から送られる支援金を中心に、日本事務所の
会計協力をうけながらベトナムでの活動を進めてきた。
2月4日総会以降は、基本的には
「自立採算制」を取り入れ、ベトナム事務所での「財政活動」を
強化し、ベトナムで「収入を上げ」、日本からの支援に頼らない
JASS活動を推進する努力を重ねてきた。
そのため、ベトナム事務所を拠点に「子どもの家」を中心とし、
オートバイ修理工場、縫製研修工場、アクセサリ工場、日本語学校
、日本料理店などの起業を行い、「JASSベトナム」として
独自に財政を確立し、収益を上げて、「子どもの家」の子どもたちや
スタッフ、ベトナム事務所のスタッフや運営費を捻出するよう
体制を作り上げてきた。
更に12年前から始めた東京平和産業(資金は私が個人的に投資)
での観光事業。ラームさんを責任者に配置し、太平観光さんの支援で
4年間にわたり社員の舟山さんの派遣・指導を受けて、観光業を
学んできた。この12年間のうち8年間ほどは、細々とした観光業を
営んでいた。収益は全額ラームさんのものとなり今日に至って
いた。ラームさんは東京平和産業を拠点に「家具販売業」「クリーニング」
ホテル業などビジネス業界に進出しながら、ベトナム事務所にも
在籍するという「二束のわらじ」の活動を行っていた。
4年ほど前から地球の歩き方や全国大学生協などと提携し、
スタディーツアーの受け入れを行うようになった。また、JASSでの
取り組みが日本国内でもかなり知れ渡るようなり、多くの団体が
スタディーツアー訪問をするようになった。当初は年間数十人
の訪問者の受け入れと観光などを行っていた東京平和産業が
今日では年間1000人ものスタディーツアー訪問者を受け入れる
ようになってきた。訪問者が増大する中で東京平和産業(案内は
ラームさん一人)だけでは到底スタディーツアーの調整、企画、
そして実際の案内などができない状況となった。
そうしたことを背景に年間1000人近くの受け入れ、案内の
90%はベトナム事務所のスタッフ(ミンサン、ハンさん、サンさん、
フーンさん、ソン君、税田さん、小山、石塚さんなど日本語教師)
が行うようになった。私個人では言えば全てのスタディーツアーの
日程の中に「小山代表講演会』という日程が入っている。90分
の講演会を「子どもの家」で行っている。この3月には、20回以上
の講演会を「子どもの家」で行っている。
この12年間で東京平和産業が行っている訪問者受け入れの
スタイルが大きく変わった。数十人の受け入れから1000人の
受け入れ。しかし、スタディーツアー受け入れの収益が
引き続き東京平和産業に基本的には全額入るというシステムは
変わらないまま今日に至っている。
JASSは5年ほど前から「現地自立」「現地財政確立」をめざし
活動を強めていた。とりわけ2月4日総会決定を受けて、
フエで「独立採算制度」で「子どもの家」支援等を進めることに
なり、東京平和産業の収益独占体制はJASSとして大きな
矛盾となった。私は3年前から東京平和産業のラームさんと
この問題を話し合って来た。また、ベトナム事務所の
バオミンさん、税田さん、私とラームさんとの話し合いも
昨年から3回行われ、実際の仕事をする人と収益を得る人
との大きな「アンバランス」の是正について話し合って来たが
なかなか問題の解決には至らなかった。
具体的には、スタディーツアーの宣伝、集客、ツアーの内容
検討、全体のコーディネート、案内などのほとんどを
ベトナム事務所員が行いながら、収益のほとんどが
東京平和産業に入ってしまい、「子どもの家」や子どもたち
に使えないという『アンバランス』を是正したいとの気持ちが
ベトナム事務所側には強くあった。3年間の話し合いを
経て、今日、ラームさんとベトナム事務所側との最終的な
話し合いと「合意」が成立。上記のような結論に達した
次第である。
この合意で、今後は、スタディーツアーなどに関する
ベトナム事務所員の様々な活動は全て『子どもたちのため』
に生かされることになった。ラームさんの「企業家」としての
大成を祈る。
午前9時半。「子どもの家」へ。東京の先生一行9人が
「子どもの家」を視察中。1時間、皆さんを案内し、「子どもの家」の
歴史と目的、子どもたちの教育問題などを説明する。
私が東京の小学校教員をしていた頃の先生方。既に全員退職
されている。
午前10時半。「子どもの家」にて。
日本料理店料理人ターオ君の件。
兄弟喧嘩が続き、同居が難しい状況の中で、臨時に「子どもの家」
に泊まっているターオ君である。数日前に職業研修をしている
「子どもの家」の子どもを誘って、ゲームセンターに連れて行って
しまったり、友達を「子どもの家」に勝手に泊めてしまい、
寮母さんからセン所長に「臨時宿泊をやめさせて欲しい」との
苦情が出ていた。昨日、ターオ君の下宿を何とか見つけてきた。
今日はターオ君を連れて新下宿に連れて行く予定である。
昨日、バオミンさんが「子どもの家」スタッフを通して5月9日
の午前中、私とミンさんが「子どもの家」へ行くので待っている
ようにとの連絡をしておいたが、「所在不明」。
「子どもの家」スタッフや子どもたちがターオ君の行きそうな
場所(ゲームセンターなど)を探す。見つける。
ターオ君に「下宿を見つけたので今から新下宿に行く」旨を
告げる。
そして、JASSで貸してあった自転車の所在を聞く。
「質屋に入れてしまった」とのこと。12万ドン(1000円)。
ゲームセンターなどでの遊興費に使ったものと見られる。
自転車がないと下宿から日本料理店にも通えない。
バオミンさんとセン所長がベトナム語で厳しくターオ君を
叱る。セン所長に別れを告げ、ターオ君を質屋に行かせる。
私たちもあとを追おう。質屋に着く。ミンさんとターオ君が
質屋に入ったが、それから30分出てこない。私は入り口で
30分立っていた。昨夜は一睡もしていない。今日は
1時間ラームさんと話し、1時間来訪者の案内で話し、
とにかく立っているのもフラフラ状態。
30分後にJASS自転車を持って出てくる。ミンさんの
オートバイの後ろに私が乗り、ターオ君が質屋から
取り戻した自転車に乗り、30分。新下宿に到着。
新下宿に入り、ターオ君に「今度はこの下宿で
問題を起こさないように。真面目に生活するよう。
そして、毎日、ここからベトナム事務所1階の
新日本料理店に通い、真面目に板前業に精進するよう」
話す。
午後12時過ぎ、午前中の日程を終わる。帰りに
昼食がないのに気づき、ミンさんにコムディア屋まで連れて
行ってもらい1万ドン(70円)で野菜中心のほか弁を買う。
トンチンカンホテル着12時半過ぎ。
コムディアを食べようとしたが、箸を2回~3回ほどつけたが
食事が喉を通らない。疲れがピークに達している。
そのまま、水を飲んで横になる。1時間半熟睡。
午後4時過ぎ、ベトナム事務所へ。工事の進捗状態などを
チェックする。
日本の会の役員の皆さんに「ラームさんとの話し合い」の
内容をメールで報告する。
引き続き、ベトナム事務所で今後の観光問題、日本料理店
問題などを考える。
午後7時、大塚さんに夕食を作って頂く。冷奴、ぬかづけ、
ハンバーク定食。皆さんで軽くビールを飲み、今日午前中の
話し合いの内容を確認しあい、今後、協力して日本料理店
やベトナム事務所、「子どもの家」を守り立てて行こうと
誓い合う。
誓ってるうちに缶ビルが10本近く空いていた。
午後10時過ぎ、誓い合いの会は終了。いつものことではあるが
大塚さんの手作りの食事を頂き、元気が出る。
昨年、5月から10年間、専属で食事を作ってくれていた
フオンさんが仕事をやめる。それ以降は日本料理店で食事を
したりしていた。4月20日日本料理店閉店後は日本料理店での
食事もできず、パンを買ったり、インスタントラーメンを作ったり
と何とかその場を凌いでいる状況である。この1年間、本当に
食生活が乱れている。栄養のバランスなどほとんど関係ない
食事となっている。昨年から風邪を引いたり、直ぐに体調を
崩すのも食事が安定していないからだと改めて確認した
今日1日であった。それにしても今日は、フエ滞在14年間で
一番『重く』『長い』一日であった。「フー」。ため息が出た。
2007年05月08日
新日本料理店工事
晴天
気温32度。暑い。
本当に変な天気だ。寒かったり暑かったり。
午前7時、朝食。ブンボー。
7時過ぎ、仁枝さんが日本料理店工事現場に行く。
午前8時半、日本料理店工事現場へ。
雨が続き、セメントの壁が乾かない。今日はガスボンベで
壁を乾かしていた。
厨房の流し台の取り付けも完成に近づいている。
日本料理店の椅子と机のサンプルを作らせる。大塚さんが
かなりきちんと説明したのだが、出来てきたものは、およそ
注文とはかけ離れていた。お店側の勝手な作業。
お客の注文を聞く気持ちがないのか、ピントはずれの出来。
他の店に頼むことにする。60個一度に注文しなくて良かった。
ベトナムにすんで14年。この種のトラブルには何度も付き合っている。
一応、サンプルを1つ作ってもらい、それを再度直しながら
最後の希望する品物を作ると言うことがベトナムでは重要。
2階の会議室では、ソン先生の日本語教室が行われている。
ホンニーさん、リー君、グエットさん、トゥオイさん、フエンさん。
ソン先生が実際の日本料理店での接客を想定しての
実践的な日本語会話を教えていた。子どもたちは熱心に
学んでいる。
●ソン君がホワイトボードに書いた板書。自分で調べて必要な
会話内容を決めてきた。
次に実際の日本料理店の玄関でお客と店員になり会話をする
練習。ソン先生がお客。子どもたちが店員。
(子ども) いらっしゃいませ。どうぞ。
(ソン先生) すいません。よやくしていたんですけど。
(子ども) おなまえは なんですか?
(ソン先生) たなかです。
(子ども) おまちしておりました。こちらへどううぞ。
ソン先生はお辞儀の仕方、案内の手の使い方などを
教えていた。
ホワイトボードに書いた内容は、ソン先生が自分で
調べてきて考えた内容である。
ソン先生は「子どもの家」の第1期生。10年間「子どもの家」
で生活し、フエ高等師範大学を出た。その後、JASSの
静岡フエ青年交流会館付属日本語学校で上級まで勉強。
今、こうしてベトナム事務所員として、「子どもの家」の
後輩に日本語を教えるまでになった。
私たちは「人間を育てる」海外支援をめざしている。
中々難しいものへの挑戦ではあるが、こうして長い時間を
かけ一人一人の子どもたちの成長を見守りながらの
支援こそ本当に海外支援ではないかと思っている。
紛争地域への緊急援助も必要であろう。イラク戦争中に
戦場に子どもたちを助けると入っていくのも支援なのかも
知れない。しかし、結局は緊急支援だけでは人間は
生きてゆけない。教育をし、子どもたちを「人間として」
いかに育てるかが、海外支援に問われているのである。
私たちの援助は時間をかけ子どもたちを育てる。育った子どもたちが
次世代の子どもたちを育てるという循環型・自己発展型の
国際支援を考えている。人間こそが全ての元になり、資本である。
午前9時半、日本語教室終了。
続いて、子どもたちはベトナム事務所1階の新日本料理店建築
の手伝い。
日本料理店の食器などを入れる「販売する刺繍を置いていた」棚の
移動。なかなか重たい。子どもたちと日本人スタッフが必死で
運搬。
工事中でほこりだれけの新日本料理店入り口 工事現場
昼食。パン。牛乳。ヨーグルト。チーズ。
昼寝。30分。
読書「ダライ・ラマ」。インドに亡命し、ネール首相の支援も
あり(ネールは当初、中国との友好を重視し、チベット亡命者
への支援に消極的だったようだ)。インド南部に数万人の
チベット難民地区を作る。チベット亡命政府を樹立。
当初は国際的な支援も少なく、インドが中心だったが
徐々に国際的な支援も増えてくる。
午後2時半。バオミンさんと一緒にイン君の下宿探し。
ベトナム事務所から自転車で15分ほどのところに
適当な下宿を見つける。大家さんと交渉。1ヶ月20万ドン(1500円)
昨日の兄弟を交えての話し合いでは、一触即発の雰囲気が
漂っていた。緊急避難が必要と判断し、安い下宿を見つける。
明日、午前中にバオミンさんと一緒にイン君を下宿させる予定。
兄弟の和解は時間がかかる。一緒に日本料理店での仕事を
しながら絆を強めていくことは最良と思われる。人間を育てる
ということは、「手間と暇とお金のかかる」一大事業であり、
一人の人間が人生をかけても余りある事業だと思っている。
子どもたちを育てるキーワードは「忍耐」と「待つこと」である。
安倍首相が靖国神社に「真榊」(まさかき)を供えたそうだ。
内閣総理大臣と書いて「私人」の行為といっている。
「国のため戦って亡くなられた方々に敬意を表し、
ご冥福をお祈りする。その思いを持ち続けていきたい」と
語ったそうだ。A級戦犯合祀問題で揺れた小泉首相時代
を再燃させてしまった。東条英機などA級戦犯を
「国のために戦ってなくなられた方」としてしまった。
既に韓国政府の反撥が出ている。
姑息な首相ではある。今まで隠していた本性が
現れたということなのか?馬脚を現したともいえる。
中国は冷静な反応をしている。
およそ外交のない日本である。外務省の文章を読むと
良く「国益」という言葉が出てくる。中国に借りを作って
しまった。
--------------------------------------------------
(以下、「デスマス調」に。)ここから少し、フダ缶ビールが
入りました。変な長調へ転調。このところ少し疲れたので
ばかっぱなしを。
阪神連敗。ご苦労様。この数年が変だったのです。
8連敗、良くやってくれました。これで阪神の本来の姿に
戻りました。ほっとしています。星野や岡田が監督になって
本来の阪神の素晴らしい力(勝つと思って最後は負ける)がなくなって
しまいました。今年はこのまま最下位に低迷し、ストーブ
リーグではお得意の球団内のごたごた、出来たら、選手の
誰かが球団首脳を「馬鹿ったれ」などと批判し、引退する
などのパホーマンスを見せてください。
そしてこれから5年間位は最下位を低迷してください。
そして6年後位に突然生き返り、優勝。そして翌年も
夏過ぎ位までは、トップで進み、秋にはいった途端に
急降下してお決まりの最下位となってください。
私は、そんな阪神が大好きです。
私は子どもの頃から「某札束球団」が大嫌いでした。
短島三塁手などは一番嫌いでした。ナボナのお菓子
を宣伝していた「ホームラン王」は好きでした。
いつも有名選手、成績優秀な選手を札束で買って
結局、何人の選手を駄目にした分からない、
選手「殺し」の札束球団が嫌いでした。この球団が
負けた日はビールが美味しいと真実思いました。
最近、ビールがいまいち美味しくないのは、年の
せいだけではないようです。札束球団・球界の
紳士たれ球団が「ゴタゴタ多発・選手やり放題球団」に
いつも負けてしまうので、張り合いがないのです。
阪神よ、このまま連敗記録を更新し、ついでに
プロ野球最高というのか最低というのか、連敗記録
の最大というやつを作ってもらえないでしょうか?
最近、スポーツも面白くなくなっています。
西武の不祥事(これは元オーナーの堤氏自身が不祥事
社長でしたから)、高校野球の特待生制度など
全てお金で強くなるという「金・金・金」のスポーツ界です。
その点、阪神は素晴らしいです。「金・金・金」という
金権体質に無縁です。球界一の「しぶちん」球団
ですね。お金は出さないがゴタゴタが年中行事。ゴタゴタで
プロ野球を面白くする球団。さすが、大阪の商人球団。
我が愛する阪神ゴタゴタ年中行事球団よ、復活せよ。
勝ちそうで最後は必ず負ける「反水戸黄門球団」の
真価を発揮してください。本当に猛虎を愛するフアンの
声です。
最後に「なぞかけ」を一つ。
「阪神タイガース」とかけて「朝青龍」と解きます。
その心は、「お互い もうこ」が売り物です。
2007年05月07日
新日本料理店通路大掃除
終日小雨・曇り
湿度が高い。
今年はどうして真夏のはずの5月にこんなに雨が降るのだろうか?
午前7時朝食。フォー。
午前8時半、徒歩、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所では1階の新日本料理店の建築が少しずつ
進んでいるが、雨の日が続き、セメントなどが乾かず、
進捗が遅れている。
ベトナム事務所1階の新日本料理店横に通路がある。
今回、改めてこの通路も大家さんから借りることにした。
今日、引渡しがあった。何年も使っていなかったと見えて
ほこりだらけ、ごみだらけ。
皆で通路(幅2M奥行き10M)をきれいに掃除する。
●掃除をする子どもたち(ニーさん、グエットさん)
●進んで掃除をするリー君
●天井のすすを払う仁枝さん
半日かかって通路の掃除を終え、一休みする皆さん。
こうして子どもたちと日本人・ベトナム人スタッフが協力して
「いち」から日本料理店を作り上げていく「過程」もそれぞれの
人間にとって大事な人生の一場面である。子どもたちと
スタッフの絆が一層強まった。
リー君と弟のイン君の兄弟仲が悪い。
昨年から続いている問題である。今日は大塚さん、ミンさん
税田さん、私が仲立ちをして、兄弟で思ったことを言い合い、
仲直りするよう機会を作った。
1時間半ほど、話し合ったが、中々兄弟の溝は深く、
仲直りできない。リー君は口が達者。イン君はあまり
口が立たないが手が早い。けんかが強い。
リー君は口はたつがけんかは弱い。
大塚さん、ミンさん、税田さんが、「この世の中で
たった一人の兄と弟なのだから、兄弟仲良く生活
するように」と繰り返し説得する。
兄が3歳、弟は2歳で路上に投げ出され6年間、
路上生活をしていた二人である。一般常識の範囲で
お説教をしても中々理解してもらえないところがあるのも
致し方ないとも思った。二人の人生の中で作られた
それぞれの人間性は直ぐに消せるものでもない。
近々に新日本料理店が開店する。6人の子どもたち
が厨房、接客、警備などの仕事をする。6人で
協力して日本料理店を守り立てていかなければ
ならない。兄弟も一緒に仕事をするという経験を通して
新しい兄弟の絆を作って行って欲しい。
昼食。パン。牛乳。ヨーグルト。
1時間ほど昼寝。
読書「ダライ・ラマ」。中国軍の侵略が一層激しくなる。
居住地のラサも攻撃の対象となり、ついに「亡命」を決意。
チベットからインドへ壮絶な亡命逃避行をする。
関係者に当面の様々な問題についての事情説明の
メールを送る。
午後3時半。雨の中、徒歩でベトナム事務所。
3階刺繍みやげ物店。
既に引越しは終わり、刺繍作りが始まっていた。
テラスに増築した部屋の工事も進んでいる。
あと数日で完成の予定。回りは全てガラス。このガラス
と枠組みはベトナム事務所1階にあった「倉庫」を囲っていた
ものを再利用した。完成後は大きな棚を3つほど置き、
刺繍作品販売を行う。訪問者は1階横の通路を通り、階段で
3階まで上り、刺繍みやげ物店に隣接するこの部屋に展示してある
刺繍作品を買って頂くと言う寸法である。
2007年05月06日
新日本料理店工事続行
終日雨。
払暁の豪雨の音で目が覚める。
気温28度。湿度90%。(トンチンカンホテル廊下)
午前4時半、豪雨で目覚める。読書「ダライ・ラマ」。
1時間ほど読むと眠くなる。
落語のテープ(先代 3代目 三遊亭金馬)の
「居酒屋」。ほとんど睡眠薬代わりに聞いている。
100回以上は聞いた。聞き始めは、小学校5年。
竹針の手回し蓄音機で聞いて、笑い転げた思い出ある。
「居酒屋」(1952年)、「小言念仏」(1954年)、
「佃祭り」(1952年)。50年以上前の録音だが、
古さを感じさせない。何度聞いても飽きない噺。
ご飯と同じ。こういうものが本物。テレビなどで見る
「お笑い」の底の浅さに辟易している。言葉が乱暴で汚い。
先代金馬の噺は、しっかりとした敬語を使い、
上品な言葉遣いでありながら、庶民の心をくすぐる。
下品なことばで相手をなじって、笑いを取るのは
下の下。
午前8時起床。
1時間ほど、読書。「ダライ・ラマ」。
支援者に当面の諸問題についてのメールを送る。
午前10時。ベトナム事務所へ。日曜日でも新日本料理店
の工事をしていた。ソン君が終日、現場監督をしてくれている。
ソン君はすっかりベトナム事務所の戦力となった。
本人の努力と人間性だろうか? 常に謙虚な姿勢で
日本語を勉強し、体を使うことを厭わない。
新日本料理店厨房の「排気ダクト」の取り付けを行っていた。
厨房の排気ダクトは、大塚さんが長さを計り作った「特製ダクト」。
中央に大型の換気扇をつけた。旧日本料理店では高級な
排煙ダクトをつけたのだが、ほとんど機能せず、日本料理店内や
2階、3階にまで煙と匂いが充満した。食べ物屋に取って
匂いは最大の敵。タバコを平気ですわせる食べ物屋のオーナーは
自分の店の食べ物がまずくなっても気にならないのか、最初から
食べ物に自信がないかだ。
これで厨房のガス台から出る天麩羅の煙、焼き魚・・・・・などの
煙と匂いを完全にシャトアウト出来る。
1階にあった刺繍みやげ物店を3階に移動した。3階の部屋が
狭いので、テラスに3.3M×4・5Mの部屋を1室増築することに
した。刺繍製品を展示する部屋とする予定。「子どもの家」訪問者
の皆さんに見てもらい、刺繍製品を買ってもらうお店とした。
新日本料理店工事は、6人の職人さんが日曜返上で
頑張ってくれている。ソン現場監督も奮闘中。
午前11時50分。ベトナム事務所からの帰り、コムディア(70円)
を買う。
トンチンカンホテルに戻り、入浴。フダ缶ビール1本、333缶ビール1本
を飲みながら、コムディア・ブランチ。
午後1時から2時まで昼寝。
午後3時、読書。「ダライラマ」。中国に侵略されたチベット。
精神的・政治的指導者ダライラマは、中国の招請で北京へ。
毛沢東・周恩来・朱徳・劉少奇などと懇談。
中国共産主義の本質を見抜いていた。徹底した官僚主義。
全ての会議は「建前主義」の発言だけ。本音は誰も言わない。
非共産党員は共産党が喜ぶようなゴマすり発言しかしない
などと書いている。
午後3時過ぎから、某医療賞の申請書を書き上げる。
午後4時半、新日本料理店の工事を再度見に行く。
ソン現場監督がしっかりと状況をチェックしてくれていた。
排煙ダクトが完成。
特注の「流し」の基礎が完成
3階の刺繍土産物室も隣りの境のガラスの壁が完成。
「NHKスペシャルー介護の人材が逃げてゆく」を見る。介護保険の実態。
養護老人ホーム。介護士の月収は20万円以下。
毎年20%から30%の介護士が生活が出来なく退職している。
小泉内閣の「骨太計画」による医療費削減の結果である。
「美しい日本」の現実は、長生きしたら不幸ということになって
いる。医療や教育を経営原理、効率・利益原理で処理しようと
する考え自体が間違っている。本当に人間を大事にする
社会制度が必要である。弱肉強食の原理は、教育や医療には
馴染まない。現在の医療保険制度を見ていると「長生きはしたくない」
とつくづく思ってしまう。
5月13日は「母の日」。仲良し母娘がキーワードとのこと。
54歳の母と20歳代の娘。2万円の記念写真。6万円の
エステ、2万円の弁当をプレゼントするそうだ。
馬鹿母親に馬鹿娘。セレブも良いけれど、月収20万円以下で
老人介護に専心している介護士の実態を知るべきである。
午前0時~午前1時(日本時間午前3時)までフランス大統領
選挙の番組を見た。
NHK,フランス、CNN(米)、台湾の国際放送がフランス
大統領選挙をどう報道するか、興味があった。
フランス海外放送は、さすがに投票締め切り数時間前から
特別番組を編成。様々な討論をしていたが、意味は分からなかった。
CNNも1時間前から特集番組を組み現地に特派員を派遣し
現地からのレポートを流していた。台湾のテレビも報道していた。
我がNHKは、1時間前には、「能」の紹介番組。午前1時に
サルコジ53%、ロワイヤル47%と仏、米、台湾が速報を流すが
NHKは、「宮崎はやおの映画作り」の特集番組。1時5分前の
NHKニュースでは、フランス大統領選挙自体の報道も一切ない。
午前1時。インターネットで朝日、読売の報道を見る。
朝日はトップニュースで「サルコジ氏当選」を報じるが
読売は一切報道でず。
それぞれの国の姿勢が良く分かるというものである。
NHKは極度に「内向き」な姿勢が良く分かる。
NHKの認識では、遠い海外の出来事なのだろうか?
台湾が現地からのライブで放送をしていたのが印象的。
CNNは午前1時10分頃のロワイヤル候補の敗北宣言
を英語通訳を入れて報道。
更に午前0時30分、新大統領のサルコジ氏の勝利宣言
も英語通訳で報道していた。
こうした各国の報道姿勢を見ているとその国の世界に
向けたスタンスが良く分かる。
しかし、投票締め切りが午前1時(越時間)で5分後には
ロワイヤル候補が敗北宣言をしている。開票が始まる
時に敗北宣言をする根拠は何なのだろう。
マスコミの出口調査のような推定の結果を受け入れて
ということなのでろうか?
ロワイヤル候補の敗北宣言は
「支持者の皆さんにお礼を言いたい」と言った至極簡単な
もの。サルコジ氏の勝利宣言では、今後の政策の骨子を
掻い摘んで述べていた。勝者と敗者の違い。
ロワイヤル氏はその後の支持者前の演説で「平等」
「人種差別反対」のために今後も闘うと言っていた。
新自由主義と不法外国人の取り締まり強化を主張した
サルコジ新大統領の姿勢に釘を刺していた。
ということで5月7日になってしまった。寝不足になるか?
2007年05月05日
久々のベトナム事務所で通常業務
曇り・雨
非常に蒸し暑い。体がだるい。湿度80%。
午前8時。徒歩、ベトナム事務所へ。
3月の300人のスタディーツアー訪問者受け入れ。
3月末から4月初めのかけてバオミンさん、小山の
副知事訪日案内、4月20日の日本料理店閉店、その後の
ベトナム事務所1階の新日本料理店建築と目の回るような
忙しさである。そんな中でもベトナム事務所は、
「子どもの家」や子どもたちへの支援活動、日本語学校
での教育を着実の行っている。
●「JASSベトナム」運営委員長のバオミンさんと
会計部長のハンさん
●日本語学校のサン先生とフーン先生
●ソン君、税田さん、石塚さん
午前8時半。今後の日本料理店運営の件で大塚さん、
バオミンさん、税田さんと打ち合わせ。
4月28日の日本料理店工事開始から今日までの
8日間。大塚さんは毎朝7時前にベトナム事務所の鍵を開け
工事関係者を迎え入れ、午後6時頃に工事終了まで
監督し、最後の鍵をかけてくれていた。
かなり体にも影響を与えている。今日と明日(日)は、
日本料理店建築工事監督を休むようお願いする。
日本料理店建築成功は、大塚さんのお陰であると言っても
過言ではない。
午前9時半。1ヶ月間のボランティア体験中の東京の
M君が話をしたいとのこと。午前11時までボランティアの
こと、子どもたちのこと、将来のことなどを話す。
午前11時過ぎ、トンチンカンホテルへ。
大塚さんが「ミネストローネ」という野菜スープを作ってくれる。
フランスパンとバインロック(餅菓子)で昼食を摂る。
大塚さん、税田さん、石塚さんと。
午後1時間昼寝。
午後2時。読書「ダライ・ラマ」(ダライ・ラマ著:山際素男訳)
5歳でチベットの精神的指導者に認定された第14代ダライ・
ラマ。
15歳の時、中国の侵略を受ける。当時、チベットは鎖国状態。
「帝国主義の侵略からチベットを守る」というのが、中国の
理屈。チベットは一度も中国の領土になったことはない。
中国がチベットを侵略する大義名分はない。
「帝国主義の侵略と闘う」という言葉を「テロとの闘い」に
置き換えると、大国の侵略の理屈付けは何でもよいことが
分かる。
そういえば、我が大日本帝国も「ヨーロッパの侵略から
アジアを守る」と言って、満州傀儡国家を作り、アジア侵略を
行ったのだ。最近アジア侵略を正当化する意見があるのは、
悲しいことであるが・・・・。
午後7時、ベトナムTVを見る。日本から歌手の横井久美子さんが
来て、歌を歌っている。40数年前にベトナムに来てベトナム戦争
反対、平和の歌を歌った自らの若かった写真を見せながら。
1960年代、横井久美子さんが歌うところを何度か見たことがある。
あれから40数年。歌手の横井久美子さんは、ベトナムに来て
何を見、何を思っているのだろうか?
ベトナム戦争が終わり、庶民は幸せになった、と思っているのだろうか?
40数年前にアメリカのベトナム戦争に反対したのは何故なのだろうか?
それは名もない庶民が「ベトコンの容疑で殺され」「名もない農民が
虐殺され」と「理不尽な世の中」への怒りだったのではないだろうか?
庶民が虫けらのように殺されているベトナムの実態への怒り。
横井久美子さんは、40数年後の庶民が何を考え、何に苦しんで
いるのかを見ているのだろうか? 40数年前の反戦歌を歌った
写真を見せているテレビの横井久美子さんを見て、「過去の
ベトナム戦争反対」のまま歴史が止まっているように思えた。
今のベトナム庶民の苦しみが何かに興味はないのだろうか?
それとも社会主義になれば、全ては解決し、みんな幸せに
なっているとでも思っているのだろうか?
2007年05月04日
佐藤さん帰国の途へ
4月10日から5月2日までの間にベトナム事務所、
小山個人、ベトナム事務所員個人にお送り頂いた
メールは、ダナンのプロバイダーに「全て削除」されてしまった。
そんな事情があり、上記期間にメールを送信された方には
大変申し訳ないが、「メールを全く読めていない」。
メール送信後、返信がないのはそんな事情であるが、改めて
お詫び申し上げたい。
平均1日20通~30通のメールがあるので、22日間で、
440通~550通のメールを読むことが出来ず、返信も
出来なかった。
万一、上記期間にメールを送られて返信がなかった方は
誠に申し訳ないが、再度送信して頂ければありがたい。
=========================
晴れ・曇り・夕方雨
気温の変化が大きい。多少体調を崩す。
午前7時。JASS栃木の会(ベトナムの子どもたちと共に生きる会)
の佐藤さんの帰国見送り。
バオミンさんと一緒にフエ空港ま見送り。快晴。気温32度。暑い。
4月30日(月)~5月4日(金)までの5日間のフエ滞在だった。
「子どもの家」などJASSの各施設を参観され、子どもたちと
楽しく交流。日本料理店閉店の「喧騒」の中の訪問。
日本料理店移転の荷物整理なども手伝ってくれた。
栃木県で喫茶店・レストラン・文化センターを経営しているが
同時に「ベトナムの子どもたちと共に行きいる会」の事務局長
をされている。2月4日のJASS総会にも参加され、
「全国各地にJASSの会を作ろう」との方針を受けていただき、
この度、栃木に「JASS栃木の会」を設立された。
ベトナムの子どもたちへの思いは同じである。
出来るところで協力してベトナムのストリートチルドレン、
生活困難な子どもたち、障害児などの支援を行って行きたい。
佐藤さんの5日間の訪問に心から感謝したい。
午前8時過ぎフエ空港から帰る。途中、バオミンさんと
「ブンボー」を食べて朝食とする。
ベトナム事務所でバオミンさん・税田さんと当面のいくつか
の問題について協議。
ベトナム事務所1階の新日本料理店は着々と工事が進んで
いた。
●フダ「生ビール」のサーバーをつけるカウンターの
基礎工事が完了。
●同時に厨房の工事を進んでいる。
流し台を作る工事。
●個室の壁と床作り
日本料理店建築工事は大塚さんが総合監督を勤め、
旧日本料理店の食器などの荷物整理は仁枝さんが指揮監督。
午後12時過ぎ昼食。パン2つ。ヨーグルト、牛乳。
しばらくすると「お腹が痛くなる」。やはり牛乳を飲むと
痛くなるいつものやつか・・・・。
昼寝。何だか疲れる。1時間程寝る。
気温が急激に変化する。体が付いていけない。
倦怠・頭痛。
午後3時、雨が降ってきた。寒くなる。
徒歩でベトナム事務所へ。
「アクセサリー研修センター」の件、打ち合わせ。
続いて「縫製研修センター」の打ち合わせ。今後の展望などを
話す。
トンチンカンホテル1階の旧日本料理店では、仁枝さんが
総指揮を採り食器などの荷物整理。
かなり大量の荷物がある。
ソン君も手伝い、リー君、グエットさん、ホンニーさん、
フエンさんが荷物の梱包をする。
2007年05月03日
入所希望者の家庭訪問
昨日の火炎樹日記で「デジカメ写真の縮小」方法を
教えて頂きたいとの内容を記した。
3人の方から縮小法をお教え頂く。素早い返信に
心から感謝。「チビすな」を活用し、何とか2000ミリ
になってしまたデジカメ写真を650ミリ程度に
縮小することに成功。3人の方々に本当にお礼を
申し上げたい。
早速、昨日(5月2日)の火炎樹日記の最後の
佐藤さんと里子リエムさんとの交流夕食会の
様子を写した写真をアップすることが出来た。
==================
晴天
気温33度。湿度70%。
午前7時、朝食。ブンボー。
午前8時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。
今日は「子どもの家」入所希望の2家庭を訪問し、実情調査を
する。ロック寮長、バオミンさん、税田さん、JASS栃木の会
(じゃむじゃむ)の佐藤さんと訪問する。
ベトナム事務所から車で1時間。
フエ郊外のフーロック郡(その先はダナン)のロックアン村へ。
フエ市を少し出るとそこはベトナムを象徴するような純農村地帯。
緑と赤土の道路。田んぼには稲が実っていた。もう少しで
刈り入れとなる。
車に揺られて1時間。LANHさんの家へ到着。
家の庭には「木の皮」が干してあった。聞いてみると
「たきぎ」にするとのこと。
ランさんのご家族と懇談。
●祖母と父
以下、家庭状況。
・祖母(72歳) 家で暮らしている。仕事は出来ない。
・父親(50歳) 腎臓病で直ぐに疲れる。農業(家族が食べる程度)
・母(48歳) 心臓弁膜症。若い頃は手術をすれば治ると言われたが
お金がなく手術できなかった。現在は年齢的なことも
あり、手術はできなくなった。家で休んでいる。
・長女(19歳)ホーチミン市でミシン工だったが、最近帰ってきた。
現在は無職。
・次女(18歳) ホーチミン市でミシン工をしている。
・3女(15歳) 小学校5年生で学業を中断。家の農業手伝い
・4女(13歳) 小学校5年で学業をやめる。現在は家にいる。
・長男(10歳) 小学校4年。通学。
・5女(7歳) 幼稚園
15歳の3女と13歳の4女が小学校で学業をやめたのは、
学校へ行かせるお金がないからとのこと。
8人家族で父親の農業だけで生活している。父親が作る野菜や
米で何とか「飢えを凌いでいる」というのが実情のようだ。
祖母、父親、母親と話したが、農村の純朴な家族と言った
感じである。現金収入はほとんどない。
家の中を見たが、確かに貧しい。
●家族の本棚
私たちとの話し合いを子どもたちが緊張してみていた。
入所希望の4女(13歳)と長男(4年生)と話す。
家族と離れて「子どもの家」に入って、心細くない?
と聞いてみる。既に両親に言い含められていたのだろうか?
「心配しない。心細くない。学校で勉強したい」との
答えだった。13歳の4女は本来なら中学2年生のはず。
家が貧しく小学校5年で学校を止めてしまったが、
やはり学校へ行って勉強したいのだ。家族と離れて
寂しくないはずはない。しかし、それ以上に勉強を
したいとの強い気持ちがあるのだ。
しばらく、祖母・両親・入所の子どもたちと話す。
ロック寮長が「子どもの家」入所手続き等を話す。
客観的に見て入所妥当と考え、その場でバオミンさん
ロックさんなどと協議し、入所を決定。
祖母・両親も喜んでいた。全員で記念撮影
話し合い中は緊張していたランさん兄弟だが、私がか帰る時
には緊張もほぐれて、笑い顔が出ていた。
「子どもの家」で幸せになって欲しい。
次にフエ市内近くのTHUYTHANH村に行く。
車で1時間ほど。
タン君の家へ到着。
父親が42歳で急死。フエ百科大建築科を卒業して
エリートだった。1年半前までは、普通の家庭として
生活をしてきたが、父親の急死で生活が激変。
収入がなくなる。
現在、40歳の母親がレンガ工場でレンガ作りを
している。月給80万ドン(6000円程度)。
76歳の祖母(父親の母)と16歳(中3)の長男、
14歳(中1)の次男、5歳の3男。
3人の子どもと義理の祖母の生活を母親の
レンガ工場勤めが支えているが、生活が難しい。
学校へ通えないとのこと。次男の通っている
中学校の先生が、フエ市内に日本人がやっている
「子どもの家」がある。そこに行けば、子どもは学校へ
行けるとの助言を受け、「子どもの家」へ入所の
申請をしたとのこと。
14歳の次男の入所を希望。次男は、過去6年間
成績最優秀。昨年度の数学の年間成績は、10点満点
で9、4点。何とかして高校から大学に行きたい。
将来は先生になりたいとの希望を持っている。
家庭状況も分かったので、入所の可否は後日連絡する
と話して帰る。
確かに6000円程度で3人の子どもの通学と家族5人
の生活は不可能である。何とか、「子どもの家」に入所
出来るように検討したい。
車で30分ほどでフエ市内へ。みんなでチャーハンや
ワンタンメンなどを食べる。
午後1時、昼寝。疲れからか2時間程寝てしまう。
午後3時、旧日本料理店へ。大塚さん、仁枝さん、
子どもたちで食器の引越しの準備を全て終える。
午後6時から「JASS栃木の会」(じゃむじゃむ)の佐藤さん
のお別れ夕食会を行うが、イン君が夕食会の準備。
夕食会前にリー君とイン君と写真を写す。
午後6時から佐藤さんとのお別れ夕食会。
●お刺身盛り合わせ
●手巻き寿司
午後11時近く交流会は終了。
2007年05月02日
日本料理店再開を子どもたちに話す
メール問題が解決。今日からベトナム事務所・小山個人
メールが使えるようになった。今回22日間、メールが
一切使えなかった。前半は、プロバイダーの容量アップ
の工事との説明だった。後半の2週間ほどは、
ダナンのプロバイダーが、ベトナム事務所メールの
「パスワード」を勝手に変更してしまったことが原因である。
人のメールのパスワードを本人に相談も確認もなく
勝手に変更すること自体異常なことである。同時に
勝手にパスワードを変更しておきながら、顧客である
私たちに何も連絡をしてこなかったのである。
今日、偶然違う問題でバオミンさんが、ダナンの
プロバイダーに電話をした。その際、ついでに
ベトナム事務所のメールが使えないことを話した。
するとダナンのプロバイダーが「ああ、それは、パスワードが
変更されたからですよ」との返事だった。
経済発展だとか「WTO加入」などと威勢の良い話が
多いベトナムであるが、商行為の基礎である「顧客の利便」
つまり「サービス」と仕事への責任という一番大事なことを
全く理解していないプロバイダー(商業省経営)である。
メールが使えなかった1ヶ月分のメールの費用の返済も
なく、通信という重要な仕事をしているとの社会的な責任
も感じていない連中である。「お金儲けだけ」に興味が
ある一時成金国家の無責任連中に3週間振り回された。
この国では、こんな不当なことが起こっても何も文句を
言えない実情がある。特権階級の共産党の幹部が
役職についているプロバイダーの腐った実態である。
怒りが収まらない。
===================
デジカメの写真を縮小する方法を教えて
もらえるだろうか? 今日、間違って大きく写してしまった
写真は、日記の容量が大きくて日記で縮小できなかった。
デジカメ縮小ソフトは持っていない。無料でダウンロード
きるようなシステムはないのだろうか?
ご存知の方は、デジカメを縮小したり色を変えたり
コントラストを変更したり出来る無料ダウンロードを送って
頂けるとありがたいのだが・・・・・・。
===================
曇り、時々晴れ、のち雨。
終日気温が27度程度。寒い。
午前7時、朝食。フォー。
午前8時過ぎ、ベトナム事務所へ。
京都教育大の学生来訪。1ヶ月ほどボランティア体験を
したいとのこと。しばらく懇談。
1年間休学して世界の孤児院を回る
そうだ。「世界を回る」だけでなく「テーマを決めて」
世界を回る学生が増えたようだ。
上尾の星野さんから新日本料理店建築費の足しにと
寄金を頂いた。星野さんの代わりに私が
バオミン運営委員長、ハン会計部長に手渡す。
財政のことまで気を遣って頂き、星野さんには
心から感謝したい。
栃木県の「じゃむじゃむ」佐藤さんからベトナム事務所へ
デジカメの寄贈があった。火炎樹日記に呼びかけた
デジカメ寄贈に応えて頂いた。感謝。ソン君が管理の
責任者に。
3日間の連休が明けた。午前8時半過ぎ、「子どもの家」の
子どもたちとリー君が英語を勉強に来た。日本料理店再開の
ことは何も知らない。
英語の授業の前に私や大塚さん、バオミンさん、税田さん
仁枝さんなどが子どもたちに日本料理店再開のことを話す。
私の方で先日、子どもたちからもらった「日本料理店再開
要望書」の返事をすると切り出す。
新日本料理店をベトナム事務所1階に再開すること、
オーナーはJASSベトナムであること、子どもたちの皆さんが
中心になって営業を進めること、そのための自覚を持って
欲しいことなどを話す。
私が新日本料理店の再開を説明するとリー君が
「みんな拍手をしょう」と呼びかけ拍手となる。
子どもたちが、これから頑張って日本料理店で仕事をするとの
決意を語る。
ベトナム事務所に京滋YOUの会の植野さんと友人の方が
訪問。3月4日に京都で行われた「ベトナムディー」での
取り組み関連の資料と支援物資を持ってきてくれる。
午前10時、佐藤さん、ミンさんと一緒に「ファンダンルー高校」へ。
佐藤さんが高校の先生だったということもあり、ベトナムの高校を
視察。ファンダンルー高校には、大阪の志村さんより50人の
生徒に奨学金が支給されている。
副校長室で副校長先生と学校の概要を聞く。
懇談後、高校2年生の英語の時間を視察。佐藤さんが高校の
英語の先生だたこともあり、英語の授業に参入。
佐藤さんは英語で生徒と交流。日本の歌「上を向いて歩こう」
を歌う。2人の生徒がベトナムの歌を紹介。
英語で日本のこと、佐藤さんの家族のことなどを質問。
30分ほど交流が続く。
午前11時、交流を終了し、高校に別れを告げる。
昼食は「待つ店」と地元で言っている「チャオバンカン」
(キャッサバと米の麺)を食べに。1杯5000ドン(37円)。
3人で6杯。フエでの「究極」の美味しい料理。
トンチンカンホテルへ戻り昼寝。30分。
午後1時半から読書「ダライ・ラマ自伝」。
14代ダライ・ラマに指定され、その後の勉強。
宮殿の生活。
午後3時、「ベトナムの子どもたちと共に生きる会」
事務局長(じゃむじゃむ)の佐藤さんと日本語学校を
視察、交流。石塚先生が教えている「観光基礎コース」
の授業。
トンチンカンホテルの旧日本料理店で子どもたち、大塚さん、
仁枝さんたちが、食器の荷造りをしていた。新日本料理店へ
移動するため。
午後4時半、佐藤さんも参加し、食器類搬出の準備は続く。
夕方、ベトナム事務所1階の日本料理店工事の進捗状況を
見に行く。税田さんが現場を監督していた。
厨房入り口のレンガ作りはほぼ終了。
新日本料理店個室の壁塗りも完成
午後6時。佐藤さんの里子「リエムさん」(19歳)と夕食懇談会。
佐藤さん、バオミンさん、リー君、リエムさん。
リエムさん(19歳・高校2年生)は彼女の出産時に母親が
死亡。その後父親も死亡。兄と二人きりにとなる。
祖父母の家に兄と同居していた。その後、祖父母の死亡。
叔父さんの家に転居。2000年。私たちの里子となった。
里親は佐藤さん。現在。24歳の兄(独身)とリエムさん
が協力して叔父さんの家に間借りし生活している。
リエムさんは来年高校を卒業したら、幼稚園の先生に
なる学校に入りたいとの希望を持っている。
佐藤さんは、「リエムさんが幼稚園の先生になる学校
に入ったら、卒業まで応援する」と話していた。
佐藤さんからリエムさんにTシャツと扇のプレゼント
●リー君も懇談会に参加。リエムさんと佐藤さんとの
話し合いにも加わり、食事を楽しんでいた。
私たちの取り組みは小さなものだが、こうして両親がなくなり
生活と通学が難しくなった少女を、日本人の支援者の
力を借りて、19歳まで育てることが出来たことは、
嬉しくもあり有難がたいことでもある。私たちは
全ての困難や貧困をなくす力はないが、自分たちの出来る
所で一人でも二人でも応援して、自力で成長していく
お世話が出来れば、ありがたいと思っている。
世界中の人間が「お互い様」の気持ちで助けあって
いければと願っている。
2007年05月01日
「じゃむじゃむ」佐藤さんと「子どもの家」へ
午前中、小雨のち曇り。
午後も雨。終日雨となった。
気温25度。寒い。
今日は5月1日。メーデー。「労働者の国」ベトナムは祝日で休み。
午前7時、朝食。ブンボー。
税田さんは食事を急ぎ、7時半にベトナム事務所の日本料理店
建築現場へ。
8時20分、佐藤さん、バオミンさんがトンチンカンホテル。
一緒に「子どもの家」へ。子どもたちと近くの「タイロック市場」へ
昼食の買い物。
●タイロック市場には、食用カエルも売られていた
午前10時。市場から戻り、買って来た食材で
昼食作り。佐藤さんも一緒に。
午前11時。子どもたちと一緒に昼食。
豚肉の煮物。インゲンの炒めもの、野菜スープ。ご飯。
正午前、「子どもの家」を発ってバオミン・ホテルへ。
私はトンチンカンホテル。
昼寝をしないで読書「ダライ・ラマ自伝」
(ダライラマ著:山際素男訳:文春文庫)を読み始める。
チベット仏教とは? チベットと中国の関係は?
ダライ・ラマとはどんな存在の人なのか?
などに興味があり、読み始める。
文章とは不思議なものである。昨日まで鴎外を読んでいた。
100年近く前の文章だが、少しも違和感なく読めた。
正確には言葉が的確に使われていたというのが
一番の印象。全体的な文章のトーンと使われる言葉が
的確で無駄なく言いたいことを言い表していた。
「ダライラマ自伝」は、ダライラマが英文で書いたものを
翻訳したものであるが、それでも訳者の日本語感覚という
ものが問われるところがある。全体の文書の中に使う
単語に何度も違和感を感じた。例えて言えば、
結婚式のお祝いの言葉のなかに「べらんめえ」な単語
が入ったようなものである。お祝いの言葉はそれなりの格調と
敬語・丁寧語などのランクがある。突然、一つの単語を
使うことで全体の文章に違和感を与えることがる。
ダライラマのダライはモンゴル語で「大海原」、
ラマはチベット語の「教師」だそうだ。
チベットにインドから仏教が伝わったのは4世紀。その後
数世紀をかけて全土に普及。元々チベットは
北インド、ネパール、ブータンを含む広大な領土を持っていた。
763年には、中国の首都を攻略。
清朝時代(1636年から912年:満州族)には、歴代の
皇帝は仏教徒でありダライ・ラマを「仏教を説く王」として
尊敬していたという。現在インドに亡命しているダライ・ラマ
は第14代目。
インターネットの朝日と読売を読んだ。多少違和感のある
見出しがあった。
長崎市の新市長に対して、電話で「3日間で市長になるのは
おかしい。市長をやめろ」などというような趣旨の電話があった
そうだ。1日に数件の電話だそうだ。
朝日と読売の見出しは以下のよう。
「市長はやめろ」長崎市役所に電話、県警が身辺警護始める(読売)
田上市長の身辺警戒 辞職要求の電話相次ぐ(朝日)
朝日の「相次ぐ」という言葉にひかっかった。1日数件程度の
抗議電話。
私の語感からすると「相次ぐ」と言えば、かなりの抗議電話
が連日かかってきた時に使うように思われる。
朝日の記述だと、何か田上新市長に問題があるので
抗議電話が相次いだと想像できるような見出しである。
公職選挙法に則って立候補し当選した新市長に何の
問題もない。新聞は、こうした意味のない抗議電話に
対しては、「意味のない抗議」として毅然と対処すべきである。
その点では、読売新聞の客観的事実を書いた報道は、
冷静で妥当な報道と思われる。
たった一言「相次ぐ」という言葉を使うか使わないかで
文章を書いた記者、デスクなど新聞社の姿勢が分かると
いうものである。
午後3時。再び佐藤さん、バオミンさんと「縫製研修センター」、
オートバイ研修センター、日本語学校を視察。その後、
「子どもの家」へ。子どもたちと交流。
「じゃむじゃむ」より「子どもの家」へ支援物資贈呈。
子どもたちと遊ぶ。元高校の先生だけあって子どもたちとの
付き合い方が上手。
午後5時まで「子どもの家」で子どもたちと交流。
午後6時。フエ市内大衆食堂「コードー」(古都)で夕食。
アヒルの玉子焼き、モヤシ炒め、豚肉の海老塩辛付け、
魚の甘辛煮、野菜スープ。ビール7本。一人600円。
私はここの食事が一番美味しく。好きだ。14年前から
来ているが味は全く変わっていない。どこの国でも
庶民が食べる料理が一番美味しい。
団体バスツアーで「宮廷料理」(一人2000円から3000円)
を食べている日本人も多いが、私の経験からすると
一番不味くて高い料理が高級ホテルの「宮廷料理」だ。
午後8時半頃夕食終了。
今日は1日、新日本料理店建築現場にが行かなかった。
進行状況はどうだったのだろう。
刺傷事件のリー君。夕食に誘おうと思ったのだが、
午後は新日本料理店建築現場に姿を現さなかった
ようだ。「気まま癖」今だ健在。