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2007年04月30日

ベトナム南部「解放」32年記念日

終日雨。朝から豪雨。気温が急降下。寒い。

午前7時、朝食。フォー。

午前8時半。ベトナム事務所へ。徒歩。

朝から異常な豪雨。台風のように風も強い。
いつも通る道は、30センチほどの浸水。
歩いてベトナム事務所へ行くことが出来ない。
回り道をしてベトナム事務所へ。

●ひざ近くまで水が出る。道路は完全に冠水


ベトナム事務所1階新日本料理店工事第4日目

ベトナム事務所1階の新日本料理店建築工事は順調に進行。

今日はベトナム「解放」記念日。祝日である。
しかし、民間建築会社は突貫工事で何とか5月10日~15日まで
の間に完成させたいと、今日は10人の職人さんを集めて
工事を進めていた。


朝7時前から工事が始まり、大塚さんが鍵を開ける。
税田さん、リー君、バオミンさんも工事現場の視察や
工事内容のチェック。

午前11時半までベトナム事務所の工事チェック。

昼食は精進料理の「ほか弁」(37円)。
昼寝。1時間。

読書「鴎外:山椒大夫」読了。
子どもの頃、小学校の図書館で読んだ「安寿と厨子王」
と同じ内容だった。内容よりは、鴎外の心理描写が
100年前とは思えないほど現代的だった。

「鴎外:二人の友」読了
この短文は、文京区小石川
から巣鴨など私の生活圏を描いている。90年ほど前の
小石川の様子。

「鴎外:最後の一句」読了。
「鴎外:高瀬舟」読了。
京都で島流しになる囚人は「高瀬舟」に乗り大阪に
渡り、島流しとなる。
ある同心が島流しの囚人を高瀬舟で京都から大阪
まで運ぶ任務につく。囚人になぜ弟を殺したか?と聞く。
兄弟は貧しく真面目に生きて仕事をして生活できない。
弟が剃刀で喉を刺して自殺したが、死に切れない。
「お兄さん、喉に刺した剃刀を抜いて欲しい」と言う。
これは、私は苦しいので剃刀を抜いて殺して欲しい
ということを意味する。兄は考えたが、剃刀を抜く。
丁度その瞬間を近所のおばあさんに見られ、
「人殺し」で捕縛され島流しになるという話。
鴎外はこの中で「安楽死」という医学の言葉を使い、
苦しんで「死なせて欲しい」という人がいても
苦しませたまま「最後まで殺さない」のが医療と言われるが
果たしてそれが本当の医療なのか?と問題を提起している。
鴎外は既に100年ほど前の日本で「ターミナル医療」に
ついての問題提起をしていたのだ。

午後4時。ベトナム事務所へ。
日本料理店建築の進捗状況視察。

午前中までは「箱庭の池」が午後には、工事で出たレンガや
セメントの廃材で埋められていた。非常に合理的なリサイクル
社会である。



カウンター付近に水道管が敷設された。仕事が速い。


厨房の「流し」も既に設置の準備が出来ていた。

午後5時、雨の中、「子どもの家」へ。

今朝の豪雨と暴風で庭の木の一部が折れていた。

7月に高校を受験する子どもたちは、特別支援教室プロジェクト
で雇った大学生の特訓を受けていた。

寒い夕方である。しかし、男子は相変わらず元気に
生活していた。男子の間で「茶髪」が流行っている。

今日の夕食は、ザウムオン(空芯菜)、アヒルの玉子焼き、
野菜スープとご飯。夕食だけでご飯は10キロ炊く。
1日最低20キロのご飯が必要。

ビショビショに濡れてトンチンカンホテルに帰る。

午後7時半、バオミンさん、リー君と一緒に「じゃむじゃむ」
の佐藤さんを出迎えにフエ空港へ。

刺傷事件があったリー君。その後の動向が不安なので
一緒に出迎えに行くようにした。
毎日3食しっかり食べて、抗生物質・痛み止めを飲むように
言っている。傷の痛みは少しずつ減っているとのこと。

午後8時ホーチミン市からフエに着く予定だったが、10分早まる
とベトナム航空からの知らせ。しかし実際には午後8時10分着。
栃木県にあるベトナム支援ボランティア団体「じゃむじゃむ」の
佐藤さんが無事フエ空港に到着。記念写真を撮る。

バオミンホテルに行く途中、空港から夕食レストランの
「フォーサイゴン」へ。

軽く地ビールを飲み、フォーティェウやチャーハンを
食べる。

午後10時、フォーサイゴンを出て、バオミンホテルへ。
佐藤さん、お疲れ様。今夜はリー君と佐藤さんは
見事に英語で意思疎通。リー君の実践的英語も
結構行けるのだと改めて分かった。

朝から豪雨の「南部解放」32年だった。

投稿者 koyama : 20:04 | コメント (0)

2007年04月29日

新日本料理店工事3日目:刺繍みやげ物店THUYさん結婚式

午前中晴天 夕方雨

昨夜は一晩中気温30度以上。寝苦しかった。何度も目が覚める。

午前5時半目が覚めるが、しばらく横になっている。
午前6時半、炊飯器にベトナム米5勺を研ぎ入れる。
20分後にスイッチ。
午前7時、NHK日曜討論。

午前7時半、5勺のご飯と昨夜、大塚さん・仁枝さんが作ってくれた
夕食の残りをおかずに朝食。ヨーグルト1つ、牛乳3口。

午前8時半過ぎ、ベトナム事務所へ。午前7時半から新日本料理店
の工事は始まっていた。大塚さん、仁枝さんたちが来ていた。
リー君も「刺傷事件」の傷を背負って仕事を手伝っていた。
旧日本料理店においてある大量の食器類を新日本料理店に
移動するため、クッション代わりにするダンボールを30センチ角に
切る作業。


新日本料理店の工事は、着々と進んでいる。


●工事でほこりだらけの1階日本料理店工事現場

厨房の「排煙装置」を大塚さんと相談する。業者の提案してきた
排煙装置は、一般家庭用の高級な装置。400ドル以上。
業者に色々と意見を言うと、ショールームがあるから見に行こう
という。業者、大塚さん、私で排煙装置のショールームへ良く。
オートバイで15分。
やはり一般家庭用の高級排煙装置。これでは、日本料理店の
厨房で天麩羅や油物の料理の時には、煙を処理できない。
大塚さんと相談し、見てくれは悪くて良いからブリキなどを
使った手作りの排煙装置を作ることにした。
旧日本料理店でかなりのお金をかけて買った排煙装置が
全く機能しなかった。厨房だけでなく、トンチンカンホテルの
2階、3階は煙と料理の匂いがすごかった。新日本料理店
は、その反省を踏まえて全ての煙を排出する装置を作ることに
した。

午前11時。トンチンカンホテル前でバオミンさん、税田さん、
石塚さんと合流。ベトナム事務所「刺繍みやげ物店」で
仕事をしているTHUYさんの結婚式に参加。

市内のはずれにある電力会社の倉庫が会場。至って地味な
庶民的な結婚式だった。好感がもてた。
新郎は新婦THUYさんの1歳年下の同級生(中学か?)

午前11時半過ぎ、結婚式開始。新郎新婦入場。

●ワインで乾杯


●結婚式全景(庶民的な簡素な式。)


●新郎新婦が各テーブルを回る。新郎・新婦。新郎の父と
 新婦の兄。


新婦のTHUYさんは12人兄弟の一番下。最年長の兄は
63歳。既に両親は亡くなっている。

●刺繍みやげ物店、ベトナム事務所関係者とTHUYさん


●ベトナムの結婚式には大勢の親戚の子どもたちが
 参加し、会場を走り回ったり、飽きてしまい会場の外で
 遊んでいる。

2時間強で結婚式はお開き。THUYさんの幸福を祈る。
私はクーラーボックスで持って行った缶ビール3本を飲む。
食事は喉が通らなかった。

午後1時半過ぎ、トンチンカンホテルへ。
昼寝。

午後3時。読書「鴎外:護持院原の敵討ち」
事情があり3人の男が敵討ちに行く。相手がどこにいるか
分からない。とにかく日本中を徒歩で歩きまわる。
鴎外はどこの町に何日と詳しく「旅行宿泊日記」のように
記録を書いている。かなり資料を漁ったものと思われる。
鴎外の性癖か? 医学者としての「データ主義か」
見事敵討ちを果たすと当時の役人に何度も何度も
調書を取られる。敵討ちをしたということで、主人筋やお偉いさん
から反物や加増などを得る。護持院原は一ツ橋から神保町の
あたりだと言う。5年間、私が仕事をした所である。

午後3時半頃、急に雨が降ってくる。かなり大雨。
しばらく雨が小降りになるのを待って、ベトナム事務所へ。
既に大塚さん、仁枝さんが来ている。
日本料理店の「個室」を業者が作っている。個室用の
壁はただレンガをセメントで付けただけ。


今日は朝からセンメントを使った。床にセメントがこびりついている。
業者が水でセンメントを流す。大塚さん、仁枝さん、エンジニアさんも
手伝う。

午後5時前に今日の工事を終わる。
今日は日曜日だったが、大塚さん、仁枝さん、税田さん、
バオミンさんなど関係者がそれぞれの時間を見て
ベトナム事務所に行っている。ありがたいことである。
今、ベトナム事務所員は一致協力して新日本料理店を
作ろうという気持ちに燃えている。

夜7時(日本時間午後9時)からのNHK「日本国憲法誕生」
特集番組。GHQ(アメリカ総司令部)と連合国極東委員会
、そして当時の国民が憲法にどのような姿勢で臨んだかを
資料と証言をもとに構成された番組。
安倍首相など一部の政治家は「アメリカの押し付け憲法」と
現憲法を批判しているが、この番組では、GHQが当時日本の
民間の「憲法研究会」が作った憲法草案を参考にしていることを
証言で明らかにしている。
当時の芦田首相がGHQ草案に反対したのは、象徴天皇、
主権在民、生存権(健康で文化的な生活をする権利)などで
あることも明確になった。
また連合軍極東委員会の天皇の刑事訴追(戦争犯罪人指定)
という動きの中で、天皇の廃止をさけるために急いで現憲法を
作ったことも検証されている。
この番組を見てアメリカの「押し付け」と攻撃する主な内容は
主権在民、戦争放棄、基本的人権の尊重である。
当時の芦田首相がこれらの内容を認めず、民間の憲法研究会
がこれらの内容を主張していたのである。後の文部大臣でも
ある森戸辰男、鈴木安蔵など・・・・。
NHKの番組は、改めて現憲法の成立過程を検証し、
単純にアメリカの「押し付け憲法」とはいえないことを
事実に基づき検証している。内容のある番組であったが、
豪雨を伴い気象異変で途中で番組が見えなくなったことが
残念である。

午後7時40分時頃から豪雨。

投稿者 koyama : 18:54 | コメント (0)

2007年04月28日

日本料理店建設工事開始


昨日、新日本料理店を作ることを決め、建築会社と打ち合わせを
したが、今日は、朝7時半から工事が始まった。
初めに1階の刺繍みやげ物店を3階に移動することから始まった。
厚い板でできた大きな棚は、大き過ぎて階段では運べない。
1階から3階まで建物の外で引きあげると言う方式で移動した。




1階が片付くと直ぐに1階の日本料理店の工事が始まる。
トラックでレンガ、セメントが運ばれる。


●バオミンさん、税田さん、大塚さんで工事等の打ち合わせ
  今度の日本料理店はJASSベトナムが作るもの。
  大塚さんのアドバイスを受けてバオミンさん、税田さんが
  工事、机等の配置などを検討する。

●いよいよ工事開始

●新日本料理店の「個室」を作るために壁の一部を壊す


午後5時、今日の工事を終わる。

午後6時、大塚さん、仁枝さんが夕食を作ってくれる。
怪我をしたリー君、弟のターオ君も交え、夕食の
カツカレーを食べる。まろやかな味。
リー君もやっと落ち着いたようだ。カツカレーを
ぺろっと平らげる。

夜7時。「子どもの家」へ。この時点でも気温は30度以上。
暑い。子どもたちは、暑さをさけて外で遊んだり、話をしたり
していた。

●フエ医科大学1年生のPさんは、この時間帯でも
  別室で勉強していた。


投稿者 koyama : 18:33 | コメント (0)

2007年04月27日

JASS日本料理店新規開店決定

晴天

暑い

午前7時朝食。フォー。

トンチンカンホテルに隣接している「ズイタンホテル」の玄関前が
私たちの部屋のまん前にある。
毎朝、午前5時から9時位の間、観光に行くための宿泊客を
待つバス、小型車などが待機している。お客さんが乗車した時、
エヤコンが効いているように乗車の30分ほど前からエンジンを
かけている。マフラーからは、排ガス規制無視の「黒煙」が
吹き出ている。毎日午前中は、「真っ黒な排煙」をたっぷりと
浴びて起床している。逃げようにも逃げるところがない。
CO2と発ガン物質を多量に含んだ黒煙・排ガスは部屋中に
充満している。昨年から朝起きると目やにがでるようになった。
痰がひどくからむ。気管支炎にかかりやすくなった、などの
諸症状がある。何よりも道路で真っ黒な排気ガスをはき出しながら
走る大型バスの後ろをオートバイで走っているようなものである。
人間が住む場所ではない。何とかしなければ、本当に体を壊す。
悲しいかなオーナーは何も知らない。
朝の新鮮な空気が吸えないだけでなく1日中、部屋のドアは全て
閉めておかなければならないが、立て付けが悪く隙間が多い。

午前8時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。
午前8時半、ベトナム事務所で元日本料理店の子どもたち5人
が英語の勉強。(水・金)。
子どもたちの真摯な態度に「私たちも頑張らなければ」と決意を
固める。

午前10時。臨時のベトナム事務所員会議を開催。
昨日、6人の子どもたちが持ってきた「日本料理店再開」
要望書をみんなで検討する。現在「子どもの家」の子どもたち
の就職のため研修(英語・日本語)を行っている。
しかし、昨日(4月24日付け)「日本料理店で仕事をしたい」
との子どもたちの要望書を受けた以上、日本料理店を
再開すべきだとの結論に達する。
元日本料理店は私が全額支出して作った私的な日本料理店
である。
この際、JASSベトナムとして「子どもたちの自立」
「ベトナム事務所の財政自立」のために日本料理店を作った
方が良いとの意見が出て、最終的に今までのような
個人的に作った日本料理店ではなく、JASSベトナムと
して作ろうということになった。
但し、JASSベトナムはお金がないので、ベトナムの庶民が
いくようなお金をかけない日本料理店にすることが確認された。
また、必要な機器(冷蔵庫・冷凍庫・・)、皿、などは
元日本料理店で使ったものを再利用し、必要最低限の
費用で日本料理店を作ることになった。
早速、JASSベトナム日本料理店建設実行委員会を
立ち上げる。

●総括責任者    バオミン(総合調整)
●総合デザイン
  コーディネーター 大塚(内装全般)
●事務局長      税田(連絡調整)
●副事務局長     仁枝(連絡調整補佐)
●事務局員      ベトナム事務所員(全業務への協力)

昼食。
昼寝。疲れを感ずる。1時間。
読書「鴎外:興津弥五衛門の遺書」読了。
  鴎外は、5歳から漢書講読を始めている。
  本書は、全て漢文で書かれている。非常に勉強になる。
  

午後3時、建築会社を選定。
(フール小、「縫製研修センター」を作った会社)。
直ちに建築会社担当者を呼び、日本料理店建築の相談をする。

大塚さんに新日本料理店の総合デザインを依頼する。
基本は現在のベトナム事務所1階を改築せず、そのまま
使用するということ。

バオミンさん・大塚さん・税田さん・仁枝さんで明日から
日本料理店をどんな手順で作っていくのかを相談する。

5月10日~15日位には日本料理店を開店したという
ことで一致。改めて、建築会社に早期建築終了を
要請する。建築会社からは明朝から「全力で頑張る」との
返事だった。

バオミンさんとベトナム事務所の「大家さん」へ挨拶と
日本料理店開店の話に行く。大家さんは家賃の値上げを
要請してくる。足元を見ての態度だ。ベトナム事務所を
借りたときは、借り手がいないので何とか借りて欲しい
と頼んできたのに。仕方がない。ある程度の値上げは
甘受しよう。具体的な金額はバオミンさんと大家さんとで
交渉することにした。

今日1日、何だか非常に疲れた。
私が持っているベトナム事務所とトンチンカンホテルの
2台のパソコンが壊れてしまう。ウイルスの侵入。

投稿者 koyama : 12:40 | コメント (0)

2007年04月26日

ベトナム数学オリンピックで「ニャンさん」銀メダル受賞

晴天 

気温30度。湿度65%。

今日はベトナムで初めての「フン・ヴォン王記念」の祝日。
この祝日は、元「南ベトナム」(ベトナム共和国)の祝日だった。
1975年のベトナム南部「解放」後、社会主義国となった
ベトナムでは、「南ベトナム」の祝日は全て廃止された。
今年、この「南ベトナム」の祝日が復活した訳である。
事情は不明であるが、フン・ヴォン王は紀元前に存在した
という「神話」上のベトナム建国の国王とされている。
現在、ベトナム社会はドイモイ政策の下で、貧富の格差は
想像以上に増大している。
また、共産員やその幹部の腐敗堕落、汚職、ワイロ問題は
真っ当に生きている国民の不満の根源でもある。
言論、集会、結社、表現の自由はない。
フン・ヴォン王の記念日を祝日として復活することにより、
国民的な合意・団結を作り上げようとの共産党政府の
もくろみが見え隠れする。
また、1975年4月30日のサイゴン陥落で収束して
ベトナム戦争。その後、北の共産党が事実上中部・南部を
占領支配している現状がある。旧南の人たちの現政権への
不満はこの32年間、くすぶっている。旧「南ベトナム」の
祝日を復活することにより、旧南北ベトナムに住んでいた
人々の国民的和解を促進しようというねらいもあるのだろうか?

午前9時。ベトナム事務所へ。大塚さん、税田さん、仁枝さん
といくつかの問題の打ち合わせ。

午前9時半。「子どもの家」へ。
4月21日(土)。コックホック高校で「ベトナム南部解放記念」
数学オリンピック大会が行われた。ホーチミン市など「南部」、
フエ・ダナンなど「中部」、そしてタイグエンまでのベトナムの
3分の2の地域から1934人の「数学超天才」が集合。
年齢は16歳・17歳。高校1年・2年生。
この数学超天才少年少女大会で「子どもの家」のニャンさんが
見事に第2位。銀メダルを取るという快挙を成し遂げた。
大変なことである。私たちも誇りに思う出来事である。


毎年「世界数学オリンピック」が行われている。
ベトナムと日本の「世界数学オリンピック」の成績は以下のよう。
各国6人の参加者の総合成績。

●1990年  54ヶ国参加 ベトナム不参 日本(20位)
●1991年  55ヶ国 ベトナム(9位)、日本(12位)
●1993年  73ヶ国 ベトナム(9位)、日本(20位)
●1999年  81ヶ国 ベトナム(3位)、日本(13位)
●2000年  82ヶ国 ベトナム(5位)、日本(15位)
●2002年  84ヶ国 ベトナム(5位)、日本(16位)
●2003年  82ヶ国 ベトナム(4位)、日本(9位)
●2004年  85ヶ国 ベトナム(4位)、日本(8位)
●2005年  91ヶ国 日本(8位)、ベトナム(15位)
●2006年  90ヶ国 日本(7位)、ベトナム(13位)

上記の一覧を見てもベトナムの数学の水準の高さが
分かると言うものである。
一部の日本人は、ベトナムは単純に貧しい国、だから
何かを「教えてあげなかればならない」などと尊大な
態度でベトナムに来る人もいる。
上記世界数学オリンピックの結果をみれば、ベトナムが
その大半は、日本を圧倒して上位にいることが分かる。

今回、1934人中、第2位になった「子どもの家」の
ニャンさん(16歳)は、ベトナム全体の「世界数学オリンピック」
代表に入る可能性は濃厚である。代表は6人。
今回の大会は、ハノイなど一部が不参加なだけ。
ベトナム全土を網羅しても世界大会の代表6人に十分入る
可能性がある。「子どもの家」のニャンさんはベトナムの国家的
な貴重な宝であり頭脳である。

昨年の8月、ニャンさんは「子どもの家」に入所してきた。
私とバオミンさんでニャンさんの家を訪問し、家庭調査をした
結果、入所が適当と判断し、入所が実現した。
フエのあるトゥアティエンフエ省(人口100万人)の
中学3年生全員の数学試験を実施。上位36人が
フエ科学大学へ入学することになった。
ニャンさんは36人の中に入った。しかし、家庭が
貧しい。フエ郊外で農業をしている。
父親は48歳で農業。母親は45歳で病気。
兄弟5人。農業収入は、毎月3000円程度。
到底子どもたちを学校へ通わせられない。
正確には「食べることさえ」事欠くのが実態だった。
こうした家庭の貧しさを知っているニャンさんは
父親に「フエ科学大に入学できるが、家が貧しい。
勉強は好きでしたいが、家族が貧しく、自分がフエ科学大
に入れば、家族に迷惑をかける。私は中学を卒業したら
働いて、家族のために頑張りたい」と話す。
ニャンさんは18歳の姉の次の年齢。下に14歳、11歳、
8歳の妹と弟がいる。父親は数学が抜群に出来る娘が
フエ科学大学の特別コースで勉強出来るので是非入学
させたいとの気持ちは持っていたが、実際に家族7人が
食べていける農業の実態ではない。悩み抜いた父親は
村長さんに相談。村長さんは、「フエ市内に日本人が
やっている子どもの家があるので相談してみらどうか」
との助言を与える。その結果、私とミンさんが家庭調査
に行くことになった訳である。

もし、私たちがフエ市内に「子どもの家」を運営していなかったら
間違いなくニャンさんは中学で仕事を始めていた。
「子どもの家」があったためにベトナム国家としても貴重な
頭脳が生かされることになった。本来は、ベトナム政府
共産党がすべき仕事だが。

ニャンさんの生活を聞いてみた。

フエ科学大学の授業。月から土まで。午前7時から11時半。
午後1時~5時。特別な授業が行われていることが推測できる。

以下、1週間の授業内容である。高校1年の年齢である。

数学(12時間)、物理(3)、化学(3)、歴史(1)、地理(1)、
英語(3)、国語(3)、技術(1)、公民道徳(1)、
コンピュータ(2)、生物(1)、体育(3)。

午後5時、学校の授業が終了し、「子どもの家」へ帰る。
その後、毎日4時間から5時間「子どもの家」で勉強するとのこと。
就寝は毎日午前0時を過ぎていると言っていた。
よく勉強をするものだ。特別な頭脳をもっている上にこれだけ
努力しているのだ。

ニャンさんが「子どもの家」でしっかりと成長し、自分の能力を
十分発揮して、希望の進路を進めるよう応援を続けたい。
日本の里親のN村T子さんの支援に感謝したい。


「子どもの家」を一回り視察する。
フエ高等師範大学2年生のユオンさんの部屋に大学の
同級生が遊びに来ていた。
しばらく教育のことを話す。3人とも来年9月から小学校の
先生になるという。先日、教育実習をしたそうだ。
疲れたと言う。子どもたちを教えることの大変さを体験したが、
自分たちは子どもたちが好きで小学校の先生になることに
誇りをもっていると、控えめに話していた。
子どもたちと同じ視線に立った「やさしい教師」になってもらいたい。

ユオンさんとの付き合いも長い。「子どもの家」創設当時入所
の第1期生である。元日本料理店接客係りのグエットさんの
姉。「子どもの家」第1期生も段々いなくなってきた。
ユオンさんはあまり目立たないが性格の良い素直な子である。


今日も1日中、メール送受信不能。


投稿者 koyama : 17:21 | コメント (0)

2007年04月25日

DUOC君の退所式

デジカメ寄贈に感謝。

デジカメを頂いた。栃木県から4月末来訪されるSさん
より新品1台の寄贈。(訪問時、寄贈)
香川県在住・京滋YOUの会Eさんより中古デジカメの寄贈。
この日記上をお借りして、お二人に心からの感謝を
申し上げたい。
お二人以外に何人かの方から心温かい寄贈の話あり。
ベトナム事務所として「何台でもあればよい。もらえるだけもうらう」
という姿勢はない。。子どもたちや事務所活動に必要な
最低限度のご支援で活動を進めて行きたいと決意している。
JASSご支援の全国の皆さんの素早い反応に驚き且つ感心した
しだである。

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晴天

30度。70%。

気温が8度下がる。寒く感じる。

午前7時、朝食。フォー。

午前8時半、徒歩、ベトナム事務所へ。
今日から元日本料理店員(6人)の英語の授業。
6人は、ベトナム事務所に何とか仕事を世話して欲しいと
自らやって来た子どもたちだ。

フエ市人民委員会外務部員が英語の先生を買って出てくれた。
ホンニー・グエット・フエン・トゥオイ・リーの5人。ターオ君は、
「勉強しない」とのこと。


英会話中心に授業は進む。
先生「あなたはどこから来ましたか?」
リー君「アメリカから来ました」。
先生「何日間、フエに滞在しますか?」
リー君「二日間」。
などというような形で授業は進んでいった。


1時間の授業が終わり、1階の玄関まで見送った時、子どもたちが
「先生に話がある」という。
子どもたちが集まり、代表してホンニーさんから「要請書」を手渡される。
ざっと目を通す。「日本料理店を再開して欲しい」という趣旨のようだ。
子どもたちはいつこんな話し合いをしたのであろうか?
先日は、イン君が代表して「日本料理店で仕事をしたい」と
言って来た。今日は、公式の文書での要請である。
6人全員のサインもある。誰かが手書きで書いた文章である。
子どもたちがこんなに日本料理店に自分たちの人生をかけていた
のか、と思うとつい目頭が熱くなる。子どもたちは並々ならぬ
決意で日本料理店再開を要望しているのだということが良く分かる。
「君たちの気持ちは良く分かった」と応えるしかなかった。

●子どもたちが書いた「要請書」(ベトナム語)


●子どもたちの要請書(ハンさんに翻訳してもらった日本語版)

子どもたちからの突然の要請書をもらい、今後どうすれば良いのか
を考えようとした矢先、税田さんから「学生さんが突然訪ねてきた。
先生に会いたいと言っている」とのことで学生さんと会う。

現在3年生で1年休学し、アジアを旅しているとのこと。
1時間半ほど話し合う。

昼食。コムディア(75円)
昼寝。

読書「森鴎外:百物語」読了。

午後3時、「子どもの家」でDUOC君(23歳)の退所式を行う。


DUOC君と母親(53歳)、セン所長、ロック寮長、バオミンさん、
小山

(セン)DUOC君は長い間「子どもの家」で生活していた。
    本来は18歳で社会に出るのだが、フエ高等師範大学に
    入学し、勉強があるので今日まで「子どもの家」にいた。
    現在23歳になる。他の子どもたちより5年以上長く
    「子どもの家」で生活していた。
     今回、本人から「母親と同居し一緒に生活したい」
    との強い申し入れがあり、退所式となった。
     日本の里親の若林さんから長い間の支援があったことを
    DUOC君は忘れないように。
(母親)私は生まれつき足が弱い。長い間の支援に感謝している。
     私は53歳になる。もう息子の世話になりたい。
     息子と同居して生活したい。

(小山)DUOC君。喫茶店の仕事、お母さんとの同居、そして
    大学通学とすごく大変な生活になるが、頑張っていける?
(DUOC)仕事をしながら、母親の面倒を見て、必ず大学で勉強 
       します。
(小山)「子どもの家」から大学へ通うということをもう一度考えて
     欲しい。
(DUOC)仕事をしながら母と同居したい。その上でフエ高等師範
      大学に通って勉強する。自信がある。心配しないで欲しい。
(母親)私も息子と同居したいので、どうしても「子どもの家」を
     退所させて欲しい。私は足が少し弱いので疲れやすい。
     もう、息子の世話になって楽な生活をしたい。
(小山)二人で同居するということだが、どうるすの?
(母親)二人で下宿して、パン屋を始める。
(小山)パン屋開店の資金はあるのか?
(DUOC)資本金は僕が持っているので安心して欲しい。

(ミン)今日で「子どもの家」での支援は終わりとなる。
    今後はJASS事務所が里親の若林さんの意向を受けて
    直接支援する形となる。
     毎月20日にベトナム事務所に来るように。その際、
    里親の若林さんからの在宅支援金を手渡す。
     20日にベトナム事務所に来た際には、勉強の現状報告、
    生活の実情について必ず報告するように。
(DUOC)分かりました。約束します。

ーーーーーーー
以上で「退所にあたっての最終確認」を終わる。

続いて退所式。

●ロック寮長「退所の誓約書」を朗読。

「2007年4月25日。DUOC,母親、セン所長が同席。
DUOC 1984年4月14日生まれ。1997年9月入所。
この間、DUOCの生活はJASSを通して若林氏より
頂く。本日、本人と母親の希望で退所する。
今後のDUOCのことは、母親の責任となる。」

母親とDUOC君、セン所長のサイン。

母親は諸般の事情で字が書けないため拇印とする。

最後にDUOC君と母親のお礼の言葉があった。

(DUOC)JASSと里親の若林さん、「子どもの家」のスタッフの
      皆さんに長い間面倒を見て頂きました。
      本当に有難うございます。皆さんのお陰で大人になる
      ことが出来ました。心から感謝します。
(母親)長い間、息子の面倒を見て頂き感謝したい。
     今日から息子と一緒に住むようになる。責任を
     もって息子の成長を見守りたい。

(セン)DUOC君は10年間、「子どもの家」にいて大きくなった。
    今回の退所はDUOC君、あなたの希望です。
    お母さんと協力して生活して欲しい。勉強が第一です。
    退所しても「子どもの家」と関係が切れた訳ではないです。
    困ったことがあったら「子どもの家」やJASSベトナム事務所
    に来て欲しい。社会に出ると色々と問題もある。
    社会や仕事をあまり甘くみないように。
(小山)DUOC君、「子どもの家」退所、おめでとう。
    里親の若林さんの長年の支援、心から感謝する気持ちを
    持って欲しい。今後も在宅支援となり引き続き若林さんが
   支援してくれる。若林さんの期待を裏切らないよう、日々の
   努力と研鑽を続けて欲しい、
    これから一番大事なのは、「勉強」である。
    仕事と勉強の両立は相当難しい。頑張って欲しい。

これで退所式を終了。
その後、記念写真を撮影。

DUOC君とは10年間の付き合いである。こうして23歳となり
母親と同居し、仕事をしながら大学へ通うという。
並大抵の努力では難しいことであるが、何とかDUOC君が
大学を卒業し、音楽の先生になることを祈っている。
また、長い間DUOC君を支援してくれた若林さんには心から
感謝したい。また、これからの在宅支援も宜しく。

「子どもの家」では中学3年生が「高校受験勉強」をしていた。
今年は7人ほど受験するすそうだ。こうして一緒に勉強しながら
お互い励ましあっているもの「子どもの家」ならではの
光景である。全員の合格を祈る。

心臓の手術をしたターオちゃんはすっかり元気を取り戻し
高校受験のお姉さんたちに混じって勉強したり遊んだり
していた。


東京から1ヶ月のボランティア体験出来ているMさん。
お父さんがJASS初代代表岩辺さんの知り合いとの
こと。
毎日「子どもの家」へ行き、子どもたちと遊んでいる。
Mさんは、ピアノが上手だ。子どもたちにピアノを
弾いてあげたり教えてあげたりしている。


午後6時。フエ市内某所で某共産党幹部と夕食会。
午後8時近くまで。ブダビールを20本ほど飲む。
トンチンカンホテルに戻ると大塚さん、税田さん、
仁枝さん、石塚さんがちょうど夕食を終わって、
懇談中。
早速、闖入し、元日本料理店の残滓である
生ビールを飲む。1時間程。

部屋に戻る。明日は、ベトナムの休日。
もう少し飲むか・・・・。久々に日本酒を飲みたくなる。
訪問者からの差し入れ。冷やしてあった「久保田万寿」を飲む。
大塚さんが作ってくれた『するめの軽炙り』をおつまみに。

長い1日が終わった。

投稿者 koyama : 13:25 | コメント (0)

2007年04月24日

支援物資の総合整理

晴天

気温38度。真夏。

暑い。暑いが私はこのような気候が大好きだ。寒さは
嫌い。

午前8時半、徒歩でベトナム事務所へ。
子どもたち(6人)は、定刻に「出勤」。

午前8時半過ぎ。刺繍の皆さんと懇談。様々な問題について
意見交換。
4月29日に刺繍のTHUYさんが結婚する。結婚式の招待状を
もらう。4月29日(日)午前11時から。参加。

午前9時過ぎ。ベトナム事務所員の打ち合わせ。
今後の諸問題についての意思統一。皆さん、やる気。

子どもたちは、ベトナム事務所1階の倉庫にある支援物資などの
整理を行った。整理隊長はソン君。大塚さん、仁枝さん、
ハンさん、ホンニーさん、グエットさん、リー君、ターオ君、
トゥオイさん、フエンさん。

●汗びっしょりで荷物整理をするリー君。右腕の「虎さん」も
  リー君と同様、笑い顔に見えた。リー君は私と同じ
  隠れタイガースフアンか?


●みんなで一致協力して整理をする。気持ちも一致する。


●気温38度。エヤコンなし。2時間半かけて荷物の整理を
 する。皆さん、シャツもズボンも汗びっしょり。

昼食。

昼寝、1時間。あまりに暑いので昼寝をしないと体がもたない。

午後3時、ベトナム事務所から緊急電話。急いでベトナム事務所へ。
ミンさん、税田さん、大塚さんで意思統一。2時間ほど。
午後5時。フエ最大のスーパーに買い物に行く。
今年からベトナムは4月26日が国民の休日となった。
フンボンという初代国王(神話?)といわれる人物の記念の日。
今年から休日。
4月29日は日曜。4月30日(月)32回目の解放記念日で休み。
5月1日(火)はメーデーで休み。4日間の休みが入る。
日本料理店がなくなったのでその間の食料を調達する。
牛乳、ヨーグルトを買う。買い物の主眼である「おつまみ類」を
若干購入。

午後6時。大塚さん、仁枝さんが夕飯を作ってくれる。

今夜の晩酌にはもってこいのおかず。
冷奴、枝豆、水餃子、焼き餃子、ソーメンサラダ。どれも美味しい。

午後7時半過ぎまで食事をし部屋へ戻る。YAHOOメールの
いつくかのメールあり。日本料理店閉店についての
問い合わせメール。長文の返事を出す。

午後8時半。この時期のフエ中心部の人の流れを
視察に行く。元日本料理店では、大塚さんと仁枝さんが
今後の諸問題について話し合っていた。
私は5分か10分程度で戻るつもりで、鍵も携帯電話も
持たずに外へでる。15分後、戻ると入り口の鍵が
かかっている。入れない。仕方がないので15分後位に
戻ってくる日本語教師の石塚さん、税田さんの帰りを
入り口で待つ。ぼーっと立っていると3軒ほど隣の
携帯電話屋の5歳ほどの肥満の男児が、私の後ろを通りながら、
刀で私を4回ほど殴る。とても痛い。そのままへらへら
して行ってしまう。数分後に戻って来るところをとっ捕まえて
叱る。直ぐに母親が飛び出してくる。母親は子どもだから
刀で人を打っても良いと言う。私は母親のその言葉で
急に腹が立て来た。たとえ5歳の子どもであろうと、
訳もなく人を刀でたたいて良い訳がない。
私は子どもより30歳ほどのお母さんに厳しく言った。
国がどう違おうと、何もしない人間をたたくということは
良くないことでしょう? あなたがやられたらどうですか?
万一、子どもがそうした間違いを犯したのなら、母親の
あなたが、子どもを厳しく叱り、躾けないといけないでしょう?
と。腹がたって怒ると急にベトナム語が出てくるのも不思議な
ことである。「躾け」というベトナム語が分からない。
めんどくさいから英語でいっちゃえと「DISCIPLINE」ディシプリン
と繰り返すが、若い母親はディシプリンは分からなかった。
しかし、私の言っている大要は分かったようだ。
子どもに「シンロイ」(御免なさい)と言いなさいと言っていた。
ベトナムでも子どもたちの躾けは「大甘状態」のように
見受けられる。特に一時成金の家庭は、躾けの仕方を
知らないようだ。
そうこうしているうちに仁枝さんがわざわざ部屋から降りてきて
鍵をあけてくれる。聞くと「もしかしたら小山先生は、鍵を
忘れて行ったかもしれないと思い、玄関に来て見た」とのこと。
私の健忘症の深刻な実態を厳しく見抜いていた。さすがは
教育者である。

午後9時半から関係者にメールを送信する。YAHOOで。

投稿者 koyama : 23:03 | コメント (0)

2007年04月23日

旧日本料理店の子どもたちがベトナム事務所へ来る

晴天 この夏一番の暑さ

気温38度。 湿度70%

メールの送受信が一切出来ない。
困ったものである。これで2週間、メールが使えない。
YAHOOメールは可能

じっとしているだけで、体中に汗が吹き出てくる。
いよいよ例年のフエとなる。いつもは、3月からこんな気候なのだが
今年は、3月・4月と真冬のような寒さだった。時々夏になる。
大きな気候の変化に体がついてゆけない「季節病」にもなりやすい。

午前8時半、「子どもの家」のホン・ニーさん、グエットさん、トゥオイさん
がベトナム事務所にやって来る。
土曜日にベトナム事務所に来たフエンさん、イン君に加えてターオ君
もやって来た。

4月20日に故(ゆえ)あって日本料理店を閉店した。私の最後の挨拶で
『急に閉店して子どもの皆さんには申し訳ない。皆さんには
何も責任がない。閉店後、困ったことや悩みなどがあったら
遠慮なくベトナム事務所に相談に来て欲しい」と話した。
翌日、フエンさんとリー君がやってきた。(4月21日火焔樹日記)
今日は「子どもの家」関係の3人の子どもたちとターオ君がやってきた。

バオミンさん・大塚さん・税田さん・仁枝さん・ハンさん、石塚さん
たちで子どもたちの話を聞く。
子どもたちは日本料理店閉店後、仕事がなくなり不安だ、と訴えている。
私は、「日本料理店は閉店したが、皆さんとの付き合いは長い。
皆さんが将来自立して生きてゆけるよう応援するためにフエに来ている。
皆さんの仕事と自立・自活のための活動を支援するつもりだ。
安心していて欲しい」と話す。

当面、子どもたちに「語学研修」と「ベトナム事務所手伝い」を
するよう話した。子どもたち全員(6人)は、了承。


具体的には、月曜日から金曜日までベトナム事務所へ来る。
午前8時半~午前9時半まで「語学研修」。
水・金は「英語」(外務部員)、月・木は「日本語」(ソン君指導)。
語学研修以外の時間はベトナム事務所の手伝い。
当面は、支援物資の整理など・・・・。

その後、1995年7月に放映された『久米宏のニュースステーション」
を全員で見る。12年前のリー君(8歳)、イン君(7歳)を「子どもの家」
に入れるため、祖母と交渉する47歳の私が映っている。
続いて、1997年フジテレビ「原田大二郎親子ベトナムへ行く」を見る。
ホンニーさん(7歳)、グエットさん(7歳)の可愛らしい姿だ映る。
子どもたちは、こんな小さな頃からJASSの皆さんは自分たちと
付き合ってくれていたのだ、と言う事実を知る。
こうして、JASSは、どんなことがあっても子どもたちを見捨てることは
ないという事実をまた子どもたちに知ってもらう。

しばらく子どもたち同士で話し合っていた。そのうち、「小山先生に話が
ある」という。子どもたちの所に行く。ターオ君が子どもたちを代表して
「僕たちは2年間、日本料理店の修行をしてきた。まだだま一人前
の料理人にはなっていないが、この2年間の修行で、日本料理店
の仕事を生涯の仕事にしようと思えるようになってきた。
日本料理店が閉店になり、僕だけでなくここにいるみんなが
悲しい気持ちです。僕たちは日本料理店で働くことが大好きだ。
何とかして先生の力で日本料理店を再開して欲しい。
みんなのお願いです」。要旨こんな話をする。
こんな子どもたちの声を聞き、私は、ホロッと涙がこぼれ落ちた。
いつも気分で仕事にきたり来なかったりしていたターオ君である。
彼からこんな言葉を聞こうとは思ってもいなかった。「子どもの家」の
3人娘(ニー・グエット・トゥオイ)もセンさんに泣きながら
日本料理店が閉店になったと話したという。
この2年間は子どもたちにとって大きな存在の2年間だったの
かも知れない。朝から夜遅くまで日本料理店で仕事をした。
多くの日本人と仕事をした。この2年間で、仕事を責任持って
すること、「お金をもらう仕事の仕方」などをかなり厳しく
学んだ。子どもたちにとっては、なくなっては困る2年間であり
日本料理店であったのかもしれない。
私は「皆さんの気持ちは良く分かった。しばらくは、ベトナム事務所
で仕事と勉強をしていた欲しい。今後のことは、ベトナム事務所
のスタッフなどで話し合う」と答えたが、心の中では、「同じ釜の
飯を食う」といことは、人間同士の連帯感を生むのだな、と思った。
家族という事は、まさにいつも一緒にいて一緒に食事をする仲間なの
だ。子どもたちと過ごした2年間は、まさにこの『家族』の
生活だったのだ。一緒に食事をし、一緒に仕事をした。
お客が来なければ一緒に悲しみ、たくさんお客が来ると一緒に
喜びと、苦楽をともにして来た「家族」だったのだ。
子どもたちは大塚さんを「お母さん」と呼んでいる。
考えてみれば、多くの子どもたちは、お母さんと呼べる人間が
いなかったのだ。日本料理店に来て、本当に家族のような
日常生活をしたのだと改めてこの2年間の日本料理店の修行の
意味を考えた。鳥取の徳岡さん、茨城の中村さんなど、
多くの大人の影響を受けてきた。子どもたちにとっては
日本料理店での生活が、初めて安住する落ち着いた
家庭のような暖かさを感じることの出来る場所だったのだ
ということに気づいた。

その後、ベトナム事務所の1階から3階までの大掃除をする。
今日は気温38歳。とにかく部屋にいるだけで汗が滴り落ちる。
子どもたちは、体を動かし、仕事をするのが大好きなようだ。
日本の子どもたちとはその辺が大違いである。

●元料理の「トゥオイさん」「ウエンさん」

●元接客の「ホン・ニーさん」・日本料理店を支援していた「仁枝さん」

●元接客の「グエットさん」

●元警備員の「リー君」トイレの掃除


●元調理の「ターオ君」、洗面所の掃除

午前11時まで、ベトナム事務所の1階から3階までの
部屋や廊下、テラスなどの大掃除を敢行。
物凄いエネルギーである。4月20日に日本料理店閉店を
宣言した時の子どもたちの顔を思い出す。
今日の子どもたちの顔は、「晴天」。

子どもたちの大掃除中、在宅支援のメンさん(フエ経済大学2年)が
ベトナム事務所へ来る。里親のUさんの支援している在宅支援金
を取りに。久しぶりにあったメンさんに「元気にやっている?」と
聞く。「はい」とのこと。勉強にはついて行っているの?
「大丈夫です」とのこと。ラームさんの実家に下宿していたメンさん
であるが、訳あってラームさんの下宿をでて、現在はベトナム事務所
会計のハンさんの家に下宿してる。数年前、会うたびに暗い顔を
していたメンさんであったが、今日は明るい顔をしているように
思えた。特に問題はないなと感じた。青春を謳歌しているのか
どうかは分からないが、そうあっても不思議ではない年頃では
ある。


4月20日に日本料理店閉店宣言以来、心が落ち着かなかった
子どもたちである。諸般の事情で、日本料理店閉店は致し方ない
とは思っているが、子どもたちの憔悴(しょうすい)した顔を見ると
心痛むものがあった。今日は、子どもたちも体を動かし、38度の
猛暑の中、仕事をしてくれた。大塚さん、仁枝さんと相談し、
子どもたちと昼食を共にすることにした。
大衆食堂「フォーサイゴン」へ。

●鶏肉ご飯を食べるリー君。ビールを1本飲む。20歳。飲酒可。

●鳥肉ご飯を食べるニーさん

日本料理店閉店問題後。私を支え、一緒になって今後の
活動・取り組みを子どもたちの立場で考えてくれている
大塚さん・仁枝さん。お二人の存在に心から感謝している。
大塚さん、仁枝さん、税田さん、ベトナム事務所のスタッフ
がいなかったら、日本料理店閉店、その後の様々な問題を
切り抜けて行くことは出来なかったと思う。心から深謝。

午後1時。昼寝。
この数日、心身ともに疲れる。1時間寝てしまう。

午後3時。徒歩ベトナム事務所へ。バオミンさん、税田さんと
打ち合わせ。2時間。

午後6時。大塚さん、仁枝さんが、夕飯を作ってくれる。
大塚さん、税田さん、仁枝さん、石塚さん、私で夕食。
トビウオの塩焼き(久しぶりに食べる焼き魚)。

午後8時、疲れたまま寝てしまう。

元日本料理店の厨房にいたHさん(22歳)は、フエ市人民委員会
外務部長N氏に「小山氏さん言って、Hさんの就職の世話を
するようにして欲しい」と頼みに行っている。
卑怯な人間だ。「子どもの家」の子どもたちもリー君。ターオ君
もベトナム事務所に来て、直接自分の気持ちを話している。
影で権力を使って、私に就職の世話をさせようという卑怯な
やり方に無性に腹が立つ。子どものやり方ではない。
やり方が陰湿だ。私はこうしたやり方とこうしたことをする
人間が嫌いだ。リー君やターオ君などは、勝手に仕事を
休んだり、給料日にもらった給料を1日で全額使ったりと
問題を持っている。しかし、日本料理店閉店という問題
が起こったら、真正面から私にぶつかってきた。
Hさんは影で権力を使い、権力が私に命令しその力で就職しよう
というおよそ子どもらしからぬやり方をしている。外務部長は拒否。
14年前にチーラン通り「子どもの家」で数か月お世話をした。
本人が日本料理店で仕事をしたいとのことだったので、昔出会った
ことも何かの縁と思い、日本料理店に採用した。
先日、結婚をしたが、結婚の話も招待状も私にはこなかった。
結婚式が終わって日本料理店に来ても何ら挨拶がなかった。
彼女は外務部長などを使い、私を上から命令して、
私が「嫌だ」と言えない様なやり方で「自分だけ」就職をしよう
という卑怯極まりないやり方をした。結局、私やJASS、「子どもの家」
を『利用する』だけの存在としか考えていなかったのだ。
リー君・ターオ君は問題も多いが、人間として真っ当である。
自分だけが就職して「良くなろう」とはせずに、みんなの声を
代表して「日本料理店を再開して欲しい」とみんなのことを
考えての行動をしている。人間は切羽詰った時にその人間の
本質が出るというものである。

4月20日日本料理店閉店をしてから、Hさんと厨房主任の
Aさんは一度も私たち日本人やベトナム事務所に顔を出さない。
しかし影でこんなやり方をしていた。ベトナムに住んで14年。
色々な経験をした。私や私たちJASSを「利用する」ための
存在と考えるベトナム人がいることは事実である。
この14年間、私の回りになんと多くの「利用者」がいたことか。


投稿者 koyama : 10:48 | コメント (0)

2007年04月22日

セン「子どもの家」所長と懇談

デジカメの寄贈をお願いします。

ベトナム事務所に唯一ある「デジカメ」が壊れてしまった。
壊れたデジカメは既に5年以上使われていたもの。

7月8月9月にはスタディーツアーがたくさん来訪する。
1日に4つほどのスタディーツアーが来る時もある。
同時に数箇所の撮影をする場合もある。
ベトナム事務所として子どもたちの成長の写真、時々の
スナップなども撮ってきた。ベトナム事務所員のソン君
(フエ高等師範大コンピューター学科卒)が、数千枚の
デジカメ写真を整理してコンピューターに保存している。

今回、デジカメが壊れてしまったので、どなたか
中古のデジカメでも結構なので、寄贈して頂ける
方がいらっしゃったらありがたいのだが。

どんな機種でも結構。デジカメとUSBコード、デジカメインストール
CDなどがあればありがたい。

ご一報をお待ちしている。

koyama1947@yahoo.co.jp


==========================
晴天。 気温32度。湿度65%。

午前6時起床。午前7時、NHK日曜討論。
暴力団の銃器使用問題。北朝鮮核問題。

午前9時、フエ郊外のコムディア屋(ほか弁)。6000ドン(50円)。
午前9時半、入浴。
午前10時、ほか弁ブランチを食べる。飲酒は中止。

昼寝。

午後2時45分、バオミンさんがトンチンカンホテルに迎えに
来てくれる。バオミンさんのオートバイで「子どもの家」へ。
「子どもの家」で日本料理店閉店問題やDUOC君の
退所について、セン所長と懇談。

20日に閉店した日本料理店の子どもたちの退職金をセン所長さん
に渡す。子どもたち個人の銀行口座に預金。子どもたちが
「子どもの家」を退所する際、子どもたちの自立資金になる。

20日閉店した日本料理店。厨房の料理人のターオ君。
やはり不安なのか? ターオ君が結局来る所は、
「子どもの家」なのだ。

DUOC君の退所が決まり、近日中に退所式を行うことになった。
日本料理店で研修していた3人の子どもたち。
明日、ベトナム事務所へ今後の進路について相談に行きたいと
センさんに話していたとのこと。閉店を決めた20日の夜、
3人の子どもたちが「子どもの家」へ帰り、セン所長に
泣きながら「自分たちが悪いことをしたので、小山先生は
日本料理店を閉店した」と言っていたそうだ。
こうした純真な子どもたちの心を踏みにじってしまったようで
本当に心苦しい。諸般の複雑な事情があり閉店を
断行した。あくまで子どもたちのためである。
そうは言っても子どもたちのことは心痛むものがある。
「子どもの家」の子どもたちが本当に日本料理店に自分の
人生をかけていたことが分かった。「子どもの家」の
子どもたち、ターオ君、リー君などの純真な心を
無にしないような今後の取り組みを考えている。
詳細はこの火炎樹日記で逐次報告したい。

「子どもの家」は日曜日。今日は蒸し暑い。
子どもたちは久しぶりの夏の暑さに参っている。

多くの子どもたちは、エジプト製の「怪獣映画」をテレビで
見ていた。

午後8時。日本料理店残りのフダ生ビールを飲む。
宮崎の「鶏のささみくんせい」などをおつまみに。

YAHOOのトップニュースに意味のないニュースが
でていた。

<長崎市長射殺>城尾容疑者、事件の前にコップ酒

という表題だ。コップ酒が射殺に何か意味があるのかな?と
読んでみる。
記事はただ射殺・待ち伏せ前に「コップ酒」を飲んだと書いてあるだけ。
事件とコップ酒と何の関係があるのか、全く説明がない。こうした意味
のない記事を書く記者の能力を疑う。
これでは、何か「コップ酒」が射殺事件と関係あるかのような
ニュアンスでの報道となってしまう。
「コップ酒」はコップ酒で美味しいものである。
軽くあぶったスルメでコップ酒を飲むのも日本の伝統文化。
射殺事件とコップ酒が関係あるのなら「こういう関係があった」と
かくべきだ。思わせぶりな記事は意味のないものであり、かえって
コップ酒という飲み方そものが、悪いものであるかのような印象を
読者に与える。毎日新聞記者の無知と無教養を物語っている
ようなものだ。コップで日本酒を飲むことと犯罪とは全く関係ない。
飲酒運転をしたからと言って「酒が悪い」「飲酒を絶滅せよ」とは
誰も言わない。

統一地方選挙結果を見る。
福島参議院補選。民主党の圧勝。沖縄補選。自公の辛勝。
長崎市長選挙。弔い選挙にはNOと出た。伊東市長の女婿は
記者会見で「長崎のことはこれから勉強する」と間抜けな
ことを言っていた。良識的な選挙結果だ。
高知・東洋町長選、核廃最終処分場に反対の沢山氏が初当選.。
これも常識的・良識的な判断。

東京都の北区長選挙に教員時代の友人が立候補。30%ほどの
得票で落選。

フランス大統領選挙。右派サルコジ氏30、46%。
左派ロワイヤル氏24,41%。5月6日の決戦投票に持ち込まれた。
5月6日までの両陣営の多数派工作が5月6日の決戦投票の
結果を左右する。極右ペロンは、第4位。(以上、CNNより)

投稿者 koyama : 22:07 | コメント (0)

2007年04月21日

ベトナム事務所員会議

晴天 真夏。

気温31度。湿度70%

★終日、メール受信できず。
(送信される方は koyama1947@yahoo.co.jp まで)

午前7時、朝食。ブンボー。

午前8時、徒歩でベトナム事務所へ。日本の支援者から
電話。日本料理店閉店についての問い合わせなど。

午前8時半、ベトナム事務所員会議

(ソン)日本語の勉強をした
(石塚)観光コーステスト
    上級コーステスト
(ラーム)特に、何もしなかった
(ハン)給料支給の準備、支援者と里子からの手紙の翻訳
(税田)日本語学校で日本語を教える。毎週2回。水、金、
     午後5時から7時まで。
     今週は、上級4クラスの授業をした。
     退所した里子のチュン君。ホーチミン市に行ったが
     母親と連絡が付く。今年里親の方から頂いた支援金の
     残金を里親へ渡す手続きをする。
(サン)上級、ガイドコースの授業
(ミン)ODA縫製研修センターの会計監査の準備。
    最近「子どもの家」退所者が数人いる。
    現在59人。5月3日に2軒の家庭調査を行い、入所が必要と
    判断されれば、入所させる。5月3日は、小山・ミン・ロック、
    じゃむじゃむの佐藤さんで家庭訪問を行う予定。

★日本語学校主任のフーンさんは体調を崩し、今週1週間
 休んでいる。
ーーーーーーーーーーーーーー
続いて、バンベー第31号の編集会議を行う。
前号までは、日本事務所の西山優子さん(現JASS東京代表)
が中心となってバンベーの編集作業を行っていた。
2007年2月4日の総会決議で、「JASS機関紙は現地ベトナム事務所
で基本的に作成する」方針となった。
今回は「JASSベトナム」として初めての独力でのバンベー編集作業と
なった。『現地の自立』などと掛け声ばかりでは意味がない。
現地の自立は、具体的・実践的な行動が伴って初めて意味のあるもの。

バオミンさんからJASS機関紙「バンベー31号」(ともだち)の編集
内容の提案があった。参加者の意見、質問などの後、基本的に
提案内容が了承された。
バンベー編集はベトナム事務所員全員で行うことにした。
ベンベー編集という作業を通して、今JASS全体が行っている活動は
どんなものなのか? JASSの抱えている問題は何か?など
JASS全体像をベトナム事務所員全員が考える良い機会である。
またJASSベトナム事務所員が、JASS全体の問題を考え
全体の中の「現在している自分の仕事」という自らの活動の
意義と位置づけを理解して欲しいとの気持ちもある。

●編集会議の内容


編集会議終了後、昨日閉店した日本料理店の店員だった
リー君とフエンさんがベトナム事務所を訪ねてきた。

バオミンさん、ハンさん、税田さんで応対し、子どもたちの
希望、考えをじっくりと聞く。子どもたちはしっかりとした大人の
考えを持つようになったことに10数年間の子どもたちの
成長を感じた。また、二人とも「仕事する」ということに
強い生きがいと喜びを感じていることが分かった。

(リー君)
自分は小山先生と10数年付き合っている。
家族がなく、生活が出来なかった時に「子どもの家」に入れて
もらい、今日まで生活してきた。昨日、急に日本料理店が閉店と
なり、今後、自分はどうして生きていけば良いのか困っている。
何とか今後の自分の生き方、生活の方途などについて相談に
乗って欲しい。今、自分は20歳となった。きちんとした人生を
歩んで行きたい。自分の力で仕事をしたい。何か仕事を紹介
して欲しい。

(フエン)
私は1994年に父親が胃がんになり入院・手術をした。
その時に小山先生に助けてもらった。その2ヶ月後に
17歳の姉が服毒自殺をした。その頃、母親は既に死んでいいない、
父親は病院に入院。頼りにしていた姉が自殺し、弟と妹と
私(9歳)。通夜や葬式、生活など、何も出来ずに困っていた。
その時、小山先生と渡辺和代先生が家に来てくれ、
御通夜とお葬式のお金を全額出してくれた。また、私と妹を
在宅支援にしてくれた。それから今までお世話になり大人になった。
2年前から日本料理店で日本語の勉強や仕事をさせてもらいながら
通信制高校も卒業させてもらった。感謝している。
昨夜、日本料理店が閉店になり、私はずうっと泣いていた。
これから自分の人生はどうなるのか不安だ。私は自分の力で仕事を
したい。仕事をして生きて行きたい。どんな仕事でもしたい。
何とか仕事を紹介して欲しい。

伝言ではあるが、「子どもの家」のニー、グエット、トゥオイさんの
3人娘も来週、ベトナム事務所に今後の身の振り方について
相談に来たいと言っているようだ。


リー君、フエンさんと1時間ほど話す。二人の希望をじっくりと聞く。
給料を2ヶ月分もらったので当面の生活は心配していない。
その間に何か仕事に結びつくことをしたい、出来たらJASSに関係
する仕事させて欲しい、というような話もしている。

バオミンさん、ハンさん、税田さん、リー君、フエンさんと話し合い、
リー君は『臨時ベトナム事務所手伝い』として採用することにした。
月曜から金曜まで午前8時半出勤でベトナム事務所の雑用などの
手伝いをすることで本人も合意した。

フエンさんは、英語と日本語を勉強したいという。
来週からベトナム事務所3階で「週2回英語教室、1回はソン君の
日本語教室」を実施することにした。
希望する元日本料理店員がいれば一緒に英語と日本語のスキルアップ
を行う機会を作ることにした。リー君も希望した。
とりあえず、来週月曜日から金曜日まで、リー君とフエンさんは
ベトナム事務所に来るよう話す。

午後12時。トンチンカンホテル1階で昼食。
大塚さん、税田さん、仁枝さん、石塚さんと。
久しぶりの仕事のない土曜日の午後である。
(今までは日本料理店の昼の開店があった)
軽くフダ生ビールを飲み、皆さんの作ってくれた
手作りカレーを堪能する。

日本の支援者から電話。日本料理店の件など。

昼寝。

YAHOOのメールにいくつか受信。
返信。

日本料理店で食べていた夕食がなくなる。
食欲なし。
午後8時半、久々の夜の入浴。
その後、元日本料理店の残っている
フダ生ビールを飲む。「もったいない」の精神?
夕食の食欲なし。

読書「鴎外・百物語」続きを読む。

早めに就寝。

何だか疲れた。起きている間は、常に何かを
考えている状態が続く。無意識のうちにいくつかの問題の
シュミレーションを頭で行っている。軌道修正を繰り返す。
それを何度も繰り返しているのだが、意識してのことではない。
日本料理店問題、フエ高等師範大学日本語学科問題、
夏のスタディーツアーのこと、「子どもの家」、「縫製研修センター」、
「アクセサリー研修センター」、造船研修生問題・・・・・・・・。

「季節病」というのがあるそうだ。急激な気温の変化があった場合、
体が気温の変化についていけない現象。
頭痛・・・・・・。フエに戻って11日目。気温変化が10度から15度位
ある。季節病のきらいあり。頭痛、腹痛、痰のからみが続く。
フダ生ビールを飲むと季節病が治るような気がする。

明日の統一地方選挙後半戦と参議院議員福島・沖縄補欠選挙、
フランス大統領選挙結果が気になる。

フランスの大統領選挙は、アメリカ流の「新自由主義」(大きな
貧富の格差があっても良い。自己責任だ)を主張する保守・民衆
連合のサルコジ候補と社会の公平と人権を基調にしたヨーロッパ流
の経済政策を主張する社会党のロワイヤル候補。
フランスの大統領選挙は、対立軸がはっきりしている。
日本の選挙が白けるのは、対立軸が不明確なのだ。
自民党と民主党はほとんど対立軸がないままである。
日本の選挙の対立軸は自民党と共産党である。

私がフランス大統領選挙に危惧を感じるのは、極右国民戦線
のルペン候補である。極端な人種差別、外国人排斥を主張。
日本の安倍首相と基本的には同一の立場である。
同じ保守でも加藤紘一氏などの「良識」をもった保守もいるが、
現在の日本の保守は、小泉首相以来、異常なアメリカべったり
と北朝鮮への強硬姿勢だけが目立つ。安倍首相は日本版
ルペン。ルペン候補が首相になってしまい、急遽表面的な
路線を『修正』しているのが、安倍首相である。
従軍慰安婦問題を謝罪した「河野官房長官談話」に反対した
安倍氏である。従軍慰安婦の狭義の強制はなかった
などと世界では通用しない国会答弁をした首相。
親分のアメリカや世界の良識から強烈な批判を浴び、
昨日、「従軍慰安婦問題で国として謝罪する』という趣旨の
発言に「修正」を余儀なくされている。
フランス大統領選挙で極右ルペン氏の動向が注目される。
今後のヨーロッパの流れを占う選挙でもある。
アメリカの格差社会を容認する『新自由主義路線』『グローバリズム
路線』が勝利するのか、格差是正、人権路線が勝利するのか、
ヒトラーをほうふつさせるペロン極右が勢力を伸ばすのか?
日本の政治にも影響を与える選挙でもある。

投稿者 koyama : 20:37 | コメント (0)

2007年04月20日

日本料理店閉店

晴天

午前中、ベトナム事務所。メール受信。(YAHOO)
バオミンさんと打ち合わせ。
いくつか長い文章を書く。

昼食。日本料理店。焼きうどん。(3ドル)非常に美味しい。

午前中から頭痛。気温が10度以上上がった。
朝から下痢。

午後1時。昼寝。NHKニュースを見ながら。
町田で暴力団が人を射殺し、家に立てこもっている
いるとのこと。暴力団への取締りが甘い日本の警察である。
暴力団が堂々と街中に事務所を構えているわが国である。
恐ろしい時代である。ピストルがいとも簡単に手に入る
のはどこか狂っている。

午後4時、ラームさんと話し合い。日本料理店閉店問題。
ラームさんも同意。

午後5時。日本料理店の子どもたち、日本人スタッフを
集め、「今日限りで日本料理店を閉店する」旨説明。
子どもたちには、2ヶ月分の給料を渡し、当面の生活費と
する。諸事情(日記では詳細を言えない)があり、
日本料理店を閉店することにした。
子どもたちで今後の人生を相談した人は、ベトナム事務所
に来るように話す。リー君がトンチンカンホテルの私の部屋に
来て、「ダナンに行く。(多分金山)」とのこと。ダナン行きは止める
ように話す。明日からベトナム事務所の手伝い人になることにする。
その他、フエンさんは明日、ベトナム事務所に来るとのこと。
「子どもの家」の子どもたちも今後の人生について、相談したい
と言っている。諸般の複雑な問題がからんでいるが、子どもたち
の今後の仕事のことは、責任を持って行きたいと決意している。

午後5時半、子どもたちと夕食。今日はどういう訳か「つけもの」
「魚の煮物」「竹の子スープ」と、いつもより品数が少ない。

午後6時半。日本料理店開店。最後の開業となる。
フランス人、ベトナム人、来店。

午後11時半まで日本人スタッフで懇談。

投稿者 koyama : 21:52 | コメント (0)

2007年04月19日

まぐろ丼を食べる

久間「防衛大臣」発言を糾弾し、発言の撤回と
辞任を求める。

久間氏は、伊藤長崎市長がなくなる前に
「共産党の候補者が当選することになる」と発言し、
伊藤市長の死亡を前提に補充立候補制度の見直しに言及した。
伊藤氏や国民がこぞって暴力団のテロリズムと闘っている真っ最中に
久間氏は、伊藤氏が亡くなることを前提に、対立候補の共産党が
当選してしまう、それは良くないので、補充立候補制度を見直すべきだ
と主張。不謹慎そのものである。テロとの戦いを主張し、イラクへ自衛隊を
派遣するとしている久間氏であるが、その日本でまさにテロリズム
に襲われ、伊藤氏が生死をかけて闘い、国民がテロリズムを糾弾し
批判しいている最中に、テロとの闘いには
関心がなく、伊藤氏が死んだら、対立候補の共産党が当選する
ような選挙制度ではいけないなどと言っていること自体、
この人物が本当の意味で「テロとの戦い」をする気持ちがないことを
証明している。
また現行選挙で候補者が亡くなった場合、選挙制度に則って
共産党候補者が当選しても何らおかしいことではない。
久間氏がテロとの戦いへの意欲がないばかりでなく、
民主主義のルールそのものさえ理解していない人物であり、
市長という役職を思想信条で差別する『人権侵害』人物である
ことを自ら告白している。
憲法14条では「すべて国民は法の下に平等であり、人種、信条、
性別、社会的身分又は門地により政治的、経済的関係において
差別されない」と規定されている。共産党であれ何党であれ
公職選挙法で認められている公党である政党が選挙で当選
することを問題視し、選挙制度を変えようとする思想こそ、
人間を特定の思想でみるファシズムである。
憲法99条は「天皇又は摂政および国務大臣、国会議員、
裁判官、その他公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負う」
と規定されている。久間氏は「国務大臣」としても国会議員と
しても「この憲法を尊重し擁護する義務を負って」
いるのである。
到底「大臣」に留まる人間ではない。憲法14条の「信条により
人間を差別してはならない」に違反し、憲法99条の憲法擁護
義務違反である。憲法を守れない「大臣」、テロとの戦いが出来ない
「大臣」は罷免すべきである。

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晴天 蒸し暑い

午前中7時朝食。ブンボー。カニのすり身に甲羅が入っていて
がりっと言う。

午前8時半、ベトナム事務所へ。大塚さんと船上生活者の赤ちゃん
支援について相談。
オアシスの会で行っている船上生活者の医療支援。医師・看護師
などを乗せた医療船で船上生活者のコロニーを巡回している。
8ヶ月の赤ちゃん。両目が見えなくなっている。大塚さんが
眼科専門医に連れて行ったが、栄養不足が原因で目の機能が
育っていない、治療・視力回復は無理との診断だった。
生後8ヶ月にもなっているのに体重はたった5キロ。首も据わって
いないという。
家庭状況は、船上で生活し、父親はシクロの運転手。
母親と祖母は物乞い。母親は、生まれた赤ちゃんを抱っこして
物乞いをしている。生後3ヶ月位までは母乳を飲ませていたが、
その後は、赤ちゃんの食事をあまり与えていない。
収入がないことが主因。結局、栄養不足で目の機能が
育っていないのである。明らかに「人災」である。
本来盲人にならなくても良い赤ちゃんである。
仕方がないので、赤ちゃんに粉ミルクを与えることにする。
大塚さんたちオアシスの会が寄贈。
ボランティア貯金で支援しているフーハウ診療所所長に
オアシスの会を紹介した。オアシスの会は、フ-ハウ診療所を
船上生活者指定の診療所として、支援を開始している。
昨日、大塚さんはフーハウ診療所長に目の見えなくなった
8ヶ月の赤ちゃんとお母さんを連れて行く。今後、毎月15日と
30日にお母さんは赤ちゃんを連れてフーハウ診療所に行き、
所長さんの診断を受けることになった。
その際、半月分の粉ミルクを支給するという段取りをつけてとのこと。
もう少し早く母親が赤ちゃんを連れてくれば、目が見えなくならなくても
済んだのだが・・・・。残念である。大塚さんたちオアシスの会は
粉ミルクで栄養を与え、「離乳食」指導を母親に行うことにしている。
こうして赤ちゃんがこれ以上栄養不足から何らかの疾病にならないよう
支援を続けるという。このような支援こそ本当の「支援」である。
ベトナムでは粉ミルクは異常に高い。1ヶ月の粉ミルク代は公務員の
月給分程度になる。貧しい家庭は、粉ミルクを買うことが出来ない。
この母親は、多少知的に問題があるようで、赤ちゃんをしっかりと
育てることが出来ないでいる。貧困から来る障害。本当に悲しい
現実である。一昨日、フエの公園前で出会った肥満の5歳の男児。
片や肥満、片や栄養失調で目の機能を失う、ベトナム社会の
矛盾を端的に表しているようである。今後もこの赤ちゃんの支援を
続けていく必要がある。

昼、日本料理店で初めてお店に出す「まぐろ丼」を食べる。
4ドル。マグロとわさび、酢飯がうまくかみ合っている。
日本料理を食べた、という気持ちになる。

昼寝。

午後4時。ベトナム事務所へ。バオミンさん、税田さんと懇談。

午後5時半。日本料理店のメニュー用に写真を撮る。写真用に
サンプル料理を作る。子どもたち、日本人スタッフと一緒に
サンプル料理を食べる。

投稿者 koyama : 09:57 | コメント (0)

2007年04月18日

日本語教師採用会議

伊藤長崎市長の逝去に心からの哀悼の意を表します


一切の暴力とテロ、民主主義の破壊と徹底的に闘います。

安倍首相を先頭に全国会議員が、「テロと暴力には体を張って闘う」
とのデモ行進をすべきである。

日本各地・各大学・各高校でも同様のデモ行進、集会を開こう。

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明け方から豪雨。
午前中、雨。気温が昨日より10度下がる。寒い。
急激な気温の変化に体中がだるい。

午前8時半、徒歩ベトナム事務所へ。
午前9時、ベトナム事務所員会議。
新しい日本語教師後藤ハンナさんの採用を
全員一致で決定。

午前中、支援者からのメールに返事。
バオミンさんと「縫製研修センター」についての細かい打ち合わせ。

昼食、日本料理店で「きつねうどん」(2$)。美味しい。

昼寝。1時間。

午後3時、徒歩ベトナム事務所。フエに赴任してきた
夫妻の奥さんがベトナム事務所を訪問。JASS活動をHPで見た、
何かできるボランティアをしたいとのこと。日本語学校の先生をし
てもらう方向で話し合う。
なかなか真面目で心優しそうな方だった。
ボランティアを申し出てくれことは本当にありがたいことである。

午後5時、ベトナム事務所を出て徒歩ドンバ市場へ。
日本料理店へ帰って今日は8800歩の徒歩。

午後5時半、子どもたちと夕食。ブン(米うどん)の上に野菜と
焼肉を乗せたベトナムの食事。

午後6時半、日本料理店。来客日本人2人。午後9時半閉店。

投稿者 koyama : 21:09 | コメント (0)

2007年04月17日

伊藤長崎市長へのテロ銃撃を糾弾する

伊藤長崎市長へのテロリズムを断固糾弾する

伊藤一長・長崎市長が選挙運動中に何者かに銃撃され
重態とのことである。

1990年に本島等市長(当時)が「天皇にも戦争責任の一端は
ある」(趣旨)との発言をしたことに対し、右翼が銃撃し
1ヶ月の重傷を負わせた民主義封殺のテロ事件があった。

今回の伊東市長への銃撃の背景は不明であるが、
選挙運動中という民主主義・国民主権の選挙運動そのものを
打ち壊す悪辣な犯罪行為であり、言論と民主主義を圧殺する
行為である。国民はこぞって、暴力で物事を解決しようと
する「銃撃」テロリズムを糾弾する声と行動を起こしていこう。
テロリズムは最初おとなしく、そのうち常態化してくる。
思想信条の違いを乗り越えて、一切のテロリズムに対して
毅然とした姿勢で闘いを挑もう。
犯人は山口組系暴力団組長代行城尾某(59歳)だという。
私と同年齢。この男がどのような動機と指示系列でテロリズムに
及んだのかは、今後を待つしかないが、戦後民主主義教育を
受けたであろう59歳の男が何故、銃撃テロを行ったのか?

伊東市長の回復を心より祈念する。

安倍首相のコメントは、かなりずれている。
「厳正な調査と真相究明を望む」とのこと。
首相はまず持って「テロリズムと断固戦う」との姿勢を示すべきである。

自民党の加藤紘一元幹事長は「非常に深刻な話だ。これで政治活動
をおさえたり、発言を控えたりするような世の中になっては絶対に
いけない。政治活動が萎縮すればこの国が暗くなり、危ういものになる
感じを、みんな持ってしまう」と述べたそうだ。
さらに「暴力に訴えて発言や行動をとめることがあってはならない
という怒りをもっと強く共有しないとこういう事件は続発する。
政治家や国民やメディアがどうとらえるのか。そこが問われる」と
語っている。

安倍首相の「真相究明が必要」との当たり前のコメントに比べると
加藤紘一氏のコメントは政治家として国家社会、日本の未来に
目をむけ、民主主義をテロと暴力から守るのだとの固い決意を
感じる。加藤氏自身、中国問題についての発言で右翼に
自宅を放火され全焼するというテロ攻撃を受けているが、
「暴力やテロに屈せず、民主主義・言論の自由を守れ」と
発言している。詳細は「テロルの真犯人」(講談社)
★(参照)2006年12月28日付け「火炎樹日記」に私の書評掲載

政治的な意見を異にするが、安部首相に比べ、加藤氏の
政治的な見識の高さを評価したい。

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晴天

午前7時、朝食。ブンボー。

午前8時半、徒歩ベトナム事務所へ。
事務所でいくつかの問題について打ち合わせ。
支援者へ数通のメール送信。(YAHOO)。

昼食。精進料理。35円。

昼寝。

午後1時半、読書。オーヘンリー「SPRINGTIME A LA
CARTE」。

午後2時半。造船研修希望ベトナム人へ日本紹介。
50人ほどの溶接工を前にバオミンさんの通訳で
日本事情について話す。

午後5時までベトナム事務所で仕事。

午後5時、ドンバ市場までウオーキング。
途中、かなり体格の良い子どもに出会う。
一緒にいたおばあちゃんに聞くと5歳との事。
私がフエに来た14年前の1993年には、
フエのどこを歩いても痩せた子どもたちしかいなかった。
この数年、かなり肥満な子どもたちが増えてきている。
一部上流階級の家庭では、物があまり、食べたい放題
食べると言う気風が流行している。突然、何でもかんでも
食べられるようになり、理性的な食事が出来ない傾向が
ある。私の回りでも家族全員が肥満という家庭もある。
突然、大金を手にするようになった「一時成金」の陥る
落とし穴である。ベトナムでは太る言うことは、金持ちに
なったとして、奨励する雰囲気があることも事実なのだが・・・。
ベトナム中部のエリートコース(レロイ小学校ーグエンチフン中ー
コックホック高校ーフエ師範大)のレロイ小学校を参観したが、
クラスの3割から4割近くが異常な肥満だった。一時成金が
あまり考えずに、次から次へと食べまくる図式を想像して
してしまう。


子どもには何の責任もないが、将来、様々な成人病を背負う
その予備軍となっては可愛そうである。子どもたちの
健康な成長を願うのみ。

ベトナムのドイモイ政策がこうした形で子どもたちにも
影響を与えてきている実情を改めて知ったウオーキングだった。

午後5時半、日本料理店で子どもたちと夕食。

日本料理店来客は日本人2名。

午後9時、日本料理店閉店。

投稿者 koyama : 20:40 | コメント (0)

2007年04月16日

メール受信できず

メール受信できず。当分、以下のメールアドレスへ。

koyama1947@yahoo.co.jp

午前中晴天。午後曇り。

午前7時朝食。フォー。

今年の4月は異常気象だ。例年なら気温35度程度の真夏のはず。
しかし、私が帰国した4月10日以来、気温25度以下が続き、
長袖、ジャンパーが必要な毎日。これは、フエの冬と同じ。
昨年の雨季(10月から2月)は、雨が降らず、水力発電の
水が足りなかった。フエでも輪番を決めて、毎日特定地域の
停電を実施している。世界の環境悪化がその原因と思われる。

4月10日以来今日まで日本からのメールが受信できない。
本当に困っている。形の上では、フエで受信したことになっているから
一層問題をこじらせてしまう。送信した日本人は、「ベトナムから返信
されないので受信した」と思っている。そのうち返事がないと、
「ベトナム事務所は何をしているのだろう」と不信感につながっていく。
困ったものである。噂では、インターネットを使う人が増えたので
ダナンのプロバイダーが「容量アップ」のためと言ってはいるが。
容量アップの工事をするには、あまりに迷惑と影響が大きい。
お金を取ってプロバイダーをしている人たちの責任感がない。
いつまでこの状態が続くのかの説明も一切ない。困ったものだ。

当面、私へのメールは、YAHOOのアドレスにお願いしたい。

午前中、バオミンさん、税田さんといくつかの問題について
意思統一。

支援者へのメールを書く。

昼寝。

午後2時半。読書「オーヘンリーの短編」。
結構面白い。例えとしては異なるが、藤沢周平のアメリカ版
のように思えた。何気ない一般市民の普通の気持ちと感情を
淡々と書きながら、最後に「どんでん返し」がある。
日常生活で人間が考えることは、世界中同じことだと
あらためて感じた。

午後3時半、徒歩、ベトナム事務所へ。
午後5時、ベトナム事務所を出て、徒歩でドンバ市場。
午後5時半、子どもたち、日本人スタッフで夕食。
午後6時過ぎ、日本料理店来客。フエ師範大学で教えた
2期生ホアさんが、日本人の会社社長然として人を連れて。

その後、チェコ人、フランス人、仁枝さんのお母さん、おばさんなど
今日は合計、23人の来客あり。
ほとんどが欧米系。刺身、天ぷら、お寿司の3点セットの注文が
多い。箸も上手に使う。来客があると私は簡単な英語版の
日本料理店案内を持って日本料理店の説明をする。
欧米系の来客はほとんど、「ストリートチルドレンの自立の
日本料理店は素晴らしい。もっと詳しく教えて欲しい」との
反応がある。今日のチェコから来た若い男女は、『私たちは
フエで3ヶ月仕事をするので、明日も来ます」と言ってくれた。
日本人の来客の反応は欧米系とはかなり違う。
私が日本料理店の案内を渡すと時には、「威張った感じで
嫌な顔をする」人もいる。概して、欧米系の人たちは
日本料理店に来て声をかけると「スマイル」状態。
日本人客は「ブスーッ」とした顔のお客がいる。これは
国柄の違いで、心の中がどうなっているのかは、分からない。

午後10時、日本料理店閉店。子どもたちは23人の来客があり
喜んでいた。


投稿者 koyama : 13:57 | コメント (0)

2007年04月15日

終日、休養

メール受信できず。当分、以下のメールアドレスへ。

koyama1947@yahoo.co.jp


午前中、快晴。午後、曇り

午前7時起床。NHK「日曜討論」を見る。
国民投票、イラク問題など。
国民投票の強行採決については自公の主張には
客観的に見て無理がある。
世論調査でも1割しか今国会での成立を望んでいないこと。
国民投票法案は基本的には『土俵作り』に徹するべきで
ある。土俵作りを自公の独断強行採決で行ったことに
今回の自公の異常な改憲への執念がある。
自民党内でも「自公だけの強行採決は良くない」
「安部首相の改憲路線に引き回された」との意見が
出ているようだ。
イラク法の延長は問題外。イラクで自衛隊が行っている
主な仕事は、一般市民を虐殺している米軍の輸送。
活動の70%は米軍兵士の輸送である。これは
自衛隊自身が言っていることである。
大義名分すらなくなったイラク侵略に手を貸す
自衛隊のイラク駐留延長はすべきでない。

午前9時半。入浴。1ヶ月半ぶり。ゆっくり半身浴。
午前10時。日本料理店の生ビールをピッチャーで
もらい部屋で飲む。小グラスで7杯。

午前12時。昼寝。

午後2時半。読書。「BEST SHORT STORIES OF
O HENRY」
英文のオーヘンリーの短編を読んだ。
「どちらのパン?」「心と手」「都市の敗北」

午後8時。再度、日本料理店の生ビール。
今日は1日、ゆっくりと休む。

投稿者 koyama : 22:49 | コメント (0)

2007年04月14日

「子どもの家」卒業生THUYさんの結婚式

晴れ

久しぶりの晴れ。湿度高し。蒸し暑い。

午前7時、朝食。ブンボー。

午前8時、ベトナム事務所員会議だったが、皆さん、日程の都合が
付かず中止。

午前8時半、「子どもの家」のスタッフが日本料理店前へ。
セン「子どもの家」所長、ニエム寮母さん、フオン前「子どもの家」
料理スタッフと一緒の車でベトナム事務所へ。
バオミンさんを乗せて、「子どもの家」の卒業生THUYさん(23歳)
の結婚式へ。
結婚式は、トゥアン・アン海岸近くの新郎の自宅。
ベトナム事務所から車で30分ほどかかった。
直ぐ近くが海岸である。町中の道路は砂。
車が入れる道まではたどり着いたが、誰も新郎の自宅を
知らない。町の人々に聞きながら大通りまでは何とか
行けたが、後は徒歩。砂道を歩く。町のはずれの低湿地帯に
ある農家が新郎の自宅。

THUYさんは、「子どもの家」の出来た時から入所。
本籍はクアンチ省だが、ホーチミン市からやってきた。
諸般の事情があった。当時、小学校4年生位だったと記憶する。
なかなか統率力のある子どもだった。当時、私はTHUYさんを
「女番長」と呼んでいた。

中学を卒業する頃に事情があってホーチミン市へ。
ホーチミン市でも口に出来ないような災難に遭う。
17歳位の頃、「ホーチミンにいるが、苦しい。助けて欲しい」
との手紙が私のところに来る。直ぐにフエに帰ってくるよう
連絡。「子どもの家」に戻る。成人に近づき、「料理の勉強をしたい」
との本人の希望があり、ハノイの料理学校へ入学させる。
料理学校を卒業しフエへ戻る。料理のライセンスを生かした仕事を
しようとしたが、なかなか就職先が見つからなかった。
私が知り合いのフォンザンホテルの社長に紹介し、フォンザンホテル
厨房のスタッフとなり、今日に至っている。フォンザンホテルでの
仕事も数年になり、かなりの給料ももらえるようになった。

友人の紹介で新郎とめぐり合い、今日の目出度い日を迎える
ことになった。

午前9時過ぎ、新郎の自宅へ到着。典型的な貧しい田舎の
農家といった佇まい。家には、豚の飼育小屋が併設されていた。


●豚小屋。今日はお祝いの料理を作る臨時厨房

結婚式は既に終了していた。今日は午前中親戚や年長者
などを招いての結婚披露宴。午前12時からは、若者や
友人を招いての披露宴が予定されている。

新婚家庭となる新郎自宅の入り口に飾られている二人の写真。
披露宴の家へ入る前に幸せそうなTHUYさんの写真を見て
胸が一杯になる。

私たちが入った時には、既に披露宴は開始されていたようだったが
司会者が改めて披露宴の開会を宣言。

新郎の両親、新婦の父親が前に出る。
新郎の父親が新郎新婦を紹介、挨拶。
その間、新婦THUYさんはただただ、泣いていた。
嬉し涙なのか、今までの人生を思い起こしての
涙なのか?

続いて、司会者が「今日は、新婦が育った子どもの家の
日本人責任者が来ています。挨拶をお願いします」
と私を紹介。私が急に挨拶をする羽目になってしまった。
バオミンさんの通訳で挨拶。新郎とご両親へのお願いとして
THUYさんを幸せにして欲しいと言う。

新郎は生まれて初めてスーツを着たようで、披露宴の3分の2は
緊張して笑い顔が全くなかった。それほど、真面目な好青年と見た。

続いて、オルガンの生演奏で「カラオケ大会」となる。
カラオケ大会が始まる頃になると新婦THUYさんにも笑顔が
出てきた。新郎側のご両親も新郎もかなりの間、緊張していた。
農村の純朴な真面目な家庭という雰囲気が漂っている。

●新郎のご両親と新婦THUYさんと記念写真

新郎新婦、ご両親が列席者の机を回って挨拶。

●「子どもの家」関係者のテーブルで。

●THUYさんが子どもだった頃、「子どもの家」にいたスタッフも
 かけつけてくれる。「子どもの家」開所当初の警備員さんや
 10年間、「子どもの家」の厨房を預かっていた『肝っ玉母さん』の
 フオンさん(数年前に退職)、開所当時からいる寮母のニエムさん

●現在の「子どもの家」スタッフ


●会場に張ってある新郎名「NGOC MINH」

●会場に張ってある新婦名「THI THUY」

●「子どもの家」スタッフと新郎新婦と新郎の両親


披露宴には新郎の親族が多数参加。新婦の親類も若干。
ベトナム農村の典型的な質素な披露宴である。
こうした披露宴は心が篭っていて親しみがもてた。

「子どもの家」スタッフもカラオケ大会に参加。

●元料理スタッフのフオンさん、現スタッフのニエムさん


披露宴も終わりに近づき、私も新郎新婦と記念写真を撮る。
この頃からやっと新郎に笑顔が出てきた。

午前11時過ぎ、披露宴は終了。

新婦THUYさんが、一番尊敬し、またTHUYさんの面倒を
みた料理のフオンさんと。一緒にいるのは、THUYさんの
異母妹。


会場出口で「子どもの家」関係者全員で記念撮影


午前9時からビールを飲み、かなり酔いが回った。しかし、気分の
良い酔いであった。
10歳の子ども時代から故あって「子どもの家」に入り、紆余曲折
があった。とにかく手に職をつけて『自立』し、今日目出度く
結婚するまでの13年間、THUYさんと付き合うことが出来たのは、
なによりも幸せな体験であった。「子どもの家」の子どもたちが
自立し、社会で活躍している姿を見ることが何より嬉しい。
海外支援、ボランティアというのは、人間が生きていくと言うことの
最高の喜びなのかも知れない。こうした経験をさせてくれた
THUYさんに改めてお礼を言いたい。
そして、今まで言うにいえない不幸と苦しみの中での生活で闘って
きたが、この結婚を機会にうんと幸せになってもらいたい。
私の願いはただそれだけである。

午前11時半トンチンカンホテル着。酔いが回り昼寝。

午後3時、読書「妄想;森鴎外」、「百物語:森鴎外」。

午後5時半、日本料理店で子どもたちと夕食。
午後6時半、日本料理店開店。
午後9時半閉店。オーストラリア人と日本人のカップル
2組が来店。

日本料理店の仁枝さんのお母さんがハノイからフエへ。
飛行機が1時間半ほど遅れ、午後10時半過ぎに
フエ空港へ着いた。仁枝さんは、フエ空港で長時間
待機させられた。

明日は、1ヵ月半ぶりの日曜日の休み。

投稿者 koyama : 20:26 | コメント (0)

2007年04月13日

96回目の啄木忌

日本からのメール受信が不可能となった。
小山へのメール送信は、以下のメールへ。

koyama1947@yahoo.co.jp

この数日、日本からのメールを受信したようになって
いながら、実際には、受信できないようにプロバイダーが
措置している可能性あり。
日本から100通以上のメールが送られていながら、
実際に私たちの手に届くメールは、数%。
ベトナム事務所から日本の皆様へ返事がない場合は
その事情をご理解頂きたい。


======================
小雨。曇り

23度。湿度90%。

午前7時朝食。フォー。

午前9時半、徒歩でベトナム事務所へ。
夏の地球の歩き方スタディーツアーの内容検討会議。

昼食。日本料理店でカレーライス(3ドル)。家庭のカレーの
味。とても美味しい。
日本料理店には、静岡・東京から来た若者が来ていた。
きつねうどんを食べる。しばらく話をする。
静岡県立大学国際関係学部の学生さんとのこと。
「休学してアジアを回っている」と話していた。

午後12時半。昼寝。

午後1時半 読書。
今日は石川啄木が明治45年4月13日に亡くなって
96回目の啄木忌。
啄木の死を噛み締めて「啄木歌集」(久保田正文編 岩波書店)
を読む。この本には啄木のほとんどの歌が収められている。
「一握の砂」「悲しき玩具」「補遺」。
「一握の砂」を読む。551首。一握の砂の巻頭言に
啄木は線香の1本を亡くなった我が子に手向くとし
「この集の稿本を書し(本屋)に渡したるは、汝の生まれたる
朝なりき。この集の稿料は汝の薬餌(やくじ)となりたり。
而してこの集の見本刷を予の閲(けみ)したるは、汝の
火葬の夜なりき」と記している。原稿を渡したときに
子どもが生まれ、原稿料が入った時は子どもの薬代になり、
見本版が出たとき、子どもが死んでその火葬の夜だったは
あまりに悲しい。生活苦と人生の理不尽さを象徴する
巻頭言。

一握の砂は、明治41年以降亡くなる数年の作品。
鴎外の作品も啄木の一握の砂も私の父親が生まれた
頃の作品。こうした時代に我が父親がこの世に生まれたのか
と考え、感慨深いものがある。

いくつか目に付いた歌を抜粋した。

「燈影(ほかげ)なき 室に我あり父と母 壁のなかより
 杖つきて出ず」

「こころよく 我にはたらく仕事あれ それをし遂げて
死なむと思う」

「怒る時 かならずひとつ鉢を割り 九百九十九割て
 死なまし」

「鏡屋の前に来て ふと驚きぬ みすぼらしげに
歩むものかも」

「何がなしに さびしくなれば出てあるく
男となりて 三月(みつき)にもなれり」

「かなしきは 飽くなき利己の一念を
持てあましたる 男にありけり」

「それもよし これもよしとて ある人の
その気がるさを 欲しくなりたり」

「気の変わる 人に仕えてつくづくと
 わが世がいやになりにけるかな」

「一度でも 我に頭を下げさせし
 人みな死ねと いのりてしこと」

「我に似し 友の二人よ 一人死に
一人は 牢を出でて今やむ」

「友がみな われよりえらく 見ゆる日よ
 花を買い来て 妻としたしむ」

「誰(た)れそ我に ピストルにても撃てよかし
 伊藤のごとく 死にてみせなむ」
(伊藤はハルピン駅で殺された伊藤博文か?)

一握の砂を読んで、啄木という人間全てが出ていた
ように思った。26歳。96年前の26歳は大人である。
人間の心の奥底に潜む感情を素直に且つ屈折しながら
吐き出している。「伊藤のごとく」の歌は
明らかに朝鮮侵略に対する啄木の気持ちが出ている。

午後2時45分、ベトナム事務所へ。
バオミンさんと施設見学。

午後4時。バオミンさんと「子どもの家」へ。
センさん、「子どもの家」のA君と話し合い。
子どもの家を退所したいとのA君の話を
聞き、話し合いをする。

午後5時過ぎ、小学生の子どもたちが学校から
「子どもの家」へ帰ってきた。

午後5時半。日本料理店で子どもたちと夕食。
今夜は、日本料理店の調理実習。
昼食に出す料理を大塚店長が子どもたちに調理させ
1品1品について、コメントを加え、技量の向上を図った。

日本料理店。ニュージーランドの先生夫妻4人。
アメリカ人2人。イギリス人2人。
合計8人。

投稿者 koyama : 07:26 | コメント (0)

2007年04月12日

国民投票法案の特別委員会強行採決に抗議する

国民投票法案(憲法改悪手続法)の
衆院憲法調査特別委員会での強行採決に強く抗議します。
衆議院本会議での採決(予定)に強く反対します。

①世論調査では、国民投票法案を今国会で成立させることに
  に賛成する人はわずか1割です。
②国民投票法案は、事実上、憲法改正に連動しています。
  憲法改正の眼目は、憲法9条です。
安倍首相が「任期中の憲法改正」を主張していることと
  連動しているのは明らかです。
③現在の衆議院議員は、「郵政選挙」を唯一の争点にして
  行われた先の衆議院選挙で選ばれて議員たちです。
  国民の声を聞かないままに、事実上、憲法改正に連動する
  改正法案を審議する資格はありません。
④国民投票の「最低投票率」が明記されていません。
 どんなに低い投票率でも「有効投票の過半数」で憲法改正が
 成立するのでは、事実上、国民の極少数の賛成で憲法改正が
 行われる可能性があります。
⑤公務員の国民投票活動への参加を禁止しています。
  数百万人という国民の運動を認めないことは、主権者である
  国民の権利に抵触します。
⑥テレビCMを認めれば、大金をもっている「改憲派」が
 テレビCMを使って一方的に改憲運動を進めることが
 出来ます。

今日特別委員会で強行採決された国民投票法案は
様々な問題が指摘されていますが、明確な回答
説明がないまま、一方的に強行されました。
国民の生活と命までも規定する憲法改悪に連動する
国民投票法案をこんなずさんなやり方で強行に採決することは
許されるものではありません。
  
安倍内閣の進める「美しい国」の実態は、アジア太平洋戦争
を侵略と認めず、再び、日本の軍事大国・戦争をする「普通の国」
を作ることです。そのための人間作り(教育基本法改悪・・・)
国家体制作りを進めています。改憲国民投票法は、そのための
憲法改悪、9条改悪の布石です。


明日13日に予定されている衆議院本会議での採決に反対します。

国民投票法案を採決する国民的な「機」は熟していません。
国民的な論議を深めることが何よりも大事です。

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終日曇り。

午前5時起床。
昨日の日記を書く。

午前7時、朝食。ブンボー。美味しい。
午前8時、NHK衛星放送を見る。
中国、温家宝首相の衆参両院合同国会での演説を聞く。
1時間近い演説であった。
2000年近い日中の交流の歴史から語り始める。
漢字、仏教などが中国から日本に入り、日本に定着したと話し、
明治維新後には孫文など中国革命の戦士が次々に日本で
教育され育ったとの歴史を披露。
アジア太平洋戦争での日本の侵略を指摘しつつ、
この戦争は一部の日本の指導者が行った侵略戦争と位置づけ、
日本の一般市民と戦争指導者とを明確に区別。
そうではあってもとやんわりではあるが、事実上靖国神社への
首相等の参拝に釘をさした。
全体的な基調は、日本との和解と連携を求めていることが 
言葉の端々から読み取れる。
様々な問題はあるとしても、日中が和解し、協力・共同を
基調にした互恵関係を構築することは、良いことである。
小泉首相は意味のない溝を作り出した後始末を行っている。
緊張関係を持ちつつ協力・共同の互恵関係を作り上げることが
今後の日中関係には必要である。
アジア太平洋戦争での日本の侵略そのものを本質的には
否定している安倍首相が、今後、どのような態度に出るのかが
注目される。

午前9時、徒歩ベトナム事務所へ。短期ボランティア体験を
しているAさん、Bさんと懇談。

1時間ほど、ボランティア、NGO、ストリートチルドレン支援などの
話をする。

バオミンさんにお願いし、壊してしまった目がねの修理に行く。
無料で直してくれる。

昼食。コムディア(70円)。

1時間ほど昼寝。

午後2時から読書。鴎外「カズイスチカ」。

午後3時、「子どもの家」の卒業生のTHUYさんが
トンチンカンホテルの私の部屋へ「結婚の報告」に来る。
4月14日(土)午前9時に結婚式をするとのこと。
THUYさんは、「子どもの家」の第1期生である。
現在24歳。「子どもの家」に入り、途中で父親が出現。
ホーチミン市へ連れて行くが、父親は行方不明となり、
THUYさんは、大変な苦労をする。18歳頃、ホーチミン市
から「助けて欲しい」との手紙が私の所に届き、「子どもの家」に
再度呼び戻す。その後、「子どもの家」で成人し、
料理の勉強をしたいとのことでハノイの料理学校へ行かせる。
料理学校を卒業し、フエで料理の仕事をしたいとのことだったので、
知り合いのフォンザンホテルの社長にお願いし、フォンザンホテルの
厨房で仕事を始め、今日に至る。現在は、経験も積み、
かなりの給料をもらうようになった。旦那になる人は
オートバイの修理工で25歳。
日本でTHUYさんを応援している中野亜里先生から
預かった結婚祝い品と手紙を手渡す。
こうして10数年間かけて一人の人間の成長を見守り、
結婚をするまでに至ったことは、嬉しいことである。
海外支援・ボランティアの一番の喜びと言っても良いのでは
ないだろうか?
ただ、お金や物を上げるだけの支援ではなく、人間を育てる、
一人の人間でも「自分の力で仕事をして生きてゆく人間を育てる」
ことの重要さを改めて感じた。4月14日の結婚式には
バオミンさん、「子どもの家」スタッフと共に参加することにしている。

午後4時、ベトナム事務所へ。いつくかの問題をバオミンさんと
打ち合わせ。

午後5時半、久しぶりの日本料理店での夕食。
子どもたちや日本人スタッフと夕食を食べる。
警備員のリー君はこの数日顔を見せない。
家で寝ているとのこと。何かあったのか?
それとも「さぼり癖」が出たのか?


ベトナム事務所など関連のメールの受信が出来ない。
時々、1~2通受信するが、99%のメールは、
返送されてしまう。特に海外からのメールは
ほとんど返送され、ベトナム事務所では受信できない。
プロバイダーが意識的に操作していることが分かる。

投稿者 koyama : 13:48 | コメント (0)

2007年04月11日

オアシスの会田畑さん夫妻懇談

小雨。曇り

気温22度。湿度90%(トンチンカンホテル廊下測定)

★日本滞在中(4月3日、4日)の火炎樹日記に
 写真を追加する。

★今日は終日、メールの受信が出来なかった。
  日本からベトナム事務所宛てに送信された方には
  お詫び。ベトナム側プロバイダーの事情か、日本から 
  送信されたメールは、全て受信拒否されている。

フエで生活をしていると「暑い・寒い」の分水嶺は25度である。
25度を割ると寒く感じ、長袖やセーター、ジャンバーが必要となる。

午前7時朝食。フォー。

午前中、日記を書く。
午前10時、ベトナム事務所へ。ベトナム事務所の皆さんに
ベトナム帰国の挨拶。
ベトナム事務所もやっと落ち着きを取り戻してきた。
2月末から3月一杯で300人ほどの訪問者を迎え、案内や
説明、生活等のお世話をした。訪問者の大きな波がやっと
去り、現在は2人の男性の中期ボランティア体験(2週間から1ヶ月)
を受け入れている。ベトナム事務所も何となく落ち着いた雰囲気が
漂っていた。
正午頃までバオミン・JASSベトナム運営委員長、
税田さんと不在中のベトナム事務所の活動、当面の取り組み、
諸問題等について意見交換。

昼寝。

読書「山椒大夫・高瀬舟」(森鴎外著:新潮社)
森鴎外の明治43年から数年間の短編をまとめたもの。
山椒大夫・高瀬舟以外の短編は9編。
1910年頃書かれた短編。丁度100年ほど前の作品で
あるが、明治維新を終えた東京の雰囲気、当時の知識人
の意識が良く分かる。短編「杯」「普請中」を読む。
鴎外がドイツに留学したこともあるが、やたらフランス語
、ドイツ語が出てくる。日本語で言える簡単な単語を
フランス語やドイツ語を使う鴎外の意識構造に当時の
知識人の精神構造をみた。アザレエ(つつじ)、
ロドダンドロン(石楠花・しゃくなげ)、クウヴァエエル(ナプキン、
スプーン、フォークなどのセット)、カナル(運河)、バチスト(高級麻布)
ヴォラン(縁飾り)、ブリュネット(褐色がかった髪の娘)
などは全てフランス語。
「普請中」は、鴎外がドイツに留学しドイツ人女性と恋愛をした
経験を下敷きにして、ドイツ人女性と日本人の官吏の簡単な
会食中の会話。

午後2時半、オアシスの会(船上生活者の医療支援NPO)の
田畑さんご夫妻・大塚さんとベトナム事務所で懇談。
オアシスの会のフエでの活動について意見交換。
JASSベトナムは、オアシスの会の現地の代理人を引き受けいている。
現在、オアシスの会は、大塚さんを現地代表として派遣している。
8000人と言われる船上生活者の医療支援を行っている。
医療船を運営し、毎日フォン川に医療船を浮かべ、コロニーを
形成している船上生活者を訪問し、治療や医療相談を行っている。
医療船には、医師、看護師、薬剤師が乗船している。
また、船上生活者の多い、フーハウ地区の診療所内に
船上生活者のための無料診療を行っている。
オアシスの会の現地代表の大塚さんは、午前中、医療船活動を
行い、昼から夜10時まで日本料理店の店長と私たちの活動も
支援してくれている。今回は田畑さんご夫妻で現地の活動を
視察に来られた。

午後6時半、日本料理店で田畑夫妻、バオミンさん、大塚さん
税田さん、石塚さん、私の7人で会食交流。午後10時まで。


投稿者 koyama : 07:43 | コメント (0)

2007年04月10日

成田→ホーチミン→フエへ

東京は小雨。

朝7時、巣鴨経由で日暮里へ。日暮里からスカイライナーで
1時間。
午前9時過ぎ、成田着。ベトナム航空出国カウンターはガラ空き。
入管の出国手続きも簡単。
午前10時半成田発のVN便。待合室に行くと午前10時20分発に
変更の表示。いつものことだが、早まると言って、結局は
予定より遅くなるのだが・・・。。案の定、出発は午前10時40分。
機内はガラ空き。真ん中の3席に座る。昼食は牛乳と機内食。
ビールは飲まなかった、というのか飲みたくなかった。
3席に寝ながら読書。

「寂聴 般若心経 生きること」(瀬戸内寂聴著 中公文庫)
機内とホーチミン市での待ち時間、フエまでの機内で読了。

「般若心経」は600巻とも言われる「大般若経」という膨大な
経典のエッセンス。276文字の経典。
仏陀は2500年ほど前にインドの北部ネパールのターライ盆地
のシャカ族王子として生まれた。シャカ族は千葉県ほどの
国だったそうだ。29歳で王宮を家出(出家)し、苦行林で6年間
難行苦行。しかし、悟りを開けず、苦行林を脱出。
気候の穏やかな尼連禅河(ネーランジャラー河)のそばに
生えている大きな木の下に座り、座禅を組み7日間で
悟りを開いたとのこと。

釈迦没後600年ほどして釈迦の教えの原点に
戻れとの運動が起こり、西暦250年頃、インドに
ナーガルジュナ(龍樹)という大思想家が出て、「大般若経」
を出した。「空」と言う概念。
7世紀に三蔵法師玄奘がインドへ渡り16年間インドで勉強し
膨大な経典を中国に持ち帰り、中国語に翻訳。
現在日本で使われている「般若心経」は玄奘訳が中心。
それ以前にも羅什訳もある。

「空』と言う概念と因縁と結果。全ての事象は原因がある。
諸行無常の思想。万物は流転する。
一読の価値あり。この本を読むと般若心経のおおよその
意味が分かる。

午後8時半、トンチンカンホテル着。

ホーチミン市は33度。フエは雨。22度。寒い。

日本料理店で夕食。
子どもたちも日本人スタッフも元気に仕事をしていた。
大塚さん、税田さん、仁枝さん、石塚さんと簡単な会食。
この間の情報交換。
午後11時50分、就寝。


投稿者 koyama : 10:43 | コメント (0)

2007年04月09日

福島から東京へ

晴天

長男宅。朝遅く起床。
午前10時半。駅前の極楽湯へ。(スーパー銭湯)
朝風呂でゆっくりと休む。大分、疲れが取れてきた。
多少咳きと疲労感が残っている。

長男の妻の実家・小樽の妹さんが長男を出産。
今日、新幹線で福島へ。福島駅で出迎え。
6年程前、ベトナム事務所のラオス・タイ視察旅行に
同行。8ヶ月の可愛い長男。月日の経つのは早いものだ。
地元の回転寿司へ。安くて美味しい。

午後、東京へ。

3月28日の夕方フエを発ち、車でダナンへ。
ダナンからハノイ。ハノイから成田へ。
この頃が体調、最悪。
病院へ行き、自宅へ戻り終日寝ていた。
翌日も寝ていたが、95歳の母親が入院したとの連絡があり、
大山の老人医療センターへお見舞い。昨日、退院したとの
こと。一安心。
フエから来た副知事やミンさん一行を成田へ出迎え。
東京→京都→香川(丸亀)を案内し、関空で見送る。
その足で福島へ。福島でこの40日間の疲れを取る。
土湯温泉に1泊2日。
何とか、2月15日にフエに戻ってからの疲れと体調不良を
回復しつつある。

投稿者 koyama : 10:32 | コメント (0)

2007年04月08日

福島3日目

朝8時起床。
昨夜も12時間睡眠、熟睡。

長男家族と近くの中学校へ投票。
にわか雨。

午後2時から午後5時まで昼寝。

夜、長男家族と開票速報を見ながら夕食。鍋物。
石原再選。静岡小島市長僅差で再選。
道府県議会議員選挙では、自民党は大きく減らしている。

食事が出来るようになった。この数日の休養で
大分元気を回復した。まだ咳が少し残るが、80%程度の
回復状況。

縫製研修センター支援の縫製会社社長へ電話。

明後日フエへ帰国。

投稿者 koyama : 19:40 | コメント (0)

2007年04月07日

福島休息2日目

朝8時起床。
昨晩も11時間寝る。一度も目が覚めず。
温泉。露天風呂も良し。

午後12時半、温泉を出発。自宅へ。
孫と公園で遊ぶ。桜満開。

スギ花粉症発症。今朝起きた時目やにで目が開かなかった。
鼻水と喉の痛み。
回りとみると杉林は多い。

投稿者 koyama : 19:35 | コメント (0)

2007年04月06日

福島休息

昨夜は12時間寝る。熟睡。

今日は昼過ぎから長男夫婦と土湯温泉へ。
温泉に入り、孫と遊ぶ。
3回温泉に入る。

夕食後、長男夫婦と色々と話し合う。

熱は下がるが咳が止まらない。

投稿者 koyama : 19:29 | コメント (0)

2007年04月05日

副知事一行帰国

晴天。寒い

午前8時。泉佐野のホテルの車で関空まで送ってもらう。
約20分。関空でしばらく待機し、ベトナム航空チェックイン。
午前9時、副知事・ミンさんたち4人のベトナム人は出国手続きを
経てホーチミン市へ。

ミンさんが通訳など諸活動があり相当疲れている様子。
3月31日から6日間の日本滞在。東京→京都→香川→関空と
大移動をした。訪問の先々で様々な交流が行われ、日越友好交流
という大きな目的は達成されてものと思う。
また、フエ省として香川県の造船所との提携・交流を模索している。
そうした目的も大筋達成したものとおもわれる。

今回の副知事一行訪日に関連しては多くの皆様にお世話様に
なった。改めて御礼を申し上げたい。

今回の交流が今後のJASS・「子どもの家」の取組みに大きな
影響がでる事を願っている。

午前9時過ぎ、副知事一行を送り出し、関空から新大阪へ。1時間。
新大阪から新幹線で東京へ。2時間半。東京から福島へ新幹線
で1時間半。やっと夕方、福島へ到着し、休息。数日は、ここで
休息することにした。風邪と疲れを取り去り、4月10日には
元気な姿でフエへ行きたいと願っている。

投稿者 koyama : 17:50 | コメント (0)

2007年04月04日

造船所視察

晴天・肌寒い

昨晩は、香川県の丸亀市に副知事・ミンさんたちと泊まる。

午前8時半、西森さんたちがホテルへ。
西森さんの案内でS造船所へ。副社長さんの案内で
二つのドックを視察。



またロボットで8ミリの鉄板を裁断する
機械などの別工場を視察。従業員500人近い造船所。
中国からの引き合いが多く、数年後まで注文が入っているそうだ。

午前中、造船所・工場など2箇所を視察。



昼過ぎ、造船所会長さんと懇談。昼食。

その後、丸亀からJRで1時間、岡山へ。岡山から新幹線で
新大阪へ。新大阪からなんば経由泉佐野まで。
午後6時泉佐野到着。これで副知事一行訪日の全ての
日程を終了。泉佐野からは一駅で関空へ。
皆さん、相当疲れている。ホテルへ着いてしばらく休息。

午後7時半。泉佐野駅付近の居酒屋へ。日本酒が気に入った
ようで皆さん、日本酒を飲む。日本最後の夜。日本食を堪能する。
私はまだ本調子ではなく、多少、口をつける程度。

午後9時半ホテルへ。

3月31日から今日まで5日間の訪日日程を全てこなし
ほっとする。造船所での交渉も全てうまく行き、ほっとする。
体調は徐々に快方へ向かっているが本調子にはもう一息。


投稿者 koyama : 17:21 | コメント (0)

2007年04月03日

京都から香川(丸亀)へ移動

午前9時。昔からの知り合いがホテルへ。知り合いの案内で
金閣寺を参観。
ベトナム側の希望で京都御所へ。にわか雨。京都駅の地下食堂
でうどんを食す。

午後3時過ぎの新幹線で岡山。在来線で四国丸亀へ。
香川県中小企業支援センターの西森さんが出迎えにきてくれる。
讃岐造船所会長表敬訪問。一時間半懇談。
懇談7時ホテルへ。その足で夕食懇談会。讃岐造船所会長、
支援センター西森さん親子などの皆さんと。フランス料理を
ご馳走になる。

●讃岐造船所会長の歓迎の挨拶(通訳はバオミンさん)


12階のラウンジからは本四大橋が眺められる。
懇談会は午後10時まで続く。

体調は少し快方へ向かうが頭痛、倦怠感咳あり。

投稿者 koyama : 19:03 | コメント (0)

2007年04月02日

午前8時自宅発。
午前9時日暮里着。副知事一行と合流。東京駅へ。みなさん多少疲れているよ
うだ。

午前10時過ぎ東京発、午後12時半京都駅につく。
駅には私の友人が迎えに来てくれる。駅前で和風昼食。ホテルへチェックイン
。副市長一行は清水寺へ。私は体調不良のためホテルで休む。夕方ミンさんたち
帰る。清水寺の桜は開花率50パーセント程度だそうだ。四条通りを散策。
私は咳と倦怠感。
ミンさんたちの清水寺行きの間、昔からの友人と色々と話す。

午後7時、南座前の中華料理店で夕食。午後9時過ぎ終了。

投稿者 koyama : 09:58 | コメント (0)

2007年04月01日

体調を崩す

3月29日フエを出る数日前から体調が悪かった。
今日は、咳がひどく体が動かない。薬を飲んで
1日寝込む。

副知事・ミンさん一行は福田もえ子JASS日本代表委員会委員長、
原同副委員長の案内で東京視察。

夜は、JASS日本代表委員会・JASS東京の会主催の
歓迎晩餐会(上野焼肉屋)。

明日はミンさんたちと京都へ。

投稿者 koyama : 20:12 | コメント (0)