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2007年04月13日

96回目の啄木忌

日本からのメール受信が不可能となった。
小山へのメール送信は、以下のメールへ。

koyama1947@yahoo.co.jp

この数日、日本からのメールを受信したようになって
いながら、実際には、受信できないようにプロバイダーが
措置している可能性あり。
日本から100通以上のメールが送られていながら、
実際に私たちの手に届くメールは、数%。
ベトナム事務所から日本の皆様へ返事がない場合は
その事情をご理解頂きたい。


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小雨。曇り

23度。湿度90%。

午前7時朝食。フォー。

午前9時半、徒歩でベトナム事務所へ。
夏の地球の歩き方スタディーツアーの内容検討会議。

昼食。日本料理店でカレーライス(3ドル)。家庭のカレーの
味。とても美味しい。
日本料理店には、静岡・東京から来た若者が来ていた。
きつねうどんを食べる。しばらく話をする。
静岡県立大学国際関係学部の学生さんとのこと。
「休学してアジアを回っている」と話していた。

午後12時半。昼寝。

午後1時半 読書。
今日は石川啄木が明治45年4月13日に亡くなって
96回目の啄木忌。
啄木の死を噛み締めて「啄木歌集」(久保田正文編 岩波書店)
を読む。この本には啄木のほとんどの歌が収められている。
「一握の砂」「悲しき玩具」「補遺」。
「一握の砂」を読む。551首。一握の砂の巻頭言に
啄木は線香の1本を亡くなった我が子に手向くとし
「この集の稿本を書し(本屋)に渡したるは、汝の生まれたる
朝なりき。この集の稿料は汝の薬餌(やくじ)となりたり。
而してこの集の見本刷を予の閲(けみ)したるは、汝の
火葬の夜なりき」と記している。原稿を渡したときに
子どもが生まれ、原稿料が入った時は子どもの薬代になり、
見本版が出たとき、子どもが死んでその火葬の夜だったは
あまりに悲しい。生活苦と人生の理不尽さを象徴する
巻頭言。

一握の砂は、明治41年以降亡くなる数年の作品。
鴎外の作品も啄木の一握の砂も私の父親が生まれた
頃の作品。こうした時代に我が父親がこの世に生まれたのか
と考え、感慨深いものがある。

いくつか目に付いた歌を抜粋した。

「燈影(ほかげ)なき 室に我あり父と母 壁のなかより
 杖つきて出ず」

「こころよく 我にはたらく仕事あれ それをし遂げて
死なむと思う」

「怒る時 かならずひとつ鉢を割り 九百九十九割て
 死なまし」

「鏡屋の前に来て ふと驚きぬ みすぼらしげに
歩むものかも」

「何がなしに さびしくなれば出てあるく
男となりて 三月(みつき)にもなれり」

「かなしきは 飽くなき利己の一念を
持てあましたる 男にありけり」

「それもよし これもよしとて ある人の
その気がるさを 欲しくなりたり」

「気の変わる 人に仕えてつくづくと
 わが世がいやになりにけるかな」

「一度でも 我に頭を下げさせし
 人みな死ねと いのりてしこと」

「我に似し 友の二人よ 一人死に
一人は 牢を出でて今やむ」

「友がみな われよりえらく 見ゆる日よ
 花を買い来て 妻としたしむ」

「誰(た)れそ我に ピストルにても撃てよかし
 伊藤のごとく 死にてみせなむ」
(伊藤はハルピン駅で殺された伊藤博文か?)

一握の砂を読んで、啄木という人間全てが出ていた
ように思った。26歳。96年前の26歳は大人である。
人間の心の奥底に潜む感情を素直に且つ屈折しながら
吐き出している。「伊藤のごとく」の歌は
明らかに朝鮮侵略に対する啄木の気持ちが出ている。

午後2時45分、ベトナム事務所へ。
バオミンさんと施設見学。

午後4時。バオミンさんと「子どもの家」へ。
センさん、「子どもの家」のA君と話し合い。
子どもの家を退所したいとのA君の話を
聞き、話し合いをする。

午後5時過ぎ、小学生の子どもたちが学校から
「子どもの家」へ帰ってきた。

午後5時半。日本料理店で子どもたちと夕食。
今夜は、日本料理店の調理実習。
昼食に出す料理を大塚店長が子どもたちに調理させ
1品1品について、コメントを加え、技量の向上を図った。

日本料理店。ニュージーランドの先生夫妻4人。
アメリカ人2人。イギリス人2人。
合計8人。

投稿者 koyama : 2007年04月13日 07:26

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