« セン「子どもの家」所長と懇談 | メイン | 支援物資の総合整理 »
2007年04月23日
旧日本料理店の子どもたちがベトナム事務所へ来る
晴天 この夏一番の暑さ
気温38度。 湿度70%
メールの送受信が一切出来ない。
困ったものである。これで2週間、メールが使えない。
YAHOOメールは可能
じっとしているだけで、体中に汗が吹き出てくる。
いよいよ例年のフエとなる。いつもは、3月からこんな気候なのだが
今年は、3月・4月と真冬のような寒さだった。時々夏になる。
大きな気候の変化に体がついてゆけない「季節病」にもなりやすい。
午前8時半、「子どもの家」のホン・ニーさん、グエットさん、トゥオイさん
がベトナム事務所にやって来る。
土曜日にベトナム事務所に来たフエンさん、イン君に加えてターオ君
もやって来た。
4月20日に故(ゆえ)あって日本料理店を閉店した。私の最後の挨拶で
『急に閉店して子どもの皆さんには申し訳ない。皆さんには
何も責任がない。閉店後、困ったことや悩みなどがあったら
遠慮なくベトナム事務所に相談に来て欲しい」と話した。
翌日、フエンさんとリー君がやってきた。(4月21日火焔樹日記)
今日は「子どもの家」関係の3人の子どもたちとターオ君がやってきた。
バオミンさん・大塚さん・税田さん・仁枝さん・ハンさん、石塚さん
たちで子どもたちの話を聞く。
子どもたちは日本料理店閉店後、仕事がなくなり不安だ、と訴えている。
私は、「日本料理店は閉店したが、皆さんとの付き合いは長い。
皆さんが将来自立して生きてゆけるよう応援するためにフエに来ている。
皆さんの仕事と自立・自活のための活動を支援するつもりだ。
安心していて欲しい」と話す。
当面、子どもたちに「語学研修」と「ベトナム事務所手伝い」を
するよう話した。子どもたち全員(6人)は、了承。
具体的には、月曜日から金曜日までベトナム事務所へ来る。
午前8時半~午前9時半まで「語学研修」。
水・金は「英語」(外務部員)、月・木は「日本語」(ソン君指導)。
語学研修以外の時間はベトナム事務所の手伝い。
当面は、支援物資の整理など・・・・。
その後、1995年7月に放映された『久米宏のニュースステーション」
を全員で見る。12年前のリー君(8歳)、イン君(7歳)を「子どもの家」
に入れるため、祖母と交渉する47歳の私が映っている。
続いて、1997年フジテレビ「原田大二郎親子ベトナムへ行く」を見る。
ホンニーさん(7歳)、グエットさん(7歳)の可愛らしい姿だ映る。
子どもたちは、こんな小さな頃からJASSの皆さんは自分たちと
付き合ってくれていたのだ、と言う事実を知る。
こうして、JASSは、どんなことがあっても子どもたちを見捨てることは
ないという事実をまた子どもたちに知ってもらう。
しばらく子どもたち同士で話し合っていた。そのうち、「小山先生に話が
ある」という。子どもたちの所に行く。ターオ君が子どもたちを代表して
「僕たちは2年間、日本料理店の修行をしてきた。まだだま一人前
の料理人にはなっていないが、この2年間の修行で、日本料理店
の仕事を生涯の仕事にしようと思えるようになってきた。
日本料理店が閉店になり、僕だけでなくここにいるみんなが
悲しい気持ちです。僕たちは日本料理店で働くことが大好きだ。
何とかして先生の力で日本料理店を再開して欲しい。
みんなのお願いです」。要旨こんな話をする。
こんな子どもたちの声を聞き、私は、ホロッと涙がこぼれ落ちた。
いつも気分で仕事にきたり来なかったりしていたターオ君である。
彼からこんな言葉を聞こうとは思ってもいなかった。「子どもの家」の
3人娘(ニー・グエット・トゥオイ)もセンさんに泣きながら
日本料理店が閉店になったと話したという。
この2年間は子どもたちにとって大きな存在の2年間だったの
かも知れない。朝から夜遅くまで日本料理店で仕事をした。
多くの日本人と仕事をした。この2年間で、仕事を責任持って
すること、「お金をもらう仕事の仕方」などをかなり厳しく
学んだ。子どもたちにとっては、なくなっては困る2年間であり
日本料理店であったのかもしれない。
私は「皆さんの気持ちは良く分かった。しばらくは、ベトナム事務所
で仕事と勉強をしていた欲しい。今後のことは、ベトナム事務所
のスタッフなどで話し合う」と答えたが、心の中では、「同じ釜の
飯を食う」といことは、人間同士の連帯感を生むのだな、と思った。
家族という事は、まさにいつも一緒にいて一緒に食事をする仲間なの
だ。子どもたちと過ごした2年間は、まさにこの『家族』の
生活だったのだ。一緒に食事をし、一緒に仕事をした。
お客が来なければ一緒に悲しみ、たくさんお客が来ると一緒に
喜びと、苦楽をともにして来た「家族」だったのだ。
子どもたちは大塚さんを「お母さん」と呼んでいる。
考えてみれば、多くの子どもたちは、お母さんと呼べる人間が
いなかったのだ。日本料理店に来て、本当に家族のような
日常生活をしたのだと改めてこの2年間の日本料理店の修行の
意味を考えた。鳥取の徳岡さん、茨城の中村さんなど、
多くの大人の影響を受けてきた。子どもたちにとっては
日本料理店での生活が、初めて安住する落ち着いた
家庭のような暖かさを感じることの出来る場所だったのだ
ということに気づいた。
その後、ベトナム事務所の1階から3階までの大掃除をする。
今日は気温38歳。とにかく部屋にいるだけで汗が滴り落ちる。
子どもたちは、体を動かし、仕事をするのが大好きなようだ。
日本の子どもたちとはその辺が大違いである。
●元料理の「トゥオイさん」「ウエンさん」
●元接客の「ホン・ニーさん」・日本料理店を支援していた「仁枝さん」
●元接客の「グエットさん」
●元警備員の「リー君」トイレの掃除
●元調理の「ターオ君」、洗面所の掃除
午前11時まで、ベトナム事務所の1階から3階までの
部屋や廊下、テラスなどの大掃除を敢行。
物凄いエネルギーである。4月20日に日本料理店閉店を
宣言した時の子どもたちの顔を思い出す。
今日の子どもたちの顔は、「晴天」。
子どもたちの大掃除中、在宅支援のメンさん(フエ経済大学2年)が
ベトナム事務所へ来る。里親のUさんの支援している在宅支援金
を取りに。久しぶりにあったメンさんに「元気にやっている?」と
聞く。「はい」とのこと。勉強にはついて行っているの?
「大丈夫です」とのこと。ラームさんの実家に下宿していたメンさん
であるが、訳あってラームさんの下宿をでて、現在はベトナム事務所
会計のハンさんの家に下宿してる。数年前、会うたびに暗い顔を
していたメンさんであったが、今日は明るい顔をしているように
思えた。特に問題はないなと感じた。青春を謳歌しているのか
どうかは分からないが、そうあっても不思議ではない年頃では
ある。
4月20日に日本料理店閉店宣言以来、心が落ち着かなかった
子どもたちである。諸般の事情で、日本料理店閉店は致し方ない
とは思っているが、子どもたちの憔悴(しょうすい)した顔を見ると
心痛むものがあった。今日は、子どもたちも体を動かし、38度の
猛暑の中、仕事をしてくれた。大塚さん、仁枝さんと相談し、
子どもたちと昼食を共にすることにした。
大衆食堂「フォーサイゴン」へ。
●鶏肉ご飯を食べるリー君。ビールを1本飲む。20歳。飲酒可。
●鳥肉ご飯を食べるニーさん
日本料理店閉店問題後。私を支え、一緒になって今後の
活動・取り組みを子どもたちの立場で考えてくれている
大塚さん・仁枝さん。お二人の存在に心から感謝している。
大塚さん、仁枝さん、税田さん、ベトナム事務所のスタッフ
がいなかったら、日本料理店閉店、その後の様々な問題を
切り抜けて行くことは出来なかったと思う。心から深謝。
午後1時。昼寝。
この数日、心身ともに疲れる。1時間寝てしまう。
午後3時。徒歩ベトナム事務所へ。バオミンさん、税田さんと
打ち合わせ。2時間。
午後6時。大塚さん、仁枝さんが、夕飯を作ってくれる。
大塚さん、税田さん、仁枝さん、石塚さん、私で夕食。
トビウオの塩焼き(久しぶりに食べる焼き魚)。
午後8時、疲れたまま寝てしまう。
元日本料理店の厨房にいたHさん(22歳)は、フエ市人民委員会
外務部長N氏に「小山氏さん言って、Hさんの就職の世話を
するようにして欲しい」と頼みに行っている。
卑怯な人間だ。「子どもの家」の子どもたちもリー君。ターオ君
もベトナム事務所に来て、直接自分の気持ちを話している。
影で権力を使って、私に就職の世話をさせようという卑怯な
やり方に無性に腹が立つ。子どものやり方ではない。
やり方が陰湿だ。私はこうしたやり方とこうしたことをする
人間が嫌いだ。リー君やターオ君などは、勝手に仕事を
休んだり、給料日にもらった給料を1日で全額使ったりと
問題を持っている。しかし、日本料理店閉店という問題
が起こったら、真正面から私にぶつかってきた。
Hさんは影で権力を使い、権力が私に命令しその力で就職しよう
というおよそ子どもらしからぬやり方をしている。外務部長は拒否。
14年前にチーラン通り「子どもの家」で数か月お世話をした。
本人が日本料理店で仕事をしたいとのことだったので、昔出会った
ことも何かの縁と思い、日本料理店に採用した。
先日、結婚をしたが、結婚の話も招待状も私にはこなかった。
結婚式が終わって日本料理店に来ても何ら挨拶がなかった。
彼女は外務部長などを使い、私を上から命令して、
私が「嫌だ」と言えない様なやり方で「自分だけ」就職をしよう
という卑怯極まりないやり方をした。結局、私やJASS、「子どもの家」
を『利用する』だけの存在としか考えていなかったのだ。
リー君・ターオ君は問題も多いが、人間として真っ当である。
自分だけが就職して「良くなろう」とはせずに、みんなの声を
代表して「日本料理店を再開して欲しい」とみんなのことを
考えての行動をしている。人間は切羽詰った時にその人間の
本質が出るというものである。
4月20日日本料理店閉店をしてから、Hさんと厨房主任の
Aさんは一度も私たち日本人やベトナム事務所に顔を出さない。
しかし影でこんなやり方をしていた。ベトナムに住んで14年。
色々な経験をした。私や私たちJASSを「利用する」ための
存在と考えるベトナム人がいることは事実である。
この14年間、私の回りになんと多くの「利用者」がいたことか。
投稿者 koyama : 2007年04月23日 10:48