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2007年06月30日

福島競馬場へ

晴天

昨夜、福島市内の屋台村でかなり飲み、今日は朝起きるの
がきつかった。

午前11時。徒歩で近くにある福島競馬場へ。
長男の競馬場視察に便乗。
来賓室で5レースほどの競馬を見る。


午後4時、福島駅から新幹線で帰京。

32通の受信メールを読み返事を書く。3時間半かかる。

投稿者 koyama : 22:54 | コメント (0)

2007年06月29日

福島大学講演会

終日雨

午前7時半、長男宅を出て車で福島大学へ。
午前8時45分から90分間。経済学部「開発経済学」授業を行う。

3年生、70名。


テーマは①ベトナムへ行った経過  ②ストリートチルドレン支援の
経過  ③海外ボランティアのめざすもの(人間を育てる)
④自立(特に財政自立)をめざす取り組み

その後、私を呼んでくれた経済学部佐野先生のゼミ生と懇談。


昼食は福島市内にできた「屋台村」で。

夜7時、再度屋台村へ。


投稿者 koyama : 18:02 | コメント (0)

2007年06月28日

メール対応

福島

今日は33度。

今日1日で33通のメールあり。
メールの返事に半日以上、かかる。

東京から3本電話あり。

明日の福島大学経済学部での授業内容を
検討する。
・海外NGOのめざすもの
・現地自立の内容

こんなテーマで現場の具体的な取り組みを
話そうと、授業の素案を作る。90分の授業。

投稿者 koyama : 18:19 | コメント (0)

2007年06月27日

福島で仕事

福島は快晴

気温30度。

午前中、ダラット・バンメトート関連のツアーの
日程、飛行機のやりくりなどでピースインツアーと何度も
連絡。べトナム事務所のバオミンさんとも連絡を取り合う。

午後は、讃岐造船の社長さん以下4人のフエ視察団の
航空券、日程案などを作る。ファーストクラスの航空券が
取れず苦労する。午後4時半、やっと讃岐造船の関係者と
連絡が取れ、具体的な打ち合わせを行う。

今日は朝から夕方までベトナム関連の連絡等で終わる。

午後、孫のピアノ練習初日に立ち会う。20分。
飽きさせないように」先生はピアノ、歌、ゲームなどを取り入れれ
いた。


夜、長男一家と食事。カツオの刺身がおいしい。

投稿者 koyama : 16:18 | コメント (0)

2007年06月26日

横浜市立下瀬谷中学校講演会

曇り

午前9時、自宅を出て巣鴨→池袋→横浜→相鉄線「瀬谷」。
2時間半。

瀬谷駅でJASS青少年の会加藤さんと合流。
12時半まで打ち合わせ。加藤さんの車で横浜市立下瀬谷中学校へ。

午後1時半~午後3時近くまで講演会、質疑応答。
600人の全校生徒にベトナム・ボランティア・人生などを話す。


その後、私の講演を聴いた後で更に質問や懇談をしたい生徒
15人と1時間ほど懇談。


午後4時過ぎ学校をでる。

途中、加藤さんとJASSスタディーツアーについて30分ほど懇談。

相鉄線瀬谷から横浜経由東京駅へ。
東京から新幹線で福島へ。福島着午後9時。

投稿者 koyama : 15:54 | コメント (0)

2007年06月25日

池袋に宿泊

昨日の母親95歳祝賀会に参加した長男一家と池袋の
ホテルに1泊。

午前中、長男一家と過ごす。

夕方、帰宅。メール34通。受信を読み返信に3時間かかる。

明日の横浜市立下瀬谷中学校講演会の骨子を考える。

投稿者 koyama : 18:58 | コメント (0)

2007年06月24日

母95歳お祝いの会

曇り・時々雨。

午後12時~3時まで青山で母親の95歳祝賀会を行った。
私は5人兄弟だが、兄(3歳)、弟(16歳)が死亡。
父親も52歳で死亡している。現在は姉、妹の3人。

今日の母親95歳お祝いの会には、姉一家、妹一家
とわが一家全員集合し、お祝いの食事会をした。
母親はアルツハイマー認知症ではあるが、何となく
嬉しそうだった。

初めに写真館で全員集合写真。母親と家族ごとの写真撮影。

母親は1912年(大正1年)生まれ。
茨城県土浦市で生まれ、小学校途中で東京神田に行儀見習い
に出される。
1924年(大正12年)12歳の時、東京神田で関東大震災に
遭遇。1932年(昭和7年)、御茶ノ水の大きなケーキ屋で
行儀見習いをしているとき、喜劇王チャーリーチャップリンが
その家を訪れ、チャップリンと会う。
1940年(昭和15年)前に中国にわたる。兄・姉が
中国で生まれる。1945年12月、敗戦で引き上げる途中、
兄(3歳)を肺炎でなくす。
東京大塚で起業。私が生まれる。
その後、大塚から林町、池袋、板橋、志木、高島平、大山と
移り住む。

95歳の母親は5人の子どもと7人の孫と1、5人のひ孫に
恵まれた。

母親、私、長男(孫)、ひ孫の4代。
ひ孫と母親は90歳年が違う。

兄弟(姉、妹)で母親に95歳の記念のプレゼント贈呈。

母親の長寿を願う。

投稿者 koyama : 18:17 | コメント (0)

2007年06月23日

讃岐造船代理人との懇談

快晴

午前11時に自宅を出て新宿京王プラザで香川の
讃岐造船の代理人の方と懇談。4時間話す。
研修生派遣の件。

午後6時帰宅、33通のメール受信。
日本へ帰国し、メール受信、返信で半日は費やす。

午後9時。NHKBS2で「美空ひばり生誕70年珠玉の70曲」
を見る。人間は死ぬと神格化される傾向があるが、それを考慮
してもひばりの歌は、「心に滲みる」。私は西洋のクラッシクより
もひばり演歌が好きだ。

安部首相の「年金問題で自分のボーナス一部カット」という
ニュースを聞いて、この人は庶民の気持ちを全く理解でなない
「馬鹿坊ちゃん」と見た。自分のボーナスの一部をカットして
いくらだと言いたい。年収200万円、300万円の庶民が
ボーナスをカットしたのと違うのだ。何億円と収入があり、
相当の親からの資産がある「上流階級」の坊ちゃんが
自分のボーナスの一部をカットして庶民が「さすがだ安部首相」
と思うと考えている所に根本的な考え違いがある。
昨年末から今年の初頭には5000万件の年金の資料消えた
問題を知っていた安部首相。問題になる前に知っていて、
問題化したら、カッコだけ「責任を取る」ようなボーナスカット
などという卑怯なやり方をしないで、5000万件と千数百万件
の消えた年金を1年以内に全て解決するという「嘘」の公約
を直ちに取り消し、謝罪すべきである。
生活に何も影響もないボーナスの一部カットなどとう言う
卑怯なやり方をせずに、首相就任中のすべての公費収入を
全額カットするといってみろと言いたい。
7月29日は年金選挙だ。私たちのように騙され騙されしながらも
真面目に年金を拠出してきた人間は、いよいよ7月29日の選挙
で「消えた年金」の仕返しが出来る。7月29日に立ち上がらないで
年金がどうのこうのという資格はない、という過激な発言を
したい。投票日を伸ばして選挙に有利にしようなどという
こっすからい、庶民を「なめた」安部首相に「年金一揆」のむしろ旗
をおったてて立ち上がろう。7月29日は「年金一揆」だ。

ここまで書いて大吟醸比羅夫「能代」は半分空いていた。
かなりメートルが上がっている。もうここまで来たら言いたいことを
言わせてもらおう・・・・・・・・。

7月29日の参議院選挙では、安部首相に「お灸」をすえよう。
そのくらいしないでは「馬鹿な国民」と安部首相に思われても致し方
ないように思う。
暴力で安部首相に打ってかかることは出来ないが、憲法に
基づき、主権者としての権利を行使し、この際、はっきりと
安部首相にお灸を吸えて、9月29日には安部首相の
大敗北というニュースを聞いいて、大石内蔵助の気持ちになろう。
7月29日は怨念を晴らす選挙だ。

投稿者 koyama : 20:38 | コメント (0)

2007年06月22日

歯科医へ

雨のち曇り

日本へ一時帰国し7日目。初めての雨。
やっと梅雨の様相を呈してきた。

今日は夏至。昼の一番長い日。

午前10時、歯医者へ。特に痛いとか悪いところがあるわけで
はないが、歯の健康診断のため通院。あまり私のような患者は
いないようだ。受付の人と医師の会話がそれとなく聞こえてくる。
「どこが悪いの?」「悪いところがないようですが、検査して欲しい
ということです。検診です」「どこかの会社の検診?」。

10年間ほど私を担当してくれて先生がいなくなった。
良くテレビで私の番組を見てくれていた。

家の近くの歯科医。中々丁寧に見てくれる。
初めに全ての歯の検査。続いて歯のレントゲン。
1本の奥歯の歯根が曲がり、その付近が膿んでいるとのこと。
そのうち痛くなる。治療は中々難しく2ヶ月から3ヶ月ほどかかる
と言われ、今回の帰国中には治療できないといわれる。
歯全体の診断は、歯周病の手入れが良く出来ているといわれた。
歯石・歯垢除去の方法をこの歯科医で教えてもらい、毎日3回の
食事毎に実践している。手では出来ない部分を除き
しっかりと歯石・歯垢除去の努力がされていると言われる。

機械で歯石を取る。次に歯磨き粉のようなものを少しつけて
歯と歯がくっついている部分の歯石を取る。耳かきのような
ものでガリガリと歯石を取る。
それでも年相応に歯茎が沈下しているとのこと。歯の根の
部分が一部露出しつつあるので、この1ヶ月の間に
3回ほど通院し露出しつつある部分にセメントのようなものを
塗り、痛みや過敏な刺激を防ぐ措置をとることになる。
費用1000円。次回3回の予約を行う。
年齢が行くとやはり「歯」が段々と老化する。痛くなる前に
しっかりと「予防」措置を取る必要がある。私は今まで歯が痛く
なった経験がない。70歳まで生きるとして、70歳でおせんべいと
スルメをばっちり食べたいと思っている。そのためには、毎日の
手入れをきちんと行い、素人では出来ない部分は専門家のケヤー
を定期的に行っている。

歯石取りのドリルのキーンとした音を聞きながら、歯科医への
通院も今回のベトナムでの日本料理店閉店・新日本料理店開店、
JASS観光設立も同じことだなと思った。
歯科医に行くのは何となく嫌なものである。ついつい先延ばしに
したいという衝動に駆られる。特にドリルでキーンと研磨されている
時に「痛かったら手をあげてください」と言われると、何とも
嫌な気持ちになる。「手を上げて」ということは、キーンとやっている
と、痛くなる可能性があるのだな、などと思うとつい体に力が
入ってしまう。
そんな経験をするとつい歯科医に行かず、歯が痛くなるまで
放置するということになる。しかし、その時には既に病巣は
拡大し、治療がえらく痛くなるか、抜歯するか、手のつけられ
ない状況になるかだ。

今回のベトナムでの日本料理店・JASS観光問題も
同様である。まだ痛さが出ないうちに先見の明で早期に
手を打つことが、最善の方法である。犠牲と労力が少なく
最大の効果がでるのである。

私は何事も「大問題」になる前に「傷のうち」に治すという
性格かもしれない。時々、誤解され、「小山独裁者」
などいうメールを頂くことがあるが、数年後に、何故
私がその時にそうした主張と行動をしたかを理解してもらえる
こともある。

7月15日までに3回ほど嫌いな歯科医に行く。キーンという
地獄の音を聞きながらの治療に耐えることで、のちのち
せんべいをバリバリ食べ、軽くあぶったフエのスルメを
おつまみに純米大吟醸を飲むという遠大な目標と楽しみの
ために今を我慢しているのである。

午前11時、歯科医から帰る。ブランチ。蒸し暑いので
食欲増進もかねて「カレー」を作る。冷蔵庫にある使い古しの
野菜を使う。私は豚肉が好きなので豚細切れをバターとニンニクで
炒める。冷蔵庫にある野菜(大根、キャベツもぶつ込み)を入れて
煮込む。固形ルーをしばらく煮て出来上がり。
大好きなぬか漬けが入れ物ごとなくなっていた。ぬかも生きている
のだ、生き物を殺してはいてない。殺生反対。
多少大量にカレーを作り、3つほどのパックに入れて冷蔵する。
残りをブランチとして食べる。その前に大事な薬(缶ビール1本)。

テレビのニュースで三笠宮のひげの息子が「アルコール依存症」に
なり宮邸では治療できないので宮内庁病院にかなり長期間入院
するというようなニュースを聞いた。
読売医療功労賞授賞式後、皇居で天皇・皇后と会った。
事前の宮内庁スタッフの話では年間相当な数のこの種の面会を
行っているとのこと。正直、これが仕事だとは言え、大変だなと
言うのが私の率直な感想だった。

ひげの息子さんもやはり相当のストレスがあったのだなと同情する。
ガンの手術もしているようだ。宮内庁が「アルコール依存症」と
きちんと発表することは、立派なことだ。牛肉偽装の社長は
最後まで真相を言わなかったが。
ストレスが溜まったらお酒を飲むのが私にとっては最大の
ストレス解消法。この人は、あまりにストレスが強く、相当の飲酒量
があったのか? 回りの人がきちんと注意をしなかったのか?
昔でいう「アル中」だ。皇室もアル中になるようなストレス時代を
私たちはどう生き抜いていったらよいのだろう? 早期回復を
祈る。

午後30分ほど昼寝。

午後2時から「近代の奈落」(宮崎学著:冬幻舎アウトロー文庫)
読了。文庫で510ページと結構読み応えのある本。
宮崎氏は私より2歳年上の同年代。
時々テレビにも出る。私が初めて宮崎氏をテレビで見たのは
森永グリコ事件の時効が近づいた頃、犯人と目されテレビで
犯人ではないと弁明している場面であった。
確かに犯人のポスターにある「狐目の男」にそっくりな顔を
していた。インタビューへの回答は相当拗ねた、社会を
はすっかいに見ているような態度に見えた。あまり好感は
持てなかった。少し変な人間という第一印象だった。
数年前に「突破者」(宮崎学著:冬幻舎)
標準語では「とっぱもの」と読んでしまうが、著者の言い分
だと「とっぱもん」だそうだ。

宮崎は異色な生い立ちを持っている。京都の寺村組という
大きなやくざで未解放部落出身の家に生まれ育つ。
父親が家庭教師をつける。
偶然その家庭教師が京都大の共産党員の学生だった。
家庭教師中に階級闘争、マルクス主義などの教育と
影響を受けたそうだ。京都の高校を卒業し、早稲田大学
文学部に入学。直ぐに共産党に入党し、革マル派との
党派闘争を行い、学生運動、早稲田大学学費闘争から
70年安保闘争・東大闘争と政治闘争・学生運動を
行う。共産党系学生運動の「ゲバルト部隊長」
だったと書いている。その後、共産党を除名。退学。
週刊誌の記者などを歴任。
やくざで土建業だった父親の仕事が左前になり
京都へ戻り、地上げ、ヤクザとの戦いなどを経験し
小説家・ルポライターとなる。こんな経歴の人である。

1922年(大正12年)に水平社が創設され、部落解放運動は
大きな運動となる。その後、今日まで様々な政治的な思潮の
影響を受け、内部での抗争、対外的な糾弾闘争、同和事業
対策費に群がる「エセ同和」など多くの問題をかかえながら
今日に至っている。戦前から組織分裂問題を抱えていた。
19060年代後半になると部落解放同盟は分裂し、暴力と
利権もからみ大きな問題となる。

宮崎は部落問題を見る場合、二つの立場に分かれると言う。
一つは生活者としての部落問題、
一つは文化人・知識人的な部落問題へアプローチ。
生活者として部落問題を考える立場は部落の人々の生活の場に
視点を置き、その解放をすすめようとする。
文化人・意識人的立場の人々は部落の外から「あってはいけない」
ものとしての部落との位置づけでその解放を考える。
上から見下ろしての解放論。

この違いはボランティアでも同じものがあるように
思いながら読んだ。

この二つに視点は1922年に水平社が設立されて以降、繰り返し
論争されてきた視点である。
文庫本500ページの本書を読むと、未解放部落の問題と
その歴史、そして福岡の炭鉱地帯の部落から関西、長野
など、各地のそれぞえの未解放部落の歴史をその解放の
ために闘った来た人々の歴史が分かる。
特に若い人に薦めたい本である。「本は読んでも妄信しない」。
私の読書のモットー。

天皇制と未解放部落問題は表裏一体のもの。
天皇制そのものが近代差別の根源である。

投稿者 koyama : 16:32 | コメント (0)

2007年06月21日

自宅休養

晴天

気温30度。過ごしやすい。

午前8時起床。

午前10時、ウオーキングがてら区役所高島平支所へ。
片道、徒歩30分。いくつかの届出等の手続き。

昼食。そうめん。なすの油いために卵を泳がせたつゆ。

昼寝。

午後2時半から読書。「近代の奈落」。長野の部落史。
島崎藤村の「破戒」をどう評価するのか? 宮崎学氏の
見解を読む。藤村の「破戒」には、賛否両論ある。

4ヶ月ほどフエにいたが、この4ヶ月で「スイカ」が
都営地下鉄や私鉄などでも使えるようになったこと。
我が家の近くの「AM PM」がつぶれてこと。
西台駅前の小型スーパーがつぶれたこと。
数件の店は代わっていたこと・・・・・・。
たった数ヶ月で町の景色と雰囲気が変わっていた。

ベトナムのテレビやCNN、ドイツ、フランスのテレビを
ベトナムで見ているせいなのだろうか?
日本に帰国しテレビ番組を見るとどうしても見ようと
思う番組がない。テレビをつける。朝から夜まで
どこのチャンネルもほとんど同じ内容。ベトナムが一党独裁で
ニュースの時間になるとどのチャンネルも同じ番組となってしまうが、
形を変えて日本も本質的には同じようなもの。

夜は食べ物番組、観光旅行番組、おちゃらけ番組。
どこもいつでもほぼ同じ。

結局、本を読んだほうが楽しくなってしまうのだ。

NHKkローズアップ現代「沖縄集団自決」を見る。重みのある
番組。そのうち、自民党の横槍で番組が中止になるかもしれない
などと予感した。

イラク特措法・教育3法、採決強行。
イラクへのアメリカの侵略はヨーロッパでも間違いと
の考えが主流となった。アメリカでもイラク侵略に賛成した
民主党も撤退を主張している。わが日本だけが、充分な
論議のないまま、イラク侵略派兵法の採決を強行。
教育3法は、現場の先生方を一層縛りつけ、総意工夫をした
授業、学校運営ができなくなる。学校に競争主義とニセ学力主義、
成果主義、数値主義が荒れ狂う。学校は先生方がお互いを批判し
切磋琢磨しながら研修を深め、子どもたちのための教育を進める
場である。

ああ、こんな大事なことが、ほとんど話題にならずに国会を
通過してしまうのだ。日本はどこへ行くのだろうか?

投稿者 koyama : 18:18 | コメント (0)

2007年06月20日

横浜市立野庭中学校講演会

ベトナム事務所より連絡。昨夕午後5時、リー君の下宿の大家
さんがベトナム事務所に来る。リー君が下宿の人間と飲んで
大喧嘩中とのこと。サンさんに下宿まで行ってもらい、リー君を
連れてくる。下宿の近所の友達と飲んでいるうち、友達が
「お前はマフィアだ」と言ったので頭にきて殴りけんかになった
とのこと。リー君は具合いが悪くて日本料理店を欠勤している
最中の出来事。
その後の連絡でリー君は生きたアヒルを持ち込み調理し
それをおつまみに下宿の連中とお酒を飲んだとのこと。
トリインフルエンザ問題もあり下宿の大家さんは生きたトリの
下宿での調理を禁止していたんのだが、リー君は無視した。
確かに生きたアヒルを「ひねって」ビールを飲んだら美味しい
だろうな、などと考えはしたが、いけない、いけない・・・。

子どもの成長は「螺旋階段を登るがごとき」と言う。
紆余曲折があった上で一人前になるのだ。子育ては直ぐに
結果など出せっこない。

バオミンさん・税田さんに、リー君を厳しくしかるよう
連絡する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

晴天

午前9時、自宅を出て 西台→巣鴨→東京→戸塚→上永谷
(2時間)

今日は横浜市立野庭中学校の人権全校講演会。
主催は野庭中・同PTA,野庭小PTA、野庭東小PTA。

午後12時、野庭中に到着。


JASS青少年教育の会の山田さんが手伝いに来てくれた。
感謝。

校長室で御園校長先生、PTA会長さんとしばらく懇談。

午後1時半~午後3時まで講演会。
280人の生徒と近郊小学校PTAなど320人ほどの皆さんが
体育館に参集。

初めに御園校長先生の話。校長先生は私と同年齢。
2008年3月で定年退職とのこと。
生徒や先生方と一緒に苦労する先生と見た。


続いて私が1時間ほどベトナムでの活動、ストリートチルドレン、
ボランティア、人間の生き方などについて話す。




1時間の講演会後、生徒の質問を受ける。5人ほど質問があった。
「14年間ベトナムにいて一番苦しかったことは?」
「一番、嬉しかったことは?」「子どもたちをどんな目でみているのか?」
・・・・・・・・。

講演会終了後、PTA会長さんから感謝の言葉があった。


生徒会長の感想とお礼の言葉のあと、生徒会の役員から
花束贈呈があった。


午後3時過ぎ、講演会終了。

校長室でしばらく懇談し帰宅。

午後6時過ぎ帰宅。今回の帰国第1回目の講演会であった。

投稿者 koyama : 07:21 | コメント (0)

2007年06月19日

心臓定期健診

快晴

午前6時起床。
ベトナム事務所からのメールに返事。

午前10時、ある保険会社の本社役員などが4人が我が家に
謝罪に来る。2時間半、話し合う。

昼食。

午後1時半、自宅を出て春日経由都営地下鉄で都庁前へ。
新宿NSビルの心臓病院へ。
心電図、レントゲン、採血、診察、投薬。全て2時間半。
4種類の薬について医師に聞く。そのうち2種類は、精神安定剤
とのこと。
心臓はストレスが一番良くないとのこと。ストレスを和らげるため
に2種類の精神安定剤を投与しているそうだ。
ストレスね・・・。この2ヶ月ほどは、フエ滞在14年で一番ストレスが
溜まった時期でもあった。日本料理店閉店、日本料理店新築開店。
JASS観光会社設立など、短い期間ではあったが、大激動の
2ヶ月であった。たった1ヶ月で日本料理店を新築するのは
並大抵の苦労ではない。フエ滞在中は2種類の精神安定剤は
ほどんど意味がなっかたように思う。心臓肥大と言われる。
お酒を飲むことはストレス解消では薬より大きな効果がある
と大きな「自信」を持つ。これからストレス解消のため飲まなければ
ならない、というのか「飲む権利」があえると自らの飲酒に医学的な
裏づけをもらった通院だった。
2時間半の病院滞在で9100円の支払い。ベトナム人だったら
ベトナムの庶民はこんな高額治療は出来ない。
NSビル内にある大きな本屋へ。今、日本でどんな本が売れている
のかを知る。ほとんど興味がない。

午後4時半、NSビルを出て徒歩でJR新宿駅まで。
山の手線外回りに乗る。二人の若い男女が大口を開けて
パンをパクついている。みっともない。食べることと排泄は
人に見せるものではないなどというお説教は通じないだろうな。
高田の馬場でほとんど裸に近い女性が乗り込む。
背中は布すらない。超ミニスカート。ほとんどパンツが見える。
この場合、パンツと言わないのだろうか?最近はパンツは
ズボンだから・・・・。
隣にいる若い女性。おへそが出ている。昔からお腹を冷やすと
下痢をするといわれているよ、腹巻をした方がいいよなどという
助言が出来る訳もない。これも「自由」ということなのか・・・。
ベトナムから日本へ帰るといつも『超違和感』を感じる。

午後6時、巣鴨着。巣鴨駅駅前の本屋へ。
「説教節」(水上勉)、「恋文「(荒木とよひさ、俵万智)を買う。

近くの飲み屋に入る。まだあまりお客がいない。モツ煮込みで
生ビールを飲む。ストレス解消? となりの「オヤジ」がタバコを
吸う。煙が私の顔と体に充満。食べ物屋でタバコを吸うな。
中生2杯を飲んで撤退。タバコに我慢できず。タバコとビールの
どちらを取ると聞かれたら、ビールを捨ててもタバコから逃げると
いうことになる。

午後7時、自宅着。宅急便が来たが不在票あり。
電話をする。「お客様の電話をお願いします」と言われ、
「03-954・・・・・」そこから我が家の電話番号が出てこなかった。
飲みすぎのせいか? 老齢で記憶力が劣ったのか? はたまた
母親と同様のアルツハイマーが始まったのか?
自宅の電話番号が言えず、携帯のプロヒールを出して携帯電話
番号を教える。ウーン、やはり年齢ということか?

通院と待機中に「近代の奈落」(宮崎学)を3分の2ほど読む。
部落問題。特に水平社設立、京都・大阪・奈良・和歌山の
部落問題の歴史。大いなる関心を持って読んだ。
若干の疑問あり。部落解放同盟の異常な糾弾闘争の総括なし。

自宅着後、大吟醸「能代」(秋田能代市)を飲む。美味しい。
精神安定剤を飲まずに大吟醸を飲んで十分ストレス解消と
なったのだが・・・・・・・。

恐ろしい時代になった。美しい時代だと思っていたら・・・・。
参院外交防衛委員会で19日、自衛隊のイラク派遣に反対する市民
運動などの情報を陸上自衛隊の情報保全隊が収集していた。
久間防衛相は「国会議員であっても、国民は平等に情報収集の対象
になり得る」と述べた。増子輝彦氏(民主)の質問への答弁。

恐ろしい時代になった。安部首相がいう「美しい日本」になった
と思っていたが、戦前と同じ特高警察が復活した。
「美しい国」の主導者が否定した日本国憲法には
思想良心の自由が明記されている。また集会結社の自由も
保障されている今、「防衛大臣」が自衛隊に反対する人間は
秘密裏に調査する、国会議員も例外でないと言っているのである。
恐ろしい時代になったというのは言い過ぎだろうか?
憲法に保障されている行動をしている・違法をしている訳では
ないのに何故自衛隊は調査・探索をするのだろうか?


第十九条【思想及び良心の自由】
 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第二十一条【集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密】

 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

久間氏は憲法の上位にいると勘違しているのではないか?
「防衛大臣」がこんなことを言っているようでは、これから
自衛隊が旧日本軍と同じに「文民統制」にすら従わない
ようになるのではないだろうか? 久間=東条英機などと
言ったら「防衛大臣」に調査・探索される対象になってしまうの
だろうか?


インチキ宗教=エホバの証人

手術中に大量出血、輸血受けず死亡 大阪
 信仰上の理由で輸血を拒否している宗教団体「エホバの証人」信者
の妊婦が5月、大阪医科大病院(大阪府高槻市)で帝王切開の手術中
に大量出血し、輸血を受けなかったため死亡したことが19日、分かった。
病院は、死亡の可能性も説明したうえ、本人と同意書を交わしていた。
エホバの証人信者への輸血を巡っては、緊急時に無断で輸血して
救命した医師と病院が患者に訴えられ、意思決定権を侵害したとして
最高裁で敗訴が確定している。一方、同病院の医師や看護師からは
「瀕死(ひんし)の患者を見殺しにしてよかったのか」と疑問の声も
上がっている。(毎日新聞)

とのこと。宗教は何のためにあるのか? 私は宗教の信者ではない。
しかし。宗教を信じている人を否定していない。それは、宗教者は
人間を大事にしている、特に貧しい人々に共感を持ち、寄り添って
共に生活する人たちが多い。JASSベトナム事務所にはもそうした
方々がおり、私たちと協力しながら「人間を人間として尊ぶ」
という活動をしている。

エホバの証人。信者は自殺願望者ですか?
誰が指導しているのかは知らないが、インチキ宗教。
人間の命と尊厳を否定するのは殺人者だ。
オウム、統一教会・・・・・・。みんな怪しいインチキ。
人間を人間としてみないニセ宗教に若者が騙されない
こと望む。


投稿者 koyama : 19:15 | コメント (0)

2007年06月18日

池袋へ

晴天

午前8時起床。

池袋へ。東武旭書店。2時間ほど本を見る。

先日亡くなった城山三郎の本を数冊、『労働ダンピング』、
「真景累ケ淵ー三遊亭円朝」を買う。

銀座ライオンで生ハムをつまみに生ビール2杯の昼食(?)。

午後帰宅。メール受信・送信。

午後3時、板橋区役所高島支所へ。必要で印鑑証明を
もらいに行く。事前に電話で「必要なもの」を聞く。
車の免許書とのこと。印鑑証明カードのシステムが変更に
なったのでカードを変えるよう電話で言われる。

支所に行く。受付の順番を待つ番号器があった。
申請書を出した人がこの番号器を使うようにとの注意書き。
なるほどと思い、印鑑証明カード変更の申請書を探すが
どこにもない。しばらく探す。はやりない。窓口はどこも
一杯。順番番号器は「申請書を出した人」の順番待ちの
ためのものだし・・・・。どうすればよいのか分からない。
相談窓口もない。仕方がないので仕事をしている窓口の
係りの人に聞く。それならこの申請書に書いてくださいと
言う。私は「どうしてその申請書を受付のところにおいて
おかないの?」と質問する。担当者は「?・・・・・」。
返事なし。順番を待つための番号器は申請書を出した
人しか使ってはいけないと書いてあるし、総合相談窓口
はないし・・。印鑑証明カード変更受付窓口と書いた所も
ないし・・・・。どこに行けばよいのですか?と再度、担当者に
聞くが、ここで良いですという。ここで良いというのは、あなた
の都合でしょ? 区民が支所に入って「印鑑証明カード変更」を
しようとした時、どうしたらよいかわからいですよ、と言うが
窓口の係りの人は私の言うことが理解できなようだ。
所長を呼んでください、と言う。所長が来る。
事情を話す。私のようにずうすうしい人間なら勝手にどこかの
窓口に言って話をするが、お年寄りの方などは、これでは
わかりませんよ。申請書が窓口担当者の所にしかないのなら、
「印鑑証明カード変更申請書はどこどこの窓口に行くようにとか
誰か相談者を申請書を書く所に配置しないと区民は困ります」
「これでは区民が主人公なのか区職員が主人公
なのかわからないですよ」「区民が支所に来たら、区民が
目的とする仕事が直ぐ分かるようにしないとだめでしょ」と
話す。所長は、よく分かりました。来週の会議に提案しますとの
こと。こんな当たり前のことを何も会議で話すことでもないのに
と思う。所長が、「何でも相談窓口」を作るとか、申請書を
係りの所から受付の所に置けば快活するのにと思う。
お役所仕事。

印鑑証明カード変更の申請書をもらう。
申請の際、認印が必要と書いてある。直ぐに係りの人に
「電話で事前に必要なものを支所に聞いたら免許証だけと言ったの
に、申請書には、認印(認め印)が必要とかいてありますよ」と
聞く。係りの人は、「いいです、いいです」と言う。「いいですじゃない
よ。申請書に認印が必要と書いてあるのに、認印がいらないはない
でしょう。それなら申請書に書かないように」と問いただす。
所長を再度呼ぶ。認印を正す。手書きのサインでも良いとのこと。
それなら認印など書くな、と所長にいう。「そうですね。区役所本庁
で決めたことなので、これも本庁に話します」とのこと。
「区民のために」といいながら、相変わらずの区役所・お役人
仕事。区民の立場に立てば、申請書に認印とあれば、家に
取りに帰る人もいるはず。区役所に来る人の立場で仕事を
していないことが良く分かる。

午後8時。次男夫婦と「父の日」のお祝いの夕食会。
8月に子どもが生まれるということで、かなり大きなおなかに
なっていた。
午後10時まで、生ビールを飲む。

投稿者 koyama : 19:49 | コメント (0)

2007年06月17日

JASS青少年教育の会懇談

晴天

昨日は暑かったが、明け方寒くなる。

午前10時、JASS青少年教育の会、森田さん、加藤さん、
山田さんが自宅来訪。近くの喫茶店で夏のスタディーツアーの
打ち合わせ。3時間半ほど。

8月18日から8月25日までのスタディーツアーの細かい原案に
ついての質問等を受け私見を言う。いくつか内容を変更。
子どもたちとの交流内容、中学校・高校交流等を考えている。

6月20日、6月26日の2回行う横浜市の中学校での全校講演会
の打ち合わせ。

午後2時、自宅へ帰り昼寝。これは長年のベトナムでの生活で
身についてしまったもの。


ベトナム事務所からメール。6月15日のピースボートは
午後9時に日本料理店に到着し、午後10時半頃帰ったそうだ。
日本料理店から関係者が帰ったのは午後11時過ぎだった
とのこと。60人のお客さんがあり、日本料理店としては助かった。
ピースボート自体も気象の関係で海があれ、入港が遅れたので
致し方のないことではる。日本料理店、ベトナム事務所関係者の
皆さんに感謝。


ベトナム等で長男家族と過ごした5日間で何冊かの本を読んだ。

●「漢字の起源」(藤堂明保著 講談社学術文庫)
 漢字は象形文字といわれていたが、実際には象形文字であると
共に表語文字でもあった。同一音は基本的に同一の起源と意味を
もった漢字であるという。工、攻、江、肛、空は同一音であるが、
「貫通する」という意味を基調にした同一音の文字。
士が男性生殖器、比が女性器の象形文字から来ているということ・・。
漢字の起源は至って人間的・素朴なものから出発していることが
分かる。

●「もの食うひとびと」(辺見庸著 角川文庫)
 10年ちょっと前の作品。当時、共同通信外信部長という要職に
 あった辺見庸が退職し、数年かけて世界を「放浪」し、人間が
 食べるという基本的なことが世界でどう行われているのかを
 実体験する体験ルポ。バングラデッシュのダッカでは、お金持ちの
 結婚式であまった食べ物を買い取る仲介業者がいる。仲介業者
 が貧しい地域にあまった食べ物を持ち込み売る。更に貧しい人
 たちはかなり腐った残飯を食べる。辺見庸もだまされて腐りつつ
 ある残飯を食べるが、吐き出す。
  フィリピンのミンダナオ島に行き、戦争に負けて日本軍が、
 山の奥に敗走し、時々出てきては、島民を襲い人間を食べた
 という証言を集める。目撃者がかなりいる。人間が人間を
 食べる・・・・・。
  チェルノブイリで原発事故で汚染された地域に貧しさの故に
 もどらざるをえない人々。放射能で汚染されら食料を食べなければ
 生きていけない現実。
  食べるという行為を体験することを通して、世界の貧富の差、
 どうしようもない理不尽な世の中を告発している。それから10数年、
 今、辺見庸が同種の本を書いたらどんな内容になるのだろうか?


●「ネオ階級社会を待望する人々」(林信吾著 KKベストセラーズ)
  小泉首相・安部首相になってから「階層格差」が出てきたと言われ
  ているが、著者は更に社会は階層格差が固定化し、教育格差から
  階級固定社会になっていくと現状を分析している。
   貧困階級に生まれた子どもたちは最初から社会に「競争」そのもの
  から疎外され、上流階級に生まれた子どもたちは、多額の教育費
  を使い、高学歴を手に入れ、引き続き上流階級を形成すると
  今の日本の現状に警鐘乱打している。著者は、社会的な競争その
  そのものはどんな社会でありうることであり、結果的に差がでること
  事態は否定しないが、初めから競争自体出来ない社会が日本に
  やってくると警告している。

投稿者 koyama : 19:55 | コメント (0)

2007年06月16日

成田着

東京も夏模様
結構暑い。

午前7時過ぎ、成田着。スカイライナーで上野へ。

自宅着午前11時。

自宅で休む。

午後本屋へ。「近代の奈落」(宮崎学著 幻冬舎アウトロー文庫)
を購入。

新聞などの本に関する記事を読む。いくつか読みたい本があるが、
上製本は高いので文庫本になるのを待つ。

米原真理の最後の著書を探したがなかった。
鈴木宗男、佐藤優の対談本もなかった。今後、池袋へ。

夕方、「戦場のピアニスト」をケーブルTVで見る。

2002年、カンヌ映画祭の最高賞バルムドール賞受賞。
ナチスドイツの蛮行、ユダヤ人、ボーランド人へ数限りない
暴行・蛮行・虐殺を正面から描いている。
同時にナチスの中にも「良心的」な人間もいることも表現されている。
5年前、ロマン・ポランスキ監督は何を言いたかったのであろうか?
母親をアウシュビッツで殺され、自身もナチスヒトラーに追われた
経験をもつ。
ナチスドイツのファシズムが過去の亡霊から現代に復活しつつ
あることへの痛烈な警鐘だと見た。
ナチスドイツの占領か、ワルソーゲットーへ強制隔離された
ユダヤ、ポーランド人たちをナチスドイツは人間とは見ていなかった。
物であった。その物であるゲットー(隔離地区)の人々が
一斉蜂起するワルシャワ蜂起。人間はどんなに弱く虐げられても
人間としての最後の手段である「抵抗」が命をかけてもするもの
なのだと改めて感じた。ワルシャワ蜂起はヒトラーに殲滅されるが、
ポーランド人の心の中に「抵抗した」誇りが残った。
こうしたファシズムを真正面から徹底批判する映画が国際映画祭
のグランプリを取るということは、ファシズムそのものを認めない
世界の常識が未だにしっかりと残っていることを証明している。
わが日本ではそのファシズムの亡霊を復活させようとする動きが
蠢動している。

投稿者 koyama : 20:30 | コメント (0)

2007年06月15日

日本へ帰国

晴天

午前5時起床。

午前7時朝食。昨夜日本から帰国した税田さんが
3週間ぶりに朝食を共にする。

午前8時半、ベトナム事務所でピースボート受け入れの
打ち合わせ。

ピースボートのダナン港への寄港時刻が更に遅くなり
そうだとのこと。3時間ほど遅れるとの連絡あり。
全てのスケジュールを3時間遅らせることとする。
「子どもの家」訪問、日本料理店夕食などのスケジュール
が大幅に狂う。

バオミンさん・サンJASS観光責任者・税田さんを交えて
日程と担当の調整を行う。当初、私がダナンまで行き
フエまでの3時間の間に2台のバスの中で「子どもの家」
やJASS、ボランティアなどについて話す予定だった。
私の日本への帰国時刻が午後3時がタイムリミット。
しかし、ダナンからフエ着が午後6時となるとのことで
私のダナン行きを断念。バオミンさん、サンさんが
車中で説明することになる。

午前9時半。ベトナム事務所にJASS東京の高橋さん
柳沢さんが表敬訪問。ベトナム事務所員にお土産などを
贈呈。


「子どもの家」へ。

午前11時半、日本人スタッフと高橋さん、柳沢さん、わが家族
とプレシデンスホテルで昼食。


午後3時過ぎ、家族と一緒にホテルを出て、フエ空港へ。
出発時刻が40分遅れる。

午後7時 ホーチミン空港着。 ホーチミン空港で2時間ほど
待機し、午後9時、国際線チェックイン。

午後11時35分、 ホーチミン空港発。

6月16日午前7時15分、成田着。

投稿者 koyama : 14:20 | コメント (0)

2007年06月14日

日本語学校初級教室入学式

快晴

気温36度。外気温が40度を超える。

昨夜、午後5時頃、JASS東京の会の高橋さん、柳沢さんが
ダナン経由でフエに到着。JASS観光担当のサンさんが
出迎えに行く。
午後6時半、我が家族(3人)と高橋さん、柳沢さんで
フエの大衆食堂「コードー」で夕食交流。午後9時まで。
痛飲。

==============
午前6時起床。日記の一部を書く。

午前7時朝食。ブンボー。

午前9時、高橋さん、柳沢さん、仁枝さん、ソン君と
我が家族(3人)でティエン山麓にある中国茶専門の
山荘へお茶を飲みに行く。2時間半ほど世間話を
しながら本場のウーロン、鉄観音茶などを堪能する。


店の扇風機のブランド名が「NASONAL」という「怪しい」
扇風機だった。

ご前11時まで中国茶店で過ごし、その足で
フォーサイゴンへ。昼食。


午後5時、静岡フエ青年交流会館日本語学校で
「初級入学式」が行われた。

先日、テレビで3回ほど宣伝したのだが、1週間ほどで
40人以上の応募が会った。
今日は40人の入学者が参加し「入学式」が行われた。

司会は石塚先生とハンさん

今回40人の入学生の中には中学生も数人いた。
全体的に女子学生が多いこと、10代後半から20代の
若者が多いことが特徴。

日本語学校の先生も列席
日本語学校主任のフーン先生と後藤ハンナ先生


初めに校長の私が挨拶。
日本語学校の歴史と特徴、JASSが何故日本語学校を
運営しているのかなどを話す。
地元フエテレビの取材があった。

続いて日本語教師を代表して後藤ハンナ先生が挨拶。
「皆さんがどんな志望で日本語を勉強するのですか?
私も頑張って教えますので、皆さんも一緒に日本語を
勉強しましょう。」

後藤先生の挨拶に聞き入る新入生

約20分の入学式を終わる。


午後6時半。日本人の皆さんで日本料理店へ。
2時間ほど日本料理を堪能する。
フダ生ビールも美味しいが、おつまみが更に良い。
大塚さんが指導し子どもたちが作る料理はどれも絶品である。
私も結構海外に行き、日本料理を食べるが自画自賛ではあるが
「子どもの家」日本料理が一番うまい。

エントリーが「枝豆」と「冷奴」。その後、テンプラ、ぬかづけ・・・・。

日本料理店厨房。今日は全員が勤務についていた。
体調を崩していた大塚さんも数日前から復帰。
ターオ君も仕事に参加。新人チャンさんも。


今日はフランス人のお客さんも来店。午後9時半まで
食事をしていた。

今日はとにかく暑い一日だった。

午後9時。一時帰国していた税田さんがトンチンカンホテルに
戻る。元気そうな電話の声。

クアンガイに行っていたバオミンさんは午後9時過ぎ
戻ってきた。

皆さん、ご苦労様。


投稿者 koyama : 20:24 | コメント (0)

2007年06月13日

「子どもの家」卒業生 グエン君の結婚式

晴天

午前7時朝食。フォー。

午前7時半、ベトナム事務所に集合。「子どもの家」
卒業生グエン君の結婚式に行く。

センさん、ロックさんをはじめ「子どもの家」寮母さんたち、
ベトナム事務所スタッフ、刺繍みやげ物店スタッフ。
我が家族。

バオミンさんは急遽、Hさんを案内してクアンガイまで
2日間の旅。
その関係でダナンに到着するJASS東京の高橋さん、柳沢さん
の出迎えには、サンさんが向かった。

グエン君は3人兄弟。両親が船に乗って沈没し死亡するという
事故があり、親類なども貧しく3人兄弟を育てられず、「子どもの家」
が出来た最初に入った3人兄弟。(グエン君・妹、妹)

グエン君は26歳。6年ほど前まで「子どもの家」にいたが、
卒業し、ベトナム北部のビンに行き建築労働者として働き、
地元の女性と結婚することになった。

妹のメンさんは、「子どもの家」第1期生。地元県立トップ校の
グエンフエ高校を卒業し、一昨年からフエ経済大学に進学。
現在は下宿をかりて在宅支援。
次女のトゥーイさんは現在グエンフエ高校2年生。「子どもの家」で
生活しながら通学している。

3人は、叔母さんの家を本拠している。叔母さんの家には
84歳になる祖母(父親の母)も同居している。
結婚式は祖母のいる家で行われた。
フエ市内から車で40分。トゥアンアン海岸の近く。
細い田舎の路地をくねくねと進み、やっと農村地帯の真っ只中
の家にたどり着く。

午前8時半。やっとグエン君の叔母さんの家に着く。
早速、新郎(26歳)。新婦(23歳)が出迎えてくれた。
新婦の「付けまつげ」が半分はがれていたのが妙に
素朴で新鮮な感じを与えてくれた。
多分、新婦は生まれて初めて「付けまつげ」をつけたの
だろう。今は付けまつげといわないようだが。


既に結婚式というのか披露宴というのか、式は始まっていた。
正確には、宴会たけなわと言った状況。農家のおじさんたちが
ワイワイ言いながらビールをじゃんじゃん飲んでいる。

私たちも着いた途端にビールで乾杯。

新郎・新婦は参会者のテーブルを回り乾杯を繰り返す。

挨拶も何もない純朴な結婚式・披露宴。飲み食いだけの式が
延々と続く。
途中でカラオケ大会と化す。

祖母と叔母が挨拶に来る。祖母は目と耳が遠くなっていた。
ハンさんの通訳で祖母と話す。3人が住んでいる「子どもの家」の
関係者と話すと「ありがとう」と祖母は繰り返す。

叔母もやってきて話す。


グエン君の叔母さんの家は典型的なフエ農村の家。

家にくっついて豚小屋があり、貧しいと言えばかなり
貧しい家庭に見受けれれた。



結婚披露宴は更に続く。次から次へと料理が出てくる。
肉料理が中心。カラオケが続く。

実に質素な披露宴ではあるが、何か純朴な、人間の
心を感じるものであった。何千万円かけてもこうした人間の
心のこもった披露宴は出来ないとも思った。

やはり両親がいないということなのか、あるいは田舎で気が
つかないというのか、新郎新婦の居場所がなく、
お客さんのオートバイ駐車場に新郎新婦がぽつんと座っていた。
親戚も誰も「主役」の新郎新婦の席を用意していない。
両親がいれば、こちらに座りないさいと声をかえたのだろうが、
などと考えてしまった。
妹のメン、トーゥイも居場所がなく、日陰のオートバイ駐車場
の隅にたっていた。この親戚一族の中でのグエン兄弟の
位置を垣間見たような気がしたが、私の思い過ごしだろうか?


新しく兄弟・姉妹になった4人。妹二人も新しいお姉さんと
楽しそうに話していた。これから、4人で力を合わせて
生きていって欲しい。


2時間ちょっとの披露宴であったが、何か心にほのぼのとした
ものが残る会合であった。

グエン君は「子どもの家」を出て既に6年程発っているのだが、
結婚式にあたりわざわざベトナム事務所に私を訪ねて来て
結婚の報告をし、招待状を直接手渡してくれた。
心のこもった対応である。「子どもの家」で生活して今日の
自分があるということの「感謝の気持ち」をしっかりと持って
いる。別に結婚式の招待状が来たから言うのではないが、
やはりこうして「子どもの家」で育った子どもたちが成長し
結婚するとの報を聞くことは私たちのような海外NGOに
取っては一番の御礼である。

フエに住んで14年になる。多くの人々のお世話をさせて
もらった。中には兄弟3人も日本へ留学させた家族もあるが、
3人とも結婚式や婚約式をしたのに、私やJASSには
何も連絡のない人たちもいる。
たかが結婚式の連絡ではあるが、こんな単純なことの
中にその人間、家族の心の奥底にある感謝の気持ちが
見えてくるものである。

不慮の事故で他界したグエン君・メンさん・トゥーイさんの
ご両親も草葉の陰でグエン君と大学生のメンさん、
高校生のトゥーイさんの幸せな姿を眺めてほっとしている
のではないだろうか?

私たちJASSの活動は小さなものかもしれないが、
こうして3人の若者がグレもせずに真っ当に育った姿を
見ることが出来、私たち自身も幸せな気持ちになった
グエン君の披露宴であった。痛飲。

投稿者 koyama : 10:20 | コメント (0)

2007年06月12日

ベトナム事務所員会議

晴天。 気温36度(廊下)

暑い一日だった。

午前7時、朝食。ブンボー。久しぶりの味。

午前8時半、ベトナム事務所員会議。

6月15日に第58回のピースボートの皆さんがフエ訪問の予定。
現在53人の方々を受け入れる。
今日は、ピースボート受け入れの準備のための打ち合わせを
する。
15日の朝、ダナンまで出迎えに行くメンバーは、
小山・ミン・サン・ソン・リー。「子どもの家」卒業生のソン君とリー君が
こうした形でJASSの活動の手伝いをしてくれるようになった。
感慨深いものがある。何事も忍耐して時間の経過を待つという
ことが必要とみた。教育はまさにそうしたことがその本質にある。
直ぐに結果を出す「成果主義」「数値主義」という名の教育が
どんな結果をもたらすかは、今から想像できる。
ダナンからフエまでの3時間を使い、JASS活動の経過、
現在目指しているもの、私たちの経験から「支援は利権」、
支援の目標は「物をあげることではなく人を育ていること」
などという話をする予定。2台のバスなので1時間ずつ2回。
現在、風邪を引き声が出にくい。どうなることやら。

バオミンさんから「子どもの家」でピースボートの人たちと
昼食を作る際の衛生問題などが説明された。
日本料理店の大塚さんが発熱し、寝込んでいる。
53人分の大量の日本料理店を作ること、まだ慣れていない
新しい日本料理店でどのような手順で仕事を進めるか
など問題を残している。大塚さんは手順の良い人で
既に当日のおおよその献立をホンニーなど子どもたちと
考えていた。

日本語学校初級教室の入学式を6月14日午後5時から
静岡フエ青年交流会館で行う。
6月4日から3回テレビで学生募集を行った。現在、
40名以上の応募者がある。
当日は、フーン日本語学校主任の司会。校長の私の
挨拶、先生代表として後藤ハンナ先生の話がある。
これから半年間の初級教室が始まる。
生徒の多くは地元の企業に勤めて日本語が必要な人、
勤めながらスキルアップのために日本語学校を勉強したい
人などが多いという。

大塚さんが体調を崩している状況報告があり。
ハンさんと仁枝さんで今日もお見舞いに行き、必要な手当てを
することを確認。

みんな暑さには参っている。

12時前、孫の泊まっているホテルへ。昼食は、昨日と同様の
コムディア(ほか弁)を食べたいとのこと。早速買ってくる。
ホテルの部屋で3人でコムディアを食べる。

午後1時半から洗濯。
昼寝。疲労が溜まったか、1時間半熟睡。

午後3時半から21通のメール受信、必要なメール送信。

午後4時、再び、孫の泊まっているホテルへ。孫がプールで
遊んでいるとのこと。ホテル入り口からプールに行こうとしたら
警備員が行っては駄目という。切符を買えと言う。私は家族が
プールで泳いでいるのでビデオと撮るだけだといったが、
警備員は横柄な態度で、手の先で追い払う態度。
私が欧米人だったらこんな失礼な態度はしないのに、などと
考える。まるで取り付く島がない。仕方なく、バオミンさんに電話。
バオミンさんが社長に電話。直ぐに社長が飛んでくる。
警備員さんは社長に怒られる。ベトナム社会で一番偉いのは
警備員なのである。トップが状況を理解しても、入り口の警備員が
お客を追い返すことが多々ある。以前もハノイの日本大使館に
招待されて入ろうとした時も「英語が話せるか?」と警備員に
聞かれ、「話せない」とジェスチャーをしたら、手の先で「シーシー」
と追い払われた。官僚社会では、こうしてトップの意向が下まで
伝わっていないことが多い。それぞれの担当部署が勝手に
自己判断する社会でもある。

午後5時半、日本料理店の夕食。
今日はターオ君もチャンさんも来ていた。大塚さんが休む中
仁枝さんと子どもたちだけでしっかりと「仕込み」など準備を
していた。この1年半の日本料理店での経験は子どもたちに
大きな自信となった。ホンニー店長は1キロ太ったと言う。

●ターオ君も夕食だけは食べて外出
 リー君は毎日、午後9時半までしっかりと仕事をしている。

●先日日本料理店に勤め始めたチェンさん。
 これからも頑張って欲しい。



●日本料理店の夕食


午後6時半、孫と嫁さんと日本料理店でお客となる。
日本料理店はお客さんの来店あり。合計8人。
日本人6人。フランス人1人、ベトナム日と1人。

投稿者 koyama : 17:49 | コメント (0)

2007年06月11日

家族と出かけていました。

晴天

気温35度。

6月5日から6月10日午後9時まで長男家族と出かけていた。

訪問先でインターネットカフェーを見つけ「火炎樹日記」を書く
つもりだったが、どこにもなかった。そんな事情で火炎樹日記
だけでなくベトナム事務所とも日本の皆様とも一切連絡が
取れないまま6日間ほど過ごしてしまった。
長男家族と一緒にすごしたのだが、風邪を引いてしまい、
鼻水と咳には困ってしまった。

多くの方々からのメールを受信しながら、返事が出来ず
本当に申し訳なく思っている。失礼・無礼をご容赦頂ければ
幸いである。

昨夜、長男だけは仕事の関係で日本へ帰国。長男の嫁さん
と孫はフエに5泊滞在の予定。

ベトナム事務所と私のYAHOOにたくさんのメールが来ていた。
全てに目を通す。

(2007年6月11日午前5時半記載)


午前7時朝食。相変わらず暑い。このところ毎日40度とのこと。

緊急な問題が発生。急いでバオミンさん、サンさんと打ち合わせ。
今日、フエに来るAさんに突然T観光から「案内は出来ません」
とのメールが送られ、Aさんが困って私にメールを送ってきたが、
私はメールを読むことが出来ず、Aさんはそのまま出迎えや案内
通訳の定かでないまま日本を出発してしまった。
Aさんは昨年もT観光を通してクアンガイのNGO視察に
行っている。今年も同様の日程で視察を行う予定だった。
3月にはT観光から見積もりももらい、いざ出発となった
前夜、全てのお世話ををキャンセルするという一方的なメールが
きたので驚き、何とかして欲しいと私にメールが来た次第。
Aさんから送られたメールによれば、突然の案内キャンセルは
JASSから言われたからとのこと。

急いで対応策を考える。AさんはJASSのお客さんではなく
T観光のお客さんではあるが、とにかく案内人がないまま
ベトナムに来たのでは心細いと思い、ベトナム滞在中の
全ての日程をJASSで代行することにした。こんな場合は、
理屈を言っても結局、Aさんの心配は消えない。Aさんの不安
解消が先決問題。

私の不在中の日本料理店、「子どもの家」などの諸問題を
話し合い、必要な対策を立てる。

フエの諸情勢を分析する。

午前10時、孫と一緒に里子のチュン君に会いに「子どもの家」へ。
チュン君はお姉さんと一緒に田舎へ夏休みの一時帰省。
「子どもの家」の子どもたちと交流。


日本の支援者から電話。夏の諸行事について。

「子どもの家」にターオ君が遊びに来ていた。
私の不在中はあまり日本料理店に来ていなかったそうだ。
「今日は必ず日本料理店に来なさい」と話す。

昼食はコムディア(80円)。
ホテルで孫母子と一緒に食べる。

午後12時半から1時間昼寝。

この1週間ほど溜まっていたメールをチェック。
必要なメールの返事を送る。

午後4時。日本料理店へ。大塚さんが体調を崩し休む。発熱。

先日の話し合いで日本料理店で仕事をすることになった
チャンさんが出勤していた。子どもたちと楽しく仕事をしていた。
仕事に来て1週間。仕事に慣れた?と聞くと、「慣れた」とのこと。
料理を作るのは好きなの? 「大好き」との返事。
この調子で行けば、日本料理店にも慣れて来るものと思われる。


数日振りに出勤したターオ君。兄のリー副店長、仁枝さんと。

午後6時、バオミンさん家族の招待で近くの海産料理店へ。
ハンナさんも誘いでかかる。

孫とミンさんの娘のアルファーちゃんは数年来の友達。
すっかり打ち解け遊んでいたい。

かに、えび、いかなど、近くの海で獲れた新鮮な海の幸を堪能。
午後8時半過ぎ、日本料理店へ。

午後9時、日本料理店を閉店し、海産料理店で食べ切れなかった
美味しいかにやデザートを子どもたちと一緒に食べる。

午後9時半終了。

投稿者 koyama : 07:54 | コメント (0)

2007年06月04日

「子どもの家」のAさん日本料理店研修生へ

晴天  

午前7時、気温35度。(廊下)

蒸し暑い1日だった。

午前7時、朝食フォー。

午前8時半、バオミンさん、サンさんとJASS観光のことで
緊急打ち合わせ。

「子どもの家」のA子さん(17歳:中学4年)。卒業試験が
不合格となり留年が決定。フエ郊外の田舎に母親がいる。
母親がセン「子どもの家」委員長に『「子どもの家」を退所
させて、田舎で研修させる』と言い、退所届けを持ってきた。

先週その話を聞き、今日ベトナム事務所に母子を呼び出す。
A子さんの弟のT君も「子どもの家」にいる。母と姉・弟に3人
家族。

午前9時過ぎ、A子さんと母親(51歳)がベトナム事務所に
やってくる。


母親は知り合いの家庭で食事を作ったり掃除をしたりして
1ヶ月70万ドン程度(6000円)の収入があると言う。
父親は分からない。A子さんと弟のお父さんは違う。
正式な結婚をしないまま子どもが二人いるというのが
現状。
母親は小学校3年までしか行っていないとのこと。

母親にどうしてA子さんを急に退所させて田舎で研修させる
と言い出したのか?と質問する。

母親は概略、以下のように答える。

自分は結婚しないで二人の子どもたちがいる。生活が出来ない
ので子どもたちは「子どもの家」で長年お世話になっている。
田舎の山に狭い土地を持っている。友達に勧められ、2000ドル
(22万円)借金して小さな家を建てた。
自分はお手伝いさんとしてある家に泊まり込みで仕事をしているし、
二人の子どもたちは「子どもの家」にいるので、誰も住んでいない。
家が出来て、将来子どもと一緒に住めると思っていたら、毎月の
借金返済が出来ない。利息だけで毎月60万ドン。自分の給料が
70万ドンなので到底返済できず、督促され困っている。
そこで娘のA子を「子どもの家」から退所させ、フエ空港近くの
工業団地内にある「お茶碗工場」で働かせるつもりだ。
そのお金で借金の利子の返済をしたい。

母親としばらく話す。母親は生活経験も弱く、ものごとを論理的に
考える力がかなり弱いようだ。
結局、日本で言えば「闇金融」に騙されたようなもの。
日本では「闇金融」を使う人は高金利ということを知った上で
借りていることが多い。しかし、A子さんの母親は利息という
もの自体をしらないようだ。毎月の収入が70万ドンで利息だけで
毎月60万ドン取られるわけだから、常識のある人間なら
こんな高金利の意味のない危ない借金はしない。
家を建てても直ぐに住む訳でもないのである。
母親は『闇金』に「無知」をつけこまれ、事実上、騙されて
高金利の借金をしてしまい、借金地獄に落ち込んでしまった
のである。
母親はとにかく直ぐにお金が欲しい。工業団地のお茶碗工場で
A子さんを働かせ、50万ドン程度でもお金が直ぐ欲しいという。
かなり焦っている様子が伺える。ヤミ金に脅されているかどうかは
不明だが直ぐにお金が欲しいことは事実。

A子さんに聞く。お母さんの言っているように工業団地内の
お茶碗工場に行くつもり? 勉強はしないの?と。

A子さんは「私は勉強が嫌いなので、学校へは行かない。
母がいうようにお茶碗工場に行って働く」と答えながら、
その頬には涙がこぼれていた。母親も泣いている。
母親はヤミ金でどうしようもない生活に陥り、娘に
頼るしかない親の自分が悲しいと泣いているのであろうか?

私は、お茶碗工場で働いても50万ドン程度の給料。そこから
食費、交通費を引くと手に残るのは、30万ドン程度(2500円)。
それなら「子どもの家」に残り、日本料理店で働いた方が良いと
思うが・・・、と意見を言う。
お母さんは、「私の頭がゴチャゴチャになっている。自分では
どう考えていいのか分からない。小山先生、私たちの良い方向
を考えてください」という。
私はとりあえず、毎月ヤミ金から追求されている現状を凍結する
ためには、日本料理店で働くのが一番良いと思うと助言。
「子どもの家」にいれば食事は無料、日本料理店で働けば
毎月50万ドンの給料を支給する。50万ドンは全額お母さんに
渡せる。とりあえず、A子さんが日本料理店で働いた給料を
「利息」に充当することでお母さんが安心できると思うと、A子さん
の日本料理店就職を勧める。
お母さんは、泣きながらA子さんを日本料理店で仕事をさせて
欲しいという。私は、JASSは子どもたちを助けるためにフエに
いるので、これは私たちの仕事であり義務です、と話す。
A子さんのお母さんは、複雑な生い立ちと人生の中で十分な
勉強の機会を失っている。ベトナム戦争が終了した1975年、
お母さんは19歳。フエ郊外の貧しい農家の娘であった。
戦争と貧しさで学校にも行けず、読み書きも十分出来ないまま
二人の男性との間に二人の子どもをもうけ、その後、30年近く
メイドや様々な仕事をしながら生きてきた。
お母さんに「借金の利息の利率は何%ですか?」と聞いてみた。
お母さんは、利率自体を理解していなかった。利息という概念を
しらないお母さんを騙して、「子どもたちのために家を建てなさい」
と勧めたヤミ金業者のずる賢さを糾弾したい。
今日はとりあえず、利息返済に苦しんでいるお母さんのために
毎月50万ドンの返済金を渡せるようにした。
A子さんは厨房に入ることにした。厨房で日本料理を覚えて
欲しい。
その後、何とか、ヤミ金業者との闘いに臨むつもりである。
借金そのものをなくす闘いをしなければならない。
どこの国にも弱い人間を騙すずる賢い人間がいるもので
ある。今は、借金の利子返済で苦しまないようにすることが
最大の課題であるが、直ぐに借金そのものをなくす闘いに
移行しなければならない。暑さで萎えていた闘志が急に
湧き上がって来た。闘い・闘い、不正義との闘い。
A子さんは明日から日本料理店に来ることになった。

ベトナム事務所2階の会議室でA子さん母娘と話し合いを
終わり、ベトナム事務所に行く。

1995年~2000年まで「子どもの家」にいたグエン君(26歳)
が結婚するので招待状を持って来たと言ってベトナム事務所に
いた。
グエン君は現在フエ経済大学3年生のメンさん、グエンフエ高校
で優秀賞を受賞しているトゥーイさんの兄である。
2000年に「子どもの家」を退所し実家に帰り農業をしていた。
6月13日(水)午前8時に自宅で結婚式をするとのこと。
「子どもの家」で一緒に生活したソン君と話をする。


「子どもの家」でグエン君と一緒に生活していた刺繍の
ハンさんと懇談。


昼食。コムディア(ほか弁)75円。

昼寝。1時間。

午後1時半。読書「漢字の起源」

午後4時、日本料理店へ。
土曜日に話し合ったターオ君が出勤していた。
やはりやる気があったのだ。私はかなり厳しく
ターオ君にお説教をした。しかし、やはりやる気が
あったのか?

厨房で食器を洗っている。

久しぶりの兄弟の会話

午後5時半、子どもたち、日本人スタッフと夕食。


午後6時半、日本料理店開店。

今日は8人の来客。日本人4人、ドイツ人1人、
フランス人2名、シンガポール人1人。

午後9時、日本料理店閉店。
日本料理店閉店間際に6月1日誕生日のターオ君の
誕生会を行う。

子どもたち、日本人スタッフ全員でターオ君に「HAPPY BIRTDAY」
を歌う。

帽子を誕生祝いにプレゼント

誕生ケーキのロウソクを吹き消す


みんなで誕生ケーキを食べて、ターオ君の誕生日を祝う

この2週間ほど日本料理店に来ていなかったターオ君である。
土曜日はかなり厳しくターオ君を叱った。警察に通報すると
まで言った。その後、色々と考えたのだろうか?
とにかく今日、出勤してきた。他の子どもたちも何のわだかまりも
なくターオ君を受け入れていた。これから日本料理店の厨房で
しっかりと仕事をし、自分の未来と人生に夢を持ってもらいたい。

午後9時過ぎ、日本料理店閉店。


投稿者 koyama : 18:58 | コメント (0)

2007年06月03日

昼食会

晴天

朝7時の廊下の気温35度。朝から猛暑。


午前7時、起床。NHK日曜討論を見る。
年金問題、政治と金問題。与党自民党丹羽氏、公明坂口氏
は討論全体を通して発言に無理があった。
丹羽・坂口・菅の元厚生大臣が出演。誰一人、自らの責任
を論じる人間はいない。品格ある日本などという本が売れている
そうだが、こうした政治家をみていると、今の日本では「品格」という
言葉が死語になっていることが分かる。三人の元厚生大臣は
土下座して国民に謝罪すべきである。何の反省もないまま
偉そうなことをいうこと自体、品格の喪失である。
たった4時間で強行採決した年金「5年時効撤廃」法案は、
基本的には「自己申告制」。名前・生年月日・住所の3点セットが
一致しなければ、受給者に通知しないというマヤカシ「救済」。
その名前と住所と生年月日にミスがあるのに。
1年間で5000万件のミスを調査すると言っているが、1日13万7千件
の調査が必要。結局、4時間の審議で強行採決された
5年時効廃止は、参議院選挙に向けた安倍政権の国民に
対する「目くらまし」でしかない。実質が伴っていない時効撤廃である。
数年後に社会保険庁を廃止し、民間会社に業務を委託する法案も
強行採決したが、消えた年金5000万件も100年安心も実質的に
責任を持つ人がいなくなるシステムである。
消えた年金5000万件問題は、だれも責任者が出ないまま
ウヤムラに終わり、年金を真面目にかけていた受給者だけが
泣くという「美しい日本」である。
「100年安心」を得意げに語った元厚生大臣も結局何ら自分
の責任は触れずにいた。厚顔無恥なバーコード大臣だ。

などと考えながら見ているうちに段々目が覚めてきた。

午前10時、入浴。1週間の疲れを入浴で取る。半身浴。
ご前11時、日本料理店へ行く。
大塚さんが日本人スタッフを集めて「昼食会」を開いてくれた。

●大塚さん手作りの「はんぺん」。

●するめ(軽く焼いて、しょうゆ漬け)

●なすの出汁煮

石塚さん、仁枝さん、ハンナさんはフダ生ビールを
「軽く」飲む。私はかなり飲む。美味しい。
その後、皆さんは大塚さん特製のカレーを昼食とするが
私は引き続く生ビール。
午後2時まで色々と話し合いが続く。

トンチンカンホテル戻り昼寝。気が付くと午後5時。
受信メール、必要な返信をする。
何人かの支援者にメールを送る。

次男から電話あり。

午後7時。昼食で残ったスルメをつまみにフダ缶ビール。
やはり少し味が落ちるが美味しい。


投稿者 koyama : 20:10 | コメント (0)

2007年06月02日

ベトナム事務所員会議

晴天 休肝日

終日気温40度近い。猛暑。

午前6時、入浴。昨夜飲みすぎ。
午前7時朝食。ブンボー。

午前8時、徒歩、ベトナム事務所へ。日差しが目にしみてくる。

午前8時半、ベトナム事務所員会議。

(ソン)日本料理店の子どもたちに日本語を教えた。
(石塚)日本語学校の観光基礎コース、上級3クラスを教えた。
(ハンナ)今週から一人で2時間授業をしている。
      昨日、初めて「子どもの家」に行った。
(フーン)週、3日間授業をしている。
     来週の月曜日から上級4クラスを閉鎖する。理由は生徒が
     極端に少ないため。
      同時に来週から初級クラスの募集を始める。
      テレビで3回募集広告をする。定員40名。1週間以内に
     定員をオーバーするものと思われる。
(ハン)在宅支援の子どもたちの手紙の翻訳を終える。「子どもの家」の
    子どもたちの里親への手紙の翻訳は半分。出来上がり次第
    税田さんにチェックしてもらう予定。
     奨学生の手紙の翻訳をした。
(サン)週2回日本語を教えた。各種スタディーツアーの見積もり、
     日程などをミンさんと相談して作った。
(ミン)・訪問者・スタディーツアーの日程の手配等をする。
     地球の歩き方ツアーなどの見積もりをサンさんと相談し
     関係者に送る。
   ・日本料理店の食材をホーチミン市の食材専門店に注文した。
   ・「子どもの家」5人入所
    船上生活者の兄弟は、現在出生届けなどの書類を作っている。
    書類が出来次第入所する。
     3人は、2週間ほど親戚などで休みを過ごし、6月中旬に
    入所の予定。

1時間程でベトナム事務所員会議を終わり、バオミンさんと一緒に
「子どもの家」へ行く。
今日は日本料理店のターオ君の問題を話し合うため。
ターオ君は現在所在不明。「子どもの家」付近のゲームセンターに
入り浸りとの情報があり、医師のタムさんが見つけ
「子どもの家」へ連れてきてくれる。
ターオ君は新日本料理店開店祝賀会頃から日本料理店に
来なくなっている。
下宿を借りてやったが、1日も行っていない。ゲームセンターなどに
入りびたり、真夜中に「子どもの家」へ勝手に侵入し、寝ている。
先日は女の子を連れて深夜「子どもの家」に侵入するという事件を
起こしている。数日前には、夕方「子どもの家」にやって来て
「子どもの家」の男子を脅し、「夕飯をもってこい」といい、
男子が怖くなり、自分の夕飯をこっそりターオ君に持って来ると
いう事件もあった。傍若無人な振る舞いが目立つ。
先日の「子どもの家」倉庫泥棒事件にも関係ありとの証言も
耳にする。
「子どもの家」にいた頃、年下の子どもを半死させるほどのひどい
暴力行為を行っていた。暴力をふるうことが日常的であり、
子どもたちだけでなく、寮母さんも怖がってターオ君を注意する
ことが出来ないでいる。
また、日本料理店で仕事をしているので、「子どもの家」の
スタッフは私たちに「遠慮」する気持ちをあり、厳しく
ターオ君を叱責できないでるとの話も聞いている。
今日は本人に直接問いかけ、日本料理店で仕事をするのか
しないのかを聞き質す。

(小山)タオーオ君は日本料理店で研修をしていることになっているが
    このところ1日も来ていない。日本料理店の厨房はターオ君を
    入れて3人。厨房は最低3人いないと仕事が成り立たない。
    ターオ君、君は日本料理店の厨房をやる気があるのか、 
    ないのか、今日ははっきりとさせて欲しい。やる気がないのなら
   新しく厨房の料理人を「子どもの家」から採用する。
    やる気があるのなら、日本料理店に来て厨房でしっかりと
   料理を作って欲しい。今日は、最後の話し合いだ。
   ターオ君にラストチャンスをやるという気持ちでいる。
(ターオ)日本料理店で仕事したい。
(セン)JASSの皆さんにお世話になって日本料理を教えて
    もらったことに感謝の気持ちをもたなければだめだ。
    あなたの生活を見ていると真っ当ではない。昼間は
    ゲームセンターで遊び、真夜中に「子どもの家」の塀を
    乗り越えて勝手に「子どもの家」で寝ている。
    あなたは、既に「子どもの家」を退所している。JASSで
    下宿をかりてくれているのにそこにも行かずにわがままを
    してはいけない。
(小山)ターオ君。今後、「子どもの家」に深夜塀を乗り越えて入った
     場合には警察に連絡するようにセンさんにも話してある。
     知らない友達を勝手に連れて深夜、「子どもの家」に
     こないように。「子どもの家」の子どもたちが知らない
     お兄さんやお姉さんが「子どもの家」のベッドに勝手に
     寝てしまい、自分の寝るところがなくて困っている。
      今後、こうしたことがないように。もう一度言うが、
     深夜、「子どもの家」の塀を乗り越えて「子どもの家」に
     入ったら警備員がその場で警察に連絡する。
(ターオ)・・・・・・・・・・・
(小山)ターオ君。君は2年前に自転車を盗んだことで警察に
    捕まっている。本来はその時点で少年刑務所に入る
    はずだったが、センさんや関係者が奔走し、何とか
    「保護・観察処分」となっている。現在もあなたは、
    保護観察中だ。今度、警察問題を起こしたら、その場で
    少年刑務所に入所となることをきちんと理解しなければ
    いけない。人生をなめた態度で生きたらだめだ。
(ターオ)・・・・・・・・・・
(小山)もう一度、確認するが日本料理店で働く気持ちはあるのか?
(ターオ)日本料理店で働きたい。
(小山)分かった。ラストチャンスだ。今度は本当に頑張って欲しい。
    ターオ君は日本料理店を作るのは一番上手な子だ。
    本当に真剣に仕事をすれば、立派な日本料理店の調理人
    になれる。是非、頑張って欲しい。少し位苦しいことや
    我慢できないことがあっても、努力するようにして欲しい。
    日本料理店のほかの仲間もみんなターオ君が帰って
    くることを待っている。今日の午後から日本料理店に
    復帰し、仕事を再開するように。
(ターオ)分かった。

こんな話し合いが続いた。
ターオ君が帰った後、センさんやミンさんと話し合ったが、
ターオ君は先日私とミンさんで質屋から取り戻したJASSの自転車
をまた質屋に入れてしまったそうだ。
仕事はしないがお金を手にいることしか考えていない。
前回、私とミンさんとターオで質屋に行き
質草にしてしまった自転車を「請け出した」ばかりである。
反省のはの字もないまま、またもや自転車を質草にして
お金を手に入れ、遊び歩いている。
人生と大人をなめている態度を改めない限り、ターオ君の
更生は難しい。今日から日本料理店での仕事を再開する。
何とかこのチャンスを生かして、人生の展望とお金と遊び
が人生ではないのだということを知って欲しい。
友達の中には、共産党の幹部や金持ちの子どもたちもいる。
そうした友達と付き合えば、いくらお金があっても足りない。
ベトナム全体が「バブル経済」の真っ只中。一銭もお金の
ないターオ君の心を引き付ける「お金」という魔物。
私の回りの何人かの人間を狂わせているお金という「麻薬」。
一度、中毒になると自分が分からなくなってしまうのだ。
ターオ君が地道に仕事してお金を稼ぎ、着実な生活を
自分の力でしていくように「厳しく」「やさしく」付き合っていく
必要がある。

話し合いの内容をベトナム事務所に戻り、大塚さんに伝える。
大塚さんは「ターオ君の誕生日は昨日だった。それでは、今日
みんなでターオ君の誕生祝をしよう」とのこと。ケーキを買って
お祝いすることになった。

午前11時半。昼食。パン。トンチンカンホテルの
近くにあるフランスの団体が運営しているパン屋に行く。
パンを売るスタッフが日本語学校の生徒だった。

昼寝。1時間半。今日はすごく疲れた。

読書。「漢字の起源」。

午後2時から昨日の火焔樹日記を書く。2時間かかる。

午後4時、日本料理店へ。ターオ君は来ていない。
午後5時半からの夕食に来るかも知れないと話し合った。

午後4時半、注文しておいた最後の椅子と机が到着する。

早速、机を日本料理店入り口に出し、多少「オープンカフェー」風
にする。

午後5時半、夕食。とうとうターオ君は来なかった。

夕飯は「かた焼きそば」大盛り


午後6時半日本料理店開店。

入り口でお客さんを待つリー君。

午後6時半、日本人2人。お馴染みさん。
その後、フランス人1人、ベトナム人4人、シンガポール人1人、
日本人1人。合計9人の来客。気長に仕事をすることが商売の
秘訣と見た。

フランス人が店を出たのが、午後9時半。
トンチンカンホテル着午後9時45分。
午前8時から午後9時半まで。日本料理店を開店してから
さすがに疲れる毎日である。明日は休み。

日本料理店閉店後、奥の部屋に9個に分けてあった
誕生ケーキが残っているのが、何かわびしさを醸し出して
いた。
日本では「消えた年金」問題などと騒がれているが、
我が日本料理店では「残った誕生ケーキ」問題である。

月曜日にターオ君が来ることを期待する。


   

投稿者 koyama : 20:28 | コメント (0)

2007年06月01日

国際子どもデーお祝いの会

晴天。

朝7時の廊下の室温が34度。湿度60%。
日中は40度近くになった。既に2週間ほど40度の日が続く。

午前7時朝食。フォー。

今日は「国際子どもデー」。日本では馴染みのない日である。
社会主義国で行われていた。現在、6月1日をお祝いしている
国がベトナム以外にあるかどうかは不明。

毎年6月1日を『世界子どもデー』とした経過は以下のよう。

1940年~44年までナチスドイツ・ヒトラーがソ連や
東欧諸国を侵略占領。大虐殺を行う。

1942年ポーランド。侵略したファシストのナチスドイツは
1942年6月9日に88人の子どもたちを虐殺した。

1944年6月10日のチェコ。1日に200人もの子どもたちを
ナチスは虐殺した。

1952年4月。当時の社会主義諸国が集まり、ファシズムに
より尊い子どもたちの命が奪われたことを悼み、偶然6月に
ポーランドとチェコで多くの子どもたちの命が奪われたことを
忘れないため、毎年6月1日を「世界子どもデー」とし、
世界の平和、ファシズムを阻止し、子どもたちが健やかに
成長できることを祈る日と決めた。

その後、50年以上が経過し、社会主義諸国が崩壊。
更に6月1日を『世界子どもデー』と制定した当時の
初心が忘れ去れて行き、今日のベトナムでは
子どものお祝いの日となっている。

午前8時半、バオミンさんとロックさんの司会で
「世界子どもの日」祝賀会が行われた。

●「子どもの家」2階会場の看板
                    JASS主催 
    祝賀会
6月1日世界子どもの日 おめでとう
    2007年



●子どもたちにあげるお菓子

●最優秀、優秀賞。子どもたちが学校の受賞式でもらった
  賞状と賞品(ノート類)

●司会のバオミンさんとロック寮長

●会場風景


●初めにセン「子どもの家」運営委員長の挨拶

「今日は世界子どもの日です。2006年~2007年までの
成績優秀者の表彰式を行います。現在、「子どもの家」には
59人入所しています。そのうち47人が幼稚園から大学まで
通っています。今年は、18人の子どもたちが成績最優秀か
優秀賞を受賞しました。約40%の子どもたちです。
よく頑張りました。特にニャンさんは高校数学オリンピック
の銀メダルを受賞しました。現在はフエ科学大学で
高校1年生として特別な理科系の勉強をしています。
今回の銀メダルは「子どもの家」の誇りです。これからも
しっかりと勉強してください。
 いよいよ今日から正式に3ヶ月間の夏休みに入ります。
皆さん、いっぱい遊んでください。楽しんでください。
3ヶ月後には新しい学年が始まります。また、しっかりと
勉強し、生活をしてください。

●JASSを代表して小山の挨拶

次に表彰式に移る。

最初に成績最優秀賞受賞者。5人。
・ニャンさん(高校1年)
・ホンニーさん(中学3年)
・トゥイーニューさん(中学2年)
・ユイ君(小学校2年)
・ティー君(幼稚園)

●ニャンさんに最優秀賞の賞状と記念品を渡す

●最優秀賞受賞の5人

続いて13人の優秀賞受賞者へ賞状・記念品の贈呈

●石塚先生が高校生の優秀賞受賞者へ
 ・ターオさんとトゥイーさん(二人ともグエンフエ高校)

●中学生の優秀賞 3人。(アン君は病気で病院へ)

チュック・リーさん(中4年)、ビック・フオンさん(中2年)

●バオミンさんJASSベトナム運営委員長とハンさんが小学校の
 優秀賞の子どもたち8人に賞状・賞品を授与。

・クイー・ティン君(小5)
・バン・サウ君(小5)
・チュン君(小4)
・タオ・リー君(小4)
・トゥー・トゥイーさん(小4)
・ナム君(小2)
・ミー・タンさん(小2)
・バン・タン君(小1)


続いて、「子どもの家」スタッフ、ベトナム事務所スタッフで
子どもたち全員にお菓子を贈呈

お菓子をもらい、国際子どもの日を楽しむ子どもたち。


最後に子どもたちのお楽しみ「カラオケ大会」。


●ヒエウさん(中3)

●ユイ君(小2 最優秀賞)

午前10時前、お祝いの会は終了する。

子どもたちは抱えきれないほどのお菓子や賞状・賞品を
もって部屋へ帰る。


●ティー君(幼稚園で最優秀賞を受賞。どんな基準で選んだ
       のだろうか?)

●ユイ君(小2。数年前に私とミンさんで船上生活者の家庭を
       訪問し、ユイ君を「子どもの家」に入所させた)

ベトナム事務所へ戻る。

午前11時半、昼食。インスタントラーメン。

昼寝。1時間。

午後1時半、読書「漢字の起源」

午後4時頃、日本料理店に待望の看板が届く。
大塚さん、税田さん、バオミンさん、子どもたちが
検討して作製した。

●看板到着

看板には子どもたちの顔、天麩羅、お寿司の写真を掲載


●日本料理店の子どもたちと看板

●日本料理店関係者全員で記念写真

●看板の取り付け完成

午後5時半、夕食。日本料理店の子どもたち、日本人スタッフ
と夕食を摂る。国際子どもの日を記念して生ビールを飲む。

午後6時半、日本料理店開店。

来客は日本人1人。お土産で4人分の日本料理。

その後、日本人スタッフ、リー君などと引き続き
子どもの日のお祝いを継続。午後10時過ぎまで
私はビールを飲む。

帰宅、午後10時半。そのまま眠りに入る。長い1日だった。


投稿者 koyama : 16:41 | コメント (0)