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2007年06月22日

歯科医へ

雨のち曇り

日本へ一時帰国し7日目。初めての雨。
やっと梅雨の様相を呈してきた。

今日は夏至。昼の一番長い日。

午前10時、歯医者へ。特に痛いとか悪いところがあるわけで
はないが、歯の健康診断のため通院。あまり私のような患者は
いないようだ。受付の人と医師の会話がそれとなく聞こえてくる。
「どこが悪いの?」「悪いところがないようですが、検査して欲しい
ということです。検診です」「どこかの会社の検診?」。

10年間ほど私を担当してくれて先生がいなくなった。
良くテレビで私の番組を見てくれていた。

家の近くの歯科医。中々丁寧に見てくれる。
初めに全ての歯の検査。続いて歯のレントゲン。
1本の奥歯の歯根が曲がり、その付近が膿んでいるとのこと。
そのうち痛くなる。治療は中々難しく2ヶ月から3ヶ月ほどかかる
と言われ、今回の帰国中には治療できないといわれる。
歯全体の診断は、歯周病の手入れが良く出来ているといわれた。
歯石・歯垢除去の方法をこの歯科医で教えてもらい、毎日3回の
食事毎に実践している。手では出来ない部分を除き
しっかりと歯石・歯垢除去の努力がされていると言われる。

機械で歯石を取る。次に歯磨き粉のようなものを少しつけて
歯と歯がくっついている部分の歯石を取る。耳かきのような
ものでガリガリと歯石を取る。
それでも年相応に歯茎が沈下しているとのこと。歯の根の
部分が一部露出しつつあるので、この1ヶ月の間に
3回ほど通院し露出しつつある部分にセメントのようなものを
塗り、痛みや過敏な刺激を防ぐ措置をとることになる。
費用1000円。次回3回の予約を行う。
年齢が行くとやはり「歯」が段々と老化する。痛くなる前に
しっかりと「予防」措置を取る必要がある。私は今まで歯が痛く
なった経験がない。70歳まで生きるとして、70歳でおせんべいと
スルメをばっちり食べたいと思っている。そのためには、毎日の
手入れをきちんと行い、素人では出来ない部分は専門家のケヤー
を定期的に行っている。

歯石取りのドリルのキーンとした音を聞きながら、歯科医への
通院も今回のベトナムでの日本料理店閉店・新日本料理店開店、
JASS観光設立も同じことだなと思った。
歯科医に行くのは何となく嫌なものである。ついつい先延ばしに
したいという衝動に駆られる。特にドリルでキーンと研磨されている
時に「痛かったら手をあげてください」と言われると、何とも
嫌な気持ちになる。「手を上げて」ということは、キーンとやっている
と、痛くなる可能性があるのだな、などと思うとつい体に力が
入ってしまう。
そんな経験をするとつい歯科医に行かず、歯が痛くなるまで
放置するということになる。しかし、その時には既に病巣は
拡大し、治療がえらく痛くなるか、抜歯するか、手のつけられ
ない状況になるかだ。

今回のベトナムでの日本料理店・JASS観光問題も
同様である。まだ痛さが出ないうちに先見の明で早期に
手を打つことが、最善の方法である。犠牲と労力が少なく
最大の効果がでるのである。

私は何事も「大問題」になる前に「傷のうち」に治すという
性格かもしれない。時々、誤解され、「小山独裁者」
などいうメールを頂くことがあるが、数年後に、何故
私がその時にそうした主張と行動をしたかを理解してもらえる
こともある。

7月15日までに3回ほど嫌いな歯科医に行く。キーンという
地獄の音を聞きながらの治療に耐えることで、のちのち
せんべいをバリバリ食べ、軽くあぶったフエのスルメを
おつまみに純米大吟醸を飲むという遠大な目標と楽しみの
ために今を我慢しているのである。

午前11時、歯科医から帰る。ブランチ。蒸し暑いので
食欲増進もかねて「カレー」を作る。冷蔵庫にある使い古しの
野菜を使う。私は豚肉が好きなので豚細切れをバターとニンニクで
炒める。冷蔵庫にある野菜(大根、キャベツもぶつ込み)を入れて
煮込む。固形ルーをしばらく煮て出来上がり。
大好きなぬか漬けが入れ物ごとなくなっていた。ぬかも生きている
のだ、生き物を殺してはいてない。殺生反対。
多少大量にカレーを作り、3つほどのパックに入れて冷蔵する。
残りをブランチとして食べる。その前に大事な薬(缶ビール1本)。

テレビのニュースで三笠宮のひげの息子が「アルコール依存症」に
なり宮邸では治療できないので宮内庁病院にかなり長期間入院
するというようなニュースを聞いた。
読売医療功労賞授賞式後、皇居で天皇・皇后と会った。
事前の宮内庁スタッフの話では年間相当な数のこの種の面会を
行っているとのこと。正直、これが仕事だとは言え、大変だなと
言うのが私の率直な感想だった。

ひげの息子さんもやはり相当のストレスがあったのだなと同情する。
ガンの手術もしているようだ。宮内庁が「アルコール依存症」と
きちんと発表することは、立派なことだ。牛肉偽装の社長は
最後まで真相を言わなかったが。
ストレスが溜まったらお酒を飲むのが私にとっては最大の
ストレス解消法。この人は、あまりにストレスが強く、相当の飲酒量
があったのか? 回りの人がきちんと注意をしなかったのか?
昔でいう「アル中」だ。皇室もアル中になるようなストレス時代を
私たちはどう生き抜いていったらよいのだろう? 早期回復を
祈る。

午後30分ほど昼寝。

午後2時から「近代の奈落」(宮崎学著:冬幻舎アウトロー文庫)
読了。文庫で510ページと結構読み応えのある本。
宮崎氏は私より2歳年上の同年代。
時々テレビにも出る。私が初めて宮崎氏をテレビで見たのは
森永グリコ事件の時効が近づいた頃、犯人と目されテレビで
犯人ではないと弁明している場面であった。
確かに犯人のポスターにある「狐目の男」にそっくりな顔を
していた。インタビューへの回答は相当拗ねた、社会を
はすっかいに見ているような態度に見えた。あまり好感は
持てなかった。少し変な人間という第一印象だった。
数年前に「突破者」(宮崎学著:冬幻舎)
標準語では「とっぱもの」と読んでしまうが、著者の言い分
だと「とっぱもん」だそうだ。

宮崎は異色な生い立ちを持っている。京都の寺村組という
大きなやくざで未解放部落出身の家に生まれ育つ。
父親が家庭教師をつける。
偶然その家庭教師が京都大の共産党員の学生だった。
家庭教師中に階級闘争、マルクス主義などの教育と
影響を受けたそうだ。京都の高校を卒業し、早稲田大学
文学部に入学。直ぐに共産党に入党し、革マル派との
党派闘争を行い、学生運動、早稲田大学学費闘争から
70年安保闘争・東大闘争と政治闘争・学生運動を
行う。共産党系学生運動の「ゲバルト部隊長」
だったと書いている。その後、共産党を除名。退学。
週刊誌の記者などを歴任。
やくざで土建業だった父親の仕事が左前になり
京都へ戻り、地上げ、ヤクザとの戦いなどを経験し
小説家・ルポライターとなる。こんな経歴の人である。

1922年(大正12年)に水平社が創設され、部落解放運動は
大きな運動となる。その後、今日まで様々な政治的な思潮の
影響を受け、内部での抗争、対外的な糾弾闘争、同和事業
対策費に群がる「エセ同和」など多くの問題をかかえながら
今日に至っている。戦前から組織分裂問題を抱えていた。
19060年代後半になると部落解放同盟は分裂し、暴力と
利権もからみ大きな問題となる。

宮崎は部落問題を見る場合、二つの立場に分かれると言う。
一つは生活者としての部落問題、
一つは文化人・知識人的な部落問題へアプローチ。
生活者として部落問題を考える立場は部落の人々の生活の場に
視点を置き、その解放をすすめようとする。
文化人・意識人的立場の人々は部落の外から「あってはいけない」
ものとしての部落との位置づけでその解放を考える。
上から見下ろしての解放論。

この違いはボランティアでも同じものがあるように
思いながら読んだ。

この二つに視点は1922年に水平社が設立されて以降、繰り返し
論争されてきた視点である。
文庫本500ページの本書を読むと、未解放部落の問題と
その歴史、そして福岡の炭鉱地帯の部落から関西、長野
など、各地のそれぞえの未解放部落の歴史をその解放の
ために闘った来た人々の歴史が分かる。
特に若い人に薦めたい本である。「本は読んでも妄信しない」。
私の読書のモットー。

天皇制と未解放部落問題は表裏一体のもの。
天皇制そのものが近代差別の根源である。

投稿者 koyama : 2007年06月22日 16:32

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