« 2007年06月 | メイン | 2007年08月 »
2007年07月31日
内田さん夕食会
晴天 午後豪雨
午前4時起床。日記を書く。
午前7時、朝食。ブンボー。
午前8時過ぎ、ベトナム事務所へ。
内田サン、メンさんと懇談。
ベトナム事務所でメール受信。送信。
ACCLのフエ滞在日程案などを作る。
バオミンさんは、ホーチミン市へ地球の歩き方スタディーツアー
の出迎え。
午前11時過ぎ、内田さん、ソン君、メンさん、税田さん、石塚さん
とフォーサイゴンで昼食。私はチャーハンを食べる。美味しい。
昼寝。1時間半。
読書「真景累ケ淵」。
午後3時過ぎ豪雨。気温が急に下がる。少し寒さを感じる。
日本人スタッフNさんが体調を崩し、朝から休む。
税田さんが様子を見てお世話をする。
午後6時、日本料理店で内田さん歓迎夕食会。
ソン君と「子どもの家」の子どもたち。
フエに住んで14年。小学生だった子どもたちが
こうしてベトナム事務所員、大学生、日本料理店のスタッフ
とそれぞれ14年を経て成長した。時の流れを感ずる。
「豚耳青病」のため、日本料理店のメニューから豚肉を
ストップした。
日本料理店は13人の来客。
2007年07月30日
恒例のバーベキュー大会
快晴
気温35度。 湿度65%。
午前7時朝食。
午前8時半、ベトナム事務所へ。内田さんがベトナム事務所を
訪問。事務所員にお土産などを手渡す。
午前9時。フォンザンホテルでお茶を飲みながら、ベトナム事務所
での様々な取り組み、問題などを話し合う。
ご前11時過ぎ、ベトナム事務所員と一緒に「チャオバンカン」
専門店へ。
フエ名物のチャオバンカン(キャッサバともち米の手打ちうどん)
を食べる。
値段が2倍になっていたい。(1杯 5000ドン:38円)。
一人3杯食べる。
読書「真景累ケ淵」
午後3時。内田さんたちと一緒に「子どもの家」へ。
既にベトナム事務所員、「子どもの家」スタッフが集合。
恒例のバーベキュー大会の準備を始めている。
午後5時。内田さん、セン委員長の開会挨拶で始まる。
毎年、バーベキュー大会は、内田さん、柳沢さん、高橋さん、
影山さんの支援で行われている。今年は、江平さんの
支援も加わる。毎年、バーベキュー大会を寄贈してくれる
皆さんの心から感謝。今年で10回目?。
開会式に参加する子どもたち。
JASS初代代表の岩辺先生の教え子。大久保さんも参加。
いよいよバーベキュー大会開始。
今年は、「豚耳青病」のため、豚肉は中止。
牛肉と鶏肉。
バーベキュー大会には、「子どもの家」の子どもたち、在宅支援の
子どもたちや親、「子どもの家」スタッフ、ベトナム事務所員・・・・・
総勢90人。
在宅支援の子どもたちや家族
「子どもの家」スタッフと交流。
内田さんと里子のメンさん(フエ経済大学大学3年生)
バーベキュー大会終了。十分に肉と飲み物を堪能。
満足した子どもたち。
参議院選挙後。
これだけ大敗した自民党。政権選択を迫った安倍首相。
大敗北をしたのに、自民党内で論争や責任問題が出てこない。
波風立てずに安部さんに引き続き首相をしてもらおうという
安易な党風となってしまった。加藤紘一元幹事長が
論争をすべきだと言っている程度だ。
党内論争するするエネルギーを欠いた政党に化した。
小泉元首相が作り出した党内論争が出来ない体質となった
自民党である。再生は困難だ。こうした大敗北をした時だから
こそ、党内で様々な意見を出し合うことが必要なのに。
党内民主主義とは、いまこそ自民党は思う存分意見を言い合う
ことなのだが・・・・。それさえできなくなった自民党である。
2007年07月29日
与党大敗を喜ぶ
快晴
気温35度。湿度60%。
午前7時起床。
午前中、日本、ホーチミンから電話。
メール受信、送信。
読書「真景累ケ淵」(しんけいかさねがふち)
(三遊亭円朝著:岩波文庫)
亡くなった6代目三遊亭円生の落語で部分的に
この噺を聞いていた。全編を通じた噺を知りたくて
この本を読もうと思った。
真景(しんけい)は「神経」の意味。
三遊亭円朝の噺の速記本。明治時代の寄席での
噺であるが、現代の私たちにも十分通じる江戸の
下町の言葉である。円朝は明治維新の文明開化
の風潮にもちょっとではあるが、異論をもっていた
ようだ。
午後4時、バオミンさん、「子どもの家」のメンさんと一緒に
フエ空港へ。
20分ほど送れて内田さんがフエ空港へ到着。
内田さん、バオミンさん、里子のメンさんと一緒にバオミンホテルへ。
酒のつまみをお土産に頂く。
午後6時過ぎからNHK衛星放送、参議院議員選挙結果を
見る。トンチンカンホテルにあったケーブルのNHK衛星放送が
切られているので、しばらくベトナム事務所のパラボラのNHK
衛星を見る。
自民・公明の与党大敗。この間の与党の奢った国会運営はもとより、
世間と御天道様(おてんとうさま)を舐めた政治姿勢が敗因。
数を頼んで強行採決を繰り返し、閣僚などの不正・自殺、
年金問題、金と政治の問題などを正すことも出来ないまま
選挙を迎えた安倍政権・自公与党の横暴に対する国民の
声である。天の声とも言える。かなり大きなお灸でもある。
今回は民主主義のシステムがかなり機能したものと思う。
民主主義社会はこうした形で常に政治をチェックできる
所にその最大の利点がある。ベトナムにいると一党独裁
体制の中では、政治そのものを変えるという国民の
意欲が育ってこない。
民主党が大勝したといっても、本質的には、自民党の
旧福田派(小泉・安倍)が敗北して、旧田中派(小沢)が勝った
とも言えるようなもので、同根異葉の勝敗ともいえる。
それでも安倍「美しい国」政権が国民から不信任を受けたことは
大きな意味があり、政治の流れが変わりつつあることを実感させる。
今後、民主党が安易な「妥協」をせず、野党が団結して与党の横暴を
チェックし、年金・消費税・憲法9条・格差社会をなくすなど国民の立場
にたった政治を行うことが出来るのかどうかが問われるのである。
民主党が腰砕けになる可能性を心配する。
安倍首相は選挙の当初「安倍を選ぶか小沢を選ぶかが
問われる選挙だ」と言っていた。政権選択選挙と自ら
言っていたのである。政権選択を呼びかけながら敗北したら
ぐちゃぐちゃ言い訳を言い、結局「居座る」態度である。
潔く自らの身を処するというのが、真っ当な人間の行動である。
安倍首相は辞任するのが、真っ当な道ではないのだろうか?
東京選挙区でJASS会員の川田龍平氏が当選したことを
祝いたい。時代の変化がこうしたところにも現れている
ように気がする。
自らの選挙区に選挙権もない丸川元アナが当選。選挙の
報道を担当し、自ら投票を呼びかけていながら、自分は3年間も
投票をしていないというペテン師。
自民党がこんなインチキ候補に頼っているから大敗北して
しまうのである。
定員5の東京選挙区で共産党が落選。時代の流れを
感ずる。
今回の選挙を見ていると小泉首相が作り出した「自民党を
ぶっ壊す」路線が見事に結実したということが分かる。
小泉路線は、「競争主義」「民営化」「営利第一主義」。
小泉・安倍路線は、結局、マスコミ受けを狙うことは上手
だったが、自らの本当の支援者である農業・漁業・地方
を切り捨てることを熱心に実践したのである。
その結果、自民党のもっとも強い支持基盤である農民の
離反、格差社会の創出で多くの若者が真っ当に暮らせなく
なった社会を作り出してきた。表面のマスコミ受けだけを
狙った邪道が、結局は墓穴を掘ってしまったといえる。
小泉・安倍路線は、この6年間で自らの支持基盤を
切り捨ててしまい、再構築は難しいところまできてしまった。
「郵政民営化選挙」がその分かれ道だったような気がする。
小泉・安倍自民党は、既に「ルビコン河」を渡ってしまった。
離反していった農民・地方の皆さん、若者が自民党に
戻ることは出来ない。「福祉と平和」の党を標榜して
自民党連立を組んだ公明党も結局、自らのセースル
ポイントの福祉を切り捨て、平和の衣を脱ぎ捨てて
しまった。
今回の選挙結果を受けて、改めて日本に真っ当な社会・
真面目に仕事をすれば、普通に生きられる社会を
作りたいものである。うそをついたり、ずるいことをしても
平然と生きられる社会はもうごめんである。
2007年07月28日
JASSベトナム全員会議:日本料理店全員会議
晴天
36度。
午前3時に目覚める。読書「松川事件」。
午前7時。朝食。ブンボー。
午前8時半、JAAベトナム全員会議。久しぶりの会議である。
(ソン)日本料理店の子どもたちに日本語を教える。
日本料理店で使う言葉、料理の注文、飲み物の注文、
支払いなど具体的に教えた。
(石塚)観光コースの学生13人の再テスト。再テストは100点満点で
70点以下の学生に行う。
(税田)「京滋YOUの会」・「火焔樹の会」合同スタディーツアーの
ための準備。お菓子、夏祭り・・・・・。
(ハン)税田さんと協力して奨学生のお礼の手紙の翻訳。
8月・9月スタディーツアーが訪問するナムドン少数民族
への支援物資の購入。ラーメン、お菓子・・・。
(フーン)週3回、観光コースに日本語を教える。
12月に子どもが生まれる。
(サン)日本語週2回。スタディーツアーの日程調整。
(ミン)讃岐造船案内
最後にJASSベトナム運営委員長のバオミンさんより
8月・9月のスタディーツアーの日程と担当者分担一覧表が
配られ、打ち合わせを行う。13スタディーツアー、約200人
の訪問者がある。7月31日~10月1日までほとんど休みなく
訪問者があるが、ベトナム事務所員全員の団結で乗り切って
行こうと誓い合う。
午後12時過ぎ、ほか弁(70円)。
昼寝。1時間。
読書「松川事件」。
午後3時、日本料理店全員会議。
(小山)今週、ダナン方面で『豚青耳病』と呼ばれる奇病が
発生した。一人死亡。豚が何らかの病気に罹り
その豚を食べた人間が亡くなったとのこと。
ベトナムのマスコミが初めて発表した。病気にかかった
豚は、耳に出血があり、青い耳になるという。
これらの豚を飼っている農民に死者は出ていない。
フエ郊外のフーバン郡で500頭の豚が死んだという。
フエ市厚生部長に実情を確認した。
①「豚青耳病」(仮称)になった豚を食べない。
②『豚青耳病』は、高熱で煮沸すれば問題ない。
③フエ市では、一切の豚の解体と販売を禁止した。
全ての市場での豚の販売も禁止。
これらフエ市厚生部の措置を受けて、日本料理店では
豚関連の料理を一切出さないようにして欲しい。
豚などが入っているハンバーグなどは、豚肉以外の
肉で代用するよう料理を工夫して欲しい。
8月・9月で200人ほどの来客がある。最高時、50人ほど
の来客となる。現在の厨房(3人)で対応できますか?
(ニー店長)大丈夫です。
(小山)料理を出す際は、お客さんの年齢なども考えて料理の
量と内容を考えて作って欲しい。
(フエン)たくさん作ってしまった「うどん」を冷蔵庫に入れて
翌日、お客さんに出したが、よいでしょうか?
(小山)うどんは一度作ったらおしまい。あまったうどんは、
冷蔵庫に入れておき、翌日の私たちの夕食に
焼きうどんなどにして出して欲しい。お客さんには
残ったうどんは絶対に出さないようにして欲しい。
(税田)食材の仕入れはどうしているの?
(ニー店長)「子どもの家」にいる4人で相談して買い物に
行っている。
(税田)厨房主任のトゥーイさんが仕入れ内容の素案を作り
その後、みんなで協議するように。金銭の責任者は
ニー店長。
(仁枝)厨房、接客とも髪の毛をしっかりと束ねておくこと。
髪留めを使うように。髪の毛が食べ物に入らないよう
細心の注意をして欲しい。
刺身の買い方。
ダナンの大きなスーパーで刺身を買った方が美味しいこと
とブロックなので鮮度が保てると子どもたちは行っている。
(税田・小山・・・)毎月1回程度の刺身の買出しなら子どもたち
5人でダナンへ買い物に行ったらどうか?
(ニー・子どもたち)私たち5人でダナンへ刺身を買いに行きたい。
責任もって買いに行くことが出来る。
(小山)早速、明日の日曜日に遊びがてら、5人でダナンへ買い物
に行って欲しい。
(仁枝)出勤簿をしっかりとつけるように
豚肉の代わりのものを使っての料理を考える。
話し合いは、2時間に及ぶ。
午後5時半、夕食。
午後6時半、日本料理店開店。
今日は月2回の「精進料理」を食べる日。多くのフエ人は
精進料理を食べる。日本料理店の隣りの精進料理屋は、
夕方から常時満席・人待ち状態。今日はお客さんが
精進料理に流れる。
日本料理店では「忙中閑」。「チェー」(ベトナム風お汁粉)
を楽しむ。
午後8時過ぎ、5人の若者が来店。
日本人3人、ベトナム人1人、中国人1人。中国からやって来た
と言う。礼儀正しい若者だった。「ここの日本料理は美味しい」
と言って、天麩羅、カレーなどたくさん食べて頂いた。
私から「子どもの家」やストリートチルドレン、JASS、
この日本料理店の意味などを説明。
午後9時20分食事を終了。帰りに子どもたちと記念写真を
撮りたいとのこと。
午後9時半閉店。帰宅。
最近5日間ほどアルコールから遠ざかっている。今日も「飲まなかった」。
日本語教師のAさんが、体調を崩し入院。現地病院でも原因不明のた
め2日間の入院の後、明日、急遽日本へ帰国し、日本の病院で
精密検査をするようにした。
バオミンさんと帰国の手続き、航空券等の手配を行う。
東京の自宅から電話。6月日本帰国時に行った大腸がん検査の
結果を知らせてくる。疑義アリとのこと。出来るだけ早く再検査の
必要と医師に言われたと言う。と言われても、明日から
9月末まで200人もの訪問者がある。例年の体験では
ほとんど2ヶ月間、休みも取れないほど忙しい。これは、
10人のベトナム事務所員も同様である。しばらく様子を見ること
にする。家族には10月帰国時に精密検査をする旨伝える。
「松川事件」読了。今まで何冊か松川事件の本を
読んだが、本書は、今までとは違う視点からの論究があり、
面白い。また、人間の人生の浮沈の様子を見る。
福島地裁・仙台高裁で死刑判決が出た人たち。多くが当時の
日本共産党員。しかし、日本共産党自体はコミンフォルム批判
を受け入れるかどうかをめぐり、野坂参三など「所感派」と先日
亡くなった宮本顕治など「国際派」に分裂。共産党同士での
内部闘争が行われていた。松川事件の現地福島は、
共産党「国際派」グループに所属し、「所感派」グルーとの闘争
に入り、松川事件の被告共産党員を攻撃する場面なども
あったという。特に自白した8人の中の共産党員に対する
共産党内からの批判。宮本百合子などからの虚偽の「自白」
をした共産党員に対する批判と取られかねない評論なども
飛び出し、20人の被告たちは、孤立無援状態。
朝鮮戦争に重なり、米占領軍は共産党幹部の
追放、アカハタの発刊停止など事実上共産党禁止措置
を講じ、これに対して共産党の所感派は地下指導部を
作るにいたる。また、一部グループはスターリンや毛沢東の
指導もあり「武装闘争」路線を採るようになる。
米占領軍や吉田内閣は共産主義の暴力革命路線と非難し
共産党の一部は火炎瓶闘争・山村工作隊など武力革命路線
に進み、火炎瓶闘争などを繰り広げると言った状況。
松川事件の被告たちは、共産党の暴力革命路線の
実例としての「列車転覆事件の犯人」とのレッテルを
貼られてしまい、世間でもそれを追認する風潮だった。
世間からは列車転覆犯人。8人もの被告が「自白」している
のだから事実だ。支援の共産党などは分裂し仲間同士で
抗争中。無実の死刑判決を受けた人たちの気持ちを考えると
どんな気持ちで拘置所いたのだろうか?
それから14年間の闘いは死刑・死刑・差し戻し・無罪・最終無罪
と変転する。作家広津和郎、宇野浩二などの「部外者」の裁判
批判を通して、国民的な松川事件支援運動が始まる。
松川事件は私が2歳の時に起こり、高校1年生の時、最高裁で
全員無罪となり終了する。しかし、真犯人が見つからないまま
時効を迎え今日に至っている。無実の被告の人々のその後。
引き続き共産党福島県委員長になった人。共産党を離党した
人、精神に異常をきたした人など様々。
東芝の佐藤一さんなどは、東京から東芝松川工場労組を
指導に来たために首謀者に祭り上げられ死刑判決を受ける。
福島とは縁もゆかりもない佐藤一氏が
東芝労組の幹部として松川工場にオルグに来るという偶然が
彼の人生を一変させてしまい14年間も文字通り命がけの
闘いに入っていく。人間は「絶望的」な状態の中でも
こうして闘いうるものだ、と改めて松川事件の無実の罪を
着せられた人たちを見て思うのである。
松川事件の支援は、当時の自由党(現在の自民党)の
人たちまでもが支援闘争に入っていく。自分たちとは
政治的主義主張は全く反対だが、無実の人間を死刑に
することは間違っているという「人道主義」の立場から
自民党員の弁護士、社会党員の弁護士、議員などが
無実の共産党員の救援を行うのである。
日本人の真っ当な理性がまだ生き生きとしていた時代であった。
小泉首相の郵政民営化選挙の様子を見ると、人間を
人間とも見ない政治手法が横行している。意見が違えば
さっさと切り捨て、刺客を送り、刺殺してしまう。何か
殺伐とした時代になっている今日を実感する。
本書を読んで1950年代・60年代初頭の日本には
政治的には沸騰していたが、人間的には牧歌的な
時代の残滓があったように気がする。
2007年07月27日
フエ中央病院小児科医長懇談
昨日の火焔樹日記の中で4箇所、固有名詞を間違えてしまい
ました。関係者の皆様にお詫びし、謹んで訂正いたします。
① 滋子→慈子
② 岩波出版→岩波書店
③ 「戦争で死ぬこと」→「戦争で死ぬ、ということ」
④ 島崎氏→島本氏
「戦争で死ぬ、ということ」(著者:島本慈子 岩波書店)。
一読の価値のある本です。この火焔樹日記にも読書感想を
掲載しています。興味のある方は是非お読みください。
推薦いたします。戦争の本当の姿と実態・実相が分かります。
そのことが、今の危なっかしい日本の政治の一部の流れの
本質を如実に教えてくれます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
晴天
36度。
午前3時に目が覚める。「松川事件」を読む。
午前7時、朝食。フォー。
2日間休み、元気が回復してきた。
昨日までは、物を書いたり、メールを読んだりする気力なく、
かなり無理をしてメール受信・送信などをしていた。
吐き気がひどく、食事はパンかおかゆだけで3日間ほど過ごした。
何とか今日から立ち直り、仕事を再開した。
海外で体調を崩すと日本のように簡単に食べ物が手に入る訳でも
なく、苦労するものだ。まだ多少、ふらつく。
午前9時、ベトナム事務所でフエ中央病院小児科医長のフオン先生
と1時間ほど懇談。9月12日~17日までフエで小児がんの
プロジェクトを行う「ACCL」(代表 渡辺和代)の日程や活動
内容の調整を行った。
午前10時半、フエ市立病院院長BUI先生とボランティア貯金支援
の障害児医療センター、「フエ市障害児父母の会」の件で
打ち合わせ。ボランティア貯金完了報告書、7月からの2007年度
ボランティア貯金交付金での新たな支援活動について協議。
午後12時過ぎ、部屋へ戻る。数日寝ていたこと、気温が36度
と暑いのに負け、頭がクラクラする。食欲なし。小さなパン2切れ、
牛乳(まだ飲める)を飲む。
1時間ほど昼寝。
「松川事件ー謎の累積」(日向康著:新風舎)の続きを読む。
面白い。松川駅近くで国鉄の列車が転覆させられ、20人の
国労組合員、東芝組合やこれらの労働組合の書記などが
逮捕される。14年間の闘いの後、全員が無罪になる。
ところがこれら20人の中の8人は列車転覆を「自白」して
しまう。著者は地裁ー高裁ー最高裁ー差し戻し審(高裁)
→最高裁の裁判記録をつぶさに調査し、当時の被告や
関係者に面接し、本書を書く。20人の冤罪犠牲者の
多くは日本共産党員であった。自白した8人が何故
やってもいない容疑を認め、殺人を『自白』してしまうのか?
著者は8人の「自白者」一人一人の家庭環境、当時の
置かれていた状況を追っている。警察・検察の『既に作られた
筋書き』通りに被疑者を誘導・脅迫しながらの「自白強制」
の過程を描いている。
長時間眠らせずに脅迫し、甘い声をかけてと精神的拷問を
加え、無実の人間を犯人に仕立て上げた検事、警察官
が後に検事総長、警察庁長官になっていく。恐ろしい権力者の
出世欲である。
午後4時、ベトナム事務所へ。51通のメール受信。全てに目を通す。
必要な返信メールを書く。
午後5時半。久しぶりの日本料理店で夕食。
副店長のリー君がいないのが寂しい。
昨日は16人の来店、一昨日は7人。
今日は1人。日本人、いつものお馴染みさんである。有難い。
午後9時半、部屋へ戻る。気温32度。湿度70%だ。
蒸し暑く、気分が悪くなるもの当然と納得する。
2007年07月26日
バオミンさんの誕生祝い: バオミンさん長男誕生
晴天 暑い
午前3時頃、目が覚め、本を読む。
午前7時、朝食。ブンボー。
ハンさんに買って来て貰った薬が効いたのか、吐き気がなくなった。
倦怠感と喉の痛みが残るが、1日休んだので大分楽になった。
午前7時40分、電動自転車でベトナム事務所へ。
JASSベトナム運営委員長のバオミンさん34回目の誕生日。
事務所員を代表してハンさんからお祝いの「ミートパイ」詰め合わせ
をプレゼント。
続いて記念の色紙を石塚先生から贈られる。
午後5時20分、バオミンさんの長男「QUY TUONG」(吉祥)君が
生まれた。心からお祝いを申し上げたい。
バオミンさんと長男は34年を経て、同じ日に生まれたことになり
一層お目出度い1日であった。お子さんが生まれると直ぐに
私に連絡をしてくれたバオミンさんとお母さんに感謝したい。
バオミンさんのお母さんが「小山先生に直ぐに連絡しなさい」と
言ったそうだ。真っ当な家庭である。
バオミンさん一家と共に吉祥君の誕生を祝う。
バオミンさんは第2代皇帝ミンマン帝直系の6代目の子孫。
初代皇帝ザーロン帝(ミンマン帝の父親)はグエン王朝が200年
続くと考え、皇統も20代の名前が全て決まっている。
6代目が「BAO MINH」(保明)、7代目が「QUY THONG」(吉祥)
既に150年ほど前から決まっている名前である。
QUY TUONG君が健康で様々な問題もあるベトナムで幸せな
人生を送ることを祈る。 3300グラムだとのこと。
午前10時、体調がいまいちなのでトンチンカンホテルへ帰り
休息。
昼食。パン、ヨーグルト、牛乳。牛乳の賞味期限を見ないで
買ってしまったが、5月だった。まあいいや。少し飲んで見るが
腐った匂いもしない。1パック飲む。
そのままベッドで休む。
昨夜半から今朝方にかけて
「恋文」(荒木とよひさ、俵万智著:中公文庫)を読了。
荒木とよひさは52歳。四季の歌、つぐない、時の流れに
身をまかせなどヒット曲多数。
俵万智。36歳。歌人。サラダ記念日でデビュー。最近、ラジオを
聴いていたら、俵万智は、新宿の飲み屋だかスタンドバー
だかのママになり、結婚をしないで子どもを産んだと話して
いた。父親の名前も明らかにしないとしている。
子どもが生まれて歌の内容が大きく変わったと言っていた。
さて、この「恋文」はこの二人が自分の実生活を通して
世間で言う、「不倫」というのか、「本気」というのか、恋仲に
陥る。それは、あるパーティーで二人は知り合い、その後
密会を重ねているという設定でのお互いの「恋文交換」
である。全編の恋文のやり取りを読んでいくうちに
本当の話なのかウソなのかが分からなくなってしまう。
事実は、虚構なのであるが・・・・・。
初めに荒木から俵への手紙。52歳の私、妻と子どもがいる
自分がいつ貴方(俵)と別れるようになるのか、不安だとの
手紙から始まる。
「--抱かれることは、美しいことーー」とさりげなく言った
君の言葉に嫉妬よりも深い悲しみが今僕を包んでいます。
あれから2年、僕の心の中に住みついた、別れの日という
不安に怯えています。もしそれが、君の言葉に隠されている
のなら、本当のことを言ってください・・・・・・・」。
この年の男女が出会い、愛し合ったらこんな手紙を書くなと
実感する。真実味がある。それは二人が本当に愛し合った
気持ちとその存在の中に自らを置いて、真実の気持ちを
恋文に書いたのではないかと思えるからである。
男女の愛情の機微(きび)が実にリアルに書かれている。
気持ちを抑えた大人の愛とでもいうんでしょうか?
虚構の恋文ではあるが、何か実感を伴った恋文となった。
興味のある方は一読する価値あり。今年の5月出版。
午後1時間ほど昼寝。
この間、50通ほどのメールが来ていたが、疲労困憊。
読めなかった。午後、全てのメールを読んで、必要な
返事を出す。
明日午前9時、フエ中央病院小児科医長と懇談する。
ACCLの9月フエ訪問の打ち合わせ。事前に打ち合わせ
事項をまとめる。
読書。「松川事件 謎の累積」(日向庚著:新風舎)
1000ページの大作。2005年版。古本屋で550円。
150ページほど読む。
松川事件を私が初めて知ったのは、1960年頃、私が6年生
の頃だった。
我が家の前の環7通りを数千人のデモ隊が行進していた。
旗やゼッケンに「松川事件勝利。全員無罪」などと書かれて
いたことを思い出す。数年後、最高裁で20人全員が無罪となる。
松川事件とは1949年、福島県の福島市の隣りにある松川で列車が
転覆し、機関士など3人が死亡し、国労や東芝などの地元の共産党員
などを中心に20人が逮捕され、第1審で全員有罪、5人が死刑。
第2審も有罪、最高裁が仙台高裁に差し戻し、14年をかけて全員が
無罪となった事件である。
当時、東京都下三鷹で「三鷹事件」、国鉄の下山総裁の轢死事件
である「下山事件」とあわせて、戦後の3大事件の一つといわれた。
20代の頃、松本清張の本で戦後のこの3大事件を読んだ。
犯人は日本共産党であるとの政府などからの情報が流された
冤罪事件でもあった。
松川事件が起こった翌日、当時の政府官房長官である
増田甲子七(元福島県知事)が、「この事件は三鷹事件などと
同様の思想的な底流がある」と記者発表している。
日本共産党の仕業だと言っているのである。
こうして、事件は初めから共産党の政府転覆の一環としての
列車転覆活動という基調が事件の翌日から出来上がり、
無実の国鉄や東芝の労働者など20人が死刑などの判決を
受けると言う、およそ民主主義とが相反する出来事であった。
事実調査も不十分なままに共産党員なら死刑にしてもよい
との風潮があったことも恐ろしいことである。人間を思想で
見ることはおよそ民主主義社会とは相容れないものであるが、
戦後の日本国憲法下でこうした事件が起こったことを、私たちは
忘れてはならないと思う。
松本清張は戦後の3大事件をアメリカのCIAなどが実行した
陰謀と見ている。イラクやアフガンで行っているCIAの活動の
本質は?・・・・・・。
本書の今後が楽しみ。
---------------------
「ゆるふん 無責任国家日本」
下村官房副長官が都内の演説で「やはり大敗ということになれば、
首相は責任を感じられると思う」として「安倍首相の退陣なくはない」
と語ったそうだ。しかし、その直ぐ後で事実上発言を取り消した
とのこと。
それなら、そうしたことを言うなといいたい。言うのなら、その舌の根
も乾かないうちに発言を取り消すなど、およそ言葉を持って生業とする
政治家にあるまじきがさつな行動を取るなと言いたい。
正直、今の選挙情勢の中でこの種の発言が何を意味するのかが
分かっていない人間である。この程度の人間が政府の高官に
なっているところに日本の悲しみがある。
朝青龍が腰が痛いと言って巡業をキャンセルし、モンゴルに
帰国し、サッカーをやっていたとのこと。
親方の元朝汐は、朝青龍がモンゴルに帰国したことすら知らなかった
という。国技などという前に多くのフアンがいる大相撲である。
これらのフアンに真っ当に応えられる姿勢を持って欲しいものである。
文字通り「ふんどし」が甘い、ゆるいのである。ゆるふん大相撲。
親方が弟子に舐められているのである。朝青龍が、言うことを
聞かないのなら、首にしてけじめをつける程度の根性を持って
いなければ、国技などといえない。
あっちもこっちも「ゆるふん」の美しい国家である。
泣いて馬しょくを切るという、けじめと規律を断固守るという
厳しさがなくなった我が日本である。
高砂親方は朝青龍を首にするくらいの厳しさを示すべきである。
安倍首相は、「私は参議院選挙の結果に左右されずに首相を
続ける」と断言しているのである。それに反対する人間は
断固として処断することが、「範を垂れる」ということである。
2007年07月25日
体調を崩し1日寝ている
晴天
気温36度。
体調が悪い。昨日からの喉痛、倦怠感、吐き気(多少緩和)。
考えてみたら今日まで5回の日曜日、連続の仕事が入っていた。
日本へ帰ってもなかなか完全に休む日がなかった。
午前7時、朝食。フォー。さっぱりしていた。頑張って全部食べる。
体力が薬よりも大事。
朝食後、そのまま部屋に戻り寝ていた。午前8時、停電。
エヤコンも電気も消えてしまう。気温36度、湿度60%(廊下)
の中で密封された部屋は熱暑状態。エヤコンを使う部屋は
停電には一番弱い。仕方がないのでそのままベッドに
横たわっている。汗が吹き出てくる。2時間、横になる。
昼食を買いに外に出る。パンとヨーグルト、牛乳を買う。
約30分の外出。午前10半部屋に戻る。横になる。
京都の豊田旅行の豊田さんが岩波ブックレットNO 702
「この時代に生きること、働くことー9・11犠牲者遺族と
ジャーナリストのメッセージ」(中村佑・島本慈子著:岩波書店)
を郵送してくれた。昨日ベトナム事務所に届く。
寝ながら読む。中村佑さんは、2001年9月11日のNYテロで
息子さん(当時30歳:西日本銀行派遣でNY勤務)をなくす。
2006年9月、大阪府豊中市の講演会の記録である。
中村さんは縫製工場の社長をしていた普通のおじさんである。
息子がNYのテロで亡くなり憔悴する。その後、ブッシュ大統領が
テロの復讐として、アフガニスタンにいる『犯人』のビン・ラディンを
捕まえるとしてアフガンを空爆する。その空爆で関係のない
庶民が殺されていくことに疑問を抱く。講演会の最後にアメリカの
アフガンやイラクへの空爆・侵攻は間違っている、憎しみと
テロを増幅させるだけと言い切る。そして、アフガンで活動している
中村哲氏の「弱い人間や他人に関心を持つ」という気持ちこそ
世界から戦争をなくす糸口になると締めくくっている。
中村佑氏の講演は、このブックレットの講演全文を読む価値の
あるものである。中村佑氏は特定の思想を持っている方ではない
ように見受けられた。息子をなくし、テロを一番忌み嫌っている
方である。そうした犠牲者の遺族がアメリカの報復爆撃、
イラク侵略に反対の声を上げている。一般庶民を殺し、
更なる憎悪を増幅させ、収拾不可能な世界を作り出すと
言っている。私たちは中村佑氏の意見に耳を傾ける必要
ありと感じた。
島本慈子さんは、「戦争で死ぬ、ということ」を書き、私も島本氏の
友人である豊田さんから本を贈ってもらい読んだ。
そこで「伏龍特攻隊」を知った。海岸の海にもぐり、
本土上陸する米軍を棒の先につけた爆弾諸共自爆する
特攻隊。
島本氏は、憲法9条を改悪することは、日本の軍産複合体を
作り、日本をアメリカと同じ軍需産業国家に変質させることに
なると警告している。労働者の格差は賃金格差だけでなく
人権格差まで作り出している。これらの格差が日本の軍隊の
海外派兵を可能にすると断言している。下層階級に対して
『自衛軍』に入り海外に行けば、奨学金や大学進学が有利に
なるという条件がつく。これは既にアメリカで行われている。
徴兵制を無理に作らなくても、階層格差社会を創出し、
下層階級に対して上記の条件をつけることで、軍隊に入り
アメリカとともに(正確にはアメリカに代わって)海外で
空爆をし、地上戦を闘う日本軍を作ることになると警鐘を乱打
している。戦争の本質は人間をばらばらに砕く残虐性と
人間の復讐心の増幅だと言っている。
70ページほどの小冊子だが、内容豊かな本である。
2時間程で読了。
昼食はパンとヨーグルト、牛乳。
午後1時間ほど寝る。
夕方まで読書
「小三冶名席」読了。古本屋で400円で買った。
読んで楽しかった。私の最高の娯楽。
落語を文章で読んでもゲラゲラ笑ってしまった。
「野ざらし」。三遊亭円遊の野ざらしのテープをベトナムで
毎晩聴いていた。ほぼ円遊ベース。
「道具屋」
「居残り佐平次」。志ん朝のテープを何度も聴いたが
ほぼ同じ。
「金明竹」。これは前座噺だが、面白い。本を読んでも
つい笑ってしまう。また、かなり専門的な知識がある
人が作った噺でもある。
「寿限無」と同様「同じ言葉」を繰り返すところに可笑しさ
が出るのだが、その同じ言葉は、書画骨董の世界に相当
造詣の深い人でないとその意味が分からない。
寄席では前座が簡単に話すが内容は以下のことが
理解できないとこの噺の面白さも理解出来ない。
「・・・中橋の加賀屋佐吉方から参じましてん。先渡仲買の
弥市が取り次ぎました道具七品のこってござります。
佑乗・宗乗・光乗三作の三所物、備前長船のじゅう則光、
横谷宗眠四分一ごしらえ小柄付きの脇差、この脇差な
柄前が鉄刀木(たがやさん)や言うておりましたが、
あれ埋れ木やさかい、木ィが違っております。
ちょっとお断り申し上げます。自在は黄檗山金明竹、寸胴
(ずんど)の花活(はないけ)には、遠州宗甫の銘がござりま。
織部の香合、のんこの茶碗、「古池や蛙飛び込む水の音」
いいます、風羅坊正筆の掛物、沢庵・木庵・隠元禅師
張交ぜ(はりまぜ)の小屏風、この屏風な、わいの旦那の
旦那寺が兵庫におまして、兵庫の坊さんえろう好みます屏風
によって、兵庫へやって、兵庫の坊主の屏風にいたしますと、
かよう言付けおまんねんけど」。
・佑乗、宗乗、光乗三作の三所物(みところもん)。江戸時代の
刀装。後藤佑乗・・。目貫、笄(こうがい)、小柄(こづか)の三種を
同一人物に作らせることが流行った。
・備前長船。岡山県の地方名。刀鍛冶で有名。
・横谷宗眠。江戸時代の彫金師
・鉄刀木(たがやさん)。黒と赤の模様がある木。銘木。
・埋もれ木。宮城県の広瀬川で取れる炭化した木。
・織部の香合(こうごう)。安土桃山次第の茶人。古田織部の
作った香を楽しむ容器。
・風羅坊正筆(ふうらぼうしょうひつ)。松尾芭蕉が本当に書いた
・沢庵、木庵、隠元禅師張り交ぜの小屏風。禅宗のお坊さんが
書いた書画を貼った屏風。
「天災」
「千両みかん」
「粗忽長屋」
「死神」
午後7時から「恋文」(荒木とよひさ、俵万智著:中公文庫)
を読む。
2007年07月24日
体調を崩す
晴天
気温37度。
昨夜午前1時半に目が覚め、朝まで眠れなかった。
午前7時、朝食。ブンボー。
讃岐造船の皆さんを案内した5日間、メールを読んだり
送信したりする時間がなかった。
朝食後、昨日の日記を書き、5日間のメールを受信し
全てを読む。必要ないくつかのメールについて返信。
午前9時半、徒歩ベトナム事務所へ。
バオミンさん、税田さんと今後の様々な問題について
当面の対応策を相談する。
昼食、ほか弁。何となく食欲がなく、3分の1程しか食べられ
なかった。
体がだるい。昼寝をするが、気分が悪く、吐き気を模様する。
昼食のほか弁の何かに中った(あたった)のか?
午後3時過ぎ、ベトナム事務所へ。
日本料理店問題について、ホンニー店長、トゥーイ厨房主任と
相談する。
①日本料理店厨房のターオ君が1日も出勤しないので、
今後は厨房要員とは数えないことにし、新たに2人の厨房スタッフを
採用するとことにする。
8月・9月に日本料理店で食事をする予定人数は200人ほど。
多い日は50人ほどの食事予定が入っている。現在、厨房は
3人の子どもたちでこなしている。その中のチュンさんは、採用して
まだ間がない。事実上2人半と言ったところ。新たに「子どもの家」
の子どもたちを2人採用することにし、採用候補者を店長、
厨房主任と相談する。
②副店長のリー君が、22日(日)の午後11時半に「子どもの家」の
ホンニー店長の部屋にやって来て「俺は、ダックラック省へ行く。
日本人に、偉い人間になると伝えて欲しい」と言って去って行った
そうだ。ダックラック省はベトナム南部の山岳地帯。コーヒー農園や
ゴム農園がある。
今日、ホンニーさんのチャットにリー君から連絡が入り
「俺の未来には大きな成功が待っている」という趣旨の言葉が
入っていたそうだ。
リー副店長がダックラック省に行ってしまった。その対応を相談する。
皆さんの意見は、コーヒー農園かゴム農園
の労働者として「口入れ屋」の甘い口車に乗り、ダックラックへ
行ったのではないかとの推測。ダックラックの農園で働き高給が
もらえるとの言葉に騙されて行ってしまったと思われる。
これも「拝金体質」「金金金」の今のベトナムを象徴しているよう
である。日本料理店での給料では、テレビや町に溢れる最新の
機器や衣類など欲しいものが手に入らないと思う若者が増えている。
特に「子どもの家」の子どもたちはこうした「拝金主義」に影響され
易い。リー君からの連絡を待つしかない状況である。
甘いことばほと危険なものはないのだが・・・・。
「親の心、子知らず」というのは、こういうことである。
これはリー君だけでなく、私たちの回りにも何人もこの種の
人間を見る今日この頃である。リー君が早く拝金主義から
目を覚まして、帰ってきて欲しい。
午後4時。体調が悪い。喉が痛く、だるい。吐き気がする。
典型的な風邪症状。日本の風邪薬がないので、ハンさんに
ベトナムの薬局で風邪薬を買ってきてもらい、午後4時半に
自室に帰る。
日本料理店で子どもたちと一緒の夕食は食べられない。
日本料理店の厨房主任のトゥーイさんに頼んで『米』『ねぎ』
『たまご』をもらう。部屋でおかゆを作り夕食とする。
幸い熱はなく、頭痛もない。だるく、吐き気、喉痛。
読書「小三治名席」を読む。
上席の取り 「芝浜」。三遊亭円朝の三題噺。芝の浜、
財布、酔っ払いという題を客席からもらい、即席で作った
噺といわれている。
私は先代(三代目)桂三木助のテープを何度も聴いた。
丁度私が最初に赴任した小学校に隣接して三代目
桂三木助が住んでいたこともあり、三木助の「芝浜」は
暗記するほど聞いている。
柳家小三冶の「芝浜」は三木助の芝浜とはまくらや導入
噺の展開などが大分違う。どちらが良いかどうかは
分からないが、三木助の芝浜は無駄な言葉がない噺の
ように思えた。また、昔、やくざだったという三木助は
酔っ払って仕事をしない盤台の魚屋の口調が良く出ている
ように思える。大晦日の雰囲気も三木助の噺の方が
雰囲気が出ているようである。
中席
「時そば」。
「転宅」。
午後5時から部屋で寝ている。
あと5日間で参議院選挙の投票日となる。
以下、誰から言われたことでもない。自らの思いを
書いただけである。
私が今回の参議院選挙に期待する最大の課題は
「政治の流れを変える」というキーワードに尽きる。
一人一人の国民の力で政治の流れを変えることが
出来るという経験を今回の選挙でしたいものである。
政治の流れが多少変わってもあまり意味はないという
人もいるかも知れない。しかし、政治の流れを変える経験
を国民がすることを通して、政治が自分の未来につながるものだ
ということを国民が体験することが一番大事なことだと思っている。
政治は変えることは出来ない、と諦めている多くの若者の皆さんに
訴えたい。今回の参議院選挙は「政治の流れを変える」最大の
チャンスだ。
格差がこんなに大きくなった社会はやはりおかしい。
競争をする中で伸びていくと言うが、競争する以前に既に勝敗が
決まっている社会でもある。お祖父さんと叔父さんが首相で
父親が外相の安倍首相、お祖父さんが農林大臣だった
赤城農相、お祖父さんが首相だった麻生氏が本当に
ゼロからの競争をして来たのだろうか?
東京都庁の第2庁舎の下で寝ていた70人程の60歳代の
おやじたち。能力がなく、怠慢でホームレスになったのだろうか?
何か、今の政治は生まれながらに上流社会に生まれ生きて来た
人間が行っている「アワのような」政治に思えてならない。
真面目に40年も働いてきて突然「リストラ」され、路上生活を
せざるを得ない人間の気持ちに少しでも共感を持てる与党の政治家
がどれだけいるのだろうか?
この数年で人知れず家で「餓死」する人が数百人に達したと言う。
何か政治が狂っていると思わざるを得ない。
本間税調会長の辞任、佐田行革大臣の辞任、、松岡農相の自殺、
赤城農相の事務所問題、その後の麻生氏の「アルツハイマーの
人でも分かる・・・・」発言、山本拓農水副大臣の「松岡農水大臣の
事務所費は芸者の花代だ」との本当か冗談かは分からない発言。
それを奥さんの高市内閣府特命担当相が「謝罪する」本末転倒
の政治。1から10まで狂っている。あれだけ北朝鮮拉致問題を
主張していた安倍首相が今回の参議院選挙では拉致問題には
一切触れていない。前進が全くないからだ。結局、安倍首相に
取っての拉致問題は、自分の人気取りの手段だったのだ。
自民党の東京選挙区に「タレント候補」として出た
元アナウンサー女史。
選挙に立候補していながら、自分自身は今まで投票行為をしてこな
かった。今回も東京での選挙権がなく自らに投票することが出来ない
という間抜けぶり。いかにも付け焼刃の感あり。
やはり今の与党の政治は真っ当ではない。加藤紘一元自民党
幹事長が今の政治を私と同じ視点で批判している。
私の批判は、自民党の本来の主流派の主張でもあるのだ。
小泉前首相・安倍首相から自民党は真っ当ではなくなってしまった。
「福祉と平和」の党と言いながら増税とニセ「100年安心年金」
など福祉を大幅に切り捨て、平和の党などと言いながら、
イラク・アフガンでの戦争を遂行した連立与党に天誅を加えるチャンス
である。
20代、30代の若者の皆さんに訴えたい。今回の参議院選挙に
参加し、政治の大きな流れを変える事業に参加しようではないかと。
などと力を入れて書いているうちに、段々と体力を消耗してきた。
以上、何とかの「冷や水」として聞いて頂きたい。
2007年07月23日
讃岐造船の皆さん 帰国の途に
晴天
気温38度。猛暑。
午前9時、讃岐造船の皆さん3人、バオミンさん、私で
王宮参観。ホア副知事の指示で遺跡保存センタースタッフが
特別案内。
午門から入り、午門の2階に上る。
遺跡保存センタースタッフがベトナム語で解説し、バオミンさんが
日本語に翻訳する。午門の参観を終え、大和殿へ。
大和殿は、グエン王朝皇帝が来客などと謁見する場所である。
●大和殿前にて
●大和殿内部を参観
皇帝の黄金の玉座などのレプリカがある。フランス植民地
時代に黄金の玉座など大半の宝石類はフランスにもち
去られたとのこと。
皇帝の図書館だった所が現在は皇帝の日常の愛用品
などを陳列館を参観。
習字の道具・金銀の装飾品、象牙製品・・・・・・。
最後に歴代の皇帝の位牌陳列所へ。
公式には13人の皇帝がいたことになっているが、
位牌は10個。2人の皇帝は就任1日など皇帝としての
存在事実が希薄なため、位牌もない。13代皇帝の
バオダイ帝はグエン王朝を廃止したラストエンペラー。
フランスに亡命し、10年前に90歳代で亡くなる。
ベトナム政府はバオダイ帝の位牌設置を認めていない。
そんな事情で10人の皇帝の位牌が陳列されている。
午前10時半、王宮参観を終え、ドンバ市場へ。
ベトナムのタバコを買ったり、場内を視察。
午後12時過ぎ、昼食。チャオバンカン。
フエの煮込みうどん。
午後12時半。ホテルに戻り、休息。
午後2時半、ホテルをチェックアウトし、ダナン空港へ。
私、バオミンさんが同行。
途中、ランコービーチで海産物を食べて暫時休憩。
ムール貝、海老、かに、魚などランコー海岸で獲れた
新鮮な魚介類が生きたまま売られていた。
午後6時過ぎ、ダナン空港へ到着。
讃岐造船・中小企業支援センター関係の3人はダナン空港から
ホーチミンへ。午後11時半頃の飛行機で関空へと帰国した。
3人の無事な帰国をお祈りする。
5日間、讃岐造船副社長・中小企業支援センター理事長さん
親子の皆さんとお付き合いした。楽しい5日間だった。
何よりも3人の方々が真面目で仕事熱心なことに頭が
下がった。海外ボランティアについての理解も深く、
出来る範囲での支援を行ってくれた。そして今後も
そうした活動を続けていくとの姿勢だった。
こうして香川県にも私たちと協力する人々を見つけることが
出来た。どこにもで「心のある人たち」はいるものである。
2007年07月22日
讃岐造船「子どもの家」・フールー小学校訪問
晴天
気温38度。真夏
午前7時起床。さすがに疲れがたまり朝起きられない。
午前8時半、トンチンカンホテルを出て讃岐造船の皆さんが
泊まっているフォンザンホテルへ。ホテルの回りは警察官が
たくさん警戒していた。前首相のボーバンキエット氏が宿泊
しているとのこと。
午前9時、フォンザンホテルを出て、縫製研修工場、オートバイ
研修センター・工場、アクセサリー研修センターを視察。
続いて「子どもの家」へ。
「子どもの家」では、日曜日にも拘わらずセン運営委員長など
が出迎え。
「子どもの家」の歓迎会。
初めにセン運営委員長の歓迎の挨拶。
子どもたちの歓迎の踊り
讃岐造船は、9月1日から始まる新学年にあわせて子どもたちが
着る通学服を全員に寄贈してくれた。子どもたちはオーダーメイド
で作られた制服を小西副社長より頂く。
全員で記念写真を撮る
子どもたちと交流後、私が「子どもの家」の各施設を案内。
午後12時。フォーサイゴンへ行き昼食。
午後3時。船上生活者支援のため、一隻の家庭を訪問する。
父親(59歳)、母親(57歳)
子どもは5人。
34歳、32歳の子どもが舟を出て生活。
現在は、21歳と19歳の娘さんが舟で魚を獲る仕事を
手伝っている。13歳の男子はフールー小学校へ通学。
13歳の男子以外の兄弟は全員小学校1年か2年で
退学している。
父と娘など家族で魚を獲って1日100円程度の収入。
月収3000円程度。特に10月からの雨季は魚が獲れず
生活が大変だとのこと。家族代々船上生活をしているという。
狭い舟で家族が寝起きをして生活している。
フエには小型ホリエモン・村上などが贅沢極まりない生活を
している反面、こうした月収3000円程度の生活に
甘んじている人々がいることを私たちはしっかりと知る必要が
あると改めて感じた。
ベトナムは貧しい国ではない。「貧しい人々がいる国」
なのである。
ホーチミン市やハノイ市では「株式投資」が大流行。
大学生も株式投資に狂奔している。フエでも同じような
若者が増大している。お金が全て、金儲けのためなら
人間関係は切り捨てるという情けない金権主義者が
発生している。
ハノイの共産党幹部など金持ちは1ヶ月300ドル~1000ドル
もする「インターナショナルスクール」に子弟を通わせている。
(船上生活者の月収が3000円という社会で・・・・・)
子どもたちは「王子様」「お姫様」状態。買いたいものやりたい
ことは何でも出来る。お手伝いさん、家庭教師・・・・・。
そうした環境の中で子どもたちは、自分というものを形成する
ことが出来ず、無気力化、無能力化してくという。不登校、
引きこもり現象は既にベトナムでも(フエでさえも)起こっている。
金満体質がその最大の原因である。
その足でフールー小学校へ。フールー小学校は60%
程の子どもたちが船上生活者の師弟。
今日はその中でも生活が最も困難な子どもたち50人に
9月から始まる新年度に使う「通学カバン」「ノート」
「筆記用具」をプレゼントする。
校庭に集まった子どもたち
讃岐造船の学用品贈呈式の看板
讃岐造船 小西副社長挨拶
「新学期、しっかりと勉強して、立派な人間になってください」。
カバンなど贈呈
カバン・学用品をもらい喜ぶ子どもたち
贈呈式には地元のテレビ局も取材に来ていた。
午後6時から副知事主催の送別懇談会が行われる。
フエ伝統宮廷料理と伝統音楽を聴きながら夕食。
王宮料理・音楽のガイド。フエ大学時代の私の教え子。
フエ省外務副局長をしているのだが、アルバイトに王宮料理ガイドを
している。副局長の名が泣くというものである。
フエ省外務局副局長がガイドのアルバイトをしているのでは、
示しがつかない。月給が安いわけでもない。もっとお金が欲しいのか?
帰国晩餐会には、ホア副知事も参加。親交をあたため、再会を
誓い合った。
明日は、王宮を見学し、車でランコー経由ダナンヘ。
ダナンからホーチミン経由関空。
2007年07月21日
フエ造船所視察
晴天
気温38度。
トンチンカンホテルに隣接した隣りのホテルの
大型バスが客待ちでアイドリング中。大量の排気ガスが
長時間放出される。
私たち日本人スタッフの部屋をもろに襲う。人間が真っ当に
住める部屋ではない。
午前7時。朝食。ブンボー。
午前8時過ぎ、バオミンさんのオートバイでフォンザンホテルへ。
讃岐造船の皆さんを案内してフエ造船所を視察。
造船所労働者の歓迎を受ける。
造船所幹部の皆さんと技術交流。
昼食は造船所側の招待で海産物を食べる。
そのまま、午後4時半までフエ造船所を視察し、労働者と懇談。
役員の皆さんとフエの造船事情について詳細を聞き取る。
午後6時。フエ市共産党委員長ズン氏、外務部長ニエン氏と
懇親夕食会。讃岐造船関係者3人、JASSからは私、バオミンさん
税田さん、サンさんが参加。
初めに日本料理店の趣旨を紹介。その後、6人の子どもたち
一人一人を紹介する。
1時間半の懇親交流。お互いの親交を深める。
日本料理店は今日1日で21人の来客あり。
ターオ君が全く店に顔を出さなくなった。
厨房は3人で料理を作っている。今日のように21人もの
来客があると到底手が足りない。仁枝さんが、全面協力
してくれているので何とか持っているが・・・・・・。
厨房の人数を早急に増やす必要がある。
ベトナムはアジアカップ一色に染まっている。
連日、全ての試合を完全中継。町中の人々がテレビにかじりついて
ベトナムを応援している。
午後6時半から日本対オーストラリア戦終了。
午後8時頃、PK合戦で危うく日本の勝利。
FIFA世界ランキングでは、オーストラリアが43位、日本は46位。
午後8時半から、イラクとベトナム戦。イラクが2対0で勝利。
イラクは世界ランキング78位。ベトナムは140位。
7月15日、フエに戻り8日目。さすがに相当の疲労状態。
部屋に戻り休むが体中がだるい。
明日の日曜日は「子どもの家」や船上生活者支援。
明後日はダナンまで見送り。
2007年07月20日
讃岐造船所関係者案内
晴天
気温38度
外を歩くと顔が熱射でヒリヒリする。
午前9時。讃岐造船副社長一行3人を案内してベトナム事務所へ。
ベトナム事務所員全員(ソン君は子どもたちに日本語を教えていた)
と挨拶。
ベトナム事務所員一人一人の自己紹介。
讃岐造船関係者の自己紹介。お互いを理解しあう。
今後の支援・協力を誓う。JASSへの支援は佐文讃岐造船社長
の指示でもある。
ベトナム事務所3階の刺繍みやげ物店で買い物。
刺繍みやげ物店の皆さんは、刺繍製品作りに励んでいたい。
午前10時半。トゥアティエンフエ省人民委員会を表敬訪問。
ホア副知事、チェン労働局長などと懇談。
今年の3月、ホア副知事、チェン労働局長などが讃岐造船を
訪問した答礼。
讃岐造船小西副社長とホア副知事。バオミンさんの通訳。
日本側参加者:小山挨拶
税田さん挨拶
今後の協力・共同を話し合う。
ベトナム側はフエの地理・投資環境などの説明を行う。
最後にお互い、お土産の交換。
その後、昼食会。シーフード料理店。
かに、えび、鯛の刺身などを堪能。
午後2時半。造船関係視察を視察。研修センター、現場・・・。
午後6時半。フォンザンホテル「ホアマイ」レストラン
特別室でホア副知事主催の歓迎晩餐会。
副知事・労働局長・造船関係会社関係者などが参加。
日本側は讃岐造船関係者、私、バオミンさん・・・。
夕食会は午後9時近くまで続く。痛飲。
2007年07月19日
讃岐造船関係者出迎え
晴天 真夏
気温36度。
午前7時。朝食。ブンボー。
午前8時、徒歩ベトナム事務所へ。
日本へコンピューターの研修に行く予定の「子どもの家」に
VU君と友人の二人と懇談。
二人ともホーチミン市のコンピューター会社に就職し、
その会社の日本の本社に研修に行くことになった。
当面、8月末にホーチミン市の会社に行き、研修。
健康診断・訪日手続きを行う。
JASSの支援で日本へ行くこと。研修が終わってフエに
戻って来たら貧しい子どもたちなどへの支援の気持ちを
もって活動することなどを話す。
昼食。ほか弁。70円。
読書「小三冶名席」(柳家小三冶 講談社)
1970年代の高座を文字に起こしたもの。
定席の寄席のように10日毎に上席・中席・下席と
各5席、合計15席の話が載っている。
今日は「高砂や」「錦の袈裟」「船徳」ろくっろ首」。
錦の袈裟は小三冶のCDをフエで聴いている。
船徳は、桂文楽を下敷きとしている。
1時間ほど、昼寝。1日中、体がだるい。この間の疲れが
溜まった感じ。
午後3時。フォンザンホテルグループの社長と1時間ほど
懇談。
午後7時半、トンチンカンホテルを出て、フエ空港へ。
讃岐造船関係者3人を出迎え。今日はホア副知事・
バオミンさん・私などが、飛行場内の飛行機まで行き
「特別の出迎え」をする。
飛行機が1時間遅れホア副知事と飛行場で待つ。
ホーチミン市からの飛行機がフエ空港に着いたのは
午後8時40分。
ホア副知事と車で飛行機の下まで出迎えに行く。
そのまま車でフォンザンホテルへ。
フォンザンホテルで遅い夕食。讃岐造船関係者、
バオミンさん、私など7人で会食。
5日間のフエ滞在日程の確認などを行う。
帰宅午後11時15分。
村上ファンドの村上被告に判決。懲役2年の実刑判決。
追徴金11億円。
村上被告の「お金儲けをして何故悪い」との言葉が、
私の耳に残っている。違法行為でなければ悪いことではないが、
「お金儲け」だけが人生の目的・目標に成り下がっている
情けない人間とは思われるだろうなと思う。ホリエモンも同様。
お金儲けは悪くないが、儲かったお金を何に使うのか?
人間の志があまりに低い。せっかくこの世に生まれてきたのである。
「金儲けをして何が悪い」などど開き直るその人間性が、自らの
人間を低めている品性のない人間だということを理解していない
無知な人間と見た。どこの大学を出ようが、人間性と学歴は
関係ない。品性と志の低さを恥ずかしげもなく露呈している
浅ましい人間に判決。
ベトナムでも小型「ホリエモン」「小型村上」が私の身の回りにも
出没している。この種の人間の共通しているのは、お金だけに
目が行ってしまい、『自分が見えなく』なることである。
多くの人への感謝の気持ちもなにもなくなってしまい、
「お金儲けをしたのは、私の能力があったからだ」と開き直る
浅ましさ。どこへ行ってもお金は人間を狂わせる。
中国でもベトナムでも大型・小型のホリエモン・村上が
跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)している。
2007年07月18日
ボランティア研修生と懇談
晴天 真夏
午前5時起床。血圧・体重測定。
午前7時、朝食。フォー。
フエに戻って4日目。やっと落ち付いてきた。
午前8時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。
東京のK大学生のOさんと2時間半懇談。
大学の海外研修プログラムに基づき、1ヶ月間
ベトナム事務所・「子どもの家」・日本語学校などで
研修を行う。
午前8時半から午前11時半までボランティアのこと、
NGO、子どもたちのこと、日本の教育のことなどを
話し合う。
今後、研修終了後、Oさんへの評価を書いて大学へ送ることに
なる。
昼食。次男から送られた稲庭うどんをゆでて冷たくして食べる。
1時間ほど昼寝。
読書「仕事と人生 城山三郎」(角川書店)読了。
今年3月に亡くなった城山三郎の最後の本。5月に出版された。
三部構成となっている。第1部は、城山三郎のエッセー集。
「残された歳月」では、体力が衰えてきて残りの持ち時間、
何をするのかを記している。「考えてから」ではなく
「やってみた上で考えよう」とのスタイルである。
これは、文章は手と足で書くという「行動・実践」を大事にする
作家であることが分かる。
「甘粕大尉」を理想の男性と言っている。私など大杉栄、伊藤野枝
とその子どもを関東大震災の混乱に乗じて虐殺した人間、
傀儡満州国を裏で操った人間というイメージが強いが、
城山三郎など昭和2年頃生まれ、敗戦時17歳の人たちには
そんな風に映っていたのかと改めて世代と歴史体験の違いを
感じた。
城山三郎が亡くなる間際まで戦争に反対していた理由は、
海軍特別幹部練習生を志願し、湘南海岸で「伏龍特攻隊」
として、人間爆弾となり、湘南海岸の海に潜り、棒の先に
爆弾をつけて米軍の上陸用舟艇に体当たりするという特攻要員。
そんな経験から、戦争には絶対反対、憲法9条だけが
戦争で得たものだと言っている。
第2部は佐高信との対談。
戦争を鼓舞した音楽を多数作った古関裕而を批判している。
軍艦マーチ、予科練の歌、加藤隼戦闘隊の歌をなどを作り
戦争を鼓舞した古関が、戦後、何ら反省をしないままに
時流に乗って「長崎の鐘」などを作曲していることなどを批判。
第3部の各界の人からの追悼の言葉の中で孫の
井上裕子さんが、「硬派で、正義感が強く、愛情豊かで
優しい、いつも少年の心を持ち続け、いたずら好きなところ
もある祖父」と言っている。城山三郎の実像が見えるようだ。
本書を読んで私の生き方の何らかの指針になったことは
明らかである。
午後5時半、日本料理店で皆さんと夕食。魚のフライ。
午後6時半、日本料理店開店。
リー副店長がいなくなった。夕食前まではいたのだが・・・。
午後7時、日本人ご夫妻来店。
午後8時、オーストラリア人2人来店。
4人の来店。
午後9時、閉店。日本人スタッフで新しく入れた生ビールの
試飲会を行う。工場で作ったフダ生ビールの味が変わったことを
確認。午後10時、帰宅。
宮本顕治が亡くなった。団塊の世代にとっては、好き嫌いは
別として、傑出した人物であったことは事実である。98歳。
長州出身の岸信介と宮本顕治は、左右の両翼だった。
宮本百合子との「12年の手紙」を学生の頃読んだ記憶がある。
現在の日本共産党の基本路線(第8回党大会路線ー
アメリカ帝国主義と日本独占資本との闘い)を作った
中心人物でもあった。「余人に代え難い人」だったそうだ。
2007年07月17日
セン「子どもの家」委員長打ち合わせ 日本料理店全員会議
晴天
気温36度。 湿度60%。
午前6時起床。熟睡。ベトナムに帰ったら本当に良く眠れる
ようになった。
午前7時、朝食。フンボー。1ヶ月ぶりにブンボーを食べる。
しばらく食べていないせいか、唐辛子が辛く感じた。
午前8時、ベトナム事務所へ。バオミンさんと一緒に
「子どもの家」へ。セン運営委員長とAさんとB君の
件で話し合う。
Aさんの件。
母親がサラ金地獄にはまり借金返済でにっちもさっちも
行かず、「子どもの家」にいる17歳の娘に仕事をさせ、
下手をしたら売春すらさせかねない危険を感じ、
日本料理店で仕事をさせている。
今日、サラ金地獄問題を解決しようとセン委員長と
詳細な話し合いをした。
更に詳しい事実が分かってきた。
母親の言った話は全て嘘と言うことが判明した。
私とバオミンさんの前で涙を流して「サラ金」への
利子返還で生活が出来なくなったので娘を
働きに出すと言っていたのだが・・・・・。
セン委員長・バオミンさんと善後策を考える。
これが海外支援の実態である。外から深入りしない
範囲で付き合うのが一番楽な付き合い方である。
私たちはあまりに海外支援の実態に深入りしてしまった。
「支援は利権」と言っても多くの海外ボランティアの
皆さんには理解してもらえない。支援される人々は
私たちが想像している以上にしたたかである。
この14年間、何度「騙された」か分からない。
騙される度に一つ学びと今日まで至っている。
本当の海外支援は本人の自立への強い意識を喚起する
ことである。
B君問題。「子どもの家」を退所し仕事をしているが、
仕事にもいかないで、近くのインターネットカフェに
入り浸っている。時々夜中の2時頃、「子どもの家」に
侵入し、他の男子を追い出して寝ていると言う。
先日、夜中に侵入したので警察を呼ぶ。
寮母さんや関係者の意見はなめた態度で聞こうとしない。
仕事もしないでインターネットカフェやレストランなどに
ともだちを連れて行き、ご馳走しているという。
どこからお金がでているのか? など諸情勢を相談したい。
当面、状況を見ようということになったが、このような態度で
生きていくことはB君自身にとっても最悪である。どこかで
覚醒するよう、手を打つ必要があることで意見の一致を見た。
子どもたちは3ヶ月の夏休みを満喫していた。
寮母さんは子どもたちが遊び呆けてもいけないので
勉強する習慣を忘れないよう子どもたちに
勉強を教えていた。
寮母さんと勉強する小学校1年生。
JASS初代代表の岩辺泰吏さんが葛飾区立飯塚小学校で
教えたOさんが「子どもの家」で研修中。
岩辺さんの要請で葛飾区立飯塚小学校の6年生に「子どもの家」の
話・ボランティアの話などをしたことがあるが、その時、Oさんは、
4年生だったそうだ。現在は東京の大学生。教育学を勉強中とのこと。
将来は先生になりたいと話していた。子どもたちの立場に立った
教師になってもらいたいものである。
「子どもの家」の帰り道。王宮のお堀は「蓮の花」の最盛期。
ベトナム事務所では、日越スタッフが仕事の真っ最中。
午前11時。床屋へ。30分。100円強。
昼食はほか弁。70円。
「突破者の母」(宮崎学著:徳間文庫)を読む。
突破者、近代の奈落を書いた「グリコ・森永事件」
の犯人と間違えられた著者。京都、寺村組組長の妻の
歴史。
1時間ほど昼寝。
午後3時。日本料理店全員会議。
私が1ヶ月ほど日本へ帰っていたこと。日本料理店を
指導していた大塚さんが6月末でやはり日本へ帰国したこと、
などこの間、諸条件が大きく変わった。
今日は日本料理店開店2ヶ月間の「総括」を行った。
子どもたち一人一人から率直な意見を聞き、今後、
子どもたち中心の日本料理店運営をどう進めるのかを
話し合った。
(小山)子どもたち中心の日本料理店の運営を更に進めたい。
そのため、皆さんの率直な意見をお願いしたい。
(ホンニー・店長)私が店長になって大体うまく行っていると思う。
生ビールのサーバーのバルブを開けるのに力が要る。
リー君に頼んでいるが、時々、いないことがるので、
リー君は毎日仕事に来て欲しい。
(リー・副店長)以前に比べれば毎日出勤するようになった。これからも
頑張りたい。
(フエン・調理)5人から7人位のお客さんなら厨房の方も対応できるが
それ以上お客が増えると3人では、対応できない。
(小山)厨房で働く人を2人ほど見つけている。少し待って欲しい。
(THUY)冷凍庫の料理をもっと作りたいが作っていいのか?
(仁枝)冷凍庫にある料理で1ヶ月を過ぎそうなものは、私たちの
夕食に出して欲しい。
冷凍庫に入れておく料理にはマジックで日にちを書き込んで
おいて欲しい。1ヶ月過ぎそうになったら私たちの夕食に
出し、新しい料理を作って冷凍しておくように。
(チャン・調理)日本料理店に入って1ヶ月たつ。やっと慣れてきた。
(グエット・接客)大体出来ていると思う。英語のお客さんにも
接客できるようになった。時々、通じないときがあるが、
リー君に助けてもらっている。
(仁枝)・料理を作って味に不安のある時は試食をするようにして欲しい。
・冷凍保存は1ヶ月以内。その後は私たちの夕食に出すように。
掃除は見えないところも。また、毎日きれいでも同じところを
しっかりと掃除するように。
・暇なときは日本語の勉強をしたり、仕事の準備をするように。
●この2ヶ月間、6人の皆さんが良く頑張って仕事をしてくれた。
感謝したい。
・先日の試食会の感想
ぎょうざは焼きが甘かった。
ネギトロ(わさびが固まっていた)
おすしには味噌汁をつけるように
・お客さんが店の前にメニューを見ている時、接客係りは
新聞を読んでいたりする。必ず近くに言って声をかけて欲しい。
(石塚)毎日の活動を反省し、向上しましょう。
毎日、お客さんが満足したかどうかを考えましょう。
(税田)①毎日反省
②目的を持って毎日を生きよう
③問題があったらバオミンさんやハンさんが通訳が出来る
午後2時から午後5時の間に言って欲しい。
午後4時。バオミンさんと一緒に7月19日にフエを訪問する
皆さんの訪問準備。
午後5時半。日本料理店で子どもたち、日本人スタッフと
夕食。
午後6時半、日本料理店開店。
静岡の会より提灯と幟旗(のぼりばた)を頂いた。
静岡の会の皆さんに感謝。
生ビール60リットルを入れて12日になる。
この間、あまり生ビールの注文がなかった。
今日、改めて生ビールの発酵具合をチェックしてみた。
ほとんどサーバーを使っていなかったため、60リットルの
樽の中にある生ビールが全く動かないまま放置されていた。
ということは、微生物に酸素が入っていかなかったということ。
糠漬けに例えると、毎日かき回わさないで12日間たったという
ことである。糠漬けなら酸っぱくならない。
生ビールも同じだった。試しに飲んでみたらホップの苦味が
全くない。また、酸っぱさもない。ということは、微生物が
発酵していないということ。毎日サーバーを動かし、
生ビールをかき回さなければいけないということが分かった。
12日間、サーバーを使わないまま放置しておくと、生ビール
がかき回わされない、酸素が入らない、微生物が死ぬ、生ビールが
死ぬということである。残念。
2007年07月16日
ベトナム事務所で各種打ち合わせ
晴天 休肝日
気温37度。湿度60%。真夏。
インターネットによると新潟と長野で大きな地震が
あったそうだ。新潟中越沖地震。震度6強とのこと。
亡くなった方もいる。被災者の方々に心からの
お見舞いを申し上げたい。
NHKなどテレビが映らないので詳しい状況は不明。
安倍首相が明日、地震被災地に行くと言う。
この種のパフォーマンスはいい加減にやめたらどうなのだろうか?
首相が現地に行ってもあまり意味がない。首相が行くことで
現地の「首相受け入れ」のために救援要員の手がかなり
割かれる。現地にいくことが却って被災者救援の邪魔になる
ことを知るべきである。
首相はしっかりとした救援体制を作ることが最大の課題である。
選挙目当てにフラフラと現地に行っても何の意味もない。
慌てふためいている無様な首相としか私には映らない。
最高権力者としての権限があるのだから、その権限を
素早く使って対策を立てることが一番大事である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
午前6時起床。外は真夏の太陽がギラギラ。
午前7時。朝食。1ヶ月ぶりに日本人スタッフと
朝食。朝食はフォー。
昨夜は、日本時間では午前2時まで起きて2日分の
日記を書いた。さすがに今朝はなかなか起きられなかった。
午前8時から9時半まで部屋でメールの整理。
200通ほどのメールが不在中に入っていた。
必要なメールに返信。
午前9時半。徒歩でベトナム事務所へ。真夏の猛暑の
中を歩く。途中、いくつかのレストランが改修されていたい。
フエも1ヶ月いないと町が変わっていることを実感する。
税田さん・ハンさんに日本で預かったJASSベトナムへの寄金を
渡す。30万円弱の寄金。各地の会、講演会参加者などの
皆さんにお礼を申し上げたい。頂いた寄金全てへの領収書郵送を
ハンさんにお願いする。
その後、バオミンさん・サンさん・税田さんと私に不在中1ヶ月間の
様々な問題を話し合い、その対応を相談する。
近々にフエを訪問する讃岐造船の皆さんのフエ滞在中の諸日程を
詳しく相談し対策を検討。
午後12時。昼食を買おうと思ったら「ベトナムドン」を持っていくのを
忘れ、ほか弁を買うことが出来なかった。
午後12時半から昼寝。熟睡。気が付いたら午後2時だった。
日本滞在中は不眠に悩まされる。深夜1時頃目が覚めて
朝まで眠れない毎日が続いた。フエに戻ったら昨夜は熟睡。
やはり14年住んでしまうとフエが故郷・安眠の地となって
しまったのか? 東京自宅での就寝には何か精神的な
ストレスがあるので不眠なのか? 自問自答する。
午後3時。バオミンさんと地元企業のA社長と懇談。
その後、ベトナム事務所で「子どもの家」の子どもたちの
いくつかの問題などを話し合う。明日、午前8時半に
バオミンさんと一緒にセン運営委員長と会い、
いくつかの問題を話し合うことにした。
午後5時半、夕食。
大塚さんが帰国し、仁枝さんが子どもたちをサポートしている。
ホンニー店長、リー副店長たち7人の子どもたちが協力して
夕食を作り、午後6時半からは日本料理店を開店するという
子どもたち自身での日本料理店運営に挑戦している。
「言うは易く 行なうは難し」である。そう簡単に子どもたち
だけでの日本料理店運営が出来るようになるわけでもない。
今夜の食事は、ニガウリのスープ。ボイルをした豚肉と海老の
塩辛漬け。野菜のゆでたもの。ご飯。
夕飯のメニューと採算も日本料理店運営には必要なもの。
ホンニー店長が日本料理店の収支を考えながら、夕食の
メニューを考える。
●トムチュアー・ティットヘオ(ボイル豚肉と海老の塩辛)
午後6時半、日本料理店開店。
今は旅行者が少ない時期。アメリカ人グループがメニューを
見て立ち去る。残念。りー副店長が英語で声をかけるが、
駄目だった。
お客さんを待っているつかの間を利用して、
店長と副店長との打ち合わせ。
午後7時半、アメリカ人2人、香港3人、ベトナム人2人の
合計7人の大学生が来店。ベトナム人の一人は昨年まで
「子どもの家」の英語の先生を、一人は、私たちがあげている
奨学金をもらっていると言う。そんな関係で知り合いの
大学生を誘って日本料理店にやってきたそうだ。
うどん、天ぷら、御寿司、焼き鳥、餃子など各種の日本料理を
食べてくれた。
今日は、フエンさんが祖母の病気見舞いで休み。
ターオ君はこのところ出勤していない。
厨房はたくさんの注文でてんてこ舞い。
午後8時40分。7人のお客さんが帰宅。
午後9時、閉店。
今日は、7人の若者が次から次へと日本料理を
注文してくれ、全て平らげてくれた。ありがたいことである。
2007年07月15日
フエへ帰る
雨
午前7時半起床。昨夜、少し飲みすぎ。
朝食に間に合わなかった。
午前8時、昨夜一緒にホテルに泊まった森島代表、
野口太一さんと合流。森島さんの車で成田空港へ。
テレビでは昼ごろ関東に台風4号が接近と報じられている。
ホテルのフロントで午前10時半のホーチミン行きが飛ぶのか
どうか、確認してもらう。電話が殺到してつながらないとのこと。
森島さん、野口さんと相談し、とりあえず成田空港へ行こう、
ということになった。豪雨にの中、森島さんの運転で成田空港へ。
午前9時過ぎ到着。ベトナム航空ではチェックインを行っていた。
旅行者も少なく直ぐにチェックインできた。
乗客率は50%程度とのこと。
空港で森島さん、野口さんにお礼を言い別れる。
飛行場のボードを見ると午前10時半発が午前10時20分
発に早まったとのこと。いつもそう言って結局は遅れるのに、
などと思いながら入管手続きをする。
待合所で待っていたが、11時になっても何の連絡もない。
結局、1時間以上遅れ、午前11時30分に成田を出る。
台風の影響か?
午後3時15分(日本時間午後5時15分)ホーチミン空港へ
到着。気温28度。ホーチミン市は豪雨だった。
機内で『会津藩最後の主席家老」読了。
簡単に入管手続きを済ませ、国内線へ。
午後6時40分発の予定。これも何ら説明がなく
1時間20分遅れ、午後8時出発。
フエ空港着午後9時10分。気温29度。
トンチンカンホテル着9時40分。
日本時間で換算すると午前8時に出発し、
午後11時40分にホテルに着いたということになる。
15時間40分。
その後、トンチンカンホテルの部屋で火炎樹日記を
書く。
=============================
2007年6月帰国活動
小山代表「2007年6月~7月帰国日程」(2007年6月21日現在)
6/16(土) A7:15 成田着
17(日) A10 青少年教育の会懇談
18(月) 帰国休暇
19(火) 榊原クリニック
20(水) 横浜市立野庭中学校講演会(320人)
21(木)
22(金) A9:45歯科医
23(土) P1新宿(京王プラザホテル)西森さん(造船研修生)
24(日) P12 小山まつ(小山代表実母) 生誕95周年記念
祝賀会
25(月) 講演会休
26(火) P1:30 横浜市下瀬谷中学校講演会(600人)
27(水) 福島
28(木) 福島
29(金) 8:45 福島大学経済学部講演会(70人)
30(土) 福島
7/ 1(日) 目黒講演会「ベトナムの子ども達と生きる」(40人)
2(月) 講演会休
3(火) A9:30 歯科医
4(水) A9健康診断 P6:30 ピースボート懇談会
5(木) P12 宇都宮マルサ佐藤氏宅
6(金) P6:30 高校クラス会
7(土)
8(日) P1「子どもの家」訪問説明会(東京の会主催)(15人)
9(月) 講演会休
10(火) A9:30歯科医 P2 榊原クリニック
11(水) P6:30法政大学野々垣ゼミ生懇談
12(木)
13(金)
14(土) P1:30焔樹の会講演会(茨城県神栖市)(40人)茨城泊
15(日) 成田発(10:30)→ホーチミン市→フエ着(20:00)
講演会数 6回
講演会参加人数 1085人
懇談会回数 5回
2007年07月14日
茨城県火炎樹の会主催講演会
終日雨。
午前7時半、自宅を出て東京駅八重洲口へ。高速バスに乗り、
1時間半。茨城県神栖市役所前下車。神栖市は茨城県と
千葉県の境にある町。鹿島コンビナートの中核都市である。
高速バス停留所まで野口太一さんが出迎えに来てくれる。
雨の中会場の神栖市中央公民館へ。
素晴らしい建物である。聞くところによると鹿島コンビナート
があり、その税収がかなりあるとのこと。
午前11時半、公民館応接室で打ち合わせ。
福田勝夫さん、アニマルサポート・ノアの皆さんと挨拶。
午後1時半、講演会が始まる。地元の新聞やFM放送でも
講演会のお知らせをしてくれたのこと。
40人の皆さんが、台風4号の豪雨と強風の中、参加して
くれた。感謝。
初めに相馬顧問の開会の挨拶。
相馬顧問は10年ほど前に茨城県の青年の船で「子どもの家」
訪問ツアーを企画し、その団長だった。それからのお付き合いで
ある。さつまいも大農家の当主でもある。
続いて今日の講演会の主催である火炎樹の会代表の
森島博代表挨拶。森島さんは、コツコツとこの講演会を
準備してくれた。新しく、「どうぶつ福祉の会 アニマル・サポート
ノア」の皆さんとも協力し、今日の講演会を開催してくれた。
大変真面目で誠意のある青年である。
続いて90分間、私が14年間の活動を報告。
支援の眼目は子どもたちを育てること。
最終的には、現地の自立、人間の自立と財政自立に向けて
頑張っているという趣旨の話をする。人間自立の例として
日本料理店副店長のリー君の10年間の軌跡を
ビデオを交えながら話す。
10分間の休憩。
会場にはJASSの活動を紹介するパネルが置かれていた。
会場には高校生や「ひたちなか市」から来た方方、親子での
参加など多様な方々の顔があった。
休憩後、「どうぶつ福祉の会 アニマルサポート・ノア」の
Aさんが活動の報告をする。
火炎樹の会より1年間の募金活動で得たカンパを頂く。
森島博代表より会場で集めたカンパを頂く。
午後4時、全ての日程が終了し、講演会を終わる。
最後に記念写真を撮る。
午後6時半。参加者との懇親会。
就寝午後11時。今日は神栖に泊まる。明日は早朝、成田へ。
台風4号が関東に来るとのこと。ベトナム行きは可能なのか?
運を天に任せるしかない。
今日の講演会の成功は森島代表、野口太一さんなどの
事前の十分な準備のお陰と感謝の気持ち一杯である。
2007年07月13日
期日前投票
終日曇り・時々小雨
午前9時半、自宅を出て板橋区役所へ。
参議院選挙の期日前投票を行う。
明日朝自宅を出て火炎樹の会主催の講演会。茨城県神栖にて。
その後、夕方、関係者と懇談会をし、現地に1泊。
明後日、午前10時半成田発VN便で ホーチミン市経由フエへ。
そんな事情があり今日が自宅にいる最終日。昨日、選挙が
公示され、期日前投票(以前の不在者投票)が可能となった。
板橋区区役所内にある投票所へ。用紙に氏名と住所を記入。
係りの人がコンピュータで「コヤマミチオさんですね」と言う。
「ハイ、そうです」と言うと、選挙区の投票用紙をもらう紙を
手渡される。
本人確認はしないのか? 不安に思った。こんなやり方では、
隣の人が私の名前と住所言えば、簡単に期日前投票が
出来てしまう。投票所を指定する用紙はまだきていない。
あまりにいい加減なやり方に不信を感じる。
私は運転免許証を持っていったのだが、必要なかった。
選挙区選挙(個人名)を行い、その後、比例区選挙(政党名)
を行う。この1票が日本を少しでも良くすることに繋がって欲しい
と祈る気持ちだ。
簡単に投票が終わり、ふっと考えるとこの近くに
「板橋温泉」があったっけと思い出す。直ぐに板橋温泉へ。
今日が日本滞在の最終日。今回の帰国では温泉に行く
時間がなかった。最後の日に温泉を堪能しよう。
板橋温泉は地下1500メートルから海水温泉を
くみ上げている。ガスはきちんと出しているのかなどと
頭をよぎる。この地域は200万年から13万年前までは
海底にあった。温泉は200万年前の海底の土が
抱え込んでいる海水を汲み上げているとの「効能書き」が
あった。入ってみたら確かに塩水だった。
平日というのに結構の入りである。じいさんばかりだ、
と思ったら私もそのじいさんの一人だった。
海水温泉、サウナ、スチーム、露天風呂、ジャクジー
など各種の設備が施されていた。
何度か温泉に入り、休みを繰り返す。
午後12時。2階の食堂で軽く生ビールを2杯。美味しい。
ベトナムでは出来ない体験なので、などと自分に言い聞かせつつ
ビールを堪能する。
「会津藩 最後の首席家老」を読む。
考えてみれば、私たちの明治維新以後の歴史は
薩長土肥の勝った「官軍」の作った歴史だけを教えられていた。
会津藩主の松平溶保(かたもり)の会津藩から見た幕末、
明治維新という視点でものを見るもの一興である。
これは、今のベトナムを見る視点とも共通する。
ベトナム戦争の勝者、ベトナム共産党の作った歴史だけが
「正史」としてベトナムを跋扈(ばっこ)しているが、同時に戦争の
相方だった南ベトナムからの歴史は抹殺されているのと
同様である。
ベトナム帰国の荷物の整理・準備をする。
明日の火炎樹の会講演会のビデオ、講演内容の準備を
する。
沖縄に大型台風4号が来ているとのこと。
明後日、関東地方に上陸する可能性もあるという。
明後日、午前10時半に成田から飛行機に乗るが
大丈夫だろうか? 台風の進路と状況を監視しなければ。
2007年07月12日
休日
終日雨・時々曇り
この間、あまり休みがなく動いていた。
昨夜は自宅着午後11時。
今日は疲れも残り、午前中は寝ていた。
午後は44通の受信メールを読み、16通のメール送信。
7月19日からフエを訪問する方々の訪問日程の調整、
事前の現地での準備などのメール連絡。電話での話し合い。
「会津藩 最後の首席家老」(長谷川つとむ著:中公文庫)
を読み始める。
ベトナム帰国のための荷物整理。
ベトナムへ帰る時のスーツケースの大きさと
リュックの大きさを改めて見た。
14年前、ベトナムに行った時は、大きなスースケースと
頭から腰下まである大型のリュックを背負って渡航した。
今回は、小型のスーツケースと30センチ程度のリュック。
ベトナムで買えるものが増えたということもあるが、同時に
大きなスーツケースを運ぶ体力がなくなったのも大きな
理由の一つ。14年間という時の流れをスーツケースの
大きさで改めて実感した。
最近、新聞や本の小さな文字が読めなくなった。
第21回参議院選挙が始まった。
安部首相は憲法改正、戦後レジームからの脱却などと
言っていたが、今日の第一声では、「年金は最後の一人まで
必ず出します」と言っていた。
北九州市で4級の身体障害者手帳の交付をうけていた56歳の
男性が「餓死」してなくなった。1月下旬に亡くなり
遺体が発見されたのは四カ月後の5月23日だったそうだ。
生活保護を打ち切られ、その後2度も申請したにもかかわらず
申請書さらもれえなかったと報道されている。
亡くなる前の最後の日記に「おにぎりが食べたい」と記されて
いたそうだ。
私はこの新聞や報道を聞いて、いつから日本はこんな悲しい
ことが平気で行われる国になったのだろうと思った。
56歳の男性。ガスも電気も水道も止められ、行政に相談しても
冷たくあしらわれる。隣近所の目もなかったのだろうか?
自公政権がどんなに立派なことを言っても、餓死して
4ヶ月も分からないまま死んで行った人間がいる社会が
「美しい社会」とでもいうのだろうか?
餓死するような悲しい社会や人間が出ない世の中を作ることが
政治である。
安部首相が変えたいと言っている日本国憲法25条はこんな
ことを言っている。
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む
権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び
公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない
56歳の男性の餓死。人間を人間として扱っていない
美しい国ではある。
2007年07月11日
法政大学野々垣先生・学生さんとの懇談
雨・曇り
32通のメール受信。20通のメール送信。
ほぼ1日中、メールでいくつかの仕事の段取りをする。
「対談集 気骨について」(城山三郎著:新潮社)読了
以前、城山三郎が中曽根元首相に「20年後の総理になる
資格は?」と聞いたそうだ。「責任感が強い。やる気がある。
ギラギラしていない」と答え、「大局をつかむ力」そして
「懐が深い」をあげたそうだ。今から20数年前の話である。
中曽根氏の言葉を安部首相に当てはめてみた。どうみても
宰相のための最小の資質もないように思われてならない。
辺見じゅん(作家・角川書店創業者の子息)との対談。
特攻基地 宇佐航空隊基地の近く筑紫亭という料亭が
あるそうだ。特攻隊員が出撃する前夜、ここで最後の晩餐を
したとのこと。この料亭の敷居や鴨居などに刀傷がたくさん
ついているとのこと。理不尽な特攻への怒りで鴨居や柱を
刀で切りまくったそうだ。
「こんな元気なのにあと1日の命だなんて」
そんな割り切れるものじゃないからね、と城山は言う。
辺見じゅんは「特攻を考えた奴は、修羅だ、特攻を命じた奴も
修羅だ、よおし、、それなら俺達が本当に修羅になってやる」と
筑紫亭に書かれているといい、「特攻を考えた人は死んでいな
いんです。特攻を命じた人も、安全なところにいるんです」と
言っている。城山は特攻隊を丹念に調べている。15、6歳で
特攻隊で死んでいる。城山は海軍特別幹部練習生となる。
日本初の特攻と敗戦後の最後の特攻が城山と同期の17歳。
城山は、喜んで特攻に行ってはいない。特攻という馬鹿な
戦法を考えた東条英機な当時の指導者層を厳しく批判している。
伊集院静(白血病で亡くなった夏目雅子の夫)との対談
製紙王の藤原銀次郎が小泉信三に『直ぐ役立つ人材を
大学で育て江欲しい』と言って自分で作った藤原工業大学を
慶応大学に寄付しようとしたそうだ。
小泉信三は「大学がそういう教育方針をとったら、国家の将来を
担うような大きな才能は生まれない」と反論したそうだ。
文部省や教育委員会の行っている今の教育がどんな人材を育て
るのか、小泉信三のことばは示唆に富む。
作家吉村昭と「酒の飲み方の流儀」にも薀蓄がある。
午後5時、自宅を出て、飯田橋へ。
法政大学野々垣ゼミの学生さんたちと合流。
近くの沖縄料理へ。
野々垣先生は法政大学で教育などを教えている。
70歳になるという。70歳で20歳の学生と一緒に
行動をし話し合いしている。魅力ある人格者とみた。
頭が柔軟。
ひょんなきっかけで知り合い、昨年、野々垣先生のクラスで
ベトナム関係の授業をした。昨年、9月、野々垣先生と
クラスの学生さんが、「子どもの家」を訪ねてきた。
「子どもの家」交流や山岳少数民族交流などを体験。
まだ2年生。やっと選挙権がある学生さんとまだない学生さん
もいる。若いが3人ともしっかりとして意見と見識をもっていた。
今時の若者はと現実の若者を見ないでお説教を垂れる大人も
多いが、私が知っている多くの若者は、今の社会と未来を
真剣に考えている人が多い。こうした若者を見ていると
日本の未来を託くせるかなと思える。
午後10時過ぎまで交流。
2007年07月10日
歯医者、心臓病通院 ほおずき市散策
終日雨
日本へ帰国して25日目。あと5日でベトナムへ帰国。
午前9時、歯医者へ。昔、つめものをした歯の詰め物を
剥がし、再度新しい詰め物を入れる。「麻酔は使いませんので
痛かったら直ぐに痛いと言ってください。手を上げてください」
といつもの指示。
キーンと削りはじめる。痛い。「ううう」と声を上げる。
「もう少しですよ」。ということは、痛いと手を上げようと結局は
麻酔なしで削っちゃおうということか? キーンというこれほど
人間の神経を刺激する音はないと思える音を聞きながら、
古い詰め物を剥がす。新しい詰め物を詰める。
次回は大きな「工事」をする。2ヶ月間ほどかかるとのこと。
歯根に0、1ミリのやすりをいれての治療・・・・。
10月帰国時に大きな治療をすることで、今回の治療を
終わる。歯茎(はぐき)は年相応ですか?と聞く。
歯茎は若いですとのこと。この40年ほど、しっかりと歯磨きを
してきたこと、この20年ほどは、歯周病予防のための「横磨き」。
食後3分以内に必ず、力を入れないで3分ほど、歯と歯茎の
間のブラッシングを続けていた。多少は効果があったようだ。
私が歯科医や心臓の病院、健康診断などにいくのは
「健康マニア」だからではない。フエで病気になって
ベトナム事務所の皆さんに迷惑をかけたくないという
一事である。私が病気になり活動が出来なくなると
総計2000人ほどのフエのベトナム人に迷惑をかける
ことになる。もうしばらくは健康で「現地の自立」に
向けての取り組みをしなければならない。
自分の体であって自分の体でない自分の存在を
それなりに理解しているつもりである。
午後12時過ぎ、家から巣鴨→春日経由で都庁前へ。
都庁第2庁舎前には70人ほどのホームレスの人たちが
ダンボールなどの上に横になっていた。
多少、時間があったので
70人ほどのホームレスの顔をのぞいた。ほとんどの
人たちが60歳前後だった。どうみても「リストラ」か
仕事などがなく『致し方なく』ホームレスになった人たちと
見た。どの人も頭に「白いもの」が目立っていた。
多分、私と同じ年頃である。私も何となく、スーッと
この中に入り、ダンボールを敷いて寝るのではという
衝動に駆られた。客観的に置かれた状況は私とそれほど
変わりのあるものでもない。いつ私がホームレスになるのか
いつも心の奥底にある。それも私の人生と思っている。
赤城農水大臣が9000万円のお金(税金も含む)を
不透明な会計で使っている片方で、都庁前の地下で寝ている
団塊の世代がいる。お祖父さんが赤城宗徳。安部氏と同じ
祖父が国会議員。特権階級で育った人間が都庁の地下で
寝ているいる団塊の世代の苦しみをどれだけ理解しているか?
赤城大臣をかばっている安部首相の見識を疑う。
NSビル内の心臓病クリニックへ。しばらく待たされ午後2時、
心電図、診療、前回の採血の結果を聞く。
心臓のどこかに出る物質が平均より多いという。
心臓に負担がかかりよくないそうだ。悪玉コレステロール
が多く、善玉が少ないとのこと。
私が一番関心があった「肝臓」。全く問題ないという。
「それでは、ビールやお酒は飲んでも問題ないのですね?」
と先生に確認の質問。「お酒を飲めとは言えないが・・」
と言葉を濁す。2ヶ月分の心臓の薬をもらう。
10月日本へ帰国までの2ヶ月半の薬をもらうことは
出来ないので、ちょこちょと通院して「少しずつ薬をためて」
ベトナムへ戻る。
せっかく外へ出たので、浅草へ行く。今日は「ほおずき市」の
最終日。4万6千日。今日、1回浅草寺を参拝すれば、4万6千回
参拝したことになるという。
桂文楽の「船徳」(ふなとく)の舞台。
今日のほうずき市に来ている人の主流は地方から
来た団体さん。さらには中国語を話す人々であった。
帰りに雷門を出ようとしたら、「川田龍平」のパンフレットを
配っている人がいた。明後日の参議院選挙の東京選挙区に
立候補予定とのこと。川田龍平氏は日本で初めて「エイズ」
であることを告白した勇気のある若者。
川田龍平氏はJASSの会員。7年ほど前に「子どもの家」にも
来ている。
そんな縁もあり、しばらく雷門で川田龍平の紹介パンフレットを
配布する。
若い女性が配っていた。「あなたはどうして川田龍平の
パンフレットを配るようになったの?」と聞く。昨日、どこかで
川田隆平の話を聞いて、自分の地元でパンフレットを配る決意を
したとのこと。生まれて初めてパンフレットを配ることになったので
声をだして配布することができないという。
私は、この種の活動は得意中の得意。「川田龍平です。
明後日の参議院選挙に立候補する決意をしていますが、
皆さんのご意見を伺いたい」と声をかけ、かなりの数の
パンフレットを配布する。
その後、浅草駅近くの「神谷バー」で「デンキブラン」を
多少堪能する。
「デンキブラン」とは安く甘いブランデー。このブランデーを
飲むと「電気に感電」したようにブラブラすると言うところから
「電気ブラン」という。
午後6時過ぎ、帰宅。
八海山で軽く二次会。内田さんにもらったトマトに軽く
塩を振って食べる。美味しい。普通のトマトは酸っぱいので
私はあまり好きではない。しかし、内田トマトは酸っぱさが
全くない。肥料をしっかりと使っているのか?
スーパーなどのトマトとは全く違う味。このトマトなら
食べられる。
2007年07月09日
休養
終日曇り
1日で20通のメール受信。20通の返信。
城山三郎「対談集 気骨について」(新潮社)を読む。
城山三郎が8人と対談している。
今日は最初の澤地久枝さんとの対談。
この対談の中でも極東裁判で文民でただ一人絞首刑に
なった広田弘毅のことが語られている。裁判で一切の
弁明をせず死刑になりその後、家族も一切弁明を
していない。
また、二人の対談で大岡昇平が「もう、だれも戦争なんて
やる気はないだろうと、思っていたが、これは甘い考えだった。
戦後25年(1970年)、おれたちを戦争に駆り立てた奴と
同じひと握りの悪党共は、まだ俺達の上にいて、うそや
ペテンで同じことをおれたちの子どもにやらせようとしている」
と言っている。37年前の話である。安部首相を暗示している。
佐田大臣、松岡大臣、久間大臣、赤城大臣など、「品格」
そのものを喪失してしまっている。
いったいわが日本はどうなっていくのだろうか?
融解(メルト)現象、特に指導者層の融解現状は極端にまで
進んでいる。品性と道徳そのものがなくなっている。
安部首相はその上に君臨しているモラル崩壊の象徴である
ように見えてならない。憲法「改正」、教育基本法『改正」、
『戦後レージムからの脱却』など「戦前回帰」の指向だけは
濃厚な安部内閣であるが、肝心の人格と人間性が
極端に欠如している集団のように思える。
世間の常識が分からない、ということは、この集団の
多くが世間の常識の中で生きてこなかった人々なのだろう。
赤城農水大臣の事務所費問題は、どう赤城大臣が弁明
しようと、弁解に無理に無理を重ねているとしか思えない。
昨日まで両親や後援会長が「実家は事務所ではない」と
言明していながら、翌日、手のひらを返したように
「実は、後援会の事務所でした」と言っても、国民は
赤城大臣か秘書などが手を回して、両親や後援会長に
言わせているな、と見抜いてしまう。安部首相は
『赤城大臣が説明責任を果たしている』と赤城大臣の
茶番劇を追認している。国民を馬鹿と思っているとしか
思えない。誰が見ても赤城大臣は不自然というのか
「親不孝」な馬鹿息子としか映らないのだが・・・・。
これで世の中が通るのなら、子どもたちや若者も『世の中は
甘いもの』と考えても仕方がない。首相・大臣が堂々と
理屈に合わないことを行っている現状である。
広田弘毅の生き方がの是非論は別にしても、それでも
「筋」と「骨」を通した一つの生き方のように思えてならない。
安部首相を始めとする諸大臣の「品格」のなさが気になる
昨今である。
2007年07月08日
フエ・スタディーツアー説明会
終日曇り。
午前中、12通のメール受信。6通のメール送信。
午後1時。東京北区王子にある「北区教育会館」で
フエへのスタディーツアーなどの参加希望者への
紹介会合を行う。
久しぶりにJASS日本・JASS東京の関係者と
会う。皆さん、元気に活動しているように見えた。
●今日の会合を準備してくれた皆さん
JASS東京の西山優子代表の司会で説明会は始まる。
初めに私が撮って来たフエのビデオを上映しながら、
名所旧跡、JASS関連の施設などを紹介。
山西さんがビデオやDVDを操作してくれる。
続いて、3年前に地球の歩き方スタディーツアーで
現地を 訪問した2人の方が現地での活動、何故、フエに
行ったのか? フエを訪問したスタディーツアーに
参加して何を感じたか? など、私にも大変参考になる話を
してくれる。年間、700人から1000人の訪問者を受け入れている
が、帰国後フエでのスタディーツアーについての感想を
こうした形で直接聞く機会はなかった。とても良い勉強に
なった。体験・感想を発表してくれた二人の方が事前に
話す内容をしっかりまとめてくれていたこと、現地での
写真をふんだんに上映してくれたことなど分かりやすい
説明だった。
現地ベトナム事務所で日本語教師を勤めてくれた中村さん、
石岡さんが現地での1年半の生活体験を話す。
話が具体的であり、一般的にテレビ・新聞等で報道されている
ベトナムとはまた一味違う報告に参加者も改めてベトナムの
現実を知る。
全体の報告後、参加者からの質問に答えてたり、参加者
の皆さんとの話し合いになる。
今日の会合には、神奈川県青少年協会の皆さん
4人も参加。
この数年、「子どもの家」などフエにスタディーツアーを
組織している。スタディーツアー終了後、参加者が
刺繍販売などを募金活動を行い、今日、寄金を頂く。
ありがたいことである。神奈川県青少年協会関係者の
皆様に心からお礼を申し上げたい。
午後4時、会合は終了。
その後、参加者10人ちょっとで反省会。
午後7時過ぎまで。
2007年07月07日
友人と懇談
曇り
26通のメール受信。午前中はメールを読み16通の
返事を出す。
午後3時、東京駅で友人と会い世間話。
東京駅地下に京都伏見の酒造会社「玉の光」が開いている
「玉の光酒蔵」に行く。
みぞれ酒(吟醸酒)という変わったお酒を飲む。
コップに注ぐとお酒が「みぞれ」状態になる。美味。
みぞれ酒を飲みながら政治などの問題をじっくりと話し合う。
70年前の7月7日、1937年7月7日、日中戦争勃発の
「盧溝橋事件」があり、満州傀儡国家を作ったのに続き、
アジア太平洋戦争へと突入して記念の日。
「落日 燃ゆ」(城山三郎著:新潮社)読了。
本を読んで初めて「落日 燃ゆ」の『落日』の意味が分かった。
落日とは、満州侵略、そして70年前の今日7月7日の
盧溝橋事件を切っ掛けに日本という国が「落日」していった
経過。広田弘毅という石屋の息子であり当時の外相、首相
の戦争を「避ける」ための空しい努力と戦争への突入、
そして敗戦という日本国が『落日』し『燃えて」しまった経過
そのものを「落日」「燃ゆ」と城山は怒りを込めて命名したの
ではないかと推測した。
本書には戦争とは突然起こるものではなく、その過程で
何度も「戦争を回避する」機会がありながら、とうとう回避できず
に戦争へ至るということが書かれている。
戦争は政治の延長である、とドイツの軍学者クラウゼピッツは
言っているが、本書は正に日本が戦争へ突入する過程を
広田弘毅と言う人物を通して描いている。本書では
広田は外務大臣、首相としして、日中戦争を地域内に限定し
英米戦争に発展させないよう「体制側」にいながら努力した
と描かれている。当時の体制側の主力は、皇族や財界、
明治維新の元勲と姻戚をもつ人々で固められていた。
広田と同期の吉田茂も明治の元勲大久保利通の次男である
牧野伸顕の長女と結婚している。
広田は福岡の石屋の息子として生まれ庶民の「背広」が似合う
人間でありたいと願っていた。外相・首相をとして『軍部』の
横暴を何とかなだめ、戦争を不拡大とする努力をするが、
結果的に戦争遂行に手を貸し、戦後の極東軍事裁判
でA級戦犯と認定され絞首刑となる。裁判中、広田は
一切の弁明をしなかった。
南京虐殺の際には、外務大臣としてして杉山陸相に
抗議、現地中国の参事官に現地の調査を命じている。
軍事を握った人間の恐ろしさ。軍事・軍部の力というものは
いつも独り立ちしたがる。日本の「防衛大臣」の原爆しょうがない
発言。その後を次いだ女性防衛大臣は認証式の1日で3回の
お色直しをしたという。こんなおそまつな連中に
軍事を握られていることの恐ろしさを広田と言う文官を通して
考えさせられた。
2007年07月06日
高校クラス会
終日晴れ。
午前中、ベトナム事務所や関係者とメールや電話連絡。
午後、高島平団地内の商店街へ買い物。
ニラ3束100円、つるむらさき(福島白河産)2把80円、
とうもろこし3本200円。茹でて冷蔵庫に保存。
バオミンさんと電話でいくつかの問題を連絡。
江平さんから電話。10年前にベトナムへ行った時の話しを
する。1945年(昭和20年)戦争末期にクアンチ省の
駅の歩哨に立っていた米軍機の機銃掃射を受け、片足を
貫通。ベトナムの赤十字に片足を切断してもらい、一命を
取り留める。52年後に江平さんの足切断手術をし、命を
救ってくれたベトナム人医師へお礼を言いたいとの気持ちで
私と一緒にクアンチ省の医師を訪問。医師はなくなっていたが
奥さんやお子さんたちと会いお礼を言う。手術を担当した
看護師が健在で、お礼を言う。
江平さんは先日、米寿の祝いをされたとのこと。
健康でいつまでも活躍されることをお祈りする。
午後5時自宅を出て銀座へ。銀座ライオンで高校のクラス会。
今年還暦のお兄さん・お姉さんの会合。
1947年4月から1948年3月までの生まれ。今年還暦を
迎える。既に今日の参加者の2人は還暦を迎えた。
この世代は「団塊の世代」の中核をなす世代でもある。
この世代は正に歴史に翻弄された世代でもある。
アジア太平洋戦争が終わり、平和になり、海外から多くの兵士が
帰還し子どもたちが生まれた。世界的規模で「ベビーブーマー」
と呼ばれる世代である。小学校5年で「勤務評定反対闘争」があり、
小学校から中学校で「60年安保闘争」を見聞きし、
中学校2年生で「全国学力テスト反対闘争」に自ら参加し、
高校でベトナム戦争反対、日韓条約反対に、そして大学で
70年安保にと、政治と歴史に遭遇し参加した世代である。
その世代がいよいよ「2007年問題」の中核として現れ
還暦を迎えることになった。
半年振りに会ったが、40数年前の面影を残しつつ、
それなりの人生の年輪を顔に刻んでいるように思われた。
ようするに年をとったということ。
銀座松坂屋別館で交流宴会。午後9時まで。
次回は全員参加で「還暦お祝い会」をしようということになった。
このクラスは政治的なことでは緒論続出するが、「宴会」に
なると衆議一決するのがまた早いクラスでもある。
2007年07月05日
宇都宮縫製会社マルサ訪問
晴天。
午前8時半時自宅を出て、00中央病院へ。
板橋区が無料で行う「高齢者健康診断」の「大腸がん」検診
のサンプル採取物を届ける。
その足で巣鴨→池袋→雀宮。
午後12時前に宇都宮の雀宮駅へ到着。(自宅から2時間)。
駅にはマルサの兼近専務が車で迎えに来てくれていた。
マルサ佐藤裕信社長が作った「地域ボランティアセンター」
「すずめのお宿」のボランティアの皆さんと合流。
焼きそば・お好み焼き屋に入り懇談しながら昼食。
ベトナム事務所で1年半ほど日本語教師をしてくれていた
坂本文子さんも「自家用車」で来訪。現在は宇都宮大学
大学院で研究中。元気に研究をしている様子だった。
食事をしながら1時間半ほど交流。その後、マルサ佐藤裕信社長
が作った「地域ボランティアセンター すずめのお宿」で引き続き
交流。地域ボランティアの皆さんは交流暦40年という。
平均年齢は不明だが、第2次世界大戦終了時小学生以上
だったことは確かだ。
午後2時半頃、懇親会を終わり、マルサの本社へ。
マルサの工場にはフエに作った「縫製研修工場」へ
送るミシンなどが梱包されていた。
ベトナムが中古の機械類を送ることが出来ないので
現在特別許可を取る準備をしている。
マルサ佐藤裕信社長はなかなか心のある方だ。
フエの縫製工場へ既に50台の工業用ミシンを贈呈してくれている。
今後、更に各種ミシン、裁断機などを送ってくれるとのこと。
ありがたいことである。この世の中、口では立派なことを言う人も
多いが、実際に行動をする人は少ない。
私は人を見るとき「何を言うかではなく、何をするか」で
判断している。人を見るときそれほどずれた判断にはなっていない。
マルサ本社から佐藤裕信社長の自宅へ。自宅で奥さんを
交えて懇談。
午後4時過ぎ、雀宮駅へ佐藤裕信社長の車で送って頂く。
雀宮駅から各駅停車で大宮。大宮から埼京線で浮間舟渡へ。
15年前まで私の勤めた最後の学校、舟渡小学校。
午後8時過ぎ、自宅着。
今日は宇都宮まで列車でかなり時間がかかった。
お陰さまで読書が進んだ。
「落日 燃ゆ」(城山三郎著:新潮社)を半分ほど読む。
極東裁判でA戦争犯罪人となり死刑を執行された
唯一の文民。
2007年07月04日
健康診断
終日 雨。
午前8時。00中央病院へ。板橋区主催の『高齢者』無料
健康診断へ。
体重等測定。医師の診察。採血、レントゲン、心電図。
一般的な健康診断に加え、肝炎検査、大腸がん検査を
行う。半日。
結果が分かるのは、7月14日。7月14日は朝から
茨城の火炎樹の会講演会へ行き、そのまま茨城に
泊まり、翌朝、成田からベトナムへ帰り、検診結果を
聞くことが出来ない。
00造船の社長など一行4人のフエ訪問の飛行機の切符、
ホテル、車、フエでの活動日程などをピースインツアー、
JASSベトナムと協力して確定した。
しかし、昨日、急に社長が参加できなくなり、飛行機m
ホテル、日程など全てゼロからやり直すことになった。
午後は半日かけて00造船のフエ訪問日程、飛行機の切符、
ホテルなどの予約を全てしなおす。
午後5時過ぎ、自宅を出て高田の馬場へ。
ピースボート事務所へ。前回のピースボートで講演会を
行ったがその際の関係者などと懇談。
毎回のピースボートの先遣隊(本隊より早く現地に来て
ホテルや交流等の準備をする)をしているLEOさんや
昨年11月にピースボートに乗った際の私の担当者だったAさん
などと交流。
その後、LEOさんやピースボートの役員の方と
ピースボート事務所の近くで交流。
ピースボートの大きな意義、ピースボートに参加している
関係者の生い立ちなどを話し合う。
帰宅午後10時半。
「指揮官たちの特攻ー幸福ははなびらのごとく」(城山三郎著:
新潮社)
2007年3月22日亡くなった城山三郎の著作。
敗戦直前の特攻作戦を行った指揮官の生き方を
ノンフィクションで書いている。現場へ行き、関係者に
話を聞いている。
城山三郎は昭和2年(1927年)生まれ。敗戦時17歳。
徴兵猶予のある理科系に進学が決まっていたが、
海軍特別幹部練習生に志願、入隊する。
最初の特攻隊である敷島隊を指揮した関行男海軍大尉。
最後の特攻隊指揮官中津留達雄海軍大尉を描いている。
会社で言えば中間管理職。現場の指揮官である。
二人とも23歳で特攻してなくなっている。
特攻隊の隊員が「天皇や国家のために死んで行った形」に
なっているが、その実態は特攻というやり方に
本質的に疑問を持ちながら特攻隊員として玉砕しているという
事実を足で書いている。これら中間指揮官がいかに公正で
自分を捨てて、正しい道を歩もうとしてるかも分かる。
わが子が肺炎に罹り、航空隊には特効薬があるのでもって
くれば治るといわれた「指揮官」が、私事のために公の薬を
使えないと「わが子」を殺している。
口と体裁だけの安部首相や久間防衛大臣などの行動を
見ていると、品格の違いを感じる。
城山三郎は反体制の作家ではないが、反体制作家の
過激な筆致よりも一層淡々と書かれた本書は本当に
反戦を訴えているように思えた。
引き続き城山三郎の本を読もうと思う。
本日の二次会。(一人自宅で)
久保田万寿。その後、大七酒造生翫(きもと)梅酒
を冷やして飲む。美味しい。飲む価値あり。
大七酒造は福島県二本松。
2007年07月03日
歯科医へ
終日、曇り・雨
午前9時、近所の歯科医へ。
歯茎が年齢で下がり、歯の象牙質が露出している。
3回に分けて、象牙質を少し削り、その上に
人工の歯の幕を付ける治療を行う。
「それでは、麻酔をかけますから・・・」と言ったのだが
「でも麻酔をかけなくても出来るかも知れないので、
痛かったら手を上げてください」とのこと。
うーん、ということは、キーンという歯を削る機械を使って
「痛い、痛い」と私が言えば麻酔をかけるということか?
いつか「痛く」なるのか? などという空想が
一瞬のうちに頭を駆け巡る。キーンと歯を削る。いつ痛くなるのか
を待っているのも「死刑執行」を待つようなもの。
「結局3本の歯の根を削ったが、痛みは多少あったが、終わった。
上に白いエナメル質の物質を塗りこみ、更に磨いて終わり。
約40分。後3回、5本程度の治療を行う。これらの治療は
「予防治療」である。エナメル質が取れて象牙質があらわに
なると水分を吸収し、細菌がつきやすくなり、痛みをもつように
なるとのこと。ベトナムで歯が痛くなったら困るので、これも
ベトナムでの活動のため。あと2回。
更に10月に帰って来たときには2ヶ月かけて、数本の歯の
歯根にやすりを入れてのかなり大掛かりな治療を行う。
これも今後、膿んでくる可能性があるため。現状では
歯の痛みは全くないが、予防のための治療。
嫌なことは、率先して早くするという主義。
読書「労働ダンピング」(中野麻美著:岩波新書)
非正規労働者(パート、臨時、派遣・・)が政府、
資本家によって都合よく政策の変更によって作られた
ものだということがその主張。
著者は弁護士。用語の使い方、文章に漢字を多用し
非常に読みにくい本だった。読了に時間がかかったが、
日本の階層社会の固定化がどのような政府の政策に
よって作られたのかが、現場の実態を基礎に書かれている。
ーーーー
久間防衛大臣が辞任した。
辞任の記者会見をテレビで見た。
記者会見の冒頭「就任の記者会見より記者が多いね」などと
ニヤニヤしながらの会見。この時点でこの男は、本当の反省を
しての辞任ではないことが、分かる。テレビとは人間の
隠している表情が出てしまう。
会見の内容を注視する。結局、「私の真意が国民に伝わっていない。
国民が誤解しているが、参議院議員選挙もあり、自民党に迷惑を
かける訳にもいかないので、辞任する」ということである。
最後まで「アメリカの原爆投下はその時点では、しょうがない」と
言ってこと自体が間違っていたことは認めなかった。
自分は間違ったことを言っていないが
国民に誤解させて「迷惑」をかけたので辞任するという、およそ
人間として卑怯な辞任の仕方である。自分の言ったことが間違って
いないのなら最後まで「正しい」と言い張るべきであり、間違って
いたのなら素直に「間違ってことを言ってしまい御免なさい」と
言うべきなのである。
安部首相の任命責任は重大。本間税調会長、佐田大臣の辞任。
松岡大臣の自殺、そして久間大臣の辞任。
選挙に不利だから辞任ということ自体、無責任内閣。
2007年07月02日
休日
終日雨
午前9時過ぎ、歯医者に行く。しかし、予約は明日だった。
今日とばかり思い込んでいた。最近この種の問題が多い。
明日、再度行くことになった。
-----
久間防衛大臣の暴言問題。
久間氏は「国民に誤解をもたせた」として陳謝したそうだ。
安部首相も久間氏を呼んで注意したとのこと。
久間防衛大臣の発言を新聞で熟読したが、誤解のしようも
ない。「色々な当時の情勢からして原爆投下もしかたがない」
としか読めない。
国民に誤解を与えたという言い方は、自分はそう言っていないが
国民が「理解できずに誤解した」ということ。
本質的には、自分の言ったことは間違っていないといことである。
口だけで謝罪しているより更に悪い。開き直りである。
安部首相も久間氏も今の教育・子どもたちには『規範意識』が
ないと言っている。しかし、規範意識と『率先垂範』意識がない
のは久間氏である。国民に誤解を与えたなどと小学生以下の
言い訳をせずに正々堂々と「間違いました」、「言ってしまいました」
、「謝罪します」、と言うべきである。
また久間氏の任命権者は安部首相である。身内に甘く、
国民に冷たい体質を良く表している。「女性は子どもを産む機会」
発言の柳沢氏もクビに出来ず、松岡氏もクビにしないで
いる間に自殺。そして、久間氏も結局何もしないで
このままズルズルと。
三国志の諸葛孔明は最側近の馬しょくを「泣いて斬り」、世の中と
組織に筋を通している。
安部首相は身内には大変甘々の首相である。規範意識がない
などと国民や子どもたちに言う前に、首相として久間防衛大臣
を更迭してけじめをつけるべきである。そうしてこそ、善悪の
社会規範は全うされると思うのだが。
こんな軽薄な防衛大臣のいるわが日本である。「自衛隊」
を動かす最高責任者の首相と現場の最高責任者がこの体たらく。
広島長崎の原爆投下で20万人もの方々がなくなり
今でも数十万人の人々が原爆症で苦しんでいることへの
思いやりも配慮もなく、想像すら出来ない人間が首相で
あり自衛隊のトップである。「美しい日本」の実態。
美しい日本ではなく「悲しい日本」である。
ーーーーーー
ほぼ半日以上、フエに来る造船会社関係のホテル問題で関係者
に連絡を取る。
12通のメール受信。11通のメール送信。
ベトナム事務所へのメール送受信は出来ないようである。
夕方、宇都宮マルサの佐藤社長から電話。7月5日に
宇都宮のお宅へ伺うこととなった。
何か疲れた。
午後4時、近所の99ショップへ買い物。
ニラが3把で99円。青森の土付きごぼうが3本で99円。
谷中も美味しそう。
家に帰り、夕食の料理つくりを楽しむ。
今夜のビールと吟醸酒のおつまみを自分で作る。
料理を作っている時は至極の時間。
きんぴらを作る。少し薄味にする。
ニラを茹でて、かつぶしをかけ醤油。
谷中に味噌。わかめを戻し、ねぎとかつぶし。冷奴。
もろきゅう。するめを軽くあぶり、だし汁と昆布で一晩
ねかす。
ニラがあまくて美味しい。料理は単純に作るのが一番美味しい。
2007年07月01日
東京目黒講演会
曇り
午前10時半、自宅を出て巣鴨→池袋→目黒へ。
目黒駅からバスで会場の「目黒さくらプラザ」へ。
今日はJASS会員で里親でもある上原さんご家族主催の
講演会。
4年前にも同様の講演会を行っている。上原さん、ご両親、
関係者の皆さんが宣伝なども行い、今日の受付なども
皆さんで分担されて行っている。ありがたいことである。
午後2時、上原さんの司会で講演会「ベトナムの子どもたちと生きる」
開会。
今日の講演会のテーマは
①この14年間のベトナムでの活動の実態
②海外支援のめざすものー人を育てる
③現地の自立
・子どもたちの自立
・財政自立
④現地での起業
・日本料理店、日本語学校、縫製工場、刺繍みやげ物店
JASS観光
会場にはピアノ教室をされている上原さんのお母さんと上原さん
の関係者、知り合いの方々。ストリートチルドレンを卒論に
取り上げている大学生の方など40人が参加。
4本のビデオを使いながら講演会を行う。
午後3時、私の話を終わり、10分ほどの休憩。
「マブベ笑顔の会」の大極さんの顔を見る。
わざわざ市川から来てくれたと思うと申し訳ないと思う。
会場には子どもたちの描いた絵がたくさん飾られていた。
またバンベ(JASS機関誌)が6号から30号まで展示されていた。
1997年頃からの機関誌改めてみて、懐かしい支援者の
皆さんを思い出す。当時との思い出が蘇る。
また、「子どもの家」創立6周年記念文集、10周年記念文集
JASS創立13周年記念誌など、多くの資料が展示されていた。
良くここまで揃えられたものだと感心する。
続いて、JASS日本代表委員会委員長の福田もえ子さんが
現地での活動5年数ヶ月の体験をユーモアを交えながら30分ほど
話す。実体験の話には説得力がある。
最後の参加者の感想の中からいくつかの質問に答えながらの
質疑応答。
質問の概要
①教師を辞めて未練はなかったか?
②14年間ストリートチルドレンの支援をし、この14年間で
ストリートチルドレンの事情は変わったのか?
③現地でのJASSへの評価はどんなものなのか?
④障害児の現状と今後の様子
午後4時過ぎに終了。
関係者の皆さんと記念撮影
講演会終了後、上原さんのお宅へ。福田もえ子さん、大極さん、
参加者の皆さんなど10人ほどで伺い、交流。
自宅着午後8時。
なかなか快い講演会であった。上原さんのご両親、上原さん、
親戚の方、友人の皆さんの影のご努力に改めて感謝。
久間防衛大臣の罷免を
久間防衛大臣は、昨日、千葉県柏市の某大学での
講演会で、「原爆投下は仕方がない」との発言を行った。
日本の敗戦間際、アメリカはソ連の対日戦参戦を知って
いたが、日本は知らなかったとした上で
「・・・・日本が負けると分かっているのに、(米は)原爆を広島と
長崎に落とした。・・・・・その当時の日本は、(ソ連に日本が)
取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は
、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目に
あったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で
今、じょうがないな、と言う風に思っている」
と語っている。
全体の文脈をみても「ソ連に北海道を占領されないように
アメリカが原爆を落として、早期に戦争を終わらせてくれ
たのだ、そうした意味でアメリカの原爆投下は仕方がない
と読み取れる。
とんでもない発言である。アメリカの原爆投下は、人類に
対する最大の犯罪であり、一般市民への攻撃を禁止した
当時の国際法にも反する。数十万人の一般市民が
殺戮され、今でも数十万人の被爆者が苦しんでいる。
久間発言に対し、安部首相は「擁護する」発言をしている。
安部内閣が国民の苦しみを理解できない「軽い」内閣で
あり、「女性は子どもを産む機械」発言から始まり、
とうとう「原爆投下は仕方がない」と大臣が発言するまで
に至った。安部首相の言う「戦後レジームの清算」
の実態は、従軍慰安婦への国家の強制はなかった、
沖縄の集団自決に日本軍の関与はなかった、など等
戦争と平和の問題をいかにも軽く取り扱っている。
恐ろしい内閣になったものである。
先日亡くなった宮沢元首相がこの種の問題には
非常に慎重に発言していたことと比べるとあまりに
程度の低い首相である。
私は7月29日には、戦争反対の気持ちを投票で
表そうと思っている。