« 2007年07月 | メイン | 2007年09月 »
2007年08月31日
神田外語大:大阪女学院大学NGOー「子どもの家」案内
晴天
午前6時起床。
午前7時朝食。フォー。
疲れが溜まる。朝なかなか起きられない。
午前8時過ぎ、ベトナム事務所へ。
午前9時、神田外国語大学学生11人がベトナム事務所へ。
昨年、神田外国語大学で講演会を行った。その時、講演を
聞いてくれたベトナム語を学んでいる学生さんたち。
岩井先生の指導を受けている学生のようである。
数日前、私の「ミクシー」に連絡が入っていた。
ホーチミン市かダナンから「子どもの家」参観をしたいが、
受け入れてくれるか?とのことだった。税田さんに交渉を
お願いした。今日、参観が実現。朝4時だか5時頃、
ダナンから列車でフエに来たとのことだった。
午前11時半頃の列車で再びダナンへ帰ると言う。
わざわざ「子どもの家」視察のためにフエまで来てくれた
ことに感謝。真面目な学生さんたちである。
ベトナム事務所からタクシーで「子どもの家」。
「子どもの家」の各施設を案内。その後、子どもたちと交流。
少数民族問題、ベトナム社会主義の実態問題などを質問して
来た学生さんもいた。「問題意識」を持つことが何よりも
大事なことである。担当の先生方の日頃の指導の結果か?
午前11時半、自宅へ戻る。
昼食、コムディア(70円)。食欲ない。半分残す。
午後12時半から1時間昼寝。
その後読書「裏切られた革命」(トロッキー著)
この本は、第1部が、1917年10月革命後に生まれた
「ソビエト社会主義連邦共和国」とは一体何なのか?
どう変質し欺瞞だったのか?を解き明かし、第2部では
ソ連がどこに行こうとしているのか?スターリン体制下の
ソ連の行き着く先を解明している。本書は1936年に
書かれた。本書がかかれたまさにその時にスターリンは
「ソ連社会主義は最終的に勝利し、世界でもっとも民主主義的
な憲法が制定された」と宣言した年であった。
しかし、実際には、多くの市民・知識人・共産党の幹部、
外国共産党の幹部が、。スパイ罪、国家反逆罪、
トロッキー主義者という烙印を押され、死刑になっている。
午後2時半、ベトナム事務所へ。
午後3時、大阪女学院大学スタディーツアーの皆さん16人
の訪問受け入れ。
皆さんと一緒にバスで「子どもの家」へ。
セン運営委員長に記念品贈呈。
「子どもの家」の音楽室で1時間ほどJASS活動の話をする。
その後、各施設を参観。子どもたちとしばらく交流。
午後5時過ぎ交流を終了する。
午後6時、大阪女学院大学の皆さんが日本料理店へ。
様々な日本料理を注文してくれる。最大のボランティア。
午後8時、夕食を終了。全員で記念写真。
2007年08月30日
ニュージーランド人案内:地球の歩き方Ⅲ「子どもの家」交流
晴天 午前中猛暑。午後曇り。
午前6時起床。昨夜は年金問題の怒りで痛飲。
午前7時朝食。ブンボー。食欲なし。ツアー案内等の疲れが出る。
午前8時過ぎ、ベトナム事務所のサンさんから電話。
ベトナム事務所にニュージーランド人が来ている、
「子どもの家」を視察したいと言っているとのこと。
急いでベトナム事務所へ。ニュージーランド「ネルソン」
に住んでいる高校の先生。少し立ち話をし、「子どもの家」
訪問、支援品を渡したいとのことだったので、案内する
ことにした。タクシーで「子どもの家」へ。
「子どもの家」の各施設を案内し、「子どもの家」設立の
歴史、子どもたちの様子、ベトナムの社会事情などを説明する。
子どもたちのために自分の学校からボールペン、メモ帳などを
頂く。
今夜フエを発ってハノイへ行くとのこと。
「子どもの家」では、地球の歩き方Ⅲの皆さんが、
子どもたちと両国の伝統遊びなどを楽しんでいた。
そのまま「子どもの家」で地球の歩き方Ⅲの皆さんの交流に
合流。
午前11時、交流を終わり昼食へ。
昼食はベトナム料理「オンターオ」。
私、バオミンさん、税田さんも同席。42人の昼食は壮観だった。
午後1時自室へ。昼寝。
午後2時、地球の歩き方Ⅲの皆さんはシクロで「子どもの家」へ。
バオミンさん、ソンさんがオートバイでシクロの前後を護衛。
「子どもの家」到着後、子どもたちと一緒に近くの「タイロック市場」
へ。夕食の食材の買出し。
「子どもの家」へ戻り、子どもたちと一緒に夕食作りをする。
午後5時半、夕食。
自分たちで市場へ行って買った食材で作った夕食を
子どもたちと一緒に摂る。
午後6時、宿泊しているホテルへ。
その後、自由行動。
私は関係者と日本料理店で夕食。
2007年08月29日
地球の歩き方Ⅲ 2日目:「国家に盗まれた年金」
晴天。蒸し暑い。夕方、雷と雨。
午前6時起床。疲れが残る。
午前7時朝食。フォー。
午前8時前、電動バイクでベトナム事務所へ。
ベトナム事務所の2階会議室では、日本料理店の
子どもたちが、英語の先生について英語の勉強。
午前8時過ぎ、地球の歩き方Ⅲ(39人)が
添乗員さんの案内でベトナム事務所を訪問。
税田さんの司会でベトナム事務所員が自己紹介。
税田さんよりフエ滞在中の生活上の諸注意。
①氷・水に気をつけること。(水道の水、氷は飲まない)
②常に水分の補給を。ミネラウオーターを常に携帯すること
③オートバイや自転車には乗らないように。
④「子どもの家」や高校などでの交流後に
個人的な交流・付き合いはしないで欲しい。
その後、2階のベトナム事務所や3階の刺繍みやげ物店
を参観。
その足でバス2台に分乗し、ハンさん、ソンさんの案内で
「子どもの家」への歓迎会に臨む。
私はいくつかの大きな問題について、バオミンさん、
税田さんと意思統一。
9時40分まで打ち合わせを行い、急いで「子どもの家」へ。
午前10時から地球の歩き方Ⅲの皆さんに講演会を行う。
38人の学生さんを中心にしたスタディーツアーの参加者。
音楽室は満席となる。
午前11時半、講演会終了。
ハンさん、サンさんの案内で昼食レストラン「フォーザイゴン」へ。
昼食は「フォーザオ」。米の麺の野菜入り炒め。
午後1時、自室に戻り昼寝。1時間。
午後2時。11通のメール受信。5通の返信。
午後4時、日本語学校へ。地球の歩き方Ⅲの皆さんは
午後2時から「ベトナム語講座」。
フーン先生、石塚先生からベトナム語の基礎講座を
受ける。その後、日本語学校の観光基礎コースの
生徒と交流しながら実際にベトナム語を使ってみる。
午後4時半、「ベトナム語講座」終了。そのまま、「アオザイ」
作製。ベトナム事務所の隣りにバオミンさんのお母さんが
アオザイ店を開店。100%オーダーメイドのアオザイを
作る。布と縫い賃で3000円~4000円以内。
午後8時、スタディーツアー関係者と日本料理店で懇談。
午後9時過ぎ終了。
元ベトナム事務所員だった舟山さんご家族が日本へ帰国。
ホーチミン空港から電話で帰国の挨拶。義理堅い人である。
ーーーーーーーー
日本の自宅から郵便物が届いた。その中に「社会保険庁
年金加入期間の確認について」(ご案内)という葉書が
入っていたい。何だろうと開けてみる。
以下のような文章だった。以下、原文。
『あなたの基礎年金番号に登録されている年金加入期間
のみでは、年金を受けるために必要な加入期間を確認
出来ません』というものであった。
右側の「あなたの加入期間」という一覧表を見ると、
『国民年金加入期間 164か月』とあるのみ。
『共済組合等加入月数 0ヶ月』。
要するに年金受給に必要な25年間年金をかけていない
ので、年金は受給できません、という手紙だった。
私は教員を23年間、勤めた。共済年金を23年間かけていた。
しかし、社会保険庁は、わたしのかけた23年間は記録にない
として、「0ヶ月」。つまり、私は共済年金をかけなかったと
ことになっている。23年間かけてきた共済年金の掛け金は
結局、国家に盗まれた状態である。
私は23年間共済年金をかけてきた。しかし、25年の受給資格に
ならないので、ベトナムに来てから国民年金を164ヶ月かけた。
13年6ヶ月。
社会保険庁は、国民年金13年6ヶ月間しかかけていなので
年金は一切出しません、という通告書を送ってきた。
国民年金支給は1ヶ月たった2万円程度である。その2万円程度の
国民年金支給の基礎年金部分すら支給を拒否。
その最大の原因は、23年間かけた「共済年金」を「かけていない」
と勝手に決め付け、通算しても国民年金の13年6ヶ月だけしか
年金はけけていないというのである。受給資格の25年にならない
というのである。
これだ。「消えた年金」というやつだ。
私は5000万件の一つの『消えた年金』の該当者になりました。
年金ゼロいという通告を国家から受けて、『消えた年金』
ということばを作った人間は、自分は「消えた年金」に入らない
マスコミか何かの人間だと分かった。自分が、23年間
共済年金をかけ、その後、13年6ヶ月国民年金をかけ、
合計で36年6ヶ月の年金をかけてきたのに年金受給資格は
ありませんと国家に宣告されてみて、「消えた年金」ではなく
『国家に盗まれた年金』と
言わなければならないという気持ちになった。
これは明らかに国家による「詐欺」であり「犯罪行為」
である。
社会保険庁の葉書によれば、「文句がある人間は、自分で
社会保険事務所に行くか、共済年金事務所に行って
相談しろ」とのこと。どこに、何も悪いことをしていない
被害者が、自分で被害を証明しなければならない社会が
あるのだろうか?
冗談じゃない。こちらは何も落ち度はないぞ。
きちんと決められたお金を決められた期間以上納めている。
もし、間違いがあるのなら、社会保険庁、貴方たちの
事務上のミスでしょう。貴方たちが自分の力でしっかり調べ
るべきでしょう。
ミスを犯した犯人が、被害者に「自分で調べて申し出ろ」とは
どういう社会なのだろう。
真面目に36年間も年金をかけた私が、黙っていたら年金は
ゼロになってしまう、恐ろしい「美しい国」である。
安倍首相は参議院選挙で1年以内に問題を解決すると言った。
しかし、解決は、私が社会保険庁に行ったり、共済年金事務所に
行って、自分で解決するのです。安倍首相、貴方は選挙中、
年金問題は「安倍政権」「政府の力」で完全に解決しますと
言いましたね。しかし、実際は、私が黙っていらた年金は出ない
のですよ。政府は何もしてくれませんよ。私が自分で解決しな
ければならないのです。
法制上、年金は該当者が自己申告して権利が発生する。しかし
今回の「国家に盗まれた年金」は申請する以前の事務処理が
出来ていないという、全くもって政府行政の無能力から起こった
問題である。
国家権力による、私権の重大な侵害である。
情けない『美しい国』に生まれてしまったものである。
安倍首相は教育基本法を改悪し、「愛国心」を導入した。
これでも国家を愛せよというのだろうか?
国民に義務だけを強要し、国家は責任を果たさないだけで
なく、その尻拭いまで国民の押し付けている国家。
私は23年で教員を辞めてベトナムにストリートチルドレン支援
のため来た。年金は半減した。それでも国民年金に
加入し、受給年限を確保し、生活は出来ない年金額ではあるが
最低限の生活を覚悟し、老後を過ごそうと思っていた。
こんな小さな夢ですら、現時点では「木っ端微塵」に粉砕されて
しまった。怒り心頭に発するのである。ベトナムにいたのでは
文句一つ言えない、情けない状況である。
今朝、日本人5人で朝食を食べながら、「ネットカフェ難民」の
話をした。
新聞報道だと厚生労働省の調査では、全国で5400人が
ネットカフェー・漫画喫茶で寝ているという。
26%は20歳代、23%は50歳代とのこと。
私たちの話題に上ったのが、「ネットカフェ難民」の月収が
10万円強とのことだった。
私たちの毎月の手当ては、ネットカフェ難民の半分ほどの
ものである。という事は、私たちは今騒がれている
ネットカフェー難民以下の生活ということ。日本に帰ったら
最低限の生活もできない手当てではある。
国家に盗まれた年金、「ネットカフェー難民」以下の手当て。
ベトナム事務所で働いてくれている日本人のスタッフの
皆さんに申し訳なく思う。
これでも私たちは「愛国心」をもち、私たちを捨てた国を
愛さなければならないのだろうか?
我が家は父母と兄・姉が中国で国家に捨てられている。
そして、今回改めて私が国家に捨てられた現代の棄民。
それでも私は日本という国を愛します。日本人としての
自覚を持っている。国家に強制されない愛国心を
持っている。
自民党の玉沢元農相が領収書3枚を使い回し5枚の
ニセ領収書を作り377万円の架空の政治資金収支報告書
を作っていた。玉沢氏は衆院政治倫理審査会長だそうだ。
なるほど、政治家の倫理を審査する委員長はこういう
人物だったのか。自民党の政治倫理とはこういった
ものなのだ。「美しい国」とは、こうした権力を持った人間が
勝手放題にずるいことをしても良い国だったのだ。
権力者が好き勝手なことをする国が「美しい国」だったのだ。
こんなことを書いていたら、高村正彦防衛相(衆院山口1区)の
資金管理団体が、家賃のかからない議員会館を「主たる事務所」
として、三年間で約三千万円を領収書のいらない事務所費として
計上しているとの情報あり。1年間1000万円。
大変なお金である。毎月2万円の年金をもらうために
ベトナムでハラハラ・イライラしている。生活保護以下の
手当てしかない私たちのベトナムでの生活。
現在と未来の自らの低所得の行方を考えている時、
家賃のいらない自分の議員会館を
3000万円の領収書のいらない経費を計上してる
防衛大臣。「事務所の詳細は言わない」と『防衛』をしているそうだ。
私が今回「国家に盗まれた年金」は第一陣は年額たったの
24万円である。自民党の政治家は、数千万円のお金をちょろ
まかして、絆創膏でごまかしたり、説明しないと「防衛」している。
何か空しさと空虚さだけを感じる出来事であった。
「国家」というもの
アフガニスタンに布教活動に行った韓国キリスト教関係者が
タリバンの拉致され、男性二人が殺害され、女性二人が
解放された。今回、残りの19人全員が解放される見通し
とのこと。そもそもイスラム教のアフガンにキリスト教の
布教に行くこと自体、かなり大きな困難と問題を抱えていた。
相当、無謀な行動であった。
何年かの前の「高遠・今井」問題を思い出す。
日本政府高官が「自己責任」「帰りの飛行機代を返せ」など
イラクに入り、ストリートチルドレンや劣化ウラン弾問題の
支援に行った若者二人を攻撃した。
私は若者二人の行動を全面的に支持するものではない。
真っ当に海外支援をしている人間なら、このような単細胞な
活動はしない。しかし、高遠さん・今井君の行動はけして
間違ったものではない。方法に未熟なものがあったとしても
真っ当な活動であった。
自民党など政府高官は口汚く二人を攻撃した。
その時、二人に激励を送ったのは、アメリカのブッシュ大統領
だった。「素晴らしい日本の若者」と。
今回、韓国のキリスト教系の団体がアフガニスタンに入り、
キリスト教の布教をしている最中にタリバンに拉致された。
日本の政府高官が高遠さん・今井君の取った態度からすれば
これらキリスト教団を糾弾するはずである。しかし、韓国政府は
冷静沈着にタリバンと交渉し、殺害された男性以外の「解放」
にこぎつけた。これが、国家というものである。
日本の国家は、国民に異常に冷たい国家である。
2007年08月28日
地球の歩き方Ⅲ(39人)フエ到着
晴天
朝7時。気温32度。湿度80%(廊下)
起床6時半。昨夜痛飲。多少の頭痛あり。
午前7時朝食。ブンボー。
午前9時。徒歩ベトナム事務所へ。
9月訪問の団体と日程等について最終調整の連絡。
日本語教師の石塚先生と懇談。
午前12時。昼食。そうめん。
午前1時。昼寝。
読書「裏切られた革命」。
スターリンの、ソ連は社会主義に到達したとの発表を
具体的な数字とマルクス・エンゲルスの主張を引用
しながら、その嘘を暴露する。1930年代のソ連は
マルクスが主張した社会主義ではないと。
そして、官僚組織の肥大化とニセ社会主義を批判。
午後3時過ぎ、「子どもの家」へ。絵画教室の様子を
撮影。
午後4時。関係者に12通のメール送信。
午後7時。ズイタンホテルへ。バオミンさん、サンさん、
ソンさんと合流。地球の歩き方Ⅲ班(39人)の出迎えの
ためフエ空港へ。
7時50分、地球の歩き方スタディーツアーの皆さん39人
が無事フエ空港に到着。
サンさんとソンさんはスーツケースを運ぶトラックで
先にホテルへ。
バスには私とバオミンさんが乗る。バオミンさんが車中で
フエ滞在の諸注意。フエ市内までの観光案内をする。
午後8時半。フエ市内着。そのまま「フォー24」のお店へ。
全員、フォーを食べる。
午後9時過ぎ、5日間宿泊するズイタンホテルに到着。
ウエルカム・ドリンクのオレンジジュース。
添乗員さんの説明。部屋割り、電話のかけ方、明日の日程など
を聞く。
その後、貴重品を預け、部屋に行く。部屋のエヤコン、
温水シャワー等のチェックをする。いくつかの部屋に
問題あり。是正する。
全て終わり帰ったのは、午後10時45分。
39人、全員が無事第1日目を終わった。
ミンさん、サンさん、ソンさんが遅くまで良く仕事をしてくれている。
ありがたいことである。
NHK衛星放送が見られないので、安倍内閣の陣容が
いまいち分からなかった。インターネットでやっと判明。
「人心一新」を掲げて閣僚の首のすげ替えをしているが、
最大の人心一新は安倍首相の退陣なのだが・・・・・。
参議院選挙の結果はそれを国民が望んだのだ。
お坊ちゃん首相と失言・暴言麻生幹事長、病弱与謝野官房長官
の3人が安倍内閣・党の中心人物である。
与謝野官房長官のHPを見た。自分は与謝野鉄幹と晶子の孫だと
自慢のHP。
そういえば、安倍首相は岸信介・弟佐藤栄作の祖父などと晋太郎
外相の父を尊敬、麻生幹事長は祖父吉田茂元首相と麻生財閥という
閨閥のお坊ちゃん。
日本は政治的には明らかに「二重階層社会」である。
犬や猫と同じで良家の「血統書」がないと政治家になれない
国である。
安倍首相は「政策実行内閣」と自画自賛しているが、
「泥船内閣」「セコハン内閣」「KY内閣」「PTA内閣」
「安倍不要内閣」「年内内閣」などの批判もある。
あまり代わり映えのしない内閣であることは間違いない。
今回の内閣改造にあたり大臣の「身体検査」に相当時間を
かけてという。事務所費二重領収書など自殺者も出した
「金と不正」にまみれた第1次安部内閣であった。今度は、
そうした不祥事はないのかな?
と見ていたら、第2次安倍内閣発足当日に
額賀財務相(茨城2区)が代表を務める「自民党茨城県第2選挙区
支部」の茨城県行方市の事務所の建物が、10年前に建築されて
以来、不動産登記されていなかったことが判明。
インターネットで「不動産登記法」を調べてみた。
第47条に
『新築した建物又は区分建物以外の表題登記がない建物の所有権を
取得した者は、その所有権の取得の日から一月以内に、
表題登記を申請しなければならない』と明記されている。
家を新築したら1ヶ月以内に不動産の登記をしなければならない。
額賀大臣は10年間もしていなかった。
不動産登記法の164条に
『・・・・第四十七条第一項・・・の規定による申請をすべき義務がある者
がその申請を怠ったときは、十万円以下の過料に処する。 』
とある。
新築1ヶ月以内に登記しない場合には、過失として
10万円の過料の処置を受ける。
つい忘れたということが許されるなら、不動産登記法などはいらない。
明らかな違法行為である。家賃のかからない自宅を事務所にし
年間1000万円以上の事務所費を計上している。
額賀事務所では色々と言い訳をしているが、
茨城の「絆創膏農林大臣」といい、次から次と脇の甘い大臣ではある。
これではまだまだ第2、第3の「ばんそうこう大臣」が
出てきそうである。
2007年08月27日
第5回「子どもの家」労働組合総会
晴天 蒸し暑い
午前6時起床。
午前7時朝食。フォー。
午前8時、徒歩でベトナム事務所へ。
バオミンさん・税田さんと当面のスタディーツアーのこと、
今後のベトナム事務所の諸問題など当面の問題と
中長期的諸問題を話し合う。午前11時半まで。
午前12時昼食。一昨日のJASSツアーの残りご飯で
おじやを作る。
午後1時から30分昼寝。
午後1時30分過ぎ、バオミンさんと一緒に「子どもの家」へ。
午後2時から第5回「子どもの家」労働組合総会に参加。
JASSの会
37グエンチャイ労働組合第5回大会
2007年~2009年度
初めに国家斉唱。
続いて来賓紹介。トゥアティエンフエ省労働総同盟副委員長、
私、バオミンさん。
大会議長にセン運営委員長、ロック寮長が、書記にキムアンさんが
選出される。
議事に入る。
セン運営委員長より、2005年~2007年までの活動総括、
2007年~2009年までの方針が提案される。
ロック寮長より「フエ市労働組合連合第8回大会決定が
読みあげられる。
続いて、総括と方針についての討論に入った。
●コンピュータのマン先生
提案は全て100%正しいです。賛成します。
「子どもの家」では労働組合の活動の場が少ない。
スタッフの健康診断費用を組合が出して欲しい。
●警備員のブイさんの意見
「子どもの家」を退所し、仕事をしたりしなかったりしている
子どもたちが夜「子どもの家」に入って、他の子どもたちに
悪いことを教えている。人民委員会で何とかして欲しい。
●寮母のティエンさんの意見
子どもたちが段々大きくなっていく。子どもたちの自立のために
仕事をする場を見つけて欲しい。
討論を終わり。総括と提案が全員一致で可決。
セン運営委員長の挨拶。
・皆さんの団結で総会は成功した。これからも協力して仕事を
して行こう。
・「子どもの家」の運営費には限度がある。希望を生かしたいが
難しいものもある。今後も努力して行きたい。
・他地域の「子どもの家」などを視察しながら「職員旅行」を
したいのだが・・・。
続いて来賓挨拶。
●トゥアティエンフエ省労働総同盟副委員長
★ベトナムの労働組合はベトナム共産党の一元的な
指導下にあり、労働総同盟は唯一の労働組合の
全国組織である。
・この「子どもの家」のスタッフは少ない。 もっと増やしなさい。
・給料が安い。毎年給料を上げなければ駄目だ。
フダビール会社やフエ郵便局の給料は「子どもの家」
の2倍以上だ。こんなに安い給料は改善しなさい。
・労働組合費がなければだめだ。
・「子どもの家」に共産党の支部を作らなければ
いけない。
・「子どもの家」の労働組合の委員長はロック寮長に
しなさい。
・以下、お説教になる。人間は真面目に生きなければ
ならない。人間は努力が大事だ・・・・・・・。
延々30分以上の無内容な話をする。
(30分以上この副委員長の話を我慢して聞いた。
この男は、指導者意識丸出しだ。粗野で無教養なこの男
は自分は偉いと思い込んでいる。
『空気が読めない』という言葉があるが、まさにこの副委員長
のためにある言葉だ。
こんな暑い日の午後2時過ぎ。延々と意味のない話し、
人間はどう生きなければならないか、などと言うお説教
をし続ける男の顔をじっと見ていて、ベトナムという社会で
生きている庶民が可哀想になった。こんな馬鹿男の
話をハイハイとうなずきながら聞かなければいけない
のだ。共産党の幹部・お偉いさんに楯突けない社会構造。
「子どもの家」の給料が安いなどといえるこの男の
無教養・厚顔無恥さに呆れる。日本の庶民の支援金で
運営されているボランティア施設である。
まず最初にこの男は、「日本の皆さんのご支援
のお陰で、ベトナムの子どもたちが助かっています。
日本の皆さんに心からのお礼を申し上げたい」というべき
なのである。本来、ストリートチルドレンや貧しい子どもたち
を助けるのは、貴方たち共産党の仕事でしょ。「子どもの家」に
共産党の支部を作れなどというヒマがあるのなら、
ストリートチルドレンや貧しい子どもたちを助ける計画でも
考えろといいたい。そのためにお前は高給を取って
贅沢な「労働貴族」の生活をしているのだろうに。
フダビールや郵便局の職員の給料が「子どもの家」の
スタッフの2倍だから、もっと給料を上げろと言っている。
ばか者。「子どもの家」と利益を追求するビール会社などと
同列視し、比較する人間がどこにいますか?
この副委員長は、民主主義という基本概念すら理解して
いない。この後、無記名秘密投票で役員を選出するのだが、
挨拶で、ロックさんを委員長をしなさい、などと指示している。
「子どもの家」のスタッフは賢明であった。副委員長の
指示を見事に無視して、ロックさんは役員を辞退して
しまい、全く違うスタッフ3人を役員に選出している。
もっともこの役員選挙も、事前に全て筋書きが出来ていた
選挙ではあったが・・・・。
こんな常識も分からない人間が、共産党の幹部で、
指導者風を吹かせ、人間の生き方は・・などとお説教を
垂れているのだ。迷惑なお説教を垂れるヒマがあったら
1分以内にお前の挨拶を止めた方がよっぽど「子どもの家」
のためになる。参加者は疲れている。無駄な時間。
結局、この副委員長は総会で出た組合員の意見や
要望には何も答えなかった。意見は無視された。
彼の頭は、総会で偉そうにお説教を垂れるのが自分の
仕事と思っているのである。多分、今までそうしてきたの
であろう。どこに行っても共産党の幹部・お偉いさんと扱
われているのだ。こんな無教養の人物が労働総同盟の
県の副委員長であるということが、そもそもベトナム社会
の不幸である。この男の偉そうな馬鹿話しを聞きながら
怒りがわいてきた。)
●来賓挨拶の次は私。
この際、粗野な労働総同盟副委員長に「嫌味」「皮肉」の一つも
言ってやろうと思い、以下のような挨拶をする。
・13年間、「子どもの家」を運営している。総額で1億5千万円
程のお金だ。このお金は日本の庶民からの貴重な寄付である。
日本の学校で講演会をするが、私の話を聞いた日本の
子どもたちからの寄金も入っている。
大変安い給料で申し訳なく思っているが、日本人からの
浄財であるということを理解して欲しい。
昨年、1昨年と給料を引き上げている。
・マンさんの意見である「スタッフの健康診断」の件は、
当然の意見である。JASSとしても出来るように検討する。
・警備員のブイさんの、卒業した子どもの中で生活態度の
よくない子どもが「子どもの家」に来て、子どもたちたに
悪い影響を与えている件。センさんと何度も相談して、
必要な場合には、警察とも連絡を取る様にしている。
・ティエンさんの「子どもたちの自立のための職業訓練所
を作って欲しい」との意見。
私たちは日本政府と協力して縫製研修センターを
作った。2008年1月から実際に稼動する予定。
「子どもの家」の子どもたちや地域の貧しい子どもたちを
採用・研修させて、利益が上がる縫製研修センターに
したいと思っている。
また、2008年1月から「アクセサリー研修センター」
を始める。これは、花田啓一さんという方のご好意で
「アクセサリー研修センター」が始まる。ここにも
「子どもの家」の子どもたちや地域の貧しい子どもたちを
入れて自立のために仕事をするシステムを作っている。
・セン運営委員長の「各地域の関連施設を訪問・視察しながら
職員旅行をしたいとの提案。財政的な問題もあり、今後
検討したい。
こんな話をした。労働総同盟副委員長は私の言った本当の
意味を理解できなかった。ばか者。
直ぐにセン運営委員長が来て、「子どもの家」スタッフの
要望はフエ省の労働総同盟への要望で、小山さんへの
要望ではないです、とバオミンさんに言いに来た。
さすがにセン委員長は賢い人間だった。私の言った
馬鹿労働総同盟副委員長への「当てつけ」をしっかり
聞き取り理解していた。
肝心の副委員長は全く私の言うことの裏の意味を理解
する能力がなかった。大ばか者。
役員選挙。
推薦で4人の候補者となる。その後、投票。投票者数11人。
3名連記。
馬鹿副委員長に指名されたロックさん(今までの委員長)は、
役員立候補を辞退すると発言した。
会計のハンさん(10票)
寮母のキムアンさん(6票)
医師のタムさん(7票)
寮母のティエンさん(7票)
以上の結果、ハン・タム・ティエンの3人が
執行部となった。
続いて、2005年~2007年の間に「子どもの家」の仕事で
頑張った人の表彰。医師のタムさん、寮母のニエムさん
食事作りのムオイさん。
私から見ても順当な表彰だった。
最後にキムアンさんが、今日の総会の決定事項を朗読。
既に総括・方針・人事案が事前に印刷されたものを
キムアンさんが読んでいた。ということは、今日の全ての
議事と決定は事前に決められていたものだ。
最後に全員の写真を写し閉会。
午後6時半、日本料理店で舟山さん一家と懇談・夕食会。
舟山さんは私の事務所に来た最初のボランティア支援者だった。
1996年から4年間、私たちの仕事を手伝ってくれた。
地元フエ市の女性と結婚。2児の父親でもある。
舟山さんのご両親も家族も心優し人々だった。
午後9時、全て終了。
2007年08月26日
久しぶりの休日
晴天
7月末から始まったスタディーツアーの波も昨日で前半が
終了。今日は前半と後半の端境期。1ヶ月半ぶりの完全休暇。
午前7時起床。
読書「裏切られた革命」(トロッキー著:藤井一行訳 岩波文庫)
翻訳ものはあまり好きではないが、読んでみる。
案の定、翻訳調で読みにくい。
午前9時半、入浴。2キロ体重が減っていた。
暑さと不規則な食事、長期間の訪問者応対のためと推測。
バオミンさんから電話。ホーチミン市から帰ってきたとのこと。
ご苦労様。先週から今週にかけて3回ホーチミン市に行っている。
大変なことだ。JASSツアーは2時間ちょっと遅れて昨夜、
ホーチミン空港を出たとのこと。
今日はゆっくり休んで欲しいと話す。
午前10時、朝食。稲庭うどんを茹でて10日ほど前に
作った豚肉のつけ汁で食べる。美味しい。
その後、午後12時まで読書。今日は1日読書と決めた。
ビール類は飲まないことにした。読書が出来なくなるため
泣く泣く断念。
「裏切られた革命」は1936年、トロッキーによって書かれた。
コミンテルン以降の国際共産主義運動史の中ではトロッキーは
トロッキズム、トロッキー主義者、権力の手先、資本家のスパイとの
レッテルを貼られてきた。
1991年、ソ連の崩壊後、ロシアで社会主義時代の
資料が大量に公開された。本書は1991年、藤井一行教授
によって翻訳。最新の資料を参考にしての最新版。
1917年のロシア10月革命後の内戦、外国の干渉戦争などの
中で、レーニン、トロッキー、スターリンがどのような発言と行動を
取ったのかは、ソ連崩壊までは、「公式ソ連共産党史」だけに
記されていた。スターリンが独裁した世界共産党
(第3インターナショナル・コミンテルン)が作った歴史だけが
公式の歴史であった。ソ連が崩壊し、非公開だった資料が
続出。ソ連邦史は大きく塗り替えられている。
最近では、トロッキーを権力の手先とレッテルを貼るのではなく、
客観的・学問的な位置づけをする動きが出てきている。
マルクス主義の秀でた理論家の一人としての位置づけが
始まっているように思い、今回、改めてトロッキーは、
レーニンの死後、スターリンとどのような理論闘争を行い
敗北していったのかを知ることがこの読書の最大の興味で
ある。歴史とは本当に長いスパンで見ないと評価できない
ものである。
午前11時半、JASSスタディーツアーの加藤さんから電話。
無事日本へ着いたのとのこと。ホーチミン空港を2時間20分
遅れて出発。成田着は午前10時。2時間半ほど遅れる。
皆さん無事帰国されて一安心。「盲腸疑惑」のYさんは
そのまま病院へ行ったそうだ。大事に至らなければ良いのだが。
JASSスタディーツアーの引率の皆さん、お疲れ様。
午後12時半、昼寝。
午後2時半、引き続き読書。
その間に受信したメールへの返信。5通。
夕方、「ほか弁」(75円)を買いに行く。
午後8時半。日本のWさんから電話。いくつかの
問題を電話で話す。
午後8時半、フダ缶ビールを飲みながら今週から
来週にかけてのスタディーツアーの私の出番などを
調べる。
京滋YOUの会のFさんから頂いた「にごり酒」が
実に美味しい。韓国のマッコリに炭酸が加味されたような
上品な刺激的な味。3回で1本を飲みきる。
この2週間ほど、NHKテレビが全く映らない。
日本の情報はインターネットだけ。やはり映像が欲しい
所である。
明日は安倍内閣改造だそうだ。
この人もなかなかずうずうしい人である。
日本で一番の「KY」の人だとのこと。
参議院選挙中は、「私を選ぶのか民主党の小沢を選ぶのか?」
と国民に迫った。国民が小沢氏を選んだ。安倍首相は明らかに
国民から『不信任』をくらったのだ。のにも拘わらず「基本路線は
支持された」と首相に居座り、明日内閣改造するするそうだ。
基本路線とは、「戦後レジュームからの脱却」。
ようするに戦後日本の基本的な国家システムある平和と民主主義
の放棄である。単純ではないが「戦前への回帰路線」である。
空気の読めない人はとことん空気が読めないようだ。
「日本人の品格」という言葉を良く耳にするが、どうなんでしょうか?
安倍首相のこの態度は品格のある態度なのでしょうか?
「国家の品格」の著者:藤原正彦氏に聞きたいところである。
自民党元幹事長加藤紘一氏が、「言論の自由を守る碑」
を作ったそうだ。
以下、共同通信より。
『山形県鶴岡市で昨年8月、加藤紘一元自民党幹事長の実家と
事務所が右翼団体構成員の男に放火された事件を受け、言論
の自由の大切さを訴える石碑の除幕式が26日、再建された事
務所前で行われた。
「言論の自由を守る碑」と名付けられた石碑は、加藤氏の高校
や大学時代の同級生ら支援者が建てた。高さ90センチ、幅73
センチで、「言論の自由を脅かす行為を決して許してはならない」
などと刻まれている。
式で加藤氏は「発言を変えるつもりはないし、発言は続ける」と
暴力には屈しない姿勢をあらためて表明。終戦記念日の今月15日
に靖国神社を参拝した閣僚は、高市早苗沖縄北方担当相1人に
とどまったことについて「世論の評価を受けて政治家も変わりつつ
ある」と評価した。
事件は昨年8月15日、右翼団体構成員の男が加藤氏の実家に
侵入し、放火。公判で弁護側は「首相の靖国参拝を妨げる者に公憤
を抱いていた」などと主張したが、懲役8年が確定している。』
私と意見は異にするが、加藤紘一氏は尊敬できる政治家である。
などと書いている間に「月の桂 にごり酒」はなくなってしまた。
Fさんに感謝。
明日からまた長い一週間が始まる。地球の歩き方ツアーⅢ(39人)、
全国大学生協ツアーも来る。多くの若者(大学生)に会えるのは
楽しいことだ。
2007年08月25日
東京の先生たちを案内
晴天
気温34度。湿度60%。(廊下)
午前6時起床。
午前7時朝食。ブンボー。
午前7時、JASS青少年教育の会はバオミンさんの
案内でフエ空港へ。バオミンさんはそのまま皆さんと
一緒にホーチミン空港へ。クーチトンネル、買い物などを
して午後8時半、ホーチミン空港まで案内をする予定。
午後11時半頃ホーチミン空港を出発し、8月26日午前7時過ぎ
成田着の予定だったが、ホーチミン空港発が2時間ほど遅れ、
午前2時頃出発とのこと。日本着も2時間ほど遅れるようだ。
皆さんの無事帰国を祈る。
静岡県三島市の「ウオータービジョン」の皆さんは
サンさん、税田さんが案内して午前7時半にホテルを
出発。フエ空港からホーチミンへ。
午前9時、ベトナム事務所へ。
必要なメールの送受信。いくつかの問題を検討解決。
久しぶりに午前中はスタディーツアーなどの訪問者への
対応がない。
読書「大河の一滴」(五木寛之著)読了。
大学に行っている頃だろうか? 高校の国語の先生と
お茶を飲んだことがあった。その時、高校の先生が
「五木寛之の『青春の門』は素晴らしいぞ。是非、読んで
みなさい」との助言を受けた。1970年の頃だったと
思う。誰かの結婚式の後の喫茶店での話だった。
その時、初めて五木寛之を知った。
早速、青春の門(筑豊編)を買って読んだ。この話の
始まりの部分。伊吹信介と牧織江が登場。
それから青春の門にはまり、
「筑豊篇」
「自立篇」
「放浪篇」
「堕落篇」
「望郷篇」
「再起篇」まで読んだような記憶がある。
その後も週刊ポストか何かに連載されていた。
政治・恋愛・貧しさ・人生など戦後生まれの
若者が直面する波乱万丈のストーリー。
その五木寛之がその後、親鸞聖人や浄土真宗
関係のお寺や関係団体などでの講演会を行っている
ことを知った。五木寛之は宗教に傾斜していったのかな?
などと思っていた。
大河の一滴は、60代半ば10年前の著作。60代半ばを
過ぎた五木寛之の人生論・人間観を分かりやすい言葉
話すように書かれている。読みやすい本だが、内容はかなり
深く広い。仏教の真髄を五木なりに語っているとも思える。
私たちの日頃の生き方、考え方に大いに参考になる。
中国の屈原の話。世の中の乱れ、不正を憎み、官職を
辞し国中を放浪している屈原。
それを聞いた漁師が、たった一人でもこうした清く正しい
道を歩むのですか?と、聞く。屈原は、「潔白なこの身に
世俗の汚れたちりを受けるくらいなら、この川の流れに
身を投じ魚の餌になったほうがましだ」と答える。漁師は
そのまま船ばたをたたいて、次のような歌を歌いながら
去っていったという。
滄浪の水が清らかに澄んだ時には、自分の冠の紐を
洗えばいい。
もし滄浪の水が濁った時は、自分の足を洗えばよい
★滄浪(そうろう)-長江最大の支流。漢江ともいう。
世の中の不正や汚れをただ嘆くだけではなく、その汚れ
不正のはびこった世の中でも何かできることをしたらどうなのか?
という問いかけの歌とも思える。
私のベトナムで行っている活動への批判もある。
1月末、読売新聞の医療功労賞を受賞した。このことを
昔からの友人に話すと「読売新聞じゃしょうがない」と言われた。
彼にとっては「超右翼の読売新聞の賞には価値はない」との
反応だった。確かに読売新聞は改憲を社是として主張している。
しかし、読者は1000万人と聞く。1月30日の読売新聞の
人欄にも紹介された。私の友人の意見では、右翼新聞の
読売に紹介され、その会社の賞を受賞しても意味のないこと、
と単純に私の受賞を切り捨てた。某革新政党の党員の方だ。
皇居に行って天皇・皇后に会ってきた、などとは毛頭いえない
雰囲気で、私が何か悪いことをしたような気にさえなってしまった。
改憲を主張し、右よりの主張をしている新聞の賞やその新聞に
掲載されること自体、反動的なことという反応だった。
この友人にとっては、自分の所属する某革新政党の新聞以外の
新聞は『商業新聞』となってしまうようだ。私がどんな活動で
どんな理由があって読売新聞が賞を与えたか、などは興味の
対象になっていない。確かに読売新聞は右よりの新聞かも
知れないが、1000万人の読者がいる。その読者に
私たちがベトナムで行っているボランティア活動を知ってもらう
ことは意義のあることだと私などは考えたのだが・・・・。
漁師のことば。きれいな川の水の時には、自分の大事なものを
洗い、川が汚れたら汚い自分の足でもあらったらどうなの?
との答えは、全て白黒をつける、自分の意見と違う意見には
耳も貸さないという態度を戒めているように思う。社会は色々な考え
の人たちで成り立っている。白とも黒ともつかない、「灰色」の
ことがたくさんある。寛容な気持ちで、様々な意見を
持っている人たちと交流し、共に生きることが大事なのではないか
と五木寛之は教えていると私は理解した。
青春の門から30年ほど経っているのだろうか?やはりそれ相応の
年齢を重ねた年輪の数が出ている五木の著作である。
一読の価値あり。古本屋で100円。
昼食。昨夜のJASSスタディーツアーの夕食会の残りご飯を
食べる。
昼寝1時間。
午後2時、ベトナム事務所へ。知り合いの先生から紹介された
とのことで東京の先生と医療関係の方がベトナム事務所を
訪問。2時間ほどベトナム事務所で話をする。
その後、お二人をお連れし「子どもの家」へ。
「子どもの家」の各施設を案内。午後5時半には子どもたちは
夕食を摂り始める。
午後6時過ぎ、「子どもの家」訪問を終え、日本料理店へ。
お二人と日本料理店を食べながら、日本の教育、政治、
社会などのことを話す。
N先生はわが会の岩辺さんや大谷さんの知り合い。
私の長男の高校の担任の先生と一緒に韓国問題の
研究をしているとのこと。
生ビールと吟醸酒を飲む。
お二人と話をしている最中、1ヶ月前に家出をして所在不明の
りー副店長から電話。ニー店長が出る。
その後、私も電話に出てリー君と話す。
今は「ダックラック省」の山にいるとのこと。アクセサリー作りの
仕事をしている、仕事は楽しいと言っていた。
日本料理店の皆がリー君が帰って来るのを待っているよ
と話すが返事はなかった。
ニー店長に自分の電話番号を教えていた。これで行方不明
の状態からは脱出できた。今後は、電話で連絡可能となる。
リー君は何を考えて日本料理店に電話をして来たのだろうか?
電話での感触では「タコ部屋」に入れられて重労働を
強制されているのではとの推測はそうでもないように
思えたが・・・・・。
リー君の電話に日本料理店の女の子たちは、大喜び。
リー君は日本料理店の子どもたちにも人気があったことが
窺える。早く帰ってくることを祈るのみである。
途中、ベトナム人2名、日本の大学のゼミのベトナムツアー
関係者6人が来店。
午後9時過ぎ、閉店。
新入り見習いのニーさんはすっかり日本料理店に馴染んだ
ようである。違和感なく仕事をしていた。
午後9時半、部屋に戻る。
2007年08月24日
JASSツアー・ナムドン山岳地帯カトゥー族との交流
晴天 1日中蒸し暑かった。
午前5時起床。
「大河の一滴」(五木寛之著)を読む。
午前7時朝食。フォー。
今年1月から今までどんな本を読んできたのか日記を
見ながら調べてみた。
●1月
現代ベトナムの政治と外交(中野亜里)
試された女たち(澤地久枝)
反骨のジャーナリスト(鎌田慧)
平家物語(3巻)(森村誠一)
●2月
細雪(谷崎潤一郎)
百人一首(鈴木日出男)
●3月
般若心経ー生きること(瀬戸内寂聴)
フリーズする脳(築山節)
●4月
山椒大夫・高瀬舟(森鴎外)
オーヘンリー短編集
●5月
漢字の起源(藤堂明保)
石の肺(佐伯一麦)
海も暮れきる(吉村昭)
ダライ・ラマ
●6月
近代の奈落(宮崎学)
もの食うひとびと(辺見庸)
ネオ階級社会を待望する人々(林信吾)
●7月
真景累ケ淵(三遊亭円朝)
松川事件(日向康)
恋文(荒木とよひさ・俵万智)
この時代に生きること、働くこと(中村佑・島本慈子)
小三冶名席(柳家小三冶)
仕事と人生(城山三郎)
突破者の母(宮崎学)
会津藩最後の家老(長谷川つとむ)
対談集気骨について(城山三郎)
落日燃ゆ(城山三郎)
指揮官たちの特攻(城山三郎)
労働ダンピング(中野麻美)
●8月
説教節を読む(水上勉)
放浪記(林芙美子)
31冊。月平均3・8冊。およそ1週間に1冊程度。
ベトナムにいると読みたい本が買えないのが最大の
難点。読書の時間は、最大の娯楽だ。
「読まねばならない」という読書は絶対にしたくない。
課題読書とか読書感想文を書くなどという形の
読書は一番嫌い。好きで楽しいから読んでいるという
読書だけにしたいものである。
今年前半は、亡くなった「城山三郎」の生き方、
思想に興味をもった。
午前8時から午前10時まで。
ボランティア貯金完了報告書の最終版を作成。
関係者の山西さん、渡辺さんに送付。
締め切りは8月31日。
午前10時、JASSスタディーツアーの皆さんと一緒に
バスでナムドン山岳地帯へ。バオミンさん、ソン君も
一緒。約1時間半でナムドンの中心街へ。午後12時。
日本料理店で作ってくれた「おにぎり弁当」で腹ごしらえ。
日本式お弁当がとても美味しく出来ている。
おにぎりを包む海苔は、別にあり、野菜、肉、たまご、
デザートがきちんと配置されている。味もバッチリ。
お弁当を教えてくれている仁枝さん・税田さん、そして
大塚さんに感謝。
午後1時半、ナムドン中心街を出発。
バスで30分。「HUONG GIANG村」に到着。
村の少し手前までしかバスは行けず、支援物資を
持って徒歩でフオンザン村へ。人口350人。
緑豊かな静かな村だった。
●支援物資を持って村まで歩く
村人の歓迎
村の長老が「笙の笛」(しょうのふえ)の演奏で歓迎してくれる。
たくさんの村人が集会場に集まっていた。
初めに村の共産党の責任者が歓迎の挨拶
続いてJASSスタディーツアーの森田団長の挨拶
カトゥー族の皆さんへラーメンなど支援物資の贈呈
村人の歓迎の会食会。バナナ、もち米のサトウキビ巻き、
焼き魚・・・・。
村人の歓迎の歌と踊り
歓迎会を見ている子どもたちの目は澄んでいた。
平日にも拘わらず、たくさんの村人が集まった。
日本側の歌
途中、外に出て子どもたちや村の皆さんと交流をする
最後に村の集会所に入り、お別れの行事。
村人の皆さんは「蛍の光」を歌って送ってくれた。
交流会の時、私のとなりに高齢の男性がいた。ひざに小さい
女の子を抱いていたので「お孫さんですか?」と聞いてみた。
『娘だ』と言う。バオミンさんの通訳を通して詳細を聞くと、
57歳の奥さんがいる。3人の子どももいる。男性は72歳。
しかし、この女の子は2番目の奥さん(30歳)との間の
子どもだとのこと。第1婦人も第2夫人も72歳の男性と
同居しているとのこと。ベトナムは一夫一妻制。
しかし、少数民族ではこうしたことが行われているのだ
と変な感心をしてしまう。その隣りの若い男性も
「第1婦人はあそこにいるよ、第2婦人はこっちだよ」
と教えてくれた。そいうことは、村では公認されていうのだ
と推測した。
●72歳のお父さんと5歳の娘さん
●30歳の奥さんと5歳の娘
30歳の奥さんと72歳の旦那が話をしているところを
57歳の奥さんがにこにこ見ているという不思議な図式を
見てしまう。一体、この第1婦人には「悋気」(りんき)など
いうことばはないのだろうか?
72歳の旦那の腕を見てみた。「青あざ」のいくつかでも
あるのかと思ったら、色が黒くて第1婦人のやきもち
青あざは見えなかった。
午後3時半過ぎ、交流を終え、帰宅。
午後5時半。フエ市内に到着。私はトンチンカンホテルに
戻り、夕食開始の午後6時半まで今日の日記をアップする。
午後6時半、日本料理店でお別れ夕食会。
JASSスタディーツアー10人と小山、バオミン、税田の参加で
お別れ晩餐会を行う。
●今日の飲み物
●今日のメニュー(コース)
●森田団長の乾杯の挨拶で晩餐会は始まる
●「子どもの家」の子どもたちが調理した日本料理に舌鼓。
晩餐会終了間際、参加者10人全員が感想を述べ合う。
・ベトナムに来てやさしい人間関係があった。心が落ち着いた。
・今まで「偏差値」が全てだと思っていたが、ベトナムツアー
3回の経験から人間が生きると言うことは、偏差値だけではない
素晴らしいものがあることを知った。
・「子どもの家」の子どもたちはとにかく明るかった。
・ベトナムの素晴らしい所が分かった。日本に帰ったら日本の
仲間に伝えて行きたい。
・初めて参加した。治安が悪い、環境が悪いと思っていた。
しかし、実際に来て見たらそんなことはなかった。
「子どもの家」は子どもたちの笑い顔に溢れていた。
・今回のスタディーツアーは多くの人の支援で出来た。
そのことに感謝している。
・ベトナムは良い国だ。始めてあって数時間で仲良くなれ
笑い会えるような仲になれた。
これからも他の国にも行って見たい。
・今年で3回目の参加。今までは緊張していた。
今年はファンソンナム中学校での交流など楽しもうと
という気持ちになれた。余裕が出てきた。
自分が今回のスタディーツアーに期待していた気持ちが
実現でき感謝している。
・今回で6回目のスタディーツアー。
1回目の参加者は7名だった。今回のスタディーツアーは
成功したと思う。
若い皆さんの期待したい。是非、ベトナムでの体験を
今後の生活・人生に生かしていって欲しいと。
・今回は病気で十分参加できなかった。皆さんの感想を
聞いて、スタディーツアーを主催して良かったと思う。
・今回は7泊9日のスタディーツアー。
是非、皆さんに考えて欲しい。ベトナムのスタディーツアーに
参加したいという皆さんの気持ちだけでは参加できなかった。
皆さんの参加に不安を持ちながらも認めてくれたご両親に
感謝して欲しい。
今回のスタディーツアーに協力してくれたバオミンさん、
税田さん、サンさんなどがいて初めてこのスタディーツアーの
成功があった。
午後8時半過ぎ、晩餐会は終了。
日本料理店で前で「子どもの家」の子どもたちと一緒に記念撮影
今回は5人の中学生、2人の高校生のスタディーツアー
だった。今晩の感想を聞いて、スタディーツアーをやって
良かったと思った。たった7人の若者ではあるが、
ベトナムでの生活の中で「人生とは何か?」を少し
感じてくれたような気がする。
森田団長、加藤事務局長、山田団員に感謝。
午後9時前の帰宅。
京滋YOUの会のFさん寄贈の「月の桂 にごり酒」を冷やして
飲む。美味。
2007年08月23日
JASSツアー子どもたちの実家を訪問:ウオータービジョン
晴天。快晴。午後、曇り。
午前4時起床。「放浪記」読了。
85年前の林芙美子の20歳~25歳の生活は
ストリートチルドレンと全く同じ。細かい文字で
500ページ。目が疲れた。この本を通読して一番感じる
ことは、林芙美子という人間の持っている不屈のエネルギー
と社会に対する強烈な批判精神である。貧しさから出てきた
この不屈の精神は、「子どもの家」の子どもたちにも
つながる心持と見た。
午前7時、朝食。ブンボー。
午前8時半。JASSスタディーツアーの皆さんのバスが
トンチンカンホテルまで来てくれた。皆さんと一緒に
「子どもの家」のユイ君とリーさんの実家を訪問し、
家庭の様子を勉強する。
初めにユイ君の家へ行く。家と言っても舟である。
ユイ君の父親は32歳、母親は34歳。子どもは5人。
ユイ君は長男。11歳。次女9歳。通学している。
次男7歳。未就学。三男5歳、次女3歳という
家族。川の砂取りをして月収7000円程度。
家族7人での生活は厳しい。
学校へ子どもを通わせることが大変な両親は長男のユイ君を
「子どもの家」に入れる。ユイ君は3年生。オール5の成績。
「子どもの家」に入り学校へ行ったら勉強が好きだった。
将来は医者になりたいという夢を持っている。素晴らしいことだ。
●ユイ君の父親と懇談するJASSスタディーツアー
●ユイ君家族6人が住んでいる舟。
ここには私が1993年10月に最初に作った「チーラン通り子どもの家」
で生活していたタイ君もいる。現在は結婚して7歳・5歳・2歳の
子どもがいる。
15歳頃はかなり「子どもの家」でも危なっかしい生活をしていたが、
結婚して今は落ち着き、川砂を取る仕事に従事している。
ユイ君の家庭訪問を終え、続いてAーさんの家庭を訪問。
Aーさんの家庭は複雑な家庭だ。
父親が奥さんのほかに女性を作り、子どもが出来、数年前に
両親が離婚。母親についた次女Aさんと長女Bさん(高校2年)は
80歳の祖母と一緒に4人で生活していた。しかし、生活が苦しく
母親の希望で長女と次女の二人を「子どもの家」に入所させた。
しかし、数ヶ月して長女は父親の家庭へ行ってしまう。
父親が再婚し子どもが出来た女性は、かなりお金のある
人だそうだ。長女はお金のある「リッチ」な生活に憧れ
父親と再婚した女性、その子どもが住む家庭に入る。
「子どもの家」ではそうした家庭にB子さん(17歳)が入っても
けしてうまく行かない。「子どもの家」にいなさいと説得を
重ねたが、長女Bさんは、「子どもの家」を家出してまで
父親の裕福な家へ行ってしまった。
これも今のフエの「小バブル」の実態を反映しているように
思えた。子どもたちも大人も「金・金・金」の世界である。
長女も「豊かさ」=「お金」の魅力に取り付かれ、
かな類複雑な父親の家庭へ入ってしまった。
今日は、次女A子どもさんの家へ。80歳の祖母が
一人でいた。母親は甲状腺の病気になりニャチャンの親戚
へ行き治療中とのこと。
80歳の祖母は「お歯黒」をしていた。かくしゃくとしたおばあちゃん。
庭で「ミット」「マンゴー」「パパイヤ」「レモン」
「胡椒」などを作って生活をしているという。1ヶ月2000円の収入
とのこと。
Aさんの実家の家の中に豚小屋があった。メス豚が一頭いた。
子どもを産ませて売り生活の足しにしているとのこと。
メス豚はイノシシのように大きかった。
台所には「五徳」とやかんと鍋があった。実に単純なものであった。
この台所をみれば、祖母がいかに質素な生活をしているかが
想像できる。フエ市内の「リッチ」を自称している一部の人たちは
数百万円の新車を購入し、1回50ドル(6000円)の昼食バイイング
を食べる生活をしている。昨日まで路上の一杯飲み屋で
怪しい蛇酒を飲んでいた「一時成金」が急に友達を連れて
5つ星ホテルのバーに行き1本数十ドルのワインを飲みだす、
などという漫画のような光景が繰り広げされている「小バブル」の
フエである。80歳の祖母の質素な生活とは好対照をなす。
多くの若者や大人が、新車を持ち、高級ホテルのバーで
高いワインを飲む生活に憧れている。かつて私たち日本も
通って来た道ではある。
Aさんは一人「子どもの家」で頑張っている。
長女Bさんもそのうち「子どもの家」に帰って来る可能性が高い。
私たちはいつでも受け入れる体勢を作っている。
Aさんの実家を出ると既に午前11時。
日本料理店へ行き昼食。
昼食は「天ざるそば」。昨日、盲腸の疑いで3本の点滴をした
Yさんも少し体調を持ち直し、日本へ帰国次第病院で再度の
受診検査をすることになっている。
数日前から日本料理店で研修をしているニーさんは
すっかり日本料理店にはまっていた。違和感なし。
午後11時過ぎ、部屋へ戻る。
昼寝。1時間。
午後2時過ぎ、バオミンさんから電話。午後2時半から
「子どもの家」に三島のNGO「ウオータービジョン」
が訪問するとの電話。急いで「子どもの家」へ行く。
午後2時半過ぎ、三島のウオータービジョンの松浦さんを
先頭に13人の方々が「子どもの家」を訪問。
●セン委員長の歓迎の挨拶
●子どもたちの歓迎の踊り
続いてウオータービジョン代表に松浦正美氏の挨拶
ウオータービジョンの出し物(楽器:トーンチャイム)の演奏
●最後にウオータビジョンより衣類、日本の玩具等の支援物資
の贈呈があった。
子どもたちと全員写真を撮る
午後5時過ぎ、交流を終えてホテルへ。
午後6時半。ウオータービジョンと日本料理店で交流夕食会。
私とサンさんが出席。
午後8時半、交流終了。
今日は1日暑かった。湿度も高かった。長い1日が終わった。
2007年08月22日
祝 孫誕生
今日、午後2時41分(日本時間)、次男に男の子が生まれた。
目出度いことである。2815gとのこと。
今日生まれた私の孫君。君は8月17日に生まれる
予定だったのだよ。今日まで6日間も長く、お母さんの
お腹の中にいましたね。お母さんは昨日緊急に入院し
今日、帝王切開というちょっと大変な手術をして君は
生まれて来ました。
良く、この世に生まれてきてくれましたね。ありがとう。
私も君の両親も家族も親戚もたくさんの人たちが君の
誕生を待っていました。私は君のお祖父ちゃんに当たる
人間ですが、君の誕生にただ「ありがとう」の一言を
言いたいのです。
お祖父ちゃんは1999年7月に「火炎樹の花」という
本を書きました。
その中にお祖父ちゃんが大好きな中島みゆきという歌手の
「誕生」という歌のことを書きました。
改めて君の誕生にあたり、「誕生」の歌詞を添えます。
・・・・・REMEMBER 生まれた時 だれでも言われた筈
耳を澄まして思い出して 最初に聞いた WELCOME
REMEMBER けれど もしも 思い出せないなら
私 いつでもあなたに言う 生まれてくれて WELCOME
REMEMBER 生まれたこと
REMEMBER 出逢ったこと
REMEMBER いっしょに生きてきたこと
そして 覚えていること
健康で幸せな人生を歩むことを祈るのみ。
君と会えるのは10月の初めになりますね。
その頃は、大分大きくなっているのでしょうね。
会えるのを楽しみにしています。
ーーーーー
晴天 蒸し暑い1日だった。
午前6時起床。
午前7時朝食。フォー。
午前中、ベトナム事務所でメール等の返信。
昼食。昨日の日本料理店の残りご飯。
午後12時から1時間昼寝。
読書「放浪記」、最終章。
午後2時半、バオミンさんから電話。
引率者のYさんが体調を崩し近くの病院に行く。
どうも盲腸の可能性あり。フエ中央病院で精密検査の
必要がある。ついては、今日午後2時半からの
JASS青少年教育ツアーの「夏祭り大会」に出て欲しい
とのこと。引き受ける。
午後3時過ぎ、JASSスタディーツアーの皆さんと
「子どもの家」へ。早速、夏祭り大会の準備。
●フルーツ水あめ用の「ミット」。
●クレープ作りの準備
●3時間半かけて100枚のクレープを焼く
●フルーツ水あめ用のフルーツを切る
「子どもの家」では税田さんが大学生の訪問者を案内していた。
午後5時半。夕食。「子どもの家」の子どもたちと一緒に。
午後7時半。夏祭り開始。
空にはきれいな「弓張り月」が。
●森田団長の挨拶
●クイズ大会
●クイズの景品のお菓子
●かき氷作り
●カキ氷を食べる
●クレープコーナー
●フルーツ水あめコーナー
夏祭り終了は午後9時前。
午後9時半、自宅へ戻る。
長い1日だった。
2007年08月21日
地域障害児父母の会に参加
晴天 午後曇り小雨、夕方太陽が出る。
午前6時半起床。昨夜、飲みすぎ。
午前7時、朝食。ブンボー。
午前8時半、バオミンさんと一緒に2箇所の「障害児父母の会」
に参加。ボランティア貯金で支援している地域父母の会である。
フエ市内25箇所の「地域診療所」に併設。毎月1回、障害児と
父母が集まり、お菓子を食べながら、リハビリや生活上の悩み
などを話し合う。
今日の父母の会では、病気になった時の医療費の問題が
出された。
ベトナムでは5歳以下の医療は無料である。
小学校に入学すると年間11万ドン(約1000円)の保険金を
かけると医療費は無料になる。(実際にはこの11万ドンが
出せない子どもたちもいる)
しかし、障害児父母の会に来ている子どもたちの多くは
障害があり、学校へ行けない。(就学猶予)
従って11万ドンの医療保険の対象とならない。
一般社会人並みの社会保険年額32万ドン(3000円)を
支払わないと医療費が無料にならない。
今日行った地区は、船上生活者や貧しい家庭が多い地区
である。シクロやオートバイ・自転車タクシーの運転手が
多い。月収3000円程度である。年額3000円の社会保険
をかけることは出来ない。多くの障害児父母の会の会員は
保険に入っていない。病気になった時に多額の医療費を
支払わなければならない。社会主義ベトナムの実態である。
2箇所の障害児父母の会では、この問題が出され、
JASSから社会保険費の掛け金を援助してもらいたい
との要望が出た。
午前8時半から2時間ちょっとかけて、2箇所の障害児父母の会を
回り、父母からの意見、希望、生活の実態などを見聞きした。
障害児父母の会が適正に運営されているかのチェックも行った。
それぞれの診療所長さんがきちんと管理し、運営を行っている
ことが良く分かった。
昼食。昨夜、森田さんたちと日本料理店で食べた日本料理の
残りを厨房主任のTHUYさんに頼み、お土産にしてもらって
いた。その時THUYさんは、『ご飯を冷蔵庫に入れると固くなり
ます」と注意してくれた、その通りになった。このお米は
JASS青少年教育の会スタディ-ツアーの団長、森田さんが
ホーチミン市の日本食材店で「ササニシキ」20キロを買い、
飛行機内を手持ちでフエまで持って来てくれたお米である。
冷蔵庫に入れた冷や飯ではあるが、そこはやはりササニシキ。
美味しい。暖める器具がないので致し方ない。
モヤシ炒め、小魚の甘辛唐辛子煮をおかずに昼食。
昼寝。1時間。
読書「放浪記」。大正時代、大正天皇を次のように書いている。
「・・・・おいたわしや、気は狂ったと言う陛下も、本当は天才なの
かも知れない。くるくるとお勅語をお巻きになって、眼鏡にして
臣下をご覧になったという伝説ごとだけれど、哀れな陛下よ。
あなたは哀しいばかりに天才です。」
戦前版の「放浪記」には、この部分は削除されていたのだろうが、
それにしても戦後と違い、「現人神」(あらひとがみ)であった
天皇をここまで書くということは生半可なことではなかったと
思う。ある種の開き直りと勇気、思想。
午後2時半過ぎ、「子どもの家」へ。
神奈川県青少年協会スタディーツアーが午後2時に「子どもの家」
に来ているはずなのだが、来ていない。
また、JASS青少年教育の会スタディ-ツアーが午後2時半に
「子どもの家」に来ているはずだが、これも来ていない。
私はてっきり、「自分が勘違いした」と思った。最近、この種の
出来事があるので自分自身に自信がない。
急いでJASSスタディーツアー担当のバオミンさんに電話するも
通じない。神奈川担当のサンさんの電話番号を知らない。
税田さんに連絡。「行っているはずだ」とのこと。
しばらく「子どもの家」で待つ。
暑い夏の午後、男子は階段に座り、会談。
また、勉強の好きな男子は、予習をしていた。9月から5年生に
なるチュン君。5年生の国語の教科書を音読していた。
隣りで3年生になるユイ君が聞いている。
二つのスタディーツアーが到着。
JASSスタディーツアーは、子どもたちとフエ市内を散策する
プログラム。
早速、子どもたちとフエ市内散歩にでかかる。
湿度と湿度が高く気分が悪くなる。立っているのが少しつらい。
神奈川県青少年協会スタディーツアーの皆さんは、「子どもの家」の
子どもたちとお別れの行事。こいのぼりにポスターカラーで手形を
つける。
午後5時前、一時帰宅。体がだるい。30分ほど横になる。
休み休みの仕事でないと体が持たない気がする。
今日の日記の一部を書き始める
午後6時半、JASSスタディーツアーの皆さん10人が
日本料理店で夕食交流。私、バオミンさんも参加。
JASSスタディーツアーの皆さんが日本料理店に到着。
森田団長の発声で乾杯。
今日のメニュー
●牛すじ煮込み
●空芯菜のニンニク炒め
●マカロニサラダ
●なすの煮びたし
今日から「子どもの家」のニーさんが日本料理店の実習に
やって来た。ニーさんは5月に中学を卒業し高校受験に
挑戦したが、残念ながら失敗。ミシン研修か日本料理店
で調理の研修をしたいと言っていた。今日から日本料理店
の厨房で調理の研修を始めた。日本料理店の厨房での
仕事に合ってくれるといいのだが・・・・・・?
午後2時半から午後9時までの仕事だったが、すっかり
日本料理店に馴染んでいた。
午後9時前、JASSスタディーツアーの夕食会が終了。
参加者全員で記念写真
その後、日本人スタッフ、子どもたちで後片付け。
全て終了した後、記念撮影。
長い1日だった。午前中は障害児父母の会、午後は「子どもの家」。
夜は日本料理店。高温と湿気の多い中での生活はかなり体に
堪える。
午後9時。帰宅。
帰宅後、人生の「儚さ(はかなさ)」を感じ、日本酒を飲む。
京都伏見「増田徳兵衛商店」の「月の桂 にごり酒」。
京都支援者の方からの差し入れ。
これが何とも不思議な日本酒である。例えると「ドンペリ」
(シャンペン)と同じ味。
麹が発酵し炭酸ガスが入っている。炭酸ガスによる舌への
刺激と甘さ、そして発酵臭。まさに日本版「ドンペリ」である。
舌を炭酸が刺激し甘く白濁している。口当たりが良く
いくらでも飲める。差し入れをしてくれた京都のFさんに
心から感謝。
発泡にごり酒を飲みながら、今後の人生を考える。
どうしても「あること」を成し遂げようとの気力が出てくる。
不思議なものである。
今日の朝日新聞インターネット版に『「安倍政権だらしない」
公明・太田代表、チクリ』との記事が載っていた。
「ばんそうこうを張ってみたりとか、色んなことがありました。
安倍政権がだらしないということは、皆さんの言う通りでありましょう」
公明党の太田代表は21日、同日告示された東京都日の出町議選の
街頭演説で、安倍政権をチクリと批判した。
「チクリ」の批判では駄目でしょうと言いたい。
あなたたちは、「福祉と平和の党」と言ってきたのです。
1980年に「社公合意」(自衛隊と安保を容認)から姿勢が
変わりました。現在はその延長上の到達点でもある。
今回の参議院選挙の結果を「ちくり」程度の批判・総括では
公明党・創価学会の未来はない。自公政権で福祉も平和も
かなぐり捨ててしまった。真っ当な創価学会員なら疑問に
思うのは当然。宗教だから疑問に思わないのなら、オウム真理教
と同じと言われても仕方がない。
2007年08月20日
JASSスタディーツアーフエ2日目:神奈川県青少年協会5日目
快晴 夕方曇り小雨
気温35度。湿度60%
午前5時起床。読書「大河の一滴」(五木寛之著:玄冬社)
「放浪記」をベトナム事務所に置いてきてしまった。
平行して読むことにした。古本屋で100円。
午前7時朝食。フォー。
Sさん、風邪気味。休息が必要。
午前8時半、ベトナム事務所へ。JASS青少年教育の会
スタディーツアーのメンバーがベトナム事務所を表敬訪問。
バオミン運営委員長以下、ベトナム事務所員が応対
午前8時45分、ベトナム事務所を出て、ファン・ソン・ナム中学
を訪問。この中学は「子どもの家」の子どもたちが通っている
中学。
今日は夏休みにも拘わらず校長先生、10人の先生方、
40人の生徒が歓迎・交流のため集まってくれた。
●歓迎の歌と踊り
●歓迎の横断幕
「ファンソンナム中学
歓迎・JASSの会員と生徒の皆様方」
●校長先生の歓迎の挨拶
JASS青少年教育の会は、中学生5人、高校生2人、引率3人。
ファンソンナム中学の生徒と交流。
初めはボールを日越生徒が顔に挟んで運ぶゲーム。
段々打ち解けて来た所で「綱引き大会」。盛り上がる。
日本側の生徒が「日本紹介」。自分の中学校などの写真を
紹介し、日本の景色、自分の日常生活などを紹介する。
日本の駄菓子をベトナムの生徒に食べてもらう。
酢昆布、ラムネ菓子・・・。
ベトナム側の「フエ紹介」。ベトナムの農民がかぶる「ノン」など
を紹介する。
最後に森田団長より校長先生に記念品の贈呈があり
交流を終える。交流は2時間ちょっと。
こうして日本の中高校生がアジアの若者と交流すること
自体に私は大きな意義を感じている。
日本の若者が「日本人はアジアの一員」との自覚を持って
欲しいとの強い期待を持っている。
その足で昼食。私、ミンさんが同行。
午後12時半、部屋に戻る。停電。昼寝休憩の1時間中停電が
続く。
午後2時半、「子どもの家」へ。「JASS青少年教育の会」と
「子どもの家」の子どもたちとの交流会。
●セン委員長の歓迎の挨拶
●「子どもの家」の子どもたちの歓迎の踊り
少数民族の踊り
●日本側出し物の「太鼓打ち」
「JASS青少年教育の会」は関東各地の中学校40校
から約300足の靴を寄付してもらい、今回のツアーに
合わせ「手持ち」でベトナムまで持ってきてくれた。
中学を卒業する3年生が使っていた「上履き」など。
「子どもの家」に贈呈する。
その後、バオミンさんの案内で「子どもの家」の各施設を
参観。
施設参観後、私の講演会。今、JASSがめざしている
もの。約1時間。
ーーーーーーー
神奈川県青少年協会スタディーツアーは、「子どもの家」の
食堂に絵を書くプログラムを行っていた。
18日(土)に食堂の壁を白く塗るボランティア活動を行っている。
今日はその上に油性ペンキで花の絵を書く。食堂を花畑に
するという企画。
午後7時半過ぎ、日本料理店でJASS青少年教育の会
森田さん・山田さんと会食。山田さんはフエについて体調を
崩し食事が出来ないでいた。日本料理店で食事をして
体調の回復を祈る。
2007年08月19日
地球の歩き方Ⅱ帰国:神奈川県青少年協会ツアー・ナムドン山岳地帯へ
晴天 午後曇り・風強い
1日の気候と気温の変化が大きい
午前6時起床。読書「放浪記」。
午前9時朝食。昨夜の日本料理店での残りを子どもたちが
お土産に包んでくれた。コロッケ、キャベツの千切り、トマト、
なすの煮びたし。日本料理店でもらったお米を1合炊く。
5勺のご飯ともらったおかずで朝食。
ある大きな問題について、JASS日本代表や関係者に
経過報告を書く。1時間ほどかかる。
14年のフエ滞在は、いつも「心無い日本人」からの
意地悪や攻撃との闘いでもあった。ストリートチルドレンや
貧しい子どもたち支援で苦労するのは何とも思わない。
子どもたちに関係ない日本人の名誉心か自己欲望か知らないが、
私たちのフエでの活動に関係ない日本人から攻撃されることには
耐えられない。これも「品格のある日本」の実情であるとすれば
正面から闘わなければならない。この14年間、この種の
無駄なエネルギーをどれほど使って来たことか?
日本人の品性がここまで落ちているのも情けないことである。
読書「放浪記」。大正時代、今から80数年前の21歳の
女性が自立したしっかりとして意識を持ち、フランス・ロシア文学、
絵画、音楽に造詣が深い。やはり林芙美子は非凡な人間で
あることがわかる。
尾道から東京に出てきた林芙美子は、根津や田端などに下宿する。
お金がなくかなり歩いている。上野広小路から根津まで。田端から
小石川など・・・。今の私の東京の生活圏内。懐かしい町名が
たくさん出てくる。60%程度読み進む。
更に林芙美子の「晩秋」「浮雲」なども読みたくなる。
この放浪記は古本屋で100円だった。本とは本当に安いものである。
昭和57年発行のため字が小さい。目が疲れる。
午後12時過ぎまで読書。
1時間ほど昼寝。外は真夏の太陽が燦燦と舗装道路を照らしている。
午後2時半まで読書「放浪記」。
数ヶ月前にトンチンカンホテルのNHK衛星放送が理由は不明だが
切られてしまった。
私が別のNHK衛星放送を入れている。この数日、この衛星放送から
もNHKが突然切られてしまった。理由は不明。
そのため、NHKのニュースが見られない。今日も「NHKのど自慢」
が見られないのは残念。終日、テレビは一切見ない。
午後2時45分、ズイタンホテルへ。地球の歩き方Ⅱの皆さんが
6日間の活動を終えて帰国。ホテルで見送り。
参加の皆さん、大きな事故もなく無事帰国することが出来て
安心した。成田・関空までの無事故を祈る。
23人の参加者はそれぞれ真面目な若者だった。
私は好印象をもった。
空は真っ黒な雨雲。風が強い。私は傘を持ってホテルへ来た。
いつ雨が降ってもおかしくない。
●ベトナム事務所の税田さんなどがフエ空港まで見送り
私はホテル前で見送る。
ホテル入り口には、本日のお客様として観光会社の名前が
書かれていた。「JASS観光」も貼ってあった。
バオミンさんはホーチミン市に「JASS青少年・教育の会ツアー」
を出迎に。ホーチミン市→ダナン→ホイアン→フエのスタディーツアー
を案内している。
ハンさんはお父さんが手術して看病中。
サンさん、ソンさんは神奈川県青少年協会スタディーツアーの
皆さんと一緒にナムドン山岳地帯へ。少数民族との交流へ。
●平尾団長より記念の時計贈呈
●スタディーツアー団員よりし支援物資の贈呈
●カトゥー族の皆さんの歓迎の民族伝統踊り
●スタディーツアー団員はそーらん節を披露する
●カトゥー族の皆さんとフォークダンスの「マイムマイム」を踊り
交流を深める。
●高床式のカトゥー族伝統家屋前で記念写真
●カトゥー族の子どもたちとすっかり友達になり、別れがつらい
途中で雨が降ってきた。高床式の家屋の下で交流は続く
午後4時半、税田さんから電話。神奈川県青少年協会ツアーが
現地での活動が長引き、フエへ戻るのが遅れるとのこと。
日本料理店での晩餐会は30分遅らせて午後6時半からに。
午後5時まで読書。
午後5時半、日本料理店へ。子どもたちは神奈川県ツアーの
夕食会の準備を済ませ、夕食を食べていた。
「つけめん」。ブン(米の細いうどん)を野菜たっぷりの
つけ汁に付けて食べる。私の好物の一つ。
午後6時半、神奈川県青少年協会スタディーツアーの皆さん(16人)
と日本料理店で交流。ベトナム事務所側は私、サンさん、ソンさん。
今日は日曜日だが子どもたちは午後2時半に日本料理店に出勤し、
今夜の夕食交流会の準備をした。
午後6時半。神奈川県青少年協会の皆さん来店。
乾杯。
私、サンさん、ソンさんと分かれて交流。
午後8時過ぎ、交流夕食会は終了。その後、ベトナム事務所3階の
刺繍みやげ物店でたくさんの刺繍を買って頂く。
午後8時40分、全て終了。
日本料理店の前で調理・接客の子どもたちと一緒に記念写真。
その後、若干の残務整理をして日本料理店を出る。
仁枝さんと一緒にトンチンカンホテルの着く。
このところ、NHK衛星放送が全く入らないので日本の出来事には
かなり疎くなった。
しかし、「防衛省」の無様な内紛は、見ていられないだけでなく
戦前の皇道派と統制派との対立、陸軍と海軍の対立といった
およそ国民には関係ないところでの派閥・人脈が絡んだ私的
対立の様相を呈している。しかし、その結果は日本国憲法の
根幹を揺るがす大きな問題を孕んでいる。
一つは守屋事務次官が『防衛大臣就任式に3回のお色直しを
し相当ずれている小池「防衛大臣」』の人事権に異議を唱え
従わなかったことである。日本国憲法の基本的な精神は
軍部に対する文民統制である。例え3回のお色直しをして
空気が読めないにしろ「文民」の「防衛大臣」の指示に真っ向から
異議を唱え、従わなかったことは、文民統制という、戦前の
軍部の独断専行を許した苦い経験から出来た原則を真正面から
踏みにじるものである。
制服組は、文民(国民に選ばれた政治家)の指示に従う
動く戦闘部隊だという原則である。
守屋事務次官(武官)の文民統制に反する行動を許したら、憲法の
文民統制という大原則は崩壊してしまう。
しかし、「美しい国」の安倍首相はこの問題もあいまいなまま
ずるずると解決を引き延ばしている。
同時に「防衛大臣」の器ではない小池ファッション大臣
の思い上がった独断的な人事権の専横にも大きな問題が
あった。安倍首相がこのような「KY](空気の読めない)
小池氏を「防衛大臣」にして人気取りに走ったところにも
安倍首相の優柔不断と無責任な態度がある。
小池氏は日本が核兵器を持つ権利があると言ってはばからない
タカ派である。小池・守屋の争いはどっちもどっちであるが、
国民から見ると「どっちもどっち」「内紛」などと言っていられない
深刻な問題を孕んでいるのである。
それは、満州事変を「不拡大」とした当時の内閣の方針に反して
現地の関東軍は独断専行で満州傀儡国家を作り上げて行った。
軍部・制服組は文民の統制に服さなかたことが、日本の
アジア・太平洋への侵略戦争の大きな原因の一つだったのである。
戦後、「自衛隊」への文民統制は厳しく律しられていた。
今回の「小池・守屋紛争」は結果的に「文民統制」を事実上
なし崩しに崩壊させていく可能性がある。
このまま行けばいつか「自衛隊が独走・暴走s」、主権者である
国民の代表である国会(政治家)を無視して行動することになり
かねない。
既にイラク派遣隊長だった佐藤氏
小池ファッション大臣と守屋エースコック次官の争いを
笑ってばかりはいられない今の日本である。
その総責任者は美しい国というわけの分からない主張を
掲げている安倍首相である。
と書いていたら、安倍首相が「美しい国」という言葉と
その内容を再検討しているようだ。参議院選挙後は
「美しい国」という言葉を使わないようになったそうだ。
結局、内容のないスローガンだったようだ。
以下、8月19日付け毎日新聞から。
<美しい国>参院選後、首相口にせず…生活密着型に修正へ
安倍晋三首相が参院選後、政権の看板に掲げていた「美しい国づくり」を口にしなくなった。選挙中から「何を言いたいのか分からない」などと評判が悪く、結果として自民党を惨敗に導いたためだ。首相は「美しい国」のスローガン自体は降ろさず、生活密着型の政策を加える修正で局面転換を図ろうとしている。
「美しい国」は、参院選を戦う自民候補からも「ばかにされた気がする」とまで酷評された。「生活が第一」と訴える民主党に対し、首相の訴える理念はあまりにも国民意識からずれているといういらだちでもあった。
首相が定義する「美しい国」は(1)文化、伝統を大切にする(2)自由な社会を基本とする(3)未来へ向かって成長するエネルギーを持つ(4)世界に信頼される――ような国(昨年9月の所信表明演説)。それを踏まえ、「教育再生」諸政策や憲法改正に向けた国民投票法制定などを手がけたが、多くは野党の反対を押し切って実現させた。
参院選で敗北しても、首相は「改革の方向性が否定されたとは思えない」と主張している。しかし、選挙結果は無視できず、自らの政治理念を通すためにも「美しい国」を生活型に修正する必要があると判断したようだ。政府の「美しい国づくりプロジェクト」担当の世耕弘成首相補佐官も「生活者の視点に立った美しい国とは何かを考えた軌道修正が必要だ」と指摘する。
現在、首相官邸で同プロジェクトに寄せられた約3500件の提言を参考に修正が検討されており、内閣改造時などに首相が表明する方向だ。【大貫智子】
最終更新:8月19日22時2分
2007年08月18日
日本料理店フエンさん母親13回忌:地球の歩き方Ⅱお別れ晩餐会
晴天
午前5時起床。
「放浪記」を読む。面白い。
大正10年~15年頃の日記を本にしたもの。
芙美子21歳位。85年ほど前。当時の庶民の生活が
細かく記されている。基本的には今日と変わらない庶民の
思いと生活である。
尾道高等女学校をアルバイトをしながら卒業し、文学の道を
知る。当時、高等女学校卒は社会的には知的エリート層に
入っていたそうだ。
放浪記を書いた頃の林芙美子の思想的底流は明らかに
アナーキーなものである。アナズムの影響を受けていたと
思われる。同時に芙美子は心の芯に破壊的なエネルギーを
持っている。このエネルギーが林芙美子の生きていく
力にもなっていた。カフェーの女給、郭入り口の飯屋、など
社会の最下層でもがき働く毎日。放浪記には食べ物の
記述が多い。豚カツが食べたい・・・・・・。
毎日が日銭の生活。食うや食わずの生活にありながら、
チエホフやロシア文学などをしっかりと読んでいる。
時間があれば、本を読み、読書が現実社会からの逃避
にも思えた。
随所に「物乞い」「浮浪児」が出てくる。芙美子に物乞いを
する。芙美子もその日の食費にこと欠く生活をしながら、
持っているお金をあげてしまう人間でもある。
今で言うキャバレーのホステスさんをする。ホステスさん仲間
との会話は、生きる人間の本質を突く。当時のホステスさんは
樺太の豊原からも来ていたことが分かる。
午前7時、朝食。ブンボー。
午前7時50分、地球の歩き方Ⅱの皆さんの泊まっている
ズイタン・ホテルへ。地球の歩き方Ⅱの皆さんと
県立グエンフエ高校の生徒の交流・ハイキング。
バスでフエ郊外の「ティエンアン山」(天安山」へ。
●地球の歩き方スタディーツアーの皆さん
●グエンフエ高校の生徒さん
ベトナム事務所の税田さんより諸注意。
●バスでティエンアン山へ
徒歩、ベトナム事務所へ。ボランティア貯金関連の仕事。
午前11時50分。石塚さん・仁枝さん・後藤さんと一緒に
日本料理店厨房で仕事をしているフエンさんのお母さんの
13回忌に行く。
自転車で15分ほど。王宮のお堀の中にある「違法住宅」。
家の入り口に13回忌の祭壇と供え物が用意されていた。
1993年9月1日、私はフエに来た。10月にチーラン「子どもの家」
を創設した。フエンさんの弟が入所してきた。その時、姉のフエンさん
を知った。父親が病弱で母親が死亡とのことだった。
弟を「子どもの家」に入所させ、姉のフエンさんと妹を在宅支援
という形で支援を始めた。その後、父親は悪性腫瘍のため胃の
手術をし入院。17歳の姉とフエンさん、妹の3人で生活
しながら、父親の入院・治療を支えていた。フエンさんの家庭に
入るお金は、フエンさんと妹への在宅支援金のみ。
1995年の秋。突然17歳の姉が服毒自殺。ロックさんからの
連絡でこのお堀の「掘っ立て小屋」へ来る。近くの仲間も
みんな貧乏。通夜と葬式を出すお金がなかった。
当時、フエ師範大学で日本語を教えていた渡辺和代さんと
一緒に駆けつけ、葬儀代の全額を出すことにした。
その後、フエンさんは紆余曲折があり日本料理店で働くことと
なった。妹は現在高校2年。在宅支援をしている。
お母さんの祭壇にお線香を手向ける。
日本料理店厨房主任のTHUYさんが料理の手伝いに来ていた。
今日の13回忌は、父親の考えで「お世話になったJASSの皆さん
を招待したい」とのことだった。日程も私たちの都合に合わせて
土曜日の今日となった。
ベトナム料理が出される。トリ・豚・牛・・・・。
暖かいビンビールも。感謝してご馳走を頂く。
父親は長期入院後退院。シクロの運転手を続けるといい、
私たちがシクロを1台購入寄付をした。その後、更に体調が
悪くなり、シクロの運転手が出来なくあり、家の隣に豚小屋を
作り、豚を育てて生計を一部を賄っている。
現在、一対の豚と7匹の子豚。子豚が生まれて6ヶ月ほど飼育
すると1頭70万ドン(6000円程度)で売れるとのこと。
7匹の子豚が生まれたばかり。母豚は1頭で隔離されていた。
大きく貫禄がある。どの世界でも母親強し。
別棟で父豚は7匹の子豚の世話をしていた。ベトナム版
「キーウイー・ハズバンド」。
2時間ほど、ご馳走になり退出。
部屋に戻り昼寝。
そのうち停電。エヤコンも全て消える。暑い。
午後6時半。地球の歩き方Ⅱの皆さんの最終日。
日本料理店でお別れ晩餐会。
税田さんに案内され23人の参加者(多くの女性は
新調したアオザイ着用)が来店。
子どもたちは、早くから今夜の晩餐会に準備をしていた。
税田さんの司会で会が始まる。
私の乾杯の音頭で晩餐会開会
会食。
牛すじ煮込み(鳥取徳岡さん仕込み)
空芯菜の炒め物
マカロニサラダ
コロッケとクシかつ
なすの煮びたし
ご飯・味噌汁
デザート
(ビール・ソフトドリンク飲み放題)
晩餐会の最後に今日の料理を作ったり、接客を担当した
子どもたちを紹介。
左からホンニー店長、トゥーイ厨房主任、チャン(厨房)グエット(接客)
どの子も10年前後「子どもの家」で生活している。
JASSの国際支援は人間を育ていることと説明。
参加者と接客担当のニーさん、グエットさん
午後9時過ぎお開きとなる。
その後、みんなで後片付け。
2007年08月17日
沖縄A先生案内
晴れ時々曇り・小雨
曇りだが湿度が高い。蒸し暑く常時頭が痛い。
午前5時起床。ボランティア貯金領収書作成。
日本への帰国の飛行機代。
午前7時朝食。フォー。
午前7時40分。タクシー到着。タクシーでフエ空港へ。
沖縄のA先生を出迎え。ほぼ定刻8時20分に飛行機が
着く。8月40分頃、機外へ。
A先生と会い、タクシーで直接「子どもの家」へ。
「子どもの家」では神奈川県青少年協会スタディーツアーの
皆さん(16人)と子どもたちとの文化交流中。
A先生も後ろで参観。既に「子どもの家」の子どもたちの
歌と踊りは終わっていた。
神奈川県青少年協会の皆さんが、歌の披露。
神奈川県青少年協会の皆さんの歌を聞く「子どもの家」の子どもたち
続いて、神奈川県青少年協会の「ソーラン節」。
神奈川県青少年協会から支援物資の贈呈
その後、神奈川県青少年協会の皆さんは税田真理子ベトナム
事務所員の案内で「子どもの家」の諸施設を参観した。
寮母さんの宿直室で2人の子どもたちが、「教育的懲戒処分」中。
午前中の勉強の時間に真面目に自習をしなかったということで
寮母さんに「教育的懲戒処分」を受ける。壁の前で1時間ひざまずく。
日本では直ぐに「児童虐待」との非難があがる。しかし、教育的な
範囲での子どもたちに対する懲戒は必要である。ベトナムでは
教師や寮母さんなど大人の子どもたちへの懲戒はしっかりと
機能している。子どもたちも寮母さんの指示に従い、1時間
自分の悪かったことを反省しつつ、壁の前でひざまずいていた。
午前9時45分~午前11時半まで講演会。
神奈川県青少年協会の皆さんと途中まで一緒に帰る。
午後12時から午後1時半まで昼寝。
読書「放浪記」(林芙美子著:新潮文庫)
林芙美子が日記に書いたことを出版した。戦時中は検閲に
引っかかることを恐れて出版の際書かなかったこともあった。
日記は3回にた渡り加筆されながら出版された。
初めの部分は林芙美子の生い立ちから出発している。
九州の木賃宿を転々とする家庭に生まれ12歳で仕事を
する。
午後2時半、バオミン・ホテルへ。A先生を案内して
午後の「子どもの家」へ。
「子どもの家」で子どもたちと折り紙で遊ぶ。
A先生は沖縄の小学校3年生の先生。
子どもたちはA先生と2時間半、折り紙で遊んだ。
午後5時半、夕食。
A先生と一緒に子どもたちも夕食を摂る。
教員になって2年目だという。A先生が子どもたちに視点を
おいた先生に成長してくれることを祈る。
午後6時過ぎ、自室へ帰る。
午後9時までかかり、ボランティア貯金完了報告書の最終版を作成。
2007年08月16日
ボランティア貯金関連資料・書類等作成
早朝雨。曇り のち 小雨
急に気温が下がる。
午前7時朝食。ブンボー。
午前9時、徒歩ベトナム事務所へ。雨。傘を差して。
ベトナム事務所でボランティア貯金関連の写真、
資料等を整理する。
沖縄のAさんから電話あり。明日、フエ訪問とのこと。
午前8時20分、私がフエ空港へ出迎えに行くことにした。
午後12時20分から1時間半昼寝。
ベトナム人に聞いても一度寝てしまうと、起きられないとにのこと。
午後1時半から読書。
「説教節を読む」(水上勉著:岩波書店)読了。
面白く、興味津々で読んだ。室町から昭和の戦前くらいまで
日本の各地を回っていた門付け説教。
落語・講談・浄瑠璃などの大元である。
この本は「5説教」と言われる5つの説教節の速記本を
水上勉が解説し、現地を実際にあるいて感じたことを
記している。
「信太妻」「をぐり」。
「をぐり」は小栗判官と言う名で聞いたことのある話だった。
説教節を読んで、その粗筋と意味が分かった。
忠臣蔵にまで影響を与えている。
人に物を話すと言うことの原点を見た思いがする。
午後3時。ボランティア貯金完了報告書の最終版を作成。
必要な添付写真を整理する。1万枚の写真から2006年7月
空007年6月までに撮った写真をピックアップする。
2時間かかる。
午後5時、バオミン・ホテルへ。
神奈川県青少年協会主催のスタディーツアーの皆さん17人
がバオミン・ホテルに無事到着。皆さん、元気溌剌。
神奈川県青少年協会スタディーツアー平尾団長さんとベトナム事務所員
(バオミンさん・税田さん・ソンさん)
午後5時半からあるベトナム人幹部と緊急に起こった問題について
懇談。バオミンさんと一緒に。地元のフエビールを飲む。
午後8時、懇談を終えて日本料理店へ。
バオミンさんと二人で飲みなおし。フダ生ボールを数杯飲む。
バオミンさんと生ビールを飲んでいると娘さんのアルファーちゃん
(4歳)がおばあちゃんと家に帰る所だった。
日本料理店に呼んで写真撮影。
今後の日本語学校・縫製研修工場・ベトナム事務所等の運営について
意見交換。午後9時過ぎ終了。
2007年08月15日
地球の歩き方ツアーⅡ講演会
晴天 夕方小雨
午前5時目覚めるが起きられず。
午前7時朝食。フォー。
午前8時、徒歩ベトナム事務所へ。
午前8時半、地球の歩き方ツアーⅡの皆さん23人が
ベトナム事務所へ。
バオミンさんの紹介でベトナム事務所員自己紹介。
2階ベトナム事務所、3階刺繍みやげ物店を視察。
午前9時。地球の歩き方ツアーⅡの皆さん、ハンさん、ソンさんと
一緒に「子どもの家」へ。
「子どもの家」で文化交流を行う。
セン委員長の歓迎の挨拶。
子どもたちの歓迎の歌と踊り。
地球の歩き方ツアーⅡの皆さんの歌。
子どもたちも夏休みのひと時、日本人との交流を楽しんでいた。
その後、ハンさんグループ、ソンさんグループに分かれて
「子どもの家」の施設を参観した。
●ハンさんの案内
●ソンさんの案内。ソンさんは「子どもの家」案内を事前に
日本語の文章にして覚えていた。うまく「子どもの家」を
説明していた。きちんと説明するよう努力しているところが
立派である。
30分ほど自由時間。23人の訪問者は子どもたちと
部屋で遊ぶ。
午前10時。講演会。
23人の皆さんにフエに来た事情、ボランティアとは、子どもたち
のおかれた様子、ドイモイの現状、14年間でたどり着いた地平
などについて話す。
講演後質疑応答。午前11時半、全て終了。
皆さん、ハンさん、ソンさんと一緒に「フォーサイゴン」へ行き、
「フォーサオ」(フォー炒め」を食べる。
午前12時過ぎ、部屋へ戻る。さすがに暑く、疲れる。やはり1時間半
話をするのは疲れる。
昼寝。1時間。熟睡する。目が覚めても直ぐには起きられなかった。
午後3時、徒歩ベトナム事務所へ。バオミンさん、ハンさん、税田さん
とボランティア貯金完了報告書、添付する財政報告書などについて
話し合う。
午後4時、バオミンさんと一緒にフエ市障害児医療センターへ。
ボランティア貯金のプロジェクトについて話し合う。
BUI所長、HIEN副所長、会計など事務職員2人と。
1時間ほど話し合い、「子どもの家」へ。
「子どもの家」で高校受験に失敗して進路が未定のNさんと会い、
今後の進路について話し合う。
子どもたちは夕食を摂っていた。
午後5時40分。夕食。
3日ぶりの日本料理店で子どもたち、日本人スタッフと一緒に
夕食を摂る。
午後6時半。日本料理店開店。
2時間たっても来客なし。子どもたちは気候のせいもあり
体がだるいと言って、厨房近くの部屋で横になっている。
立っているのがつらい気候。私も午後9時の閉店まで
日本料理店にいるのが、多少つらかった。
バオミンさんも体調を崩している。暑く・湿度が高い日が
続き、時々雨が降り気温が急降下する。また、急に
暑くなるという循環を繰り返して1ヶ月が経つ。
ベトナムに気候と生活に慣れてつもりではいても
やはり体にはきつい毎日である。フエ生まれの
バオミンさんや子どもたちも相当参っている昨今に
気象状況ではある。
午後9時。来客なしで閉店。
2007年08月14日
THINH君誕生会 :ある葬儀に参列
晴天
気温35度。 湿度55%(廊下)
午前6時起床。頭痛、倦怠。風邪の初期症状。
午前7時朝食。ブンボー。
午前中、ボランティア貯金完了報告書作成。添付する
航空券等の会計書類関係を整理する。
午前10時過ぎ、「子どもの家」へ。
今日はTHINH(ティン)君の12回目の誕生日。
里親の上原さんからの要望で誕生ケーキを
「子どもの家」の子どもたち全員に振舞い、THINH君の誕生
を祝った。
昼食前に食堂に子どもたちが集まり誕生会が始まった。
●THINH君の名前の入った誕生ケーキ
●はじめに12本のローソクに点火
●12本のローソクが赤々と燃える
●里親からの誕生プレゼント
「子どもの家」の子どもたちもTHINH君の誕生を祝う。
THINH君は12歳、中学1年生。
2004年8月15日に「子どもの家」へ入所してきた。
家庭の事情があり父親は不明。母親は現在42歳。
日雇い労働者をしている。母一人、子一人。
THINH君の12年の人生を考える。たった12年の短い
人生ではあるが、大きな波風が立ち、母親と離れて
たった一人で3年前に「子どもの家」に入所してきた。
「薄幸」という言葉がある。THINH君にも当てはまるのかも
知れない。
寂しかったことだろうと想像する。さみしさ、孤独と闘い
3年間。今はたくさんの友達も出来、「子どもの家」が
自分の「マイホーム」となっている。12歳にしては体が
あまりにも小さい。しかし、元気溌剌のTHINH君である。
これも里親の上原さんをはじめ多くの支援者、そして
「子どもの家」の寮母さんと62人の友達のお陰である。
人間は一人では生きられない。「子どもの家」は
様々な人生を抱えている子どもたちの集まる家庭である。
THINH君の幸せな人生を祈るのみである。
THINH君など様々な事情で「子どもの家」へ入所しなければ
ならない子どもたちとこうした形で付き合えることに感謝の
気持ちでいる今日この頃である。
午前10時の「子どもの家」。暑い。子どもたちは部屋で
寝て体を休めていた。
女子はトランプに興じ、男子は庭で雑談。3ヶ月の夏休みを
楽しんでいた。
改めて「子どもの家」の庭の木を見た。14年前は木などなかった。
10年ほど前に茨城県派遣の青年の翼の皆さんの記念植樹。
1メートルほどの細い苗木を植えた。今では2階の屋根を越えている。
この大木の下で子どもたちが遊んでいる様子を見て14年間の
様々な取り組み・出来事が走馬灯のように頭に浮かぶ。
「子どもの家」を卒業して行った子どもたちの顔が浮かんでくる。
昼寝。体がだるい。仕事をする気力が失せる。
フエ市人民委員会外務部副部長だったクンさんのお母さんが
亡くなった。84歳。
クンさんは、私がフエに来た時からJASSを支えてくれた
フエ市の共産党の幹部である。
午後4時。「子どもの家」でセン委員長、ロック寮長と合流し、
クンさんのお宅へ。
午後9時。急に冷たいヨーグルトが食べたくなり、買いに行く。
NHKテレビ「NHK特集」を見る。東京裁判で少数意見だった
インドのパール判事の特集。何故、パール判事は東京裁判で
全員無罪を主張したかを検証した番組。内容のある番組と見た。
「戦後レジームの解体」を主張する人々は、パール判事が
アジア・太平洋戦争を日本の防衛・西欧のアジア侵略に反対
いた正当な戦争と認めたと思っている節がある。
番組では、パール判事が、マハトマガンジーの反植民地・侵略に
反対する思想に共感していたこと、また、ヒンズー教のそうした組織
にも加入していたことが検証される。パール判事は、日本の
満州建国・南京虐殺など日本の侵略行為を厳しく批判している。
しかし、戦後に作られた「平和に対する罪」「人道に対する罪」で
裁くことは、法理論上できないという立場から無罪を主張。
イギリスのインド侵略・植民地支配に徹底して反対していた
パール判事にとっては、英米も同様に侵略者と見えたようだ。
また、戦後の日本国憲法を高く評価していたこと、憲法9条の
非暴力主義を世界の進む道と評価していたことも検証された
いる。
安倍首相がインドを訪問しパール判事の息子さんと懇談すると
言う。安倍首相は単純にパール判事が東条英機などA級戦犯
に罪はないと主張したとでも思っているのだろうか?
そうであれば単細胞な頭でしかない。東京裁判の主流派
判事の判決以上に日本の侵略、ヨーロッパの侵略を厳しく見て
いたのかも知れない。
2007年08月13日
宇都宮マルサ工場長案内
晴天
33度。 湿度60%。(夕方5時半の廊下)
朝起きたら頭痛・喉痛・倦怠感。風邪の症状。
午前7時朝食。フォー。食欲あり。
午前8時、ベトナム事務所へ。
午前8時半、縫製研修センターを支援してくれている宇都宮の
縫製会社マルサ(佐藤裕信社長)の松田工場長夫妻来訪。
1時間ほど、縫製研修センターやJASSの取り組みを話す。
マルサ佐藤社長より縫製研修センターへの支援金支給。
病気で日本へ治療帰国していた後藤先生が
元気に帰国。しばらくは体調に気をつけてとお願いする。
午前10時。ベトナム事務所を出て縫製研修センターを視察。
今後、マルサを中心に宇都宮縫製工業組合から縫製研修センター
の技術指導・経営指導を受けることになっている。
その後、「子どもの家」を訪問。セン委員長と懇談。
私が「子どもの家」の各施設を案内する。
午前11時半。トンチンカンホテルに戻る。
体調悪化。倦怠感、頭痛・喉痛が更に進行する。いよいよ
今週から10月はじめまで休みなしのスタディーツアー受け入れが
始まる。体調を崩す訳にはいかない。
ハンさんに頼み、ベトナム風邪薬を買ってきてもらう。
頭痛と倦怠感緩和の薬。15000ドン(110円)。
昼食。土曜日に買った「チャオバインカイン」(小麦粉の手打ちうどん)。
昼寝。2時間。
読書「説教節を読む」を読む。「信徳丸」。
河内の国、高安の信吉長者(氏を統括する人)の長男信徳丸。
13歳で四天王寺で舞を踊り人生の頂点を迎える。
その時、乙姫という違う長者の娘に一目ぼれ。ラブレターを
書く。乙姫は密かに信徳丸を夫と思う。
しかし、母親が「観音様は嘘つき」と言ったために、母親は急死。
長者は後妻をもらう。後妻に子供が生まれる。後妻は
先妻の子信徳丸が後取りにならないように京都各所の
お寺に136本の釘を生木を打ち、信徳丸が「異例」になるよう
呪詛する。信徳丸は、目が見えなくなり、人が顔を背けるよう
な顔になってしまう。父親は信徳丸を四天王寺に捨てるよう
指示し、捨ててしまう。室町・江戸時代頃の四天王寺は
貧しい家庭の子どもや障害児が捨てられた場所だったようだ。
四天王寺は聖徳太子が建てた寺である。四天王寺に捨てられ
れば、誰から助けてくれると思われていたようである。
信徳丸が盲人になり3つの病気を患い四天王寺に捨てられた
ことを知った乙姫は信徳丸を助けに四天王寺まで行き、観音様
にお祈りし、信徳丸の目が見えるようになる。信徳丸の父親は
後妻と次男の首を切って捨てさせた、というあらすじ。
説教節は社会の最底辺で生きていた庶民が泣いて笑い
仏教の有難さを知るという当時の最大の娯楽だったようである。
筋書きもかなり単純であり、苦しみ・苦しみ、耐えに耐えて、
最後は幸せになるという、実際の社会で苦しみぬいている
庶民にとっては、理想の最後・HAPPYENDとなる。
午後3時。マルサ工場長夫妻をフエ空港まで見送り。
バオミンさんと。飛行機の出発が遅れ、チェックインが
しばらくできず、空港内で待っていた。
午後4時半過ぎになってチェックイン開始。
午後5時過ぎにトンチンカンホテルに戻る。体調悪し。
ベトナム事務所に行き、体調が悪いので部屋で寝ている旨話し
帰宅。以後、休養。
洗濯。
バオミンさんや外務部員などの話だと、フエでは風邪が
流行っているとのこと。症状は頭痛・喉痛・倦怠感とのこと。
私の症状と同一。こんな場合は休むしかない。
2007年8月12日東京新聞社説は意義深い内容である。
以下、全文を紹介したい。ほぼ私見と同じ内容である。
『週のはじめに考える 権力の重さと怖さ』
参院選で権力者としての重い責任を問われた安倍晋三首相は、権力の怖さを発揮することでそれに応えました。その最終判定は最高権力者である国民の責任です。
安倍首相は参院選の最中も「美しい国」について抽象的な説明に終始しました。改憲を企図し果たせなかった祖父・岸信介元首相と自分を重ね合わせた発言はあっても、体系的な政治思想や理念が語られることはありませんでした。
それは、「美しい国」の形をどうするかについて、自分に白紙委任を求めたようなものです。
しかし、一九三三年、「全権委任法」をヒトラーに与えたドイツのような過ちを、日本の有権者は犯しませんでした。
意欲だけが先走る政権
この法律によりナチスは、当時、最も民主的といわれたワイマール憲法を棚上げし、ファシズムの道を突っ走ったのでした。
作家の堺屋太一さんは安倍内閣を「知識と能力に欠ける」と断じ、「政治家の知識と能力が欠け、意欲だけが先走るのは一番困った現象」(「文芸春秋」八月号)と嘆きました。選挙結果は同じ思いの人々の多さを示しているようにみえます。
国会運営や、閣僚の失言、「政治とカネ」、年金など噴出した問題への対応で、国民は予測される「美しい国」の姿に気づいてしまいました。
他の政治家や末端の公務員を悪者にして自分は逃れようとする無責任さ、民意を汲(く)み取れず対応が後手後手に回る無能ぶり、「私の内閣」や「首相指示」を乱発する権力意識の強さ…権力者の責任の重さ、それ故に求められる謙虚さを首相が自覚しているとは思えません。
目立つのは祖父に学んだかのような強引さです。選挙前の国会で相次いだ採決強行は、岸政権末期の一九六〇年、警官隊を導入して新しい日米安保条約の批准承認採決を強行した混乱に似ていました。
想起させる「声なき声」
選挙に惨敗しても「基本線は国民に理解されている」と強弁して政権に居座る姿も、数十万人のデモ隊に国会を包囲されながら「声なき声は自分を支持している」と言い放った岸元首相を想起させます。
大衆はナショナリズムの鼓吹で一時的な熱狂を見せても、本質を見破る目は持っています。
拉致問題に関する安倍首相の「毅然(きぜん)たる姿勢」で北朝鮮に対する優越感にしばし浸った人たちも、「戦後レジーム(体制)からの脱却」に危うさを感じるまでにそう時間はかからなかったのではないでしょうか。
日本は歴史上、少なくとも二度の大きな脱却を経験してきました。
明治維新は封建体制の国家から資本主義の近代国家に転換する脱却でした。それから八十年近く後、近隣諸国民と同胞に大きな犠牲を強いたすえに戦争に敗れた結果として、軍国主義を脱し民主国家として新生することができました。
いずれも、負の遺産を清算し過去を克服するために、それまでの体制と断絶したのです。未来を切り開くための、前を向いた変革でした。そうしてできたのが「戦後レジーム」であり、日本国憲法です。
日本の政治家なら、まずこの歴史認識からスタートしなければなりません。ところが、安倍首相が三度目の脱却として目指す「美しい国」には戦前回帰のニオイがします。
かつてと同じ愛国心押しつけになりかねない新教育基本法、「昔はよかった」式の議論で教育勅語の世界に戻そうとしているのではとさえ思わせる教育再生会議、新憲法制定…国民が求めているものとの間には大きな隔たりがあります。
十九世紀の資本主義をほうふつさせる格差拡大容認の政策は、富の分配に配慮しながら全体を底上げしてきた戦後日本の思想とは異質です。挑戦する機会さえ与えられず格差の淵(ふち)に沈んだ若者の目には、再チャレンジ政策が言葉遊びと映ります。
おまけに支持率が極端に下がってからの首相のあたふたぶりは、統治能力の欠如を露呈しました。
表面的には「政治とカネ」、年金問題ですが、根本的には歴史と現実に対する安倍首相の認識と統治能力が問われたといえましょう。
それでも政権を手放さないのは権力の怖さを物語ります。同時に、有権者が情緒や感性で政治的選択をすることの危険性も示しています。
近代日本を築いた指導者たちは、青い空に輝く雲を目指して坂を上りました。彼らには歴史の進歩への信頼と重い責任の自覚がありました。
いまは青空も光り輝く雲も容易には見えない時代ですが、坂道は逆戻りするのではなく、進歩を信じて上り続けたいものです。
不安や怒りを持続し
そのためには未来を政治家に一任するわけにはゆきません。
それだけに今度の参院選を一時の“祭り”や“禊(みそ)ぎ”に終わらせてはなりません。不安や怒りを持続しながら政治家と政治を厳しく監視し、コントロールしてゆくのは最終権力者である有権者の責任です。
朝青龍問題から見える異文化無理解国家日本
朝青龍が腰痛治療のため夏の巡業を辞退していたが、
内緒でモンゴルに帰国し、中田とサッカーをしていたことが
判明。日本相撲協会は、2場所出場停止と謹慎処分を
行った。朝青龍は「ノイローゼー」になり、自宅に閉じこもる毎日
とのこと。精神科医が何人か往診し、[急性ストレス障害」と
診断されたという。診断した医師の一人は、「包茎」専門医院の
医師で、「包茎専門医師が精神問題を診断できるのか?」
などと論議があらぬ方向へ向かってしまう一幕もあった。
8月11日には和田アキ子がニッポン放送「アッコのいいかげんに
1000回」で、朝青龍に対して「いい加減にしろよって感じ」と厳しく
批判した。「職場放棄してるんですよ。罰を受けて当然でしょ」と。
、「私が(説得をしに)マンションに行きたいよ。誰か場所を教えて」と
話したという。(インターネット検索による)
産経新聞は「朝青龍3つの非」と題する論文を掲載。
①朝青龍自身の自覚のなさ。
②高砂親方責任
③日本相撲協会の責任
私は今回の朝青龍問題の本質は、「異文化」についての
相互の理解がなかったことが最大の問題だと思っている。
この日記にも書いたが、ベトナムの結婚式に参加すると
1時間程度の開会遅れは「常識」である。また直ぐにカラオケ大会に
移行し、大音量の音声が流れる。私はベトナムに来て一番
嫌なのが「音」である。大音量は頭が痛くなるが、ベトナム人は
音には私から見て鈍感である。
日本料理店で子どもたちと一緒に食事をすれば、「立てひざ」で
「ビチャビチャ」音を立てながら食事をする。
こんな風に国が違えば「常識」も違うのである。これが「異文化」。
朝青龍は何も知らない日本に来て、『国技』の相撲に入門。
多分、朝青龍の人生からすれば、「強い」ことが一番良いこと
と思ったのではないかと思う。一般的に言えば、スポーツは
強かったり速かったりすることが評価の第一の対象となる。
日頃の生き方、生活態度などは問題にならない。オリンピックが
良い例である。試合で出た結果だけが評価の対象であり、
日頃の生き方や生活態度などは関係ない。
朝青龍は他の横綱不在の中何十回も優勝している。一人横綱で
頑張った。朝青龍としては、日本語も出来ない中で自分が
日本の相撲を支えたという自負があると思う。
朝青龍の20数回の優勝で相撲が支えられたことも事実である。
朝青龍からすれば、相撲で勝って、20数回の優勝をしたのだから
自分のすることにとやかく言われる筋合いはないと言いたい
のではないか。
オリンピックで優勝した人が日頃の態度がどうのこうのなどとは
言われないと言う気持ちを持っていたように思われる。
和田アキ子が「朝青龍にお説教をするから住所を教えろ」などと言って
いるのは物事の本質を全く理解していない、妄言としか思えない。
朝青龍に日本人社会から見て問題があったことは事実だが、
朝青龍に高砂親方が日本流の常識をしっかり教えていたのか?
朝青龍は今までも大分ひどいことをしている。しかし、日本相撲協会
は「国技」相撲を支えるために朝青龍を注意すらしていない。
何も注意をせず、国技の相撲についてしっかりとした指導すらしていない
高砂親方、日本相撲協会にこそ第一の非があるように思えてならない。
朝青龍はモンゴルの常識からすれば、何故日本人が怒っているのか
理解できないかもしれない。それは、私が大音量のカラオケは非常識と
言ってもベトナム人が理解出来ず、1時間遅れの結婚式が非常識と
言ってもベトナムでは常識である。朝青龍にしてみれば、
モンゴルでは常識なこと(強いことが最高に評価される)が何故
日本でこれほどまでに問題視されるのかが、分からないのかも
知れない。朝青龍が「急性ストレス障害」になるのも可哀想な
気もしなくもない。私は個人的には朝青龍は以前から「大嫌い」
であるが、今回の問題は馬鹿な高砂親方と無能な相撲協会に
こそ大きな問題と責任があるように思う。和田アキ子が文句を
言いたいのなら、朝青龍に言う前に高砂部屋に行き元朝汐に
文句を言い、相撲協会理事長の元北の湖に文句を言うべきである。
日本人は日本のものさし(常識)でこの問題を見ようとしているが、
異国の人間は違う物差しを持っていることを理解すべきである。
2007年08月12日
休日
晴天
気温32度。 湿度65%。
午前6時起床。
これまで7回連続日曜日仕事があった。約2ヶ月間、休みなく
仕事をしてきたような気がする。今日も仕事があったが休ませ
てもらった。
午前9時入浴。
午前10時から生ビールを飲む。この4日間「休肝日」だった。
4日間一切アルコール類を飲まずにいた。
私は時々、自分は「アル中かも?」と思うことがある。
時々、アルコールを一切絶ってみる。ああ、自分はアル中では
なかったと「一安心」する。「一安心」した後は、その反動で
かなり飲む。今日は大ジョッキ3杯。日本料理店の生ビールは
さすがに美味しい。どうせ飲むのなら生ビールを飲みたい。
4日前から今日の日曜日は「どんなおつまみで飲むのか?」を
夢想していた。
2日前に「するめのおつまみ」を作った。昨日は「玉ねぎとツナ・
マヨネーズ和え」「ニラのおひたし」を自分で作った。
昨夜、日本料理店主任THUYさんにお願いして「隠元の胡麻和え」
「人参・じゃが芋のキンピラ」「枝豆」「豚角煮」を作ってもらった。
●するめのしょうゆ漬け(味がしみてスルメの出汁が出ている)
ちょっと冷やした吟醸酒にもってこい。試行錯誤して自分好みに
作ったスルメしょうゆ漬け
●玉ねぎとツナ缶・マヨネーズの和え物
(30歳頃家庭訪問で出してくれた即席のおつまみ。
その後30年間、改良工夫を重ね、気に入ったおつまみに。
玉ねぎのシャキシャキ感をとツナとマヨネーズの味が微妙)
●きんぴら(ジャガイモと人参) 子どもたちが作る
ジャガイモと人参の歯ざわりがしっかりしている。
ごま油の香り付けあり。
●インゲンの胡麻和え(良く出来ている)子どもたちが作る
●ニラのお浸し(家の近くの中華屋でビールを頼んだら
付け出しでだしてくれた。シンプルだが美味しい)
午前10時15分、NHK[のど自慢」を見るながら飲む生ビールは
美味しい。
水上勉の「説教節を読む」を読んでいると「NHKのど自慢」は
日本人の「土の匂い」がする。説教節がまさに庶民の娯楽、
庶民の望んだ物語なら、NHKのど自慢は、各地の普通の
人間の生きた生態を見ることができる。説教節とNHKのど自慢
は私には同じように見えた。100年ほど前まで、説教節
を聞いてた日本人。今はNHKのど自慢に出演。
その後、3時間ほど昼寝。
後から税田さんもベトナム事務所へ。
トンチンカンホテルのインターネットがつながらないので
ベトナム事務所で仕事をするとのこと。本当にご苦労様。
午後3時。ボランティア貯金完了報告書を書く。90%ほど
書き上げる。まだ事実を確認していないいくつかの活動がある
ので、明日から実態を調べ記載する。
読書「説教節を読む」を読む。
「刈萱」(かるかや)。福岡の国主の刈萱道心が春の桜の
酒宴で、杯につぼみの花が落ちたのを見て、人生のはかなさを
感じ(ふるい桜の花から順番に散るものを、何故若い桜の
花が先に散るのか?)、21歳で出家。19歳の妻と3歳の娘と
妊娠7ヶ月の子供を置いて、高野山に出家していまう
物語。水上勉は、「家族崩壊物語」と言っている。
年頃になった息子と妻が高野山に父を訪ねていくが、
女人禁制のため、妻は山麓で待つうち死亡。
息子は途中で父親と会うが、父親は「刈萱道心は
死んでしまった」という。信仰の道を説く話なのだろうが
現代人は理解できないところがあるかもしれない。
午後9時、夕食。と言ってもブランチで飲んだおつまみの
残りを「一吟」(京都伏見 斉藤酒造 純米大吟醸)で
更に復習飲み。
吟醸酒に一番あうのは、やはり「するめのしょうゆ漬け」だ。
昔からから酒とスルメは一心同体。
8月1日 70歳で亡くなった阿久悠の舟歌を聞きながら
するめと吟醸酒を更に飲み続けるのである。
舟歌
作詞 阿久悠 作曲 浜圭介 唄 八代亜紀
昭和54年(1979)
お酒はぬるめの燗がいい
肴はあぶった イカでいい
女は無口な人がいい
灯(あかり)はぼんやり ともりゃいい
しみじみ飲めば しみじみと
想い出だけが 行き過ぎる
涙がポロリと こぼれたら
歌いだすのさ 舟歌を
沖の鴎に 深酒させてョ
いとしあの娘とョ 朝寝する
ダンチョネ
店には飾りが ないがいい
窓から港が 見えりゃいい
はやりの歌など なくていい
ときどき霧笛が 鳴ればいい
ほろほろ飲めば ほろほろと
心がすすり 泣いている
あの頃あの娘を 思ったら
歌いだすのさ 舟歌を
ぽつぽつ飲めば ポツポツと
未練が胸に 舞い戻る
夜更けたさびしく
歌いだすのさ 舟歌を
2007年08月11日
ベトナム事務所員会議
終日曇り。新しい台風の影響とのこと。午後小雨。 休肝日
午前6時起床。
午前7時朝食。ブンボー。
午前8時、徒歩、ベトナム事務所へ。
午前8時半、ベトナム事務所員会議。
今日から日本料理店の仁枝さんもベトナム事務所員会議に参加
することにした。仁枝さんは日本料理店へボランティアとして赴任。
トンチンカンホテル1階にあった日本料理店は、私が個人的に作った
もの。仁枝さんはその日本料理店にボランティアに来ていた。
今年の5月、日本料理店をベトナム事務所1階に移転し、
日本料理店そのものをベトナム事務所に寄贈した。
現在、日本料理店はJASSベトナム直営店となっている。
収益は全額ベトナム事務所のハンさんが管理し、子どもたちに
直接充当できるシステムになった。
日本料理店がベトナム事務所直営となった関係で、仁枝さんも
ベトナム事務所員となった。そんな経過を辿り、今日から
ベトナム事務所員会議に参加することとなった。
(ミン)今日から仁枝さんがベトナム事務所員として会議の
参加するようになった。皆さん、宜しくお願いいたします。
ベトナム事務所員になったということで、日本料理店だけ
でなく、今後はスタディーツアーのお世話もお願いする
こともあるので宜しく。
(仁枝)皆さん、宜しくお願いします。
(ソン)地球の歩き方ツアーⅠのお世話をした。
「京滋YOUの会」・「火焔樹の会」合同スタディーツアーの
お手伝いもした。
日本料理店の子どもたちに日本語を教えた。
(仁枝) 8月6日、「京滋YOUの会」・「火焔樹の会」に
夏祭りに参加。楽しかった。
日本料理店です。今週から豚肉が使えるようになった。
日本料理店はお客も増えてきた。最近は英語を使う
お客さんが急増。
来週からスタディーツアーの客さんも来るようになる。
10月初めまで日本料理店は大忙しの状態に入る。
皆さんのご協力をお願いしたい。宜しく。
(石塚)日本語学校。月~金(観光コース)。一般上級コース授業。
土曜日は「京滋YOUの会」などのツアーが日本語学校で
交流した。月曜日は「京滋YOUの会」などと一緒にナムドン
山岳地帯に行った。また、夏祭りに参加。
木・金は観光コースの中間テスト。大体出来たか?
(税田)「京滋YOUの会」・「火焔樹の会」ツアーに同行した。
水・金 日本語学校初級クラスの授業をした。
一昨日、仙台から来た日本人の方が刺繍を買ってくれた。
107ドルも。
「京滋YOUの会」などもたくさんの刺繍を買ってくれた。感謝。
(フーン)週3回の授業。観光コースの中間テスト。19人。
(ハン)「京滋YOUの会」たちとフールー小に行った。
JASS観光の仕事としてホテルやレストランの予約業務をした。
「京滋YOUの会」・「火焔樹の会」、地球の歩き方ツアーⅠ
の皆さんが総額730ドルもの刺繍を買ってくれた。ありがたい。
刺繍みやげ物店で働いている皆さんの生活費が出るようなった。
(サン)地球の歩き方ツアーⅠの案内。「京滋YOUの会」・「火焔樹の会」
の案内などをした。
JASS観光の責任者としての仕事。
(ミン)地球の歩き方ツアーⅠなどの出迎えに行った。
「京滋YOUの会」・「火焔樹の会」ツアーの案内。
フエ中央病院小児科に行き、ACCL・マブベの会の訪問日程
打ち合わせをした。
8月・9月一杯のスタディーツアーの日程調整をした。
いよいよ8月15日には、地球の歩き方ツアーⅡ、
神奈川県青少年協会ツアー、JASSスタディーツアーが
来る。皆さん、一致協力して訪問者の皆さんが喜んで
くれるような素晴らしいスタディーツアーにしましょう。
(小山)病気で一時帰国していたHさんが病気も良くなり、13日(月)
朝、フエに戻ってくる。Hさんの体調を見ながらの仕事となる
ので、Hさんの様子を見ながら仕事を進めて行きましょう。
9月開業予定だったアクセサリー研修センターの開業が
来年の2月に延期された。それまで研修準備等を進めたい。
(税田・フーン)日本語学校教師希望者について
午前10時、「子どもの家」へ。6月に高校受験をしたHさん(17歳)。
残念ながら高校受験に失敗。本人は浪人はしないという。
今日は、センさん、バオミンさんと一緒に今後の身の振り方を
相談した。私たちは、日本料理店の厨房で仕事をするよう勧めた。
Hさんは母親と二人。母親が家へ帰るように言っている。
田舎に帰り、ミシンの研修をし、田舎でミシンでオーダーメイド
の縫製屋をするように言われているとのこと。本人は、母親と
一緒に住みたいという。田舎でミシンの研修をするという。
センさん、バオミンさんとも相談し、母一人・子一人である。
母親が一緒に住みたいというのもうなづける、Hさんの希望通り
田舎へ帰り、ミシン研修をするように、ということになった。
午前11時。スーパーに行き、豆腐と「ツナ缶」を買う。
市場で小麦の手打ちうどんを買う。
昼食。小麦の手打ちうどん(チャオバインカイン)をゆでる。
午後12時半から昼寝。
午後1時半。読書。「説教節を読む」を読む。
午後2時半からボランティア貯金完了報告書を作成。
1年間の活動を総括。文章化する作業はそれなりに労力を
要する。
午後4時過ぎ、ベトナム事務所へ。
引き続き、ボランティア貯金完了報告書作成。
午後5時半、夕食。
骨付き豚の煮物、ゴーヤチャンプル、アヒルの卵焼き、
野菜スープ。
午後6時過ぎ、日本料理店開店。
今夜は、日本料理店前の人通りが極端に少ない。
事情は不明。
結局3時間開店し、来客なし。子どもたちもがっかり
していたが、商いは飽きない。こんな日もあるのだ。
2007年08月10日
ボランティア貯金完了報告書作成
午前中晴れ、午後曇り小雨。 休肝日
午前5時起床。体調チェック。
午前7時朝食。フォー。
午前8時半、徒歩でベトナム事務所へ。ベトナム事務所では、
ソンさんが先生になり日本料理店の子どもたちに日本語を
教えていた。
この場にリー(副店長)がいないのは、何とも寂しい。
どこで何をしているのだろうか? 日本料理店の子どもたちは
「直ぐに帰って来るよ」と言っているが・・・・・・・・。
ソンさんの教え方がをしばらく聞く。ベトナム語と日本語をうまく
使って子どもたちに教えている。子どもたちも日本料理店で
日本語がかなり実用的に使えるようになっている。
コツコツと勉強することが何よりも大事。
●子どもたちが使っているテキスト
午前11時まで「ボランティア貯金完了報告書」作成方針を
考える。
午前11時半、昼食。内田さん寄贈 そうめん。
午後12時過ぎから1時間ほど昼寝。
午後1時過ぎ読書。「説教節を読む」を読む。
「さんせう太夫」。中々残酷な結末。森鴎外の「山椒太夫」では
全て省いているが・・・・・。
安寿を殺し、厨子王を痛めつける山椒太夫。
厨子王が国守になり山椒太夫のところへ行く。
厨子王は、仕返しに山椒大夫の三男の三郎に父親を
土に埋めさせて、のこぎりで首を切らせる。
江戸時代の地方の庶民が望んだ結末なのだろう・・・。
午後2時半、徒歩でベトナム事務所へ。
引き続き、「ボランティア貯金完了報告書」作成業務。
バオミンさんと1年間の活動を振り返る。
午後5時半夕食。
トリのスープを取った「お頭付きだしがら」。「空芯菜のニンニク炒め」
「アヒルの玉子焼き」「トリと野菜スープ」。
午後6時半、日本料理店開店。開店と同時に3人の日本人が来店。
続いてベトナム人2人。
●お寿司(小)を運ぶ店長のホン・ニーさん
今日は以下の注文あり。
・寿司(小盛) 5ドル
・豚生姜焼き定食 5ドル
・カレーライス 3ドル
・浅漬け 1ドル
・みりん干し 1ドル
・きんぴら 1ドル
・豚角煮 3ドル
・味噌汁とご飯 1ドル
・かき揚げ 3ドル
・ししゃも 3ドル
・やきとり 5ドル
・生ビール大ジョッキ 2ドル
NHK衛星放送。日本は帰省ラッシュだという。こんなことばを
体験したのはもう既に20年以上前のことになってしまった。
すっかり忘れた言葉だ。東名高速の下り線は明日45キロの
渋滞とのこと。
2007年08月09日
長崎被爆62周年 ボランティア貯金完了報告書作成開始
晴天 休肝日
気温34度。湿度80%。
台風前の暑さに戻った。
日差しがまぶしい。昨夜、2時間毎に目が覚め熟睡できず。
午前6時半起床。
午前7時朝食。ブンボー。
午前8時半、徒歩、ベトナム事務所へ。徒歩で10分か15分。
1日2往復するので、大体1日40分から1時間程度歩いている
ことになる。こうしたことも毎日少しずつ飽きずに続けること
「継続は力」ということになる。10年後位に毎日の徒歩の威力が
どこかに出てくるのかもしれない。
午前9時、訪問者と懇談。7月1日、上原祥子さんが主催して
東京目黒で行った私の講演会を聞いてくれた方。
平和村での障害児リハビリ視察など・・・・・・。
午前9時過ぎ、NHK衛星放送で「長崎原爆慰霊記念式典」を見る。
被爆者代表の挨拶。原爆がいかに悲惨なものなのかを自らの
体験から具体的に話していた。間接的に久間暴言を批判していた。
田上長崎市長は、非核3原則を法制化するよう要求。
原爆投下を容認するかの様な発言があることを非難。
安倍首相の挨拶。本当に簡単な内容。官僚作成の文章を読んで
いた。「憲法の規定を遵守する」「非核3原則を堅持する」と言っていた。
長崎市長へのテロ殺人への厳しい糾弾が必要。
しかし、安倍首相は官房副長官時代の2002年、早稲田大での講演で
「核兵器使用は憲法上、問題ない」と発言している。また、首相就任後、
自民党の中川昭一政調会長らが唱えた核保有論議についても「政府や
党の機関としては議論しない。それ以外の議論は自由だから言論封鎖
することはできない」と「核兵器保有論議」を容認している。
久間発言についても、当初は「米国の考え方について紹介したと
承知している」と言って、問題視しない姿勢を取っていた。
これら一連の首相発言を見てみると、安倍首相が本心から核の
恐ろしさを知っているとはいえない。今日の式典で被爆者代表の
話した悲惨な被爆体験に真心から耳を傾けるべきである。
午前中、メールの受信・送信。
昼、そうめん。
昼寝。1時間。
読書「説教節を読む」(水上勉著)を読む。
説教節で語り継がれた「山椒太夫」(安寿と厨子王丸)
は、母親が売られて目をつぶされ、両手の筋肉を切られている。
安寿も厨子王も仕事しないと言って「焼きを切れられ」、眉間に
十文字の焼けた鉄で『十字』の印を付けられている。
口承で伝え、語られていた説教節「山椒太夫」は、かなりグロテスク
なエネルギーをもった話として語られていた。それは、語り部の
置かれた環境と庶民の求めるものでもあった。
この話の底流には、仏教の地蔵菩薩思想がある。
終日、ボランティア貯金完了報告書作成(2006年7月~
2007年6月)のための基礎資料を収集し、活動を細かに
調査し、記録する。
午後5時半、夕食。
餃子(子どもたちの手作り)。魚のニンニク・唐辛子煮。
キノコと油揚げの炒め物。野菜スープ。
今日の日本料理は餃子。大きすぎること、焼きすぎが問題。
味はまあまあ。こうして日本料理を常にチェックしないと
子どもたちは、学んだ日本料理の味から徐々にベトナム化
してしまう。
夕食終了後、日曜日のおつまみにする「するめ」を軽く焼いて、
少量のつゆの素、醤油、酒に漬け冷蔵庫に入れる。
2日後には美味しい酒のおつまみになっている。
午後6時半、日本料理店開店。
開店草々5人の韓国人が来店。天ぷら、お寿司、生ビール、
日本酒などを注文。
続いてオランダ人の家族4人。生ビール、日本酒(純米大吟醸)
天ぷら、お寿司・・・・・。
更に日本人。仙台から来られた方お二人。
韓国人ご夫妻。イタリア人、3人、スペイン人2人。
今日は合計18人の来客。それぞれの皆さんがかなり多種の・大量
の注文があり、厨房が間に合わない。接客係りの二人も注文を
取りきれない状態。
厨房はまさに戦争状態。それもで子どもたちは弱音を吐かず
最後まで頑張り、見事に18人の注文をしっかりと調理・配膳
した。
最後のイタリア人3人が帰ったのは、午後9時半を回っていたが、
子どもたちはたくさんのお客さんが来て「疲れたが楽しい」と
言っていた。
今夜、子どもたちが作った主な料理。
・生ビール(大ジョッキ)16杯
・日本酒(純米大吟醸) 4杯
・テンプラ盛り合わせ 5
・お寿司盛り合わせ 4
・テンプラそば 2
・テンプラうどん 1
・ざるそば 2
・ごぼうテンプラ 1
・野菜スティックみそ 2
・イカ 1
・焼きなす 1
・野菜の酢の物 1
・冷奴 2
・インゲンの胡麻和え 3
・ポテトフライ 1
・もりうどん 3
・みりん干し 1
・焼き鳥 1
★その他の料理もあったが割愛
これだけの料理を3人(一人はまだ2ヶ月)
で作れるようになったことは素晴らしいこと。
鳥取の徳岡さん、茨城の中村さん、
オアシスの会の大塚さんのご指導の賜物。
2007年08月08日
ボランティア完了報告書打ち合わせ・フエ中央病院小児科懇談
快晴・午後曇り 休肝日
気温30度。
台風が去ったのか、朝から強い日差しとなった。午後、曇り。
夕方、ベトナムで初めて虹を見た。
午前6時起床。
午前7時朝食、フォー。
内田さんから日本帰国の電話あり。無事帰国とのこと。
豊田旅行の豊田さんからメール。「京滋YOUの会」の
皆さんが無事帰国されたとのこと。
その後、藤井事務局長からのお礼のメールあり。
午前8時半、徒歩ベトナム事務所へ。
午前9時、バオミンさん、ハンさん、税田さんの4人で
2006年7月から2007年6月までのボランティア貯金交付金
で活動を行った「障害児医療」「障害児父母の会」の活動の
完了報告について打ち合わせ。
活動の完了報告書の作成は小山、会計報告書の全体は
ハンさん、細かい部分はバオミンさん、税田さんなどが
担当することになった。報告については、出来るだけ活動した
具体的な行動を写真などを添付して報告すること、全ての支出に
ついて領収書を添付することを再度確認した。8月中旬を目処に
完了報告書とそれに関する会計報告書の領収書関係を
終わらせることにした。午前11時半まで2時間半の打ち合わせ。
少々疲れる。
昼食はほか弁。野菜を食べる。
午後12時半から1時間、昼寝。
その後読書「説教節を読む」を読む。
私が説教節を知ったのは、30年ほど前だろうか?
最後の説教節の語り手だった「若松若太夫」が
私の住んでいる板橋区の都営住宅でひっそりと生活している
という記事を読んだ時である。
また、東京八王子に伝わる「八王子車人形」を
私の小学校の教え子が中学の文化祭で上演するよう
助言し、指導者を紹介したことなどである。
説教節は、ご女(ごぜ:盲目の女性の語り部)や漂泊する
社会の底辺で生活する人々が、「門付け」など、家々を
訪問し物語を語る庶民芸能である。
「説教節を語る」は福井県若狭で生まれ9歳までそこで
育った水上勉が子どもの頃体験した「説教節」を思い出しながら
「さんせう太夫」(山椒太夫)、「かるかや」「真徳丸」
「志信妻」「をぐり」などについいての思い出を語っている。
山椒太夫は明治期、森鴎外によって文章化されたが、
本来は漂泊の社会の底辺でうごめいていた人々が
村のお堂やお寺、家々で調子をつけ語ったかなり「グロテスク」
な語りの入った口伝の物語である。
私が説教節に興味を持ったのは、名古屋の祖父江しょう念師の
節談説教と浄土真宗の伝道師の「親鸞聖人一代記」を
テープで聞いたときであった。その頃は、落語・講談・浪曲など
の演芸に凝っていた30歳頃だったように思う。
節談説教を聴いた時の祖父江師の声は、上野のアメ横の
物売りの「だみ声」と全く同じものだった。
テープを聴いていくうちに話にドンドン取り込まれていく自分を
感じた。
親鸞聖人一代記は、佳境に入ると浄土真宗の信者さんたちの
「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」という声が聞こえてくる。
人に語るということは、相手の心の中にある「何か」に訴え
何かを揺り動かすことことだと言うことを知った。
説教節で全国を渡り歩いた漂泊の語り手たちの語った本当の
山椒太夫を途中まで読んだ。
これは、水上勉が資料として当時の語り手たちの台本を
調べ、その口実筆記のような文章なので多少読みにくい
ところがあるが、雰囲気をよくあらわしている。
水上勉の盲目の祖母は、説教節を聴きいつも最高に
盛り上がる場になると涙を流していたとのこと。
午後2時50分、バオミンさんと待ち合わせをし、「子どもの家」へ。
先日、日本料理店を訪ねて来たハインさんのお父さんが
「子どもの家」に来るという。
3時に来るといったが、中々やってこない。
「子どもの家」では気温の変化が大きいため、子どもたちは
午後3時過ぎでも昼寝をしていた。
同時に9月に中学3年生(日本の2年生)になる子どもたちが
数学の勉強をしていた。
「子どもの家」では、小学校低学年は寮母さんが教える。
小学校高学年は算数と国語を大学生ボランティアに実習も
兼ねて教えてもらっている。中学生は、数学(週2日)、物理(週2日)
英語(夜間週2日)の特別補習教室を行っている。先生は
学校の先生などを特別に雇っている。
それ以外に週2回、フエ芸大の先生を招請し絵画教室を行っている。
●寮母さんと算数の勉強をする9月小学校入学予定の子
●数学の勉強をする8年生。
30分ほど遅れてハインさんのお父さんが来る。
ハインさんの今後の生活や戸籍などの問題を話し合う。
お父さんは59歳。私と同年。フエ生まれ。両親はフオン川で
貝を採っていたそうだ。小学校3年までしか学校へは行っていない。
18歳で南ベトナム軍に徴兵さてベトナム戦争に参加。
陸軍の最低の地位(日本で言えば二等兵?)だったという。
6年間軍隊生活。1975年4月30日に戦争が終わったが
その前に南ベトナム軍を脱走したという。「解放」後、
1週間ほど「再教育キャンプ」に入れられたという。
その後は、自転車を使って「自転車タクシー」をし、シクロの運転手
となり今日に至っている。
妻を病気で亡くし、3人娘を抱え、次女のハインさんを「子どもの家」に
預けたと言っていた。
現在は51歳の女性と再婚し、二人で生活しているので、ハインさんが
戸籍を取り、身分証明書を手に入れてホーチミン市で仕事をすることは
全く問題がないという。シクロの収入は1日200円ほど。妻と二人で
生活していけるという。
ハインさんも戸籍を作り、IDカードが欲しい。IDカードがあれば、
ホーチミン市で化粧品販売店で仕事をしたいと言っていた。
セン委員長、ロック寮長も「そうした事情なら戸籍を作り、IDカードを
作った方が良い」との意見。
ロックさんがハインさんが「子どもの家」にいた際の書類を持ってくる。
「子どもの家」に6年間在籍し、戸籍があったことを証明する書類を
作り、ハインさんの父親に渡す。今後、父親が地元の公安に書類を
だし、更に省の公安でIDカードを発行してもらうという段取りになる。
1時間ほどで話が終わる。
その足でフエ中央病院小児科医長室へ。
フオン小児科医長などと9月12日からフエを訪問するACCL、
マブベの会の皆さんの日程調整を行った。
フエ中央病院院長懇談、小児科関係者懇談、ACCL関係の
医師・鍼灸師などの講演会、ベトナム中部小児がん父母の会
総会日程、フエの小児がんの家庭訪問日程・・・・を協議し、
日時を確定する。約1時間の懇談・打ち合わせ。
午後5時過ぎ、ベトナム事務所へ戻る。
午後5時半、子どもたち・仁枝さんと夕食。ミットのスープ、
茹で野菜、醤油卵、焼きそば。
午後7時半。盲目の母親の手を引いて、子どもが
日本料理店前に来る。母親が民謡なのだろうか?歌を歌う。
室町から江戸、昭和初期位までは全国を放浪していた
「説教節」に出てくるご女(ごぜ)など漂泊の人々。
日本料理店の前で盲目で歌を歌い何がしかのお金をもらう
母と娘。どこか共通するところがある。12000ドン(100円)
を娘さんに手渡す。
日本料理店の来客2人。
午後9時、日本料理店閉店。徒歩、帰宅。
今日は朝から3回の話し合いを行った。さすがに頭が
疲れる。夜になると頭を使うのが嫌になった。
2007年08月07日
「京滋YOUの会」・火焔樹の会合同スタディーツアー帰国
終日雨、後曇り。
気温30度。湿度80%。蒸し暑い。
午前6時半起床。昨夜、飲み過ぎ。
午前7時、朝食。ブンボー。
午前中、火焔樹日記を書く。
午前8時半、徒歩、ベトナム事務所へ。
午前9時半。内田さんの里子メンさんがホーチミン市
から帰り、ベトナム事務所へ挨拶。無事、ホーチミン市
から一人で帰って来てほっとする。内田さんは今夜
ホーチミン発成田便で帰国。火炎樹の会の皆さんと
同便かも知れない。内田さんにお礼と感謝。
午前10時半。「京滋YOUの会」・火焔樹の会の
皆さんがベトナム事務所へ。帰国の挨拶。
その後、ベトナム事務所3階の刺繍みやげ物店で
大量の手作り刺繍みやげ物を買ってくれる。感謝。
昼食、内田さん寄贈そうめん。ぎぼの糸。
午後12時半から1時間昼寝。気温30度、湿度80%。
蒸し暑く、体がだるくなる。
読書「説教節を読む」(水上勉著:岩波現代文庫)を読む。
午後3時、「京滋YOUの会」・火焔樹の会帰国。
バオミンさん・税田さんと一緒にフエ空港まで見送り。
コンピューター故障。発券できず。長時間、空港で
待たされる。
6日間のフエ滞在。JASSとしては二つの各地の会の
合同スタディーツアーは初めて。藤井志保子さん・
森島博さんをはじめ参加の皆さんに感謝。
3日間連続の日本料理店での反省会。
子どもたちへの「夏祭り」のプレゼント・・・・。
午後5時半、日本料理店へ戻り、子どもたち、税田さん
仁枝さん、石塚さんと夕食。子どもたちが「先生、ビール
飲みますか?」と聞くので「ハイ」と答え、5杯程の
ビールを飲む。昨日入れた新しい生ビール。美味しい。
疲れも重なり、眠くなり、しばらくベトナム事務所で
仮眠。最終的には、15人の来客あり。
やっと観光客が増大する時期となっていたようだ。
厨房の子どもたち(3人)と接客(2人)は、フル回転。
時々、接客の2人も厨房で料理作りを手伝っていた。
午後9時半、帰宅。
午前0時、携帯に無言電話あり。不気味。
2007年08月06日
「子どもの家」夏祭り
雨のち曇りのち雨
台風の影響で雨が続く。
気温30度。湿度85%。
午前5時起床。
午前7時朝食。フォー。
午前8時、NHK衛星放送。広島原爆式典を見る。
秋葉市長の挨拶は、内容のある現実的なものだった。
特に「平和憲法を守る」と断言したことは勇気と良識の発言。
安倍首相の挨拶を待っているうち、テレビが消えてしまった。
どんな挨拶をしたのだろうか。小泉首相は官僚の作った文章を
棒読みしていた。核廃絶にはあまり関心がない様子が窺えた。
午前8時半傘を差して徒歩ベトナム事務所へ。
土曜日の夕方、日本料理店に来た「子どもの家」に
居たハインさんがベトナム事務所に来る。
バオミンさんとこの間の事情、何をしたいのかを聞く。
ハインさんは、12年前に「子どもの家」ができた時6歳で入所。
6年間「子どもの家」に在籍。小学校を出て12歳の時に
「子どもの家」を家出。事情は、年上の男の子にいじめられ
たとのこと。(これは本人の言い分だが・・)
フエから30キロほどある「トゥアン・アン海岸」の家に帰る。
6年前、2001年の出来事である。私とミンさん、ロックさんが
ハインさんの家まで迎えに行ったことを覚えている。
ハインさんは、3歳の時母親を病気で亡くし、父親はシクロの
運転手。2歳年上の姉と4歳年下の妹の4人暮らし。
父親がシクロの運転手ということで4人はその日暮らしの
貧しい生活だった。「子どもの家」へ帰るようみんなで説得したが
頑として聞かない。仕方がないのでしばらく様子を見ようということ
になった。
ハインさんは当時12歳。日本で言えば小学校6年生。
「子どもの家」から30キロの道のりを歩いて家まで帰ったのである。
現在、ベトナム事務所員のソン君は当時「子どもの家」の生徒会長。
オートバイでハインさんの家まで行って「子どもの家」へ帰るよう
説得したそうだ。オートバイで1時間半かかったと言っている。
ハインさんは、家に帰って数日後に一人でバスに乗りホーチミン市
に行ったとのこと。以下、本人が今日話したことである。
ホーチミン市のバスターミナルに着き、バスを降りると男の人が
「君はこんなに小さくて何故、長距離バスに乗って来たのだ?」と
聞かれた。事情を話すと、自分は肉会社をやっているから助けてやる
と言われ、その男の人が肉を卸している「フォー屋」(ウドン屋)さん
を紹介してくれ、そこで働いていたとのこと。その後、
肉会社(会社の会計部長)のおじさん夫婦の家のメイドになり
掃除・食事作りなどをていた。学校は「子どもの家」で
小学校を卒業したきりである。その後、2年ほど前から
会計部長の紹介でお菓子販売の仕事を手伝っていると言っている。
現在は月給150万ドン(100ドル・12000円)。会計部長の
家に無料で住んでいるそうだ。
この6年間、一度も父親や兄弟に連絡をしたことはなかったと
言っている。この辺がどうも私としては納得できない所ではある。
2ヶ月前に突然フエに帰って父親に連絡をしたが、姉妹には
連絡していない。姉はアンクー市場で手伝いをしており、
市場関係者の家にいる。妹は祖母(母親の母親)の家住んでいる。
父親は一人で家にいる。ハインさんは突然2ヶ月前に
父親の家に戻り、現在は近くのレストランの手伝いをしている
と言う。
ハインさんは、身分証明書(IDカード:国民全員が常時携帯義務)
がないので作って欲しいとのこと。
6年前に家へ帰ったハインさん。結局、その家も出ていまい、
行方不明。
父親の希望で「子どもの家」の退所手続きをし、戸籍を父親の所
に移すことになり、「子どもの家」から戸籍を抜いた。
しかし、父親はハインさんの戸籍を自分の家にいれなかった。
現在、ハインさんは、「子どもの家」から戸籍が抜かれたが、
その後、どこにも入っていない。「戸籍が宙に浮いている」
状態である。
私が何故IDカードが欲しいの?と聞くと、ホーチミン市に帰り
違う仕事をしたい、と言う。今の肉会社会計部長のお菓子の仕事は
時間が長く、給料が安いので嫌だ。他の給料が高い仕事をしたい、
そのためにはIDカードがないと身分が証明できないと言う。
150万ドンの月給はけして安くはない、学校の先生の給料と同等。
更に肉会社会計部長さんの家に無料で泊めてもらい、
仕事まで世話をしてもらったのに、「その恩」を感じていない
ハインさんの発言も気にかかっている。1時間ほど話を聞き、
今日の午後3時に父親(シクロの運転手)を「子どもの家」に
呼んで更に話を聞くことになった。ロックさんにはIDカード作成に
必要な『「子どもの家」在籍証明書』を作っておくように電話をする。
昼食。内田さん差し入れのそうめん。
昼寝。1時間。
午後1時半から1時間読書。
「真景累ケ淵」を読み終える。464ページ。 97節。
この速記本が何日分の高座の噺だったかはわからないが、
推測では10回分程度の話のように思われる。
日数も足掛け2年。噺の中に昨年は体を壊し、途中噺を中止した、
という趣旨の部分があるので、かなりの日数を要している。
通し狂言とでもいうのだろうか、噺全体を読んで、これはけして
怪談話ではないと思った。一種の人生論。人間というものの
醜き部分、真っ当な部分を抉り出し、美醜併せ持つ人間だが、
それでもできるだけ真っ当に生きようと訴えているように
思えた。
この噺の現場は、茨城県の羽生村。この「累ケ淵」という題名は、
この噺の中にも出てくるのだが、「累ケ淵後日の怪談」というのが
最初の題名だったように、そもそも茨城県羽生村で「累さん」(かさね)
という人にまつわる怪談話があった。その累さんが殺され怪談話と
なって、羽生村の川が累さんの累をとって「累ケ淵」(かさねがふち)
という名前になっていた。
円朝は、みんなが知っている累(かさね)伝説、累怪談のその後を
テーマに話を創作したのが、「真景累ケ淵」である。
殺人の場面がいたってリアルに描かれている。全ての殺人には
いわく因縁がある。必然性のある殺人を繰り返し描き、その殺人に
よって更に人間の不思議な糸と結びつきで新たな殺人が起こる
という話の展開である。読後感。ストーリー、話の展開が非常に
巧みであり飽きない。現在の「お笑いブーム」の薄っぺらい内容に
比して、本当に練られた筋書きである。100年以上前の日本人
の話の上手さをつくずくと感ずる。歌舞伎や演劇でその一部を
取り上げ繰り返し上演されてきた。
今年の夏、「怪談」と言う題名で映画化され公開されている。
中田秀夫監督。歌舞伎俳優の尾上菊之助(新吉)と
女優の黒木瞳(豊志賀)主演。
午後2時半、京滋YOUの会・火炎樹の会の皆さんと「子どもの家」へ。
初めに税田さんの案内で「子どもの家」を各施設を参観した。
「子どもの家」の子どもたちは勉強したり遊んだりと
3ヶ月の夏休みを満喫していた。
午後3時、ハインさんの父親を待つがとうとう来なかった。
夏祭りの準備を始める。
今回は、「スーパーポールすくい」「ヨーヨーすくい」、
「ダーツ投げ」、「輪投げ」。そして「ソースせんべい」「お菓子・・」。
子どもたちと一緒に会場や各種催しの準備をする。
午後5時前までに夏祭りの準備を終わる。
午後5時、「子どもの家」の子どもたちと早めの夕食を楽しむ。
午後6時。「子どもの家」2階の音楽室で開会式。
今日は台風の影響で雨。本来なら庭で行うべき夏祭りだったが、
「子どもの家」の部屋を使うことになった。
火炎樹の会代表森島博さんから「夏祭り」の遊びの説明があった。
初めに参加者全員でジェンカを踊る。
★音楽室では・・・・・・・・
●スーパーボールすくい
●ヨーヨーつり
●お菓子と飲み物
★英語教室では「輪投げ」。
★日本語教室では・・・・・
●ダーツ投げ
●ソースせんべい
●夏祭りを楽しむスタッフ・子どもたち
●最近入所の姉・弟も始めての夏祭りを堪能していた
●里親と里子も久しぶりの再会
夏祭り大会の最後にみんなで「花火大会」を行う。
一人4本の花火を楽しむ。
今日は雨。湿度90%、気温30度。暑くて湿度も高い。
訪問者の中の一方は気分が悪くなり途中でホテルへ戻る。
私もとにかく体を動かすのが嫌になるほどだるかった。
それでも子どもたちは1年ぶりの夏祭りを満喫し、満足した
ようだった。8月中に行われる「JASS青少年教育の会」主催の
スタディーツアーではまた違う種類の夏祭りが行われる。
子どもたちは今から楽しみにしている。
午後8時過ぎに全ての日程を終了し、片づけを終わり「子どもの家」を
後にする。
そのまま日本料理店へ直行。今日の夏祭りの問題点や良かった
ことなどを深く反省する「夏祭り大反省会」を行う。
日本料理店の5人の子どもたちは夏祭りに参加できなかった。
今日も日本料理店は開店している。お客さんもあった。
夏祭りに参加できなかった日本料理店の子どもたち5人に
お菓子・その他のお土産を贈呈する。
かなり深い反省会を行う。反省会は午後11時半近くまで及ぶ。
2007年08月05日
シェフさんの娘さん結婚式・地球の歩き方Ⅰ帰国へ
終日雨。
気温32度。湿度90%(廊下)。午後10時も同様。
午前6時起床。
昨夜の日本料理店で残ったコロッケ、串揚げをお土産にもらった。
ご飯を炊いて朝食。
午前7時40分。内田さんと里子のメンさんがホーチミン市へ。
バオミンさんと一緒にフエ空港へ見送り。
台風が北部からフエの間に上陸する気配とのこと。
フォン川は氾濫寸前。上流で相当雨が降った模様。
午前8時半。フエ空港着。
内田さんとメンさんは二日間ホーチミン市に泊まり親交を暖める。
昨日15時間半かかってバンメトートから帰ってきた。
フエ着は午前1時半。今朝は6時には起きて出立の準備。
今回の内田さんのベトナム旅行は本当に大変だったと思う。
無事ホーチミン市に着き、しばらく疲れを取ってもらいたい。
内田さんは1995年から「子どもの家」やJASSを支援して
くれている。現在、JASSの会に来ている方では一番古い
支援者である。JASS創成期から今日までの紆余曲折・
毀誉褒貶の全てを知っている数少ない方である。
10数年間、夏のバーベキュー大会、冬のクリスマス会、
そして夏の海水浴か山への旅行などを寄贈してくれている。
何事もそうだが、思いついて一度行うのはある程度の努力で
出来るが「永続する」ことは、本当に大変なことである。感謝。
内田さんを見送り、バオミンさんとフエ市内へ戻る。
バオミンさんと税田さん・石塚さんは京滋YOUの会
火炎樹の会の皆さんと一緒にナムドン山岳地帯へ。
少数民族との交流へ。山での雨が心配。
私は部屋に戻り読書。「真景累ケ淵」の最終章を読む。
小説として読んでも今日に通ずる内容である。
人間の生き方などを考えさせられる。お化けの
話ではないと見た。
午前10時45分。タクシーで結婚式へ。
1993年、私が初めてフエにきて仕事をした「フエ師範大学」
の専属食堂のシェフさん(トゥアさん)の娘さんTHUYさんの
結婚式に招待された。
14年前、初めてフエに着た。フエ師範大学で日本語を
教えることになった。宿舎はフエ師範大学内にある外国人用
のゲストハウス。その前に外国人や大学の先生用の小さな
食堂があった。トゥアさんはその食堂のシュフさん。
私が「シェフさん」と名づけた。1日3回。シェフさんは私の
食事を作ってくれた。夕食になると私は地ビールのフダビール
を飲んだ。一人で飲んでいるので何となく寂しい。
「シェフさん一緒に飲もうよ」と声をかけた。夕食で飲んでいる
のは私一人。それから2年間、シェフさんとの付き合いが
続いた。日曜日になるとシェフさんは私をフエの庶民が行く
市場に連れていってくれた。当時、この種の市場に外国人
が行くことはない時代であった。
夕食時に一緒に毎晩飲んでいるいるうちに『身の上話』
になってくる。シェフさんは、ベトナム戦争中の南ベトナムの
2大銀行である「サイゴン銀行」と「フエ銀行」のフエ銀行
総裁の長男とのこと。フエ師範大学の前身であった
「フエ大学」(旧南ベトナム時代)を卒業している。
高校の先生をしていた。当時の南ベトナムのお金持ちの
坊ちゃんであり、フエ大学と言うベトナム有数の名門大学を
出たエリートでもあった。
戦争が終わった。南ベトナムが敗れ、ハノイから共産党がやって
来た。シェフさんの全ての財産は没収。高校の先生も解職。
仕事がなく、大学の食堂の調理人となっているとう事情である。
普段、食事を作っている時は大人しい親父さん(と言っても
私より少し年下だったが)である。夜、私の食事に付き合い、
ビールの本数を重ねていくうちに、シェフさんの『本音』が
語られることがあった。言いたい事は「俺の人生は
こんなものではない」ということに尽きる。
南ベトナム最大の銀行総裁の息子でありエリート大学を出ている
自分が「何故、こんな小さな食堂のシュフなどをしなければ
ならないのだ。戦争に負けたからだ。」と。
共産党への心の奥底にある憎しみを時々ちらっと出すことが
あった。ベトナム戦争中は運転手付きの自家用車に乗って
いたとのこと。ベトナム戦争中どのような地位にいたかは
別として、この戦争があったために人生を大きく変えてしまった、
変えられてしまった人間が私の回りにたくさんいる。
一人一人の人間にとってみれば、戦争が終わった後の
大きな社会の変化、その変化に翻弄される自分と家族の
人生。天国から地獄へなどとは言わないが、それに匹敵する
程の人生の変転があった人たちがたくさんいる。
今日結婚するTHUYさんは当時12歳だった。今は26歳に
なっている。日曜日など良くシュフさんは私を家に招待して
くれた。4畳半ほどのお世辞にも立派とは言えない長屋の
1室だった。
●入り口で新郎新婦・シェフさん夫妻と
結婚式の招待状はご前11時開会とあった。
午前11時前に到着。開会を待つがなかなか始まらない。
結局始まったのは、午前11時50分。50分間遅れた。
ベトナム時間とは言うが、待つ身になると意味のない
50分ではある。
●式場正面の飾り
新郎新婦入場。続いて新婦父親の挨拶。
今日の結婚式は新婦側主催。別途、新郎側主催の結婚式
も行う。今日の結婚式は新婦THUYさんの親戚・友人・知人
などが参加。
●新郎新婦から新郎両親へ花束贈呈。
その後、直ちにカラオケ大会に移行。料理が出始め、カラオケ大会は
延々と続く。ベトナム人の音に対する感覚は私たち日本人とは
かなり異なる。要するに大音量で音楽を聴くのが好きな民族。
15分ほどすると頭が痛くなるほど、とにかくうるさい。
新郎新婦が各テーブルを回り参会者に挨拶。
雨の中、披露宴は長く続く。参会者300人という大宴会であった。
シェフさん主催の大宴会を見て、ベトナムの社会の不均等な
「発展」状況を見た。
結婚式(披露宴)終了後、部屋で一休み。雨は続く。
読書「真景累ケ淵」。終わりに近づく。
午後3時前、地球の歩き方Ⅰの皆さんが帰国する。
ホテルまで見送りに行く。
サンJASS観光責任者・ソンさん、外務部員イックフアンさん
がフエ空港までのお世話をする。
全員で記念写真。
地球の歩き方Ⅰの皆さんがフエで体験した様々なこと、
人との出会いを人生に生かしてもらえればありがたい。
午後5時過ぎ、日本料理店へ。
午後6時から京滋YOUの会・火炎樹の会合同スタディーツアー
の晩餐会。私、バオミンさん・税田さん・仁枝さん・石塚さん・
サンさん・ソンさん・などが参加。
9人のスタディーツアーの皆さんと懇親。
初めにバオミンさんの挨拶。
火炎樹の会代表森島博氏より参加者からベトナム事務所への
支援品贈呈。
続いて藤井志保子京滋YOUの会事務局長の乾杯の音頭。
午後9時半まで懇談は続く。
明日の「子どもの家」での夏祭りに参加できない日本料理店の
子どもたちと交流。
日本料理店の子どもたちが歌を歌う。
日本側はみんなで「花」(喜納昌吉とチャンプルズ)を歌う。
みんなで「カエルの夜回り」を歌いジェスチャーをする。
時刻も午後9時半を過ぎる。みんなで「三本締め」をする。
最後に火炎樹の会代表の森島博氏の閉会の挨拶で
京滋YOUの会・火炎樹の会合同スタディーツアーの
日本料理店での晩餐会はお開きとなった。
今日は内田さん見送り、結婚式参加、地球の歩き方見送り、
京滋YOUの会・火炎樹の会晩餐会参加と色々な人々と
出会った日曜日であった。
2007年08月04日
「京滋YOUの会」・「火焔樹の会」合同スタディーツアー出迎え迎え
豪雨 肌寒い。
気温30度。湿度80%。(廊下)
昨夜半からの雨。午前中、豪雨。南部に台風が接近中とのこと。
午前6時起床。
午前7時朝食。ブンボー。
午前7時45分、トンチンカンホテル前で待ち合わせをし、
バオミンさん・税田さんと一緒にフエ空港へ。
「京滋YOUの会」・「火焔樹の会」合同スタディーツアーの
皆さんの出迎え。空港は雨。
予定の8時20分を遅れて到着。総勢9名。
京滋YOUの会は京都・滋賀を中心に関西地方で活動する
JASSの会。
1995年に『ベトナムの「子どもの家」を支える京都の会』
として発足。その後、変遷を経て京滋YOUの会となり
今日に至る。
火炎樹の会のは、10年ほど前に旧ベトナム事務所を
訪問した水戸弁護士会の後藤直樹先生がJASS支援を開始。
平行して茨城県が主催し茨城県の若者を海外に派遣し
国際性を涵養するするとの趣旨で「青年の翼」事業が行われ
「子どもの家」を茨城の若者が訪問。
後藤弁護士とその仲間の方々と茨城県主催の『』青年の翼』
グループがドッキングし、結成されたのが火炎樹の会。
今回、JASSでは始めての各地の会が合同で行うスタディーツアー
を行うことになった。
皆さんと一緒にバオミン・ホテルへ。
●車中で自己紹介するバオミン・JASSベトナム運営委員長
●車中自己紹介。税田さん。
皆さんは、その足で「子どもの家」へ。
私は岩辺泰吏さんの教え子大久保さんの
お母さんがフエに来られたのでお会いし、歓談。
その後、豪雨の中、電動バイクで「子どもの家」へ。
「京滋YOUの会」・「火焔樹の会」の皆さん、
子どもたちとの交流。
大久保さんたちは、サンさんの案内で「子どもの家」を視察
その後、昼食を共にする。
午後12時過ぎ、部屋へ戻る。
昼寝。午後1時半まで。
読書「真景累ケ淵」を読む。
段々、話に引き込まれていく。100年ちょっと前の
話とは思えないリアリティーがある。口実筆記の
ため、更に現実味の話となっている。
今の落語家より、工夫と話の「仕込み」がしっかりとしている。
瞬間芸ではない本物の芸。
午後5時、ベトナム事務所へ。
税田さんから電話があり、バオミン・ホテルで火焔樹の会の
森島さんたちが、「子どもの家」で行う『夏祭り大会』用の
お菓子を地元茨城で寄贈してもらい持って来てくれたとのこと。
早速、バオミン・ホテルへ行く。
午後6時半。地球の歩き方Ⅰ班(7人)のお別れ晩餐会。
日本料理店にて。
バオミンさん・税田さん・石塚さん・私が参加。初めに
バオミンさんが挨拶・乾杯。その後、午後9時まで交流。
●晩餐会の「パパイヤサラダ」
●晩餐会「串揚げ」
今日はお客さんが多数来店。合計32人。更に来店あり。
申し訳ないがお断りする。
地球の歩き方の皆さんと来店のデンマークの人との交流もあり。
午後8時半頃、京滋YOUの会・火炎樹の会の皆さんも来店。
厨房は3人。一人は仕事についてまだ数ヶ月。
接客2人という少数精鋭(?)。5人の子どもたちで30数人の
お客さんへの対応をした。子どもたちもかなり経験と体験、
力をつけてきたものと思う。子どもたちは午後9時半過ぎ、仕事を
終わり帰宅。
その後、京滋YOUの会・火炎樹の会の皆さんと交流が続く。
帰宅午後11時近く。
バンメトートに行っている内田さんたち。
深夜午前1時半、バオミン・ホテルに到着。
バンメトートから車で15時間半かかってフエへ戻って来た。
昨日バンメトートで足止めをくらった。今日バンメトートから
飛行機が出るか不明。
明日は午前9時にフエ発の飛行機でホーチミン市へ行く切符を
持っている。どうしても今日中にフエに戻らなければならない。
信用できないベトナム航空。車で15時間半という強行軍で
フエに帰らなければならないベトナムの現状である。
全て「自己防衛」「自己責任」の世界である。
今日は1日、朝から夜遅くまでの活動が続く。
2007年08月03日
縫製研修センターに工業用ミシンを搬入
晴天 午後曇り
午前6時起床。
午前7時朝食。フォー。
午前9時、ベトナム事務所前。サンJASS観光責任者とソン
ベトナム事務所員が今から地球の歩き方ツアーの皆さんと行く
ナムドン山岳地帯少数民族の皆さんへの支援物資を運んで
いた。
午前10時、縫製研修センターへ。
既に縫製研修センターは、完成を見ている。今回、50台の
中古工業用ミシン(宇都宮縫製工業組合寄贈)を縫製研修センター
に搬入した。午前中は、搬入。午後、配置することになった。
ご前11時。バオミンさん、税田さんとODA報告書などについて
懇談。
昼食。内田さんから頂いたそうめん。
昼寝。1時間半。
読書「真景累ケ淵」。
午後4時、再度縫製研修センターへ。
センター2階に50台の工業用縫製ミシンを配置した。
中古ミシンなのでまだほこりをかぶっている。今後掃除と
調整が必要である。
これから様々な打ち合わせ、段取りをして2008年初頭
から縫製研修を始める計画ではあるが、段取りがなかなか
付かない所もある。
今後、宇都宮縫製工業組合と十分打ち合わせをしていきたい。
縫製研修センターの隣に出来た「アクセサリー研修センター」
も9月からの操業を待っている。
午後5時。「子どもの家」へ。私がフエに来て3週間近くになるが、
気温は毎日35度~40度。湿度も50%~70%である。
暑く湿度も高いため体がだるい。極端に言えば「生きているだけ」
でも大変な気候である。
「子どもの家」でも暑く・だるいので部屋で横になっている
子どもたちが多い。
午後5時半。ベトナム事務所3階の刺繍みやげ物店に
地球の歩き方ツアーの皆さんが刺繍を買いに来てくれる。
サンさん、ソンさんと一緒にナムドン山岳少数民族訪問交流を
終わり帰る途中に寄ってくれた。ハンさんも帰宅を遅らせて
刺繍販売を行う。
午後5時50分。夕食。今夜のメニューは「ハンバーグ」「空芯菜の
ニンニク炒め」「野菜スープ」、「カブのニンニク・唐辛子漬け」。
出来るだけ毎回の夕食に日本料理を出すようにしている。
日本人が食べて、味は落ちていないか、ベトナム風になっていないか
を常にチェックすることにしている。鳥取の徳岡さん、茨城の中村さん、
そして大塚さんたちが教えてくれた日本料理の味を維持したい。
●ハンバーグの盛り付けをする新人調理人チャンさん
●ハンバーグを作る厨房主任のTHUY(トゥーイ)さん
●程度に焼けたハンバーグ・ステーキ
●今夜の夕食
●ハンバーグステーキ
午後7時。日本料理店の前に立っていると女の子が自転車に乗って
前を通る。自転車に乗りながら私の顔を見ている。誰だろう?
私の前を通り越して止まる。私の所に来る。
「子どもの家」が出来た時、5歳で入所した「HANH(ハイン)さん」だった。
6年ほど前にホーチミン市にいる知り合いに引き取られた。
日本料理店で話を聞く。19歳になるという。ホーチミン市から
フエに戻ってきたが、身分証明書(IDカード)がないので困っている
という。6日(月)に再度来るよう話す。何か事情がありそうだ。
バオミンさんと事情を聞き、出来る支援はしてやろうと思っている。
本日の来客。7人。
日本人1人。スイス人4人。フランス人2人。
午後9時過ぎ閉店。
「京滋YOUの会」・「火焔樹の会」合同ツアーの皆さんが
ホーチミン市に到着したとの連絡。明朝、フエ空港へ。
バンメトートに行っている内田さん。午後6時にダナンへ着く
予定だった。バオミンさんが出迎えに行ったが、予定の
時刻に到着しない。ベトナム航空からは何の連絡もない。
到着予定を2時間過ぎても理由不明で飛行機が来ない。
午後8時過ぎ、ダナンへ出迎えに行っているバオミンさん
から電話。ベトナム航空が「バンメトートからダナンへの飛行機は
飛行中止となった」との掲示がでたとのこと。
最近、バンベトート便は2回も乗客が少なく飛行を取りやめている。
本来は午後6時に到着し、午後8時過ぎにフエに帰る予定だった
バオミンさんは、午後8時40分ダナンを出て、午後11時に
フエに着くことになってしまった。内田さんは、明日の午後5時過ぎ
までバンメトートにいなければならない。無駄な時間を使う。
フエから出迎えの車を明日、再度派遣する。
2007年08月02日
火炎樹日記5周年記念を一人祝う
火炎樹日記を書き始めて満5年になる。早いものである。
2002年8月2日に第1回目を書いた。
この5年間、基本的には毎日火炎樹日記を書いてきたつもり
である。病気・海外滞在(フエ以外)中でパソコンが使えない時を
除き、できるだけ毎日書いてきた。基本的にはJASS活動・
海外ボランティアの何でもない日常を書きたかった。
戦争中の砲弾の下を掻い潜っての人道支援などという立派なもの
ではないが、毎日の淡々とした海外ボランティアの実情を多くの
読者に知ってもらいたいというのが、本当の気持ちである。
実際の海外ボランティアはけして派手な活動ではない。
地道な反復、様々な地元の政治勢力などとの軋轢などとの
闘い、妥協などを何とか潜り抜けて活動しているのである。
そうした地道な海外ボランティアの実情がこうした火炎樹日記
という形で報告され、日本人のほんの一部の方でも良いから
知って頂ければ幸いである。
第2に日本の政治についての憂いを何度も書いてきた。
政治は私たちの日常生活に直結する。戦前のように政府に
騙された、軍部に騙された、などという国民にはなりたくない。
騙されたなどと人のせいにするのは、卑怯だ。騙されないように
しっかりと政治の実情を見ていく目を持ちたいものである。
第3に私が読んだ本を紹介してきた。これは、若い人に
読書の大切さ、本を読むことで得られる知識の多さなどを
知って欲しいと言う気持ちが少しある。後は、私の趣味で
読んでいる本の紹介だけだが・・・。
それでも火炎樹日記を書くためには、毎日2時間程度の
時間は使っている。これも趣味の範囲ではあるが。
それでも何事も「継続」は一つの力になると思っている。
5年間の継続は、アクセス数25万2千を超えている。
少なくともこの5年間に25万2千回以上のクリックが
火炎樹日記にあったということである。
時々、私も知らない方から火炎樹日記の感想が届くことが
ある。有難い限りである。
私の悪文・読みづらい文書を読んで頂いた方々に
心からお礼申し上げたい。時々、メールに入る皆様の
感想が火炎樹日記を書く原動力・励ましになった。
これからも出来る範囲で火炎樹日記を継続して
行きたいとは思っている。いつまで続くのかは分からないが。
感想などは以下のメールへ。
koyamavn@dng.vnn.vn
以下、第1回目の火炎樹日記である。2002年8月2日付け
-------------------------------------------------------------------------------
2002年8月2日(金)
8月1日午後4時、成田からホーチミン市のタンソンニャット空港へ到着。
1992年8月、初めてベトナム・ホーチミン市を訪れて丁度10年が経過した。あれから10年。あっとう間でもあり、長かったような気もする。10年前のタンソンニャット空港の入管は、エアコンもない掘っ立て小屋のような所だった。入管の手続きで2時間待たされ、スーツケースを手に入れるのに1時間。汗だくの入管を覚えている。
それから10年。タンソンニャット空港の入管はエアコン完備。エスカレーターもつき、入管業務もかなり迅速になってきた。
今はベトナムブームなのだろうか、入管の部屋は満杯状態。結局入管手続きに1時間かかってしまったが、税関は本当に簡単になった。
空港を出て客引きをしているタクシーをつかまえる。「どこまで?」と聞かれ「オムニサイゴンホテル」と答えると「5ドル」との返事。既に何回も泊まっているので1ドル~1、5ドル程度の運賃であることを知っている。
ベトナム語で「ダッ・クアー」と言うと、苦笑いをしてタクシーのメーターを倒す。毎回の儀式のようなやり取りである。年間に10回程度はホーチミン市に来ているがどうしても好きになれない町である。
活気があるという人もいるが、私にはただ「うるさい」だけの町である。これは、フエ市に住む以前であるなら「活気のある」「人間が生き生き活動している町」と私も思えたであろう。それほど、フエの町に住んでしまうと、ホーチミン市がただ「うるさく・雑然」とした町のように思えてならない。
40日ぶりにフエの町に戻った。何か落ち着いてしまう。これは、多分、「住めば都」というのであろう。
12時にトンチンカンホテルに着く。トンチンカンホテルは、私が付けた適当な名前であるが、いまやこのミニホテルの通称となっている。
既に7年間も私の食事を作ってくれているフオンさんが、私の大好物の「チャオバンカン」(小麦粉で作ったフエ風煮こみうどん)を作って待ってくれている。
食事をして自室に入る。早速パソコンを立ち上げメールをチェック。40日間で864通のメールが入っているのに驚く。平均1日20通のメールが来ている。結局、864通のメールを全て受信するのに2時間かかる。
午後2時、静岡市国際交流協会スタディーツアーが「子どもの家」での数日間の活動を終え帰国する。フエ空港まで見送り。高校生、大学生10数名の参加。皆さん、「子どもの家」やグエンフエ高校生との交流で多くのものを学んだようだ。帰りの空港には、グエンフエ高校生3人もみ送りに来ている。ベトナムの高校生との別れを惜しみ、涙を流している静岡の高校生もいた。
午後4時からベトナム事務所で、8月中の「子どもの家」やベトナム事務所訪問者の日程などの打ち合わせを行う。8月一杯、ほとんど休みなくベトナム事務所等への訪問者への対応がある。
私が不在だった40日間の「子どもの家」やベトナム事務所の抱えている問題などの報告を福田もえ子事務所長代理から受ける。午後6時から夕食。福田もえ子、西山優子(日本語教師)と3人で。午後7時から862通の受信メールへの返事を書く。勿論全ての返事を書くことは出来ないが、最低必要な返事を出す。その後、この日記を書く。就寝は午後11時過ぎ。
フエ帰国初日の午後から夜の活動はこんな所である。
============================
晴天
午前中、気温36度。
午後10時、気温32度。湿度65%。
午前6時起床。血圧測定・・・・。入浴。
午前7時朝食。ブンボー。豚肉が入っていた。
当局の承認印があれば、豚肉も安全とのこと。
午前8時半、ベトナム事務所。バオミンさん、税田さん
とJASS観光、8月9月スタディーツアーの計画、
日本料理店、日本語学校など当面するいつくかの
問題を話し合う。
午前11時半、昼食。ほか弁。
午後12時過ぎ昼寝。1時間。
その後読書「真景累ケ淵」。
午後2時、トンチンカンホテルの隣りのズイタンホテルへ。
地球の歩き方Ⅰ班の皆さんが「シクロ」(ベトナム風人力車)
に乗って「子どもの家」へ行く。ハンさん、ソンさんが案内。
●ホテルに集合
●一人1台のシクロに乗って「子どもの家」へ
シクロの運転手さんも日銭の世界。こうしてシクロに乗ることで
運転手さんと家族の生活を支える。
午後4時半。「子どもの家」へ。地球の歩き方の皆さんは
市場へ買い物へ行き、夕食を子どもたちと一緒に作って
いた。ハンさん、ソン君が案内。
●空芯菜とゴマの炒め物
その後、地球の歩き方の皆さんは子どもたちと遊びで交流。
午後5時半、子どもたちとt地球の歩き方の皆さんが作った夕食
を食べる。
夕食後、再度子どもたちと交流。
午後6時、日本料理店へ帰る。生ビール担当のグエットさんから
「今日、新しい生ビールを入れた。味がちゃんとしているかどうか
確認して欲しい」との『素晴らしい提案』があった。
喜んでフダビールの生ビールの試飲をする。試飲を続けている
うちに合計10杯の試飲を行う。間違いなく、日本料理店の
フダ生ビールは美味しいことを確認。今日は、火炎樹日記開始
5周年記念日。一人で記念日を祝う。
午後10時まで合計10人の来客。
ヨーロッパ系4人。日本人3人。韓国1人。アメリカ2人。
午後10時日本料理店閉店。
「子どもの家」のターオさん(同名)二人が、5人の日本料理店
店員を迎えに来た。
2007年08月01日
地球の歩き方ツアーⅠ 始動
晴天
気温36度。湿度60%。(トンチンカンホテル廊下)
夜9時半になっても気温33度、湿度65%が続く。
午前5時起床。日記を書く。
午前6時、入浴。
午前7時、朝食。フォー。日本に病気治療のため一時帰国した
Hさんがいないので、4人の朝食。
体調の悪いNさんに状況を聞く。今日、1日休むようにする。
午前7時40分。徒歩、ベトナム事務所へ。
午前8時過ぎ、地球の歩き方ツアーⅠ班(8人)がベトナム事務所
訪問。事情があり、一人の方は仕事の関係で急遽帰国することに
なり、その手続き等をバオミンさんと行う。
ベトナム事務所を訪問した7人の地球の歩き方ツアー参加者と
1階日本料理店で対面。ベトナム事務所員が自己紹介。
その後、3階の刺繍みやげ物店を案内。
午前9時、ハンさん、ソン君、私の3人で小型バスで「子どもの家」
まで案内する。外は猛暑。
「子どもの家」2階音楽室で交流会。「子どもの家」の子どもたち
40人の歓迎を受ける。
●初めにセン「子どもの家」委員長の歓迎の挨拶。
続いて子どもたちの歓迎の歌と踊り。
初めに子どもたちの踊り。ベトナム少数民族パコー族の
踊りを披露。ベトナム戦争の時、解放戦線を支援した
パコー族の様子を踊りで表現。米を作り、食べ物を
解放戦線に供給したパコー族の戦果を現している。
続いて「楽しい学校」をHIEUさんが歌う。
いつも楽しい学校。友達や先生がいる楽しい学校。
学校を離れてもいつも先生や友達のことを思い出す。
次に「焚き火を囲んで」という踊り。
これもベトナム戦争で解放戦線がジャングルに入り
焚き火を囲んで踊ったり歌ったりという楽しいひと時を
過ごした・・・・。こんな内容の踊りである。サンバ風の
軽快な曲に乗って踊る。
今度は地球の歩き方ツアーⅠ班(7人)の出し物。
リコーダー伴奏で「大きな栗の木下で」を歌う。
続いて、子どもたちと一緒に歌い踊る。
1時間程の交流会を終わり、ハンさんが「子どもの家」の
各施設などを案内する。私は子どもたちの様子を見たり
子どもたちと話をする。
チュン君と姉のターオさん。姉のターオさん(グエンフエ高校2年)
が1時間以上も弟に勉強を教えていた。
まだ、ベトナム(フエ)でもこうした兄弟関係がしっかりと
残っていることを改めて知った。金金金の兄弟関係もあれば、
親がいない姉弟が一生懸命を勉強を教えあっている図式は
微笑ましいものである。
午前10時。2階音楽室にて「講演会」を行う。
ベトナムという国、ベトナムに来た訳、「子どもの家」建築の
経過。ストリートチルドレンなど支援の歴史と私の支援に
ついての考えの変遷。現在私たちがめざしているもの。
現地の自立の現状・・・・・・・。
午後11時20分講演会を終わる。
地球の歩き方ツアー7人、ハンさん、ソン君と一緒に
昼食。フォーサイゴン。フォーサオを食べる。
フォー(米の麺)を野菜と炒めた料理。日本風に言うと
フォー焼きそばと言ったところ。参加者は肉まんも
食べる。
午後12時半、自室へ戻る。
昼寝。1時間半。熟睡する。最近、頭を使って長い文章を
書く気力が出てこない。、物事をじっくりと時間をかけて
考える気力が生まれてこない。
フエに戻って18日目。一時体調を崩したこと、休みなく
仕事が続くこと。そして、18日間毎日朝から晩まで30度
以上の猛暑。やはりこの暑さというものが、ボディーブロー
で効いているのかと思う。これから10月1日まで毎日
訪問者がある。何とか体調を整えなかればならない。
だるい時などは、寝るしかない。
午後2時、昼寝から目覚める。
読書「真景累ケ淵」。
三遊亭円朝の落語の速記本。ほぼ江戸時代の語り口と
落語の雰囲気をそのまま残している。読んでいて
6代目三遊亭円生の声と顔が思い出される。
怪談ばなしというとなんとも安っぽいものになってしまうが、
「真景累ケ淵」は、しっかりとしたストーリーの構成が
出来ている。「因果」「因縁」ということをテーマにしながら
ただお化け屋敷でお化けが出るといった話ではなく、
人間の心の奥底に潜む怪しい気持ちを引き出し、
誰でもそんなことをするかもしれないという日常の
出来事から殺人事件を起こしてしまい、その因縁・因果が
めぐりめぐって驚くべきところに出てくると言った内容である。
長い寄席での話。一話一話に区切られて「・・・・・今日はここまで」
などと速記されて話は終わり、次回「さて・・・・・」と続いていく。
話は貧乏旗本「深見新左衛門」が江戸・根津に住む鍼医で高利貸し
の皆川宗悦から金を借り、毎日酒を飲んで生活している。
皆川宗悦が3年前に貸した金を取りにいく。皆川の言葉にかっとなって
新左衛門は、宗悦を切り捨ててしまう。新左衛門は下男につづらを
買わせて宗悦の死体をつづらに入れ、捨てさせる。
ある時新左衛門は按摩さんを呼ぶ。その按摩さんが、新左衛門が
殺した宗悦に見えて、新左衛門は「宗悦血迷ったか?」と切り捨てる
がこれが新左衛門の奥方。
新左衛門は役職で犯罪者を警護している時、犯罪者を助けよう
とした一団に惨殺。新左衛門はお家断絶。ここまでが一部。
深見新左衛門には新五郎という長男がいたが、家出。
ふらっと帰って来た長男新五郎。家が断絶したことをしり、
父親新左衛門の墓前で切腹しようとしたところを谷中七面前
の下総屋惣兵衛という質屋の主に助けられ、質屋で働くことに
なる。そこに新五郎の父親新左衛門が惨殺した皆川宗悦の
次女お園が中働きで働いていたが、病気になり、新五郎が
献身的に看病する。二人は仲良くなる。質屋の土蔵工事の
ワラの山で二人は男女の仲になりかけたとき、ワラの下に
あった『押切』というわらを切る機械の上にお園が横になって
いた。押切がお園の背中に当たり、ぶっすりとお園の背中は
押切の刃で切られ、お園(皆川宗悦の次女)は死んでしまう。
新五郎は追っ手につかまり、屋根から飛び降りると下に
お園を殺した「押切」があり、足を切ってしまい捕まってしまう。
深見新左衛門に殺された皆川宗悦には次女のお園と長女の
豊志賀という39歳の富本の師匠がいた。
また、宗悦を殺した深見新左衛門には新吉という次男がいた。
次男新吉は伯父の家にいたが、ふとしたきっかけで宗悦の
長女「豊志賀」師匠の家に手伝いに行く。新吉21才。これも因縁。
39歳の豊志賀と21歳の新吉は、夫婦然とした生活に入る。
そこへ、下総屋惣兵衛(宗悦の次女お園と新吉の兄新五郎の
雇い主)の娘お久が現れる。新吉は18歳の若いお久に惚れ込む。
豊志賀は、若い新吉が若いお久に熱を上げたと思い込み、
嫉妬を重ねる。そのうち豊志賀の顔におできが出来て、
醜い顔になる。新吉は豊志賀を殺し、お久と下総の国へ。
話はまだ10%程度のところである。
午後3時、ベトナム事務所のハンさんから電話。在宅支援の
母子がベトナム事務所に来て、私に会いたいと言っているとのこと。
徒歩、ベトナム事務所へ。
8年ほど前から「在宅支援」として姉妹を応援している。
父親は8年前に死亡。母親と4人の姉妹。
母親は42歳。現在は学校に近くで路上のような安い食べ物屋を
している。
長女18歳。今年大学受験。
次女16歳。高校2年。
三女15歳。中学4年(日本の中3)
四女12歳。中学Ⅰ年
母親の月収は平均で100万ドン(8000円)程度。
家族5人、しかも4人が学校へ通っている現状では
少なすぎる収入ではある。
今日の相談は、長女が優秀である。高校で「最優秀賞」を
もらっている。7月にフエ師範大学(4年)とフエ教育大(3年)
を受験した。ベトナム中部で一番難しいフエ師範大学へ
入学出来るかどうかはわからないが、フエ教育大英語科には
入れると思う。
ついては、大学に入ったら家庭の生計を助けたいので、
日本料理店で仕事をさせて欲しい。大学は午前中なので
午後2時半から午後9時半まで日本料理店で働き、家計を
助けたいとのことだった。
私は、ベトナムの大学は勉強が難しい。午前中学校、午後から
夜は日本料理店で働くというのは、結局、大学の勉強を
おろそかにすることになる。同時に長女が家計を助けるために
働くということは立派なことだと思う。JASSとしても出来るだけの
協力はしたい。大学の合否が決定される8月15日まで話を
凍結したい。大学合否の結果がでたらその時点でもっとも
良い方法を考えるようにしよう、と話した。
フエ教育大学には50人の学生に奨学金を贈呈している。
その他、「子どもの家」の子どもたちへの特別教育の先生
という仕事もある。立派な母親である。父親がなくなり母親一人の
力で家族5人の生活を支え、子どもたち4人には、学問を
身に付けさせたいと言って学校へ通わせた。また、偉い娘さんでも
ある。母親のそうした姿をしっかりと見つめていた。
18歳になり大学へ入ったら、自分が母親の代わりに少しでも
家計を助けようとの考えである。フエは今異常な「バブル」時代。
私の周りの多くの人間が「金金金」。今まで立派なことを言っていた
人間が、お金に目がくらんで人間としての生きる道を踏み外している
実例を見ている。私や私たちを金儲けのための「利用する道具」の
一つとしてしか見ていないような人間もいる。利用する時は利用し、
利用価値がなくなったら相手にもしない。また、自分が困ったら
近づいてくるというおそよ人間としての良心を欠いた人間たちの
醜い姿。
そんな中でこうした母子がいることに「ほっと」する。出来るだけ
JASSとして応援できることはしていきたい。その基本は
お金を上げるのではなく、自分たちで働くことの機会を作って
やることだと思っている。
午後5時半。日本料理店で夕食。
今夜は、税田さん・石塚さんが日本語学校。Nさんは体調不良で
部屋で休養中。Hさんは病気の治療等で日本へ一時帰国。
今夜の夕食は子どもたち5人と私の6人。寂しい夕食だった。
竹の子の炒め物、豚肉(当局の安全印が押されているとのこと)
午後6時半。日本料理店開店。
おなじみの日本人の方。「リー君がいないのが寂しい。
彼はいい奴だ」とのこと。リー君のフアンが結構いることが
分かる。行動には多々問題があるものの人間性の底には
憎めないものを持っている。
厨房では主任のTHUYさんが頑張って料理を作っていた。
THUY厨房主任が作った「かきあげ」。
今日は3人の来客。日本人。
午後9時過ぎ閉店。
赤城農林大臣辞任。(させられた)
赤城氏の辞任記者会見をテレビで見る。
「自分の行動で自民党は選挙に負けた。責任をとって
辞任する」という趣旨。ちょっと待ってよ、と言いたい。
赤城さん、ということは、貴方は自民党に謝罪して
辞任するということ? 国会議員であり大臣である
貴方は、まず持って国民に謝罪して辞任すべきではないの?
と言いたい。思わせぶりに帳簿などを記者会見に持ってきたのなら
詳細を公表すればよいではないか・・・・・。何か小学校の
学級会を見ているような幼稚な農林大臣と首相ではある。