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2007年08月25日

東京の先生たちを案内

晴天

気温34度。湿度60%。(廊下)

午前6時起床。
午前7時朝食。ブンボー。

午前7時、JASS青少年教育の会はバオミンさんの
案内でフエ空港へ。バオミンさんはそのまま皆さんと
一緒にホーチミン空港へ。クーチトンネル、買い物などを
して午後8時半、ホーチミン空港まで案内をする予定。
午後11時半頃ホーチミン空港を出発し、8月26日午前7時過ぎ
成田着の予定だったが、ホーチミン空港発が2時間ほど遅れ、
午前2時頃出発とのこと。日本着も2時間ほど遅れるようだ。
皆さんの無事帰国を祈る。


静岡県三島市の「ウオータービジョン」の皆さんは
サンさん、税田さんが案内して午前7時半にホテルを
出発。フエ空港からホーチミンへ。

午前9時、ベトナム事務所へ。
必要なメールの送受信。いくつかの問題を検討解決。

久しぶりに午前中はスタディーツアーなどの訪問者への
対応がない。

読書「大河の一滴」(五木寛之著)読了。
大学に行っている頃だろうか? 高校の国語の先生と
お茶を飲んだことがあった。その時、高校の先生が
「五木寛之の『青春の門』は素晴らしいぞ。是非、読んで
みなさい」との助言を受けた。1970年の頃だったと
思う。誰かの結婚式の後の喫茶店での話だった。
その時、初めて五木寛之を知った。
早速、青春の門(筑豊編)を買って読んだ。この話の
始まりの部分。伊吹信介と牧織江が登場。
それから青春の門にはまり、
「筑豊篇」
「自立篇」
「放浪篇」
「堕落篇」
「望郷篇」
「再起篇」まで読んだような記憶がある。
その後も週刊ポストか何かに連載されていた。
政治・恋愛・貧しさ・人生など戦後生まれの
若者が直面する波乱万丈のストーリー。
その五木寛之がその後、親鸞聖人や浄土真宗
関係のお寺や関係団体などでの講演会を行っている
ことを知った。五木寛之は宗教に傾斜していったのかな?
などと思っていた。

大河の一滴は、60代半ば10年前の著作。60代半ばを
過ぎた五木寛之の人生論・人間観を分かりやすい言葉
話すように書かれている。読みやすい本だが、内容はかなり
深く広い。仏教の真髄を五木なりに語っているとも思える。
私たちの日頃の生き方、考え方に大いに参考になる。

中国の屈原の話。世の中の乱れ、不正を憎み、官職を
辞し国中を放浪している屈原。
それを聞いた漁師が、たった一人でもこうした清く正しい
道を歩むのですか?と、聞く。屈原は、「潔白なこの身に
世俗の汚れたちりを受けるくらいなら、この川の流れに
身を投じ魚の餌になったほうがましだ」と答える。漁師は
そのまま船ばたをたたいて、次のような歌を歌いながら
去っていったという。

滄浪の水が清らかに澄んだ時には、自分の冠の紐を
洗えばいい。
もし滄浪の水が濁った時は、自分の足を洗えばよい

★滄浪(そうろう)-長江最大の支流。漢江ともいう。

世の中の不正や汚れをただ嘆くだけではなく、その汚れ
不正のはびこった世の中でも何かできることをしたらどうなのか?
という問いかけの歌とも思える。

私のベトナムで行っている活動への批判もある。
1月末、読売新聞の医療功労賞を受賞した。このことを
昔からの友人に話すと「読売新聞じゃしょうがない」と言われた。
彼にとっては「超右翼の読売新聞の賞には価値はない」との
反応だった。確かに読売新聞は改憲を社是として主張している。
しかし、読者は1000万人と聞く。1月30日の読売新聞の
人欄にも紹介された。私の友人の意見では、右翼新聞の
読売に紹介され、その会社の賞を受賞しても意味のないこと、
と単純に私の受賞を切り捨てた。某革新政党の党員の方だ。
皇居に行って天皇・皇后に会ってきた、などとは毛頭いえない
雰囲気で、私が何か悪いことをしたような気にさえなってしまった。
改憲を主張し、右よりの主張をしている新聞の賞やその新聞に
掲載されること自体、反動的なことという反応だった。
この友人にとっては、自分の所属する某革新政党の新聞以外の
新聞は『商業新聞』となってしまうようだ。私がどんな活動で
どんな理由があって読売新聞が賞を与えたか、などは興味の
対象になっていない。確かに読売新聞は右よりの新聞かも
知れないが、1000万人の読者がいる。その読者に
私たちがベトナムで行っているボランティア活動を知ってもらう
ことは意義のあることだと私などは考えたのだが・・・・。
漁師のことば。きれいな川の水の時には、自分の大事なものを
洗い、川が汚れたら汚い自分の足でもあらったらどうなの?
との答えは、全て白黒をつける、自分の意見と違う意見には
耳も貸さないという態度を戒めているように思う。社会は色々な考え
の人たちで成り立っている。白とも黒ともつかない、「灰色」の
ことがたくさんある。寛容な気持ちで、様々な意見を
持っている人たちと交流し、共に生きることが大事なのではないか
と五木寛之は教えていると私は理解した。
青春の門から30年ほど経っているのだろうか?やはりそれ相応の
年齢を重ねた年輪の数が出ている五木の著作である。
一読の価値あり。古本屋で100円。

昼食。昨夜のJASSスタディーツアーの夕食会の残りご飯を
食べる。

昼寝1時間。

午後2時、ベトナム事務所へ。知り合いの先生から紹介された
とのことで東京の先生と医療関係の方がベトナム事務所を
訪問。2時間ほどベトナム事務所で話をする。

その後、お二人をお連れし「子どもの家」へ。
「子どもの家」の各施設を案内。午後5時半には子どもたちは
夕食を摂り始める。

午後6時過ぎ、「子どもの家」訪問を終え、日本料理店へ。
お二人と日本料理店を食べながら、日本の教育、政治、
社会などのことを話す。
N先生はわが会の岩辺さんや大谷さんの知り合い。
私の長男の高校の担任の先生と一緒に韓国問題の
研究をしているとのこと。

生ビールと吟醸酒を飲む。

お二人と話をしている最中、1ヶ月前に家出をして所在不明の
りー副店長から電話。ニー店長が出る。

その後、私も電話に出てリー君と話す。
今は「ダックラック省」の山にいるとのこと。アクセサリー作りの
仕事をしている、仕事は楽しいと言っていた。
日本料理店の皆がリー君が帰って来るのを待っているよ
と話すが返事はなかった。
ニー店長に自分の電話番号を教えていた。これで行方不明
の状態からは脱出できた。今後は、電話で連絡可能となる。
リー君は何を考えて日本料理店に電話をして来たのだろうか?
電話での感触では「タコ部屋」に入れられて重労働を
強制されているのではとの推測はそうでもないように
思えたが・・・・・。
リー君の電話に日本料理店の女の子たちは、大喜び。
リー君は日本料理店の子どもたちにも人気があったことが
窺える。早く帰ってくることを祈るのみである。

途中、ベトナム人2名、日本の大学のゼミのベトナムツアー
関係者6人が来店。

午後9時過ぎ、閉店。

新入り見習いのニーさんはすっかり日本料理店に馴染んだ
ようである。違和感なく仕事をしていた。

午後9時半、部屋に戻る。

投稿者 koyama : 2007年08月25日 08:23

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