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2007年09月30日
ピースボート(46人)を出迎えにダナンヘ:日本へ一時帰国
晴天
午前4時半起床。
午前5時半、ミンさん、税田さん、ソン君、リー君、私の
5人で車に乗りダナンヘ。今日は午前7時過ぎにピースボート
の皆さん46人がダナン港に着く。
午前8時半、45人の乗客と1人の引率者が「子どもの家」での
交流コースの参加者としてフエに来る。JASSが受け入れ。
出迎え、案内。
2台の車に分乗。途中のトイレ休憩までリー君と一緒に1号車に
乗り、「子どもの家」の14年間の歴史を話す。
2号車では、バオミンさん・税田さん・ソン君たちが、今夜日本料理店
での食事の際の飲み物の注文をする。生ビール、生ジュース(各種)。
途中「ランコービーチ」(ダナンとフエとの県境)でトイレ休憩。
私とリー君は2号車に乗り換え、再度、14年間の「子どもの家」の
歴史、取り組み、ボランティアなどを話す。
午前11時、フエ市内着。ホテルへ。
その後、市内のベトナム料理店で昼食。バオミンさん・税田さん
ソン君・リー君も一緒に。
午後1時、日本語学校へ。46人の来客の皆さんに「ベトナム事情」
について1時間ほど話す。ピースボート側の希望。
ベトナムの簡単な歴史、現状、ドイモイ、この数年の大きな変化・・。
午後2時、日本語学校を出て「子どもの家」へ。
私は午後2時過ぎ日本語学校を出て、トンチンカンホテルへ。
日本帰国の準備。小型スーツケースとリュックをもって
地球の歩き方Ⅶの皆さんの泊まっているホテルへ。
地球の歩き方の皆さんと一緒にフエ空港へ。
サンさん、ソン君が同行。フエ空港で皆さんと一緒にチェックイン。
午後5時20分フエ発でホーチミン市へ。
午後6時40分、ホーチミン空港へ到着。
地球の歩き方Ⅶの皆さんは今夜ホーチミン市に泊まり、
明日ホーチミン市観光をし、明日の夜、ホーチミン空港を
発って成田へ。無事の帰国を祈る。
私はホーチミン空港のレストランで軽い夕食を摂り、
午後9時過ぎ、ホーチミン空港国際線でチェックイン。
午後11時40分、ホーチミン空港を出て成田へ。
これから2ヶ月間の日本滞在。
日本では皆さん、どんな服装をしているんだろうか?
もう秋の装いなのだろうか? 今年は異常気象だと
いう。昨日は30数度のところもあったようだ。
小山道夫「2007年10月・11月帰国日程」
2007年9月30日現在の予定
10/1(月) 成田着
2(火) 帰国休暇
3(水) 帰国休暇
4(木) 帰国休暇
5(金) 帰国休暇
6(土) グローバルフェスタ2007(於:日比谷公園)予定
7(日) 同上予定
8(月)
9(火)
10(水) A8:30桜美林中学校講演
11(木)
12(金)
13(土) 夕方 JASSスタディーツアー反省会
14(日)
15(月)
16(火)
17(水)
18(木)
19(金)
20(土) 練馬区立大泉学園桜中学校講演会(午後)
21(日) 京滋YOUの会講演会
22(月) 支援者との懇談(於:京都)
23(火) アジアボランティアセンター講演会:大阪(18時から20時)
24(水) 移動日(大阪→東京)
25(木)
26(金)
27(土)
28(日)
29(月)
30(火)
31(水)
11/1(木)
2(金) 静岡市長懇談
3(土) 静岡の会・火焔樹の会・京滋YOUの会 合同交流会(於:静岡市)
4(日) 同上
5(月)
6(火)
7(水)
8(木)
9(金) 茨城県日立市小学校講演会
10(土) 午前中―茨城県ひたちなか市
午後2時から WING主催 ”小山さんを囲む会”(2時間程度)
11(日)
12(月)
13(火)
14(水)
15(木) 11月12日~16日の間に東北大学で講演会、
16(金) 高崎健康福祉大学ゼミ、仙台日本語学校等へ
17(土)
18(日)
19(月)
20(火)
21(水)
22(木)
23(金) 小山道夫「還暦ぶっとばせ家族総決起集会!」
24(土)
25(日)
26(月)
27(火) 出国準備
28(水) 出国準備
29(木) 出国準備
30(金) 出国
2007年09月29日
地球の歩き方Ⅶ最後の晩餐会
晴天→曇り→雨 天候不順
午前5時起床。 気温28度、湿度90%。
いよいよ秋冬の長期雨季に突入した模様。例年とは
雨季突入の仕方が大分違う。異常気象の影響か?
午前5時(日本時間午前7時)のNHKニュースを見る。
ミャンマー問題。日本の動きは鈍い。福田首相は
「制裁がいいのか分からない」という趣旨の発言をしている。
既に欧州やアメリカは経済制裁を初め独自の制裁を決めている。
ミャンマー軍事独裁政権がクーデターで実権を握った以降の
日本と欧米の対応の違いが尾を引いている。
選挙で勝利したアウンサンスーチ女史をクーデターで
倒した軍事独裁に対し、欧米諸国は厳しく対応したが、
日本は直ぐに独裁政権を承認し、ODA援助も続けていた。
結果的には日本政府の支援が軍事独裁を支えた一面が
あった。そうしたこれまでの対応が、今回の蛮行に対する
厳しい対応と甘い対応の違いを生んでいる。
ブッシュ大統領は国民に軍事独裁と戦おうと呼びかけさえ
している。
午前7時朝食。ブンボー。
地球の歩き方Ⅶの帰国航空券問題でいくつかのメール
を書き、必要な機関に連絡。
午前8時半、ベトナム事務所へ。
午前9時、新しいベトナム人の日本語教師Kさんと面接。
バオミンさん、フーンさん、税田さん、私。
1時間半ほど種々の話をする。来週日本語の先生全員を
交えて再度の話し合いを行う予定。
今後、一般コース、観光基礎コース、研修生派遣コース
などを行う。
午後12時昼食。そーめん。
午後1時から1時間ほど昼寝。
『はみ出し人間の系譜』読了。
「北斗の人」(司馬遼太郎著:角川文庫)読み始める。
千葉周作の生い立ちからの話。
午後3時、バオミンさんから電話。ベトナム航空
フエ支店に行く。地球の歩き方Ⅶの皆さんの航空券の
確認。8人の人がホーチミン市から関空へ帰る予定だったが
ベトナム航空のオーバーブッキングで全員が成田に行くこと
になった。これはベトナム航空側の依頼を仕方なく受け入れた
もの。昨日ピースボートから連絡があり、全て変更手続き終了
とのこと。バオミンさんが午前中、ベトナム航空フエ支店に行くが
誰もいないとのこと。
バオミンさんは、午後1時半過ぎに再度ベトナム航空フエ支店
に行き、全員、成田行きに変更されているか確認する。
ベトナム航空の日本支社は「変更は全て完了した」と言っているのに
ベトナム国内では何も「変更されていない」という。
どうなっているのだろうか?このベトナム航空とは。
日本のベトナム航空は変更したといい、ベトナム航空本国では変更
していないという。
バオミンさんからの電話を受けて、急いで東京のピースインツアー
に電話。ベトナム航空の日本支社に確認し、ベトナムで「変更」
が確認できるようにするよう依頼して欲しいと頼む。
明日は日曜日。ベトナム航空は休み。明後日は、成田へ帰る
日となる。今日中にこの問題を解決しておかないと、お客さんは
10月1日の夜、ホーチミン航空で大混乱となるのは必死。
午後4時、日本のピースボートから電話あり。
ベトナム航空日本支社は今日土曜日で休みとのこと。
トホホ・・・。
東京のピースインツアーから「変更確認」のFAXを
送ってもらう。そのFAXを持って再度バオミンさんに
ベトナム航空フエ支店に行ってもらう。
FAXで「変更確認」を確認してもらい、ホーチミン支店まで
連絡し、やっと、ベトナム国内でも「関空から成田へ」
航空券のパソコン上での変更が確認された。
こんな単純なことでも1日かかる国である。情けない。
あとは、10月1日月曜の夜、ホーチミン空港で変更航空券を
手に出来るかだ。何とかうまく物事が進むことを祈るのみ。
午後6時半、地球の歩き方Ⅶの皆さんとフエ最後の晩餐会を
日本料理店で行う。皆さん、アオザイを着ての登場。
●バオミンさんの説明(リー君も手伝う)
●バオミンさんの音頭で乾杯
●リー君とベトナム事務所スタッフ
リー君に日本の祭り半纏をあげる
●2日間「休肝日」を取った。今日は飲んだ。
●地球の歩き方晩餐会②
●石塚先生も晩餐会の手伝い。感謝
●グエットさんも奮闘
●バオミンさんJASSベトナム運営委員長と皆さん
午後9時まで交流会。
その後、帰宅。明日の帰国準備。パスポート、航空券等の
確認。2ヶ月の間、日本での仕事に必要な資料等の確認。
明朝は午前5時半フエを出てダナンへ行くので早めに寝る。
2007年09月28日
夏のスタディーツアー最後の取り組み
晴れ・曇り・雨
午前5時起床。NHKニュース(午前7時)を見る。
ビルマ問題がトップニュース。
日本人記者が殺されたというのに政府高官の発言には
怒りが見えない。人ごとのような態度である。
自国の無防備なジャーナリストが射殺されたという重大な
国際問題という自覚に欠ける。
無抵抗な市民や僧侶に軍が銃を向け、射殺するなど世紀の蛮行
である。日本政府の徹底した糾弾声明が必要。
午前7時朝食。フォー。
朝食後、一時帰国の荷物整理をする。7月15日に日本から
帰った時と同じ状態で荷物が詰まっていた。
この2ヶ月半、スーツケースの中を整理する余裕がなかった。
まず、7月15日に帰った時の荷物の整理から始める。
洗濯。
午前9時、徒歩ベトナム事務所へ。久しぶりに徒歩。
ハンさん、税田さんと会計の問題で話し合う。
バオミンさん、ソン君、リー君は地球の歩き方ツアーⅦの
皆さんとナムドン山岳少数民族交流へ。
午前10時過ぎ、関西地方の支援者のMさん姉弟がベトナム事務所
を訪問。11時半位まで四方山話をする。
昼食。コムディア。
午後1時から1時間ほど昼寝。読書の時間はない。
10月・11月と2ヶ月間日本の滞在し、講演会などを行う。
その間、ボランティア貯金中間報告、雑誌『子どもと教育」の
原稿2回分を書く。そのための資料、写真等を事前に準備して
帰国しなければならない。様々な資料や200枚ほどの写真を
CD保存する。
ピースインツアーの担当者と10月1日のホーチミン市から成田経由
関空までの飛行の件で打ち合わせ。
支援者に手紙を書く。 講演会要請あり。
午後5時前、第2回目の洗濯。
午後5時、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所3階の刺繍みやげ物店に地球の歩き方ツアーⅦの
皆さんが刺繍作品を買いに来てくれていた。ありがたい。
午後5時半、日本料理店で子どもたち、日本人と一緒に夕食。
ナムドン山岳地帯に行ったリー君が少数民族の皆さんとの
交流で地酒を15杯ご馳走になったという。上機嫌。
午後6時半、ハノイの日本大使館から電話あり。
午後6時半日本料理店開店。
直ぐに日本人の若い男性。午後7時、ベトナム人男女。
欧州NGO2人。合計 5人。
9時前に部屋に戻り、洗濯物を取り入れる。
2007年09月27日
A君退所の話:フエ市外務部長懇談
晴天
気温30度 湿度75%。
午前6時起床。毎日の血圧測定。血圧が安定してきた。
訪問者対応と血圧アップとは比例する。また、様々な
「底流」の難事との精神的な闘いの問題も血圧に影響
があるようだ。
医師の指示で2000年から毎日朝起きた時(排尿後)の
血圧の測定をしている。7年間、紆余曲折あり。
降圧剤、血液凝固阻止剤も欠かせない。
午前7時朝食。ブンボー。
一昨日、新日本料理店に旧日本料理店からテレビを移動した。
地元ケーブルテレビをいれ、無料のNHK海外衛星放送を
見ることが出来るようになった。
トンチンカンホテルも無料のNHK海外衛星放送が入っていたのだが、
ある日突然「切れて」しまった。
昨日、バオミンさんからNHK無料衛星放送の「引き出し方」を
教えてもらい、トンチンカンホテル自室で試してみる。
NHK海外衛星放送が見られるようになり、日本の情報がある程度
入るようになった。
午前9時、ベトナム事務所へ。必要なメールなどの受信・送信。
午前10時過ぎ、バオミンさんと一緒に「子どもの家」へ。
先日の「子どもの家」A君を引き取りたいと名乗り出た
A君の「遠い・遠い親戚の人」なる人と話し合う。
私、セン委員長、バオミンさん、A君の母親、「遠い親戚?」。
そこで分かったことは、この50歳代の女性はA君の親戚でも
何でもない人だった。
話し合いの冒頭から「態度がでかい」。「子どもの家」が
貧乏で「自分は金持ち」とのミエミエの成金の態度。
私の方で「あなたは、A君と関係ない人ですが、どうして
A君を引き取るのですか?」と質問する。「母親が頼みに
来たから」との答え。「A君を育てる経済力はありますか?」
「『子どもの家』にいれば、このまま高校で勉強し、大学に
入学したら卒業まで面倒を見ることが出来るが、
他人のあなたがA君を引き取ると言っているが、A君の
生活の面倒を最後まで見ることが出来ますか?」と聞く。
「お金があるから出来る」との答え。
「仕事は何をしているのですか?」。
「船上観光船を5隻持って観光船業をやっている」とのこと。
小型の木製の船である。一般的には船上生活者の皆さんが
生業にしている。色々話を聞くとちょっと前までは、
路上で天秤棒を担いで「うどん」を売っていたとのこと。
最近の「小バブル」で小金が入った一時成金丸出しの
態度である。悪いけれど指にキンキラキンの指輪を
ゴテゴテつけている。一貫して「自分は金持ちだ、
貧しい「子どもの家」の子どもたちを引き取るのだ」と
勝手に決め付けている節が見られる。
「仕事が途中で失敗し、A君を育てられなくなったら
どうしますか?」と聞く。失敗しないと答える。
初めから威張った、センさんや「子どもの家」を見下した
偉そうな態度が気に入らない。
私たちは、この10数年間で4億円ほどかけて「子どもの家」
や様々な子どもたち支援の活動をしている。
A君は「子どもの家」で8年間生活し、高校に入学し、現在は
大学受験の勉強していて、何も問題はない。「子どもの家」も
困ってA君に出て行ってもらいたいとは思っていない。
あなたが親戚の方なら、A君を引き取る意味はあるかも知れ
ないが、A君と何も関係のないあなたが突然「子どもの家」に
来て、貧しい「子どもの家」の子どもたちだから引き取ります
というのは、少し筋が違うのではないですか?と問いただす。
女性は『「母親に頼まれた」という。母親は、自分の意見を
持っていない。
女性にA君が大学受験に失敗したらどうしますか?
と聞く。「観光船で働かせます」とのこと。なんとなく
胡散臭い(うさんくさい)、一時成金の影に「におう」ものあり。
今日は、初めてあったので、よく、お母さんと話し合って
欲しいと言って、今日の話し合いを終わる。
ちょっと前までは、その日暮らしの生活をしていたようだ。
このところの「小型バブル」で多少お金が入り、「お金持ち」
気分になり、人にお金があることを自慢したい人と言う
見方で関係者は一致した。この女性がA君を引き取る
事情と理由が見出せない。話を聞いた範囲では
私たちに威張って引き取るなどというほどの経済力は
なさそう。最近の私の身の回りには、少しお金が懐に
入った「一時成金が」が「お金があるぞ」、と人に見せびらかし
たい人間が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)している。
浅ましい人間の気持ちではあるが、これも致し方のない
人間の気持ちでもあるのだろうか?
昼食。コムディア(ベトナム風ほか弁:70円)
1時間程昼寝。
NHKニュース。ミャンマーの僧侶を大量逮捕。発砲。
夜のニュースでは日本人も死亡したとのこと。
独裁国家は怖い。人間の命の重さの理解がない
連中。
午後3時半。バオミンさんと一緒にフエ市人民委員会
外務部へ。ニエン外務部長と懇談。
当面の諸問題について意見交換。合意。
午後5時、ベトナム事務所へ。いくつかのメールへの
返事を書く。
午後5時半、日本料理店で子どもたち・日本人スタッフと
一緒に夕食。今夜は、「カエル」の油いためがおかず。
私は「カエル」と聞いただけで、箸が動かない。
ピースインツアーから連絡あり。
現在フエに来ている地球の歩き方スタディーツアーⅦ班の
皆さんの中でホーチミン市から関空へ帰る人の切符が
なくなったとのこと。
事情を詳しく聞く。来る時と同じ問題が起こっている。
ホーチミン市から関空へ行くお客が予想より少なくなり、
大型飛行機を小型機に変更した。それに伴い、若干の
乗客の席がなくなってしまった。(オーバーブッキング状態)
一人一人のお客に連絡するのが面倒くさいのだろう。
結局、小型機に乗り切れないお客の中の「団体客」を狙い
切符をホーチミン市→成田→羽田→関空に変更して
欲しいとのことである。
ベトナム航空は本当に呆れてしまう航空会社である。
自分たちの「金儲け」しか頭にない。金権主義の権化である。
大型機に少ないお客を乗せたのでは儲けが少なくなるとの
判断から勝手に小型機に変えてしまう。そのあおりを受けて
「あぶれた」団体客は、結局、ホーチミン市から成田に行き、
更にバスで羽田経由関空と6時間近くの時間の浪費と
体力の消耗となる。当初からホーチミン市→関空と契約して
いたものである。ベトナム航空は契約など頭にない。
社会的責任も頭にない。ただただ「金儲け」だけである。
ピースインツアーの担当者からの依頼があり、8人の
関空へ行くお客さんに連絡し、相談して欲しいとのこと。
夕食を途中でやめて、急いで地球の歩き方Ⅶの皆さんが
「子どもの家」での夕食を終わりホテルへ帰ってくる時間
にあわせ、ホテルへ急行。数分のタッチで間に合う。
ホテルのロービーで8人の関空帰りのお客さんに
説明しようとホテルのロビーに行くと、ロビーも結婚式場と
化していた。お客が多く1階の式場だけでは間に合わず、
ロビーも式場にしてしまった。ロビーは全てのお客さんの
もののはず。これも金権・金儲けしか考えていないフエの
昨今の実情を反映している。
しかたないのでトンチンカンホテルの1階に8人の方に来てもらい、
状況を説明する。幸い、8人のお客さんは快く成田→羽田→関空
への空路変更を了解してくれた。ありがたいことである。感謝。
急いでピースインツアーに連絡。これからピースインツアーと
ベトナム航空日本支社との話し合いに入る。うまく話が進む
ことを祈る。ベトナム航空の無責任・金権体質には本当に愛想が
尽きる。
午後6時半、日本料理店開店。店長のニーさんが体調を
崩し休む。
午後9時半閉店。日本人4人、ドイツ人2人、ベトナム人1人、
欧州1人の合計8人。
今日は1日、悩ましい問題ばかりだった。
NHKニュースで年収200万円以下の労働者が1000万人を
超え、全労働者の4人に一人になったという。
超格差社会が到来している。これは、政治の結果である。
福田首相がその継続を誓った「小泉構造改革」の結果である。
更にこの路線を進める自公政権の未来はない。
今日から「六者協議」が始まった。核問題の米朝協議が進展
いているようだ。安倍前首相の政権投げ出し、自民党の
総裁選挙の2週間の間に、日本抜きで話はドンドン進展して
しまっている。福田首相選出の日にヒル国務次官補が訪日
したが、会う相手がいない。中山補佐官が会っている。
首相も外相もいない。これで「拉致問題は・・」などと大見得を
切っても世界の外交からは、既に見放されているかに
見えるわが日本である。日本抜きで米朝合意を基礎に
中国・韓国・ロシアの大筋の合意は出来上がっている。
外交下手の日本。
2007年09月26日
地球の歩き方ツアーⅦ班活動開始
晴天 午後曇り
気温28度 湿度80%。
午前6時半起床。
午前7時朝食フォー。
午前7時45分、地球の歩き方ツアーⅦの皆さんの泊まっている
ホテルへ。既にハンさん、ソン君が来ていた。
地球の歩き方ツアー(16人)の皆さんに自己紹介の挨拶をする。
その足でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所では事務所員全員が待機。地球の歩き方ツアーの
皆さんに挨拶。
地球の歩き方ツアーの皆さん
ベトナム事務所員全員の自己紹介後、3階の刺繍土産物店視察
地球の歩き方ツアーの皆さん、税田さん、ハンさんと一緒に
バスで「子どもの家」へ。
「子どもの家」で子どもたちと文化交流。
セン運営委員長の挨拶(ハンさんの通訳)
子どもたちの踊りや歌
地球の歩き方Ⅶのお返しの出し物。「大きな栗の木の下で」。
子どもたちと一緒に「大きな栗・・・」を歌い踊る
地球の歩き方スタディーツアーの皆さんと一緒に楽しむH君。
交流会終了後、税田さん・ハンさんのグループに分かれ
「子どもの家」の施設を案内する。
ハンさん案内。子どもたちと記念撮影
午前10時、音楽室で小山講演会。1時間半。
午後11時50分。レストラン「フォーサイゴン」で
フォー(米うどん)の野菜炒め。
午後1時、自室着。
しばらく昼寝。読書「はみ出し人間の系譜」
メールの送受信。
午後4時。ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所では、旧日本料理店のあった大きなテレビを
移動し設置。丁度、午後4時に昨日の「中秋特別番組」の
再放送があった。
日本料理店の子どもたち、ベトナム事務所のスタッフ全員で
鑑賞。
リー君と業者が協力してテレビを設置する。
昨日放映された「中秋祭り特別番組」の再放送を皆で見る。
テレビでは私の活動紹介。ソン君のインタビューが放映されていた。
午後5時半、子どもたち、日本人スタッフと夕食。
その後、母親の「勧誘」を拒否して日本料理店に残る決意を
したリー君と「人生を語り合う」。
日本料理店の今夜の来客2人。
午後9時過ぎ日本料理店閉店。
2007年09月25日
地球の歩き方ツアーⅦの皆さん、フエ到着:中秋祭り
曇り 夜豪雨。
気温27度 湿度75%。
秋模様。
午前6時半起床。
午前7時朝食、ブンボー。
午前9時、ベトナム事務所へ。
東北大学での講演会の打ち合わせメール。
その他、当面の必要なメール送受信。
日本料理店などベトナム事務所の建物にNHKケーブル
テレビを設置する。NHK衛星放送が入るようになったが、
雑音がひどい。今後、修正が必要。
昼食、そうめん。
1時間ほど昼寝。
読書「はみ出し人間の系譜」
いくつかのメール受信。返信。
午後4時過ぎ、ベトナム事務所へ行く途中、
地球の歩き方ツアーⅦを出迎えに行っているバオミンさんから
電話。ホーチミン空港で問題が起こっていると。
成田で乗ったお客さんのコンピュータの記載が成田→ハノイ→
フエとなっているとのこと。国内線チェックインカウンターで
トラブル中。ベトナム航空側の言い分は、コンピューターには
成田→ハノイ→フエとなっているので、ホーチミン空港からフエへは
行けないという。しかし、チケットは成田→ホーチミン→フエである。
急いで日本の観光会社ピースインツアーに電話をする。
事情が判明。
今朝、成田空港にお客さんを案内して到着。成田空港内
ベトナム航空のチェックインカウンターで手続きをする。
その際、予定の飛行機を小さくした(オーバーブッキング)ので
団体のピースインツーは、成田→ハノイ→フエに変更したと
言われる。本人にも観光会社にも何も連絡をせずに一方的に
飛行ルートを変更するなど国際常識を著しく逸脱している。
当初大型飛行機を予定していたが、お客が少なく
小型飛行機に変更。すると一部のお客が乗り切れず、一方的に
一部のお客をハノイ行きの変更したというのが真相。
ベトナム航空の金権体質を如実にあらわしている。
金金金しか頭にない航空会社である。
ピースインツアーの担当者は一方的な変更を断固拒否。
ホーチミン市には
現地の旅行会社(JASS観光)が待っているので、一方的な
ルート変更は応じられないと主張。結局、チケット通り、
成田→ホーチミン→フエとなり、搭乗。ホーチミン市に着く。
しかし、事前に勝手に変更してしまったベトナム航空内の
コンピューターは、成田→ハノイ→フエのままになっていた。
そのためホーチミン空港国内線カウンターでは、受付を
拒否したのである。
バオミンさんはそうした事情は全く分からないので、ホーチミン空港
国内線カウンターでコンピュータ上に名前が搭載されていないが
チケットには、ホーチミン→フエとあることをテコに交渉を続けていた。
東京ピースインツアーの方でベトナム航空日本支社と連絡を取り
急いでコンピュータ内の間違った名前記載を訂正するよう要請。
それを受けてベトナム航空は本来の成田→ホーチミン→フエと
コンピュータ内の名前を記載訂正する。
やっとホーチミン国内線でチョエックインが出来るようになった。
全くもっていい加減と言うのか、出たら目なベトナム航空の
対応である。
さて、16人のフエ行きのチェックイン手続きを終えようとした時、
一人分のボーディングパスが足りない。ホーチミン空港国内線
チェックインカウンターの女性職員の怠慢による印字忘れ。
しかし、女性職員は私は16人分ボーディングパスを印字し
渡したと主張。バオミンさんは、もらっていない、今、もらった
ものを数えて1枚足りないのだから、あなたが印刷をするのを
忘れたのだ、との言い合いとなる。
ベトナム空港の幹部を呼ぶ。幹部は「切符を買い直せ」という。
チェックインカウンターには、長蛇の列。バオミンさんは
諸状況を総合判断して、不満ではあるが、仕方なく1枚切符を
新たに買わされる。こんな不当な話はない。
女性職員の無能・怠慢で印字をし忘れたのにも関わらず、
新たに切符を買わせるなど、言語道断。ベトナム社会の
「金・金・金」、金儲けしか頭にない。社会的・国際的な責任感の
欠如もはなはだしい。そんなこんなことがあった
地球の歩き方ツアーⅦのスタディーツアーの皆さんは、
「無事」8時40分、フエ空港へ到着。サンさんソン君が出迎え。
午後5時半、日本料理店で夕食。
夕食後、リー君はフエ空港へいくつもりでサンさん・ソン君と
待ち合わせをしたが、うまく会えず帰ってくる。
今日は中秋祭り当日。町中に太鼓の音にあわせ獅子舞をしながら
町を練り歩く。町内ごとの獅子舞は子どもたちの年一度の
楽しみでもある。
日本料理店前にも地元の子どもたちが4頭の獅子舞を従えて
やってくる。
日本料理店前は百人以上の「野次馬」で一杯となる。
店長のニーさんが8組分の祝儀袋を用意し何がしかの祝儀をあげる。
その後、数組の獅子舞軍団が来訪。店長のニーさんが
祝儀をあげる。
午後8時、NHK衛星放送。福田新首相の記者会見を
途中まで見る。
会見の第1は、年金問題を解決すると言明。
しかし、福田氏は数日前、5000万件の「名寄せ」作業が
2008年3月までに(安倍首相の約束)出来なくても政治責任はない
と発言している。
努力目標とも言っている。その舌の根も乾かない
うちに「年金問題の説明責任を果たすのが義務」と言うのは、
矛盾もはなはだしい。第2が政治と金の問題、第3が国会運営。
野党とも話し合っていくと言っていた。今までが酷かった。
ほとんど少数意見を無視してのファッショ的な国会運営・強行
採決を繰り返してきた。
街頭の声では、「先祖帰り内閣」と言っていたが、しばらく忘れて
いた「派閥親分」揃い踏みの内閣ではあるが、
外壁は剥げ落ち、すわりの悪い、活力のない
「先祖帰り内閣」「古色蒼然内閣」ではある。
早々に衆議院の解散をせざるを得ない、「選挙管理内閣」
かも知れない。
午後6時半、日本料理店開店。
午後9時半閉店。来客3人。
帰宅は豪雨の中。リー君は、地球の歩き方の皆さんの
荷物が届くホテルに行くという。リー君と一緒にホテルまで行く。
午後9時45分から先日録画した「中秋特別番組」が放映される。
「子どもの家」の子どもたちの踊りも披露される。
午後10時過ぎ、ピースインツアーからメール。
今日のホーチミン空港のトラブルの詳細確認の問い合わせ。
熱心な会社である。日本時間午前0時過ぎである。
午後10時半、バオミンさんと連絡。ホテルにいるバオミンさん
から今日のホーチミン空港でのトラブルの詳細を聞く。
ピースインツアーに報告する。二度とこうしたことがあっては
ならない、が、またあるでしょう。
一党独裁の「批判を排除する体質」が続く限り、腐敗も続くもの
と思われる。波田陽区ではないが、『残念』。
2007年09月24日
観光・ピースボート・日本語学校等打ち合わせ
曇り 肌寒い
気温 28度。湿度75%。(廊下)
午前6時起床。
午前7時朝食フォー。
午前8時半過ぎベトナム事務所へ。
『JASS観光』関係者の皆さんの打ち合わせ。
スタディーツアー以外の観光の仕事も徐々に入ってきている。
ベトナム事務所の力の許す範囲で受けるようにし、少しずつ
一般の観光(ハノイーハロン湾ーホアン・ミーソン・フエーホーチミン)
なども手がけるようにしたい。
午前9時半。日本語学校関係者と打ち合わせ。
今後の日本語学校の授業、人員配置、新しい先生のことなど
を打ち合わせする。丁度、日本語学校関係者会議中に
新しい先生候補者とJASS日本代表委員会委員長の
福田もえ子さんが電話で打ち合わせをしていたことになる。
午前10時過ぎ、ピースボートのLEOさんがベトナム事務所
来訪。
9月30日ダナン入港のピースボート受け入れ準備の状況など
を打ち合わせする。
9月30日(日)は午前5時半にフエを出発。私、バオミンさん、
税田さん、ソン君、リー君。
午前8時にダナン港に入り、午前8時半に45人のピースボート
のお客さんを乗せ2台のバスでフエへ向かう。
昼前にフエに入り、ホテルチェックイン。その後昼食。
昼食後、日本語学校に行き、私が1時間話すことになった。
午後2時に「子どもの家」訪問。交流会。夕方、日本料理店
で夕食。翌日は、午前中市場に買い物。昼食を作り
子どもたちと一緒に食べて、ダナンヘ帰るという日程である。
午後1時、昼食。一昨日の地球の歩き方晩餐会の残りのご飯。
体調は下り坂から上り坂に。少しずつ好転している。一安心。
昼寝。1時間。
読書「はみだし人間の系譜」(杉本苑子著)
24人まで読む。それぞれ実在の話だったようで
興味を持って読む。
午後3時半。11月から連載する雑誌「子どもと教育」の
原稿・写真などを整理。最低半年(6回)ほど書く予定。
毎回3000字~4000字。
6回ほどの連載の内容と順番等を考える。
ベトナム事務所関連で関係する会社からの質問に答える
文章を書く。バオミンさんと協力して。バオミンさん作成の
資料を追加挿入する。
9月30日、帰国の整理・準備をする。
午後3時頃から安倍首相の「首相辞任」の記者会見が
あるという。見たかったが、NHK衛星が映らないので
見られなかった。CNNをつけていたが、数時間たって
も放映はなかった。メディアの世界は冷たいというのか
現金なものである。権力がなくなった途端に見向きも
しなくなるのである。福田氏が総裁に当選した映像は
何度か放映されたが、ついに安倍首相の辞任は
放映されず。
午後6時のCNNのトップニュースはミャンマーの
ヤンゴンでの大きなデモとデモに自宅で応える
アウンサンスーチー女史。ロンドン特派員が
詳しく10万人のデモを報道していた。特に強調して
いたことは、デモが僧侶とアウンサンスーチー派、市民との
反政府・反軍政デモに発展したこと。
1989年の軍事クーデターからの歴史を振り返っていた。
2番目のニュースはイランの大統領がアメリカの
コロンビア大学で講演する計画がある。
国連総会出席のため。
この問題について、CNNは繰り返して放映して
いる。その賛否両論を。特にユダヤ系の人々の
反対意見を・・。
2007年09月23日
体調を崩し、終日寝ている
曇り
数日前から気温が27度程度に落ちる。33度から35度の
頃に比べると5度から7度も急激に下がる。
ベトナム事務所員もバオミンさん・ハンさん・サンさん・ソン君と
順々に体調を崩して来ている。
日本人スタッフも気をつけなければ、と思っていた矢先、私がダウン。
37度ちょとの微熱、倦怠、頭痛。幸い食欲あり。
この数日、どうしても寝込むことも出来ずにいた。昨日も
中秋祭り・地球の歩き方Ⅵの晩餐会。
ーーーーー
今朝は10時まで寝ていた。いくら寝ても寝られる。
朝から一日中、中秋祭りの太鼓が響いている。
隣りのホテルでは、何かの行事をしているのだろうか、
朝から大きな音で太鼓をドンドンたたく。うるさくて眠れない。
午前10時半、朝食。昨夜の晩餐会の残りを調理のウエンさんが
お土産に包んでくれた。ご飯、胡麻和え、ポテトサラダとお茶で
朝食。
それほどの高熱でもないので本を読む。と言っても軽い本。
「幻の光」(宮本輝著)読了。
「こうもり」「寝台車」。絵で言えば水彩画。
私の好きな上原隆「雨に濡れても」と筆致が似ている。
淡々と書いているだけだが、読み終わると心にひっかるものが
ある。水彩画を見た後、人生の機微・人生の変転などを
考えてしまうような本である。筆者の力が想像力を引き出す。
「はみ出し人間の系譜」(杉本苑子著:中公文庫)
微熱に丁度良い本である。変人奇人の話。
原作は伴こうけい「近世奇人伝」と八島五岳「百家奇行伝」から
64人の変人奇人を選び、杉本氏の私見も交えて紹介。
変人奇人といわれる人たちは、ある意味でその時代の
偉大な反逆者だと言っている。「あざけりや悪口に屈し、
中途半端なままで投げ出したら負けなのだ。世間的な
常識を蹴飛ばし、はみ出し人間の道を選んだ以上、
孤独は一生の道ずれと、覚悟しなければならない」と
書いている。
午後2時頃、CNNテレビを見ていたら「福田氏PMへ」
と言った見出しがでた。福田康夫氏が自民党総裁になった
ことが分かった。
日本という国は不思議な国である。「恥じ」という言葉が
死語になったようだ。
参議院選挙で自民党が大敗した。民意をうけ辞任するのかと
思ったら安倍首相は居座った。1ヶ月間も組閣を伸ばし、
第2次安倍内閣を組閣。インド・オーストラリアでは、テロ特捜法を
成立させるとの海外公約を勝手にしてきた。やる気満々。
いよいよ「ねじれ国会」が始まった。安倍首相の所信表明演説。
参議院選挙大敗の総括がきちんとできないまま、スローガンを
叫ぶだけ。新聞(インターネットだが)でも「虚ろな所信表明」
など書かれてしまった。1日明け、いよいよ各党の代表質問
となったら、突然辞任。政権投げ出し首相。前代未聞。
政権投げ出し自体が恥ずかしいことである。
それから自民党という一政党のために国会が休止状態。
10日間の自民党総裁選挙のために国会は37億円の浪費を
しているとのこと。ばかばかしい。そのうえ、国民に大迷惑を
かけている自民党が街頭に繰り出し「総裁選挙」をしているという。
国民に投票権はありません。勝手に自民党の中でやったららどう
ですか?
そんな馬鹿げたパフォーマンスをする前に、貴方たちは現在
『謹慎中』の身なのです。国民にお詫びをすべきである。
貴方たちに「厚顔無恥」という言葉を送りたい。
選挙に負けて1ヶ月間も組閣の準備をしながら、突然
政権を投げ出した自民党としてのお詫びが必要。お詫びの気持ち
があるのなら、街頭で福田・麻生の派手なパフォーマンス
などは、「恥を知れ」と一喝したい気持ちである。
現在も安倍氏は首相である。病院に篭ってしまい、
当初4・5日の入院という病気の詳しい病状も明らかにされていない。
既に入院して10日以上が経っている。首相代理も置いていない。
安倍氏が病院で決済しているという。しかし、与謝野官房長官が
安倍氏の会うのはたった10分。海外メディアは、「日本は不思議な
国だ。最高責任者が機能しなくても国が動いている」と報じている。
今、大きな地震や重大な出来事が勃発したらどうするのだろうか?
国民への危機管理義務遂行能力ゼロの自民党である。
福田でも麻生でも「小泉・安倍構造改革」を継承すると言っている。
大同小異である。内閣投げ捨て安倍首相の血迷った暴挙で
浪費した国会の無駄遣い37億円(東京新聞試算)で世界の
ストリートチルドレンが12万人(1年間)救われるという試算を
してみた。「お目出度い」我が日本ではある。
「腐食」とか「劣化」という言葉があるが、まさに自民党は
腐食・劣化の真っ只中。といいながら、そのこととばは、
そうした自民党の馬鹿げた行動とパフォーマンスを許している
私たち国民に向けられていることを自覚しなければならない。
劣化・腐食は国民の現実の反映。
血圧と体温が更に上がる。
午後10時過ぎまで中秋祭りの太鼓が近くでなり続ける。
お祝いとはいえ、迷惑千万。歓声とドンドンドンドンと打ち続く太鼓。
眠れない。困ったものだ。明日も続くのか?
2007年09月22日
「子どもの家」中秋祭り:地球の歩き方Ⅵお別れ晩餐会
終日雨。寒い
午前5時半起床。微熱・頭痛・鼻水。
午前7時朝食ブンボー。
体がだるい。しばらく横になり、読書。
「美は乱調にあり」(瀬戸内晴美著)読了。
大杉栄と伊藤野枝が大正12年の関東大震災で
甘粕憲兵大尉によって虐殺されるまでの人生が
書かれていると思ったが、その以前の野枝の
恋愛を長々と書いて終わってしまった。物足りない。
それでも野枝が福岡の田舎で生まれ、成績優秀。
アメリカへ行けるというはかない希望だけを頼りに
結婚するが、1日で東京に出てきてしまう。
上野高等女学校の卒業生総代。感受性豊かで
野性味のある野枝と英語教師辻潤の恋愛が
最初の山場。辻は東京下町で育ち、英語教師であり
また実践はしないが社会主義・無政府主義に造詣が
深かった。そうした辻から野枝は強い影響を受ける。
次の山場は「青踏」。平塚明子(らいちょう)との出会い。
青踏社に参加した「新しい女」たちの当時の社会のタブーを
破る種々恋愛。そして、無政府主義者大杉栄との出会い。
大杉の「自由恋愛論」に従い、大杉の奥さん、当時最先端
の仕事だった「女流新聞記者」神近市子、野枝との
「4角関係」の自由恋愛。葉山日陰茶屋事件で神近市子が
大杉を刺傷させるところで本書は終わっている。その後、
大杉と野枝がどんな人生を歩み、28歳で殺されたのか
のあたりを読みたかった。
それでも瀬戸内晴美40歳頃の作品であるだけに人間国宝
寂聴の枯れたお説教・人生論には至っていないが、
むしろ女性・「女」に多少年季の入った年頃になった
瀬戸内晴美の恋愛論・男と女の心の行き違いの機微を
生々しく書いている。体験的小説と見た。
午前9時、雨が止んだのを見計らってベトナム事務所へ。
体がだるい。いくつか必要なメールの返事を出す。
おきているのがつらく、横になる。
読書「幻の光」(宮本輝著:新潮文庫)
宮本輝は私と同じ1947年生まれ。4編の短編集。
「幻の光」を読む。著者32歳頃の作品。
やはり文才のある人の文章は違うなと思った。
32歳の頃、私は何をしていたのだろうか?
落語・講談・漫才の評論家になろうなどと模索して
ことを思い出す。
能登を舞台に再婚した女性が最初の夫の自殺の原因と
幻影を追っていく話。能登の暗い冬の海の描写が話の
内容とマッチし、人生を考えさせるものとなっている。
著者がこの短編で何を言おうとしたのかは分からないが、
線路を歩いている前の夫が自殺した理由を「体から精が抜けて
しまった」からと表現している。山場も特にない単調な筆致であるが
能登の冬と暗い海と雪を吹き飛ばすような風の雰囲気が読み取れる。
昼食。おかゆを作る。
2時間ほど昼寝。
目が覚めると、ボランティア貯金から感想・コメントを求められている
ことに気づく。9月25日締め切り。急いで、書く。
ボランティア貯金として冊子にするそうだ。活動実績・ボランティアの
大きな意義などを書き、写真をつけて担当者に送信する。
小泉「郵政民営化」選挙は私たち海外ボランティアにも大きな
打撃を与えている。ボランティア貯金が2007年9月末で「廃止」された。
郵政省が郵政公社になり、小泉構造改革で民営化。
それに伴ってボランティア貯金交付金もその法的な根拠を
失い、なくなってしまった。郵政民営化選挙で、小泉首相は、
郵政民営化が「構造改革」の突破口だとして、郵政民営化か、
反対かとの二者択一の選挙戦術を取り、マスコミもそれに乗った。
しかし、少しずつ時間が経ってくると「小泉改革」は弱者切捨て、
福祉切捨てのニセ改革だという実態が分かってきた。
ワーキングプアーなどということばは、今では誰でも知っている
言葉となった。
ボランティア貯金は14年間で188億円もの寄付金が集まった。
2007年月末時点で2,551万件の加入があり、96か国・地域に
延べ2,577団体が実施する延べ3,107事業に対し、
約188億円の寄附金を配分して来た。大いに意義のある
郵政省の制度であった。2007年9月末でボランティア貯金と
いう制度を根拠付ける法律がなくなり、今まで寄金されていた
残りの寄付金を独立行政法人郵便貯金・簡易生命保険管理機構
が、なくなるまで引き継ぐということになった。
民営化された後は、制度としてのボランティア貯金はなくなる。
こうして小泉構造改革の影で海外のストリートチルドレン・障害児
貧しい子どもたちへの支援金、海外活動をしているのボランティア
の日本人への生活支援がなくなっていくのである。残念でならない。
などと考えていると更に熱が出てきた。
やらなければならない仕事、書かなければならない文章がたくさん
あるが、だるくてきちんとした文章を書く気力が出てこない。
今日は無理。
午後5時40分、バオミンさん、仁枝さん、ハンナさんと一緒に
「子どもの家」へ。
今日は「子どもの家」の中秋祭り。
楽しい
「テト 中秋」 JASS
2007
37 グエンチャイ「ストリートチルドレン」の家
今日は地球の歩き方Ⅵの皆さん、在宅支援の子どもたち、
ボランティアで子どもたちに勉強を教えてくれている
フエ師範大学の学生、ベトナム事務所員、「子どもの家」
スタッフなどが集まり、ベトナムの「子どもの日」である
中秋祭りを楽しんだ。
テレビ局も取材にやってきた。
開会前から「子どもの家」は、中秋太鼓をたたき雰囲気を
盛り上げている。
子どもたちも年に1回の「子どもの日」。お正月とこどもの日が
一緒に来たような雰囲気である。
セン委員長の開会の挨拶
続いて私の挨拶
いよいよ中秋祭りの呼び物「獅子舞」が始まる。
2頭の獅子舞がからみあう。
会場・参加者も大いに盛り上がる
子どもたちの出し物
●中秋を祝う踊り
●低学年男子の「ヒップホップ」。
●サンバのリズムに合わせて「焚き火」を囲んで踊ろうよ
会場の真ん中には「中秋お祝い」のケーキが飾られている
会の最後に子どもたちにお祝いのお菓子や果物を上げる
在宅支援の子どもたちも参加
1時間半の中秋祭りは、和気藹々・楽しく過ごすうちに閉会。
午後7時45分。「子どもの家」を後にし、地球の歩き方Ⅵの
皆さんの最後の晩餐会である日本料理店へ。
午後8時前、日本料理店で夕食会が開かれる。
6日間のフエ滞在。明日、ホーチミン市へ旅立つ。
ベトナム事務所のスタッフと交流しながら、子どもたちの
作った日本料理店を楽しむ。
日本料理主任のTHUYさんは、姉の結婚式でホーチミン市へ。
今日は代わりにウエンさんが料理の中心になっていた。
母親が迎えにきたリー君も日本料理店の仕事に専念。
「子どもの家」仲間と雑談。
夕食懇親会は午後9時半まで続く。
私は体調不良。人と話すのも億劫(おっく)な心境。
立っているのもつらかった。
9時半過ぎ閉店後、帰らしてもらう。
2007年09月21日
2組の訪問者を「子どもの家」へ案内
晴れ・曇り かなり気温が下がる。
午前6時起床。頭痛・倦怠・喉痛・鼻水。風邪の症状。
午前7時朝食。フォー。
朝食後、必要なメールへの返事を書く。
午前9時、ベトナム事務所へ。
外国人が「子どもの家」を視察したいとのこと。
アメリカ人とカナダ人。
オーストラリアの観光ガイドブックの記者。
日本料理店をガイドブックに載せたい、また、「子どもの家」を
視察したいとのこと。
1階の日本料理店、2階のベトナム事務所、3階の刺繍みやげ物店を
案内。
二人はオートバイ、私は電動バイクで「子どもの家」へ。
「子どもの家」の生活、活動の歴史、各施設の案内などを
する。
午前11時半、自室へ戻る。昼食はコムディア(ほか弁)。
1時間ほど昼寝。
午後1時45分、ベトナム事務所へ。お会いする約束をしていた
愛媛県今治明徳大学のA先生とお会いする。
2階会議室で3時間半ほど話をする。「子どもの家」、ボランティア、
JASSのめざすもの、教育、ドイモイ、ベトナム社会主義・・。
午後6時過ぎから「子どもの家」視察。
「子どもの家」では9月25日の「中秋祭り」の獅子舞や太鼓の
練習中。「子どもの家」の中秋祭りは明日9月22日午後6時から。
午後7時、「子どもの家」訪問を終わり日本料理店へ。
残しておいてもらった夕食を食べる。
今日は体調不良のため早めに帰宅。自室で休む。
倦怠感は収まらない。頭痛。
ハンさんに買ってきてもらったベトナム「風邪薬」を
飲む。
2007年09月20日
ベトナムTVスタジオ撮影:リー君母親
晴天 午後気温が急速に下がる。
ソン君が風邪でダウン。気温の高低差が大きく、体調を
崩す人が多い。
午前6時起床。
午前7時朝食。ブンボー。
午前9時過ぎベトナム事務所へ。
リー君の母親がベトナム事務所にやってくる。
リー君が6歳、弟のイン君が5歳の時別れた。
それ以来リー君には会っていないとのこと。
リー君に会わせて欲しいと言う。
午後6時に日本料理店に来て欲しいと話す。
バオミンさんの通訳でお母さんと1時間ほど話す。
この14年間ほど、リー君、イン君と連絡を取っていない。
今は南部カンボジア国境付近のタンコン省で
胡椒やゴムの農園の季節労働者として働いている。
5年前に夫を亡くしている。
1993年。諸般の事情があり当時の夫が刑務所で無期懲役。
お母さんは6歳と5歳の子どもを残して他の男性と南部に
「駈落ち・蒸発」。
それから14年。子どもたちに会っていない。
5年前、一緒に駆け落ちした夫が死亡。現在は一人で
クーチトンネルの国境沿いで胡椒・コム農園労働者として
働いているとのこと。
現在、弟のイン君はお母さんの家に住んでいる。オートバイを
買ってあげて、毎日小遣いを揚げ、イン君は喫茶店で遊んで
暮らしていると言う。
何としてもリー君と会わせて欲しい、というのが母親の
言い分。母親はリー君を連れて帰り、クーチ付近の
工業団地で働かせたいと言っている。
私とバオミンさんと母親と話したが、母親は私たちの言うことを
聞こうとしない。自分の主張だけを言い張る。
また、この14年間、JASS、「子どもの家」で二人の
子どもたちがお世話になったお礼・感謝の言葉が
一言もなかった。
ただリー君を連れて帰りたいというのみ。
約1時間の話し合いの結果以下のような判断をバオミンさんと
した。
①母親は5年前に二番目の夫に死に別れ、現在、人恋しい状況。
14年前に捨てた二人の子どもたちを迎え入れ、老後のことも
考え、子どもたちに働いてもらい、老後を安泰に送りたいとの
気持ちを持っている。
②そのため既に弟のイン君を家に迎え入れている。
現在は自由・気ままな暮らしをイン君に与えているが、今後、
近くの工業団地で働かせたいと言っている。
私としては、1時間の話し合いの中で、母親はリー君の
人生の本当の幸せを考えていない、自分だけの利益しか
考えていないと思えた。
5歳でリー君を捨てて、14年間一度も連絡してこなかった。
駈落ちした二番目の夫が5年前に死亡し、現在「孤独感」
と「老後の心配」がある。そこで二人の子どもたちを呼び寄せ
働かせ、自分の安泰と老後の保障を得たいと考えている
としか思えない。身勝手な考えではある。
リー君の人生と幸せを母親として、どれだけ考えている
のだろうか?
私が言ったことをバオミンさんが通訳するのだが、母親は
通訳の内容を聞く前に自分の言いたいことをペラペラ
しゃべっていた。
ただ、リー君を連れて行きたいということに尽きる。
私からすれば、これほど「身勝手」なことはない。
夫が事件を起こし無期懲役となり、他の
好きな男性と「駈落ちし」、二人の子どもたちを
14年間も面倒を見なかった母親が、駈落ち夫が
死亡し、自分も老齢化し、二人の子どもたちに
自分の老後の面倒見てもらいたいとなったら、突然
私たちやリー君の前に現れる。
しかし、リー君には本当の母親であることも事実。
午後6時にリー君と日本料理店で会えるように手配する。
「子どもの家」を作り14年。幼児期の子どもたちも
いまや年頃となる。最近、遠い親戚とか親などが
名乗りを上げてくる。親子が対面し、一緒に暮らすことは
良いことであるが、実相は親が成人した子どもたちを
「働かせて」、自分は楽をしようとの魂胆でやってくるような
事例が見られる。先日の高校3年生・大学受験中のAの
「遠い遠い親戚」と名乗る人物もそうである。
親戚といいA君を引き取るというのであれば、
私たちのところに直接で出てきて「名を名乗り」自分が
きちんとA君を育てられると説明するべきであるが、
私たちに顔を出すことを拒否している。胡散臭く・怪しい。
子どもたちを「労働力」として利用しようとの魂胆が見え隠れする。
これもドイモイの影。子どもを利用してでも「良い生活」をしよう
との社会的な傾向がみられる。金・金・金の社会に堕している。
午後12時過ぎ、コムディア。
午後12時20分から1時間昼寝。
午後1時20分。バオミンさんの迎えでベトナムテレビの
スタジオに行く。
9月24日はベトナムの「中秋の日」。
中秋の日は日本で言えば「子どもの日」に当たる。
ベトナム「「子どもの日」にあたる中秋の名月の日に放送
予定の番組を作る。
ベトナム中部で貧しい子どもたちのために活動している
ベトナム人を招いての討論会。
私と省の貧しい子どもたちを守る会副委員長、奨学金を
贈呈している台湾系のNGOのベトナム人スタッフの
討論。
討論会の前に「子どもの家」の子どもたちが中秋を
祝う踊りを踊る。
「子どもの家」の子どもたちが15人会場に招待されていた。
フエ省人口・家族・子ども委員会副委員長、台湾の奨学金贈呈
団体のベトナム人代表、私の懇談。
番組はベトナムでは一番人気のあるものの一つだと
いう。
今週中にベトナム中部で放映され、9月24日の中秋の日
前後にハノイから全国放送される。
スタジオ録画には3時間かかった。
午後5時近く、日本料理店へ。リー君に会い、午前中に
お母さんが来たこと、リー君を連れて南部の農村地帯に
帰ることを話す。私の意見は、日本料理店で仕事を
した方が良いというものだが、リー君は午後6時に来る
お母さんとよく話し合い、自分で自分の進路を決めるように
と話す。
午後5時半日本料理店で子どもたちと夕食。
フダ生ビールを 3日ぶりに飲む。
午後6時、リー君の母親が日本料理店にやってくる。
2階の会議室で二人だけの話し合いの場を作る。
1時間後、リー君が戻ってくる。「僕は日本料理店で仕事を
したい。宜しくお願い致します」とのこと。
その後、リー君、税田さん、石塚さん、ハンナさんと飲む。
仁枝さんも飲まないが同席。
日本料理店の来客3人。
午後9時半閉店。
2007年09月19日
地球の歩き方Ⅵ「子どもの家」へ
晴天 午後、気温が下がる
午前6時起床。
午前7時朝食、フォー。
午前7時45分、地球の歩き方Ⅵの泊まっているホテルへ。
ハンさん、ソン君と一緒に皆さんを案内してベトナム事務所へ。
ベトナム事務所でベトナム事務所員の紹介。
地球の歩き方Ⅵの皆さん
地球の歩き方Ⅵの皆さん、刺繍みやげ物店を参観
ベトナム事務所から車で「子どもの家」へ。
「子どもの家」では子どもたちの歓迎の歌と踊り。
先日から日本料理店厨房で研修に入ったヒエウさんが
歌と踊りで歓迎。
セン委員長の歓迎の挨拶
子どもたちの歓迎の踊り(アリババ)
地球の歩き方Ⅵの皆さん
地球の歩き方Ⅵの皆さんの歌(幸せなら手をたたこう)
子どもたち
子どもたちとの交流会後、税田さん・ハンさんに分かれて
「子どもの家」の各施設の案内
午前10時前、私の講演会となる。11時半まで。
ご両親にベトナムスタディーツアーを勧められたという静岡の
学生さんがいた。ご両親は私の静岡での講演会を聞いて
頂いているとのこと。不思議な縁である。
税田さん・ハンさん、地球の歩き方Ⅵ(14人)の皆さんと
フォーサオ(米うどんの野菜炒め)の昼食を食べる。
私は朝食がフォーだったので「チャーハン」を食べる。
午後12時半、自室に戻る。
昼寝、1時間ほど。
読書「美は乱調にあり」
午後3時、日本料理店調理のヒエンさんの親戚という
方が会いたいとベトナム事務所にやってくる。
趣旨は、ヒエンさんがお世話になったお礼を
言いたいとのこと。
ヒエンさんは1993年10月に弟を「子どもの家」(チーラン)
にいれ、ヒエンさんと妹を在宅支援にしてからの
付きあいである。母親が死亡、父親が病気で入院。
生活を苦に17歳の姉が服毒自殺。葬儀のお金がなく、
私がお通夜と葬儀代をだす。父親にシクロをかってやり、
その後、体力がなくなったというので、豚を買って売る仕事
に切りかえる。フエンさんが日本料理店に勤めてからも
妹を在宅支援している。支援は14年間続く。
さて、親戚のおじさんはホーチミン市に住んでいる。
ホーチミン市の大きなゴム会社の副社長さんだったとのこと。
80歳。久しぶりにフエに帰り、フエンさん一家を助けてくれた
人にお礼に来たとの前置きだったが、実際の話は、
1945年にベトミンに入り、抗仏戦争を戦い、その後1954年の
デイエンビエンフーの戦いでフランスを追い出し、
ハノイに行き、ベトナム戦争を闘った。フエ生まれだが
共産党でハノイにいた。1975年のベトナム戦争終了後、
ホーチミン市に行き、国営のゴム工場の副社長になった。
と言いたいことは、1975年のベトナム戦争終結後、
ホーチミン市に行き、共産党の幹部としてハイレベルの役職に
付き、かなり良い生活をしていたということのようだ。
その証拠に長男はホーチミン百科大学教授、長男の妻は
ホーチミン空港の気象観測主任、次男は
ホーチミン空港の貨物管理係りの責任者。長女はホーチミン空港の
デューテイーフリーショップに勤めているとのこと。
それぞれ特権階級の子弟が勤める「甘い汁」の仕事である。
30分ほどの話は、「自分はいかにフランス、アメリカと闘ったか」
「我が子どもたちはいかに優秀で良い大学をでて、現在は高給
とりの立派な仕事をしているか」という自慢話であった。
共産党の特権と、批判のない中で生活をしているこの種の幹部は
社会の常識が分からなくなってしまうのだ、と改めて感じた。
自分の自慢話をするよりは、高給生活をしていた自分が、
姪一家を助けなかったことを「恥じなければ」ならないように
私には思われるのだが・・・・・。
その辺の共産党幹部の神経は何とも理解し難いものがある。
何十年ぶりに生まれ故郷のフエに「凱旋帰国」し、
みんなに自分の出世話をしたい気持ちも理解できる。
80歳である。立派な仕事をして、かなり贅沢なハイレベル
な生活をしてることも良いことでしょう。
それでもフエで自分の姪(フエンさんのお母さん)一家が
家もなく、お堀に不法バラックを建ててその日暮らしを
しているのを、「見て見ぬ振り」をし、14年もたって、
やっとフエンさんが日本料理店で給料をもらい自立し、
家庭も安定した頃になって、やってくるというのも
「立派な親戚」ではある。御礼を言いに来たのではなく、
自分の出世を『外国人』に自慢話に来たのだが、
それでもわざわざベトナム事務所にまで来てくれた
ことに感謝したい。長生きをして欲しい。
午後4時、京都大学大学院生が「フエの観光」の話を
聞きたいと言ってやってくる。1時間半ほど話す。
午後5時半。日本料理店で夕食。リー君は何故かトーンが
高かった。食事中、隣りに座った店長さんと「じゃれあって」いた。
午後6時半から日本料理店開店。
今日は日本人5人、ベトナム人5人、オーストラリア2人。
合計8人。
日本人の4人はJICAの水道関連の横浜の方。
3ヶ月フエに滞在するとのこと。
オーストラリア人はメルボルンの大学教授夫妻。
ベトナムの民族のこと、政治のこと、私は何故
フエでストリートチルドレン支援をているのか?
など30分程はなす。
午後9時20分、閉店。
子どもたちの自転車が「子どもの家」でパンク。
「子どもの家」の二人の子どもが自転車で
迎えに来てくれた。
日本料理店カウンター前で記念写真
午後9時半過ぎ、帰宅。
読書「美は乱調にあり」。
2007年09月18日
マブベの会帰国:地球の歩き方ツアーⅥフエ到着
晴天
午前6時起床。
午前7時朝食。ブンボー。
食事中、ピースインツーの添乗員さんから電話。
地球の歩き方ツアーⅤ班の皆さん、成田・関空に無事着いた
とのこと。ひと安心。
自室で仕事。こうばこの会の大久保さんから寄金を日本事務所
に送金するとの連絡。「ダークダックス はる なつ あき ふゆ」
のコンサートの売上金の一部をJASSに寄付してくれるとのこと。
主催者へのお礼状を書く。
その他、この間忙しくてメールの送れなかった人たちに
メールを送る。
1ヶ月ほどトイレが壊れていたが修理されないままだった。
午前9時頃、IT部のヒーさんが来て、部品を取替え修理する。
その後、散髪へ。2ヶ月間、散髪していなかった。
20分程で終わる。1万ドン(70円)だが、2万ドン(140円)支払う。
既に14年間通っている床屋さん。椅子に座るだけで散髪を
してくれる。シャンプー、髭剃りなし。カミソリを使わない、
耳垢取りはしないなど良くわかってくれている。
午前10時半、ベトナム事務所へ。
午前11時。マブベの会(4人)と日本人5人、ソン君で
チャオバンカンのお店で昼食を摂る。
美味しい。米とキャッサバ芋を混ぜて作った手打ちうどん。
豚と海老の出汁。
午後12時半から1時間ほど昼寝。
最近、午後雨が降ったり気温が下がることが多い。気温の
大きな変動で体がだるい。フエの多くの人がそんな状態のようだ。
読書「美は乱調にあり」(瀬戸内晴美著:角川文庫)
1969年、40年前の作品だが、内容は古くない。
読んでいて興味津々の内容。数年前、大杉栄・伊藤野枝の
次女(ルイス)さんを主人公にしたドキュメンタリー番組を
テレビで見た記憶がある。80歳位だったろうか?
「美はただ乱調にある。諧調は偽りである」(大杉栄)から
取られた題名のようだ。伊藤野枝が、福岡県糸島郡今宿村
から上野高等女学校へ入学し、10歳年上の英語教師「辻」
に恋心を抱く・・・。
瀬戸内晴美(当時)の男女の微妙な心理描写はうまい。
午後2時40分。ソン君と一緒にフォンザンホテルへ。
マブベ笑顔の会の皆さんの帰国見送り。
ホテルの手続きを終え、車でフエ空港へ。
マブベの皆さんは、フエ市立病院東洋医学科、小児科などとの
交流、地域診療所での治療、「子どもの家」・ベトナム事務所の
皆さんへの治療、フールー小学校の子どもたちへの治療などを
行った。フエ中央病院でのACCLセミナー、中部白血病父母の会
などにも参加。毎年、フエに来てコツコツ活動を続けている。
こうした地道な活動こそ、本当に海外ボランティアだと思う。
頭が下がる思いである。深謝。
午後4時過ぎ、ベトナム事務所へ。
1階の日本料理店で今日から「ヒエウさん」が研修を開始。
調理部に属し、裏方で料理を作ることになった。
他の子どもたちもヒエウさんを暖かく迎え入れている。
仲良く研修を進め、日本料理店の基礎をしっかりと覚えて
欲しい。
午後5時半、子どもたちと一緒に夕食。
久しぶりに日本料理店で子どもたち・日本人の皆さんと
夕食をとる。鮭の刺身、豚の角煮、アヒルの玉子焼き、
野菜炒め、ご飯、魚のスープ。
日本料理店は、3人の来客。(日本人1人、ベトナム人2人)
今夜は、雨模様で町を散策する旅行者が少なかった。
午後9時20分、地球の歩き方ツアーⅥ班がフエ空港に到着。
到着が相当遅れる。HP上の予定では午後7時10分着のはず。
バオミンさんがホーチミン市まで出迎えに。フエ空港には
ソン君、リー君が出迎え。「子どもの家」の卒業生2人は
役に立つ若者に成長した。
空港到着後、荷物を受け取り、午後10時過ぎ、
市内のレストラン「フォー24」へ。
フォー(米うどん)を食べる。その後、ホテルへ。
ホテル着午後10時40分。
フエ空港のルーズな日程管理のため、相当時間を浪費する。
2007年09月17日
ACCLハノイへ:マブベの会子どもたち・寮母さん治療
晴天
午前1時に目が覚める。なかなか眠れない。
読書「三たびの海峡」読了。
全体のトーンは、サスペンス。一種の推理小説的な
構成となっている。朝鮮から強制連行された若者が
福岡の「遠賀川」付近のN市にある炭鉱に連れてこられる。
収容所のような寮に入れられ、炭鉱で12時間以上の労働
を強制される。反撥すると日本人の責任者をトップに
その手下の朝鮮人が殴打し、ゴムの鞭で殴る。
苦しい生活に疲れ果て脱走する。つかまると
見せしめのリンチ。リンチで次々と死んでいく。
朝鮮人強制連行を素材にしたサスペンス小説。
話はあくまでフィクションである。最後は、収容所で
自分にリンチを加え、仲間を殺していった同じ朝鮮人
(日本人に帰化)に復讐するという粗筋。
『祖国』『同胞』『民族意識』『8・15解放記念日』などという
言葉がが飛び交う。日本人が忘れてしまった半世紀以上前の
出来事。しかし、私たちの両親・祖父母の時代の出来事である。
福岡の炭鉱に強制連行された若者が数十年後に炭鉱の町へ
行く。炭鉱はすっかり姿を変えなくなっている。当時の収容所長は
市長となり、その手下の朝鮮人は建築会社の社長。
何もなかったかのように現在を生きている。いや、市長など
要職に就いて。
10年前の著書である。朝鮮人強制連行の事実すら忘れている
日本人への警告と受け止めた。
箒木蓬生というペンネームがどこからきたのか調べた。
源氏物語からだった。源氏物語2帖「箒木」(ははきぎ)
15帖「蓬生」(よもぎう)。
午前6時起床。
午前7時過ぎ、バオミンさん・ACCLの皆さんとフエ空港へ。
6日間という短い期間であったが、フエの小児ガン支援の
ための様々な活動を行った。代表の渡辺和代さんをはじめ
関係医師の皆さんに心からお礼を言いたい。
午前8時半フエ空港を発ってハノイ経由、明朝成田へ。
お疲れ様。
午前9時、ベトナムテレビの取材の打ち合わせ。
ハノイのベトナムテレビⅠより取材申し込み。
ベトナムテレビ1は、日本でいうとNHKのようなもの。
全国をカバーする放送局。
今回は、VTV1の名物番組「時の人」に私が出演すること
になった。その道で実績を上げた人を取り上げ、
スタジオで30分ほど話をする番組である。
毎週金曜日午後9時から放送しているとのこと。
ベトナム中で多くの人たちが見ている名物番組とのこと。
私は見たことがないが。
テレビ局の指示でベトナム事務所にやってきたのは、
ヒー君。
12年前(1995年7月)、「子どもの家」の子どもたちに
勉強を教えたりしている高校生2人を日本へ連れてきた。
ヒー君(16歳)とヒエンさん(16歳)。
私は彼らを連れて、秋田・東京・静岡などを訪問した。
東京では杉並区の大場先生のお宅に長期滞在した。
静岡では、富士山麓にある静岡大学の「朝霧荘」に泊まり
静岡の中学生たちと交流した。笠井さん、滝下さんとの出会いも
あった。オーム真理教の第6サティアンも見てきた。
当時16歳の高校生だったヒー君は現在28歳。
フエ科学大学歴史科を卒業し、現在は
フエ省「人口・家族・子ども委員会」のお役人になっていた。
彼がベトナムテレビの依頼でJASS事務所に取材申し込み書
を届けてきた。12年前はほっそりしていたヒー君であったが、
今は丸々と「貫禄」のあるおじさん風な体型となっている。
安定したお役人生活をしていることが窺える。
朝食兼昼食。昨日の日本料理店の残りものを食べる。
午後12時半から1時間昼寝。昼寝をしないと夜まで体が
もたないようになってきた。あと、2週間ほどでスタディーツアー
の受け入れは終わる。250人ほどの受け入れを行ったことに
なる。
読書「美は乱調にあり」(瀬戸内晴美著:角川文庫)
古本屋で100円の本。100円でこんな素晴らしい本を読んで
良いのか?
明治44年(1911年)間東大震災のさなか、アナーキスト
大杉栄と妻の伊藤野枝と甥が憲兵大尉甘粕正彦などによって
殺された。本書は、その伊藤野枝の人生を書いたものである。
「大逆事件」で高徳秋水などが死刑になった。
その後、大正12年(1924年)関東大震災のどさくさにまぎれて
国家権力は社会主義者・無政府主義者である大杉栄、妻伊藤野枝
甥を虐殺し、井戸に捨てたという残虐な国家犯罪があった。
大杉栄の妻、伊藤野枝の人生とその軌跡を追っている。
午後2時半、バオミンさんと一緒に「子どもの家」へ。
サウ君の「退所式」を行う。
サウ君は父親が3年前に死亡。51歳の母親と5人の
子どもが残された。家庭はフエのかなり郊外にある貧しい
農家。
長女は結婚してホーチミン市へ。次女・三女はミシン研修。
サウ君は4番目の長男(6年生)、下に2年生の次男がいる。
3年前に父親が死亡し、母親の農業だけでは家族が生活
できなくなり、4番目のサウ君を学校へ行かせたいという
こともあり、「子どもの家」に入所させた。
その後、農業も安定。ホーチミン市に行った姉からも
多少の仕送りがあるようだ。サウ君もお母さん・弟と一緒に
生活したいという気持ちが強くなり帰宅することになった。
子どもたちは家族と一緒に住むのが一番良い。
心配なのは、経済力があるのかどうかだ。学校へ通えるか
どうかだ。セン委員長・ロック寮長・バオミンさんが農業の
収入などを聞く。何とかやって行けると判断。
退所を認めることになった。
ロック寮長が退所を認める書類を読み上げ、母親にサインを
求める。母親は字が書けない。学校には全く行ったことが
ないという。母親は拇印を押し、サウ君が代わりに名前を書く。
里親の茨城県の松下さんからサう君への贈り物が届いた。
退所のお祝いになってしまったが、サオ君に送る。
サオ君の担任だった寮母のニエムさんがお別れを言いに来る。
サウ君はビニール袋に荷物を入れ、お母さんは
バッグに荷物を入れて帰郷の途に途に付いた。
サウ君の幸せを祈るのみ。
茨城の里親松下さんから「子どもの家」スタッフへの
贈り物を贈呈。おかき。
ーーーー
A君の退所問題。
突然A君の母親が子ども退所させたいと言って来る。
8年間、「子どもの家」に住んで高校3年生になった。
来年は大学受験をしたいと言っている。
母親とA君を呼んで事情を聞く。
母親の言い分。最近遠い遠い親戚が出てきて、A君を
引き取り戸籍上も自分の子どもにして、学校へ通わせる
と言っている。「子どもの家」から学校まで遠い。
遠い遠い親戚はお金があり、立派な生活をしている。
概略こんな話であった。
まず、母親の口から8年間も子どもがお世話になって
ありがとう、という感謝の言葉が出てこない。
お金持ちの親戚なので「子どもの家」をだして、そこで
生活させたいということばかりを言う。遠い親戚の
住所を聞くと、「子どもの家」から高校までの方が
はるかに近い。
遠い親戚の人はどんな仕事をしているのか聞く。
船の観光だという。船の観光は生活困難な船上生活者の
専売特許。母親がA君を退所させたいという理由が
ことごとく理屈に会わない。「子どもの家」にいて
1年間しっかりと受験勉強し、大学に入れば卒業まで
生活・学費も保障すると言っている「子どもの家」から
無理やりA君を連れ出すかのような言い分である。
私もセン委員長、バオミンさん、ロックさんも母親の
言い分には全く納得できない。
8年前の入所時A君は、小学校高学年。
小さくて子育てが一番大変な小中高校時代に
現れず、高校を卒業する頃にのこのこ現れてくる
「遠い親戚」なるものも何となく胡散臭い。
形式的には、「母親の申請に基づき子どもを家庭・親族に
帰す」ということになるのだが、実質、親族は本当なのか?
私は形式にとらわれず、実質で勝負したい。
どうもこの母親の言うことは論理的にも首尾一貫していない。
今週、A君を引き取ると言っている遠い親戚を呼び出し、
話し合うことにした。
最近のベトナム、特にフエは異常な「金権体質」。
お金のためなら何でもやると言った風潮が横行している。
私の身の回りにもそうした現象が哀しいかな存在する。
ーーー
ヒエウさんの件
中学2年生で進級試験に落ちた。本人は勉強は嫌い。
日本料理店で調理の勉強をしたいとの意向。
セン委員長と懇談。日本では最低中卒の資格を取るのだが
ベトナムではどうなのか?
セン委員長はみんな勉強して欲しいが、苦手な子どももいる。
そうした子どもには職業訓練をしてほしいとの事。
本人の意思とベトナムの風習に従い、15歳で日本料理店
での研修を受け入れりことにした。
今日の午後は、「マブベ笑顔の会」の皆さんが「子どもの家」の
スタッフの治療ボランティアをしてくれる。
午後5時、「子どもの家」での全ての活動を終了。
午後6時、マブベ笑顔の会の皆さんが日本料理店へ。
私、税田さん、バオミンさんと一緒に夕食。
午後9時前、マブベ笑顔の会との会食はお開きとなる。
2007年09月16日
紺屋製紙ベトナム工場社長・社員一行:地球の歩き方ツアーⅤホーチミン市へ
晴天
午前7時起床。
読書「三たびの海峡」。
午前9時半、バオミンさんのオートバイで「子どもの家」へ。
午前10時、静岡県富士市に本社のある「紺屋製紙」の
社長さんご夫妻とベトナム工場の12人のベトナム人社員の方が
「子どもの家」へ。富士宮市の支援者Wさんの紹介。
北部ハイフォンに工場を作り3年。ペーパータオルなどを作っている
そうだ。今回は社員旅行でフエに来られたが、富士宮市のWさんの
紹介・推薦があり「子どもの家」視察となった。
紺屋製紙の社長さんからは多額の寄金を頂く。
わざわざフエへの社員旅行の日程に「子どもの家」視察をいれる
社長さんの気持ちに感謝したい。
紺屋製紙社長ご夫妻
「子どもの家」セン委員長の歓迎の挨拶で歓迎会が始まる。
子どもたちの歓迎行事。踊り、歌。
20分ほどの歓迎行事を終え「子どもの家」施設案内。
社長さんご夫妻は私が、12人のベトナム人社員はバオミンさん。
午後11時半頃、フエ中央病院小児科の皆さんの案内で
王宮見学をしていたACCLの皆さんが「子どもの家」を
訪問。バオミンさんが案内する。昼食を子どもたちと
摂る。
「子どもの家」訪問を終え、紺屋製紙の皆さんは「子どもの家」を
後にする。
紺屋社員旅行のバスに同乗し日本料理店へ。
社員旅行の昼食をわざわざ日本料理店で摂るよう社長さんが
計画したとのこと。ありがたいことである。
日曜日であるが、リー君もきちんと副店長の仕事をしていた。
午後1時前。
1時間ほどの昼食で紺屋製紙の皆さんはホテルへ。
日本料理店の子どもたちと後片付け。
午後1時過ぎ、自室へ。昼寝。
午後2時過ぎ目覚めるが起きられない。
2ヶ月間の疲労。
午後2時45分、地球の歩き方Ⅴの皆さんの泊まっている
ズイタンホテルへ。
地球の歩き方Ⅴの皆さんは6日間のフエ滞在を終えて
ホーチミン市へ。
税田さんが、刺繍みやげ物の販売を行っていた。
かなりの人が買ってくれたとのこと。有難いことである。
刺繍みやげ物店で仕事をしている「子どもの家」の
卒業生たちの生活の基礎が出来る。
添乗員さんとリー君は10年来の知り合い。
35個のスーツケースをトラックに積み込む
サンさん・ソンさん・リー君。
地球の歩き方Ⅴ(35人)の皆さんとフエ空港へ。
空港で35個のスーツケースをチェックインカウンターに
持って行く。
ベトナム事務所員
午後4時過ぎ、地球の歩き方Ⅴの皆さんとお別れ。
午後5時10分フエ空港発の予定が、遅延。
午後6時頃出発。
今日は、地球の歩き方Ⅴ、ACCL、マブベの会、
紺屋製紙と4つの団体がフエに来ている。
7月15日にフエへ帰国し2ヶ月(60日間)で
休日は2日間だけだった。1年で一番忙しい
時期とは言え、少し体にこたえる。
明日は「敬老の日」だそうだが、何歳から
敬老の「老人」になるのか調べたが、どこにも
出ていなかった。
自民総裁選挙。福田氏に決まりそうだ。
小泉構造改革路線を継承するとのこと。
福田氏も麻生氏もあまり代わり映えのしない候補。
中国問題が多少柔軟になるのだろうか?
いずれにしろ、直近の民意である参議院選挙の
結果は、自公路線「NO」とでている。
ブッシュ大統領が今年1月3万人の米軍増派を
決めた。テレビ演説で「イラクの事態が改善された」ので
5000人近くを撤退すると発表。
同時期、イラクのマリキ政権のサドル派が連立与党から離脱。
イラク・マリキ政権34閣僚のうち既に17閣僚が離脱したり
閣僚ボコット状態だそうだ。親米マリキ政権は
「死に体」状態。機能不全。ブッシュ大統領の始めた
「テロとの戦い」が泥沼に入り、進むことも出ることも
出来なくなってしまった。
暴力・軍事力で憎むべき「テロ」をなくすことができないことを
9・11からの6年間で私たちは学んだのではない
だろうか?
2007年09月15日
第2回ベトナム中部小児ガン父母の会 ;マブベの会小児針診療:地球の歩き方Ⅴさよなら晩餐会
寄金のお礼
2007年8月28日~フエでスタディーツアーをされた
地球の歩き方3班の皆さん(39人)が、帰国時に「子どもの家」
へ寄金をしてくれた。総額、489900ベトナムドンと30USドル。
日本円で約6500円。子どもたちのために有効に使わせて
頂きたい。
地球の歩き方Ⅲ班の皆さんに深謝。
=============================
晴天
蒸し暑い。
午前4時に目が覚める。
読書「三たびの海峡」(箒木蓬生:ははきぎ ほうせい著)
読み応えのある内容。在日朝鮮人、日本の朝鮮支配の
実態を朝鮮人の目から・朝鮮人の立場から描いた内容。
想像はしていたが、想像を絶する。日本国家が文字通り
「植民地朝鮮で」拉致を繰り返した実態を白日のもとに
晒している。九州の炭鉱のタコ部屋を脱走した朝鮮人
が焼きを入れられ何人も殺され、炭鉱の落盤で殺され・・。
午前6時起床。
午前7時朝食。フォー。食欲なし。
午前8時、ACCL、マブベの会、バオミンさんと一緒に
フエ中央病院へ。
今日は「第2回ベトナム中部小児ガン父母の会」が行われる。
中央病院小児科病棟着。まだ総会の準備中。
みんなで子どもたちにあげる風船を膨らませる。
午前9時。父母の会開会。
初めに小児科医長フオン先生の挨拶
ACCL関係者
マブベの会の皆さん
会議では、ACCL代表の渡辺和代さんから、『病気は厳しい
ものがあるが、世界中の同病の子どもたちが頑張っている。
お互い励ましあいながら、子どもたち・家族・医師・支援者
の協力で小児ガンと闘って行きましょう。私たちは
定期的な治療のための交通費、薬の補助などできることは
支援して行きたい。未来を見つめてみんなで頑張りましょう』
との言葉があった。
続いて、日本から来られた3人の小児ガン専門の先生方
からの励ましの言葉があった。
会議では、小児ガンの子どもたちの親から様々な要望が
出た。南部に近いダックラック省の少数民族。フエ中央病院
に来るのに交通費がたくさんかかる。薬代が高く支払いが
大変。処方箋をもらい地域で薬を買うように言われるが、
高い。点滴代が出せないと点滴をしてくれない時がある・・。
多くの要望について、適宜改善策を回答。引き続き
話し合っていくことを誓う。27人の白血病の子どもたちと
その家族、総勢70人近くが参加。フエ中央病院小児科
で白血病を担当している医師団も参加。
今後、父母の会会長さんを中心に団結し、励ましあい、
要望をまとまるなどの活動をすることになった。
父母の会会長(写真右男性)
最後に全員記念写真
午前11時半全ての会議を終わり、昼食。
昼食は「アンフー」レストランでベトナム料理。
自室着午後1時。
1時間昼寝。
読書。
午後2時半、「子どもの家」へ。
マブベ笑顔の会の皆さんが、「子どもの家」の子どもたちに
小児針・タッチセラフィーの治療。
「子どもの家」では地球の歩き方Ⅴ班の皆さんが
子どもたちと遊んでいた。
今日は地球の歩き方Ⅴ班の最後の「子どもの家」訪問。
地球の歩き方Ⅴ班の皆さんが、お別れに子どもたちに
日本風「紙芝居」を上演。
「KOTA」という日本人が様々な人と出会い、色々な
活動をする。最後に「自分は人に少しは役立ったことを
したのだ」と述懐するという内容。
最後に記念の貼り絵を子どもたちに贈る。
全員写真
午後5時半、地球の歩き方Ⅴの皆さんはサンさん、ソンさんの
先導でホテルへ戻る。
午後6時半、日本料理店でフエ最後の晩餐会
ほぼ全員がベトナムの民族衣装「アオザイ」で登場
初めに税田さんの開会の言葉
添乗員さんの話(ビールとジュースなどはピースインツアーが
出します。飲み放題いにします)
参加者の中のリーダー(応援団員だどうだ)の乾杯の音頭
なかなか立派な話しをする。
つい先日まで南部山岳地帯の「金鉱細工現場」で騙されて
仕事をしていたリー君も副店長の肩書き通り仕事をしていた。
私はリー君に「一獲千金」を夢見るのではなく、コツコツとした
毎日の仕事を積み上げ、自分の力で生活を作り上げて
行って欲しいと話している。
宴も酣(たけなわ)。
9月の誕生日の参加者3人の「お誕生会」を行う。
最後に日本料理店スタッフの紹介をして晩餐会はお開き。
午後9時過ぎ、お開き。
その後、日本料理店・ベトナム事務所関係者で
後片付け。
自室着午後9時40分。
2007年09月14日
ACCLセミナー
晴天
午前6時起床。
午前7時朝食。ブンボー。
午前8時、ACCL、マブベ笑顔の会の皆さんと一緒に
フエ中央病院小児科へ。
今日はACCLとフエ中央病院主催の医学セミナー。
フエ中央病院小児科 ACCL主催
セミナー
小児ガンにつてい
2007年9月14日 フエ
ACCL参加の先生方による小児がん治療の現状、
鍼灸による痛み緩和療法、小児がんの家族の気持ちと
願い、ACCLのめざすものなどについての講演会。
初めにフエ中央病院小児科医長フオン先生の開会挨拶
会場にはフエ中央病院小児科・その他の科の医師30人。
ベトナム中部各病院の幹部医師でフエ医科大の修士課程で
勉強している医師。フエ医科大の実習生など100数十人が参加。
セミナー講演の初めは東京医科歯科大学・小児ガン専門の
小児科医T先生。
続いてアメリカに留学しその後現場で研修を積み上げ
現在は東大大学学院医学系研究科で小児ガンの専門研究を
しているA先生の講演。
T先生とA先生の講演後、質疑応答。
たくさんの医師が質問を行いT先生・A先生が答弁する。
かなり医学の専門用語が出てくる。医学専門用語は
私の英語の能力を超えていた。
その後、国立ガンセンターで緩和ケヤ科針外来を
行っているS先生の講演。ガン患者の痛みを薬を
使わずに針で緩和する施術を行っている。
弟さんが小児ガンにかかり苦労している患者家族を代表して
Nさんの報告。医師の立場ではなく患者・その家族が小児ガンと
どう立ち向かっているのかを丁寧な英語で報告。大学生との
こと。オールマイティーのベトナムの医師に対しては、かなりの
インパクトがあった講演。私も聞いていて涙が出てきた。
家族の思い・心情がよく表現できていた。
最後にACCL代表の渡辺和代さんがNGOとしての
ACCLの重要な役割り、小児ガンの子どもたちにとって
医療と心のケヤ・社会的支援などの重要性を説明。
ご前11時過ぎセミナー終了。
全員で記念撮影。
午前11時半過ぎ、昼食。マブベ・笑顔の会、ACCL、バオミンさん
私で昼食。
午後1時、自室。
昼寝。30分。
午後2時、ベトナム事務所へ。山梨大学のSさんと懇談。
Sさんは、卒論で「ストリートチルドレン」について研究すると
言う。
午後5時半まで懇談。
午後7時から地球の歩き方添乗員さん・リー君と
日本料理店で夕食。リー君は朝早くから地球の歩き方Ⅴ
の皆さんとナムドン山岳地帯へ。
午後9時前、自室へ戻る。
2007年09月13日
ACCLフエ中央病院訪問
晴天 夕方小雨。
午前6時過ぎ起床。
午前7時朝食。ブンボー。
午前8時、ACCL(アジア・チャイルド・ケア・リーグ
代表渡辺和代)の関係者とフエ中央病院へ。
ACCLはベトナム中部の「小児ガン」特に小児白血病
の子どもたちの支援を行っている。
今回はACCLに協力している小児ガンの専門医師、
緩和ケアーの専門家、小児ガン患者の家族などが
参加。
午前8時半。フエ中央病院院長と会談。
その後、フエ中央病院小児科へ移動。小児科医長、小児ガン
担当医師との懇談。
その後、小児ガン病棟の視察。
午前11時過ぎ、フエ中央病院を出て、昼食へ。
バオミンさんはACCLの皆さんと昼食。
私は「マブベ・笑顔の会」(大極安子代表)の皆さんと
昼食。
昼食前にマブベ・笑顔の会を通して「子どもの家」に
送られた寄金を頂く。感謝。
●日本の片山様からの寄金を頂く。
●マブベ・笑顔の会・高木様・福田真弓様よりの寄金を頂く。
その後、マブベ・笑顔の会の皆さん4人と昼食。
フォー、ベトナム風ラーメン、肉まん、チャーハンなどを食べる。
美味しい。満足。
午後12時半、自室に戻る。
昼寝。
読書「三たびの海峡」。非常に面白い。引き込まれる。
午後2時、ACCLの皆さんと再度、フエ中央病院へ。
二組に別れ、小児白血病の治療の専門的な問題を
話し合うグループと、小児白血病の子どもたちと
折り紙で交流ケアーをするグループに分かれ行動。
白血病棟の子どもたちの部屋に行く。両親が
ベッドについて世話をしている。子どもたちは当初
暗い顔をしていたが、折り紙を見せて、一緒に
作り始めると生き生きとした顔つきになってきた。
医療というものは、もちろん物理的に病気を治すことが
基本なのだろうが、折り紙を見せ、作り出すと
寝ていた子どもたちに笑顔が出てきた。一緒に折り紙を
作り出すと、子どもたちから笑いが出てきた。
こうしたことも広い意味の医療行為なのかなと思った。
子どもたちが生きたトータルとしての人間である。
病気になったモルモットでなはない。毎日の生活に
喜びと楽しみ、苦しみと悲しみがあるはずだ。
フエ中央病院小児科病棟はアメリカのNGO支援で作られた。
海外支援はどうあるべきかを端的にあらわす実例のようだ。
アメリカのNGOはフエ中央病院内に「アメリカ流の小児病院」を
多額の資金を投資して作った。飽くまで善意な支援である。
投薬はテレビモンターに番号表示をするシステム。しかし、完成後
このテレビ投薬システムが稼動したことはない。ベトナムの
現実に全く合わないもの。使われていない。最近では
たくさんあったテレビモニターが撤去されている。
違うところで使われているのか?
小児科病棟は全ての部屋にエヤコンがあるということを
前提に設計された。小さな窓。外部の空気が入らないように
配慮された設計。しかし、現実にできあがっらアメリカ流
エヤコン用小児病棟には、電気代がかかるという理由で
フエ中央病院はエヤコンを入れていない。
エヤコンが入ることを前提にして作られた小児病棟。
窓が小さく、部屋は密封状態。エヤコンがないと
地獄の温室である。小児病棟の白血病の子どもたちは
密封された部屋でエヤコンもなく居たたまれないほどの暑さと
湿気の中で耐えていた。国際支援は、現実を知るべきである。
自国が進んでいる、進んでいる自国のものさしで遅れたベトナムを
支援すると言った思い上がりを捨てて、子どもたちの実態、
ベトナム社会の実態を知るべきである。
日本のODA支援で出来たフエ中央病院の
病棟も事実上お金持ちの人たちしか入れない病棟と化している。
午後3時40分。活動を終了し、ACCL、フエ中央病院小児科の
医師の皆さんとトゥアティエンフエ省人民委員会へ。
ホア副知事への表敬訪問。
その後、ホア副知事招待の晩餐会
午後7時過ぎ、晩餐会終了。
午後7時半から地球の歩き方スタディーツアー添乗員と
日本料理店で懇談。午後8時半まで。
今日は朝から1日中の活動であった。
日本の政治情勢を把握することが出来なかった。
安倍自爆辞任後の情勢はどうなっているのか?
今回の安倍自爆辞任を私なりに「総括」してみた。
原因は二つ。
第1は、安倍首相を後継者ににしたのは、小泉元首相である。
今回の辞任の最大の原因は、「小泉構造改革」が結果として何を
もたらしたのか?である。国民的な格差の拡大、真面目に働いても
生活保護以下の収入にしかならない「ワーキングプア」の増大。
結果的に安倍首相の「改革路線」は本当の改革ではなく、
日本の大企業のための構造改革、貧しい人、弱い立場の
人や地域を犠牲にした「ニセ構造改革」だった。貧しい人々、
真っ当に働く人々が馬鹿を見る「構造改革」だったのである。
参議院選挙の大敗は、基本的には、小泉路線を継承した
安倍内閣の路線への否定。
第2に、安倍首相の個人的なパーソナリティーである。
戦前への復帰としか思えない「アナクロニズム」内閣であった。
「戦後レジームからの脱却」「狭義の従軍慰安婦はなかった」
など、世界に通じない狂信的な思考。北朝鮮問題なども
強硬路線一本。アメリカの路線転換で安倍路線は、世界の
流れからも取り残され自縄自縛状態となった。
客観的に見ると安倍首相は、にっちもさっちも行かなくなり、
自爆辞任せざるを得ない所まで追い詰められたのではないかと
同情する。力と経験のない阿部首相を」持ち上げた周りの
人物の責任が大きい。安倍首相を事実上後継者にした
小泉全首相の責任は大きなものがある。
海外メディアの安倍辞任は以下のよう。それぞれ核心をついて
いるように思われる。
①米紙ワシントン・ポストは、安倍首相が7月末の参院選で
惨敗して以来、「生けるしかばね」
②ニューヨーク・タイムズは首相は「明らかに闘う度胸を持って
いなかった」と戦意喪失の様を紹介。
③英フィナンシャル・タイムズは「武士道ではない、
臆病(おくびょう)者(チキン)だ」
④インディペンデント紙はスローガンの「美しい国」と国民の生活
に即した関心との「格差」などから「『権力のおごり』の教科書だ」。
⑤イタリアの有力紙レプブリカは「若い才能と目されていたのに、
彼の政府はへまと素人的振る舞いにさいなまれていた」とした。
⑥ドイツの経済紙ハンデルスブラットは、「政権は風に揺れる竹の
ようにいつも外因になびいていた」と表現した。
⑦アルゼンチンのニュースサイト「ウルヘンテ24」「日本流のハラキリ」
の見出しで、「スキャンダルで5人の閣僚が辞任や自殺をし、
首相は351日の間、ひ弱な政権を守るのに必死だった」。
⑧英BBCのスペイン語版サイトは「翼が短かったタカ」。
⑨韓国紙はほぼ全紙が1面で辞任を伝え、
「運もなかったが、危機管理、内閣統率はどうしようもない水準との
評価を受けた」(朝鮮日報)、
「最後までちゃんと判断できなかった」(中央日報)。
⑩中国では新華社通信が「安倍政権が国民の支持を失い、
自民党内でも求心力がなくなったため」と論評。
「タカ派、麻生氏が後任へ」(英字紙チャイナ・デイリー)
などと早くも「ポスト安倍」に関心が集まっている。
⑪ロシアの主要紙コメルサントは「日本は政治的カオス
(混乱状態)に入った」と報じた。
⑫台湾では安倍首相を「親台派」とする見方が一般的で、
論調は惜しむ声が圧倒的。
⑬香港紙「明報」は社説で、安倍首相が小泉前首相と異なり
靖国参拝問題でアジア諸国への配慮を見せた点を高く評価したが、
「それが安倍政権が放った唯一の輝きだったとも言える」とした。
世界のマスコミもそれなりに日本の実情を正確に伝えている。
誰が後継者になっても自民党の歴史的退潮傾向は阻止できない。
自公政権の破綻を内外に明らかにした安部自爆辞任であった。
2007年09月12日
地球の歩き方Ⅴ「子どもの家」へ:安倍首相「自爆辞任」
晴天 今日は雨は降らなかった、と書いたが
夜に豪雨。
午前6時起床。血圧測定。高い。
午前7時朝食。フォー。
午前7時45分、地球の歩き方Ⅴの泊まっている
ホテルへ。
ホテルには今日の案内担当者のハンさん、ソン君が来ていた。
添乗員と話し合っている。
午前8時。地球の歩き方Ⅴの皆さんがロビーに集合。
今日の日程等の確認。
バス2台でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所員の紹介。ベトナム事務所・刺繍みやげ物店参観
午前8時45分。「子どもの家」へ到着。
セン運営委員長の歓迎の挨拶。
最後の地球の歩き方Ⅴ側の出し物(歌:世界にたった一つの花)
交流会終了後、税田さん・ハンさんのグループに分かれて
「子どもの家」各施設参観。ソン君は税田さんの説明の
グループに入り、税田さんの説明の仕方を勉強中。
午前10時から午前11時半までの1時間半、講演をする。
講演会終了後、「子どもの家」を後にし、昼食。
「フォーサオ」。米うどん炒め。
午後12時半過ぎ、自宅へ戻る。CNNを見ると安倍首相の辞意
の報道。CNNの画面に「ABE RESIGNS」とある。
まさか「自爆辞任」では? と思い、急いでインターネットを
開ける。やはり記者会見で「政局の行き詰まりを打開すべく
辞任を決意」とのこと。
午後12時半過ぎから1時間ほど昼寝。
読書「三たびの海峡」(箒木蓬生著)
日本の朝鮮植民地時代。朝鮮の若者をどのように
強制連行し、九州の炭鉱で働かせたが、詳細に描かれている。
麻生幹事長の麻生財閥が巨万の富を手に入れたのは、
朝鮮人を強制連し九州の炭鉱で牛馬のように働かせ、
酷使した結果得た富であることが書かれている。安倍首相の
後継者としての麻生氏の適格性を告発しているような内容。
箒木蓬生氏がどんな経路を辿って、この問題を本に
したのか、非常に興味のあるところ。
午後2時半、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校で
「ベトナム語講座」。フーン先生からベトナム語の基本を
学ぶ。
日本語学校の生徒と勉強したてのベトナム語を使って会話の
練習。
午後4時半、ベトナム語講座終了。
アオザイ屋へ。バオミンさんのお母さんが経営する
アオザイ屋がベトナム事務所の隣りに出来た。
今まで行っていたアオザイ屋より布の品数が多く
完全オーダーメイドで絹のアオザイが30ドル。
地球の歩き方Ⅴ参加者の多くの人がアオザイを作る。
15日夕方、日本料理店での最後の晩餐に着て来る予定。
アオザイ作りは午後5時半まで続く。
日本料理店に行く。リー君が給料のことで話がしたい
という。サンさんを通訳にベトナム事務所2階の会議室で
リー君と話す。
リー君の「賃上げ交渉」である。
リー君には1ヶ月61万ドンの手取りがわたっている。
一般の初任給に比べれば割高の水準。
しかし、リー君に一度に給料を上げると、直ぐに全額
使ってしまい、家賃や毎日の食事代、生活費が
直ぐになくなり、「生活が出来ないからお金が欲しい」
と言いに来る。そうして経過を踏まえ、税田さんの方で
給料から家賃(日本料理店で直接大家に渡す)を差し引き、
残った給料を30日で割って1日1万ドン強をあげている。
朝食と昼食代などでも何とかやっていける金額。
リー君はお金が足りないと言う。リー君の回りの
友達が携帯電話をもったり、オートバイをかったりして
いる現状を見て、リー君もお金が欲しくなるのは理解できるが、
同時に自分の客観的におかれている状況も理解しないと
いけない。日本料理店に勤め、夕食込みで月収手取り61万ドン
はけして悪い金額ではない。コツコツと仕事をして自分の
「身の丈にあった」生活をしなければならない。
フエは「小バブル」状態。自分の生活・給料がそれほど
ない子どもたちや人間が「贅沢な生活」を知ってしまったり、回りに
そんな友達や人間がいると、どうしても「自分もそうしたい」と
欲望に駆られる。致し方のないことではあるが、そうした自分を
押さえる自分をもつことをリー君に教えたい。
私から「毎日の仕事を責任持ってすることが一番大事」「仕事も
きちんとしないで給料やお金のことばかり考えても駄目だ」。
「リー君は突然金鉱に行ってしまい、日本料理店は副店長・
警備員がいなくて困っていた」。「リー君も20歳になった。
今後は、責任ということをしっかりと自覚しなさい。仕事をして
お金をもらうということが人生。仕事もしないで、お金をもらおうと
しても無理」。そんな話をし、10月から毎日12000ドン手渡し
家賃は自分で大家に届けることになった。
午後5時半、日本料理店の夕食。リー君も自然な形で
子どもたちの輪の中に入り、夕食を食べていた。
午後7時半、バオミンさんがトンチンカンホテルに迎えに
来てくれる。二人で「ACCL」と「マブベの会」の
出迎えにフエ空港まで行く。
午後8時50分到着。ACCL5人中4人の荷物が
ターンテーブルに乗ってこない。バオミンさんが
調べたら、大型ジェット機の予定が人数が少なかった
ためにプロペラ機に変更になった。この変更のために
乗客の荷物をプロペラ機に積み込むことが出来なかった
とのこと。10数人の人たちの荷物がホーチミン市に
置いたままになっている。ベトナム・ドイモイ政策の
行き着く先は企業倫理も責任もかなぐり捨て、
ただ「金儲け」に走る醜い姿である。
ジェット機の燃料代が高いのでプロペラ機に代えたのは
ベトナム航空の事情。そのために最初からお客さんの
荷物を全部積み込めないことは分かっていたのである。
お客さんの荷物がつめなくても、燃料代を節約する
というおよそ社会的・国際的な責任を果たせない
ベトナム航空である。
などと息巻いてもみても日本も同じようなもの。
雪印から白い恋人まで、営利目的のために
何でもする体質になっている日本である。
結局、予定より30分以上遅れてフエ空港を出発。
雨が降ってきた。
その足で夕食。レストラン「フォーザイゴン」着は午後10時。
皆さん(9人)は、フォンザンホテルに投宿。
ACCLの皆さんは、フエ中央病院小児科と提携し
ベトナム中部の「小児白血病」の子どもたちの
治療・父母の会の支援・交流を行う。
マブベの会は、小児針・タッチセラフィーで子どもたちの
治療を行うことが目的。
両NGOの目的達成を祈る。
トンチンカンホテルに戻ったのが、午後10時半過ぎ。
NHK衛星放送が切られてしまったので、日本の詳細な情報が
入ってこない。
安倍首相の辞任は、筋も道理もない辞任である。自爆といった
方がよい。
本来なら参議院大敗を受けて辞任するのが憲政の常道である。
辞任要求を蹴飛ばし、「美しい国路線を更に実行する」という
趣旨の理屈をつけて、内閣改造。直ぐに農水大臣辞任。
そのほかにも何人もの大臣、党三役が金と政治疑惑。
シドニーで「テロ特捜法」が「国際公約」、職を賭けても
延長・新法成立させると大見得を切っていた。
数日前に国会が開会し、安倍首相は所信表明演説をし、
テロ特捜法は国際的約束。どうしても延長か新法を作ると
表明。
今日は、首相の所信表明演説に対する各党の質問の
予定だった。そんな日に突然の辞任表明。
何とも言葉が出ない。理屈も道理も何もない、やはり「自爆」
である。あとは野となれ山となれなのだろうか。
インターネットで安倍首相と小沢民主党代表の
記者会見の内容を読んだ。
安倍首相の記者会見では、何故今、辞任するのかが
全く説明されていなかった。記者会見の内容そのものが
しどろもどろ状態。読んでいて可哀想になる
記者会見の内容。政治の素人であった。首相になるべき
人材ではなかった。
小沢氏は古だぬき。数枚上手の記者会見であった。
今日夕刊、明日の朝刊に安倍自爆辞任はどのように
書かれているのか、興味のあるところである。
KYという言葉があるそうだ。「空気が読めない」という意味の
ようだ。日本最大の「KY」は安倍首相ということになる。
自分がどんな位置にいて、国民がどう見ているのかが
全く読めない人だ。誰かブレーンはいなかったのかな?
などと同情してしまう。今後、国政がどう展開するのか
興味津々。
この際、衆議院を解散し、国民の信を問うのが
政治の基本なのではないだろうか?
自民党の誰が総裁になろうと国民の直近の意向は
安倍首相の「構造改革」に異議を唱え、『美しい国路線』に
疑義を唱えているのである。
国民の総意を聞いて、政治を行うのが民主政治の
原点ではないだろうか?
CNNのトップニュースは、インドネシアの地震。
2番目が安倍首相の辞任表明(数秒)。
三番目がロシアの内閣辞職。
2007年09月11日
地球の歩き方Ⅴフエ着
晴天
気温32度。湿度70%。
午前5時起床。血圧高し。
読書「三たびの海峡」。
午前7時朝食。ブンボー。
午前8時半、福島大学・早稲田大学の学生さんと懇談。
午後1時まで。ベトナムの事情、「子どもの家」、子どもたち
日本の教育の問題など・・・・・。
昼食の時間なし。
昼寝 1時間。
午後2時半。フエを訪問する静岡の製紙会社の関係者と
連絡。
静岡市役所とメール連絡。
体がだるい。ベッドに横になる。
ーーーーー
1週間ほどかけて「VOICE 2007年4月号」
「特集:格差が日本を強くする」の9人の論文を
全て読んでみた。
論者は全員現実の格差がどのような実態になっている
のかを論じてはいない。どの論者も「理念」だけの
空中戦。現実をきちんと分析し、そこから格差が必要との
結論を導き出す思考法が必要かと思われる。
これら9人の論者に以下の現実を示すだけでも十分に
意味のあることだと思う。
現在、働きたくとも仕事のない若者たちが増えている。
駅のごみ箱などから汚れていない週刊誌を集めて業者に
販売する若者は、一日の収入が400円だそうだ。
全給与所得者の5人に1人は年収200万円以下
(国税庁「民間給与実態調査結果」2005年)。
15歳から34歳までの非正規雇用者は27・2パーセント
(総務省統計局「労働力調査結果」2006年)で毎年増加している。
全給与所得者の20%は年収200万円以下と国が認めている。
真面目に働く日本人の5人に一人がほぼ生活保護費と同等の
収入しかないのである。正社員でない若者は若者の3人に1人
に近い。
能力がない、意欲が乏しい、現在の社会に合わないなどと言って
みたところで、給与所得者の20%が年収200万円以下という
事実は、政治や労働政策の結果でしかない。年収200万円以下
ということは月収16万円以下。家を借りて食べていくだけで精一杯
の国民が20%もいる現実をどの論者も語ろうともみようともしない。
若者の3人に一人が非正規雇用(パート・派遣・アルバイト)である。
これらの若者が仕事に習熟し、今後の日本社会を背負っていくための
トレーニングさえ出来ない現実である。日本という国家の未来を支える
若者の危機的実態である。
現実を見ない・見たくない人々は、「心構え」「お説教」に終始する。
何事も現実を見ることから出発するのではないだろうか?
怠慢やさぼりで年収が200万円以下ではないことを知るべきである。
ーーーー
午後5時。地球の歩き方Ⅴ添乗員さんから電話。
35人、全員が無事ホーチミン空港へ到着とのこと。
搭乗者が少なくなったのかホーチミン市からフエへは
プロペラ機に変更されてしまった。通常1時間で
行く距離だがプロペラキ機は2時間かかる。
フエ到着が大幅に遅れる。午後8時半の予定。
午後5時過ぎ、豪雨。秋近しか?
例年、9月15日頃台風でフオン川が洪水になる。
今年はどうなるか?
午後7時45分。バオミンさん・ソンさん・サンさん・私で
地球の歩き方Ⅴ班の皆さんの出迎えに行く。
飛行機が遅れフエ空港着は午後9時前。
●出迎えのベトナム事務所スタッフ
●フエ空港で全員記念写真
国道1号線を北上。午後9時半、「フォー24」へ。
米うどんのフォーの夕食。
フォー24で食事をし、午後10時半にホテルへ向かう。
ホテルチェックイン。セフティーボックスがなく、一人一人が
封筒に貴重品を入れ、セロテープで封印する。
フロントは1人しかいない。2~3人位スタッフを出すように
言うが、「時間が来たので全員帰ってしまった」との返事。
結局、30分ほど、かかり、セフティーボックス代わりの
封筒預けを終わる。各自、部屋に行き、①トイレの水
②温水シャワーがでるか ③冷蔵庫は使えるか
④エヤコンは使えるか のチェックをしてもらう。
こんなことをお客がチェックしなければならないサービスの
現状である。お金を取ることには熱心だが、義務を果たす
ことにはいたって無関心な昨今のベトナムである。
30分ほどロビーで待つ。お客さんが来て「温水シャワーが出ない」
という。係りの人は「明日直すと行っている」とのこと。
「明日では駄目だから」といい、ミンさんに行ってもらう。
20分位すると、外から工具をもった職人さんのような人が
ホテルに入ってきた。温水シャワーを直そうということらし。
時刻は既に11時を過ぎている。お客さんは今朝4時頃起きて
成田・関空へきているので相当疲労が蓄積している。
「今からシャワーを直すのではお客さんの寝る時間がなくなる。
部屋を変えてもらうように」に言う。
そんなことをしているうちにシャワーが出るようになった。
掃除の叔母さんがシャワーの元栓を勝手に締めてしまった
とのこと。
しばらく部屋の問題がないか、添乗員さん・バオミンさんと
ロビーで待つ。
全て終了したのは、午後11時半。
部屋に戻る。
今日は9・11NYテロの6周年。9・11テロとその後の
各国の国民・指導者の対応がどうだったのかを
ある程度客観的に分析できる6年間でもあった。
2007年09月10日
打ち合わせ:訪問者対応
晴天
午前5時起床。
午前7時朝食。フォー。
午前8時半。徒歩、ベトナム事務所へ。
今日は8月・9月のスタディーツアーが多い中、わずかに
空いた一日。
ベトナム事務所でバオミンさん・税田さんと当面の諸問題に
ついて話し合う。午前11時まで。
昼食。そうめん。
午後1時から1時間昼寝。
午後2時、読書「三たびの海峡」(帚木蓬生 ははきぎ ほうせい著
新潮文庫)
著者は1947年生まれ。私と同い年。朝鮮・韓国問題を
底流に含んだ作品を読み始める。
筑豊炭鉱に強制連行され強制労働させられた朝鮮人から話は
始まる。
午後3時、徒歩ベトナム事務所へ。
日本人の訪問者あり。東北大の学生。ストリートチルドレン
などについての話を聞きたいとのこと。
30分ほど学生さんと話す。大変真面目な学生さんだった。
今日からホーチミン市へ行き、ストリートチルドレンの施設で
数日体験をするという。
午後5時半、日本料理店で夕食。本当に久しぶりの夕食。
鮭の刺身・・・・・・。
その後、JASSスタディーツアーの皆さんが寄贈していった
欠氷のタレで「欠氷(かきごごり)を食べる。メロン。
午後6時半、日本料理店開店。リー君がどこかへ行ってしまった。
放浪癖のある人間だ。
日本人2人、ペルー人とイギリス人。
午後8時過ぎ、リー君が日本料理店にやってくる。
給料が安いと言う。明日、午後2時半にバオミンさんと
一緒に話し合おうと答える。
つかの間の来客なしの時間。店長・副店長の密談。
午後9時前閉店。4人の来客。
日本料理店玄関
国会が開会。安倍首相が所信表明演説。2行読み飛ばした
そうだ。疲れているのだろう。
シドニーでの「テロ特捜法が延長出来なければ、首相を
やめる」との趣旨の発言をした。新聞には「安倍首相の
自爆」とか「退路を断つ」などと書かれている。
成算のない中での「首相辞任言及」は、与党の中でも
疑義がでているようだ。加藤紘一氏は、「最後の切り札を
最初に出すのは、政治の常道を逸している」という趣旨の
発言をしている。
この首相は大臣の経験もない。党内の経験も少ない。
本来首相になるべき人材ではない。拉致問題の
強行意見で一時国民に人気がでたように自民党の
幹部が錯覚して「間違って首相になった」人のように
思われる。問題が起こった時の処理の仕方を見ると
経験不足は否めない。適切な処理が出来ないでいる。
今回の「首相辞任」とも取れる「テロ特捜法延長」問題での
発言もじっくりと考えられての発言ではないように思う。
しかし、総合的な流れは、既に「死に体」状態であることは
明らかである。本来、参議院の大敗で辞任すべき立場の
人間ではある。いつ辞めてもおかしくないともいえる。
民主党など野党は、今度の総選挙まで「お坊ちゃん首相」
にやってもらいたいと、心の心底では思っているのではない
だろうか?
これだけボロボロと無能を曝け出す首相もいない。相手としては
組み易い。
2007年09月09日
地球の歩き方Ⅳ(23人)・全国大学生協ツアー(26人) ホーチミン市へ。
晴天
気温34度。
午前7時起床。
読書「VOICE 2007年4月号」。
『父と私』は興味のある内容だった。
15人の著名人が、父親の思い出、関係を綴ったエッセー。
金田一秀穂氏は、祖父金田一京助、父金田一春彦と3代
続いて言語学者の家庭。
富山に講演会に行き、「おわら風の盆」のおわら資料館に行く。
資料館を訪れた有名人のリストに父春彦氏の名前を見る。
また、富山の薬売りの薬問屋へ行く。そこにも父春彦氏の
色紙を見る。父親も以前ここに来て自分と同じように講演会を
したのか、と感慨に耽ったと言うごく短い文章ではあるが、
父親と息子の遠くて近かい不思議な距離感を感じた。
父と息子はこうした何気ない所でその存在を意識するのだな
と思った。
ジャーナリストの徳岡孝夫氏は長男。父親との対立と葛藤
のまま、父親を亡くす。亡くなる前の最後の大晦日を父親と
過ごす。徳岡氏の妻が2000円のお刺身の特売品を買って来た。
「お父さん、どうそ」と徳岡氏が勧める。刺身の大好きな父親は
箸を伸ばしたが、箸が動かない。父親は箸を宙に浮かしたまま
泣いていた。子供や孫に囲まれた賑やかな団欒のうちに送る
大晦日に父親は感極まったそうだ。妻を27歳でなくし独身だった
父親の胸中が初めて分かったという。小林一茶が
父親を看取った時の句。「父ありて 明けぼの見たし 青田原」。
(青田原は田植えも済んだ青い田)
評論家の小浜逸郎氏。子供の頃、毎晩、飲んだくれて帰ってくる
父親。父親が母親をなじる。小さい小浜は母親が可哀想で
父親の背中をぽかぽかと力いっぱい殴り続けた。
父親はそれをなすがままにしていたという記憶があるそうだ。
自分が2児を育て終わって、父親の生涯を知るにつれ、
父親が飲んだくれていた気持ちがやっと理解できたという。
戦前の旧帝大を出た父親は、戦前、大陸の商社マンとして
大きく活躍していたそうだ。戦争に負け引き上げ。全てを失い、
仕事もうまく行かない。エリート意識は捨てきれず、生活と
意識のずれに悩み、酒を飲んでいたことを理解できるように
なったという。
午前10時、ブランチ。
昨晩の地球の歩き方ツアー夕食会の残りをお土産にしてもっら
ものを食べる。固いご飯、コロッケ、野菜炒め。少し油が舌に
残る。
メール送受信。
いくつか、大きな問題について、関係する日本の方に長文の
メールを送る。
午後12時半、昼寝。
午後2時45分、ズイタンホテルへ。地球の歩き方ツアーⅣ班の
皆さんの見送り。皆さん、元気にホーチミン市へ。
夕方。「VOICE」(PHP出版)の『父と子』のエッセーが頭に残る。
私は一体、父親とどんな関係だったのだろうか?
私の高校2年の時、脳溢血で急死した。52歳で生涯を終えた父。
1910年(明治43年)生まれ。1930年に徴兵検査で甲種合格。
それから敗戦まで15年間。中国大陸で戦い続ける。
戦後引き上げて来た時は、36歳ということになる。
成人した時から戦争に突入し、海外で戦争を行い敗戦で帰国。
結局、私の父親は、自分の正業をもち、経験を積み一人前になる
前に36歳になってしまった年代なのである。正業は「軍隊」
ということになる。小学校卒の学歴しかない父親であった。
二等兵から始まり軍曹で敗戦。現場の第一線で戦争を戦い
生死をさ迷った層に該当するのだろう。
そんな青春と人生を経てきた父親は、終始『軍隊生活』が身について
いた。死ぬまで越中ふんどしをしていた。
論議は嫌い。言い訳をするとすぐに「ぶん殴る」父親だった。
また、軍隊時代もかなり反抗的な態度が多かったようだ。
筋の通らない上官とけんかをして「重営倉」(刑務所)送りに
何度もなったと母親が言っていた。
正義感の強い、短気な「軍隊のたたき上げ」人間と言ったところ
だろうか?
私は戦後教育を、生まれた時から受けた。戦後民主主義教育。
話し合い、男女平等、暴力はいけない・・・・・・・。
戦前の軍隊人間だった父親といつもぶつかっていた。
私が家出をしたのは、小学校2年生だった。
私にとっては理不尽な父親の暴力に抗議し、家出を敢行。
近くのゴミ箱で一夜を過ごした。その後、何度も父親と
ぶつかっている。ぐたぐた文句を言うなといわれる。
私は私で学校で「民主主義」を学んでくる。旧陸軍と
戦後民主教育の激突である。小学校2年生で父親の
「理不尽な暴力」に抗議し家出をしてから何度家出を
したか分からない。父親にすれば実に反抗的な息子だった。
私からすれば何でも精神主義・暴力で解決しようとする大人に
見えた。父親とぶつかり家出をするのは、中学1年生位まで
続いたろうか? 「父親が出て行け」という。私は、「暴言を
吐いて出て行く」。母親が私の後についてきて、「お父さんに
謝りなさい」という。絶対に謝らない。家出をして、路上でも
どこで寝てもいい。こんな理不尽ことには、徹底的に
闘ってやるとの気概に燃えていた中学生の頃であった。
父親は職人だった。そして中国から復員して企業を立ち上げ
大成した。しかし、戦後の経済的な混乱も原因して倒産。
いつも朝から飲んでいた。毎日ビール1ダース位は飲んで
仕事をしていた。夜になると職人仲間を家に呼んで毎晩
酒盛りをしていた。母親は「絶対に大人になったら酒飲みになって
っては駄目よ」と言っていた。
今から考えると中国から帰り、企業を興し大成し
そして倒産。不遇のまま死んでいった父親はやはり何か人生を
考えるものだがあったのではないかと思う。
父親が毎晩、職人仲間と酒盛りをしていた理由が最近
やっと分かるような年齢になってきた。
ある時、父親がその酒盛り最中に私の通知表を酒盛り
仲間に見せて『自慢して』いた。私には、本当に意外な
出来事だった。いつも暴力で私を押さえつけようとしている
父親である。私の通知表を仲間に見せて自慢している
父親。今はその気持ちが分かるようになったが、
当時は全く理解できなかった。高校2年の時、突然
脳溢血で死ぬまで父親は私の最大の「闘争」相手だった。
それから43年。今や私は忌み嫌った「飲酒」の常習者と
化している。上官に反抗して軍隊の刑務所に入れられた
父親と同じように「貧しさと・不平等な社会」に反抗している私で
ある。マルクスが「否定の否定」と言ったそうだが、
結局、43年経って、私は父親と同じ道を歩んでいるので
ある。父親が倒産し、家が最貧困の真っ只中にいた時、
家の前を歩いていた「物乞いの老婆」におにぎりを作って
食べさせていた父親の後ろで、私は何であんなに怖い
父親が、こんなにやさしい行動を取るのか不思議に
思っていた。我が家自身が食うや食わずの身の上なのだ。
物乞いの老婆におにぎりをあげるDNAはまさしく私に
伝わっていることを確信する今日この頃である。
このDNAが我が子と孫に正確に伝わって欲しいという
気持ちと、この爆発するDNAが伝わると人生がはじけてしまう
という危惧の気持ちがない交ぜになり複雑な気持ちになっている
のも事実である。最愛の孫、はなさんと夏人君の人生に幸あれ。
でも曽祖父のDNAからは逃れなれないぞ。
夕方。DNAのお呼びで一杯飲みたくなった。食料が枯渇している。
自室の近くの路上の飲み屋に行き、スルメを2枚を焼いてもらう。
350円。お店の親父が「あんたの日本料理店は閉店したね」
という。よく知っているものだ。
部屋に帰り、スルメを小さく切り、醤油に漬ける。
フダビール3本、英勲(純米大吟醸)をスルメをおつまみに飲む。
これも父親のDNAと理屈をつけて。美味しい。
私は家出の専門家だ。小学校2年から家出を繰り返し、現在も
ある意味で「家出の真っ最中」である。
「家出おじさん」と呼んで欲しい。
安倍お坊ちゃん首相の「年金の名寄せは2008年3月までに
完了」との公約が嘘であったことが判明した。特に驚く気持ちに
にもなれない。安倍首相の「言葉」は歴代の首相の中でも
際立って『軽い』。口先だけ。国民が首相の言葉の重さを
誰も信用していない。
舛添厚生労働相は9日、テレビ朝日の番組で、該当者不明の
約5000万件の年金記録について、政府が来年3月までに
実行することを約束している名寄せなどの作業について、
「(政府内には)『3月までにできる』と言った人はいないが、
できるとかできないではなくて、やらなくてはいけない。
政治決断で決めた」と述べ、実現に向けた見通しが立って
いないことを認めた。
安倍首相は7月5日の記者会見で、約5000万件の記録の持ち主を
社会保険庁のコンピューター上で検索する「名寄せ」と、記録の持ち主
である可能性がある人への結果通知を、来年3月までに完了するとした
記録問題への対応策を発表した。だが、「来年3月まで」という約束には
、具体的な裏付けがなかったことになる。
ということのようだ。「はあ、そうですか。」という言葉しか
出てこない。私も「消えた年金」ではなく「国家に盗まれた年金」
の該当者である。
安倍お坊ちゃん首相は2008年3月までに消えた年金の
名寄せを完了すると『公約』した。その舌の根が乾かない
うちに、「厚生労働大臣」が「ギブアップ」宣言をしてしまった。
そうでしょう。参議院選挙のために事実を確かめずにお坊ちゃん
首相が「口先だけ」で言っただけの意味のない発言。
今や政府高官、政治家の言葉は、基本的に信用できない
もの。こいつらに頼っていても埒があかない。
この連中は、生まれながらに「上流階級のお坊ちゃん」。
私たちのような庶民の生活は分からない。
私は毎月2万円の年金問題で怒っているのだが、
この連中は数千万円の政治資金をちょろまかしているのだ。
しかもその金は、税金である。
10月、日本に帰国したら、社会保険庁、共済年金に
行き、言いたいことはきちんと言ってみるつもりだが、
どこまで通じることやら。
シドニーで安倍首相は「テロ特捜法が延長できなかったら
退陣する」という主旨の発言をしているが、口先だけ。
今まで何回、口先男になっていたことか?
本当に言葉を失ったお坊ちゃん首相である。
私の「盗まれた年金を返せ」と訴えたい。
2007年09月08日
フエ某要人と懇談 :地球の歩き方Ⅳ「子どもの家」:大学生協農村ホームステー
晴天
午前5時起床。
この1週間血圧が150(上):100(下)を前後している。
通常は130:80程度。
薬は飲んでいるのだが? 原因は不明。
午前7時朝食。ブンボー。
午前8時から1時間ほど、メールの送受信。
午前9時からベトナム事務所でフエ要人と懇談。
バオミンさん・税田さんも同席。
1時間ほどの懇談。
その後、バオミンさん、税田さんと今後のベトナム事務所
のあり方、自立に向けての方策などを懇談する。
午前11時半、3人の話し合いを終え、帰宅。
昼食 コムディア(ほか弁)。半分ほど食べる。量が多い。
午後12時半から1時間昼寝。
その後、読書。「VOICE 2007年4月号を読む)
「もてる者としての気品」(板倉雄一郎:板倉事務所所長)
のっけから「結果平等」は間違っていると。
金持ち、勝者が何故、金持ち・勝者になったのかの過程を
知る必要があると。敗者、貧乏人は、社会に何かをして欲しい
と求めてはいけない。『社会が自分に何をしてくれるのかを
考えるのではなく、自分が社会に対して何が出来るのか、
を考えるべきである・・・・」。『今、自分自身が少なくとも
経済的に裕福であれば、もてる者としての「気品」を
忘れてはならないのだ・・。』と言っている。弱者・敗者は
怠け者と言っているだけの筆者よりは、「自分の富を
社会に還元せよ」と言っているだけましな意見ではある。
きわめつけは、「フリーターは贅沢失業だ」(奥沢禮子:ザー・アール
社長)である。
この方は、なかなか素直で率直な方と見た。その他の男性諸氏は
多少、奥歯に物の挟まった『意見陳述』であるが、奥沢さんは
ものの見事、物事の本質に迫っている。素晴らしい意見開陳。
戦後は「結果平等」を求めたが、今は「機会平等」の時代だ。
自分の得意分野を見つけ、契約社員でもアルバイトでも派遣社員
でも、ライフスタイルに応じた働き方をすべきだ。
そうした中で『自分の適性を見つけ、一生懸命に努力した人は、
それなりの評価がもらえ、高収入を得られる。これが機会平等
の社会だ』。
『親が豊かになり、子ども一人位は働かなくても困らなくなった。
・・・自分の能力を差し置いて、この仕事でないと嫌だとか、
丸の内や青山で働けなければ嫌だとか言ってはいないか。
こういうことは贅沢失業である』。
バブル崩壊後に就職期を迎えて現在30歳前後10年の
若者である失われた世代を問題にする人もいる。
これらの世代は努力が足りない。やる気、自分の気持ち
次第なのだ。いったんアルバイトやフリーターになると
そこから抜け出せないというのも一般論である。
「歯を食いしばる」ことが重要だ。「本当に努力している人は
愚痴なんか言わない」」。奥沢さんの言いたい真髄は、
人間の気持ちの問題、やる気の問題だといっている。
現在、ワーキングプアー、格差拡大社会も「気力」がない
人間が悪いのだとのこと。この人も「失われた10年」の
若者であったら、こんな間抜けな、現実を知らない意見は
いえないであろう。気力と気の持ち方で、格差社会がなくる
訳がない。政治である。人為的な政策からでたことである。
人間によって作られた格差社会である。人間によって
解決できる問題でもあるという認識ゼロ。人間の
気の持ち方に解消している、精神論。奥沢さんが、
下層社会の一員でなくておめでとうという言葉しか
出てこない。
「私が親を死なせる理由」(高村薫)
非常に内容のある文章だった。53歳の作家高村薫の父親は、
大正デモクラシーの影響を受け、絵を描き、自由人。
中国戦線に参加、復員。帰国後、中山鋼鉄勤務。
高村にピアノ、弟にチェロを習わせた父親。父親
からの贈り物は、父親の本棚にあったたくさんの
蔵書だったという。高村は言う。
『こんなことをいうと世間の皆さんに叱らせるかも知れません
が、私は親が健在であるうちは、50歳であれ60歳であれ
、その人はまだ子供であると思います・・・・・・・・・、
私自身、父と母を亡くしてようやく大人になったと感じます」。
「結局、親を乗り越えるなどというのは嘘で、心情的に言えば、
親は永遠です。だから、親は死んで初めて乗り越えられると
いう思いがある」。
「VOICE 2007年4月号」の特集「格差社会が日本をよくする」
を読んだ。ほとんどの文章が、声高に「結果平等社会」をなじり、
戦後社会の平等思想を非難している。そんな中で
高村薫の文章は、たんたんとしたものであるが、生きた人間を
しっかりと見据えている。格差社会万歳論者に共通な考えは
「生きた人間は平等」という思想を排斥していることである。
生きた人間に愛情を持った視線を投げかけている文書を読むと
ほっとする。
午後3時。メール送受信。
午後4時、「子どもの家」へ。
地球の歩き方Ⅳ班の皆さん(23人)が子どもたちと
最後の交流を楽しんでいた。
バオミンさん・ハンさんが案内していた。
午後5時近くになり、地球の歩き方の皆さんから子どもたちの
「ドラエモン」色紙のプレゼント。
ドラエモンの色紙をもらう子どもたち
いよいよお別れ。記念写真
全員で記念写真
午後5時過ぎ、「子どもの家」を出て、ホテルへ。小休止。
午後6時半、フエ最後の夜となる。最後の晩餐。
日本料理店で。
乾杯の音頭は男子学生
その後、23人の参加者とバオミンさん・税田さん・サンさん・
ハンナさん・私とで交流。
いつも日記に書くことではあるが、日本から来た大学生と
こうして交流すると実に「真っ当な」若者である。
私の学生の頃と基本的には変わっていない若者である。
60年代の半ばから後半にかけては、戦後史の中でも
最も政治的な高揚期であった。当時の若者・学生が
政治的行動に走ったのは、故あるものであった。
現在は、本質的には政治的行動に走るべき課題は
多いが、若者・学生に呼びかける「魅力のある」政党・
団体がないことが最大の問題である。
この8月・9月で250人ほどの若者が「子どもの家」や
JASS活動に参加する。こうした若者に思想信条の
違いを終えて、貧困との闘い、世界の平和、戦争に
絶対的に反対することを共に確認するスタディーツアー
にしたいと思っている。
自宅へ帰ったのは午後9時半。
「英勲 純米大吟醸 井筒屋 伊平衛」(京都伏見 斉藤酒造)
を飲む。美味しい。土佐珍味 「鰹塩辛 酒盗」をおつまみに。
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阪神9連勝。単独首位。貴方は偉い。いつも負けていて、
時々勝つ。時には、首位に立つこともあるが、最終的には
最下位に落ち着くところが貴方の魅力です。
今年は違いますよ。某札束球団をぶち倒し、首位に君臨。
このあとどうなるのでしょうね。某札束球団と「張り合う」
気持ちは全くない。某札束球団は、60年間政権政党に
ついていた某保守政党と同じ、「没落球団」。我が「しぶちん」阪神が
相手にする球団は既になくなっている。
今年は、優勝する可能性大。と言っていて、数日後に
最下位に転落するというのが、我が阪神の魅力。
どうなることやら・・・・・・・。
昨日も某札束球団のホームラン攻勢に対して、
コツコツと点を取る野球の基本球団に変身し勝利した阪神。
本当に力をつけているのかも知れない「シブチン」球団ではある。
(関東の50年間隠れ阪神フアン:阪神の優勝を阻止するベトナムの
会勝手連代表の声)。
阪神は、10年に1度程度優勝ところに魅力あり。
「忠臣蔵」に心を寄せる日本人の心にピッタリ。
「阪神に優勝してもらいたい・くない」複雑な心境。
これが関東の隠れ阪神フアンの心情。
2007年09月07日
地球の歩き方Ⅳナムドンへ : 大学生協「子どもの家」へ
晴天 夕方にわか雨
午前6時起床。
午前7時朝食フォー。
午前8時過ぎ、バオミンさんと一緒にフエ中央病院小児科へ。
小児科医長のフオン先生、医師のトアン先生と懇談。
9月12日からフエを訪問する「ACCL」(アジア・チャイルド・ケア・
リーグ:代表 渡辺和代さん)のフエ滞在日程の調整を行う。
ベトナム側の諸般の事情もあり、いくつかの滞在日程を
部分変更する。
午前9時半、ベトナム事務所で早稲田大学理工学部建築科の
先生と懇談。遺跡保存センターや省・市人民委員会との協力で
都市計画を行っているとのこと。2時間ほど、フエの諸情勢、
海外支援のあり方などを話し合う。
午後12時、昼食。昨夜の全国大学生協スタディーツアー
晩餐会の残り物をお土産にしてもらったものを食べる。
ご飯は固くなっているが、野菜炒め、マカロニサラダなどは
美味しい。
昼寝。疲れが出た。起きなれない。1時間ほど寝る。
洗濯。
読書「ニート対策はナンセンス」(大前研一)を読む。
落ちこぼれのニートを救済しても意味はない。
彼らは、『旧来の工業化社会の中で脱落した人たちである』
『ニートやフリーターは、その工業化社会用に作られたシステム
に適応できない人々であるわけだが、21世紀型の産業が
台頭する世の中で、いまさらニートを古い工業化社会に
適応させて、どのような使い道があるというのか』(原文)
大前はこんな問題意識を持っている。
そして、解決策として『日本の優先課題は、中国やベトナム
に行っても見つからないほど優れた能力をもった
プロフェッショナルを育てることだ。それも大量にではなく、
たった一人で良い』という結論である。
随分大雑把な論議である。大前の言っていることは、
極少数のエリート天才を育てることで、日本は再生すると
主張している。ニートやフリーターなどは、切り捨てても
仕方がないという結論。
ああ、そうですか? という言うしかない暴論に思えた。
この人も自分がニートやフリーターになることはない
との「別枠の立場」にいるので、こんな主張が出来る
のだろうな、と思った。発言の自由は誰にでもあるが
批判の自由もある。
午後2時半、電動バイクで「子どもの家」へ。
途中、雨が降ってくる。
「子どもの家」では、大学生協スタディーツアーの
皆さんが子どもたちと音楽・絵画・日本語などの
クラスに分かれ交流。
今日が「子どもの家」最後の交流。
参加の皆さんの寄せ書きと折り紙などを貼った
記念の大きな色紙を子どもたちにプレゼント。
最後に全員で記念撮影
午後5時過ぎ、交流は終了。
午後6時半、大学生協スタディーツアーの皆さんと夕食。
バオミンさんと私が参加。
午後8時、夕食会終了。
午後8時半、静岡市民が日本料理店に。
静岡市役所国際課の紹介とのこと。日本語学校、
静岡市での活動、国際支援のことなどを話し、交流する。
午後9時半終了。
日本料理店には、「子どもの家」の子どもたちの中で
日本料理店で研修をしたいという子どもが参観に来ていた。
今日の来客は19人。
日本人11人、ベトナム人6人、欧米系2人。
自室に戻ったのは午後10時前。
今日も忙しい1日だった。
2007年09月06日
終日、全国大学生協スタディーツアーと行動を共にする
晴天
午前6時起床。
午前7時朝食。ブンボー。
午前7時半過ぎ、ズイタンホテルへ。全国大学生協スタディーツアー
の皆さんと合流。今日は、縫製研修センター、アクセサリー
研修センター、平和村、ナムドン山岳少数民族との交流、
日本料理店での会食懇談会を行った。午前8時から午後9時まで
皆さんとお付き合いをする。
ズイタンホテルには、既にリー君が来ていた。
同じホテルに地球の歩き方Ⅳの皆さんも宿泊。今日は、税田さん
サンさんが案内する。
午前8時過ぎ、ホテルを出発し、縫製研修センターへ。
縫製研修センター案内
「アクセサリー研修センター」案内
続いて、フエ平和村へ。障害児のリハビリセンターを視察
午前10時頃、いよいよ「ナムドン山岳地帯」へバスは向かう。
フエ市内からバスで1時間半ほど。
ご前11時40分、ナムドン山岳地帯の中継地点に到着。
昼食休憩。
ナムドンの専門家(自称)のリー君は、早速冷えた水を
お客さんに配る。なかなか気の利く子である。
ナムドン山岳地帯は気温と湿度が高い。水の補給が
必要。
昼食を摂る。
リー君もスタッフの皆さんと昼食。
しばらく休憩し、いよいよナムドン山岳少数民族「カトゥー族」
の皆さんとの交流へ。
トゥオン・ロー村に入る。村人が歓迎の音楽と出迎え。
高床式住居で交流
支援物資の贈呈
カトゥー族の皆さんの歓迎の踊り
日本側の出し物(さんぽ・・・・)
交流会に参加する子どもたち
その後、カトゥー族の皆さんと日本人と一緒にカトゥー族の
踊りを踊る。
交流が終わり、村人と一緒に近くの滝に行き、バナナ、
サトウキビ入りもち米、魚、キャッサバ芋焼酎などを
食べ、交流する。
午後5時半、フエ市内に到着。
しばらく休息。
午後6時半から日本料理店で夕食会。
前日、作ったアオザイを着て夕食会に参加。
子どもたちの作った日本料理を堪能
日本料理を食べながらベトナム事務所スタッフと交流を深める。
夕食会の最後に日本料理店「子どもの家」のスタッフを
紹介。子どもたちは勉強した日本語を使って自己紹介。
午後9時前に夕食会は終了。全員写真を写す
その後、税田さん・仁枝さん・子どもたちと後片付け。
午後9時半過ぎに自室へ戻る。
今日のナムドンは蒸し暑かった。
長い1日が終わる。
大学生協スタッフの参加者は事前に良く勉強を
して来ている。なかなか有能な大学生と見た。
私に鋭い質問をいくつも浴びせてきた。
嬉しいことである。
また、1ヶ月半、金鉱に行っていたリー君が
戻ってきて、JASSや日本料理店の仕事を再開したことは、
私に取っては本当に嬉しい一日であった。
不思議な子である。1ヶ月半、いなかったのに
何となく「すんなりと」仕事に入って来てしまい、
またそれに違和感のない子である。不思議な能力を
持ったリー君ではある。やはり路上生活、ストリートチルドレン
生活で鍛え上げられた能力は素晴らしいものがある。
生きていく生活力とでもいえるものである。
日本の子どもたちにはなくくなってしまった「生きる力」
である。これも学力の一つだと思っている。
2007年09月05日
地球の歩き方Ⅳ:全国大学生協スタディーツアー
晴天 夕方、小雨
昨夜は30ごととに目が覚めて眠れなかった。
とうとう明け方まで熟睡出来ないまま夜が明けた。
午前6時起床。血圧・体重測定。
午前7時朝食、フォー。
午前7時45分、ズイタンホテルへ。地球の歩き方Ⅳの皆さん
バオミンさんと一緒にベトナム事務所へ。
午前8時過ぎ、ベトナム事務所でベトナム事務所の紹介。
その後、ベトナム事務所3階の刺繍みやげ物店を参観。
2階の会議室では、日本料理店の子どもたち英語の
勉強をしていた。
午前9時、「子どもの家」へ。「子どもの家」で子どもたちと
交流会。今日は、ベトナムの全ての学校の新学期。開講式。
セン運営委員長の開会の挨拶
歓迎の踊り
歓迎の歌は、チー・ニーさん。
地球の歩き方Ⅳの皆さんの出し物の歌
交流会終了後、「子どもの家」の各施設案内。
バオミンさんの案内。
税田さんの案内
午前10時から午前11時半まで1時間半、私の講演会
講演会終了後、昼食の「フォーサイゴン」へ。
「フォーサオ」を食べる。米の麺フォーと野菜を炒めたもの。
午後12時半、帰宅。
30分程昼寝。
読書「VIICE 2007年4月号」
「格差是正で経済を殺すな」(藤巻健史:フジマキ・ジャパン代表)
格差社会は日本に活力をもたらすとの主旨。
自分が勝ち組ならそれでもいいのだろうが・・・・。
フエ中央病院、フエを訪問する支援者関連のいくつかの
問題についてのメールを書く。バオミンさん、税田さんと
電話で打ち合わせ。
午後4時過ぎ、ベトナム事務所へ。電動バイクの電源が
切れる。何とか足こぎで「子どもの家」へ。汗が吹き出る。
午後4時半から午後6時半まで2時間、全国大学生協
スタディーツアーの皆さん26人に講演。
午前中1時間半の講演をしている。午後2時間の講演は
さすがに疲れるが、熱心に話を聴いてくれる学生さんを
見ると頑張らねばと思う。
午後7時過ぎ、「子どもの家」を出る。
私の講演会中、ベトナム事務所のソンさんが、壊れた
電動バイクの配線を直してくれる。
電動バイクで日本料理店へ。
日本料理店では、店長と副店長が密かに何事かを
話し合っていた。今後の日本料理店の運営について
だと思う。
今日は、ベトナム人3人が天麩羅や冷たいうどんなどを注文。
その後、スイス人兄妹が来店。ボランティアに興味が
あるとのこと。イタリアのボローニャの大学で政治学を
勉強している。どうして、自民党はこんなに長く政権を維持している
のか?との質問を受ける。先月の参議院選挙で大敗したと
説明。
「子どもの家」の話をする。「子どもの家」に50ドル寄付をくれる。
今度、ボランティアをしに来たいとのこと。
午後8時過ぎ。来客もない。
私としては、1ヶ月半ぶりにリー君が帰って来たことがとにかく
嬉しい。リー君を呼んで「帰還祝賀会」をする。
リー君の金鉱タコ部屋の生活を詳しく聞く。
食事はご飯と魚だけだったという。野菜はないとのこと。
スープは水。
12時間働くとクタクタで何もする気力が出ない。寝るだけだった
と言っている。娯楽はテレビを見るだけ。
時々、警察が来て、1ヶ月に200万円程度の「ワイロ」を取って
行ったと話す。やはりな、と思った。共産党・行政・警察が
グルになって、弱い立場の子どもたちや「すねに傷もつ
人間」から搾取している、ニセ社会主義。
1時間20円で働かし、金を取り出したら大金になる。
こんな甘い話はない。山の中で誰も知らないところでの
出来事である。
その後、税田さん、石塚さんも交えて、リー君の「帰還歓迎会」
を行った。
私は「金鉱タコ部屋」で体を壊すのではないかと本当に
心配だった。元気に帰ってくれただけで、十分満足している。
午後9時過ぎ、歓迎会を終了。
長い1日だった。
私はとにかくリー君が帰って来てくれたことで本当に
嬉しい。リー君と乾杯。これからは、どんなことが
あっても日本料理店で頑張るように言う。
リー君も「金鉱タコ部屋」に行って社会が分かった。
これからは日本料理店で頑張って働きたいと言っていた。
2007年09月04日
地球の歩き方ツアーⅣフエ到着:リー君帰る
晴天。午後3時過ぎ豪雨。
気温32度。湿度60%(午後2時半、廊下)
午前6時起床。血圧高騰。(150:99)原因は何か?
午前7時、朝食。ブンボー。
午前8時半、徒歩ベトナム事務所へ。スタディーツアーの
応対で忙しく、あまり歩いていない。
久しぶりに徒歩。30数度の陽射しがまぶしい。
午前中、溜まったメールの返事を書く。
昼食。そうめん。
正午。ホーチミン市に地球の歩き方ツアーⅣを迎えに
行ったバオミンさんから電話。ホーチミン空港の掲示には
予定通り到着とのこと。半分安心、半分不安。
最近のベトナム航空は時間通りに出発・到着したことがない。
午後12時半、昼寝。
午後1時半読書
「VOICE 2007年4月号」(PHP研究所)
訪問者が置いていってくれた雑誌。
「特別対談 開かれた皇室は日本に馴染まない」
(寛仁親王と竹田恒泰氏との対談)
三笠宮の息子と旧竹田宮恒徳氏の孫の対談である。
何度も両者から「万世一系の天皇」という言葉が
出てきた。皇統は男系でなければならないとも主張して
いる。更に戦後皇籍を離脱した11宮家の復活を主張
している。かなりアナクロな二人ではある。民主主義社会
である。何を言おうと自由ではあるが。その前に
しっかりとアル中の治療に専念すべきではないのだろうか?
午後2時前、税田さんから電話。
7月23日に突然行き先を告げずに行方不明になっていた
「リー副店長」が日本料理店に帰って来ているとのこと。
2時半、日本料理店に行く。
7月23日~9月4日まで1ヶ月半ほどの『不在』だった。
かなり精悍というのか、顔がやせた感じがする。
どこで、何をしていたのか? 何故、フエを出たのか、
何故、戻って来たのか? 何をしたいのかなどを聞く。
・タイ・グエン省の山に行っていたという。
フエから乗り合いバスでダナンへ2時間半。
ダナンからバイクタクシーで2時間かけてタイグエンの山の
ふもとへ。
その後、牛車で2時間半かけて山の中へ。更に徒歩で
4時間かかって『金の採掘』現場へたどり着いたという。
・従兄弟の夫が昔タイグエン省で同じ仕事をしていて
紹介されたという。
・金の採掘現場には、50人ほどの労働者が働いていた。
100メートルほど地下に坑道を掘り、ダイナマイトで
爆破し、金の入っている大きな石を粉砕する。
労働者は3グループに別れ、ダイナマイト爆破班、
鉱石収集班、鉱石を更に粉砕し、金を取り出す班と。
リー君は小さく粉砕された鉱石を更に細かく砕き、
そこから金を取り出す仕事をしたそうだ。
・労働時間は二交代制。
午前6時から午後6時までの12時間労働組と
午後6時から午前6時までの12時間労働組。
・食事は1日4回。午前6時・午後12時・午後6時・午前0時。
・土日もなく、タイグエンの山にいる間は、毎日仕事をしたとのこと。
・風呂はなく、水で体を洗い、ブルーのシートを張って寝たそうだ。
蚊に食われた大変だったと言っていた。
・相当過酷な重労働だったようだ。石の入った重たい箱を
何度も何度も運び、大変な肉体労働。
・給料は30日働き100万ドン。食事代は無料。
1日33000ドン。日本円で1日250円。時給20円ほど。
あまりにも低賃金である。
●以前、小林多喜二の「蟹工船」を読んだ。戦前の話である。
いわゆる「タコ部屋」。リー君の行ったタイ・グエン山岳地帯の
『金採掘工場』は暴力は使わないが、実質的な現代の
「タコ部屋」である。ベトナムの法律で定められている労働時間も
賃金も無視し違法な労働を労働者に強制している。
これがベトナム社会主義の現実でもある。
一人50ドルの昼食バイキングを夫婦で食べ、贅沢三昧な
生活に浸る人間もいる。昨年は8億円のインターネットギャンブルを
したハノイのお偉いさんもいた。職権を使って大金を掠め取り、
ホテルを数件、フエにたくさんの土地を持っている元知事もいる。
リー君が好きで行ったタイグエン省山岳地帯の「金採掘工場」では
あるが、警察や共産党・当局が知らない筈がない。全てグルに
なって、親のいない若者、事情があって正業に就けない若者に
付けこんで「悪徳な商売」をするものである。12時間も働かせて
たった250円程度の賃金しか支払わない。後は、金会社の
社長と「お目こぼし」のお偉いさんで儲けは山分けという筋書き
である。金山を個人が持っている訳がない。県営の会社。
当然、地元の共産党と人民委員会の指示と運営で経営されている。
人民の見えないところで、事情がある若者たちを奴隷のように
(1時間20円)酷使する、現代の「女工哀史」ならぬ「金鉱哀史」。
社会主義の「タコ部屋」。
「何で黙って仕事をすっぽかし日本料理店を出て行って
しまったのだ」と小言のひとつも言い、お説教を垂れようかと
思っていた。しかし、リー君の話を詳細に聞くと、金採掘を
めぐる「ずる賢い権力を持った大人ども」の悪徳で貪欲な
な金儲けの欲望に腹が立ってきた。
フエを出た理由は、「彼女に色々といわれたから」「お金が
欲しかった。バイクを買いたかった」という。
フエに戻ってきた理由は、人が恋しくなった、知り合いと話したい
とのこと。
昨夜、フエに着き、今朝、早速「子どもの家」に行っている。
リー君にとっての故郷・帰るところは「子どもの家」だったようだ。
「日本料理店で働かせて欲しい」という。今日は、荷物の整理などを
するので、明日から来るように話す。
たった1ヶ月半程度のフエ不在だったが、色々と経験をしたのだろうか?
一回り大きな人間に成長したように思えたのは、私のひいき目だろうか?
タイグエンの金採掘工場でもらった100数十万ドン。帰りの交通費を使い、
昨日フエに帰り、70万ドンの携帯電話を買ったといっている。
せっかく山で稼いだ貴重なお金なのに・・・・。何で必要もないない
携帯電話なんかを買うのだろうか?と思ったが、世界中の若者が
携帯電話で『人間とつながっている時代』なのだ。リー君も人恋しい
年齢になってきたようだ。
1997年、テレビの取材を契機に「子どもの家」に入所。
5年間で小学校を卒業し、ホーチミン市へ家出。やくざの世界へ。
3年間ほど、やくざの世界で相当色々な悪いことをしたのか、
させられたのか?
やくざの世界に嫌気を感じ、「子どもの家」に帰る。そして、ダナンの
金鉱に行くという。私が金鉱タコ部屋に行ったら死なないと出てこられ
ないと諭し、日本料理店の警備員となる。
副店長に抜擢し、給料も上げるとバオミンさんと話していた矢先の
突然の「タイグエン」金鉱行きだった。
この10年間、リー君との付き合いも紆余曲折があった。今後もまだ
あるだろう。一人の人間を育てるということは、親でも大変なこと
である。今、JASSが挑戦しているのこうした「人間を育てる」という
国際支援である。手間隙はかかるが効果が少ない事業である。
たった一人の人間でも「せっかくこの世に生まれてきたからには、
幸せな人生を送ってもらいた」というのが、JASSベトナム事務所員
みんなの願いである。リー君はみんなの願いに応えることが
出来るのかどうか?
人間はこうして紆余曲折を経て「大人」なってゆく。その過程を
大人が「広い気持ち」と「忍耐力」で待ち続けることができるかどうか
の勝負となっているように思う。
ニー店長・リー副店長とで協力して仕事を再開することを
誓う
昨年8月、1ヶ月間日本料理店を手伝ってくれた、矢吹さんが
弟さんと一緒に日本料理店・「子どもの家」を訪ねてくれた。
午後5時半。久しぶりに日本料理店で子どもたちと夕食。
考えて見ると1ヶ月ぶり位になるのか?
鮭の刺身、ゴーヤチャンプル、イカの煮物、野菜スープ。
先日、火焔樹の会のスタディーツアーに参加された茨城県
日立市の大沢さんが日本料理店に折り紙の箸入れを送って
きてくれた。感謝。
午後6時半、おなじみの日本人のお客さん3人。
ベトナム人2人。
午後9時閉店。今日は5人の来客。
地球の歩き方Ⅳ班(24人)がホテルへ到着したとの
連絡あり。急いでズイタンホテルへ。皆さん、元気に
到着。私の紹介をしなかったので、「このおじさん誰?」と
言われてしまう。確かに「おばさんではない」。
これから10月初めまでスタディーツアーは続く。
バオミンさんは、この2週間で3回、ホーチミン市に行って
地球の歩き方の出迎えをしている。ご苦労様。
社会保険庁職員や区市町村職員らによる年金保険料などの
横領が総額三億四千万円余りだそうだ。
血圧が高くなるのも致し方ない。たったと言っては何だが、
月2万円の年金ですら、「支払い不可」の通告を受けてしまった。
13年強国民年金を、23年共済年金を支払ってきたのに。
支払った年金掛け金は合計したら相当な金額になる。
担当者による3億4千万円の横領など聞くと「怒りすら」沸いて
こない。代わりに体と心が自発的に興奮してしまうのだろうか?
血圧急上昇。
年金問題を解決すると選挙で公約した安倍首相だが
農水大臣が辞任、外務政務官が辞任。
今日は、自民党の小林参議院議員が選挙違反の連座可能性で
議員辞職。どうなっているのか。とほほ・・・・・・・。
2007年09月03日
久しぶりの休日
晴天
地球の歩き方Ⅲの皆さんはホーチミン市滞在。今夜の
飛行機で成田へ。無事帰国を祈る。
午前8時起床。今日は9月2日「建国記念日」の代休。
朝からまたもや「壁をたたく音」。これが結構ボディーブロー
のように頭に響く。ホテルのオーナーは、山のふもとの
別荘に住んでいるので、店子(たなご)の日常生活には
興味をもっていない。
午前8時から読書。「裏切られた革命」。
午前10時半入浴。その後、フダビール3本。一昨日の
地球の歩き方Ⅲの晩餐会の残りをおつまみに。
マンゴーサラダ、ジャガイモのきんぴらが美味しい。
内田さんから差し入れのあった「土佐珍味 酒盗」
はななりきつき臭いがあるものの、これがお酒に
合う。食べ物も人間も多少「臭いと癖」のある方が
美味しく、魅力があるのかも知れない、かどうかは
分からないが。
トンチンカンホテルのテレビでNHKが見られたが、
どんな事情かは知らないが、7月になってNHK衛星が
切られてしまった。仕方がないので、CNNを見ている。
英語の勉強にもなるしと「プラス思考」で。
今日は朝から『遠藤農相辞任』の報道を繰り返している。
CNNで報道される遠藤農相が首相官邸に入る画像。
僧侶のように頭を丸めている遠藤農相が画面に映る
たびに、「この農相は就任以前から辞任を予定し
頭を丸めていたのか?」などと考えてしまうほど、
タイミングの良い画像である。
就任8日間の辞任は史上2番目とのこと。
遠藤さん、あなたは、史上2番目の短期辞任の記録保持者です。
それだけでも就任した意味はあるのではないですか?
それ以上のことは誰も期待していません、などと
嫌味の一つも言いたい。
補助金の不正受給は3年前から会計検査院に指摘され
遠藤辞任大臣は知っていたのだ。自殺農相、絆創膏農相
と続いた農相人事である。当然、会計検査院から指摘され
ていた不正受給が農相として問題視されることは分かっていた
はずである。それを押し隠して就任した厚顔無恥さは、
美しい日本を象徴するようである。
安倍内閣も『末期症状』を呈してきた。
農水省の補助金を詐欺し、会計検査院から指摘されていた
遠藤氏がその農水大臣になるのは、どう考えてもおかしい。
銀行強盗が警視総監になるようなもの。あってはならない
ことが、安倍内閣では続出している。素晴らしい「美しい国」
ではある。参議院選挙大敗後の「人心一新」はやはり
ご自分を除いてはだめですね。人心一新は、貴方の一新でした。
1ヶ月間かけて組閣をしたもののたった1週間でぼろぼろと
「政治と金」などというきれいなことばではなく、詐欺と横領、
嘘、ごまかしといった方が良いほどのでたらめな人間が
次々と閣僚や政務官になっています。これでは、もう安倍内閣
が国民的な信頼を失ったと言われても仕方がないところまで
来ていますよ。野党からとやかく言われる前に、身を引くことも
勇気であり、美しい人間ではないでしょうか?
この間の一連の『騒動』『辞任劇』を見ていると、
小泉前首相が言った「自民党をぶっ壊す」と言ったのは
間違っていなかったように思える。
第1次安部内閣、第2次安倍内閣を通して、自民党が
瓦解・崩壊過程を辿っているように思えてならない。
1960年代、自民党は単独過半数を持っていたい。
現在は、公明党との連立なくして政権を保てない状況
である。長期的には崩壊・瓦解過程にあった自民党であるが
小泉「郵政選挙」で大勝したことが、実は、自民党の
瓦解・崩壊を決定付けたように思える。
安倍首相でも麻生でもだれでもこれから3年間は、
参議院では少数派の与党である。
昼寝
午後2時過ぎから午後6時まで読書。
「裏切られた革命」読了。内容あり。いくつかの疑問が残るが
それでも70年前の一国社会主義をめざし、社会主義官僚国家
となり、民主主義を捨て去り、命令と服従の国家体制を作り上げ、
第3インターナショナル(コミンテルン)を通して、世界の共産党
に「独裁体制」を押し付けた制度が、ソ連建国の初期にどのように
形成されていったのかが分かり、十分興味のあるところだ。
それは、今日のベトナム「社会主義社会」に14年間住んでの
体験と実態にあまりも類似しているからである。
夕方、豪雨。30分ほどの豪雨のあと、きれいな虹がでていた。
何か良いことがある「吉兆」か?
夕食の食料なし。
午後6時。コムディア(ほか弁)を買いにいく。1万ドン(70円)
NHK衛星放送が映らないので「CNN」を見ている。
午後8時(日本時間午後10時)の放送で、ブッシュ大統領が
イラクを訪問したとの報道あり。
インターネットの各新聞を見るが、どこも載っていなかった。
インターネットは速報性があるとされているが、意外と
速報性がないのか、海外の問題に関心がないのか?
午後8時、日本酒(那須の純米吟醸 大那:菊の里酒造)
を飲む。内田さんに頂いた「土佐 酒盗」が日本酒には
本当にあう。生臭い香りと何ともいえない発酵した味と
香り。アジアの発酵文化(東京農大の小泉教授より)の
贈り物を堪能。同じく「味噌漬け」。特にショウガの味噌漬けは
日本酒に合う。
今日は1日、部屋で寝ながら読書。
2007年09月02日
地球の歩き方Ⅲ、フエを発ってホーチミン市へ:62回目のベトナム独立記念日
晴天 。 午後、豪雨。
午前7時半起床。
午前7時前からトンチンカンホテルか隣りの建物かは分からないが
壁をかなづちで叩き割る「トントントン」「ガンガンガン」という音が
壁や床を伝わって寝ているベッドに響いてくる。今日は、
1日中、この「拷問」のような音に悩まされた。
血圧測定・・・・・。
午前9時半入浴。
午前10時、朝食。
昨夜の地球の歩き方Ⅲ晩餐会の残りを
厨房主任のTHUYさんがお土産にしてくれた。
腐敗の心配があるので、部屋の冷蔵庫へ入れておいた。
ご飯はかなり固くなっていた。野菜、人参のキンピラは
冷たいが美味しい。時間をかけて固く冷えたご飯を何度も噛んで
食べる。山岡総八の徳川家康(36巻)を読んだが、その中に
「ほし飯」(ほしいい)という言葉が出てきた。
多分、ご飯を乾燥させ、戦場で食べる簡易携帯食品
だと思うが、その「ほし飯」を食べたような感じ。時間をかけて
良く噛むので却って体に良いように思われる。
午前10時過ぎから2時間ほど読書。
「裏切られた革命」(トロツキー)
Ⅵ「不平等と社会的対立の増大」の章は俄然面白い。
現在のベトナム社会の異常な「階級社会」階層分化社会を
既に70年前にトロツキーはソビエト社会の中に見出している。
『官僚機構」(これは日本でいう官僚機構より更に大きな概念
で共産党幹部、中央地方人民委員会、コルホーズ(共同組合的
集団農場)、ソフォーズ(国営企業)・・・)』の特権的な
生活実態の暴露。(これは今のベトナム社会にも見事に
当てはまる。官僚は、一般労働者・農民の15倍程度の
収入を得ているが、更に影の膨大な収入も得ていると
トロツキーは指摘している。様々な特権も得ている。
官僚専用の商店、別荘、サナトリューム、車、世界最先端の
機器・・・・。これも今のベトナムの様子を70年も前に見事に
指摘している。
1930年代。スターリンは、「ソ連は既に社会主義を達成した。
階級は消滅した」と宣言している。その裏で、見事に
階級が再生産されていた。社会主義という名の。
多くの労働者・農民が食うや食わずでいる時に。
官僚貴族・労働貴族・共産党幹部などは特権にすがり、
旧皇帝とまでは行かないが、1930年代に既に貴族のような
生活をしていた。1991年、ソ連が崩壊する頃には、
まさに旧ロマノフ王朝以上の優雅な生活を送っていたい
一部の特権階級。今のベトナムにも存在するこれらの
寄生虫のような人間たち。
ベトナム社会主義が何故これほど大きな格差社会となったのか?
その源泉は、70年前にあったようだ。・・・・・・。
午後12時半、昼寝。
突然、曇りだし、大雨・俄か雨となる。気温が下がる。
午後3時、ズイタンホテルへ。地球の歩き方Ⅲの皆さんを
フエ空港まで見送りに。(私、ミンさん、サンさん、ソンさんの4人)
39個のスーツケース。
サンさん・ソンさんが39個のスーツケースをホテルロビー
から小型トラックへ乗せる。大変な作業。
添乗員さんの説明。飛行場の手続き、ホーチミン市へ着いた後の
日程等を分かりやすく説明していた。
税田さんも応援に駆けつける。
午後3時半、フエ空港へ到着。
カウンターには一人のスタッフしかいない。
バオミンさんが、39人の団体なので別のカウンターで
チェックインをするよう要請する。スタッフは、「駄目。
並びなさい」とのこと。39人のスーツケースを並べると
他のお客さんはその後ろにつけない。
馬鹿なスタッフだ。結局、一人のスタッフがチェックインの
手続きをするので、地球の歩き方の皆さんの番になるまで
30分もかかる。しばらくすると5人ものスタッフが出てくる。
怠け者の空港スタッフではある。勤務時間中であるにも
拘わらず、別室でお茶を飲んでいたのか、おしゃべりを
していたのか知らないが、お客がカウンターにたくさん
並んでいるのを知っていながら仕事をしない。
上司も注意をしない。39個のスーツケースとチェックインの
手続きをするのに20分以上かかる。
それでもベトナム人スタッフは、「笑顔を忘れず」仕事に
精を出す。
添乗員さんの「セキュリテティーチェックの仕方」についての
説明を聞く。
地球の歩き方の皆さんと別れる。
午後5時前帰宅。
読書「裏切られた革命」。
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遠藤武彦農相が辞任するとのこと。
8月27日に内閣を改造したばかりでもう大臣の辞任。
「安倍お坊ちゃん内閣」は全くしまりのない内閣である。
昨年9月に発足してわずか1年の間に5人の閣僚が
辞任している。農相は3人目である。自殺・絆創膏そして
補助金ちょろまかし。
静岡出身の坂本由紀子外務政務官も架空の会議費用を
政治活動費に計上していた問題で辞意を固めたそうだ。
「戦後レジームからの脱却」などと偉そうに言う前に
「お坊ちゃん内閣からの脱却」を考えたらどうだろうか?
参議院選挙の大きな敗因の一つが閣僚の不祥事。
参議院選挙の大敗北を受けて、1ヶ月間も身辺を
「捜索」して発足した内閣で1週間でもう『ボロ』が
出てしまった。
遠藤ちょろまかし農水大臣以外にも
●組閣当日に過去にさかのぼっての政治資金収支報告書訂正を
届け出た岸田文雄沖縄・北方担当相
●地元の事務所の建物を不動産登記していなかった額賀福志郎
財務相
●国会の議員会館に資金管理団体の主たる事務所を置きながら
過去三年間で三千万円もの事務所費を計上していた高村正彦
防衛相
と、たった1週間でソロゾロと「インチキ大臣・政務官登場」である。
美しい国などと言う前に、真っ当な大臣・政務官を揃えたらどうな
のだろうか?
2007年09月01日
地球の歩き方Ⅲティエンアン(天安)山へ
晴天。
気温33度。湿度70%。
午前6時起床。
午前7時朝食。ブンボー。
急いで外出の準備をし、ズイタンホテルへ。
午前8時、ハンさん、税田さん、ソンさん、私の案内で
地球の歩き方Ⅲの皆さんは、グエンフエ高校へ。
午前8時、元気にズイタン(維新)ホテルロビーに集合する
皆さん。
●添乗員さんとベトナム事務所のソンさん
ズイタンホテルから市内にある「グエンフエ高校」へ。
グエンフエ高校生20人をピックアップし、ティエンアン山へ。
車で20分ほどの所にティエンアン山はある。
初めにグエンフエ高校から地球の歩き方Ⅲの皆さんに記念品の
贈呈があった。
ゲームなどの遊びで日越の青年交流。
初めにバンブーダンス。
少しずつ打ち解け日越青年たちは仲良くなる。
●全員写真
昼食はフエ市内にあるフエ名物「ブンボー」。
午後12時過ぎ、ズイタンホテルへ戻り、昼寝休憩。
午後2時、「子どもの家」へ最後の訪問。
午後3時、京滋YOUの会の会員で大学生の
古山さんと懇談。2時間。
午後6時半、地球の歩き方Ⅲの皆さん、日本料理店へ。
今日は店長のホン・ニーさんが病気で早退。
研修していたチー・ニーさんがミシン研修をしたいと言って
退職。45人分の日本料理の準備におおわらわ。
●日本料理店の準備をする石塚先生
●日本料理店の準備をする仁枝さん
●日本料理店の準備をする後藤ハンナ先生
午後6時半過ぎ、地球の歩き方Ⅲの39人の皆さんが来店。
JASSベトナム事務所の6人と懇親夕食会が始まる。
日本料理店は、45人の来店でほぼ満席。
明日ホーチミン市へ行く地球の歩き方Ⅲの皆さんとの
最後の晩餐会。
バオミン・JASSベトナム運営委員長の乾杯の音頭で
全員乾杯。
ホンニー店長が病気で早退。代わりにグエットさんが頑張って
サービスに努める。
接客・接待に頑張る税田さん
諸般の事情で日本料理店の子どもたちが最少人数となった。
日本人の皆さんの援助で45人の大きな晩餐会は3時間を
かけて無事終了。子どもたち、日本人スタッフの皆さんの
心から感謝。
自室へ戻ったのは、午後10時を回っていたい。
今日も1日、早朝から夜遅くまでの仕事が続く。