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2007年09月17日
ACCLハノイへ:マブベの会子どもたち・寮母さん治療
晴天
午前1時に目が覚める。なかなか眠れない。
読書「三たびの海峡」読了。
全体のトーンは、サスペンス。一種の推理小説的な
構成となっている。朝鮮から強制連行された若者が
福岡の「遠賀川」付近のN市にある炭鉱に連れてこられる。
収容所のような寮に入れられ、炭鉱で12時間以上の労働
を強制される。反撥すると日本人の責任者をトップに
その手下の朝鮮人が殴打し、ゴムの鞭で殴る。
苦しい生活に疲れ果て脱走する。つかまると
見せしめのリンチ。リンチで次々と死んでいく。
朝鮮人強制連行を素材にしたサスペンス小説。
話はあくまでフィクションである。最後は、収容所で
自分にリンチを加え、仲間を殺していった同じ朝鮮人
(日本人に帰化)に復讐するという粗筋。
『祖国』『同胞』『民族意識』『8・15解放記念日』などという
言葉がが飛び交う。日本人が忘れてしまった半世紀以上前の
出来事。しかし、私たちの両親・祖父母の時代の出来事である。
福岡の炭鉱に強制連行された若者が数十年後に炭鉱の町へ
行く。炭鉱はすっかり姿を変えなくなっている。当時の収容所長は
市長となり、その手下の朝鮮人は建築会社の社長。
何もなかったかのように現在を生きている。いや、市長など
要職に就いて。
10年前の著書である。朝鮮人強制連行の事実すら忘れている
日本人への警告と受け止めた。
箒木蓬生というペンネームがどこからきたのか調べた。
源氏物語からだった。源氏物語2帖「箒木」(ははきぎ)
15帖「蓬生」(よもぎう)。
午前6時起床。
午前7時過ぎ、バオミンさん・ACCLの皆さんとフエ空港へ。
6日間という短い期間であったが、フエの小児ガン支援の
ための様々な活動を行った。代表の渡辺和代さんをはじめ
関係医師の皆さんに心からお礼を言いたい。
午前8時半フエ空港を発ってハノイ経由、明朝成田へ。
お疲れ様。
午前9時、ベトナムテレビの取材の打ち合わせ。
ハノイのベトナムテレビⅠより取材申し込み。
ベトナムテレビ1は、日本でいうとNHKのようなもの。
全国をカバーする放送局。
今回は、VTV1の名物番組「時の人」に私が出演すること
になった。その道で実績を上げた人を取り上げ、
スタジオで30分ほど話をする番組である。
毎週金曜日午後9時から放送しているとのこと。
ベトナム中で多くの人たちが見ている名物番組とのこと。
私は見たことがないが。
テレビ局の指示でベトナム事務所にやってきたのは、
ヒー君。
12年前(1995年7月)、「子どもの家」の子どもたちに
勉強を教えたりしている高校生2人を日本へ連れてきた。
ヒー君(16歳)とヒエンさん(16歳)。
私は彼らを連れて、秋田・東京・静岡などを訪問した。
東京では杉並区の大場先生のお宅に長期滞在した。
静岡では、富士山麓にある静岡大学の「朝霧荘」に泊まり
静岡の中学生たちと交流した。笠井さん、滝下さんとの出会いも
あった。オーム真理教の第6サティアンも見てきた。
当時16歳の高校生だったヒー君は現在28歳。
フエ科学大学歴史科を卒業し、現在は
フエ省「人口・家族・子ども委員会」のお役人になっていた。
彼がベトナムテレビの依頼でJASS事務所に取材申し込み書
を届けてきた。12年前はほっそりしていたヒー君であったが、
今は丸々と「貫禄」のあるおじさん風な体型となっている。
安定したお役人生活をしていることが窺える。
朝食兼昼食。昨日の日本料理店の残りものを食べる。
午後12時半から1時間昼寝。昼寝をしないと夜まで体が
もたないようになってきた。あと、2週間ほどでスタディーツアー
の受け入れは終わる。250人ほどの受け入れを行ったことに
なる。
読書「美は乱調にあり」(瀬戸内晴美著:角川文庫)
古本屋で100円の本。100円でこんな素晴らしい本を読んで
良いのか?
明治44年(1911年)間東大震災のさなか、アナーキスト
大杉栄と妻の伊藤野枝と甥が憲兵大尉甘粕正彦などによって
殺された。本書は、その伊藤野枝の人生を書いたものである。
「大逆事件」で高徳秋水などが死刑になった。
その後、大正12年(1924年)関東大震災のどさくさにまぎれて
国家権力は社会主義者・無政府主義者である大杉栄、妻伊藤野枝
甥を虐殺し、井戸に捨てたという残虐な国家犯罪があった。
大杉栄の妻、伊藤野枝の人生とその軌跡を追っている。
午後2時半、バオミンさんと一緒に「子どもの家」へ。
サウ君の「退所式」を行う。
サウ君は父親が3年前に死亡。51歳の母親と5人の
子どもが残された。家庭はフエのかなり郊外にある貧しい
農家。
長女は結婚してホーチミン市へ。次女・三女はミシン研修。
サウ君は4番目の長男(6年生)、下に2年生の次男がいる。
3年前に父親が死亡し、母親の農業だけでは家族が生活
できなくなり、4番目のサウ君を学校へ行かせたいという
こともあり、「子どもの家」に入所させた。
その後、農業も安定。ホーチミン市に行った姉からも
多少の仕送りがあるようだ。サウ君もお母さん・弟と一緒に
生活したいという気持ちが強くなり帰宅することになった。
子どもたちは家族と一緒に住むのが一番良い。
心配なのは、経済力があるのかどうかだ。学校へ通えるか
どうかだ。セン委員長・ロック寮長・バオミンさんが農業の
収入などを聞く。何とかやって行けると判断。
退所を認めることになった。
ロック寮長が退所を認める書類を読み上げ、母親にサインを
求める。母親は字が書けない。学校には全く行ったことが
ないという。母親は拇印を押し、サウ君が代わりに名前を書く。
里親の茨城県の松下さんからサう君への贈り物が届いた。
退所のお祝いになってしまったが、サオ君に送る。
サオ君の担任だった寮母のニエムさんがお別れを言いに来る。
サウ君はビニール袋に荷物を入れ、お母さんは
バッグに荷物を入れて帰郷の途に途に付いた。
サウ君の幸せを祈るのみ。
茨城の里親松下さんから「子どもの家」スタッフへの
贈り物を贈呈。おかき。
ーーーー
A君の退所問題。
突然A君の母親が子ども退所させたいと言って来る。
8年間、「子どもの家」に住んで高校3年生になった。
来年は大学受験をしたいと言っている。
母親とA君を呼んで事情を聞く。
母親の言い分。最近遠い遠い親戚が出てきて、A君を
引き取り戸籍上も自分の子どもにして、学校へ通わせる
と言っている。「子どもの家」から学校まで遠い。
遠い遠い親戚はお金があり、立派な生活をしている。
概略こんな話であった。
まず、母親の口から8年間も子どもがお世話になって
ありがとう、という感謝の言葉が出てこない。
お金持ちの親戚なので「子どもの家」をだして、そこで
生活させたいということばかりを言う。遠い親戚の
住所を聞くと、「子どもの家」から高校までの方が
はるかに近い。
遠い親戚の人はどんな仕事をしているのか聞く。
船の観光だという。船の観光は生活困難な船上生活者の
専売特許。母親がA君を退所させたいという理由が
ことごとく理屈に会わない。「子どもの家」にいて
1年間しっかりと受験勉強し、大学に入れば卒業まで
生活・学費も保障すると言っている「子どもの家」から
無理やりA君を連れ出すかのような言い分である。
私もセン委員長、バオミンさん、ロックさんも母親の
言い分には全く納得できない。
8年前の入所時A君は、小学校高学年。
小さくて子育てが一番大変な小中高校時代に
現れず、高校を卒業する頃にのこのこ現れてくる
「遠い親戚」なるものも何となく胡散臭い。
形式的には、「母親の申請に基づき子どもを家庭・親族に
帰す」ということになるのだが、実質、親族は本当なのか?
私は形式にとらわれず、実質で勝負したい。
どうもこの母親の言うことは論理的にも首尾一貫していない。
今週、A君を引き取ると言っている遠い親戚を呼び出し、
話し合うことにした。
最近のベトナム、特にフエは異常な「金権体質」。
お金のためなら何でもやると言った風潮が横行している。
私の身の回りにもそうした現象が哀しいかな存在する。
ーーー
ヒエウさんの件
中学2年生で進級試験に落ちた。本人は勉強は嫌い。
日本料理店で調理の勉強をしたいとの意向。
セン委員長と懇談。日本では最低中卒の資格を取るのだが
ベトナムではどうなのか?
セン委員長はみんな勉強して欲しいが、苦手な子どももいる。
そうした子どもには職業訓練をしてほしいとの事。
本人の意思とベトナムの風習に従い、15歳で日本料理店
での研修を受け入れりことにした。
今日の午後は、「マブベ笑顔の会」の皆さんが「子どもの家」の
スタッフの治療ボランティアをしてくれる。
午後5時、「子どもの家」での全ての活動を終了。
午後6時、マブベ笑顔の会の皆さんが日本料理店へ。
私、税田さん、バオミンさんと一緒に夕食。
午後9時前、マブベ笑顔の会との会食はお開きとなる。
投稿者 koyama : 2007年09月17日 23:25