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2007年08月14日

THINH君誕生会 :ある葬儀に参列

晴天

気温35度。 湿度55%(廊下)

午前6時起床。頭痛、倦怠。風邪の初期症状。

午前7時朝食。ブンボー。

午前中、ボランティア貯金完了報告書作成。添付する
航空券等の会計書類関係を整理する。

午前10時過ぎ、「子どもの家」へ。

今日はTHINH(ティン)君の12回目の誕生日。
里親の上原さんからの要望で誕生ケーキを
「子どもの家」の子どもたち全員に振舞い、THINH君の誕生
を祝った。

昼食前に食堂に子どもたちが集まり誕生会が始まった。


●THINH君の名前の入った誕生ケーキ

●はじめに12本のローソクに点火


●12本のローソクが赤々と燃える

●里親からの誕生プレゼント



「子どもの家」の子どもたちもTHINH君の誕生を祝う。

THINH君は12歳、中学1年生。
2004年8月15日に「子どもの家」へ入所してきた。
家庭の事情があり父親は不明。母親は現在42歳。
日雇い労働者をしている。母一人、子一人。
THINH君の12年の人生を考える。たった12年の短い
人生ではあるが、大きな波風が立ち、母親と離れて
たった一人で3年前に「子どもの家」に入所してきた。
「薄幸」という言葉がある。THINH君にも当てはまるのかも
知れない。
寂しかったことだろうと想像する。さみしさ、孤独と闘い
3年間。今はたくさんの友達も出来、「子どもの家」が
自分の「マイホーム」となっている。12歳にしては体が
あまりにも小さい。しかし、元気溌剌のTHINH君である。
これも里親の上原さんをはじめ多くの支援者、そして
「子どもの家」の寮母さんと62人の友達のお陰である。
人間は一人では生きられない。「子どもの家」は
様々な人生を抱えている子どもたちの集まる家庭である。
THINH君の幸せな人生を祈るのみである。
THINH君など様々な事情で「子どもの家」へ入所しなければ
ならない子どもたちとこうした形で付き合えることに感謝の
気持ちでいる今日この頃である。

午前10時の「子どもの家」。暑い。子どもたちは部屋で
寝て体を休めていた。


女子はトランプに興じ、男子は庭で雑談。3ヶ月の夏休みを
楽しんでいた。



改めて「子どもの家」の庭の木を見た。14年前は木などなかった。
10年ほど前に茨城県派遣の青年の翼の皆さんの記念植樹。
1メートルほどの細い苗木を植えた。今では2階の屋根を越えている。

この大木の下で子どもたちが遊んでいる様子を見て14年間の
様々な取り組み・出来事が走馬灯のように頭に浮かぶ。
「子どもの家」を卒業して行った子どもたちの顔が浮かんでくる。

昼寝。体がだるい。仕事をする気力が失せる。


フエ市人民委員会外務部副部長だったクンさんのお母さんが
亡くなった。84歳。
クンさんは、私がフエに来た時からJASSを支えてくれた
フエ市の共産党の幹部である。
午後4時。「子どもの家」でセン委員長、ロック寮長と合流し、
クンさんのお宅へ。

午後9時。急に冷たいヨーグルトが食べたくなり、買いに行く。

NHKテレビ「NHK特集」を見る。東京裁判で少数意見だった
インドのパール判事の特集。何故、パール判事は東京裁判で
全員無罪を主張したかを検証した番組。内容のある番組と見た。
「戦後レジームの解体」を主張する人々は、パール判事が
アジア・太平洋戦争を日本の防衛・西欧のアジア侵略に反対
いた正当な戦争と認めたと思っている節がある。
番組では、パール判事が、マハトマガンジーの反植民地・侵略に
反対する思想に共感していたこと、また、ヒンズー教のそうした組織
にも加入していたことが検証される。パール判事は、日本の
満州建国・南京虐殺など日本の侵略行為を厳しく批判している。
しかし、戦後に作られた「平和に対する罪」「人道に対する罪」で
裁くことは、法理論上できないという立場から無罪を主張。
イギリスのインド侵略・植民地支配に徹底して反対していた
パール判事にとっては、英米も同様に侵略者と見えたようだ。
また、戦後の日本国憲法を高く評価していたこと、憲法9条の
非暴力主義を世界の進む道と評価していたことも検証された
いる。

安倍首相がインドを訪問しパール判事の息子さんと懇談すると
言う。安倍首相は単純にパール判事が東条英機などA級戦犯
に罪はないと主張したとでも思っているのだろうか?
そうであれば単細胞な頭でしかない。東京裁判の主流派
判事の判決以上に日本の侵略、ヨーロッパの侵略を厳しく見て
いたのかも知れない。

投稿者 koyama : 2007年08月14日 19:10

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