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2007年08月08日

ボランティア完了報告書打ち合わせ・フエ中央病院小児科懇談

快晴・午後曇り  休肝日
気温30度。

台風が去ったのか、朝から強い日差しとなった。午後、曇り。
夕方、ベトナムで初めて虹を見た。

午前6時起床。

午前7時朝食、フォー。

内田さんから日本帰国の電話あり。無事帰国とのこと。
豊田旅行の豊田さんからメール。「京滋YOUの会」の
皆さんが無事帰国されたとのこと。
その後、藤井事務局長からのお礼のメールあり。

午前8時半、徒歩ベトナム事務所へ。
午前9時、バオミンさん、ハンさん、税田さんの4人で
2006年7月から2007年6月までのボランティア貯金交付金
で活動を行った「障害児医療」「障害児父母の会」の活動の
完了報告について打ち合わせ。


活動の完了報告書の作成は小山、会計報告書の全体は
ハンさん、細かい部分はバオミンさん、税田さんなどが
担当することになった。報告については、出来るだけ活動した
具体的な行動を写真などを添付して報告すること、全ての支出に
ついて領収書を添付することを再度確認した。8月中旬を目処に
完了報告書とそれに関する会計報告書の領収書関係を
終わらせることにした。午前11時半まで2時間半の打ち合わせ。
少々疲れる。

昼食はほか弁。野菜を食べる。

午後12時半から1時間、昼寝。
その後読書「説教節を読む」を読む。

私が説教節を知ったのは、30年ほど前だろうか?
最後の説教節の語り手だった「若松若太夫」が
私の住んでいる板橋区の都営住宅でひっそりと生活している
という記事を読んだ時である。
また、東京八王子に伝わる「八王子車人形」を
私の小学校の教え子が中学の文化祭で上演するよう
助言し、指導者を紹介したことなどである。
説教節は、ご女(ごぜ:盲目の女性の語り部)や漂泊する
社会の底辺で生活する人々が、「門付け」など、家々を
訪問し物語を語る庶民芸能である。
「説教節を語る」は福井県若狭で生まれ9歳までそこで
育った水上勉が子どもの頃体験した「説教節」を思い出しながら
「さんせう太夫」(山椒太夫)、「かるかや」「真徳丸」
「志信妻」「をぐり」などについいての思い出を語っている。

山椒太夫は明治期、森鴎外によって文章化されたが、
本来は漂泊の社会の底辺でうごめいていた人々が
村のお堂やお寺、家々で調子をつけ語ったかなり「グロテスク」
な語りの入った口伝の物語である。

私が説教節に興味を持ったのは、名古屋の祖父江しょう念師の
節談説教と浄土真宗の伝道師の「親鸞聖人一代記」を
テープで聞いたときであった。その頃は、落語・講談・浪曲など
の演芸に凝っていた30歳頃だったように思う。
節談説教を聴いた時の祖父江師の声は、上野のアメ横の
物売りの「だみ声」と全く同じものだった。
テープを聴いていくうちに話にドンドン取り込まれていく自分を
感じた。
親鸞聖人一代記は、佳境に入ると浄土真宗の信者さんたちの
「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」という声が聞こえてくる。
人に語るということは、相手の心の中にある「何か」に訴え
何かを揺り動かすことことだと言うことを知った。
説教節で全国を渡り歩いた漂泊の語り手たちの語った本当の
山椒太夫を途中まで読んだ。
これは、水上勉が資料として当時の語り手たちの台本を
調べ、その口実筆記のような文章なので多少読みにくい
ところがあるが、雰囲気をよくあらわしている。
水上勉の盲目の祖母は、説教節を聴きいつも最高に
盛り上がる場になると涙を流していたとのこと。

午後2時50分、バオミンさんと待ち合わせをし、「子どもの家」へ。
先日、日本料理店を訪ねて来たハインさんのお父さんが
「子どもの家」に来るという。
3時に来るといったが、中々やってこない。

「子どもの家」では気温の変化が大きいため、子どもたちは
午後3時過ぎでも昼寝をしていた。


同時に9月に中学3年生(日本の2年生)になる子どもたちが
数学の勉強をしていた。
「子どもの家」では、小学校低学年は寮母さんが教える。
小学校高学年は算数と国語を大学生ボランティアに実習も
兼ねて教えてもらっている。中学生は、数学(週2日)、物理(週2日)
英語(夜間週2日)の特別補習教室を行っている。先生は
学校の先生などを特別に雇っている。
それ以外に週2回、フエ芸大の先生を招請し絵画教室を行っている。

●寮母さんと算数の勉強をする9月小学校入学予定の子


●数学の勉強をする8年生。


30分ほど遅れてハインさんのお父さんが来る。
ハインさんの今後の生活や戸籍などの問題を話し合う。


お父さんは59歳。私と同年。フエ生まれ。両親はフオン川で
貝を採っていたそうだ。小学校3年までしか学校へは行っていない。
18歳で南ベトナム軍に徴兵さてベトナム戦争に参加。
陸軍の最低の地位(日本で言えば二等兵?)だったという。
6年間軍隊生活。1975年4月30日に戦争が終わったが
その前に南ベトナム軍を脱走したという。「解放」後、
1週間ほど「再教育キャンプ」に入れられたという。
その後は、自転車を使って「自転車タクシー」をし、シクロの運転手
となり今日に至っている。
妻を病気で亡くし、3人娘を抱え、次女のハインさんを「子どもの家」に
預けたと言っていた。

現在は51歳の女性と再婚し、二人で生活しているので、ハインさんが
戸籍を取り、身分証明書を手に入れてホーチミン市で仕事をすることは
全く問題がないという。シクロの収入は1日200円ほど。妻と二人で
生活していけるという。

ハインさんも戸籍を作り、IDカードが欲しい。IDカードがあれば、
ホーチミン市で化粧品販売店で仕事をしたいと言っていた。

セン委員長、ロック寮長も「そうした事情なら戸籍を作り、IDカードを
作った方が良い」との意見。
ロックさんがハインさんが「子どもの家」にいた際の書類を持ってくる。
「子どもの家」に6年間在籍し、戸籍があったことを証明する書類を
作り、ハインさんの父親に渡す。今後、父親が地元の公安に書類を
だし、更に省の公安でIDカードを発行してもらうという段取りになる。
1時間ほどで話が終わる。

その足でフエ中央病院小児科医長室へ。
フオン小児科医長などと9月12日からフエを訪問するACCL、
マブベの会の皆さんの日程調整を行った。

フエ中央病院院長懇談、小児科関係者懇談、ACCL関係の
医師・鍼灸師などの講演会、ベトナム中部小児がん父母の会
総会日程、フエの小児がんの家庭訪問日程・・・・を協議し、
日時を確定する。約1時間の懇談・打ち合わせ。

午後5時過ぎ、ベトナム事務所へ戻る。

午後5時半、子どもたち・仁枝さんと夕食。ミットのスープ、
茹で野菜、醤油卵、焼きそば。


午後7時半。盲目の母親の手を引いて、子どもが
日本料理店前に来る。母親が民謡なのだろうか?歌を歌う。
室町から江戸、昭和初期位までは全国を放浪していた
「説教節」に出てくるご女(ごぜ)など漂泊の人々。
日本料理店の前で盲目で歌を歌い何がしかのお金をもらう
母と娘。どこか共通するところがある。12000ドン(100円)
を娘さんに手渡す。


日本料理店の来客2人。

午後9時、日本料理店閉店。徒歩、帰宅。

今日は朝から3回の話し合いを行った。さすがに頭が
疲れる。夜になると頭を使うのが嫌になった。

投稿者 koyama : 2007年08月08日 20:45

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