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2007年07月28日

JASSベトナム全員会議:日本料理店全員会議

晴天

36度。

午前3時に目覚める。読書「松川事件」。

午前7時。朝食。ブンボー。

午前8時半、JAAベトナム全員会議。久しぶりの会議である。


(ソン)日本料理店の子どもたちに日本語を教える。
    日本料理店で使う言葉、料理の注文、飲み物の注文、
    支払いなど具体的に教えた。
(石塚)観光コースの学生13人の再テスト。再テストは100点満点で
     70点以下の学生に行う。
(税田)「京滋YOUの会」・「火焔樹の会」合同スタディーツアーの
    ための準備。お菓子、夏祭り・・・・・。
(ハン)税田さんと協力して奨学生のお礼の手紙の翻訳。
    8月・9月スタディーツアーが訪問するナムドン少数民族
    への支援物資の購入。ラーメン、お菓子・・・。
(フーン)週3回、観光コースに日本語を教える。
     12月に子どもが生まれる。
(サン)日本語週2回。スタディーツアーの日程調整。
(ミン)讃岐造船案内

最後にJASSベトナム運営委員長のバオミンさんより
8月・9月のスタディーツアーの日程と担当者分担一覧表が
配られ、打ち合わせを行う。13スタディーツアー、約200人
の訪問者がある。7月31日~10月1日までほとんど休みなく
訪問者があるが、ベトナム事務所員全員の団結で乗り切って
行こうと誓い合う。

午後12時過ぎ、ほか弁(70円)。

昼寝。1時間。

読書「松川事件」。

午後3時、日本料理店全員会議。

(小山)今週、ダナン方面で『豚青耳病』と呼ばれる奇病が
    発生した。一人死亡。豚が何らかの病気に罹り
    その豚を食べた人間が亡くなったとのこと。
    ベトナムのマスコミが初めて発表した。病気にかかった
    豚は、耳に出血があり、青い耳になるという。
     これらの豚を飼っている農民に死者は出ていない。
    フエ郊外のフーバン郡で500頭の豚が死んだという。
    フエ市厚生部長に実情を確認した。
     ①「豚青耳病」(仮称)になった豚を食べない。
     ②『豚青耳病』は、高熱で煮沸すれば問題ない。
     ③フエ市では、一切の豚の解体と販売を禁止した。
       全ての市場での豚の販売も禁止。

     これらフエ市厚生部の措置を受けて、日本料理店では
    豚関連の料理を一切出さないようにして欲しい。
    豚などが入っているハンバーグなどは、豚肉以外の
    肉で代用するよう料理を工夫して欲しい。

    8月・9月で200人ほどの来客がある。最高時、50人ほど
    の来客となる。現在の厨房(3人)で対応できますか?
(ニー店長)大丈夫です。
(小山)料理を出す際は、お客さんの年齢なども考えて料理の
    量と内容を考えて作って欲しい。
(フエン)たくさん作ってしまった「うどん」を冷蔵庫に入れて
     翌日、お客さんに出したが、よいでしょうか?
(小山)うどんは一度作ったらおしまい。あまったうどんは、
    冷蔵庫に入れておき、翌日の私たちの夕食に
    焼きうどんなどにして出して欲しい。お客さんには
    残ったうどんは絶対に出さないようにして欲しい。
(税田)食材の仕入れはどうしているの?
(ニー店長)「子どもの家」にいる4人で相談して買い物に
      行っている。

(税田)厨房主任のトゥーイさんが仕入れ内容の素案を作り
    その後、みんなで協議するように。金銭の責任者は
    ニー店長。
(仁枝)厨房、接客とも髪の毛をしっかりと束ねておくこと。
    髪留めを使うように。髪の毛が食べ物に入らないよう
    細心の注意をして欲しい。
     刺身の買い方。
    ダナンの大きなスーパーで刺身を買った方が美味しいこと
    とブロックなので鮮度が保てると子どもたちは行っている。
(税田・小山・・・)毎月1回程度の刺身の買出しなら子どもたち
          5人でダナンへ買い物に行ったらどうか?
(ニー・子どもたち)私たち5人でダナンへ刺身を買いに行きたい。
           責任もって買いに行くことが出来る。
(小山)早速、明日の日曜日に遊びがてら、5人でダナンへ買い物
    に行って欲しい。
(仁枝)出勤簿をしっかりとつけるように
     豚肉の代わりのものを使っての料理を考える。

話し合いは、2時間に及ぶ。

午後5時半、夕食。

午後6時半、日本料理店開店。

今日は月2回の「精進料理」を食べる日。多くのフエ人は
精進料理を食べる。日本料理店の隣りの精進料理屋は、
夕方から常時満席・人待ち状態。今日はお客さんが
精進料理に流れる。

日本料理店では「忙中閑」。「チェー」(ベトナム風お汁粉)
を楽しむ。

午後8時過ぎ、5人の若者が来店。
日本人3人、ベトナム人1人、中国人1人。中国からやって来た
と言う。礼儀正しい若者だった。「ここの日本料理は美味しい」
と言って、天麩羅、カレーなどたくさん食べて頂いた。
私から「子どもの家」やストリートチルドレン、JASS、
この日本料理店の意味などを説明。

午後9時20分食事を終了。帰りに子どもたちと記念写真を
撮りたいとのこと。


午後9時半閉店。帰宅。
最近5日間ほどアルコールから遠ざかっている。今日も「飲まなかった」。

日本語教師のAさんが、体調を崩し入院。現地病院でも原因不明のた
め2日間の入院の後、明日、急遽日本へ帰国し、日本の病院で
精密検査をするようにした。
バオミンさんと帰国の手続き、航空券等の手配を行う。

東京の自宅から電話。6月日本帰国時に行った大腸がん検査の
結果を知らせてくる。疑義アリとのこと。出来るだけ早く再検査の
必要と医師に言われたと言う。と言われても、明日から
9月末まで200人もの訪問者がある。例年の体験では
ほとんど2ヶ月間、休みも取れないほど忙しい。これは、
10人のベトナム事務所員も同様である。しばらく様子を見ること
にする。家族には10月帰国時に精密検査をする旨伝える。

「松川事件」読了。今まで何冊か松川事件の本を
読んだが、本書は、今までとは違う視点からの論究があり、
面白い。また、人間の人生の浮沈の様子を見る。
福島地裁・仙台高裁で死刑判決が出た人たち。多くが当時の
日本共産党員。しかし、日本共産党自体はコミンフォルム批判
を受け入れるかどうかをめぐり、野坂参三など「所感派」と先日
亡くなった宮本顕治など「国際派」に分裂。共産党同士での
内部闘争が行われていた。松川事件の現地福島は、
共産党「国際派」グループに所属し、「所感派」グルーとの闘争
に入り、松川事件の被告共産党員を攻撃する場面なども
あったという。特に自白した8人の中の共産党員に対する
共産党内からの批判。宮本百合子などからの虚偽の「自白」
をした共産党員に対する批判と取られかねない評論なども
飛び出し、20人の被告たちは、孤立無援状態。


朝鮮戦争に重なり、米占領軍は共産党幹部の
追放、アカハタの発刊停止など事実上共産党禁止措置
を講じ、これに対して共産党の所感派は地下指導部を
作るにいたる。また、一部グループはスターリンや毛沢東の
指導もあり「武装闘争」路線を採るようになる。
米占領軍や吉田内閣は共産主義の暴力革命路線と非難し
共産党の一部は火炎瓶闘争・山村工作隊など武力革命路線
に進み、火炎瓶闘争などを繰り広げると言った状況。
松川事件の被告たちは、共産党の暴力革命路線の
実例としての「列車転覆事件の犯人」とのレッテルを
貼られてしまい、世間でもそれを追認する風潮だった。
世間からは列車転覆犯人。8人もの被告が「自白」している
のだから事実だ。支援の共産党などは分裂し仲間同士で
抗争中。無実の死刑判決を受けた人たちの気持ちを考えると
どんな気持ちで拘置所いたのだろうか?
それから14年間の闘いは死刑・死刑・差し戻し・無罪・最終無罪
と変転する。作家広津和郎、宇野浩二などの「部外者」の裁判
批判を通して、国民的な松川事件支援運動が始まる。
松川事件は私が2歳の時に起こり、高校1年生の時、最高裁で
全員無罪となり終了する。しかし、真犯人が見つからないまま
時効を迎え今日に至っている。無実の被告の人々のその後。
引き続き共産党福島県委員長になった人。共産党を離党した
人、精神に異常をきたした人など様々。
東芝の佐藤一さんなどは、東京から東芝松川工場労組を
指導に来たために首謀者に祭り上げられ死刑判決を受ける。
福島とは縁もゆかりもない佐藤一氏が
東芝労組の幹部として松川工場にオルグに来るという偶然が
彼の人生を一変させてしまい14年間も文字通り命がけの
闘いに入っていく。人間は「絶望的」な状態の中でも
こうして闘いうるものだ、と改めて松川事件の無実の罪を
着せられた人たちを見て思うのである。
松川事件の支援は、当時の自由党(現在の自民党)の
人たちまでもが支援闘争に入っていく。自分たちとは
政治的主義主張は全く反対だが、無実の人間を死刑に
することは間違っているという「人道主義」の立場から
自民党員の弁護士、社会党員の弁護士、議員などが
無実の共産党員の救援を行うのである。
日本人の真っ当な理性がまだ生き生きとしていた時代であった。

小泉首相の郵政民営化選挙の様子を見ると、人間を
人間とも見ない政治手法が横行している。意見が違えば
さっさと切り捨て、刺客を送り、刺殺してしまう。何か
殺伐とした時代になっている今日を実感する。
本書を読んで1950年代・60年代初頭の日本には
政治的には沸騰していたが、人間的には牧歌的な
時代の残滓があったように気がする。

投稿者 koyama : 2007年07月28日 20:30

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