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2007年07月18日

ボランティア研修生と懇談

晴天 真夏      

午前5時起床。血圧・体重測定。
午前7時、朝食。フォー。

フエに戻って4日目。やっと落ち付いてきた。

午前8時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。
東京のK大学生のOさんと2時間半懇談。
大学の海外研修プログラムに基づき、1ヶ月間
ベトナム事務所・「子どもの家」・日本語学校などで
研修を行う。
午前8時半から午前11時半までボランティアのこと、
NGO、子どもたちのこと、日本の教育のことなどを
話し合う。

今後、研修終了後、Oさんへの評価を書いて大学へ送ることに
なる。

昼食。次男から送られた稲庭うどんをゆでて冷たくして食べる。
1時間ほど昼寝。

読書「仕事と人生 城山三郎」(角川書店)読了。

今年3月に亡くなった城山三郎の最後の本。5月に出版された。
三部構成となっている。第1部は、城山三郎のエッセー集。
「残された歳月」では、体力が衰えてきて残りの持ち時間、
何をするのかを記している。「考えてから」ではなく
「やってみた上で考えよう」とのスタイルである。
これは、文章は手と足で書くという「行動・実践」を大事にする
作家であることが分かる。
「甘粕大尉」を理想の男性と言っている。私など大杉栄、伊藤野枝
とその子どもを関東大震災の混乱に乗じて虐殺した人間、
傀儡満州国を裏で操った人間というイメージが強いが、
城山三郎など昭和2年頃生まれ、敗戦時17歳の人たちには
そんな風に映っていたのかと改めて世代と歴史体験の違いを
感じた。
城山三郎が亡くなる間際まで戦争に反対していた理由は、
海軍特別幹部練習生を志願し、湘南海岸で「伏龍特攻隊」
として、人間爆弾となり、湘南海岸の海に潜り、棒の先に
爆弾をつけて米軍の上陸用舟艇に体当たりするという特攻要員。
そんな経験から、戦争には絶対反対、憲法9条だけが
戦争で得たものだと言っている。

第2部は佐高信との対談。
戦争を鼓舞した音楽を多数作った古関裕而を批判している。
軍艦マーチ、予科練の歌、加藤隼戦闘隊の歌をなどを作り
戦争を鼓舞した古関が、戦後、何ら反省をしないままに
時流に乗って「長崎の鐘」などを作曲していることなどを批判。

第3部の各界の人からの追悼の言葉の中で孫の
井上裕子さんが、「硬派で、正義感が強く、愛情豊かで
優しい、いつも少年の心を持ち続け、いたずら好きなところ
もある祖父」と言っている。城山三郎の実像が見えるようだ。

本書を読んで私の生き方の何らかの指針になったことは
明らかである。

午後5時半、日本料理店で皆さんと夕食。魚のフライ。

午後6時半、日本料理店開店。
リー副店長がいなくなった。夕食前まではいたのだが・・・。

午後7時、日本人ご夫妻来店。
午後8時、オーストラリア人2人来店。
4人の来店。

午後9時、閉店。日本人スタッフで新しく入れた生ビールの
試飲会を行う。工場で作ったフダ生ビールの味が変わったことを
確認。午後10時、帰宅。

宮本顕治が亡くなった。団塊の世代にとっては、好き嫌いは
別として、傑出した人物であったことは事実である。98歳。
長州出身の岸信介と宮本顕治は、左右の両翼だった。
宮本百合子との「12年の手紙」を学生の頃読んだ記憶がある。
現在の日本共産党の基本路線(第8回党大会路線ー
アメリカ帝国主義と日本独占資本との闘い)を作った
中心人物でもあった。「余人に代え難い人」だったそうだ。

投稿者 koyama : 2007年07月18日 19:09

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