« JASS観光打ち合わせ | メイン | 大抜擢人事を決める »

2007年05月15日

子どもたちの日本語教育

曇りのち晴れ

午前7時朝食。ブンボー。

午前8時。受信メールのチェック。必要な送信。
午前9時。徒歩、ベトナム事務所へ。
新日本料理店は基礎的な部分はほぼ完成。室内、個室、
厨房などは完成した。今後は厨房のガス設置、来客用の
机と椅子そして一番大事な「フダ生ビール」のサーバー設置が
残るのみ。今週末、旧日本料理店にある食器、冷蔵庫、
テレビなどを新日本料理店に移転する作業を行い、5月19日
には全てを完了する予定。

今日、フエ市人民委員会外務部長ニエン氏、ホアン部員、
「子どもの家」セン所長、東京平和産業ラーム氏に
5月21日(月)午後6時からの新日本料理店開店祝いへの
参加を呼びかける。全員参加の予定との返事。

ベトナム事務所2階では日本料理店店員の子どもたちが
ソン先生の指導で日本語を勉強していた。


今日の勉強は、接客。お客さんの飲み物の注文を聞くという設定。
ソン先生が見本を話し、子どもたちがリピートする。


しばらく発音、イントネーションなどの勉強をし、実際に
一人一人話させる。子どもたちは恥ずかしがらずに
真面目に日本語を話す。

その後、実際にお客と店員になって練習。
リー君は本当に店員になりきり練習していた。
真面目な子である。少し「化け」始めたか?
などという期待をもつと直ぐに「ドンデン返し」を食らう
リー君でもあるのだ。今回は「本化け」かはたまた
通常の仮化けか? そろそろ本化けになることを
期待している。頑張れリー君。

その後、JASS観光関連の問題で関係者と長時間打ち合わせ。
いくつかの問題を検討。

日本の支援者から電話。夏のスタディーツアーの件。

料理人のターオ君。兄弟喧嘩がひどい状況なので
当面、兄弟を離して生活させることにし、ターオ君に
下宿を借りてやった。
「子どもの家」に訪問者を案内している税田さんから
電話。
ターオ君が毎日「子どもの家」に来て寝ていると言う。
更に「子どもの家」を退所した子ども2人も連れて
いるという。昼間はゲームセンターなどで遊び、
夜になると3人で「子どもの家」に入って来て
寝て帰ると言う。寮母さんはターオ君が怖くて
注意できないとのこと。セン所長から「小山、ミンさんと
ターオ君のことで緊急に話し合いたい」との言付け。
本人の希望もあり下宿を見つけ、借りてあげたのに。
なかなか「手ごわい相手」だ。一筋縄ではいかないな・・・。
まだまだ人生を舐めている態度がありあり。

昼食、精進ほか弁(35円)。

昼寝。30分。

読書「海も暮れきる」(吉村昭著:講談社文庫」読了。
全文を読んで「暮れきる」の『きる』に込めた著者の気持ちが
理解できたような気がする。放哉(ほうさい)が、42才で
死ぬ間際の8ヶ月を住んだ小豆島での生活は、放哉の
最後の人生と生との苦闘であった。苦闘を戦い抜いた
という意味が強く込められているように思った。
肺結核が刻々と深刻な状況になっていく様子が、あまりに
リアルで具体的である。最後に体中がやせ細り、自分で
立てなくなり、近所の漁師のおばさんが、ボランティアで
面倒を見てくれる。トイレもいけなくなる。村の医者が来て
死期が近いこと放哉に婉曲に伝える。「知り合いの方を
呼んだらどうですか?」と。放哉は、親、兄弟などは
一切の係わり合いがないとして、家族に知らせることを拒否。
ただ、放哉のもとを出て行った妻の薫の写真が欲しいと言う。
放哉の肺結核(当時は不治の病)の進行状況を克明に
記述出来たのは筆者の吉村昭が同じ病気で長期間療養。
戦後、薬が開発され助かったという経験を持っているからだ
と分かったのは、あとがきを呼んでからである。
本書は死の8ヶ月前、小豆島に渡ってから亡くなるまでを
詳細に書き綴っている。41歳までの放哉がどのような
生き方をしたのか? 何故、臨終に家族を呼ぶことを
拒否したのか、など小豆島へ放浪せざるを得なかった
放哉の人生の詳細を知れば、更に小豆島の8ヶ月の
意味が明らかになたのではないかと思った。
しかし、小豆島での8ヶ月間の詳細な闘病生活、
刻一刻と死に近づいていることを知りながら、
家族、社会への反撥なのか、現世を否定し、ただ、
自由律俳句の世界だけに入り込んでいた放哉の
俳句の簡単そうで実に深い意味が少し理解できたような
気がする。
「はるの山のうしろからけむりが出だした」が最後の句となった。
「咳をしても一人」が私には、放哉の小豆島での生活を
端的にあらわしている句に思えた。エリート意識が強く、
甘えん坊で、寂しがり屋で実に人間的な放哉が
たった一人で死んでいく道を選んだ「達観」した句とも
読める。

午後4時、徒歩ベトナム事務所へ。
バオミンさんといくつかの打ち合わせ。太平観光から電話。

午後6時、大塚さんの料理で夕食。久しぶりの『真っ当な』
夕食だった。4月20日に日本料理店を閉店してから
3食を自分で賄わなければならない。大変なこと。
時間がなくて食事をしないことも多い。カップめんなども
あり、相当、手抜きの食事となっていることは、否めない。
時々、大塚さんの作ってくれる食事が栄養源。
5月21日新日本料理店開店後は子どもたちと一緒に
夕食を摂ることが出来る。もう少しの辛抱。

ピースインツアーに夏のスタディーツアーの見積もりの件
でメールを入れる。


投稿者 koyama : 2007年05月15日 05:38

コメント