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2007年05月25日
バンベー・JASS観光等の業務
晴天
今日も外気温40度。日陰の廊下36度。
暑い。1日中、体がダラーッとしている。
仕事を始めようという気力が出ない。
午前7時、朝食。フォー。今朝から税田さんがいない。
4人の朝食となる。少し寂しい。
午前8時半、徒歩ベトナム事務所へ。
徒歩15分。事務所に着いた時点で体中、汗まみれ。
ベトナム事務所2階の会議室では、子どもたちが
日本語の勉強。日本料理店開店後、子どもたち
から英語と日本語の勉強を続けたいとの要望がでた。
子どもたちの体力も考え、水曜日英語、金曜日日本語の
勉強をすることにした。
今日も「ソン先生」の指導の下、日本語の実践的な会話
の勉強をしていた。日本料理店での会話が基本。
ベトナム事務所で多くのメールへの返信。
JASS観光の夏のスタディーツアーの見積もりのチェック。
今後、見積もりは誰が見ても分かるよう親切な見積もりを
作るようにした。
午前10時。バオミンさんと一緒にフエの秋葉原電気街へ。
日本料理店のカウンター部分が暗く、外から見て一番
目立つカウンターが目立たず、室内全体が暗いイメージ
に見える。大塚さんのアイディアでカウンターにスポットを
当てようということになった。中程度の強さのスポットライト
2つを買う。扇風機2台買う。
午前11時半。ベトナム事務所を出てフンボン通りの
フランス製のパン屋さんへ。パンをいくつか買う。
途中でヨーグルトを10個買う。1つ20円。
昼食はパンとヨーグルトとミルク。
昼寝。1時間半。熟睡。やはり疲れているようだ。
読書「石の肺」。読めば読むほど、「無知の怖さ」と犯罪性が
分かる。私自身がアスベストについては、学校のアスベスト
問題と昨年、クボタが発表したアスベスト被害者への支援
問題程度。明治からアスベストは病気になり死んでいくと
知られていた。関空付近の地域は日本最大のアスベスト
工業地帯。同和地区のひとたち、在日朝鮮人、極貧の
人々が『命と引き換えに』アスベスト産業に関わっていた
ことを知った。日本政府はアスベストを建材などに使うことを
法律で義務付けていた。アスベストは鉱物であり永久に
溶けたり変質したりしない。吸ってから20年~40年後に
発症し、気管支炎から中皮腫、肺がんなどに死亡する。
アスベスト被害は今後数十年して更に大量に発生する
状況だということも改めて分かった。エイズ問題と
同様、国家の犯罪でありながら、他人事のような態度を
とっている「美しい国」日本である。
午後、バオミンさんと連絡を取りながら、6月15日に
来るピースボートの受け入れ態勢を作る。見積もり。
午後4時。日本料理店の厨房。
おやつタイム。小さなフランスパン(肉と野菜と唐辛子入り)
で休憩。
午後5時半、夕食。
大塚さん、仁枝さん、私、リー副店長、グエットさん、
フエンさん、トゥオイさんの7人。
今週は毎日40度の猛暑。皆さん体力を相当消耗し、
消化機能が減退している。今夜の食事は「」おかゆ」。
海老と卵でだしを取った「おかゆ」。実に美味しい。
日本語学校の先生は授業があり、午後7時からの夕食。
昨日、一昨日とお客さんは「ゼロ」。
しかし、子どもたちは嫌がらずに今日も頑張っている。
1年間の体験は大したものである。商いは飽きないである。
良い時もあればお客さんが来ない時もあるという体験を
既に何度もしている。子どもたちは平静にお客さんゼロを
受け入れている。
お客さんが来るのを待っているいる間に店の前のシクロで。
新日本料理店店内の模様
店長のホンニーさんは、まだ体調不良のため欠勤。
暑い部屋の中で苦労しているのだろうと思うと可愛そうな
気もするが、ベトナムの子どもたちの大半は同じ境遇。
ターオ君は今週になって1日も出てこない。昨夜も
「子どもの家」に行ったがいなかった。寮母さんに聞くと
午後11時頃、塀を乗り越えて「子どもの家」に入り、
ベッドで寝て、寮母さんたちが起きる前にどこかへ
行ってしまうという。どこで何をしているのだろうか?
今夜もお客さんはゼロ。
午後9時閉店。リー君と途中まで歩いて一緒に帰る。
トンチンカンホテル着9時20分。
トンチンカンホテル廊下気温36度。湿度60%。
うーん、夜9時半でも36度か・・・・。やはり暑く湿気も高い。
投稿者 koyama : 2007年05月25日 17:14