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2010年04月30日

日本へ帰国(4月30日・5月1日合併号)

曇り しかし 蒸し暑い

ベトナムは今日から4連休。

4月30日 解放記念日
5月1日  メーデー
5月2日  日曜日
5月3日  代休

ベトナム事務所も4連休。

午前中、バオミンさんと何箇所かを回る。

午後、ベトナム事務所でバオミンさん・ソン君と
打ち合わせ。

その後、休日だが、ハンさんがボランティア貯金完了報告書
添付の各種領収書綴り一式を持ってくる。

帰国時刻寸前にソン君が、日本人でお世話になっている方への
結婚式の状態状を持ってきた。日本で一人ひとりに郵送して
欲しいとの依頼。

休日なのにベトナム事務所前でリー君は遊んでいた。

今回も帰国する数分前まで色々な仕事が入り、
帰国の荷物の準備が出来なかった。

午後5時、フエ市内を出てフエ空港へ。

午後8時半、ホーチミン空港着。

チェックイン。ホーチミン空港内のシンガポールレストラン
で軽く夕食。

午後11時45分ホーチミン発。


ーー

5月01日、午前7時過ぎ、成田着。気温8時。
寒い。

飛行機の中では眠れずベトナム時間午前4時の朝食は
さすが、食べられなかった。

午後10時過ぎ、自宅着。

3か所にベトナム事務所から依頼された「荷物」を
宅急便で送る。

明日、具島先生とお会いすることになった。


投稿者 koyama : 18:55 | コメント (0)

2010年04月29日

「こどもの家」へ:停電・日本料理店閉店

今日も午後2時から午後9時まで停電(予定)だった。

午前中、「こどもの家」へ。セン運営委員長と今後の「こどもの家」
の件、こどもたちの自立問題、「こどもの家」スタッフの件など
幅広く意見交換をした。

セン運営委員長は、1960年代後半から70年代にかけて
フエ大学(当時の南ベトナムの2大エリート大学)法学部の
学生だった。学生運動からベトナム労働党(現共産党)に入党。
フエ市内に常駐していた米軍の戦車などの兵器や米軍の
情報を収集する地下活動に参加。
当時、ナムドンなどの山岳地帯にいた「解放戦線」の兵士に
フエ市内の状況を伝達する任務を遂行していた「解放戦線」
の女性闘士である。
何度も南ベトナム秘密警察に捕まりそうになり、つかまれば
即、射殺という命をかけた闘争に参加していた。
この10年ほど一緒に「こどもの家」の運営を行っているが、
当時の解放戦線の革命的且つ英雄的で清廉潔白な精神を
未だに持ち続けている「数少ない」解放戦線の闘士である。

明日は、4月30日「ベトナム南部解放35周年記念日」。
ホーチミン市で行われる解放戦線兵士の「同窓会」参加のため
今日出発するそうだ。


「こどもの家」では、17年前から「こどもの家」にいる
タン君(山岳少数民族)とガーさん(ハノイ近郊出身:名前の
ガーは、ロシアという意味:現在高校1年)が、仲良く話を
していた。一緒に住んでいると「年頃」になっても兄弟の
ような感覚なのだろうか?


昼食はおいしい「チャーハン」が食べたくなり、バオミンさん
と一緒にチャーハン専門店「ヒエップロイ HIEP LOI」
へいく。


午後2時から停電。

日本料理店では引き続き、200種類ほどの日本料理の
撮影。新しいメニューを作っている。

大塚さん、原田先生、日本料理店のこどもたち全員で
停電中なので「太陽の光」をうまく使い、おいしそうに
写るよう工夫しながら日本料理の撮影を行ってた。

最近厨房の仕事への責任感も強くなり、明るくなった
チャンさん。


フエはマンゴスチン(果物の女王)の季節となった。



私は、バオミンさん、ハンさんなどと私が不在中の
ベトナム事務所の活動と課題、課題の問題点と解決方策
などについて長時間協議をした。


午後9時まで停電が続くとの情報。

大塚さんと相談し、停電中の日本料理店開店は無理と
判断し、日本料理店を閉店とする。午後5時、こどもたちは
夕飯を食べて帰宅。

午後6時過ぎ、私・大塚さん・原田先生・古竹先生の
4人で1週間の総括会議を行う。


日本料理店新メニューサンプルを食事にして午後10時まで
交流。


リー君は、日本料理店の前の地域住民の「廟」
で友達4人と車座になり焼酎で大宴会中。

投稿者 koyama : 09:13 | コメント (0)

2010年04月27日

停電:終日「こどもの家」訪問者案内

停電 午前6時から午後2時過ぎまで。
うんざりするほどの「停電攻撃」に、文句を言う気力もでない。

終日訪問者を案内する。

昼食は「こどもの家」近くの「チャオバンカン」(小麦粉の手打ちうどん)
の店へ。

案内に同行したバオミンさんもアンさんも「フエ人」。唐辛子を
大量に入れる。

私のチャオバンカン(唐辛子極少量)


アンさんのチャオバンカン(唐辛子かなり大量)


バオミンさんのチャオバンカン(唐辛子極大量投入)

午後も引き続き訪問者を「こどもの家」関連施設などを
案内。

午後5時半、日本料理店では大塚さんを中心にこどもたちが
新しいメニュー35品目を作り、原田先生が写真撮影。

夕食は新メニューのサンプルをみんなで食べる。

昨日、「テレビ朝日」デレクターより『午後8時頃、
10人で日本料理店にいく』との予約あり。

本日も欧米系の来客多数。
オランダ人、オーストラリア人・・・・・・。

多くの欧米系の来客は英語版観光ガイドブック
の「ロンリープラネット」を持っている。大半の来客は
ロンリープラネットの中の「MR JASS MAN」という
私のフエでの活動を紹介した記事を読んでくる。

接客のリー君に「MR JASS MAN」はいるのか?
と聞く。

そんなこともあり、欧米系の人たちからの様々な質問を
受けることが多い。

今日は、オーストラリアのシドニーから来た二人。
熱心に「こどもの家」やベトナムの事情、ボランティア活動の
内容などを聞かれる。



午後9時閉店の時刻になっても『テレビ朝日ディレクター一行』
は一向に来なかった。
事情があったのだろう。しかし、人間としての最低の仁義である
「予約したが事情で行けない」という電話位はしてきてもよさそうな
ものである。日本人の道義が薄れてきているとは言われているが、
こうした体験をすると確かにそうだな、と思わざるを得ない。
『人・相手を気遣う能力』がなくなって来ているとも言われるが
それは子供ではなく社会人として活動している大人そもののだ
と実感する。これも日本社会の『メルト現象」』の現われと見た。
10人の来客が一度に来て、様々な注文があっても全て即座に
対応できるよう、こどもたち、大塚さん、そして原田先生・古竹先生
が午後6時過ぎから午後9時まで待機していた。
「10人の予約」電話をしてきた「テレビ朝日のディレクター」を
名乗る方には、『10人の予約電話』が日本料理店ではどのような
反応と対応・待機現象となって現れるのかは、理解できないので
あろう。悲しい大人社会の現象ではある。

日本料理店終了後、大塚さん・原田先生・古竹先生の4人で
日本料理店を使い懇親会。気がつくと午前0時近かった。
不思議なものである。20歳と29歳の若者と60代の元気溌剌
なおじさん、おばさんが、延々3時間も人生(宗教・人間・生き方・・)
などを話し合うのである。

投稿者 koyama : 08:30 | コメント (0)

日本料理店新メニュー作り:静大ニフィー受験生親子面談

昨日午後2時から今朝7時まで17時間の停電。

午前中、5月帰国の準備。ハノイから来客との懇談の日程調整。
長野県小諸市訪問・ベトナム事務所で預かる予定の若者との
面談。浜松の静岡大学工学部訪問。ニフィー留学の打ち合わせ。
清水ロータリークラブ懇談(静岡市清水区)。
帯広で日本料理研修中のTUOIさんを迎えに行く。東京で4日間
TUOIさんの東京見物。フエまでつれて帰る。
こんな日程の調整と計画。JASS日本代表委員長の福田もえ子
さんが、細かく計画を立て、TUOIさんの東京見物の付添い人など
諸計画を立ててくれた。JASS東京の会の皆さんが率先して
GW中にも拘らずTUOIさんの東京見物の付添い人を買って出て
くれた。この精神こそボランティア精神。皆さんに感謝。

午後2時、日本料理店の新メニューを作るための写真撮影。
大塚さん・原田先生と。


午後3時、静岡大学工学部入学希望の親子を呼んで
入学試験の件、入学後の生活条件など細かい説明を
行う。6月中旬が入学試験。フエで行う。


その後、原田先生、フーン先生と静大ニフィー入学試験
の願書の細かい打ち合わせを行う。5月10日が入学願書
〆切。それまでに間に合うようかなり多数の書類を準備しなければ
ならない。



午後5時半。日本料理店新メニュー写真撮影のために
作った日本料理試作品をみんなで夕飯とする。


送信者 10-4月27日

欧米系の来客多し。厨房は大忙し。


送信者 10-4月27日

送信者 10-4月27日

リー君。4月20日の給料日から7日間。既に給料を全額使って
しまう。内緒(と本人だけが思っている)入質していた自転車の
請け出し。賭けトランプでの出費。無計画な飲食。
そして、再度の自転車入質。

今夜は「床屋に行くので床屋代をちょうだい」と紙に書いて
こっそりと持ってくる。
給料日をたった7日間しかたっていないのに月給を全額使って
しまうという無計画な日常生活。4月20日、給料を渡す際、
私とバオミンさんで30分も時間をかけてまさに「その話」を
したのだが、全く頭に入っていない。自分のやりたい放題の
生活を今でも続けている。基本的に「その日暮らし」の生活。
好きなだけお金を使い、なくなったら「誰かに借りて踏み倒す」か
「誰かにもらう」。路上生活の頃と基本的には変わっていない
行き当たりばったりの生活である。23歳になった。もうこんな
路上生活の延長のような生活に区切りをつけて、大人になって
欲しいと願い、私、バオミンさん、大塚さんは、「おこり」「励まし」
と色々努力しているのだが、幼児の頃から身についた生活習慣
はそう簡単には、直らない。
国際支援・国際協力などと声高に言う人もあるが、私など
そんな大きなことは出来ない。リー君とは17年間付き合っている。
やっと真面目に日本料理店で仕事をするようになった。
悪い仲間とのつながりも以前よりは減って来たが、依然として
路上生活の精神構造を保持している。たった一人の若者で
あるリー君との「闘い」にその日1日を費やしている国際協力の
現状である。「人を育てる国際協力」などというテーマに入り込むと
こうした「泥沼」に入ってしまうのだ。もっと、きれいに「見栄えの良い」
国際支援・国際協力の仕方もあるのだろうが、JASSはどうしても
こんな国際協力の仕方になってしまう。

現在の国際支援・国際協力の「主流」は、「計画主義・数値主義・
結果主義」である。
この考え方は、アメリカの「企業経営」の中から生まれてきた
手法である。現在、日本の学校教育の現場に持ち込まれ
混乱をもたらしている。

およそ人間を育てるという至って精神的且つ微妙な仕事を
物を製造するように「計画を立て」「いつまでに自立させるか」
「1年目の成果を数字であらわす」。そして、結果として目に
見える成果がないと「ダメなNGO」との烙印がおされるという
およそ「人間」にかかわる人たちの発想ではない。

JICAもボランティア貯金もODAも大手のNGOもこの種の
「人間不在」の思想におかされている。

私たちの行っているリー君との17年の付き合いは
これらの人々の考えでいうと成果の上がらない」
「効率の悪い」海外支援となるのである。
私は敢えて海外協力・海外支援は「目に見えるような成果の
上がらない」「結果がすぐに見えない」ような国際支援
をしたいと念願しているのである。

人間をそだてるという行為は、すぐに結果の出るもの
ではない。10年、20年してなにかが現れるような
忍耐のいる仕事である。
今の日本のNGO国際支援の世界を席巻している
「成果主義」「結果主義」「数値主義」には、辟易している。

今回のボランティア貯金完了報告書もまさに上記の
精神を基調にして、その報告が求められている。

ODA、JICA,ボランティア貯金などの中心に
いる人々の誤った国際支援論に一番欠けていることは、
「人間」「生きた生身の人間の存在」である。

投稿者 koyama : 07:30 | コメント (0)

2010年04月26日

里子の誕生祝い:停電ー日本料理店中止

曇りのち晴れ 快晴 暑い


午前6時、バオミンさんから電話。30分ほど話をする。

午前7時朝食。

私の大好きなブンボーフエ。

午前中、ベトナム事務所で仕事。

今日は新日本語教師の古竹先生がフエに来て丁度
1ヶ月目。1ヶ月無事仕事をやり遂げたお祝いに
昼食を外食とした。ベトナム茶で乾杯。
1年間、体に気をつけ、日本では出来ない体験をして
欲しい。人間の生き方のヒントの一部でも掴めれば
幸いである。

午後2時からベトナム事務所・「ハイリーホテル」とも停電。

午後2時、ブライセン本社と電話会議。
私の買ったばかりの携帯が壊れて音が出ない。
ソン君に直してもらう。しかし、保存していた電話帳が
全て消えていた。

暑くて「ハイリーホテル」にもベトナム事務所に居られない。

ベトナム事務所は引き続き停電。


午後3時、「京滋YOUの会」Fさんの里子Vさんの誕生祝いを
ベトナム事務所で行う。

日本料理店は停電のため午後5時半に閉店。

大塚さん・原田先生・古竹先生の4人で外食。

近くの「リトルイタリー」へいく。

「リトルイタリー」が最初に開店した頃にはよく行って
いたが最近は全く行っていない。
久しぶりに行く。

チーズで生ビールを飲む。冷えていない。泡が全くない。
結局、氷を入れて生ビールを飲む。生ビールの「生」に意味が
わかっていない。微生物が醗酵しているから生だのだ。
生ビールのサーバーを見る。何と「電気を切っている」ではないか。
水素ガスで冷やし醗酵をうまく調整しながら飲むことが必要。
リトルイタリーは、生ビールも何でも結局は、缶ビール、瓶ビールと
同じように氷を入れて飲むものと理解している。もったいない。
形だけ真似しても「心」が入っていない。「生ビール道」に反する暴挙。



チーズをおつまみに「温かい氷入り生ビール」を飲む。



オニオンリング

ハイリーホテルへ帰る。午後2時から停電。
結局、電気が点いたのは、翌日(27日)の午前8時。
18時間の連続停電。さすがに疲れる。
室温30数度。湿度も高い。到底寝られる状況ではない。
室内は真っ暗。地域全体も真っ暗。
とにかくベッドに寝ているしかない。ふらふらしていると
暗闇でけつまずいて「怪我」をしかねない。
1時間ほどウトウトするが寝苦しくて目が覚める。
そんなことの繰り返しで朝になる。
18時間、しかも夜中の停電はやめてほしい。
寝不足。

投稿者 koyama : 18:02 | コメント (0)

2010年04月25日

ボランティア貯金完了報告書完全終了

曇り・後晴れ  暑いのか寒いのか? わからない気候。


午前6時から午後2時まで停電。日曜日に停電を決行する奴に
憎しみをもつ。パソコンが使えない、仕事が出来ない。

午前7時、サッカー場近くのフランスパン店(手作りで焼いている)
でフランスパン(中に肉、野菜などが入っている)を1本買う。
5000ドン(25円)。

午前10時。牛乳でフランスパン1本を食べ朝食とする。

仕事場を変えて「ボランティア貯金完了報告書」と関連の写真35枚
を1年間写したデジカメの写真から選ぶ。写真を選ぶだけで半日
かかる。

ボランティア貯金完了報告書を3回読み直し、「てにおは」などの修正。
報告書を証明する写真35枚を選び、山西司郎さん、渡辺和代さんに
送信する。1回5枚の写真送付なので結構時間がかかる。

ベトナム事務所で夕方仕事していたが、ベトナム事務所の入り口の
ドアの外からリー君が日本料理店の中を覗いている。
ハイリーホテルからベトナム事務所に移動し仕事をする際、
ベトナム事務所前の喫茶店を見るとリー君がシクロさんや
日本料理店付近の怪しい人物と「トランプ賭博」をしていた。
注意する。

その後、日本料理店の中を外から何度も覗きこんでいた。
リー君は日本料理店のあるときは人との付き合いがあるが、
日曜日などの休日は付き合う人は、トランプ賭博仲間だけなのだ。

午後8時までボランティア貯金報告書をベトナム事務所で書く。
関係者に送信する。

12年間ほどもらっていたボランティア貯金が今回で最後となった。
「JASSは自立が進んでいる」との理由だそうだ。

2010年4月以降の支援を打ち切ったボランティア貯金に
不満は残るが、「飛ぶ鳥後を濁さず」。きちんとした報告書を
作った。1万字にも登る記述。35枚の活動を証明する写真を
添付した。

その後、ベトナム風ほか弁(100円)を買って夕食とする。

投稿者 koyama : 21:48 | コメント (0)

2010年04月24日

ボランティア貯金完了報告書きあげる

気温が更に低下。
長袖を着ないと寒い。今年はベトナムも異常気象。

午前8時半、フォー専門店「マイダオ」で「フォーガー」を食べる。
22000ドン(110円)。

その後、午前11時までボランティア貯金完了報告書を書く。


午前11時過ぎ、散髪。150円。

午後12時半から2時間昼寝。気温が下がり、体がだるい。


昼寝から覚めて引き続きボランティア貯金完了報告書作成。


午後4時半、1万字程の完了報告書が出来上がる。

何とか、4月中に出来上がってほっとする。

提出〆切は6月1日。

これから20枚程度の写真を添付する作業が残っている。

午後5時、「ハイリーホテル」の住人4人でフエに出来た
韓国料理店へ行ってみる。

店員さんの服装もしっかりしている。期待が持てる。


何種類かの韓国料理を頼む。

豚肉、牛肉・・・・。

全て厨房で焼いてくる。テーブルに出た時点では冷たく
なっている。

マッコリを頼む。メニューには「カルピス」と書いてある。
マッコリが出て来るまで「カルピス」なのか「ドブロク」
なのか論議する。
店長と店員に「酸っぱいですか?」と聞く。
店長も店員「酸っぱくない」という。じゃあ、マッコリじゃない
じゃないの・・・・と思う。

しかし出てきたものは、正真正銘のマッコリ。

店長も店員もマッコッリを知らないことが判明。

店員がマッコリをついでくれる。少し酸っぱいが
全く美味しくない。

後で分かったことだが、マッコリの瓶の底にマッコリが
沈殿していた。振れば酸っぱく甘い香りがした。

他の韓国料理も全て「かくのごとし」である。

つまり、韓国料理を食べたことのないベトナム人が
やっている韓国料理店の実態である。

これを敷衍すれば、日本料理も同様である。
日本料理を食べたこともないベトナム人のやっている
日本料理店は、今日行った韓国料理と同様、
日本料理にはなっていない。似て非なる日本料理である。



冷めた豚肉



何事も体験してみないと分からない。


行って損をしたとは思わなかったが、フエの日本料理店
でも同様の問題があるのだろうな?と思った。


今日は、1万字のボランティア貯金完了報告書を
書きあげた自分自身に焼き肉のご褒美と思ったが
偽物焼き肉・韓国料理であった。

「残念」。


古竹牧場の伊万里和牛のステーキでも食べてみたいという
衝動に駆られる。


http://ameblo.jp/chil-chil/entry-10047552524.html

投稿者 koyama : 22:48 | コメント (0)

2010年04月23日

停電:気温が急落:ボランティア貯金完了報告書作成

曇り雨。気温が急落。25度。昨日に比べ12度下がる。
雨も降り急に寒くなった。

今日は伝説の初代ベトナムの「国王」フンブオンを記念する
祝日。

午前6時起床。

昨夜、大塚さんが作ってくれた「鮭のおにぎり」を冷蔵庫に
入れておいた。午前8時、硬くなった「鮭のおにぎり」を朝食と
する。

ボランティア貯金完了報告書関連の写真、資料などを
集める。


午前9時から午後1時までバオミンさんと仕事。

午後2時、停電。暑い部屋で昼寝。汗が染み出る。

午後7時電気が点く。

必要なメールの返信。

ボランティア貯金完了報告書の続きを書く。

ベトナム風ほか弁(100円)を買い夕食とする。

ベトナムの停電に振り回された一日であった。

舛添氏を中心に「新党改革」を立ち上げた。
新味のない政党結成である。
新党の設立宣言は①開かれた政治 ②明るい政治
である。中学校の生徒会長役員選挙の公約の次元である。
具体的には①国会議員定数の削減  ②憲法改正
③法人税率引き下げ

を通して「政界再編を行う」としている。

①の国会議員の半減は、「経費削減」と耳障りは良いが、
日本国憲法の大原則である「主権在民」を大きく制限する
ものである。

理論的に言えば、主権者である国民全員が国会議員になることが
最善である。しかし実際には無理。そこで代議制度が生まれる。

経費削減を究極にまで進めると「一人だけの国会議員」を
選ぶということになる。

国民の意識と民意を一定程度反映できる国家議員の
人数が必要である。特に国家議員定数削減は、
少数政党の排除に直結する。国民の民意を正確に
反映してこそ「主権在民」の代議制度の意味があるのだ。
少数政党の存在は、民主主義政治の土台である。
枡添氏の国家議員定数削減を国民に説明をしないまま
経費削減の名の下に「ファシズム」を作り上げることにつながる。

②憲法改正の主張であるが、憲法のどこを変えるのか?
 具体的にわからない。舛添氏のHPを見たが、「新党改革」
 を作ったとあるが、一番肝心な「政策」が書かれていない。

③法人税率の引き下げは、事実上、莫大な含み財産を
 持っている大企業を更に優遇する政策である。
 中小企業をこそ支援すべきであり、そのための政策を
 主張すべきである。

舛添氏は基本的に「小泉改革」、新自由主義に基づく
市場原理主義を更に徹底するとの基本態度である。
小泉ニセ改革がなぜ敗北したのか? なぜ、怪しい
小沢一郎に率いられた民主に党に国民は政権を
委託したのか?
この総括を舛添氏は全く出来ていない。
国民は民主党を選んだのではなく、小泉・竹中路線の
進める「新自由主義」「市場経済原理主義」が、国民の
間の格差を拡大し、年収200万円の国民を1000万人
も出してしまうという結果を生んだことへの国民的
「反省」だったのだ。

民主、自民の間に「第3極」を狙う政治屋舛添氏の狙いは
国民の立場ではなく、自らの政治屋としての「大成」である。

自民党から離党しても「なぜ、自民党が退廃・大敗したのか?」
の総括が全く出来ないまま、引き続き小泉路線の徹底を主張する
時代錯誤(アナクロニズム)の政治屋の引退を期待したい。

この1ヶ月に泡のように出来た新政党は、文字とおり「泡沫政党」。
国民の立場ではなく、自らの政治的な立場を有利にするという
「打算政党」ともいえる。

7月の参議院選挙で結果が出る。

投稿者 koyama : 21:40 | コメント (0)

2010年04月22日

チュック君退所式:日本料理店大忙し

快晴

気温37度。

ホーチミン市では、「コレラ」が大流行。となりのカンボジア
から流行って来たそうだ。

フエはまだ流行までは行っていなようだが、ベトナム事務所
スタッフには、食べ物(必ず熱の通ったもの)や氷などの
飲食に十分注意するよう話し合った。

午前7時朝食。


午前中、ボランティア貯金完了報告書作成。

午後2時から「ハイリーホテル」は停電。


気温37度。(これはテレビの予報:実際には40度を超えている)
どうしようもなく蒸し暑い「ハイリーホテル」の部屋にはいられない。

午後3時、ベトナム事務所でバオミンさん・古竹先生と合流。
「子どもの家」へ。


最初に新任の日本語教師 古竹先生をセン「子どもの家」
運営委員長、ロック寮長に紹介。

続いて、2003年から7年間「子どもの家」で過ごしたチュック君
の退所式を行う。



チュックは姉のチャンさんと2003年に入所。
故あって母親一人の手で二人の子どもそだてるという
境遇であった。母親はホテルの雑役をしながら二人を
育てようとしたが、財政的に行き詰まり「子どもの家」へ
入所することとなった。

姉のチャンさんは、JASS職業研修センターの一環として
運営している日本料理店で「在庫管理主任」をしながら
日本料理厨房担当として月給をもらい、自立し、
母親と生活している。

窓枠作りの研修をしていたチュック君であるが、今回
研修先の責任者から自立できるとの保証をもらい、
正式な社員として、月給60万ドン(3000円)で働く
ことになった。母親からは7年間離れ離れに暮らして
いた親子3人で生活したいとの申し入れがあり
チュック君の退所を希望が出ていた。

ベトナム事務所と「子どもの家」では、チュック君が退所し
母親・姉と生活した場合にきちんと生活ができるのか?
財政的にも生活が成り立つのかなどの調査を行い
問題ないとの結論に達した。今日は、晴れておめでたい
退所式となった次第。

19歳となり退所することになったチュック君と母親


初めにセン運営委員長より退所に至った経過の説明。
・2003年に入所。
・母親から家族3人での生活をしたいので退所させたいとの希望あり
・私も母親と同意見。
・研修も力を上げ、自立し給料をもらって生活できるとの
 保証をもらっている。
・姉のチャンさん(日本料理店)も2009年12月に退所している。
●以上を総合勘案して、私はチュック君の退所に賛成する。


(小山)
・チュック君が退所した後の3人の財政状況はどうなるのか?
 チュック君(60万ドン:3000円)
 母親(80万ドン:4000円)
 姉(日本料理店 90万ドン:4500円)
3人の月給を合わせれば、3人での生活は十分可能。

3人で幸せに生活して欲しい。
チュック君は、これからお母さんの面倒みてお母さんを
幸せにするように。

続いて、チュック君と母親から退所の挨拶。

(チュック君)長い間「子どもの家」で育ててもらい感謝している。
        19歳になったので自分の力で生活できるようになった。
        窓枠作りの職人として頑張って行きたい。
        現在は、溶接もできるようになった。
          改めてJASSや「子どもの家」の先生方に
        感謝したい。ありがとうございました。

(母親)長い間、二人のこどもの面倒をみてもらい本当に
     感謝している。「子どもの家」がなかったらこどもたち
     は育たなかった。JASSの皆さんに感謝したい。

続いてロック寮長が「退所承諾書」を読みあげる。



母親が退所承諾書にサインをするのだが、字がかけなくて
ロックさんに教えてもらいながらサインをする。それでも
字が間違っていた。十分な教育も受けていない母親が諸事情で
自分の力だけで二人のこどもたちを育てる決意を
し、今日に至るまでには、どれだけの苦労と涙を流して
きたかを想像する。これからお母さんが家族3人で幸せな
生活をしてもらいたいと心から念願する。


続いて、セン「子どもの家」運営委員長の最終確認のサイン

チュック君が「里親の 大極さんにお礼の言葉を言いたい」と
言いだす。

『長い間、里親をしてくれてありがとうございます。7年間もの
長い間、僕のことを見続けてくれ、毎年「子どもの家」に
くてくれました。そのたびにシャツやお土産をくれ
僕を励ましてくれました。ぼくには二人のお母さんがいます。
また、時々、フエに遊びにきてください。
そして、体に気を付けて元気に長生きしてください。
最後になりますが、もう一度、長い間の支援に感謝します。』

最後に全員で記念写真。


午後5時半、日本料理店で夕食。
ヒエウさんが体調を崩し、この数日研修に欠席。


小麦粉のベトナム風にこみうどん


今夜も欧米系の来客多し。ほとんどの人がお寿司を注文。
お寿司作りが一番手がかかる。

大塚さん、こどもたち、原田先生・古竹先生など総がかりで
注文に応える。




寿司A(10巻)


午後9時、日本料理店閉店。


ベトナムは明日の「フンブオンの日」祝日を入れて
3日間の連休。

リー君の恋愛の挫折と新たな萌芽について報告を
聞きながら軽く飲む。


リー君は大ジョッキで6杯位飲む。



投稿者 koyama : 09:33 | コメント (0)

2010年04月21日

室内清掃:停電

快晴 気温35度 湿度も高い。

午前4時起床。時間がなくて送信できなかった
いくつかのメールの返事を送信。

午前5時45分、突然停電。結局、午後2時まで
約8時間「ハイリーホテル」は停電となる。

午前7時朝食。

私の一番大好きな「ブボーフエ」。美味しい。

停電・エヤコン停止の中、しばらくしていない室内の
清掃を行う。5月に帯広の芳村さん宅で日本料理店を
研修しているTUOIさんを迎えに行く。
今日は、幸い大きな仕事はない。1日、室内清掃日に
した。

気温35度。停電。エヤコンも使えない。汗が体中に
吹き出てくる。

3時間、みっちりと清掃を行う。

午前11時から30分、疲れたので休息。

午前11時半、昼食。

大塚さんは、フエ中央病院で定期健康診断。

午後12時半から午後2時まで昼寝。

午後2時、停電解除。8時間の停電。

引き続き、室内の清掃。この2ヶ月ほど忙しく
室内の清掃をしていなかった。午後3時間清掃。
今日は、合計6時間の室内清掃。

午後5時、ベトナム事務所へ。

午後5時半、日本料理店で夕食。
古竹先生は日本語の授業。
ヒエウさんは体調を崩し欠勤。



夕食のメニュー
魚のフライ。茹でた野菜のゆで卵醤油・ヌオックマム付け。



しばらくして日本語学校での授業を終えた古竹先生は
帰ってくる。

今日は来客多数あり。
お寿司、刺身などの注文が多い。

原田先生・古竹先生も厨房に入り、日本料理を作る手伝い。
有難いことである。


お寿司の注文多数あり。




寿司A(10巻)の注文が集中した。



午後9時過ぎ閉店。

投稿者 koyama : 23:25 | コメント (0)

2010年04月20日

ソン君29歳誕生会:フエ市共産党委員長懇談

快晴 気温32度。暑い

ベトナム事務所、午後2時過ぎから停電。

午前5時起床。昨日の火炎樹日記を書く。

午前7時、朝食。

大塚さん・原田先生・古竹先生、至って元気。


午前8時過ぎ、ベトナム事務所へ。

ベトナム事務所員全員が真面目に仕事をしている。

バオミン・JASSベトナム運営委員長は「仕事をやる気満々」

新人日本語教師の古竹先生も1ヶ月ほどのベトナム事務所
での経験を経て、フエに大部慣れてきた。安心。

原田先生は、フエ滞在1年数ヶ月。既に「枯れて来て」いる。
フエ滞在の専門家になっている感あり。


クアン先生・フオン先生。二人ともJASS日本語学校の卒業生



アンさん。この間、いくつかのプロジェクトを進めてくれた。
バオミン・運営委員長のアシスタント。

4月20日は、ベトナム事務所員のソン君の29回目の誕生日。

クアン先生からベトナム事務所全員の寄せ書き贈呈。

古竹先生から「ミートパイ」の贈り物

皆で「HAPPY BIRTHDAY SON君」を歌う



ソン君が『29歳の誕生をお祝いしてもらい感謝する。
今までJASSの皆さんのお陰で私は成長することが
できた。JASSへの恩をJAASSベトナム事務所の仕事を
きちんとすることでお返ししたい。又、7月には
メンさんと結婚する。皆さんのご指導を頂きたい』と謝辞を述べる。



新人日本語教師の古竹先生が、ソン君へのお祝いの言葉を
述べる。


その後、コーヒーやジュースなどを飲みながらベトナム事務所員
全員で1時間ほど懇談。ベトナム事務所は和気藹々の雰囲気。
みんなで団結してこどもたちのために仕事をしようという
「仲間意識」が強くなってきた。

私は、せっかく何かの縁で同じ職場で働く仲間であると思っている。
一緒に仕事をしている間は、いさかいがなく、みんな仲良く
仕事に邁進して欲しいと念願している。
ベトナム事務所は、そんな雰囲気になっている。
有難いことである。




午前11時半、昼食。


午後3時、ベトナム事務所で日本料理店のこどもたちに
4月分の月給を渡す。
リー君には、もらった給料を1日で使わないように。
1日平日は、100円、日曜日は150円程度を使うように
話す。また、日本料理店店長に再度復帰するように
促す。

一人一人の日本料理店のこどもたちを励ましながら
月給を渡す。

午後6時、フエ市共産党委員長ユン氏と懇談。
フエ市外務部副部長も同席。

この17年間のJASSとフエ市人民委員会・フエ市共産党の
お付き合いの実績や今後のフエ市人民委員会・フエ市共産党
とJASSの交流の進めかたなどを話し合う。

フエ市共産党委員長からは、「JASAは、17年間、フエ市に
多大な貢献をした。貧しいこどもたちへの支援、障害者への
支援、奨学金支給、日越の市民レベルでの様々な交流、
毎年600人ほどの日本の若者の招請、フエ市と静岡市との
友好都市の架け橋役、フエ高等師範大学・フエ大学と
静岡大学との「大学間・学部間交流協定の締結」、
様々な形での日本からのフエへの投資の導入・・・・・・。
一部、ベトナム人の中でJASSに対して言われなき攻撃をする
人間がいる。今後、そうした不当な攻撃がJASSにあった場合には
フエ市共産党は、JASSを不当に攻撃した人物を断固として、
摘発し、ベトナムの法律に基づいて厳正な処置を行う、というような
話をした。

午後9時、フエ市共産党ユン委員長などとの懇談会は終了。


今日はソン君・メンさん結婚式参加ツアーの件でピースインツアー
との懇談などいくつかの仕事が重なってあった。

ベトナム事務所は午後2時過ぎから停電。午後9時まで続く。
日本料理店は途中で閉店。

ベトナム事務所メールには、「1374通」のウイルスメールが
入っていた。恐ろしいことである。

投稿者 koyama : 22:45 | コメント (0)

2010年04月19日

JASS付属日本語学校で話す:停電続く

気温が上がる。32度。

停電が続く。
・ベトナム事務所は午前6時15分~午後2時半。
・「ハイリーホテル」午後2時半~午後7時。

午前7時朝食。


マカロニスープ

午前8時、ベトナム事務所へ。

バオミンさんは、東京の内田さんとSKYPEで話し中。


会計の仕事を任せられるハンさん


午前8時半、関係者と懇談。

その後、バオミンさんと打ち合わせ。ドンバ市場へ
必需品の買い物。


午前11時半。昼食。


午後12時半から1時間半ほど昼寝。

その後、メールの受信を確認していたが、午後2時半になり
突然停電。

ベトナム事務所へ行く。

午後4時、JASS付属日本語学校「特進クラス』へ行き、
静岡大学留学について詳細を話す。
フーン先生が細かい点は通訳。


午後6時半から日本料理店開店。午後9時半閉店。

15人の来客あり。

日本語教師も日本料理店の手伝いをしてくれる。感謝。



投稿者 koyama : 23:51 | コメント (0)

2010年04月18日

市内「ロマンスホテル」で朝食バイキング

曇り時々小雨。気温20度。

午前6時半から午前11時まで「ハイリーホテル」停電。
こう毎日停電が続くと仕事への「意欲」が減退する。

午前5時に目が覚める。

午前6時半、突然電気が止まる。

午前8時、市内のサッカー場の近くに新築された
「ロマンスホテル」の屋上バイキングに行く。

大塚さん、原田先生、古竹先生と4人。

新築のホテルのバイキングなのでホテル側が慣れていない。

食品の品数が少ない。味が悪い。食べ物がなくなっても
補給が遅い。
以上は今まで行っていた「カメリアホテル」のバイキングに
比べての話ではあるが。

私は最初に「フォー」を食べた。
唐辛子とライムをもらおうとしたが、「ない」という。
「フォーには唐辛子とライムはつき物でしょう?」と
係りの人に言う。係りの人は、私が外国人だと思ってか
「フォーに唐辛子やライムなど使わない」と英語で言う。
いい加減な奴だと思う。
仕方がないので、「フエではフォーに唐辛子とライムを
使わないのかも知れないが、私は欲しい」と言う。
嫌な顔をして、下階の厨房までとりに行く。

ハノイでもフエでもどこでも「フォー」には、唐辛子と
レモン(ライム)は必需品。面倒くさがって係りの
人は用意しない。マネージャーの責任。

フォーを食べるが美味しくない。味がない。
出汁(だし)をしっかりと取っていない。

チャーハンを食べようとしたが、残量が少ない。仕方がないので
少ない残量のチャーハンを食べる。硬くなって食べにくい。

開店いたばかりなので仕方がない。

午前10時まで食事をしたりお茶を飲んだりする。
全てのお客が帰り、私たち4人だけになる。
午前10時過ぎ、「ハイリーホテル」へ帰宅。

7月21日「子どもの家」卒業生のSON君とMENさんが
結婚式を挙げる。「子どもの家」のこども同士の結婚
の第1号である。

お目出度いことであり、関係者として祝福した。

二人の結婚をJASS会員、里親の方々にもお祝いして
もらいたいとの気持ちから、7月20日から25日までの
結婚式参加、「子どもの家」訪問、フエ観光の
JASS主催の特別ツアーを企画した。
参加者はJASS会員・里親限定である。

以下、JASS主催ツアーの概略である。
●2010年
7月20日(火) 成田 →ホーチミン市 →フエ  (フエ泊)
  21日(水)  ソン君・メンさん結婚式参加
           07:15ホテル発
           08:00 メンさんの家へ(両家の契りの会)
         10:00 ソン君の家へ (ベトナム伝統の挙式)
          11:00 ソン君の家の庭で結婚披露宴
          13:30 ホテル帰着
                以降は自由行動    (フエ泊)
  22日(木) フエ市内観光(王宮・皇帝廟・・) (フエ泊)
  23日(金) JASS関連施設訪問       (フエ泊)
          「子どもの家」訪問
          午後4時 「子どもの家」にて
          バーベキュー大会         (フエ泊)
  24日(土)  終日自由時間(買い物・・・・・)
          午後8時半 フエ発 →ホーチミン市
  25日(日)  0:05 ホーチミン市 →成田  (機内泊)


問合せ先は、以下のメール

koyamavn@dng.vnn.vn

まで。

1時間ほど昼寝をし、静岡大学ニフィープログラムの
一層の発展のための長文企画書を書き、静大に送る。


バオミンさんと電話で打ち合わせ。

その他、いくつかの重要な問題についての対策を立て
必要な手立てをする。

午後6時、日本の内田さんとSKYPEで話し合う。
ソン君とメンさんの結婚式関連の打ち合わせをする。
内田さんは、メンさんの里親。

ボランティア貯金完了報告書作成に取りかかる。
かなりの時間がかかる。

投稿者 koyama : 19:34 | コメント (0)

2010年04月17日

ベトナム事務所会議:停電が続く

気温20度。寒い。

東京は雪だとのこと。

「ハイリーホテル」は午前6時前に停電となり
午後9時まで続く。

ベトナム事務所は午後2時半から午後7時まで停電。

気温が低かったのでそれほど「暑さ」での
体調異変にはつながらなかったが、
「ハイリーホテル」の部屋は終日真っ暗で
パソコンも使えなかった。
日本料理店の冷凍庫・冷蔵庫が止まり、
ベトナム事務所では、パソコンが使えない。

ベトナム事務所と日本料理店・ブライセン支社
は小型発電機を使い、細々と電気を供給。
エヤコンは切り、パソコンと室内灯だけをつける。

午前7時朝食。

ブンボーフエ

午前8時、ベトナム事務所へ。今日は電気がついていた。
今週は4日間にわたり終日停電だった。

ベトナム事務所は、電気が点き明るい部屋で仕事を
していた。電気がついて部屋が明るいだけではなく、
ベトナム事務所員全員が一丸になって「子どもの家」・
生活困難なこどもたち・障害児支援などの仕事に
邁進しようという意気込みを感ずる。和気藹々(わきあいあい)
としたベトナム事務所風景。
やはり日本語教育部とベトナム事務所を合体したことは
結果的には良かったと実感する。同じ部屋で一緒に
仕事することで「一体感」が生まれるのは、事実である。




何故か最近、頓に(とみに)両頬が緩み、ニヤケ気味の
ソン君。仕事には大変熱心に取り組み、日本語も
上手になった。仕事にも慣れてきたようだ。今後は、
奥さんに上手に操縦される術を学ぶという課題がある?
既に学んでしまっているのかも知れないが。

午前8時半、ベトナム事務所員会議。
1ヶ月ぶりの会議だった。
この間、種々の仕事が交錯し、新たなベトナム事務所体制を
確立するなど、ベトナム事務所自身も新たな仕事と体制変更,
多くのスタディーツアー、訪問者があり、ベトナム事務所会議を
開催することができなかった。


(ミン)1ヶ月ぶりのベトナム事務所会議。
    新任日本語教師の「古竹先生」を迎えての初めての
    ベトナム事務所員会議でもある。
     改めて古竹先生の赴任を歓迎します。
    体に気をつけて、日本語教師として活躍して欲しい。
    1年間のベトナム事務所員の体験を通して、人生の
    何かを掴んで行ってもらえれば、ありがたい。
     忙しい中、奮闘してくれた所員の皆さんに感謝したい。
    これからも皆さんで心を一つにして、こどもたちの幸せの
    ために一致団結して仕事をすすめて行こう。


(ソン)「アクセサリー研修センター」の仕事をしているが、
    大体うまく仕事を進めることが出きるようになった。
    日本の支援会社ブレラから研修用の材料も
    届き、8人の研修生と1人の責任者ヴァンさんは
    張り切って研修に励んでいる。

(原田)●フエ高等師範大学
      ・3年生は授業終了
      ・2年生は今月一杯で授業終了 5月に年度末試験
      ・1年生の授業も始める。古竹先生が赴任したので。
    
     ●静岡フエ青年交流会館付属日本語学校
      ・特進クラス(静大工学部入学志向クラス)
       25課まで終了。目標の半分を終わる。
       今週から26課に入る。
      ・初級クラス 3課まで終了。まだ初歩の初歩段階。
       ブライセン支社の社員も日本語授業に参加している。
       仕事の関係で多少、出席できない日がある。
      


(古竹)明日で赴任して3週間になる。
     ・丁度、ベトナム事務所が忙しい時期に赴任が
      重なり、当初はびっくりした。段々、仕事にも慣れてきた。
      フエの気候(37度の時もあれば、急に20度になることも
      ある。湿度90%などはざら・・・・・・)にも慣れてきた。
     ・自分としてはフエの生活に順調に慣れてきていると思う。
     ・フエ高等師範大学の1年生の授業をした。
      自分と同い年の学生に「先生」となって教えることに
      多少の戸惑いがあったが、慣れてきた。
       学生との間の微妙な「距離感」をどうとるのか?
      課題もある。
     ・初めて1年生の授業(50分)を2クラスしてみて、
      楽しく授業ができたので良かった。
       今後の自分の課題は授業の質を高めて行くこと。
     ・今後、授業などで困ったことがあったらフーン先生に
      相談しながら進めて行きたい。
       ベトナム事務所の皆さん、宜しくお願いします。

(フーン)・フエ高等師範大学での授業
     ・フエ訪問者の案内(2日間)

(フオン)・特進クラスの授業をした。
      作文と聞き取り。
     ・初級クラスの授業。

(ハン)●大極さんと1週間行動を共にした。
     ・フエ市立病院小児科・東洋医学科での診療
     ・フーハウ診療所で24人の障害児の診療
     ・希望の家(キリスト教会運営)では45人の
      ほとんど体を動かすことのできない障害児の
      診療。時間がたりなく、半日で45人の診療は
      難しかった。次回はもっと時間を取りたい。
     ・里親へのこどもたちからの手紙の翻訳
     ・里親からこどもたちへの手紙の翻訳
     ・ボランティア貯金官僚報告書会計部分の準備


(クアン)●特進クラス
       ・一部の生徒が真面目に勉強しない傾向がある。
       ・特進クラス3年生は先日の静大入試の結果が
        どうなるのかばかりを気にして勉強に身が入らない。
       ・特進クラスの2年生は頑張っている。
         特に「子どもの家」のニーさんは、真面目に良く
        勉強をしている。作文能力も優れている。
      ●初級クラス
       ・3課を教えた


午前10時半。バオミンさん・ハンさんとボランティア貯金
完了報告書会計部分について、話し合いを行う。
この12年間ほど、ボランティア貯金から交付金を
もらっていた。2009年4月1日から2010年3月31日
までの1年間で570万円ほどの交付金があった。
しかし、今年(2010年4月1日から)は交付金が打ち切られた。
ボランティア貯金本部に山西さんが理由を質すと
「JASSは自立が進んでいるので、交付金は必要ない」
との回答だったという。
海外支援の目標は何なのか?を考えさせられる回答
である。

自立に向けての取り組みを進め、こどもたちが
手に職をつける職業訓練センターへの交付金を
もらっていたのだが、こうした取り組みが少しずつ
前進してきていることは事実である。
「現地の自立」に向けて、こどもたちの自立、ベトナム事務所
の自立、財政自立を勧めているが、まだまだ緒に就いた
ばかり。
ボランティア貯金流の国際支援・国際協力は、
いつでも貧しく、自立への取り組みをしないで、支援を
待っているNGOこそ支援の対象としているようだ。

これからの国際支援・国際協力は「人間を育てること」
こそ目指すべき課題である。

自立への取り組みをしないで、子どもたちの「泣き顔」
と「汚れた顔」ばかりをクローズアップし、「可愛そうな
こどもたちを助けて」と支援要請をするNGOへの支援が
果たして長期的に見て、本当に支援として意味のあるのか?
疑問に思う。

JASSは現地で17年間活動をしているが、ストリートチルドレン
やこどもたちはけして「泣き虫」ではない。もっと「したたか」
で明るく、活動的である。メソメソ泣いているこどもたちなど
皆無に等しい。活力と能力、エネルギーのあるこどもたち
である。本当のストリートチルドレンや生活困難なこどもたち
の実態を熟知し、その活動的なエネルギー、自分で生きていく
バイタリティーをしっかりと見つけ、こどもたちの中にある
自立への能力を引き伸ばしていく海外支援システムの構築
こそ、本当の国際支援だと思えてならない。

いつも「泣き顔」と「よごれた顔」の写真で支援者の
同情を買うような支援要請の仕方は、フェアーではない。
などと考えながら、昨年度のボランティア貯金の完了報告書
の会計部分の打ち合わせを行う。


午後11時半、昼食。

昼寝。停電で部屋は真っ暗。停電は「寝るのには都合が良い」
とでも思わないとやっていけない。全てプラス思考。


午後2時半、ベトナム事務所へ。

ベトナム事務所も午後2時半から停電。

バオミンさん、日本人スタッフで「停電問題」等を
協議。私、原田先生・古竹先生・大塚さんとで
話し合う。



午後4時、リー君を呼んで「生活上」の注意をする。

今回は、金銭問題。4月20日が給料日だが、
リー君は給料をもらうと数日で全ての給料を使ってしまう。
友達を呼んでご馳走したり、分不相応な高額な靴を買ったり
してしまい、朝食、昼食代などが数日で「底をついて」しまう。
その後は、私や大塚さんなどに「お金を頂だい。食事ができない、
友達に借金している」「明日の日曜日、お父さんの所へ
行きたいが交通費がない」・・・・・・。
昔、路上で生活していて「物乞い」をしていた時と同じ精神
構造である。
毎月5000円程の給料をもらっている。
500円を貯金している。残りの4500円を30日で割れば
1日150円。平日の夕食は日本料理店で無料で摂れる。
平日は100円、日曜日は3食自分で摂るので200円。
残金は、コーヒー代、タバコ代と「きちんと計算して」
生活するよう話す。
無計画に持っているお金を使ってしまい、挙句の果てには
自転車を質屋に入れてしまう。現在も自転車はない。
今でも基本的な生活は「その日」暮らし。
お金がなくなると友達に借金をして踏み倒し、私たちに
お金を頂だいと繰り返す生活を抜本的に是正するよう
バオミンさんと厳しく話す。
本人は「良く分かった」と言ったその後、「ところで
明日の日曜日お父さんの所へ行くので交通費3万ドン
(150円)頂だい」ときたものだ・・・・・・。
私もバオミンさんも「ヘナヘナ精神状態」となる。
「したたかな奴め・・・」と。
1時間も「お説教」を垂れたその結果が、「お金頂だい」だ。
小さい時から身についた「習性」を修正するのは難しい
ことだ。


午後5時半、日本料理店で夕食。

空芯菜のニンニク炒め。

自家発電機を使う。騒音と排気ガスがひどい。
原田先生は日本語学校。

午後6時、日本料理店閉店。

原田先生が日本語学校から帰ってくる。
私、原田先生、古竹先生、大塚さん、リー君で
1週間の仕事「ご苦労さん会」を行う。

1時間の「お説教」をさせて「頂き」、喉がカラカラになるように
して頂いたお陰でビールが美味しい。
リー君にお説教を聞いて頂いたことに『感謝』して乾杯。


大塚さんが1本の鮭から身をスプーンですくい
塩で味付けして「おつまみ」を作ってくれる。

豆腐の冷やっこ


午後9時まで4人で飲む。

日本料理店を後にして「ハイリーホテル」に戻ろうと
した時、バオミンさん一家とバオミンさんの祖母の
家(日本料理店の3軒となり)の前で出会う。



投稿者 koyama : 09:22 | コメント (0)

2010年04月16日

ティエン・フエ省知事と懇談:気温が急激に下がる

曇りのち雨。

気温20度。数日前は気温37度。一気に10数度気温が
下がる。頭痛、倦怠感。多くのフエ市民が同様の症状。
「ハイリーホテル」は午後2時から午後8時まで停電。

午前5時起床。昨日の火炎樹日記を書く。

午前7時朝食。かなり肌寒い朝である。

キャッサバ芋の煮込みうどん。唐辛子を入れると美味しい。

午前中は3時間かけて、静岡大学へ提出する「ニフィー
留学企画書」を書く。

午前11時半、昼食。寒い。

午後12時から1時間ほど昼寝。

午後2時半、ベトナム事務所へ。雨がポツポツと降ってきた。

ソン君、バオミンさんと打ち合わせ。

その後、バオミンさんと当面の諸課題の具体化について
打ち合わせ。

午後3時45分、フエ市人民委員会の車が迎えに来る。

フエ省人民委員会へ。
ティエン・フエ省知事、フエ省各局長と懇談。

ティエン・フエ省知事

フエ省でのJASSの活動を高く評価する。
1993年から17年間もの間、フエで活動している
海外NGOはJASSしかいない。

教育、文化、経済など様々な分野でのフエと日本の
交流の中軸になっている。


万が一、JASSに対して「言われなき攻撃」があった
場合は、フエ省人民委員会の責任者として、攻撃した
ベトナム人に対して断固とした措置を講ずることを
明らかにしたい。

JASSは日越交流のシンポルである。
今後もJASSとフエ省人民委員会との友好・交流を
継続して行きたい。

約1時間ほどのフエ省知事・各部局長との懇談を終わる。


午後5時半、日本料理店で夕食。

鮭の頭の入ったうどん

午後5時から来客あり。

接客が一段落ついてリー君は夕食。


午後4時半から午後6時半まで友人の結婚式に参加した
接客係りのグエットさん。


今日は欧米系10人の来客あり。
原田先生・古竹先生も接客などに参加してくれる。

お寿司、太巻き、カツカレーなどが出る。

午後9時過ぎ閉店。

「ハイリーホテル」着、午後9時半。

投稿者 koyama : 00:05 | コメント (0)

2010年04月15日

「ハイリーホテル」終日停電:いくつかの重要書類を書く

気温32度。多少、涼しくなる。

「ハイリーホテル」は、午前7時から午後3時まで、きっかり
8時間停電。

午前5時起床。昨日の日記を途中まで書く。

午前7時少し前突然停電となる。

午前7時、停電の蒸し暑い中朝食。


午前8時半、ベトナム事務所へ。

3日間連続、終日停電だったベトナム事務所。
今日はさすがに電気がついていた。

ベトナム事務所でいくつかの重要な文章を書き上げる。
一つは、JASS日本運営委員長に送信。
一つは、フエ省知事宛ての手紙。

20通ほどのメールを受信。熟読し、必要な送信。


午前11時半、「ハイリーホテル」へ戻り昼食。


午後12時過ぎから昼寝に入るが、停電のため室内が
「蒸し暑く」、なかなか眠れない。

1時間ほど体を横にし、ベトナム事務所へ。

いくつかの文章を作成。

バオミンさんと日本語教師採用などの問題で協議。

午後5時半、日本料理店で夕食。

久しぶりに関係者全員での夕食となる。
こどもたちの体調が悪かったりして、なかなか全員が
揃わなかった。


来客10人。欧米系多し。日本人1名。

午後9時、閉店。

気温が少し下がったことで多くの人たちが「頭が痛い」
といっている。私も頭痛と体がだるい。

ーーー
今日、ベトナム政府が、日本の新幹線を導入することを
決める。
近日中の国会に提案し、可決される見込み。

ハノイからホーチミン市まで千数百キロの新幹線を
最終的には2035年までに完成すると言う。
2020年までにハノイからビン、ホーチミン市からニャチャンまでの
「地域新幹線」を作り、最終的には2035年
をめざし、ハノイーホーチミン市間の新幹線開設を
めざすいう。

総額日本円で5兆2千億円。
日本の物価に直せば最低でも52兆円。
日本の国家予算の税収以上の途方もない金額である。

先日、ロシアの技術導入でダラット高原に「原子力発電所」
建設を決定している。
これまた巨額の費用がかかる。

日本の国家予算の税収以上の費用がかかる新幹線建設。
ロシアと組んでの「原子力発電所」建設。

ベトナムは、どこか方向が違う方に進んでいるように思えて
ならない。

ベトナム事務所では今週に入り3回もの停電。
「ハイリーホテル」も停電。
ハノイもホーチミン市もフエも毎日のように8時間停電が
続く。それも突然の停電。市民や会社、企業など真っ当な
市民生活を送ることができない。
新幹線や原発以前に「今週の停電計画」を全市民に
発表することが緊急の課題。やる気がありさえすれば
出きること。フエ市内の停電計画は当局が作り、知っている。
人民委員会・警察などは停電からはずしている。
しかし、市民には、何も知らせれず、突然電気が切れて
停電を知る。いつまで停電するのかも分からない。
その日1日の生活の計画が立たない。

新幹線や原発建設の前に、「市民生活に重大な影響を与える」
停電計画の市民への告知が必要である。
情けない要求である。「停電をやめろ」ではなく、
「停電の計画を事前に教えろ」とのささやかな要求も
満たされない社会に新幹線・原発が必要なのか?
他国のことであるので、私見は遠慮するが・・・・。
こんな市民社会の最低限のこともできない国家が
新幹線だの原発だのというのは、片腹痛い。

大型プロジェクト・大型公共土木投資は日本の例で言えば
一部の資本家やそれに群がる政治家の「甘い汁」の
源(みなもの)だった。
ベトナムでは、新幹線・原発で巨額の富を溜め込む人間は
いないのか? いないことを願う。

投稿者 koyama : 07:13 | コメント (0)

2010年04月14日

フーバイ工業団地視察:渡辺和代さん懇談:停電

快晴 気温35度。湿度高し。
ベトナム事務所、午後2時から午後10時まで停電。

午前4時半起床。昨日の火炎樹日記を書く。

午前7時朝食。


今日は旧暦3月1日。毎月旧暦の1日と15日には、
精進料理を食べる伝統がフエにはある。
今日の朝食は精進ブン麺。

バオミンさん、フエ市人民委員会の諸氏とフーバイ空港付近の
「フーバイ工業団地」を視察。

暑い中、フエ省「工業団地」(5つ)管理委員長の案内で
視察。フーバイ工業団地の社長が説明。

半日の視察を終え、「ハイリーホテル」へ。
猛暑の中の半日の視察で体力は完全に消耗する。

昼食。うだるような暑気と湿気に皆さん、ぐったりとしている。

昼食後30分ほど昼寝。

午後2時「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。

ACCLの渡辺和代さんと懇談。里親の件。
その他。

バオミンさん、里親担当のハンさんも同席。

ベトナム事務所に着くと既に停電。
エヤコンのない部屋で2時間ほど里親の現状、今後の展望
など、具体的な問題を突っ込んで話し合い。

同時に渡辺和代さんの行っているフエでの「小児白血病」
支援活動の現状・問題点などを聞き、意見交換を行う。
午後4時半、話し合い終了。

その後、バオミンさんと当面のいくつかの課題と問題を
具体的に話し合い。

午後5時半、日本料理店で夕食。
停電中。湿度も高い。食欲はなく、暑くて汗が吹き出てきた。

新陳代謝の良いリー君のおでこ、額、体中に汗が吹き出ている。

暑くて汗びっしょりの中でもこどもたちはしっかりと食事を
日本料理店開店に備えていた。

午後6時、ラオス「ラオディー」の宮下信さんが
日本料理店へ。日本語教師の原田先生・古竹先生と
夕食を食べに行く。私は日本料理店でこどもたちと
停電の中での来客を待つ。


午後6時過ぎ日本料理店開店。停電なので備え置きの
充電式のライトを日本料理店内に5つほど設置してある。
充電ライトをつけてもそれほど明るくはない。

午後7時過ぎまで頑張ったが、さすがに日本料理店内が
暗いのとあまりに蒸し暑いので日本料理店を閉店にする。

日本料理店のこどもたちは、それぞれ帰る。

リー君がしょげている。
詳しく事情を聞く。今日の昼間、「彼女」が他の男性の
オートバイの後ろに乗り、男性の胸に両手を回して
乗っているのを目撃。リー君は彼女に声をかけたが、
彼女は「さようなら」と言って、その男性とどこかへ行って
しまった、とのこと。結局、平たく言えば、「彼女に振られた」
と言うことになる。この1ヶ月ほど、彼女の話ばかりをしていた
リー君であったが、とうとう、みんなが「想像していた日」が
やってきてしまった。
あまりの落胆ぶりに私も大塚さんもほって置けず、
停電の中、電気のついている地区を探し、「コードー(古都)」
レストランへ連れて行き、失恋の「総括」を聞く。

投稿者 koyama : 07:32

2010年04月13日

小諸ソバうちの会 →「子どもの家」へ:ラオス宮下さん来訪

快晴  気温37度。猛暑。

ベトナム事務所は、午前7時半から午後3時まで停電。
「ハイリーホテル」は、午後停電。

午前7時朝食。写真はバッテリー切れのため撮影不能。

午前8時40分「ハイリーホテル」を出て、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所は午前7時半から停電。
自家発電機を使い、最低限のパソコンなどの仕事を行う。
エヤコンをつけることは難しい。
皆さん、エヤコンなしのベトナム事務所でうちわを使い、
仕事を継続する。


外気温は優に40度を超える。うだるような暑さ。
ベトナム事務所員の事務能力も限界。

ベトナム事務所3階のブライセン支社でも同様。
扇風機もない中での仕事。能率割るし。
急いで扇風機を買う。

午前9時過ぎ、昨日の「長野県小諸ソバ打ちの会」の皆さんを
「子どもの家」まで案内。
刺繍みやげ物店で大量の刺繍製品を買ってくれる。



ラオスからラム酒つくりをしている宮下さんも来訪。
「子どもの家」を案内。

午前11時半、「ハイリーホテル」で昼食。

暑さにぐったり。


午前12時半、「ハイリーホテル」を出て、ラオスラム酒つくりを
している宮下さんを案内し、フエフーズ(日本酒・焼酎作り)
の工場を参観。
フエフーズのディレクター、醸造担当責任者の日本人の
方が、懇切丁寧に醸造過程を案内してくれる。
麹作りの過程から最後の梱包過程まで。



午後6時。ラオスラム酒作りの宮下さんを交えて、
私、バオミンさん、原田先生、古竹先生で会食。
午後9時過ぎまで。



今日はとにかくあつい1日だった。

来客案内のため昼寝の時間が取れず、暑さと休養不足で
かなり体力を消耗する。

ラオスラム酒作りの宮下さんは非常に熱心に
日本酒・焼酎作りの各工程を調査し、質問をしていた。

投稿者 koyama : 07:39 | コメント (0)

ベトナム事務所員打ちあわせ:「子どもの家」セン委員長懇談

快晴

気温37度。「居るだけ」で体力を消耗する1日だった。

午前3時起床

読書「ベトナムの歴史」

午前7時朝食。
この4人組での食事と雰囲気の形ができてきた。
原田先生は、フエ滞在1年以上のキャリアがあるので落ち着い
ている。
新人日本語教師の古竹先生は、若いがなかなか頭の良い
賢い若者である。
大塚さんは、人生の辛苦と喜びをたくさん味わったという
年輪が雰囲気からにじみ出ている。

マカロニスープ

午前8時過ぎ、ベトナム事務所でバオミンさん・アンさんと
打ち合わせ。当面の業務について。
アンさんも少しずつベトナム事務所の仕事に慣れてきた。
静岡フエ青年会館付属日本語学校の卒業生。
つまりJASSの教え子である。

午前10時、バオミンさん・ハンさん・フーン先生の4人で
ベトナム事務所の「戦略問題」について長時間うちあわせ。

静岡大学ニフィー入試問題、日本語教師採用問題などを
通して、今後のベトナム事務所のあり方、JASSベトナムの
活動方向などについて、抜本的な話し合いを行う。
今後、ベトナム事務所の諸問題は、この4人で相談して
決めて行くことになる。それぞれの分野の情報をお互いが
出し合い、ベトナム人自身でベトナム事務所運営が出きるよう
少しずつ時間をかけて、ベトナム事務所のベトナム人化政策を
進めていく決意である。



午前11時半、「ハイリーホテル」にて昼食。
1日に2回程度は、日本人で雑談しながら食事をする必要あり。
精神衛生上、その方が良い。



午後2時、ブライセン電話会議。停電中のブライセンの仕事の
件、新人スタッフの採用の件などを話す。


午後3時、バオミンさんと一緒に「子どもの家」へ。
「子どもの家」の刺繍の実情を先生と打ち合わせする。

「子どもの家」は停電。

その後、「子どもの家」運営委員長のセンさんと「子どもの家」の
こどもたちの諸問題を話す。

現在、突然「子どもの家」を家出し、男の家を泊まり歩いている
女子Aさん問題を突っ込んで話し合う。

職業訓練をしている何人かのこどもたちが、自立できる力量を
身につけ、職業訓練先の先生からも「自立できる」との
お墨付きをもらっている。近々に本人の意見等を聞きながら
自立への手続きを進めることで合意。

「子どもの家」のティン君が昨夜寝ていて「ムカデ」に足を
食われ、腫れてしまい、「子どもの家」のタム医師と病院へ
行っているとのこと。ムカデが出ると聞いて「ぞっと」する。

停電中のため、体中に汗が吹き出ながらの打ち合わせとなった。

「子どもの家」門前では、「子どもの家」のこどもたちだったフン君
が路上靴屋を開店している。既に数週間仕事を続けている。
「子どもの家」から靴作り工場での研修、自立し、月給をもらっての
生活と順調に進んでいたのであるが、靴工場が倒産。
フン君の生活力は、人に頼んで人生ではなく、自分で人生を
切り開こうとしている。「子どもの家」門前に即席の靴修理店を
勝手に開店。ボンドや各種工具を揃えて(靴工場で学んだ)
靴磨きから靴底の張替え、靴底のはがれの修理などを
行っている。

私の靴底の一部がはがれているのでフン君に修理を頼む。


靴工場で長年研修をしていただけあって、手際よく靴底の
はがれをくっつけてくれた。
修理が終わり「いくら?」と聞くと、お金は要らないという。
今日は今までお客が居ないといっていた。2万ドン支払う。
これで今日の夕食と明日の朝食代くらいにはなる。

そんな時に中学校が終わり、帰宅した「チュン君」が
やって来た。

学校のこと、勉強のことなどを話す。


その後、ドンバ市場など数箇所を訪問。

午後5時半日本料理店で大塚さん、こどもたちと夕食。
昨日、ベトナム事務所(日本料理店も含む)は午後2時から
午後10時まで8時間停電したとのこと。
ハンさんの家とベトナム事務所は同一の電気系統になっている
そうで、ハンさんの家が午後2時から午後10時まで停電したので
ベトナム事務所も停電。

現在、バオミンホテルに泊まっている渡辺和代さんからも電話。
昨日の日曜日、8時間もの停電で、しばらくフォンザンホテルに
避難していたとのこと。

大塚さんに話し、冷凍庫、冷蔵庫の食料品の状態を調査して
もらう。問題なし。

生ビールが8時間の停電で「大発酵」し、酸っぱくなっているのでは
との心配あり。ドンバ市場で買ってきた美味しいするめを焼いてもらい
おつまみにし、生ビールの発酵度を自らの舌で調査する。
多少酸っぱくなっていたが、問題なし。美味しい。

日本料理店のこどもたちも様々な問題を抱えている。
リー君は、また、自転車を「質屋」に入れた模様。
毎日、朝ごはん代・昼食代を頂だいとやってくる。

何人かの女子は、反抗期。なかなか扱いが難しい。
そうしたこどもたち一人一人と向きあい、母親役でこどもたち
を指導してくれている大塚さん。相当の疲労が溜まっていると
推測する。


欧米系の来客10人程度あり。

午後8時45分、小諸のそば打ちの会の皆さんが来店。
午後10時まで一緒に話し、飲む。


日本料理店の前には、「子どもの家」を出て自立している
ヒー君が遊びに来ていた。

「子どもの家」入所は1993年10月である。今の
「子どもの家」の前に「チーラン通り「子どもの家」」。3歳位である。

「子どもの家」のこどもたちは10年、それ以上一緒に
生活した「兄弟」である。その団結力は強い。

午後10時過ぎ、原田先生・大塚さん・古竹先生と一緒に
「ハイリーホテル」に帰る。

最近は原田先生・古竹先生が日本料理店の手伝いもして
くれる。自主的な対応ではあるが、有難いことである。
今時の若者は、などという人もあるが、良く気の利く若者
である。

今日は気温37度。色々な仕事をした。
「ハイリーホテル」到着後、疲労でそのまま寝てしまう。

投稿者 koyama : 07:22 | コメント (0)

2010年04月11日

フエ高等師範大学で「ソバ打ち大会」

快晴  気温35度。 
湿度も高い。本格的な夏のシーズン到来。

午前7時起床。疲れで7時まで寝る。

午前7時45分「ハイリーホテル」を出てフエ高等師範大学へ。

午前8時から長野県小諸市の「ソバ普及」の会の皆さん
4人と「ソバ打ち」会の準備をする。

ソバを打つ。切る。フエ高等師範大学の学生、日本料理店
のこどもたちも参加する。参加者は150人ほど。

学生の前でソバうちの実演をし、その後、学生や
日本料理店のこどもたちが実際にソバを作って見る。


原田先生は、フエ高等師範大学日本語学科の教え子の
ソバ作りを見守っていた。

1993年から2年間、フエ師範大日本語クラスで教え、
1995年の夏には日本へ連れて行ったフンチャーさん
夫妻がそばうち大会を参観に来た。
フンチャーさんは東京、静岡などへ行った。

現在、フンチャーさんは、フエ外国語大学日本語学科の
主任。今後、JASSと提携してフエ外大日本語学科の
質の向上に努めたいと言っていた。
私も出きる範囲でフンチャーさんに協力するつもりである。


1993年9月1日、私がフエ師範大日本語クラス主任として
赴任した。バオミンさんもその時からの教え子。
バオミンさんは良くフエ師範大の中にあった私の部屋に
遊びに来ていた。その時、いつも姪のナーさん(当時2歳位)
を連れて来ていた。私はいつも抱っこして遊んで上げていた。
今は、フエ高等師範大学日本語学科の1年生になっていた。
久しぶりにナーさんに会う。

ソバが出来上がる

小諸のソバうちの会の皆さんたちが、日本の浴衣を持ってきた。
フエ高等師範大学学長先生と一緒に撮影。



ソバうちが終わり、午前10時からいよいよ開会式。


日本語学科の学生の踊りと歌。

フエ高等師範大学学長先生の挨拶

小諸ソバうちの会の千野さんの挨拶


その後、ソバを茹で参加者全員に振舞われる。


こういう時になるとどこかで「匂いをかぎつけいつの間にか
参加している」リー日本料理店元店長


JASSベトナム運営委員長のバオミンさんと
フエ高等師範大学学長も手打ちソバに舌鼓(したつづみ)を
打つ

「オアシスの会」の大塚さんとリー君

リー君とヒエウさん

日本料理店のこどもたちもソバ打ちの挑戦


グエットさんがソバうちに挑戦

チャンさんもそば切りに挑戦



浴衣を着てポーズを取るグエット・チャンさん


チャン・グエット・ヒエウさん

午後1時、ソバ打ち大会は終了。180食完了。

小諸のソバ打ちの皆さんに心からお礼を申し上げたい。

そば七粉工房代表の佐藤明夫さん、息子のそば七良右エ門
店長の佐藤雄一郎さん、島崎藤村の定宿中棚荘(なかだなそう)
御主人、そして代表の千野久雄さん。

フエ高等師範大学でのそば打ち大会を終え、電動バイクで
帰る途中、リー君がオートバイに乗って帰っていった。
数日前からリー君の「自転車」が行方不明。また、「質屋」に
入れたのではと皆が噂をしている。オートバイは誰のものか?
謎が深まる。

今日はそばを一口食べただけ。食事らしい食事をしていない。


午後2時、ベトナム風ほか弁を買いに行く。


午後5時、フダビールを飲みながら夕食。


井上ひさしさん死去。平和運動に尽力し、「9条の会」
の発足の中心人物。哀悼。こうした自由人で戦争と平和に
ついて忌憚のない意見を言っている人間が減ってきている。

10通近くのメールを受信。必要な送信。


投稿者 koyama : 17:58 | コメント (0)

2010年04月10日

「オアシスの会」船上生活支援活動:長野県小諸市「ソバ打ち」準備

快晴  気温30度を超える

午前4時起床。
読書「ベトナムの歴史ーベトナム中学校歴史教科書」
(今井昭夫監修:明石書店)
780ページに及ぶ大著。ベトナムの中学1年から
4年までの歴史教科書の忠実な翻訳である。


評価は全く書かれていない。客観資料。
ベトナムは国定教科書。1種類の教科書しかない。
つまりこの中学の歴史教科書を全て読むと
ベトナム人の歴史に対する「精神構造」の一端を
うかがい知ることが出きる。
ベトナムの学校教育は小学校5年・中学4年・高校3年・
大学4年制。

歴史は独立した教科となっており、6年7年8年9年と
それぞれの学年で勉強する。

6年生で「古代史」、7年生「中世史」、8年生「近代史と
1945までの現代史」、9年生「現代史」を学ぶ。

日本の歴史教育教科書と比較すると日本はおおよそ
220ページから240ぺージ。ベトナムは4巻で約600ページ
とベトナム政府・共産党が歴史教育に力を入れていることが
分かる。

いざ読み始めたが、何しろ780ページの大著。重たくて
寝ながら読むのが大変である。腕が直ぐに疲れてしまう。

本書の監修者である今井昭夫先生は、愚息の先生でも
あり、昨年「子どもの家」を視察されている。
今井昭夫先生(東京外大ベトナム語学科教授)より献本を
して頂いた本でもある。改めて今井先生に御礼を申し上げたい。

6年生の古代史。今まで何冊かのベトナム歴史関連の本を
読んでいるが、大抵の本は、ベトナム人の起源を中国南部の
人々がハノイ付近に移り住み、徐々に現在の経(キン)族の
祖先になったと書いてあった。
今回、6年生の歴史教科書のベトナムの始まり。古代を
読むと中国という言葉が全く出てこない。ベトナム北部の
ソンビー、ホアビン、バクソンの原始人から始まり、
ベトナム人の祖先は、中国人とは異質な起源を持っている
ことが強調されている。ベトナムの国家の起源を
武王(フンブオン)に求めているが、歴史的な事実は説明
されていない伝説の話が、民族の起源となっている。
最近になり4月23日を「武王の忌日として国家の祝日と
なっている。
その後紀元前後の歴史は、
チュン姉妹の中国の侵略のへ闘いが詳述されている。

6年生の古代史は中国の影響を一切省略ししたか記述せず、
中国の侵略と反中国闘争について詳述している内容と
なっている。
これは、ベトナムと中国の微妙な関係を反映したものである。
どの章でもホーチミンが歴史について語った言葉が記述され
ている。
古代史の歴史の見方の機軸は「生産力の発展」に置かれている。
あわせて、生産関係がどのように変化してきているのかを
6年生の知識状況に合わせて記述している。
基本的にはマルクス・レーニン主義の「史的唯物論」を
子どもでもわかるような形でやさしくしながらも、歴史の
見方の基調としていることが分かる。
古代史の歴史教科書を読んだ範囲ではあるが、
ベトナム政府・共産党の「反中国的な姿勢」と「民族主義的」な
姿勢が強調されているように思いながら読んだ。

午前7時朝食。

午前8時、大塚さんが主宰している「オアシスの会」の
船上生活者など生活困窮者への医療支援の実態を視察する。
今日は大学の同級生の大極さんと息子さんも同行。
大極さんは「ものの木鍼灸治療院」の院長。
子どもの針の会の会長もしている。今日は子どもの針や
鍼灸を施術してくれた。

「オアシスの会」の会の船上生活者や生活困窮者の
医療支援は、5年以上続いている。現在は、ビーザー地区
診療所の医師・看護師の協力を得て行われている。
診察・薬代等一切「無料」での医療支援である。

今日は総計101人の住民の皆さんが診療を受けた。

ビーザー地区は、低湿地地帯にあり、少し雨が降ると
直ぐに水が出てしまう場所である。
現在、ベトナム政府、地元行政は、フォン川などで
生活している5000人とも言われた「船上生活者」を
全て陸に上げる取り組みをしている。既に特別な
船上生活者(観光船経営・・)などを除き、全ての
船上生活者が強制的に陸にあげられている。
行政から指定された土地を買い、陸上での生活を
することになった。これは船上生活者の生活が不衛生な
こと、生活が安定していないこと、売春等の温床になっている
ことなどのためと当局は説明している。

しかし、実際に陸に上げられた船上生活者は、行政の
指定した土地を買い、家を建てなければならない。
そんなお金のある人はそうざらにはいない。行政は
一般の水準よりも安価な土地代にしていることも
事実であり、船上生活者を保護するという姿勢は持っている
ものの、実態に合っていない強制的な行政となっていることも
事実である。

結局、本当に貧しい船上生活者は、土地代が出せない、
借金をして土地を買うも返済ができない。
また、魚とり、砂や砂利を取って生活していた船上生活の
人々ガ強制的に陸に上げられ、仕事がなく、生活が
一層困窮している実態もある。
フエ市内から船上生活者をなくし、不法建築の家を強制撤去して
貧しい人々が消えていった。
町は、ネオンサインと高層住宅、こざっぱりとしたレストランに
溢れ、豊かになったように見える。たくさんの外国人観光客
がこざっぱりし、整備されたフエ市内の観光を楽しんでいる。
良いことではあるが、その影で、市内に不法住宅を建てて
居住していた生活困窮者、船上生活者などがフエの
町から消えた。ドンバ市場の横にあった「貧民窟」も一掃された。
これらの人々は、フエ市内の観光地・観光スポットからは見えない
フエ市郊外の低湿地帯に流れて来ている。

ということで、今回の「オアシスの会」の医療支援は
上記の状況の中でフエ市郊外に流れて来た
生活困窮が居住している一帯での医療支援となっている。


こどもたちはどこに行っても「明るい」。こどもたちの
笑顔に救われる思いがする。


午前8時過ぎから続々と患者が集まり始める。

川沿いの地域には診療所も病院もない。
地域の方が自宅の庭を解放し、そこが臨時の診療所
となっている。

ビーザー地区診療所の医師・看護師3人が土曜の
休日に無料で診療を行ってくれている。
ベトナムにもこうしたボランティア精神のある医師・看護師が
いることに安堵する。金金金に狂奔している社会の中で
薄給である医師が、更に休日に無料でこうした社会活動に
参加してる姿を見ると、ベトナム社会主義の実態はこうした
所にあるのではと思える。

診療する医師


薬担当の看護師


「オアシスの会」のお金で大量の医薬品が用意されている。
医師の診療の後で無料配布される。


どんな貧しい人たちでも毎週1回、全額無料の医療支援が
受けられる。本来社会主義こそ、こうした医療を国家規模で
すべきであるが、残念ながら海外支援団体の「オアシスの会」
の実施。しかし、お金のない、病院へいけない、町の郊外へ
追いやられ、一般の人の目にも見えない状態に置かれて
いる生活困窮者にとっては「救いの神」である。

午前8時半にはたくさんの生活困窮者が「地元」からも
「遠方」からもやってきていた。

女性医師の診療



大極さんが、子どもの針を施術。
こどもたちは気持ちが良いのか、すやすや寝込む
こどもたちもいた。

「オアシスの会」の主宰者である大塚さんは、多くの患者
でごった返す庭で、患者へのアドバイス、診察順番の整理
などをきびきびと行っていた。



大極さんは大人にはお灸を据えていた。
多くの大人は、肉体労働者として建築現場で働いている。
機械の少ないベトナムでは、まだまだ「人力」での建築が
主流である。船上生活から切り離された多くの人々は
結局、フエ社会の経済発展の最低辺の低賃金労働者となり、
フエ社会の「経済発展」を肉体を使って支えているのである。
多くの人々の訴えの声は、「腰が痛い」「腕が痛い」・・・・・。
無理な肉体の酷使からくる疲労の蓄積の結果からくる
傷みである。


診療を受け、薬をもらい満足して帰るおばあさん。



午前10時半過ぎ、全ての診療が終わる。
101人の方々の治療を行う。

その後、「オアシスの会」が長年支援している
知的・身体的障害を持っている現在17歳の
男子の家を訪問。大極さんの針治療を行う。

大塚さんは、面倒を見ている「祖母の妹」に生活上の問題
などを聞き、更なる支援を検討していた。


17歳の男子は、脳性麻痺で生まれたが、両親が事故で
死亡。祖母に育てられていたが、祖母も死亡。
現在は、祖母の妹に育てられているが、祖母の妹も無職の
ため、生活ができない。地元行政から毎月24万ドン(1200円)
をもらい、「オアシスの会」から70万ドン(4500円)の支援を
もらい、何とか生活している現状である。

17歳といわれて男子を見たが、どうみても6歳か7歳にしか
見えなかった。

フエ郊外の川沿いの人目に付かない「あばら家」で
ひっそりと生きている17歳の男子を見て、「オアシスの会」
の支援こそ、本当に支援を求めているところに行き届いている
支援であることを実感した。

日本のJICAの支援で作られたフエ中央病院。日本からの
医師も常駐している。

日本料理店の元店長のリー君がナイフで刺され緊急に
JICA設立のフエ中央病院へ行く。
医師は「お前いくら持っている」と聞く。リー君は「3万ドン(150円)
と答える。医師は抗生物質や可能止めなどのお金の
かかる治療を一切せずにリーを帰してしまう。

翌日その事実を知った私とバオミンさんでリー君を
私たちがやっている障害児医療センターへ連れて行き、
きちんとした治療と手当てを行い、3日間通院させた
経験がある。
JICAの支援は一体なんのため、誰のための支援なの
だろうか?
冷房完備の立派な病院を作ったのは事実である。
しかし、運営費は自立採算性とさせたため
病院側は「金の取れる患者」しか見ないという結果に
なった。日本人の血税できたJICA支援の病院の
実態は、金のないリー君の刺傷は治療されずに
追い返され、金持ちの治療の場と化しているのが
実態である。本末転倒の「国際支援」が横行している。

本当の支援とは、「オアシスの会」の行っている
ような「草の根」の支援であると実感した半日
であった。

通訳のハンさん、大極さん親子とバオミンホテルに
戻る。

大極さんは今日で帰国。最後の挨拶をする。
丁度、ハンさんの旦那さんがハンさんを迎えに
バオミンホテルに来る。
記念撮影。



午前11時半、昼食。

茹でた豚肉に海老の塩辛・唐辛子入りをつける。


アヒルの玉子焼き・野菜入り



野菜スープ


午後12時半から昼寝。停電。
熟睡中の午後1時半頃、長野県小諸市の「ソバ屋」さん
グループから電話。

ハノイから今ホテルに着いた。打ち合わせをしたいとのこと。
眠い目をこすりながら起床。

急いでベトナム事務所へ行く。
途中、大きな交通事故。警察官が出て、たくさんの人だかり。



バオミンさんと一緒に明日日曜日にフエ高等師範大学
で行われる「そば打ち披露の会」の打ち合わせ。
フエ高等師範大学の担当者を交えて、水や火関連の
準備、会場の設営などを行う。



午後5時半、日本料理店で夕食。


夕食は「マカロニスープ」。
こどもたちは大量の唐辛子をぶち込んだ。
真っ赤なスープとなった。

今日も20人近くの来客。全て欧米人。
お寿司やカツカレーなどの注文が多かった。


厨房では、こどもたちや大塚さんが大奮闘。


接客係りのグエットさんも調理を担当する。

寿司B(5巻)



午後7時半頃、原田先生と古竹先生が日本語学校
から帰る。夕食をともにしながら世間話。

午後9時過ぎ、閉店。

長い1日だった。


投稿者 koyama : 06:46 | コメント (0)

2010年04月09日

当面の諸問題の方針を考える:大極さん親子と懇談

曇り  気温25度。少し寒い。

午前4時起床。

読書「独裁者との交渉術」(明石康著:集英社新書)読了

内容と題名がこんなに異なっている本も珍しい。
独裁者という言葉を使ったことにより、内容がかなり低下している
ように思われてしまう。

いわゆる独裁者は出てこない。
カンボジア和平では、ポルポト、ボスニアではミロシェビッチ、
スリランカ和平ではプラバーカラン。これらの人物を
独裁者と言うのなら、アメリカのブッシュは最大の独裁者。
小泉もその仲間に入る。明石氏の希望ではなく、編集者の
思惑なのだろうが、本の題名は命である。「独裁者との交渉」
としてしまったところに本書の命取りの大本がある。

国連の役員をする中での個性のある指導者たちとの
交渉がどうだったのか? 明石氏はどんなことに気をつけて
いたのか? 欧米系からの明石氏に対するバッシングの
本質は何だったのか?が書かれていて興味ある内容である。
これは私が17年間ベトナムに住んで感じたことと同じことを
明石氏は言っている。異文化・違う国との交渉は、
現実主義・事実主義に立たなければ前進しない。
「本来こうあるべきだ』との原則論だけを振り回していたのでは、
前進しない。必要な妥協、してもよい範囲の妥協が出きる人
が物事を前進あせる力をもつのである。


午前7時朝食。


ブンボーフエ(今日は豚肉入り)

午前9時、ベトナム事務所へ。ベトナム事務所では、
大学の同級生の大極さんがベトナム事務所スタッフに
お灸は針をしてくれていた。パソコンなどの疲れで
かなり方がこったりしている。

バオミンさんは、お灸を首に据えていた。

肩こりで針をしてもらっているスタッフも



日本で針灸鍼灸院に行くと数本の針で数千円するそうだ。


午前11時半、昼食。


午後12時半から2時間昼寝。気温が下がり、体がだるい。

午後3時、日本の支援者の依頼で何軒かのベトナム人の
家庭を訪問。


午後5時半、こどもたちと夕食。

久しぶりにこどもたちと日本人全員が揃う


奴豆腐・・・・・

午後6時半、大極さん親子が日本料理店へ。
一緒に生ビールを飲む。



今日は欧米系のお客さんが多数来店。午後9時に閉店したが
20人の来客あり。

日本語教師の原田先生、古竹先生も日本料理店の手伝いを
してくれる。

3月からベトナム事務所は総力体勢を取っている。
日本語教師もベトナム事務所員も出きる仕事をお互い協力
したやろうとの姿勢がでている。
原田先生・古竹先生に感謝。


リー君をはじめ、グエットさんの接客。
そして、チャンさん、ヒエウさんの調理と皆さんが
大塚さんと協力して20人の来客の注文を捌いて
くれた。

数日前に携帯電話が壊れてしまった。
訪問者の案内で忙しく携帯電話を買い換える時間がなかった。
今日やっと韓国製「LG」の携帯電話を買う。
一番シンプルで安い携帯電話。

この数日、事務所や事務所員との連絡が十分取れなかったが、
新しく携帯電話をかったことで連絡が取れるようになった。

投稿者 koyama : 23:44 | コメント (0)

2010年04月08日

終日、バオミンさんと来客の案内;ベトナム事務所員も総出で案内

気温が下がる  気温25度。

午前4時目覚める。
読書「独裁者との交渉術」(明石康著:集英社新書)

国連事務総長特別代表としてカンボジアや旧ユーゴ紛争
の調停に当たった明石康氏の生い立ちから国連での
活動の聞き語り。
PKOに自衛隊を出すのは当然との立場。
同時に憲法9条の前段は、賛成するが、「陸海空軍」を
持たないは、変えるべきとの見解を持っている。

田母神氏の主張には厳しい批判を持っている。


午前7時朝食。


午前8時過ぎ、バオミンさんと訪問者の案内。
フエ郊外へ。

今日は終日、訪問者を案内してフエ郊外など市内を
離れ、訪問者の案内を行った。

昨夜から携帯電話が壊れてしまった。
購入して6年になり、ズボンの後ろポケットに入れていた。
汗もかき、携帯電話の保存にはよくない環境だった。
今日は1日案内で忙しく、携帯電話を買い換える時間が
なかった。

午後7時、フエ郊外でバオミンさん・支援者と夕食。

帰宅午後9時。


昨日と今日の2日間、以前から訪問の予約のあった
訪問者を案内して、フエ市人民委員会 やフエ郊外の
診療所、村の人民委員会などを案内した。
これも将来的にはフエの障害児や貧しい「子どもの家」の
支援につながる。

今日は、数組の訪問者があり、私とバオミンさんは
フエ郊外。
ハンさんは、フエ郊外の障害児や遺棄された赤ちゃんの
保護施設を大極さんを案内。午後は、フールー小を
案内。アンさんは刺繍関係の仕事で外出。
原田先生・古竹先生・フーン先生などは
フエ高等師範大学・日本語学校での授業。

他のベトナム事務所員も数組の事前に予約をしてあった
訪問者の案内。日本語教師は、フエ高等師範大学、
静岡日本語学校での授業と大忙し。
ベトナム事務所には、ほとんど誰もいないと言った状態だった。

午後3時過ぎからベトナム事務所・日本料理店は停電だったそうだ。
夕方になっても停電が続いたため、日本料理店を閉店したとのこと。


最近、ベトナム事務所宛てのメールが送信できなかったり
受信できないことが頻発している。
送信して返事がない場合は、ベトナム事務所が怠慢なので
はなく、受信していないと思って頂きたい。
メールを送ったのに返事がないと時々、怒られる方が
いらっしゃるが、ベトナムのメール事情は日本とは違うことを
知っていただきたい。
ベトナム事務所宛ての「VN」のメールアドレスの場合、
ベトナム事務所に届かないことが多々ある。
今でもベトナムでは、メール・インターネットは政治的な対策の
分野である。重要なメールは、小山個人メールにお願いしたい。

投稿者 koyama : 12:20 | コメント (0)

2010年04月07日

忙しい1日だった:連続する停電

快晴  少し気温が下がる。

ベトナム事務所はほぼ1日停電。


午前4時目覚める。
読書「若き友人たちへ」(筑紫哲也著:集英社新書)読了

故筑紫哲也氏の日本社会での立ち位置が分かる。
日本の敗戦を中学高校で迎え、集団疎開、縁故疎開と
2回の疎開を経験している。実戦の体験はないが
戦争体験を持った世代。戦争と平和については、確信を
もって発言している民主主義者でもある。
著者も言っているが、自分を敢えて言うなら「好奇心」の
持ち主と言っている。
あとがきは、筑紫氏の娘さんが敢えて入れて欲しいと
言った筑紫哲也16歳(静岡県立沼津東高校)時代の
原稿用紙16枚の自伝。敗戦直後の16歳の高校生の
書いたものとは思えない、冷静且つ客観的に自分を
見つめているまさに「ジャーナリスト」の萌芽を持った
自伝。一読の価値のある書。

午前7時朝食。



午前中、フエ市人民委員会にて数ヶ月前から訪問を
予約していた方を案内し、フエ市人民委員会
の国際課担当者との懇談の仲介。


午前11時半、昼食。


大塚・小山・原田・古竹の4人組の食事が
定着してきた。


午後12時半から昼寝。


午後も引き続きバオミンさんと一緒に訪問者を郊外に案内。

長男が怪我をして緊急入院。緊急手術をしたとの一報あり。
海外にいるとこうした事態が起こった時に何もできない歯がゆさ
がある。心配してもどうなるというものでもないのだが、
やはり親としては成り行きを案ずる。大事に至らないことを
祈るのみ。


最近のベトナムは停電が連続している。
ハノイもホーチミン市もフエと同様停電が多いそうだ。
フエでは地域を限定して「順番」に8時間ほどの停電を
毎日行っている。
今日もベトナム事務所は1日停電。一昨日もベトナム事務所
地域は半日停電。

私の泊まっている「ハイリーホテル」も午後8時に停電。
町中が停電となるので、「ハイリーホテル」の室内は
漆黒の闇と化す。エヤコンは止まり、静内は「温室」となる。
真っ暗な中で何もできず、ただ黙って椅子に座り、電気が
点くのを待っている。情けない図式ではあるが、これが
ベトナムの現実である。

世間では、メコン川流域のベトナム・ラオス・カンボジア・タイ
の諸国が同様の状態だと言っている。

ベトナムの電力の大半は「水力発電」。
しかし、メコン川の上流である中国が大きなダム湖を作り
水を貯めてしまったため、下流のラオス、ベトナム、カンボジア、
タイのメコン川の水が激減したとのこと。
中国側はそうしたことを否定しているが、メコン川の水が
激減していることだけは事実のようだ。

ベトナムでは「計画的に」停電を実施し、電力を確保している。
しかし行政は「計画的停電計画」を市民に一切公表していない。
今日も夜8時に「ハイリーホテル」は停電したが、事前に何らの
広報もない。
これが一番困るのだ。突然の停電。いつ点くかも分からない。
全てが行政任せ。「労働者・農民の国家」とは、突然停電となり、
いつ電気が点くかさえ教えてもらえない国家でもある。
『素晴らしい』国家である。
「人民に奉仕する」「全ては人民のために」「労働者・農民のために」
の実態は、突然の停電といつ電気が点くか分からない「漆黒の闇の
中で、体中から吹き出てくる汗と闘いながら、辛抱強く電気が点くの
を待つ」国家でもある。こうした「素晴らしい国家」のお陰で「忍耐力」
と暗黒恐怖症の私が少し「暗闇生活」にも慣れるという『利点』が
ある。ベトナム社会主義に『感謝』している。

今日は朝から午後9時過ぎまでバオミンさんと一緒に
訪問者とお付き合いをした。
フエのかなり郊外に行き、携帯電話がつながらず苦労する。

投稿者 koyama : 21:06 | コメント (0)

2010年04月06日

終日各種の仕事

快晴  気温34度  真夏。

午前4時目覚める。
読書「若き友人たちへ」(筑紫哲也著:集英社新書)

午前6時、「ハイリーホテル」の5階から外を眺める。朝もやの
中、今日も真夏になりそうな天気である。


朝食。朝から強い日差しが照りつける。
古竹先生の「右手」へ朝の強い日差しが差し込んでいる。


朝食は「キャッサバ芋の煮込みうどん」。唐辛子を入れる。
美味しい。

午前8時、ベトナム事務所へ。バオミンさんと当面の
問題について協議。
緊急の課題の当面の対応策を相談する。

バオミンさんとベトナム人家庭を訪問。


午前11時半。昼食。



午後12時半、昼寝。2時間熟睡する。

読書「若き友人たちへ」(筑紫哲也著:集英社新書)
日本国憲法、ジャーナリズム問題など学ぶべき点
多し。


午後4時過ぎ、ベトナム事務所へ。

日本人訪問者と話し合う。2時間ほど。


午後7時、日本料理店で夕食。原田先生と
人生を語る。

午後9時、日本料理店閉店。

今日は、ヒエウが事実上の無断欠勤。


投稿者 koyama : 23:38 | コメント (0)

2010年04月05日

日本大使館員ー静岡会館視察

快晴  気温33度

午前3時目覚める。
読書「世界を知る力」(寺島実郎著:PHP新書)読了

今の世界をどうみたらよいのか?今後、世界はどう変化して
いくのか?

寺島氏の意見は、ネットワーク作り、大言壮語ではなく
具体的な実践の重要性。国際的な体験。

そして、日米主軸路線の本質は、「日中関係」であることを
明らかにしている。対米一辺倒では、今後の日本は成り立たない
ことを主張している。進歩的な保守主義の立場の寺島氏の
意見に耳を傾ける価値のある主張が多々あった。
一読の価値のある本であった。


午前7時、朝食。


フエ名物「ブンボーフエ」。私の一番の好物。

米の麺と牛肉。


新ベトナム事務所では皆さんが新たな気持ちで仕事に
邁進している。





新日本語教師の古竹先生。ベトナム事務所にも慣れ、
なかなか積極的で明るい好感の持てる若者である。
日本語主任のフーン先生と日本語教育の打ち合わせ。
ベトナム・フエの生活にも少しずつ慣れてきている。
日本のご両親には、挨拶をする機会がないが、
万が一、このブログをお読みでしたら、「元気に」
「積極的に」フエでの生活に溶け込もうとしている
現状を報告したい。また、ベトナム事務所の大事な戦力と
して今後の活躍を期待したい。
体に気をつけ、アジアでの生活をエンジョイして欲しい。


バオミンさんと一箇所ある家庭を訪問。


午前11時半、昼食。


午後12時半、読書「若き友人たちへー筑紫哲也ラスト・メッセージ」
(集英社新書)

2008年に亡くなったニュスキャスターの筑紫哲也氏の
早稲田大学・立命館大学での授業などのテープを
おこし文章にしたもの。表題にあるように「若者」への
メッセージではあるが、現在の日本をどう見るのかを
若者に語っている。学ぶべき点あり。
日本国憲法14条・24条の「男女平等」の規定。
戦前の作曲家山田耕作が、中国のハルピンで
レオ・シロヤというピアノ名手と出会う。
山田耕作は「日本の音楽教育の向上のために
是非日本に来て欲しい」と口説く。シロタは
奥さんと5歳の娘さんと一緒に訪日する。
この娘さんがベアテさん。後に結婚して ベアテ・シロタ・ゴートン
さんとなる。ベアテさんは、アメリカへ勉強のために留学。
その時日米戦争が勃発。
娘のベアテさんはアメリカ。両親は日本にと家族が分かれ
敗戦を迎える。
日本の敗戦後、ベアテさんは、日本にいる両親の安否を知る
ために軍属となり訪日する。
日本で少女時代を過ごしたことから、日本国憲法草案を作る
委員となる。22歳。かなり長い憲法草案を書いたが、全て
がカットされたが、唯一つのこったのが、「男女平等」条項
だった。

筑紫哲也氏は「一部の人たちは日本国憲法は古くなった」
などと言っているが、アメリカの憲法にも「男女平等条項はない
ということを私たち日本人が理解すべきだとと言っている。


午後2時半、ベトナム事務所でバオミンさんと打ち合わせ。
ベトナム事務所一帯が朝から「停電」。
暗い部屋でエヤコンも切れて打ち合わせ。

午後4時、ハノイの日本大使館員が静岡フエ青年会館の実情
の視察。大使館員を案内し、説明をする。
大変熱心に且つ誠実に私たちの活動の実情を調査されていた。
こういう真面目な大使館員もいるのだなと感心した。


丁度、静岡大学工学部入学を目指す「ニフィープロジェクト」
の生徒が勉強をしていた。

午後5時、視察終了。

ベトナム事務所が停電のためバオミンさんが送信すべき
大事なメールが送れない。
私が「ハイリーホテル」でベトナムのEモバイルを持っているので
急いで「ハイリーホテル」へ戻り、バオミンさんの送信すべき
メールを送る。

日本からSKYPEあり。20分程話す。

フエにある種の工場を作りたいという社長さんがやってくる。
ホテルで30分ほど話し合う。

日本料理店一帯は昼から停電。夕方、大塚さんと相談し
日本料理店を中止することを決定。

ベトナム事務所訪問者とホテルで話し合い、その後
フエ空港へ到着し、バオミン・ホテルへ投宿する
大極さん親子が夕食を摂っている「フォー」専門店へ
行って見る。ソン君が案内し、店内に入るときだった。
一緒に夕食を摂る。
大極さんと息子さんの元気な様子にほっとする。
大極さんとは、大学で同級生。ということは18歳からの
付き合いである。、と言っても大学時代、いわゆる「お付き合い」
をした訳ではないが・・・。
これも何かの縁。大学を出たあと、大極さんはお茶大大学院へ
行き、アメリカ留学というコースを歩み、私は小学校教員としての
生活をしていた。
ある講演会に呼ばれ講演をし、終わったあと、「小山君」と
言われ、最初は誰か分からなかったが、大極さんだった。

不思議な縁である。立派な息子さんと一緒に船上生活者や
障害児の医療支援(針灸関係)をしてくれる。
毎年、2回ほどフエに来ての支援活動に敬服する。
口では誰でも立派なことをいえる。しかし、大極さんの
ように毎年2回ほど定期的にフエへ来て、貧しい家庭、
障害者など「発展目覚しい?ベトナム社会」の影に
追いやられている人々を注視している人間はそれほど
いない。

投稿者 koyama : 22:07 | コメント (0)

2010年04月04日

2ヶ月ぶりの休日

曇りのち晴れ  快晴

午前2時に目が覚める。

読書「強欲社会主義ー中国全球化の功罪」読了
(遊川和郎著:小学館101新書)

現在の中国の諸側面を分析している点では
私も知らなかったこともあり、益があった。
しかし、その本質である「共産党一党独裁」については、
その弊害を述べてはいるが、「近代化」する過程では
致し方のないものという評価で終わり、中国共産党の
一党独裁下で人民の諸権利、思想・信条・表現の自由、
結社の自由など近代民主主義の原則である
基本的人権を抑圧した上に成り立っている「経済成長」
の本質の分析が全くない点は、学者としての致命傷と
思える。一部都市の富裕層と農村戸籍の農民の
「どうしようもない」差別と格差の実態の分析がないまま、
現状の中国を分析してもその本質は分からないと私は
思った。毒ギョーザ事件の犯人が中国で捕まったようだが、
その本質は、やはり極端な格差社会に対する反撥で
あったようだ。一読の書と勧める気にはなれない。


午後4時、再度寝る。


午前8時起床。

ほぼ2ヶ月ぶりの休日。この間、2度の訪日。来客や訪日する
皆さんの案内などでかなり疲労がたまる。

昨夜寝るときには、日曜日は「ウオーキング」をしようと
決意していたのだが、疲労で体が動かない。
今日は1日、ゆっくりと部屋で過ごすことにする。


朝食の準備をしていない。

1つ2000ドン(10円)のベトナム製インスタントラーメンが
部屋にあった。

入れる具もないのでお湯で温めて朝食とする。


読書「世界を知る力」(寺島実郎著:PHP新書)
寺島氏は、基本的には保守派に位置する人物では
あるが、ある意味で革新的・民主的保守主義者とでも
いえる。私と同い年。

寺島氏の基本的な立場は、保守主義ではあるが、
アメリカに追随する保守主義を厳しく批判している。
強欲な「新自由主義」も厳しく批判している。

1853年、浦賀にペリーの黒船が来航したことを
もって「日本の開国・国際化の始まり」との固定概念が
あるが、1705年にロシアのロマノフ王朝のピョートル
大帝がサンクトペテルブルグに日本語学校を設立している。
1972年にはロシアの通商使節が来航している。
ロシアは、ペリー来航の150年前に既に日本語学校を
作り、南下政策をめざしていたことを冒頭に述べている。
ユニオンジャックの矢(ロンドン→ドバイ →バンガロール・インド
→シンガポールシドニー)と大英帝国の通路は今日でも
生きている・・・・・・。

世界を見る新たな視点を提示していて興味津々。

午後12時半から2時間昼寝。

洗濯。


部屋の掃除。


日本で日本料理研修中のTUOIさんを5月に迎えに行くが
その日程調整をする。

7月21日、ベトナム事務所のソン君とメンさんの結婚式
である。結婚式参加ツアーの計画を考える。


夕方、ベトナムほか弁を買いに行く。100円。

午後7時、フエ缶ビール2本。純米吟醸「国香」を飲む。

4月10日行われる第14回JASS静岡の会への
メッセージを書く。


投稿者 koyama : 19:43 | コメント (0)

2010年04月03日

終日、刺繍工場参観の社長を案内

晴天  気温30度


午前7時朝食。

今日から大塚さん、原田先生、古竹先生と4人での食事が
始まった。

今日の朝食は「キャッサバ芋の煮込みうどん」。
唐辛子を入れると味が引き立つ。


「京滋YOUの会」を通して支援してもらっている京都府の
虹の輪募金で行っている「定期健康診断」の最終報告書関連
の資料を「京滋YOUの会」の藤井さんに送る。
毎年、「京滋YOUの会」を通して支援金が送られてくる。

「子どもの家」、省「子どもの家」、省盲学校のこどもたちに
定期健康診断を10数年行っている。

午前8時、洗濯。

午前8時半、ベトナム事務所へ。リー君が元気に
ベトナム事務所前にいた。

今日は、日本料理店のこどもたち4人と大塚さんで
ダナンの大型スーパーへ「マグロ」「サーモン」などの
買い付けに行く。リー君は午前9時集合を待ちきれず
にいる。

午前中、バオミンさんとN社長さんと一緒に2つの
刺繍工場を視察。


昼食。

フエで一番美味しい(と私とミンさんが思っている)
チャーハン屋へ。

1時間昼寝をし、午後、再度、刺繍工場へ。

夕方6時、フエをでて、フエ空港まで見送る。


途中、新しくできた「フランスパン」 屋さんへ。
焼きたてのフランスパン(大)が10円。
N社長はお土産に10本ほど買う。


フエ空港でチェックイン手続き


N社長の無事帰国を祈る。


=============

しばらく日本のニュースを知らなかった。
久しぶりにインターネットでニュースを見る。
自民党若林参議院議員が同党青木議員の代わりに
押しボタン投票をして辞任したとのニュースが書いてあった。

改めて各紙の社説や解説記事を読んだが、若林元議員が
青木議員に成り代わり投票した10の議案の再採決が
必要との解説や意見は一つもなかった。

自民党若林元議員の行動は前代未聞の愚挙。
国会が良識の府ではないことは前から明らかだったが
これほど明確に「馬鹿な人間」が国会を闊歩していた
日本の政治の現実に戦慄を覚える。
若林元議員は、自民党が先の衆議院選挙で大敗し
野党に転落した際の首班指名選挙の自民党の候補者だった
のだ。つまり、自民党が首相に適任と全員が投票した
「首相候補者」だった。そういう人物が10回も「魔がさして」
しまったのだ。

①自民党の若林議員辞任に反対する。国会議員を除名すべき。
②若林議員の辞任が主な問題ではなく、10の議案の採決その
  ものが無効である。残念ながらどの政党も採決の無効を
  主張していない。どのマスコミを採決無効を言っていない。
③国会議員の最大の責務である国会業務を「会合があるから」
  と退席した青木議員の責任も追及すべきである。
  青木議員も辞職すべき立場にある。
  国会議員で主権者である国民の代わり投票すること 
  以上に大事な会合とは何々なのか?


私は今回の若林氏の「偽装押しボタン投票」事件は、
憲法の最大の精神である「主権在民」という原則を真っ向から
否定した「政治的な暴力」であると理解している。
10個の議案の採決は、主権者の意思に反して、若林氏の
独断で行われたものであり、主権在民、少なくとも青木氏に
投票した国民の主権者としての意思が踏みにじられたのである。
そうした観点からすれば、若林氏が辞任するかどうかではなく、
主権者としての国民の意思が反映されていない議決は
無効なのである。
10の採決の再採決をすべきである。
だれかこの問題を裁判に持ち込むべきだと思う。

「若林辞任などより、嘘の投票があって成立した法案は
無効である」との裁判を起こして欲しい。

主権がこれほど明確に「踏みにじられた」ことはないのでは
ないだろうか?  前代未聞の暴挙。

自民党の与謝野馨・元財務相と平沼赳夫・元経済産業相が、
月内に新党を結成することで大筋合意したことが、
3日明らかになったそうだ。与謝野氏が自民党谷垣総裁に
7日付けの離党届を提出したとのこと。

「時代錯誤」という言葉がある。
広辞苑では、「アナクロニズム・時代遅れ」とある。
与謝氏が、自民党を離党して、第2自民党を作っても
既に「自民党の歴史的役割は終わった」(舛添要一元厚労大臣
が語っている)ように自民党の歴史的な役割は先の総選挙で
終わったことが証明されている。

与謝野氏は再度自民党を復活させようとの魂胆のようだが
歴史を読めない人間である。
おばあちゃんの与謝野晶子は、日露戦争時に
「君、死にたもうことなかれ」と日露戦争に参加した
弟が死なないようにと反戦の歌を歌っている。
『君死にたまふことなかれすめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね』
と「天皇は自分では戦争に行かないのに・・・」
と明治34年(1904年)の祖母の晶子は歌っている。
今日の日本国憲法9条にも通じる先見性を持った
祖母である。

与謝野氏が自民党を離党して再建自民党を作っても
現在の諸問題に対処できない。与謝野氏は祖母の勇気と
英断と少しの知性と先見性を学ぶべきである。

41年後の1945年、憲法9条に与謝野晶子の精神は
見事に生かされている。これこそ、「先見性」と言える。
孫の馨氏は祖母の鼻くそでも煎じで飲んでみたらどうなの
だろうか?

与謝野馨氏のHPには、祖父である与謝野鉄幹、祖母である
与謝野晶子の系図が詳しく書かれている。
自分はその「孫だ」と写真入りで宣伝している。
祖父・祖母を選挙に利用しているのは明らかだ。
利用するのなら、その先見性と革新性をこそ見習うべきなので
ある。


あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ

投稿者 koyama : 18:04 | コメント (0)

2010年04月02日

ホーチミン市からフエ市へ戻る

ホーチミン市快晴
フエ市快晴(31度)

午前6時、ホーチミン市のホテルで起床。
昨日の静大入試等の日記を書く。

午前8時半、ホテルのレストランでビュッフェ方式の朝食。
野菜を中心にご飯少々。チーズ、ヨーグルト。

午前10時、受信メールをチェックする。19通のメール。
全てに目を通し必要な返信を書く。

午前11時55分、ホテルをチェックイン。
そのままタクシーでホーチミン市の「タンソンニャット空港」
の国内線へ。チェックインの手続き。

フエ行きの飛行機は午後2時50分発なのでかなり早く空港へ
着いてしまったが、他にいくところもないし、疲れていたので
空港待合室でゆっくりする。

読書「強欲社会主義ー中国全球化(グローバル)の功罪」
(遊川和郎著:小学館新書)

著者は東京外大中国語学科を出て、現在北大准教授。
日興リサーチセンター上海駐在員事務所長などを歴任。

世界の人口の5分の1を占める中国の「社会主義市場経済」
の歴史と実態、それが日本や世界にどのような影響を
及ぼすかなどを解明している。ベトナムのドイモイの
先を行く中国の社会主義市場経済。著者がどのような分析と
今後の展望を持っているのかに興味がある。

午後2時10分頃から搭乗の案内。

午後4時、フエ空港到着。

偶然、同じ飛行機に大塚さんも乗っていた。ホーチミン市の
待合室では全く気づかなかった。空港から一緒に車で
ベトナム事務所へ。

日本料理店のこどもたち(4人)と3日ぶりの再開。

この1週間ほど、毎日日本料理店の来客は20人前後と
たくさんの来客があった。

大塚さん、TUOIさんがいなく、私も静岡大学の皆さんの
案内などで日本料理店にいられなかった。
4人のこどもたちだけで20人近くのお客を接客し、
注文をこなした。こどもたちの力量が高まったことを
証明することである。


大塚さん、原田先生、古竹先生、4人のこどもたちが
揃って夕食を摂るのは今日が初日。

午後6時、工場等の視察に来ているNさん、ミンさんと
3人で日本料理店で夕食。

午後9時過ぎ終了。

今日は21人の来客。ほとんどが欧米系。


大塚さん、原田先生と一緒に「ハイリーホテル」に帰る。
たった1日しか空けていなかった「ハイリーホテル」だが
久しぶりに帰ったような気分になる。


投稿者 koyama : 19:10 | コメント (0)

2010年04月01日

静岡大学ニフィースペシャル入学試験

快晴  気温30度


午前7時朝食。



マカロニスープ


午前8時過ぎ、ベトナム事務所へ。

午前8時半、静大の3人の先生、1人の事務官、原田先生、
古竹先生、フーン先生と一緒に試験会場である
「静岡フエ青年交流会館へ」。

8時45分頃から受験生が静岡会館へやってくる。家族の
オートバイの後ろに乗ったり、自分でオートバイを運転
したりして・・・・。


静岡会館の一部には、保護者控室も準備。

静大の先生方が受験生受付を設置。


午前9時10分ちょうど。受付を開始。
受験生は受験票、許可された辞書類をもって受付へ。


受験生全員が揃ったところで、静岡大学工学部長補佐の
松本先生よりニフィースペシャル受験に諸注意が行われる。

午前中は、数学・化学・物理・英語・日本語の筆記試験。

午後は一人20分から30分の日本語による面接試験。

その他、受験の注意。フーン先生が通訳。


受験生は大量の辞書を持ちこんで午前中の
学力試験。



試験が始まる。



午後12時半、午前中の試験が終わる。

試験関係者は急いで「ブンボーフエ」の簡単な昼食を
摂り、午後の面接の準備に入る。



フエ名物米うどんの「ブンボーフエ」。


午後2時すぎ、面接試験に入る。
松本先生の面接試験の諸注意をホワイトボードに
書くフオン先生。


面接の順番を待つ受験生



静大工学部のニフィー入試は、文部省の30万人
留学生受け入れ計画の一環をなしている。
ニフィープロジェクトは、アジアの理系の有能が高校生を
日本の大学に招請し、日本のものづくりなどの伝統や
高度の学問分野を体験させ、母国で役立てるという
プロジェクト。

ニフィープロジェクトは、フエ省教育局長とフエ市長の
学力証明と推薦を受けた受験生の中から3名を選抜するもの。

第1期生は2009年10月1日に3名が静大工学部に入学している。
今回は第2回目の試験となる。


入試は午後6時半頃まで続いたが、私は午後4時過ぎに
退席し日本へ帰国する家族をホーチミン空港まで
案内した。

午後6時半、フエを出たが、バオミンさんのお子さんの
アルファーちゃんとベーターくんがフエ空港まで見送って
くれた。


フエ空港への車中にて



フエ空港でバオミンさんの家族と別れホーチミン空港へ。

午後9時半、ホーチミン空港着。

ホーチミン空港で成田行きの飛行機の手続きを行い
家族は入国審査へ。

私はタクシーでホーチミン市内のホテルへ。

午後10時半。


午後11時半、就寝。

投稿者 koyama : 12:30 | コメント (0)