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2008年12月31日

ベトナム事務所「望年会」

終日雨。時々、豪雨。

抗アレルギー剤のせいと思われるが、
昨夜から今朝まで熟睡。今朝も起きられない。

午前7時、何とか起床し、朝食。


頭がボーッとし、体の自由が利かない。
午前7時半、部屋に戻リベッドに横になる。
気がつくと午前11時半。「昼食の時刻だ」
と思い、あわてて1階食堂へ行くが、誰もいない。
時計を見ると午前10時半。1時間勘違いしてしまった。

昨日、ジンマシンの薬を処方した医師に電話をかける。
4日分の薬が昨日がなくなる、ジンマシンはまだ残っていると。
医師の返事「薬は強い薬ないので長期間の使用は出来ない。
後2日間だけの延長なら可能」とのこと。バオミンさんにお願いし
2日間分の薬を処方してもらう。医師の言うとおり、薬とは
怖いものである。人間の精神を自由にコントロールできるほどの
力を持っている。昨夜からまた体中にジンマシンが発生。
困ったものである。後2日間の薬使用で「抗アレルギー剤」の使用は
出来なくなる。その後、どうしたものだろう・・・・。

午前11時半、昼食。

そのまま部屋に帰り、再びベッドに横になる。
そのまま熟睡。午後4時半目が覚める。
本当に強い「抗アレルギー剤」だ。

午後4時45分ベトナム事務所へ。
ザーホイ高校の校長先生以下先生方が
新年の挨拶の来られた。

午後5時半からベトナム事務所「納め会」「望年会」。


はじめに私の開会の挨拶。2008年、ベトナム事務所員・
日本語学校教師・日本料理店の皆さんとご家族の皆さんの
ご協力でJASSベトナム事務所は大きな成果を収めた。
2009年が皆様とご家族の皆さんのご健康であることを心から
お祈りする。


今夜の納め会には、大塚さんを先頭に日本料理店の
こどもたちが協力して日本料理とベトナム料理を
時間をかけて作ってくれた。

●お寿司

●数の子などのオードブル(内田さんなどからの寄贈)

●サーモンの寿司

●てんぷら(ごぼう・・・・)


納め会にはベトナム事務所員のご家族も招待。

●バオミンさん家族

●日本語教師ゴック夫妻

●日本語主任フーン先生ご家族

バオミンさんの「乾杯」の発声で納め会は始まる。



●日本料理店を指導してくれている大塚さんの挨拶

●参加者の出し物が始まる

「ハイリーホテル」の警備員ハイ君の歌と踊り


●大塚さんと帯広Yさんの歌「みちづれ」

●ハイ君といぶき先生の歌(ベトナム語)


●日本人の歌

●〆は「年越しそば」


午後8時半、ベトナム事務所「望年会」は終了。
2009年もベトナム事務所員、一致団結してこどもたちの
ために努力することを誓う。


投稿者 koyama : 12:37 | コメント (0)

2008年12月30日

ベトナム小児白血病父母の会総会

終日雨。時々豪雨。
今日で連続8日間、雨が続く。

午前7時朝食。ブンボー。

抗アレルギー剤が強いため食欲なし。

午前中、「ハイリーホテル」にて仕事。
ベンバー34号の校正。
メール受信への返信。

午前11時半昼食。

午後12時過ぎから30分ほど昼寝。

午後1時40分、「ハイリーホテル」からタクシーで
ベトナム事務所へ。ベトナム事務所でバオミンさんと合流し
フエ中央病院小児科へ。今日は3ヶ月に1回の「ベトナム中部
小児白血病父母の会総会」。

ACCLの渡辺和代代表が参加できないので代わりに私と
バオミンさんが参加。渡辺代表から患者のこどもたちに
クリスマスと新年のお祝いのお菓子とサンタさんがプレゼント
される。

午後2時半、「ベトナム中部小児白血病父母の会」が開会される。



はじめにフエ中央病院小児科医長のTUAN(トゥアン)先生より
挨拶。

今日はACCLの渡辺和代さんの代理でJASSの小山さんが
臨席している。
ACCLの渡辺和代さんは、世界の白血病協会とも連絡を取り合い
ながら世界の白血病の最高水準の治療などについて
紹介をしてくれている。世界の白血病のレベルは、白血病は
治る病気であるということを知ってもらいたい。医師と患者が
連絡を取り合い、治療をすれば大きな効果が上がる。
ACCLの渡辺和代さんが、財政支援だけでなく、日本の
高度に進んだ医療技術も紹介してくれている。
白血病にこどもがかかり、子どもが風邪など引いた時、
親が勝手に薬局などで薬を買いこどもたちに与えることは
絶対にやめて欲しい。

まだベトナムへは白血病治療のための新しい技術が
導入されていないが、世界の進んだ薬は入っている。
医師を信頼して一緒にこどもたちの治療に邁進しよう。
フエ中央病院もACCLの医師から学びできるだけ日本と
同じ治療を行っている。

衛生問題に気をつけてほしい。いくら良い薬を使っても
衛生状態が悪いと薬は利かない。

こどもたちに強い薬を使っているのでこどもたちの
免疫力が落ちている。手洗いの励行、不潔な食べ物を
食べないなど衛生に特に気を使ってほしい。

親同士の交流を進めて欲しい。経験のある親が新しい
親に今まで学んだ経験を教えて欲しい。


続いてACCLを代表して私の挨拶。


私も弟が16歳で小児白血病にかかり、病気と闘った家族の経験が
ある。皆さん、家族の気持ちは良く分かる。渡辺和代代表の
ACCLと協力して一人でも小児白血病を克服できるこどもたちが
出ることを祈っている。

続いて実際に小児白血病の治療に当たっているTHUAN医師からの
発言。

トァウン医長の話に付け加える。

一度診療を受けて再度病院へ来るべき時期をしっかりと守って
欲しい。2、3日遅れても早くなっても良いだろうと考えるのは
大きな間違いである。必ず決められた日時に再診断を受けて欲しい。
フエ中央病院小児科には毎年平均25人の小児白血病の患者が
入院する。新人の親は緊張している。経験のある親が是非、色々な
生活体験などを教えてやって欲しい。

●小児白血病の治療期間は基本的に24ヶ月である。
18ヶ月まで治療を進め、大体良くなってくると治療をやめてしまう
親がいる。それで死んでいったこどもたちもいる。
決められて治療日程はしっかり守って欲しい。

●衛生問題も大きい
 子どもが食べたいと言って路上の汚い屋台の食べ物を与えている
 親がいる。こどもたちの体調を崩し死亡につながる。

●続いて親の会会長の発言
 JASS代表、小山さんありがとう。ACCL渡辺和代代表にお礼の
 言葉を伝えて欲しい。こどもたちの病気もよくなっている。
 医療チームの医師にも感謝いている。 
  少し前は1年以内に死んでいったこどもたちも多かったが
 最近は大きく状況が変わった。

●父母の会会長と小山

サンタとお菓子をもらい喜ぶこどもたち

最後に全員写真

午後4時全てが終了。

ベトナム事務所へ戻り、バオミンさん・税田さんと当面の諸問題に
ついて協議。

午後5時半、知人と懇談飲食会。バオミンさんも同伴。

豪雨の中、「ハイリーホテル」帰宅午後8時半。


投稿者 koyama : 22:50 | コメント (0)

2008年12月29日

フエ市共産党委員長・外務部長と懇談:フエ高等師範大学長と懇談

終日雨。気温20度、湿度95%。

体の蕁麻疹はかなりへったが、今度は首から上(首・顔・頭)に
来た。

午前6時起床。抗アレルギー剤で頭がボーッとしている。

午前7時朝食。「赤米のおかゆ」。

午前8時半ベトナム事務所へ。大雨。
ベトナム事務所でバオミンさんと若干の打ち合わせの後、
フエ高等師範大学へ。フエ高等師範大学でフーン先生と
合流。フエ高等師範大学学長・教務部長・ベトナム人の
日本語教師と懇談。フエ高等師範大学日本語学科の運営
などについて、かなり突っ込んで打ち合わせを行う。

午前10時半、フエ高等師範大学内にJASS事務所を設置。
机、パソコン、ソファー、書架などを設置。今後、日本語教師や
打ち合わせなどに使用。まん前に「5つ星ホテル」が建築中、
その隣にフエ最大のスーパーマーケットも建築中。


世界金融危機のあおりをうけて、建築ストップということにならな
ければよいのだが・・・・。

午前11時、ベトナム事務所へ戻る。
日本語教師、税田さんなどを交えて、フエ高等師範大学学長等との
意見交換の内容を伝え意見を聞く。

午前11時半。昼食。

午後12時半から30分ほど昼寝。体はかゆくなる。

午後2時半、ベトナム事務所にフエ市共産党委員長のユン氏と
外務部長(フエ市国際交流センター所長)のニエン氏来訪。


「今後、JASSへの心無い攻撃などがあった場合、協力して
対処する」ことを話し合う。
同時に船上生活者への支援問題を話す。

午後3時半。バオミンさん、税田さんと縫製研修センターの
納税問題について深く協議する。

午後5時半。帯広のYさんが支援している「暖炉基金」(だんろききん)
の障害児の皆さんと家族の懇親会。帯広のYさんは、進学を希望して
いて家庭の財政事情で進学できない子どもたちを大学まで行かせる
というプロジェクトを行っている。今日はその障害の子どもたちと
ご家族をお呼びして近況を聞き、将来への展望を話し合った。


●帯広Yさん挨拶

●障害児の家族を代表して父親の挨拶


●1年ぶりの再会を祝して乾杯

●暖炉寄金の障害児の家族会員


1時間半ほど、障害児の日常生活、学業、職業訓練などの
様子を聞く。

暖炉寄金の創設者Yさんと障害のこどもたち

最後に一人一人のこどもたちにお菓子と果物をプレゼント


●最後に障害児の父母を代表してお母さんがお礼の挨拶



午後8時半に終了。こうした支援は本当に有意義なものである。
物の支援ではなく「人間を育てる」支援である。
ある足の悪い子どもは電気修理の研修をし小さなお店を持ちたいなど
それぞれの進路を見つけ、その進路を目指して自立のための努力を
している。また、ある女の子は看護婦の学校を出て看護婦として
仕事をする決意を持っている。

ジンマシン用の抗アレルギー剤が強い。
常時、頭がボーッとしている。読書をする意欲が出てこない。
ジンマシンが少し軽くなったのでありがたいことではあるが・・・・

投稿者 koyama : 18:59 | コメント (0)

2008年12月28日

終日、寝ている

終日雨。これで丁度1週間連続の雨。

昨日から蕁麻疹(じんましん)対策の薬を服用。
抗アレルギー剤が強いため、今朝起きても、「もうろう」としている。
両手がグローブのようにパンパンに張ってしまった。

結局、午前11時半頃まで「うつらうつら」眠っていた。
その後、せんべい2枚を食べ朝の蕁麻疹の薬を飲む。そのまま
午後3時半まで熟睡。今日は朝食も昼食も摂っていない。
午後4時、「ハイリーホテル」を出て「ベトナム風ほか弁」を買う。
(80円)

大塚さんと「ハイリーホテル」で若干の話。

今日も薄い夏布団の乾燥作業は出来ず。
終日乾燥機は使用中。現在の蕁麻疹の原因は
夏の薄い掛け布団に入っている虫のせいと判断。
乾燥機をしっかりかけて一掃すればかなり
楽になるのだが、この四日間乾燥機は朝から夜遅くまで
使用中。雨季なので仕方がないことではあるが・・・・。

午後6時、今日はじめての食事。薬が強いせいなのか
食欲もなく、活力も出ない。ただボーッとしているだけ。
読書への意欲も出ない。蕁麻疹は相変わらず。
ほか弁を食べる。

内田さんから無事帰国の電話あり。
全教千葉女性部ツアーに皆さんの無事帰国を祈る。

今日中に提出のバンベの34号の原稿を頑張って書く。
受診したメールへの送信。

「ハイリーホテル」の外の飲み屋からサッカーの「タイ;ベトナム」戦
を見ているベトナム人の一喜一憂する大声が夜遅くまで響く。
これだけテレビのサッカー試合に熱中できる国民がうらやましいとも
思えた。シュートをしただけであちこちから大声があがる。

夜10時半に乾燥機が空くが既に就寝時刻。布団の乾燥できず。
明日に持ち越し。何とか今夜、ジンマシンが出なければよいのだが。
祈るのみ。夕食後、ジンマシンの薬3錠飲む。

何人からの方から「ジンマシン」のお見舞いあり。
感謝。

投稿者 koyama : 19:02 | コメント (0)

2008年12月27日

内田さん・全教千葉女性部ツアーホーチミン市へ。

終日雨。

これで6日間連続の雨。
昨日、蕁麻疹の薬を飲んだが、引き続き今朝も蕁麻疹が
体中にでている。

その後、詳しい「フエの季節病」の原因が判明した。
毎年この時期は多量の雨が降り、寝具に大量の水分が
溜まり、『特殊な虫』がベッドやかけ布団に発生し、
その虫に食われるとのこと。
対策としては、湿疹を大きくしない薬、かゆみ止めの薬、
抗オレルギーの薬の服用。

寝具の乾燥・殺菌。

今日、ベトナム事務所の関係者に手伝ってもらい
3メートル四方の大きなビニールを買い、ベッドを
このビニールで覆った。「特殊な虫」をベッドの中へ
囲い込む作戦。ベッドが厚いために却って多量の水分を
貯めこみ、「特殊な虫」を発生させている。

日本で言えば夏用の薄い掛け布団2枚を使っているが、
出来るだけ布団の中の水分を取ることが必要と医師からの
伝言。乾燥機にかけるのが一番とのこと。
昨日、今日と残念ながら「ハイリーホテル」の全自動洗濯機は
ほかの人が使っていたので使えなかった。明日、乾燥機が
空いていたら掛け布団の乾燥を行う予定です。
薬をもらったが、現在まであまり効かない。

午前6時半起床。
午前7時朝食、ブンボー。

朝食を日本語学校の先生と話しながら摂っていたが、
日本語教育関係で問題があることが分かり、先生方と
若干話し合う。

午前7時半。フォンザンホテルへ。

全教ツアー、内田さんがホーチミン市へ。
バスで一緒にフエ空港へ。

午前8時過ぎ、フエ空港着。チェックイン。

全教千葉の皆さんは今回で10回目の「子どもの家」訪問である。
続けるということの大きな意味を感じたツアーであった。
内田さんは、13回目のクリスマス会を主催してくれた。
ありがたいことである。感謝。

ベトナム事務所へ戻る。
「ハイバイーチュン高校」の校長先生、組合代表、生徒代表が
年末と新年の挨拶に来た。しばらく懇談。

「ハイバイーチュン高校」の校長先生よりJASSへ花束贈呈

その後、引き続き、グエンフエ高校の親がベトナム事務所へ
やってくる。日本への留学相談。


午前11時半、昼食。

ハイ君とイン君が来ない。しばら遅れてやってくる。
注意。


午後12時半過ぎからしばらくベッドで休む。体中がかゆくなる。
毛布・夏の掛け布団に「虫」がいることは判明。
乾燥機でしっかりと処分しなかればならない。
今日も朝から夜遅くまで乾燥機使用中。結局、今夜も
「虫攻撃」を無視できない状況。虫に蝕まれた毛布で
今夜も寝ることとなった。

午後3時からメールの受信・送信。

読書「明日の地域論」

午後6時、雨の中日本料理店へ。
Yさん、大塚さん、税田さんと一緒に夕食。

来客多数。
結局、今夜は24人の欧米人、5人の日本人の
合計29人の来客あり。日本料理店は大忙し。

午後9時半、「ハイリーホテル」へ帰る。
体中に蕁麻疹(じんましん)が蔓延してゆく、
体が熱い。


体中が「みみずばれ」状態。原因は毛布と夏の掛け布団。
高熱で虫を殺すしかない。

●足の様子


寒い。静岡のSさんから送って頂いた「湯たんぽ」を入れて
就寝。明日の朝は、蕁麻疹が出ないことをいのるが、多分
出るだろう。

投稿者 koyama : 19:43 | コメント (0)

2008年12月26日

じんましん状態に悩む

終日雨。

5日間ほど雨。今年の気候は異常。この15年間、
クリスマス前後に雨が降ったことはなかった。
フエは既に5日間ほど毎日雨が続いている。

昨夜、全教スタディーツアーとの会食が終了した後、
「ハイリーホテル」へ戻り直ぐに寝た。
しかし、2時間ほどしてから体中がかゆい。
とうとう午前4時までかゆくて眠れなかった。

時間が経つにつれて腫れも大きくなり、体全体に広がる。


更に腫れの大きさが大きくなる。

午前2時位から手のひら・甲、頭、唇、大腿部、足、腹、背中と
拡散していく。

2時間ほどうつらうつらすると既に午前6時半。

朝食。おこわ。

今日からイン君が「ハイリーホテル」に泊まるようになった。
日本人の先生と挨拶。

この5日間ほど、来客の接待で受信のメールをきちんと
読む時間がなかった。朝「ハイリーホテル」を出て、夜帰って
来るとバタンキュー状態。体力の消耗と免疫力が相当低下している。


午前中、受信メール数10通に目を通し、必要な返事を送信。
1月に帰国する日程の中にいくつか日程が入る。

午前11時、バオミンさんと一緒にフエ中央病院皮膚科医師が
仕事の間に個人で開業している病院へ行くが、長蛇の列。
仕方ないのでフエ市立病院副院長のヒエンさんに電話で
じんましんのようなものの状態を説明。
「フエの季節の病気」とのこと。今、同様の症状を起こす患者が
多発しているという。当面、腫れを防ぐ薬、かゆみ止めを
服用したほうが良いとのこと。バオミンさんの携帯メールに
処方する薬名などを送ってくれる。近くの薬局へ行き
購入。800円程度。
「フエの季節の病気」といわれても納得は出来ない。
アレルギーなのか? 何かの虫のせいなのか・・・・・。
一種の「風土病」のようなものか?
とにかく体全体に廻った「かゆみ」と「腫れ」をとめることが
先決。日本に帰国したらきちんとした治療をすることにする。

その足で内田さんと一緒に昼食を摂る。

午後2時過ぎ「ハイリーホテル」へ戻る。
薬を飲む。
体調不良。直ぐに寝る。午後5時目が覚める。

午後6時過ぎ、日本料理店へ。内田さんと一緒に
夕食。

1年半ぶりに今日から日本料理店に復帰したイン君は
慣れた雰囲気で仕事を再開した。


内田さんが里子のメンさんと「子どもの家」で一緒だった
ユオンさん(フールー小教員)を招待。
税田さん・私・内田さん・メンさん・ユオンさんで夕食。


ユオンさんはすっかり小学校の教員の雰囲気を漂わせていた。

内田さんがメンさん、ユオンさんにお寿司を紹介。

その他、こどもたち二人の好きそうな料理を注文。


エビフライ

コロッケ

枝豆

ジャガイモとニンジンの金平

焼き鳥

てんぷら


午後9時前懇談終了。

「ハイリーホテル」へ帰る。

じんましん(蕁麻疹)の薬を飲む。

投稿者 koyama : 19:42 | コメント (0)

2008年12月25日

全教千葉女性部スタディーツアー「ナムドン山岳地帯」へ

終日雨。

昨晩、体中の発疹に悩まされ眠れなかった。

午前6時半起床。
朝食。

午前7時半、ベトナム事務所へ。
1年半前に日本料理店を突然出て行った「イン君」
(リー君の弟)が帰ってきた。一昨日、イン君が
ベトナム事務所へ来て日本料理店へ就職したい旨
を申告した。この間の事情を聞いたが、母親の指導下
でゴム園での仕事をしていたとのこと。

イン君の日本料理店再雇用を認める。
イン君の退職は彼自身の人間的な弱さにあったこと。
他人からの入れ知恵でJASSに悪罵を投げかけての
退職ではなかったこと、彼の生い立ちなどを考慮して
再雇用を受け入れた。


午前8時半、全教千葉女性部関係の皆さんと一緒に雨の中
ナムドン山岳地帯へ。

午前10時、ナムドン山岳地帯の「トゥオン・ロ小学校」へ
到着。この小学校は地元カトゥー族のこどもたちの学校。
全教千葉の皆さんが60人ほどのこどもたちに奨学金を
贈呈している。

新校長先生と懇談

奨学金を贈呈しているこどもたちなどと交流

こどもたちと「フーフーロケット」作りを楽しむ

一人一人のこどもたちに奨学金を贈呈

午前11時半、「トゥオンロ小学校」を後にする。

再び、ナムドン郡の中心地に戻り昼食。

午後1時、ナムドンの「トゥオンロ村」の集会場へ。
ここはカトゥー族(600人)の集落の集会場。
雨の中、集会場へ入る。


集会場でカトゥー族の皆さんと交流。

全教千葉女性部の代表挨拶

副村長さんへ全教千葉女性部からお土産贈呈


続いて支援物資の贈呈

歓迎の踊り


訪問者と村人と一緒にカトゥー伝統の踊りを踊る。


こどもたちと円盤飛ばしの遊びをする


カトゥー族のこどもたちは絵を描くのが好きだ。円盤にきれいな絵を描く

午後2時45分、交流を終えて記念撮影


車でフエ市内へ。その足で「縫製研修センター」へ行き、
「縫製研修センター」を視察。
JASSブランドの衣類「JASS INTERNATIONAL」
を20着ほど買ってもらう


午後6時、全教千葉の皆さんとフールー小学校の校長先生、
副校長(労働組合委員長)、勤務の長い先生そして
「子どもの家」の卒業生で今年の9月からフールー小の
先生になっているユオンさんを招待し交流会食。

●校長先生に花束贈呈

●勤務の長い先生に花束贈呈

●フール小学校の先生方


●日本料理店のこどもたちの作った食事を堪能。
 乾杯。

●会食(「子どもの家」卒業生のユオンさん)


●校長先生のお礼の挨拶



●全教の先生方の感想

●ユオンさんの挨拶
 今年1年は仮採用なので、来年の正式採用をめざし
 頑張る


午後8時半、交流会終了


今年の9月、「子どもの家」から独立した姉のユオンんと
妹のグエットさん(日本料理店接客主任)。
10数年かけて二人は自立することが出来た。人を育てるとは
時間がかかるものである。


午後9時半、「ハイリーホテル」へ。
体中に「蕁麻疹(じんましん)様」の湿疹ができ痒い。
日本料理店の会食前にミンさんと一緒にベトナム事務所
の隣の医師にみてもらう。診察も何もしないで飲み薬と
塗り薬をくれる。

この1週間ほどあまりにも忙しく、受信メールへの返信が
滞っている。メールを読む時間さえない状態である。

投稿者 koyama : 00:04 | コメント (0)

2008年12月24日

第13回クリスマス会

終日雨・曇り

今日は本当に長い1日だった。

午前6時起床。停電。結局、10時間ほどの停電となった。

午前7時朝食。精進「ブン麺」。

急いで朝食を摂り、フォンザンホテルへ。全教千葉の皆さんと一緒に
ドンバ市場へ。「子どもの家」で作る『ポップコーン』つくりの用の
鍋、サラダオイルなどを買う。
市場には獲れたての銀色のサンマが並べられていた。

「子どもの家」のこどもたちへのお土産に果物なども買う。

午前8時半過ぎ、「子どもの家」へ。こどもたちの歓迎会が
始まる時、ベトナム事務所から電話。グエンフエ高校の
副校長先生、先生、生徒代表が年末の挨拶に来ているとのこと。
外は雨。急いでタクシーを呼びベトナム事務所へ戻る。

年末・新年のお祝いの花とケーキなどをもらう。

再びタクシーで「子どもの家」へ戻る。既に歓迎会は終了。
全教の先生方がこどもたちと一緒に「ポップコーン」を作って
いた。



午前11時過ぎk「子どもの家」を後に昼食。ベトナムの庶民の
料理。

そのままベトナム事務所で30分ほど過ごし、午後1時半、
JASS日本語学校へ。静岡大学留学希望者への
日本語教育を始める。今日は留学希望者と親同伴。
私の方で今回の「日本留学特別コース」設置の意味、
目的などを説明。フーン先生、クアン先生が具体的な授業内容、
授業時間等を説明。



午後2時半、全教の先生方とフールー小学校へ。
船上生活者の師弟が半分以上いる小学校。
全教千葉の先生方のフエ訪問は今年で10回目である。

3年生・4年生のクラスでビニール袋のロケットつくりを
教え、一緒にア遊ぶ。

子供との交流終了後、職員室で校長先生・副校長先生などと
学校教育・授業のこと、こどもたちのことなど日越交流。

午後4時半、フォンザンホテルへ帰る。
午後5時、大塚さん、Yさんと一緒にクリスマス会の会場へ。

午後6時から午後8時まで、内田さん提供の「第13回クリスマス会」
が行われる。

クリスマス会は中島先生・ハンさんの司会で始まる。

来賓のフエ市人民委員会の皆さん

初めにフエ市人民委員会国際交流センター所長のニエン氏
よりお祝いの挨拶を頂く。

続いて内田さんのこどもたちへの励ましの言葉

「子どもの家」運営委員長のセンさんのお祝いのことば

いよいよこどもたちの楽しみにしていた会食。
今日は「子どもの家」のこどもたち、スタッフ、在宅支援の
こどもたちや家族、ベトナム事務所スタッフなど総勢100名以上
が参加。

「子どもの家」スタッフ

ベトナム事務所スタッフ




「子どもの家」スタッフと小山。酔っ払いおじさん3人組

いよいよ待望のカラオケ大会

●カラオケ大会の優秀賞

●クライマックスは、こどもたちへのお菓子などのお土産

投稿者 koyama : 07:48 | コメント (0)

2008年12月23日

全教千葉ツアー来訪

曇り 時々晴れのち雨。

気候の変動。

午前5時起床。読書「あすの地域論 自治と人権の地域づくり
のために」(清水修二・小山良太・下平尾勲編著 八朔社)

午前7時朝食

午前8時、バンベー(JASS機関誌)34号の原稿を書く。
第3代JASS代表でり私たち夫婦の仲人でもあった
平野皓二先生急逝の記事。

午前8時半、ベトナム事務所へ。第13回クリスマス会を
寄贈してくれる内田さんが、クリスマス会の景品に
縫いぐるみ人形を買って来てくれる。

バオミンさん・税田さんなどと当面の諸問題を話し合う。

午前11時半。内田さん、税田さん、バオミンさんと
一緒に「待つ店」のチャオバインカインを食べに行く。

15年前から来ているが味は全く変わっていない。キャッサバと
米の麺をゆでて、豚と鳥のスープで食べる「ベトナム風煮込みうどん」。

午後1時「ハイリーホテル」へ帰る。
30分ほど昼寝。

午後2時ベトナム事務所へ。
静岡大学工学部留学希望高校生の2名と
その親がベトナム事務所(静岡大学フエ連絡事務所)へ
やって来た。静岡大学の沿革、工学部の学科、生活、
進路等の話をする。親からいくつかの質問が出る。


ベトナム事務所では明日の第13回「子どもの家」クリスマス会
の準備をしている。ベトナム事務所員全員で。

午後3時半、バオミンさん・税田さん・大塚さんと当面の
日本料理店の件について協議する。結論が出る。

午後5時、全教千葉の皆さんを出迎えにフエ空港へ。
午後4時過ぎ、結局40分遅れて到着。
今日は8人、明日2人到着予定。

そのままバスで夕食レストランへ。夕食を摂りながら
日本の教育について話し合う。

午後9時15分、終了。ホテルへ。

投稿者 koyama : 23:26 | コメント (0)

2008年12月22日

京都からの来訪者対応

終日、曇り・小雨 気温20度。湿度90%。

昨夜(今朝4時まで)寝られなかった。体中に発疹。
両手は虫に刺されたように腫れてしまう。
頭も痒くなる。

体に発疹が出来たので「マラリア」を疑い、体中が
かゆくなり発疹が出来たので「食物アレルギー」を疑い、
手だけが全体に腫れて痒くなっているので何か化学物質の
アレルギーを疑い、と一晩中、かゆみと腫れとの闘いだった。
とりあえず、松田先生がおいていってくれたメンタム「かゆみ止め」
を塗り当面の対処をしたが、とにかく痒く痛く眠ることは出来ない。
色々と考えた。この症状が出だしたのは3日前。
3日前に何か変わったことをしたかを思い出すことが出来ない。
エイジングの進行。直近の記憶力が減退している。
とにかく夜中、ベッドの中で悶々と何か最近変わったことをしたか
考える。最終的に思い出したのが、日本の支援者から
頂いた羽毛の薄いかけ布団を止めて、昨年からホテルに
おいてあった薄いベトナム製の掛け布団に変えたことだ。
直ぐにベトナム製の薄い掛け布団をやめる。

そのまま2時間ほど「うとうと」しているうちに夜が明けた。
朝になり手の腫れは引けていた。

結局、体中の発疹、頭の痒さ、両手の晴れとかゆみは
ベトナム製うす掛け布団に化学物質が大量に吹きかけられて
いたことから来る、薬品アレルギーと結論。
直ぐに洗濯機で洗う。

ベトナム製の掛け布団から離れて1日。すっかり発疹と
かゆみはなくなった。恐ろしいことだ。目に見えないが
ベトナム製品は、想像も出来ない大量の薬品が塗布されカビや
腐敗を防止しようとしている。目に目ないので防ぐのが難しい。
このまま原因に気づかず、喘息発作を起こし、夜中に呼吸困難に
なる可能性もあった。
強いアレルギー体質。遺伝なので仕方がないが、困ったもの
である。ベトナムで発症した新たなアレルギー。「金属アレルギー」
(これは日本では想像できないほど汗をかくのでめがねのフレームの
金属が溶けたり、腕時計の金属が溶けたりし、顔や手首が真っ赤に
腫れてしまう)、「かびアレルギー」(エヤコンに溜まったベトナム独特
のかびのアレルギー)、今回の「化学薬品アレルギー」。


午前7時、寝不足中で朝食。
石上先生、中島先生はフエ高等師範大学の授業参観で
朝食を摂らずに出かける。朝食は私とハイ君の二人。
朝食は「ブンボー」と生野菜。


バンベーの原稿依頼。日本の関係者にメールでお願いする。
電話で依頼。
私担当の原稿を書く。関係する写真をパソコンから探し出す。

洗濯。部屋にかけてあった衣類が全てかびる。湿度が高い。
全ての衣類を3回に分けて洗濯。

午前10時、ベトナム事務所へ。バオミンさん、税田さんと
当面の諸問題を協議。

午前11時半。昼食 

午後12時過ぎから1時間昼寝。熟睡。
読書「一人で暮らすということ」(寿岳章子著)読了。
国文学者だけあり言葉に関する薀蓄と教養あり。
各種雑誌などに書いた短いエッセーをまとめたもの。
主題は三つ。寿岳家の家風。特にご両親の素晴らしいこと
既に亡くなったご両親の思い出を延々と書いている。
二つ目が京都がいかに素晴らしいかという「京都自慢」。
三つめは「和紙」の巣晴らしさを解説。京都の綾部の
「黒谷の和紙」は素晴らしいから始まり、日本中の和紙の
紹介。
ここまで書かれると東京の私などは、少し「食傷気味」。
寿岳先生の言われるように京都の伝統と素晴らしさは
良く分かります。東京など新しい成り立ての町。その上
日本中からの人間の寄せ集め都市などとひがみの一つも
言いたくなるほどの「京都大賛歌」。国文学者の寿岳先生に
「ひいきの引き倒し」という言葉をプレゼントしたい。
寿岳先生の面白い所は実際に調査することだ。
学生と一緒に数千曲の歌謡曲の歌詞を調査したそうだ。
その結果、以下のようなことが分かったとのこと。
・女はかわいらしいのが良い。
・女は「待って」「泣いて」「耐える」。
・女は髪が長く、小花模様の着物を着ている
・女のいる場所は「湖」「川」「海辺」とウエットな場所。
●男は「俺」「俺」を連発。
●男は相手に対し「お前」を連発。
●男は「男」に酔いしれている。「男一匹」「男の意地」  
 「男人生」

寿岳先生のまとめ。「たかが演歌、されど演歌。『女は
無口がいい』と八代亜紀が舟歌で歌う時、音楽的には
なかなか素敵だが、何たる歌詞。しゃべる時にはしゃべらねば
ならぬ。怒りを言葉にしなければならぬ。それが何で
無口がいいのか? では男は?
演歌を愛するのは自由である。しかしそのような言葉を
口ずさむとき、違和感を感ぜぬ人に、たとえば差別撤廃の
闘いができるであろうか?むしろ反差別の歌を歌って
欲しいものだ。」

午後3時過ぎ、第13回目のクリスマス会を寄贈してくれる
内田さんがフエに着き、ベトナム事務所へ。
こどもたちへベトナム事務所などへのお土産をたくさん
持って来てくれる。

午後3時、ベトナム事務所へ。大塚さんの知り合いの方が
昨日からフエへ。オアシスの会の活動など視察。
午後5時過ぎにフエ空港へ。
その前にわざわざ日本料理店支援のために日本料理店を
注文してくれる。午後4時頃から1時間ほど、JASS活動などを
説明。京都市・長岡京市から来られた方々。
来年2月に京都へ行くことなどを話す。

午後5時、「子どもの家」を辞めた19歳のこどもが
ベトナム事務所を訪ねてくる。仕事がないとのこ。
1年半前に「子どもの家」を出て行ってからの生活などを
詳しく聞く。

午後7時、内田さんと税田さんで近くのレストランで夕食。
午後10時半まで。痛飲。

「ハイリーホテル」へ戻り、直ぐにベッドへ。今夜は
ベトナム製のかけぶとんを使わず。1枚の掛け布団で
我慢する。

投稿者 koyama : 10:45 | コメント (0)

2008年12月21日

隣家「50日」法事出席

兄「小山一義」63回忌。
既に兄の死を知っている人、兄を覚えている人は
絶無に近い。兄がこの世に5年間だが存在したことを
証明するために写真を掲載したい。
63年前、政府と軍部の無謀な戦争に巻き込まれ、
たった5年の命で人生を終えた人間がいたことを記録したい。
火炎樹日記を読んで頂いた何人かの方々だけでも63年前に
こんなこどもが中国で生まれ、5歳で死んで行ったことを
知っていただければ、兄「小山一義」の追善供養になるとことと
思う。今、私のできる兄への追善はこうして世間に知って頂く
ことと、戦争はどんな理由があっても絶対反対であることを
いつでもどこで、誰にでも表明することである。



========================

終日晴天。久しぶりに太陽を見る。

午前7時半、外食。

午前11時半、隣家へ。昨日の手紙が結婚式だと
思っていたが、行って見たら今年亡くなったお祖父さん
の「50日法事」だった。ベトナムではこの種の法事に近隣の
人を呼ぶようだ。

亡くなったお祖父さん(85歳)の慰霊に線香を捧げる。

お祖母さんが接客をする。白い鉢巻がベトナムの葬礼の
しるし。

そのまま帰ろうとすると長男がとにかく玄関の椅子に座ってくれと
言う。しかたがないので椅子に座る。お茶とみかんが出る。
親戚や長男、亡くなった父親の友人などが座る。
長男は先日、ベトナム事務所にやってきて「自分は英語が出来る。
ベトナム事務所で採用して欲しい」と言って来た人。

親戚や友人を私を紹介する。「それでは私は失礼します」と
立ちかけると長男は「だめだめ、しばらくは座っていてください」
とのこと。結局、1時間ほど、付き合う。
1時間いたのでもういいだろうと思い、「それでは失礼」というと、
とんでもない、これから家族・親類で食事をするので貴方は
参加しなけれいけない、といわれる。私としては、既に午後12時半
を過ぎている。早く「ハイリーホテル」に戻り昼寝をしたいのだが。
「気の弱い」私は断りきれず、家族・親戚の食膳に行く。

最悪の事態が招来。ビールが出た。皆さんは氷を入れて飲んでいる。
私は氷を断る。99%ベトナムの氷ビールには自信があるが、
万一、下痢などしたらベトナム事務所の皆さんに迷惑をかける。
「断固」(正直に言えば、已む無く)として、氷を拒否。
生暖かいビールを飲む。グラス1杯で帰ろうとしたら、長男さんが
「私は英語が出来る。通訳する」と言い出す。「きたきた」と
不安な予感が頭をよぎる。フエ在中16年。この種の「英語が
出来る人」で本当に出来た人に会ったことがない。
予想的中。親戚の人がベトナム語で「貴方は何をしているんか?」
と質問をしてくる。私はそのベトナム語が100%理解できる。
しかし長男さんの自信満々の英語を無視することも出来ず、
不思議な会話が延々1時間半続く。私が英語で答えを言う。
長男さんがベトナム語で親戚・家族に伝える。また、他の
人がベトナム語で「何年フエにいるのか?」と聞く。
すると長男さんが英語で通訳するのだが、その英語が
分からない。私は家族のベトナム語の質問が分かるので
英語で答える。家族・親戚が次から次えと質問してくる。
40分ほどたったので「それでは私は失礼します」と立ち上がると
長男さんは「だめ、だめ、帰ってはだめ」という。また、気の弱い
私は帰れずに席に着く。引き続き長男の友人のフエ科学大の
化学の先生が質問をする。「私は日本へ1週間行った」という。
長男英語の通訳。私には英語が通じないが、「日本のどこへ」と
英語で返事をする。教授先生は「川崎」という。
更に40分ほどの会話攻撃。1時半近くになり、再度「それでは
失礼」と立ち上がるとやっと解放される。長男さんは、絵心がある
ようで、自分で書いた絵の入った2009年のカレンダーを
記念にくれる。感謝。午後1時半、「ハイリーホテル」に戻る。
ベトナム社会は真っ当な社会だ。こうしたしっかりとした人間関係
が残っている。私がこどもの頃の東京の地域社会と全く同じ
人間関係が残っている。長男さんに感謝。
結局、隣家では暖かいビールを3杯ほど飲み、食事はしなかった。

「ハイリーホテル」へ帰り、洗濯。
部屋の掃除。

昼寝の時間逃す。読書「ひとりで暮らすということ」(寿岳章子著)
多少、違和感を感じながら、大半は同感しながら読む。
「一人で暮らす」と表題はなっているが内容は言語学者としての
寿岳章子さんの文明論、日本社会批評論。

午後3時半過ぎ、夕食の「ほか弁」を買いに行こうと
電動バイクに乗る。動かない。良く見るとパンク。
歩いてベトナム事務所付近まで行く気にもなれない。
「ハイリーホテル」の玄関を見ると松田千草先生が
乗っていた自転車があった。カギをみるとかかっていない。
松田先生の乗っていた自転車を拝借し、ほか弁屋に行く。
15000ドン(80円)のほか弁を買う。

投稿者 koyama : 17:50 | コメント (0)

2008年12月20日

ベトナム事務所員会議

終日雨・曇り。

午前5時起床。読書「同日・同刻」(山田風太郎著)

午前7時朝食。キャッサバ麺。


午前8時半、ベトナム事務所員会議。

静岡の巣山先生からベトナム事務所員に年末と正月の
料理、お菓子、湯たんぽなどを送ってきてくれる。
感謝。

バオミン・JASSベトナム運営委員長の司会で始まる。

(ソン)帯広のYさんと行動。昨日午前10時、Yさんの知り合いの
   方が「子どもの家」のこどもたちの食堂に大型のテレビを
   1台寄贈してくれた。Yさんと一緒にテレビを買いに行った。
(石上)月 フエ高等師範大学2年生の授業、会話。
     日本語会話能力にかなりの差がある。何とかしたい。
     水に特別クラスを設定し、日本語能力の高い生徒を
     教えたい。
     1年生、大体理解できている。

(ゴック)火、木 静岡会館観光基礎コース


(中島)月 火 水 金 観光基礎コース
     フエ高等師範大学1回
(ハン)奨学金の名簿、里子への手紙の翻訳。
    全教千葉スタディーツアーの手配・・・
(フーン)月 水 木 金 観光基礎コース(2級めざす)
(税田)11月9日~1ヶ月日本へ帰国した。
     12月8日からフエに戻る仕事に復帰した。
     退所したり自立したこどもたちの状況を里親へ説明

(クアン)里親・奨学金お礼状などの翻訳
     スタディーツアーの日程翻訳
(ミン)クリスマス会準備の打ち合わせ
    静岡大学留学生の候補者が決まる。
    バンベー34号の打ち合わせ。各分担をお願いする。

午前9時半、静岡大留学希望の生徒の親が相談に来る。

午前11時半、昼食。

午後12時半から30分ほど昼寝。外は雨。

午後1時過ぎから読書。
「同日 同刻」(山田風太郎著:ちくま文庫)読了。
なかなか興味のある本であった。
医学生だった山田風太郎は戦争という事実を客観的に
淡々と記している。日本だけでなく、アメリカ、アジア、
ドイツ、ソ連、満州、朝鮮。1941年12月8日と
1945年8月1日から15日まで世界中の同日、同刻に
人間が何をし、どんなことが起こり、何を考えていたのか?
を各種資料を丹念に読み込んで書いている。

1941年12月8日の日米開戦当日の国民、文化人など
多くの人々が感激・感動している。それらの人々が
4年後には戦争は初めから反対だったなどと述べいている
所に日本人の本性が見える。
フィリピン派遣軍宣伝班員作家 尾崎士郎。
「午後の空は曇っているが、想い起こすと八幡船のその昔。
海の上まるで街のようだ。これぞ世紀の大進軍だというべし。
生死すべてに心魂を絶てり。雲の中から煙が見える。
00余艘の船団が、さしてゆくのはフィリピン。」

作家 伊藤整。
「私は急激な感動の中で、妙に静かに、ああこれでいい、
これで大丈夫だ、もう決まったのだ、と安堵の念の
湧くのをも覚えた。この開始された英米相手の戦争に
予想のような重っ苦しさはちっとも感じられなかった。
方向をはっきりと与えられた喜びと、弾むような身の
軽さとがあって不思議であった」。

57歳の作家 武者小路実篤。
「真剣になれるのはいい気持ちだ。僕は英米と戦争が
始まったのになんとなく昂然とした気持ちで往来を
歩いた。来るものなら来いという気持ちだ。自分の
実力を示して見せる気持ちだ」。

人民戦線事件に関係し治安維持法違反で検挙され
翌年出獄している文芸評論家 青野季吉。
「・・・一死報国の時が来た。飽くまで落ち着いて、
この時を生き抜かん。午後3時半の臨時ニュースに
おいて英米軍に対する一戦布告の御詔勅を拝す。
無限の感動に打たれるのみ」。

細川護貞侯爵の日記。
「開戦の日、私は華族会館に近衛文麿さんを
訪ねた。周囲の人々は真珠湾の勝利にざわめいていたが、
彼(近衛)は、浮かぬ顔をしていた。『えらいことになった。
僕は悲惨な敗北を予感する。こんな有様はせいぜい
2、3ヶ月だろう』と沈鬱な声で言った」。

1941年12月8日、午後12時。真珠湾の特殊潜航艇から
逃れた酒巻和男少尉は「私はりっぱな軍人でなくてもいい、
人間の道を選ぼう」という生命の叫び声に憑かれて
、オアフ島へ一人泳いでいった。「日本人捕虜第1号」
となった。

1945年8月9日、長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦した。
同日、ベトナムのダラット高原では、インドネシアの
スカルノ、ラーマン、ハッタ、スハルトなどが参加し日本政府主催の
インドネシア独立祝賀会が行われていた。
寺内元帥が「インドネシアの独立を9月7日と決める」と
宣言している。これに対し、スカルノは「日本政府の独立
容認に感謝し、寺内元帥の陛下に対する忠誠心を讃えた。」

1945年8月15日 天皇放送。
上海でこれを聞いた作家 堀田善衛。
「戦争中協力してくれた中国人の運命について、天皇が
何をいうか、何と挨拶をするか、ひたすら注意して聞いていた。
・・・ただ『遺憾の意を表せざるを得ず』という嫌味な二重否定
をしたきりで、ほかに触れなかったその薄情さ加減、エゴイズム
が体に応えた。放送が終わると私は、あらわに、なんと言う奴だ。
何と言う挨拶だ。お前の言うことは、それっきりか、それで
事がすむと思っているのか、という怒りとも悲しみともなんとも
つかぬものに、身がふるえた」。

8月15日上海。飛行機で撒かれた蒋介石のビラ。
「全国の軍民同胞諸君。われわれの正義が権力に
打ち勝つという真理はついに事実によって証明された。
わが中国が暗黒と絶望にとざされ、8年間奮闘した
その信念は今日はじめて実現した。・・・・・・
われわれ中国人は、旧悪を問わず、人に善をなすということが、
わが民族の伝統的な徳性であり、今まで一貫して日本軍閥
は敵とするが日本人民は決して敵と認められないと述べて
来たことを思い出さなければならない。・・・・・・
もし暴に報いるに暴をもってし、これまでの敵の誤った
優越感に応えるに、辱しめをもってするならば、
恨みは報い合って永遠にとどまるところがない。」。

人間は歴史を経なければその評価は難しい。

読書「ひとりで暮らすということ」(寿岳章子著:海竜社)
1995年発行。古本屋で100円。定価1500円。
英文学者 寿岳文章の娘。エッセー集。

午後4時過ぎ、ハイ君が私の部屋をノックする。
手紙を持ってくる。中を開ける。結婚式の招待状。
チャン・スアン・ソンさんから。
知らない名前。しかも私が「ハイリーホテル」に
いることを知っている人はそれほどいない。
バオミンさんに電話。バオミンさんも思い当たらない
とのこと。しかし、JASS代表私を明記し、
「ハイリーホテル」までわざわざ結婚式の招待状を
持ってくるのだから、私にかなり近い人に決まっている
と思い、色々な人を思い出すが、どうしても思い当たらない。
明日12月21日(日)午前11時からビーザーで結婚披露宴
を行うとの事。
ハイ君の所に行く。「手紙は誰が持ってきたの?」聞く。
「隣の人」とのこと。お隣さんの息子さんのソンさんが
結婚披露宴を自宅(つまり隣で)明日行うということだった。
隣近所になるのも何かの縁。わざわざ知らない外国人に
招待状を持って来てくれたのだから、出席しないのも
申し訳ないと思い、バオミンさんと相談し、私一人で
参加するこにする。

明日は、夜遅くまで結婚式の例の大音響『カラオケ大会』で
騒然とすることだろう。

午後8時、宇都宮縫製工業組合の佐藤さんと知り合いの
Kさん、「縫製研修センター」のKさんが日本料理店へ。
懇談する。午後9時半、懇談終了。

「ハイリーホテル」へ帰る。静岡の巣山先生から
送って頂いた「湯たんぽ」を使う。ホーローで出来ている
ので熱湯を注ぐことが出来る。私はフエに来てすっかり
寒さに弱くなってしまった。巣山湯たんぽで熟睡したい。

この半月ほどアレルギーなのか詳細は不明だが、腹痛、
吐き気があり、体中が痒くなっている。時々、唇が腫れたり
と。目がかゆくなり、鼻水が出る。スギ花粉症と類似の
症状。原因不明だが、掛け布団に原因ありと見た。
今日、掛け布団を取り替える。ある種のカビのアレルギー
かも知れない。困ったものだ。

洗濯。


先日、イラクを突然訪問したブッシュ大統領にイラクの記者が
靴を投げつけた。二つ目を投げる時『夫を亡くした妻、孤児、
イラクで殺された者からだ』と言って投げつけたそうだ。
西欧近代文明の基礎は「理性」だと思っていたがそうでもなかった。
既に近代西欧文明は理性が麻痺している。
イラクの記者がブッシュ大統領に靴を投げつけたことが下品か
どうかの論議はあるが、それ以上にこの米国のブッシュ大統領
が靴を投げつかられた程度で引退して良いのかという論議を
すべきである。ブッシュ大統領は、イラク侵略の際、フセイン
大統領が大量破壊兵器を持っている、アルカイダを支援していると
の理由でイラクへの侵略を合理化した。しかし、その後アメリカ
政府の調査団の正式な調査で二つの侵略の理由はあたって
いないとの調査報告が出た。ブッシュ大統領は大量破壊兵器
とアルカイダという意味では「無実」のフセイン大統領を
事実上「人道に対する罪」で死刑にした。
アジア太平洋戦争の「極東軍事裁判」では「平和に対する罪」
(国際法で、不法に戦争を起こす行為)で
絞首刑 7人
終身刑 16人
有期禁固刑 2人
判決前に病死 2人
訴追免除 1人

の判決が出ている。

イラク戦争を指導したブッシュ大統領は人道に対する罪でも
平和に対する罪でも起訴され処罰されるべき立場にある。
同時に世界で最初にブッシュ大統領のイラク侵略を
支持した小泉元首相の戦争支持責任も断罪されなければ
ならない。ブッシュ大統領も小泉元首相も未だに何ら
訴追も罪も裁かれていないことは、理不尽なことである。
フセイン元大統領がどんなにイラクで専制君主だったとしても
実質上ブッシュ大統領や小泉元首相が「死刑にする」権利はない。
イラク国民が決めることである。そうした意味では、靴を
投げつけた記者の言葉『夫を亡くした妻、孤児、イラクで
殺された者からだ』との言葉の重みを今一度考える
必要がある。権力をもっている人間は人殺しをしても
良いのかが問われているのだ。こうした問題を不問に
して人権を語ることは出来ない。

投稿者 koyama : 17:49 | コメント (0)

2008年12月19日

ボランティア貯金回答書作成

午前中、少し太陽が出る。午後雨、夜雨。

午前7時朝食。ブンボー。

午前中、ボランティア貯金への回答書作成。

1週間前に石鹸水に漬けておいたスニーカーを洗い
屋上に干す。

メール拝受。送信。

午前11時半、昼食。


12時半から1時間昼寝。

午後2時から読書「同日同時刻」(山田風太郎著)
広島ウラン原爆の愛称「リトルボーイ」」、
長崎プルトニューム原爆愛称「ファットボーイ」(おデブちゃん)
1945年8月9日の戦争最高会議。海軍米内「ポツダム宣言受諾」
陸軍阿南「徹底抗戦。最後の一人まで死んでも闘う」と主張。
意見まとまらず。最終的に天皇の裁断を仰ぐ「戦争終結」。
あるところへの問題是正のためのメールの草案を書く。

午後5時半、雨の中日本料理店へ。夕食。


午後6時、帯広のYさん来店。


時事通信社の世論調査によると、麻生内閣の支持率は16.7%
と前月から22.1ポイントも激減した。
不支持は前月比28.2ポイント増の64.7%に上昇した。
「首相にふさわしい政治家」では麻生太郎首相を挙げた人は23.9%、
34.8%が小沢一郎民主党代表を選んだとのこと。麻生政権末期
症状。何も出来ない内閣。支持率16%では「死に体」ではなく
埋葬・火葬体になってしまった。

投稿者 koyama : 23:13 | コメント (0)

2008年12月18日

訪問者対応

曇り・時々雨。

午前7時朝食。

昨日から今朝までのメール受信を確認。必要な送信。

午前8時半、ベトナム事務所へ。
日本語学校関連の話を関係者と行う。必要な具体的な
つめを行う。

その後、バオミンさん・税田さんとボランティア貯金関連の
再質問についての解答を話し合う。

午前11時半、「ハイリーホテル」へ。昼食。


午後12時半から1時間ほど読書「同日同刻」(山田風太郎著)
1941年12月8日(米国7日)の日本とアメリカでの諸行動を
時系列で記述。
日本からアメリカへの宣戦布告は真珠湾攻撃の1時間後だった
ことは事実である。同時に日本政府から在米大使への
宣戦布告書は日本大使館の書記官が全て翻訳する前に
既にアメリカに傍受されその全容はアメリカに察知されて
いた。
真珠湾攻撃の最初の攻撃はアメリカだったことが分かる。
真珠湾の入り口で日本の特殊潜行艇への機雷爆撃が
真珠湾攻撃の第一撃だった。
日本からアメリカ真珠湾への奇襲攻撃作戦は日本の主導
だったことは事実であるが、攻撃の第一撃はアメリカだった
とのこと。

同様に同日同時刻、日本のマレー侵攻が行われた。
これも日本の奇襲攻撃だった。
しかし、太平洋戦争での初弾はイギリス軍からの砲撃だった。
日本軍の奇襲を知ったイギリス軍が放火を浴びせたことが
太平戦争の初弾だった。

午後1時半から昼寝。30分ほどの昼寝の最中、ベトナム事務所
から電話。来客ありとのこと。急いでベトナム事務所へ。
途中、オートバイ同士の大きな交通事故。

山口県からの訪問者の方と2時間半ほど話し合う。


日本料理店のこどもたちは。大塚さんから「編み物」を習っている。


午後5時半、日本料理店で夕食。チャオバインカイン。
(小麦粉のうどん)


午後6時半頃、帯広のYさん来店。しばらく懇談。


投稿者 koyama : 22:55 | コメント (0)

2008年12月17日

各種申請書・書類作成

終日雨。

気温20度前後。湿度90%。寒い。

午前7時朝食。「精進ブン麺」と野菜。

午前中、6種類の申請書類作成。
途中で停電。インターネットがつながらなくなる。仕方がないので
雨の中、長靴を履き、傘をさして川沿いの散策道を散歩。40分。
ゴム長で歩くと道がすべる。雨の川も趣がある。

「ハイリーホテル」へ戻り、メールの受信・返信を行う。

バオミンさんと数回電話で打ち合わせ。税田さんと電話で
打ち合わせ。

昼食。

午後12時過ぎから1時間昼寝。熟睡。気候のためか
疲れる。吐き気減少。食事をすると胃の辺りに違和感あり。

読書「とはずがたり」読了。
「とはずがたり」という題名からして面白い。聞かれないが、
自分でしゃべっちゃう、と言った所。

今回、土佐日記、蜻蛉日記、「とはずがたり」の3つの日記文学を
原文で読んでみた。古文は主語などかなりの言葉が「省略」
されている。古文を読みなれていくうちにそうした『要領』を
会得していく。徐々に省略されたものが何かが、敬語の
使い方で院であったり、目上の人であったりと分かってくる。

日記風では、土佐日記は日ごとに記述しているので、分かり
安い。土佐日記はかなり日誌風な要素があり、記録としての
日記の尻尾を色濃く残している。

蜻蛉日記は現代の恋愛小説に出てくる女性の「言い分」を
書いているようでもあり、現代風な気持ちで読めた。恋愛小説。

「とはずがたり」は、自叙伝のように感じた。後深草院の寵愛を
受けた二条が、正妻からの嫌がらせ、追放に会い、鎌倉から
関東、関西地方と旅をする。最後に後深草院と再会。その後の
死去の葬列にも着いてゆく。一人の女性の4歳から47歳
までの長い人生の紆余曲折を描いている自叙伝と見た。

読書「同日同刻」(山田風太郎著:ちくま文庫)
面白い形式の本である。たった16日間の記録。
1941年12月8日「日米開戦」の日、1日の世界を追う。
同時に1945年8月1日から15日の敗戦までの15日間、
世界はどう行動したかを追う。開戦時と敗戦時の世界を
俯瞰(ふかん)した面白い発想の本。1979年8月発行。

午後5時半、日本料理店へ。こどもたちと夕食。

9人来客あり。日本人1人。

投稿者 koyama : 17:54 | コメント (0)

2008年12月16日

ベトナム事務所で各種打ち合わせ

終日雨・曇り。

午前5時半起床。読書「とはずがたり」。
午前7時朝食。赤米のおかゆ。

午前8時過ぎベトナム事務所へ。
今年の5月頃、突然日本料理店を辞めていったHさんが
父親と一緒にベトナム事務所へやって来た。
Hさんは、他の日本料理店(もどき)の関係者に
「唆(そそのか)され」
高い給料を上げるとの虚偽の甘い言葉にだまされ、
私たちの日本料理店に「啖呵(たんか)」を切って辞めて
行った。しかし、私たちの日本料理店からのHさんの
退職を教唆煽動(きょうさせんどう)した某氏は、冷たくも
Hさんを採用しなかった。私たちの日本料理店を潰すことだけが
目的だったことがはっきりする。
Hさん(23歳)は、父親に「小山さんたちに日本料理店を
辞めさせられた」と話す。
数ヶ月前に父親がベトナム事務所に抗議に来た事が
ある。「何故、私の娘を一方的に辞めさせたのか?」と。
私たちは、Hさんの「退職届」、自宅の屋根を直すために
貸して欲しいといわれ数百ドルを貸したが、その「借用書」を
見せた。Hさんは高額の給与をチラツかせてせての某氏の
退職教唆煽動で辞めた際、貸してあった『屋根の修理費』
数百ドルは月末に返すと豪語していた。某氏の日本料理店に
「高額」で採用されることになっていたからである。
しかし、採用されず、その後、借金も返すことが出来なくなって
しまった。今日まで数百ドルの屋根修理の借金は返さずじまい。
そんな経過を辿っていたが、今日、数ヶ月ぶりにベトナム事務所に
やってくる。ベトナム事務所訪問の趣旨は、日本料理店で
再度採用して欲しい、働かせて欲しいということだった。
高額の給与を種に他店に行くことになっていたが、引き抜いた
某氏の経営が悪化、採用できなくなる。その後、いくつかの
仕事をしていたようだが、給与が低いこと、安定していないこと
などで生活が出来なくなってきた。父親は病気で無職。
親豚を私たちが買ってやったのだが、最近生まれた17匹の
子豚が全部死んでしまい収入ゼロ。弟無職。妹高2(私たちが
在宅支援している)。
現在家計を支えているのは、Hさんのみ。刺繍の店から
刺繍の仕事をもらい家でやっているが、1ヶ月30万ドンから
50万ドン。2000円から3500円程度の収入しかないとのこと。
私は、Hさんなど2人が一方的にJASS日本料理店を非難して
退職した後、残った5人のこどもたちで頑張って仕事を続け、
今では十分、こどもたちだけで日本料理店を運営して
いることを告げる。自分の都合の良い時は勝手に我が
日本料理店を攻撃し出て行き、都合が悪くなったら助けて
くださいという人生への姿勢は間違っていると思っている。
Hさんと弟・妹は15年前にチーラン通りという所に「子どもの家」
を作った時、「子どもの家」に入所させてからの付き合いで
ある。父親・本人の話を十分聞いて、「しばらく時間が欲しい」と
話す。あまり世間を知らない20歳ちょっとの子供に「甘いことば」
をささやき、我が日本料理店から引き抜き、我が日本料理店に
打撃を与えることだけを狙った卑劣な策動を行った某氏こそ一番に
裁かれなければならない。同時に22歳になった人間は
しっかりとした判断する能力を持つ必要がある。なかなか複雑な
問題である。バオミンさん・税田さん・大塚さんなどと協議する
こととした。


愛知万博で始まった「ストリートチルドレン芸術祭」。
2009年のカレンダーが出来た。実行委員会から
送って来てくれた。「子どもの家」からは5枚の
絵を送ったが、3枚が採用されていた。
12ヶ月の3枚なので、25%の採用率。
ストリートチルドレン芸術祭の皆さんに感謝。

●2009年ストリートチルドレン芸術祭カレンダー表紙

●2月は「子どもの家」のアン君(12歳)の「平等」が掲載。
 この絵を選んでくれたのは、東北福祉大学生田目ゼミの皆さん。

 「ハートの中に地球と人が描かれていて、とても印象的です。
 左側の黒い肌の人、右側の白い肌の人、それぞれにたくさんの
 手が差し伸べられています。そして、中央の地球には、幸せ
 そうな男の子と女の子でしょうか。それぞれの違いを超えて
 「共に歩んでいこう」という希望と強い意志が感じられた。
 との東北福祉大生田目ゼミの評が書かれていた。

この絵を描いたアン君。

●8月には、フオンさんの「平和」が掲載。
 

この絵を選んでくれたのは「アテネオリンピック アーチェリー
銀メダリスト・日本体育大学女子短大准教授 山本博氏
山本氏の評「平和な世界になりますように、そんな声が
聞こえてきます。平和の象徴である白いハトに子供たちの
願いがこめられて全世界に幸せが運ばれていくような気持ち
にさせてくれる素晴らしい作品です。」。

●「平和」を書いたグエン・ティー・ビック・フオンさん(14歳)


10月は日本料理店に「子どもの家」から通っているチャンさん(18歳)
「森を守ろう」

この絵を選んでくれたのは、医師であり作家である「鎌田實」さん。
鎌田さんの評「かって行われたベトナム戦争で枯葉剤がたくさん
撒かれました。人の命もたくさん奪われました。早く森が再生
することを祈っています。森が生き返ったら二度と枯葉剤が
撒かれないように森を守りましょう」。

午前11時半までバオミンさん・税田さん・ハンさんと
ボランティア貯金関連の話し合いを行う。

午前11時45分、「ハイリーホテル」にて昼食。

午後12時半から30分昼寝。

午後1時半読書「とはずがたり」

午後3時からビザ関係の書類作成。
メールの受信・送信。

東京の次男から電話。家族の近況などを聞く。
今日は孫が発熱し病院に連れて行ったとのこと。

午後5時半、小雨の中日本料理店へ。

途中で帯広のYさんが日本料理店へ。しばらく懇談。

今日は日本料理店への来客9人。8人は日本人。
ベトナム人1人。

投稿者 koyama : 18:48 | コメント (0)

2008年12月15日

終日雨。帯広のYさんフエ訪問

終日雨。

午前6時半の気温20度。湿度95%。(「ハイリーホテル」5階)

シャワーを浴びる。体重を量る。数キロ落ちている。
腹痛・吐き気、薄らぐ。平常の体調に回復しつつある。
一安心。

午前7時朝食。精進ブン麺(チャーカーブン)と野菜。

日本語の松田先生が帰国したため今日から朝食は
4人となった。さすがに寂しい。

午前中、ボランティア貯金への対応。外は雨。
メールの送受信。

午前11時半、昼食。ご飯、サラダ、厚揚げの甘辛煮、
野菜スープ。

午後12時半から1時間ほど昼寝。

午後2時読書「とはずがたり」。14歳で伏見天皇の
父である後深草院の寵愛を受けた後深草二条であるが、
西園寺実兼とも関係を持ってしまい、女児を出産する。
更に寵愛を受けている後深草院の弟にあたる性助法親王
とも関係を持ってしまい、禁断の男性関係に悩む。
古文ではあっても相当「危ない記述」の箇所もある。
後深草院の父である後嵯峨院の子供である「がい子内親王)
と関係を持とうとする。その仲介を寵愛している後深草二条に
頼む。本書の著者である後深草院二条は、院も内親王も
「偉い人」なので仲介を断れず、内親王の部屋へ後深草院を
案内する。兄妹の関係となる間柄である。
後深草二条は、内親王がそうやすやすと関係を持つとは
思っていなかったが、二人が同衾する隣で添い寝をし、
寝たふりをしながら様子を伺うと、内親王はいとも簡単に
関係をもってしまったと嘆いている。内親王は「先の斎宮」
である。斎宮とは天皇の代わりに伊勢神宮に奉仕した未婚の
内親王のこと。
「・・・眠たしや。更けはべりぬ。」と言ひて、空眠りして居たれば、
御き帳の内も遠からぬに、いたく御心も尽くさず、はや打ち解け
たまひにけりとおぼゆるぞ、余りに念なかりし。心強くて明かし
たまわば、いかにおもしろからむとおぼえしに・・・」
南北朝の原因ともなる『後深草院」と弟の「亀山院」との
争いを見る。

ボランティア貯金関連の調査。バオミンさんと電話で打ち合わせ。

午後4時過ぎ、雨の中30分ほど散策。

午後6時半、日本料理店へ。
午後8時、Yさんをホーチミン市まで出迎えに行った
大塚さん、税田さん、Yさんが日本料理店へ。
一緒に夕食を摂る。Yさんは、1997年のテレビ東京「ドキュメン
タリー人間劇場」を見て、支援を始めてくれた方である。
障害のある里子を10数年支援し、更に「暖炉寄金」として
5人の障害児を大学まで行かせるプロジェクトも行っている。
今回は、里子と暖炉寄金の障害児の様子の視察。

ホーチミン市で大塚さんが日本料理店用に「生のまぐろ」
1本を買ってくる。早速、刺身にする。


こどもたちの支援のことなど遅くまで話し合う。

投稿者 koyama : 18:35 | コメント (0)

2008年12月14日

兄の63回忌。洗濯・部屋の整理・休養

終日雨。

今日は、兄「小山一義」の63回忌。既に兄がこの世にいたことを
知っている人は数人となってしまった。
昭和20年(1945年)中国からの引き上げの途中で肺炎で
死亡。生きていたら68歳。私は理屈ぬきにいかなる戦争にも
絶対反対する。ベトナムで改めて「反戦・平和」を誓う。
一人の人間が理不尽に死んでいったことは絶対に許せないこと
であり、戦争反対は生きている人間の最低の勤めである。
色々と理屈をつけて戦争を賛美する人間もいるが、賛美する
人間は、まず自分が戦争の最前線に行き、死ねばいいのだ。
自分だけは安泰なところにいて偉そうなことを言っている
人間は信用しない。兄はたった5歳で栄養失調で死んでいった。
何も分からないまま。生きている弟の私の勤めは二度と
戦争をしないこと、世界中から戦争をなくすことである。


今日は忠臣蔵討ち入りの日。
私の読書の開眼は、古本屋の1冊50円位の講談本だった。
板橋本町岩の坂商店街に古本屋があり、忠臣蔵、義士銘々伝、
義士外伝などたくさんの戦前の講談速記本があった。
小学校5年。私は毎日母親から50円もらい、1冊買って読んでいた。
この古本屋にある講談速記本の忠臣蔵関係の本は全て
読んだ。講談速記本は、全て漢字にルビがふってある。
結構、漢字を読む勉強になった。難しい漢字も小学校時代に
だいぶ覚えてしまった。忠臣蔵から猿飛佐助、石見重太郎、
真田十勇士と読書の領域が広がった。全て、娯楽の本である。
読んで楽しかった。小学校時代の思い出である。
毎年12月14日になると芝泉岳寺の47士を思い出す。
本が好きになったきっかけは忠臣蔵である。小学校5年生。

午前8時の気温20度、湿度90%。

午前7時半起床。

洗濯。

部屋の掃除。

午前9時、朝食用の卵を買いに雨の中、外へ出る。
近くのお店まで行ったが、お金を持っていくのを
忘れる。帰宅。

腹痛と吐き気あり。
午前9時半。昨日買ったベトナム米1合で「全かゆ」を作る。
外は雨、曇り。
午前11時。おかゆを塩で食べる。

午前中読書「蜻蛉日記」を読み終わる。1030年ほど前に
書かれた。
藤堂志津子の恋愛小説を読んでいるような錯覚を
覚える。必ずしも望んだ結婚ではないが、結婚し
男児を生む。通い婚の時代である。夫は直ぐに
女性遍歴をはじめ、家に来ない。じりじりと悩み
苦しみ、最後は、「達観」の境地に達する。
それでも時々やってくる夫(最後は摂政・関白・太政大臣)
が来ると、うれしくもあり、冷ややかな斜に構えた気持ちにも
なる。現代の「女心」(私は詳しくはないが・・・)と相通ずるもの
を感ずる。夫藤原兼家の「言い訳」も現代の男性の言い訳に
ほぼ通じる。1000年たっても男女関係の機微な本質は
変わっていないかに思われる。

午後2時間ほど昼寝。

洗濯物を畳みしまう。

午後読書「とはずがたり」(後深草院二条著)
著者は14歳で後深草院の寵愛を受け、49歳までの
出来事を綴っている。700年ほど前(鎌倉時代)
の宮廷、その後出家し各地を廻る女性の半生。
「とはずがたり」は昭和13年(1938年)
宮内庁の図書寮に眠っていた作品を発見し世間に紹介した。

午後4時、夕食の「ほか弁」(2万ドン:110円)を買いに行く。
午後から雨は止んだが曇り。いつ雨が降っても良い天候。

日本の支援者から電話あり。


午後6時、ほか弁を夕食に食べる。ベトナム「バックダイ茶」を飲む。

帰国した松田先生からメール。無事、沖縄の実家へたどり着いた
とのこと。ひと安心。随分と長旅だったことと思う。ご苦労様。

午前2時に目が覚める。外は雨。

投稿者 koyama : 11:38 | コメント (0)

2008年12月13日

松田先生帰国

晴天  終日太陽が出ていた。

午前6時起床。

午前7時、朝食。「ベトナム風お赤飯」。

胃腸の調子が悪く半分ほどで残してしまう。

今日はいよいよ日本語教師の松田先生が沖縄に帰国する。

午前7時半、大塚さんと税田さんがホーチミン市へ帯広のYさんの
出迎え。

「ハイリーホテル」の玄関で最後の「ハイリーホテル」住人の記念写真

午前9時半、ベトナム事務所員全員がベトナム事務所へ
集合。松田先生をフエ駅まで見送りに行く。

フエ駅には日本語学校の学生が見送りに来ていた。

見送りに来た生徒からお別れのプレゼント贈呈

入場まで30分ほど時間があったのでフエ駅の喫茶店で
珈琲を飲みながら思い出話に花を咲かせる。

●いよいよホームへ入場。検札。

●ホーチミン市まで(20時間弱)の列車を待つ。到着時間は
 常に不明。

●更にぞくぞくと教え子の生徒がフエ駅のホームに
  駆けつける。

●教え子からのプレゼント

●いよいよ列車が来るとの放送あり。生徒たちと。

●日本流に言えば相当の「ポンコツ列車」が到着。
 松田先生は一等車に乗る。コンパーメント(ベッド)。

●乗車

●列車が出発

松田先生を見送り、ベトナム事務所へ。1年間一緒に仕事を
した仲間がいなくなりということは、やはり寂しいものである。
松田先生の無事帰国を心より祈る。

ボランティア貯金から連絡あり。中間報告に関する資料の
不足分の請求。バオミンさんと協議。急いで必要な資料を
準備。日本のボランティア貯金本部へFAXで資料を送る。
私の方からボランティア貯金担当者へ電話をして資料不足
の件をお詫びする。

昼食。

午後12時過ぎから昼寝。体がだるい。

午後2時過ぎ読書。「土佐日記」読了。
この本は、現代語訳があり、その後「古文」となる。
古文の単語の説明や文法、係り言葉ばどの説明は
一切ない。これが良い。文法などの屁理屈をごちゃ
ごちゃ言われると読書の醍醐味がなくなる。
現代語訳を読んでおけば、古文の単語が少しわからくても
全体の言葉の調子、微妙なニュアンスなどは却って
よく分かる。文章は細切れに理解するのではなく
全体を読んで理解し、味わうものである。

土佐国司の任期を終えて京都へ帰る旅55日間の
日記である。土佐国司だった紀貫之が随行の女性に
なって書いた女手日記。
「序」「人々との別れ」「出立」「御崎を廻って和泉へ」
「和泉から難波へ」「京へ」「帰着」という構成。
1000年ほど前の日記であるが、実に人間的な内容である。
今日の私たちと同じ人間関係がある。それ以上に深い
親密な人間関係があったことが分かる。国司の任期を
終えて京へ帰る紀貫之に毎日大勢の人々がお別れの
挨拶に来て、宴会を行う。出航し途中で停泊するのを
追って更に関係者がお別れを惜しみやってくる。
今日よりも深い深い人間関係が当時あったことが
想像される。随所に歌が出てくる。

京から土佐に赴任する時には子供が
いたのに土佐で子供を亡くした母親(?)の「歌」が痛ましい。

みやこへと 思ふをもののかなしきは かえらぬ人の
あわればなりけり

あるものと忘れつつなほなき人をいづらととふぞ
かなしかりける

京へ帰り我が家へ着く。隣の人に不在中は宜しくと頼み
色々と物を送っていたのに、いざ我が家へ帰ってみたら
何も家の世話はしてくれていなかった。
廃屋のようだったと悲しんでいる。
それでも、隣の人にお礼を言って、お土産をあげよう
というところなど、現代人と同じ近所の人への気の
使いようである。

午後4時。30分ほど、ゆっくりと川淵を散策。

午後5時、お米を買う。おかゆを炊く米がなくなる。
1キロ14000ドン(77円)。

ついでに夕食の「ほか弁」(15000ドン:83円)を買う。


夜、「ハイリーホテル」は静かだ。
周りに5~6軒ほどの「大衆酒場」がある。
既に昼から「呑んべい」が集まり、宴会をしている。
夜も時々「モッ・ハイ・バー・ヤー」という宴会の
一気飲みの掛け声が聞こえる。しかし、静寂な
夜である。

午後8時、「蜻蛉日記」を読む。これも原文(古文)で
読むと味わいがある。わからないところは飛ばして
大筋の感触を楽しむ。
作者は「藤原道綱の母」。道綱は権勢を極めた藤原道長
の異母兄弟。

スニーカーが汚れて来たので石鹸入りの温水に一晩
つけておく。明朝、洗う。

ホーチミン市に行った大塚さんから電話。
ホーチミン市の日本食材店で「マグロ」を3匹買うことが
出来たとのこと。日本料理店での「お寿司」「刺身」などに
使うとのこと。フエで「近海マグロ」が買えるか調査する
予定。

投稿者 koyama : 19:39 | コメント (0)

2008年12月12日

松田先生帰国お別れ会

終日晴天

午前6時起床。

昨夜から下痢と嘔吐状態。原因不明。

午前7時朝食。赤米のおかゆ。私には最適。


久しぶりの太陽。「ハイリーホテル」の屋上からの展望。

今日は体調不良のため夕方まで寝ていることにする。

読書「団塊世代の戦後史」(三浦展著:文春文庫)読了。
通読して不満と異議ありの書。
三浦氏はマーケッテイングの専門家。アンケートを基礎に
傾向・トレンド・要求などを判断する手法である。
三浦氏の分析の正しい点もある。それは、団塊の世代は
半分戦前の封建制を背負い、半分戦後の民主主義を背負っている
という趣旨の分析をしている。この点はその通りだと思う。
同時に三浦氏は、団塊の世代は口先だけの民主主義者で
行動は結局大勢順応型、個人利益追求世代と言っている。
もちろんそうした人間もたくさんいるが、そうではない人間も
いる。結局、「団塊の世代」と一括りにすることは出来ない
ということである。

午前11時半昼食。少し普通の食事をする。

午後5時、王宮付近の南州会館で『松田先生離任お別れ会』を
開催する。

はじめに税田さんの開会の挨拶。

続いて、JASSを代表して私から松田先生に1年間の
日本語教師としてのご苦労に感謝の言葉を言う。

JASSベトナムからの離任記念のプレゼントを贈呈

中島先生からベトナム事務所員の記念の寄せ書きを贈呈

バオミン・JASSベトナム運営委員長の「乾杯の挨拶」。

●乾杯



●歓談


歓談の途中でベトナム事務所員一人一人から松田先生へ
お別れと感謝の言葉を言う。



最後に松田先生からお別れの言葉。
ベトナム事務所員一同、感涙。

人との別れはどんな時でもつらいものである。

午後7時半、送別会終了。

ベトナム事務所員全員で記念写真。

2007年12月19日にフエへ到着し、12月13日にフエを離任する。
丁度1年間の日本語教師生活であった。
琉球大学3年生という学生ではあったが、真面目で力もある
将来有望な若者と見た。今後、琉球大に帰り、しっかりと
勉強をし、自分の進むべき道を自信を持って歩んで欲しい。
平和・人権・民主主義を大事にして。
改めて松田先生の1年間のご苦労に感謝する次第である。

投稿者 koyama : 22:07 | コメント (0)

2008年12月11日

NGAさん誕生会:静大留学希望者面談

午前中曇り。寒い。気温18度。午後、太陽が出る。

午前6時半起床。今朝は珍しく起きられなかった。
ひどい下痢と吐き気。

午前7時朝食。精進料理のブン麺。今日は残す。

午前7時半過ぎ、部屋へ戻りJASS日本委員長の
福田もえ子さんにいくつかのメールを送る。

午前8時半、税田さんから電話。
静岡大学へ留学したいと言う女子高校生と父親・兄・
親戚がベトナム事務所に来ているとのこと。
急いでベトナム事務所へ行く。

1時間ほど、静岡大学や留学、学部、勉強、生活などの
説明をする。

午前10時半、「子どもの家」のNGAさんの誕生日。
里親のK先生から誕生会をして欲しいとの依頼あり。
誕生プレゼントの縫いぐるみを持って「子どもの家」へ。

「子どもの家」では、こどもたちが庭でビー玉をして
遊んでいた。

こどもたちが学校から帰ってきた午前11時、NGAさんの
誕生祝いの会が開かれる。NGAさんは14歳。中学生。
ハノイから来た子供である。NGAは、ロシアという意味。
ソ連社会主義があった頃は多くの北部の人々は
「労働者・農民の祖国ソ連」の名前にあやかりたいと
いうことで「NGA](ロシア)という名前をこどもたちにつけた。

こどもたち全員分の誕生ケーキが用意された。

はじめにセン「子どもの家」運営委員長が挨拶。
NGA(ガー)さんの略歴と今日の誕生日のお祝いを言う。

14本のろうそくに点火。


「子どもの家」のこどもたちもお祝いの拍手を送る。

誕生日のお祝いの「縫いぐるみ」を持ち、寮母さんと記念写真

NGAさんのケーキ「入刀」。

NGAさんの誕生祝いを終わり、昼食。

私もこどもたちと一緒に食事をするが、ご飯が硬く、
油物が多いので少ししか食べられなかった。こどもたちは
「お代わりをしろ」と勧める。


いよいよ昼食が終わるとお楽しみの「ケーキ」となる。
私など食事をした後にケーキなど食べられないと思っていたが
こどもたちは見事に私の心配を杞憂とした。

どんな事情があろうとも世界中のこどもたちは、食べ物と住む所を
心配しないで生きる権利がある。こどもたちを困られせるのは
大人の責任問。
1杯1000円のビール(某国の暴言首相)があれば、
「子どもの家」では30人のこどもたちに1食の食事を
上げることが出来る。

12時半、電動バイクで「子どもの家」から「ハイリーホテル」
へ戻る。

洗濯。しばらく洗濯をしなかったのでかなり溜まっていた。

腹痛・下痢・吐き気が続く。
とにかく横になり、2時間ほど寝る。

その後、読書「貧困の現場」(東海林 智著:毎日新聞社)
を読了。

「壮絶な本」である。学者の数字の統計などと違って
新聞記者が路上に寝て、ネットカフェに2週間寝てと
実体験をしながら、それらの非正規労働者・日雇い派遣などの
実態を明らかにしている。
日本では全労働者の3分の1、若年労働者の半分が
非正規労働者にさせられてしまっているのだ。
たった10年間にだ。小泉構造改革というまやかしの
言葉に乗せされて過ごしたこの10年。その結果である。
フランスでは「社会的排除」という言葉があるそうだ。
これは保守系大統領シラク氏の時代の言葉である。
ワーキングプアー、日雇い派遣、ホームレスなどに
なった人に対し、『貴方は働きが悪いから、怠け者だから、
努力しなかったから」などとうことは言えない、
これらの現象は個人の問題でなく、本人の能力や努力とは
別次元の問題である。社会的な問題であり、「自己責任」」などと
言う範疇にはいる問題ではない』という考え方である。
保守のシラク氏も含めフランスではそれが国民の共通認識に
なっているという。
日本ではホームレスや派遣社員、日雇い派遣などの
多くの人が「市場原理」「競争原理」思想に侵され、
自己責任の結果だと思い込まされている、またマスコミも
含めて自己責任論を振りまいている。しかし、少し冷静に
見れば、路上で寝ている人々を見かける様になったのは
この10年位である。それ以前にはあまり見られなかった
風景だ。労働者派遣法が出来てから更にその傾向が
促進されたことは事実である。
私など講演会などで小型のスーツケースを「ゴロゴロ」
と引きながら大阪・京都・仙台・札幌・新宿・池袋などの
駅を降り、町を歩いていてダンボールのホームレスの
人を見ると「いつか自分もこうなるかもしれない」という
そこはかとない不安を感じることが良くある。
多分これは、私だけではないと思う。
今の日本は、世界金融恐慌でいつ会社が「雇用調整」
するか分からない。日本人はこんな時まで、意味の分からない
言葉を使っている。はっきり「首切り」「解雇」と言えばよいのに
政府・大企業、マスコミまで「雇用調整」という。人間を
人間としてみていない。早い話が、首切りだ。
雇用調整された人は、明日から生活に困り、借金地獄に
落ちるか、不安定な日雇い派遣になるか、ネットカフェか
という危機感を持っている。小泉改革の骨太方針で
毎年社会保障費を2200億円削減している。毎年である。
セフティーネットもあったものではない。仕事がなくなった
途端に路頭に迷う時代・社会に日本は作り変えられて
しまった。郵政民営化選挙・小泉構造改革の実態である。

是非、多くの方々に「貧困の現場」を読んでいただきたい。
理屈は書いてない。貧困の現場をジャーナリストが
10数年体験したルポである。これが日本の見えない
(少しずつ見えてきた)実態・実情である。みんなで
力をあわせ、真面目に働いている人間が、馬鹿を見ない
社会を作らなければならない。

などと思いながら読んでいたら「熱が出た」。

気持ちが悪く日本料理店での夕食を断る。
部屋で1合の米を使って「全かゆ」を作り、梅干し
で食べる。下痢、腹痛、嘔吐あり。

早く寝る。

投稿者 koyama : 19:02 | コメント (0)

2008年12月10日

フエ高等師範大学奨学金贈呈式

晴天  終日太陽を見る

午前5時起床。
昨夜から圧力鍋に熱湯を入れ「湯たんぽ」にしている。
足を暖めると熟睡できる。昨夜も寒かった。

午前7時朝食。キャッサバ芋と米のうどん。

午前8時半、ベトナム事務所へ。
静岡大学工学部入学希望の高校生3年生の父親が
詳細を聞きに来る。静岡大工学部組織や進路、入試の条件、
学費、生活費などについて、静大のパンフレットを使って
1時間ほど説明する。


バオミンさんと当面の諸問題の打ち合わせ

午前11時過ぎ、「ハイリーホテル」へ。
昼食。野菜炒め、スープ、煮魚。



12時過ぎから30分昼寝。
読書「貧困の現場」(東海林 智著:毎日新聞社)
「非正規雇用労働者」が政府・財界の政策と
して作られてきた経過が克明に書かれている。
野宿の中年や若者、フリーター、非正規雇用労働者
に密着し、ダンボールに一緒に寝ての取材を読むうち、
非正規雇用を社会的・政策的につくり出している
政治そのものに「腹が立って」来る。
本書に出てくる「貧困の真っ只中にある人々」が
誰一人、サボり屋で怠慢・怠け者の人はいない。
みんな真面目に必死に生きようとしているのに
生活が出来ない仕組みの中でもがいている人々である。


午後3時からフエ高等師範大学で「長島弘道・和子奨学金」の
贈呈式を行う。続いて、「久門奨学金」贈呈式を行う。

長島弘道・和子奨学金は、私の従兄弟の長島夫妻が
既に10年ほど小中学校の先生になる学生への奨学金支給をしている。
25人に支給。

はじめにフエ高等師範大学副学長の挨拶。長島夫妻に感謝していると。

続いて、長島夫妻・久門夫妻に代わって、私がそれぞれの奨学金の
謂れと支給者の願いを代弁。

長島奨学金(25人)、久門奨学金(10人)、合計33人が列席。
2名は用事で欠席。

25人の長島奨学生に私と松田先生が奨学金を贈呈。

長島奨学金全員と


続いて久門奨学金贈呈式。(10人:今日は2名欠席で8名)
久門奨学金は、戦前ベトナムに関わった久門夫妻が
ベトナムの若者の育成という気持ちで贈っている奨学金である。
昨年奥様が亡くなられ、ご夫妻はこの世にいないが、NHKに
久門さんは奨学金の管理を委託、こうしてお亡くなりになった
後も久門奨学金としてしっかりとベトナム・フエ高等師範大学
の学生の育成に生かされている。人間は亡くなったあとにも
こうした形で社会に貢献することが出来るのだと改めて
感じたしだいである。



中島先生が久門奨学金を手渡す


石上先生が久門奨学金を手渡す

久門奨学生と

奨学生を代表して「長島夫妻」「久門夫妻」への感謝の言葉

午後4時前に奨学金贈呈式は終了。

フエ高等師範大学奨学金贈呈式に参加しようとして日本から
持ち帰ってスーツをハンガーから取り出すと、「カビだらけ」に
なっていた。

「ハイリーホテル」へ戻り着替える。
「ハイリーホテル」でメールの受信・送信。

午後5時過ぎ、ベトナム事務所へ。

「ハイリーホテル」のハイ君が警備員の仕事をしないので
注意。

バオミンさんと一緒に静岡青年会館日本語学校へ。

日本語学校中級の生徒へ当面のいくつかの件を話す。


午後6時過ぎ、日本料理店へ。夕食。

午後9時、日本料理店閉店。来客5人。英国、フランス、
デンマーク。欧米系の英語観光ガイドブック「ロンリープラネット」
を見てきたという。ロンリープラネットには、「MR・JASSMAN」
として私のことが紹介されている。


2009年2月17日、大阪大学で行う講演会の要綱が
出来た。

投稿者 koyama : 18:23 | コメント (0)

2008年12月09日

ミンさん・税田さん打ち合わせ

終日・雨、曇り、午後少し太陽が出る。 気温18度~20度 寒い。

午前6時起床。
昨夜は寒く、ペットボトルにお湯を入れて即席「湯たんぽ」
にして寝た。暖かく寝れた。

午前7時朝食。今日は私とハイ君と2人での朝食となった。
「ブン・チャカー」。ブンの麺にさつま揚げ。


日本語の先生は、「子どもの家」・盲学校などの健康診断に
同行。

午前9時、バオミンさんと税田さんで当面の諸問題を打ち合わせ。
2時間強の打ち合わせ。

ベトナム事務所では、日本の里親の皆さんへこどもたちからの
年賀状を送る準備をしている。


午前1時半、昼食。
ハン君と二人。アヒルの玉子焼き、脂を落とした豚肉、
野菜スープ。発酵させた「もやし」。


途中から「汁かけご飯」にして食べる。

午後12時半から1時間昼寝。寒い。

午後2時 読書「貧困の現場」(東海林 智著:毎日新聞社)
著者の東海林 智氏(とうかいりん さとし)は、1964年生まれ
の毎日新聞社会部記者。
本書は、京都の「豊田旅行」の社長豊田陽氏より「差し入れ」
としてフエまで郵送されたものである。豊田氏に感謝。
年に3回ほど日本へ帰国しフエへ帰る際、10冊ほど本を
買ってもって帰るが、直ぐに読み終わってしまう。
最近多少体力がなくなり、大きなスーツケースを運べなくなり
小型のスーツケースのため、物が入らない。1度に最大限
10冊が限度である。フエへ来られる方がもし何か「お土産」
を持って来て頂けるのであれば、ご自分の読まれた本の中で
「人にも読んでもらいたい」と思われるを1冊でも持って来て
頂ければありがたい。

1986年通訳など専門的13業務に限定してスタートした
派遣業務であったが、1999年派遣業務が原則自由化された。
日雇い労働は日雇い派遣に名前が変わった。
経営者が必要な時必要な労働力を自由に使えるという
露骨な経営側の欲望剥き出しのシステムが出来上がった。
人間を人間としてみないシステム。「労働力のジャスト・イン・タイム」
と派遣業者は言う。派遣業者のチラシには「10分でお届けします」
「無料お試しキャンペーン」の文字がある。「人間のお届け」であり
「人間の無料お試し」なのである。資本主義の人間疎外を文字通り
地で行く労働者派遣である。
本書は毎日新聞記者として大阪釜が崎の「ドヤ街」の労働者が
若者の携帯派遣労働者に入れ代えられる実態から取材をはじめ
10年間の具体的な労働者の「貧困化」の生々しい実態を
ルポしている。堤未果の「貧困大国アメリカ」の日本労働者版である。
日本のワーキングプアが、政治と政策によって「人為的に生み出され」
て行ったことが分かる。このルポを読むとどの人も真面目に一生懸命
正社員になろうと、真っ当な生活をしようと努力している普通の
市民である。

大企業・資本家は働く人間を「物のよう」に扱う。

厚労省の発表でも非正規雇用労働者、3万人が首切りにあうとのこと。
ソニーは世界中で8000人を解雇するという。
今日のYAHOOニュースによるとだが。

日本経団連の会長もしている御手洗氏のキャノンでも1700人の
非正規雇用労働者を解雇。
しかし、キャノンは5800億円の利益を見込んでおり、株主配当も
715億円を予定してる。人員解雇で「浮く」お金は、株主配当の
たった5%。その上、3兆3000億円もの余剰金・貯めこみ金を
もっている。日本の大企業を組織する日本経団連の会長の
会社が、3兆3000億円もの余剰金を持ち、株主への配当を
715億円用意し、5800億円の利益を見込みながら、
1700人もの非正規雇用労働者を解雇する実態は、
生きた人間を虫けらのように扱っているとしか
思えない。という趣旨の内容が本書の至る所にルポとして
書かれている。怒りと悲しみを持って読む。

 
午後3時、少し太陽が顔を出したので久々の散策。
「ハイリーホテル」付近の川筋を40分ほど
歩く。川べりには椰子の木。椰子の実がなっていた。


喫茶店の庭で10数人の若者がビリヤードで遊んでいる。
道の両側にある小さな店では何人かの人たちが、椅子に座り
世間話をしている。道の所々に座って「ボーッ」としている
大人を多数見かけた。何とものどかな農村風景である。
東京での暮らしと比べ、どちらが「豊かなのか?」などと
考えながら40分間のつかの間の散歩を楽しむ。

午後4時。メールの受信、送信。
会のHPなどを見て東京のジャズ歌手の方からメールが入る。
「子どもの家」を視察したいとのこと。ありがたい話である。

午後5時、久しぶりの夕焼けを「ハイリーホテル」の屋上で
眺める。

午後5時半、日本料理店で夕食。

欧米系の来客2名。

投稿者 koyama : 10:04 | コメント (0)

2008年12月08日

67回目の「太平洋戦争開戦」を迎えて・改めて反戦平和を誓う

朝から雨。寒い。18度

午前2時まで読書。
午前6時起床。

午前7時朝食。ブンボー。



今日は「日米英開戦67周年」。1941年12月8日、
日本は米英に宣戦を布告。マレー半島やハワイを攻撃。

1931年の「満州事変」から15年間の戦争をいまだに
反省していない人々がいる。最近では
「我が物顔」に「声高に」、アジアを守る聖戦だった
などという輩(やから)が出てきている。

小泉元首相の「靖国参拝」、田母神前空幕長の、日本の戦争は
「自衛」のため、「アジア解放」のため、日本が侵略国家だった
というのは「濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)」との言動は許せるものではない。
既に戦争を体験した人が数少なくなっている。
戦争の実態を知らない国民が多数になったことを幸いに
再び戦争を起こそうという勢力が台頭してきていることを憂慮
している。

今日は67回目の「12月8日」。太平洋戦争突入の日。

読書「戦争絶滅へ、人間復活へ」(むのたけじ 岩波新書)読了。
ぜひ、多くの人に読んで欲しい本である。新刊書である。700円。
93歳のむのたけじ氏の報知新聞・朝日新聞の従軍記者体験、
戦前の新聞社での体験を通して、戦争の実態をインタビューという
形で書いた本。聞き手は黒岩比佐子さん。2008年7月発売。
現在、戦争を体験し、従軍記者の経験を持っているのは
「むのたけじ氏」一人だけという。93歳。大正4年(1915年)
生まれの現役のジャーナリスト。私は学生の頃、
「たいまつ新聞00年」という本を読んだことがある。
むのたけじは、1945年8月15日、朝日新聞記者として、
アジア・太平洋戦争に協力したことを恥じて、
朝日新聞社を退社。秋田県横手市に帰り、
1948年「たいまつ」を発行し、反戦平和、人権、民主主義」
を訴える新聞を発行し続けた。
全文6章。第1章「ジャーナリストへの道」、第2章「従軍記者として
の戦争体験」を読む。
先代の柳家小さん(永谷園の宣伝)の芸を高く評価している。
柳家小さんは、2・26事件に参加している。上官の命令で
「反乱軍」として一兵卒で参加。「逆賊」となった経験を
持っている。2・26事件に連座した指導者は死刑。
命令で参加した兵卒は、徴兵で戦争の最前線に行かされた
という。懲罰人事である。柳家小さんも2度徴兵で戦争へ
行かされている。
むのたけじによれば、そういう理不尽な戦争体験を
もっているので、小さんの芸は、少し「斜に構えた芸」
「抑制された芸」になっているという。面白い見方である。
93歳のむのたけじの頭は明晰だ。

「憲法9条」の本質をしっかりと理解している。
アメリカの攻撃という側面。日本が再びアメリカに
楯突かないよう「一切の軍備を持たないよう」に
した点、と世界に3万発もの核弾頭がある現実
世界。人類と地球を守るための最強のシンボルである
憲法9条の積極的側面。

また、日本人の戦争への自己批判、加害への自己批判の
なさを厳しく指摘している。
「戦争は天皇に命じられ、国家に要求されてやったことだと
考えるから、加害者という自覚が乏しい。」
「それから戦後に連合国は極東軍事裁判を行って、戦争責任
があるとした人々を処刑しましたが、ここで私がおかしいと
思うのは、本来、罪を問われなければいけない人たちが
いるのに、それが問われていないということです」。
「それからもう一つはやはり天皇制だったと思いますよ。
敗戦のときに天皇家は自らを裁かなければならなかった。
命は鴻毛より軽し、とされて天皇の命令を受けて大勢の
兵隊が死んでいったのに、その体制をそのままにして
おくのはおかしいでしょう」
「8月15日の後、私たち日本人は戦争をしたことについて
、自ら反省しなければいけなかった。所が、それをしなかった
ために、敗戦時にけじめをつけるという、当然すべきことも
やれなかった。絶対君主制の中で、天皇の名のもとで戦争
をしかけたという建前に対して、どう始末をつけるのか、それさえ
主導権はGHQにもっていかれて、そのまま残されてしまった」

話は日米関係、沖縄問題へ及ぶ。
 
同時に社会主義を信奉していたむのたけじの
ソ連・中国などの偽社会主義にたいする強烈な
批判。
本書の最後に「レーニン・毛沢東を裁く」として
レーニンと毛沢東など既存の社会主義への判決を
下している。少し長いが以下引用。(原文はカタカナ
が多いのでひらがなに直す)

(判決)
(1)民衆の解放は、民衆が自分たちの決意と奮闘で鎖を
  断ち切って自由になることだ。所がソ連邦に指導された
  革命党の解放は、彼らの言う職業革命家集団が民衆を
  解き放ってやることだった。それでも民衆は当初はその
  成果に狂喜して感謝した。けれども程なく、感謝は
  冷えた。人間の本質は自主自立、独立独歩であり、
  欲望は状況の変化で成長する。そこを理解して
  なかったとは、レーニンよ、毛沢東よ、何たることぞ。
(2)ソ連邦側の共産党は、ヒューマニズムを空想と
   侮り、戦争を肯定して助長した。ドイツの職業軍人が
   (クラウゼヴィッツのこと:小山)「戦争は政治の一形態だ」
   と国家の交戦権を擁護したら、マルクスもエンゲルスも
   同調した。レーニン、毛沢東、ホーチミン、カストロたちも
   それにしたがって「戦争を通じて革命へ」の路線を走った。
   人類の最大の罪悪を助長して何が正義か。
(3)振り回した旗には社会主義と書いたが、真っ赤な偽物
  だった。現実には富国強兵の国家主義、その典型だった。
  にせ社会主義が本物の資本主義に負けるのは当然だ。
  レーン、毛沢東ともあろうものが、その成り行きに気づか
  なかったとは、何と素っ頓狂なことよ。
   よって両人は「素っ頓狂罪」で、そのまま永遠に
  眠り続けよ。
   条件が一つある。両人の死体がミイラにされて見世物
  にされているとは悪趣味すぎる。早く骨にして土に帰す
  べきだ。現世にそれを促す力が両人にまだあるかどうか
  試してみてください。

資本主義に対しも厳しい意見をもっている。

最終的にむのたけじの21世への提言は「私たち普通の
当たり前の人間たちは、結局の所人間の常識を
大切にして普通に生き貫くことではないか。人として
やれねばならぬと自分で思うことは、できるだけ
力を込めてやる。人の道に背くと思うことは、自分で
やらないだけでなく、他人にもやらせないように手を
つないでいく。この道を進めば、各個人をも人類みんなをも
もっともあやまりの少ない道に導くのではあるまいか?」。

多くの若者に読んでもらいたい本でもある。

午前11時半、昼食



午後12時半、午睡、1時間。

メール受信。必要なメール送信。

読書「憲法9条、いまこそ旬」(岩波ブックレットNO639)
井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、奥平康弘、小田実、
加藤周一、澤地久枝、鶴見俊輔、三木睦子

小田実、加藤周一が今年死去。残念。

数年前に一度読んだブックレット。
梅原猛などマルキストからは反共右翼とレッテルを
貼られている。しかし、戦争体験をした人々は、その
思想がどうであれ体験として絶対的に戦争はいけないと
の思いがある。戦争に「思い入れ」がある連中は
戦争体験がない阿部元首相・麻生首相など
「お坊ちゃん」や「お譲さん」たちである。自分は絶対に
戦争に行かない連中の戯言(たわごと)。
私は改めて絶対的な反戦・戦争反対、一切の武力の
行使に反対する意思を表明する。
私の人生はアジア太平戦争で兄を亡くし、2人の
叔父を特攻隊でなくしている。また、わが家族は
中国からの引揚者で戦後貧乏との長い闘いをしてきた。
同時にアジア諸国の皆さんにも様々な迷惑をかけてきた
一家である。私自身は戦後2年目に生まれているが、
まかり間違えば、「中国残留孤児」と称される人間になって
いた可能性もある。

改めて憲法9条の人類史的な意味を確認。憲法9条を死守する
覚悟を改めて固める。これは理屈ではない。私の人生である。

午後5時半、日本料理店で夕食。

午後9時、日本料理店閉店。スコットランド人2人来店。

投稿者 koyama : 11:36 | コメント (0)

2008年12月07日

終日雨:休日

朝から雨  

朝、外食。ブンボーなどを食べる。

午前7時の気温18度。非常に寒い。下痢。風邪の症状か?

午前中、ベッドに寝て読書。
「男の勘ちがい 女の夢ちがい」(藤堂志津子著:新潮文庫)読了。
10回位は思わず笑ってしまった。肩の凝らない純娯楽本ではあるが、
藤堂志津子という著者の本音と「気骨」が垣間見える。


午後12時半、緑茶が飲みたくなり「美味しく』緑茶を入れて飲む。
朝からしくしくお腹が痛い。多少吐き気がする。昼食なし。

昼寝。

午後2時から読書「漆黒の霧の中で」(藤沢周平著:新潮文庫)
我が家の前の「BOOK OFF]で105円。
本当は「人間は何故日記を書くのか?」「昔の人の日記」を
読もうと思い、「土佐日記」「蜻蛉日記」「とはずがたり」
の古文を読もうと思ったが、体調不良のため後回しに。
私の好きな藤沢周平を読んで体調回復をめざす。


部屋の掃除。

午後4時過ぎ、雨の合間を縫って夕食を買いに行く。
コムディア(ほか弁)。2万ドン分作ってもらう。
おかずが普通より少し多い。昼食を摂っていないので
早めに夕食を摂る。

藤沢周平の「漆黒の霧の中で 彫師伊之助捕り物覚え」
という捕り物帳を半分ほど読んだが、
どうしても「土佐日記」を読んでみたくなり、読み始める。
大学受験の「古文」の勉強とは全く趣の違う楽しさがある。
土佐日記は西暦934年、土佐の国司の役目を終え、
京都へ帰る2ヶ月間の旅の様子を紀貫之が女性に
なって第三者の立場で書いたひらがなの日記。
土佐を発つ時、様々な人間が見送りに来て、3日・4日と
土佐に逗留し、お別れの宴会などを行っている。
1070年も前の人間と現代の人間社会とそれほど
大きな違いのないことが分かる。むしろ今以上に
人間の結びつき・触れ合いは深い。

読書「漆黒の霧の中で」(藤沢周平著:新潮文庫)
を更に読む。

午後5時に夕食を済ませる。寒い。お湯を沸かし
ペットボトルにいれ、タオルに撒き足を暖めながら
午後7時半に就寝。

午前0時過ぎに目を覚ます。ペットボトルのお湯が
冷めたので再度暖める。

読書「漆黒の霧の中で」(藤沢周平著:新潮文庫)読了。
藤沢周平の捕り物帳は、コツコツと少しずつ読者に
情報を流し、興味をそそり、真犯人探しへと読者を
いざなってくれる。淡々とした描写がいい。

毎日新聞の世論調査の結果、麻生内閣の支持率は
とうとう21%、不支持率は58%となった。
完全に死に体内閣。この首相の口に封印の紙を
貼っておかないと、何も考えずに口走り、そのたびに
支持率を落として行く。12月6日にも定額給付金で
「さもしく1万2千円が欲しいという人もいる」との
暴言を吐いた。1億円の年収がある人が定額給付金
をもらうということへの発言ではあるが、そもそも
麻生首相自身が、定額給付金に所得制限をつけずに
支給すると政府見解を決めているのであるから、
収入がいくらであってももらうことに何ら問題はない。
けしてさもしいことではない。
「景気対策優先」と称して総選挙を先延ばしながら、
景気対策を盛り込まなければいけない「第2次補正予算案」
すら12月27日閉会の国会に提出していない麻生首相自身が
自分の地位保全に汲々としている「さもしい人間」なのである。

投稿者 koyama : 11:25 | コメント (0)

2008年12月06日

終日豪雨

朝から大雨。

午前5時起床。

読書「ノルウエーの森(下)」(村上春樹著)

外は大雨。「ハイリーホテル」の5階の部屋のガラス窓を
強い雨脚が叩く。風の音も響く。不気味な朝だ。

午前7時朝食。
赤米のおかゆ。

午前8時過ぎ、雨の中、カッパを着てベトナム事務所へ。

午前8時半、ベトナム事務所員会議。

バオミン・JASSベトナム運営委員長の司会で開会。
今週の活動と来週の計画、寄付いたことなどを報告し
ベトナム事務所員全員で情報を共有したいとの挨拶。


(ソン)地球の歩き方ミニツアーの皆さんを「子どもの家」、
    日本語学校などへ案内した。大塚さんのビザ延長の手続き。
(美葉)月・木 フエ高等師範大学の授業。12月15日から2年生試験。
    火、土 静岡会館日本語学校新中級の授業

(ゴック)水 中級まとめ 1課~27課まで
     木 初級 文法
(千草) 月 フエ高等師範大学最後の授業、 火 新中級
      水・木 観光基礎コース 最後の授業
      観光基礎コース8人がハノイへ、日本語能力試験3級受験

(いぶき)月・火 観光基礎コース 水 中級まとめテスト
      木 フエ高等師範大学1年生、金 中級まとめ14人中3人
      不合格。再テスト
(フーン) 月火水木 観光基礎コース
(クアン) 地球の歩き方ミニツアー フエ空港まで出迎え
      奨学金の名簿翻訳


(ミン)  地球の歩き方ミニツアー ホーチミン空港まで出迎え
      2009年春のスタディーツアーの受け入れ準備
      「子どもの家」B棟2階に雨漏りあり。原因究明中。
      第13回クリスマス会の準備


各ベトナム事務所員の報告後、第13回クリスマス会の
進行表、各分担表が配られ、担当者の確認。準備確認を
行う。

午前11時半 雨の中、「ハイリーホテル」へ戻る。

昼食 野菜炒め、厚揚げの甘辛煮、野菜スープ

午後12時半から午睡をしようと思ったが、「ハイリーホテル」
の数軒隣りで結婚披露宴が始まる。昼ごろから始まり
午後6時半過ぎまで続く。右翼の街宣車以上に大きな音を
出しての披露宴。はじめは大音量の音楽が延々と流れる。
午後2時過ぎから3時間ほどカラオケ大会。段々、酔っ払って
来ると歌も「変な長調」となり、ろれつが回らなくなった
おっさん共が、延々と大音量で歌い続ける。音の拷問。
部屋にいる私の腹に「ドンドン」と低音が響いてくる。
結婚披露宴というお祝い事である。こうした「騒音公害」を
我慢するのも祝儀の一つ。
しかし、午睡などで出来る筈がない。仕方がないので
「ノルウエーの森(下)」を読む。そのうち披露宴も終わるだろうと。
結局、午後5時まで読書。

「ノルウエイの森(下)」読了。
本という物は最後まで読まないと何も分からないことを知る。
(上)と(下)の3分の1まで読んだ段階では、村上春樹が
何を言わんとしているのか? または、この本は一体
何が書かれているのかが、掴めないまま「ふわふわ」
した感じだけが残っていた。2巻を通読して理解できた
部分がある。
本書は五木寛之の「青春の門」の70安保版と理解した。
「青春の門」は、60年安保を時代背景として伊吹という大学生
の青春の彷徨を描いたものと読んだが、「ノルウエイーの森」は
70安保など学生運動などには、ほとんど触れていない。
時代背景の描写もない。しかし、1968年、1969年、1970年
と作者は時代をしっかり記述している。都内の二流の私立大学
に神戸出身の「ワタナベ君」が通っている。このワタナベ君の
70年安保という時代背景の中での青春の彷徨を村上流に
描いたものと読んだ。学生運動に全く背を向けた「ワタナベ君」
の女性との付き合い、寮の仲間との女性遍歴、神戸時代の
友人直子の精神病院入院自殺などを通して、激しい政治の
季節であった1968年から1970年までの青春をワタナベ君が
どのように生きたのかを書きたかったのではないのかと思った。
写実的な性描写があまりに多く、多少の違和感を感じた。
この本は今まで私が読んだ本の中ではかなり異質。
読むのに少し疲れる。村上春樹38歳位の作品。
結局、かなり屈折した70年安保のある意味での
政治的な本である。


「男の勘違い 女の夢ちがい」(藤堂志津子著:新潮文庫)を読む。
古本屋で200円。この11月に講演会をした北海道石狩に
ある「藤女子短大」ということで読んでみる。肩の凝らない
エッセイー集。面白い。我が家の前にある「BOOK OFF」で
200円。

午後7時から日本料理店で夕食。

投稿者 koyama : 19:09 | コメント (0)

2008年12月05日

終日雨

朝から夜まで雨。寒さ再来。

午前7時朝食。もち米のご飯(3分の1残す)


午前中、2009年1月から3月までのスタディーツアー、
訪問者の日程、活動内容との調整。かなり多くの
スタディーツアーがある。

12月24日の「第13回クリスマス会」の内容・運営チェック。

バーベルのルーティーンをこなす。

読書「ノルウエーの森(上)」(村上春樹著:講談社)
一風変わった本。次々に興味が湧き出し、どんどん
引き込まれる本ではない。心の闇の中を彷徨っている
人間の悩みを吐露しているかに見える会話が延々と続く。
村上春樹は何を言いたいのだろうか? 特にいいたい事が
あった訳ではなく書いたのだろうか?
時代は1968年。70年安保が始まった頃の東京。
学園閉鎖、ストライキなどに明け暮れる大学で
そうした動きに背を向けている学生の目的もない
日常生活。そして友人の女性との関係。

昼食 ご飯、野菜の炒め、スープ、豚肉の甘辛煮

午後12時半1時間ほど午睡(シエスタ)。

読書「ノルウエーの森(上)」(村上春樹著)読了
上巻で著者が何を言いたいのかは見えてこない。
見えてこないという本を意図的に書いている
のかどうかは分からないが・・・・。性的なことだけが
やけにリアルに描かれ、登場人物の生活感が全くない。
1968年当時の私の生活圏が出てくる。三多摩の国分寺、
お茶の水から本郷を通って、上富士から駒込。
テーマは一体何なのか?  引き続き(下)を読むことにする。
読んでいて興味や面白さを感じる本ではない。少なくとも
上巻の範囲では読んで無駄な時間をすごしたとの感想。


午後5時半、日本料理店で夕食。
石上先生・松田先生・大塚さんと食事をしながら懇談。
フダ生ビール小グラス8杯飲む。缶ビールで3、5本分程度。

今日の来客は2人のベトナム人。
午後9時閉店。

田母神(たもがみ)俊雄・前航空幕僚長がアパマングループの
懸賞論文の賞金300万円を辞退したとのこと。
懸賞論文を辞退する以前に公金である退職金7000万円を
返納すべきである。また最高司令官の麻生氏は田母神氏を
懲戒免職処分にし、退職金を剥奪すべきである。
田母神(たもがみ)俊雄・前航空幕僚長の言動は、明らかに
文民統制(シビリアンコントロール)に真っ向から対立
するものである。政府の公式見解が「先の大戦でアジア
諸国に迷惑をかけた」と認めているにも関わらず。
アジア太平洋戦争で「侵略はなかった」「正当な闘いだった」
との論文を繰り返している。
武官は、文民の指示に従って行動するというのは、
戦後の基本的枠組み。これは、近衛内閣の「戦争不拡大」
方針に反し、勝手に満州事変を起こし、傀儡政権である
満州国を樹立。その後、日中戦争という泥沼に突入した
のは、関東軍など軍部の「独走」のきらいがある。
戦後、そうした反省に立って武官は、政府の指示に100%
従うということが、基本原則になった。シビリアンコントロール
とか文民統制という。今回の田母神(たもがみ)俊雄・
前航空幕僚長の行動は政府の指示に従わず、勝手に
軍部が動きを起こしているとういう重大な問題である。
一種の軍部のクーデターである。
麻生KY首相は、自衛隊の最高指揮官である。
田母神(たもがみ)俊雄・前航空幕僚長が政府の指示に
従わず、勝手に「侵略はなかった」などという発言を
繰り返しているのであれば、きちんと罷免し、あくまでも
武官は国民の選挙で選ばれた文官の指示に従って
行動すべきとのしっかりした伝統を確立すべきである。
田母神(たもがみ)俊雄・前航空幕僚長に何ら処分すら
出来ず、7000万円もの大金を「犯罪者」に与えた
麻生KY首相の責任は大である。
麻生KY首相は1945年8月15日以前、国民が
先の戦争でどれだけ苦しみ300万人もの死者を出し
アジア諸国民の2000万人もの死者をだしたという
苦い経験を全く反省していない。
麻生KY首相は「麻生Keiken Yoめない」首相でもある。
もっとも麻生首相の出自は、朝鮮人を強制連行し
酷使し、大もうけをした麻生炭鉱財閥であることを
考えると、本来自分の出自に真摯な反省が必要な
人物なのである。

投稿者 koyama : 17:24 | コメント (0)

2008年12月04日

地球の歩き方ミニツアー参加者と会食

終日曇り。気温27度。

インターネット事情、非常に悪し。何度やっても繋がらない。
特にYAHOO。

午前5時起床。読書「危機の宰相」(沢木耕太郎著)

午前7時朝食。ブンの精進麺。


今日は終日インターネットがつながらなかった。特にYAHOO。

この3日間ほど雨が降らないので、散歩とバーベルを行っている。

「ハイリーホテル」近くの川に沿った農村の道を散策。

静かな純農村の雰囲気とにおいがする。
道には犬が昼寝をし、牛が歩いている。

あちこちに「広場」があり、雑草が咲き、きれいな花をつけている。


往復40分の行程。つかの間の雨のない日。フエ滞在を楽しむ。

ベーベルは左右と心棒を入れて5キロと軽い。体力の増強ではなく
「維持」。

バオミンさんと電話でいくつかもの問題を話し合う。
フエ市長から静岡市長への伝言を依頼される。

昼食 

午前12時半 30分ほど昼寝。

読書「危機の宰相」(沢木耕太郎著)読了。

1960年安保で辞めた岸信介の後をついで首相に
なった池田勇人。「所得倍増計画」「寛容と忍耐」
をキャッチフレーズに60年安保で高揚した国民の
気持ちを掴んでいく。
その当時保守本流は「安定成長」を主張。
池田首相のみが「所得倍増=高度成長」を主張していた。
明治維新から敗戦までの日本の平均経済成長は4、5%。
戦後1945年から1955年の10年間の経済成長平均8%。
しかし、1959年には経済成長16%となり高度経済成長路線が
始まる。
その裏には、戦前東大でマルクス主義経済学を
勉強し、満州に行った田村敏雄と、「所得倍増論」の
影の理論家となった経済学者下村治がいた。
3人とも大蔵省のキャリアだが、出世競争から脱落し、
一度は死に直面した経験がある。
池田は「重い疱瘡(ほうそう)にかかり死に掛けている。
5年間闘病生活を続け、事実上大蔵省を辞めさせらてた
格好になる。
田村敏雄は大蔵省に入省するが肌が合わず、満州国の
行政官となり、最後まで満州国に残り、ソ連の捕虜となる。
シベリヤ抑留。九死に一生を得て帰国。
下村治も東大を出て大蔵省に入るが結核になり
休職。所得倍増計画の経済面のプランは下村治、
仕掛けコーディネートは自民党宏地会事務局長の田村。
そして演者は池田となる。戦後15年。まだ日本経済は
高度成長する時期ではないというのは、当時の経済学会、
保守党政治家の共通認識だった。そうした時代に
所得倍増をぶちあげた池田首相とそのブレーンにはある意味で
卓見があった。池田の高度経済成長路線は確かに
1960年代に日本人の生活を豊かにした。
更に70年代、80年代のバブルへと続く。
しかし、その後50年たった21世紀の今日の時点で
高度経済成長路線そのものが果たして「いかがなものだったのか」
「21世紀にどんな正と負の遺産を残したのか」を改めて
検証する意味はあると思う。
池田首相は私の中1から高校2年までの4年間続く。
懐かしい政治家の名前が出てくる。河野一郎、石橋湛山、
佐藤栄作、前尾繁三郎、黒金泰美、大平正芳、藤山愛一郎、
三木武夫、川島正二郎、福田赳夫・・・・。
本書を読んで「政治的にどのような立場をとる人であっても
それぞれの人生と悩みと喜び」をもち精一杯人生を生きていたのだ
ということが良く分かる。池田首相も60代で喉頭がんで急死
している。

1960年代。1955年の民主党・自由党の「保守合同」。
自民党に元気のあった時代だ。
池田首相から約50年。自民党は既に死に体状態。
麻生首相は「KY首相」とよばれているそうだ。
「空気が読めない首相」だと思っていたら「漢字がよめない
首相」だとのこと。「未曾有(みぞう)を「みぞうゆう」と読み続けた
という。未曾有をきちんと読めないのは、本を読んでいない証拠。
さらに「KY首相」は、「経済が読めない首相」だとも
「解散もやれない首相」だとも言う。
田原総一郎は、「戦後、自民党は3つの役割を担っていた。
①日本を社会主義化しない ②日本を欧米並みの経済国
にする ③対ソ連戦略上の反共の砦」。
今日、この3つは既に達成している。自民党の歴史的役割は
既に終わっている。池田首相時代、自民党は国会で
単独過半数を持っていた。その後の長期低落傾向は
ついに2代に亘り「政権投げ出し首相」を輩出し、
3代に亘り国民の審判を受けない首相を作ってしまった。
「憲政の常道」などいう言葉すら投げ捨てた昨今の
自民党の醜態である。
池田首相の周りにいた人たちは、みな大変な読書家
だった。それから50年。「未曾有」(みぞゆう首相」が
迷走し、暴言を吐きまくっている自分の位置すら
分からないでいる。解散も出来ず、経済再建が優先と
豪語しながら、経済政策すら国会に出せない醜態を晒している。
自民党を支持するかどうかは別にして、50年間で
明らかに自民党の中核にいる人間の質が低下した
ことだけは事実である。2世・3世議員の問題も
質の問題とからみ、その一因ではあるのだろう。
戦後の歴史の中での自民党の役割は既に終わっている。

日本のAさんから電話。

午後6時、地球の歩き方ミニスタディーツアーの方と会食。



バオミンさんと一緒。21世紀の世界のあり方。
アジアは支援するのか、アジアから学ぶのかなどの
話をする。私は「21世紀はアジア、アフリカ、インドなどから
学ぶ時代」という意見。


午後8時半、「ハイリーホテル」へ戻る。


読書「ノルウエイーの森(上)」(村上春樹著:講談社)
古本屋で300円。

投稿者 koyama : 18:05 | コメント (0)

2008年12月03日

終日晴れ 3つの高校長と懇談

終日快晴  気温27度

午前5時起床。読書「テロルの決算」(沢木耕太郎著:文芸春秋)

午前7時朝食。ブンボー。

午前7時半「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。

バオミンさんと一緒に「ハイバーチュン高校」へ。
午前8時、校長先生と40分ほど懇談。


静岡大学工学部への留学生の問題について
具体的に突っ込んだ話し合いを行う。結果良好。


続いて「グエンフエ高校」へ。
校長先生と「ハイバーチュン高校」と同様の話をする。

「グエンフエ高校」校長も積極的な対応をしてくれる。
話し合いの結果は良好。


最後にフエ市内から少し離れて郊外に「ファンダンルー高校」
へ。校長先生と同様の話し合い。結果良好。

ベトナムの高校はもうすぐ第1期の試験が始まるという。
12月20日過ぎにクリスマスの前まで試験とのこと。

これで何とか11月18日に静岡大学とフエ省・フエ市が
調印した留学生派遣が実現する見通しとなった。
今後、様々な「具体化にあたっての諸問題」は残るが、
一つ一つ解決していかなければならない。
悩ましい問題もある。

ベトナム事務所へ戻り、短時間打ち合わせをし、
「ハイリーホテル」へ。

午前11時半、昼食。
空芯菜のニンニク炒め、豚肉の煮物、瓜のスープ。



午後12時半から1時間程昼寝。

晴天なので窓をあけておいた。大きな蜂が3匹部屋の中を
飛んでいる。刺されそうで怖い。「ハイリーホテル」の
どこかに大きな蜂の巣があるものと思う。

午後2時読書「テロルの決算」(沢木耕太郎著)読了。
1960年10月12日日比谷公会堂での3党首立会い
演説会で右翼の山口二矢(やまぐちおとや)に社会党
委員長の浅沼稲次郎が刺殺された事件は、戦後史に
残る大きな事件であり、当時中1の私にも大きな衝撃を
受けた。やっと庶民が見られるようになったテレビで
放映された映像は、一層、テロの現実を鮮明に当時の
人々に印象付けた。
私が政治というものに関心を持った最初の事件は
小学校5年の時の日教組の「勤評反対闘争」だった。
学校中の先生がいなくなり、終日自習。校長先生と教頭
先生が時々教室を見回りに来た。それに引き続き、
1959年から1960年6月頃までの「60年安保闘争」。
今でも私の記憶に鮮明に残っている。中1の時だ。
浅沼委員長刺殺はその60安保闘争が下火になった
10月に起こった出来事である。
本書を読んで山口二矢がしっかりとして一定程度の
知識をもった家庭で育てられたということ、けして
「馬鹿」な右翼ではなかったことが窺える。
彼は赤尾敏の愛国党とも袂を分かち、ほかの
右翼は「口ばかりで行動をしない」と考え、たった一人で
左翼・共産主義を撲滅しようと考えた。
当時の右翼の一人の旗頭だった愛国党の赤尾敏は
こんなことを山口二矢に話している。
このまま日本に左翼がはびこれば、いつかはソ連と
同じような共産主義国家となり、自由も何もなくなる。
日本の共産主義化を阻止するためには、嫌いだが
アメリカの力を借りなければならない。
日本の左翼の日本共産党が一番悪いが、ここは、戦前から
国民の中に反共意識が強いのでそれほど大きくならない。
問題なのは、社会党だ。浅沼はアメリカ帝国主義は
日中両国人民共通の敵だと発言している。
国民は社会党には幻想を持っている。ここが政権を
握れば、ロシア革命の時のケレンスキー政権のように
結局、最終的には共産党に政権を渡す役割を担うことに
なる。当面の右翼愛国運動は社会党に向けるべきだ。
山口二矢は一本気な性格であり、理論と実践を結びつけ
る性格だった。多くの右翼が口ばかりなのに嫌気が
さしていた。
当初6人の左翼を暗殺する計画だったが、最終的には3人
にしぼる。共産党の野坂参三、社会党の浅沼稲次郎、
日教組委員長の小林武。
この3人の自宅に電話をしているが、外出中など様々な
理由で山口二矢の訪問の隙がなかった。
偶然、読売新聞に1960年10月2日、日比谷公会堂で
三党首の立会演説会があることを知る。
このことで浅沼刺殺を決意。短刀は自宅にあった父親が
隠していたものを使う。日比谷公会堂へ行くが、入場券が
必要だった。主催は東京都選挙管理委員会、NHK・・。
入り口にいた警備の係りが、山口に入場券を上げてしまう。
刺殺後逮捕。単独犯行を主張。17歳のため、鑑別所に
入所したその晩、鑑別所の中でシーツを切った布で
首つり自殺を図り死亡。17年間の人生を終わる。
今生きていれば66歳である。
本書を読むと山口二矢と浅沼稲次郎は見えない糸で
結びついているかのように、いくつもの偶然が重なって
刺殺へと進んでいった。日比谷公会堂を守っていた
警備の係りが入場券をあげなければ浅沼刺殺は起きなかった。
当日、愛国党が会場の左に数十人陣取り、浅沼に罵声を
浴びせ壇上にかけあがりビラを撒くなど会場は騒然としていた。
山口は遅れて会場に入り、人が少ない右側に入る。
30名いた私服警官は、会場左で暴れている愛国党に目が
行ってしまい、遅れて入ってきた学生服の上にジャンパーを
纏った山口には全く警戒をしなかった。
本書を読んで、やはり最後まで残った疑問は何故、17歳の
山口はそこまで行動を起こしたのか?その後何故自殺したのかは
分からないままであった。しかし、当時、私に強い衝撃を
与えた浅沼刺殺事件の経過と当時の時代背景、浅沼の
生い立ち、山口の生い立ちなどを詳細に聞き取っているので
歴史としての浅沼刺殺事件を理解することが出来た。
テロルなど絶対に許すことは出来ないことではあるが、
1960年はまだ日本人が純な時代であった。

午後5時、ベトナム事務所へ。
バオミンさんと打ち合わせ。

午後5時半、日本料理店で夕食。


日本人来客4人。若者3人、ドイツに住んでいる日本人1人。

読書「危機の宰相」(沢木耕太郎著:文芸春秋)
1960年安保闘争で退陣した岸信介の後任として就任した
池田勇人の「所得倍増計画」を追う。

投稿者 koyama : 17:35 | コメント (0)

2008年12月02日

散歩で道に迷う

晴天


午前6時起床。

午前7時朝食。赤米のおかゆ。

今日も太陽を見る。昨日30分の散歩をした。
今日も「ハイリーホテル」付近の川を中心に散策に行く。
今日は川沿いを歩き、橋を渡り対岸へ行き、再度橋を
渡り「ハイリーホテル」へ戻るコースを考え歩いてみた。
対岸へ行く途中、「闘鶏」を見た。フエ郊外の農村では
今でも自宅で闘鶏用のニワトリ(多分シャモ)を飼い
闘鶏場で闘わせる娯楽が残っている。
川淵に直径1Mほどのトタンで円を作り、ニワトリ2羽を
入れて闘わせていた。しばらく様子を見た。お金を
かけている訳でもない。純粋に自分の飼育したニワトリが
どれだけ強いかを競っている。
ニワトリは相手をくちばしでつつく。2羽のニワトリの
羽と首と足をつつき合い、血だらけ状態。しばらくつつきあいを
していたが、1羽がトタンのサークルから場外に逃げる。
それで勝負が付いたようだ。
飼い主は、それぞれのニワトリを抱いて、水で血が吹き出ている
場所を引いてやり、くちばしに布を置いて水を注入。
ニワトリは、何かドロドロしたものを吐き出していた。
戦いで興奮し、口中に何か異物が出来たものと思われる。
飼い主は、ニワトリを愛でながら、体中を濡れた布で慈しみながら
拭いてやっていた。こうした遊びがまだフエの郊外の農村に
残っている事を初めて知った。対岸に渡り川伝いに歩く。
何軒かの農村の庭に闘鶏用のニワトリが飼われていた。
娯楽のない農村時代には、こうした遊びが娯楽だったの
だろう。

などと考えながら「ハイリーホテル」の付近の川の対岸を
歩いているとばかり思っていたが、違っていた。
フエ郊外の農村の中心部分に入っていた。
改めて道を変え、「ハイリーホテル」付近の川沿いを探す。
何となくそんな雰囲気の川を見つけしばらく歩く。
対岸に「ハイリーホテル」を見つける。しかし、川を渡ることは
出来ない。橋がない。延々と歩きやっと橋を見つけわたる。
結局、「ハイリーホテル」まで1時間半の散歩となった。
午前11時10分「ハイリーホテル」に着く。

昼食。

昼寝。1時間の昼寝。太陽が出て夏のような気候。
洗濯。屋上に干す。

「テロルの決算」(沢木耕太郎著)を読む。浅沼稲次郎の生い立ち。
三宅島から早稲田に入り、無産者運動へ。
愛国党の赤尾敏も戦前共産党に入党し、その後右翼へ。
浅沼稲次郎と三宅島で会っている。

戦前の社会民主主義政党に加入。戦争末期、体制翼賛会
に参加。「大東亜戦争」賛美、天皇制護持を主張。
戦後、社会党の書記長。

午後4時、インターネットが通じなくなる。パソコンに
ウールスが侵入したようだ。

午後4時半、ベトナム事務所へ。ベトナム事務所で
インターネットを開く。

午後5時半から日本料理店で夕食。
中華料理でいう「五目うま煮」。



ベトナム事務所に、日本発の郵便が2通届く。
1通は理由なく「開封」されていた。
ベトナムでは通信の秘密はない。

来客若干名。

午後9時、日本料理店を出て「ハイリーホテル」へ。
洗濯の乾燥。

投稿者 koyama : 21:55 | コメント (0)

2008年12月01日

久しぶりに晴れる

11月29日の夕方行われた静岡会館日本語学校の
「お楽しみ会」の続報

●お楽しみ会の式次第


●ゲームで楽しくひと時を過ごす



金曜日の夜から準備していた「お汁粉」(おしるこ)を食べながら
日本文化を実体験する。



午前中、曇り。時々晴れ。午後、太陽を見る。



午前5時半起床。読書「永井荷風」読了。
「花火」は明治以降の軍国主義の歩みを批判的に
分析した作品。

私の読みたかった「断腸亭日乗」(日記)は、開戦の
時と敗戦の時の日記。荷風は開戦も敗戦もほとんど
関心を持っていない風な態度が見える。

午前7時朝食。ブンボー。

午前9時、久しぶりに太陽が出たので散歩。30分。
いつ雨が降るか分からないので傘を持って散策。
「ハイリーホテル」の近くの川筋を歩く。

久しぶりの太陽で農家の人たちが牛を外に出し、草を
食べさせていた。

30分ちょっとの散策を終え「ハイリーホテル」へ戻る。

インターネットの接続が悪い。なかなか繋がらない。
繋がっても直ぐにきれてしまう。
何とか必要なメールを時間をかけて送信。

午前11時半昼食。

午後12時半から2時間昼寝。

午後2時半から読書「テロルの決算」(沢木耕太郎著:文芸春秋)
1960年10月12日、日比谷公会堂で行われた自民党・社会党
民社党の立会い演説会。7ヶ月前に社会党党首になった
浅沼稲次郎が「右翼」の山口二矢(おとや)に刺殺された。
私は丁度中学1年生だった。浅沼稲次郎の刺殺をテレビで見て
強い衝撃を受けた。本書は、山口二矢が何故浅沼稲次郎を
刺殺するに至ったのか、当時、浅沼稲次郎はどんな立場に
いたのかなどをルポルタージュした作品。1978年作品。
10%程度読んだが、私は山口二矢を「頭の可笑しい人間」と
思っていた。しかし、彼の家族、生い立ちを見ると、まかりまちがえ
ば、共産党や「新左翼」に入っていた人間であることが分かる。
二矢の父親は成城中学で校長の小原邦芳に師事。
同級生に大岡昇平、下級生に森雅之んどがいた。
東北大を出た自由主義者。新劇などの劇団にも
所属している。自衛隊の軍国主義化を阻止するとして、
警察予備隊に入隊。二矢の事件の際は、自衛隊の1左(昔の大佐)
だった。母親の父(二矢の祖父)は有名な作家村上波六。
二矢の育った家庭環境は一定程度の知識人の家庭である
自由主義の雰囲気をもった家庭であった。

午後4時、日本から電話。高校同級生のY君から。

午後5時ベトナム事務所へ。ホーチミン市に行っている
バオミンさんといくつかの電話連絡。

日本料理店には、ACAの村上さんたちがわざわざ
帰国する間際に日本料理を食べに来てくれていた。
ありがたいことである。

午後5時半、ACAの村上さん一行はフエ空港へ。

午後9時過ぎ日本料理店閉店。来客は5人。

今日の太陽を見てフエの雨降りの時期も峠を越えたものと
推測する。

投稿者 koyama : 11:48 | コメント (0)