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2008年11月30日

ACA-AQUAの皆さんと懇談

午前中晴れる。昼曇り。夕方晴れる。
久しぶりに太陽を見た。

午前7時起床。
午前9時過ぎ、バオミンさんから電話。今日はACA-AQUA
の皆さんがベトナム事務所を訪問されるとのこと。
朝食のおかゆを作っていたのだが、そのままにして
ベトナム事務所へ。

午前9時半~午後12時過ぎまで懇談する。
内容はACA-AQUAと一緒にマブチモーター会長が
組織しているマブチ財団からのベトナム青年への
奨学金支給の件。フエから日本の大学に留学する学生に
毎月必要な奨学金を支給するというプロジェクト。
マブチ財団はアジアの青少年の育成を目的としている。
2009年6月試験、9月からの支給をめざす。

午後12時過ぎ「ハイリーホテル」に戻る。
太陽が顔を出している。急いで屋上に布団を干す。
いつ雨が降り出すかわからないので、そとの状況を観察ながら
「全かゆ」を食べる。

メール拝受・送信。

午後3時、夕食の「ほか弁」15000ドン(88円)を買う。
ご飯の上に野菜炒め、豚肉炒めなどが乗る。
大学近くの学生相手の食堂。安くておいしい。

ACAの皆さんとの懇談を写すためのデジカメを持って
行くのを忘れてしまった。ACAの村上の撮ったデジカメ
写真を私のノートパソコンに入れてもらう。
村上さんからもらったベトナム事務所での懇談の様子を
撮った写真を私の「ハイリーホテル」の「PICASA」に
移し変える。

読書「永井荷風」。「濹東綺譚」読了。読んでよかった。
今回永井荷風を読みたかったのは、「濹東綺譚」を
読むことだった。
不思議な本ではあるが、「濹東綺譚」の書かれた時代背景を
理解しないとこの本の本当の意味は分からないのかもしれない。
1936年に書かれた本である。戦争の真っ只中。軍国主義の
はびこっていた時代。多くの「文士」が軍部の指示に従い
戦争を賛美し、従軍作家として、戦争を鼓舞した時代である。
日本共産党員作家の小林多喜二が築地警察で虐殺されたのは
3年前の1933年である。軍国主義を謳歌し、協力しなければ
非国民・国賊と非難された時代である。
そうした時代に戦争に一切背を向け、江戸時代の戯作文学に
没頭し、浅草の玉の井(墨田区北部の私娼街)に入り浸り、
その情景を本にまとめているという姿勢こそ、永井荷風
という反骨精神旺盛な人そのものなのだ。
偏屈に見えるのも、近代の確立された個人というものを
しかっりともっていたことを示している。
「濹東綺譚」で「私は元来その習癖よりして党を結び、
群をなし、その威を借りて事をなすことを欲しない。
むしろこれを怯(きょう)となして排けている。
治国(政治関連)のことはこれを避けて論外に措く。
わたくしは芸林に遊ぶものの往々社を結び党を立てて
己に与する(くみする)を揚げ、与せざるを抑えようと
するするものを見て、これを怯(きょう:おくびょう)となし
・・・・・といっている。近代の徹底した個人主義である。
その裏には知性と教養の裏打ちがある。
戦後「文化勲章」をもらってもその姿勢は
一貫して「非主流」「反体制」的な生き方をしていると
思える。玉の井の私娼のお客を取る様子、玉の井の
下町の「人が一人通ればすれ違うのも難しい」裏路地
での庶民の生活が克明に綴られている。
荷風は何事も「自説」を持っている。「濹東綺譚」の中で暑い
夏に銀座のカフェーに入る。夏は銀座のカフェーでは
アイス紅茶、アイスコーヒーしか出さないとして、
暖かい紅茶、コーヒーを出す「万茶亭」にわざわざ行っている。
紅茶と珈琲は、香りで飲むものとの自説・こだわりが
ある。冷たくすると香りがなくなって、紅茶、珈琲を
飲む意味がないと言っている。小さなことにも
拘る性癖を持っている。よく言えば自分を持っている、
悪く言えば「自分勝手」とも言える人生を歩んでいる。
「濹東綺譚」を読むと永井荷風の読書欲には驚く。
こどもの頃から死ぬまで古本屋を回り、本を読んで
一生が終わった人かも知れない。
昭和11年(1936年)の時点で荷風はこんなことを
言って当時の若者や流行を批判している。
「彼らは店の内が込んでいると見るや、たちまち
鋭い目つきになって、空席を見出すと共に人ごみを
押し分けて驀進(ばくしん)する。物をあつらえるにも
人に先んじようとして大声を揚げ、卓子を叩き
杖で床を突いて給仕人を呼ぶ。中にはそれさえ待ちきれず
立って料理場を覗き、直接料理人に命令するものもある。
日曜日に物見遊山に出かけ汽車の中の空席を奪い取ろう
がためには、プラットホームから女子供を突き落とす事を
辞さないのも、こういう人たちである。
職場において一番手柄をなすのもこういう人たちである。
乗客の少ない電車の中でも、こういう人たちは五月人形の
ように股を八の字に開いて腰をかけ、取れるだけ場所を
取ろうとしている。何事をなすにも訓練が必要である。
彼らはわれわれのごとく徒歩して通学した者とは違って、
小学校へ通う時から雑踏する電車に飛び乗り、雑踏する
百貨店や活動小屋の階段を上下して先を争うことに
馴らされている。
自分の名を売るためには、自ら進んで全級の生徒を代表
し、時の大臣などに手紙を送る事を少しもおそれていない。
自分からこどもは無邪気で何をしても良い、何をしても
咎められる理由はないものと解釈している。こういう子供が
成長すれば、人より先に学位を得むとし、人より先に
職を求むとし、人より先に富をつくろうとする。この努力が
彼らの一生で、そのほかは何もない」と書いている。
72年前の記述である。今日の私たちが日常思っている
こととあまりにも共通性があり驚いてる。

今、ベトナム・フエに現れている現象は72年前に
永井荷風が詠嘆した当時の日本人と同じである。
「ホリエモン」が『お金儲けをしてなぜ悪い』
といったが、これほど「はしたない言葉」はない。
今の日本は「ハシタナイ」ことをはしたないと
思わない人々のやり放題の社会だ。
と同時にまさにフエの私の身の回りの
何人かの人間は、「はしたない人間」」の
サンプルといっていいような人がいる。
お金と出世のためなら、恩も義理も仲間の
全て捨ててしまう、人非人とも言える階層が
存在している。


午後5時過ぎ夕食。昼に「おかゆ」を少し食べたきりなので
空腹。
フダビールを飲む。するめを焼いて醤油をふりかけ、
冷蔵庫に2日ほどおくと美味しいおつまみになる。
今日は「井上陽水」のCDを聞きながら飲む。
「5月の別れ」などは落ちついて聞ける。いっそセレナーデ
も飲んで聞く時の歌。

フダー缶ビール2本。その後、「志太泉」(しだいずみ)
純米大吟醸(静岡県藤枝市志太泉酒蔵)を冷やして
飲む。JASS静岡の会のある方からの差し入れである。
するめをおつまみに「心太泉」を口中に入れ、転がすと
何ともいえない日本人の心が感じられる。魏志倭人伝
以来お酒は人間の生活につきもの。
ただし、清酒を飲むようになったのはそう遠い昔ではない。
昔は濁酒。(どぶろく・・・・)。吟醸酒は大名のお酒と
聞いたことがある。ベトナムで最高級の日本酒が
飲めることに感謝。確かに「するめ」と日本酒はあう。
今日は日曜日。休日であるが、午前中仕事をしたので
「午後の飲酒権」を獲得したと自認している。
この種の日本酒の味を知っている人こそ真の
「愛国者」なのである。「志太泉」を送ってくれた方に
感謝する。政界では「偽愛国者」が連日テレビに出ている。

洗濯。1週間溜まった衣類・タオルなどを洗濯する。

投稿者 koyama : 18:00 | コメント (0)

2008年11月29日

ベトナム事務所員会議

雨・曇り  終日寒い 気温20度

午前7時朝食  ブンボー。

●初めてデジカメのセルフタイマーを使って見る

午前8時半からベトナム事務所員会議。
私にとっては2ヶ月振りの会議である。


(ミン)しばらく小山先生がいなかった。今日は個人の活動、
    当面の日程などを報告して欲しい。

(ソン)「子どもの家」で在宅支援のこどもたちの写真を
    撮った。
(美葉)フエ高等師範大学1年・2年の授業。千草先生お別れ会
    来週2年生の授業が終わる。現在テストを作っている。

(いぶき)ゴック先生の代わりに授業を行った。
      中級は来週水曜日テスト
(千草)先週土曜日 初級テスト 26人が中級へ進級(2人再テスト)
    月 フエ高等師範大学  火 観光基礎コース 
    土 今日は初級・中級のお楽しみ会


(フン)観光基礎コース 12月7日3級の試験を受ける
    11月に10日間ほど静岡市の招待で日本へ行き日本語の
    研修をして来た。勉強になった。静岡市での経験を今後の
    静岡フエ青年交流会館日本語学校に生かして生きたい。
(ハン)里親へのメッセージ翻訳。メッセージにこどもたちの
    写真を貼った。来週、里親担当の渡辺さんに送る。


(クアン)手紙の翻訳 ツアーの日程を3つ作った。
(ミン)観光関連はクアンさんに少しずつ覚えてもらう
    「子どもの家」関係は現在問題なし 55人。
    テト終了後に入所予定のこどもたちは、学校の前期
    終了ご苦労様です。の2月中旬に入所させたい。
    ボランティア貯金の質問への回答資料つくり
    「縫製研修センター」関係。現在 3つ注文あり。
    ブラウス5000着(海外輸出3000着、国内2000着)
    ジーンズの生地で衣類を作る3000着(韓国より生地)
    糸などフエにないので関係者がホーチミン市に買いに行く。
    12月24日恒例の「第13回クリスマス会」開催
     ・全体責任者  ハン・美葉・ソン
     ・司会  いぶき ハン
    バンベー34号作成準備中
    地球の歩き方ミニツアー(12月2日~5日まで)

(小山)40日間日本で活動。 14回講演会をした。
     静岡大学とフエ高等師範大学・フエ省・フエ市との
     協定書調印の下準備をした。11月18日に協定書に
     調印し、今後、静岡大とフエ高等師範大学、静岡大と
     フエ省・フエ市との様々な交流が進むことになる。


10時過ぎベトナム事務所員会議終了。
ゴック先生は出産もあり、また体調も少し崩しているようで
今日は休暇。

ベトナム事務所で当面の課題について整理、仕事の段取りを
考える

午前11時半昼食。今日はハイ君と私の二人。日本語学校の
先生は今夜行われる「お楽しみ会」のお汁粉作りのため
昼食は日本料理店で。

午後12時半から2時間ほど昼寝。寒い。常に体がだるい。
フエの多くの人も体調を崩している。この15年間の体験から
こうした時は、とにかく寝ることとだ。

読書「永井荷風」。日和下駄を読み終える。
荷風はとにかく銀座や東京の中心となる場所を忌み嫌い、
下町を歩く。根津、団子坂・・・・。根津の隣に「汐見」という
地名がある。文京区立汐見小があった。荷風によれば
昔ここから海が見えたとのこと。上富士という地名もある。
駒込付近。ここからは富士山が見えたと言っている。
大正4年のことである。1915年。
崖についても詳細に書いている。「上野から道灌山・飛鳥山
高地の側面は崖の中でも最も偉大なものであるろう。」と
書いている。数年前、高島平の自宅から中山道を通って
大和町交差点で環七に入り、姥が橋から十条を抜け、
飛鳥山・音無川を通り、道灌山を抜け、上富士を
左に折れ、根津を通って池之端・上野まで歩いたことが
あるが、上野から飛鳥山を崖とは思っていなかった。
荷風は森鴎外の家へ何度も行っている。

「濹東綺譚」(ぼくとうきたん)を読む昭和11年。1936年。
既にアジア・太平洋戦争に突入している。
浅草のはずれ、玉の井駅付近の場末の娼婦「お雪」との
出会い・・。当時のこの種の世界の決まりごとなど細かく
記されている。


関係者にメール送信。


午後5時半、静岡フエ青年交流会館日本語学校へ。
今日は、初級と中級の生徒と先生の「お楽しみ会」。

千草先生の司会で始まる。

先生の紹介


一応、私はこの日本語学校の校長になっているが、私が校長
と知っている生徒はいない。

今夜は日本紹介、お汁粉試食など様々な企画があるが、
私は途中で日本料理店へ。

今夜は「マカロニうどん」

こどもたちはたくさん食べた。

私はフダ生ビールの小グラス6杯飲む。

その後、ベトナム事務所で仕事。

今日の来客2名。

午後9時閉店。帰宅。

フエに戻って毎日雨なのでいい加減気が滅入ってしまう。

投稿者 koyama : 09:14 | コメント (0)

2008年11月28日

終日ベトナム事務所の仕事

午前中、時々晴れ。午後雨。夜曇り

午前6時起床。

午前7時朝食。おこわ。

午前8時過ぎからお昼までメール受信。送信。
当面のいくつかの問題についての私見をまとめる。

読書「永井荷風」を読む。
「日和下駄」(一名東京散策記)
大正初期の東京散策記録。私の知っている東京の
各地を大正初期に荷風が歩いた散策記。
小石川・神田・浅草・千束・・・・・・。
荷風は、明治維新時、薩長の連中は江戸・東京を
欧米の真似事をして、レンガつくりとの建物をたて
江戸の名残を潰したと憤っている。
永井荷風の時流に流されない反骨精神と社会と
人生を「斜に構えた」生き方に共感する。

昼食。

午後3時から関係者にメール送信。

午後5時半、日本料理店へ。大塚さん・こどもたちと
夕食。


午後12時半から2時間昼寝。熟睡。


その後、ベトナム事務所のパソコンにJASS教育の会の
加藤さんからもらったウイルスバスター「ノートン」を入れる。

日本料理店来客5人。

午後9時前に「ハイリーホテル」へ戻る。

昨日のウインドウズの再インストールは、大きな問題が
残った。

ウインドウズ・メディア・プレーヤーズに入力されていた
音楽も全て消えてしまった。また、単語・用例登録に
登録されてていた短縮機能も全て消えていた。
再度、やりなし。

投稿者 koyama : 22:25 | コメント (0)

2008年11月27日

来客対応・パソコン修理

午前中雨。午後曇り。寒い。

終日、強い風。「ハイリーホテル」5階の私の部屋では
ヒュー・ヒューという風の音が一日中聞こえる。

午前4時目が覚める。読書「永井荷風」を読む。
・あめりか物語(林間)(落ち葉)
・ふらんす物語(ローン河のほとり)(秋のちまた)
延々と情景描写が続く。多少漢文調ではあるが、
アメリカの林や山、気候、雲、太陽などの細かな
色彩と光の情景をつぶさに描いている。

・すみだ川
 先代の落語家「柳亭痴楽」のおはこのひとつ。
 何度もテームで聞いた。今回初めて、原文「すみだ川」
 を読む。明治40年代の東京下町の風景が詳しく書かれている。
 浅草、千束・・・・。当時の庶民の生活もわかる。
 文学・芸術を好む青年の細かな心理を詳しく描いている。
 当時の若い男女の恋愛の様子も垣間見える。

午前7時朝食。

精進ブン麺。野菜豊富。

まだ体調がおかしい。下痢と喉痛、倦怠、寒気あり。

日本からボランティア貯金に関する質問が送られてくる。
ミンさんと電話で連絡しながら必要な回答を考える。

パソコンが起動しなくなる。業者を呼ぶ。
午前10時から午後2時まで私の部屋で部品の交換、修理
を行う。4時間、部屋で修理の様子を見る。

途中、午前11時半昼食。

ご飯、野菜スープ、ミットの煮物、魚と豚肉の煮物



午後2時過ぎ、パソコンの部品交換と修理が終わる。湿度が高く
部品の水気が溜まるのも原因のひとつ。

午後2時半、ベトナム事務所へ。昨夜、日本料理店に
カンボジアで日本語学校を運営していた方が来店。
私に会いたいとのこと。お会いする。
現在はドイツで仕事をしているという。2時間ほど話す。
色々と話していくうちに高校の同級生「與芝君」と同じ会社で
仕事をしていたことがわかる。世間は広いようで狭いものだ。
現在はドイツでラグビーなどを行っているとのこと。

午後4時半、クアンさんが日本語学校へ案内。
私は体調不良につき、「ハイリーホテル」へ戻り、メールの
受信、必要な送信を行う。
ボランティア貯金の質問への回答を送る。

ハイ君が「ハイリーホテル」警備の勤務時間中に
どこかへ遊びにいってしまい、勤務を果たしていない。
問題あり。

ハイ君に夕食を持ってきてもらうように話したのだが、
石上先生が「ハイリーホテル」に夕食のお弁当を
持ってきてくれる。事情は不明。石上先生に感謝。

大塚さんが作ってくれたお弁当を頂く。
スープを飲むが「誤嚥」(ごえん:誤って気管に入ってしまう)。
最近、ミネラルウオーターを飲んでも、ビールを飲んでも
誤嚥をすることが多い。その度に涙を流し咳き込む。
明らかに老化現象の一端と見た。

夜、永井荷風の「遊西日記抄」を読む。非常に面白い。
明治37年(1904年)アメリカに渡り様々な経験をする。
父親は経済人になって欲しいとの意図でアメリカ渡航の
金銭を出すが、荷風は作家になりたくて渡米する。
ニューヨークでアメリカ、フランス、ロシア、イタリヤ
などの歌劇、交響楽などたくさんの生の演奏を聴く。
娼婦との出会い。

夜、2回停電あり。豪雨。

投稿者 koyama : 18:54 | コメント (0)

2008年11月26日

終日雨。いくつかの打ち合わせ

朝から大雨。1日中、雨が続く。一部の道は
川のようになっている。

午前6時起床。中々起きられない。体調不良。

午前7時朝食。

赤米のおかゆ。

緊急にバオミンさんと打ち合わせの必要が出てくる。
外は大雨。カッパを着て電動自転車で行くと体がびしょ濡れになる。
今日は1日寝て体を休めようと思っていたのだが、緊急に
打ち合わせの必要あり。雨に濡れて体調を一層崩すのも問題が
あるのでタクシーを呼ぶ。ベトナム事務所まで10分ほど。120円。

バオミンさんPさんで3時間ほど懇談。結論に達する。

午前11時過ぎ、3人の話し合いを終了。
外は豪雨。タクシーを呼んで「ハイリーホテル」。

午前11時40分、昼食。石上先生も体調を崩す。

午後12時半。昼寝。2時間ほど熟睡。疲労と急激な温度の低下
が風邪の原因。ベトナム事務所の皆さんの話を聞くと、
クアン先生、バオミンさんと順番に「同一症状」の風邪を引いている
とのこと。

午後3時、京都のSさんにメールを送る。
昨日から今日の午後までインターネットがつながらなかった。
ベトナム事務所は繋がるとのこと。「ハイリーホテル」の
インターネット接続が悪かった。松田先生の部屋が中継点。
外部と「ハイリーホテル」の中継接点に異常あり。

この数日間、受信したメールへの返信を書き送信。

午後5時読書。頭が少し痛いが無理をして読む。
「永井荷風」の半全集もの。筑摩書房。永井荷風の
「ぼく東奇譚」と「断腸亭日乗」を読みたかった。
他の本を読んでいると、この2冊はよく引用されている。
永井荷風は1879年(明治12年)東京東京小石川生まれ。
父親は文部省会計局長。現在の東京学芸大付属竹早小、
東京教育大付属中を出て、第1高等学校(現在の東大)
受験に失敗し、高等商業学校付属清語学科入学。(18歳)
いいとこの「お坊ちゃん」である。
20歳位から人生が多少「曲がって」来た。
20歳で落語家の「朝寝坊むらく」に入門。巌谷小波に師事。
外国語学校除籍。
22歳日出国新聞社入社。「新梅ごよみ」を同紙に連載。
25歳で父親の援助を受けてアメリカへ行く。28歳でフランスでへ。
永井荷風「あめりか物語」を読む。明治40年前後のアメリカでの
生活を書く。黒人に対する差別の実情をしる。
この時期の荷風の文体は、明治末期のもので、漢文調も混じった
口語文体。多少読みづらいところもあるが、意味は十分理解できる。

午後5時半、日本料理店で夕食の筈だったが、体調が悪く、
「ハイリーホテル」にいる。
午後6時過ぎ、ハイ君が日本料理店で夕食をした後、お弁当を
持ってくれる予定だったが、ハイ君は日本料理店に行かなかった。
「ハイリーホテル」の警備員の仕事も放棄してどこかへ遊びに行って
しまった。3日前に給料をあげたので金回りが良くなってのことか?
石上先生がわざわざ私の部屋まで夕食のお弁当を持ってきて
くれる。感謝。

夕方から洗濯。毛布などを乾燥機にかける。
湿度が高く部屋の床が水滴で濡れている。室内は湿度100%を
超え「液化」して床に溜まっている。


反政府勢力に占拠されたタイ・バンコク郊外のスワンナプーム
国際空港の閉鎖は、私たちにも影響を与えている。
明日、財団法人「自治体國際化協会」の皆さんがフエを訪問し
「子どもの家」を視察する予定だった。現在、バンコックに滞在。
空港の閉鎖で明日、ベトナムへ来ることができなくなったとの
電話がバンコックからベトナム事務所に入る。

投稿者 koyama : 17:46 | コメント (0)

2008年11月25日

終日通常業務・風邪の症状

終日雨。午後豪雨。

午前6時起床。30分ほど読書。

朝から大雨。

午前7時朝食。「チャオバンカイン」(キャッサバ芋のうどん)


午前中、「ハイリーホテル」でボランティア貯金からの質問状へ
の回答を書く。結構時間がかかる。

午前11時半、昼食。

ベトナム事務所から日本語教師の3人が雨具姿で帰宅。


昼食はご飯と魚、スープ、野菜サラダ。


午後12時半から昼寝。風邪を引く。下痢と喉痛。倦怠感。

午後2時読書「やんごとなき姫君たちの秘め事」読了。
欧米の下ネタ系の話を書いた本をたくさん読んだ著者が、
その内容を「つまみ食い的」にまとめたもの。
底が浅い。米原万理と比較するのも僭越。
米原万理の博識には足元にも及ばない。
昔ソ連の映画「戦艦ポチョムキン」を何度か見たが、
ポチョムキンが、ロシアの軍人で皇后の愛人の名前だった
ということを初めて知った。

たくさんのメールが入る。必要なメールへの返事。

午後4時過ぎ、雨の中、床屋へ。30分ほど待たされ
2ヶ月ぶりに床屋へ行く。120円。

午後5時半、ベトナム事務所へ。まだハンさんが仕事をしていた。
里親への手紙の翻訳をしているとのこと。真面目なスタッフに出会えて
感謝している。

午後5時半過ぎ、日本料理店で夕食。体調不良だが、軽く飲む。
肉入り野菜おかゆ。美味しい。


昨日は12人の来店があった。今日は3人のベトナムの来客。

午後9時過ぎ閉店。雨の中、「ハイリーホテル」へ帰る。


投稿者 koyama : 22:53 | コメント (0)

2008年11月24日

通常のベトナム事務所の仕事

午前中少し晴れ間も見えたが曇り、午後から夜になり豪雨。

午前5時起床。読書「やんごとなき姫君たちの秘め事」

午前7時朝食。フォー。

午前9時、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所で私の誕生会を準備していた。
ベトナム事務所員の寄せ書きを貰う。

私の好きなフダビール2ダースを記念にもらう。


静岡市長の招待で静岡市内の観光会社・ホテル・市役所などで
日本語の研修をしていたフーン先生など日本語学校関係者
2名が無事帰国。訪日期間中、小嶋善吉静岡市長とも懇談。
地元静岡新聞の大きく取りあげられた。静岡市役所国際課
をはじめ、関係者の皆さんにお礼申し上げたい。


北海道雄武町の菊先生より地元関係者から
子どもたちへの各種作品などが贈られてきた。
無事ベトナム事務所まで届き、ほっとしている。
菊先生にも感謝。

昼食。

午後12時過ぎから昼寝。
午後1時、読書「やんごとなき姫君たちの秘め事」

午後3時、ベトナム事務所へ。
バオミンさん・ハンさんとボランティア貯金報告書関連で
ボランティア貯金より寄せられた10の質問についての
回答を検討。午後5時過ぎまで検討は続く。

その間、以前の事務所前にいたて顔見知りの
シクロの運転手さんが姪(中学2年生)を連れて
やってきた。1ヶ月前にある病気で右足をももから切断した
という。現在は父親(シクロさんの弟)が、学校まで
連れて行っているが、一人で移動できないので
「義足」か「車椅子」をもらえないかとの相談。
義足について調べたが、フエでは作れないとのこと。
車椅子を贈呈することにする。来年2月に「子どもの家」
を訪問する北海道芸術高校の皆さんが、北海道札幌
の「飛んでけ 車椅子」と提携し、何台か車椅子を
ベトナム事務所まで手持ちで運んでくれることになっている。
体重30キロ 身長150センチ。数ヶ月待ってもらうことにする。

その後、今年の9月から地元のフールー小学校に就職をした
「子どもの家」のユオンさんがベトナム事務所にやってくる。


フールー小学校は、60%近くの児童が船上生活をしている
貧しい家庭の子どもたちである。学校教師見習いとしての
日常生活の実情を聞く。ベトナムでは就職しても1年間は
仮採用である。1年後に労働組合と校長の認定で、正式採用
にするのか、採用しないかが決まる。この1年間は大事な
1年間なので、全力で教育の仕事にまい進するよう助言する。
現在の勤務は月曜日は朝7時~10時半、午後1時半~4時半、
火曜日から金曜日までは、午後1時半~4時半まで。
担任は持たず、全クラス(15クラス)の図工を担当している
とのこと。月給は120万ドン。下宿代35万ドン、光熱費5万ドン。
80万ドンで生活している。
妹のグエットさん(日本料理店接客主任)と二人で下宿生活を
始めた。姉妹とも「子どもの家」の創立時から「子どもの家」に
入所していた。14年間たって、やっと二人とも自立したことになる。
妹の日本料理店での月給とあわせると十分・余裕をもって生活できる
金額である。贅沢を慎みながら生活するよう助言する。

更に午後4時半になって「ハイリーホテル」のハイ君が
「石鹸がなくなったので石鹸代が欲しい」と言ってやってくる。
先週の土曜日に月給を渡す日だったが、「子どもの家」創立14
周年記念式典があり渡せなかったので、ハイ君の月給を渡す。

ハイ君は、もらった月給を直ぐに無駄遣いしてしまう。
食費と住居費は無料なのだから、もらったお金は衣類と
石鹸など多少の生活費に使えば、毎月相当の金額が
余るはずなのに、私の不在中の10月には、貸してあげていた
自転車を売っていまいお金にかえるなど、未だに金銭の
管理が十分できない状態である。既に23歳になるので
金銭管理を自分でしっかりとするよう注意をする。
また、自分の仕事である「ハイリーホテル」の警備員として
しごとを全うしていないので、決まった仕事内容はきちんと
遂行するよう促す。1階フロアーの掃除、1階から5階までの
階段の掃除。決められた時間は必ず1階のフロアーで
訪問者等の受付などを行うように話す。

午後5時過ぎまでバオミンさん・ハンさんとボランティア貯金
会計報告書についての「10の質問」への回答内容を
話し合う。

ベトナム事務所にある私のパソコンが故障。業者を呼び
直してもらう。原因は1ヶ月半使わなかったこと、湿度が
高く、内部の部品がかびてしまったことなどが原因とのこと。

午後5時40分より夕食。

日本料理店からの帰りは、豪雨。カッパを突き抜けて
雨が衣類をぬらす。びしょ濡れで「ハイリーホテル」へ
戻る。

投稿者 koyama : 00:30 | コメント (0)

2008年11月23日

休日・誕生日

午前中晴天(太陽が出る)
午後、豪雨。

午前5時起床。
読書「田中清玄自伝」(ちくま文庫)

午前8時前、静岡の滝下さんから国際電話。
バオミンさんと電話で当面の諸問題についての打ち合わせ。

午前9時、フエに来て初めての太陽。
急いで衣類、バッグ、雨合羽、帽子、布団など
かび臭くなっているものを屋上に干す。

部屋の掃除。ベッドの下や部屋の隅などのごみを
綺麗に取る。床を水でふく。

机上などの整理。私の頭の中での活動は、
7月からはじまり、11月22日までの長期間連続の
活動の一塊(ひとかたまり)が昨日終わったとうのが
実感。

約4ヶ月半、朝から夜まで活動が続いた。日曜日も
なかった。部屋の整理、机上の整理などをする時間が
なかったのも事実である。もっと、本来的に整理整頓が
嫌いでもあるのだが・・・・・。

午前中、メールの受信・返信に熱中していたら、雨が降り出して
いた。屋上に干した布団などが濡れてしまった。
この時期、フエの天気の変化が早いのには、辟易している。

午後12時過ぎ、読書「田中清玄自伝」(ちくま文庫)読了
田中清玄と聞いただけで「反共右翼」「戦前の武装共産党時代の
書記長」などというイメージがあり、「清玄自伝」を読んでも意味の
ないものとの先入観があったのは事実だ。古本屋にあり安かった
こと、何事も「色眼鏡」で見ずに、そのものに直接触れてみること
が必要と思い読んでみる。
400ページの本であったが、読後感は、「読む価値はあった」という
ことに尽きる。田中清玄と聞いただけで、彼が何を考え、どんな
人生を送ったかを知らずに「色眼鏡」と「思想的偏見」だけで
人間を見る愚かしさを自分自身でも感じた。と言っても
田中清玄を肯定するものでもないが、一人の人間が、
北海道で生まれ、弘前高校で学生運動を組織し、東大に入り、
同時に新人会、共産党に入党。その後、共産党が弾圧の
中で組織が壊滅し、田中清玄はコミンテルンから国際共産党
日本支部書記長と認定され、活動を進め、検挙。
母親は会津藩家老の家柄。清玄が共産党で活動するのを
知り、何度も脱党を進めるが清玄は聞かない。
とうとう清玄24歳の時、母親は清玄を諌めるために「割腹自殺」
してしまう。
10年間の刑務所暮らしの中で「共産主義との決別宣言」を
行い、禅宗に入門。
1945年、昭和天皇に会い、天皇制の維持、皇室の財産の
放棄、国民に顔を見せるよう進言する。
戦後は反共・反米の思想を鮮明にしながら、「アジア連盟」
設立、世界環境保全、エネルギー資源確保の活動を進める。
湾岸戦争に反対し、日本はアラブ諸国と仲良くし、アメリカの
暴走を諌めるべきだとの立場を取る。中国との付き合いを重視。
アメリカ一国主義を厳しく批判した右翼でもある。
西洋合理主義文明に対する批判を持ち、アジアの文明の
複合的な価値観で西洋合理主義文明を包み込もうとする
行動も行っている。
清玄は彼なりの主張と思想を持ち、それを87歳でなくなるまで
貫徹してことは学ぶべきものがある。会津人の一徹な生き方を
感じた。

今日は私の誕生日。

何人かの方々からお祝いのメールを頂く。
遠くはヒマラヤの奥地を旅行している「京滋YOUの会」の方からの
お祝いのメールもあった。

午後5時、食堂に飲みに行く。

午後7時半帰宅。引き続き、自分で自分の誕生祝いを
行う。上尾方面の方から「誕生祝で飲み過ぎないように」
とのありがたい言葉を頂いたのでほどほどに。
この「程ほど」と言うのが、中々難しい。

読書「やんごとなき姫君の秘め事」(桐生操著:角川文庫)
ヨーロッパの王侯貴族の夜の生活の「学術的研究書」。
ヨーロッパの薀蓄を駆使しての本。
米原万里の「焼き直し」本とも言える。

誕生祝のメールを送って頂いた方々にお礼のメールを
書く。

火炎樹日記を書きながら改めて中島みゆきの
CDを聞いてみた。私が90年代の歌があまり好きに
なれなかった最大の理由は、歌詞に重点をおかず、
リズムばかりが先行する音楽に違和感を感じたからだ。
中島みゆきの素晴らしいところは、「ことば」を大切に
していることだ。
今日は「ファイト」を何度も聞いた。
中島みゆきは、「闘う」「闘い」と言う言葉を何度も使っている。
「誕生」も歌詞が良い。ストリートチルドレンの支援活動の
原点となる歌詞である。「時代」の歌詞も良い。
最後の女神、浅い眠り、ルージュ。ルージュは香港で
リメイクされ1993年にフエに来た頃、ベトナムの若者の
間で大流行していた。ベトナム人は香港の歌だと言い張って
いた。中島みゆきが「ちあきなおみ」に作った歌だったが
ヒットせず、その後、中島みゆき自身が歌い、それを
香港の歌手がリメイクしアジアで大ヒットした。

今年の最大の収穫は中島みゆきの母校である藤女子大で
講演会が出来たことだ。雄武町の菊先生に感謝している。

投稿者 koyama : 12:03 | コメント (0)

2008年11月22日

「子どもの家」創立14周年記念式典

終日雨。寒い

午前7時朝食。おかゆ。半分ほど食べて渡辺和代さんの
投宿しているホテルへ。
1週間ほどのフエ滞在だった。小児癌のケアーの
詳細打ち合わせをフエ中央病院小児科の関係者と
行う。墨を使っての患者の子どもたちへの
ボランティアの方も同行した滞在だった。
午前7時半、ホテルでACCLの渡辺和代さんと友人の
方を見送る。


午前8時半、「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。
ベトナム事務所員全員とタクシーで「子どもの家」へ。
今日は「子どもの家」創立14周年記念式典。
1994年11月に創設された「子どもの家」は今年で満14年を
迎えた。早いものである。3歳で入所した子どもも高校生。
設立時に入所した子どもたちも何人かはまだ残っている。

午前9時、14周年記念式典が始る。

ロック寮長の司会とハンさんの通訳。


初めに子どもたちの踊り



最後に女の子のファッションショー。
セメントの袋紙で作った衣類で登場。




続いて14周年記念の誕生ケーキに点火
(セン運営委員長と小山)



地元フエテレビも取材に来ていた。


式典の最初はセン運営委員長の「子どもの家」14年の
歴史とその成果の発表。



続いて私の挨拶。日本の多くの支援者のことを忘れないように
という趣旨の話をする。

「子どもの家」の子どもたち代表でTHUYさんがお礼の言葉。
THUYさんは、今年の9月からフエ師範大学(ベトナム中部で
最難関の大学)の化学科に進学。自分が今日あるのは
「子どもの家」のスタッフの皆さん、日本の支援者の皆さんの
お陰と感謝しているとお礼を述べる。

最後は今日の式典の踊りなどの優秀者への表彰。





最後に全員写真を写す。外は雨。



式典終了後、会食。会食を楽しみに待っている子どもたち。


待ちに待った会食が始る。専門の料理人を入れる。



「子どもの家」のスタッフとベトナム事務所員も会食をし
創立記念日を祝う




午後12時過ぎ「ハイリーホテル」へ戻る。雨。

午後2時半まで昼寝。

読書「田中清玄自伝」を読む。

午後5時半、日本料理店で夕食。

今日は日本人2人、欧米系2人。合計4人の来客。

午後9時閉店。

投稿者 koyama : 23:25 | コメント (0)

2008年11月21日

終日、JASS関連の仕事

終日雨。時々豪雨。気温20度。寒い。

午前7時朝食。
ブンボー。体調が悪いせいか美味しくない。3分の1ほど
残す。

しばらく日本語の先生と不在中の出来事其の他の四方山話
をする。

午前9時半、11月12日から16日までのハノイ滞在、
18日・19日フエ調印式、20日・21日ハノイ滞在中の
大量のメールを再度読み直し、返事を出していないメールが
あるか確認。いくつかの大事なメールに返事を出していなかった。
時間をかけてメールをだす。

その後、部屋の片付け、整理。荷物等の整理。それでも
部屋はまだ雑然としている。

午前11時半、昼食。

午後12時半から昼寝。

午後2時読書「田中清玄自伝」(ちくま文庫)を読む。
田中清玄(たなか きよはる)は、戦前の共産党の
幹部であり、戦後は反共右翼の巨頭であった。
どんな人生を歩んだのか興味あり。古本屋にあったので
買ってみた。生い立ちは、会津家老の子孫。
毎日新聞編集委員がインタビューをするという形式で
生い立ち(祖先、生まれ)などを語り、弘前高校で
革命運動に入る。1993年出版し、その年、87歳で死去。

バオミンさんと電話でいくつかの問題についへ話し合う。
渡辺和代さんと電話で話し合う。

JASS日本委員長にメール。当面の諸問題。

「子どもの家」セン運営委員長から電話。
明日、「子どもの家」創立15周年記念式典を行う。
日本料理店で研修をしている2人の子どもたちが
式典で歌や踊りをする。今日はその練習のため
日本料理店にいけないとのこと。
急いで大塚さんに電話。大塚さんと話し合い、
今日の日本料理店は休店とした。

午後5時、夕食を買いに外へ出る。大雨。
日本からカッパを買ってきたが、体の中まで雨が
しみこんでくる。

ベトナム事務所近くの「ほか弁屋」で15000ドン(100円)
のほか弁と水を買う。

「ハイリーホテル」へ戻る。日本から持ってきた本を整理する。

改めて2008年1月から今日までの読書録を整理する。
昨日までで69冊。1週間1冊のペース。
3月4月と7月8月9月は訪問者が多く読書の時間が
取れない。
年度当初100冊の読書を目標としていた。
これから年末まで時間があれば、20冊程度の読書をしようと
計画。私の読書の基本的なスタンスは「娯楽」である。
面白いかどうかは別にして、娯楽として読書を「楽し」んでいる。
どんなジャンルの本でも読みたい。世の中の出来事、私の
知らない世界に大いに興味がある。勉強・義務としての
読書を排する。読書をすることで人間性を豊かにするなどという
大それた気持ちはない。落語のCDを聞くのと読書は同じ
もの。その時点で「その世界」に入り、当面の雑事を忘れられる
娯楽。
近代化が進めば進むほど、人間は細分化された領域に
生きるようになる。特定の分野しか視野に入らなくなる。
ポピュリズムはそうした時代に人間を騙し、一定の
方向に誘導する。一種のファシズム。小泉改革がその典型。
そういう時代だからこそ、自分に関係ない分野の状況を知ること、
人間を総体としてとらえる小説などを読む意味があり、「細分化」の
対極としての「人間総体」を見たくなるのであり、読みたくなるものなのだ。

午後7時半、夕食。美味しい緑茶が飲みたくなる。
冷蔵庫を探すとあった。丁寧にお茶を入れ、適温に冷まし、
数分間置く。美味しいお茶を最後の一滴まで入れる。
美味しい緑茶を飲むと気持ちが本当にリラックスする。

急激に気温が下がる。フエ人の多くの人が体調を崩す。
バオミンさんも体調を崩し、午後は家で休む。

投稿者 koyama : 19:36 | コメント (0)

2008年11月20日

ハノイ→フエへ

ハノイ晴天
フエ終日雨 寒い

午前5時起床。メールを開く。多くのメールが入っている。
全てに目を通し、必要な返事を出す。シャワーを浴びる。

午前8時、バオミンさんと一緒にホテルの食堂で朝食。
フォーを食べる。

午前8時半、ホテルフロントに空港までのタクシーを頼む。
10分経ってもこない。フロントの係りは「直ぐ来ます」と言うが
15分過ぎてもこない。時間がないので、ホテル前に
出てタクシーを拾う。

空港まで行くが途中渋滞に巻き込まれる。
午前10時10分発のフエ行きに乗る予定。午前9時50分に
到着。20分前。
チェックインカウンターに並ぼうとしたが、係員が来て
チケットを見せろと言う。見せる。『この飛行機は既に
満席。チェックインは終了している。今から入場しても
間に合わない』と言う。
私たちは、20分もあるのだから問題ない。チェックインさせろ
と押し問答。とにかくチェックインカウンターに行かせろと
要求。押し問答の末チェックインカウンターへ行く。四の五の
言うが、何とかボーディングパスをくれる。セキュリティーチェックも
長蛇の列。やっと入場。
フエ行きの入り口へ行きボーディングパスを出すと
「飛行機が遅れていて、まだ入場できない。待つように」との
こと。チェックインカウンター前の係りとチェックインカウンターの
人間は何を考えているのだろうか?
飛行機が遅れていて、未だに搭乗すらできていない飛行機が
「満席で既に入場していて、今からでは乗れない」などと
嘘八百。数日前に交通事故の渋滞と警察の検問で
2分遅れ飛行機に乗れなかった時も予約カウンターの
若い女性は「3日間フエ行き、ダナン行き、ホーチミン市行き、
そして全てのビジネスクラスは満席」と平然と言った。
昨日、フエ空港の警備隊長に会った際、11月16日の
夕方のハノイ→フエの最終便は何人位乗っていたか
のか聞いてみた。「ほどんどお客はいなかった」とのこと。
ハノイの予約カウンターのスタッフは調べもせずにでたらめを
言った事が証明された。今回もチェックイン係りとチェックイン
カウンター係りは、嘘ばかりついていた。
ハノイ空港のスタッフは、そもそも「仕事について、誰も
責任をもっていない。仕事をきちんとやろうと言う人間として
の最低のモラルすらない」。人民に奉仕する社会主義の
現実である。

1時間の機内では疲れが出たのか寝ていた。

午後11時30分、フエ着。そのまま「ハイリーホテル」へ。
ハイ君が昼食を食べずに待ってくれていた。

食事をして5階の部屋へ。カビの異臭が漂う。フエに戻ってから
掃除すらする時間がなかった。

とりあえず、昼寝をする。疲れと睡眠不足で熟睡。

午後2時から夜までかけてカビた衣類の洗濯を2回する。

部屋の掃除。蜂の遺骸を掃除。1時間ほどかかる。
その間、雨が降ってはいたが、窓を全開し部屋に風を入れる。
多少、カビの臭いが減ったような気はするが
「臭いに慣れた」せいかも知れない。

渡辺和代さんから電話。知り合いの方が私に会いたいとのこと。
午後4時半にベトナム事務所でお会いする。外は大雨。
「ハイリーホテル」からベトナム事務所までの10分ほどの
間に雨具を着てはいたが、それでも相当ぬれてしまう。
京都から来られた女性。京都大学病院の小児病棟で「墨あそび」
をしているとのこと。病気の子どもたちに墨を使って好きに
遊ばせるボランティア。活動の様子を写真で見る。
病気で暗くなっている子どもたちの表情が明るい。素晴らしい
ボランティアである。このボランティアを12年間も続けている
会に属しているとのこと。

その後、3階の刺繍みやげ物店で刺繍を買って頂く。

午後6時過ぎ、日本料理店で夕食。既に子どもたちは食事を
終わっていた。

日本語の先生3人はお客さんとしてお店で夕食を摂っていた。
日本料理を調理する子どもたち

午後7時過ぎ、若者が私を訪ねてくる。

25年前に教員仲間40人ほどでヨーロッパを訪問したことがある。
ポーランド(オウシュビッツ)、オランダ(アンネフランクの家)、
イタリア、フランスなど。その際の添乗員のOさんの息子さん。
当時3歳だった。その後、0さんは、戦後の公選制の教育委員の
最後の(準公選)東京中野区の教育委員長となり、10年ほど前に
中野区教育委員長として「子どもの家」を訪問したことがある。
息子さんも随分大きくなったものである。しばらく懇談。
明日、「子どもの家」を訪問することになった。

日本料理店には「縫製研修センター」支援の宇都宮縫製工業
組合理事長の佐藤さんも来て、夕食を摂ってくれていた。
こうして日本料理店を使ってくれることはありがたいことである。

午後8時半、私は次の仕事があり、日本料理店と中座する。

投稿者 koyama : 07:48 | コメント (0)

2008年11月19日

静岡大学代表団とハノイへ

曇り・時々雨

午前5時起床。入浴。荷物の整理をし、午前6時半に
静岡大学代表団、バオミンさんと一緒に車で
フエ空港へ。

午前8時10分フエ空港発のベトナ航空便でハノイへ。

ノイバイ空港(ハノイ)から車で「ベトナム・日本人材協力センター」
を訪問。このセンターはJICAの支援を受けて
①ビズネスコース  ②日本語コース  ③交流事業
④図書館などを運営している。当人材協力センターを
作った初代所長の堀切さんと以前からの知り合いだった。


●小樋山所長からセンターの活動などについての
  説明を受ける。

当センターはハノイ貿易大学構内にあり、2000年から10年間
の活動で一応、活動を停止する計画とのこと。


午前11時45分、センター所長等との懇談・聞き取りを
終え、ハノイ市内で昼食。一般のベトナム料理を摂る。

午後2時過ぎ、市内の国営デパートでお土産を買う。

午後4時、在越日本大使館へ。
坂場三男大使と会談。静岡大学とフエ省・フエ市、フエ高等師範大
との協定書調印の内容等を説明する。
大使からは静岡大学とフエとの協定書調印を歓迎し、
出来る応援をしたいとの話を頂く。


約1時間ほどの懇談を終えて退席。


大使館の庭でバオミンさんと写真を撮る。


大使館の入り口で記念写真



午後5時過ぎ、大使館を後にし、市内に入る。市内は異常な
交通渋滞。

午後6時、チャーカー通りの「チャーカー」専門店へ。
チャーカーは魚とハノイ独特の野菜を油で炒めたもの。
炭火で食べる。


2日間のハードスケジュールを無事終了し、全員で
活動の成功を祝って乾杯。美味しい「ハリダビール」
だった。



午後6時過ぎ、チャーカー専門店を出て、ノイバイ空港へ。

午後8時過ぎ空港着。チェックインに1時間ほど時間が
あったので静大の皆さんは喫茶店で時間待ち。

私とバオミンさんは静大の皆さんと別れ、市内の
ホテルへ向かう。

昨日の朝はハノイから15時間のバスの旅だった。
昨日1日中、静岡大学と活動。今日は朝早くから
ハノイで活動。めまぐるしく活動した2日間だったが
大いに成果のあった2日間でもあった。静岡大の
学長先生以下代表団は、頭の下がるほど良く仕事を
された。朝早くから分刻みの日程を2日間こなした。
その努力とベトナムとの交流への情熱には頭が
下がる。どこかの議員さんたちの「大名旅行視察」とは
縁もゆかりもないほど、真っ当な精力的な視察・国際
協力のためのツアーだった。

投稿者 koyama : 23:33 | コメント (0)

2008年11月18日

静岡大学協定書調印式

終日雨。

午前7時朝食。

午前9時40分、「ハイリーホテル」に迎えの車。
午前10時過ぎから静岡大学とフエ高等師範大との
学部間協定書調印式、並びにフエ省教育局・フエ市長
との留学生派遣協定書調印式が行われた。
フエ駅の近くのグリーンホテルにて。

今日の調印式には静岡大学興学長・石井教育学部長など
静大側。フエ省教育局次長、フエ市長、フエ高等師範大学長
JASSベトナム事務所員など50名近くが参加。

●小山・フエ省教育次長・フエ高等師範大学長・フエ市長

●興学長以下静岡大学側

●司会は私がフエ師範大で教えた教え子のバオミンさん
 (JASSベトナム運営委員長)とイックホアン(フエ市外務副部長)

●始めのフエ市長の挨拶

●続いて興静岡大学長の挨拶

●更に「フエ市越日交流委員会」を代表して私の挨拶


●続いて調印式。
静岡大学とフエ省教育局との留学生派遣協定書調印

●石井静大教育学部長とフエ高等師範大学長との
  学部間協定書の調印

●最後に静岡大学とフエ市長との協定書確認の調印

調印式が終わり、引き続き調印お祝いのレセプション


静岡大・フエ省・フエ市・フエ高等師範大・JASSベトナム事務所
の関係者が懇談。


●参加したベトナム事務所員の記念写真


●午後2時から地元フエ省の高校を訪問。
 静岡大学への留学についてフエ省・フエ市と協定書を
交わしたことを高校の校長に報告。

●ハイバーチュン高校

●グエンフエ高校



●ファンダンルー高校


午後4時、フエ高等師範大を視察。

午後5時半、センチュリーホテルにてフエ高等師範大
主催の協定書調印記念祝賀会が行われた。

フエ高等師範大学長の挨拶(通訳はハンさん)

●フエ高等師範大日本語学科の学生の歓迎の踊り

フエ高等師範大日本語学科特性のTシャツ


フエ高等師範大日本語学科学生の歌


●参加者の記念写真


●静岡大学から関係者に記念品の贈呈

午後8時過ぎ、フエ高等師範大主催の祝賀会終了。

その後、大塚さんと日本料理店へ戻る。

偶然、日本料理店前をACCLの渡辺和代さんと
フエ中央病院小児科前医長が通りかかる。

その後、午後9時半まで渡辺和代さん、JASS静岡の会
副代表の滝下さんと私の3人で世間話。

午後9時過ぎ、子どもたちが帰る。1ヶ月半ぶりに
子どもたちと再開。子どもたちも元気そうに仕事を
していた。


その後、滝下さんと買い物。

午後10時50分。「ハイリーホテル」へ戻る。

投稿者 koyama : 00:51 | コメント (0)

2008年11月17日

静岡大学学長一行フエへ

晴れ

午前5時過ぎ15時間のバス旅行が終わり、「ハイリーホテル」へ。
入り口のドアを開けようとしたが空かない。鍵が使えないように
室内からセットしていた。

大塚さんに電話。5階からおりてくてもらい、鍵を開ける。

部屋に入ると「カビ」の異臭が漂う。衣類など全てにカビが
生えている。

シャワーを浴びようと浴室に入るとタオルに「蜂の巣」が出来て
いた。殺虫剤で撲滅。30数匹の蜂の遺体がごろごろしていた。

部屋にあった衣類を洗濯。

10時過ぎ、バオミンさんが車で迎えに来る。
今日は静岡大学学長先生以下のフエ訪問団が増え空港へ
到着予定。

車でフエ空港着。10時45分。
11時20分、興学長、石井教育学部長以下の皆さんが
ハノイから無事到着。


ホテルへの途中、フォーを食べる。

午後2時、ベトナム事務所を訪問。ベトナム事務所は
静岡大学フエ連絡事務所にもなっている。

静岡大学フエ連絡事務所の看板の前で記念写真

続いて、JASS「縫製研修センター」を視察。
JASS「縫製研修センター」は、「平成20年度
国際ボランティア貯金の交付金の配分を受けてのプロジェクト」

を受けて実施している。


宇都宮縫製工業組合佐藤理事長さんのお力で既に
いくつかの日本の会社から注文があり、生産を
始めている。

続いて「子どもの家」を視察。セン運営委員長の
説明を聞く。

子どもたちにミルクやお菓子のお土産を頂く。

また学長先生から「日本の留学などのための
機材や資料・本などを購入するための寄金」を
今後JASSへ寄付したいとのありがたい話を頂く。


その後、ユネスコ世界文化遺産である王宮を視察。

最後に静岡フエ青年交流会会館付属日本語学校を視察
今後、静岡大学留学生はここで基礎的な日本語を
勉強することになる。

興学長先生から日本語学校生徒に日本語での話。


午後6時よりフエ市人民委員会主催の歓迎晩餐会。

カオフエ省副知事・ユンフエ市共産党委員長・
フエ市長・共産党人事部長・フエ市財政部長・
フエ市国際センター所長などが参加。

日本側はハノイでの別の仕事を終えて松本先生なども
参加。


ユンフエ市共産党委員長の歓迎の挨拶


興静岡大学長の挨拶


両国の交流は午後9時まで続く。
明日の調印式を控え、両国の交流は一層深まる。


投稿者 koyama : 10:40 | コメント (0)

2008年11月16日

ハノイからバス15時間、フエへ

晴天

午前8時半ホテルを出てノイバイ(ハノイ)空港へ。
午前10時10分発。十分時間を取って出発。
通常、市内と空港は40分程度。

しかし、途中市内の交通事故の渋滞に遭遇。
やっと高速道路のようなところに出る。
しばらく進むと車1台1台の検問。警察は何を目的と
した検問をしているのかは不明だが、延々時間がかかる。
私は10時10分に間に合うのかハラハラしながら推移を
見守っていた。何とか検問を終わった時点で既に9時50分。
運転手さんを急かせてノイバイ空港着。10時12分。
既に飛行機は飛んでしまっていた。

急いで空港内のBOOKING OFFICEへ行き、
フエ行きの遅い便の状況を聞く。
フエ行きもダナン行きもホーチミン市行きも一切ないと言う。
向こう3日間は全て満席と言う。それでは「ビジネスクラス?」
と聞くが、ビジネスも向こう3日間、3路線とも満席と言う。
この15年間、フエ・ダナン・ホーチミン行きのビジネスも
含めて3日間満席などということは一度もなかった。
大体、ビジネスクラスなどいつも1人か2人程度しか
乗っていない。係員の「嘘」と見た。結局、ワイロが欲しいのだ。
卑怯な連中だ。

違う窓口に行き、ハノイからフエに行くバスを聞く。ハノイ市内
から出ているとのこと。15時間位かかると言う。


仕方なく泊まっていたホテルへタクシーで戻る。
ホテルのフロントに事情を話す。「午後3時までなら無料で
泊まってもいいです」とのこと。ありがたい。
早速、ホテルで休む。しばらくしてフロントへ行き、
「飛行場に電話をして空席待ちがあるか聞いて欲しい」
とお願いする。「ダナン行きの空席待ちがある」とのこと。
午後2時に行けば、空席待ちを受け付けるとのこと。
飛行機は午後6時頃と言う。
また、市内からフエ行きのバスは何時にどこから出るのかを
調べてもらう。午後3時に市内のバスターミナルから出るとのこと。

ホテルでしばらく休憩し、昼食を取らずに午後1時、ホテルを出て
再度ノイバイ空港へ。空席待ちリストに名前を載せるが、午後2時に
なり、あなたは駄目ですと言われる。これも結局ワイロだと
直感する。空席待ちも絶たれ、またまたタクシーでハノイ市内へ。
既に2時を過ぎている。急いで市内のバスターミナルへ行かなければ
ならない。明日17日(月)は、朝、静岡大学学長先生をはじめ7人の
皆さんがフエ来訪。出迎えに行かなければならない。何としても
今日中にハノイを出て、バスで明朝フエに着く必要がある。

タクシーを飛ばしてもらい、午後2時55分にターミナルへ着く。
間一髪セーフ。大型バスはホーチミン市行きだった。
車内に入ると2段ベッドが縦に3列並んでいる。60人ほどが
入れる。

お客は15人ほどが、それぞれ勝手にベッドに入っていた。
私は真ん中の列の前の方の上段のベッドに入る。
ベッドは人間の肩幅とほぼ同等程度のもの。欧米系の
人は乗れない。
足を伸ばし寝ていけるベッドではある。

午後3時05分、バスは出発した。運転手に聞くと
明朝午前6時半頃、フエに着くとのこと。
この際、全て諦めてバスに身を委ねるしかないと
諦観し、ベッドに入り横になる。走り出すと、突然
大音響とも取れる音楽が鳴り始める。ついに出たか、
ベトナムのボリューム右一杯路線が。
更にエヤコンが着く。「これでもか」というほど最強に
してある。寒い。うるさい。
外国人は私一人。ベトナム人はこれが当然であるかの
ような顔つきでいる。仕方がない、我慢するが、寒すぎる。

3時間ほどしてレストランに入る。一人一人注文するのかと
思ったら、食事つきだった。270000万ドン(15000円)。
4人位で一緒にご飯とスープ、野菜炒めなどを共有しながら
食べる。ベトナム人の食事は早い。10分ほどで食べ終えて
しまう。私などまだ半分程度も行っていない。
15分位でバスが出るのか心配になり隣の人に聞く。
30分程度は食事の時間があるとのこと。

ハノイ市内の道路はガタガタ。その度にバスは揺れる。
バスが揺れると真ん中の上段のベッドは更に揺れる。
お客さんを見ると多くのお客さんが下段に寝ていた。

市外に出る。既に外は暗くなっている。スピードがあがる。
2時間ほどするとバスは止まった。突然、物売りのおばさんが
数人バス内に「乱入」。食べ物や飲み物を売っていた。
バスの運転手さんと何らかの「密約」が出来ているのだろう。

日本から「Iポット」を持ってきていた。中島みゆき、中森明菜、
テレサテンなどのCDが入っている。ベートベンのピアノソナタ
ショスタコービッチ5番「革命」なども。

結局、アイポットを聞きながら目が覚めたり、少し寝たりの
繰り返しをしている間に17日の午前5時になり、フエの
バスターミナルについていた。無事、17日早朝フエに
帰ることが出来た。大変なハノイ滞在ではあった。

投稿者 koyama : 11:42 | コメント (0)

2008年11月15日

終日読書

晴天

40日間の日本での講演会。大使館、JICA訪問と確かに
疲れた。今日は終日、ホテルで休息。
明日からの静岡大学とのお付き合いに備え、体を休ませる。

読書「自壊する帝国」(佐藤優著;新潮社)読了

ノンキャリア外交官としてソ連での情報収集の実情を記している。
ソ連もベトナムも同じだなと感じたのは、「ブンデルシャフト」
(お互いに右腕を交互にして大きなグラス一杯のウオッカを
飲み干す)をしないと「友人」になれず、人間として信用されない
という社会があること。何度もウオッカの一気飲みを行い、
初めて友人となる。その後、自宅に呼ばれて接待され
ウオッカの一気飲みを繰り返して本当の「親友」になれる。
ソ連の政治家もそんな社会習慣を背負っていたようだ。
ベトナムが同様のことをしているのは、ソ連の影響も
あるのだろうが、やはりアジアの「のん兵衛国」の習慣も
あるのだろう。

多くのソ連共産党幹部と付き合っている。ソ連崩壊後の
これらの幹部の去就を記述した部分も興味をそそられる。
反共主義者になった幹部。プーチン政権の幹部になった人、
資本主義バンサイ主義者になった幹部、更にあくまで
共産党に残り、一徹を貫いている幹部・・・。
多くの幹部が「共産主義バンサイ」を叫んでいながら、
本当の腹の中はそうでもなかったという実態は、注目すべき
ものがある。佐藤氏は、組織は外部からではなく「内部から」
自壊すると繰り返し述べている。

投稿者 koyama : 08:55 | コメント (0)

2008年11月14日

JICAベトナム事務所を訪問(ハノイ)

快晴

午前中、ホテルで読書。
「国家の崩壊」(佐藤優著)
社会主義ソ連の実態を著者は体験的に熟知している。
私のベトナムでの体験とほぼ同じ体験をしている。


午後1時半、ホテルを出てJICAベトナム事務所へ。




午後2時半、築野所長、竹内次長さんなど6人のスタッフの
皆さんと懇談。1998年から2001年まで4年間JICAと
協力して実施した「開発福祉プロジェクト」の内容と結果、
その後の継続状況を説明。

新たに設立した縫製研修センターへのJICAシニアボランティア
の派遣を要請。今後の日本語学校への支援などの話し合いをする。
1997年位からJICAとはお付き合いしている。
数年で担当者が変わるのでフエでの私たちの活動が伝えられて
いない実情もある。
所長さん、次長さんをはじめ担当の皆さんは親切に私の要請を
聞いてくださった。結果がどうであれ、有意義な訪問だった。

今日は1日で20数通のメールが入った。
全てを読み、必要な返事を出すだけで半日以上かかった。
インターネットの接続状態が悪い。1通のメールを送るのに
日本の10倍以上の時間がかかった。

昨日の大使館訪問、今日のJICA訪問は私としては
大きな意義と成果のあった訪問だったと思う。
この効果は今後徐々に出てくるものと思う。

私のフエでの主な仕事はこうした「外交」とプロジェクトの
計画・立案とその仕掛けである。現状ではこうした仕事は
私にしかできない分野である。フエでの私の役割を
私自身は自覚し、この15年間、一度も現状維持を
目指さず、常に前を向いて、新しいプロジェクトに挑戦していた。
そして今も新しいプロジェクトをめざしている。
そのことが、今後の「子どもの家」・ベトナム事務所・
貧しいベトナムのこどもたちのためになると自覚している。
特に超格差社会を作った「ドイモイ」の現実とその結果。
そして、格差・二重格差社会の中で新たな「世界金融危機」が
襲ってくる。今夜からアメリカで20カ国の首脳があつまて
「金融世界危機」への対応策が協議される。
トヨタが70%の減収とのこと。100年に1度の経済危機とも
言う。資本主義諸国は世界金融危機の直撃を受けている。

しかし、「社会主義国」ベトナムへの影響が直撃とはいかないが
徐々に、なおかつ資本主義国以上に深刻な影響を
今後与えることが予想される。世界金融危機が起こる前に
ベトナムでは超インフレとなり、庶民を直撃する物価高が
進行している。「子どもの家」で買っている米1キロが3000ドン
(20円程度)だったのが、現在は12000ドンから15000円。
庶民の生活に直結する米の値段が3倍~5倍に上がっている。
銀行の預金金利は15%程度。経済が過熱し、ヤケドを起こす
ほどに燃え盛ってしまったが、政府は火消しをすることができない
ままこの数年が過ぎてしまった。土地と株のバブルが崩壊しつつ
ある。
そうしたある意味で危機的なベトナムの経済状態の中で
今、世界金融危機を迎えている。ベトナムは昨年「WTO」に
加盟した。既に1国社会主義ではいられない。世界の経済に
連動する道に踏み込んでいる。

100年に1度の世界経済危機がベトナムにどのような影響を
与えるのか注意深く見守っている。

私見では貧しいこどもたち、貧困家庭、農民、労働者への
矛盾の押し付けが進行し、「子どもの家」への入所者が増え
るものと想像している。そうだからこそ、今、「子どもの家」の
運営と財政基盤の自立とその強化が一層求められている。
海外ボランティアで「保守主義」が罪悪である。常に
社会の実情をしっかりと見据え、現状を打破し、新しい峰へ
挑戦する「革新主義」「挑戦指向」が必要である。
などと考えながら、ハノイ滞在を過ごしている。

投稿者 koyama : 12:46 | コメント (0)

2008年11月13日

在越日本大使館へ

晴天  気温23度

1日中太陽が出て暖かい。予想外だった。もっと寒いと
思った。

午前8時、ホテルでブッフェの朝食。フォーがあったので
食べたがまずい。やはりフォーは多少うす汚い店、庶民の
行く店が美味しい。

読書「国家の崩壊」(佐藤優著)非常に面白い。
彼は徹底した現場主義者。現場に入り、現実を見て
行動する。

日本からのメールを読み返事を出す。

午後3時過ぎ、タクシーで日本大使館へ。


11月19日の夕方、静岡大学学長と一緒に大使と懇談する。
その事前折衝。文化担当の方2人と静大の資料などを渡し
説明。

ODA支援担当者とお会いし、縫製研修センターの
完了報告書を渡し、1000万円近くのODA支援金が
きちんと使われ、縫製研修センターとして機能している
ことを写真入りで報告。

せっかく大使館に来たので文化担当者に日本語学校
フエ高等師範大日本語学科の件などを詳細に説明し、
今後の支援を要請する。
午後5時半まで話し合う。

投稿者 koyama : 20:20 | コメント (0)

2008年11月12日

成田→ハノイ

曇り・時々小雨

今回の帰国は本当に忙しかった。
たまにある1日の休みは考える気力を失っていた。
家で寝ているか、時々、スーパー銭湯にいったりした。

結局、心臓の病院へ行く時間がとれなかった。
担当医師が決まっているのでその曜日にしか行けない。
とうとういけないまま帰国の日になってしまった。
フエ滞在中に薬がなくなってしまう。病院に電話をし
担当医師以外の日に何とか薬だけでももらいたいと
お願い。今日の午前中なら可能とのこと。
午前8時過ぎ、急いで新宿都庁前の病院へ。
しばらく待ち、違う医師と数分懇談をし、40日分の
薬をもらう。
午前11時過ぎ帰宅。ベトナム帰国の準備もできていない。
急いで荷物の整理をし、家を出る。

午後3時のスカイライナーに乗り、午後4時過ぎ成田空港へ。
午後6時過ぎのVN便(JAL機)でハノイへ。5時間半。

機中で読書。

「アイヌ、神々と生きる人々」(藤村久和著:小学館)読了。
1960年代からアイヌ人の古老などにアイヌ人の伝統的な
ものの考え方、生活の仕方などを聞き取った話。
アイヌ人の生活が良くわかる。
けして貧しい生活ではなく、山の中での狩猟をし漁猟をしての
生活は厳しいものではあったが、江戸時代特に明治以降
大量の「和人」が「侵略」してくるまでは、自然を大事にし
自然と共に共生していた事実を知る。
アイヌ人の人生観・自然観はまさに21世紀の人類が
学ぶべき人生観・自然観でもある。
明治32年(1899年)「北海道旧土人保護法」が制定され、
アイヌ人の差別と和人化政策が法制化された。
日清・日露戦争には多くのアイヌ人が徴兵されている。
平成9年(1997年)までアイヌ人の差別を制度化している
「北海道旧土人保護法」が存続していたことに戦慄を覚えた。

くりかえり歴代の首相や政治家が「日本は単一民族」との
差別発言を繰り返していた。やっと今年になって国会で
全会一致で「アイヌ人が日本の先住民族である」ことを
認めたのである。アイヌ人の長い差別の歴史を知り、
私の無知を恥じる。

「自壊する帝国」(佐藤優著:新潮社)を読む。
1991年のそれ崩壊の前からソ連に滞在し、日本大使館員として
ソ連の情報を取得する仕事をしていた佐藤氏。ゴルバチョフ、
エリチンなどの時代である。
なぜ、ソ連が崩壊したのかを糾明している。帝国は外からの
力ではなく、内部の矛盾で崩壊するということを言いたいので
あろう。本当にその国の実情・実態を知るためには、庶民の
暮らし、生活の実態を体験しなければならない。
大使館などに「鎮座ましまして」いるようでは、うわっつらの
情報しか分からない。佐藤氏は、様々な人脈を作っている。
ベトナムと一緒で人脈を作らなければ、実態は分からない。
人脈を作るためには、人間同士の信頼と結びつきがその
基礎となる。

ソ連では親しい知り合いになるためには、ウオッカの
一気飲みを何回もしなかれば、親友にはなれないそうだ。
佐藤氏はウオッカのボトル2から3本位はのめるそうだ。
これは私のベトナムでの体験とも一致する。知り合い、
徹底してのみ会う。ビール、ウイスキー、日本酒などの
お酒をコップ1杯「一気飲み」を繰り返して初めて
友人・仲間になれるのである。これは「良し悪し」の
問題ではない。文化である。

鈴木宗男の子分と言われ、第1審で懲役刑を言い渡されている
鈴木氏である。須々木宗男・田中真紀子の争いの時には
悪の権化「鈴木」の手下として扱われたい佐藤氏ではあるが、
本書を読むと、知性と教養をもち、自説と筋を通して生き方を
している面があることも分かった。半分ほど機内で読む。

機内食を食べる前に缶ビール2本、白ワインを飲む。
しばらくすると気持ちがわるくなる。

午後10時20分、ハノイの「ノイバイ空港」着。
既に日本時間では午前0時を過ぎている。
スーツケースが出てこない。結局1時間ほど待たされる。
空港タクシーで40分ほど。ホテルに着いたのは午後11時半。
日本時間に午前1時半であった。気持ち悪いのと疲れで
そのまま寝てしまう。

明日から大使館、JICAなどを訪問し、静岡大学の事前打ち合わせ、
縫製研修センターの件、日本語学校の問題などを打ち合わせする。

投稿者 koyama : 13:43 | コメント (0)

2008年11月11日

栃木県宇都宮市立宝木中学校講演会:ハンさんの誕生会

今日はベトナム事務所会計部長のハンさんの00回目の
誕生日。ベトナム事務所で誕生祝いを行った。





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終日曇り

午前4時起床。コーヒーをいれ一息つく。
今朝の倫理法人会モーニングセミナーの内容を
考える。

午前6時、太平観光北垣会長が自宅近くまで
車で迎えに来てくれる。
午前6時20分、練馬区内のホテルへ。

午前6時半から練馬区倫理法人会モーニングセミナー
が始まる。

初めに「万人幸福のしおり」の輪読。
50分、ベトナムでの活動について講演。
自立に向けての起業活動を中心にビデオを使って
話をする。




午前7時半過ぎ終了。

北垣会長の息子さんの車で近くの西武線の駅まで
送ってもらう。

池袋経由で上野まで。

午前10時過ぎ、上野から宇都宮へ。

「静かな大地」を読了。

「アイヌ、神々と生きる人々」(藤村久和著:小学館)を
読み始める。アイヌ人の生き方、生活、ものの考え方
などの紹介。

午前11時半、宇都宮着。宇都宮市立宝木中の
副校長先生が車で駅まで迎えに来てくれいた。
宇都宮駅から30分。宝木中学校へ着く。
校長室で校長先生・副校長先生・1年生の学年主任の
先生方と懇談。今回の担当の先生と打ち合わせ。

久しぶりに学校給食を頂く。ソフト麺、野菜、牛乳、
オレンジ。ボリュームがある。



生徒代表の謝辞



午後1時半から70分間、講演を行う。1年生125人を
対象に。


講演会終了後、校長室で関係する先生方と懇談。
宝木中学で校長先生・副校長先生・関係の先生方と
懇談してほっとする気持ちになった。
私が教員をしていた15年前の雰囲気を持った
先生方がまだいたことに正直安堵の気持ちになった。
是非、先生方の教員としての良心を全うしてほしいと
願うばかりである。

午後3時半、宝木中学校の副校長先生の車で
宇都宮駅へ。
午後5時過ぎ上野着。


栃木県の講演会を計画してくれたJASS栃木の会
(じゃむじゃむ)の佐藤先生に改めて感謝したい。


これで今回の帰国で予定していた14回の講演会
全てを終了した。
正直、今回の帰国はかなり厳しい日程だった。
14回の講演会以外にも多くの人々との懇談を
行った。全て「子どもの家」に直結する内容である。
1日位の温泉では疲労が取れなかったというのが
偽らざる実感である。
明日からベトナムに戻り、再度気を引き締めて
頑張るつもりである。また、新しい峰を目指して。


明日、成田を出てハノイへ。

小山 2008年10月 日本帰国日程


09月29日(月)フエ出発(P7:10)→ホーチミン
     ホーチミン発(23:35)→成田
09月30日(火)7:20成田着
10月01日(水)北海道行きの準備         
   02日(木)羽田→オホーツク紋別
P7北海道雄武町「町民大学」講演会(30人)
   03日(金)雄武町 名寄駅→旭川→札幌
         P7:30 道立雄武高校長懇談
   04日(土)小樽
   05日(日)積丹
   06日(月)札幌 P6札幌大I先生
   07日(火)P1~P5 札幌芸術高校講演会(120人)
   08日(水)札幌:北星女子中高講演会 宗教礼拝(1000人)
          P7札幌の会 11人
   09日(木)石狩 藤女子大学人間生活学科講演会(20人)
   10日(金)石狩国際交流協会:石狩市民図書館
   11日(土)
   12日(日)P7 JASSスタディーツアー反省会
   13日(月)P6 JASS支援者との懇談
   14日(火)
   15日(水)A10水戸市 農業問題懇談
   16日(木)A11榊原記念クリニック
   17日(金)A11ピースインツアー P6:30高校クラス会
   18日(土)P1:30京都府国際センター主催講演会(80人)          
          秋の各地の会交流会(京都泊)
   19日(日)同上(京都泊)
   20日(月)(名古屋泊)
   21日(火) (名古屋泊)
   22日(水)P3北海道芸術高校名古屋校講演会(100人)
   23日(木)
   24日(金)P2北海道芸術高校池袋校講演会(16人)
   25日(土)A11:3JASS支援者Sさん長男結婚式
   26日(日)
   27日(月)P3洗足学園中高校講演会(30人)
          P6五反田ブライセン訪問
   28日(火)P6東京板橋教育を語る会講演会(30人)   
   29日(水)
    30日(木)東京駅→A10浜松 静大工学部(浜松校舎)懇談
         夕方、JASS静岡の会と懇談会
   31日(金)A9静岡市国際課長懇談
         静岡市長との懇談(10時45分~11時05分) 
         午後、記者会見(静大関係者と一緒)
         静岡大学関係者と懇談
          13時~ 国際交流センター、理学部化学科
          15時~ 教育学部、大学教育センター
11月01日(土)JASS静岡の会主催講演会(25人)   
   02日(日)
   03日(月)文化の日 福島
   04日(火)福島
   05日(水)福島
   06日(木)P3北海道芸術高校仙台校講演会(80人)   
   07日(金)茨城県日立市立田尻小学校講演会(190人)
   08日(土)茨城 火炎樹の会懇談
   09日(日)
   10日(月)P1:30 栃木県立烏山女子高校(300人)     
   11日(火)A6:30練馬倫理法人会講演会(15人)
          P1:45栃木県宇都宮市立宝木中学講演会(125人)

   講演会合計 14回  2161人

   12日(水)成田(18:10)→ハノイ
   13日(木)小山・P4ハノイ日本大使館訪問
   14日(金)小山・P2:30ハノイJICA本部訪問
   15日(土)(予備)
   16日(日)小山フエ帰国ハノイ(10:10)→フエ
   17日(月)
   18日(火)静岡大学長フエ訪問・フエ高等師範大・知事・調印式
   19日(水)P4静岡大学長 ハノイ大使館へ(小山・ミン同行)
   


投稿者 koyama : 19:24 | コメント (0)

2008年11月10日

栃木県立烏山女子高校講演会

曇り 非常に寒い

午前6時起床。

午前8時半自宅を出て巣鴨へ。途中地下鉄車中で
「山手線は全線路不通」との車内放送あり。上野から
宇都宮経由で烏山駅まで行く予定だったが、不可能になった。
急いで新板橋で降りて、埼京線に乗り換え、各駅停車で
大宮へ。大宮から宇都宮へ。宇都宮駅から東北本線で
宝積寺駅へ。宝積寺駅から烏山線で烏山駅までは
1両の列車だった。

午後12時11分烏山駅着。駅には烏山女子高校の教頭先生が
車で迎えに来てくれていた。感謝。

烏山女子高校は大正10年に開校。既に80年の歴史がある
女子高校である。
残念ながら少子化問題もあり、昨年の1年生から
男子校である烏山高校と合併。烏山女子高校は
2年後にはなくなってしまう。現在は2年生、3年生
約300人の女子生徒が勉強に勤しんでいる。
校長室で校長先生としばらく懇談。

午後3時15分から90分、講演。
ストリートチルドレン、ボランティア、人生などを話す。

その後、質疑応答。

午後3時20分、講演会終了。

更に希望する生徒と懇談。

ごご4時半まで1時間ほどフエでの活動、ボランティアなどに
ついて話し合う。

午後4時半、校長先生の計らいで宇都宮駅まで送って
頂く。

宇都宮駅から上野まで新幹線で。巣鴨経由自宅。

自宅着。午後9時。

メールなど多数受信。

投稿者 koyama : 20:43 | コメント (0)

2008年11月09日

日展へ

終日曇り、時々雨


昨夜、何故か眠れなかった。午前4時位まで目が覚めていた。
仕方がないので本を読む。「静かな大地」


午前9時起床。

午前10時近くの洋服の「青山」へ。現在講演会用に着ている
スーツは既に10年間着ている。色が褪せてきていること、
スーツの端がほつれてきていることなどの問題があり、
さすが人前で着るものではないと判断。新しいスーツを
買う。どういうシステムになっているのかは知らないが、
1着濃紺のスーツを買う。すると1000円追加すると
あと1着買えると店員は言う。茶系の1着を追加購入。
1着分+1000円で2着という図式だが、すでに1着分
が高いのかもしれないが、私にはスーツの値段の相場が
わからないので致し方ない。

午前11時、次男と志村坂上で会い、打ち合わせ。

その足で六本木へ。


日展(日本美術展)を見に行く。国立新美術館。


日展は明治40年の文部省美術展覧会(文展)から101年目を
迎える。文展→帝展→文展→日展と名称は変わったが、
日本の「官製」美術展の中心となって101年目を迎えた。
日本画・洋画・彫刻・工芸美術・書など3000点が展示されていた。
全て見るのには、相当のエネルギーと体力を要する。

今日は彫刻を中心に鑑賞。百点以上の彫刻が展示されていたが、
6割から7割は裸婦像だった。

特選に選ばれた「寺山三佳さん」の彫刻を鑑賞。
題名は「USUAL」。

ジーンズをはいている男性が半分空を見上げているかに見える
ブロンズ像。

私はこの種の彫刻についての知識と見る目がないので
特別意見は言えないが、裸婦像が圧倒的に多い中で
男性のジーンズとシャツの彫刻に何かしらの新鮮味を感じた。

寺山三佳さんは、私たちの活動支援してくれている
上尾の星野理一さんの会社の社員でもある。
社員をしながら日展で「特選」となる彫刻を作る寺山さんという
人はどんな人なのだろうか?などと考えながらしばらく
ジーンズ男の「USUAL」を見ていた。

読書「静かな大地」。読んでいくほどに興味のます本である。
ほぼ9割読み切る。明日の栃木県烏山高校講演会への
往復で読み切る予定。

夕方、近くのブックオフへ。古本を七冊ほど買う。
ベトナムで読むために。

11月12日にはハノイにいる。もう日本滞在は今日を
含め3日間。明日は栃木の烏山高校講演会。
明後日は午前6時半からの倫理法人会講演会、
午後は栃木県宇都宮市立宝木中での講演会が
ある。


夜、テレビで西武・読売のゲームを見る。
音を消してみたが、なかなか面白いゲームだった。
結果も私が望んだ結果になった。

投稿者 koyama : 20:40 | コメント (0)

2008年11月08日

火炎樹の会の皆さんと懇親

曇り

午前6時半起床。同室の福田顧問は緊急な仕事が入り、すでに
温泉に入り、朝食。急いで帰宅するとのこと。

私は午前7時前に温泉に入り、午前7時20分頃、宿泊した皆さんと
朝食を摂る。ビュッフェ形式。

その後、「鵜の岬」の喫茶店で田尻小のK先生、ひたちなかの
Sさん親子、Iさん、森島代表などとお茶を飲みながら話し合う。

午前11時半、皆さんと日立駅近くのベトナム料理店へ。
フォーガー(鶏肉入りのフォー)を食べる。サラダとコーヒーなどが
セットで950円。フォーの麺は固かったが、今まで日本で食べた
フォーの中では美味しかった。


メニューを見ると「フダビール(びん)」(580円)とあった。
フエでは60円位のビールだが、輸入されると10倍ほどに
なるのだ。それでも日本にあるベトナムレストランに「フダビール」
があるのは「フエ人」の一人としては嬉しいことである。

火炎樹の会員であるSさんは同時に地元のバドミントンサークルの
役員もしている。バドミントンサークル会員からの寄金を頂く。

ベトナムでの様々なボランティア活動上での問題などを話し合う。

午後2時「日立」発のスーパーひたちで上野経由自宅へ。

森島代表をはじめ火炎樹の会の皆さんに感謝。

昨日と今日の列車の中で「静かな大地」(池澤夏樹著)を
3分の2ほど読む。私あまり知らなかったアイヌの人たちの生活、
物の考え方、和人の開拓の実態、日高・静内の馬の飼育の歴史などが
詳細に書かれている。アイヌ人がどれほどひどい仕打ちをされてきたかの
具体的な歴史が詳述されている。

昨日と今日の夕方帰宅するまでインターネットが使えなかったのでメールの
送受信ができなかった。

列車の中でJASS支援者のKさん夫妻と偶然お会いする。

投稿者 koyama : 18:35 | コメント (0)

2008年11月07日

茨城県日立市立田尻小学校講演会

快晴

午前7時起床。

午前8時過ぎ自宅を出て上野駅へ。
午前10時上野駅発スーパーひたちで「日立駅」へ。
午前11時26分「日立駅」着。茨城県火炎樹の会
代表の森島さんや顧問の福田勝夫さんなどと合流。

午後12時過ぎ、日立市内の和食レストランで昼食。
日立港でとれた新鮮な魚介類の和定食。美味しく
味を堪能する。

午後1時過ぎ、日立市立田尻小へ。森島さん、
福田さん、Sさん、Iさんなど火炎樹の会の
皆さんも共同参加。


午後1時50分から午後3時まで「子どもの家」の話、
ボランティアなどについて4年生と保護者190人に
話をする。




その後、こどもたちからの質問。多数の質問が出る。
4年生のこどもたちからの質問は的確なものであった。
私の質問への回答を聞いて更なる質問へと発展する。
田尻小の4年生のこどもたちは、私の1時間ほどの
講演内容をしっかりと聞き、自分の頭で考え質問を
していた。日常の教育実践の積み重ねの成果と見た。

午後3時15分講演会終了。校長室でPTAの皆さん、
4年生の学年主任の先生や担任の先生と若干の意見交換。
学年主任の先生を先頭にしっかりとした考えと教育実践を
していることが良く分かった。

田尻小を出て、皆さんと茨城県立国民宿舎「鵜の岬」へ。
日本で一番人気のある国民宿舎だそうだ。3ヵ月前から
予約できるそうだが、予約初日に全ての予約が埋まってしまう
そうだ。よく予約がとれたものだ。

福田勝夫顧問と同室。最上階8階にある「日の出と海が見える」
温泉に入り、色々と話す。

午後7時、森島さんと友人の方、Iさん、福田さん、私で
夕食。温泉に入り、日立港の海産物満載の夕食を堪能する。

午後9時、森島さんたちの部屋へ移動。田尻小のK先生も合流。
私と福田顧問は午前0時頃部屋へ戻り休む。


投稿者 koyama : 18:25 | コメント (0)

2008年11月06日

北海道芸術高校「仙台校」講演会

快晴  寒い


午前中、福島を出て、午後1時仙台駅へ。
北海道芸術高校坂井理事長先生と仙台駅で合流。

昼食(仙台名物牛タン)を御馳走になる。

午後3時から北海道芸術高校仙台校で講演会。



講演会の案内が公舎に貼ってあった。

ベトナム語の歓迎


講演会の前に北海道芸術高校仙台校の教室を案内して
頂いた。

美容コース


生徒の作った「ネイルアート」の作品



デザインコースの生徒の作ったTシャツ


デザインコースの作品。素晴らしい作品である。




午後3時から2時間ほど講演会が行われる。
初めに私の話。





私の話の後、坂井理事長先生のベトナム訪問の写真の紹介。

その後、私との対談。


講演会終了にあたり生徒会長さんよりお礼の言葉


花束と記念の絵を頂く。



「子どもの家」をモチーフにした素晴らしい漫画絵


午後5時過ぎ仙台駅へ。
新幹線で上野へ。自宅着午後9時過ぎ。

楽しい講演会だった。


投稿者 koyama : 21:34 | コメント (0)

2008年11月05日

休息

快晴


午前10時、福島駅前の「極楽湯」(スーパー銭湯)へ行く。
新聞広告に360円の割引券が入っていた。

ゆっくりとお風呂(各種・露天風呂も)に入り、たたみの食堂で
生ビールを1杯飲みながら、アメリカ大統領選挙をパソコンに
ついているワンセグで見る。

オバマが大勝。アメリカ人が変化を求めたことは事実。
ブッシュ路線ー新自由主義路線の破産とも言える。
ブッシュ・新自由主義路線は「アメリカ一国武力主義」
「ハゲタカヘッジファンド」を擁護し連携しての政治・経済の
推進だった。イラク・アフガン侵略、一部の大型ヘッジファンド
への極端な金の集中と「メネーゲーム」。その行きつく先は
4000名以上の米兵の死亡と数万・数十万の一般市民の
虐殺。そして世界の金融危機。完全なブッシュ政権の破産
である。オバマが大統領になったからと言って、それほど
大きな期待は持てないが、それでも目に見える「変化」が
おこるものと推測する。それえは同時に自民党・公明党の
アメリカ追随路線の破産でもある。イラクへの派兵、
アフガンでの給油、規制緩和による経済の混乱と
大量の非正規雇用の出現(1670万人)という異常事態が
起こっている。年金問題から航空幕僚長の「戦前は侵略はなかった」
などという暴言・・・・・・。3代にわたり国民の審判を受けない
首相が居直っている。日本も政治の「変化」を求めているのも
事実だ。


途中、ハノイの大使館から電話。筆記用具がなく困ったが、
内容を聞き取る。

午後3時、長男の家へ戻る。

メールのチェック。18通のメールを読み、必要な返事を送信。

投稿者 koyama : 17:29 | コメント (0)

2008年11月04日

宮城蔵王「遠狩田温泉」から福島へ

静岡の会事務局長の笠井さんのご尊父が
お亡くなりになる。心からお悔やみ申し上げたい。

快晴  風が強い


午前10時チェックアウト。

車で福島へ。20通のメール受信。

必要なメールの返事を送る。

午前0時過ぎまでアメリカ大統領選挙の状況を見る。

投稿者 koyama : 18:00 | コメント (0)

2008年11月03日

福島へ

晴天

午前8時自宅を出て、上野発福島行き新幹線で福島へ。

福島駅前の「極楽湯」(56円)に入浴。5つのお風呂。
サウナ、露天ふろ・・・・・。

午後12時半過ぎ、駅前で長男家族と合流し宮城蔵王
「遠狩田(とうがった)」温泉へ。

長男一家と温泉でゆっくりと過ごす。疲れがかなりとれた
感じ。

投稿者 koyama : 17:46 | コメント (0)

2008年11月02日

次男嫁さんご両親と会食

快晴

この間の疲労がでた。昨夜10時に寝た。10時間熟睡。
午前8時起床。

今日は日曜日。休息日。

読書「静かな大地」(池澤夏樹著:朝日文庫)
著書池澤氏は詩人原條あき子、作家福永武彦の
息子。埼玉大に5年在籍し世界を放浪。退学。
私より2歳年上。帯広生まれ、
本書は幕末の淡路。徳島藩主の家老のいる淡路。
1万石強の石高でありながら、大名に序列ざれず、
明治維新で士族になれず、明治政府によるやっかい
ばらいのような形で淡路の武士は北海道静内に移住する。
当時の移住の苦しさと地元のアイヌの両眼から
明治初期の北海道開拓、特に馬の産地「静内」の移住の
実態を詳述している。北海道「開拓史」のアイヌから見た
侵略史的な側面も描写している。

午前10時、自宅を出て上野へ。
今日は結婚した次男の嫁さんのご両親と会食の日。
私がベトナムにいる関係でなかなかご両親とお会いする機会が
ない。今日は、私の日程に合わせてもらい、上野「海鮮中華料理」
を食べながら懇親。孫も歩けるようになった。早いものである。

それぞれの生い立ちなどを話し合いながら、生ビール、続いて
「紹興酒」をぬる燗で飲む。(少し角砂糖を加えて)
強い香りと味。美味しい。私は紹興酒が大好きだ。



早いものである。長男も小学校1年生の子どもを持ち、次男も
歩けるようになった子どもを持つに至った。
それぞれ人間的にも財政的にも完全に自立している。
親としての役目は100%終わった。私は還暦を迎えて以降、
「昼間飲酒権」という概念を自主的に確立した。
今までは日中に酒を飲むことには多少の後ろめたさがあった。
世間の人たちが一所懸命に仕事をしている時に飲酒することに。
しかし、還暦を過ぎて、もう十分仕事をしたと勝手に理解し、
もうそれほど残りの人生も長くはない、飲みたい時に飲んでも
「お天道様」も怒らないだろうと解釈。

今日の会食は楽しいものだった。なかなか良心的なご両親で
ビールも紹興酒も進んだ。今後も親戚として仲良く付き合って
行きたいものである。

嫁さんのご両親と孫のN君。


自宅着午後3時。昼寝。

午後7時半、ホッピーを焼酎で割って飲む。「疑似ビール」。
戦後ビールが高かった時代、貧乏人は「ホッピー」を焼酎で割って
飲んだものだ。私も教員になった頃、王子や赤羽の大衆飲み屋に
先輩に連れていかれ「ポッピー」を飲んだ。ポップの香りと
味はするのだが、アルコールは焼酎。ホッピー1本100円。
焼酎と氷を使っても150円程度で十分の酔える。
某国の某首相が毎夜、高級ホテルで一杯1000円以上の
ビールを飲んでいるとのこと。カップラーメンが400円と答えた
首相には、貧乏人がポッピーを「発明し」疑似ビールでつつましく
お酒を楽しんでいることは想像も理解もできないであろう。
1グラス1000円以上のビーをを安いという人間が我が国の
かじ取りであることに恥ずかしささえ感じる。
テレビで自民党の宣伝が放映されていた。某首相が
減税をする、景気対策をするなどどと「庶民」風の言葉を
並べ立てていたが、「庶民派」のイメージを作りたいの
ならまず、「ポッピー」を飲んでビールの代用にするところから
始めたらどうだろうか・・・・・。

久しぶりのテレビで野球を見る。日本シリーズ。
西武対読売。テレビの解説が邪魔なので音を消す。
無駄でうるさいだけの解説者の解説を切り、静かに
野球を見る。西武が勝っていたが、途中で同点に。
最後は読売がサヨナラ勝ち。

投稿者 koyama : 19:48 | コメント (0)

2008年11月01日

JASS静岡の会主催講演会:「子どもの家」入所希望者家庭訪問

晴天

午前7時起床。ホテルの1階で食事。ロールパン、
野菜、牛乳、果物。私のあまり好きではない食事を
敢えて試みる。

午前8時から昨日の日記。ベトナム事務所などからの
メール受信。必要なメールを送信。

午前11時、ホテルフロントで静岡の会のAさんと
合流。

今日は静岡市の「大道芸祭り」。たくさんの人々が
街頭に出ている。

駿府城の近くにある和菓子屋で「あんみつ」を食べながら
学校の話などをする。
その後、Kさんの案内で駿府城へ行く。

駿府城内でも「大道芸大会」が行われていた。

駿府城内の「紅葉山庭園」を参観。


庭園内にある数寄屋造りの茶室「雲海」へ。
静岡本山(ほんやま)茶の玉露を頂く。
甘く、強いお茶の香りがする。
以前、岡部で飲んだ玉露の方が味も良く
美味しかったが雲海の玉露も味わいがあった。
三撰まで飲めた。


午後1時半過ぎ、講演会場の静岡市民会館へ。
静岡市は財政的に豊かなのだろうか?
立派な施設が多い。


午後2時、JASS静岡の会主催の講演会開会。

牧田JASS静岡の会代表より開会の挨拶。



笠井JASS静岡の会事務局長より講演会と私の経歴紹介。
今日の講演会は朝日新聞の地元版に紹介されているそうだ。

2時間弱、「子どもの家」の到達点などを中心に講演を
行う。


午後4時過ぎ、閉会。


会場には小学校5年生の時にJASS静岡の会
主催の「子どもの家」へのスタディーツアーに
参加したTさんの娘さんも来ていた。結婚し
2ヵ月のお子さんがいた。5年生だった子供が
赤ちゃんを抱いて私の講演会に来てくれたことに
感謝すると同時にベトナムでの活動の長い
年月を感じた。
可愛い女の赤ちゃんだった。


事務局長の笠井さんの車で静岡駅まで送って頂き、
新幹線で東京へ。

自宅着、午後8時半。

3日間の不在中に手紙などいくつかの郵便物があった。

今回の3日間の静岡滞在はなかなか内容の濃い
毎日であった。

ベトナム事務所より「新入所希望者家庭訪問」の報告

(バオミンさん・税田さん・ロック寮長が家庭訪問)

家族構成:祖父62歳、祖母61歳、父35歳、3人兄弟

        入所希望の子どもたち
● P THI  N(11歳)女
● P THI  G(8歳)女
● P T     (6歳)男

  父親は精神疾患。物事をしっかりと判断することができない。日雇いの仕事があ
  ればどんな仕事でも行くのだが(荷物運びや木の伐採など)、日当は全て飲食に
  使ってしまい、帰宅時には、無一文で酔っ払っている状態。今日も父親は仕事に
  行っていた。子どもたちの入所希望願は、父親が知り合いに代筆をしてもらったと
  のこと。父親は文字の読み書きができない。母親は4年前に家を出たまま行方不
  明。

  この一家は代々この土地で、農業(米とキャッサバが中心)をしている。農閑期に
  は、切ってきた細い木で箒を作り、町の市場で食料と交換をしている。現金収入は
  ない。生活が大変困難。洋服を買うことも出来ないので、地域の人たちから古着
  をもらって着ている。 
 
  小学校が学費を免除してくれている。
  そのおかげで3人の子どもたちは通学ができる。成績は3人とも「普通」

  「子どもの家」のことは、地域の人がテレビを見て教えてくれた。この一家にはテレ
  ビがないので情報がない。心配をしてくれている地域の人がテレビで見た「子ども
  の家」を実際にフエ市内に行って探してきてくれた。子どもたちの将来のことが心
  配。自分たちが元気なうちに、子どもたちの面倒を安心して見てもらえるところに
  預けたいというのが、祖父母の希望。


  ミンさんから「子どもの家」の説明
    衣食住の心配はいらない。安心して通学、職業訓練ができる。etc.

  3人の子どもはフエ市内には行ったことはないが、3人とも「子どもの家」に入所す
  ると意思表示をした。

 【ミン、ロック、税田の意見】
   長女の笑顔が税田にとっては救いではあったが、土壁、土間に布団のない木製
   のベッドがひとつ、電気、水道、そして、収入のない家庭での生活は、「緊急に支
   援が必要な子どもたち」だと3人の意見は一致した。今日は、父親には会えなか
   ったが、実際には、祖父母が子どもたちの面倒を見ていることと入所希望願は、
   父親の責任で書いているので、問題はないのではないかと思う。
    出来るだけ早く入所させた。
      
 

投稿者 koyama : 20:24 | コメント (0)