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2008年12月03日

終日晴れ 3つの高校長と懇談

終日快晴  気温27度

午前5時起床。読書「テロルの決算」(沢木耕太郎著:文芸春秋)

午前7時朝食。ブンボー。

午前7時半「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。

バオミンさんと一緒に「ハイバーチュン高校」へ。
午前8時、校長先生と40分ほど懇談。


静岡大学工学部への留学生の問題について
具体的に突っ込んだ話し合いを行う。結果良好。


続いて「グエンフエ高校」へ。
校長先生と「ハイバーチュン高校」と同様の話をする。

「グエンフエ高校」校長も積極的な対応をしてくれる。
話し合いの結果は良好。


最後にフエ市内から少し離れて郊外に「ファンダンルー高校」
へ。校長先生と同様の話し合い。結果良好。

ベトナムの高校はもうすぐ第1期の試験が始まるという。
12月20日過ぎにクリスマスの前まで試験とのこと。

これで何とか11月18日に静岡大学とフエ省・フエ市が
調印した留学生派遣が実現する見通しとなった。
今後、様々な「具体化にあたっての諸問題」は残るが、
一つ一つ解決していかなければならない。
悩ましい問題もある。

ベトナム事務所へ戻り、短時間打ち合わせをし、
「ハイリーホテル」へ。

午前11時半、昼食。
空芯菜のニンニク炒め、豚肉の煮物、瓜のスープ。



午後12時半から1時間程昼寝。

晴天なので窓をあけておいた。大きな蜂が3匹部屋の中を
飛んでいる。刺されそうで怖い。「ハイリーホテル」の
どこかに大きな蜂の巣があるものと思う。

午後2時読書「テロルの決算」(沢木耕太郎著)読了。
1960年10月12日日比谷公会堂での3党首立会い
演説会で右翼の山口二矢(やまぐちおとや)に社会党
委員長の浅沼稲次郎が刺殺された事件は、戦後史に
残る大きな事件であり、当時中1の私にも大きな衝撃を
受けた。やっと庶民が見られるようになったテレビで
放映された映像は、一層、テロの現実を鮮明に当時の
人々に印象付けた。
私が政治というものに関心を持った最初の事件は
小学校5年の時の日教組の「勤評反対闘争」だった。
学校中の先生がいなくなり、終日自習。校長先生と教頭
先生が時々教室を見回りに来た。それに引き続き、
1959年から1960年6月頃までの「60年安保闘争」。
今でも私の記憶に鮮明に残っている。中1の時だ。
浅沼委員長刺殺はその60安保闘争が下火になった
10月に起こった出来事である。
本書を読んで山口二矢がしっかりとして一定程度の
知識をもった家庭で育てられたということ、けして
「馬鹿」な右翼ではなかったことが窺える。
彼は赤尾敏の愛国党とも袂を分かち、ほかの
右翼は「口ばかりで行動をしない」と考え、たった一人で
左翼・共産主義を撲滅しようと考えた。
当時の右翼の一人の旗頭だった愛国党の赤尾敏は
こんなことを山口二矢に話している。
このまま日本に左翼がはびこれば、いつかはソ連と
同じような共産主義国家となり、自由も何もなくなる。
日本の共産主義化を阻止するためには、嫌いだが
アメリカの力を借りなければならない。
日本の左翼の日本共産党が一番悪いが、ここは、戦前から
国民の中に反共意識が強いのでそれほど大きくならない。
問題なのは、社会党だ。浅沼はアメリカ帝国主義は
日中両国人民共通の敵だと発言している。
国民は社会党には幻想を持っている。ここが政権を
握れば、ロシア革命の時のケレンスキー政権のように
結局、最終的には共産党に政権を渡す役割を担うことに
なる。当面の右翼愛国運動は社会党に向けるべきだ。
山口二矢は一本気な性格であり、理論と実践を結びつけ
る性格だった。多くの右翼が口ばかりなのに嫌気が
さしていた。
当初6人の左翼を暗殺する計画だったが、最終的には3人
にしぼる。共産党の野坂参三、社会党の浅沼稲次郎、
日教組委員長の小林武。
この3人の自宅に電話をしているが、外出中など様々な
理由で山口二矢の訪問の隙がなかった。
偶然、読売新聞に1960年10月2日、日比谷公会堂で
三党首の立会演説会があることを知る。
このことで浅沼刺殺を決意。短刀は自宅にあった父親が
隠していたものを使う。日比谷公会堂へ行くが、入場券が
必要だった。主催は東京都選挙管理委員会、NHK・・。
入り口にいた警備の係りが、山口に入場券を上げてしまう。
刺殺後逮捕。単独犯行を主張。17歳のため、鑑別所に
入所したその晩、鑑別所の中でシーツを切った布で
首つり自殺を図り死亡。17年間の人生を終わる。
今生きていれば66歳である。
本書を読むと山口二矢と浅沼稲次郎は見えない糸で
結びついているかのように、いくつもの偶然が重なって
刺殺へと進んでいった。日比谷公会堂を守っていた
警備の係りが入場券をあげなければ浅沼刺殺は起きなかった。
当日、愛国党が会場の左に数十人陣取り、浅沼に罵声を
浴びせ壇上にかけあがりビラを撒くなど会場は騒然としていた。
山口は遅れて会場に入り、人が少ない右側に入る。
30名いた私服警官は、会場左で暴れている愛国党に目が
行ってしまい、遅れて入ってきた学生服の上にジャンパーを
纏った山口には全く警戒をしなかった。
本書を読んで、やはり最後まで残った疑問は何故、17歳の
山口はそこまで行動を起こしたのか?その後何故自殺したのかは
分からないままであった。しかし、当時、私に強い衝撃を
与えた浅沼刺殺事件の経過と当時の時代背景、浅沼の
生い立ち、山口の生い立ちなどを詳細に聞き取っているので
歴史としての浅沼刺殺事件を理解することが出来た。
テロルなど絶対に許すことは出来ないことではあるが、
1960年はまだ日本人が純な時代であった。

午後5時、ベトナム事務所へ。
バオミンさんと打ち合わせ。

午後5時半、日本料理店で夕食。


日本人来客4人。若者3人、ドイツに住んでいる日本人1人。

読書「危機の宰相」(沢木耕太郎著:文芸春秋)
1960年安保闘争で退陣した岸信介の後任として就任した
池田勇人の「所得倍増計画」を追う。

投稿者 koyama : 2008年12月03日 17:35

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