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2011年06月30日

通常業務 読書

快晴  非常に暑い

昨夜飲み過ぎ。

午前7時朝食。青豆・隠元豆とニンジン

のおかゆ。


20通近くのメール受信。一つ一つに返信。


読書「自民党戦国史 上」(伊藤昌哉著:筑摩書房)

佐藤内閣の後の田中内閣のロッキード事件。
田中の逮捕。三木内閣の成立。三木下ろし。
と権力をめざす人々のあくなき権力闘争の実際を池田首相、
大平正芳の側近として過ごした著者が詳細に記述している。
権力を取るためには、何でもするとの姿勢は戦慄を感じる。

現在の菅首相の「権力にしがみつく」姿勢は、けして彼だけでは
ないことが分かる。自民党という長期政権の中での権力者。
敵の敵は味方になり、何とかして相手を騙す、お金を使う、
役職を餌にするなど、ありとあらゆる卑劣な手を使う。
相手への「だまし討ち」・・・。

菅首相も権力を離したくないという「人間の業」、権力者の
権化であるが、権力を握ると大体の人はこうなるのだと
言うことが分かる。

バオミンさんと何回か電話で打ち合わせ。
「子どもの家」入所のこどもたちの件。

ソン君・メンさんの長男の「命名式」(7月5日)出席の件

フエ・「子どもの家」訪問者の件

飛んでけ、車椅子からの車椅子贈呈の準備

フエ高等師範大学創立35周年記念式典出席問題・・・・・


昼食 ご飯、サラダ、煮魚、野菜スープ
    (量が多すぎる。食べきれない・・・)



午後2時間ほど昼寝。

エヤコンを使っていない。扇風機のみ。室内の気温34度。
湿度70%。

読書「自民党戦国史 上」(伊藤昌哉著:筑摩書房)読了。


午後5時、1時間ほど散歩。

昨夜、リー君からメールあり。内容「先生、げんきですが?
りーは元気。仕事はうまく行っている。6年前から助けてもらった。」
という趣旨。


おちゃらけ火炎樹 川柳
                          小山自作・自薦

●仕分け人 仕分けをされて補佐官へ(蓮舫)

●西山氏 カツラは飛ばず 首が飛ぶ(西山不倫保安院審議官)

●菅釣り師 濱田カツオの一本釣り (羨ましがる気仙沼漁民)

●五百旗頭(いおきべ)の旗は一本 消費税

●中国の新幹線は「感心せん」 (中国アメリカに特許申請)

●共産党 共に産する 賄賂銭(ぜに) (某社会主義国の実態)

●安全の眠りを覚ます軽水炉 たった4機で 世界眠れず

投稿者 koyama : 19:34 | コメント (0)

2011年06月29日

ベトナム人家族と懇親夕食会

快晴  午後一時にわか雨。

午前7時朝食。フォー。


午前中、メールの受信(15通)、送信。


読書「自民党戦国史 上」(伊藤昌哉著:筑摩書房)

読んでいくうちに面白くなり、今日はほぼ1日読書。

伊藤昌哉氏は、新聞記者を経て、池田首相の首席秘書官、
池田首相死後、大平正芳の側近として活躍。
私は日本に居る頃(18年以上前 198年代)には
政治評論家としてマスコミに登場していた。
私が中学から高校・大学・社会人になる頃の自民党内での
派閥の暗闘の内情がリアルに書かれている。
1960年安保で岸内閣がつぶれ、『所得倍増』の池田内閣へ。
池田の死後、8年間も佐藤栄作内閣が続く。この辺までは、
大学を終わり、教員になった頃まで。
佐藤の長期政権の後、田中・大平・三木、福田の権力闘争
が続く。

自民党の主流派閥である「宏池会」に関係し、大平の相談役的
な存在として活躍した伊藤氏の回想録。

佐藤長期政権が終焉し、その後の首相は誰になるのか?
田中角栄の「恥も外聞」も投げ捨てて権力獲りの実態が書かれ
ている。大平は権力奪取への「エネルギー」が田中角栄よりも
少なく、淡白だったようだ。
この中で二つ気づいたことがあった。当時(今は知らないが)の
新聞記者は、各派閥のスパイであり、事務局員の仕事もしていた
ことは分かる。NHKの島(元会長)などは、宏池会の権力奪取
の相談にも参加。他者の政治部記者もある派閥の使者として
他派閥に伝言役でいくなど、マスコミが政治と結合していた。
伊藤氏は、金光教に執心し、金光教の取次の人からの
助言で政治を考え、大平正芳に助言などをしていた。


昼食  チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)

1時間ほど昼寝。

午前中は室内気温32度、湿度80%だった。

午後、にわか雨があり、涼しい風が通る。

読書「自民党戦国史 上」(伊藤昌哉著:筑摩書房)


バオミンさんと電話いくつか打ち合わせ。

午後5時、徒歩、ベトナム事務所へ。

午後5時半から午後9時半までベトナム人家族と
夕食会。


投稿者 koyama : 18:19 | コメント (0)

2011年06月28日

バオミンさんと打ち合わせ

快晴  気温・湿度高し。 室温35度。

午前7時朝食。ブンボー(フエ名物)

徒歩、ベトナム事務所へ。

バオミンさんといくつかの重要な問題について協議。
今週から来週にかけての式典・懇談会日程の調整。


午前11時半、昼食。春雨麺

1時間ほど昼寝。


読書「社会主義の誤解を解く」(薬師院仁志著:光文社文庫)読了

1991年、ソ連崩壊後の今日、改めて「社会主義」の歴史を
辿る。

レーニン・ソ連型の民主集中制を基礎とした社会主義・共産主義
だけではなく、様々な潮流があることを、歴史的に立証する。

現在もソ連型・コミンテルン型共産主義が崩壊した後でも
西欧の「社会主義」は健在であることを主張している。
イギリスの労働党、フランスの社会党、北欧やドイツの
社会民主党の政権保持の現実を紹介している。
日本は特殊な形での社会主義の歴史を歩んだと
著者は主張している。ソ連型の共産主義を目指す
日本共産党だけでなく、西欧の社会民主主義を目指した
旧社会党の凋落。日本だけの特徴だという。

著者は社会民主主義の存在を特に強調している。

レーニン型の共産主義は特殊なものだとの主張。


午後3時。部屋のパソコンが壊れる。画面が緑色になる。

10年間使ったデスクトップのパソコンだ。
ソン君に手伝ってもらって、新しいディスプレーを買う。


東電の株主総会。

清水社長の発言。質問。

大資本家とその仲間の本質を見た思いがする。
福島原発のこれだけの「犯罪」を犯した清水社長や勝俣会長の
議長や答弁などを見ていると、大資本家は、人間を虫けらの
ように思っているとしか考えられない。
自分たちは、数千万円の年収をもらい、50%カットなどと
言っているが、福島のこどもたちは壮大人体実験にさらしている
のだ。
3月11日に福島原発はメルトダウンし、3月15日位まで
高濃度の放射能が放出された。福島県をはじめ多くの地域
でこどもたちは高濃度の放射能を浴びた。
3月11日の数日後には、イスラエルまで放射能が届いている。

低濃度の放射能が人体にどのような影響があるのかは、20年、30年
という長期間の観察が必要であり、その上、因果関係は証明されない
可能性がある。しかし、こどもたちは、明らかに放射能の影響を受ける。

ソ連邦のチェルノブイリ原発事故では、5年から10年後に5000人
以上のこどもたちに「甲状腺がん」が認められたいう。
遺伝子の異変の影響を指摘する学者もいる。

結果的には福島をはじめ、多くの地域で「壮大な人体実験」
をしている我が日本国であり、その主犯の東電の社長と
総会の議長は、一片の人間らしい気持ちも持っていない。

被害を与えた皆さんへの謝罪は、自らの邸宅と家財を全て売却し
4畳半のアパートに住む所からはじめるべきだ。

口で何を言っても意味はない。勝俣と清水の実際の行動が
必要である。自らの全財産を全て失ってから社会に謝罪すべき
である。日本経団連の会長といい、東電の会長、社長といい、
道徳のない、人間性のかけらもない人間と言われても仕方がない
のではないだろうか?

私は東電の社長・会長に個人的な敵意は持っていないが、
社会的・道徳的に見て、全自己財産の処分と4畳半の
アパートでの生活をすることろから、被害者への謝罪が始まるような
気がしているのである。

東電の株主総会は東電側の議案が全て了承された総会だったようだ。
勝俣会長・清水社長を追及した株主も「加害者」の一人であることの
自覚は必要である。

投稿者 koyama : 20:53 | コメント (0)

2011年06月27日

「子どもの家」入所希望者面談

快晴 

午前6時起床。ストレッチ。体の筋肉がかなり固まっている。
筋肉だけでなく「頭脳」も固まらないように、常に進取の精神で
柔軟な頭脳でありたい。そのためには、頭脳への刺激(読書)
が私には絶対に必要だ。知的刺激は、筋肉の刺激よりも
更に刺激的。

午前7時朝食。キャッサバ芋の手打ちうどん

午前8時過ぎ、徒歩ベトナム事務所へ。

「子どもの家」への入所希望者と懇談。

タイ君。1993年から1995年まで「チーラン通り子供の家」
・グエンチャイ「子どもの家」に在籍し、現在36歳。
「子どもの家」入所時は18歳から20歳。

両親が船上生活者だった。生活困難で「子どもの家」にタイ君が
入所。
20歳で退所し、親の仕事(フオン川の砂や砂利取り)の仕事を
始める。

その後、16歳の女性と結婚。3児の父親となる。
現在も砂や砂利取りの仕事をしているが、生活困難。
長女11歳。現在小学校3年生。9月から小4を「子どもの家」に
入所させて欲しいとの要望。

8歳(小1)と6歳の女児の3人の父親。

生活の事情を聞くと、このまま行くと長女が学校へ行かなく
なる可能性があると判断した。

タイ君が「子どもの家」を退所し、親のしている川砂や砂利採取の
仕事をすると言った時に私は反対した。しかし、タイ君は勉強が
嫌いで、体を動かした仕事をしたいとの強い希望があった。
16年前の話である。

今回、バオミンさんとも相談し、諸事情を勘案し、長女を
「子どもの家」に入所させることにした。
長女は学校の成績は優秀である。「子どもの家」で自分の人生を
探して欲しいと願う。
私はフエに18年居て、この種の問題、入所希望、支援希望者との
話し合いを何百回もした。私やベトナム事務所の意向で「一人の
人間の人生」が決まってしまう。自分の存在のあり方に脅威を
感ずることがある。出来るだけこどもたちを救いたい。
結果が出るまでには、10年、15年かかる。私も自分の人生を
かけてこどもたちと向き合っていく覚悟でいる。

「子どもの家」の卒業生が自分のこどもを「子どもの家」に入所させたい
との動きは18年にして初めてのことである。

タイ君はほぼバオミンさんと同い年である。私はバオミンさん
の年齢のこどもたちを育ててきたのだと改めて自覚した。

その後、バオミンさん、ハンさん、原田先生と「ある問題」に
ついて協議する。


午前11時半。昼食。魚いりのおかゆ。

今日は異常に蒸し暑い。昼食のおかゆを二口食べたが
食欲なし。昼食を摂ることができない。

昼寝。


読書「社会主義の誤解を解く」(薬師院仁志著:光文社新書)
非常に興味を喚起する本である。社会主義・共産主義は
マルクス・レーニン主義に取り込まれた。
しかし、レーニンが言った社会主義・共産主義が「唯一絶対」
のものではない。イギリスの産業革命以後の労働組合運動
(主流は熟練労働者の特権的な組合)などの実例を辿り、
社会主義・共産主義がどのように発生し、その中でマルクス
エンゲルスがどのような役割を果たしたのかを概観している。

午後3時過ぎ、徒歩、ベトナム事務所へ。

日本料理店の問題で日本料理店の個々のスタッフと
面談する。


その後、バオミンさんと当面のいくつかの問題を
協議する。


東電の循環注水冷却が、一種の茶番・目くらましの
トリックのように思えてならない。

汚染水を除染し、循環させ、原子炉を冷却するという。
しかし、原子炉は既にメルトダウンし、原子炉の底を
スルーアウトし、原子炉下のコンクリートに染みて
地下へ。そして海へ流れている可能性が濃厚。
汚染水自体が地下に流れている可能性が強い。
循環注水冷却をしても全ての「汚染水」の回収は無理だとの
見方が強い。

メルトダウンは3月11日起こっていたが、政府の発表は2ヶ月後
であった。また、同じことを繰り返しているように思う。

循環注水冷却が国民の目をごまかす「フェイント」でないことを
願うのみ。

午後8時、菅首相の記者会見を聞く。

小幅の内閣改造。これも「目くらまし」。何も変らない。
菅首相を責めることは簡単であるが、民主党に
政権を与えたのは、私たち国民である。今、大きな「学習中」
である。自分が見えなくなった菅首相。そして無能な取り巻き
連中。それ以上に無能な野党自民党・公明党・・・・・。
政治そのものへの不信感が国民の心の奥底に沈殿している。
この馬鹿馬鹿しい「政争」を通して、地震・津波・原発の
災害・被害と闘わなくてはならない。東北の被災者と
原発の被害者。
日本経団連の会長は、未だに原発推進を主張している。
どうなっているのか? わが日本。

投稿者 koyama : 21:32 | コメント (0)

2011年06月26日

読書:メール送受信

快晴  外気温度計45度  室内温度計 40度


午前10時まで寝ている。寝ながら読書。

読書「無知の涙」(永山則夫著:河出書房新社)読了。

500ページの大著。

4人の罪なき市民を拳銃で連続殺人事件を起こした永山氏。

小中学校もきちんと行かず、字も読めないという極貧困の
生い立ち。また、両親の育児放棄。虐待。親からの愛情不足。

1968年10月・11月と東京・京都・函館・名古屋で
ガードマンやタクシー運転手4人を殺害し、1969年に
逮捕。1審死刑・2審無期・最高裁は高裁に差し戻し。
高裁死刑、最高裁死刑。45歳で死刑執行。

本書は、1969年4月に逮捕され、東京拘置所に収監中に
勉強をはじめ、1969年、1970年の2年間に書いた所感
である。
一審の裁判中でも「死刑」を予期。著者は、死刑になることを
前提として、所感をかいてる。1970年頃(逮捕後2年)の
所感は東京拘置所で中核派の活動家と知り合い影響を受ける。
日本帝国主義、日本資本主義を打倒し、社会主義にする。
そのためには宮本日本共産党のような生ぬるい闘争ではなく、
個人の必殺テロを行うこと。天皇制を打倒することで、
眠った無知な庶民の目を覚醒するということを綿々つづっている。
著者に取っては、拘置所で書くこと・綴ることが実存・生きている
証だと言っている。「子どもの家」のこどもたちの中には、著者と
同様に親の虐待、育児放棄という経験をしているこどももいる。
彼らの心の深層は分からない。本書を読むことで「全く同様」では
ないが、参考にはなる。

午前11時、ブランチ。(マカロニスープ 半分)

1時間ほど昼寝。暑い。

読書「社会主義の誤解を解く(薬師院仁志著:光文社新書)

20%程度読んだが、趣旨は、社会主義思想の歴史を
さかのぼり、ソ連型社会主義が社会主義ではなく、
労働党・社会民主党・社会党など様々な社会主義があることを
示し、その昔のマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」は
正確には、社会主義宣言というべきだとの見解を提示している。
ソ連崩壊後の社会主義・共産主義の行方を模索する一著である。


午後4時過ぎ、徒歩で国立体育館の近くにある中型スーパーへ
行く。往復1時間半ほどかかる。

途中、サッカー場の近くを歩いているとイン君と会う。
携帯電話のシールを売っているとのこと。
1日20万ドン(800円)になると言っていたが、本当だろうか?

段々と夕方になる。スーパーに行く途中の歩道に
「サトウキビジュース」のお店がたくさん出ている。
家族や友だちで低い椅子に座り飲んでいる。
私は「怪しい飲み物」と思っているので飲んだことはないが・・・。


スーパーに行き、1階、2階と見て周り、買いたいものもないので
そのままスーパーを出て、宿舎へ帰る。往復1時間半。


投稿者 koyama : 21:50 | コメント (0)

2011年06月25日

APEX関係者と懇談

快晴   気温38度

午前7時朝食。フォー



午前中、バオミンさんと打ち合わせ

メール受信・送信


午前11時半昼食  春雨麺



1時間昼寝。


「読書「無知の涙」(永山則夫著:河出書房新社)


午後1時15分、徒歩、ベトナム事務所へ。

APEXホーチミン市事務所のSさんと懇談。


投稿者 koyama : 21:36 | コメント (0)

2011年06月24日

葬儀参列:ブライセン・スタッフ送別会

快晴

午前7時朝食。 ブンボー。


室内気温32度。湿度80%で温かい米うどんを食べる。
汗が噴出してくる。扇風機をかけるが全く効かない。
私自身が「人間クーラー」となる。体温急上昇。
汗が出る。汗の気化熱で体温が下がり、涼しくなるという
「理屈」だが、とにかく体中が汗だらけ。ベトナムでは汗を
掻いたからといって、いちいち、着替えをしていたら
1日10回でも20回でも着替えが必要。「着干し(ちゃくぼし)」
という便利な言葉がある。着たまま「干してしまう」という
優れもの。但し弱点が一つある。「汗臭くなる」。

午前9時半、徒歩ベトナム事務所へ。
知り合いのホテルオーナー、ベトナム事務所
のオーナーの母親が亡くなった。ハンさんと一緒に
葬儀に参列。


JASSからの弔意の花輪


このホテルは、バオミン・ホテルの前にある
「フオン・ホアンホテル」。1995年8月、フエ師範大を
「日本の警察のスパイ」として解雇され、警察・人民委員会
の指示でこの「フオンホアンホテル」に数ヶ月「軟禁」させられて
いた。そんな事情でこのオーナーと知り合い、現在の
ベトナム事務所のオーナーでもあったのでレストランだった
現ベトナム事務所を改修し、日本料理店・ベトナム事務所・
ブライセンベトナム支社とした。
「私の軟禁処分」という嫌な思い出が、人と人との出会いを
生み、今日のベトナム事務所まで辿りつくのである。
人との出会いとは不思議なものである。
マイナスがプラスに、プラスがマイナスになる。
マイナスや失敗、嫌なことを否定的に捉える必要はない。
「日本の警察のスパイ罪」でフエ師範大学を突然解雇された
マイナスが長い目で見ると、プラスに転化し、母親の葬儀参列
まで繋がるのである。人生の不思議さである。
般若心経にある「色即是空」「空即是色」である。
「あることはない」「ないことはある」のである。


午前11時半昼食。小麦粉の手打ちうどん


1時間ほど昼寝。


「読書「無知の涙」(永山則夫著:河出書房新社)

午後3時過ぎ、ナムドン山岳地帯へ行く計画について
訪問者と電話。


午後5時過ぎ、徒歩ベトナム事務所へ。

先日の日本料理店会議でこどもたちから出た「食器戸棚」
に開閉扉をつけて欲しいとの要望に応え、整備を始めている。

ブライセンベトナム支社員6人、私、バオミンさんが集う。
私がブライセンベトナム支社を代表して、トアンさんの
離任と在職中の奮闘をねぎらう


トアンさんの離任のことば


VU君の乾杯の音頭で乾杯




午後7時半。日本語学校の授業を終えた富岡先生を
呼ぶ。ブライセンベトナム支社員と同じ年頃なので
交流する。日本語学校に通っているブライセンスタッフの
日本語の先生をしている。



夜は深まっていく。酒量は増える。会話のトーンは上がる。


ブライセンベトナム支社の主任であるVU君。
1993年から私と付き合っている。



フオン川の川風が涼しい。


芝生の臭い、回りの樹木の香り。そしてフオン川の川風の
臭い。自然の臭いと涼しさの中での離任式は意義にあるものだ。



午後9時。私は皆さんより一足先に帰宅。

最後の離任するトアンさんの健康を祈り、握手をして
別れる。



投稿者 koyama : 09:27 | コメント (0)

2011年06月23日

通常業務

快晴  気温38度(外気温)

午前6時起床。

午前7時朝食。キャッサバ芋の手打ちうどん

午前中、20数通のメール受信。

必要なメール送信。7月8月9月そして10月のスタディーツアー
日程を改めて見直す。


読書「無知の涙」(永山則夫著:河出書房新社)
90%程度読み終える。活字が小さいので、通常の
活字なら900ページはある。東京拘置所にいる
1970年に書いた日記風の詩や短歌、文章など
を読む。自分が4人の人間を拳銃で殺害したのは
貧しさから来る無知が原因であるとしている。
そのためには、学ばねばならないとして、資本論から
精神分析、哲学などを大量の本を読破する。
東京拘置所にいるということは、裁判中。
しかし、永山氏は「自分は死刑になる」として死を覚悟した
上で、資本主義社会を打倒する社会主義革命、貧乏人が
いなくなる社会主義のために闘うと書いている。
1970年頃は、まだ社会主義が輝いていた時代だった。
社会主義になれば貧乏がなくなり、みな豊かになると
思える幸せな時代でもあった。
昨日の火炎樹日記にあるように1ヶ月840円で生活している
ベトナム社会主義の現実を知らないで「あの世」に行った永山氏
はある意味では幻滅という現実を見ないで済んだという意味で
「幸せ」であったのかもしれない。

午前11時半、昼食。お米のご飯と野菜スープ、魚、サラダ。

1時間ほど昼寝。

その後、徒歩でベトナム事務所へ。

バオミンさん、ブライセンスタッフと懇談

その後、バオミンさん、原田先生と日本語学校の進め方、
日本料理店の運営について懇談。

日本料理店では食器の棚の改装をしていた。

沖縄での組織的戦争が1945年6月23日に終わる予定だった
日である。人口の4分の1の人々がなくなったという。

1872年に琉球王国を「琉球県」としたことを「第1次琉球処分」。
1979年、「沖縄県」と改称したことを第2次琉球処分と
言っている。

1945年6月23日の沖縄戦。日本本土の徹底抗戦を実現する
時間稼ぎとも言われている「沖縄戦争」。66年経過した。

そして今。普天間移転問題。民主党は沖縄を騙し続けた。

第4の琉球処分といえる。

こうして、琉球は、日本の盾となり、現在でも日本本土の
「捨石」のような扱いをされている。

沖縄米軍は洋上兵員を含め5万人以上。

米軍専用施設に限ればその74%は沖縄県に集中している。

私は、こうした沖縄の人々の犠牲の上に日常生活を
送っていることを知る必要があると思っている。


投稿者 koyama : 21:50 | コメント (0)

2011年06月22日

「子どもの家」入所希望者家庭訪問

快晴  外気温39度  

午前5時半起床。 軽くストレッチ

午前7時朝食。「青豆のおかゆ」「小魚の甘辛煮」「茹で野菜」

午前7時45分、徒歩でベトナム事務所へ。

バオミンさんと一緒にブライセンスタッフと懇談。


午前8時40分、バオミンさん、原田先生、土井先生・富岡先生
「子どもの家」のロックさんと一緒に「子どもの家」入所希望者の
家を訪問。

ベトナム事務所から車で30分。フエ郊外の「フオン・ソー村」。
完全な農村地帯。

丁度、田植えの時期だった。日本よりも水を多めに入れての
田植え。

典型的な農村共同体の村。
村の「中央通り」には、「市場」が立っている。
その日、この村人が食べる量だけを売っている。
冷蔵庫で肉や野菜を冷凍するわけではない。
新鮮な肉・魚・野菜が安価で売られていた。
添加物が一切入っていない魚や肉・・・。
日本と比べてどちらが「豊か」なのか?

フオン・ソー村「中央通り」を抜け、「子どもの家」入所希望者の
家へ。

この家もベトナムの農村の典型的な家である。


「子どもの家」へ入所を希望している子供は、11歳の男児。
9月から中学1年生(日本の6年生に当たる)になるP君。
祖父(82歳)、祖母(78歳)に育てられている。

家庭は複雑な事情である。
祖父の息子は正式な婚姻届を出さないまま某女性との間に
P君を出産。11年前の話である。翌年(10年前)に
P君の父親と母親は、どこかへ姿を消し、一緒にいるのか、
別れたのかもわからないまま、10年がたってしまう。
この10年間、一切音沙汰がない。
この10年間、祖父母がP君を育てている。両親は行方不明
になっている。

祖父母は元々は農民だった。しかし、82歳と78歳という高齢と
なり農業もできなくなっている。


祖父母は、フエ市人民委員会から「貧困家庭」との認定書を
もらい、フエ市から毎月18万ドン(720円)の貧困者手当て
をもらっている。祖母が庭で野菜を作り売っているが
リーマチがあり、体が動かない。毎月の野菜の売り上げは
3万ドン(120円)。
P君の家庭の1ヶ月の収入は、日本円で840円である。
フエで一般市民が最低限度の生活をすようとすると
毎月最低で「3000円~5000円」程度はかかる。
日本料理店のこどもたちの月給が6000円~8000円である。
この1年で物価は2倍から3倍もあがるという超インフレ社会と
なった。

月収840円ではどう考えても普通の生活が出きるわけがない。
祖父は胃の病気で昨年入院。祖母はリューマチ。

現在は、祖父母とも高齢であり普通の仕事はできない。
近所の人がお米をくれたり、自分の庭で少しの野菜を作り
最低限の生活を送っていた。

村にいる「ベトナム婦人同盟」の人に『フエ市内に日本人が
運営している「子どもの家」がる。P君をそこにいれれば
衣食住・学校へ行ける』との話を聞き、祖父母は、
婦人同盟を通して、「子どもの家」のロックさんに連絡して
来たという経過である。

日本の「民生委員」のような役割りを果たしている
ベトナム婦人同盟。この村の婦人同盟がなかったら
祖父母は「子どもの家」の存在をしらないままでいたのである。
年に数回はベトナムのテレビでJASSの「子どもの家」の
活動が報道されている。テレビ報道も意味のあることだ。

以上が大筋の家庭環境である。

日本のテレビ新聞などでは、ベトナムの経済成長は年率10%。
高度経済成長のベトナムとの報道が多い。事実ではあるが、
その「高度経済成長」の影で、月収840円で何とか食いつないで
いる庶民がいる「社会主義国」なのである。

最後にP君に「子どもの家」入所の希望があるのか確認。
P君ははっきりと「入所したい」と返事をした。
私が将来は何になりたいの?と聞く。
P君は「はにかんで」答えなかった。


その後、ロック寮長が祖父母、P君に「子どもの家」での
生活などを細かに話す。

最後に全員で記念写真を撮る


P君は「子どもの家」に来てどんな振る舞いをするのか?
直ぐに慣れるか? 友だちは出きるか?
全く知らない世界に入る不安を胸に秘めて、P君は
近々に新たな旅立ちをする。
P君が「子どもの家」でしっかりと勉強をし、人間が生きていく
ための知識をつけて欲しい。そして、自立できるように
なって欲しい。私たちの力は微力なものではあるが、
P君に取っては、今日、私たちと出合ったことは、人生の
大きな出来事のはずである。あるいは、P君の人生を
変える大きな出来事だったのかも知れない。
そうあって欲しいと念願する。

P君の戸籍を聞いた。「戸籍に入っていない」とのこと。
諸事情はあるにしても「戸籍に入っていない」存在としの
こどもとは、悲しいことである。P君には戸籍がなく、
法律上はこの世に存在しない子どもということになっている。
悲しいことである。

「子どもの家」は公的機関なので「戸籍を作る」ことができる。

この18年間で450人以上のこどもたちが「子どもの家」を
巣立っていった。かなりのこどもたちは路上にいて、
戸籍がなかった。自分の本当の名前も知らない子、
誕生日、出生地を知らない子供も多かった。全ての
こどもたちに誕生日を作り(女子は国際婦人デーの3月8日)
戸籍を作ってやった。多くのこどもたちの戸籍は、「子どもの家」
にある。
「子どもの家」を巣立ち、自立した時、「子どもの家」の戸籍を
抜くのである。「子どもの家」のこどもたちの戸籍と身分証明書は
「子どもの家」で作っている。

フエ市内はこの18年間できれいになった。ベンツやトヨタの
新車を乗り回す人々も増えてきた。一時成金も多い。
肥満の人が異常に多い。確かに豊かになったのだが、
その豊かさの裏にP君と祖父母のように最低限度の生活さえ
保障されない家庭があることを私たちは知っておく必要が
ある。ベトナムをオートバイで縦断した人の本を読んだことが
あるが「ベトナム人の目は輝いていた」が主張したいことだった。
目が輝く前に、腹が減って、学校へ行けない農村の隠蔽された
こどもたちやお年よりがたくさんいることを知るべきである。
ベトナム人の70%から80%は農民である。
ホーチミン市やフエ市・ダナン市・ホイアン市・ハノイ市などだけ
見ていたのでは、本当のベトナムの実相は分からない。

1時間ちょっとのP君の家への訪問だった。農村に隠れて
必至に生活している祖父母の姿と何も言わないP君を
見て、国家とは何か? ベトナム社会主義、「ドイモイ」の
実態を見た思いがした。
世の中の森羅万象、表裏がある。表だけ見ていては、
本当の事象が分からない。表裏は一体で見るべきである。
人間は表の「きれいな所」だけ見せたいものである。
特に社会主義を名乗る国や政党はその傾向が強い。

午前11時半。昼食。マカロニスープ

外気温は40度近い。フオン・ソー村訪問はさずがに疲れる。

午後12時半から1時間半昼寝をする。これから10月17日まで
「夏のツアー、訪問者ラッシュ」が続く。
早速、明日から、東京を本拠にしている「こうばこの会」の方々が
来訪される。

ーーーーー
P君の家庭訪問の帰りに「子どもの家」によりセン運営委員長
と懇談。

静岡大学工学部を受験し、不合格となったHNさんの今後の
身の振り方について話し合った。

静岡大学工学部入試に失敗したHNさんは、精神的に
相当の動揺があった。HNさんはフエ省トップ高校の
グエンフエ高校での卒業試験でも「最優秀賞」を受賞している。
120万人のフエ省の理系では一番成績の良い生徒であることは
事実である。
ところがHNさんは、静大受験に失敗した精神的な動揺で
文系の「フエ外国語大学日本語学科」へ受験申請をしてしまった。
理系の勉強をしていたので、文系の成績はあまりよくない。
先日、本人とバオミンさんを介して面接したが、フエ経済大が
本当に入りたい大学だが、文系の勉強をしていなので
今年は、フエ外大日本語学科に入り、来年フエ経済大を
再度受けなおすといっていたのである。
先日、フエ経済大再受験はやめるように進言した。

今日はその結果を聞いた。
HNさんは、私たちの助言を聞いて、今年は大学受験を
止めて、予備校に行き、理系の勉強を更に進める。
1年間の理系勉強の結果を見て、来年理系のどこを受けるかを
決める。姉の行っている「フエ医科大学」。あるいは、『フエ科学
大学」などを目指すという。文系の勉強をしていないHNさんが
文系を受けても展望はない。フエ省でトップの才能を持っている
理系の能力を生かして来年の大学受験を頑張って欲しい。
HNさんは、両親がいない。フエ医科大に行っている姉と二人だ。
幸せにも理系の能力を持って生んでもらった親に感謝すべきだ。
その能力を伸ばして、人生を歩んで欲しい。
1年間の「浪人生活」は不安定なものかも知れないが、長い人生
である。浪人生活の苦しみを生かして、来年「桜を咲かせて」
欲しい。フエの場合は「火炎樹の花を咲かせて欲しい」という
べきか? HNさんも今年から来年が『人生の大きな転換期』
になるはずである。NHさんの幸せな人生を願うのみである。

投稿者 koyama : 13:03 | コメント (0)

2011年06月21日

終日、自室で仕事

快晴   外気温38度 

東京の最高気温は29度だったそうだ。
フエでは30度以下は、暑さの「範疇」には入らないような気がする。


午前5時半起床。ストレッチ

午前7時朝食。フォー


今日は1日で24通のメール受信

15通のメール送信。

終日、メールの送受信に追われた。


昼食  チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)


バオミンさんといくつかの問題で打ち合わせ


ピースインツアーと電話で打ち合わせ

ホーチミン市の「ベトナム・スケッチ」の方と「子どもの家」
訪問の件で打ち合わせ


読書「無知の涙」(永山則夫著:河出書房新社)
永山氏は拘置所で大量の本を読破。
「わが師マルクス」と言っている。
資本論8巻を読破。どれだけ理解したかは不明だが。

ーーー
3・11以降、日本の政治の最大課題の一つは、
原発を引き続き維持し、原発に頼っていくのか、
原発を止めて、代替可能エネルギーに移行するのかが
一人一人の人間に問われている。
原発を止めて、多少不便な生活でも安心できる生活を
したい、原発は、一度事故が起これば、経済的に膨大な
損失を蒙るなどなど、様々な意見が出ている。

焦点は、脱原発か否かである。徐々に原発を止めることも
含めて。

日本共産党が「原発ゼロ」路線を提起した。「脱原発」と
「原発ゼロ」とはどこが違うのか? 
脱原発と言ってもかなり広い意見を包含している。
直ちに全ての原発を止めよ、から徐々に全ての原発を
ストップするまで。 日本共産党は「原発ゼロ」について説明責任が
ある。同時に日本共産党はこの数十年、「脱原発」には
賛成してこなかった。原発の安全性確保を主張していた。
今回、「原発ゼロ」と方針を変更したことについて、それなりの
経過と総括を国民に発表すべき義務がある。
ずるずると「原発ゼロ」との主張をするのは、公党としての
責任感に欠ける。他党が同様の行動をとった場合には、
厳しく批判してきた過去の経過を考えるのなら、
「原発ゼロ」と方針を転換した理由、脱原発には賛成してこなかった
過去の態度に真摯な総括が求められる。

原発を止めて「自然エネルギー」への転換を希望することは、
思想信条の問題ではない。理論・理屈の問題でない。
福島原発の深刻な実態を目の当たりに見た人なら
誰でもそう思うのではないだろうか?

海江田産業経済大臣が、停止原発の再稼動には、
問題がないと発言している。
自民党の石原幹事長は、原発問題について「集団ヒステリー」
と言っている。それぞれの教養と知性が分かるというものである。

橋下大阪府知事、平松大阪市長、山形県知事が、はっきりと
「脱原発」を主張している。
これらの政治家と私の政治についての考えには大きな乖離がある。
3人がどんな政治的な打算で「脱原発」を言っているのか
しらないが、それでも言っていることは真っ当な意見である。
これから、一人一人の国民の日常性そのものを含めて、
その態度が問われていくことになる。曖昧な態度は許されない
事態の中にいる。原発とともに生きるのか? 原発を拒否し、
新たなエネルギー政策を求めるのか?

投稿者 koyama : 20:19 | コメント (0)

2011年06月20日

夏のスタディーツアー等の打ち合わせ

快晴  真夏

午前6時起床。ストレッチ

午前7時朝食。ブンボー


午前9時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。

ベトナム事務所では、会計部長のハンさんが、お金の勘定中。
ベトナム事務所の「影の実力者?」。


バオミンさんと夏のスタディーツアーの日程等の調整
また、2012年の春のスタディーツアーの内容更新についての
話し合い。

午前11時半、昼食。魚入りのベトナム風おじや。

午後12時半から1時間ほど昼寝。

支援者へのメール送信。

国際ソロプチミスト東京ー東へ支援金受領の領収書を
送信。

バオミンさんと電話で2012年春のスタディーツアーの
内容について電話で協議。


(以下、JASS静岡の会からの報告)

6月18日、JASS静岡の会の月例事務局会議があった。
参加者は6名。
主な内容は
①毎年やっている小山さんを迎えての企画について。
  これについては小山さんに帰国日程を伺い、
  できればその時に静岡市長に会えるようになるといいと思っている。
②ベトナムからの留学生支援について
  静岡の若者との交流なども入れていきたい


元ロサンゼルス国際学園のO先生のフエ訪問についての
返信。

こうばこの会訪問予定者への受け入れ返信。


北海道「北方圏センター」スタディーツアー担当者にメール連絡。

フエで美味しい日本酒や焼酎を造っている「フエ・フーズ」
の黒川さんにメール。
フエフーズの特製吟醸酒「嬢薫」を頂いたお礼。

投稿者 koyama : 08:28 | コメント (0)

2011年06月19日

終日宿舎で休息・仕事・読書

終日真夏。午後2時半「豪雨」。少し涼しくなる

午前9時半起床  真夏の透き通るような「青空」

午前10時半、かるく「春雨麺」。

受信メールをチェックする。

YAHOOのメールには受信なし。
ベトナム事務所のVNのメールに何通か受信あり。
「YAHOOメールへ送信したが、返送される」とあった。
YAHOOメールをチェックしたら容量100%満杯になっていた。
急いで、古いメールを削除する。それでも95%。
受信・送信可能となる。

YAHOOメールに送信し、返送された方々にはお詫びを申し
上げたい。現在はYAHOOメール送受信可能である。

改めてJASS機関紙「バンベー39号」を熟読する。
ベトナム事務所員、各地の会の皆さん、坂本文子さん、
有ヶ谷さん、山西さんなど多くの人たちのご協力で完成した。
JASS東京を中心にした皆さんが、一人一人の会員の
方々に郵送するという作業をもあった。(6月18日)
地球の歩き方ミニスタディーツアーのお二人には
50部という重たい部数を持ってきてもらった。
多くの皆さんのご協力で完成し、無事、ベトナム事務所まで
100部届いた。
改めてバンベー39号を熟読した。大局的には良くできていると
自分では思っている。もちろん、細かいことを言えば切りがないが。

とにかく時間のない中でバンベー39号の編集会議を
ベトナム事務所員で行い、原稿などを分担。出来るだけ
ベトナム事務所員は全員が何らかの形で作成に参加するような
態勢を作った。今回は「東日本大震災」があったので、急遽、
1ページ・2ページを「大震災支援特集」に切り替えた。
「子どもの家」に今、どんなこどもたちがいるのか、何を考えている
のかが分かる「子どもの家」全員写真も企画してみた。
今後お手元に届く「バンベー39号」について、ご意見・ご批判を
お願いしたい。

洗濯。部屋の掃除と片付け。
衣類の整理。

急に豪雨。

読書「無知の涙」(永山則夫著:河出書房新社)

同時期にほぼ同い年の永山青年は貧困から4人の人を
あやめてしまい、東京拘置所で取調べと裁判。

日記風にかかれた本書・永山氏が東京拘置所で
考えたり、記録した日記内容を読みながら、当時、
私は何をしていたのか?を考えさせられた。
既に40年以上前の話であるが、かなり当時の私の思想と
行動が鮮明に蘇ってきている。
死刑を前提に書いている本書には、「真実」の言葉がある。
永山氏は貧困ということで勉強をする環境がなかったが、
本書を読むと東京拘置所に拘留されてから大量の書物を
読んでいる。また、勉強(漢字・・・・)もしていている。
彼の書いた当時の日記や随筆、詩、短歌などは、非凡
である。私も当時そんな思想や心理状態であったなどと
思いながら自らの20歳頃の出来事を反芻した。
1969年・1970年は日本全体が騒然とした時代で
あった。かなり厚い本ではあるが、一読の価値有。

午後6時、久しぶりの「晩酌」。缶ビール2本しか飲めず
自らの体に「憤怒」を感ずる。
昨夜のスタディーツアーのお二人と会食をした際、
私はほとんど食事ができなかった。その前に結婚式に
でたこともあり。こどもたちに頼んで「お土産」にしてもらった。
それらをおつまみに軽くビールを飲む。まずくはない。
ただ、たくさん飲めないのが非常に残念。

毎日新聞の報道によれば、「学力カップ」という名の
全国学力テストが行われ、2万人が受験したそうだ。

『小学4~6年生と中学生を対象とした知的能力の競技会「全国小・中学生学力カップ2011」(毎日新聞社・毎日小学生新聞後援)が19日実施され、全国535会場で2万人以上が受験した。』

私が現場の教員をしているころから「学力」とは何か?を考えていた。
大学の先生がそれぞれの学力論を展開していた。

最近はそうした「学力論」すらなくなり、文部省の全国学力テスト、
予備校の全国テストなどを「すんなりと」学力と通称してしまっている。

今回の福島原発の経過を辿ると「学力とは何か?」が改めて
問われているように思う。

「直ちに人体に影響はない」から始まり、毎日、テレビで
「ほぼ安全」と解説していた東大教授や専門家と称する
人々。
これらの人たちは、多分、上記の「全国学力テスト」など
では、『成績優秀』だったのであろう。

しかし、3月11日の夜には、福島原発がメルトダウンし
大量の高濃度の放射能が放出、拡散されていたことは、
通常の知能がある人間ならわかっていたはずである。
政府は2ヶ月後にやっと「3月11日夜、福島原発は
メルトダウンしていた」と発表した。

以下、地震・津波翌日の3月12日の私の火炎樹日記

『福島原発は東電や政府の発表の域を超えて、
第2回目の水素爆発にいたる。
危機的な状況である。枝野官房長官や御用学者などが
「安全」などと言っている間に庶民は危機的な状況の
中に放置されている。テレビに出ている「原子力専門家」
なる人たちは、福島原発そのものの詳細は知らない。
常に一般論。同時にほとんどが政府の各種委員会の委員などを
歴任した人々。真っ当な解説はしていない。
宮城県の女川原発の放射能感知器の濃度があがっている。
福島原発の放射能漏れが宮城県の女川原発に届いたものと
思われる。福島から100キロにある女川原発である。
20キロ圏からの退避がいかにまやかしかがわかる。
政府とマスコミ、東電のグルになった国民騙しである。
テレビに出ている原発専門家が全て「過小評価」発言をしている
中で、客観的な事実は極深刻な事態になっている。
福島原発2号機の燃料棒が全て露出するに至った。
メルトダウン現象(溶解)に至る可能性が大である。
東電の発表は信用出来ない。何百万人もの命に関係
している東電の「無能な措置」はどれだけの人命に
影響を与えるかを考えると戦慄を感ずる。
東電に電気も原発も任せられない。』


原子力専門家としてテレビや各種委員会の委員になっている
人々の「学力」の質を改めて問い、「学力」とは何かを考える
素材にすべきである。
全国学力テストなどでの成績がイコール「学力」ではない。

3月11日の夜の時点で、普通の原子力を勉強している
人間なら、福島原発は「メルトダウン」の可能性大と
テレビや新聞、マスコミで正々堂々、「高度学力」の保有者
として見解を述べる義務があったのだが、誰一人(正式には
京都大の小出助教など一部の脱原発研究者を除く)
メルトダウンにも触れず、「今の所、大丈夫」などと暢気な
ことを解説していたのである。今、これらの研究者の
「学力」と姿勢を再検証する時期であり、学者・研究者は
何のために世の中に存在するのかを改めて問いたい。

原子力安全委員会委員長の斑目春樹氏が、自己保身のみに
汲々となっていた醜い姿が目に浮かぶ。
自己保身のためには、自分の発言の訂正をしつこく政府に
求めていながら、3月11日から12日間、一切の記者会見を
拒否し、国民に福島原発問題について何ら情報を知らせなかった。
斑目は年間1640万円の給料を原子力安全委員長として
もらっているのである。(月収、136万円)
派遣社員で月収10万円代で何とか最低の生活をしている
多くの若者がいる。月収136万円ももらって、何もしない
斑目氏の腐敗振りには、呆れる。私利私欲、自分だけが
可愛いという『学力』の持ち主と見た。
文部省や予備校などが行っている「学力」の帰結は
斑目現象に帰結する。
個人攻撃をする気はないが、一例として、斑目(まだらめ)氏
(一部では、「デタラメ氏」と言われている)の
「学力」とは、全国学力試験でトップの成績を取ったが、
何か人間として一番大事なものが欠落している「学力」である。
それは、人間として、研究者・学者としての「気骨・勇気」「真実
に対しての謙虚な姿勢」である。原子力村の一員となり
学生時代から「甘い汁」を吸って来た原子力専門家に一番欠けて
いるのは、人間の尊厳に対する態度である。
自分が「失脚しても」学者として「真実に忠実である」という
人間の一番大事な「気骨」と「力」が欠けているのである。

東大や有名私立大学にいかに多くの生徒を入学させるか
に狂奔している文部省や石原ファシストに率いられる
東京都教育委員会に欠けるものは、人間の尊厳に対する
真摯な態度である。
日能研や各種予備校の行っている「全国学力試験」などに
振り回されない『学力』を求めたいものである。
ニセ学力に振り回されない人間でありたいものである。
肩書きや名刺の会社名などで測れない、人間の大事な
尊厳と生き方があることを再認識する必要があると自戒
している今日この頃である。

ついでに言えば、朝日新聞記者が、自らの写真を
警察に提出し、指名手配の写真にしたという。
ジャーナリストの堕落の最たるものである。朝日新聞も
含め、日本のジャーナリズムの腐敗堕落の象徴的な
現象である。
犯人の逃走する際の写真を指名手配に使うよう警察に
提供したという。
ジャーナリズムの本質は、「権力への批判」である。
報道の自由は、吉本の馬鹿番組を延々と報道する
権利ではない。というと吉本フアンには、失礼であるが、
私的には、関西漫才、落語=総称して関西お笑いを
認めていない。(偏見といわれても良いが、私には
どぎつすぎるのだ。もっと、あっさりとした笑いが好きだ)

善意であっても警察権力と結びつき、逃走犯人の写真を
警察に提供して疑問に思わない朝日新聞の堕落には、
言葉が出ない。こんなことをしていたら、いつか(もう間近に)
警察から写真を出せと命令され、新聞社が戦前と同様に
政府と特高警察の手先になる時代がやってくるような
予感がする。ここまで書いて、フダ缶ビール2本。
(正確には朝日新聞は写真提供記者を批判してはいるが
 どのような処分をするのか?・・・)

投稿者 koyama : 18:24 | コメント (0)

2011年06月18日

地球の歩き方ミニスタディーツアー・結婚式

快晴  真夏

午前7時朝食。キャッサバ芋の手打ちうどん 隠元豆

午前8時、ベトナム事務所でJASS里親担当の渡辺和代さんと
懇談。里親と里子の人数、里親への夏の手紙などについて協議。
約1時間話し合いをする。

午前9時、電動バイクで「子どもの家」へ。
途中、王宮の旧お堀では、蓮の花が満開になる直前。
蓮の時期となっていた。

午前9時半、地球の歩き方ミニスタディーツアーのお二人に
1時間半、「子どもの家」などの話をする。声が出ない。
2人のお客さには失礼ではあるが「マイク」を使わせてもらう。

今回、出来たばかりの「バンベー39号」をお二人のお客さんが
50部ずつ日本から運んできてくれた。お二人に感謝。

午前11時過ぎ、こどもたちと一緒に昼食を摂る。
「子どもの家」の3分の2は、親戚などに帰り、夏休みの一時を
従兄妹などと生活している。
帰るところがないこどもたち(16人)は、「子どもの家」に残留。
ミニスタディーツアー2人、案内のソン君、私とこどもたち
で昼食を摂る。

「子どもの家」に長く住んでいるハイ君とベトナム事務所のソン君

昼食のメニュー。 隠元豆のニンニク炒め、魚と野菜のスープ、
厚揚げと豚肉の甘辛煮  

午後12時半。電動バイクで宿舎まで。30分。

1時間ほど昼寝をするが、暑くて眠れない。

午後3時、バオミンさんが宿舎近くまで車で迎えに
来てくれる。

フォンザンホテル社長で「フォンザングループ(ホテル・レストラン
・・・など多数経営の省営企業)」の総裁の招待で
市内から30分ほど行った山の中にできて大きな「禅寺」
へ行く。

14世紀。フエは「チャム族(チャンパ)」の支配地域だった。
現在の主流民族である経族(キン族)は、ハノイを中心とした
北部を支配。経族王朝の娘さんが、一種の政略結婚で
中部のチャム族に嫁入りした。その北部王朝の娘さんの
遺徳をたたえて、禅寺を作った。

広大な山岳丘陵地域にまた壮大な伽藍を作り、何種類もの
禅寺を建築した。フエ省の仕事であるが、フォンザングループが
全ての建築物、禅寺構想の実現を行った。

18年前からお付き合いしているフォンザングループ総裁
のドン社長(若い頃はストリートチルドレン支援活動を行う
出家もした共産党の幹部)

この大禅寺は、広大な敷地と森林の中にあり、禅や瞑想を
行うには最適な立地条件である。

私とバオミンさんが車で着き、禅寺に入ると「涼しい冷気」が
漂っていた。物音一つしない静かな「霊域」である。


禅道場、精進料理の食堂、禅をするために1週間でも
2週間でも泊まれる宿坊も揃っている。

禅寺の入り口から外を見ると遠くの山々(海抜1000M以上)
が手に取るように見える。

1時間ちょっと禅寺に滞在し、急いで車でフエ駅付近へ。
18年前、フエ師範大学で日本語を教えていた時、
私の食事を作ってくれた「シェフ」さんの息子さんが
結婚式を行う。18年前は、小学生だった。
バオミンさんやハンさんをフエ師範大学で教えていた
1994年の夏。学生20人を連れて夏休みに
フエ →ニャチャン →ホーチミン →ダラット旅行を
行った。その際、いつも食事を作ってもらっているお礼に
シェフさん一家(4人)も招待し、ホーチミン市へ行った。

息子のミンタン君は27歳になっていた。

父親のシェフさんは、ベトナム戦争当時南ベトナムの
財閥の一つである「フエ銀行」の御曹司。フエ大学を
卒業した「エリート」でもある。
しかし、ベトナム戦争で南ベトナムが敗北し、
元財閥の御曹司は、一転して社会の「最下層」に
位置づけられてしまい、フエ師範大学の厨房員
となって生計を立てていた。奥さんは、フールー小学校
の先生。

「子どもの家」卒業生でフールー小学校の先生になっている
ユオンさんも出席していた。新郎の母親の同僚として。

新郎・新婦入場

新郎はホーチミン市で働いている。ホーチミン市で
新婦と知り合った。


ACCLの渡辺和代さんも1年間、フエ師範大日本語クラスで
日本語を教えていた。その関係で新郎一家と知り合い。


JASS里親担当で長い間ユオンさんの里親の方との
連絡をしていた渡辺和代さんとユオンさん



1993年・1994年の2年間、フエ師範大で日本語を教えたが、
フエ師範大の外国人窓口は、フエ師範大外務部長の「ロック先生」
だった。ロシア語の先生だったが、なかなか良心的な人だった。
私が「日本の警察のスパイ」との容疑でフエ師範大を解雇された
時も親身になって話をしてくれた。当時、「痩身」だったが、
現在はかなり「貫禄」がでてきている。フエの経済状態と
比例して、共産党の幹部の皆さんは、一路肥満路線を
ひた走っている。


午後4時半から始まるはずだった結婚式であるが、
実際に始まったのは、午後5時15分。45分送れ。
ベトナム時間。

午後6時前に結婚式を途中で切り上げ日本料理店へ。

午後6時過ぎから地球の歩き方ミニスタディーツアーの
お二人とベトナム事務所スタッフとの懇親夕食会。
今夜は、土井先生も参加してもらう。


今夜は私たち以外にも来客が多く13人。
厨房は料理を作るのに大忙し。富岡先生、原田先生も
手伝ってくれる。


午後9時、ミニスタディーツアーのお二人との交流会を
終了。

閉店。

今日は土曜日。お客さんも多く、日本人スタッフは大活躍。

久しぶりに反省会を開く。

私、バオミンさん、原田先生、土井先生、富岡先生。

軽く乾杯。

途中2回程、リー君から電話あり。
「先生、コードーレストランで今から飲もう」との電話。
後ろでは、男女の嬌声が聞こえる。既にどこかで
飲んでいる模様。電話を切る。

しばらくするとまた、リー君から電話。一杯飲もうとの
電話。

午後10時過ぎ、閉会し、宿舎へ帰る。

今日は6つの行事などに参加した。

本当に忙しい1日だった。心底、疲れた。

投稿者 koyama : 10:49 | コメント (0)

2011年06月17日

タンタン温泉視察

快晴 今年最高気温  39度(バオミン気象予報士発表)


午前7時、突然停電。電気が点いたのは、午後3時過ぎ。

午前7時、朝食。フォー(ベトナム風米麺:鶏肉・ねぎ入り)

停電で室内気温40度近い中で、温かいフォーを食べると
汗が吹き出てくる。汗が出るということは人間が持っている
自動冷房装置が作動したことを意味する。


午前8時、バオミンさん、原田先生・土井先生・富岡先生と
フエ郊外の温泉「タンタン温泉」を視察に行く。

7月23日(土)バーベキュー大会、7月26日(火)は、象の滝遊び
を予定しているが、象の滝の代わりに「タンタン温泉」レジャーランド
に行ったらどうか?との意見が出ていた。
7年程前までは、「タンタン温泉」で水遊びをしていたが、水が汚く
なり、最近は水がきれいで「冷たい」ダナン付近の自然の森の
中を流れている「象の滝」での水遊びにしていた。

フエを出て1時間。午前9時過ぎ、タンタン温泉到着。

「子どもの家」のこどもたちが遊ぶ予定の各種施設の水を
観察する。

みどり苔が生えている。これは水が流れていない証拠。
同時に「塩素」などの消毒薬を入れていないことも分かる。
水質が非常に悪く、汚い。こどもたちの水遊びには勧められない。


温泉リゾートを一回り視察。結論としては、水が汚く
こどもたちの健康を害する可能性ありと判断し
タンタン温泉での水遊びを止めることにし、「象の滝」での
水遊びとした。
面倒くさいことではるが、この種の問題は、人間が自分の目で
しっかりと見ることが大事。人任せにしないことが仕事上の
基本。

せっかく皆さんでタンタン温泉リゾートに来たので、
木陰の喫茶で休憩し、世間話をする。


タンタン温泉のよいところは、森林の中でゆっくりと
時間を過ごすことが出きることだ。
各種熱帯の花が咲いていた。心が和む。

午後10時過ぎに「タンタン温泉」を出発し、ベトナム事務所へ
帰る。午前11時過ぎにフエ着。

午前11時半、昼食。マカロニスープ
室内気温が朝より更に上がる。部屋は停電。
猛暑の室内で「熱いパカロニスープ」を食べる。
体から汗が吹き出る。

熟した本物の「マンゴー」。甘酸っぱくて本当に美味しい。


食後、昼寝をしようとしたが、停電のため「扇風機」も使えない。

冷凍庫も停電で止まっているが、氷のかたまりがあった。
プラスティクバッグに5つほどの塊をいれ、頚動脈に
当てる。とにかく体温が相当上がっている。温室にいるような
ものだ。高体温を下げなければならない。
氷塊5つほどで血液を冷やし、何とか体温を下げようとするが
自然の力のほうが勝っている。なかなか体温が下がらない。
ベッドに横になったが、ベッドが「熱い」。

結局2時間ほど、横になっていたが、眠れなかった。

午後3時過ぎ、電気が点く。


読書「無知の涙」(永山則夫著:河出書房新社)
永山氏は貧困のため、きちんとして基礎学習をしていない。
4人の連続殺人で逮捕され、東京拘置所に留置。
東京拘置所で漢字などの勉強を始め、詩や短歌、文書などを
書き出す。

パソコンを開き、メールをチェックする。相変わらずYAHOOメールは
開けない。違う方法を使って何とかメールを開く。
20通程のメール受信あり。

午後5時過ぎ、徒歩で日本料理店へ。

日本料理店のスタッフ用食堂は高温・多湿。
日本料理店のこどもたち4人で日本料理店を切り盛りする
力をつけてきた。

3人の日本語教師。土井先生・富岡先生・原田先生。
戦力が不足の中で精一杯頑張って仕事をしてくれている。感謝。
暑い夏だ。健康に気をつけて、この暑さを乗り切って欲しい。


暑い中での1日の仕事、ご苦労様。軽く一杯飲んで
明日の活力を養ってもらいたい。

午後9時半。リー君から電話。
(リー君) 「先生、元気?」
(小山) 「今、何やってるの?」
(リー君) 「寝るところ」  といっているが、後ろで男女の歓談
      飲酒の雰囲気の声が聞こえる。
(小山) 「仕事はうまく行ってるの?」
(リー君) 「とてもうまくいている。」
(小山)  「そう、頑張って仕事をするように」
(リー君) 「先生、俺、喧嘩はしない。」
(小山)  「うん、喧嘩をすると直ぐに警察に捕まるから・・・・」
(リー君) 「絶対に喧嘩はしない。先生、体調はどうですか?」
(小山)  「まあまあ。あまり体調は良くない。ビールがあまり
       飲めなくなった」
(リー君) 「先生、体に気をつけて。俺は仕事は今、とても
       うまく行っている」

こんな会話があり、電話を切る。

携帯の表示には「BAO」とある。「バオミンさん」と紛らわしい
表示である。

元気そうにやっていて一安心だが、自転車警備員がいつまで
続くかは、本人次第だ。

投稿者 koyama : 18:27 | コメント (0)

2011年06月16日

ベトナム事務所で打ち合わせ

快晴  真夏日

午前6時起床。簡単なストレッチ

午前7時朝食 おかゆ、魚の甘辛煮、キャベツ・ニンジン茹

午前中、YAHOOメールが故障。
色々な方法で少しメールの送受信は出来たが・・・・・。


午前10時、ベトナム事務所へ。

バオミンさんといくつかの問題で話し合い。

午前11時半、ご飯、野菜スープ、魚、生瓜



1時間ほど昼寝。

読書「無知の涙」(永山則夫著:河出書房新社)

電話でバオミンさん、ソン君、原田先生、ハンさんと打ち合わせ


午後4時過ぎベトナム事務所へ。

ソン君から退所する「ブン君」「ホーターロン君」の写真を
もらい、「子どもの家」へ持っていく。日曜日に「子どもの家」を
出るという。退所式の写真を「子どもの家」居住記念にどうしても
二人に渡したかった。


投稿者 koyama : 21:22 | コメント (0)

2011年06月15日

「子どもの家」退所式:日本料理店会議

快晴 真夏

午前5時半起床。

午前7時朝食。「ブンボー」(フエ名物)

午前8時45分、宿舎にバオミンさんがオートバイで
迎えに来てくれる。「子どもの家」へ。


今日は「子どもの家」の二人の男子の退所式。

始めにBUN(ブン)君19歳。
フエ郊外、フエ空港付近の農家の3男。
父親が死亡し、ブン君を育てられなくなり、6年前の
2006年に「子どもの家」へ入所。
母親は農家の日雇い(田植えなどを手伝う)で一人生計を
立てていた。長兄は南部のラムドン省で電気の配線工事。
次兄は23歳。ビンズオン省で鉄の仕事。
ビン君は、フエ工業専門学校1年生。車の修理学科。

今回、母親が高齢になり「一人暮らしが「さびしい」こと、
二人の兄が自立し、母親へ送金が可能になったことなどを
勘案し、ビン君が母親と同居し、工業専門学校へ通う
ことになり、退所することとなった。

セン運営委員長の「退所への経過説明」

6年ぶりに母親と一緒に暮らせる喜びをかみしめているビン君


●母親のお礼の言葉

6年前に夫が急死し、生活ができなくなった。3人の子供が
いて生活もできず、途方にくれていた時、近所の人に
「子どもの家」を紹介され、3男のビンを入所させた。
6年間、本当にお世話になった。息子も高校を卒業させて
もらい、その上、フエ工業専門学校まで入れていただき、
本当に感謝している。日本人が運営している「子どもの家」が
なかったら私たち家族はどうなったか分からない。感謝している。
(このあたりで、母親は落涙)
その後6年たち、長男は25歳、次男は23歳、仕事もしっかり
やっている。今、私は一人で農家で生活している。台風などが
あると怖くて心配だ。ブンと一緒に生活できるようになり、
本当に安心出きるようになった。二人の兄が、生活費を送って
くれるので、自立できる。「子どもの家」に心から感謝している


●ビン君のお礼の言葉
6円間、「子どもの家」で生活できた。里親の秦カオルさんには
心から感謝している。これからは、故郷に帰り、母親と暮らす。
故郷からフエ工業専門学校へ通う。あと2年で卒業する。
2年間、頑張って勉強したい。卒業したら自動車の修理工となって
自立したい。「子どもの家」のスタッフ、JASSの皆さんに
感謝したい。


退所書類にセン委員長がサイン

ーーー
続いて ホーターロン君の退所式

ホーターロン君は1993年9月に私が最初に作った
チーラン通り「子どもの家」に入所。3歳だった。
その後、現在のグエンチャイ「子どもの家」をつくり、
ホーターロン君も転居。結局、1993年から2011年まで
18年間、3歳から21歳まで「子どもの家」で生活した
ことになる。

「子どもの家」へ入所した時は兄のホーターフォイ君と
一緒だったが、フォイ君はホーチミン市で仕事をしている。

ホーターロン君は中学校中退。その後職業訓練を行うが
どれも長続きしない。
ミシン研修 →車修理研修 →ラデン細工研修 →アルミ窓研修
→観光専門学校

今回は21才になった本人の強い希望があり、ホーチミン市に
行くことになった。友人の兄がホーチミン市でステンレスの
工場を経営している。そこで仕事をすることになった。
1年間は、研修で食事と宿舎のみ。2年後から給料が
もらえるとのこと。本人も納得している。
ホーターロン君はフエ山岳地帯になり「アールオイ地域」で
生まれた山岳少数民族出身。

今回の退所、ホーチミン市行きについて、アールオイ地域の
親戚などの了承を取っている。

退所申請書にサイン


ホーターロン君の言葉

小さい時から今日まで育ててくれて感謝している。
里親の村木さんにはお会いしていないが、
宜しく言って欲しい。ありがとうございます。


(小山)ホーチミン市は危険な都市。誘惑が多い。
    大もうけをするという話に気をつけるように。
    コツコツと仕事を積み上げるように。

3歳の幼児だったホーターロン君である。
18年間の付き合い。21歳になった。感無量である。
ホーチミン市での仕事、自立がうまくいくように念じている。

縁があってフエに来て18年経った。長い年月である。
ホーターロン君は、3歳で事情があって「子どもの家」に
来た。それから18年間、「子どもの家」で生活をした。
「子どもの家」のベトナム人スタッフが、お父さんであり
お母さんだ。

最近はホーターロン君のように18年間、「子どもの家」に
いたこどもたちが「自立」して行く時期になってきた。
長い間付き合って、別れるのは「寂しい」ものであるが、
「会うが別れの始め」なのだ。
いつかは、こどもたちは自立していく。そして、私の
存在も忘れていく。これは致し方のないことだ。それでも
ホーターロン君の3歳から21歳までの貴重な年月と
つき合わせてもらったことは、ありがたいことである。
私がフエに来て18年いたことは、直ぐに忘れられる
ことであり、そうして欲しい。
それでも450人以上のこどもたちが、ホーターロン君の
ように諸般の事情があって「子どもの家」に入り、生活し、
自立して行った。
私が45歳で家族を日本に置いてフエに来たことに
疑義を感じる人もいた。また、そうした批判をうけたことも
何度かある。その批判は正当なものなのかも知れない。
同時に私がフエに来たことでホーターロン君、ビン君の
ように生活の困難を乗り越えて、自分の人生の目標を
見つけ、「自立」することに向けて生きていく目標を
見つけることが出来たこどもたちも多い。
無意味なことでもないように思っている。


「子どもの家」厨房前では、こどもたちが昼食の準備中



同時に食堂では、タン君たちが「カラオケ」に興じていた。

午前11時半、昼食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)

午後12時半から1時間昼寝。真夏日が続き、体力が落ちてきている。
昼寝は絶対に必要。

午後2時から読書「無知の涙」(永山則夫著:河出書房新社)
ほぼ同じ年で、同じ時代(1968年~)を生きた永山氏の
詩や文章には、共感する部分が多い。

午後3時半、徒歩ベトナム事務所へ。

ハンさんにビン君・ロン君の退所式の写真を渡す。

午後4時から日本料理店会議

この1ヶ月半、日本料理店会議をしていなかった。
こどもたちの要求、日本料理店の問題点を
現場の視点で出してもらう。日本料理店のこどもたち、
日本語教師、バオミンさんが参加。

こどもたちから出た意見、希望

①医療保険をかけて欲しい
   →回答  ベトナムでは国民皆保険制度がないので
         従業員10名以下の事業所の従業員へ
         医療保険をかける義務はない。
         10名以上の場合は労使で保険金を
         支払う。
         日本料理店では民間の医療保険に
         はいるしかない。来週、民間医療保険会社を
         呼ぶ。保険会社の説明を聞いて、皆さんが
         最適と思う医療保険に入って欲しい。
         保険料は日本料理店で出す。
          保険に入れば、病気になった時、本人支払いは
         30%となる。

②日本料理店内の電気のコードが足りない。テーブルタップを
  3つほど買って欲しい。
    →ヒエウさんに40万ドンを渡し、明日3つ買うよう依頼する。

③隣りの精進料理屋と日本料理店の境の屋根の間から
  水漏れがあり、日本料理店側に雨が漏ってくる。食器や
  通路が大量の水で濡れてしまう。秋の雨季前に直して
  欲しい

④日本料理店の食器戸棚に扉がなく、布でカバーしているが
  清潔度が低い。全ての食器棚に木の扉をつけて、清潔に
  して欲しい。
    →来週、天井の雨漏りと食器棚に木の扉作りを行う。
     責任者はソン君。

⑤昨夜、午後9時半閉店の日本料理店に午後10時過ぎまで
 2人の来客がいた。接客係りのグエットさんは、9時45分位
 になったら、空いた食器を取りに行くなどして、それとなく
 帰ってもらうようにして欲しい。
   →(グエット)私は恥ずかしくてそういうことは出来ない。
           はしたない行為だ。
          今後は、接客にチャンさんも出来るだけ協力する

⑥日本料理店の厨房で蟻がでる
   →こどもたちは仕方がないと言っている

ーーー
最後にバオミンさんから7月20日から10月17日までの
スタディーツアーの日程を説明。
日本料理店で「貸切」で食事をする回数は、13回ある。
お客さんの年齢(若者、中年、老年・男女別)などを
しっかりと考えて、メニューを考えて出して欲しい


午後5時過ぎ日本料理店会議終了。

疲れたので宿舎へ帰り、しばらく横になる。


投稿者 koyama : 12:28 | コメント (0)

2011年06月14日

「子どもの家」へ

午前5時半起床  真夏  午後3時頃、大雨、直ぐに止む。

午前7時朝食。フォー(米麺)
フォーは合理的な食べ物ではある。お米(澱粉)を食べ、
鶏肉が入り(たんぱく質)、生野菜をたくさん採る(ビタミン)

日本のお蕎麦やうどんよりも「栄養的」には、総合栄養食と
いえる。こうした食べ物を創造したベトナム人なのかアジアの
人(同じ様な食べ物がアジアにある)は、なかなか賢い。

朝の涼しいうちに読書。

読書「ブッダは、なぜ子を捨てたか」(山折哲雄著:集英社)読了。

私の読書力不足なのか? ブッダが何故我が子を捨てたかが
不明で、インドの乾燥した砂漠で育った「仏教」が、上座部仏教
として、スリランカやタイ、ラオスなどに残り、中国、韓国、ベトナム
日本などには、大乗仏教として伝わった歴史。
その歴史の中でブッダの主張した仏教の原点がどのように変化
してきたか? ダーウインの進化論ではないが、その土地土地の
条件にあった仏教へと変化していった。
大乗仏教の多くは、国家権力と結びつき、権力者とのつながりで
発展する道を進む。日本も然り。

ブッダがインドの乾燥した荒地を彷徨する中でつかんだ
「自己を捨てる」仏教が、ブッダが80歳で死んで1000年後に
日本に伝わり、『無常』と『浄土』イメージの仏教へと変化していく。
浄土は「あの世」。
ブッダは、死んだ後の遺骨などは「どうでもいい」と弟子たちに
言っている。ブッダは「人間の死後の世界には」関心がなかった
ようだ。ブッダは生きている間の人間の苦悩を対象に
しているのに対し、日本化した仏教は、死後の遺骨、墓など
『あの世』(浄土)という概念が色濃く出てきた。これは
今日までも続いている。

著者は日本山妙法寺の藤井日達上人との交流。
インドのカースト制度の中での仏教徒(ヒンズー教から
仏教に改宗した人々もカースト制の中では不可触民視)にも
言及している。
インド共産党の指導部は、北部出身のブラーミン(カースト制の
最上部に位置するバラモン)階層であることも指摘している。
インド南部出身の不可触民は、今は階級闘争ではなく
カースト闘争だと主張している。インドでは2億人が
不可触民といわれ、人口の5人に一人に当るそうだ。

(2500年前のブッダのことば)
「足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく
生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で
高ぶることなく、諸々の家で貪ることがない」

こうありたいものである。

「ひとり座し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、
わが身をととのえ、林の中でひとりたのしめ」

孤独を感じる言葉である。

2011年3月11日以降の日本人には、納得できる
ブッダの言葉である。

ーーーーーーー

午前9時半、宿舎をでて「電動バイク」で「子どもの家」へ。

途中、王宮前を通る。多くのベトナム人観光客が来ていた。
暑い中、ご苦労さん・・・・・

旗台(キーダイ)の国旗も無風のためしぼんでいる。


王宮前の火炎樹の花の並木は、既に終わりの時期に入り、
火炎樹の花も散り始めていた。

「子どもの家」では、原田先生とソンお父さんが、こどもたちや
スタッフに「希望」や「絵」を描いてもらっている。
「フェリシモ」のHPなどに掲載する写真などである。

「子どもの家」は既に夏休みに入り、親戚などに帰ってこどもたち
が半数ほどいる。7月20日まで順番に親戚などで「普通の家庭
生活体験」をする予定である。

高校(フエ省トップ校)受験を間近に控えたこどもたち

14年ほど前に「子どもの家」に入ったターオさん。
近々にフエ師範大学(私が2年間教えた大学)を受験する。

現在18歳。4歳の頃は、私が片手で抱っこしていた。
月日の経過とこどもたちの成長は早いものである。
大学合格を祈る。

「フェリシモ」本社に送るようデジカメで絵やメッセージを
撮影する。

5年前に買った電動バイク。まだ動く。ブレーキが
全く利かない。危ないのでソン君に直しに持って行って
もらう。70%程度直る。
電動バイクで宿舎へ帰る。

午前11時半、昼食。春雨麺(量が多く、食べきれない)


午後12時半から2時間ほど昼寝。

読書「無知の涙」(永山則夫著:河出書房新書)

日本へ帰り、講演会などで各地に行った際、必ず
駅前の大きな本屋をのぞいてみる。
本書があった。以前から読んで見たいと思っていた。
わたしとほぼ同年代。1949年生まれ。2つ年下。
1968年・69年の2年間で「連続殺人事件」を起こす。

東京、京都、北海道、名古屋でガードマンや
タクシー運転手ら4人が射殺されるという事件の犯人。
19歳で逮捕。1997年、死刑執行。48歳。
北海道で極貧の生活をし、東京に出てきて牛乳配達
などを行う。永山氏が牛乳配達をしていた同じ頃、
私も東京で牛乳配達をしていた。
貧困と無知が原因で犯罪を起こしたとして裁判を行うが、
他の兄弟は「真面目に」生活しているなどの理由で
最高裁で死刑判決。

学校できちんとして勉強をしていない永山氏は
獄中で字を学び、詩、短歌、小説を書く。
本書は永山氏が獄中で書いた詩や短歌、小説をまとめた
ものである。
途中まで読んだが、なかなか「文才のある」と「能力」のある
人間だ。
彼は詩の中で同年代で大学に行った人間を憎んでいる。
1970年頃書かれたものと推測する。


全学連嫌いだ
全学連ぼっちゃん育ちだ
全学連消えろ
全学連うせろ

全学連マンガ読みすぎだ
全学連何が思想だ
全学連意気地なし
全学連猿マワリ

全学連時代遅れだ
全学連空中に飛ぶ風船だ
全学連ノーリターン

全学連暴力バカ団
全学連0000なしだ(00は猥褻語)
全学連人民の敵
全学連粉砕

ーーー

リー君がフエ師範大学近くの地元警察の前で
自転車預かりの警備員をしている。

警察は日本の市役所の役割を果たしている。多くの市民が
警察に行き、各種証明者などをもtらう。
その人たちのオートバイ、自転車を「監視」する仕事である。
かつて日本料理店時代にお客さんの自転車やオートバイの
警備員をしていたことがある。その時には、数台の自転車が
なくなっている。リー警備員がいるのにである。

今回、警察前の自転車警備員の仕事は、自転車泥棒の
心理を十分把握しているリー君には、うってつけの仕事
かも知れない。右手にある「赤い腕章」が警備員の証明。
どこでもこの赤い腕章を巻いた警備員は、市民に対して
横暴で威張っている。江戸時代の岡引の更に下の
「下っ引き」である。リー君はこの種の仕事が大好きだ。
権力を使って威張れることが、彼には今までにない
快感のようだ。
日給30万ドン(1500円)と自称しているが、誰も
信用する人はいない。格好をつけている金額と直ぐに
分かってしまう。25日働けば750万ドン(3万円)の月給と
なる。新卒公務員の2倍から3倍の給料だ。
無理をしないで生きていけばよいのに・・・、などと思って
しまう。リー君の24年の人生のうち18年間は付き合って
来たのだから・・・・。
「自分の人生は自分で決める」ことが重要と思い、リー君の
自転車警備員業の成功を祈っている。が、何となく胸騒ぎ。
そのうち「・・・・・・」などが起きない事を心から願っている。

午後5時過ぎ、徒歩、日本料理店へ。



富岡先生は午後8時に日本語学校を終えて合流。

今日は5人の来客。

全ての仕事が終わったのが午後10時過ぎ。

長い1日だった。

投稿者 koyama : 09:36 | コメント (0)

2011年06月13日

バオミンさん・ハンさんと打ち合わせ

快晴  気温36度  真夏

午前5時半起床。

血圧測定、体重測定など・・・。

午前7時、朝食。キャッサバ芋の麺

午前9時、徒歩でベトナム事務所へ。

世界歴史都市連盟京都事務局かた頂いたお土産のお菓子を
ベトナム事務所員に渡す。

ベトナム事務所員は通常の業務。皆さん、7月17日から
始まる「夏のスタディーツアー」へ向けて、心身ともに
耐えられるよう準備中。

お父さんになり、一層張り切っているソン君。第2子を
目指していると公言しているその素晴らしいエネルギーに
感心する。

コツコツとベトナム事務所や「フェリシモ」の仕事をしている
アンさん

日本語学校・フエ高等師範大学日本語学科の授業の
準備をする富岡先生・フオン先生。


京都市事務局から頂いた「らくがん」を開く土井先生
7月21日夕方、任期を終えて帰国予定。

貫禄十分な日本語学科部長のフーン先生

色々なベトナム事務所の仕事を進めているバオミンさん
会計部長のハンさん(最近はこどもたちから里親への
夏のメッセージ翻訳で忙しい)、日本語学校や「フェリシモ」
など機動部隊員として各種の仕事をしている原田先生


バオミンさん・ハンさんとでいくつかの件について
打ち合わせをする。多少、複雑な問題。2時間ほど。



ベトナム事務所から徒歩で宿舎へ。

午前11時半、昼食。ベトナム風おじや
生玉ねぎ、生長ネギ、ウリと魚の内臓


午後12時半から2時間ほど昼寝。

読書「ブッタは、なぜ子を捨てたか」(山折哲雄著:集英社)

今まで読んで仏教の本に比べ、かなり「突き放して」
客観的な記述が多い。

ピースインツアー、バオミンさんなどと連絡・打ち合わせ。

投稿者 koyama : 18:42 | コメント (0)

2011年06月12日

休日

午前7時起床  朝から真夏の暑さ

掛け布団を干す。

ストレッチ。最近、体がかなり硬くなっている。

多数のメール受信。

写真送信などのメール送信。

午前10時、朝食。昨日、今日の朝食を作ってもらっていた。
マカロニスープ。

食欲があまりない。1食の半分を食べる。

引き続きメール返信。

午後1時、昼寝。

午後2時。読書「ブッダは、何故子を捨てたか」(山折哲雄著:集英社)

午後6時。残った「マカロニスープ」の半分を食べる。


読書「ブッダは、何故子を捨てたか」。(山折哲雄著:集英社)
ブッダの王宮時代を「シッダールタ」と呼び、出家(著者は家出という)
し、修行している時代を「シャカ」と呼び、悟りを開いた以降を「ブッダ」
と著者は呼んでいる。

なに不自由ない王宮生活で、王宮の外の病気・貧しさ・死をしり、
出家し、難行苦行の末、悟りを開き、仏教を作ったとされる
ブッダである。その人生を裏側から光を当ててみようと
言うのが、作者の意図である。

出家をした後の釈迦の妻と息子はどんな思いとどんな人生を
送ったのか?  出家というが、実際は妻と子供を捨てた
家出だったのでは?

特に息子に「悪魔」と名づけた釈迦である。息子の人生は?
息子は、ブッダ10大弟子の一人となっている。学習が得意な
弟子ということになっている。

ガンジーの「非暴力主義」とブッダの「不殺生」。
ブッダの息子(悪魔)は、仏弟子となり、ガンジーの息子は
アル中で死んでいく。この二人聖人の息子の違いは何故起こったのか?
を著者は探求している。著者は「国際日本文化研究センター所長」
同名誉教授。宗教史が専門。著者の視点が新鮮である。

投稿者 koyama : 20:02 | コメント (0)

2011年06月11日

ベトナム事務所員会議:HNさんとの話し合い

快晴 真夏  外気温 38度

午前5時半起床。ストレッチ

午前7時朝食。「ブンボー」(米麺の唐辛子入り)
「蟹:かに」のミンチボール入り

午前8時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。

午前8時半からベトナム事務所員会議。

40日ぶりのベトナム事務所員会議。皆さん元気そうな
感じだった。

(ソン)長男が生まれ、皆さんに祝福してもらい感謝している。
    2900グラムで健康なこども。自分としては、すごく「可愛い」
    赤ちゃんだと思っている。妻のメンさんは、出産でかなり
    疲れているようだ。昨日、フエ中央病院を退院し、
    自分の実家(兄:「子どもの家」にいた)に行き、育児に専念。
    (ソン君の実家は フエ市内からオートバイで50分ほど
    かかる。)
    毎日、仕事が終わってから妻と長男の様子を見に行っている。
    今後、更にあと一人、女の子供が欲しいと思っている。
    ・夏のスタディーツアーの日程計画を準備した。

(原田)日本語学校特進クラス3(来年静大受験生など10人)
    ハンさんの翻訳をチェック


  

(土井)特進クラス3 週2回 現在漢字300字を教えた
    特進クラス2  週1回
    ●7月21日にJASSでの任期を終えて帰国する。

(富岡)日本語学校中級ー教科書終了
    特進クラス3-初めて教えた。これから慣れてるようにしたい。


  


(フーン) フエ高等師範は夏休み
       特進クラス2、3を教える
      日本語学校中級(13人)
      
(フオン)特進クラス3ー新しい生徒が入った
     日本語学校中級 1課~25課のテスト


(ハン)夏のメッセージの翻訳
(アン)「フェリシモ」の仕事。なかなか難しい
    各種翻訳


(ミン)世界歴史都市連盟理事国会議が昨夜終了した
    2012年、フエでの総会の準備が目的。
     会議の統一テーマ、会場、ホテルなど2012年総会
    に向けて、理事国と京都市事務局の皆さんの指導も
    あり、大筋成功したものと思う。
    総会は2012年4月15日~18日までフエ市で行われる。
    2年に一度ベトナム政府とフエとの共催で行われる
    ベトナム最大のフェスティバルである「2012フエフェスティバル」
    が2012年4月15日が「閉会式」となるので、世界歴史都市
    連盟総会の初日を「フエフェスティバル」閉会式にあわせ、
    世界中の市長さんたちに参加してもらう予定。
     JASSもフエ市人民委員会と連携し、可能な援助をしたいので
    皆さん、宜しくお願いします。
    世界歴史都市連盟には世界中で88都市が参加している。

    7月から10月までの夏のスタディーツアーの日程表を
    配布した。今年の夏も大変忙しい日程となっれいる。
    7月20日から10月19日まで夏のスタディーツアーは
    続く。暑い夏、ベトナム事務所員の皆さんの健康が気になる。
    体調が悪い時、家の用事など都合の悪い場合などは、
    遠慮なく言って欲しい。ベトナム事務所員全員が一致協力
    して、夏の長い日程を乗り越えていきましょう。
    
    9月14日から新日本語教師がフエへ来訪する。期待している。

(小山)4月23日から6月3日までの日本での活動について説明。
     今回は日本の各地の会に出来るだけ参加した。
     札幌の会、函館の会、火炎樹の会、東京の会
     「京滋YOUの会」、その他

午前10時15分、ベトナム事務所員会議終了


急いでバオミンさんと「子どもの家」へ行く。
静岡大学工学部の試験で不合格となったHNさんの
今後の進路について、セン「子どもの家」委員長、
NHさんの姉でフエ医科大学4年生のPさん、
バオミンさんと話し合う。

HNさんは、静大工学部が不合格となり、フエ外国大
日本語学科、フエ医療短大薬剤師科の受験申請を
出してしまった。セン委員長、バオミンさん、私には
そのことを相談しないまま提出。
先日の日曜日ーベトナム「子どもの日」にHNさんと
会ったので、静大不合格後どこを受験するのか?
と私が聞いて、上記の2校の受験が判明した。
しかし、HNさんは、本当はフエ経済大に入りたい
ので今年受験する大学に合格しても1年は
通学するが、来年、再度、フエ経済大学を受験する
とのことだった。

その後、バオミンさん、セン委員長と話し合い、
HNさんは、18歳。人生の将来と社会、受験事情
を詳しく知らないまま、静大受験に失敗した動揺もあり、
きちんとした方向性も定めないままフエ外大日本学科、
フエ医療短大受験申請書を提出してしまった。
現時点では、全ての大学受験申請は終了している。

午前10半から午前12時まで話し合う。
HNさんの受験の問題点は以下のよう。

①HNさんはフエ省立高校トップ校のグエンフエ高校の
 3年卒業成績は、理系最優秀(日本流に言えば、オール5)
 だった。理系の能力があることは一目瞭然。
②しかし、フエ外国語大日本語学科に受験申請を出している。
 文系の勉強をしていないこと、フエで日本語を勉強しても
 将来、どのような仕事に就けるかは、未定。
  また、高校で理系の勉強をしていたHNさんが、今回、
 準備もしないまま「文系」の受験をすることも合格可能性を
 低下させるものである。
③同時にフエ外大日本語学科・フエ医療短大薬剤師科に
  合格しても、1年「」形だけ」通学し、来年、フエ経済大を
  受けるという方針も間違っている。1年間、合格した
  大学や短大で勉強することに何の意味もないことになる。
④フエ経済大に入って「良い仕事があるか?」は大きな
  問題がある。ベトナムでは経済が一見「発展」している中で
  経済をめざせば「大もうけ」ができ、大金が入ると考える
  若者が多い。
   しかし、現実はそう簡単ではない。フエには、経済大を
  出ても受け入れる会社がない。
   また、近年、ベトナムの経済が「失速」し、異常なインフレ
  状態が続いている。物価が急に2倍、3倍に高騰している。
  お金持ちは、銀行に預金せずに「金」を買っているのが
  現状である。この15年ほどのベトナム経済の「発展」は
  一つの大きな曲がり角に来ていることは事実である。
  フエ経済大を5年後に卒業した時にベトナムの経済が
  どうなっているのかは、およそ想像できる。
⑤以上の①②③④の理由から、今年、1年間「浪人」し、
 理系の勉強を一層進め、2012年に希望する理系の大学に
 入学し、専門の知識と他人の真似の出来ない「技術」を
  身につけることが最良。大金を手に入れるという発想を
  止めて、しっかりとした理系の技術と知識を学び、
  ほどほどの収入で生活する気持ちになるべきだ。
  HNさんも姉も両親がいないのだから、それぞれが
  人間として自立しなければならない。そのためには
  絶対に自立し、自分の力で食べていける技術と知識を
  得ることが大事。フエ医療短大で薬剤を
  勉強するのなら、自分で薬局をもてるフエ医科大の
  薬剤科をめざすなどの「努力」と方向性を持った方が良い。

以上が私、セン委員長、バオミンさんの意見だった。

本人は、日本の大学が不合格となり、動揺し、自分で
進路を勝手に考え、願書を出してしまった。反省している。
これから、姉と話し合い、自分の将来を決めたい。時間が
欲しい。

私からは、今後、NHさんの進路を決める際には、必ず
セン委員長と話すこと、必要ならベトナム事務所と相談
すること、自分ひとりで決めないこと、を忠告した。


HNさん本人は人生が見えていないが、彼女の大学受験は
彼女の人生の大筋を決めてしまう、大きな出来事。
回りの大人の意見も参考に「自らの人生・進路」を決めて
欲しい。

「子どもの家」での話し合いを終え、ドンバ市場へ。
夏用のズボンを新調しようと思い、バオミンさんの
姉の店へ。5枚の布を買う。1枚1000円。
ベトナム事務所の隣りの「縫製屋」さんに布と
今まで着ていたスーツのズボンを渡し、同じサイズのものを
5つ作って欲しいと頼む。

前回は、8年ほど前に3着、同様の方法で作った。


昼食は午後1時。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)

午後2時から2時間ほど昼寝。
午前中から午後2時までの外気温は40度近い。その間、
外に出ていたので相当のエネルギーを使う。疲労。

午後5時に目を覚ます。

読書「原発労働記」(堀江邦夫著:講談社)読了。

マスコミも原発労働者の実態を報道していない。
東電など電力会社は多額のコマーシャル代を
テレビ・新聞などのマスコミに流している。
マスコミは「営業」も考え、原発問題は最大の闇でもある
原発労働者の実態を報じられない。
本書を読むと東電も関電も原発労働者を人間とは
見ていないと断言できる。
著者が3箇所目の原発である敦賀原発で働く場合は
以下のようになる。

「日立プラント →原山工業 →竹井工業 →神山工業」と
ひ孫請けの社員になる。ひ孫受けには、全国に展開する
「原発手配師」が連れてくる。

原発は下請け労働者を採用する際、思想調査をしている。

「雇用時における安全教育調査票」という用紙があり書かされる。

氏名・現住所・家族構成・免許・健康状態。
質問がある。

「原子力の安全性」(①安全と思う  ②わからない)
「原子力発電所の必要性」(①作った方が良い ②わからない)
「原子力発電所は地域に有効か」(①有効と思う ②わからない)

何故か回答欄に「危険と思う、作らないほうが良い、無益と思う」
などの項目はない。
著者によれば、共同通信の西山明氏「原発症候群」(批評社)
の著書で、福島原発では、地元の富岡警察、浪江警察に
労働者の犯罪歴、支持政党、親族関係などを問い合わせることが
原則になっていると書いているそうだ。労働者の思想調査が
日常化している原発の現場である。

ピンハネの実態。

元受けが1人1日16000円で雇う。下請けは、労働者に
10000円渡すとする。1人1日6000円のピンはね。
下請け会社が100人の労働者を雇っているとすれば、
ピンハネだけで1日60万円。1ヶ月で1600万円、
年収で2億1600万円のぼろ儲けになる。

福島第1原発には多いときには6000人が働いていたそうだ。
単純計算すると1日3600万円の「ピンハネ」。1ヶ月で
9億3600万円。1年で112億3200万円。
べらぼうなお金が流れるのだ。これらは、電気料金や
税金など。原発をとりまく、金銭的な利権集団がいる。
実際に仕事をしないで・・・・・。原発は「原子力村」といわれて
いるが政府ー経済産業省ー電力会社ー御用原子力研究者
ー大学とのグルになった「原子力村」だけでなく、原発労働者
を巡っても大金がぼろ儲けで動く「ぼろ儲け社会」になっている
のだ。労働者は放射能汚染で体を壊す。

斑目原子力安全委員長が「福島事故は人災だ」と言ったが、
この人が言うのであれば、深刻な自己批判があった上で
すべきである。人災の最高責任者の一人は、斑目だからである。
日本の原子力の安全を政府から独立して監視する機関の
最高責任者は斑目なのだ。彼の発言は、まるで全てが
人ごとのような話だ。

テレビ報道も「大連立」など永田町の政治に向かっている。
原発の問題、責任など一切不問にしたマスコミ。
福島県の小中学校のこどもたちを登校させている政府。
これほど危険なことはない。こどもたちを守る文部科学省が
「安全」などどと根拠も示さずに言っている我が「愛する日本」
である。

福島原発事故発生後12日間、記者会見を一切拒否し
国民に原発情報を知らせなかった斑目。
原発事故翌日朝6時、菅首相に「総理、原発は大丈夫なんです。
(原子炉は)構造上爆発しません」と述べた斑目。
3月14日の午後3時半過ぎ、建屋で水素爆発が起きた。

     

投稿者 koyama : 14:57 | コメント (0)

2011年06月10日

歴史都市連盟理事国会議最終日:閉会晩餐会

終日 晴天 真夏。気温38度

午前5時半起床。

午前7時朝食。フォー。


午前中、当面の仕事。休息。
読書「原発労働記」(堀江邦夫著:講談社)
想像を絶する内容。
1980年代に「原発突撃体験記」を書いた著者の
ジャーナリスト精神に脱帽する。
体と命をかけてのルポである。

美浜原発から福島第1原発での原発労働者の実態である。
原発労働者は東電が雇うのではなく、手配師が全国から
人を集める。その間に異常な「中間搾取」がある。
関電美浜で3ヶ月働いた著者は、手配師の誘いに乗り、
東電福島第1原発へ。
東電から元受会社に日給一人15000円が支払われる。
元受会社と親方(手配師)の中間搾取があり、実際の
労働者には、日給5500円となる。日給では1万円もの
中間搾取が何箇所かの下請けや 手配師を経過する中で
なくなっていってしまい、労働者には3分の1しか入らないという
小林多喜二の「蟹工船」の世界である。

放射線量チェックもいい加減な実態であった。下請け労働者に
防護マスクのつけ方すら教えないで仕事をさせている。
放射能で汚染され、床にこぼれた水を布で手で拭かせている
など、電力会社のいい加減な仕事振りに呆れてしまう。
この体質は、今でも続いているようだ。
東電社員用の放射のチェックの素晴らしい機械があるが、
これは下請け労働者は使ってはいけないことになっている。
手配師の斡旋で仕事に就いた下請け労働者は、足の底を
チェックする機械だけ。後は、ガイガーカウンターのようなもので
自分で放射線量をチェックするのだ。背中は誰が調べるのか?
東電職員は「体を通過」させれば、全ての放射線量がチェックできる
機械を使うのだが・・・・。本書を読むと東電・関電は、下請け
労働者は、人間扱いしていないことが分かる。
エリートの東電社員は一切被爆しない場所にいて、
地元の人々や手配師に誘われて就労すている下請けの
労働者は「人間以下」の存在。本書を読むと1980年代から
既にその体質が出来上がっていた。
労働組合も労使一体。労働組合が会社の手先となり
労働者を圧殺するシステムがある。民主党を支持している
「連合」はまさに会社の手先となって、手配師の斡旋で
就労した原発労働者を一層無権利にする役割を果たしていた。
労使一体の連合に支えられている民主党に原発問題の
解決は出来ない。
亡くなった元連合会長の笹森清氏は東電出身。
原発を推進した一人である。本書にあり下請け無権利
労働者を組織せず、東電本社員を組織し、東電本社
経営者と一心同体となり、下請け労働者を圧殺し、
原発を推進した。こうした事実は頭に入れておく必要が
ある。

明日の6月11日は、全国の「脱原発」統一行動である。
私も個人的に「6・11脱原発全国統一行動」の賛同者に
名を連ねている。今、私の出きることは、このくらいしかない。


バオミンさんと電話いくつかの打ち合わせ


午前11時半昼食。春雨麺。うりと魚の腸を発酵させたもの。
美味しい。

午後12時半から1時間ほど昼寝。少し、疲れが取れる。

午後6時45分、バオミンさんが近くまで来てくれる。
タクシーで「世界歴史都市連盟閉会晩餐会場」へ行く。
会場はキムロン地区にある。ベトナム事務所からは
少し遠い。フエ市人民委員会がオーナーのレストランである。

ヴィン・フエ市長の開会の挨拶。「世界歴史都市連盟理事国会議」
はその任務を十分果たし、2012年総会に向けて、意思統一と
準備が出来た」と。

オーストラリア

フエ市人民委員会外務部員。今回の「理事国会議」の
縁の下の力持ち役を果たした。

韓国慶州市の皆さんと


中国西安市の皆さんと

午後9時、閉会。

これで一連の「理事国会議」は終了した。
大筋、2012年の総会に向けての意思統一が出来たものと
思う。

歴史都市連盟柴田事務局長と菅沼課長、納屋さんなど事務局の
皆さんの事前の準備が成功の要だった。
フエ市人民委員会側は、ニエン外務部長を中心に
京都市側と意思統一し、準備ができていた。

2012年4月の総会に向けて、これから10ヶ月間、しっかりと
準備をしていきたい。JASSとしても出きる協力をしたい。

投稿者 koyama : 18:17 | コメント (0)

2011年06月09日

世界歴史都市連盟理事国会議

終日猛暑。 室内温度40度。

午前5時起床。ストレッチ
午前7時「停電」。(無計画停電) 終日停電だった。

午前7時半朝食。赤米のおかゆ。

午前8時半、バオミンさんが迎えに来てくれる。
一緒に「世界歴史都市連盟理事国会議」へ。
モーリン・サイゴンホテル。

18年前にフエ師範大で日本語を教えた教え子の「イック・ホアン」
さんは、フエ市人民委員会外務部副部長になっていて、
今日の理事国会議の運営の一端を担っている。

フエ市人民委員会外務部長ニエン氏とバオミンさん・
ホアンさん

私もバオミンさんもフエ市人民委員会代表団の一員と
なっている。

世界歴史都市連盟事務局長の柴田重徳氏の開会挨拶

2012年に行われる総会に向けての話し合い。

ヴィン・フエ市長の挨拶

理事国会議には、京都市の事務局の方々以外に
オーストラリア(?市)、韓国(光州市)、トルコ(?市)など
6都市が参加。

コーヒーブレイク  ヴィン・フエ市長と


理事国会議では、新規加盟希望都市(3市)の加盟審査。
2004年開催立候補都市(5都市)の審査・討論を
行う。直接の関係者以外は、退席。

中休み。

一度宿舎へ戻る。昼食。まだ停電が続く。
暑くて昼食が食べられない。
小麦粉の手打ちうどん(チャオ・バイン・カイン)を4分の1ほど
食べる。

午後12過ぎから昼寝をしようと思ったが、停電のために
室温40度。このままでは熱中症になると思い、冷蔵庫に
入れてあった氷をビニール袋に入れて、頚動脈に当てる。
血液は1分間に体を一回りするそうなので、30分ほど、
そのままで横になる。少し、体のほてりが取れる。

午後2時45分。バオミンさんがオートバイで迎えに
来てくれる。モーリンホテルへ。

世界歴史都市連盟理事国会議の続き。

2012年フエ総会の「メイン・テーマ」を討論する。
各種意見がでる。
結局「世界の発展と歴史遺産の保存」的な内容の
テーマとなる。

フエ市が開催日時案を提案する。4月5日~7日。

ウイーン市やオーストラリアなどから「2012年4月8日は
イースター・復活祭だ、キリスト教系の欧米の国は参加
出来ない」との異論が出される。
論議。途中で休憩を入れる。

フエ市と京都市事務局で意見調整。
京都市の柴田事務局長・納屋さんなどが色々な
アイディアを出したようだ。
4月15日~18日までと提案され、決定。
京都市の事務局側の賢い提案で話し合いがうまく
進む。事務局の仕事とは、見えない所でこうした
折衝を行い、話をうまいところへ「落とす」ことだ。
そうした意味では、京都市の連盟事務局は、国際会議
に慣れているといえる。

フエ市人民委員会側から2012年総会の日程等が提案される。
提案者はフエ市人民委員会外務部副部長のイックホアン。

午後4時過ぎ、理事国会議を終了し、2012年総会の
会議場等を視察に行く。


モーリンホテルを出ようとするとJASS日本語学校の卒業生
から声をかけられる。モーリンホテルのレセプションで仕事を
しているとのこと。松下先生の教え子だったと言う。



最近出来た新しい5つ星ホテル「シェラドン」を視察。

午後5時過ぎ、今日の会議の日程を終了。

午後7時からモーリンホテルで晩餐会がる。それまで
宿舎で休息。

午後6時50分、バオミンさんが迎えに来てくれる。
バオミンさんのオートバイで「モーリンホテル」へ。
フエ市人民委員会主催の「晩餐会」。
世界歴史都市連盟 柴田事務局長。

ヴィン・フエ市長の開会挨拶

納屋事務局員・ウイーン市・韓国慶州市代表団の
皆さんと

タイン・フエ市副市長と

中国・西安市代表団。兵馬俑で有名。


世界歴史都市連盟京都市事務局の方々と
このお二人の影の力で国際的な交流が前進している。
柴田事務局長をはじめ、京都市の皆さんに深謝。

午後9時半、閉会。

投稿者 koyama : 19:32 | コメント (0)

2011年06月08日

自室で仕事

快晴  真夏  室内気温35度 湿度 60%

午前5時半起床。ストレッチ。腰痛対策

午前7時朝食。キャッサバ芋の手打ちうどん。

ほんの少し「唐辛子」が入っているのだが、食後、胃腸の調子が
悪い。唐辛子の刺激が強いようだ。日本滞在中とフエへ6月3日
に帰って来ても5日間連続で仕事が入っていて、休みがなかった。
今日は自室でメールの受信・送信、これから9月までの
大まかな日程・計画を考える。

読書「新左翼とロスジェネ」(鈴木英生著:集英社新書)読了

1960年代後半を大学で過ごした人しか分からない部分がある。
1975年生まれの「ロスジェネ」の若者が分からないのは
致し方ないが、自分たちの父親の団塊の世代が1960年代
の後半、どのような学園生活を送ったのかを知ろうとする
気持ちは評価する。
著者は新左翼・全共闘運動が、「自分探し」の始まりだった
と位置づけている。疑義を感じる。特に全共闘運動の
「自己否定論」を高く評価しているが、私など当時、
馬鹿馬鹿しい理屈だと思っていたし、現在も同様の
気持ちでいる。お釈迦様も人間は矛盾した存在だと
言っている。マルクスも「矛盾」がものごとを発展させると
言っている。「自己否定論」は最終的には、「自殺」にたどり着く。

ーーー
「原発労働記」(堀江邦夫著:講談社)を読み始める。

1984年に書かれた本であるが今回の福島原発事故
を踏まえ最終章を2011年4月に増補して再出版している。
著者は1980年代に関西電力の「美浜原発」、東電の
「福島第一原発」、日本原子力発電「敦賀原発」の3箇所の
下請け「原発」労働者として働き、その詳細をドキュメント
にしたものである。
第1章、関西電力の「美浜原発」の部分を読んだが、
美浜原発にいる関西電力社員は、中央制御室など
エヤコン付きの清潔な場所で少数者が仕事をしている。
ほとんどの労働者は元受けの下請けの更に下請けの
会社員。今回の東電福島原発で言えば「協力社員」
ということになる。
この協力社員の採用の仕方から、どんな仕事するのか
を具体的に記述している。
労働安全衛生法では、到底認められない劣悪な
労働環境の中での仕事が次々に記述されている。
労働者の一部は地元の農民や漁民が農閑期に
勤めている。その他は当時の釜が崎や東京の山谷などの
労働者である。

高圧給水加熱器の掃除。人間が座ると頭がつく位の
円筒の中に入り、金属くずがこびりついている円筒の
中を掃除する。会社から配られるのは、風邪を引いた時に
使う「マスク」だけ。自分で手拭いなどでさらに口と鼻を
覆うが、数時間の仕事後、円筒から出てくると顔中が
真っ黒。口の中には金属の粉が一杯。喉が痛い、
こんな仕事が毎日続く。放射能など被爆を防ぐ「安全教育」
は40分の8ミリ映画を見て終わり。下請け、孫請けの
労働者は、きちんとした原発のシステムも構造も何も
教育されないまま、直ぐに現場の最末端の一番危険な
場所での仕事に従事させられていることが分かる。

1980年代の原発の定期点検労働の実態である。


バオミンさんと電話でいくつかの問題を打ち合わせする。

午前11時半昼食。ご飯とカボチャの茎、魚。野菜スープ。

量が多い。頑張って食べる。

午後12時半から午後2時まで昼寝。

その後、洗濯。

読書「原発労働記」(堀江邦夫著:講談社)

バオミンさんと「政界歴史都市連盟理事国会議」
の件で打ち合わせ。

6月9日(木)午前9時から「理事国会議」。
午後7時、晩餐会。

6月10日(金)「理事国会議」 →総会場、ホテル等の視察
         P7最終晩餐会 

7月20日から10月19日までのスタディーツアー等の
日程をバオミンさんからもらい、チェックする。
3ヶ月間の長丁場だ。体力と気力がないとやっていけない。

3月11日(東日本大震災当日)から1週間ほどの火炎樹日記に
私は何を書いたのか、改めて読んで見る。

===========================

日本滞在中、各地で講演会などを行った。
講演会後の懇親会の時には、必ずラオスの「ラオディー」の
ラム酒を飲んでもらい、宣伝に努めた。
何故、私がラオスのラム酒を広めようとしているのかといえば、
「美味しい」からに尽きる。

更に正確に言えば、「本物」の味だからである。
今の日本は菅首相から始まり、偽者が横行している
社会である。そうした中で本当に美味しいもの、本当に
しっかりと時間と手間隙をかけて作った「ラム酒」だからである。
こればかりは、試しにでも「飲んで」もらわないとその絶妙な
美味しさは分からない。

以下、ラオスのラム酒 ラオディー社のHPである。

高校の同級生Y君、T君、S君の3人がサトウキビ作りから
醸造まで自分たちの手で作っている「100%」手作りの
本当のアグリコール「ラム酒」である。

一度、味わって見る価値のあるラム酒である。

ラオス・ラオディー社のHP

http://shirokuma.tejimaya.com/

===============

民主と自民の「大連立」に反対する。
この両党が連立を組むと衆議院で90%、参議院80%の
議席を占有する。国会議席で「「ファシズム体制」が出来上がる。
この両党で何でもできてしまう。

選挙の際にそれぞれ政策を掲げて国民の投票に付した筈で
ある。

国会議席が80%・90%の占有率になると、何でもこの両党が
勝手にできる。「大政翼賛会体制」「ファシズム」だ。
全ての民主主義社会は少数派、批判派が必要である。
一党独裁国家に18年住んで「批判派」「反主流派」の
存在がいかに大切かが良く分かる。
今回の福島原発事故が止められなかった最大の理由は
国策で「原発安全神話」を推進し、原発に反対したり、疑義を
感じる研究者は完全に「排除」「無視」するという「原子力村」が
出来上がっていた。原発に反対し、その危険性を提起していた
研究者(京大小出助教など)を完全に排除したことが、却って
原発の危険性を高めていった。どんな社会でも少数派は
社会に取って大切なものなのである。
原発の危険を指摘していた研究者を排除せずに、その提言を
受け入れていれば、今日の福島原発事故はなかった。
福島のこどもたちを壮大な人体実験の被験者にしないでもすんだの
である。独裁体制は社会を蝕み、社会を崩壊させる。
どんな社会でも常に批判勢力を内包していなければならない。


東日本大震災に当って
一致して復興・再生を行いたいという気持ちは理解できる。
与党・野党で既に何十回も話し合っているのである。
民主・自民が「大連立」する必要はない。大連立は、
震災復興を口実に「憲法改悪」「日本社会の大改悪」を
めざそうとしていると危惧してしまう。

投稿者 koyama : 13:02 | コメント (0)

2011年06月07日

ソン君・メンさん 長男誕生 おめでとう バンザイ 

快晴  日中の気温35度。湿度80%。

午前5時起床。
軽く柔軟体操。

午前7時朝食。フエ名物「ブンボー」

午前8時半、徒歩、ベトナム事務所へ。

4歳の時から在宅支援していたAさん親子と懇談。

1993年から2年間勤めた「フエ師範大」の食事を担当していた
通称「シェフさん」の奥さん(フール小学校勤務:こどもの家出身の
ユオンさんの学校)がベトナム事務所へ。
息子のミン・タイン君が結婚するので招待状を持ってきたとのこと。
私が「シェフさん」と名づけたので通称となってしまった旦那さん。
ベトナム戦争時代はフエ銀行総裁の御曹司。フエ大学を出て
高校の数学の先生をしていたが、ベトナム戦争終了後、
南の兵隊だったこと、大資本家・大財閥の息子ということで
全ての仕事を剥奪され、フエ師範大学の食堂の料理人をしていた。
食堂と言っても最後は私だけになってしまい、私の専属「シェフ」さん
だった。
私もベトナム・フエ市に来てたった一人。寂しい毎日を送っていたので
毎晩、食堂でシェフさんと「フダビール」を飲み、その後、私の部屋に
誘って遅くまで飲んだものだった。その頃、長男はまだ小学校低学年
位だった。ホーチミンの大学へ行き、今回結婚するとのこと。
18年前の親交を忘れず、結婚式の招待状をわざわざ持ってきてくれる
所は、ベトナム人の人情のあるところだ。シェフさんの奥さんも
グエン王朝の貴族の出身のようだ。社会主義ベトナムでは
不遇な人生を歩んでいる。

バオミンさん・ハンさんに日本から持ってきた支援金を渡す。
一つ一つの支援金に領収書とお礼状を書く。


午前10時半。床屋さんへ。
1993年9月からこの床屋さんへ来ている。私が黙って座れば
理髪が終わる。ご主人も18年間、私の髪を切っている。
調髪料金 25000ドン(125円)。
18年前は3000ドンだった。現在の換算だと「15円」だった。
18年間で物価が10倍以上に上がったことになる。
この近年の物価上昇は異常である。
ベトナムの物価がいかに異常に上昇しているかがわかる。
社会主義市場経済の実態である。レーニンの「ネップ」の
現代版などと暢気な評価をしている某政党の議長がいる。

ベトナム事務所から徒歩20分。宿舎へも徒歩で帰る。
往復で50分ほど歩く。真夏の徒歩は、暑い。

午前11時半、昼食。マカロニスープ


バオミンさんから電話。

ソン君・ハンさん夫妻に子供が生まれたとのこと。
奥さんのメンさんは、昨日までフエ市人民委員会外務部で
仕事をしていた。産休に入る前に出産した。

ソン君・メンさんは、「子どもの家」のこども同士の結婚第1号。
その二人に長男が生まれたということは、本当に嬉しいことだ。
お目出度い。

私の孫が生まれたかと錯覚をしてしまうほどだ。

ソン君・メンさん夫妻の出産を一番喜んでいるのは
日本の里親である内田さんではないだろうか?

出産は6月7日午前7時、フエ中央病院。

2900グラム。

出産当時の写真である。これほど「目鼻立ち」が
はっきりしている新生児を見たことがない。
我が家のこども2人は、「猿」のようなしわだらけの顔だった。
なかなか「美男子」と見た。

「子どもの家」のこどもたち同士のカップルが新しい命を
もうけたことは、大げさに言えば「人類史」にも大きな
意味があると考えている。
フエにJASSが「子どもの家」を作ったからこそ生まれてきた
新しい命である。JASSの18年の活動を象徴する出産に心から
お祝いを言いたい。おめでとう。健やかに賢く成長して欲しい。
これから激動するであろうベトナムで賢く・元気に生きていって
欲しい。祖国ベトナムの安定と人民の平和、生活の安定の
ために。

私はフエに18年間住んでいる。苦しいこと、困難なことばかりの
18年間と言っても過言ではない。
ソン君とメンさんの長男出産は「18年間の最大の喜び」である。
ベトナム人だけでなくJASS関係者の多くの日本人からも祝福された
出産である。幸せになって欲しい。二度と戦争の国になって欲しくは
ない。

私たちのフエでの活動は「小さなもの」である。
外務省の評価ではJASSは「自立に向けて取り組みが弱い」と
書かれている。外務省が何を言おうと私たちには関係ない。
こうして18年間現地で活動続けることで「子どもの家」の
こどもたちが自立し、子供を産む。新しい生命が生まれる。
こうしたことが「自立に向けての取り組みが弱い」と評価する
外務省や評価委員会のメンバーである「大手ボランティア団体」
の海外支援についての考え方と私たちの考え方との間に
大きな乖離がある。3年で支援を止めて、次の国に移っていく
海外支援が「自立に向けての取り組みができている」と評価する
人たちの評価基準についていけない。「渡り鳥ボランティア」を
いつまで続けていくのか・・・・。
などど考えてしまう。

午後5時半。日本料理店へ。日本人・日本料理店のこどもたちと
ソン君・メンさん第一子誕生のお祝い会を行う。
富岡先生は日本語学校での教育で遅れて参加



ーーーーーーーー
6月3日、大東文化大学国際関係学部創立25周年記念講演会を
行った。
大東文化大学が広報で講演会の様子を報道した。

http://shirokuma.tejimaya.com/

投稿者 koyama : 21:42 | コメント (0)

2011年06月06日

マン氏葬儀

快晴 猛暑の真夏日

午前5時起床。

簡単な柔軟体操。
午前7時朝食。フォー(米の麺と鶏肉)

午前9時半。家を出て徒歩でベトナム事務所へ。

午前10時から「子どもの家」スタッフのマン氏の葬儀。
ベトナム事務所員全員参加。

1997年から14年間、一緒に「子どもの家」のこどもたちの
仕事してくれていたい同士。

この14年間は様々な出来事があった。

中学の先生を辞して「子どもの家」に来てくれた
マンさんに心からお礼を言いたい。

「子どもの家」に1999年の大洪水で姉と一緒に入所した
ソン君も弔問に来ていた。現在はフエ科学大の建築科で
勉強をしている。

セン「子どもの家」運営委員長

キム・アインさん(1993年から私と一緒に仕事をしている)


弔問するバオミンさん

日本語教師フオン先生


財政部長 ゴック・ハインさん

日本語教師 原田先生


日本語教師富岡先生
真面目に仕事をしてくれている。深謝


ベトナム事務所・アインさん



JASS日本語学校部長 フーン先生

日本語教師 土井先生


お棺を巡って「マン氏」への慰霊の気持ちを表す


JASSから贈られた「花輪」


「子どもの家」から贈られた花輪

「子どもの家」スタッフ

午後12時半。昼食。

55歳で亡くなったマンさん。どれだけ「悔しい」気持ちが
あったのか? 推測できる。

私はマンさんの「無念」な気持ちが本当によく理解出きる。
マンさんの死を通して人間の命の「はかなさ」と空しさを
実感した。ベトナムでは知的エリートであったマンさんが
何故、教師を辞めて「子どもの家」に来たのか?
今になってはその詳しい事情は分からないが・・・・。
一人の人間が人生の進路を大きく変えるということは
何か「大きな原因」があると推測する。
マンさんにどんな人生の問題があったのか?
ベトナム戦争の終了時は20歳。大学生である。
フエは南ベトナムだった。1975年4月30日の
サイゴン解放で南ベトナムは崩壊した。
マンさんは崩壊した南ベトナムでどんなことを感じ
どんな生き方をしてきたのか?
中学校の教師を辞め「子どもの家」に来た理由の
一端はこうした時代の流れがあるように推測する。

それは同時に私の人生の先人となるものでもある。
いつ死んでもよい自分の人生でありたい。
人間はいつか死ぬ。逆説的に言えば、人間は死ぬために
生きているのである。
私は兄・父・弟の死を体験している。死ぬことは自然の
現象である。人間は死ぬまでに「どんな人生を歩むのか?」が
問われている。


読書「「新左翼とロスジェネ」(鈴木英生著:集英社新書)」
本書の渦中に当時私と妻はいた。1966年から1970年。
著者の鈴木氏が1975年生まれで、1960年代後半の
時代を理解出来ないことは致し方ない。我が子と同年代。
しかし、全共闘・中核・革マル・社会主義青年同盟解放派
などの記述ばかりを多用していることに疑義を感じる。
全共闘運動などは私からすれば、良いとこの「坊ちゃん」の
遊びの運動。人生をかけての運動ではないと思っていた。
その証拠に卒業したら大企業に就職し、贅沢を満喫しているの
であえる。彼らは本当の労働者を知らない。私は中卒の
牛乳屋の寮に住んでいた。長崎県諌早市の中卒の若者が
たくさんやってきて、朝早くから牛乳配達をする。
私も彼らと一緒に仕事をした。
中核・革マルなどが過激な活動をしていても、現場の
労働者は「無視」していた。
1060年代後半の学生運動は社会の上流階級の子弟の
運動であったことは事実である。

投稿者 koyama : 08:34 | コメント (0)

2011年06月05日

国際こどもの日祝賀会

晴天

午前6時起床  気温32度 湿度80% (午後2時には気温38度)

真夏そのものである。

シャワーを浴びる。

午前8時、バオミンさんがオートバイで迎えに来てくれる。
「子どもの家」へ。

午前8時半「世界こどもの日」の祝賀会を行う。

国際子どもの日。1949年、モスクワで国際民主婦人同盟の会議
が開催され、全世界の児童の権利を守ることなどを目的にした
「国際子どもの日」を6月1日とすることが決議された。

6月1日の「国際子どもの日」は旧社会主義陣営で行われていた
お祝い。現在、6月1日の「国際子どもの日」を行っているのは
ベトナム以外にどこがあるのだろうかは分からない。
中国、北朝鮮、キューバ、ラオスが実施しているのか?

成績最優秀・優秀賞を取ったこどもたちは、学校から
賞品と賞状がもらえる。

JASS「子どもの家」では、こどもたち全員に「お菓子の詰め合わせ」
をプレゼント。



開会

ロック寮長とバオミン・JASSベトナム運営委員長の司会で
始まる

こどもたちの開会の踊り

午前8時半、開会。

セン「子どもの家」運営委員長の挨拶

現在44人のこどもがいる。41人が学校へ行っている。3人が
職業訓練。

41人の通学生徒の内訳
・小学校  8人
・中学校 17人
・高校   7人
・大学   9人

小中高校の32人の中で最優秀賞・優秀賞を学校から
もらったこどもたちは、17人。32人の53%。
半分強のこどもたちが、日本流に言えば「オール5」か「オール4」
の成績だった。

「子どもの家」のこどもたちにとっては、勉強の好きな子供たちを
伸ばしてやることは、自立への大きな「武器」となる。

もうじき「夏休み」。その前の学期末試験、進級試験を
頑張って欲しい。

続いてJASSを代表して私が挨拶。

楽しい夏休みを過ごして欲しい。7月末には「像の滝」「ベーベキュー
大会」などを例年通り、内田さんたちが主催してくれるので
楽しみに・・・。

続いて成績最優秀者の表彰(1)

成績最優秀者(2)

成績優秀者表彰


こどもたちに「お祝い」のお菓子を配る


1993年にチーラン通りの「子どもの家」を作った。
その時、入所したA君。現在36歳。
「子どもの家」に遊びに来ていた。既に3人の子供の
お父さんになっていた。仕事は川で砂を取って生計を
立てているとのこと。今は家族5人で幸せな生活を
しているとのこと。


「国際こどもの日」祝賀会が終わり、続いて、「子どもの家」の
こどもたちの親戚など集めて、夏休みの「帰省中」の生活の
注意などを行う。

夏休み帰省して「生活のリズム」や「生活態度」が乱れ、
「子どもの家」に帰って来て学校生活などに
馴染めなくなるこどもたちもいる。
中には、帰省中に「合成麻薬」をおぼえてしまい、
麻薬中毒の禁断症状を呈する子供もいる。
そうしたことを防ぐために関係者を呼んで諸注意。
「子どもの家」から親戚などの家庭生活をすることは、
普通の家庭を知ることでもあり、大事なこどもたちの
勉強の一つだ。同時に「危険」も伴う。


午前10時半過ぎ、帰宅。

チャン・ティエン橋のたもとは、「火炎樹の花」の真っ最中。


午前11時過ぎ、ブランチ。春雨麺。

洗濯。毛布などを外に干す。真夏の太陽がギラギラと
照りつける。

この2週間ほど、日本で仕事をし続けた。疲れ切っている。
午後12時過ぎ、昼寝。午後4時まで。

午後4時。日本から持ってきた物資などの整理。

多数のメールの受信・送信。

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      訃報

「子どもの家」のスタッフ 「PHAN MAN(ファン・マン」氏が
昨日、2011年6月3日(土)、食道がんで急逝しました。
心からお悔やみ申し上げます。

マン氏は、1997年から「子どもの家」のコンピュータの先生・
図書室の先生としてこどもたちの面倒を見ていました。
マンさんは、中学校の日本語教師でしたが、教師を辞し、
「子どもの家」のスタッフとして14年間、「子どもの家」で
こどもたちの面倒を見てくれていました。

葬儀は明日、6月6日(月)。

前列右から2番目が「マン氏」

前列右から3番目が「マン氏」

投稿者 koyama : 13:22 | コメント (0)

2011年06月04日

フエへ帰る

午前6時起床。
昨夜買っておいたコンビニおにぎりを1つ食べ、心臓の薬を飲む。

急いで昨日の大東文化大学講演会を火炎樹日記にアップする。

軽く入浴。目が覚める。


午前8時、成田付近のホテルを出発。

成田空港第2ターミナルへバスで行く。

チェックインカウンターにお客はまばら。
直ぐにチェックインを終了。搭乗率を聞くと40%以下とのこと。
東日本大震災が影響しているとチェックインカウンターの人は
言っていた。

ベトナム航空の待合所で受信メールを調べる。30通。
午前9時30分頃搭乗とのことなのでそれまでに返信出来るだけ
返信する。

午前10時離陸。

機内で朝日、毎日を読む。
両紙とも「菅首相の辞任がいつか?」についての詳細報道を
している。菅首相も変だが、鳩山はもっと変。
「嘘はいけない」という趣旨の発言をしているが、鳩山こそ
普天間問題を始め、嘘を言い続けた首相だ。
毎月、1500万円のおこづかいをおかあちゃんからもらっている
人間に「東日本大震災」の被災者の本当の気持ちは分からない。
福島原発で我が子を放射能に被爆させられ、壮大な人体実験の
被験者にされている福島の親の気持ちは分からない。
更に自民党・公明党も民主党の内紛に乗じてこの時期に内閣不信任案を
出すのもおかしい。棄権したり退場した共産党や社民党の方が
よほど真っ当だ。

読書「貧困と愛国 増補版」(佐高信;雨宮処凛(かりん)著)
角川文庫)読了。

非常に興味深い本である。読者の皆さんにお薦めしたい。
雨宮処凛は、1975年生まれ。我が子とほぼ同年代。
この年代は、バブルがはじけ「超就職氷河期」の世代。
就職もなく、自分を否定され、右翼に入る。
佐高信との対談のテーマの一つは戦後民主主義。

雨宮は、戦後民主主義と言っても平等は形式的。
正規社員の団塊の世代は、口では立派なことを言っても
自分たちは正規社員で労働組合を作り、身分を保証され
ている。口ばかりの世代。
教職員組合も「教え子を戦場に送らない」といっているが、
派遣社員などは、毎日が戦場であり、多くの若者が
自殺をしている。既に日本の企業・職場が戦場なのだ。
教職員組合活動をしている先生たちも「口では戦場に
送らない」などといっているが、自分たちの身分と生活が
保障された上で言っている、と厳しい批判を繰り返す。
右翼と左翼は根は一緒だという。
1975年前後の団塊ジュニアの声を聞くのにはもってこいの
の本である。戦後民主主義、戦後民主教育が理念的であったこと、
行動が伴わない弱点を持っている点を厳しく突いている。
私の知り合いの教職員組合の幹部も退職した後、別荘を
買って、テニスクラブで有閑マダムとテニスに興じている人も
いる。それぞれの人生と生き方ではあるが・・・・。
ラオスで「ラム酒」を作っている高校の同級を私は言行一致
という意味で尊敬している。

午前11時50分頃から昼食。

ビールを1缶飲む。

読書「新左翼とロスジェネ」(鈴木英生著:集英社新書)

著者は1975年生まれの毎日新聞記者。
新左翼(ブンド・各共同・・・・・)の歴史と現在の派遣社員など
不安定な労働者の状況を比較し考察。

表題が「新左翼」となっているが既に暴力と内ゲバで崩壊しいる
勢力。特に1960年代後半の2年間ほどの「全共闘運動」
をかなり評価する記述となっている。
現在37歳位の著者である。中核・革マル・社青同解放派・・・
は過去のものとなっている。

1960年代後半、全国の学生自治会の65%に影響を持って
いたのは共産党系の日本民主青年同盟である。
本書は最初から民青を除外して当時の青年の運動を記述いる所に
社会状況の記述等に正鵠さが欠けている点がある。

午後4時(日本時間)、ホーチミン空港着。

ホーチミン空港の国内線で3時間40分待つ。
午後7時40分、ホーチミン →ダナン。
(フエ空港工事のため)
午後9時過ぎ、ダナン空港着。

空港にはバオミンさんが出迎えに来てくれていた。
ありがたい。2時間ちょっとの車の旅でフエの状況などを
話す。

約2時間の車の旅でフエに着く。午後11時半。

就寝は午前2時(日本時間)。

明日は日曜日。「子どもの家」の子供の日。午前8時には
バオミンさんが迎えに来る。

長い1日だった。


投稿者 koyama : 00:11 | コメント (0)

2011年06月03日

大東文化大学国際関係学部創立25周年記念講演会

曇り  暑い

午前8時過ぎ自宅を出て池袋へ。
池袋で今日の講演会の内容を再考する。

マグドナルドへ。禁煙と大きく書いてあったので
2階の部屋へ入る。
まわり中、煙草を吸っている。

禁煙表示を良く読んでみると「小さい字」で
午前11時からとある。詐欺である。

せっかく頼んだコーヒーを飲まずに店をでる。

池袋西口にある「スターバックス」へ。
小さな店である。20人入ればいっぱい。
しかし、きちんと「禁煙」「喫煙」をわけていた。

午前1時過ぎまで講演会原稿を再考。

急行で「高坂」まで1時間強。

駅には、大東文化大の学生さんが出迎えに来てくれて
いた。

バスで15分位で山の中にある大東文化大学(東松山校舎)
へ。

応接室で昼食を頂く。

その後、大東文化大学の太田学長先生と懇談。

太田学長は数年前、「子どもの家」を視察に来られている。
JASS日本料理店で一緒に夕食を食べ、懇談した。

学長先生・学部長先生と


今回の記念講演を企画し実施した大東文化大学の中野先生と



午後1時15分から90分間の講演会

最初は太田学長の挨拶。

その後、4本のビデオを上映しながら、

①「子どもの家」の活動
②大震災支援の取り組み
③ベトナム社会の実態

を話す。




中野先生の閉会のことば



午後4時前に講演会を終了し、その後、中野先生のゼミ生徒、
NGOを研究するサークルの学生さんと懇談。

ベトナムの少数民族を研究している学生さん


午後5時近くまでが学生さんと懇談


今回の講演会を企画立案してくれた中野先生、学部長・学長
先生に感謝したい。


東武東上線で池袋経由巣鴨。巣鴨のコインロッカーにベトナム帰国
の荷物を入れておいた。帰国荷物を持って日暮里からスカイライナー
で成田駅へ。重たい荷物をゴロゴロ押して、15分。
ホテル着。

講演会に来て行ったスーツや革靴など必要ない荷物を
宅急便で自宅へ送り長い1日が終わる。

明日朝は早い。

投稿者 koyama : 07:17 | コメント (0)

2011年06月02日

茨城県桜川市立岩瀬東中講演会:夜、水戸市へ

午前8時半、自宅を出て上野経由→友部(フレッシュひたち)→羽黒駅
羽黒駅に火炎樹の会の斉藤さんが待っていてくれた。
今日の講演会は、斉藤さんが数学の先生をしている茨城県
桜川市立岩瀬東中学校。


3月11日の震災で体育館が壊れ、全学年を収容する部屋がなく
今日は2年・3年生の200人が集会室でベトナム・ボランティアなどをの
話を聞く。


午後1時45分から午後3時20分までの90分間。



200人の中2・3年生が、真面目に話を聞いてくれた。
ビデオを2本上映。
「子どもの家」のこどもたちなどが行った「東日本大震災支援活動」
などの様子を上映。




講演会を終了し、雨の中斉藤さんの車で水戸市内へ。
と中、笠間焼で有名な笠間市を通った。
斉藤さんの案内で食通・陶芸家などで有名な北大路廬山の
住んでいた家屋敷を見学する。

邸宅は江戸時代中期の庄屋の屋敷を神奈川県から移転させたもの。

庭が整備され、雨にぬれてきれいだった。


その近くに坂本久の疎開先tなった家があった。
現在保存運動が行われている。



午後6時過ぎ、水戸弁護士会所属の後藤弁護士と
司法修習生4人、火炎樹の会4人との合同懇親会を
行う。

火炎樹の会代表の横島さんと会員で今日の中学校講演会の
責任者であり同校で数学を教えている斉藤先生


火炎樹の会(JASS茨城の会)の皆さん


ラオスの「ラム酒」を飲んでもらう。パンフも渡す。

火炎樹の会の発起人の後藤弁護士(右)

午後9時27分の水戸発上野行きの特急に乗るため
タクシーで急いで水戸駅へ行くが、運休となっていた。
1時間ほど遅れ、午後10時頃の水戸→上野に乗る。

車中でバンベー39号の原稿校正を行う。

午後11時過ぎ、上野駅に到着。


東日本大震災に際して「子どもの家」のこどもたちや日本料理店の
こどもたちが28877円の寄金を集めた。
日本の価値に間残すると30万円程になる。

フエ市人民委員会とJASS共催の支援集会では120万円もの
大金が集まりました。日本の価値に換算すると1200万円に
相当する大金である。フエ市人民員会を通してハノイの
日本大使館へ。大使館から日赤へ送られた。
しかし、いまだに日赤は被災地への支援金贈呈を行っていない。
大震災発生しt既に3ヵ月近くになる。
日赤の親方日の丸、ボランティア貴族ぶりに唖然とする。

「子どもの家」のこどもたちや日本料理店のこどもたちが
集めた28877円(日本年換算30万円相当)は、直接
福島市の「福島まちづくりサークル・マルシェF 代表者
畠槙也」へ手渡し、領収書をもらった。

大手の団体への寄金は、実際に被災者に役立っていない
現状にイライラする。

投稿者 koyama : 07:04 | コメント (0)

2011年06月01日

ソロプチミスト東京ー東懇談:青少年教育の会懇談

気温が下がる。寒い。

午前中、20通のメール受信・返信。
6月4日、ベトナム「帰国」のための荷物準備。

午後12時過ぎ、自宅を出て、西台駅へ。
地下鉄が入線し、発車寸前。
急いで階段を10段ほどかけだし、10メートル程駆ける。
地下鉄に着く寸前にドアが閉まっていまう。
地下鉄は発車。

地下鉄が発車し、数秒すると頭がクラクラとし、
そのまま意識を失う。どの位の時間、倒れていたのかは
不明だが、それ程長い時間ではなかったように思う。
しばらくして気がつく。立ち上がるが、左ひじ、左ひざ、
頭を強打。
ホームを見ると誰も人がいない。

無理をして階段、プラットホームをかけたことが
失神の原因と総括する。

巣鴨ー神保町経由半蔵門線で永田町へ。

永田町の地下を出ると目の前に「ホテルニューオータニ」
が見える。


午後3時、ホテルニューオータニで国際ソロプチミスト東京ー東の
役員の皆さんと懇談。国際ソロプチミスト東京ー東は、14年前に
フエの市立病院内に障害児医療センターを設立した。
今日は、その支援金をJASSに振り込んで頂けるとのこと。

一色元会長など現在の執行部の皆さんと懇談。



午後5時過ぎ、懇談終了。

午後7時半。青少年教育の会の森田さん・加藤さん・山田さんが
自宅へ。

近くで夏のスタディーツアーの打ち合わせをする。


午後10時、打ち合わせを終了。

テレビでは、自民党と公明党、立ちあがれ日本が
菅内閣不信任案を提出したと報道している。

民主党では小沢派など民主党内で菅内閣不信任案を
めぐってホテルなどで結束の意思統一。

共産党と民主党は棄権するとのこと。

今回の大地震・津波・原発問題を通して、私たち国民は
国家というものが庶民にとっては、まったく「あてにならない」
ということを骨の髄まで体験した。

また、菅内閣不信任案をめぐって、日本の政党政治
そのものが、信用ならざる存在であることを白日のもとに
さらされた。

庶民が頑張っているのに・・・・・。

投稿者 koyama : 22:21 | コメント (0)