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2011年06月15日
「子どもの家」退所式:日本料理店会議
快晴 真夏
午前5時半起床。
午前7時朝食。「ブンボー」(フエ名物)
午前8時45分、宿舎にバオミンさんがオートバイで
迎えに来てくれる。「子どもの家」へ。
今日は「子どもの家」の二人の男子の退所式。
始めにBUN(ブン)君19歳。
フエ郊外、フエ空港付近の農家の3男。
父親が死亡し、ブン君を育てられなくなり、6年前の
2006年に「子どもの家」へ入所。
母親は農家の日雇い(田植えなどを手伝う)で一人生計を
立てていた。長兄は南部のラムドン省で電気の配線工事。
次兄は23歳。ビンズオン省で鉄の仕事。
ビン君は、フエ工業専門学校1年生。車の修理学科。
今回、母親が高齢になり「一人暮らしが「さびしい」こと、
二人の兄が自立し、母親へ送金が可能になったことなどを
勘案し、ビン君が母親と同居し、工業専門学校へ通う
ことになり、退所することとなった。
セン運営委員長の「退所への経過説明」
6年ぶりに母親と一緒に暮らせる喜びをかみしめているビン君
●母親のお礼の言葉
6年前に夫が急死し、生活ができなくなった。3人の子供が
いて生活もできず、途方にくれていた時、近所の人に
「子どもの家」を紹介され、3男のビンを入所させた。
6年間、本当にお世話になった。息子も高校を卒業させて
もらい、その上、フエ工業専門学校まで入れていただき、
本当に感謝している。日本人が運営している「子どもの家」が
なかったら私たち家族はどうなったか分からない。感謝している。
(このあたりで、母親は落涙)
その後6年たち、長男は25歳、次男は23歳、仕事もしっかり
やっている。今、私は一人で農家で生活している。台風などが
あると怖くて心配だ。ブンと一緒に生活できるようになり、
本当に安心出きるようになった。二人の兄が、生活費を送って
くれるので、自立できる。「子どもの家」に心から感謝している
●ビン君のお礼の言葉
6円間、「子どもの家」で生活できた。里親の秦カオルさんには
心から感謝している。これからは、故郷に帰り、母親と暮らす。
故郷からフエ工業専門学校へ通う。あと2年で卒業する。
2年間、頑張って勉強したい。卒業したら自動車の修理工となって
自立したい。「子どもの家」のスタッフ、JASSの皆さんに
感謝したい。
退所書類にセン委員長がサイン
ーーー
続いて ホーターロン君の退所式
ホーターロン君は1993年9月に私が最初に作った
チーラン通り「子どもの家」に入所。3歳だった。
その後、現在のグエンチャイ「子どもの家」をつくり、
ホーターロン君も転居。結局、1993年から2011年まで
18年間、3歳から21歳まで「子どもの家」で生活した
ことになる。
「子どもの家」へ入所した時は兄のホーターフォイ君と
一緒だったが、フォイ君はホーチミン市で仕事をしている。
ホーターロン君は中学校中退。その後職業訓練を行うが
どれも長続きしない。
ミシン研修 →車修理研修 →ラデン細工研修 →アルミ窓研修
→観光専門学校
今回は21才になった本人の強い希望があり、ホーチミン市に
行くことになった。友人の兄がホーチミン市でステンレスの
工場を経営している。そこで仕事をすることになった。
1年間は、研修で食事と宿舎のみ。2年後から給料が
もらえるとのこと。本人も納得している。
ホーターロン君はフエ山岳地帯になり「アールオイ地域」で
生まれた山岳少数民族出身。
今回の退所、ホーチミン市行きについて、アールオイ地域の
親戚などの了承を取っている。
退所申請書にサイン
ホーターロン君の言葉
小さい時から今日まで育ててくれて感謝している。
里親の村木さんにはお会いしていないが、
宜しく言って欲しい。ありがとうございます。
(小山)ホーチミン市は危険な都市。誘惑が多い。
大もうけをするという話に気をつけるように。
コツコツと仕事を積み上げるように。
3歳の幼児だったホーターロン君である。
18年間の付き合い。21歳になった。感無量である。
ホーチミン市での仕事、自立がうまくいくように念じている。
縁があってフエに来て18年経った。長い年月である。
ホーターロン君は、3歳で事情があって「子どもの家」に
来た。それから18年間、「子どもの家」で生活をした。
「子どもの家」のベトナム人スタッフが、お父さんであり
お母さんだ。
最近はホーターロン君のように18年間、「子どもの家」に
いたこどもたちが「自立」して行く時期になってきた。
長い間付き合って、別れるのは「寂しい」ものであるが、
「会うが別れの始め」なのだ。
いつかは、こどもたちは自立していく。そして、私の
存在も忘れていく。これは致し方のないことだ。それでも
ホーターロン君の3歳から21歳までの貴重な年月と
つき合わせてもらったことは、ありがたいことである。
私がフエに来て18年いたことは、直ぐに忘れられる
ことであり、そうして欲しい。
それでも450人以上のこどもたちが、ホーターロン君の
ように諸般の事情があって「子どもの家」に入り、生活し、
自立して行った。
私が45歳で家族を日本に置いてフエに来たことに
疑義を感じる人もいた。また、そうした批判をうけたことも
何度かある。その批判は正当なものなのかも知れない。
同時に私がフエに来たことでホーターロン君、ビン君の
ように生活の困難を乗り越えて、自分の人生の目標を
見つけ、「自立」することに向けて生きていく目標を
見つけることが出来たこどもたちも多い。
無意味なことでもないように思っている。
「子どもの家」厨房前では、こどもたちが昼食の準備中
同時に食堂では、タン君たちが「カラオケ」に興じていた。
午前11時半、昼食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)
午後12時半から1時間昼寝。真夏日が続き、体力が落ちてきている。
昼寝は絶対に必要。
午後2時から読書「無知の涙」(永山則夫著:河出書房新社)
ほぼ同じ年で、同じ時代(1968年~)を生きた永山氏の
詩や文章には、共感する部分が多い。
午後3時半、徒歩ベトナム事務所へ。
ハンさんにビン君・ロン君の退所式の写真を渡す。
午後4時から日本料理店会議
この1ヶ月半、日本料理店会議をしていなかった。
こどもたちの要求、日本料理店の問題点を
現場の視点で出してもらう。日本料理店のこどもたち、
日本語教師、バオミンさんが参加。
こどもたちから出た意見、希望
①医療保険をかけて欲しい
→回答 ベトナムでは国民皆保険制度がないので
従業員10名以下の事業所の従業員へ
医療保険をかける義務はない。
10名以上の場合は労使で保険金を
支払う。
日本料理店では民間の医療保険に
はいるしかない。来週、民間医療保険会社を
呼ぶ。保険会社の説明を聞いて、皆さんが
最適と思う医療保険に入って欲しい。
保険料は日本料理店で出す。
保険に入れば、病気になった時、本人支払いは
30%となる。
②日本料理店内の電気のコードが足りない。テーブルタップを
3つほど買って欲しい。
→ヒエウさんに40万ドンを渡し、明日3つ買うよう依頼する。
③隣りの精進料理屋と日本料理店の境の屋根の間から
水漏れがあり、日本料理店側に雨が漏ってくる。食器や
通路が大量の水で濡れてしまう。秋の雨季前に直して
欲しい
④日本料理店の食器戸棚に扉がなく、布でカバーしているが
清潔度が低い。全ての食器棚に木の扉をつけて、清潔に
して欲しい。
→来週、天井の雨漏りと食器棚に木の扉作りを行う。
責任者はソン君。
⑤昨夜、午後9時半閉店の日本料理店に午後10時過ぎまで
2人の来客がいた。接客係りのグエットさんは、9時45分位
になったら、空いた食器を取りに行くなどして、それとなく
帰ってもらうようにして欲しい。
→(グエット)私は恥ずかしくてそういうことは出来ない。
はしたない行為だ。
今後は、接客にチャンさんも出来るだけ協力する
⑥日本料理店の厨房で蟻がでる
→こどもたちは仕方がないと言っている
ーーー
最後にバオミンさんから7月20日から10月17日までの
スタディーツアーの日程を説明。
日本料理店で「貸切」で食事をする回数は、13回ある。
お客さんの年齢(若者、中年、老年・男女別)などを
しっかりと考えて、メニューを考えて出して欲しい
午後5時過ぎ日本料理店会議終了。
疲れたので宿舎へ帰り、しばらく横になる。
投稿者 koyama : 2011年06月15日 12:28