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2011年05月31日
自宅で帰国準備
晴れのち曇り。夜はかなり寒くなった。
午前中、衆議院復興特別委員会をテレビで見る。
フエの「子どもの家」に防カビペンキを塗ってくれた
自民党の「中川秀直」議員が菅首相を追求していた。
菅首相は虚ろな顔をしているように見えた。疲れか。
中川氏の「子どもの家」への支援に感謝している。
2011年05月30日
札幌空港→羽田
●2011年29日
札幌空港から羽田へ。
●2011年3月30日
台風のさなか、浦安へ。
2011年05月28日
三角山FM放送:札幌・ベトナム交流の会
日中、晴天。夕方以降雨。
昨日の恵庭市教育委員会主催の小中学校講演会の
様子が「北海道新聞」に掲載された。
ーーーー
午前中、荷物整理。
札幌市内散策。
午前中、バンベー39号のレイアウトをしてくれていた静岡の
有ヶ谷さんからレイアウトが終わり、12ページ分のバンベーが
送られてきた。
これから全ての文書に目を通し誤字脱字、全体の校正を
行う。かなりの時間とエネルギーが必要となる。
午後3時、「札幌・ベトナム交流の会」の小松さんが、ホテルへ
迎えに来てくれる。
小松さんは、元札幌のテレビ局の方。小松さんの案内で
三角山FM放送局へ。
三角山FM放送局入口にて
FM三角山放送パーソナリティーの丸山先生と
丸山先生は、放送で10数年間「斉藤喜博全集」の労働・解説
を続けている。
丸山哲秀先生との対談。
午後3時半から午後4時頃までの約30分。パーソナリティーの
丸山哲秀先生との対談。
ユー・ストリームでもテレビ中継も同時にしていた。
①私の履歴と活動の紹介
②ベトナムの今?
③3・11 大震災・福島原発
④「学力」、学ぶということの意味
こんな話をする。
30分の対談を終わり、丸山先生と記念写真
その後、札幌市立の会館「エルプラザ」へ。
午後6時から「札幌・ベトナム交流会」(代表 鹿又達男さん)
主催の講演会
中山さん(JASS札幌の会員)の司会で講演会が始まる
「札幌・ベトナム交流の会』代表の鹿又達男さんの挨拶。
参加者は約50名。
今回は4つのテーマで話をする。
それぞれ関連ビデオを上映する
①18年間のストリートチルドレン・生活困難なこどもたち支援活動経過
と到達点
②ベトナムでの「東日本大震災」支援活動
・JASS事務所・日本料理店・「子どもの家」での取り組み
・フエ市人民員会とJASS共催の「大震災支援集会」
・日本料理店の来客への支援メッセージ、寄金呼びかけ
・「子どもの家」付近のタイロク市場での募金活動
③日本とベトナムとの交流の現代史的な意義
特に3・11以後、大きき変化して世界観。
今後の世界政治の変化と「日本はアジアの一員か
欧米の一員か?」 福沢諭吉の「脱亜入欧論」の批判と
日越友好交流の大きな意義
午後8時半、私の講演を終了。会場参加者からの質問に
答える。
「ホテルの泊まるとパスポートを取りあげられるが?」
との質問。
ベトナム社会主義社会の実態と真相を具体的な事例で
説明する。
会場には、「子どもの家」のこどもたちの絵画展も
行われていた。
午後9時、講演会全体を終了。
講演会には、JASS札幌の会の小川道子代表も参加してくれた。
小川さんはご両親の介護で大変な状況。
お忙しい中、お越し頂いたとこに感謝している。
午後9時過ぎ。近くの飲み屋で反省会。9人参加。
ラオスの「ラム酒」を全員の試飲してもらい、ラオディーの
宣伝チラシを渡す。
代表の鹿又さんたちと午後11時頃まで交流。
小川道子さん・講演会場絵画展・交流会の
写真は倶知安の菊清美先生から送って頂いた写真転載
2011年05月27日
北海道恵庭市立島松小学校・恵北中学校講演会
快晴 風強し
午前5時半起床。
午前7時、コビニニで買ったパンとミルクで朝食。
午前8時25分札幌発の列車で恵庭駅へ。
駅には恵庭市教育委員会の佐藤元校長先生、寺下主査が
出迎えにきてくれていた。感謝。
恵庭市立島松小学校へ。午前9時35分から10時20分まで
5年生3クラス90人にベトナムでの活動を話す。
島松小学校5年生のこどもたちは、とても真面目に話を聞いてくれた。
話のし易い雰囲気。
こどもたちが少しでもストリートチルドレンや社会への貢献について
理解してもらえれば幸いである。
校長先生や関係する島松小学校の先生にお礼を言いたい。
島松小の校庭には「たんぽぽ」が咲いていた。
続いて、恵庭市立恵北中。午前11時から11時50分まで
3年生234人に話す。
講演会には朝日新聞、千歳民報、北海道新聞の取材があった。
その後、恵庭市社会教育課の皆さんの案内で「夢創館」(市の施設)
で行われているベトナムの「子どもの家」を支える会(JASS)の
こどもたちの「絵画展」を視察。
入口では「子どもの家」の刺繍が販売されていた。
会場入り口には、明日札幌市内行われる講演会の案内ちらし
が貼られていた。
広い会場内には、「子どもの家」のこどもたちの絵がたくさん
飾ってあった。
「子どもの家」絵画展を計画・実施して戴いた佐藤校長先生、
菊先生たちに感謝したい。
会場にはテレビで放映された番組がながれていた。
午後2位頃、恵庭市教育委員会を訪問。
恵庭市教育委員会教育部部長 寺崎先生、社会教育課長 中井先生
佐藤元校長先生たちと懇談。
その後、ホテルへ戻る。20数通のメール受信。
2011年05月26日
函館から「スーパー北斗」で小樽へ。
午前6時起床。
函館は晴れ。気温20度。
朝風呂に入り。目を覚ます。荷物の整理。
午前8時半、朝食。朝食付き4200円のビジネスホテルだが
しっかりとした和朝食が付いていた。
午前10時、函館の会の竹内事務局長がホテルへ迎えに来てくれ、
車で函館駅へ。川人代表は、病院へ。
午前10時40分函館始発の「スーパー北斗7号」で札幌へ。
札幌着午後2時。札幌から南小樽へ。午後3時着。
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車内で朝日新聞を読む。3時間ちょっとの時間があったので
朝日新聞を隅から隅まで読む。
今朝の朝日新聞には、興味のある記事がたくさん出ていた。
1面の「原発」に関する記事。
主要国の世論調査を行った結果。福島原発事故前と事故後で
「原発利用賛成」か「反対か」のアンケートの結果、
日本、ドイツ、ロシアは反対が賛成を上回った。
日本は賛成が52%→34%へ。反対が18%→42%へ。
賛成が反対を上回っている国は米、仏。拮抗が中国、韓国。
アンケート参加7カ国全てで賛成が減少し、反対が増加している。
福島原発は世界を震撼させた21世紀の歴史的な出来事で
あることが分かる。
菅首相がパリのOECD(経済協力開発機構)設立50周年記念行事
で演説。2020年代の出来るだけ早い時期に「再生可能な自然エネルギー
を発電量全体の20%に引き上げると言ったそうだ。
同時に①原子力 ②化石エネルギー ③省エネルギーへの挑戦もする
とのこと。先日の国会で原子力エネルギーも含めて「エネルギー政策全体を
ゼロベースから見直す」と言ったのは。どこのだれだったのだろう。
ゼロベースから見直すという選択肢には、「脱原発」も入っているはず
だが・・・・・。
その場限りの菅首相の場当たり発言か?
政府や国家権力そのものが、信用できないわが日本である。
朝日7面に日本経団連の米倉弘昌会長のインタヴューが掲載されていた。
今後も原子力エネルギーは必要との趣旨の発言をしている。
「原発は避けて通れない」。
「盗人猛々しい」とはこの種の人間を指すのだ。
今回の東電福島原発問題の直接の「主犯」は東電前社長の清水氏だ。
清水氏は日本経団連の副会長である。福島原発の原子炉を作ったの
東芝など日本経団連の加盟の大企業である。
日本経団連の米倉会長は偉そうなことを言う前に「我が会加盟、我が会幹部の
起こした不祥事に対して、日本経団連として心から国民にお詫びします」
というのが、日本人の礼儀である。日本経団連は、日本人・日本の若者は
礼節・道徳心がなくなったとの提言をしている。日本人の「伝統」・礼儀や礼節を
しっかりともっているのは、東日本大震災の被災者であり、「犯人」が説教をする
「説教強盗」のような日本人の礼節・道徳をもっていない人たちの集まりが、
日本経団連である。国民の説教をする前に自らの立場を理解すべきである。
米倉会長の記事の下には、被災3県失業者11万人との見出しが出ている。
8面が面白い。
経済産業省の資源エネルギー庁が新聞の1面を買い切り、「温暖化を防ぎ。エネルギー自給率を上げるために」との広告を出している。
内容は「太陽・水・風・生物・地熱など資源が枯渇しない新エネルギー」を開発、普及しようと国民を「啓蒙」している。
OECDで語った菅首相の「原子力も含めて」との発言と整合性はあるのか?
12面は社説
政府は福島第1原発の事故調査・検証委員会を作る。しかし、資料の強制提出などの権限がない。「原子力村」の面々が協力するのか?と疑義を呈している。その通りだ。私見だが、今までの原子力安全神話に反対していた研究者(京大の小出助教・・・)などを委員に入れて、検証しなければ、「想定外」の出来事で検証が終わってしまう可能性がある。3・11の後、テレビに出ていた「専門家」なる東大をはじめとした教授等の肩書ばかり立派な「専門家」がどれだけ、ウソをつき、見当はずれな解説をしていたかを国民は知ってしまった。こうした「肩書」ばかりの連中が集まっても真っ当な検証は出来ない。哲学のない人々である。
13面は読みごたえのある記事である。
作家の高橋源太郎氏が「非正規の思考 原発もテロも広く遠く」
との表題で簡単なエッセーを書いている。原発問題で自責の気持ちが
ある。それは、これから生まれる日本の若者への自責の気持ちだ。
「たとえば、原発問題を心の中で気にかけていたのに、結局、何もしなかった。
そのツケはもっと若い誰かに回されるのだ」。
加藤典洋は「死神に突き飛ばされる」(一冊の本5月号)で
「今回の件を受けて、自分の場所で全てを根底的に考えることを責務としたい、
全て自分の頭で考える。アマチュアの、下手の横好きに似たやり方だが、
いわゆる正規の思想、専門家のやり方をチェックするには、こうしたアマチュアの
関心、非正規の思考態度以外にはない」と言っている。同感だ。
高橋源一郎は、河野太郎・孫正義氏を取りあげた「世界(6月号)」を紹介し、
河野・孫の両氏が原子力発電が危険であるというより、コストが高く、未来のない
産業なので反対していると紹介している。
2011年05月25日
羽田→函館
東京・函館 快晴
午前中、20数通のメール受信への返信。
4日間の北海道講演会旅行の荷物等の最終準備。
午前10時半に自宅を出て羽田空港へ。
久しぶりに羽田空港を使ったが、国際線と国内線の
地下鉄ホームが違っていた。
午後2時すぎ、羽田発函館行きのエヤードゥー機で
函館に行く。
午後4時函館空港着。気温13度。すごく寒い。
空港内には、新撰組の土方歳三と石川啄木の写真があった。
JASS函館の会代表の川人先生が空港まで迎えに
来てくれる。感謝。
JASS函館の会代表の川人先生は、先だって「脳梗塞」で
倒れ、リハビリ療養中だった。
今回の函館訪問の目的は川人先生のお見舞いと新事務局長の
竹内さんとお会いし、今後の函館の会の進め方などを打ち合わせする
ことである。
川人さんは、旺盛なリハビリで日常生活をすることができるように
なったとのこと。
川人先生の車で函館駅近くのビジネスホテルへ。
しばらくホテルで休息。
午後5時半。川人先生がホテルまで迎えに来てくれる。
夜景の素晴らしい函館山
函館山を背景に
函館山を背景にJASS函館代表川人先生
午後六時、新事務局長の竹内さんと川人先生(代表)と懇談。
ラオス「ラオディー」のラム酒を試飲してもらう。
新JASS函館の事務局長の竹内さん
午後九時過ぎまで、今後のJASS函館の活動などについて
懇談。
午後10時、川人先生の車でホテルへ。
20通のメール受信。返信。
2011年05月24日
神戸フェリシモ本社へ
雨
午前8時に自宅を出て、東京駅へ。
東京駅から新幹線で新神戸へ。新幹線乗車時間3時間。
自宅から新神戸まで4時間。
午後12時半、新神戸駅着。タクシーで神戸・三宮にある通販
「フェリシモ」本社のある「朝日ビル」へ。
フェリシモは朝日ビルの7フロアーを借りている。
フェリシモ21階から神戸を眺める
1995年にあった「阪神大震災」ではかなりの被害があったとのこと。
現在は復興しているように見えた。
今日は、通販「フェリシモ」の雑誌にJASSや私の特集を載せる
とのことでの取材。
フェリシモのスタッフとカメラマン、編集専門会社のスタッフ
と懇談。
午後4時までインタビュー・話し合い
フェリシモという会社が大きく伸びている理由が分かる。
ボランティアや貧しい人、困ったいる人たちに「共感」の
気持ちを一人一人の社員がもっている。こうした会社は
伸びるように思う。
インタヴュー終了後、ラオスのラム酒会社「ラオディー」
のラム酒を皆さんに一口ずつ飲んでもらう。
ラオディーの「アグリコールラム酒」の甘い香りと味を体感して
もらう。
小瓶(ポケットサイズ)1本 1500円。本当においしい。
試しに飲んでみる価値は200%以上ある。
ご希望の方は、東京 03-3830-4466へ電話で注文可能
このラム酒を製造しているラオス・ラオディー社は、
高校時代3年間同級生だった與芝君・富田君・清水君の3人が
退職してラオスに作ったラム酒会社・工場である。
JASSベトナム事務所は、このラム酒のベトナムにおける
総代理店となっている。
午後4時過ぎ、全てのインタビューを終わり、帰ろうとすると
フェリシモの打ち合わ室に「マルタカ」の直井社長がいた。
挨拶をする。
新神戸駅から3時間、午後8時半過ぎに東京駅着。
車中で読書が進む
「国民の天皇 戦後日本の民主主義と天皇制」(ケネス・ルオフ)
岩波書店
昭和天皇だけでなく今の天皇も事実上の「政治活動」を
行っていることを具体的事例で示している。
午後9時半、自宅着
明日から北海道での講演会。その準備をする。
2011年05月23日
ピースインツアーで打ち合わせ
曇り・雨
午前中、ラオス「ラム酒」関係の仕事で高校同級生のA君と
西台駅前で会う。
今後のラオディー「ラム酒」のベトナムでの販売について
助言をもらう。ありがたい。
その後、6月4日にフエへ帰るにあたって4ヵ月程必要な
品物を買いそろえる。蚊取り液体・・・・・・・。
午前11時過ぎ、自宅を出て、西台→巣鴨→高田の馬場→早稲田。
ピースインツアー本社へ行く。
午後1時から3時間程、フエでのスタディーツアーなどについての
今後の方向・方針などを話し合う。
午後4時過ぎ、早稲田を出て帰宅。
途中巣鴨でフエで読む本を10冊程を買う。
17通のメール受信。
読書「国民の天皇ー戦後日本の民主主義と」天皇制」
(ケネス・ルオフ著:岩波書店)
500ページの本だが、ちょこちょこと半分ほど読む。
非常に勉強になる。今までもやもやとしていた天皇制
の問題、昭和天皇の戦争責任問題等が理論的に整理
された。
2011年05月22日
江戸川区葛西フリーマーケット
快晴後曇り、午後雨。
午前7時半、自宅を出て都営三田線で大手町。
東西線に乗り換え、葛西へ。
午前8時45分、葛西駅着。
午前9時15分、JASS東京の皆さんが葛西駅に到着。
皆さんで歩いてフリーマーケット会場への公園へ。
昼頃には気温30度近くになる。
午前中を中心にたくさんのお客さんが来る。
JASS東京代表の松下さんを中心のたくさんの会員が
フリーマーケットに参加してくれた。感謝。
公園には広島・長崎で被爆し亡くなった方々を慰霊し、
丸木位里・俊夫妻が制作した石碑があた。
昨年、地球の歩き方スタディーツアーで「子どもの家」を
訪問されたAさんが名古屋から参加。
午後2時すぎ、活動を終了。本日のフリーマーケットの責任者
であるNさんが本日の売り上げを集計。20040円。
皆さん、本当に御苦労さま。
午後2時半頃、雨が降ってきた。
参加者有志でお茶を飲む
今日は結構長時間立っていたので疲れた。
午後5時前、自宅着。
2011年05月21日
北海道行き荷物等準備・土井・富岡先生誕生会
快晴 暑い
5月25日からの北海道講演会ツアーの荷物、持ち物等
の準備。
講演会の内容を整理する。
多数のメール受信・返信。
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ベトナム事務所の土井先生・富岡先生の誕生会
5月21日は富岡先生の、5月22日は土井先生の誕生日です。
ベトナム事務所では今日、2人の誕生会をしました。
富岡先生は21才になりました。今年の目標は、
「日本語の授業も少しずつ自分のやりたいことができるようになったので、
これからもよりよい授業を生徒に提供できるように頑張ります。
(そして、ベトナムでいい人を見つけたいです。)」
土井先生は明日、23才になります。今年の目標は、
「帰国までの残り2ヵ月も、思い出をたくさん作りたいです。
日本に帰ったら、フエでの体験をもとに、最後の大学生活を充実したものにしたいです。」
事務所員全員でケーキを食べながら、2人の誕生日を祝いました。
富岡先生と土井先生にはそれぞれに、充実した1年を過ごしてもらいたいです。
フオン先生から土井先生へ色紙の贈呈
誕生ケーキ
ーー
アンさんから富岡先生に色紙の贈呈
誕生ケーキ
2011年05月20日
通院
快晴 少し蒸し暑い
ベトナム・フエに住んで18年。暑さと停電、黴菌・多少汚い
などということには、慢性になっている。
午前9時、自宅得を出て「都庁前」下車。山手線も地下鉄も
節電で蛍光灯が半部位消えている。良いことだ。通行には
全く問題ない。
エスカレーターもほとんど止まっている。都庁前などは、かなり
長い階段がいくつかある。徒歩。体に良い。
長い階段を登り終えて、上に出た時、「眼の前が赤・黄色・・・」
などの色がキラキラ見えて、立っていられず、その場にうずくまる。
「めまい」というやつだ。
今日は「立ちくらみ」を3回ほど経験した。やはり少し体調が悪い。
心臓の病院へ。1ヵ月分程度しか薬が出ない。この薬が
ないと「高血圧」と「血液の濃度が高くなり」脳溢血、脳梗塞、
狭心症・心筋梗塞などになる可能性がある。命の綱の薬でもある。
6月4日、フエに帰るが、その後4ヵ月ほどフエに滞在する。
1ヵ月分では、薬が不足する。薬だけもらいに行く。
それでも今回のベトナム帰国は薬が途中で切れてしまう。
薬中毒の患者のようだ。
午後2時までには全て終わる。
「京滋YOUの会」からの入金を銀行で確認する。
午後3時過ぎ自宅着。直ぐに横になり休む。
10数通のメール受信。
2時間ほどかけて返信。
夜、水戸の後藤弁護士にメール。
安井弁護士と電話で話をする。
5月29日からの北海道講演会(3回)の内容を精査する。
6月2日、茨城県桜川市の中学校での講演会内容を確認。
6月3日、大東文化大講演会の内容を書き換える。
2011年05月19日
静岡市国際課長・課員の方々と懇談・ラオスのラム酒関係
快晴 気温30度近く。
汗をかくような気温。
東京平河町にある「日本都市センター会館」へ。
永田町で降り、国会の直ぐ近く。砂防会館の前にある。
日本都市センター会館には、政令指定都市をはじめ
日本の主な都市の「東京事務所」がある。
9階には、静岡市の東京事務所がある。
午前10時、9階の静岡市東京事務所へ。
静岡市東京事務所長の西ヶ谷さんに挨拶。
静岡市の国際課長が新しい方になった。機会があって東京で
会議あるとのことで、静岡市東京事務所でお会いし、
今後のフエ市と静岡市との「友好都市」としての交流、
活動について打ちわせをする。
静岡市は統一地方選挙で小嶋市長が引退し、新市長と
なる。
新国際課長の落合さん、国際課の山本さんと2時間程
話し合う。
12時前に懇談を終わり、退席。
せっかく永田町に来たので羊羹(ようかん)の『とらや』
の本店である赤坂店に行く。
先日、内田征子さんから「とらやの羊羹で本店の赤坂店
にしかない羊羹がある。羊羹の中に「虎」の模様が
描かれている』との話を聞き、興味をもつ。
日本都市センター会館から永田町を得て、赤坂見附を
通り、昭和通りを登るとしばらくすると「とらや本店」が
あった。
中に入り各種羊羹を見る。「千里の風」という名前の
羊羹が「虎の模様が羊羹の中に描かれていた」。
いくつか買う。
その足で半蔵門線経由で巣鴨へ。
巣鴨の喫茶店で高校の同級生の富田君に会う。
富田君はラオスで「ラム酒」を作っている。
現在、日本に帰国し「ラム酒販売」の仕事をしている。
2時間程「ラオス ラオディー社」のラム酒をベトナムで
どう販売するかの打ち合わせを行う。
16歳から18歳までの3年間同じクラスだった。
夕方自宅へ帰る。14通のメールあり。
2011年05月18日
30年近く前に同僚だった皆さんと交流会
快晴
午前中、講演会の準備。
10数通のメール受信・返信。
午後3時自宅を出て新宿東口へ。
紀伊国屋書店で「「ホーチミンルート従軍記ーある医師のベ
トナム戦争 1965ー1973」(レ・カオ・ダイ 岩波書店)
紀伊国屋のカウンターで聞くが置いてないという。2009年発行。
倉庫に有るかもし知れないとのことで店員さんが倉庫まで行って
探してくれる。1冊だけあった。
著者とは1990年代の終わり頃、フエにお呼びし、お会いした
ことがある。
午後5時、28年前に同じ職場やその周りで一緒に仕事を
した仲間と久しぶりに「同窓会」。
大半の方は既に退職し悠々自適の生活。
皆さん、元気溌剌。
3時間程、交流。何人かの人はJASS里親や会員に
なってくれている。有りがたいことだ。
午後10時頃帰宅。15通のメール受信
2011年05月17日
講演会用ビデオ編集
晴れのち曇り。風強し
終日、講演会用のビデオを編集。
・ストリートチルドレンを見つける場面
・「子どもの家」の生活
・「子どもの家」の各種研修センター
・JASSベトナムの東日本大震災支援活動の様子
午後は15通のメール受信。それぞれに時間を
かけて返信する。
北海道の講演会に行くための飛行機の切符を
取る。
今回は羽田→函館→札幌ー恵庭ー札幌と回る予定。
恵庭市教育委員会主催の講演会で恵庭市の
小学校、中学校での講演会。
札幌市内で「札幌・ベトナムの会」発足総会での
講演会。
函館の会代表と事務局長の方との懇談・打ち合わせ。
各講演会の内容を検討し、まとめる。
夕方、九州のFさんから電話。教育の問題なとを
話す。
2011年05月16日
内田さんたちと懇談
快晴
午前中、講演会の内容準備。
メール送受信
午後1時。新宿で内田さんたちと懇談。
夏の「子どもの家」の恒例行事である
「象の滝」「ベーベキュー大会」などの打ち合わせ。
5月22日、葛西で行われる「フリーマケット」参加等の
打ち合わせなど
日時:2011/5/22(日)10:00-15:00(9:00受付開始)
場所:滝野公園(江戸川区中葛西3-22 葛西区民館前)
※東京メトロ東西線葛西駅徒歩5分
参考URL:http://recycle-asobo.org/
午後7時帰宅。
15通のメール受信。北海道での講演会の打ち合わせその他。
2011年05月15日
バンベー39号最終編集終了
快晴 風邪が強い
午前中、バンベー編集。
午後1時から2時間程散策。
その後、引き続きバンベー39号の最終編集。
12ページの全ての原稿をチェックし、全体の語句の整合性を
調整する。
各原稿の題名を付け、文章の加除修正。
写真の整理。最終的に104枚の写真を送信。
静岡に住んでいるAさんに「レイアウト」を毎回お願いしている。
Aさんは、大変な実務の仕事を嫌な顔もしないでこなして
くれている。深謝。
途中で宇都宮のSさんが仲介し、最終印刷から仕上げまで
担当してくれている。
たった12ページのJASS機関紙ではあるが、多くの人たちの
手が入って初めて会員などに3000部程が届くようになる。
1年に2回の発行である。
午後11時。最終原稿と写真を静岡のAさんに送信し終える。
この1ヵ月程、気になりながら体調が悪く、一気に仕事を
こなすことが出来なく、いつも頭の隅にこびりついていた。
私の仕事が遅れるとレイアウト、印刷、郵送と関係者に
迷惑がかかる。
何とか編集を終え、ほっとする。
明日は、午後、人に会う予定あり。
先日行った「人間ドック」「脳ドック」の結果が郵送されてきた。
2011年05月14日
ばんべー39号編集
快晴
午前中は寝ていた。
午後、バンベー編集。
かなりのメール受信・送信。
長男が東京に仕事があって帰って来ていた。
福島原発問題について福島の実情などを
話し合う。
明日から6月4日のフエ帰国までほとんど毎日仕事等が
入っている。体調管理、講演会の準備などをきちんと
しておく必要あり。特に体調管理。
読書「戦後日本の民主主義と天皇制ー国民の天皇」
(ケネス・ルオフ 岩波書店)
アメリカ人の研究者。一歩日本人から離れた立場から
記述された天皇の歴史、明治維新後の天皇制の本質、
歴史などを知ることが出来た。
今日的な視点で見ると天皇は政治的な力を持って
いたのか?という一点に絞られる。
明治大正までの理解は美濃部達吉の「天皇機関説」が
有力だったが、国体明徴運動・紀元2600年運動など」
を通して、天皇の政治的な力を描いている。
金鵄勲章や八紘一宇など私たちがあまり聞きなれない
言葉が、1945年以前の日本で社会の中心になって
いたことに異常さを感じた。
2011年05月13日
高校クラス会のような会
快晴
午前中、バンベー編集・整理。
大体、原稿写真がそろう。
午後1時過ぎ、池袋へ。
ヤマハ楽器店へ。ベース付きアコーディアンを見に行く。
ビックカメラへ。壊れたビデオカメラの修理が終わり、もらう。
その足で根津神社へ。既に「つづじ」の時期は終わっていたが、
新緑の緑が目にしみる。
私が小学校の頃には、こんな家が我が家のまわりにたくさんあった。
根津界隈には、まだ戦前の家が残っている。
午後4時過ぎ、根津の姉の家へ。
午後6時半過ぎ、池袋へ。高校のクラス会のような会に参加。
1963年から1966年までの3年間同じクラスだった仲間だ。
知りあってから48年になる。あと2年すると知りあってから「50年記念」
となる。
男性G君がこの会の「首謀者」。
男性のI氏は、ラオスのラム酒「ラオディー」から
来ている。
女性のHさんは、私と小学校も同級生だった。
池袋の豊島区立文成小学校。
今晩の会で一番「元気」が良かったのは、後ろで立っている
ラオス「ラム酒」のS君。何故か「トーン」が高い。
通常、この種の会でトーンが高い人は実生活では、
トーンが落ちている人なのだが・・・・。S君はどうなのだろう?
午後9時半頃、閉会。
私は来週から各種会合があり、5月末には、
北海道での講演会などが予定されているので
二次会には参加せずに帰宅。
長男が帰って来ていた。
2011年05月12日
終日、バンベ編集
曇り 気温17度 寒い
バオミンさんとSKYPEでバンベ39号の件などを打ち合わせする。
この数日でバンベー編集を終え、レイアウトをしてくれる静岡の
Aさんに送信したい。
午後、3日ぶりに入浴。低温浴20分。大分、疲れが取れた。
メールがかなり送信された。返信。
上尾の★Nさんが、気仙沼へボランティア支援に行ったとのこと。
心のある人である。自分の仕事を中止しても困った人へ心を
寄せることのできる人間性を私も持ちたいものである。
2011年05月11日
東日本大震災2か月
終日雨。
まだ少し体がだるい。
今日で「東日本大震災」2ヵ月。未だに心の奥底まで
恐ろしさと虚しさを感じている。
人間の少しぐらいの知恵は、大自然の力の中では
赤子の手をひねるようなもの。
そして「政治」というものが、いかに大事なものかも知った。
人間を「レッテル」で見ている日本社会の真実を暴露した
出来事でもあった。
原子力専門家が「安全」「安全」を繰り返していた。
しかし、2ヵ月たって福島原発は一向に安定していない。
何も安全ではなかった。今日は1号機の炉心に水がなく
炉心が溶けている可能性があるとのこと。3月11日と
どこも変わっていない。未だに「非常に危険な状態」。
けして「安定していない」。安全と言っていた専門家の自己批判
のない国である。レッテルでしか人間を見ない国でも
ある。
文部省が福島県の学校の汚染された校庭の土を少し
削って少し下に埋めれば安全との指導をしている。
恐ろしい国家である。放射能汚染の実態すら公表していない
国家が汚染された校庭でこどもたちを遊ばせて「安全」
などとお墨付きを与えるなど言語道断。
バンベー39号編集。細かい作業がある。
バオミンさんから連絡。北垣父娘さんが無事、フエでの
仕事を終え帰国したとのこと。
2011年05月10日
休息
気管支炎の熱は取れ大体治った。
いくつかの仕事に手を付けたが、気力がでない。
メール送受信。
バンベ編集。
2011年05月09日
終日寝ている
風邪が続く。咳と痰、倦怠感。
薬を飲んで横になっている。本当に困ったものだ。
時間をみつけてバンベー39号の編集。
ベトナム事務所から送られてきたバンベーの原稿と写真を
整理する。メールの写真と原稿が開けないものがある。
私のインターネットの力が弱いためか?・・・
寝ながら読書「ルポ虐待 」(朝日新聞大阪本社編集局著)読了
日本の養護施設のこどもたちの状況とベトナムの「子どもの家」
のこどもたちの状況はかなり違う。
日本では親の暴力、無視、養育拒否などが主因のようだ。
家庭と地域社会がない日本の実情がバックグランドにある。
ベトナムの「子どもの家」派、養育拒否もあるが、おおくは
貧困が原因。
2011年05月08日
終日寝込む
気管支からの咳がひどく1日中寝ている。
食欲なし。
本当に困ったものだ。溜まっている仕事が進まないが
仕方がない。
バオミンさんからメール。昨夜北垣父娘が無事ダナン経由
フエへ到着とのこと。
発熱
読書「ルポ 児童虐待」朝日新聞大阪本社編集部著(朝日新聞
出版)
1日中、うつらうつらしていた。
故あって系統的に本を読んでいる。「児童虐待」の実態と
その周辺(養護施設・児童相談所・警察・学校・・・)事情を
知りたい。
菅首相が静岡県の「浜岡原発」の停止を中部電力に
要請した。当然の措置である。
しかし、どのような「思想」「展望」の中で浜岡原発を
停止したのかは分からない。菅首相は「浜岡原発」
だけが特に危険なので(大地震の発生可能性)との説明を
しているが他の原発は危なくないのか?
菅思いつき内閣である。戦略がない。組織を動かすという
経験の少ない首相をもった日本の悲劇だ。
夕方、札幌のKさんからビデオが届く。
フエの市場で東日本大震災支援の募金を
した際撮影したビデオのテープが切れてしまった。
札幌のKさんに修復をお願いした。
直ぐに修復し、ビデオをダビングして送ってくれた。
ありがたいことである。感謝。
今回の帰国で現在4つの講演会を依頼されている。
その際上映する予定。
体力が弱くなると寄生虫が原因の発疹のかゆみが出てくる。
2011年05月07日
いくつかの仕事
曇り
ベトナム事務所からのメール送受信。
日本帰国中の講演会(4回)の講演内容検討。
昨夜から喉から気管支へかけて痛くなり
気管支から咳が出る。体がだるい。
薬を飲む。
長男が東京に仕事があり家へ泊まる。
原発問題・特に福島原発の現状を聞き、話し合う。
午後10時。ホーチミン市空港にいる北垣さん父娘から
電話。ホーチミン市→ダナンの飛行機が2時間程
遅れるとのこと。ダナンへ迎えに行っているバオミンさん
に連絡して欲しいとのこと。
5月から1ヵ月程フエ空港は滑走路工事のため閉鎖。
フエへ行くには、ホーチミン市→ダナンとなる。
直ぐにバオミンさんに電話。
読書「いのちと放射能」(柳澤桂子著:筑摩書房)読了。
著者は生命科学・DNA・遺伝などの専門研究者。
チェルノブイリ事故を受けての論説を更に加筆し、
2007年に再版した。
福島原発問題などをまさに予見していた。
放射能の遺伝子に与える影響を深く研究している。
放射能は微量でも遺伝子を傷つけることがあることなど
現在の政府・東電・原子力安全委員会・保安院などの
「当面は安全」「直ちには・・・」などというまやかしを
厳しく批判する内容となっている。
特に赤ちゃん、子どもへの影響を心配している。
ヨウ素は半減期が8日間程度なので安心と当局は
言っているが、半減期が短いということは、活動が
それだけ積極的という言う意味であり、人体への
影響は大きい。
文部省が福島などの学校は1時間当たり3,8マイクロシーベルト
なら安全と言っているが、信用できない。
こどもたちを放射能に汚染されている学校に放置する
日本という国家の無責任ぶりにはあきれる。
2011年05月06日
終日、バンベー編集
曇り
ベトナム事務所から送られてきたバンベーの原稿を全て整理し
不足があるか、構成などを検討。
ベトナムから持ち帰ったデジカメ写真を整理。
巻頭1ページ、2ページの編集を行う。
午後まで仕事をする。
午後3時、散歩を兼ねて高島平団地まで。往復1時間半。
バオミンさんとSKYPEで1時間程話をする。
世界歴史都市連盟理事国会議の内容など。
ベトナム事務所の皆さんは協力して仕事をしているとのウこと。
バオミンさんに任せておけば安心していられる。ありがたいことだ。
昨夜、午前3時に目が覚めた。
高島平団地商店街の中にある小さな本屋を覗いてみた。
「それは密告から始まった 校長VS東京都教育委員会」
(土肥信雄著:七つ森書館)
著者は元都立三鷹高校校長。
土肥校長のモットーは「基本的人権の尊重、平和主義」
だと言っている。
君が代、日の丸も東京都教育委員会のいうように
実施しているのだが、全教員個別に職務命令を文書
で出すよう指示。
土肥校長は包括的職務命令を口頭でだした。
このことが、都教委の逆鱗に触れ、退職後の
再雇用を拒否されるという「懲罰」を食らった。
土肥校長は、都教委を相手に裁判を行っている。
土肥元校長の基本的な姿勢は、学校は子ども中心の
はず。子どもを度外視し、教育長から上意下達方式で
事務官・官僚的な学校運営は、憲法、教育基本法(旧)
に違反するとの立場。
東京都教育委員会が都立高校の校長に対して、
なんでも下僕のように言うことを聞かせようと
恫喝し、脅迫しとひどい態度で臨んでいことが裁判の
中で明らかになってきている。
2009年6月4日に裁判提訴。現在も係争中であるが、
裁判の中でこどもたち、保護者から都立三鷹高校の
土肥校長先生がどれだけ教育者としてこどもたちに
慕われ、尊敬されていたかという多数の証言が出されている。
午後10時、北垣さんから電話。
2011年05月05日
必要ないくつかの仕事をする
終日、自宅。
バンベー39号の編集。
高島平団地まで散策。つつじがきれい。
メールの受信・送信。
次男と電話。
夜、北垣さんから電話。5月7日からのフエ訪問の打ち合わせ。
2011年05月04日
バンベー39号編集:孫と遊ぶ
快晴
午前10時過ぎ、次男の家へ。嫁さんは仕事。次男が
1、5歳、4歳の男児の面倒を見ていた。
しばらくぶりで孫に会ったが、成長していた。身のこなしも
しっかりとしてきた。次男は私の同年齢の頃の写真と
顔がそっくりだった。良いことなのか悪いことなのか?
次男としばらく懇談。
昼食を摂りに行く。つけそば。
その後、上野の根津の姉の家へ。
根津神社の前なので多くの人が根津神社のつつじ」
を見に繰り出していた。
諸問題について話し合う。
午後5時過ぎ、根津を出て帰宅。
連休中ではあるが、色々と仕事は多い。
夜、バンベー(JASS機関紙)39号の編集を行う。
根気とエネルギーがいる仕事だ。(目が疲れる)
夜中、読書
『昭和天皇・マッカーサー会見」(豊下楢彦著:岩波現代新書)
を読了。
本書は「岩波新書」創刊60周年記念の年に岩波新書ベスト
60冊に選ばれている労作。
2000年代の終わり頃に結晶した労作だが、近代日本、
特に戦後政治史だけでなく、戦後史の中で一種の
タブーとなっていた天皇の「政治活動」について、学術的に
解明し今日の日米安保体制の礎を作った一人が昭和天皇
だったことを証明している。
1945年8月「終戦の詔勅」を出して戦争を終結させた昭和天皇が
何故、1941年の「開戦の詔勅」を出したのか?
戦争を終わらせることは天皇が行ったが、始めたのは
開戦を拒否できない状況の中で仕方がなく行った
と言われていたことが、本書を読むとそれが間違った
史実であり、天皇は開戦も終戦も行う力を持っていたことが
事実関係を提示しながら証明している。
戦争責任を回避するため、東条英機首相責任論を
主張してのも昭和天皇だったことが、資料から明らかに
されている。
本書末で著者は現在の天皇と昭和天皇とでは、
憲法についての認識は全く違うと言っている。
2011年05月03日
北垣さんと懇談
憲法記念日
午前中、メール受信・送信。
バンベー39号編集。
午後1時、池袋で太平観光北垣会長と懇談。
夕方、帰宅。
『昭和天皇・マッカーサー会見」(豊下楢彦著:岩波現代新書)
非常に興味のある内容。
最近の研究の成果が書かれている。
昭和天皇が、新憲法下で吉田首相の路線にも反する
外交を極秘裏にアメリカと行い、現在の日米安保、
米軍の日本駐留ー全土基地方式、沖縄への基地の集中などの
原型を作っている。
吉田首相は1951年の講和条約締結後に日本に
米軍基地を置くことには、必ずも賛成していなかった。
そうした姿勢で対米交渉を行っていた。
昭和天皇の憲法違反の対米外交の基礎は、
朝鮮戦争で米軍が押され、そのままだと日本が
北朝鮮・中国に占領されたり、国内の共産勢力の
革命がおこり、天皇制が廃止されるとの危機感が
昭和天皇の憲法違反の外交活動へと導いていったと
分析されている。これも歴史野事実である。
学者は一切のタブーに挑戦あする社会的な義務がある。
今回の原発問題を見ると「原発推進」派の「学者」
が無比批判に「安全・安全」を繰り返していた。
学者個人的に「冷や飯」を食っても真実を社会へ
発信する義務を負っている。甘い汁と蜜に癒着
している多くの原子力学者の精神的腐敗を憂うる。
2011年05月02日
休息
杉花粉症
疲れが出た。午前中は寝ていた。
終日休息する予定だったが、
バンベー39号の編集の仕事があり、半日はバンベー編集に
費やす。
まだ、30%程度しか終わっていない。
福島の長男と連絡。福島の地震と津波・原発問題の
現状と問題点についての「現地報告会」等の日程を
聞く。5月に東大・国士館大などで福島の現地の実情
報告をするとのこと。
夜、パキスタンにいたビンラディンが米軍によって
殺害され、海に流されたとのこと(水葬)
ホワイトハウス前には、大喜びに米国市民が繰り出していた。
少し違和感を感じた。
2001年9月11日の復讐を果たしたと言っていた。
ビンラィンはあくまで容疑者である。裁判なしに殺害する
ことが許されるのなら、世界中が無法状態になる。
このアメリカの理屈でいけばイラクの人々は、侵略する
何らの理屈がなかったブッシュ(息子)のイラク侵略で
何人の同胞が殺されたか?
大量破壊兵器はある、アルカイダをかくまっているなどの
理由でブッシュはイラクへ無法に侵略し、多数の無辜の
市民を殺害した。(しかし、そうした容疑の事実はなかった)
9・11を上回るイラク市民が米軍などに
殺害されている。
イラクの人たちもブッシュ前大統領を逮捕・裁判をもせずに
殺害することが出来るのか?
アメリカならなんでもやってよいという理屈は、通じない。
2011年05月01日
新大阪→東京→根津
新大阪は朝、雨。
東京根津は、夕方、雨
フエの風土病である寄生虫原因の湿疹が頭から
体中にでる。痒くて仕方がない。体もだるい。
午前9時半、新大阪駅。駅構内ので「きつねうどん」。
おつゆの色が薄いが、だしが効いて美味しい。値段も安い。
午前10時、新大阪を出て東京へ。午後12時33分着。
車内で『昭和天皇・マッカーサー会見」(豊下楢彦著:岩波現代新書)
敗戦後の1945年9月から1950年までの間に天皇はGHQの
カッカーサーと11回会談している。その会談で何が話されたのか?
が資料をもとに詳述されている。昭和天皇が、極東軍事裁判に
訴追されないようマッカーサーに「東条首相が言ったことを追認した
だけ」との趣旨を繰り返し訴えている。
その後、訴追されないことが分かると、1951年のサンフランシスコ
講和条約の内容について、昭和天皇はマッカーサーに質問し、
共産主義の侵略に備え、米軍の日本への駐留を要請している。
当時、首相の吉田茂とその事実上の特使である白洲次郎は
アメリカの国務長官に米軍の日本からの撤退を主張しようと
している時だ会った。
本書を読むと、戦後の「平和憲法」が出来、天皇が象徴となり
国政についての権限を失い、憲法に規定された国事行為を
行うことになっていたまさにその時、昭和天皇は吉田政府を
越えて、占領軍総司令官のマッカーサと私的外交活動を
していたことが分かる。憲法違反の越権行為を繰り返し
行っていたことが分かる。
こうした事実を日本のマスコミは報道していない。
本書は一読の価値がある。
午後1時過ぎ、根津の姉の家へ。
久しぶりで姉家族と懇談。
姉の娘夫妻と姉夫婦と夕方まで色々なことを話し合う。
姉と娘夫妻
10階の部屋の窓からは目の前に東大が見える。
姉夫妻・娘と