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2011年04月30日
京都で活動
快晴 風邪が強い
杉花粉症が発症し洟水、目のかゆみ
朝、磐田→浜松→京都へ。
午後12時48分京都駅着。
京都駅付近の喫茶店で近畿日本ツーリストスタッフの
方とフエスタディーツアーについての打ち合わせ。
夕方、河岸を変えて、京都駅付近の日本料理店で夕食を
摂りながら引き続き教職員のスタディーツアーについての
意見交換。
京都市内に今夜の宿泊ホテルを事前に探したが、どこも
満室。東日本震災の影響か? 連休は、西で過ごそうとして
いるのか?
東京で新大阪駅付近の安ビジネスネスホテル(1泊4500円)
をインターネットで予約しておいた。
京都駅から京都線新快速で30分弱。新大阪駅着。
午後10時半。
ホテル着午後11時前。
2011年04月29日
静岡県磐田市へ
終日、静岡県磐田市での法事に参加
2011年04月28日
心臓病院通院:母親入院お見舞い
快晴 かなり気温が高くなった。
午前9時自宅を出て、地下鉄で都庁前へ。
心臓病院の検診。心電図。既に10年以上お付き合いしている
先生の診療。血圧降下剤のレベルアップの話などをしたが
昨日の総合健診の結果を見て、今後の方針を考えることに
なった。
その後自宅へ帰り、多数のメール受信、送信。
午後4時半、自宅を出て、都営地下鉄板橋区役所で降り、
母親の入院している 東京都健康長寿医療センター病院へ
お見舞いと様子を見に姉と行く。
病院へ行く途中「つつじ」がきれいに咲いていた。
母親は敗血症になり、かなり衰弱が進んでいた。
今年98歳。明治45年、大正元年(1912年生まれ)
東京神田で関東大震災を体験(12歳)している。
40分ほど病室にいたが終始眠っていた。
体中に各種「管」が張り巡らされていた。
母親は12人兄弟の9番目。父親は江戸時代生まれ。
..父親は寺子屋の先生をしていた。
なかなか気丈な母親ではある。
戦時中は中国で生活し敗戦。父親は復員。
母親と兄と姉は中国から「引き上げ」。
1945年12月、兄が中国からの引き上げの途中で
肺炎で急死(5歳)。姉(2歳)を連れて日本へ帰り
苦労をして今日まで生きてきている。
既にアルツハイマーを発症し、誰が誰だか分からない。
長生きすることを祈る。苦しまないように。
明日からの静岡県磐田市→京都行きの荷物と
持ち物の整理。
2011年04月27日
人間ドック・脳ドックへ
快晴
昨日から風が強い。杉花粉が相当飛散。
鼻が詰まり、目が異常に痒い。
人間ドックは朝食抜き、飲み物も禁止。
午前7時過ぎ人間ドックの病院へ。
午前8時半、人間ドック開始。
体重測定から始まり、採血、エコー、心電図、
聴音、視力、眼底検査、呼気検査、
前立腺エコー、バリュームの胃の検査その他。
午後1時過ぎ終了。かなり疲れる。
最後に医師と面談。今日結果が出た範囲で
異常箇所などを教えてくれる。
脂肪肝、肺気腫の疑い。
最終結果は3週間後。
ベトナム事務所などからメール受信。返信。
京都泊のホテルを探すが満室。
新大阪に泊まることにする。
2011年04月26日
池袋へ
午前9時起床。何故か疲れて起きられず。
フエで行った「東日本大震災」救援募金運動をビデオで撮影した。
日本で行う各種講演会で上映する予定だったが、ビデオカメラが
故障し、ビデオテープが取りだせなくなった。
今年の1月、同じ場所が故障し池袋のビックカメラに行き直して
もらったが、15000円かかった。直したビデオカメラをフエに
持ち帰ったが一度も使わず、震災支援活動で始めた使ったが
壊れてしまった。
ビックカメラに苦情を言い、前回の修理が不完全なものだったので
無料で再修理するように話し、そうなる。
ブラウンのシェーバー(フエにある)の刃と網を買う。
昨日風が強かった。既に「杉花粉」は終わっていたと思ったのが
甘かった。
今日は「洟ズル」「眼カユ」状態。杉花粉症が発症。
午後1時帰宅。
疲れたので1時間ほど昼寝。
テレビで衆議院予算委員会の「震災集中審議」を
見る。自民党・公明党の追及は甘い。
被災者の困難な状況の追及はかなりあったが、今回の
問題の本質である「原発安全神話」を作り、国策として
原発政策を実施したことが真野原因なのだが、
自民・公明党は東電と一体となり、原発安全神話を
基調として「原発推進」政策を取ってきた。
質問に迫力がないのは、そのせいだ。
日本共産党の吉井議員の追及は、何年も前の
国会審議で原発に津波が来た場合の冷却電源の
破壊、大きな津波が来た場合の対策などを追求した
事を具体的に示し、政府の回答が「安産」「安産」だった
ことの誤りを追求していた。
東電清水社長は誤りはなかったとしていたが、
菅首相は結果的に間違っていたと返答していた。
社民党の阿部氏は、瓦礫の撤去の危険性(アスベスト・・)
などを追及していた。
明朝から人間ドックに入る。各種調査票に必要事項を
記入するのだが、調査票を作った人が「記入する人の
立場」に立っていないので、記入できない項目はいくつも
ある。全部訂正する。
ホリエモンの収監が確定した。
新自由主義のあだ花。真犯人は、小泉氏と竹中氏だ。
午後7時以降の飲食を禁止されている。
今日1日でメール10数通を受信。
2011年04月25日
自宅で休息
午前中から午後2時すぎまで長男と国内情勢、地震・
福島原発などについて話し合う。
バオミンさんやベトナム事務所からかなりのメール受信。
バンベー39号の原稿がかなり届く。
更生。
読書「戦後を点検する」(保阪正康・半藤一利著:講談社現代新書)
2011年04月24日
日本到着
午前7時過ぎ、成田着。
午前8時過ぎ成田発のモーニングライナーで日暮里経由
で巣鴨→自宅。午前10時、自宅着。
昨夜、飛行機の隣に団塊の世代の女性3人が座った。
飛行機が飛び始めてから午前3時位まで「ずうっと」
話し続けていた。海外旅行にどれ位行ったか?
どこが良かったかなど・・・・・。
退職し、年金をもらい悠々自適な生活をしている様子が
窺える。
私的には、同じ位の年齢の方が、これほどまでに海外に
出て遊び歩いているのか?と感動」した次第である。
日本では東日本大震災があり、おおくの日本人が心を
痛めている。そんな中でも同席の3人の団塊世代の女性は
地震・津波・」原発の被害に苦しんでいる人々に
あまり関心がないようだ。
私にとっては、数時間3人の女性が話しまくっているその声が
うるさくて眠れなかったことは、禍であった。
自宅にえ帰り、すぐに寝る。
夕方、長男が東京で仕事があると言って家に帰って
来た。福島の原発事故の実態を色々と聞く。
おそるべき実態が進行していることに慄然とする。
読書「新版 敗戦前後の日本人」(保阪正康著:朝日文庫)
読了。
2011年04月23日
ベトナム事務所員会議:日本へ一時帰国
快晴 湿度高い
午前7時朝食。フォー。
朝食後、日本へ一時帰国のための荷物、持ち物整理。
忘れ物が多いので、日本帰国持ち帰り一覧表を1週間ほど
前から作成し、一つ一つ荷物に入れたか確認。
午前8時半徒歩ベトナム事務所へ。
午前9時、ベトナム事務所会議。
3週間ほどベトナム事務所・日本語学校などでボランティアを
してくれていた千葉県M市のIさんが帰国。
3週間、ありがとう。感謝。娘さんを送り出したご両親の決断を
称えたい。
その後、ベトナム事務所員会議
(ソン)バンベー39号の準備
飛行機の切符の予約
(原田)特進クラスをIさんに受け持ってもらった。
また、Iさんに日本料理店の手伝いもしてもらい
助かった。
バンベーの翻訳を日本風に更に直す
(富岡)フエ高等師範大学1年・2年の授業
2年生は最後の授業
JASS日本語学校の中級クラスはIさんに手伝ってもらった。
(フオン)特進クラス3 静大入試が終わり結果待ち状態
(土井)特進2は高校の試験中で日本語学校と両立が大変
特進3がIさんが授業をする
フエ高等師範大学2年生の授業
(ハン)バンベーの作成(奨学金関係)
フエ高等師範大学学長の写真
「子どもの家」のタム医師などの写真撮影
(アン)「フェリシモ」のサンプル(カゴ40個、4月28日発送)
(ミン)「フェリシモ」、マルタカとの付き合いが丁度1年となった。
うまく関係が進んでいる。
バンベー関連の原稿・写真などの作成
(小山)今日から6月4日まで日本へ帰国する。
忙しい中皆さんにご迷惑をおかけし申し訳なく思っている。
昨年が人手が足りなかったので日本帰国は2週間程度で
フエに戻ってきていた。今回は1月から体調が悪く、
疲れて仕事が出来ない、意欲がわかない、食べ物の
嗜好が変った・・・・などの変調が見られ、日本へ帰国し、
総合人間ドック、脳ドック、心臓病院へ行き、総合的な
健康診断を行う。結果は3週間後に出る。万一、問題が
あった場合は、直ぐに病院で手当てをする予定。
6月7日から「世界歴史都市連盟理事国会議」が
フエである。それまでにはどうしてもフエに戻らなければ
ならない。
人手が少ない中で日本への帰国という事態になり
申し訳ないが事情をご理解頂きたい。
午前11時、宿舎へ戻り、帰国の荷物の整理、部屋の整理をする。
1ヶ月ちょっといないとその間に部屋の衣類、ベッドなど多くの
ものがかびてしまう。
シェーバー(電気かみそり)などもかびてしまうので、冷蔵庫に
入れておく。ドアや窓の造りがいい加減なので「ほこり」がたくさん
入る。机や物がおいてあるところには、必ず布のカバーをかけなけれ
ばならない。
1ヶ月ちょっとの日本滞在中の講演会で使うビデオ、資料などを
チェックする。
バンベー39号に使う写真は私の机のパソコンに入っている。
日本で必要となった時に使えるように数百枚の写真を
USBに取り込んで日本へ持ち帰る。バンベーの編集は
日本で行う。
ベトナム事務所員会議の後、フエ高等師範大学との
打ち合わせ会議。フエ高等師範大学日本語学科の
先生2人が来訪
午前11時半、昼食。チャオ・バイン・カイン
朝食から食事をしながら読書。行儀悪し。
読書「新版 敗戦前後の日本人」(保阪正康著:朝日文庫)
今回の大震災・原発問題を通して日本国民は、政府の
行動をつぶさに見た。原発は当初から厳しい現実が政府に
突きつけられていたのだが、結局、政府は「正確な情報を
流さず、甘い甘い方向へ、そうであればよいのだが、と言った
方向への意識誘導を行い、結局、現在でも最悪の事態を
脱する事が出来ない出る。
著者は1945年6月の御前会議、その前の最高戦争指導会議
に出された「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を詳細に
分析。「基本大綱」には、二つの付属資料がつけられていた。
「国力の現状」「世界情勢判断」。
二つともこの戦争は勝てないとの客観的な分析をしている。
この資料は陸海軍の官僚がまとめたものだが、客観的事実を
数字で表している。冷静に読めば、1945年6月時点で戦争に
勝ち目はないと誰の目にも明らかだった。
しかし、指導者は「希望的観測」と「精神論」で日本必勝と
妄信していたが、首相の鈴木貫太郎など冷静な「終戦」も
模索する勢力も存在し、最終的には敗戦で戦争は終わる。
こんかいの原発問題の政府・東電と敗戦前の御前会議、
最高戦争指導会議とは、似ている。
客観的現実の資料がありながら、希望的観測、ことばの
誤魔化し(敗北を転戦・・・、直ちには危険でない・・・・)
最悪の事態に進んでいった。
午後3時、バオミンさんから電話。
ベトナム航空から電話があり、フエ発の飛行機が50分遅れる
との連絡があったとのこと。
午後4時宿舎を出てフエ空港へ。
午後6時過ぎ、フエを発つ。午後7時半ホーチミン空港着。
ホーチミン空港国際線でチェックイン。
国際線3階のレストランでシンガポールチャーハンを食べる。
その足で成田行きの待合室で午後11時45分まで待つ。
15分ほど遅れて4月24日午前0時20分ホーチミン空港を
出発。
2011年04月22日
ブライセン指導スタッフ帰国
曇り・晴れ。 蒸し暑い。頭痛と倦怠。
ベトナム事務所員も同様の症状。
朝、なかなか起床できず。
午前7時朝食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)
午前8時半、徒歩でベトナム事務所へ。
午前9時。ブライセン指導スタッフと打ち合わせ。
ブライセンベトナム支社員の勤務成績査定の打ち合わせ。
2時間ほど。一人一人の査定項目に従った査定を行う。
査定の基本は、ベトナム支社員の「やる気」を引き出し、
一人一人の隠れた能力を引き出すこと。
午前11時、査定関連の話し合いを終わる。
徒歩宿舎へ。
午前11時半。春雨麺
食事をしながら読書。
「生き方の不平等ーお互い様の社会に向けて」(白波瀬佐和子著
岩波新書)読了。
日本社会の様々な不平等を「客観的資料」を駆使して
解説する。
「我が子と他人の子」という項目に書かれていることは、
私たちがフエで行っている「子どもの家」運営の基本的
理念と合致している。
『親は子供に溢れんばかりの愛情を注ぐのは当たり前という
言い分は危険』と指摘している。
親だけではなく社会の構成員も子供たちの愛情を注ぐ社会
が必要といっている。これはある意味で「理屈」の世界。
学者の仲間内の言葉でもあるが一理あるものの、
親の愛情というものの「特殊性」もある。同時に「子どもの家」の
こどもたちも含めて、親のいないこどもたちは愛情を感じないかと
言えば、「子どもの家」のスタッフやベトナム事務所スタッフ、
近隣の人間などの愛情を感じる・・・・、が・・・・、親の愛情とは
やはり違うのだということを感じている今日この頃ではある。
こどもたちの貧困は、親の貧困と連動している。
高学歴と高収入も連動している。
こうした社会の不平等を厳しく指摘しているが、
そうした社会をどう変えていくのか?という社会変革については
記述がない。社会の不平等さを厳しく糾弾している点は、
参考になる。
親がいなくても、家が貧しくても、「こどもたちは平等に幸せに
育つべきだ』ということを主張している。
あちらこちたから資料を引っ張り出しての「不平等解説」書では
ある。
午後2時半。「フェリシモ」へ500色の色鉛筆を贈呈した
「子どもの家」・フールー小学校・トズオンロー小学校の
贈呈の様子、こどもたちの描いた絵などの写真を集め
整理する。
午後3時過ぎ、徒歩ベトナム事務所へ。
ブライセン本社の指導スタッフが帰国。
ブライセンベトナム支社でお別れの挨拶。
午後5時発のホーチミン市行きの飛行機に乗るためにフエ空港へ。
ブライセンベトナム支社員とバオミンさんで見送る
徒歩で宿舎へ。
引き続き、「フェリシモ」から贈呈された「500色の色鉛筆」の
贈呈の様子を文書や写真、絵などで「フェリシモ」本社へ
報告する。
写真25枚ほどを送信する。
かなり時間がかかる。バオミンさんや原田先生に協力
してもらう。
以下、「子どもの家」・フールー小・トゥオンロー小の
こどもたちが500色の色鉛筆で描いた絵である。
●「子どもの家」タン君(絵の題 私の故郷)
●船上生活者の子弟が多い
フールー小 3年生の男子 「絵の題 闘鶏(ニワトリの闘い)」
●ナムドン山岳地帯「カトゥー族」のこどもたちが通う
トゥオンロー小学校 5年生 女子 「絵の題 私の学校」
日本のJASS関係者にメールで連絡。
午後7時から荷物の整理。部屋の整理。
明日(4月23日)フエを出て、4月24日朝成田へ着く便で
臨時帰国。体調が悪く、総合健康診断を行うことにした。
この18年間、無理に無理を重ねて仕事をしてきた。
体に無理があったことは事実。総合健康診断(人間ドック・脳ドック・
心臓病院検診・・・)を行う。結果は3週間後に出る。問題があった
場合は手当てをする予定。
2011年04月21日
ブライセンベトナム支社員・本社指導スタッフ交流会
午前中曇り。後晴れ。湿度が高く、気分が悪い。
午前7時、朝食。ブンボー。
午前中、徒歩、ベトナム事務所へ。
日本料理店の寄せ書き。多くのお客さんの激励署名が集まった。
寄金も集まった。
午前11時半昼食。マカロニスープ
午後12時半から1時間ほど昼寝。
日本の支援者といくつかのメール送受信。
日本の講演会で使うビデオの編集。
2011年6月3日に「大東文化大学国際関係学部創立25周年
記念講演会」を行う。
大東文化大学から講演会のチラシが来た。
午後5時前、日本料理店へ。
昨日の給料日に給料が間に合わなくこどもたちに渡せなかった。
申し訳なく思っている。
こどもたち一人一人に日本料理店の給料を渡す。
給料を渡しながら毎日の生活、仕事の問題などを聞く。
在庫管理主任にチャンさん
副店長・調理主任のトゥオイさん
記録主任のヒエンさん
接客主任のグエットさん
午後6時。ブライセン本社から来られた指導員のお二人と
6人のベトナム支社員、バオミンさん・原田先生と
最後の晩餐、交流会を行う。
原田先生の司会
本社指導員Bさん
JASSベトナム運営委員長のバオミンさん
乾杯
リー君がいなくなった後、接客主任のグエットさんは
完璧な接客をしている。英語も日本語もしっかりと出き、
注文を取れる。
今日は一人一人の注文を聞いての食事会。
グエットさんは忙しい。
ブライセンベトナム支社員は「刺身」が好きだ。
午後9時、閉会。
全員写真。
厨房では土井先生とこどもたちが片付け。
日本料理店内では店の清掃
午後9時過ぎ、日本料理店の前で7人近くの若者と
リー君が路上で飲んでいたい。
再び、路上生活と同じ「行き当たりばったり」の生活に
戻っているようだ。何を考えているのか?
キャンディーズのスーちゃんが55歳で亡くなった。永遠の命。
東映映画「夢千代日記」の芸者役でいい演技をしていた。
2011年04月20日
ソン君の誕生会
朝のうち雨。日中曇り。非常に蒸し暑い。
午前7時朝食。フォー。
午前8時前、徒歩でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所の3階のブライセンベトナム支社では、
本社から来た2人の指導スタッフからプログラミングなど
の技術指導を受けていた。
午前9時。2階のベトナム事務所で「ソン君」の
19歳の誕生会を行う。
ソン君は「子どもの家」で育ち、フエ高等師範大学を
卒業。ベトナム事務所に勤務し、昨年7月には
「子どもの家」のメンさんと結婚。夏前には
長男が誕生するという幸せな日程になっている。
人生の初めは、家庭の問題があり、親と離れて
「子どもの家」で生活をしていたが、その後、里親や
JASS関係者のご支援で今日に至った。
今は、「順風満帆」の人生基調に入ったと言っても
良いのではないかと思う。
幸せな人生を歩んで欲しい。
土井先生から誕生祝いの寄せ書き贈呈
富岡先生から「パイ」の贈呈
ベトナム事務所の仕事は協力と団結が命。
10人のベトナム事務所スタッフは、団結して仕事を進めている。
いつもの誕生会は2階の会議室で懇親会を行うが今日は
ブライセンの社員面接。
JASSはベトナム事務所で懇親会。各自、好きなも飲み物を
飲みながら懇談。
フエ高等師範大学日本語学科の教育実習生
3週間ほどベトナム事務所の仕事を手伝ってくれている
千葉県在住で東京のW大学生。
静岡県磐田市出身。静岡県では美人と頭脳明晰な
人物を多く輩出することで有名な磐田市である。
私のカメラのセルフタイマーで撮影
午前11時半。昼食。 チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)
午後12時半から1時間昼寝。
その後、バンベー39号に使う写真を探す。
日本での講演会に使うビデオの準備。
関係者のメール受信・送信。
午後7時、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所の「東日本大震災」支援の署名関連の
ビデオを撮る。
日本料理店では、お寿司類が良く出る。
今日も「カッパ巻き」「にぎり寿司」などの注文があった。
午後8時頃、リー君が「遊び人風」のベトナム人若者と
日本料理店の前を通る。私や日本料理店を無視して。
何か「怪しげな方向」へ突き進んでいるリー君をそこに見た。
「破滅の方向へ」一直線に進んでいるように見えるリー君である。
今は、何を言っても聞く耳を持たないリー君でもある。
困ったものだ。何かに「取り憑かれた」リー君である。
2011年04月19日
当面の諸問題への対応
終日雨。 夕方から夜にかけて豪雨。湿度高い
午前7時朝食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)
午前8時、ベトナム事務所3階のブライセンベトナム支社へ。
本社から来たHさんたち2人とベトナム支社員との顔合わせ。
ブライセンベトナム支社員
JASSが長年支援して来たヴー君・チュン君・ホア君も
いる。
ベトナム事務所2階の会議室でバオミンさんと挨拶。
その後、バオミンさんといくつかの問題を話し合う。
ベトナム事務所から徒歩20分。いつも行く床屋へ。
床屋に入ったら、最初のベトナム事務所のあった
レロイ通りの3軒ほど隣りの小児科病院の院長が
いた。しばらく話をする。木田先生は元気か?
中村先生は? 日本の地震・津波で家族は大丈夫
だったか?などの質問と話し合い。
午前11時過ぎ、理髪終了。35000ドン。
数年前の2倍以上の値段となっている。
午前11時半、昼食。久しぶりのお米のご飯。
12時半から1時間ほど昼寝。
その後、JASS関係者などへ多数のメール送信。
日本帰国時の講演会日程の最終決定。日本でお会いする
人たちとの日程の確認・・・・・などを行う。
2011年04月18日
ブライセン本社スタッフ来訪
終日雨。気温 22度 湿度85%
今日は急に寒くなった。冬着。
午前7時朝食。ブンボー
午前8時半、徒歩、ベトナム事務所へ。バオミンさんといくつかの
件で相談・打ち合わせ
午前11時半昼食。[ベトナムの風雑炊」
午後12時半から1時間ほど昼寝。蒸し暑い。
読書「分かち合いの経済学」(神野直彦著:岩波新書)
かなり「理屈先行」の書物。こどもたちに取って
必ずしも親は必要ない。社会で育てるなどという
記述もあり、同意出来ない点もあるが、かなりの資料を
使い、日本のこどもたちの貧困問題をクリアに書いている。
午後4時、ハンさん、バオミンさんと電話で話し合う。
今日は参議院の予算委員会をテレビで見る。
小政党ほど質疑時間が少ないのだが、聞いていると
少数政党の質問の方がはっきりとし、聞いてて面白い
というのもなんだが、「面白い」。
今日は、東日本大震災の集中審議。
みんなの党の質疑者は、半分菅内閣への「色気」があり
半分批判する。批判が徹底していない。
東電清水社長は「初動対応に誤りがあったのでは?」との
追求に平然と「誤りはない」と返答。どれだけの被災者が
苦労した生活をしているのかへの想像力に欠ける。
3月11日中に「海水投入」をすれば今日の大惨事には
ならなかったのだ。
共産党はかなり厳しいがポイントを突いた質問をしていた。
東電の清水社長への批判は的確だったが、何しろ小政党
なので質問時間がない。
東電清水社長は飽くまで原発推進を言っている。
菅首相ですら「今まで通りの原発政策ではやっていけないと
思っている」と答弁しているのに。
東電清水社長は、多くの国民に大迷惑をかけている自分自身
の置かれている立場を全く理解していない。どんな社会で
生活してきたの人なのだろうか。テレビを見ていて「恥ずかし」く
なったのは私の方であった。こんな人に国民の命と生活を
握られていたのかと思うと・・・・・。
圧巻は社民党の福島党首。女性はこうした場面になると
しっかりとしている。歯切れは良いし、質問は的確。
静岡の浜岡原発の危険性についてかなり厳しく追及していた。
東電清水社長は、例の調子でピント外れの回答(これも回答戦術)
午後7時、日本料理店へ。
途中で偶然「リー君」に出会う。
(小山)今、何をしているの?
(リー君)午前9時から午後6時までは食堂の手伝い。
午後8時から午前1時までは、バーの仕事。
(小山)疲れないの?
(リー君)大丈夫
こんなやり取りをした。朝9時から午前1時まで連続の
仕事をして、その後、友だちと飲んでいるような生活を
しているようだが、長続きするわけはない。
リー君が急に「お金」に執着するようになったのは
何が動機なのか? 1日13時間も仕事をして
お金をもうけ、何に使おうというのか?
日本料理店には既に8人の来客あり。
厨房では、土井先生・富岡先生が調理の手伝いをしていた。
午後7時半、ホーチミン空港にいるブライセン本社員から電話。
出発の時刻になっても機内に入れないとのこと。
いつものことだが・・・・。
午後8時、ブライセン本社員をフエ空港へ出迎えに行く。
ブライセンベトナム社員のVU君とTHI君と一緒に。
午後8時20分、ブライセン本社員の2人がフエ空港へ到着の
予定だったが遅れる。結局、1時間遅れ午後9時半到着。
いつもの通り、時刻が『無計画』のベトナム航空である。
車で投宿するフォンザンホテルへ行く途中、ベトナム大衆食堂で
ワンタンメンなど遅い夕食を摂る。
午後10時半。フォンザンホテルへ。
午後11時、宿舎へ帰る。
2011年04月17日
フエ高等師範大学「ソバ打ち大会」
快晴 気温35度 湿度60%
午前7時起床。
部屋の掃除・・・・・・。
午前10時、電動バイクでフエ高等師範大学へ。
今日は長野県小諸市の「ソバ打ちの会」の皆さん
4人が来訪。フエ高等師範大学日本語学科学生を中心に
200人の学生にソバ打ちの過程から出来上がったソバを
食べるまでの経験を披露してくれる。
そば切りの体験
日本語教師富岡先生のお父さんのソバ打ちの実演
小諸で経営する旅館(島崎藤村の定宿)でも
ソバ打ち体験が出きる。
http://www.nakadanasou.com/
午前11時、いよいよ「蕎麦試食会」。
初めに開会式。フエ高等師範大学日本語学科学生を
中心に参加
蕎麦うち大会と「浴衣の着付け」を同時並行で行っている。
蕎麦うち大会の責任者、小諸市のTさんの挨拶。
フエ高等師範大学学長も参加
そばつゆつくりの責任者の挨拶
フエ高等師範大学長の挨拶
バオミンさんの従兄妹Nさん。
私が1993年9月1日にフエ師範大学日本語学科に
赴任した。
その頃、生徒のバオミンさんは、毎日のように私の
部屋に遊びに来ていた。その時につれてきていた
従兄妹のNさんは、2歳だった。今は、20歳。
フエ高等師範大学日本語学科2年生。
月日の流れは速いものだ。
出来たての「手打ち蕎麦」に『舌つづみ』を打つ学生の皆さん
ベトナム事務所員も日曜日でもあるにも拘わらず
全員参加してくれた。
午後12時過ぎ閉会。
宿舎に帰る。1杯の蕎麦を食べてお腹が一杯。
1時間ほど昼寝。
読書「ルポ 若者ホームレス」(飯島裕子著:ちくま新書)読了
今までホームレスのイメージは、40歳以上だった。
しかし、本書によれば現実的には20代から30代の
路上生活者が増えているという。
50代以上のホームレスの人たちとはかなり事情が違う。
家庭との絶縁も大きな理由となるが、はやり家庭の貧困、
低学歴(中卒)などもホームレスになる事情になっている。
読書「分かち合いの経済学」(神野直彦著:岩波新書)
明日の夜、ブライセンの役員の方が2人フエに来訪。
夜8時半、フエ空港へ出迎え。
フエにいるとなかなか1日中休みの日は取れない。
休みの日曜日に蕎麦うち大会に参加し手伝ってくれた
ベトナム事務所員の皆さんに感謝。
午後3時、東京の北垣さんから電話。
======
菅政権が「福島原発収束工程表」を発表した。
数日前に福島原発の実情を「レベル7」と発表した。
レベル7は、旧ソ連チェルノブイリと同等のレベルであり
危険度最高のレベルである。
放射線物質の放出量は単純に考えれば、広島型原爆を「1」と
すれば、チェルノブイリ原子力発電所事故はその400倍。
福島原発がその10分の1なので「40」となり、福島原発は
広島型原爆の40倍の放射線量の放出があるということになる。
但し、単純に数値だけで見ると広島の40倍と大きな数値だが
今回放出されている放射性物質の半減期はヨウ素131が8日、
セシウム137が30年であるのに対して原爆で使用され
ているウラン235は7億年と物質としての性質も異なるので、
単純に広島の影響と比較することは出来ないが、それでも
菅政府の原子力・安全保安院などの発表の数値を単純計算
すれば広島の原爆の40倍の放射性物質が放出されている
ことになる。
日本のマスコミは3月11日以降、経済産業省官僚の
西山審議官の発表を「鵜呑み」にして今日まで来たが、
西山氏自身は原子力の専門家でも何でもない。
経済産業省の単なるお役人である。(経済産業省大臣官房審議官
(通商政策局担当)。ある意味で「素人」とも
いえる。そうした人の発表を日本のマスコミは「鵜呑み」にして
毎日国民に無批判に報道していたことは、1945年8月15日
の前日まで「日本が必ず戦争に勝つ」と嘘の報道をしていた
日本のマスコミが、戦後66年経っても、戦前の「戦争協力」報道
の本質的な反省がないままに、今回の福島原発も「大政翼賛」
報道をしていたことがはっきりした。
今、日本のマスコミが集中して取材しようとしているのが、
西山審議官は「カツラかどうか?」というどうでも良い様な取材。
親族にまで取材が行っているとのこと。馬鹿馬鹿しいマスコミである。
そうしたマスコミの関係者は恥をするべきだ。もっとも恥を知っている
関係者は既にマスコミの世界から去っている。
政府の発表では「福島原発」は収束の方向に・・・と思わせるような
発表をしているが、今後更に汚染水が大量に発生することは
私のような素人でも想像がつく。
海に放出することがいかに危険か? 政府御用学者は
「海に放出しても希釈(きしゃく)されて、問題ない」と
テレビで繰り返し発言している。恥を知れ御用学者。
2011年04月16日
東日本大震災救援第4弾:タイロック市場にて募金活動
快晴 気温39度 湿度が高く1日中、気分が悪かった。
午前7時朝食。フォー
食後、徒歩でベトナム事務所へ。
午前8時半。ベトナム事務所員会議
今日はバオミンさんから「バンベー39号」の編集方針、
編集の手順、締め切りなどの提案。
日本語教師よりフエ高等師範大学日本語学科の
いくつかの問題について提起があり、話し合う。
その後、今日、午前10時から「子どもの家」近くの「タイロック市場」
で行う「東日本震災支援募金活動」について説明。
20代の若者と一緒に過ごすと私も元気をもらえる。
(一部男性に30代の人がいるが、女性は全員20代)
午前10時前、2台のタクシーに分乗し、「子どもの家」へ。
3月11日の「東日本大地震・津波」以来、
JASSベトナム事務所員は、心を痛めていた。日本にいない
私たちがどんな支援を出きるのか?
私たちは4つのプロジェクトを計画した。既に3つは実行した。
JASSベトナム事務所「震災支援」4大プロジェクト計画
第1弾:ベトナム事務所員・「子どもの家」・日本料理店の全スタッフ
の署名と寄金
第2弾:フエ市人民委員会とJASSで共催し、「東日本大震災
救援集会」を開催。120人の参加。120万円の寄金
第3弾:日本料理店での寄金と署名活動
第4弾:「子どもの家」付近の市場でフエ市民へ「日本の地震・津波
被災者支援」の呼びかけと寄金
午前10時、ベトナム事務所員全員が「子どもの家」へ結集。
「子どもの家」のこどもたちも昨夜募金箱を自分たちで作り
今日の「震災支援」活動の準備をしていた。
「子どもの家」には、昨年「子どもの家」を卒業し、ホーチミン市で
窓枠つくりの会社で仕事をしている「チュック君」(日本料理店の
チャンさんの弟)が遊びに来ていた。
ホーチミン市の会社から2日間「ダナン」での仕事を命じられ
ダナンヘ来たついでに「子どもの家」へ寄ったとのこと。
「子どもの家」を出て半年。チュック君はすっかり「大人」に
なっていた。社会に出ると言うことは、こどもたちを「社会の力」
で教育し、大人にして行く。
「子どもの家」のセン委員長・スタッフ、こどもたち、
ベトナム事務所員で「子どもの家」の食材などを買う
「タイロック市場」へ。
徒歩10分。タイロック市場へ到着。
フエ市人民委員会外務部員・タイロック市場責任者と挨拶。
市場の正門前で「東日本大震災被災者支援」の呼びかけを
行う。
「子どもの家」のこどもたちが募金活動にどう対応するのか?
どう行動するのか? に興味があった。
こどもたちは、躊躇(ちゅうちょ)することなく、積極的に
市場のお客さんに募金を呼びかける
チュック君と「子どもの家」に現在もいる「タン君」は
「子どもの家」でも友だちだった。
その後、訴えの場所を変え、市場の中央広場で「ハンドマイク」
を使って、日本の震災被害の実情、「子どもの家」への日本の
長年の支援などを話し、フエ市民に直接募金を訴える。
バオミンさんがベトナム語に通訳。
午前10時過ぎ。丁度フエ市民が昼食の食材を買いに来る時刻。
タイロック市場はたくさんの買い物客で溢れていた。
ベトナム事務所員・「子どもの家」スタッフ、こどもたちと
協力して、大震災の被災者への支援を訴える。
気温39度。猛暑。10分もすると体中、汗びっしょりになる。
私は時々、頭がフラフラした。
こどもたちは、突然「思いがけない行動」に出た。
日本での募金活動は、一箇所に立って「訴え」、寄金を
したい人は、訴えの場所にある「カンパ箱」に寄金を入れる
というやり方が一般的。
こどもたちは、募金箱を持って、1軒1軒のお店を訪問、
募金を訴える。こどもたちはこの種の活動に「慣れて」
いるのだろうか?
市場中央広場での訴えを終了し、市場の中をこどもたちを中心に
皆でくまなく歩き、募金を訴える。多くの市民、お店の人が
寄金をしてくれる。
「子どもの家」のこどもたちは「私たちは日本人のお世話で
生活している。今、日本人は大地震で困っている。自分たちの
出きることは応援したい。」と言っている。
雀の涙のような小さな取り組みではあるが、多くのベトナム人が
寄付してくれた。ベトナム人の気持ちのやさしさに感謝。
タイロック市場の責任者が挨拶をしてくれたが、
その後は、趣旨を理解してくれた市場の『警備員』さんが
1軒1軒のお店まで私たちを連れて行ってくれて、
お店の人に私たちを紹介してくれた。
警備員さんは私たちが「ハンドマイク」で寄金を呼びかけた
趣旨を聞いてくれていて、『その気』になり、最初から
最後まで「タイロック市場」の隅から隅まで案内し、
私たちを紹介してくれた。有難いことである。
人間の気持ちは、役職の「上下」には関係ない。
人間の言葉を発せられない日本経団連副会長である
「某電力会社の社長」(はっきり言いましょう。東電
清水社長)よりは、タイロック市場の
警備員さんの真っ当な人間性に感動した。
午前10時過ぎから午前11時過ぎまでの1時間は
フエの気温の一番高い時間でもあった。39度。
体中が汗でびしょびしょ。
募金活動を終了。総額「81万ドン」(日本円で4000円)の
寄金があった。
「子どもの家」のこどもたち、スタッフ、ベトナム事務所員の
皆さんの奮闘に心からお礼を言いたい。
今日の「東日本震災支援活動」第4弾は構想を練って
実現するまでに1ヶ月間もかかった。
中東ジャスミン革命の影響はこんな所に鮮明に出ている。
大衆の前での呼びかけ活動は基本的に出来ない現状
である。1ヶ月間かけて何とかタイロック市場での
こどもたちと一緒の寄金活動が実現した。
日本から見れば本当に小さな活動である。しかし、
こうした活動を組織するのに1ヶ月間もかかる事情が
ある国でもある。そうした中での「小さな活動」は
こどもたちやベトナム事務所員の心の中にも、
タイロック市場にのお店の人、お客さんの心にも
人間としての連帯の気持ちが伝わったのではないかと
自負している。
こうした活動の実現に協力してくれたフエ市人民委員会に
感謝したい。
午前11時45分、昼食。今日は精進料理を食べる日。
タイロック市場での活動があまりに暑かったので
食欲なし。半分ほど残す。
午後6時半、明日フエ高等師範大学で「ソバうち」をする
長野県小諸市の皆さんから招待され日本料理店で夕食会。
午後9時終了。
オーストラリア人や小諸市からこられた「ソバ打ち」グループの
皆さんも「地震・津波」激励の署名を。
午後9時半、宿舎へ帰る。
今日は、JASS静岡の会の総会があった。
2011年04月15日
諸準備・打ち合わせ
快晴 気温32度 蒸し暑い。
午前7時朝食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)
各種メールの受信・返信。
バオミンさんと「東日本大地震被災支援」の第4弾に
ついて協議。実施について様々な困難がある。
困難を打開するためのいくつかの案を出す。
読書「ルポ 若者ホームレス」(飯島裕子著:ちくま新書)
若者のホームレスは、常時路上や公園にいるのでなく
時にはインターネットカフェに時にはカプセルホテルに
泊まり、お金がなくなると路上のホームレスとなる。
実態はなかなか深刻である。家族の崩壊もその深因の
ひとつでもある。
昼食。春雨麺
午後12時半から1時間ほど昼寝。気候のせいで体がだるい。
午後3時、ベトナム事務所へ。諸活動の準備。
バオミンさんといくつかの問題で打ち合わせ
日本料理店のヒエウさんが発熱し休む。
厨房は2名となり、接客は1名。3人での日本料理店
開店。
夜、バオミンさんから電話。
いくつかの問題を協議。
東日本大震災支援の諸準備について打ち合わせ
フエ訪問スタディーツアー希望の方へ返信。
2011年04月14日
バンベー39号編集会議:フエ電気街・石屋さんへ
快晴のち曇り 気温29度 湿度70%
蒸し暑い。体がだるい。頭が痛い。ベトナム事務所員も
頭痛がすると言っている。ソン君が特に。気候のせいで
頭痛なのか某女の尻の重さで頭が痛いのか?
午前7時朝食。赤米のおかゆ
午前8時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。
バンベー39号編集会議。
バオミンさん・フーン先生・ハンさん・原田先生・小山
1ページから3ページまで「特集」をする。
各原稿の依頼分担を行う。
今までよりも更にこどもたちの現状と卒業後のこどもたち
の様子が分かるような内容にするよう各所に工夫を入れる。
ベトナム人スタッフがバンベー編集の要領をしっかり覚えて
欲しい。
●バンベー39号の発行日程
・4月25日を目処(めど)に原稿締め切り。
・ベトナム事務所で校正。
・5月1週に静岡のレイアウトをして下さる「有ヶ谷さん」へ
最終原稿と写真等、全てを送る。
・5月中にレイアウト
・6月:6月18,19,25,26日 の1日を取って発送作業
(JASS日本・東京の会が日程決定)
日本料理店での「東日本大震災」への激励の寄せ書き。
更に増えている。有難いことである。
オランダ人
カナダ人
オーストラリア人
オーストラリア人
ニュージーランド人
日本人
新しい署名用紙を用意
6月3日に行われる「大東文化大学国際関係学部創立25周年
記念講演」の日程・チラシ原案が送られてきた。今から講演の
準備。
午前11時半、昼食。マカロニスープ
午後12時半から1時間ほど昼寝。
雑誌「世界」(岩波書店)の中の『対談 「国境」を越えるためには
何が必要か』
土井香苗氏(弁護士・ヒューマンライトウオッチ日本代表)と
サヘル・ローズ(イラン出身 孤児院出身・芸能界デビュー)
の対談。
二人ともボランティアなどを通して人種の国境を越えられるかを
論じているが、実践が少なく、「理論・理屈」先行の対談となり
少しがっかりした。しかし、討論の内容は、意味のあるもの。
読書「ルポ 若者ホームレス」(飯島裕子著:ちくま新書)
帯には「20~30代を襲う無縁社会の衝撃」とある。
午後3時、徒歩でベトナム事務所へ。
バオミンさんのオートバイの後ろに乗り、フエの電気街へ。
その後、石屋へ。
午後4時半、宿舎へ。
==========
以下、新聞報道より
『蓮舫節電啓発担当相は13日の衆院内閣委員会で、東京都の石原慎太郎知事が節電のため自動販売機の不使用を求めていることに言及し、「石原氏がどういう思いで言ったのかは分からないが、節電と経済効果への支障を最小限に抑える知恵は、同時進行で取り組むべきだ」と反論した。』
『両氏は事業仕分けで廃止判定とされたスーパー堤防や、節電をめぐる花見自粛論などで対立している。
石原氏は「軒並み自販機が並んでいるバカな国は、世界中にない。便利かもしれないが自分の家で冷やせばよい」と自販機設置を強く批判している。一方、蓮舫氏は内閣委で「清涼飲料業界は主要19社で4・5兆円の売り上げがある。自販機での売り上げは1・9兆円で42%を占める。自販機をなくすのか。そこで働いている人もいる」と、石原知事の批判に反論した。』
ということのようだ。
18年間、ベトナムに住み、時々日本へ帰る。
一番違和感を感じるのは、自動販売機である。夜、我が家の近くの
都営地下鉄の駅を降りる。自宅まで5分。その間に自動販売機が
10台程度置かれている。
自動販売機は冷蔵庫でもある。一晩中電気を使っている。
欲しければせめてお店で買えばいい。
日本中の自動販売機の使う電気量は原発1基分。
世界中のどこの国へ行っても日本ほど、どこにでも自動販売機が
ある国はない。自動販売機を使い、直ぐに自分の欲望を満たせる
という社会が果たしてよい社会なのか?無駄そのものだと私的には
思っている。石原都知事の言うことは、事実である。石原都知事は
嫌いだが、自動販売機についての意見には賛成である。
例え経済が少し落ちたとしても、こうした「生き方をしている」ような
国家の生き方は国民的に考える必要がある。
冷たい飲み物、温かい缶コーヒーを飲むなとは言わない。
お店に買いに行くくらいの労力は使えるのではないか?
同時にこうした問題は、公権力を使って一方的に行うのではなく
広く啓発活動と国民の合意が必要である。
ある家庭に行きトイレを借りた。トイレのドアをあけたら、
便座のふたが自動的に開いた。トイレを出たら自動的に閉まった。
初めての経験であったが、こんなことに何の意味があるのか?
自分の手で蓋をあければ、開けられるのに・・・・・。わざわざ、
電気を使ってトイレのドアを開けたら便座の蓋が開くなどは
意味のないことだ。こんな生活を平気でしている日本社会は
少し、目を覚ますべきだ。ベトナムに18年住んで「無計画停電」
「無計画断水」「異常気象・気温40度・・」。ベトナム事務所
のインターネットが半年間送信出来ない。お金は取っている。
しかし、いくら聞いても「現在故障中」と答えるベトナムの
プロバイダー。日本がいかに便利な生活を謳歌しているかは
その日本人の一人として「便利さ」を謳歌している一人として
反省している。
今回の地震と原発問題は、私たちの日常性そのものを
改めて問い直すことを迫ってきているように思う。
蓮舫節電啓発担当相のように現状の生活をそのまま維持して
お金儲けも今まで通りしながらということが、これからも続けて
行って良いのかは、国民的な論議の素材として十分
考える意味はあると思う。3・11の地震と原発問題は、
21世紀の日本に9・11、3・11として「国民一人一人の
生き方と思想そのものの変革」を迫るものであるような気がする。
菅首相をはじめ民主党政権にそうした思想・世紀的な変革を
迫る大きな出来事が3・11だという認識がない。
「人類は自然をコントロール出きるのか?」「西欧の開発思想」
の行きつくところはどこなのか?を改めて問われているのである。
原発は技術未確立の分野だったのだが、政府(自民党の責任が
一番大きい)、東電、原子力研究者は「原発絶対安全神話」に
固執し、今日の大災害の端緒を作ったのである。
原発の恩恵は同時に私たち都会の人間も享受していたのである。
2011年04月13日
バンベー39号・日本語教師など・・・・・
快晴 気温32度 湿度45%
気温が30度程度になると体調も少しずつ回復気味。
午前7時朝食。フォー。
リー君から電話があったが、出たら切れた。何を考えているのか?
バンベー39号のバオミンさん原案について意見送付。
読書「世界」。
「原発頼みは、一炊の夢か?-福島県双葉町が陥った財政難」
(葉上太郎著)
マスコミでは、双葉町について、二つの論調があった。
一つは、双葉町「可愛そう論」。双葉町は東北電力管内。
福島原発の電気は自分たちでは一切使っていない。
東京など都会の人たちのために「犠牲」になっている
可愛そうな双葉町民論。
もう一つは、「多額の原発交付金をもらい、町財政の90%は
原発交付金。散々、交付金をもらって潤っていたのだから・・論」。
結局、両論を言うことで「都会」と「双葉町ー地方」との対立を
作っていることになる。
東電福島原発では、6000人が働いていたそうだ。
敷地内には30の関係会社が事務所を構え、そのほかに
300社の社員が作業を行っていたとのこと。
これらの多くは、地元の住民、下請け会社。1960年、
双葉町と隣りの大熊町が、東電と県に原発誘致の
陳情書を出している。1967年に1号機が着工し、その後6号機
まで建設される。
双葉町には、発電所や関連企業の「固定資産税・法人税」が
流れ込んだ。更に国の電源交付金も潤沢につぎ込まれた。
50平方キロメートルの双葉町は変貌した。
『財政力指数』が急上昇。(最低限必要なサービスが賄える
状態が、1、0)。それが満たされないと地方交付税交付団体
となる。双葉町は1965年 0、23だったものが、1980年には
財政力指数は、3、7となった。1年間の収入で3年半以上の
経費が賄える超富裕自治体となった。
しかし、固定資産税は原発の耐用年数を15年としている。
固定資産税は、原発は古くなればなるほど少なくなり
15年たつとゼロになる。その他。電源立地促進対策交付金
も5年が限度。33億円もらっていたが、5年後には終了。
1990年、双葉町は「財政力指数が1、0となり、地方交付税の
交付団体となた。
そうなった双葉町だが、。「豊かさ、贅沢さに慣れてしまい、」
隣り町にあるのだからと総合運動場を作る(40億~50億円)
が未完。17億円で保険健康施設を作る・・・・・。結局、双葉町も
原発に浮かされ、財政赤字団体に転落しているのである。
けして、原発で潤っている訳ではないとかかれていた。
双葉町は埼玉アリーナから旧県立高校に疎開している。
昨夜、お茶を飲みながら日記を書いていたが、間違って
お茶をパソコンのキーボードにこぼしてしまった。
キーボードを打ってもパソコン上に文字が出なくなった。
ソン君に頼み、新しいキーボードを買ってきてもらい、パソコン
に接続してもらう。さすがにソン君。フエ高等師範大学の
パソコン学科を卒業している。この程度のことは、朝飯前。
昼食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)
午後12時半から1時間程、昼寝。
長野県のAさんから電話。4月16日からフエに来て
フエ高等師範大学で「ソバうち大会」をする件で打ち合わせ。
バオミンさんと「JASSベトナムHP]作成の件で打ち合わせ。
その他、ベトナム事務所といくつかの問題で打ち合わせ。
午後5時から1時間、町を散歩。ほこりがひどい。
散歩は朝5時頃しか出来ないが、起きられない。
福島原発の危険度が「7レベル」になったとのこと。
テレビでは、未だに「7レベルになり、旧ソ連のチェルノブイリ
と同じだと思っている国民が多いが、チェルノブイリとは全く違う」
などと解説していた。ピンとはずれ。
もちろん、違う原発で違う状態だったから違うのは当たり前だが、
問題は、福島原発が最高位の危険度になったということを
今頃、菅内閣が公表したことだ。
こんなことは、素人の私でさえ、本能的に3月11日の全電源
が通じなくなった時点で最高の危険度に達すると思っていた。
この日記の3月12日にそのことを書いている。
今頃になって・・・・・・。
3月11日の時点で『海水投入』をすればここまでには
至らなかったのは、誰でもわかる。
3月11日・12日時点で海水投入をして損をするのは
多額の投資をした「東電」だけ。アメリカからも海水投入を
すべきとの助言を受けていたとの話もある。
東電の副社長は国の「エネルギー庁長官」の「天下り」
の指定席。経済産業省と東電は一心同体。
経済産業省の「安全保安院」が東電の手先のような
発表しか出来ないのも理由あり。安全保安院は
本来、東電の原発の安全について監視する役割り。
例えは悪いが、経済産業省安全保安院と東電は
悪徳賄賂刑事と犯人のような関係。刑事が実は、
犯人の「手先き」だったのだ。
東電の金儲けのために、原子炉の温度を急速に下げ、
レベル7までに至らない対策は取れなかった。あとで振り返って
言うのではない。東電の金儲け主義が「海水投入」=原子炉
廃棄に同意しなかったことが今日の状況の遠因である。
その東電に命令をし早急な手を打てなかった菅首相の無能も
遠因の一つ。レベル7は、人災である。
菅首相は「福島原発の10キロ・20キロ圏にいつになったら
住めるのか分からない。10年後か20年後か・・・」などと
人ごとのようなことを言っている。自らの責任は全く感じて
いないようだ。「原発安全神話」が間違った思想的根源。
3月11日からの3週間ほどの政府・東電・テレビに出る
「専門家」、テレビ番組などは、「安全」を繰り返し、
国民は動揺しないように・・・と繰り返していた。
それから1ヶ月。原子力・放射能の専門家でテレビで
「安全」「まだ大きな問題にはならない」などといっていた
学者(?)は今こそ、自己批判すべきであるが、誰も
自分の言ったことについて責任を持たない社会である。
福島原発の現状を「後追い」で話しているだけの
研究者の名に値しない人間ばかりがテレビに出ていた。
ーーーー
今年で第20回を迎える「地球環境大賞」
(主催・フジサンケイグループ)に「東京電力」が決まった
とのこと。
フジ・サンケイグループは「素晴らしい」マスコミだ。
東京電力は今回の福島原発問題で環境破壊のチャンピオン
となった。その東京電力を「第20回地球環境大賞」に
選んだのは、『ブラック・ユーモア』を十分理解しての上なの
だろう。「ほめ殺し」という奴だ。さすが、「痴的」水準の高い
フジテレビとサンケイ新聞グループだ。
フジサンケイグループの知的痴準が本当に良く分かった。
私は少なくともサンケイ新聞は買わない。馬鹿馬鹿しいから。
インターネットで記事は読むが・・・・・。
フジテレビのニュースなどで「この愚行をどう報道するのか?」
また、他局のテレビでフジサンケイグループの愚行を
報道するのか? 批判するのか? マスコミの真の姿勢が問わ
れる。
福島原発で被害を受けた日本国民だけでなく諸外国の
人々をこれほど愚弄する新聞社・マスコミもない。
フジテレビ・サンケイ新聞社長が土下座して謝罪しなければ
ならない。福島原発の「風評被害」や実際の被害で苦しんで
いる国民や外国人がどれだけいるのか?
4月5日の授賞式は延期したとのこと。
2011年04月12日
リー君と話し合い: フンヴオン祝日
快晴
今日は「空想」の初代国王であるフンヴオンの祝日。
日本で言えば神武天皇のようなもの。科学的に見て
実在はしない。
架空のフオンヴォン国王を初代国王にし、祝日にするように
なって数年たつ。ベトナム指導部としては、こうしたことを
通して国民のナショナリズム』を刺激し、国家的な統一を
作り上げようとしている。
ベトナム事務所・日本料理店・ブライセンベトナム支社とも
今日は休み。
午前7時朝食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)
急いで朝食を摂り、徒歩ベトナム事務所へ。
午前8時、バオミンさん、私でリー君と話しをあい行う。
リー君は3月29日に一方的に日本料理店を辞めてフエを出て
ホーチミン市へ行ってしまった。
3月29日の朝、私とバオミンさんでリー君のホーチミン市行きに
「注意」を喚起したが、『聞く耳を持たず』、「日本料理店は給料が
安い」の一点張りでホーチミン市へ行ってしまった。
それから2週間。リー君はフエに戻ってきた。
昨夜、1時間ほどリー君と私とで話し合ったが、入り口の
話し合い。
今日は、午前8時からバオミンさんも入れて、3人で話し合いを
した。
(小山)どうして2週間で帰ってきたの?
(リー君)ホーチミン市は寂しかった。友だちもいない。
(小山)どうしてホーチミン市に行ったの?
3月29日の朝の話し合いでは、日本料理店の
給料が安いと言う理由でホーチミン市に行ったのだが?
ホーチミン市では、400万ドン(2万円)もらえると
言っていたが・・・・
(リー君)日本料理店の給料は安い。
祖母が死んだのに誰も来てくれなかった。
(バオミン)両親・兄弟は亡くなった場合は、ベトナム事務所や
日本料理店のスタッフもお悔やみに行くが、
祖父母の場合は、行っていない。これは、リー君
だけでなく、みんな同じ。
ベトナム事務所員・日本料理店スタッフはクアンチ省
まで祖母のお葬式に行けば、早朝から夕方まで
の時間が必要。
日本料理店の給料が少ないと言っていたが、
そのその給料が他の日本料理店のスタッフより少ない
のは「リー君が勝手に5回家出をし、日本料理店の仕事
を途中で放棄した」。また、警察官を寄って殴ったりして
3回も警察に逮捕されている。どの逮捕もリー君に
正当な理由はない。普通の会社なら「懲戒免職」と
なっている。それでもベトナム事務所・日本料理店では
リー君を採用して引き続き仕事をしてもらっていた。
当時、リー君は店長だった。そのままでいれば、
店長手当てが付き、給料も高い水準だったが、
店長手当てなどをなくしたのはリー君、自分自身だ。
人のせいにしてはいけない。
(小山)リー君はフエに戻って来て何をしたいのか?
(リー君)フエ空港付近に友人が「ヤギ肉料理屋」を作ろうと
している。そこで仕事をするつもりだ。
でも、明日から1週間、ダナンへ行く。
(小山)それでは、「ヤギ肉屋の開店準備をすることは出来ない
ではないか?」。
(リー君)親戚が11階建てのホテルを作ろうとしているので
そこで働く。
JASSの仕事は簡単で楽だ。しかし、給料が安い。
他の仕事をして給料をたくさんもらいたい。
(小山)リー君の話は夢を見ているような話だ。「ヤギ肉屋」を
友だちとするのなら、準備という大事な仕事しなければ
駄目だ。友だちが準備をしている間、ダナンへ遊びに行き、
準備が終わってからノコノコとヤギ肉屋に行くような
心心構えでは駄目だ。
親戚が「宝くじ」に当ってお金が入り、11階建ての
ホテルを作り、そこで働くと言っているが、実現できる
話ではない。宝くじに当っても最高500万円程度。
11階建てのホテルを作るには、数千万円は最低
かかる。ヤギ肉屋も11階建てのホテルの話も
リー君が夢を見ているような話で「現実的」ではない。
(リー君)長い間、お世話様になりました。面倒をみてもらい
今、自分は成長した。日本料理店で働き5回の
家出をしたが、迎え入れてくれた。これからは
自分で他の仕事をする。色々とお世話になりまいた。
以上がリー君との話し合いの全容である。
リー君はベトナム事務所を出て行った。
リー君はこの間、私やバオミンさんには何も話が
なかったのでリー君の心底が何かは未だに
理解出来ないでいるのだが、いきさつ上、リー君は
日本料理店を辞めて、ホーチミン市に行き、2週間で
フエに戻り、「ヤギ肉屋」「11階ホテル」などの
夢のような話しをし出て行った。
リー君の心の中に「何かが起こった」のだ。
「何かを起こした」原因は何だったのか。
2011年04月11日
リー君、フエへ戻る
今日の夕方火炎樹日記へのアクセズが「50万」を
超えた。
快晴
午前7時朝食。ブンボー。
午前8時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所では日本人教師とベトナム人とで
仕事の打ち合わせ。
バオミンさんは業者との打ち合わせ
ベトナム事務所には、3週間ベトナム事務所の手伝いを
してくれるAさんが来ていた。千葉県の先生グループの
紹介。親も千葉県の先生をしているとのこと。
日本語教師とベトナム事務所手伝いの打ち合わせ
バオミンさんとスタディーツアーの件で打ち合わせ。
その後、バオミンさん・原田先生と新任日本語教師採用の
件で打ち合わせ。
日本料理店での「東日本大震災支援」署名やカンパは
引き続き進んでいる。
午前11時半、昼食。「雑炊」。
午後12時半から1時間昼寝。
読書「世界」(岩波書店)(2011年1月号)
非常に面白い。興味津々の内容。
3月11日の「東日本大震災」の2ヶ月前に発行された
原発問題の特集号。
民主党がマニフェストで「2020年までにCO2の25%削減、
再生可能エネルギーの全量買取制度・・・・・」を主張して
いたが、現在は「原発売り込み」の急先鋒になっている
裏事情が詳しく書かれている。
菅首相がベトナムに来て2基の原発を売り込み、ベトナム政府に
お金を貸し、ローンでベトナムが原発を買うことを決めた
いきさつと大きな問題点がが明確にかかれている。
一例は、原発のいくつかの問題の中の一つに「使用済み燃料を
含む放射性廃棄物処理」問題である。原発で発電をすれば
核廃棄物が出る。これは処理出来ない。現在は、青森県の
六ヶ所村に臨時に埋めているが、今後、原発を進める限り
核廃棄物が永遠に残っていく。
ベトナム政府は、2基の原発を日本からローンで買う代わりに
「核廃棄物の処理」を日本でするように条件をつけているのである。
その他、ベトナムの原発の大きな問題点があるのだが、ここでは
書けない諸事情がある。
リー君が「フエに戻って来た」とのこと。午後5時半に会うことにする。
午後5時半、「古都(コードー」レストランでリー君と話す。
私はグラス1杯程度のビールを飲み、30分ほどで
話し合いを終わる。
ホーチミン市に行った色々な事情が分かる。
ホーチミン市から28時間かけてバスでフエへ帰ってきた。
50万ドン(2500円)。
リー君「僕は小山先生が嫌いだ。僕のことを馬鹿な奴だと
言ってそうなので・・・・・」とのこと。
「また、祖母が亡くなった時、応援してくれなかったので
小山先生は嫌いだ」とのこと。
早速、今日から住むところがない。私の方で必要な手当てを
する。
2011年04月10日
休息
晴れのち曇り 気温30度 夕方、少し寒くなる。
午前10時まで寝ている。起きられなかった。
午前10時半、「マカロニスープ」を半分食べる。
メール受信・送信。日本語教師の件などなど・・・・・・。
日本のテレビを見る。やっとテレビマスコミも政府や
東電・安全保安院などの「原発安全神話」への批判を行う
空気が出てきた。
東電・政府・安全保安院などが言っている「想定外」という
ことが、嘘だったと「実例」(共産党の吉井議員や貞観地震
(じょうがんじしん)869年の例などを出して、何人もの学者が
『原発安全神話」について、異論をだしていた事実を伝えていた。
午後12時半、徒歩30分。中型の「スーパーマーケット」へ。
スーパーは、値札がついているので「値段交渉」がなく楽だ。
途中にある国立体育館。
往復1時間、歩く。
読書「杉浦日向子の江戸塾ー笑いと遊びの巻」読了
(杉浦日向子著:PHP文庫)
岩波書店「世界 2011年1月号」を読む。
『原子力復興と言う危険な夢』特集を読む。
東日本大地震・福島原発の3月11日前に発行されている。
EUもアメリカも原発の発電は減ってきているとのこと。
太陽光発電などの再生可能エネルギーが主流になって
いるとのこと。
午後6時過ぎ、日本の選挙の途中経過を見る。特に
東京都知事と静岡市長選挙結果。
石原慎太郎が当選。
静岡市長に田辺信宏氏が当選。
統一地方選挙の前半戦。民主と共産が敗退。
地域政党が躍進。
石原都知事が「パチンコ」と「自動販売機」を止めたら
との発言をしている。石原氏の当選は残念な結果だが
「自動販売機」を止める点は同感である。
全国の自動販売機を止めると「原発1基分」にあたるそうだ。
同感である。
2011年04月09日
第1回JASS機関紙「バンベー」編集会議
晴天 気温32度 湿度55%
午前7時朝食。
最近は私の体調(特に胃腸)不良のため、麺類の食事多し。
フォー
午前8時過ぎ徒歩ベトナム事務所へ。
第1回「ベンベー」編集会議を行う。
私、バオミンさん、ハンさん、フーン先生、原田先生。
バンベー編集も徐々にベトナム事務所のベトナム人スタッフで
全てが出きるように一緒に経験を積んで行きたい。
私のほうから「バンベー」の役割りを話す。
①バンベーを作る時の心構えは、JASSの会合にこられない方、
フエに来たことのない支援者などを思い浮かべ、その方々に
フエでの活動をお知らせすることが第1の目的
②バンベー掲載の主軸は「こどもたち」。こどもたちの動向を
報告する
③年齢的に幅広い支援者の会なので「写真」を出来るだけ多くする
④39号は、字数が多かったせいもあり、字が小さい。
私も読みにくかった。今後は、大きな字にしたい。
⑤JASSの発展段階の「現在」を分かり易く紹介する。
⑥日本全国で地道に活動している「JASS日本」各地の会の活動
をかならず毎回のバンベーに掲載する
その後、バオミンさんの司会で次回第40号の内容を討議する。
第2回目の編集会議では、1ページから12ページ(予定)までの
内容をバオミンさんがまとめて提案することになった。
4月末を一応の目処(めど)に原稿締め切りとしたい。
4月12日(火)は、「フン・ヴオン王」祝日でベトナム事務所も
休みとする。
日本料理店で行っている「東日本大震災支援」活動第3弾
の署名と寄金はその後も着実に進んでいる。
7日に始めた際は、4人の署名だった。(私も入れて)
8日(金)の昨日は、7人もの人たちが署名・寄金を
してくれた。有難いことである。人間の心は万国共通。
ドイツ人からの励ましの言葉
カナダ人
ベトナム系アメリカ人
スイス人
フランス人
アメリカ人
昼食 チャオ・バイン・カイン
2時間ほど昼寝。
読書「いわずに おれない」(まど・みちお:集英社)読了
一読の価値あり。96歳のまど・みちおが言う一言一言に
重みがある。まど・みちおは、「宇宙」を原点にしている。
人間の命も机もガラスも「宇宙」の一つ。人間が思いあがって
いることを繰り返し忠告をしている。58歳で詩を発表。
一つぶよ
ぼくらの まえへと つづき
そして うしろへつづく
えいえんの じかん
ぼくらの そとがわへと ひろがり
そして うちがわへと ちぢまる
むげんの うちゅう
きりがない はてがない さいげんがない
どこまでも どこまでも どこまでも
のなかの ぼくらよ 一つぶよ
と おもうことだけは でき
それだけしか できないものだとしても
その それだけよ 一つぶよ
ーーーー
人間の小ささ、思いあがりを暗に指摘している。
今回の福島原発問題を見ても まど・みちお
が言っている人間の宇宙のありかた、自然を
コントーロールできるという思いあがりなどに
小さな警鐘をならしているように思えた。
96歳で矍鑠(かくしゃく)としている。素晴らしい人生だ。
読書「杉浦日向子の江戸塾ー笑いと遊びの巻」
(杉浦日向子著:PHP文庫)
江戸時代260年が私たちに与えている影響を考えた。
江戸時代は遠い昔の時代ではない。私の祖父も江戸時代
生まれ。私の母は8番目の子ども。現在99歳。
今の私たちは、間接的ではあるが、江戸時代の強い
影響を受けている。
ヨーロッパでは、各種の戦争が続いていた時代。
日本では「鎖国」もあり、平和な時代だった。文化も世界最高
のレベルに発展していた。特に江戸。水道があり、家賃が
1ヶ月の給料の1日分である。住みやすい。
私の小中高校時代は、戦後の初期。歴史は、かなり
階級闘争史を中心とした勉強が多かったような気がする。
武士階級が搾取しつくし、農民・商人などは「悲嘆にくれて」
いた社会と描かれる傾向があった。最近の「江戸研究」の
本などを読むと、意外にも「江戸時代」の支配は、それほど
厳しいものでもなく、封建時代という制約はあるものの
「善政」だったようでもある。
江戸では、市民がかなり人生をエンジョイしたようであり、
安心していきていけた時代でもあったようだ。
冷害や天災で一揆や打ちこわしなどもあったが、江戸時代は
行政に国民がかなり「信頼」をもって暮らしていた時代でも
あったようである。最近、江戸時代をもう一度見直す傾向が
強まっている。
今回の「東日本大震災」で日本人が「慌てず」「秩序正しく」
「われ先に行動せず」に大震災と対峙していることに諸外国の
メディアは驚嘆している。その基礎は、戦争がなく、平穏に
生きた260年の江戸時代の影響を私たちは無意識に
受け継いでいるのはないのか? などと本書を読んで
思った次第である。
杉浦日向子。私は好きな作家(漫画家)だった。
NHK「お江戸でござる」はほとんど全部見た。
終わったあと、桜金造の司会で杉浦日向子が
江戸時代の生活を解説していた。的確な解説だった。
2005年。46歳でなくなっている。惜しい人を亡くした。
杉浦日向子の「お酒を飲む」本を読んだが、彼女の
粋な酒の飲み方を知った。江戸の粋は、京都に
対するものだった。江戸は、短時間にパッ・パッ・パッと
格好をつけず「見てくれ」を気にしない実質主義の
酒の飲み方である。そば屋で蕎麦2枚を頼み1枚は「つまみ」
1枚は飲んだあと食べるというような酒の単純な飲み方。
リー君から電話。「明日、フエに帰る」とのこと。
しばらくしたらまだ電話。「明後日、フエに着く」とのこと。
ホーチミン市郊外の「お母さん」が電話に出る。
リー君はお母さんと一緒にいるようだ。
何を考えているのか?
午後6時半、ハンさんから電話。
リー君からメールが来た。「今からバスに乗る。明後日
昼ごろフエに着く」との連絡があったとのこと。
リー君は色々な人に連絡をしているようだ。
何を考えているのか? 不安で関係者に連絡をしているのか?
日本料理店のこどもたちにも電話をして、「7月にフエに帰る」
と言っているそうだ。
ーーーーー
首相は、行き過ぎた自粛により国民の消費活動が停滞するのは
日本経済や被災地の復興にもマイナスと判断した。
「国民へのメッセージ」として記者会見などで表明する見通しだ
とのこと。
「市民運動家」を自称する菅氏だが、その偽本質が暴露された
ようだ。菅氏は、市民自体を理解していない。
「自粛」とは「自分で自分の行いを慎むこと」(広辞苑)とある。
自分の行動を「政府」など公的機関に命令・指示される筋合いは
ない。
自粛するかしないかは、市民の個人的な問題。
公権力が介入する筋合いはない、ということを「市民運動家」
を自称する菅氏は本質的に理解していなかったのだ。
国民が自粛するのは、政治がきちんと行われていないことへの
裏返しなのだ。菅氏の政治的対応がしっかりしていないことへの
裏返しの行動が「自粛」という形で出ているのだ。
菅氏が「自粛を止めろ」ということ自体、天に唾する、自分に
自分の唾を引っ掛けることと同義語である。
『民主党の鳩山前首相は9日、福島県の南相馬市などの避難所
を訪ね、野菜や果物などを差し入れた。鳩山氏は桜井勝延同市長
との会談で、東京電力福島第一原子力発電所の事故に関し、
「原発事故は天災ではない。政治の世界に想定外という言葉は
許されない。大変申し訳ない」と語った』とのこと。
鳩山氏が語ったことはその通りであり、正論だ。私も支持する。
しかし、こうしたご立派な言葉を言う前に、毎月「お母さん」から
もらっている1500万円のお小遣いを「10年分位は寄付します」
位の言葉を言って欲しい。18億円である。
ソフトバンクの孫社長は個人で100億円の寄付をしている。
政権党の元首相が『立派なことを言う前に』出すものを出したら
どうなのだろうか?
そもそも
『原発事故は天災ではない。政治の世界に想定外という言葉は
許されない。』などと鳩山氏が言う資格はない。
鳩山氏が首相をしていた時も「原発安全」論を主張したのは
鳩山政権だったのだ。原発絶対安全論を主張したのは
政府と東電、お抱え研究者たちだったのだ。
鳩山前首相も原発安全論の主犯だったのだ。
「盗人猛々しい」とは、鳩山由紀夫氏を指す。
「政治の世界に想定外と言う言葉は許されない」などど
「ひとごと」のように言っている鳩山氏の政治的感覚が
いかに質の悪いものかがわかる。今回の原発問題の
主犯の一人は「貴方」でもあるのだ。土下座して
福島等周辺の県の農民・漁民などに謝罪すべき立場
の人間である。いつのまにか責任を逃れ、批判者の
立場に立っている人間の本質を知った思いがする。
3月22日、JASSとフエ市人民委員会との共催の
「東日本大震災支援集会」では、120万円の寄金が
集まった。JASSベトナム事務所は1000ドルの寄付をした。
8万円ほど。残りの110万円は100人のベトナム人の
参加者からの寄付。平均一人1万円ほどの寄付をしている。
フエの一般労働者の平均給料は1万円弱。
JASSとフエ市人民委員会との共催に大災害支援集会の
参加者は、一般労働者の1ヶ月分の給料を寄付しているの
である。
鳩山前首相は立派なことを言う前に「お母さん」からの
毎月1500万円のお小遣いを寄付してから、発言を
すべきである。
ベトナム事務所からの1000ドル=8万円の寄付は、
フエの私たちに取っては大金である。
日曜日の私の食事は1食100円。床屋は150円の世界で
8万円がいかに大金かがわかる。
ベトナム事務所の日本人教師は事実上、無給である。
静岡では「ジュビロ」と「エスパルス」が震災支援慈善試合を
した。静岡の2チームの責任者と選手に敬意を表したい。
どちらが勝ったのは知らないが、多分「ジュビロ」ではないかと
思っている。理想論で言えば、引き分けであって欲しい。
詳細不明なので何ともいえないが。
.
2011年04月08日
ナムドン山岳少数民族「トゥオンロー小」へ500色・色鉛筆を届ける
朝、7時 気温22度 湿度90% かなり寒くなる。
日中は30度以上。
午前7時朝食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)
午前8時過ぎ、徒歩、ベトナム事務所へ。
ハンさん・富岡先生・フエ高等師範大学教育実習生の3人と
一緒にナムドン山岳地帯へ。
「フェリシモ」の500色の色鉛筆を届けに行く。
フエから車で1時間半。山岳地帯に入る。
山岳地帯の中腹にある「カトゥー族」の「トゥオンロー小学校」へ。
こどもたちが校門で出迎えてくれる。
「トゥオンロー小学校」の校長先生に500色の色鉛筆を渡す。
500色の色鉛筆を説明する
500色の色鉛筆を並べ、好きな色鉛筆を取って絵を描いて
もらう。
こどもたちは思い思いの色鉛筆を使って絵を描く。
画題は自由。
ある男の子が「日本の大地震・津波」の絵を描き出す。
ベトナムのテレビで報道された映像を想像して描いている
と思われる。
ベトナムの山岳少数民族のこどもたちにも日本の
大地震と津波の大災害は大きな衝撃を与えている。
少数民族のこどもたちの心にも大きな「傷」を与えている
ように思われる。
水色は「大きな津波」を表している
5年生の男子の描いた日本の津波の絵。
「逃げる人間」「逆さまになっている自動車」を描いている。
上に普通の自動車。下にひっくり返った大型車。
こどもたちはベトナムでこのような情景を見たことはないはず。
日本の地震・津波、そしてその後の大きな被害は世界中の
こどもたちの心をも傷つけているように思われる。
ハンさんの通訳で校長先生と話し合う。
教室には、「マルクス・レーニン」の肖像が飾ってあった。
同時にホーチミンの石像も飾ってある。部屋の上には
「ベトナム共産党は永遠」との標語が書かれている。
また、ベトナム国旗とベトナム共産党の党章が飾られている
帰りにお土産を頂く。校舎の裏にあるバナナ畑から取れた
大量のバナナを頂く。
12時近く、トゥオンロー小学校を退出する。
偶然、地球の歩き方スタディーツアーで交流する際、
カトゥー族の伝統踊りを披露してくれる少女たちに出会う。
学校の帰りとのこと。
午後4時20分から午後5時過ぎまで突然の停電。
日本の「計画停電」も大変な事態だが、ベトナムでは
「無計画停電」が常習化している。
突然の停電は本当に困る。昨年は半年近く「無計画停電」
があった。突然朝6時に停電し、何時に電気が点くか分からない
毎日が続いた。仕事の計画がたたない。
今日はいつまで停電が続くのか? 40分ほどで電気が点いた。
お蔭様で火炎樹日記、メールの送受信が出きるようになった。
2011年04月07日
「フェリシモ」500色「色鉛筆」配布
快晴 気温30度 湿度70%(少し湿度が高く気分が悪い)
午前7時朝食。赤米のおかゆ。茹で野菜
午前10時前、バオミンさんと一緒にフールー小学校へ。
通信販売の「フェリシモ」が500色の色鉛筆を世界でただ1つ
作った。世界中のこどもたちに使ってもらいたいとのことで
「500色色鉛筆希望者」を募集した。
私は、船上生活者の多い「フールー小学校」、「子どもの家」
山岳少数民族の通う「トゥオンロー小学校」へ寄付して欲しい
との申し込みをした。
審査の結果、「子どもの家」、フールー小学校、トゥオンロー小学校
への寄贈が決まり、先日、ベトナム事務所へ500色の色鉛筆3箱
が届いた。「フェリシモ」の関係者の皆様に心からお礼を申し
上げたい。
(「フェリシモ」紹介)
社名 株式会社フェリシモ
英語名 FELISSIMO CORPORATION
創立 1965年5月(現・株式会社フェリシモは2002年8月に分割設立)
本社所在地 〒650-0035 神戸市中央区浪花町59番地
資本金 18億68百万円(2010年2月28日現在)
上場証券取引所 東京証券取引所市場第一部
代表者 代表取締役社長 矢崎和彦
連結従業員数 1,053名(2010年2月28日現在)
事業内容 ダイレクトマーケティング事業
連結売上高 489億46百万円(2010年2月期)
ウェブサイト http://www.felissimo.co.jp/
主要取引銀行 三井住友銀行
りそな銀行
三菱東京UFJ銀行
グループ会社
FELISSIMO UNIVERSAL CORPORATION OF AMERICA
FELISSIMO INTERNATIONAL LIMITED
北京幸福生活貿易有限公司
上海芬理希梦時装有限公司
芬理希梦(北京)商貿有限公司
フールー小学校へ「500色の色鉛筆」を届け、こどもたちに
絵を描いてもらう。
フールー小学校の校長先生へ500色の色鉛筆を渡す。
500色の色鉛筆ということは、500色あるということ。
同じ黄色でもわずかに色が違う。かなり微妙な色の違いで
良く見ないと分からないほど微妙な違いである。
高学年のクラスに行き、500色の色鉛筆を使って絵を描いて
もらう。
こどもたちは微妙な色の違いの色鉛筆にかなり戸惑っている。
今までこんなにたくさんの色を使って絵を描いた経験がない。
珍しい500色という色鉛筆に驚き、喜んでいるこどもたち
ーーーー
続いて我が「子どもの家」へ
セン運営委員長へ500色の色鉛筆を贈呈
「子どもの家」絵画教室に置かれた500色の色鉛筆
500色の色鉛筆を使い絵を描く始める「子どもの家」のこどもたち
真剣に500色の色鉛筆を使って絵を描く「子どもの家」のこども
午前11時半、「子どもの家」での活動を終わり、帰宅。
昼食。カボチャの茎炒め、カボチャのスープ、魚の揚げ物
午後12時半、2時間ほど昼寝。
リー君から電話あり。
(リー君) 「先生、元気ですか?」
(小山) 「体調は悪いが、頑張っている。リー君は?」
(リー君)「ホーチミン市で建築の仕事をしている。1ヶ月の
給料は400万ドン。2万円。元気にやっている」
(注:日本料理店での給料は120万ドンから150万
ドン)
(小山) 「あーそー。」
(リー君)「僕はフエに帰る。」
(小山) 「そう。いつ帰って来るの?」
(リー君)「4月・・・」
(リー君のこの会話の部分は日本語で言ったので
四月か七月か不明)
(名目上の高額のお金に釣られてホーチミン市に
行ったリー君ではあるは、たった1週間程度で
またフエに戻るという。ホーチミン市で何があった
のか? 私には何も情報が入らない)
(リー君) 「先生、お元気で・・」
こんな電話だった。
何を考えているのか? ホーチミン市に行き、高額の給料を
もらうと言っていたのだが、フエに戻るという。
========================
静岡大学工学部に留学しているフエの留学生の
父親からベトナム事務所に手紙が来た。
(JASS日本語学校で日本語を勉強し、私がフエから静大まで
連れて行った学生)
以下、紹介したい。
日本の大きな地震と津波があり、福島原発の放射能汚染も
拡大している中で、フランスをはじめ多くの外国人が
放射能汚染を考え、日本を去って行った。
静大工学部への留学生の父親の手紙には、知性と教養、
人間としての矜持がある。ベトナム人のすごさを知った
次第である。
お子さんは浜松の静大工学部に残り、勉学に励んでいる。
以下、手紙(氏名等はプライバシーもあるので掲載しない)
を紹介したい。
このお父さんの手紙で、却って日本人の私が励まされた。
国籍と社会制度の違いはあっても人間の心は通じるものである。
ベトナムのフエの片田舎に住んでいるこのお父さんの知識と
教養・世界を見る広い視野に本当に励まされる。
日本人として「フエで生半可な活動は出来ない」と改めて
心を引き締めた次第である。
+++++++++++++++++++++++
小山先生
日本語教師の皆様
3月11日に日本人の皆様は大地震と津波を経験しました。私は大変胸を打たれて、小山先生と日本語の先生へお見舞いを申し上げます。
日本人には日本人独特の精神、偉大な国家の誇りと、落ち着いた秩序があります。米国の原爆が広島に投下された後も、1995年の阪神大震災後も、日本人は困難な事を乗り越えました。そして、日本政府のおかげで、日本は経済が発展した国になりました。
ベトナム政府とベトナム人の皆は東日本大地震被災者支援集会に参加しています。私が住んでいる地域でも東日本大地震被災者支援集会を行っています。静岡大学に留学している我が子に「日本人の勇敢な精神を見習ってください。そして、静岡大学が行っているボランティア活動に真面目に参加してください」とメッセージを送りました。
今まで、ベトナム政府とベトナム人は日本の政府から多くの支援をいただきました。ベトナム人は日本人の皆様の隣りにいます。
世界の皆もいつも関心を持って、日本の状況をよく見ています。私たちの心は日本に向いています。
小山先生、日本語の先生やご家族の皆様がお元気で、ご無事でありますようにお祈りいたします。
2011年04月06日
東日本大震災支援第3弾
終日晴天 気温32度 湿度50%
気温の変化が大きい。体がついていかない。体調を崩すベトナム人
も多い。土井先生も体調を多少崩す。
昨晩、午前1時から朝まで眠れなかった。
午前7時朝食。フォー
ベトナム事務所へ
「JASSベトナム」専用のHP作成について関係者と
話し合う。ベトナムのプロバイダーを使って、JASSベトナムで
行っている諸活動に限定したHPを作成することの可否を含め
討論する。
今後引き続き討論・検討してくことになる。
午前11時半昼食。チャオバインカイン(小麦粉の手打ちうどん)
お腹の調子を考え「消化の良い食事」を作ってもらう。
午後12時半から2時間ほど昼寝。昨夜から今朝方にかけて
眠れなかったので、熟睡。
午後5時、徒歩でベトナム事務所・日本料理店へ
「東日本大震災支援第3弾」の活動を開始。
日本料理店の全ての机上に被災者支援の署名・寄金の
お願いをする文書を置く。
日本料理店に「子どもの家」のこどもたちが書いた
日本応援の寄せ書きを飾る。
隣りに日本料理店のお客さんに震災被災者、日本への
メッセージ、署名を。そして寄金を。
日本料理店へのお客さんに書いてもらうメッセージと署名用紙
日本料理店の夕食。
午後6時過ぎ、3人の来客
トンカツ定食
刺身定食
4人のこどもたちは、注文の料理をきちんと調理した。
更に2人の来客(ドイツ人)
食事が終わった2人のカナダ人、1人のアメリカ人が
被災者支援の署名をしてくれた。
会計の際に寄金を入れてくれる
今日は第3弾の初日。
今後、来店されたお客さんにお願いし、同意してくれたら
署名と寄金をしてもらう。
今日は5人の来客。日本の地震と福島原発問題には
強い関心を持っている。また、連帯感を持っていることが
分かった。
私たちは日本にいない。ベトナムで出きることは限られている。
その中で頭と知恵を出し合い、「出きること」をしていきたい。
来週、何とか第4弾の取り組みを実現したいが、これは
かなり困難な課題である。
2011年04月05日
世界歴史都市連盟打ち合わせ
終日曇り 気温32度
午前7時朝食。チャオバインカイン(小麦粉の手打ちうどん)
午前8時50分、バオミンさんと打ち合わせ。
2011年6月7日からフエ市で開かれる「世界歴史都市連盟
理事会」に向けての打ち合わせ。
2011年2月に世界歴史都市連盟事務局である京都市へ
伺い、理事国会議の運営の仕方など詳細を教えて頂いた。
フエ市人民委員会との打ち合わせの前に、京都市から
頂いた「理事国会議」運営要綱を再度細かく確認する。
2時間ほど時間をかける。今後、フエ市人民委員会との
間で更に擦りあわせを行う予定。6月7日から11日までの
「世界歴史都市連盟理事国会議」の成功のための下勉強。
午前11時半昼食。春雨麺。
食後、1時間ほど昼寝。
読書「いわずに おれない」(まど みちお著 集英社)を読む。
まどみちお には思想があった。全て物に命があるという思想。
明日の会議の原案つくり。
バオミンさんと打ち合わせ。
「東日本大震災」支援第3弾計画の実行のための最後の
作業を行う。
明日の夜、第3弾実行。
第4弾は、現在フエ市人民委員会と協議中。難航。
ピースインツアー関係者と電話で打ち合わせ。
2011年04月04日
米国人訪問者懇談・案内
気温31度 湿度50%
午前5時起床。
午前7時朝食。ブンボー。
やっと平常の食事をすることが出きるようになった。
食後バオミンさんから電話。アメリカ人がベトナム事務所を
訪問、話し合いたいとのこと。
午前8時過ぎ、急いで(徒歩)ベトナム事務所へ。
アメリカのデンバーから来た男性。建築士とのこと。
世界を回って仕事をしているようだ。
私が「ベトナム戦争」の頃は何をしていましたか?
と質問すると、「まだ子供だった」とのこと。ということは
40歳代後半か50歳位か? 外国人の年齢は分からない。
英語の観光ガイドブック「ロンリープラネット」を読んで
来たとのこと。
私に「何故、ストリートチルドレンや貧しいこどもたちの
支援をしているのか?」その理由を聞きたいとのこと。
私の生い立ち(中国からの引揚者の家、父親が早世し
翌年弟が高1で白血病で亡くなったこと、高校から
牛乳配達・1年間ラーメン屋に勤めたこと・・・・)など
を話し、貧困のこどもたちに共感する気持ちを持っている
ことなどを話す。また、ベトナム戦争反対運動に参加した経験
なども話す。
また、「どんな活動をしているのか?」との質問もあった。
自立への取り組み。JASS企業群の話などをする。
アメリカ人は、JASSの公式HPを読んだがあまりに古すぎる。
今聞いた話は素晴らしい。どうしてHPに載せないのか?
HPに現在の活動がきちんと乗っていれば、アメリカに
帰って友人に知らせ、応援したいとのこと。
会の公式HPには、英語版もある。2002年位までの
活動しか乗っていない。
1時間半ほどアメリカ人と話し合う。
「子どもの家」を訪問したいという。
バオミンさんが午後3時に来てくれれば案内すると返答。
会議室では北海道への刺繍等の作品の制作について
「子どもの家」の刺繍の先生、ハンさん、原田先生で
打ち合わせ
午前11時50分昼食。ベトナム風「魚入り野菜雑炊」
食後読書
「汚名(検察に人生を奪われた男の告白)」(鈴木宗男著:講談社)
を読了。
権力とマスコミが結託すると何でもできてしまう。
鈴木宗男「悪玉論」が日本中を席巻。
本書を読むと権力者同士の争いに鈴木宗男が
負けたということになる。
権力者の一人でもあった鈴木宗男が権力の主流派から
「追い落と」される必要が出れば、どんなにあがいても
抹殺されるということが具体的に分かる。鈴木宗男の
盟友である「外務省のラスプーチン」こと佐藤優の
『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)
をあわせて読むと内情が理解できる。
「いわずに おれない」(まど みちお著 集英社)を読む。
詩人まどみちお 96歳のインタヴューを含め
まどみちおの思想が書かれている。
まどみちお は「ぞうさん おはながながいのねの作者。
午後3時、ベトナム事務所でアメリカ人と合流。
タクシーで「子どもの家」へ。セン委員長に紹介。
その後、「子どもの家」の各施設、「子どもの家」の機能、
歴史などを案内しながら説明する。
東電福島原発では、放射能「汚染水」を海に放流した
とのこと。政府(菅首相・保安院)と東電は「やり放題」。
放射能の拡散地域も政府の言っている地域とはかなり
異なる。関東地方も含めて広範囲である。(以下の読売新聞)
(写真もあるが、転載禁止となっている)
東北から関東地方までの海産物が売れなくなることは
明らか。「馬鹿な人間が恐れおののいている」ので
買わない「風評被害がある」というのか?
今まで政府の安心・安全という言葉で、国民は何度
騙されていることか?
政府不信の国民の自衛手段だ。
「サリドマイド」「水俣病」「薬害エイズ」「C型肝炎」・・・・
政府・行政の行為で行われた人間虐殺の犯罪である。
全て裁判で国家が断罪されている。
戦前で言えば、敗戦直前、中国から一番最初に逃げたのは
関東軍・政府・警察関係者である。一般庶民は何も知らされず
ソ連の不法侵入で多くの民間人が犠牲になった。
我が兄もその際、5歳で亡くなったいる。国家は信用できない
というのが私の基本的な信条である。
今回の地震・津波・福島原発。地震・津波は自然災害である。
しかし、岩手県普代村では15・5Mの「防潮堤と水門」を村につくり、
津波を跳ね返し、一人の死者もださず3000人の
命を救った。(海に水位を見に行った村民1名が亡くなった)。
津波も「想定外」ではなかったのである。
想定していた日本人と村があったのだ。
「想定外」を連発するのは、責任を逃れたい人間だけ。
東日本大地震被災者支援の第3弾・第4弾の計画を
たて、近日中に実施する計画である。
フエで出きる庶民への支援をしたい。
日赤や中央共同募金会には1000億円の義捐金が
集まっていると言う。未だに被災者へ渡されていない。
これらのボランティア貴族は、被災者の本当の
苦しみを共感していない。神戸の地震の際も
数ヶ月後に支給されたそうだ。
1000億円のお金を寄付した人たちは、今、被災者を
応援したいのだ。銀行通帳がなくなったり、お金が
なかったりする被災者は多い。日赤などはお金を
持っていない被災者や寄金者の気持ちを理解し
屁理屈をこねまわざす、お役人根性を捨てて、
今すぐに支援金の一部でもいいから支援者に
手渡すべきである。支援金配布が「不平等だ」
との非難を受けたくないので、時間をかけて
「平等に配布したい」との気持ちは理解できるが、
とりあえず、当面のお金を被災者に配るべきである。
日赤や共同募金会は「お役人根性」を捨てて、直ぐに
立ち上がるべきである。貴方たちは、そのために
存在しているのだ。
ーー
以下、今日の読売新聞より(情報は京都のTさん)
東京電力福島第一原子力発電所の事故で、気象庁が同原発から出た放射性物質の拡散予測を連日行っているにもかかわらず、政府が公開していないことが4日、明らかになった。
ドイツやノルウェーなど欧州の一部の国の気象機関は日本の気象庁などの観測データに基づいて独自に予測し、放射性物質が拡散する様子を連日、天気予報サイトで公開している。日本政府が公開しないことについて内外の専門家からは批判が上がっており、政府の原発事故に関する情報開示の在り方が改めて問われている。
気象庁の予測は、国際原子力機関(IAEA)の要請に基づくもの。国境を越える放射性物質汚染が心配されるときに、各国の気象機関が協力して拡散予測を行う。
同庁では、東日本大震災当日の3月11日から毎日1~2回、拡散予測を計算している。具体的には、IAEAから送られてきた放射性物質の放出開始時間や継続期間、どれくらいの高さまで上ったかを、風向きや天候など同庁の観測データを加えた上で、スーパーコンピューターに入力し、放射性物質の飛ぶ方向や広がりを予測している。
(2011年4月4日14時30分 読売新聞)
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気象庁拡散予測「公表すべきだった」…官房長官
読売新聞 4月4日(月)16時46分配信
東京電力福島第一原子力発電所の事故で、気象庁が放射性物質の拡散予測を連日行いながら、公開していなかったことに関し、枝野官房長官は4日午後の記者会見で、「少なくとも隠す必要のない情報。誤解を生まない説明を付けて、公表すべきだった」と述べた。
気象庁の予測は、国際原子力機関(IAEA)の要請に基づくもの。国境を越える放射性物質汚染が心配されるときに、各国の気象機関が協力して拡散予測を行う。
同庁では、東日本大震災当日の3月11日から毎日1~2回、拡散予測を計算している。 最終更新:4月4日(月)
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以下、読売新聞(4月4日)
小魚から放射性物質…影響ない程度・規制値なし
読売新聞 4月4日(月)20時37分配信
茨城県北茨城市の平潟漁協は4日、同市の長浜沖でとれたコウナゴから1キロ当たり4080ベクレルの放射性ヨウ素131が検出されたと発表した。
魚介類の放射性ヨウ素についての規制値はないが、飲料水で300ベクレル、野菜類で2000ベクレルと定めた規制値に比べて高い。
コウナゴは1日に船引き網漁で捕獲された。1キロ当たり447ベクレルの放射性セシウムも検出されており、魚類の暫定規制値の500ベクレルに近い値だった。
同漁協は、1日までに日立沖などで採取した魚介類5品目について、民間の検査機関で放射性物質を検査。カレイやヒラメなどほかの魚介類から検出された放射性ヨウ素は最大でも35ベクレルで微量だった。
現在は茨城県沖でコウナゴ漁が行われておらず、同県産のコウナゴが市場に出回ることはないという。
厚生労働省によると、魚類に関する放射性ヨウ素の規制値は、海水で拡散することや短期間で放射線が半減することなどから、危険性が低いとして定めていないという。
今回、コウナゴから高い値のヨウ素が検出されたことを受けて、厚労省は茨城県に対し、出荷について慎重な対応を求めるとともに、今後、魚類の規制値について検討する。 最終更新:4月4日(月)20時37分
2011年04月03日
洗濯・掃除・休息
終日晴天 気温30度 湿度60%
久しぶりの快晴。長袖のセーターなどから急遽半袖に着替える。
約1ヶ月続いた雨と「冬」が今日「転換」した。このまま
晴れが続いて欲しい。晴れれば晴れるで気温が35度、40度
と猛暑となり、極端な気温の土地ではある。
フトン・毛布などを干す。湿度が95%になると衣類も濡れてしまう。
水分が多いと「カビ」が発生する。特に「臭いのするカビ」。
午前10時、ブランチ。チャオバインカイン(小麦粉の手打ちうどん)を
1食分の半分食べる。
メールの受信・送信。
午後12時から2時間昼寝。横になる。
「汚名(検察に人生を奪われた男の告白)」(鈴木宗男著:講談社)
の続きを読む。
ホーチミン市にいるリー君からメールあり。
「お元気ですか?」とだけ書いてあった。
私の返信「フエに帰って来なさい」。
リー君の再返信「ホーチミン市での仕事はうまく行っている」。
このメールの状況だとしばらくはホーチミン市から帰ってこない
かもしれない。
2011年04月02日
ベトナム事務所員会議
午前中曇り(気温17度)、夕方太陽が出る(気温30度)
気温の変化が大きく頭痛、体が非常にだるい。
午前5時半起床。
午前7時朝食。フォー。
午前8時徒歩ベトナム事務所へ。
皆さん、真面目に仕事。
原田先生は常に静岡大工学部ニフィー入試の対策を
考えている。理系センター試験の問題集を机の上に
おいている。
ベトナム事務所の有力な戦力になっているソン君
日本語教育に「脂が乗って来た」土井先生・富岡先生
午前8時半ベトナム事務所員会議。現在10人の戦力で活動を
している。(日本語教師のフオン先生は休暇)
(ソン) 地球の歩き方スタディーツアー5班の案内
帰りの飛行機が4時間遅れ、飛行場へ2回
見送りに行った。
トンボの玩具(900個)を日本へ送る。
(原田)静大ニフィー入試が無事終わる。
静大の先生方に感謝する。
今回の受験者は19人。「子どもの家」のHNさんも
受験したが、結果がどうなるか?
今後、高校3年生(特進4)、高校2年生(特進5)
の日本語教育を進めて行きたい。
(富岡)フエ高等師範大学1年生・2年生(古竹先生の授業だった)
フエ高等師範大学2年生の漢字テストをしたが、カンニングが
あり問題だった。
(土井)静岡大学ニフィー入試が終わりほっとしている。
特進(2、3)は休み
フエ高等師範大学2年生(残りは2課となった)
3分の2は積極的に勉強しているが、3分の1は
問題を孕んでいる。
(フーン)4月1日、フエ高等師範大学2年の誰か学生が
学級委員長に「フ-ン先生の授業は休講」
とのメールを送り、学級委員長が全員に
そのメールを送信。フーン先生が教室に行くと
誰も学生がいなかった。
(アン)地球の歩き方スタディーツアー5班の案内
「フェリシモ」・「マルタカ」の仕事
(ハン)里親への手紙の翻訳
ブライセンの会計
(ミン)静大工学部ニフィー入試
北海道の北星大学スタディーツアー日程(8月)作成
「子どもの家」のズイ君の退所の件
2011年、「1年間の活動計画」を作成中(現地報告会
バンベー発行・・・)
4月17日(日)長野県小諸市のソバ打ちクループが
フエ高等師範大学でソバうちをする。、出きるだけ参加を
富岡先生のお父さんのソバ打ち仲間。
ベトナム事務所員会議が終わり、続いてフエ高等師範大学
とベトナム事務所日本語教師との打ちあわせ会
午前11時半、昼食。久しぶりに「お米」を食べる。
かぼちゃの茎、魚の煮物、野菜スープ。
量が多いので閉口する。
お腹を壊していた10日間ほど、うどんなど麺類を
食べていた。
午後12時半から1時間ほど昼寝。
曇りだが、だんだん気温が上がってきた。
午後2時から夕方まで久しぶりで読書。
「汚名(検察に人生を奪われた男の告白)」(鈴木宗男著:講談社)
3分の2程、読む。権力の中枢にいた鈴木宗男を「国策捜査」をした
中心人物は「福田康夫首相」だそうだ。権力闘争とは本当に
恐ろしいものだ。
宿舎の入り口で物音がする。急いで行って見る。
隣りのシクロ運転手の親父さんが、勝手に入ってきてしまい
「ビールをくれ」と大声で言う。近づくとアルコールの臭い
プンプン。
隣りは、シクロさんの溜まり場。いつでも朝から「宴会」。
大声で歌い、しまいにはカラオケまでする。
朝から午後まで皆で飲んで、歌って、人生の不満を
大声で言っているようだ・・・・。うるさくて仕方がない。
宿舎に入って来たシクロのおじさん。徒歩でベトナム事務所
へ行く途中のオートバイ修理店にいつもいる。何故かわからず
私に「握手」をしに来ていた。私もどこかで会った人かなとは
思いながらも記憶がない。とにかく、失礼はいけないので
握手をしていたのだが、その「握手男」が、隣りのシクロさん
だったのだ。いつも歌って飲んでうるさい隣りという気持ちが
あったが、隣りの人がどんな顔をしているのは、知らなかった。
しばらく適当にあしらって帰ってもらった。
1時間ほどしたら、また宿舎の入り口に来て「ビールを何本
かくれ」と言う。隣近所なので、何とかあしらっっていたが、
とにかく泥酔しているので、暴力などなにをするのか分からない
ので怖かった。明日は、日曜日。また、シクロ仲間を呼んで
更にトーンの高い宴会をするのだろうか? 幸せな皆さんでは
ある。
(続きを読む)は、毎日新聞「鮎川記者」の
記事である。
毎日新聞の鮎川記者は、1995年、私が静岡市で
中学生に講演会をした内容などを毎日新聞の「人欄」
に掲載してくれた。その後も色々とお世話になっている。
今回は「東日本大震災」の際のインターネットなどでの
「デマ」であるが、外国人の暴動などの点では、
88年前(1923年)の関東大震災の際に、警察から出され
たデマ(朝鮮人が井戸に毒を入れている・・・・・・)に煽動さて、
日本人が2000人~6000人位の朝鮮人を虐殺している。
アナーキストの大杉栄・伊藤野枝夫妻と甥が甘粕憲兵大尉に
殺されている。共産主義青年同盟委員長の川合義虎など
が警察に殺された「亀戸事件」などもある。
今回のインターネット上のデマは、「外国人」による略奪・暴動
という点で関東大震災時と同じ構図を持っている。
鮎川記者の記事は時代的な背景を持った今日的な意義の
ある記事である。
•
<東日本大震災>多数のデマ流布 警察庁が注意喚起
毎日新聞 4月1日(金)19時43分配信
東日本大震災の被災地で「略奪が多発している」など多数のデマがインターネットの掲示板やメールで流れていることが1日、警察庁の調べで分かった。不安を感じる被災者の相談も相次いでおり、警察当局は、悪質なデマの削除をサイト管理者に依頼する一方、被災者に惑わされないよう呼びかけている。
警察当局が確認したデマは「ナイフを持った外国人グループが盗みをしている」「女性が暴行されている」「ショッピングモールで略奪が起きている」「支援物資の盗難が相次いでいる」など。被災地の地名とともに流布しているケースが多い。知人への転送の呼びかけを添付して送信される「チェーンメール」や、ネット上の掲示板への書き込みを通じて広がっている。
警察庁によると、被災地では商店からの品物の持ち去りや乗り物盗は発生しているが、強盗・強姦(ごうかん)事件の発生や外国人窃盗グループの存在は把握されていない。警察庁は「被災者の不安をあおることを意図したようなデマもある」とし、不確かな情報をメールで受信した時も、安易に転送しないよう呼びかけている。【鮎川耕史】
2011年04月01日
打ち合わせ
午前5時起床。 雨。夕方、多少薄日が差す。明日は太陽が
でるか?
午前7時、朝食。チャオバインカイン(小麦粉の手打ちうどん)
朝から腹痛あり。
午前9時ベトナム事務所へ。バオミンさんといくつかの
打ち合わせ。
会議室では、「京滋YOUの会」関連の「竹トンボ」の
最終仕上げと梱包をしていた。
午前11時半昼食。「マカロニ・スープ」
この間、腹痛・下痢・忙しさで読書の気力なし。
行儀は悪いが、朝と昼の食事時に本を読みながら
読書。30分。ほぼ2週間をかけて1冊の本を読み終える。
「毒になる親」(スーザン・フォワード著・玉置悟訳:講談社)
子供の頃、親に虐待を受けた大人の心の問題。
虐待は親のアル中、薬中毒から子供を支配したい親、
性的虐待などなど多種にわたる。特にこの中で
著者(セラピスト)が言っているのは、こどもたちは、
親を困らせたり、親に心配をかけたくないという
本能のようなものがあり、親がどんなに酷い行動、言動を
しても「自分が悪い」と思い込み、悩み成長する。
大人になっても「親からの干渉」や「親を困らせたくない」
と言う気持ちが強く、精神的に自分自身をコントロール
できなくなる。著者は親との「対決」を強く主張し、
実践している。親にこどもたち受けた虐待を「ぶつけ」、
親のために自分は苦しんだということを親に認識させるという
カウンセリング。親と喧嘩しても、絶縁しても断固実施すべし
というもの。そうした指導で親と「対決した」人たちは、やっと
精神的な安定を取り戻すと言う。
読書後、うーん? と「うなって」しまう。欧米の考え方なのか?
12時半から1時間ほど横になる。寒い。上着を4枚着ている。
午後3時から久しぶりに読書
「汚名(検察に人生を奪われた男の告白)」(鈴木宗男著:講談社)
ムネオハオス、疑惑の総合商社の鈴木宗男逮捕劇の一部始終。
鈴木宗男の言い分。私と同い年。1960年代後半には、
鈴木宗男(拓殖大学)も私も東京にいたことになる。
少し読んでいくが、ゴーストライターの書いた本であることは
良く分かるが、鈴木宗男が言ったことを美文で書いたものだと
推測する。自ら「権力の中枢にいた自分が、権力の裏の勢力に
粛清されるとは思わなかった」という趣旨のことを書いている。
かなりリアルな内容。
==============================
ベトナムで日本のテレビを見ていて感じることがある。
福島原発問題でどのテレビ番組にも「原子力専門家」が出てくる。
ほとんどの専門家が「大きな問題はない」「大丈夫」、などと言っている。
全体的に楽観論に立っている。無知な国民に
教えてやる。無知なので慌てているが、意味がないというような態度が
これらの研究者の言葉の端々に出ている。
原子力安全保安院の記者会見のめがねのおじさん。
福島原発でどれだけの人が苦しんでいるのか?
余り想像力がないようである。
東電の副社長の記者会見は、「ひとごと」のような態度。
東電・安全保安院・テレビに出る原子力専門家。
共通している態度は「安心です。直ちに心配はありません」。
テレビマスコミも同様である。今日のNHK午後7時のニュースでは
福島原発は「安定してきている」といっていた。確かに悪い最悪の
方向で安定しているのではあるが。
東電・原子力安全保安院・原子力学者・マスコミ。
現実の福島原発は、①原子炉からの放射能もれにいたる。
②放射能の拡散が止められない
ということで、全体的にみれば、状況は悪化していることは
事実である。燃料棒の融解が止められず、放射能の拡散が
海へ、更には国内へ広範に拡散している。
既にイスラエルまで福島原発の放射能が到達している。
何故、東電・原子力保安院・テレビに出る研究者は
『安心・大きな心配はない』と繰り返すのか?
これらの人たちは、原発利権で一致している人たちである。
何故、原発の危険性を主張している研究者はテレビなどに
出演できないの?
そもそも日本の原子力発電を推進している東電と日本政府
は一心同体なのである。
年間5000億円以上の予算がついている。それに群がる
利権集団もいる。
経済産業省の一機関である原子力保安院は本来、原発の
安全を監視する役割なのだが、東電と同じ原発推進の立場で
あり監視が出来ない。
放射能に汚染された建物に『短靴』で入った作業員。
放射線測定器が不足し(決まりでは全員が持つことに
なっているのだが・・)監督者1名しか持たずに危険な作業を
行っている東電を注意も指導もしない「安全保安院」。
日本の大学の原子力関係の学部は「原発推進」を基調に
した学部である。研究者も原発推進の立場を鮮明にすれば
多額の研究費がでる。
原発に疑義を持ち、異論をもった研究者は徹底して
排除される『産学官』原発推進共同体・利権構造ができている。
そうした背景があるので、テレビには研究者は原発推進
の立場の人しかでないのである。「安心・大丈夫・騒がない」
的な解説しかできないのだ。
以下の「毎日放送」2008年の番組を見ると、原発の問題を
指摘し研究している学者は、助教授にも教授にもなれず
干されていることが分かる。生涯、助手である。
今後、原発について日本人はどう考えていくのが
問われるようになる。
2008年の番組である。
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なぜ警告を続けるのか〜京大原子炉実験所・”異端”の研究者たち〜
(2008年 毎日放送)
大阪府熊取町にある京都大学原子炉実験所。ここに脱原発の立場から活動を続けている”異端”の研究者たちがいる。原子力はわが国の総発電電力量の3割を供給するまでになったが、反面、去年の中越沖地震で柏崎刈羽原発が「想定」を上回る激しい揺れで被災するなど、技術的な課題を完全には克服出来ていない。番組では、国策である原子力推進に異を唱え、原子力の抱えるリスクについて長年、警告を発し続けてきた彼らの姿を追う。その言葉はエネルギーの大量消費を享受する私たち国民一人ひとりへの問いかけでもある。