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2011年06月06日

マン氏葬儀

快晴 猛暑の真夏日

午前5時起床。

簡単な柔軟体操。
午前7時朝食。フォー(米の麺と鶏肉)

午前9時半。家を出て徒歩でベトナム事務所へ。

午前10時から「子どもの家」スタッフのマン氏の葬儀。
ベトナム事務所員全員参加。

1997年から14年間、一緒に「子どもの家」のこどもたちの
仕事してくれていたい同士。

この14年間は様々な出来事があった。

中学の先生を辞して「子どもの家」に来てくれた
マンさんに心からお礼を言いたい。

「子どもの家」に1999年の大洪水で姉と一緒に入所した
ソン君も弔問に来ていた。現在はフエ科学大の建築科で
勉強をしている。

セン「子どもの家」運営委員長

キム・アインさん(1993年から私と一緒に仕事をしている)


弔問するバオミンさん

日本語教師フオン先生


財政部長 ゴック・ハインさん

日本語教師 原田先生


日本語教師富岡先生
真面目に仕事をしてくれている。深謝


ベトナム事務所・アインさん



JASS日本語学校部長 フーン先生

日本語教師 土井先生


お棺を巡って「マン氏」への慰霊の気持ちを表す


JASSから贈られた「花輪」


「子どもの家」から贈られた花輪

「子どもの家」スタッフ

午後12時半。昼食。

55歳で亡くなったマンさん。どれだけ「悔しい」気持ちが
あったのか? 推測できる。

私はマンさんの「無念」な気持ちが本当によく理解出きる。
マンさんの死を通して人間の命の「はかなさ」と空しさを
実感した。ベトナムでは知的エリートであったマンさんが
何故、教師を辞めて「子どもの家」に来たのか?
今になってはその詳しい事情は分からないが・・・・。
一人の人間が人生の進路を大きく変えるということは
何か「大きな原因」があると推測する。
マンさんにどんな人生の問題があったのか?
ベトナム戦争の終了時は20歳。大学生である。
フエは南ベトナムだった。1975年4月30日の
サイゴン解放で南ベトナムは崩壊した。
マンさんは崩壊した南ベトナムでどんなことを感じ
どんな生き方をしてきたのか?
中学校の教師を辞め「子どもの家」に来た理由の
一端はこうした時代の流れがあるように推測する。

それは同時に私の人生の先人となるものでもある。
いつ死んでもよい自分の人生でありたい。
人間はいつか死ぬ。逆説的に言えば、人間は死ぬために
生きているのである。
私は兄・父・弟の死を体験している。死ぬことは自然の
現象である。人間は死ぬまでに「どんな人生を歩むのか?」が
問われている。


読書「「新左翼とロスジェネ」(鈴木英生著:集英社新書)」
本書の渦中に当時私と妻はいた。1966年から1970年。
著者の鈴木氏が1975年生まれで、1960年代後半の
時代を理解出来ないことは致し方ない。我が子と同年代。
しかし、全共闘・中核・革マル・社会主義青年同盟解放派
などの記述ばかりを多用していることに疑義を感じる。
全共闘運動などは私からすれば、良いとこの「坊ちゃん」の
遊びの運動。人生をかけての運動ではないと思っていた。
その証拠に卒業したら大企業に就職し、贅沢を満喫しているの
であえる。彼らは本当の労働者を知らない。私は中卒の
牛乳屋の寮に住んでいた。長崎県諌早市の中卒の若者が
たくさんやってきて、朝早くから牛乳配達をする。
私も彼らと一緒に仕事をした。
中核・革マルなどが過激な活動をしていても、現場の
労働者は「無視」していた。
1060年代後半の学生運動は社会の上流階級の子弟の
運動であったことは事実である。

投稿者 koyama : 2011年06月06日 08:34

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