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2011年06月22日
「子どもの家」入所希望者家庭訪問
快晴 外気温39度
午前5時半起床。 軽くストレッチ
午前7時朝食。「青豆のおかゆ」「小魚の甘辛煮」「茹で野菜」
午前7時45分、徒歩でベトナム事務所へ。
バオミンさんと一緒にブライセンスタッフと懇談。
午前8時40分、バオミンさん、原田先生、土井先生・富岡先生
「子どもの家」のロックさんと一緒に「子どもの家」入所希望者の
家を訪問。
ベトナム事務所から車で30分。フエ郊外の「フオン・ソー村」。
完全な農村地帯。
丁度、田植えの時期だった。日本よりも水を多めに入れての
田植え。
典型的な農村共同体の村。
村の「中央通り」には、「市場」が立っている。
その日、この村人が食べる量だけを売っている。
冷蔵庫で肉や野菜を冷凍するわけではない。
新鮮な肉・魚・野菜が安価で売られていた。
添加物が一切入っていない魚や肉・・・。
日本と比べてどちらが「豊か」なのか?
フオン・ソー村「中央通り」を抜け、「子どもの家」入所希望者の
家へ。
この家もベトナムの農村の典型的な家である。
「子どもの家」へ入所を希望している子供は、11歳の男児。
9月から中学1年生(日本の6年生に当たる)になるP君。
祖父(82歳)、祖母(78歳)に育てられている。
家庭は複雑な事情である。
祖父の息子は正式な婚姻届を出さないまま某女性との間に
P君を出産。11年前の話である。翌年(10年前)に
P君の父親と母親は、どこかへ姿を消し、一緒にいるのか、
別れたのかもわからないまま、10年がたってしまう。
この10年間、一切音沙汰がない。
この10年間、祖父母がP君を育てている。両親は行方不明
になっている。
祖父母は元々は農民だった。しかし、82歳と78歳という高齢と
なり農業もできなくなっている。
祖父母は、フエ市人民委員会から「貧困家庭」との認定書を
もらい、フエ市から毎月18万ドン(720円)の貧困者手当て
をもらっている。祖母が庭で野菜を作り売っているが
リーマチがあり、体が動かない。毎月の野菜の売り上げは
3万ドン(120円)。
P君の家庭の1ヶ月の収入は、日本円で840円である。
フエで一般市民が最低限度の生活をすようとすると
毎月最低で「3000円~5000円」程度はかかる。
日本料理店のこどもたちの月給が6000円~8000円である。
この1年で物価は2倍から3倍もあがるという超インフレ社会と
なった。
月収840円ではどう考えても普通の生活が出きるわけがない。
祖父は胃の病気で昨年入院。祖母はリューマチ。
現在は、祖父母とも高齢であり普通の仕事はできない。
近所の人がお米をくれたり、自分の庭で少しの野菜を作り
最低限の生活を送っていた。
村にいる「ベトナム婦人同盟」の人に『フエ市内に日本人が
運営している「子どもの家」がる。P君をそこにいれれば
衣食住・学校へ行ける』との話を聞き、祖父母は、
婦人同盟を通して、「子どもの家」のロックさんに連絡して
来たという経過である。
日本の「民生委員」のような役割りを果たしている
ベトナム婦人同盟。この村の婦人同盟がなかったら
祖父母は「子どもの家」の存在をしらないままでいたのである。
年に数回はベトナムのテレビでJASSの「子どもの家」の
活動が報道されている。テレビ報道も意味のあることだ。
以上が大筋の家庭環境である。
日本のテレビ新聞などでは、ベトナムの経済成長は年率10%。
高度経済成長のベトナムとの報道が多い。事実ではあるが、
その「高度経済成長」の影で、月収840円で何とか食いつないで
いる庶民がいる「社会主義国」なのである。
最後にP君に「子どもの家」入所の希望があるのか確認。
P君ははっきりと「入所したい」と返事をした。
私が将来は何になりたいの?と聞く。
P君は「はにかんで」答えなかった。
その後、ロック寮長が祖父母、P君に「子どもの家」での
生活などを細かに話す。
最後に全員で記念写真を撮る
P君は「子どもの家」に来てどんな振る舞いをするのか?
直ぐに慣れるか? 友だちは出きるか?
全く知らない世界に入る不安を胸に秘めて、P君は
近々に新たな旅立ちをする。
P君が「子どもの家」でしっかりと勉強をし、人間が生きていく
ための知識をつけて欲しい。そして、自立できるように
なって欲しい。私たちの力は微力なものではあるが、
P君に取っては、今日、私たちと出合ったことは、人生の
大きな出来事のはずである。あるいは、P君の人生を
変える大きな出来事だったのかも知れない。
そうあって欲しいと念願する。
P君の戸籍を聞いた。「戸籍に入っていない」とのこと。
諸事情はあるにしても「戸籍に入っていない」存在としの
こどもとは、悲しいことである。P君には戸籍がなく、
法律上はこの世に存在しない子どもということになっている。
悲しいことである。
「子どもの家」は公的機関なので「戸籍を作る」ことができる。
この18年間で450人以上のこどもたちが「子どもの家」を
巣立っていった。かなりのこどもたちは路上にいて、
戸籍がなかった。自分の本当の名前も知らない子、
誕生日、出生地を知らない子供も多かった。全ての
こどもたちに誕生日を作り(女子は国際婦人デーの3月8日)
戸籍を作ってやった。多くのこどもたちの戸籍は、「子どもの家」
にある。
「子どもの家」を巣立ち、自立した時、「子どもの家」の戸籍を
抜くのである。「子どもの家」のこどもたちの戸籍と身分証明書は
「子どもの家」で作っている。
フエ市内はこの18年間できれいになった。ベンツやトヨタの
新車を乗り回す人々も増えてきた。一時成金も多い。
肥満の人が異常に多い。確かに豊かになったのだが、
その豊かさの裏にP君と祖父母のように最低限度の生活さえ
保障されない家庭があることを私たちは知っておく必要が
ある。ベトナムをオートバイで縦断した人の本を読んだことが
あるが「ベトナム人の目は輝いていた」が主張したいことだった。
目が輝く前に、腹が減って、学校へ行けない農村の隠蔽された
こどもたちやお年よりがたくさんいることを知るべきである。
ベトナム人の70%から80%は農民である。
ホーチミン市やフエ市・ダナン市・ホイアン市・ハノイ市などだけ
見ていたのでは、本当のベトナムの実相は分からない。
1時間ちょっとのP君の家への訪問だった。農村に隠れて
必至に生活している祖父母の姿と何も言わないP君を
見て、国家とは何か? ベトナム社会主義、「ドイモイ」の
実態を見た思いがした。
世の中の森羅万象、表裏がある。表だけ見ていては、
本当の事象が分からない。表裏は一体で見るべきである。
人間は表の「きれいな所」だけ見せたいものである。
特に社会主義を名乗る国や政党はその傾向が強い。
午前11時半。昼食。マカロニスープ
外気温は40度近い。フオン・ソー村訪問はさずがに疲れる。
午後12時半から1時間半昼寝をする。これから10月17日まで
「夏のツアー、訪問者ラッシュ」が続く。
早速、明日から、東京を本拠にしている「こうばこの会」の方々が
来訪される。
ーーーーー
P君の家庭訪問の帰りに「子どもの家」によりセン運営委員長
と懇談。
静岡大学工学部を受験し、不合格となったHNさんの今後の
身の振り方について話し合った。
静岡大学工学部入試に失敗したHNさんは、精神的に
相当の動揺があった。HNさんはフエ省トップ高校の
グエンフエ高校での卒業試験でも「最優秀賞」を受賞している。
120万人のフエ省の理系では一番成績の良い生徒であることは
事実である。
ところがHNさんは、静大受験に失敗した精神的な動揺で
文系の「フエ外国語大学日本語学科」へ受験申請をしてしまった。
理系の勉強をしていたので、文系の成績はあまりよくない。
先日、本人とバオミンさんを介して面接したが、フエ経済大が
本当に入りたい大学だが、文系の勉強をしていなので
今年は、フエ外大日本語学科に入り、来年フエ経済大を
再度受けなおすといっていたのである。
先日、フエ経済大再受験はやめるように進言した。
今日はその結果を聞いた。
HNさんは、私たちの助言を聞いて、今年は大学受験を
止めて、予備校に行き、理系の勉強を更に進める。
1年間の理系勉強の結果を見て、来年理系のどこを受けるかを
決める。姉の行っている「フエ医科大学」。あるいは、『フエ科学
大学」などを目指すという。文系の勉強をしていないHNさんが
文系を受けても展望はない。フエ省でトップの才能を持っている
理系の能力を生かして来年の大学受験を頑張って欲しい。
HNさんは、両親がいない。フエ医科大に行っている姉と二人だ。
幸せにも理系の能力を持って生んでもらった親に感謝すべきだ。
その能力を伸ばして、人生を歩んで欲しい。
1年間の「浪人生活」は不安定なものかも知れないが、長い人生
である。浪人生活の苦しみを生かして、来年「桜を咲かせて」
欲しい。フエの場合は「火炎樹の花を咲かせて欲しい」という
べきか? HNさんも今年から来年が『人生の大きな転換期』
になるはずである。NHさんの幸せな人生を願うのみである。
投稿者 koyama : 2011年06月22日 13:03