« 「子どもの家」入所希望者家庭訪問 | メイン | 葬儀参列:ブライセン・スタッフ送別会 »

2011年06月23日

通常業務

快晴  気温38度(外気温)

午前6時起床。

午前7時朝食。キャッサバ芋の手打ちうどん

午前中、20数通のメール受信。

必要なメール送信。7月8月9月そして10月のスタディーツアー
日程を改めて見直す。


読書「無知の涙」(永山則夫著:河出書房新社)
90%程度読み終える。活字が小さいので、通常の
活字なら900ページはある。東京拘置所にいる
1970年に書いた日記風の詩や短歌、文章など
を読む。自分が4人の人間を拳銃で殺害したのは
貧しさから来る無知が原因であるとしている。
そのためには、学ばねばならないとして、資本論から
精神分析、哲学などを大量の本を読破する。
東京拘置所にいるということは、裁判中。
しかし、永山氏は「自分は死刑になる」として死を覚悟した
上で、資本主義社会を打倒する社会主義革命、貧乏人が
いなくなる社会主義のために闘うと書いている。
1970年頃は、まだ社会主義が輝いていた時代だった。
社会主義になれば貧乏がなくなり、みな豊かになると
思える幸せな時代でもあった。
昨日の火炎樹日記にあるように1ヶ月840円で生活している
ベトナム社会主義の現実を知らないで「あの世」に行った永山氏
はある意味では幻滅という現実を見ないで済んだという意味で
「幸せ」であったのかもしれない。

午前11時半、昼食。お米のご飯と野菜スープ、魚、サラダ。

1時間ほど昼寝。

その後、徒歩でベトナム事務所へ。

バオミンさん、ブライセンスタッフと懇談

その後、バオミンさん、原田先生と日本語学校の進め方、
日本料理店の運営について懇談。

日本料理店では食器の棚の改装をしていた。

沖縄での組織的戦争が1945年6月23日に終わる予定だった
日である。人口の4分の1の人々がなくなったという。

1872年に琉球王国を「琉球県」としたことを「第1次琉球処分」。
1979年、「沖縄県」と改称したことを第2次琉球処分と
言っている。

1945年6月23日の沖縄戦。日本本土の徹底抗戦を実現する
時間稼ぎとも言われている「沖縄戦争」。66年経過した。

そして今。普天間移転問題。民主党は沖縄を騙し続けた。

第4の琉球処分といえる。

こうして、琉球は、日本の盾となり、現在でも日本本土の
「捨石」のような扱いをされている。

沖縄米軍は洋上兵員を含め5万人以上。

米軍専用施設に限ればその74%は沖縄県に集中している。

私は、こうした沖縄の人々の犠牲の上に日常生活を
送っていることを知る必要があると思っている。


投稿者 koyama : 2011年06月23日 21:50

コメント