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2011年07月23日

「子どもの家」バーベキュー大会

真夏・暑い

午前5時起床

午前6時45分、徒歩で「カメリアホテル」へ。
内田さん、Oさん、原田先生、富岡先生、ソン君と一緒に
カメリアホテルの朝食バイキングを堪能する。


午前9時、バオミンさんがカメリアホテルへ迎えに来てくれる。

バオミンさんのオートバイで「子どもの家」へ。

2つの家族が「子どもの家」のこどもの退所を希望している。

親からの手紙を読むと「退所」についての動機が理解出来ない
ものがあったので、今日、親を呼んで何故退所をさせたいの
かを聞く。
私たちの基本的な立場は「こどもたちに取って最善の道」である。
同時に親の気持ちを理解する必要もある。


●一組目の事情

父親がいなく、家庭が貧しい農家。息子を「子どもの家」へ
入所させかなりの期間になる。
息子は、成績優秀でベトナム中部の最優秀高校「コックホック高校」
へ入学。
息子は、心臓弁膜症になる。「子どもの家」の力で手術をし成功。
3週間程度は、出来るだけ無理な運動をしないようにとの
医師の指示。
母親は「子どもの家」に長男がいると心臓の病気で倒れるので
はないかと心配し、退所を希望するとの手紙を送って来た。


セン「子どもの家」運営委員長、バオミンさん、私と母親で
話し合う。

母親の住んでいる地域は、フエ市内から自転車で1時間。
母親は心臓病の知識がなく、心臓の手術をしたということで
息子の心臓がいつでも「止まるのでは?」との思いが強い。
そうしたことを背景にどうしても息子を自分の身近に
置いていないと自分が「不安だ」との気持ちである。

私の意見は、「子どもの家」にいれば、「子どもの家」の医師が
常に息子の病気を見守ることができる。
「子どもの家」の医師の意見では、心臓弁膜症の手術は成功し
3ヶ月間ほど無理な運動をしないようにとの医師からの指示が
あったが、既に3ヶ月が過ぎ、一般的に言えば、「通常の生活」
をしても何ら問題がない。
万が一心臓に問題が出た場合、「子どもの家」にいれば、
専門の医師がいて、専門病院も近くにあり、手当てなども
直ぐにできる。母親の所に帰れば、フエ市内から20キロの
純農村。
心臓の専門病院もなく、真っ当な手当てが出来ない。
「子どもの家」にいた方が長男の心臓の手当てにも良い
との見解。
色々と母親と話し合う。結局、母親は「心臓の病気」ということで
いつ死ぬかということを心配している。母親の気持ちも心情的には
理解できるが、実際的には、子どもを母親の元に帰しては、
却ってこどもには大きな困難が立ちふさがるのだ。
母親の元からフエ市内のコックホック高校へ通うには、自転車で
片道1時間かかる。却って母親の心配することが現実になる
可能性が無きにしも非ず。
この点を指摘すると「自分が毎日高校まで送り迎えする」とのこと。
その後大学に入った場合、4年間も親がオートバイで大学生を
送り迎えするなど現実的な話ではない。大学に入れば、
定刻登校・定刻下校などできるわけがない。
母親は大学生生活を想像することも出来ない。これも致し方ない
ことである。

いずれにしても母親が今後5年間、毎日オートバイで農村の
田舎から息子とをフエ市内まで送り迎えするという。
小学生なら可能だが・・・・。
農村の生活しかしていない母親の生活体験・知識を考えれば
理解できるところである。


実際には、「子どもの家」にいた方が万が一のことがあった場合にも
手当てがし易いのであるが、母親の気持ちも分かる。
最終的には、母親に諸条件を全て提示し、もう一度、母親に
「考えてもらう」時間を取ってもらうことにした。
今母親は息子の心臓手術という大きな出来事に精神的に動揺
しているのは、事実である。話し合いの最中、泣いてばかりいた。
本当に息子を心配している気持ちは良く理解できる。


二人目の件。

中学2年生の男子。

最近が学校をサボってインターネットカフェーなどで遊んでいる。
学校にセン委員長が呼ばれ注意を受ける。父親に息子の
状況を報告。

父親は、息子が勉強ができなくなったのは、「子どもの家」の
せいだ。「子どもの家」にいては、息子は勉強ができなくなる。
自宅に戻したいとの意見。

私たち(小山、バオミンさん、セン委員長)は、長男が学校へ
行かないのは、勉強についていけないという根本的な
問題がある。「子どもの家」に問題があるという訳ではない。
「子どもの家」としてはセン委員長が何度も学校に呼ばれ、
話し合いをしている。

父親は、「子どもの家」にいると周りが悪いので自分の
こどもも悪くなる、直ぐに退所させたいとの意見。
父親の家庭はフエ郊外、車で3時間ほどの純農村。
1ヶ月の収入は1000円。家族は母親はいなく、85歳の祖母と
11歳の娘と長女の子ども(父親の孫5歳)で生活している。
一般的に考えて、家族4人で1ヶ月1000円では生活できない。
その上に息子を引き取るという。どう考えても家族5人で
1ヶ月1000円の収入では家族5人の生活は出来ない。
父親は字が書けず、近所の人に書いてもらった。
バオミンさんやセン委員長が質問しても真っ当な答えが
返ってこない。

かなりの時間をかけて話し合ったが、最終的には、「父親に
諸条件を話し、父親に再考」してもらうことにした。


お父さんは時々、「ピント外れ」の発言をしていた。
私見ではあるが、息子を農村の家へ迎える動機は、こどもを
労働力として使いたいという衝動と見た。

引き続き、このお父さんの娘のLさんの件。
高校受験に失敗(フエ市内の一番やさしい高校)。
今後どうするのかをLさんと話し合う。
私とバオミンさんは、日本料理店で働くように話す。
正直、勉強は苦手な子であるが、体を動かしての仕事には能力を
見出せる。
一応、来週、「子どもの家」で1日体験をすることにした。


午前11時半、話し合いを終了。
バオミンさんのオートバイで宿舎へ。

宿舎で2時間ほど昼寝。


午後3時半、「子どもの家」へ。
今日は「子どもの家」で恒例の「バーベキュー大会」

午後3時半から午後5時まで準備。

午後5時からベーベキュー大会が始まる。




「子どもの家」でも古参になったハイ君


内田さんの開会挨拶





























「子どもの家」付属刺繍土産物店のスタッフ


昨日、49日の法要をした故マン氏の席











午後5時過ぎ、バーベキュー大会終了。
その後、ベトナム事務所全員で「家庭料理」店で反省会





午後10時、宿舎着。


投稿者 koyama : 23:50 | コメント (0)

2011年07月22日

故マン氏(「子どもの家」スタッフ)49日法要参加

快晴 太陽の日差しが特に強い

午前7時朝食。フォー・ハノイ

スタディーツアー関連のメールなど受信メールへの返信

午前11時20分、バオミンさんがオートバイで迎えに
来てくれる。

6月6日葬儀を行った「子どもの家」スタッフのマン氏
49日法要が行われ、私とバオミンさん、セン「子どもの家」
委員長、ロック寮長が出席した。

故マン氏は中学校の国語の教師だった。
しかしベトナムの学校教育の仕方について、常に
疑問を提出していた。特定の思想・特定の人物を神格化
する教育を子どもに押し付けることについて、疑義を提出
していた。学校当局からもにらまれ、担任を外され、
こどもたちに触れる機会を奪われるという境遇の中で
現状と闘っていた。最終的には、現状の学校教育の
限界と一方性教育に嫌気を差して、退職、「子どもの家」
へ来たものと思われる。亡くなった後で諸事情を知った。
妹さんも南部の高校教師である。息子さんはフエ医科大学の学生。
マン氏もフエでは知識人の一人と言えるが、時代が受け入れな
かった悲運の中で生涯を閉じたと言える。
心から冥福を祈る。



蓮の実ご飯(蓮の葉に包まっている)


午後2時、宿舎へ戻り、2時間ほど休息。暑い中の法事は
かなりきつい。

午後6時半、日本料理店で内田さんと友人のOさんと夕食会。

午後9時半まで。

投稿者 koyama : 13:35 | コメント (0)

2011年07月21日

土井先生帰国、内田さん・Oさんベトナム事務所訪問

快晴  蒸し暑い

午前7時朝食  赤米のおかゆ

午前9時、徒歩でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所の3階にあるブライセンベトナム支社へ。

HさんとOさんの指導で仕事を進めていた。

午前10時、内田さんと同級生のOさんがベトナム事務所
来訪。

ベトナム事務所へお土産贈呈


ベトナム事務所で内田さん・Oさんと懇談。

午前11時過ぎ、ベトナム事務所と一緒に「バイン・クオン」
を食べに行く。



午後1時半、宿舎へ戻る。

しばらく昼寝。

午後3時から午後5時まで多数のメール受信。返信。


午後5時半、ブライセン日本本社のHさんとTさんのフエ滞在の
最終日。
ブライセンベトナム支社員と最後の晩餐・交流会。




午後9時過ぎ閉会。


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土井先生が任期を終えて日本へ帰国。1年間近く
お疲れ様でした。感謝。


日本料理店前で


フエ空港にて

投稿者 koyama : 23:10 | コメント (0)

2011年07月20日

土井先生送別会

曇り  湿度高し

朝から頭痛・倦怠感。(曇りで湿度の高い日は特に体調不良)

午前7時朝食。キャッサバ芋の手打ちうどん


午前8時、徒歩、ベトナム事務所へ。
書類のサイン・・・。


午前8時半、ベトナム事務所3階のブライセンベトナム支社へ。
Hさん・Tさんが今日から3日間、ブライセンベトナム支社の
スタッフへの技術・精神指導。ありがたいことである。





今日は20日、給料日。ベトナム事務所員の皆さん
一人一人に感謝の気持ちを込めて、頭を下げ給料を
手渡す。土井先生は今が最後の月給日。
より一層、感謝の気持ちを込める。


午前9時過ぎ、バオミンさんのオートバイのうしろに
載り、「子どもの家」へ。

「子どもの家」の2人のこどもの退所について、セン委員長、
ロック寮長と相談する。1時間半。

宿舎へ。

午前11時半、昼食 春雨麺

午後2時前、徒歩、ベトナム事務所へ。

ブライセン入社希望者面接 バオミンさんの通訳。


午後4時半、一度宿舎へ帰り、30分ほど横になる。

午後5時半、ベトナム事務所に集合し、徒歩で「土井先生送別会
会場」へ。

会場はフォン川に面した芝生のレストラン「フルハウス」。
富岡先生の司会で「土井先生の送別会」は始まる。


私の「送別の言葉」。


土井先生の送別会に参加した日本料理店のこどもたち。
今日は日本料理店を閉店し、送別会に参加。


日本語教育部長のフーン先生からJASSを代表してお礼の
プレゼント


原田先生からベトナム事務所員・こどもたちの寄せ書き贈呈



土井先生の「離任の言葉」。1年近くの日本語教育・日本料理店の
仕事を振り返り、一つ一つの思い出を言葉にする。
聞いているベトナム事務所員の目からは、夕闇に光るものが
ポツンと落ちた。





最後のバオミン・JASSベトナム運営委員長の「乾杯の音頭」で
土井先生の前途を祝す。




土井先生に贈った思い出の「フエ生活」写真などの一部



フエ名物「イカリング」


ししゃも


日本語教師の仲間のベトナム人教師


「子どもの家」で一緒だったソン君・グエットさん・ヒエンさん



「フェリシモ」、刺繍、絵画展など担当の3人


宴もたけなわとなりつつある。



「規律のある送別会を」とか何とか口走っているバオミン運営委員長
を無視する小山代表。(一番規律を乱しているのは誰だ)


牛肉と野菜


子豚を「トロリ トロリ」と焼いた。脂が落ち、 柔らかく美味。


夜も8時半近く隣り、最後に一人一人が「土井先生」に送別の
言葉を述べ、前途の幸せを祈る。




ベトナム事務所・日本料理店スタッフ全員が日本語でお別れの
言葉を言う。





司会の富岡先生のお別れのことば


原田先生の言葉


日本語教師「フオン先生」(「今晩は」先生とも言う)の言葉



日本語教育部長フーン先生


送別会の最後に記念写真撮影


女子会全員で

午後9時 前、土井先生の送別会は終了した。

これまで1年近くベトナム事務所を手伝って頂き心から
感謝申し上げたい。高温多湿、気晴らしをする場所もないフエで
ある。良く1年間我慢して頑張ってくれたと感謝したい。
帰国後も勉学に励み、希望の人生を歩んで欲しい。

そして、今日の司会を見事にやり遂げた富岡先生に深謝。


ーーーーーーーーーーーーーーーーー
テレビ・インターネットなどでは「なでしこジャパン」の言葉が
踊っている。食傷気味。

そこで一言 松鶴家千とせ

 「わかるかな・・? わからねえかな?」

大和魂と共に生まれし「なでしこ」の先祖返りか自由・育鵬

投稿者 koyama : 09:49 | コメント (0)

2011年07月19日

ブライセンH氏・T氏フエ来訪

快晴

午前7時朝食。フォー・ハノイ

午前9時、徒歩、ベトナム事務所へ。

バオミンさん・原田先生と当面のいくつかの重要な問題に
ついて協議。

1時間半ほど、話し合いを行い、当面の方針を決める。

午前11時半、昼食。マカロニ・スープ


長期間の暑さのため体調があまりよくない。体がだるい。

食後、直ぐに横になり、休む。暑さの酷い時は、とにかく
休養しかない。

午後3時からいくつかの文章を作成する。

バオミンさんと電話で打ち合わせをする。

午後7時半、ブライセンのVU君・THI君と一緒に車でフエ空港へ。
フエ空港でフォンザンホテルなど「フォンザングループ総裁」
のドン社長と出会う。いくつかの件について話し合う。

午後8時半、ホーチミン空港からブライセン本社のH氏とT氏が
フエ空港到着予定だったが、30分遅れる。
午後9時到着。荷物を持って空港内から出てきたのが
午後9時20分。

ブライセンベトナム支社VU君・THI君と3人で出迎え。

そのまま車でフエ市内フォンザンホテルへ。午後9時45着。

VU君とTHI君の来訪のお二人で遅い夕食。
私は宿舎へ帰る。

この数日の暑さで食欲と体力をかなり消耗したようだ。
頭痛と倦怠。立っているのが少し辛い。奥歯の歯痛あり。
この数日、かなり長文の文書を書いたりと大使館とのやりとり
など精神的な消耗する出来事が多発した。さすがに疲れる。
直ぐに横になり寝る。

明朝、ブライセン本社から来たHさん・Tさんとブライセン
ベトナム支社へ。
午後2時、ブライセンベトナム支社入社希望者面接。
午後5時半、「土井先生送別会」。(ベトナム事務所員・
日本料理店のこどもたちなど14人の送別会。


投稿者 koyama : 18:13 | コメント (0)

2011年07月18日

元ロスアンゼルスのO先生フエ来訪

快晴 暑い

午前7時朝食。ブンボーフエ

午前8時半、徒歩でベトナム事務所へ。
元ロスアンゼルス日本人学校のO先生が
ホーチミン市から日帰りでフエ・「子どもの家」視察。

8時半から2時間ちょっと、O先生、バオミンさんと懇談。
ロスアンゼスル日本人学校は玉川学園大学の先生が
自由主義教育の継承を標榜し、創設。
10年ちょっと前に私を招請し、小学校から中学校までの
全クラスを回り、講演を行う。
講演会後、児童・生徒の皆さんは、ロスの日系スーパーで
「子どもの家」支援の募金活動を行ってくれた。
その募金を「子どもの家」へ送金してくれた。
その中には松田聖子の娘さんもいて、スーパーで
ベトナムのストリートチルドレンへ支援をの箱を持って
募金をしてくれた。

お土産の浜松「春華堂」の「ウナギパイ」を頂く。

昼前まで懇談。

一度、宿舎へ帰り昼食。チャオ・バイン・カイン

午後1時半、ベトナム事務所でO先生と合流、
バオミンさん・O先生と一緒にJASS日本語学校を視察。
土井先生が静大工学部留学コースの授業を行っていた。



土井先生の授業はしっかりと計画されていた。
ホワイトボードに書く漢字は、丁寧できちんとした漢字だった。
こうした基礎授業をしてくれると本当に助かる。ベトナム人の
先生の授業は「とめ」も「はらい」も「はね」も区別なく教えるので
きちんとした漢字が書けない。


日本語学校視察を終わり、「子どもの家」へ。

セン運営委員長と懇談


最近入所した男子(左側)と一緒に写真撮影

施設案内

絵画教室では、タン君がターオさんと一緒に漆(うるし)の作品を
作っていた。


「子どもの家」査察を終わり、午後5時から午後7時半まで
日本料理店で夕食。バオミンさんは途中で退席。
代わりに富岡君に同席したもらう。

午後7時半、O先生はフエ空港へ。


その後、原田先生、土井先生、富岡先生が
日本料理店の手伝い。来客は10数人。

午後9時過ぎ閉店。徒歩帰宅。

投稿者 koyama : 23:49 | コメント (0)

2011年07月17日

日曜日、久々の休日

快晴  午前9時起床

午前11時半、ブランチ。センさんが作って冷蔵庫においていある
「マカロニスープ」を半分温めた食す。

15通メール受信。返信。
いくつかのスタディーツアーについてのメールを送信。

洗濯。


部屋の掃除。

午後2時から2時間ほど昼寝。

某団体へ送信する文書の最終確認。
2時間ほどかかる。

読書「戦後史」(中村政則著:岩波新書)
興味津々。

午後5時、朝の「マカロニスープ」の半分を食べ、夕食とする。

今日は日本時間午後3時(ベトナム時間午後1時)の
女子サッカーワールドカップを見るために早めに寝る。

投稿者 koyama : 19:58 | コメント (0)

2011年07月16日

ベトナム事務所員会議

快晴 蒸し暑い  夜8時小雨

午前7時朝食。フォー・ハノイ

午前8時過ぎ、徒歩、ベトナム事務所へ。

午前8時半、ベトナム事務所員会議。

今回は土井先生最後のベトナム事務所員会議である。

(ミン・JASSベトナム運営委員長)
今日は土井先生最後のベトナム事務所員会議になる。
いくつかのスタディーツアーが入ったので、新しく入った
スタディーツアーについて意思統一をしたい。

①7月20日、午後5時半から土井先生の送別会を盛大に行う。
  会場は「フルハウス」。上品な場所なのでくれぐれも回りの
  人たちから顰蹙(ひんしゅく)を買わないように。

▲バオミン・JASS運営委員長の「顰蹙(ひんしゅく)」という
  言葉に異常反応している小山JASS代表。
   何故、小山代表が「顰蹙(ひんしゅく)」という言葉に
   異常反応をしたのか? 

へらへら笑って「何か問題」を隠しているバオミン運営委員長。

その他のベトナム事務所員は、これから来るたくさんの
スタディーツアーの若者の案内、お世話についての意欲を
示していた。

・7月21日の昼。土井先生・ベトナム事務所員・内田さんと
 土井先生最後の昼食会。

・7月29日からのピースインツアー主催のスタディーツアーの
 説明

・青少年教育の会のスタディーツアーは、JASS主催の
 スタディーツアーなのでベトナム事務所員は一丸と
 なって成功のために頑張って欲しい。


7月22日にベトナム事務所での任期を終えて帰国する
土井先生。

JASS日本語学校・フエ高等師範大学日本語学科での
日本語教育に意欲を燃やすフオン先生、フーン日本語部長

ベトナム事務所会計の責任者ハンさん。
「フェリシモ」の責任者アンさん。

ベトナム事務所員会議の最後にバオミンJASS運営委員長から
の言葉

・土井先生のご健康をお祈りする。
・ベトナム事務所員の皆さんもこれから忙しくなる。
 くれぐれも体に気をつけて欲しい。

午前11時半。昼食。ベトナム風魚の「おじや」

我が宿舎の隣りはシクロ(自転車タクシー)の溜まり場。
毎日のように朝から5人~6人のシクロの運転手さんが
集り、宴会。大声で歌を歌う。隣で仕事をしている私は
うるさくて仕方がない。

バオミンさんを通して食事を作ってくれるセンさんに話し、
隣りのシクロさん「酔っ払い宴会集団」に40本のフダビールを
差し入れする。

毎日のように5人~6人のシクロ運転手が集まり飲んで
歌っている様子を隣で迷惑な気持ちで聞いていた。
何故、このベトナム人は朝から飲んで宴会をしているのか?
疑問に思った。

しばらく彼らの「挙動」を注視していたが、私は我が父親の
思い出が蘇ってきた。私が小学校から高校まで
シクロ運転手と同じ様なことをしていた、と思い出したのである。
父親は20歳で徴兵され35歳で日本の敗戦を迎えた。
15年間中国での戦争に最下層の一兵卒として従軍した。
戦争に負けて中国から帰国したのが35才。戦争に15年間
従軍し、真っ当な仕事の経験はない。
こんな男が仕事に成功できるのはなかなか難しい。
仕事に失敗し、52歳で脳溢血で死ぬまで貧乏な暮らしを
していた。

私は隣の小さな小屋のような家で5人~6人のシクロ運転手が
集って毎日飲んでいる様子を見て、最初はうるさくて「腹が立った」
が、最近は、彼等の気持ちが何となく分かるようになってきた。
トヨタの新車を乗り回しているフエ人がいる。家族全員が肥満の
人たちもいる。うまく「時流」に乗って金儲けした人間と
時流に乗れず(乗らず)、いつも「下住み」の生活を余儀なくされて
いるフエ人も多い。
隣りのシクロ運転手さんも「時流に乗れなかった」の
かな? と思うと何となく親近感を覚え、40本のビールを
進呈した次第である。

1時間ほど昼寝。

午後4時、徒歩ベトナム事務所へ。

午後4時半過ぎ、京都の楠本さん来訪。

日本語の新しい教科書を作っているという。見せてもらったが、
なかなか分かり易い教科書だった。

午後6時半まで話し合う。

日本料理店は、既に満席に近い。日本料理店の手伝いをする。

体が疲労で固まり、そのまま倒れそう。

徒歩で帰宅。午後7時半。

投稿者 koyama : 22:02 | コメント (0)

2011年07月15日

ある団体へ送信するメールの検討:税田さん帰国飛行機遅れる

快晴  非常に蒸し暑い。

終日、体がだるく体調悪し。ハンさん、アンさん、土井先生も
体調が悪い。

午前7時朝食。精進ブン麺
今日はベトナムの全土で旧暦の「精進料理」を食べる日。


午前中、ある団体へ送信する長文の文書を精査し、ベトナム事務所員
の回覧にまわし、ベトナム事務所としての態度を添えて、ある団体へ
メールを送信する準備をした。

午前11時半昼食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)


体調が悪い。体がだるい。

昼寝をかねて午後は休んでいた。

メール多数受信。必要な返信。

午後4時、ハノイ大使館へ電話。
ベトナム事務所の担当者がハノイ在住の新聞社・テレビ局などへ
「バンベー」を送りたいので、大使館にハノイ在住の新聞社・
テレビ局の連絡先を教えて欲しいと申し込んであった。
この2週間、真っ当な返事がない。JASSは、バンベー39号を
ハノイ在住の日本の マスコミに送り、フエでの活動を知ってもらおうと
いう意図だった。特にバンベー39号には、JASSベトナム事務所で
4回にわたり「東日本大震災」支援活動を行った。フエ市人民委員会
とJASSとの共催で行った支援集会では、120万円の寄金が集った。
フエ市人民委員会はハノイの大使館に送っている。
こうしたフエでのJASSの取り組みなどをハノイ在住の日本の
マスコミに知って欲しいとの気持ちである。しかし、ハノイの日本
大使館は、真っ当な返事をしないまま2週間も放置していた。
失礼極まりない日本大使館の態度である。

私はハノイ大使館のマスコミ担当(広報班)に電話をした。
担当の2等書記官の日本人がでた。何故、2週間もの
間、JASSからの要望(ハノイ在住マスコミの連絡先を教えて
欲しい)について、放置しているのか?と問い合わせる。
担当二等書記官の答えは「ハノイのマスコミの連絡先は
個人情報だ。マスコミに問いあわせをしてJASSに連絡先を
教えて良いかどうかを聞いているところだ」とのこと。
私は担当者に「テレビ・新聞社は公式に連絡先を公示している。
誰でも知る権利がある。テレビ・新聞社の連絡先は個人情報で
はない。5年ほど前、ハノイの日本大使館に同様のお願いを
した際、大使館の広報班は、朝日、NHK、共同通信、赤旗
などの連絡先を教えてくれた。
私は担当の二等書記官に「5年前は教えてくれたが、今回は
教えないのは、どんな理由だ」と再質問。担当者は答えられない。
そもそもテレビ・新聞は「社会の公器」。国民の知る権利を
具体的に保障し実現するためにテレビや新聞などは、報道の自由を
主張することができるのだ。テレビ・新聞に報道の自由があるのは、
日本国憲法の基本的な精神である「国民主権」を具体化するもの、
マスコミの報道の自由である。報道の自由があるマスコミは、
会社の連絡先を「秘匿する」義務はない。基本的に公開する義務が
ある。国民がテレビや新聞社へ抗議や連絡をする権利を持っている。
どの新聞社もテレビ局も必ず連絡先を公示している。

私は以上の主張をしたが、ハノイ日本大使館の広報の担当者は
個人情報なので新聞社・テレビ局に「JASSへ連絡先を教えてよいか
という許可が取れないと教えられない」との態度である。
馬鹿馬鹿しい話だ。外務省や大使館は世間の常識が通らない
連中の巣窟のようにおもえた。国民の多額の税金をもらって
ハノイの大使館で仕事江をしているのだ。主人公の国民に
奉仕する公僕であるという意識が全くない、威張ったお役人根性
丸出しの人間である。二等書記官にこれ以上話をしても
知識がない人間であると思い、「広報班の責任者を出すように」と
言う。Tさんとういう広報班の責任者に上記の話をし、テレビ局・新聞社
の連絡先を教えるように依頼する。
私は広報班の責任者に「貴方は広報班の責任者だが、広報班の
任務は何か?」と聞く。「大使館やベトナムで活動している日本人
の活動紹介などがまずもって主な任務でしょう?。フエで活動して
いるNGOの会報をテレビ新聞社などに紹介するのは、本来
大使館の広報の役目である。私たちがその役目を代行して
自分たちでベトナムで活動している日本人の活動を広報しようと
しているのだから、あなたたちは、協力して仕事をする義務は
あっても邪魔をする権利はないはず」と詰問する。

さすがは、広報班の責任者「私たちが間違っていました。
謝罪します」とのこと。私はハノイ在住のテレビ局と新聞社の
連絡先を教えてもらえばよいので、それ以上の話をやめ、
連絡先を明日にでもメールで教えてもらうことにした。
同時に納税者であり主権者の国民に嘘をつき、自らの
任務を放棄したことを謝罪文にしてJASS事務所に送るよう
話し、責任者は同意した。

本当にハノイの大使館の広報は、親方日の丸である。
誰のお金で生きているのかを忘れている。
国民に奉仕する役割が大使館の仕事である。外交も
最終的には国民に奉仕するものである。
こうした大使館・外務省の任務を忘れ、自分が国民より
「偉い」と勘違いしてるハノイの大使館員がいることは、残念で
ある。もちろん全員がそうだと言っているわけではないが。
上記の出来事は、事実である。もし、ハノイの大使館員が
このメールを読んで異議があるのなら、名誉毀損でも何でも
良いから裁判でも何でも持ち込んで欲しい。事実は事実である。

そんな電話のやり取りをしている間に税田さんのフエ →
ホーチミン市行きの飛行機が午後5時から午後9時半に
遅延したとのこと。
税田さんから電話があり、一度、フエ市内に戻るとのこと。
日本料理店で合流し、一緒に夕食を摂ることにする。

午後7時半、税田さんは再度フエ空港へ行く。無事な帰国を
祈る。


今日は次から次へ来客あり。午後10時近くまで続く。
結局、本日のお客さんは31人。本当に忙しかった。
昨日は27人。


午後10時過ぎ、徒歩で宿舎へ。

非常に疲れた。

投稿者 koyama : 00:03 | コメント (0)

2011年07月14日

各種スタディーツアー日程・多量のメール受信

快晴

昨夜遅くまでの飲んだので朝起きられなかった。

午前7時朝食。青豆のおかゆ


いくつかのスタディーツアーの日程調整

多量のメール受信・返信


午前11時半昼食。ご飯、野菜サラダ、魚、スープ



今日は体調不良。気温と飲みすぎ

2時間ほど昼寝をする。

読書「戦後史」(中村政則著:岩波新書)半分ほど読む。
真っ当な戦後分析。

バオミンさんとなんどかいくつかの問題で協議。

夜3時間かけて某団体への返書を原案を書く。

投稿者 koyama : 19:54 | コメント (0)

2011年07月13日

税田さんフエへ

猛暑

午前7時朝食。キャッサバ芋の手打ちうどん


午前7時40分。徒歩、ベトナム事務所へ。

ベトナム事務所では、事務所員が猛暑の中、エヤコンを
「超弱」にして勤務に励んでいた。



午前8時過ぎ、ベトナム事務所員の税田さんが来訪。
家庭の事情で休暇を取り、父親の面倒を見ている税田さんが
数日のフエ訪問。

ベトナム事務所員へお土産。


全員に挨拶。記念写真。



午前10時。宿舎へ。

多数のメール受信。返信。


午前11時半、昼食。魚入り「春雨麺」。

洗濯。

2時間ほど昼寝。

読書「戦後史」(中村政則著:岩波新書)
2005年初版。

戦後史について、2001年9・11以後の情勢も
入れながら分析。戦後のそれぞれの時期に言われた「戦後」
の分析をしている。その時代によって「戦後」の概念の違いはある。
60ページほど読んだが、ほぼ私の思っている「戦後史」と同質。

午後4時。NHKで菅首相の記者会見を聞く。
色々なことを言っているが、基本は
①将来、原発のない社会を作る。原発に依存しない社会
②その間、計画的・段階的に原発をなくす。

というもの。これは、今までの政府などの「原発神話」に
依存している政策・考え方からは、大きく「原発ゼロ」に
近づいた考えで評価できる。

その後の直接の記者との会見では「停止中の原発」の
稼動再開はあるのか? との質問には、あるという趣旨の
回答をしている。矛盾に満ちている。

日本の首相ではっきりと「原発に依存しない社会」という
メッセージを断言した点は評価する。「死に体」の
菅首相の言葉の軽さをこの間見続けてきた国民が
菅首相のメッセージをどう受け取るのだろうか?
私見では菅首相の今までの態度がどうであれ、
首相が「脱原発依存社会」という国民の気持ちを表明した
ことは、評価すべきである。実行できるかどうかは
大いに疑問であり、実行の力がないのでは?との
疑念が多いに残るが・・・・。

午後5時過ぎ、徒歩で日本料理店へ。
途中、小学校低学年位の年頃の女の子が、ゴミ箱の
中のごみや、路上に積んであるごみをあさり、「金になりそうな」
ものを拾っていた。
経済成長の進んでいるベトナムといわれる見えない実態である。


午後6時、日本料理店で税田さん・バオミンさんと夕食。

午後9時半までに17人の来客あり。

フランス人の家族。小学生位のこどもが、日本の震災・原発に
ついて「激励」の署名をしてくれた。

その後、土井先生・原田先生・富岡先生も交えて、交流会。

午後11時半過ぎ閉会。

飲酒をしていないバオミンさんのオートバイの後ろに乗せてもらい
宿舎へ。午前0時。
そのまま寝てしまう。


投稿者 koyama : 19:27 | コメント (0)

2011年07月12日

各種打ち合わせ

快晴  気温39度

午前5時起床


午前7時朝食  フォー・ハノイ

午前9時。ベトナム事務所でバオミンさん・原田先生と
いくつかの問題で打ち合わせ。

ベトナム事務所では、
刺繍を「子どもの家」の刺繍の先生が持ってくる。
担当のアンさんと刺繍の出来具合いを一つ一つチェック。


午前11時半、昼食。ベトナム風おじや。

午後2時間ほど昼寝。

午後3時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。

刺繍の先生とアンさんが刺繍のチェックを引き続きしていた。

バオミンさん・原田先生といくつかの問題で打ち合わせ。
既にベトナム事務所員会議での打ち合わせを終わり、
3人で最終打ち合わせ。

午後5時半、日本料理店の夕食。
富岡先生は日本語学校の授業。

日本料理店の夕食は「チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)

午後9時15分、宿舎へ帰る。来客16人。

オチャラケ南北朝歴史川柳


交代後天皇(清水天皇)へ

天 東電を 空しうすることなかれ
時に やらせメール 無きにしもあらず

(作)九電 高徳(のり)

投稿者 koyama : 23:24 | コメント (0)

2011年07月11日

ベトナム事務所員体調崩す

快晴  

午前7時朝食。ブンボー・フエ


午前8時、宿舎を出て電動バイクで「子どもの家」へ。
8時半から「子どもの家」へ新しい子ども(6月22日家庭訪問をした)
が入所する。

入所の様子や入所の手続き、入所にあたっての話などを
聞く予定だった。
8時半前に「子どもの家」へ着いたのだが、既に全ての
入所の手続き、儀式等は終わってしまっていた。
バオミンさんに電話で確認。
バオミンさんも心配して午前8時に電話で「小山先生が行くから」
と連絡をしていたのだが・・・・・。この辺がベトナムに18年住んで
いても今でも「理解」出来ないことである。

全て終わってしまっていたので、6月22日に家庭訪問をした
P君と祖父、紹介の婦人同盟の方の写真を撮る。

P君の幸せを祈る。

仕方がないので「子どもの家」を出て宿舎へ。

途中、「子どもの家」近くのお堀は、「蓮の満開」の時期。
茨城の土浦市も蓮の花の時期に入ったのだろうか?

午前11時半。昼食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)

2時間ほど昼寝。この暑さは、「居るだけで」体力を消耗する。

何もしないでも「生きている」ことが、暑さとの闘いである。
基本は自己防衛。自分の頭で考え、自分の体と相談し、
必要な休養、給水など、全て自己責任。ベトナムでこのような
生活を18年もすると、自分で自分を守る「自己防衛」がしっかりと
身に付く。
日本の報道を聞くと「熱中症」で何百人も何千人もの人たちが
倒れているとのこと。本来、人間としてもっていた「自己防衛能力」
が「便利な生活」の中で衰退してしまったことを意味している。
『豊かさ』と『便利さ』は同時に人間の本来持っている「自己防衛能力」
を失っていく過程でもある。

読書「神戸ブンド 藤本敏夫のうた プロレタリア文学万年少年が
   たどった軌跡」(和田喜太郎編:出版 アットワークス)読了

人間は最終的には「思想に殉ずる」のではなく、「人間・生命」
に殉ずるのだ、という良い実践例だと思った。
藤本は、貧しくて小学校を中退。戦前はプロレタリア作家葉山嘉樹
を愛読し、自宅まで訪問している。戦後、福岡の田川炭鉱で働き
日本共産党田川炭鉱細胞を作る。
6全協以前は、主流派に属し、山村工作隊活動を行い
暴力で革命を起こす活動も行う。その後、兵庫県八鹿市に
移転し、八鹿市共産党地区委員。1960年の安保闘争で
樺美智子が国会突入で死亡。樺美智子が東大を中心に作った
共産主義者同盟(ブンド)の神戸支部を作る。ブンドは学生を
中心に共産党の指導や理念の誤りを批判する過程で出来たもの
と自称。現在の「新左翼」「トロツキー主義者」のはしり。
非常に理念的な組織だった。炭鉱や日雇い(全日自労)などで
働く労働者は、ブンドなどの活動を理解出来ない時代に
労働者としてブンドに加盟。その後、ブンドの内紛と解散。
三里塚闘争にも参加。結局、藤本敏夫の人生を見ていると
思想ではなく、人間の真面目な生き方を追求したように
思う。天理教の信者でもある。社会の最底辺で生きた
貧しい人間の側に立ち生きようとして人生は読み取れる。


午後3時半、バオミンさんと電話。バオミンさんは体がだるく、
これ以上ベトナム事務所で仕事が難しい、とのこと。
私は急いで家へ帰り薬をもらい寝るように話す。
ベトナム事務所のアンさんも同様の症状で今日は休んでいる。

午後3時過ぎから、バオミンさんといくつかの問題について
打ち合わせをする予定だったが、健康を回復するまで延期。


午後5時過ぎ、ベトナム事務所へ。
日本人スタッフ・こどもたちと夕食。
原田先生は日本語学校の授業。

欧米系のお客さんが結構来ている。お寿司の注文多し。


今日の日本料理店の来客は24人。

読書「戦後史」(中村政則著:岩波新書)2005年版

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今日は、東日本大震災と福島原発事故が起こって4ヶ月になる。
遅々として復旧・復興が進んでいないのは、政治的な「人災」。


震災の被災者救援と早期の復興を祈る。
福島から圏外に出た人は3万5千人にものぼるという。
被災者と被害者の全ての皆さんにお悔やみとお見舞いを申し上げたい。

この4ヶ月間で私たち日本人は多くのものを学んだ。

①国家や「お偉いさん」は全く信用ならない存在
  平気で嘘をいい、国民が苦しんでも自分たちの安楽が
  保てれば、満足する人間集団。我欲の塊(かたまり)集団。
②大資本家(東電・九電・日本経団連・・)は、
  自分たちの都合の良いように物事を進めようとする。そのために
  嘘でも何でもつく。
③学者だけは学問の良心があるので本当のことを言うのかと
  思っていたら、これらの連中も平気で「嘘」をいい、その嘘の
  結果について、何ら反省と自己批判もしない。
   小学生にも「間違ったら、謝りなさい」と教育をするのだが・・
   小学生以下の研究者と称する人間が、社会を闊歩している。
   学者としては失格である。
  ごく少数の学者が真実を述べているが、差別の中で相応の
  地位を得ることができず、排除されている。
   日本社会は戦前の「戦争に反対する人たち」を非国民・
   共産党・赤・・・・などと誹謗し、社会から排除していった。
  今の日本も原発に疑義を呈している人間を社会から排除
  していた。民主主義社会とは言っても本当の民主主義は
   育っていない傾向が強かった。

④結局、国家も学者も信用ならないと「一国民」としては、腹を括り
 自分の目と耳と頭を使い、社会や人間を見る「鼻」を利かせ
 自分の判断をしっかりと出きる国民・市民になっていかなければ
 ならない、と悟った。
  これは、アジア太平洋戦争で日本人は国家の「暴力」で  
 戦争に借り出され、満蒙に送り出され、アジアを侵略し、
 最後は、「国家に捨てられた」苦い経験を忘れてしまった
 「つけ」でもある。
⑤今後、原発を更に推進するのか、段階的も含めて、最終的には
  原発に「頼らない」社会・日本国家を作っていくのかが、国民的な
  争点になってくる。
  私見では『30年~40程度』(原発1基の寿命)の「安楽な生活」
  をするために、数万年後(原発廃棄物の放射能がなくなる)まで
  の子孫に「つけ」を負わせるような人間にはなりたくない。
  生活水準が下がっても良い。子孫が、安心して生きていける国土
  を保持したい。そのために原発に代わる「エネルギー」の開発に
  お金を投入すべきである。

投稿者 koyama : 17:28 | コメント (0)

2011年07月10日

2010年度JASS函館の会総会報告

快晴


午前6時起床。

午前7時、マカロニスープの半分を食べる。

生茶葉を煎じたお茶を毎日飲んでいる。
ベトナム人の話では、体に良いという。

物を食べると右の奥歯が痛いので、何となく
物を食べるのが億劫になっている。

液体類や豆腐などが一番いいのだが・・・・。

たくさんのメール受信。

半日かけて返事などを出す。

洗濯・布団干し。


読書「神戸ブンド 藤本敏夫のうた プロレタリア文学万年少年が
   たどった軌跡」(和田喜太郎編:出版 アットワークス)
アットワークス社長より寄贈。
藤本敏夫と言っても加藤登紀子の夫ではない。


午後5時。まだ青空が残っている空に月が出ている。


段々、怪しげな雲行きになってきた。

お陰で涼しい風が吹き出した。

今日は1日中、暑かった。


「続きを読む」にJASS函館の会の総会の様子を掲載
クリックすると出ます。


2010年度「JASS函館の会」総会報告

2011年5月18日、JASS函館の会総会が開催された。
内容は以下。


(竹内啓太 JASS函館の会新事務局長よりの報告)

H22年度JASSはこだて総会では、
会計報告と会計監査報告。

●行った事業内容の確認
●23年度人事
→新事務局長に竹内啓太氏が就任。
●今後の活動方針について
①若年層の会員を増やす策 ②今まで活動したもの以外のイベント等への積極的な参加
などについて議論しました。



2011年5月18日、配布された総会議案


平成22年度 「JASSはこだて」事業報告      (平成23/ 5/18   総会資料)
H22年(2010)
・01/11 バンベ36号到着。
・02/02 渡島支庁へ作品展依頼を打診。3月第2週に決定。
・02/04 当会、役員会。キングベーク本店にて。年度反省と次年度への取組み、総会日程を検討。
・02/12 渡島支庁訪問。事業計画書提出。川人。
・02/19 渡島支庁より使用許可書到着。
・02/15 「第6回 地球まつり」第1回目の実行委員会。会場と時期について協議。川人参加。
・02/21 東京にて現地報告会(総会)開催。JASSはこだて、欠席を通知。
・03/08 ~12日まで、渡島支庁にて「子どもの家」作品展開催。Hさん、Tさん、TNさん、
Uさん、川人参加。TSさんがJASSはこだて会員に入会。
・03/18 「第6回 地球まつり」第2回目の実行委員会。会場と時期について協議。川人参加。
     ◆「第6回 地球まつり」・青年センター・10月3日(日)に決定。
・03/19 JASSはこだて 「総会、懇親会」中道「ひだか」にて。Hさん、Uさん、Tさん、
Mさん、TU君、川人の6人出席。TNさん(旅行)欠席。
・08/25 子どもの家の製品を発注。
・09/16 地球まつりのバザー製品、到着。     
・10/02 地球まつり、準備。床シート貼り。パネル設置。作品展示。川人、H、T、TS、TN
     参加。
・10/03 地球まつり、当日。川人、H、T、TS、稜北生2名参加。

・11/16 バンベ38号の原稿、ベトナム事務所に送る。
・12/07 地球まつりの賞状と副賞がベトナムの子どもの家に届く。
・12/13 役員会、19:00、キングベークにて。 
・ベトナムのクリスマス会で表彰式 実施される。
・12/17 北海道渡島総合振興局、地域政策部地域政策課の舩木氏より回答あり、3月14日~18日
     しか空いていないとの連絡あり、予約する。
・12/18 バンベ38号が100部到着。
・12/27 子どもの家の表彰式の写真届く。
・01/19 絵手紙の返事が届く。昨年は8月だったので、異例の速さだ。クリスマス会に間に合うよう
に送れば早い返事がもらえる。
・01/21 川人・T会談。19:00、キングベーク。代表の件。
・01/25 東京の総会は欠席とする。その旅費の分を特別会計に積立することにする。
・02/02 渡島総合振興局に絵画展示計画書を提出。
・02/12 東京総会、実施される。本会は欠席。
・02/15 渡島総合振興局より使用許可書到着。
・03/14 ~18日まで、渡島支庁にて「子どもの家」作品展開催。Hさん、Tさん、TU参加。
・04/25 バンベ39号の原稿、ベトナム事務所に送る。

平成22年度 「JASSはこだて」総会・懇親会 次第 (平成23/5/18 総会資料)


* 会計監査 19:00~19:30
* 総  会 19:30~22:00

1 開会挨拶                (T)

2 事業報告                (川人)

3 会計報告                (H)

4 会計監査報告              (T)

5 懇親会                 (T)

(ア) ゲスト(S、K、M)紹介      (T)
(イ) 一人一言、懇談           (全員)
(ウ) フエ大学に留学下S山さん活動報告  (S山)

6 閉会の挨拶・お開き           (T)

平成21年度 「JASSはこだて」総会・懇親会 次第 (平成22/3/19 総会資料)


* 会計監査 18:30~19:00
* 総  会 19:00~21:00

1 開会挨拶
2 事業報告(川人)
3 会計報告(H)
4 会計監査報告(U)
5 役員改選
6 会則一部改正について
(ア) 懇親会(T)
(イ) ゲスト紹介(T)
(ウ) 一人一言、懇談(全員)
7 閉会の挨拶・お開き

(JASSはこだての年譜)
1、2005(H17)年4月
ベトナムの「子どもの家」を支える会 実行委員会として発足。菊 清美代表、川人弘隆事務局長の会員2名。それに教育大生2名が特別参加。一年目の事業として、函館中央郵便局ホール(10/17~29)、教育大学ホール(11/7~18)、地球まつり展示バザー(11/20)、渡島支庁ホール(11/21~12/2)。小山道夫さんを招き、元函館北高校(10/20)、国際交流センター(10/21)にて講演会実施。小山先生を囲む会を本町「稜雲亭」で実施、小山先生、川人、菊ご夫妻、HIFOさん、教育大生1名参加。その後、北高生や江差高生の生徒会が小山先生の講演に刺激され、上靴寄贈活動に発展する。函館市、函館市国際課、教育委員会、教育局などの後援を依頼するにあたり、団体としての会則等が不備な為、承諾を得るのに苦労した。NGO団体として対外的に組織を明確化するため、会則作りに着手。年間、一人当たりの負担金は3万円を越えた。ただし、小山道夫先生にお会いして話し合っている内に300万円の退職金を投げ打って子ども達を救おうと決心した先生の事を考えると、その比ではないと思う。

2、2006(H18)年4月
川人が代表となり、菊さんが事務局長となる。I塚さん、M田さん入会。菊 正俊さん、教育大生2の会員7名。菊教頭の転勤を見越して役員改選をした。正式名称を、ベトナムの「子どもの家」を支える会 JASSはこだて として、本部の会則に準拠した形で、JASSはこだての会則が3月9日付で完成した。アースデー(4/22)、函館商業高校(7/15,16)、第2回地球まつり(10/8)、画廊喫茶「亜ろう」(10/13~20)、渡島支庁(10/23~11/2)、文雅堂社長の口添えで旭ヶ岡老人ホーム(11/6~17)展示&バザー、「学校に行こう」のビデオ上映、5人の入居者に手紙を書いてもらいベトナムに送る。函館市役所ホール(11/20~12/1)。公文書関係と展示回数多く、疲労困憊となり反省。展示会数の減少を考える。

3、2007年(H19)3月
教育大生2名卒業、当会を自然退会。菊ご夫妻が札幌に転勤、2名自然退会。
両人と川人、I塚さんの4人でささやかに「ひだか」で送別会を行う。川人代表、I塚副代表兼会計、Tさん、Mさんに加え、竹内啓太くん、Hさん、Uさん入会、会員7名でスタート。HIFのOさんの案内でHIFでのアースデー、に参加、Iさんの個展の下見をかねて画廊「亜ろう」で展示会実施、会場費無料、お礼に絵はがき、Tシャツ、カレンダーを贈る。地球まつり、渡島支庁、函館商業高校(7/8)、函館稜北高校(7/22)、旭ヶ岡老人ホームで作品展示会を実施。

4、2008年(H20)
Iさん札幌に転勤で自然退会。川人代表、Hさん副代表兼会計、Uさん会計監査、竹内君、Tさん、Mさんの6人でスタート。アースデー、函館商業高校、地球まつり、渡島支庁、旭ヶ岡老人ホームで展示会実施。


5、2009年(H21)
川人代表、竹内くん副代表、Hさん会計、Uさん会計監査、Tさん、Mさんの会員6名でスタート。函館商業高校、地球まつり、渡島支庁、旭ヶ岡老人ホームで展示会実施。

6、2010年(H22)
川人代表、竹内くん副代表、Hさん会計、Uさん会計監査、Tさん、Mさんに加え、MSさん入会して会員7名でスタート。地球まつり、渡島支庁、旭ヶ岡老人ホームで展示会実施。

投稿者 koyama : 11:42 | コメント (0)

2011年07月09日

ベトナム事務所員会議

快晴  39度(ミン・気象予報官)

午前7時朝食。フォー・ハノイ


午前8時15分、徒歩ベトナム事務所へ。真夏の太陽と日照り。
15分程度の徒歩で体中が汗まみれ。

午前8時半からベトナム事務所員会議。

本当に暑い毎日だが、ベトナム事務所員の皆さんは
頑張って仕事をしている。エヤコンは使っているが、
「超強」などという無駄はせず「超弱」のレベルで
過ごしている。ベトナム事務所の皆さんは、かなり
暑いベトナム事務所で冷静に仕事をしている。
文句ヤ不満はない。

(ソン)7月5日の息子(バオ君)の命名式に来てくれて
    ありがとうございます。
     先生の日記に書いてある息子の名前は違っています。
     正式には HO KHACC  GIA BAO です。
           (ホー カック   ザー バオ)ハノイ読み
           (ホー カック   ヤー バオ)フエ読み

    夏のスタディーツアーの準備(車・食事・船・・・・)
    竹とんぼは来週出来上がる

(原田)バンベー39号をベトナムの主な機関(大使館等)へ
     送付する作業を行っている。

(富岡) 日本語学校中級 特進3クラス
     最近、「変な男の人が授業中、教室に入って来る」
     この前は1日で3回も教室に入って来て、変なことを
     言っていた。
     ●警備員さんに言って、教室の入れないように・・・・

(フーン)特進2クラス、3クラス 中級クラス授業


(土井)特進2クラス、3クラス(最近雰囲気もよくなった。10人)

(フオン)特進3クラス、中級授業(27課終了)


(ハン)奨学金支給のお礼状を出す
    刺繍を頑張って作っている

(アン)「フェリシモ」ポーチ 734個、ハンカチ 1620枚を
    7月15日まで日本へ送ることが可能となった。


(ミン)7月11日(月)午前8時半に新しい「子どもの家」入所者が
    入所する。

    静大留学生3人のビザが完成した。

    7月29日から10月19日までの『連続スタディーツアー』
    日程の説明。
    
    その他、個人、少人数でベトナム事務所などへ来訪する
    皆さんの日程一覧表を配布し、説明。(8月末までに9人)

    当面の日程を発表する
     ・7月18日 ロサンゼルス国際学園O先生
      「子どもの家」・日本語学校・日本料理店
     ・7月19日~22日 ブライセン本社2名指導員
     ・7月12日~15日まで税田さん来訪 
     ・7月20日から8月01日 内田さんとOさん来訪
     ・8月1日 K・K大Y君来訪
     ・8月23日~26日 W大 Fさんと友人

  ●内田さんとOさん来訪の日程を全体で確認。
    内容説明。バーベキュー大会(7月23日)
    象の滝(8月26日)などこどもたちへプレゼント

  ●新日本語教師 古賀先生受け入れ態勢の構築
    9月14日から1年間(担当:ミン・原田)

  ●土井先生の盛大且つ上品な送別会日程提案と正常な
    宴会規律の保持に付いて、バオミン運営委員長から
    一部男子スタッフに対し厳しい注意あり。
    「最近、一部男子スタッフが男子会宴会と称して、
    飲みすぎ乱れるので注意して欲しい」と厳しい注意。
    (その中に提案者自身も入っているのだが)
    土井先生送別会は7月20日午後5時半~ 
    日本料理店のこどもたちも参加し、盛大に行いたい。
    一人1点、自分に取って一番大事なものを持ち寄り、
    土井先生にプレゼントする


(バオミン運営委員長の「宴会規律の厳正化」提案に不満を持ち
バオミン運営委員長の提案聴取を拒否する小山JASS代表)

小山独り言:提案者が一番、飲み過ぎて乱れるのに・・・・

こうして、
ベトナム事務所には、「アルコール臭」の隙間風が吹き始めているの
である。

午前11時半 昼食。 魚とベトナム風おじや  ウリ

暑い中で熱い「おじや」を食べたので、体中、汗だらけ。

1時間ほど昼寝。

読書「安田講堂 1968-1969」(島泰三著:中央公論新社)
読了。

私より一つ年上。当時の社会情勢とその中に生きた人間の
思い、雰囲気は良く分かる。著者は安田講堂籠城の行動隊長。
東大理学部で本郷にいた。
いわゆる当時の全共闘系の皆さんの気持ちと行動は
2・26事件の首謀者(佐官:当時の軍隊の若きエリート)
と実によく似ているように思えた。
自民党の町村信孝も1968年11月、東大経済学部ストライキ
実行委員会の一人としておよそ1ヶ月のストライキを行う。
1969年(昭和44年)1月、秩父宮ラグビー場での東大7学部の
学生・教職員9千人が参加した“大衆団交”では議長役を務め、
大学自治の議定書である
「東大確認書」には経済学部代表として署名している。
東大の共産党系学生も共産党の方針・指示に必ずしも
従わない傾向があったと書かれている。その後の「新日和見主義」
問題の根は、この中、時代に萌芽としてあったようだ。
人間は、その時代に「規定」されるものだ。
5時間ほどで1冊読みきってしまう。
著者はベトナム戦争と68年・69年の学生運動を連動して
描写・記述している点は、評価できる。

午後7時過ぎ、バオミンさんと電話で日程についての
打ち合わせ。


投稿者 koyama : 19:22 | コメント (0)

2011年07月08日

バオミンさんと夏の訪問者関連の打ち合わせ

快晴  室温42度

午前7時朝食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)


昨日から奥歯が痛い。食事が出来ない。歯が痛くなったのは
生まれて始めての経験。20年ほど前に治療した奥歯の
治療が限界にきたものと思われる。痛くて『食べ物』が
噛めない。朝食は半分ほど食べて残す。


今日1日で20数通のメールを受信。

受信メールへの送信。

徒歩でベトナム事務所へ。

ベトナム事務所では皆さん、真面目に仕事に取り組んでいる。
感謝。

気温38度の猛暑中でベトナム事務所員は「グターッ」としている。
その中でただ一人「元気溌剌」「人生順風満帆」の人間がいる。


日本語教育に燃えている土井先生


2時間ほどバオミンさんと打ち合わせ

午前11時半、昼食   春雨麺

歯が痛く半分以上残す



食後1時間ほど昼寝。

その後読書。


読書「氷川清談」(勝海舟著:角川文庫)読了

非常に興味のある本である。明治維新は今から143年前。
勝海舟の「氷川清談」は明治維新の30年後に勝海舟が
話した内容である。今から110年ほど前の話であるが、
人間とはどうあるべきか? 明治維新の前後の人間の
挙動をつぶさに見て、人間の生き方を語っている。

勝海舟の基本は、理屈ばかりの人間は駄目。
行動・実践が大事。これは陽明学の影響と思われる。
人生と命を賭けることが大事。自分は「安全な場所に居て」
渦中の人をとやかく言う人間が多いことを喝破している。
今も同じである。
私のベトナムでの活動も「自分は安全な所にいて、とやかく
批判する批判」する人がいる。言論の自由、批判の自由、
批判される自由、批判を受け入れるか受け入れないかの
自由はある。

ここまで書いて「奥歯」が痛くなった。困ったものだ。
午前中、バオミンさんと歯痛の話をした。
バオミンさんの意見はフエの歯医者には行かない方が
よいとのこと。
次回の日本帰国は9月末。結局、これから3ヶ月ほど
奥歯の痛みを何とか「ごまかし」ながらフエで生活せざるを得ない。
来週から9月末まで訪問者が多数ある。

今日は歯痛のため、夕飯が食べられなかった。少し、麦関連の
液体を夕食とした。


午後9時過ぎ、リー君から電話がかかる。
何故か電話の名前が「BAO」になっている。
BAO MINH さんと 間違ってしまう。
電話が切れる。
また、リー君から電話。しばらくすると切れる。
数回リー君から電話がある。何の用だろうか?

投稿者 koyama : 21:51 | コメント (0)

2011年07月07日

参議院予算委員会を見る

快晴

午前7時朝食 「青豆のおかゆ」と魚の甘辛煮、キャベツと
ニンジンの茹でたもの。

午前中、参議院予算委員会を見る。

多数のメール受信・返信


午前11時半、昼食。ご飯・野菜スープ、魚、野菜サラダ


猛暑。とにかく暑い。

1時間ほど、横になる。

読書「氷川清談」(勝海舟著:角川文庫)

勝海舟の晩年の人生訓の話。
基調は「生半可な知識などよりも「正心誠意」が大事だという
ことに尽きる。人間は出世欲、金銭欲が強い。そうしたもの
を排する人間になる必要がある。
50年先の世の中を考えて、今の行動をするべきだ。
自分のためではなく、世の中のため人のために生きることを
自分の信念にしていた・;・・・・などなど、参考になる。

午後3時半から徒歩で「BIC C」と言うフエ最大のスーパーに
いく。片道徒歩で40分。硬いチーズを買う。
往復1時間半。宿舎に戻ったら衣類は汗でびしょびしょ。

ピースインツアーと電話で打ち合わせ。

バオミンさんからのメール。いくつかの点について返事を出す。

九州電力の社長が辞任すると言う。
九電社長の「クビ」と引き換えに「ヤラセメール」問題などを
帳消しにしようというようだ。九電の社長の「クビ」はそれほど
重いものではない。社長のクビは、それほど意味がないこと。
何故、「やらせメール」をしたのかを会社を上げて徹底究明
すべき。社長が関与している公算も大である。昨日の
記者会見を見ていて感じた。

東日本大震災で日本赤十字社など4団体に寄せられた義援金約2947億円(7月6日現在)のうち、実際に被災者まで届いたのは約2割の約596億円にとどまっていることが7日、厚生労働省の集計で分かった、と報道されている。

被災者に届かないのは、地元自治体が壊滅したり、職員の
手が足りなかったりするからだと、今日の参議院予算委員会で
厚生労働大臣が説明していた。

厚生労働大臣の言っていることは、事実かもしれない。
しかし、義捐金を出した人たちは、日赤を信用して
拠出しているのである。自分たちは、自治体まで届ければ
終わりとしてる日赤などの姿勢は、およそボランティア精神に
欠けるものである。
日赤は、善意の寄金をもらったのであるから、最後まで
寄金者の気持ちに答え、被災者まで届ける義務がある。
決まりだから、地方自治体まで届ければ、日赤の任務は
終わりとしている日赤の「ボランティア精神の欠如」
「親方日の丸」体質、あえて言えば「ボランティア貴族」
体質の改善が必要である。
私たちはフエ市人民委員会と共同して「東日本震災支援集会」
を開催し、120万円(日本の価値で1200万円)もの大金を
ハノイの日本大使館に寄付をした。日本大使館から日赤に
フエの市民などの義捐金は送られた。3ヶ月以上たった
今でもまだ、被災者に届いていない現状に日赤が何もしていない
ことに怒りを感じる。「これ以上は俺たちの仕事ではない」と言いたい
のだろうが、義捐金を送った人たちは、日赤を信用して寄付を
しているのである。最後の被災者まで届ける義務が日赤にはある。
法的な義務かどうかではない。ボランティア精神に則った
道義的な義務がある。
それができないのなら、最初から「私たちに義捐金を送っても
被災者には直ぐに届きません。私たちの任務は、地方自治体へ
配るまでです」とはっきりと明示すべきである。
少なくとも私たちJASSは寄金や支援物資は、最終的に
どこの誰に届いたのかを写真にして寄贈者に送ることが義務
だと思っている。
今回の大震災で日赤という組織の親方日の丸、ボランティア貴族
振りに唖然としている。

投稿者 koyama : 11:06 | コメント (0)

2011年07月06日

8月中旬までの詳細日程打ち合わせ

快晴  外気温 39度(テレビ天気予報)

午前4時、目覚める。

読書「氷川清談」(勝海舟著:角川文庫)
勝海舟が明治維新後東京赤坂の氷川神社の
近くに住んで、いくつかの新聞記者などから幕末、明治維新、
その後の話など所望され、話をした。
勝海舟は1823年(文政6年)~1899年(明治32年)77歳死去。
徳川慶喜の第10子を養子にする。
西郷や大久保、坂本竜馬など、幕末・明治維新で出会った人々の
人間評価や戊辰戦争などの戦の話。会話なので分かりやすく、
激動の時代を幕臣で過ごしながら、開国派だった勝の生き方は
大いに魅力がある。人間の生き方の基本を知る思いがする。
大道をしっかり見て、小道にとらわれない生き方。
維新後は、海軍卿(海軍大臣)、伯爵となる。

昨今の政治屋に読ませたい人間の生き方のである。


午前7時朝食。フォー


衆議院予算委員会を見る。


徒歩、ベトナム事務所へ。

5月27日に北海道恵庭市の島松小学校で講演会をした。

今日、恵庭市教育委員会と恵庭市島松小5年1組・2組・3組の
子どもの皆さんからお礼の手紙などが届いた。
感謝。一人一人の児童の皆さんの感想を読むと、世界のこどもたち
や貧困に関心を持て居ることが良く分かる。児童の皆さんの
大成を望む。




今週から8月中旬までの細かい日程をバオミンさんと
打ち合わせする。7月9日(土)ベトナム事務所員会議に
提案する日程分担内容を相談する。


午前11時半、昼食。チャオ・バイン・カイン


1時間ほど昼寝。暑い。


読書「氷川清談」(勝海舟著:角川文庫)


メール受信・送信。


いくつかの件でバオミンさんと電話で打ち合わせ。

午後6時、急に停電。いつ点くか分からないところが、
ベトナムの停電の悩ましいところ。10分なのか1時間なのか?
半日なのか? 停電した時点でその後の生活設計が全く
不可能になる。停電で部屋は暗くなり、扇風機も止まる。
パソコンもプリンターも止まる。仕事が出来ない。
部屋は蒸し風呂のようになる。
今年はなくなったが、昨年が半年間、1日置き位の間隔で
半日程度の停電が続いた。

今日1日で原発問題で大きな問題が出てきた。

「ストレステスト」。菅首相の精神的ストレスをテストする
のか? と思ったら原発の「ストレステスト」だとのこと。

佐賀県の玄海町長の玄海原発再開容認、古川知事
の「国を信用して、再開を認める」発言があった。
佐賀県知事も玄海町長も「福島原発の実態」を見ても
「国を信じる」と何ら科学的な根拠もなく「玄海原発を容認」
発言をしている知性の無さにうんざししていた。
しかし、今になって、改めて原発の「ストレステスト」を
するということになると、「国が、現状の原発のテストを
しなければ、安全性に心配がある」ということになってしまう。
玄海町長も古川知事も「二階に上げられ、梯子を取られた」
ような政治的には無様(ぶざま)な状況である。
「国を信じる」というそもそもの出発が間違っているのだ。
福島の惨状を見れば、「国を信じる」などという言葉は出てこない。
地方自治体首長であれば、住民に対する責任がある筈で
責任を少しでも感じれば、玄海原発再開のゴーサインは出せない。

九州電力が九州電力玄海原子力発電所(佐賀県玄海町)2、3号機の再稼働問題で、経済産業省が6月26日に佐賀市で開いた県民説明会について、九電の真部利応社長は6日記者会見し、関連会社の社員に対し、再稼働に賛成する意見を電子メールで番組に送るよう指示していたと発表した。
真部社長は「説明会の信頼を損ねる形になり、心からおわび申し上げる」と謝罪した。
説明会はケーブルテレビ局で行われ、インターネットの動画サイトでも中継。メールやファクスで意見や質問を募集し、一部は番組内で紹介された。
22日、九電本店原子力発電本部の課長級社員のメールアドレスから、玄海原発と川内原発、川内原子力総合事務所、子会社4社の責任者に送られていた。
6日の衆院予算委員会の集中審議で、笠井亮衆院議員(共産党)がこのメールの存在について追及し、九電が調査を開始し、判明した。

と報じられている。日本共産党の存在意義はこうした所にある。

原発を推進するためには、「八百長」「やらせ」でも行うという
電力会社の姑息で陰湿な体質が如実に出ている。


海江田万里経済産業相は6日の衆院予算委員会で、運転停止中の原発について、6月に再稼働可能との見解を示した際、菅首相に事前報告していなかったことを明らかにした。自民党の塩崎恭久氏は海江田経産相の「安全宣言」を巡り、菅首相が事前に知っていたのか追及。海江田経産相は「(報告は)事前に、ということではない」と答弁し、再稼働に向けた認識が共有されていなかったことを明らかにした。

九電社長の記者会見を見たが、無能ぶりが100%でていた。
やらせメールを指示したのか?との記者の説明に答えられない。
部下が紙に書いたものを渡すとそれを読みあげるという無様な
実態。こんな人間に「人間の命と人生を委ねる原発問題」を
管理させることはできない。馬鹿馬鹿しい記者会見。

たった今日1日でこんな重大な問題が起こっている原発問題。


佐賀県知事、玄海町長はこうした腐りきった九電の体質を
どう考えているのだろう?
政府や九電べったりの姿勢を総括・反省する時期に来ているので
はないだろうか?  政府も九電も信用出来ないというところから
出発しないと住民を守る地方自治体の長としては、失格。


東京世田谷区では保護者がこどもたちの給食で体内被曝する
ので調査をして欲しいとの要望を保阪区長に提出している。
自民党石原幹事長に言わせればこうした要望を出す
東京の保護者は「集団ヒステリー」ということになるのだろう。
しかし、心配なことは心配であり、誰も「安全」と保障できない
所に原発・放射能問題の難しいところがある。
「大丈夫です」と安全保障した学者や官僚・首長などは
10年後、20年後には、死んでいないのだ。自らが責任と
保証すら出来ない問題をいとも簡単に「安全宣言」などをする
人間を信用出来ない。チェルノブイリは今でも放射能との闘い
を続けている。

体内被曝も含め、福島だけでなく、東京も「壮大なこどもたち
の人体実験中」と私は思っている。恐ろしい国である。
「安全だ」などという研究者が10年後、20年後に責任を
取るのか?  誰も責任を取らない我が日本国である。

以上の問題は「思想が右とか左」とかいう問題ではない。
私たちの後継者・子孫の安全を守るという問題で
ある。日本国を存続させるかどうかという民族的な問題でも
ある。原発をなくしていくことこそ、「愛国」の立場である。
愛国心ということを言うのであれば、今後、原発を
様々な方法でなくしていく立場に立つのか?
相変わらず原発に依存するのか?が分水嶺・試金石である。
今、私たちの20年から30年程度の「安楽な生活」を保障する
ために原発を使うのか? 使用済み廃棄物は、1万年も2万年
も地下かどこかに保存・管理しなければならない。
私たちの数十年の安楽な生活のために数万年後の子孫に
まで困難と苦しみを与える人間にはなりたくない。
福島はいつになったら人間が安楽に住めるのか分からない
現状である。今回の福島原発事故は、日本の国土の何割かを
失ったのと同じようなものだ。

投稿者 koyama : 17:41 | コメント (0)

2011年07月05日

ソン君・メンさんの長男「命名式ーバオ(保)君」

快晴   気温38度 とにかく暑い。

午前7時朝食。マカロニスープ


メール受信。送信。

午前9時半、徒歩でベトナム事務所へ。

午前10時、ベトナム事務所員と「子どもの家」のロック寮長、
タム医師と一緒に「ソン君・メンさんの長男誕生1ヶ月・命名式」
へ。

式典会場は、メンさんの生家。フエ市内から車で1時間
の純農村地帯にある。あたり一面が水田。
騒音と排気ガスの町フエから来るとほっとする。空気がきれいな
ような気がする。



招待状は午前10時半から開会とある。


午前11時過ぎ、40分ほど遅れて開会。これをベトナムでは
「ベトナム時間」と言って変な「誇り」を持っている。


ベトナム事務所員の税田さんから預かった「お祝い金」を
お父さんのソン君に渡す。


母子ともに健康である。小学校6年生位で入所したメンさんが
こうして男の子を産んでいる姿を見て、18年の長いフエ在住を
実感する。あんな小さな女の子が、お母さんになったとう実感を
改めて感じた次第である。



赤ちゃんのことにはそれほど詳しくはないが、生後1ヶ月に
しては、しっかりした顔の赤ちゃんのように思えた。
何となく「ハンサム」な子どものように思えた。ソン君似か?
メンさん似か? 何ともいえない。


まだ子どもの家にいるメンさんの妹。現在、ベトナム中部の
名門大学「フエ師範大化学学科」で勉強している。

ソン君・メンさんの長男の名前は

「HO KHAC THANH BAO ( ホー・カック・タイン・バオ)」
 胡   各     清   保  (漢字にすると)


HO KHAC まではソン君のファースト・ミドル ネーム。


そのうち近所の人、メンさんの親戚が集まってくる。



メンさんの亡くなったお母さんの兄が簡単な挨拶。ベトナム事務所員
は誰も聞いていないうちに話が終わる。
趣旨としては、「メンが立派な男の子を産んだ。今後も宜しく」
という内容ではないかと推測する。

「子どもの家」にいたソン君の弟も来ていた。今は自立している。
「子どもの家」に入った頃は、小学生だた。



開会挨拶をしたメンさん一族の族長の伯父さん


メンさんの叔母さん・伯母さんたちがお祝いの食事を
手作りで作り、振舞ってくれた。

命名式に参加したベトナム事務所員一同



命名式の宴会中は眠っていた「バオ君」。



午後1時過ぎ、宴会の途中ではあったが、午後からのベトナム事務所
の仕事があるので、ベトナム事務所員は中座。

最後に「バオ君」と面会。


お父さんになった重みを味わうソンお父さん


私も抱いてみた。意外に「ずっしり」と重たい。


生後1ヶ月。しっかりした「賢そうな」子どもに見えた。
健康で賢く成長して欲しいと願うのみ。

======================
松本竜が辞任した。この問題は任命権者の菅首相の
任命責任が大きい。辞任ではなく、菅首相からの解職措置が
必要だった。こんな馬鹿馬鹿しいことで、新聞やテレビなど
が多くの時間を使うことこそ、災害復旧について言えば壮大な無駄
というもの。松本竜が復興大臣兼防災大臣という今回の
東日本大震災問題の中心になる人物である。
情けないがこれが日本の政治家群である。
被災者の謙虚な姿勢・前向きな姿勢を 学ぶべきは
政治家である。特に民主・自民という二大政党の・・・・。

各紙の本日の社説を見た。

朝日、毎日、東京、産経が、松本竜問題を取り上げ、厳しく
糾弾していた。読売は、無視。

私は、松本暴言の中の「報道に関する部分」に新聞社は
どう反応するのかを注視していた。

東京と産経は、きちんと「報道への挑戦」として批判している。

●東京新聞
「今の言葉はオフレコです。書いた社は終わりだから」
とも述べた。書くなと威嚇すれば素直に従うと思っているのか。
報道機関に対する重大な挑戦状と受け止める。

●産経
『しかも松本氏はこの後、記者団に「今の部分はオフレコな。
 書いた社はこれで終わりだから」とも語った。
  恫喝(どうかつ)といえるだろう。到底、容認できない。』

松本竜の辞任の記者会見。
菅首相は「慰留」したそうだ。
「被災者とは人一倍寄り添っているつもりだったが、
言葉が足りなかったりして、被災者の心を痛めたことを
本当におわび申しあげたい。言葉が足りなかったり、荒かったりしたの
は不適切だった」と述べたそうだ。

菅首相の「慰留」には、菅首相の知性と人間性がでている。
松本竜辞任は、「言葉が足りなかった」からなのだろうか?
あの調子の「殿様言葉」をもっと続ければ、辞任はしなくて
よかったのか?
言葉ら荒かったから辞任するのか?
松本辞任は、本人自身が真っ当な総括をしないまま
辞任していることが分かる。
辞任すべき最大の理由は、復興大臣・防災大臣としての
職務を真っ当していないとうことに尽きるのである。
つまり国民に奉仕する大臣・政治家としての失格という
ことの理解がないのである。
「いうようにしないと国として支援しない」「国は地方より
偉いのだ」という姿勢が批判されているのであり、
言葉が足りなかった、荒かったからではないのだ。
地方自治という日本国憲法の原則に外れていたからであり、
大臣も含めて政治家は国民の下僕、国民の代弁者の役割り
で、あくまで主人公は国民である。主権在民という憲法の
原則を真っ向から否定する人間だから国民や被災者が
怒っているのである。憲法違反人間だからである。
元部落解放同盟副委員長で、「人権の専門家」などと
持ち上げているマスコミもあるが、松本竜こそ、人権という
ものの本質を理解していないからこそ、ああした「殿様態度」
が取れたのである。辞任してまで、物事の本質を理解出来ない
無能な人間であると断言したい。国会議員も辞任したらどう
だろうか? 7億円の資産があるのだから・・・・・。

(松本竜 記者会見要旨)

 8時45分に首相に辞するということを連絡しました。

 300日あまりの大臣でしたけれども環境と防災という大変大きな仕事を任された。それぞれ奇跡を見たり地獄を見たりした。環境担当、防災担当の皆さんからお世話になったことをお礼を申し上げたい。一番お世話になったのは妻と子ども。感謝を申し上げたい。

 石巻の大川小学校で手を合わせたりした。山元町の中浜小学校では孤立していた90人の児童を救えた。私も少しは役に立ったのかなとあのとき思って涙が出た。7月23日に相馬で野馬追があるそうですから、前の日に宮古の山本市長と旧交を温めたい。

 いろいろ言いたいことがあるが、謎かけをしたいと思ったが……。(わたしは)いなくなりますから。4月にフィービー・スノウが亡くなった。カズオ・イシグロの「ネバー・レット・ミー・ゴー(わたしを離さないで)」ではないが、私は被災されたみなさんたちから離れませんから。粗にして野だが卑ではない松本龍、一兵卒として復興に努力していきたい。すべてのみなさんに感謝を申し上げたい。

ーーーーー
松本竜は自分を「粗にして野だが卑ではない」と言っている。
恥ずかしい言葉である。
城山三郎が元国鉄総裁石田礼助を描いた「粗にして野だが卑
ではない」の言葉である。

(素) 質素な生活をし
(野) 仕事では『野人振り』を発揮
(卑) しかし、権力におもねることなく、正論を吐き、
    決して卑怯な態度を取らない

松本竜の態度のどこに「粗にして野だが卑ではない」
があるのか? 復興大臣という権力を使い、ヤクザのような
汚い言葉で、知事やマスコミを恫喝する。資産は7億円を
超える。これでどこが、「粗にして野だが卑ではない」なのだ。
自分が見えない人間は、最後の最後までこのような
無様な醜態をされしている自分が見えないのだ。

私は松本竜に個人的な怨恨はないが、こんな復興大臣に
何百年に一度という大震災・原発被害の復興を任せている
ことが悲しく、わが日本の政治に失望している。

読書「自民党戦国史 2 」(伊藤昌哉著:筑摩書房)読了

個人的には、この本に出てくる自民党の首相・政治家は好きでは
ないが、それでもそれなりの知性と教養は持っていた。

松本竜にかけているのは、知性と教養である。


読書「氷川清話」(付 勝海舟伝) 勝海舟著:角川文庫)

投稿者 koyama : 10:02 | コメント (0)

2011年07月04日

「子どもの家」新入所者

快晴   37度

午前7時朝食。ブンボー。

午前8時半、電動バイクで「子どもの家」へ。

1997年、茨城県派遣の「青年の翼」で「子どもの家」を
訪問した茨城県の若者が記念植樹した木が10メートル
にも伸びている。植樹の際は直径1センチ程度、高さ50センチ
位の苗木だった。14年の歳月を感じる。




今日は、「子どもの家」への新入所者が来る。


1993年~1995年までの2年間「チーラン通り」の「子どもの家」へ
入所していたTHAI君(36歳)の長女、ANH(アイン)さん11才が
「子どもの家」に入所する。
親子2代の「子どもの家」入所である。

父親のタイさんと30歳の奥さんとの間には、
11才のアンさん(女児)、8歳(男児)、6歳(女児)、1歳(男児)
と4人のこどもがいる。両親は、川で砂を取って生計を立てているが、
生活が苦しく、長女の「子どもの家」入所となる。

午前9時、父親のタイさんのオートバイの後ろに乗って
「子どもの家」へ。



新入所するのは、ティン・ティー・アインさん(10歳・9月から4年生)
「子どもの家」会議室でロック寮長から「子どもの家」の決まり
転校の手続き用の書類などの準備の打ち合わせ。
9月からは、「子どもの家」近くの「グエンチャイ小学校」へ通学する。


私がアインさんに「親と離れて寂しくない?」と聞く。
アインさんは、「寂しくない」と答える。

問い 「子どもの家」で何をしたいの?
答え 「一生懸命勉強して、将来は警察官になりたい」
問い 勉強は何がすきなの?
答え 算数、英語
問い 2010-2011の成績は?
答え   優秀賞
問い 友だちはたくさんできそう?
答え  たくさん出きる
問い  食べ物は何がすきなの?
答え  鶏肉
問い  「子どもの家」には40人のこどもたちがいるが、
    仲良く出きる?
答え 出きる


アインさんの持ち物は、数着の衣類のみ。

続いて、アインさんの担当となるスタッフの「キム・アインさん」を紹介。

キム・アインさんは、お父さんが1993年から1995年まで住んでいた
チーラン「子どもの家」(私が始めた最初の「子どもの家」)の
寮母さんもしていた。スタッフのキムアインさんは、親子2代の
面倒を見ることになる。


スタッフ(寮母さん)の案内で「子どもの家」2階の女子の部屋へ
案内され、アインさんの『住居』を紹介。


アインさんの持ち物はこれだけ。あとは、全て「子どもの家」で
用意する。


寮母さんの愛情豊かなお世話で「すくすく」と成長して行って欲しい。


=======================


松本竜「復興大臣」兼「防災大臣」の即時退任、解職を
求める。(菅首相に対しての要求)


2011年7月3日、復興担当相就任後に初めて被災地入りし、岩手県を訪問した際に、達増拓也知事との会談で「おれ、九州の人間だから、東北の何市がどこの県とか、わからんのよ」や「知恵を出したところは助けるけれど、知恵を出さないところは助けない」。などと発言。
さらに午後から訪問した宮城県庁では、数分遅れで応接室に入ってきた村井嘉浩知事に対して「お客さんが来る時は、自分が入ってから呼べ。しっかりやれよ」、「長幼の序がわかっている自衛隊ならそんなことやるぞ」と発言した。また漁業の集約や民間への開放など、村井知事が打ち出していた独自の計画案に対しては「県でコンセンサスをとれよ。そうしないと、我々は何もしないぞ」と発言。さらに会談の最後には「今の最後の言葉はオフレコです。みなさん、いいですか、『絶対書いたらその社はもう終わり』だから」などと発言し、周りにいた職員や取材陣が緊張した、との報道がなされている。
テレビでも同様の場面が放映されているので、上記の
発言があったのは事実である。

(注:村井宮城県知事は定刻に入室し、松本竜が早めに
   入室したのが事実)

松本氏は、そもそも3・11の東日本大震災と福島原発事故の
際には、防災大臣だったのだ。
岩手県知事、宮城県知事に会った際には、3月11日の際には、
防災大臣でありながら、津波被害を阻止できず、被害を
拡大させ、更に福島原発の事故にも防災大臣としての
責任があったが、果たせず、県民の皆さんに大変な迷惑を
おかけした、心から謝意します、と土下座して謝罪するべき
人間である。
テレビで見た松本竜の態度は「お前は何様だ」と言いたい位
威張り散らしていた。
こういう場面で人間の知性と教養がでてしまうのだ。
松本竜の知性、教養のなさが如実にでてしまった。
「長幼の序」などという言葉は、こういう時につかうものではない。
松本竜は、まずもって、両知事と県民に防災大臣として
津波被害などを防げなかったことを土下座して謝罪する立場に
ある人間である。
こんな人間が「復興大臣」兼「防災大臣」などいうのは、
空恐ろしい「菅内閣」の無責任な実態である。

マスコミに対して脅迫をしているが、その場でマスコミは
松本竜に厳しく抗議をしたのか? 松本暴言場面を放映したことは
当然であるが、
マスコミに対して『絶対書いたらその社はもう終わりだからな』
と脅迫しているその場で松本竜に抗議したマスコミはあったのか?

憲法で保障されている言論の自由を守るからこそ、マスコミの
報道・言論の自由があるのであって、言論・報道の自由は、
マスコミの専権事項ではない。国民に委託されての権利である。
こんな大臣を黙視していたら、震災・原発の復興も出来ないし、
言論・報道の自由はなくなる。松本竜の両知事に対する言葉は、
「家来」にいう言葉遣いである。

恐るべき松本竜、恐るべき民主党。


投稿者 koyama : 12:23 | コメント (0)

2011年07月03日

休日

超快晴  午前11時 室温(39度・湿度60%)

午前8時、朝食。春雨麺(半分)

メール受信・送信。

洗濯・部屋の掃除、片付け、トイレ掃除。

読書「自民党戦国史 2 」(伊藤昌哉著:筑摩書房)

大平首相の総選挙中の急死。自民党の圧勝。

鈴木善幸が「棚ボタモ首相」「隠れ田中角栄首相」就任。

午前10時、暑い中、1時間ほど散歩。

午前12時半。暑いのと喉の渇きで缶ビール2本。

その後、2時間ほど昼寝。


昼寝で起きて、階段を降りる時、階段を踏み外し、下まで
落ちる。左手の裂傷、背中の打撲。しばらく、息ができなかった。

午後8時、春雨麺の残り半分を食す。


タイ総選挙でタクシン派が勝利。

ラオスとベトナムとの間で「メコン川」にラオスがダムを作ったことで
いざこざが起こっているとのこと。

投稿者 koyama : 19:18 | コメント (0)

2011年07月02日

フエ高等師範大学創立35周年記念式典

快晴  非常に蒸し暑い

午前7時朝食。フォー

7時50分。バオミンさんが迎えに来てくれる。バオミンさん
のオートバイに乗り、フエ省文化会館へ。
今日は、フエ高等師範大学創立35週記念式典が行われる。
1976年2月7日創立 →2011年2月7日で創立35年。

私、バオミンさん、日本語教師(フーン・土井・富岡・原田
の各先生)が招待された。

午前8時過ぎ、フエ省文化会館に集合。ベトナム事務所員
全員が「正装」。

午前8時10分開会。開会から1時間ちょっとは、文化祭典。
学生、教師などの歌や踊りが「これでもか?」というほど、
目白押し。

私は最前列に指定され座った。私の前に大型スピーカーがあり、
とにかく「騒音」という域を超えた「暴音」「殺人音」とも言える程
の大音響。気分が悪くなる。

国歌演奏。


橋下大阪府知事や石原東京都知事は
君が代を歌わないと処分をしている。

ベトナムの式典は適当? 今日はテープで国歌を流し
参加者は聞いていた。社会主義国である。
一般的には日本より以上にこの種の問題は
国家意識を植え付け、「愛国心」「愛共産党心」を
植えつけるために強制するのかと思えるが、
ベトナムはこの種の問題には、いたって「大らか」である。
以前、グエンフエ高校の卒業式に出たが、
テープで国歌を流している途中、テープが止まって
しまった。副校長は、「国歌終了」と宣言し、
次の式次第に進んでしまった。

初めにQUY学長の挨拶。内容省略。

続いて、フエ省知事カオ氏の挨拶。フエ高等師範大学が
フエ省立の大学である。フエ省知事よりフエ高等師範大学長
へ表彰状贈呈。(カオフエ省知事は、元フエ市長)


続いて『ラオス文部省副大臣」の挨拶。
フエ省はラオスに接している。フエ省知事は、ラオス担当の
大臣級の職にもある。ラオスからは年間300人ほどの
留学生をフエ高等師範大学が受け入れている。
フエ省とラオスとは特別に友好関係を持っている。

ラオス教育省幹部とラオス留学生から賞状贈呈。


フエ高等師範大学卒業生(コントム省の高校の先生をしている)
の挨拶と学長への感謝状贈呈

続いてシンガポールの大学関係者挨拶



最後にフエ高等師範大学学生代表のお礼とお祝いのことば

2時間半の大音響式典が終了。一種の音響「拷問」の中に
あったような気がする。

会場入り口でフエ省知事「CAO(カオ)」氏と記念写真


午前11時半昼食。チャオバインカイン。



食後2時間ほど昼寝。こうして暑い時期は、とにかく「昼寝」
が一番大事。暑さと高湿度だけで体力が大きく減退する。

読書「自民党戦国史 2 」(伊藤昌哉著:筑摩書房)
いわゆる40日抗争。福田前首相と大平現首相が、
国会の首班指名選挙に立候補する。
福田優勢の中、大平はロッキードで逮捕された闇将軍田中角栄
と新自由クラブとして分裂した河野洋平を味方に引き込み、
首相に選出。ドロドロとした政争。


午後4時頃、日本料理店へ。日本料理店のスタッフの
様子、食器戸棚の工事の進捗状態を見に行く。


食器戸棚は、風通しよく「網戸」とする。



午後5時半、日本料理店のこどもたち、日本人スタッフ
と久しぶりの夕食。土井先生は、フエ高等師範大学式典の
大音響にあたり、体調を崩し、ホテルで休養。


夕食はブン(米の細めん)に唐辛子ニンイク入りのたれをかけて
食べる。日本流に言えば、盛蕎麦なのだが・・・。
私は食事はしなかった。というのか、食欲は全くなし。

今日は土曜日。暑さと仕事に頑張っている日本人スタッフ
と軽く・軽く飲む。


午後9時、閉店。


投稿者 koyama : 10:16 | コメント (0)

2011年07月01日

フエ市人民委員会・共産党委員長懇親会

快晴  室内気温38度

午前2時に目覚める。読書
「自民党戦国史 2 」(伊藤昌哉著:筑摩書房)

福田首相・大平幹事長の首相あらそい。田中・中曽根なども
絡み、狸の騙しあい。政治の本質。民社・公明も水面下で
自民党福田・田中・大平などど接触している。
同時に社会党も。


午前7時朝食。ブンボー


メール受信。返信。

午前11時半、昼食。マカロニスープ。半分しか食べられなかった。


2時間ほど昼寝。

「自民党戦国史 2 」(伊藤昌哉著:筑摩書房)

権力闘争のずる賢い知恵が次から次えと出てくる。
今の民主党の菅首相と同じ行動。


午45時、。ベトナム事務所へ、

日本料理店のHさんが1週間ぶりに出勤。
1時間ほど話し合う。

午後5時半、フエ市人民委員会の車で
天安山中腹のレストランへ。

フエ市共産党委員長、フエ市投資・建設部長、フエ市外務部長
フエ市共産党人事部長、フエ市外務部副部長と私、
バオミンさんで懇談。

フエ市の事実上の実力者が全員揃う。

2012年の「世界歴史都市連盟総会」の成功のための意思統一を
行う。


午後8時半、懇親会終了。


投稿者 koyama : 16:57 | コメント (0)