« 2006年05月 | メイン | 2006年07月 »
2006年06月30日
休日
曇天。
「御宿かわせみ31 江戸の精霊流し」(平岩弓枝著:文春文庫)
を読む。
ベトナムのNHK海外衛星放送で時々見ていた番組の原本。
江戸の与力が殺人事件や様々な庶民の問題を解決する
内容ではあるが、江戸の庶民生活がしっかりと描かれている。
改めて江戸という大都市の生活を見直すと「豊かな生活」を
していたことが分かる。戦後の学校教育では「江戸時代は
封建時代で庶民は年貢に苦しみ・・・・」という記述が
多かった。こうした記述自体は正しいものだと思う。
同時に江戸庶民(当時世界最大都市であり最大の
消費大都市でもあった)が想像以上に共同体を作り
相互扶助・助けい合い、ボランティア精神旺盛な
生活をしていたことが分かる。この本の中にある
殺人事件の解決などはあまり面白いものではなかったが
平岩弓枝の書いた江戸庶民のなんでもない生活に
大いに興味を持った。多少、江戸についての知識がないと
イメージが作れない部分がある。平岩弓枝はそうしたことの
事細かな説明は一切しない。
例えば「猪牙」としか書かない。「ちょき」。私がこの言葉を
知ったのは、桂文楽の「船徳」という落語を聴いたときだった。
浅草に遊びに行く人が「ちょき(猪牙)」に乗り川風を楽しみ
ながら・・・という言葉があった。夜鷹・・・・・。
多少、読みにくい本ではあるが、江戸幕府末期の
東京の人間・庶民がどのような日常生活を送っていたが
が垣間見える興味のある本だった。
有田芳生の日記が今日で終わった。
2000年7月1日から書き始めたそうだ。
6年間。この日記から得たものは大きかった。
社会や政治を見る一つの「見方」だった。
6年間、ご苦労様でした。
2006年06月29日
休日
真夏日。
14通のメール受信。15通のメール送信。
ボランティア貯金普及協会がフエに取材に来た。
現地での私たちの活動を「クローバー48号」に
紹介するとのこと。
取材後の原稿が送られて来た。さすがは専門家である。
本当に上手に私たちの活動をまとめてくれている。
冊子すべてのページに目を通す。
いくつかの修正・訂正箇所を見つけ、クローバー編集者に
連絡する。
読書。「江戸の精霊流し」(平岩弓枝著)を半分ほど読む。
大学生からフエに行きたいとの連絡あり。
HP、火炎樹日記、講演会などを見たり聞いたりしてのこと。
積極的な若者たちである。
日本滞在が息苦しくなってきた。早くフエへ戻りたい。
人に疲れてしまう。
2006年06月28日
神田外国語大学講演会
晴天。真夏日。
午前10時自宅を出て池袋へ。ビックカメラで携帯電話をパソコンに
接続してもらう。その間、2時間ほど待つ。
池袋から丸の内線でお茶の水経由総武線で幕張駅へ。
幕張駅から徒歩20分。午後4時前、神田外語大学へ。真夏日の暑い
中幕張駅から歩く。未だに昔の千葉県の面影を残す風情がある。
キャンパスはきれいに整っている。この間、多くの大学へ行ったが、
どこの大学もキャンパスはあまりもきれいである。これも時代を反映し
ているのか?
校門前には、岩井先生が待っていてくれた。岩井先生はベトナム社会
の研究者。ベトナム関係の本を読むと先生の論文にお目にかかること
がある。お会いするのは初めてであるが、その論文は何度も読ませて
いただいている。神田外語大学は創設16年目とのこと。
講演会場を下見しビデオなどの準備をした後、岩井先生・奥島先生と
しばし懇談。
午後5時、岩井先生の司会で講演会が始まる。
ビデオ3本を使い、
午後6時半までの1時間半、ベトナム・「子どもの家」・ボランティア・
支援・現地の自立などについて話す。約70人の参加者は熱心に話を
聞いてくれる。岩井先生の授業として参加してくれた学生さんや
社会人入学の学生さんなど様々。お越しの皆さんに感謝。
その後、質疑応答。ベトナムのエイズ問題、大学の入学金、フエ以外
の地域でも今後活動をするのか、ベトナム人に取ってNGOとはどんな
イメージなのか? などの質問に答える。
講演会には三橋先生も来られていた。昨年、大月書店から
ベトナム関係の本を出版され「子どもの家」も紹介して
頂いた。
講演会のきっかけを作ってくれた学生のAさん。
「子どもの家」訪問の経験がある。Aさんにもお礼を
言いたい。こうした積極的・行動的な若者が育っていることに
日本の未来を感じる。岩井先生や奥島先生たちが、
面倒見良く学生と接している姿にも日本の社会の健全さを
感じた。こうした先生方の見えない所での努力が現在の
大学を支えているように思った。
午後7時、講演会終了。
午後7時半頃から大学付近の「アジア風レストラン」で
岩井先生やベトナム語専攻している学生さんたちと交流会。
午後10時過ぎまで続く。
神田外語大の学生さんは礼儀正しく、真面目で賢明な感じを受けた。
今回の講演会は「子どもの家」を訪問してくれた学生さんからの要望を
岩井先生が学校側が受けて実現したもの。岩井先生や奥島先生をは
じめ学生の皆さんに感謝したい。
神田外語大ではベトナムへ半年から1年の期間で留学する制度を作っ
ているとのこと。交流会に参加した学生さんの中には8月からベトナム
に留学する人もいた。なかなか良い制度を作っている。とかく欧米への
留学が多い中でアジア、ベトナムへの留学を進める大学の姿勢は評
価できる。
新木場経由で自宅へ。自宅着午前0時20分。日にちが変わって
いた。帰宅後受信メールをチェック。
若い学生さんのエネルギーを感じた楽しい一日だった。
2006年06月27日
ACCL代表と懇談
晴天。真夏のような暑さ。
こういう暑さが一番好き。
午前中15通のメール送信。栃木県小山市講演会の参加者への
お礼のメールなど。
午後1時自宅発。池袋のビックカメラへ。
新しく買ったパソコンに携帯電話を接続し自宅外でも日記が
かけるようにするために周辺機器を買いにいく。
ビックカメラでは6階に関連機器があると書いてあったので
6階へ。6階へ行き事情を説明しても係員は意味が分からない。
「1階だ」という。1階に行く。1階の係員は再度6階だという。
現場の係員への基礎教育が出来ていない。
係員に聞くと「私はこの担当ではないのです。今日は人がいないの
で臨時にいるだけです」との答え。責任意識は全くない。
「責任者を出すように」と係員に言う。しばらくすると責任者が来る。
事情を話す。AU携帯電話をパソコンに繋ぐのなら1000円程度の
周辺機器をつなげば良いとのこと。
早速、1000円程度の周辺機器を買おうとすると、5000円です
という。ビックカメラのお客係りは何を考えているのだろうと、
不思議に思う。私の携帯を調べもせずに1000円程度といい、
実際に売る段になったら5000円とは・・・。ここでトラブルを
起こしてもしかたがないので、5000円の周辺機器を買う。
「パソコンへの設定はこのすぐ側にあるAUショップでやってくれる」
とのこと。
AUショップに行く。しばらく待つ。顧客係りに呼ばれ机に。
事情を説明すると顧客係りに電話がかかってくる。
係りの若い女性は「電話なので後ろの待合席で待つように」と
指示する。ウーンと思ったが、待合席で待つ。延々と電話をしている。
15分ほど待つ。お客は誰もいない。
他の係りの女性が「どうしましたか?」と聞く。事情を説明する。
係りの女性は「この周辺機器ならAUショップで買えば1000円
です」とのこと。しまったと思ったが仕方がない。
「それでは、ビックカメラに行き、この周辺機器を返してくるので
1000円のAU周辺機器を買う」と話す。心配なので私のAU携帯電話
を見せる。係りの若い女性はパンフレットを見て「それなら15000円
です」とのこと。思わず「なめるな」と叫びたくなった。
このAUショップの係員はお客に対して何も責任感を持っていない。
すぐに若い係員に「この店の責任者を呼んで欲しい」と言う。
40歳前後の女性副店長が来る。
「私はAU携帯電話使っている顧客である。あの席の女性は
何ですか? 顧客が来て話をしているのに電話だと言って
延々と15分以上もお客を待合席に待たせるとは・・・・」
「私の前にいる係員は、携帯電話を調べもせずに周辺機器は
1000円だ」という。副店長を詰問する。副店長は謝るばかり。
AUショップだけではない、ビックカメラも同様である。
自分の仕事に責任をもたないまま仕事をしているのである。
管理職がそうした実態を改善しようとしない「無責任状態」
である。売り上げを伸ばし、業績を上げるだけが目的となっている
日本社会である。日本社会全体がこうした「無責任社会」と
なっている。悲しい日本の実情である。
愛国心とか国を守る気概などと言う人もいるが、その前に
社会全体が無責任体制になっている我が日本を何とか
することが先決ではないのだろうか?
福井日銀総裁の資産が新聞(朝日夕刊)に出ていた。
給与以外の資産は約3億円とのこと。
2005年の日銀総裁給与は3641万円である。
その上、年金までももらっていた。2005年の年金は
775万円である。これだけもらっていれば、村上ファンド
で1600円ほど儲けても「たいした金額ではない」と
口から出るのだろう。
預貯金と国債などで2億3170万円ももっているのである。
国民年金が年額100万円にもならない我が国である。
年金775万円もあればそれで十分生活していける
金額である。
「ゼロ金利政策」を続けた最高責任者は福井日銀総裁である。
庶民・お年よりは銀行に預けても金利はゼロである。
自分は毎年775万円の年金をもらい、不動産とは別に
3億円もの預貯金があるのだ。金の亡者。
ビックカメラ、AUショップの若い女性店員も無責任だが、
教育もしないで現場に立たせている経営者の無責任ぶりは、
福井総裁と同様である。
というようなことでゴタゴタしていて、午後3時に巣鴨で
待ち合わせをした「ACCL」(アジア・チャイルド・ケア・リーグ)
代表との懇談に遅れる。フエで行う「小児がん」プロジェクトについて
打ち合わせをする。午後5時まで。
この数日、嫌なニュースで気がめいっている。
奈良の放火殺人事件、大阪の集団暴行事件、昨夜の
女子大生誘拐事件・・・。日本は本当に病んでいる。
テレビや新聞を読むのが嫌になる毎日である。
そんな気持ちでテレビを見ると、意味もなく
「大食い競争」をしたり、人相の悪いおじさん(みのもんた)や
人相の悪いおばさん(細木・・・)などが画面に大写しになる。
つい「あなたが犯人だ」との言葉がでてしまう。
13年間ベトナムでテレビを
見ていて、日本のテレビ番組を見ると「品がない」
という言葉に尽きる。
2006年06月26日
休日
終日雨。
12通のメール受信。10通送信。
午前中、昨日の日記を書く。昨夜は午後1時半に
家に着いた。さすがに昨夜日記を書くのは無理だった。
午後、昨日の講演会についてのメールはいくつか送られてくる。
ありがたいことである。お礼の返事を出す。
教え子の手島君からの紹介で「MIXI」(ミクシイ)に登録。
地球の歩き方ツアー、大学生協ツアー、JASSスタディーツアー
、フエを旅行した若者からアクセスがあった。6日間で81通。
私の知らないサイトに『ベトナムの「子どもの家」』というコーナー
があり、多くの若者が参加しているのを知った。
2006年06月25日
栃木県小山市「まちかど美術館」講演会
終日曇り
メール9通受信。5通送信。
午前10時過ぎ自宅を出る。巣鴨経由上野駅。新幹線で小山(おやま)
へ。午後12時02分小山着。
新幹線内で「日本とドイツ ふたつの戦後思想」(仲正昌樹著:光文社)
読了。日本とドイツが第二次世界大戦のファシズムをどう総括したかし
を思想・哲学を通して比較分析したもの。
ドイツがヒトラーファシズムを国家レベルで清算し、さらに個人レベルで
の戦争責任を問い詰めているのに対し、日本は左翼陣営も右翼陣営
も一致して「東条英機など軍部」などに戦争責任を押し込め、国民・
個人の同義的・道徳的・思想的な戦争責任を追及してこなかったこと
が、今日の靖国問題などの混迷の遠因となっている指摘している。
午後12時02分、小山駅着。駅には小山市「まちかど美術館」の中手
淳子さんが迎えに来てくれていた。感謝。
中手さんの車で講演会場「まちかど美術館」へ。
*まちかど美術館の詳細は「続きを読む」を参照
まちかど美術館では「ベトナムの子供たちと共に生きる会」佐藤
清子さんたちの協力で「第2回 チャリティー ベトナムの
「子どもの家」絵画展」が行われている。今日の講演会はこの絵画展
と連動してのもの。12日間で211人の入場者があったとのこと。
「ベトナムの子供たちと共に生きる会」
(代表 佐藤健市氏 事務責任者 佐藤清子氏)
jam-jama@tvoyama.ne.jp
TEL 0285-24-3870
午後1時半より講演会開始。
「まちかど美術館」中手さんの講師紹介。
午後4時までの2時間半、ベトナムでの活動、ストリートチルドレンのこと
ボランティア・海外支援などについて話す。
講演会には宇都宮大学のM先生ご夫妻がお越しになっていた。
ありがたいことである。
講演会には「火焔樹の会」(JASS茨城の会)の皆さんも参加
協力してくれた。この日記の写真も火焔樹の会の方に撮影を
お願いした。
午後4時半、講演会終了。
隣の建物で「ベトナム料理試食会」が行われた。
講演会・絵画展参加の皆さんはベトナム料理試食会に参加し
ベトナム人が作った本場のベトナム料理を堪能した。
じゃむじゃむの佐藤清子さん、料理を作ってくれてベトナムの方。
ベトナム料理試食会で白鴎大学の結城史隆先生と交流。
先生はネパールに3年間在住。現地の目で海外支援の
実態を観察していた経験をお持ちである。
「子どもの家」にも2回お越しになっている。先生から
講演会の感想を頂いたが、私が一番言いたかったことを
4項目にわたり的確に指摘されていた。こうした指摘を
される方は今までの経験ではいなかった。
実際の体験と経験があるあらこそ指摘できる海外支援の
実態である。
講演会には宇都宮縫製工業組合の佐藤理事長、フエ日本語学校
で2年間日本語を教えた坂本文子さんも参加。
午後5時頃までベトナム料理試食会に参加。
講演会を準備・主催してくれた「まちかど美術館」
「ベトナムの子供たちと共に生きる会」の皆さんに感謝。
佐藤理事長の車で坂本さんと一緒に小山市内になるある佐藤邸へ。
奥さんの接待でビールなどを頂く。
その後、佐藤ご夫妻の招待で市内の日本料理店で会食。
午後9時過ぎに新幹線小山駅へ。
自宅着午後11時30分。今日は多くの人々との出会いが
あった。
■市から依頼を受け、市街地の活性化と雇用促進を目標に、空き店舗を利用して昨年10月にオープンした「まちかど美術館」。企画・運営をNPO法人「たすけあい大地」が担当しているここは、市民ギャラリーの要素と市の行事(ポスター展など)に関する展示の場を兼ね備えているほか、個人作品の発表の場としても利用することができる(1日2,500円/1週間から)。2月の展示は5日(木)~15日(日)に陶芸展、17日(火)~29日(日)にステンドグラス展を予定。また、1月13日にリニューアルオープンした美術館隣りの「OMOIGAWA CAFE」では、飲み物をはじめ、沖縄料理やアジアンデザート、点心などが用意されており、日曜日の10:00~12:00に白鴎大学のボランティアによる無料イベントも開催している。2月8日の「手話で歌おう」、22日の「中国語と中国茶講座」をはじめ、ほかの日曜日にもイベントを予定しているので気軽に出かけてみて。手作りの温かさを感じる美術館とカフェで、のんびり時間を過ごしてみては。
まちかど美術館&OMOIGAWA CAFE
まちかど美術館
TEL/0285-21-3381
開/小山市中央町2-1-8メゾンタカキュー1F
営/10:00~18:00
休/月曜日
料/ 無料(一部を除く)
OMOIGAWA CAFE
TEL/0285-24-1113
住/小山市中央町2-1-9
営/火~金曜日/11:30~15:00、18:00~23:00
土曜日/12:00~17:00 日曜日/12:00~15:00
休/月曜日
URL/www.oyama-cci.or.jp/tmo/omoigawacafe/
P/小山市役所駐車場、ボランティア支援センター駐車場
2006年06月24日
OYKOTネットワーク渋谷講演会
曇りのち晴天。暑い。
午前中14通のメール受信。4通の返信。
午前10時、自宅にJASSスタディーツアー担当の森田さん・
加藤さん・山田さん・鴻池君来訪。
近くのデニーズで懇談。内容は8月末のJASSスタディーツアーの
内容について。
朝10時と言うのに満席。子供連れが多いのかと思い
回りを見るとお年寄りや中年の夫婦ばかり。
昨年も参加した横浜の中学生鴻池君から様々な
意見やアイディアが出された。
8月のJASSスタディーツアーについての内容確認、
変更どの意見交換をする。
午後12時。森田さんの車で巣鴨まで送ってもらう。
巣鴨経由渋谷駅へ。ハチ公前の路上では右翼の街宣車
が演説中。
「サッカーのワールドカップ。オーストラリア・ブラジル戦で
日本は負けた。多くの国民が泣いた。日の丸を振り、
顔に書いての応援だった。日の丸を中心にサムライ日本
応援のために日本人は一つにまとまった。
61年前、日本が戦争に負けた時に多くの国民が皇居に
行き、天皇に申し訳ないと泣いた。サッカーで負けて流した
涙は戦争に負けて皇居前で泣いた涙と同じだ。
日本人はサッカーワールドカップで愛国心を取り戻し日の丸で
国民の心が一つになった。」
渋谷駅前の人垣をかき分け、「渋谷勤労福祉会館」へ。
午後1時半、「生きることと性を考える OYKOT ネットワーク」
主催の講演会。
OYKOT は性の問題を考えながら、人間・生き方、若者や
子どもたちの問題など社会の様々な問題を考えるようと
集まった人々の会。創立して15年目。
ベトナム旅行、ベトナムでのストリートチルドレン支援、
ストリートチルドレンや生活困難な子どもたちの実情などを話す。
ストリートチルドレン支援を通してベトナムから日本や日本の政治、
教育、子どもたちについての私見を話す。
講演会には、20数年前に私が勤務した北区滝野川第7小学校で勉強
していた栗原君が参加していた。話しているうちに子どもの頃の栗原君を思い出す。直接教えていなかったにもかかわらず、こうして訪ねて来てくれる「教え子」がいることは教師冥利に尽きる。栗原君や奥さんはボランティア関係の仕事にも関係しているとのこと。教育とは長い年月がかかり、教育の結果は数十年後に分かるか分からないかと言う世界だということである。
午後5時過ぎ、講演会終了。
その足で参加者と一緒に渋谷駅付近の「土佐料理」店へ。講演会の反省会。
土佐料理をつまみに「土佐鶴」吟醸を飲む。
午後9時頃まで深い反省。
反省会には遅れて来た先生がいた。
都立高校の先生。今年の卒業式の君が代斉唱の際、起立しなかったとのことで処分されたそうだ。今日はその打ち合わせの会合があり、私の講演会には欠席したが、反省会には参加。人間それぞれの立場があるのだろうが、こうして自分の考えをしっかりと持ち、行動できる人を私は尊敬する。
15年もの間、コツコツと会を続けて来たOYKOTの皆さんの
努力に敬服。
自宅着、午後10時過ぎ。
2006年06月23日
1日自宅
終日曇り。
携帯電話をパソコンに接続してインターネットができるようにする接続機器を西台駅前に買いにいくが売っていない。
赤塚公園付近のコジマへ。ちょっと前までおいていたが今はないとの
こと。結局、2時間ほどウオーキングをした。良い運動になった。
8日間連続で講演会や懇談、例会などに出ていた。さすがに疲れる。
少し体調が悪い。今日は1日休む。
午後、メール拝受、送信。ベトナム事務所長のバオミンさんと子どもたちのこと、夏のツアーのことなど連絡し合う。
明日の 「OYKOT ネットワーク」講演会の講演草稿を作る。
新しいパソコンとお付き合い。慣れるまで時間がかかる。
私が日本へ帰って来てから連日マスコミはサッカーワールドカップ。
ほぼマスコミ報道は「畠山鈴香容疑者問題」と「サッカードイツ大会」
一色と言っても良いほどである。
特に第1戦のオーストラリア戦の前のテレビ、新聞はサッカー一色。
朝日新聞などは、サッカーの記事部分は真っ白い紙を使い特別体制で臨んでいる。サッカーに沸き立っているのは、別に問題はないのだが、気になることがある。
オーストラリア戦の前は多くのテレビ解説者、サッカー専門家などが
「絶対に勝つ」などと発言し、サッカーの「国民的」雰囲気を盛り上げていた。私は正直サッカーのことがわからない。オフサイドという意味すらわからない。そんな人間からするとテレビやマスコミがこぞって「サムライ日本」などと持ち上げる異常な雰囲気に戸惑いを感じていた。
スポーツを鑑賞するの個々人の応援・楽しみの仕方があるのになどと思っていた。「日本は必ず勝つ」と多くの解説者が豪語していた。マスコミ人も「日本が勝つ」と言わなければならない雰囲気があった。
日本がオーストラリアに負けた。マスコミも解説者も「負けたことは忘れて、次のクロアチア戦に気持ちを切り替えよう」との大合唱。
私は、何故、日本が最後の9分間でオーストラリアに負けたのかを客観的に分析する国民的な声が起こらなかったのか不思議だった。
クロアチア戦で引き分けになると、クロアチア戦は忘れて、ブラジル戦だ、
ブラジル戦では2対ゼロで「さむらい日本」(どうして急にさむらい日本なるのかわからないが)が勝つとマスコミも解説者、専門家も言う。
結局4対1で敗北。すると、「4年後のワールドカップで必勝だ」との声が起こっている。
例えは悪いが、戦前の大本営発表のようなマスコミであり国民の反応に思えた。戦争は客観的に敗北しているのに戦前のマスコミは「日本は連戦連勝」との報道を繰り返していた。結局、1945年8月15日に日本は負けた。すると「国民総懺悔」(こくみんそうざんげ)と称して、戦争の責任もなにも究明しないままに今日に至っているわが日本である。
客観的な現実を直視しないで「希望的観測」で物事判断し、うまくいかないとその原因と総括をせずに、「次はがんばろう」と精神主義に走る。
今回の「サッカー騒動」をみていると日本人の特性を見る思いがした。
主観主義・情緒主義的に物事を見る姿勢。事実は事実としてみょうとしない。
「たかがサッカー大会」ではあるが、何かマスコミの扇動で国民が客観的な現実をきちんと見ないまま「サムライ日本の勝利」などと呼号している現実に背筋が寒い思いがした。
選手の皆さんの奮闘には拍手を送りたいが・・・。
37年前の6月23日。安保条約の10年間の固定期限終了の日。1970年6月23日、
当時、日本中で大きな集会が開かれた。あれから37年の月日が流れた。当時の大学生は還暦を迎えようとしている。
61年前の6月23日。日本本土の捨石として戦われた沖縄戦の組織的な戦いが終結した日。20万人の人が殺された。哀悼。
夕食。気分転換と疲労回復のため納豆まき、野菜巻きを作る。
2006年06月22日
東京都立葛飾商業高等学校定時制講演会
終日曇り。蒸し暑い。
昨夜午後10時過ぎ、教え子の手島君が新しいパソコンを
持って自宅へ来てくれた。数日前にヨドバシカメラで買った
新品のパソコンが最初から壊れていた。手島君が交換し
今日持って来てくれたという訳である。
新しいパソコンに光通信など必要な機能をインストール。
その他私が新しいパソコンをきちんと使えるように整備
してくれた。
訪日する「子どもの家」卒業生Mさんの訪日関連書類を
作成。関係者に送付。
読書。
午後4時過ぎ自宅を出て巣鴨から日暮里経由で京成高砂へ。
東京都立葛飾商業高等学校定時制へ。
午後6時前に学校へ到着。
都立葛飾商業高校は1948年普通科の定時制高校として開校。
1954年、商業科が併設。3000人以上の卒業生を社会に
送り出している。
24人の教職員と125人の生徒で構成されている。
1年生(49人)、2年生(23人)、3年生(26人)、4年生(27人)。
1日の時程は以下の通り。
・ショートHR P5:25~5:30(05分)
・1時限 P5:30~6:15(45分)
・給食 P6:15~6:40(25分)
・2時限 P6:40~7:25(45分)
・3時限 P7:30~8:15(45分)
・4時限 P8:20~9:05(45分)
(クラブ活動など)
・最終下校 P10:00
校長室で山下校長先生、担当の柴崎先生と懇談。
柴崎先生と給食を食べる。
午後6時15分~午後6時40分までの25分間と
言う短い時間での給食である。広い食堂に生徒さんが
三々五々集まってくる。
給食は栄養バランスも取れているものだった。
東京都は給食費を値上げするという。
この10年間で都立高校の「統廃合」は急速に進んでいる。
私の卒業した都立高校も統合され、その名前は消滅した。
定時制高校は半減し、給食費も値上がり。政府与党は
教職員に支給されている「教特法」の特別手当を削減し
教員の給料も減らすという。いまだに40人学級などと
いうクラス編成をしている「先進資本主義国」はない。
お金をかけないで進められる教育の行き着く先は・・・・・?
定時制高校がなくなったら、行く場所を失う若者がいるという
事実を知った。金銭の合理化ばかりが先行し、命令と
脅しが目立つ昨今の東京の教育行政である。
午後7時から全校講演会を行う。70人位の生徒さんが視聴覚室
に集まる。10代後半の若者から81歳の年輩の方まで様々な
年齢の生徒さんが集まっていた。
最近の定時制高校は昔のような「苦学生」が来ているという
よりは、高校を途中で辞めて再度定時制に挑戦している若者など
も多いそうだ。
校長先生の挨拶の後、私の講演となる。
多様な年齢の生徒と先生方などへ話しかける。
ベトナム旅行でのストリートチルドレンとの出会い。
ストーリートチルドレンの生活、生い立ちなどを話す。
熱心に聞いている生徒もいれば、隣の友達と話している
生徒もいる。生徒様々であるが、一人ひとりの参加者の
心の中に何か何か残るもがあればと願っている。
午後8時過ぎ講演を終わる。その後、若干の質疑応答。
司書の先生は図書室にベトナム関係の本を揃えコーナーを
作っていた。 拙著「火焔樹の花」も揃えてくれていた。
81歳の生徒さんと話す。昔は建築業をしていたそうだ。
「いくついなっても勉強だ。定時制を卒業したら大学の
通信教育をしたい」と言っていた。81歳で更に新しいことへ
の挑戦心を持っているこの方に敬意を持った。
どこからこのような気力が出てくるのか?
学ぶこと多々あり。
校長先生、柴崎先生など講演会を進めてくれた関係者の
皆さんに感謝。
自宅着午後10時半。
学ぶべきことの多かった講演会であった。今日の日本社会
の縮図を見た思いがする。
2006年06月21日
法政大学講演会
雨、曇り。
午前5時起床。昨日、横浜の講演会で帰宅後、何故か
体が動かなくなった。だるくなり、夕食が口に入らなかった。
5時に起きて法政大学授業の準備をする。
午前7時過ぎに自宅を出て市ヶ谷の法政大学へ。
午後9時前、法政大学で野々垣先生とお会いする。
今年「子どもの家」を訪問された野々垣先生が
法政大学で教職課程の「教師論」を教えている。今日は、
野々垣先生の招請で教職課程の「教師論」の授業を行う。
教職を取りたい学生が学部横断で受講しているとのこと。
スポーツ推薦で入学した男子学生は120キロの巨体。
●法政大学外観
校内に入ろうとしたら校門の両側で警備員が検問。
6月19日に校内でビラまきをしていた4人の学生を警察に通報し
逮捕させると言う事件があったそうだ。門前では数人の人物が
抗議のビラ配布中。
校内に入る。入り口に学生自治会の掲示板がある。
内容は夏祭りとフリーマーケットの案内。
キャンパスにはちり一つ落ちていない。もちろん自治会や
学生組織の看板も一切ない。私などには「無機質な空間」
としか思えないようなキャンパスだった。
教授室でしばらく打ち合わせ・歓談。
午前9時半から「教師論」の授業。必修だそうだ。
70人位の学生が着席する。初めに野々垣先生から
私の紹介があった。
その後、1時間10分ほど話をする。
ベトナム行きのきっかけ。ベトナムでの生活、活動。
ストリートチルドレン、支援、子どもたちを育てるということ。
教師のあり方、教師自身の自己成長の意義などを
ビデオを交えて話す。
この13年間、かなり多くの大学で授業をしたが、法政大学の
学生さんは、熱心に話を聞いてくれた。
学生の質問を受ける。
子どもたちが問題を起こした時、どう対処するのか?
など何人かの学生からの質問に答える。90分の授業を終わる。
授業終了後、4人の学生が「フエに行きたい。どうすれば良い
のか?」との質問をして来た。8月のJASSスタディーツアー、
地球の歩き方スタディーツアーなどを紹介する。
今日の朝日新聞35面に「新任教師自殺」という記事がでていた。
新任教員の自殺が増えているとのこと。
東京新宿区で新任教師が自殺したとのこと。埼玉県越谷市
でも新任教師が自殺している。
静岡大学時代から「子どもの家」を支援してくれていたKさんも
新任半年で自殺した。私や静岡の会の笠井先生がご両親と
一緒に自殺の原因を究明する運動を進めている。
東京を始め全国的に教員の自殺が多発している。
法政大学で今日教えた学生の何割かは教員になるのだろうか?
退職の年齢を前にして早期退職する教員も多い。
私の知り合いの多くの教員も60歳の定年前に退職している。
良心的で真面目な先生ほど早期退職する傾向がある。
教育現場は「成果主義」「数値主義」である。民間会社の
会社運営の方式を機械的に学校現場に当てはめた
「学校経営」がはびこっている。
直に結果を出さないと評価されない学校現場がある。
教育など30年、40年後に結果が出るか、出ないか?
という世界である。今すぐ結果を出し、しかも数字で分かる
ような結果を求められては、真っ当な教育など出来るわけが
ない。埼玉県戸田市教育委員会では、学校式典に参加した
保護者が「君が代斉唱」の際、起立したかどうかをチェック
するよう教育長が指示を出す発言をしている。
「命令」で教育をすすめるような学校現場の雰囲気が
新任教師を自殺に追いやるのである。
文部科学省は、「本人の心の病」との認識である。
結局、目に見える「テストの点数をあげる」など、目に見える
ことをするようになる。子どもたちという「人間」に目がいかなく
なる教育が蔓延する。「個性を伸ばす教育」など単なる掛け声
に終わってしまう。
今日教えた法政大学の学生が教員になった時、
学校で「戸惑わない」ことを祈る。
午後、自宅へ帰る。風邪を引いたのか体がだるい。
お腹が不調。
2006年06月20日
横浜市立市ヶ尾中学校講演会
曇り。気温上がる。
25通のメール受信。7通送信。
午前10時過ぎに自宅を出て三田線神保町経由
半蔵門線乗換えで中央林間「市が尾駅」まで2時間弱。
午後12時にJASS日本事務所教育担当の加藤健司さんと
合流。駅近くで講演会・JASS夏のツアーなどについて
若干の打ち合わせを行う。
その足で横浜市立市ヶ尾中学校の講演会へ。
市ヶ尾中学は創立20年。生徒数600人。東京の感覚だと
「大規模校」なのだが、校長先生は「中規模校」とのこと。
神奈川県も横浜市も人口が増えているそうだ。
横浜市は人口340万人。日本一人口の多い市となっている。
先日日本と闘ったサッカーのクロアチアは人口400万人強。
横浜市とそれほど変わらない規模の国である。
神奈川県の人口が大阪府を超えて東京に次いで2番目になった
という報道があった。
この中学校で講演会をするようになったのはJASS教育
担当の森田さん、加藤さん、山田さんたちが学校を訪問し、
卒業生の靴の寄贈などを依頼し、講演会の話へと
発展したことがきっかけである。
今日は加藤さんが記録やビデオなどの裏方を買って出てくれた。
感謝。
午後1時半から体育館で全校生徒600人の講演会を行う。
今日は梅雨時の暑さの中、狭い体育館一杯に生徒が座り
かなり暑かった。私はそれほどの暑さを感じなかったが、
生徒の皆さんは、相当蒸し暑い中での講演会となった。
●開会前の生徒
●会場が蒸し暑いので4台の大型扇風機が用意された。
ベトナムへ渡った経過。ストリートチルドレンとうは?
何故、ストリートチルドレン支援の活動するのか?
人間の幸せとは何か? ボランティアとは? 戦争と平和
などの話をする。途中、ビデオの上映も。
午後2時半まで1時間話す。
今日の講演会は「生徒会」主催で行われた。司会や運営は全て
生徒の手で進められた。
講演会の最後に生徒会より感想・お礼の言葉と花束を頂く。
小山お礼の挨拶
講演会後、校長先生と教育の問題などを話し合う。
今日は今回の帰国では最初の講演会となった。
1時間ちょっと、立って話をしたが結構疲れた。
この10数年間、かなりの回数の講演会をしてきたが、
初めて「疲れ」を感じる。しかし、日本の子どもたちに私の
思っていることをこうした形で直接伝えられることは、一つの
喜びである。このような機会を作ってくれた森田さん、加藤さん
山田さんたちに感謝をしたい。
自宅着、午後5時過ぎ。
今日を皮切りに7月中旬まで講演会が続く。明日は法政大学。
明後日は都立葛飾商業高校。続いて「OYKOT」渋谷講演会、
栃木県小山市講演会などと続く。
2006年06月19日
オアシスの会の皆さんと懇談
晴天。真夏のような暑さ。
13通のメール受信、5通のメール送信。
午後12時過ぎ自宅発。都営地下鉄三田線で水道橋。
JRに乗り換え四谷。雙葉学園へ。オアシスの会の
皆さんとの懇談。
●雙葉学園
オアシスの会は「大塚合子さんを支援する会」の略称。
大塚さんは今年からフエでオアシスの会の現地駐在員
として活動している。日本料理店「子どもの家」の店長代理
をしてくれている。
オアシスの会はフエの船上生活者の医療支援を行っている。
オアシスの会の皆さんと現地支援の実情、今後の支援の
方向などを話し合う。
夕方帰宅。
海苔巻きが食べたくなり、また作る。
納豆巻き、レタス・ニンジン・玉子・ハム巻き。
海苔巻きの中心に具を巻くのは結構大変。これも経験。色々な
巻き方を試みている。
●納豆巻き
●レタス巻き
糠漬けがうまく漬かっている。きゅうり、大根、かぶ、ニンジン
なす。
糠をかき回すとき「素手」でかき回している。手に糠漬けの匂いが
1日中残るが、どうしてもビニール手袋を使ってかき回す気には
なれない。ビニール手袋を使っては糠漬けの中にいるウイールス
さん方に申し訳ないような気がして。
2006年06月18日
「子どもの家」バーベキュー大会等打ち合わせ
終日雨。
午前中10通のメール受信。5通のメール送信。
午後12時半自宅を出て池袋へ。
メトロポリタンホテル喫茶室で内田さん、高橋さん、柳沢さん
と夏のバーベキュー大会などの打ち合わせ。
「子どもの家」恒例の夏のバーベキュー大会は子どもたち
最大の楽しみの一つ。毎年、内田さん、高橋さん、柳沢さん
景山さん4人の寄贈で行われている。今年で何度目になる
のだろうか。7回目位にはなると思う。
今日は寄贈者4人のうちの3人の方とお会いし、直接関連
費用を頂く。毎回のこととは言え、ありがたいことである。
昨年12月24日に行ったクリスマス会は10回を数えている。
更に内田さんからは、夏に子どもたちが海などへ行く費用の
寄贈も受ける。
子どもたちは6月から8月の夏休みに海などへ行ったり、
バーベキュー大会をするのを楽しみにしている。
12月24日はクリスマス会。
子どもたちは、これらの行事を1年間の生活の楽しみと
節目にして生活している。7年間、10年間と長い間
支援を続けることは本当に大変なことである。
支援の気持ち・子どもたちへの愛情を長い間持ち続ける
というのは口で言うほど簡単なものではない。
こうした方々の支えで「子どもの家」や子どもたちは
成長していることを改めて感じた。
午後6時過ぎまでボランティアなどについて話し合う。
午後7時過ぎ帰宅。
午後8時、教え子の手島君が秋葉原でパソコンを買って
家まで持って来てくれる。
光ファイバーなどのセッティングをしてもらう予定だった。
パソコンを箱から出し「立ち上げ」ようとしたが、稼動しない。
手島君は従業員10数人のコンピュータ企業の社長。
この種の専門家である。著作も数冊ある。
東芝のパソコンだが、結局不良品だった。
秋葉原の「ヨドバシカメラ」で買って来た東芝の新品
パソコンが不良品で最初の画面の段階から立ち上がらない。
手島君の話では、最近この種の不良品が多いとのこと。
大企業のメーカー品だからと言って、以前のように
「信用」出来ない時代になったとのこと。結局、日本の
大企業のメーカーは、ブランドは自社のものでも
生産地は海外。やはり品質管理に問題があるようだ。
我が家に来た東芝のパソコンも生産地は中国だった。
エレベータ問題が騒がれている日本ではあるが、
こうした日本の得意としているIT関連の製品でも
新品に不良品があることにそれほどの
責任感もないような時代に入ってきたのである。
手島君はその場で東芝のカストマーサービスに
電話。この種の話がかなりあるようで、実務的
話をし、結局、1週間位後に郵送してもらうことに
なった。「MADE IN JAPAN」が信頼の
ブランドという時代は終わったようだ。
法政大学の先生から電話。6月21日(水)の
午前中に大学の授業で話をして欲しいとの
依頼。受ける。
ベトナム事務所から日本料理店で仕事をしている
店長代理の大塚さん、 会計担当税田さん、警備員リー君、
料理人ターオ君、トゥオイさん、5月中旬から3ヶ月の
ボランティアをしてくれている久保田さんの近況が送られてきた。
問題も山積している日本料理店だが、皆さんの元気そうな写真に
一安心。
●トゥオイさんと大塚さん
●りー・ターオ兄弟と大塚さん
●税田さんや久保田さん一同
2006年06月17日
国際ソロプチミスト東京ー東例会
曇りのち晴れ。
午前中、国際ソロプチミスト東京ー東例会に出す「資料」
作り。
午前10時半、自宅を出て神保町→永田町。
赤坂見附交差点の「弁慶橋」から見るお堀では、
釣りを楽しむ人たちがいた。何とものんびりした風景である。
弁慶橋から「東京プリンスホテル」、その前に「ニューオータニ」
がそびえている。
●東京プリンス
●ニューオータニ
午後12時過ぎから国際ソロプチミスト東京ー東例会
でフエでの取り組みを話す。
『いまどきの「常識」』(香山リカ著:岩波新書)読了。
今年読んだ本の中で「読んで良かった」と思える何冊かの
うちの一冊。2005年9月第1刷。
精神科医の香山リカさんから見た現在の日本社会観である。
臨床の精神科医師であり大学教師でもある著者が付き合って
いる患者と大学生を通して見た今の日本。
著者の基本認識は「今の日本は声高と単純、自分中心で
社会との関わりをもたない・もてない人たちが多い」。
2005年の段階で「ホリエモン」を代表とする一時成金、
拝金主義の潮流を厳しく批判している。その責任者が
竹中平蔵だとの指摘もしている。
イラクで捕まった3人の日本人に対する「自己責任」
バッシングの源流を分析している。
「アエラ」(2004年4月16日)に掲載された
社会福祉論の立岩真也のことばを借りて説明している。
高遠さんなどへの異常ばバッシングの源泉は、
90年代以降、政治・経済の世界で『攻撃的な気分』
にもっともらしさをかぶせる言葉として広がった。
自分の力で自らを救えないものは救わなくても良いとなると、
人のために何もせずにすんで得をする人がいる。「自己責任」
という言葉が、そうした「得をする人たち」に支持され広がった。
「自己責任」と言って得をするというのは、おそらく既に権力を
持っている人や財を持っている人だろう。
『「弱い人」をいたわり、誰もが同じように暮らせる社会に』という
今まで常識的な意見が通らなくなり、
世の中や人々の意識がガラリと変わってしまったと言っている。
小泉政権の5年間を振り返る時となったが、この本は小泉政権
5年間が何であったのかを「若者」を通して実証しているように
思えた。「格差社会」「セレブ」「自己責任」「拝金主義」・・・。
弱いものが生きにくい社会になったことだけは明らかである。
国民が支持した小泉政権。なぜ、国民が自らの首をしめるような
小泉政権を支持したのか、その精神的基盤を明らかにしている。
ベトナム事務所全員会議
6月17日、午前8時半からベトナム事務所全員会議が開催
された。
時間:2006年6月17日 AM8:30 ~AM9:30
参加者:事務所員全員
ソン: 事務所の仕事、ハンさんの手伝い。
自動車の運転免許取得の勉強中。
ラム: 個人ツアーの案内
フーン: 日本語学校の状況報告。
7月中旬からガイドクラス卒業試験を行いたい。
中村: 試験の手順・内容を説明。
日本人の訪問者がいたらガイドの実習に協力してもらう。
ガイドクラスの生徒の案内が日本人訪問者に理解できるか
チェックしたい。
日本語学校はCDプーレヤはあるが、テレビがないので
ビデオを使っての授業のために1台欲しい。
税田: 松下さんの代わりに日本語学校で教えている。
ハンさんが翻訳した子ども達の里親への手紙の日本語チェック
をした。全ての里親への近況報告の手紙、終了。
ストリートチルドレン芸術祭へ子どもの絵を送った。
石岡: 来週の木曜日にガイドクラスがDMZへ実習しに行く。
ハン: 高橋ますみさんからヴー君への手紙を皆に知らせた。
サン: 日本語の自分の担当クラスは問題がない。
ミン: 7,8の日程調整。
メンちゃんの来日のことを皆に知らせ。
JASSツアーの意義と重要さ、そしてベトナム事務所員全員
で協力して成功させようと、ベトナム事務所員に説明。
恒例のバーベキュー大会について。
2006年06月16日
「国際ソロプチミスト東京ー東」役員会懇談 京滋YOUの会の活動
雨のち曇り。
午前中16通のメール受信。13通のメール送信。
午前10時自宅を出て三田線ー半蔵門線で永田町へ。
ホテルニューオータニで国際ソロプチミスト東京ー東の
皆さんと昼食を摂りながら懇談。寿司「久兵衛」。
相当高級な寿司屋さん。美味しい。
ソロプチミスト東京ー東の支援ししている障害児関連の
プロジェクトについて懇談。
明日のソロプチミスト例会でフエでの活動を報告することに
なった。
夕方自宅着。日本事務所の内田さんと電話で話し合う。
夜、ソロプチミストのUさんから電話。
夕食に納豆まきを食べたくなり作る。ちょっと品質の良いのりを
あぶり、引きわり納豆を十分にかき回す。何回か作っているうちに
上手に巻けるようになってくる。海苔の真ん中に納豆や具がくるよう
に巻く練習中。細まきの市販「納豆まき」は8つで200円。
海苔の香りがしない。自分で作った納豆巻きは美味しい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
京滋YOUの会
ベトナムの「子どもの家」を支える会写真展
●京滋YOUの会は京都、滋賀県を中心に関西で
ベトナムの「子どもの家」を支援しているボランティア団体。
代表は中村巧さん、事務局長は藤井志保子さん
京滋YOUの会のHP http://www.cansoon.com/~tao/index.html
5月30日から6月4日まで京田辺市立中央図書館で「ベトナムの『子どもの家』を支える会写真展」を行いました。京田辺でストリートチルドレンの写真展は初めてだったので、新聞社(朝日、京都)とケーブルテレビ局の取材を受けました。
会場には写真のほかに子どもたちの絵や刺繍製品、アオザイなども展示しました。
来場者の人数はわかりませんが、「一言感想ノート」に23人の方が書いてくださいました。一部を紹介したいと思います。
(写真提供:豊田陽さん )
★写真展参観者の声
*学生時代にベトナム人民支援(アメリカとの戦争)で、10・21ベトナム反戦デーとかに参加したことを 思い出す。自立した国として国家建設の途中のストリートチルドレンを支援する運動を始めて知りまし た。がんばってください。何かできたらと思いました。
*日本にない文化の紹介になっていて、とても楽しい。日本とベトナムの交流が益々盛んになることを願 っています。
*すごく有意義で世界に必要な活動だと思う。誰かのために何かができることはすばらしい。
*ベトナムの子どものために言語も生活習慣も違う国でがんばっている方がいらっしゃることを知り、元教 師として心うたれるものを感じました。
*厳しい環境の中での素敵な笑顔が美しい。今の日本人が忘れている家族愛や生きていくたくましさを 感じることができました。頑張って。
*子どもたちの瞳がしっかり地に足をつけて生きている、生きることの大変さも解っている、そのような感 じを受けました。
*私は今大学でフェアトレードの活動をしています。地元の京田辺市でこのような活動があるなんてはじ めて知りました。途上国には先進国が忘れてしまった良いところがたくさんあると思います。そういうと ころを残していきながら国際協力をしていきたいですね。
*すごくきれいな風景と笑顔で写真に見入りました。前々から海外でのボランティアなどに興味があった のですが、まだ行動に移せずにいるので大学生になった今年こそは、と思っています。「子どもの家」に も行ってみたいです。ありがとうございました。資料いただいて帰ります。
*日本のボランティア活動へ感動をもらいました。もっと頑張ってください。(韓国の男性)
*私は人形劇をしている者ですが、「子どもの家」の子どもたちにいつか見てもらえる日がくるかし ら・・・? 夢を見たくなりました。
*日本料理店「子どもの家」、おもしろい経営ですね。ベトナムの子どもたちの自立に向けての活動が具 体的にわかってよかったです。
*子どもたちの笑顔がとてもかわいらしくて、とてもいいお顔をしているのが印象的でした。(多数の方)
たくさんの方が感想を書いてくださいました。初めての写真展でしたが、「子どもの家」を知ってもらう良い機会になったとおもいます。ご協力いただいた皆様ありがとうございました。
文責:梶山育子
投稿者 koyama : 09:02 | コメント (0) | トラックバック
2006年06月15日
無様な福井日銀総裁の態度
終日曇り。
午前中、13通のメール送信。
ピースボートから第55次の船での講演会の依頼あり。
11月2日横浜→神戸→那覇→ダナンまで乗船。
「白州次郎 プリンシプルのない日本」(新潮社)読了。
白州次郎は白州正子の夫。戦前、イギリスで生活し、
戦争に負けると断言し、戦前、鶴川に移り住み農業。
戦後、吉田茂の相談役として活動。日本国憲法の成立に
関与。一般的には「体制側の人間」と評価されているが、
この本を読むと人間はそう単純なものでもなく、一色に塗れない
ところがあることが分かる。戦前の頑固一徹な人間性を持って
いる。学ぶべき点、多々あり。東北電力会長。
福井日銀総裁の国会答弁などを見ていると今の日本の
道徳と人間性崩壊の行き着く先を見る思いがした。
白州次郎が生きていたらどんな態度を取っただろうか?
「恥を知る」という言葉がある。法律に違反しているとか
いないとかという問題ではない。日銀総裁は経済運営の
「首相」である。経済分野ではある意味でオールマイティーの
権力を持っている。そうした人間がやくざ仕手集団の
「村上ファンド」のアドバイザーをしていたことだけで、
恥を知るべきである。今日の日本を築いた多くのお年寄りが
「老後の生活」のために貯えたわずかな預金の利息を
「ゼロ金利政策」で取り上げておきながら、自らは村上ファンドで
多額の利益を得ていた。今日の国会で「いくら儲けたのか?」
との質問に解答しなかった。小泉首相も「問題なし」との
居直りの態度。これでは、けじめがつかない。
夕方高島平団地にある商店街に買い物に行った。
イーストサイド商店街という小さな商店街が閉鎖されていた。
夕方から東京は雨が降り出した。閉鎖されたイーストサイド
商店街の軒下に何人もの「ホームレス」の人たちが、
雨宿りに来ていた。詳細に見ると年齢的には50歳代
以上の人たちである。
片や諸般の事情で商店街の軒下で雨宿りをして
野宿する人たちがいる。片や福井総裁のように
自らの立場を利用して「甘い汁」を吸う人間がいる。
福井総裁はホリエモンの逮捕とその後の事態を予測する
立場にあり、数千万円の儲けを「売り抜ける」ために
ホリエモン逮捕の後に「村上ファンド」からの引き上げを
しようと画策している。卑怯な人間である。
リストラや家庭の様々な事情でホームレスになった
人たちがいる。
福井氏だけでなく、福井氏が象徴する「甘い汁」
を吸う吸血鬼のような人間集団がいる。
小泉「構造改革」の行き着く先はこうした甘い汁を吸う
吸血鬼集団と「どうしようもない生活」の中で
「下層階級の生活」をせざるを得ない人々がいる、
こうした『二重構造社会』創出である。
今日の国会で小泉首相の国会での出番は終わった。
生まれと家庭、出自の良い人たちが「甘い汁」を吸える
二重社会を作った「功績」だけを残して去ってく首相ではある。
ーーーーーーーーーーーー
6月13日から栃木県小山市「まちかど美術館」で「子どもの家」
の絵画展を実施中。6月14日付け「下野新聞」に紹介されている。
この絵画展は、「ベトナムの子どもたちと共に生きる会」の
佐藤清子さんたちの紹介で「まちかど美術館」で開催中。
「まちかど美術館」は小山市から依頼を受け、市街地の活性化
と雇用促進を目標に、空き店舗を利用して昨年10月にオープン。
企画・運営をNPO法人「たすけあい大地」が担当している。
http://www.tm-twin.com/goodplace/goodp0402/machikado
/machikado.html
(まちかど美術館&OMOIGAWA CAFE)
まちかど美術館
TEL/0285-21-3381
開/小山市中央町2-1-8メゾンタカキュー1F
営/10:00~18:00
休/月曜日
料/ 無料(一部を除く)
OMOIGAWA CAFE
TEL/0285-24-1113
住/小山市中央町2-1-9
営/火~金曜日/11:30~15:00、18:00~23:00
土曜日/12:00~17:00 日曜日/12:00~15:00
休/月曜日
URL/www.oyama-cci.or.jp/tmo/omoigawacafe/
P/小山市役所駐車場、ボランティア支援センター駐車場
6月25日(日)午後1時半から「まちかど美術館」で講演会を
行う。「子どもの家」、ストリートチルドレン、ボランティアなどを
話をする予定である。
2006年06月14日
フエ『縫製工場』立ち上げ準備
終日曇り。
午前11時自宅発。原宿へ。
一時間ほど明治神宮「代々木の森」散策。多数の年配者が
散策していた。
東京の真ん中にこのような静寂な自然が残っている。江戸時代
大名の屋敷だったようだ。明治になり「代々木練兵場」。
神社の中には100年以上前の自然がそのまま残っているか
に見えた。
午後1時。宇都宮縫製工業組合佐藤理事長、上田芳子さん、
株式会社 ブ レ ラ花田啓一社長さんたちと合流。
ODA支援でフエに建築中の縫製工場の立ち上げ、今後の運営
などについて相談する。
アクセサリー専門会社ブレラの花田さんが縫製工場で
アクセサリー製造の仕事をすることになっている。
宇都宮縫製工業組合は組合として、縫製工場への支援を
決定している。工業用ミシンの寄贈、技術指導・・・・。
今日は縫製工場で縫製の仕事を支援してくれる佐藤理事長
と花田社長と顔合わせをし、今後、協力・共同して縫製工場
の運営に協力してもらうため一回目の打ち合わせ。
宇都宮縫製工業組合佐藤理事長の紹介で
原宿でファッション「CLAVIS」の展示会へ。
クラヴィスの長尾社長と佐藤理事長とは仕事上での知り合い。
「CLAVIS」は以下のブランドの商品を販売している。
「OPERA」「RIVE DROITE」「UN DIX CORS」
「CLAVIS」(クラヴィス)は199年の創業。
従業員515名。売り上げ高85億円。全国107店舗。
「CLICHY」「TET LAG DRIVE」「Miss ALLICE」。
クラヴィス関係者に花田社長を紹介。
展示会場の各種ファッション、アクセサリーなどを見る。
今後、縫製工場が立ち上がり仕事が始まれば、
日本のファッション関係者とのつながりが必要。
佐藤理事長、花田社長の人脈に期待。
私は初めてファッションの展示会に参加した。
秋冬の展示。聞いてい見ると、ファッション業界は
夏物と秋冬物そして来年の春物の3つを同時並行的に
やっているとのこと。
縫製事体は人件費の安い中国に移転している。
アクセサリー業界も同様に中国で作っているそうだ。
ファッションの周期も短くなる一方だそうで、週単位で
ファッションが変わる時代になっているとのこと。
今後、佐藤理事長、花田社長と協力してフエの
縫製工場を立ち上げ、運営していくという大きな
課題を背負っている。
正直、私はファッションに全くと言って興味がない。
人生とは不思議なものである。全く興味と関係ない
ファッション業界と付き合いをするようになるとは・・・。
これも人生の新たな挑戦である。
ストリートチルドレンを助けたいと思いベトナムへ
渡って13年。ファッション業界との付き合い、
日本料理店の開店と私の今までの人生とは
全く関係ない仕事をする「ハメ」になってしまった。
何としても縫製工場を立ち上げ、運営を軌道に乗せる必要が
ある。「子どもの家」でミシンの研修をしている子どもたちは
縫製工場の完成を待っている。縫製工場で利益を上げ、
子どもたちの生活費にしたいものである。
これから、多くの試練が待ち受けている。乗り越えることが
できるのか・・・・・・。
佐藤理事長、花田社長の支援・応援をお願いしたい。
原宿から表参道まで歩き帰宅。
NHK厚生文化事業団から連絡があった。
4年前に久門(くもん)さんと言う方から奨学金寄贈の
申し入れがあった。毎年125万円の奨学金を
JASSベトナム事務所を通してフエの学生・生徒に贈呈。
今年の8月で4年間の奨学金贈呈期間が終了した。
久門さんから引き続き4年間奨学金の贈呈を延長したい
とのこと。ありがたい話である。久門さんの旦那さんが
戦前ベトナムを取材した新聞記者だったそうだ。
既に亡くなっているが、奥さんの久門さんが旦那さんが
好きだったベトナムに遺産の一部を役立てて欲しいとの
気持ちから始まった奨学金である。私たちは久門さんの
意思を受け止め、奨学金を適正に管理し、本当に必要な
子どもたちに支給するという仕事をしている。
久門さんは体調を崩されているとのこと。回復を祈る。
午後8時、NHKBS2で「テレサテン」を見る。
テレサにとって大きな出来事だった「天安門事件」を
全く無視した編成だった。1989年の天安門事件に
反対して香港で大集会があった。テレサは、鉢巻を
して集会で「香港」を歌った。一時間半の番組である。
「香港」を聞かせて欲しかった。
米原万里の番組も政治的な部分は一切カットしていた。
テレサの天安門事件、米原万里のソ連・スターリン問題
などはその人生の中でひとつの大きな出来事だった
はずである。
2006年06月13日
終日曇り
終日曇り。
今日は一日中「サッカー Wカップ」の話題だった。
私は個人的にプロスポーツは好きではない。
サッカーもあまり興味がないないというのか、正確には
よく分からない。
NHKTVでは「日本中が注目」と言っていたが、私はあまり
興味がなかった。
それでも夜10時からテレビを見ていた。前半一点入ったあたりで
純米大吟酒「奥の松」(福島)が効いて来たのか睡魔に襲われ、
気がついたら朝だった。3対1で負けていた。
残念ではあるが、これが力の差というもの?
シュート数が20対6だそうなので、客観的には順当な結果
だったのではないだろうか。
この一週間、日本のマスコミは異常に思えた。
朝から晩まで「ドイツWカップ」の連呼。
Wカップに興味はない人は日本人ではないかのような
番組編成だった。
支援者は日の丸の旗を持ったり顔に書いたりしての応援。
香山リカが「プチナショナリズム」と言っているが、
今回のWカップはまさに若者のプチナショナリズムを刺激し育成
していることが分かる。若者はそうした自覚はない。
テレビやマスコミを見ていると「Wカップ」で「頑張れ日本」を
言わない人は異質な人のように写ってしまう怖さがあった。
アジア太平洋戦争中に「南京陥落」「シンガポール陥落」を祝う
国民の提灯行列を彷彿させる光景である。
クロアチア戦の奮闘を祈る。
今日午後7時のNHKニュースは
①Wカップドイツ大会
②シンドラー社のエレベーター事故問題
③福井日銀総裁の「村上ファンド」1000万円投資問題
日本のマスコミは海外の問題にはかなり突っ込んだ報道をするが
国内問題・日本の権力問題への追求は皆無か及び腰。
日銀総裁が「インサーダー取引」をしていた村上ファンドの
アドバイザーだったこと、投資しかなりの利益を得ていたこと。
日本の資本主義もここまで来たのかと唖然とした。
人間の道義も何もない。ホリエモン・村上容疑者と同様、
「金儲け」のためなら道義も何もないと言った態度である。
日銀は何年もの間「ゼロ金利政策」を続けている。
多くのお年寄りは老後のために退職金を預金し、利息で
生活しようとしていた。ゼロ金利は本来預金に支払うべき
金利を日銀の政策で「ゼロ」にし銀行を潤すという異常な
政策である。福井日銀総裁は「お年寄りのわずかな利息
さえもぎ取り大手銀行を潤し、お年寄りを徹底的に
いじめながら、自分は「村上ファンド」に1000万円の投資をし、
何倍もの利益を何度も得ているのである。
常識的に考え、自らの不徳を恥じ即時辞職すべきであるが
居直っている。任命した小泉首相に至っては「問題ない」との
態度。
年収200万円以下の人口が2500万人もいるという。
30歳前後の若者が「バブル期」の就職難でいまだに
アルバイトなどをしている現状である。
一部の特権階級が影で「特権的ぼろもうけ」をし、
偉そうなお説教を垂れているわが日本である。
愛国心といわれてもこんな人物が日本の金融政策の責任者
だと思う国をどうのように愛せよというのか?
自民党・公明党の与党が即刻福井総裁の首を切ることが
出来ないで「愛国心」などという言葉を口にする資格はない。
それにしてもNHK・マスコミの権力への批判のなさ、
極端に権力に弱いのは辟易する。何のための報道の自由なのか・・・。
一日中、「子どもの家」関係者へのメール連絡に終わる。
講演会の事前準備。縫製工場関係者との打ち合わせ・・・・。
15通のメール受信。10通のメール送信。
夕方買い物。太巻きを食べたくなった。
納豆まき、ソウルで食べた「太巻き」を作る。
我ながら美味しく出来た。
午後9時半。NHKBS2で「追悼・米原万里さん・世界・わが心の
旅・プラハ」を見る。10年前の番組。「嘘つきアーニャの真っ赤な
真実」のテレビ版。哀悼。
2006年06月12日
松下安希子先生帰国
「子どもの家」の日本語クラス教師、日本語学校
の教師としてボランティアでJASS活動を支えてくれた
松下安希子先生が、フエを発ち日本へ帰国。
2004年から今日まで「2年間」の任期を終えた。
長い間のフエ滞在に心から感謝。いつも明るく、
ベトナム事務所員の誕生会や様々なイベントなどを
自主的に企画してくれた。「子どもの家」の日本語クラスの
教師として忍耐強く「子どもの家」の子どもたちに
日本語を教えてくれた。一般市民が学ぶ静岡フエ青年会館
付属日本語学校の教師の仕事とは又違う大きな困難を伴う
仕事であった。
2年間という長い間のフエ滞在に心から感謝。
●「子どもの家」でお別れ会を行う。
子どもたちに離任の挨拶をする松下先生
●「子どもの家」を代表してセン委員長より記念品贈呈
●「子どもの家」の子どもたちと記念写真
夏休み中なので何人かの子どもたちは親戚などに帰省中
6月11日(日)にはベトナム事務所主催の送別会が行われた。
ベトナム事務所員全員、「子どもの家」セン委員長、ロック寮長、
フエ市人民委員会ニエン外務部長、ホアン外務部員、
オアシスの会の大塚さん、ボランティア支援の久保田さん、」
京滋YOUの会の三津川さん。
TAY NGUYEN レストランの芝生の庭で行われた送別会。
「おつかれさま ありがとう」と書かれた紙を持って。
●松下先生の前途を祝し乾杯
●送別会。「子どもの家」ロック寮長と
●6月12日(月)、いよいよ日本へ帰国。
●トンチンカンホテル前で(帰国)
●6月12日、フエ空港で(ベトナム事務所員などと)
日本での活躍を期待。
2006年06月11日
入梅入り
終日雨。
梅雨に入ったが、私は毎日寒くて仕方がない。
午前中、メールでベトナム事務所などと連絡。
フエでのボランティア希望者へメールを送信。
「超バカの壁」(養老孟司著:新潮新書)読了。
若者の問題から本気の問題まで12の問題について
自説を披露。読むべき価値のある内容。
常識的な結論の部分が多い。
戦争責任の項では、「憲法9条改正に反対する」と。
夕方、買い物。私は基本的に冷蔵庫にものを入れずに
昔のように毎日時間があれば買い物に行くことにしている。
その日、安い野菜などを買うことにしている。
全てのものが高く、買えない。
薄く小さい「するめイカ」が1枚500円。高すぎる。
フエで『100円』の生活を長くしていると金銭感覚が
狂ってしまう。狂ったのは私なのか日本の物価高なのか?
違う店に行き、2枚700円のするめイカを買う。
少し焙って小さく切る。
だし汁にお酒、醤油、そばつゆ少量にするめイカ、
人参、納豆昆布を入れて、冷蔵庫に一晩寝かす。
吟醸酒のおつまみには最適。明日の夜のおつまみ。
2006年06月10日
板橋総合ボランティアセンター開設記念のつどい
終日曇り。
メールの送受信。
昼自宅を出て大山にある「板橋区立グリーンホール」へ。
今年4月に「いたばし総合ボランティアセンター」が開設された。
しかし、あまり区民に知られていないとのことで、今日の
開設記念のつどいを行う(呼びかけ趣旨書)運びとなった。
運営委員会、ボランティア総合センター関係者の皆さん、
ご苦労様。
私の家にも呼びかけ書が届いたので参加する。
参加者は150人。土曜日の午後、150人の区民が集まったのは
素晴らしいこと。50歳代以上の方々が大半だった。
社会福祉協議会や町内会などの組織としての参加者もいたようだ。
はじめに開会挨拶 運営委員会実行委員長
運営委員紹介 運営委員長
記念講演 「ボランティア・NPOの推進とボランティアセンターの
役割」
興ろき 寛氏(世田谷ボランティア協会理事長)
板橋総合ボランティアセンターの設立と経過と運営方針
いたばし総合ボランティアセンター所長
いたばし総合ボランティアセンターは板橋区福祉協議会が
「いたばしボランティアセンター」を開設。(平成3年)
平成11年、板橋区もボランティア活動推進主査を設置し
「いたばしボランティア基金条例」を創設。
こうした経過を踏まえ2006年4月「いたばし総合ボランティアセンター」
が開設された。
説明を聞くと「組織」「形」は行政主導で出来ているが、中身が伴って
いないといういのが現状のlようだ。
運営委員会の』委員長には大東文化大学の先生が就任。
板橋商店街連合会、板橋区町会連合会、青年会議所、。
板橋区社会福祉協議会、板橋区(行政)から2人。
その他若干のボランティア団体の代表が就任。
運営委員会の構成を見ると行政と町内会、商店会、
社会福祉協議会など既存の団体を主体として構成された
いることが分かる。これは、ボランティアセンターが始まった
ばかりという事情もある。
記念講演の「こうろき ひろし」氏の話を聞いて大変勉強に
なった。こうろき氏はボランティア学などを大学等で
教えている先生。イギリスでボランティアなどを学ぶ。
40分の講演時間が与えられていた。
講演の冒頭に「今日の講演会の準備をしたが、忘れてきて
しまった」とのこと。
その後、雑談風の話が30分ほど続く。どんな話をするのか
興味深く聞いていた私は、30分間の雑談風の話を
聞きながら、この講師の言いたいことは一体何なのか?
頭の中でグルグルと考えが回っていたが結局分からなかった。
残り時間が10分ほどになって、33項目のポイントに
ついて話を始めたが、時間がなく、読み上げて終わって
しまった。大変残念な講演だった。
講演会の事前の準備が不足していたことが最大の原因。
40分間に何を話すか? 事前にしっかりとレジュメを作り
頭の中に入れるか、メモにしておくべきであった。
せっかく150人もに区民が集まった「開設記念のつどい」
だったのだが、講師が何を言いたいかが、参加者に
伝わらないままに40分(持ち時間を超過)の時間が
終わってしまった。
私には、大変参考になった。聞き手の立場で話を聞くとき、
講師が何を言いたいのかをきちんと「打ち出さないと」
いけないということである。自分の持ち時間の中で
「これを言いたい」という講演の主題を事前にしっかりと
自分の頭の中で整理しておくことがいかに重要かが
改めて分かった。
その後、5つの分科会に分かれて話し合う。
私は国際協力の分科会に入ろうとしたがなかったので、
『学生ボランティアネットワーク・地球市民の形成』分科会へ。
分科会は
① 第1分科会(保健・医療・福祉関係)
② 第2分科会(環境・まちづくり関係)
③ 第3分科会(社会教育、子育て)
④ 第4分科会(男女共同参画社会)
⑤ 第5分科会(学生ボランティアネットワーク地球市民)
参加者に配布された資料を見るとやたら「カタカナ語」が
多い。
「バズセッション トータルコーデイネーター」
「ファイシリテーター」などのカタカナ語が踊っている。
この会を主導しているひとたちが西欧型のボランティアを
参考・見本にしていることが分かる。年齢の高い人も
相当数参加している会である。
ファシリテーターなどなんだか分からない言葉を
使う主催者の気持ちが分からない。
ついでに言うと、この種のボランティアの会合に行くと
必ずと言って良いほど主催者や中心的な人は、
「あごひげ」をたくわえていたり、男性で髪を後ろに
束ねている。この会もその種の人たちがいた。
これもボランティアのひとつに流行なのだろうか?
カタカナ語が多様されやイギリス、アメリカではボランティアは
こうやっていると言う趣旨の話が出てくる。
強い違和感を感じる。
分科会には「コーディネーター」と「ファシリテーター」
がいる。
分科会の部屋に入る。15人ほどの参加者。
6人位が丸く座るようになった机が8つほどある。
その回りにだんご状になり座る。部屋の中に
8つの団子状の塊が出来る。
これでは、お互いが顔を見ながら話し合う体勢ではない。
話し合いの基本は、顔を見ながら相手の意見を聞きながら
自分の意見をいうということなのだが。
分科会が始まる。コーディネーターという若い学生が
「1ヶ月半ほど前にコーディネーターをやるようにいわれた」
との言葉で始まる。今日は、今後この分科会で進める
活動について話しあおうとのこと。
しばらくして会場を出る。
5歳から小学校4年生まで池袋に住んだ。
大山はそのころの遊び場。
大山銀座を散策する。小学校の頃、父親と一緒に来た
蕎麦屋もそのままの形で残っていた。
せっかく大山まで来たので久しぶりに「旧中仙道」
を散策する。
小学校から教員になった頃までの13年間ほどを
板橋で過ごした。旧中仙道は小中高校時代の
思い出の地であり、同級生の親がお店をやっていた
場所でもあった。
40年ぶりに旧中仙道を歩いてみる。昔とお店は大きく
変わっていた。友達のお店がなくいなっていた。
下駄屋(金波屋)がなくなっていた。洗い張り屋(ますだや)
もない。大きな肉屋もない。私が一番通った古本屋もなくなって
いた。小学校5年・6年の頃、良く通った古本屋だった。
講談本の古本がたくさんあった。忠臣蔵から猿とび佐助・・。
1冊30円~50円。この古本屋にある主な講談本はほとんど
読んだような気がする。私の読書の原点である。
1959年9月の伊勢湾台風の時には板橋の下を流れる「音無し川」
が氾濫。この橋に上流から流れてきた「家」が引っかかっているの
見た記憶がある。
板橋をわたり岩の坂に入る。
中学の同級生の大きな本屋さんは残っていた。
途中に「縁切りえのき」がある。
岩の坂を登り、環七を横断したあと、清水町に出る。更に歩く。
小学校の頃、映画館が2軒あったが、なくなっていた。
柔道場もない。
途中、中学の同級生がやっている「八百屋」と「自転車」を通る。
店の奥に同級生がいた。声をかえようと思ったが、やめた。
二人とも年を重ねた様子が良く分かる。頭が真っ白になった
八百屋さん。髪の毛がなくなっていた自転車屋さん。
私の脳裏には45年前の詰襟姿の同級生の顔が浮かんでくる。
二人の年を重ねた様子を見ながら「私自身」を改めて見た思いが
した。
しばらく歩くと「国道17号」(新中仙道)に合流する。
そのまま17号を歩く。蓮沼を通り、志村坂上近くへ出る。
「
志村一里塚」がある。
日本橋を起点にし中仙道の3番目の「一里塚」である。
文京区の「本郷一里塚」、板橋の「仲宿一里塚」に次ぐ
第3番目の一里塚だった。
志村一里塚で日本橋から3里。12キロ。
志村坂上から左折し、高速道路の下を通り、西台まで。
都営三田線の「板橋区役所前」から「西台」まで7つの駅を
歩いたことになる。2時間半の散策だった。
2006年06月09日
休み
終日雨。一時豪雨。
日本へ帰国して9日目。
この間、講演会などもなく比較的ゆっくりと生活できた。
妻と二人だけの生活は久しぶり。これが『老後の生活か』
と思ったら、既に二人とも退職し客観的には「老後生活」に
突入しているのだ。
午後、買い物。野菜やいくつかの食材を買う。
ぬかづけ。(きゅうり、なす、にんじん)
講演会先の都立高校から要望されたいくつかの書類を
郵送する。
教え子のT君(コンピュータ会社経営)にパソコンの買い替えに
ついて相談。日記をかいているこのパソコンはほとんど半死状態。
数行日記を書くとフリーズしてしまう。
印刷機の接続が出来なくなった。
朝日新聞朝刊を読む。
学校で「朝食」を出す動きが出てきたとのこと。
小学校で16%、中学校で20%の子どもたちが朝食を摂らずに
登校し、学業に集中できない、そのための窮余の策として
朝食を学校で出しているという。
学校と家庭の生な実情・実態が見えるような気がする。
東京都では、大量の団塊世代退職者が出ている。
教育のベテラン教師がいなくなり、新規採用者や
若い先生ばかりとなり、教育技術が伝承されないという。
学校が学校として機能していかなくなるという
重大な問題に直面しているとのこと。
東京都の小学校の先生の平均年齢は43・5歳。
しかし、平均の43歳は全都で617人。56歳は
1265人だそうだ。これらの経験豊富な教員の
大量退職が既に始まり、2007年には、更に
大量の定年退職者が出る。
多摩市では1400人の教員のうち300人が
新規採用者とのこと。
その隣には、東京都教育委員会が行った
全都一斉「学力テスト」の各区毎の平均点一覧表が
出ている。これは東京の全ての小学校5年生と
中学2年生の統一学力テストを実施した結果である。
自治体別の平均点の最高と最低の差は中学で
13、7。小学校で9、6あった。
中学で平均点トップだった国分寺市の指導室長は
「地道な授業内容の改善が成果に結びついた」と
話している。
小・中ともに全都最低の平均点となった福生市
では『各教科平均正答率7割を目標にしてきたが
・・・下回った。努力してきた7割を超えられなくて
残念』と話している。
小・中とも最下位よりいつくか順位をあげた足立区は
「取り組みの成果が出て順位を上げた。大変感激
している」と喜びを隠さないとのこと。
その記事の下に「都立中高一貫校入試は2月3日」
という記事が出ていた。
都立中高一貫校の小石川中等教育(文京区)、
白鴎高校付属(台東区)、両国高校付属(墨田区)
桜修館中等教育(目黒区)の4校。
今日の朝日の30面、34面には今の日本の教育が
抱えている問題が書かれている。
一言で言えば、文部科学省の無能さと言える。
教育基本法改正には熱を入れているが、現実の
家庭の力、学校を取り巻く深刻な状況などには
本当の意味で関心をもっていない。
以前、鳩山邦夫文部大臣の時、「偏差値教育追放」を
文部省は呼号し、全国に大号令をかけた。
教育課程、指導要領を改訂した。「点数で子どもたち
をみない」「子どもたちの生きる力を育てる」「子どもたちに
様々な体験をさせる」との発言が、文部大臣、各都道府県
区市町村の教育長から発せられた。
学校では校長が先頭となり、「新しい学力観」、学力評価の
改善などの運動を始めた。
この話はちょっと前の話。遠山文部大臣までは、その路線
が正しいと強引に推進してきた。
それから数年後の今、各区市町村ごとの平均点を出し、
各区では学校ごと、こどもごとの平均点をだして、
「点数競争」に奔走。平均点に教育委員会も校長も
子どもたちも一喜一憂している。
家庭では朝ごはんを食べないで登校する子どもたちが
20%(2000年。日本スポーツ振興センター調べ)もいると
いうが、私の回りの先生に聞くともっと割合は多いようだ。
片方では家庭が家庭として成り立ていない家が急増。
一方で教育行政は、統一学力試験をして、各区市町村を
「点数競争」に駆り立てている。
その結果として、エリート都立高校の新設。
これらの現象を一本の糸でつないで見ると、
今の日本の教育は明らかに「二極分化」していることが
分かる。
中高一貫校に入れる家庭はそれなりに経済力を持ち、
進学塾に子どもたちを通わせることの出来る家庭である。
朝食抜きの家庭との格差は歴然としてくる。
子どもたちが「二極」に分けられる。
学校教師は、全都平均点に比べて自校の平均点の下回った
点数をどのようにして上げるかにしばりつけられる。
1950年代に文部省が行った「全国学力テスト」の結果がどうだった
を学ぶべきである。
私が大学の頃「学テ残酷物語」と言う本を読んだ。
学力テスト日本一は愛媛・香川県だった。愛媛・香川県では、
学力テスト日本一になるために、試験当日勉強の出来ない、
平均点を押し下げる子どもたちは登校させない。
テスト中は先生方が背広の裏に答案を張って、間違った子ども
たちの机をトントンたたき、解答を教えたと愛媛の先生たちが
証言している。
今の教育行政と学校、家庭の状況が進めば子どもたちの
人間育成がもっともおろそかにされることになる。
人間を育てるということは「数字」に出来ない。
「数値主義」「結果主義」「実績主義」を強く推進している
今の教育行政は、結局、全都・全国一斉学力テストを行い、
その結果の数字がもっとも「科学的な証拠」として、
教育を進めることになる。教育現場は平均点向上運動に
狂奔し、教育行政は平均点という「数字」で校長や
学校、教職員を評価する。教育と学校の荒廃。
おいていかれるのは子どもたちだ。
今日の朝日新聞のいくつかの記事を読んで、
何か背筋が寒くなった。私たちがベトナムで行っている
ことは、むしろこうした日本の教育の動きと反対である。
子どもたちの心と自立をめざしている。
昨日、ベトナム事務所から連絡があった。
L君(19歳)とT君(18歳)が窃盗容疑で捕まった
犯人に窃盗指南をしたという容疑で警察に連行されたという。
このふたりは、過去何回も警察のお世話になっている。
ベトナム事務所の皆さんも苦慮している。
私たちはこの二人の警察からの「もらい下げ」と
今後の自立のために彼らを「切り捨てず」に付き合って
いこうとメールで話し合っている。
教育は子どもたちを育てることだ。ほとんど数字に換算できない
分野である。数字と結果、実績などを強調し、学校に
「競争原理」「市場経済原理」を導入している今の教育界は
異常である。
前任校の卒業式に参加し、君が代の際、起立斉唱しなかった
教員を東京都教育委員会は処分した。(6月10日朝日35面)
教育が命令と恫喝と脅迫で進められては、結局、言いなりに
なる「羊教員」「羊学校」が多数出現するだけ。
教育は膨大な一見「無駄」のような活動の中から
数十年後に結果が出来るものである。
学校と教職員が「人間」そのものに注目しなくなったら
教育は終わりだ。
今の東京の教育は一歩、一歩「自殺」に近づいている
ようで恐ろしい。
2006年06月08日
堀切菖蒲園へ
曇りのち雨。寒い
午前中、メールの受信・送信。ベトナム事務所と連絡。
昼過ぎ、妻と葛飾区の「堀切菖蒲園」へ花菖蒲を見に行く。
自宅から巣鴨→日暮里→堀切菖蒲園まで40分。
京成堀切菖蒲園駅から徒歩10分。
堀切菖蒲園は7689㎡の敷地に200種の花菖蒲が栽培されている。
今日時点80%の開花状況。
敷地内には施設のお年寄りや高齢者夫妻の参観者が多かった。
花菖蒲は初夏の到来を告げる花だそうだ。
日本人が花菖蒲を観賞するようになったのはかなり早くからの
ようだ。資料によれば、7世紀(飛鳥時代)中国から陰陽五行説
による節句の風習が伝わる。端午の節句に菖蒲で邪気をはらう
風習が時の朝廷により定まる。この菖蒲はサトイモ科で「ショウブ」
と音読みする。それ以前から日本にはこの「ショウブ」に似た
花菖蒲の原種である「ノハナショウブ」を「あやめ」と呼んでいたが、
「ノハナショウブ」(あやめ)も次第に「霊験ある花」とされていった。
その後、武士の甲冑装飾に花菖蒲j紋様が多く使われた。
こうして花菖蒲が発達した背景には、「邪気をはらう」あやめ文化
があった。江戸時代以前から花菖蒲は日本人と関わって来たようだ。
花菖蒲の原種である「ノハナショウブ」は北海道、本州、四国、九州、
朝鮮半島、シベリヤ東部に分布する多年草。草原や湿原に生えている。
花の色は全国的に見ると赤紫色、場所により青紫色、極まれに
白や桃色。昔は全国の平野部の草原や湿原で自生していたが、
農地化、都市化が進行し、平野部での自生は極端に少なくなった。
花菖蒲の栽培が始まったのは定かでないが、江戸開府初期の
1661年、尾張藩主徳川光友が戸山の下屋敷で花菖蒲を
作った記録があるという。家康、秀忠、家光の3代将軍の花好きは
大名・旗本にも広がり、江戸は世界に稀な園芸都市として発達。
大名の庭園などで花菖蒲が栽培されていた。その後、庶民にも
広がり、江戸時代中期には、庶民の中で花菖蒲栽培が盛んに
なったようだ。
江戸後期になり西葛西領堀切の百姓伊左衛門の花菖蒲園(小高園)
が開園した。これが現在の堀切菖蒲園の始まりである。
旗本松平定朝が60年にわたり花菖蒲を研究改良した。
定朝は熊本藩主の細川氏に改良した花菖蒲を送った。
熊本も花菖蒲の盛んな地域となった。現在「肥後系」といわれる
花菖蒲である。
明治初年。明治維新の動乱で一時衰退した花菖蒲も社会の
安定とともに復活し、江戸時代からの「小高園」「武蔵園」に
続いて「堀切園」「観花園」「堀切茶屋」、「吉野園」などが
新たに菖蒲園として作られた。
明治初期からアメリカやドイツなど海外にも輸出された。
第2次世界大戦で菖蒲園は食料確保のため「水田化」政策
が進められ、全ての花菖蒲園は廃園となり、江戸時代から
続いた花菖蒲園の歴史に終止符が打たれた。
戦争はこうした所にも大きな影響を与えていた。
1953年(昭和28年)たくさんあった菖蒲園の中で
「堀切園」が再建された。しかし、度重なる水害などで
経営が難しくなり、1960年(昭和35年)、『堀切園』は
東京都立の有料公園として再出発した。
1975年(昭和50年)葛飾区に移管され現在に至る。
現在、周辺環境の変化で花菖蒲の生育が思わしくない
ようで、葛飾区は菖蒲園の再生に力を注いでいる。
(以上、「花菖蒲Ⅱ」(葛飾区郷土と天文の博物館)より」
あやめ、カキツバタ、花菖蒲の区別が記されていたが、
堀切菖蒲園で何度見ても区別が出来なかった。
ただ、ボーッと花を見ているだけで心休まるものがあった。
2006年06月07日
自宅
午前中曇り。午後晴れ間が見える。
午前中、ベトナム事務所といくつかの問題でメール連絡。
静岡市邦楽ボランティアの会のフエでの活動結果を
静岡市や関係者に連絡する。
読書「超バカの壁」(養老孟司)
午後、参議院決算委員会の質疑を聞く。
小泉首相も末期症状。
衆議院千葉補選。首相が規制緩和でコンビにでも胃薬や
風邪薬が買えるようになったと自慢していたが、
コンビニでは胃薬や風邪薬は買えない。コンビで買えるように
なったのは医薬部外品だ。「千葉補選での発言は取り消すべきだ」
と社民党の又市議員が質問した。
又市質問は事実である。その証拠に川崎厚労大臣は
首相の答弁を事実上訂正している。しかし首相は最後まで
「街頭演説では分かりやすく言っただけだ。国会答弁とは
違う。」と開き直っているだけだった。
共産党の井上議員の『障害者自立支援法』が実際には、
障害者を切り捨てるものだと具体的な調査の結果を
踏まえて質問をしても真っ当に答える姿勢がない。
「どんな法律を作っても賛否両論がある」ととぼけた
答弁に終始。
1日中、テレビは「秋田県の小1殺人事件」「村上ファンド」
の報道のみ。
夕方、高島平団地内に買い物。今日は商店街が休みだった。
いくつか開いている店に行く。そら豆(20センチ大26個)200円。
きゅうり(30センチ大7本200円)。安い。
するめイカ2枚で700円はあまりに高すぎる。
そら豆を軽く塩ゆでにした。するめイカを軽くあぶり小さく切り、
ニンジン、こぶ、だし汁、お酒、醤油につけけおく。
今夜の晩酌のおつまみ。
「婦人公論」(6月22日号)の広告が新聞で出ていた。
『団塊男性はなぜ「料理」にはまるのか』という特集記事が
でるようだ。興味のある記事。立ち読みすることにした。
2006年06月06日
「静岡市邦楽ボランティアの会」フエ演奏会終了
6月2日から6月5日まで「静岡市邦楽ボランティアの会」
の皆さんが「2006 フエ フェスティバル」に参加。
ベトナム人に日本の伝統音楽を紹介し、日越の文化交流に
貢献した。
2005年に静岡市とフエ市は「友好都市」の提携を行った。
両市の友好都市提携は小嶋善吉静岡市長の尽力によるもの。
静岡市役所、市民の皆さんの善意が友好都市という形となった。
①6月2日
午後6時半にフエ空港に到着した「邦楽の会」の
皆さん32人。楽器など演奏用の機材が多く、飛行場からは
最後に出てくる。
飛行場から夕食レストランへ。午後10時、ホテルへ到着。
フエの第1日目終了。
②6月3日
午前8時、グエンフエ高校へ到着。
「グエンフエ高校」はトゥア・ティエン・フエ省でトップの進学校。
6月3日は夏休み中であったが、30人の高校生と校長先生などが
集まり、尺八、琴、剣舞など日本の伝統音楽を堪能。
・グエンフエ高校高校の講堂で行われる演奏会の準備をする
・邦楽ボランティアの会の演奏を堪能す校長先生、副校長先生
・琴の演奏
邦楽ボランティアの会の演奏の返礼に高校生が歌を歌う。
邦楽ボランティアの会の指導で高校生が日本の楽器演奏。
邦楽ボランティアの会の皆さんが静岡市で「チャリチィーコンサート」
を行い寄金を集める。その一部をグエンフエ高校に寄贈。
ーーー
その足でフエ市人民委員会へ。CAOフエ市長を表敬訪問。
・挨拶をするCAOフエ市長
・浜田静岡市邦楽ボランティアの会代表
小嶋善吉静岡市長より託されたメッセージを代読。
・フエ市長と懇親後、フエ市人民委員会庁舎前でCAOフエ市長と
静岡市邦楽ボランティアの会の皆さんの全員記念写真
昼食後、市内観光。
午後6時から日本料理店「子どもの家」へ。
「子どもの家」への支援も兼ねて夕食を摂って頂く。
おいしかったとの励ましの言葉を頂く。
午後8時からフォン川クルーズを楽しむ
③6月4日
午前8時、「子どもの家」で演奏会。36度という猛暑の中での
演奏会。邦楽の会の皆さんは、子どもたちのために一生懸命
演奏をしてくださった。夏休み中の「子どもの家」の子どもたち
に取っては素晴らしいプレゼントだった。
・「子どもの家」へ大金の寄金をしてくださった。
また、子どもたちに尺八の指導を。子どもたちも大喜び。
琴・付属一式、尺八・付属一式を「有効に使えるところに」
と言って寄贈して頂いた。寄贈先を検討中。
演奏後、子どもたちと一緒に「子どもの家」で昼食を摂る。
ホテルに戻る途中、ベトナム事務所1階にある刺繍みやげ物店で
大量の刺繍を買ってくれる。子どもたちへの大きな支援となった。
午後6時半から「コックホック高校」前での演奏会のため、
浜田団長さんと静鉄観光添乗員の松永さんは午後4時半に
会場を視察。マイク・スピーカーなど準備上の問題があったが、
お二人の事前点検で問題を解決。
・浜田団長さん、静鉄松永さんたちの事前の会場準備
吟詠「祇園精舎」は、尺八のソロで始まり、
ベトナム人の見学者からおきな拍手が起こった。
会場にいたJASSベトナム事務所員も感激したとのこと。
・演奏の様子
・フィナーレの全員挨拶
地元フエ市民の大喝采のうちに演奏会は終了した。
日越文化交流、日本紹介という大きな任務を果たした
浜田団長さん以下静岡市邦楽ボランティアの会の皆さんだった。
④6月5日
午前中、シクロに乗り市内見学。
午後5時10分フエ空港発の飛行機が遅れ、結局
午後8時20分発となった。3時間の遅れである。
静鉄観光添乗員の松永さんや邦楽の会の皆さんには
大変ご迷惑をおかけした。
なお、静岡ラジオ体操連盟より
①50,000円の寄付(子どもの家)
②3月の訪問時の写真
③静岡ラジオ体操連盟の冊子(訪問の感想)
を頂いた。改めて松井会長さん以下、会員の皆さんに
お礼を申し上げたい。
こうした短い期間ではあったが、ボランティアでフエまで来て頂き
行った草の根の日越文化交流は、「民間大使」ともいえるものである。
浜田団長以下静岡市邦楽ボランティアの会の皆さんに感謝。
今回の静岡市邦楽ボランティアの会のフエでの演奏会を実施する
にあたっては、小嶋善吉静岡市長さんをはじめ、静岡市役所
国際課の皆さんが「縁の下の力持ち」として様々な下準備を
して下さった。表にでないこうした静岡市の力が今回の
日越交流を支え成功させた原動力ともいえる。
改めて静岡市長さんをはじめ国際課の皆さんに感謝したい。
また、地元静鉄観光の石沢さん、添乗員の松永さんなど儲けを
度外視して、今回の交流に協力してくれた。合わせてお礼を申し
上げたい。
様々な人々が様々なところで努力・協力した結果が今回の
交流成功につながった。ボランティア精神、海外協力とは
こうありたいものである。
新宿へ通院
曇り
午前中、7通のメール受信。4通返信。
午後12時過ぎ、自宅を出て都営三田線で春日経由都庁前。
新宿NSビルにある心臓の病院へ。
心電図、診察、投薬。
NSビルにあった音楽関係のお店に代わり本屋が出来ていた。
1時間ほど本を見る。
夕方、帰宅。
家の前の紫陽花が咲き始めていた。
「真昼の星空」(米原万里著)読了。
インターネットで日記を公開するのは、
夏休みの宿題で日記を書かされた後遺症だとのこと。
(夏休みの宿題)
中学の音楽の教科書で習った「トロイカ」は明るい朗らかな
曲だった。「走れトロイカ朗らかに鈴の音高く」とあった。
しかし原曲は悲恋物語。農奴上がりの御者が恋人を
地主の旦那に奪われてしまった悔しさ歌ったものだそうだ。
ロシア人の外国人評は以下のよう。
料理のまずいイギリス人、外国人を尊敬しないフランス人、
ユーモアの理解のないドイツ人、怠け者のイタリア人、
外国語の出来ないアメリカ人、酒飲みのロシア人、そして
没個性の日本人だそうだ。
1930年代半ばから40年代末にかけて日本軍と通じると
して極東の朝鮮人を中央アジア強制移住。ドイツに協力
する疑いがあるとしてバルト諸国の人々をシベリヤに
、ユダヤ人を極東に強制移住。クリミアのタタール人や
コーカサスのチェチェン人を中央アジアに強制移住させた。
スターリンの行った強制移住は24時間以内に手荷物を
集合させ、行き先も告げられずに強制移住させられた。
しかし、新自由主義の「市場原理」は、一切の強制を伴わずに
発展途上国から『先進工業国』へ大量の人口移動を
可能にしていると、「グローバリズム」の本質を
厳しく批判している。
一昨日の朝日夕刊に上智大学の先生が米原万里の
追悼文を書いていた。趣旨は、博学でユーモアを
もった通訳者だったというもの。
しかし、私には現在の日本の政治と人間文明を
厳しく批判する目をもった随筆家と写った。
2006年06月05日
友人Mさんと懇談
曇り。寒い。
午前中、14通メール受信、8通送信。
午後12時。友人M氏と西台で懇談。午後6時まで。
学校のこと、教育のこと、政治の問題など。
真面目な信頼できる人である。
村上ファンドの村上世彰の記者会見をテレビで見る。
謝罪会見が「居直り会見」となる。
この人は東大・旧通産省とエリートコースを進み『挫折』
を経験していない人だということがわかる。
犯罪を犯した人の記者会見ではない。何か威張った、
反省の「ハ」の字もない会見だった。
星野元監督への批判など犯罪を犯した人間のすること
ではない。
つい昨日まで「違法なことはしてない」と言っていた人間が
手のひらを返したように「違法行為を行った」「意識はしなかったが
違法と言われれば違法だ」と釈明。あまりに「言葉」が軽い・
往生際の悪い人間である。
金、金、金の人生。故米原万里さんが、金儲けをして何をしたいの?
人生の目的は社会のために生きるのではないの?と言っていた。
ホリエモン、村上と逮捕者が出たが、日本資本主義の大勢には
影響なし。検察は本当の悪玉を逮捕すべきである。
「ポマード大王」だ。1億円の小切手をもらって「もらったといわれれば
そうなもかも知れない」などとうそぶいている橋本元首相。
2006年06月04日
休日
曇り・時々晴れ。寒い
パソコンが「半死」状態。何とかメールの送受信だけは出来ている
が、ほとんど死に体。何度も固まってしまう。
午前中、メールの受信・送信。
日本語教師の松下先生が6月13日に帰国する。
2年間のフエ滞在。本当にご苦労様。感謝。
「子どもの家」の日本語クラスは日本語学校とはまた別の
苦労が多い。2年間、不平も言わず、良く頑張ってくれた。
福田→西山→松下と3代にわたり伝統的に「忍耐力」の
ある先生が来てくれた。
ボランティア日本語教師として半額自費でのフエ滞在。
こうした人たちの支えてベトナム事務所、「子どもの家」、
日本料理店、日本語学校などが運営されていることを
肝に銘じなければならない。日本での活躍を期待する。
ベトナムでは、「2006 フエ フェスティバル」が始まっている。
6月2日から「静岡市邦楽ボランティアの会」が来ている。
静岡市とフエ市が友好都市となっている関係もあり、
ベトナム市民に日本の伝統音楽(琴、尺八、剣舞・・)などを
披露。
既にグエンフエ高校、「子どもの家」で演奏会を行っている。
今日はメインのコックホック高校前の広場で午後7時半から
演奏会。
午前11時。久しぶりに次男も呼んで家族3人のブランチ。
2月10日にフエに帰ってから4ヶ月間の様々な様子を
話し合う。
「真昼の星空」(米原万里著:中公文庫)を途中まで読む。
夕方、高島平団地まで買い物。
つつじの季節が終わり、いよいよ「紫陽花」の季節となった。
ということは、そろそろ「入梅」となるのか?
寒いので長袖とウインドーブレーカーを羽織って出かける。
町行く人たちは、半そで。ベトナムに住んで寒さには
滅法弱くなったというのか、敏感になった。少し寒いなと
思ったら、必ず風邪を引くという苦い経験を数多くしたためか・・。
団地の中にあった「イーストサイド名店街」という商店街が
なくなっていた。代わりに私立保育園となっていた。
日本に帰って来て一番感じるのは全てのものが高いこと。
買い物をする時、気が重い。今日はニラが安かった。5束100円。
旬のものは安いということ。八百屋に行って、安いものが旬のもの
ともいえる。きゅうりなども3本で100円。12月、1月頃には
きゅうり1本、ニラ1束120円などということもあった。
ベトナムに住んでいると路地物しか市場にはない。
その時季にしか食べられない野菜やくだものが多い。
しかし安い。
日本では、年中何でも食べられる。ハウス栽培、輸入・・・・。
日越、どちらが良いのか?
昨日、千葉県浦安市でフリーマーケットがあった。
朝から山西さん、寒河江さん、矢吹さん、遅れて福田さんも参加。
子どもたちへの寄金となる売り上げを得た。ご苦労様。
私たちの会はこうした各地でのバザーや様々な取り組みに
支えられている。
2006年06月03日
明治大学へ
曇り。寒い。
午前中、メール受信・送信。
午前10時半に自宅を出て水道橋ーお茶の水経由で
明治大学へ。11月11日、25日と2日間行う
明治大学成田社会人大学講義の打ち合わせ。
昼食を採りながら明治大学情報コミュニケーション学部の小保内教授、
「カンボジアに学校送る会」代表の辻村さん、地球市民交流基金の
藤田さん、NPO法人国際協力NGOセンター事務局長山崎さんと
打ち合わせ。
「真夜中の太陽」(米原万里著)読了。
5月25日に56歳で卵巣がんで亡くなった米原万里さんを偲び、
哀悼の気持ちを込めて米原万里の本を何冊か読むつもり。
「真夜中の太陽」は1999年に書かれた雑誌などへのエッセー集。
20世紀を振り返り、21世紀がどんな世紀になるのかを論じたもの。
米原万里さんの文章は、本質的に現体制・現政権に対して厳しい
批判の目を持ち、そのことをずばりと書いてしまう。
ここまで書いて良いのか?などと私などは考えてしまう。
しかし、ユーモアと博識・経験・体験の豊かさ・人間的な
高い成熟度から来るまろやかさで毒舌を包んでしまう。
「ODAの寄生虫」の項では、「日本の、そしてもしかして世界の
先進諸国による途上国支援は、結局、国際貢献の大義に隠れた
自国企業支援だったのではないかしら。税金を直接ポンと
特定の企業に与えるのは難しいので、大きなU字を描いて
それをしているというわけ」。とODAの本質を喝破している。
米原万里さんは本質的に「自由人」である。自由人だからこそ
現体制の腐りきった本質が我慢出来ないのである。
我慢できない人はいるが、ここまで書くか?と思えるほど
率直に体制批判を書いている。
10日ほど前まではこの世にいた米原万里さんである。
本を読んでいると、米原万里さんの顔と声が聞こえてくる
ようである。昨年あたりまでか? TBSの朝の番組の
コメンテーターをしていた。あれだけ文章がうまい人なのに
テレビでのコメントには不向きなようだった。
私は1967年・68年頃、米原万里の父君の衆議院議員
故米原昶(いたる)氏のボディーガードをしていたことがあった。
「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」で大宅壮一ノンフィクション賞。
「オリガ・モリソヴナの反語法」を読んで、米原万里さんが
スターリン主義に憎悪を持っていたことを知った。
美文薄命ということか?
夜、するめをだし汁と醤油、お酒で2日間ほど漬けておいた
おつまみで吟醸酒を飲む。するめと日本酒は本質的に
合う。
福島にいる孫と電話で話す。孫は猫ちゃんになっていた。
何を言っても「ニャー、ニャー」だった。
2006年06月02日
東京大仏・日比谷野外音楽堂へ
終日曇り。肌寒い。
テレビでは「今日は過ごしやすい」と言っていたが、私には
寒く感じた。
朝食。午前10時から1時間40分ウオーキング。
自宅から赤塚公園、赤塚遊歩道、東京大仏を回って赤塚台地を
散策した。今から20年ほど前からこのコースをウオーキングして
いる。20年前は丁度1時間で回り終えた。
20年後、1時間40分。体力が40%ほど落ちたことを実感した。
緑濃い赤塚遊歩道を散策する。新緑が目にしみる。
空気がきれいだ。
赤塚遊歩道から坂を上がると東京大仏。乗蓮寺。
1974年に出来た大仏。今はどうか知らないが、
当時は奈良の大仏、鎌倉の大仏に次いで日本で3番目に
大きな大仏だった。高さ15メートルほど。
世界平和を祈念する。
午後、ベトナム事務所や関係者などへメール。
7月15日までの間に行う講演会の日程、内容等を整理する。
「真夜中の太陽」(米原万里著*中公文庫)を読む。
午後5時、自宅を出て日比谷公園にある野外音楽堂へ。
午後6時から『STOP 教育基本法「改正」』集会に参加。
以下の人たちが呼びかけた「教育基本法改悪反対」の集会
である。
石坂啓(漫画家)、梅原猛(哲学者)、太田堯(教育学者)
小山内美江子(シナリオライター)、落合恵子(作家)、
川田龍平(人権アクティビストの会)、高橋哲哉(大学教員)、
竹下景子(女優)、辻井喬(作家)、暉峻淑子(埼玉大名誉教授)
灰谷健次郎(作家)、三宅晶子(大学教員)、山田洋次(映画監督)
呼びかけ人の何人かは多少、関わりのある人たちでもある。
川田龍平さんは、私たちの会の会員であり、「子どもの家」へ
も来てくれた。灰谷健次郎さんも「子どもの家」へ来てくれた。
落合恵子さんと高橋哲哉さんは私も一緒に高校の倫理の
教科書を執筆した。竹下景子さんは、私が東京弁護士会
から「人権賞」をもらった時の審査委員であり授賞式で
多少話したことがる。
自宅から33分で内幸町。日比谷公園の一角にある
日比谷野外音楽堂へ。既に会場の60%程度の参加者。
午後6時5分、主催者の高橋東大教授の挨拶で集会は始まる。
何人かの挨拶があり、共産党穀田国対委員長、社民党福島党首
の挨拶。集会宣言。この時点で会場の80%程度は埋まる。
午後7時過ぎに集会終了。国会へ請願デモ。
集会では何人かの懐かしい人たちと再会した。
20年ほど前に一緒の職場で仕事をした人や教員仲間。
Iさんとは5年間一緒の職場で仕事をした。その頃お子さん
の「まりちゃん」は4歳くらいだった。今年成人になったという。
写真を見せてもらう。魅力的なお嬢さんになっていた。
私がこの集会に参加した最大の理由は、「教育基本法」を
変える必要はないということに尽きる。
教育基本法は教育の憲法である。短いこの教育の憲法を
読むと「現状の教育行政」などが、教育基本法通りに
実施されていないことがわかる。戦後61年間、歴代の
与党・行政が教育基本法をないがしろにしてきたことこそ
問題なのであり、教育基本法が問題なのではない。
今回の問題の本質は、教育から日本国憲法をなくして
いくことだと思われる。
この種の集会に20年ぶりに参加した。
20年前と全く変わっていない集会運営と参加者の雰囲気。
この20年間で世の中は大きく変わったが、この種の集会に
関わる「幹部」の皆さんの頭の中は20年前と変わっていない
ようだ。
教職員組合など各種団体が旗を持って参加。組合などの
支部の旗などが会場に林立。(集会冒頭「旗を降ろす」よう
主催者からの要請があった)
30代の参加者も若干いたが、多くの参加者は50代以上。
組合や団体からの「動員」で来ている人も少なくない。
私のように個人で参加した人はあまりいないようだ。
集会を開催する意義を認めつつも、旧態然とした組織動員集会
には、若い人は参加しないだろうなと思った。
少なくとも今私が付き合っているボランティア志向の若者には
合わない雰囲気だった。
2006年06月01日
通院・料理
晴天。夏日。
昨夜、喘息がひどく一晩眠れなかった。
朝食後、病院へ。喘息の薬をもらう。気管支がゼーゼーいい、
咳が出る。
病院はちょうど区民健康診断中で多くのお年寄りで混雑していた。
半日、病院ですごす。その後、薬局でもしばらく時間を取る。
午後読書。(故米原万理関連)
夕方、妻は「退職送別会」へ。
韓国で眼鏡を作る。最近、新聞や本が読めなくなった。
私は金属アレルギー。ベトナムで汗をかくと
眼鏡のフレームの金属が溶けて顔の皮膚がただれる。
韓国でチタンフレームの「遠近両用眼鏡」と「老眼鏡」の
眼鏡を作る。二つの眼鏡で3万円強。全て韓国製と
した。
買い物に行く際、遠近両用眼鏡の試用をする。
レンズの上(遠)中(中間)下(近)を見る訓練。
やはり慣れるまでに若干の時間がかかることが分かった。
特に階段の上り下りの際、問題あり。
私は夕食の買い物。好きなおつまみを作る。
好きな料理を作る時が至福の時間。
・枝豆
・金平ごぼう
・ニラのお浸し
・豆腐の冷奴
・ぬか漬け
・油揚げの煮びたし
・するめイカの醤油付け
午後7時過ぎ、好きなおつまみで一杯飲む。