2006年06月08日
堀切菖蒲園へ
曇りのち雨。寒い
午前中、メールの受信・送信。ベトナム事務所と連絡。
昼過ぎ、妻と葛飾区の「堀切菖蒲園」へ花菖蒲を見に行く。
自宅から巣鴨→日暮里→堀切菖蒲園まで40分。
京成堀切菖蒲園駅から徒歩10分。
堀切菖蒲園は7689㎡の敷地に200種の花菖蒲が栽培されている。
今日時点80%の開花状況。
敷地内には施設のお年寄りや高齢者夫妻の参観者が多かった。
花菖蒲は初夏の到来を告げる花だそうだ。
日本人が花菖蒲を観賞するようになったのはかなり早くからの
ようだ。資料によれば、7世紀(飛鳥時代)中国から陰陽五行説
による節句の風習が伝わる。端午の節句に菖蒲で邪気をはらう
風習が時の朝廷により定まる。この菖蒲はサトイモ科で「ショウブ」
と音読みする。それ以前から日本にはこの「ショウブ」に似た
花菖蒲の原種である「ノハナショウブ」を「あやめ」と呼んでいたが、
「ノハナショウブ」(あやめ)も次第に「霊験ある花」とされていった。
その後、武士の甲冑装飾に花菖蒲j紋様が多く使われた。
こうして花菖蒲が発達した背景には、「邪気をはらう」あやめ文化
があった。江戸時代以前から花菖蒲は日本人と関わって来たようだ。
花菖蒲の原種である「ノハナショウブ」は北海道、本州、四国、九州、
朝鮮半島、シベリヤ東部に分布する多年草。草原や湿原に生えている。
花の色は全国的に見ると赤紫色、場所により青紫色、極まれに
白や桃色。昔は全国の平野部の草原や湿原で自生していたが、
農地化、都市化が進行し、平野部での自生は極端に少なくなった。
花菖蒲の栽培が始まったのは定かでないが、江戸開府初期の
1661年、尾張藩主徳川光友が戸山の下屋敷で花菖蒲を
作った記録があるという。家康、秀忠、家光の3代将軍の花好きは
大名・旗本にも広がり、江戸は世界に稀な園芸都市として発達。
大名の庭園などで花菖蒲が栽培されていた。その後、庶民にも
広がり、江戸時代中期には、庶民の中で花菖蒲栽培が盛んに
なったようだ。
江戸後期になり西葛西領堀切の百姓伊左衛門の花菖蒲園(小高園)
が開園した。これが現在の堀切菖蒲園の始まりである。
旗本松平定朝が60年にわたり花菖蒲を研究改良した。
定朝は熊本藩主の細川氏に改良した花菖蒲を送った。
熊本も花菖蒲の盛んな地域となった。現在「肥後系」といわれる
花菖蒲である。
明治初年。明治維新の動乱で一時衰退した花菖蒲も社会の
安定とともに復活し、江戸時代からの「小高園」「武蔵園」に
続いて「堀切園」「観花園」「堀切茶屋」、「吉野園」などが
新たに菖蒲園として作られた。
明治初期からアメリカやドイツなど海外にも輸出された。
第2次世界大戦で菖蒲園は食料確保のため「水田化」政策
が進められ、全ての花菖蒲園は廃園となり、江戸時代から
続いた花菖蒲園の歴史に終止符が打たれた。
戦争はこうした所にも大きな影響を与えていた。
1953年(昭和28年)たくさんあった菖蒲園の中で
「堀切園」が再建された。しかし、度重なる水害などで
経営が難しくなり、1960年(昭和35年)、『堀切園』は
東京都立の有料公園として再出発した。
1975年(昭和50年)葛飾区に移管され現在に至る。
現在、周辺環境の変化で花菖蒲の生育が思わしくない
ようで、葛飾区は菖蒲園の再生に力を注いでいる。
(以上、「花菖蒲Ⅱ」(葛飾区郷土と天文の博物館)より」
あやめ、カキツバタ、花菖蒲の区別が記されていたが、
堀切菖蒲園で何度見ても区別が出来なかった。
ただ、ボーッと花を見ているだけで心休まるものがあった。
投稿者 koyama : 2006年06月08日 16:52