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2006年05月31日

日本へ帰国

ソウル 晴天。統一地方選挙投票日。肌寒い
東京  暑い。

3日間のソウル滞在を終えて東京へ。大韓航空で2時間半。
ソウルでは何種類かの韓国料理を食べる。

夕方東京自宅着。
早速、そうめんを食べる。

5月13日から約3週間の旅立だった。孫との「珍道中」。
朝起きてから寝るまで動き回る膨大なエネルギーに圧倒される。
一緒に動き回っているとこちらがくたくたになる。
子育ては壮大な肉体労働と見た。

ニュージランドでは20年前に新幹線で出会ったREDDYさんの
家にHOME STAY し、2週間ちょっとすごした。
REDDYさん(年齢不詳)は、とにかく元気な人である。
オークランドまで私たちを3時間かけて車で迎えに来てくれた。
年齢不詳ではあるが、第二次世界大戦に連合国側の一員として
参加しているという経歴からするとおおよその年齢がわかると
いうもの。今でも末期がんの患者のホスピス、病気の高齢者の
買い物ボランティアなど様々なボランティアを実行している。
この人と出会わなかったらベトナムには来ていないといえる。
人との「えにし」とは不思議なものである。

投稿者 koyama : 12:28 | コメント (0)

2006年05月26日

ニュージーランド滞在最終日近づく

終日雨。時々曇り。寒い。

この3日間、体調を崩し寝ている。
主因は喘息。ハウスダスト・家ダニ。
じゅうたん、マット、ソファーに囲まれた生活は
最悪。喘息になると体中が硬直し、何も出来ない。
ただじっと休んでいるだけ。
1週間ほど前から「口内炎」が4つほど出来だし、
この数日が絶頂期。水を飲んだだけでもしみる。
困ったものだ。
昨日の夕食に「ムール貝」(半生)を食べた。
見事に当たり、一晩中、下痢と吐き気に襲われる。
なんとも情けないニージランド滞在ではある。

「こどもたちの隣り」(灰谷健次郎著:角川文庫)を読む。
およそ20年ほど前の作品だが、未だに新鮮な気持ちで
読める。
4編の短編だが、4歳の男の子、中学生の女子、
心臓病で手術を4回も繰り返した女の子など
子どもたちの視点から学校や親子関係を見ている。
子どもたちはけして「こども」ではないことがわかる。
特に学校教師の無感動・配慮の無さ、主観主義、
思い上がりを子どもたが「内心」でどう思っているかを
書き、学校と思い上がりの教師を厳しく糾弾している。
全て「よい事」と思い、教師が行っていることが
子どもたちをどれだけ傷つけているのかを訴えている。
現場の教師に是非読んで欲しい一冊である。

灰谷健次郎さんとは不思議な縁で出会った。
最初は新潮社が出した「灰谷健次郎まるごと1冊」
というグラビアの本の取材だった。
1996年か7年頃だろうか? 写真家の石川文洋さんと
新潮社の編集担当者と3人でフエの私の所へ取材に
来られた。一晩、灰谷さん・石川さんと3人で飲んだ。
色々と3人の生い立ちなどを話していくうちに意気投合した。
灰谷さんも17年間小学校の教師をしていたとのこと。
様々な事情(お兄さんの自殺など)で教師を辞め
放浪し、沖縄のサトウキビ工場で働いていた時の話を
私にしてくれた。
石川文洋さんも沖縄からベトナムへ行った事情を細かに
話してくれた。今の日本の閉塞的な状況についても
かなり認識が一致していた。

その後、ピーースボートで灰谷さんは2回ほど「子どもの家」へ
来ている。
更に2000年頃だったと思うが、突然日曜日に「子どもの家」へ
6人程の友人とやってきた。
その中には江国香織さんなどもいた。

1998年に私が「火炎樹の花」という本を小学館から出した。
その際、本のカバーに推薦文を書いてもらうことになり、
沖縄の灰谷さんの家へ電話をしてお願いした。
快く、無料で推薦文を書いてくれた。ちょうど、そのとき、
灰谷さんは朝日新聞に週1回「いのちまんだら」という
コーナーを持っていた。灰谷さんは「いのちまんだら」に
私のことや拙著「火炎樹の花」の紹介をしてくれた。

そんなわずかな繋がりだが何かの縁のある人の
本を読むと、生の灰谷さんの様子が浮かばれてくる。
噂では体調を崩されているとのこと。元気回復を
祈る。

明日、タウランガ市を発ってソウルへ。

今朝、携帯パソコンが突然機能停止。一切使えなくなった。
この日記はダウンタウンまで行き、インターネットカフェで
書いている。

この10日間ほど、べトナム事務所や関係者との間で
多くのメール交換をした。メールがなければ、
今の私はベトナムを離れることは出来ない。
様々な問題がある。
ベトナム事務所は事務所長のミンさん、税田さんなど
ベトナム事務所員、日本語教師の皆さんの頑張りで
運営が進んでいる。ラームさんの協力で7月8月9月の
スタディーツアーの計画も進んでいる。

縫製工場建築は多くの問題を抱え、未だに進捗状況は
思わしくない。
日本料理店もいくつかの大きな問題を抱えている。
関係者の皆さんと協力して、一つ一つの問題を丁寧に
解決することが私の使命だと思っている。
「何にもしなければ問題は起こらない。何かをすれば
必ず問題が起こる」。ベトナムでの生活・活動の教訓である。
問題が起こるということは、何かをしている証と「善意」に
考え、進んで行こう・・・・・・・・・・。

投稿者 koyama : 08:39 | コメント (0)

2006年05月23日

終日雨

終日雨。気温14度。

やはり南半球。季節は見事に反対。今は真冬。

タウランガ市に滞在して丁度1週間。
喘息の発作に苦しんでいる。

今日は1日中頭痛、倦怠。ほぼ寝ていた。

21日の日曜日には大きなパーティーに参加。
20年前から付き合っている画家SHIRLEYの
夫DAVIDの80歳誕生祝賀会。
DAVIDの65歳の誕生会にも参加している。
午前11時から始まったパーティーには、50人
程が参加。3人の子ども、孫、友人、知人。
実に素朴な心暖まるものだった。
午前11時過ぎに三々五々集まった皆さんは、
ビールかワインを飲みながら1時間ほど歓談。
4~5人で集まり、色々と話し合っている。
おつまみもないビールだけの飲み物で良く
長時間話が出来るものだと感心する。

午後12時過ぎになった。DAVIDの長男が
「さあ、みなさん、昼食を召し上がってください」
と呼びかけ、ランチパーティーとなる。
70センチほどのブロックの牛肉ステーキ。
鶏肉。ハム・ソーセージ、色々な生野菜。
ペンネの料理。イタリア風チャーハン。
ムール貝、その他色々。大きなテーブルに並ぶ。
小さな山を一つ買い切ったDAVID家の庭は
広大。庭にいくつもテーブルを並べ、
延々とランチの会食。食事をしながら話し合う。

奥さんの画家SHIRLEYさんは、広島・長崎
の原爆を題材にした油絵を描いている。
平和・人権をテーマにした絵画、彫刻が多い。
私の書いた「火炎樹の花」を英語に翻訳し、知り合いに
読ませていた。英文の「火炎樹の花」を読んだ人が
何人かいた。私が食事をしているとやって来て
ベトナム、ストリートチルドレンや障害児のこと
などを話す。
午後2頃、長男が一言挨拶。その後、主役のDAVID
さんが挨拶。1946年に南アフリカの農業大学を
卒業したとのこと。80年の人生を短時間語り、
皆さんとの交流に感謝と締めくくる。
午後3時過ぎパーティーは終了。

午後5時半、グィーナス・マッケンジーの家へ。
マッケンジー夫妻とピーさんと友人の薬学博士
とデイナー。
これらの人たちはREDDYさんのダンス仲間。
1987年、REDDYさんとミス・ピーさん、薬学博士
の3人と新幹線で出会う。偶然、私の隣に3人が座って
いた。東京武道館で行われて世界アマチュアダンスコンテスト
に出場のため。その帰り、北海道旅行のため新幹線に
乗ったとのこと。私は仕事で鳴子に行く途中。
隣のREDDYさんと簡単な挨拶。中学で勉強した
「ジャク アンド ベティー」を駆使しての
簡単な会話の後、住所交換をした。この出会いが
その後、20年も続くとは夢にも思っていなかった。
1987年末、REDDYさんからクリスマスカード
が届く。翌年3月、2週間ニュージーランドのREDDY
さん宅を訪問。その後、多くの日本人を連れてREDDY
さんの所へ行ったことか。
教え子の中学生男女(合計14人)を連れて行ったこと
もあった。次男は高校1年生の7月から2年間、
REDDYさんの家にホームステーすることとなる。
長男もREDDYさんの主催でニュージーランドで
結婚式をした。
人との出会いは不思議なものである。偶然新幹線で
知り合ったニュージーランドの人と20年間もの
交流がもてることに感謝している。これも人生の
喜びの一つ。私は人との出会いと付き合いを大事に
している。損得で人と付き合うことはしない。
人間同士の信頼。言葉は十分通じなくとも人間は
心が通じるものである。ボランティアの心は
REDDYさんとの付き合いで学んだものである。

午後6時頃まではビールかワインを飲みながら
四方山話に花を咲かせる。
その後、ディナータイム。一言でいって
「膨大」と言って良いほどの量。到底食べきれない
量の夕食が出る。その後、大量のケーキ。
更に大量のアイスクリーム。その後、チョコレート
となる。
うーん、これで太らないわけはないと感心する。
ニュージーランドの町を歩けば、これでもかと
言うほど、肥満の人がいる。というのか、正確には
肥満国家である。生半可の肥満ではない。
子どもの頃、「ビヤ樽デブ」という悪口を聞いたことが
あるが、その頃は本当の意味がわからなかった。
しかし、アメリカ、カナダ、ニュージーランド、
オーストラリアなどを旅行して見ると、ビール樽
程の大きさまで太った人が町中を闊歩している。
その原因が、意味のないほど食べるということだった。
「世界の南北問題」などと硬いことを言う気はないが、
この超肥満国家を見れば、富の偏在を実感する。
町には、肥満解消のためのジムや医療機関もある。

この1週間、喘息(ハウスダスト、家ダニ)のため
あまり外出は出来なかった。
部屋で読書。

● 「馬鹿の壁」(養老孟司著:新潮新書)
書名が嫌いで読まなかった。長男に借りて読む。
内容はある意味の人生論。真っ当な意見と見た。
藤原正彦の「国家の品格」よりはよっぽど立派な
内容。解剖学者が見た世の中と人生。


● 「共産党」(筆坂秀世著:新潮新書)
「セクハラ問題」で議員を辞職。日本共産党の
 書記局長代理、政策委員長、幹部会委員。
 本には「共産党NO4」と書いてあった。
 何故、共産党に入党したのかから始まり、
 いわゆるセクハラ問題の経過。その後、共産党を
 離党した理由などが書かれている。
  全体を読んだ印象では、率直な筆坂氏の気持ちと
意見が書かれているように思った。日本共産党からは
 不破議長、志井委員長など幹部からの反論が出ている。

●「落語名人会 夢の勢揃い」(京須偕充著:文春新書)
  著者は私より5歳年上。旧CBSソニー(現ソニー・ミュージック)
  のプロデューサー。
   東京神田で育ち、東京落語の繁栄と衰退とを体験している。
  私とほぼ同じ東京落語を体験している。私の周りでこの種の
  話が出来ないでいたが、この本を読んで溜飲を下げる。
  戦後第一次落語ブーム(1950年代後半)。
  三遊亭歌笑、7代目林家正蔵(三平の父)、三遊亭金馬、
  2代目三遊亭円歌、古今亭今輔、昔昔亭桃太郎・・。
  私の父親は浅草で若い頃過ごしたこともあり、演芸が好きだった。
  1950年代、真空管ラジオで毎日のように浪曲を聞いて
  いた。浪曲と寄席が同時に放送される。聞くともなく、
  これら1950年代の落語家の話を聞いていたように思う。
  どういう訳か我が家に蓄音機があった。LP版で三遊亭金馬(先代)
  の「居酒屋」を何度も聞いた。小学校の頃だろうか?
  とにかく面白かった。酔っ払いの職人が居酒屋に入り、小僧さん
  をからかいながら、さかなにしながらお酒を飲むという単純な
  ストーリー。私が落語を聞き始めたのはこの頃だった。
   第2次落語ブームは1970年代。この頃私は演芸評論家に
  なろうとせっせと寄席やホール落語会に通っていた。
   桂文楽、古今亭志ん生(寄席には出ていなかったが)
、三遊亭円生、林家正蔵(彦六)、
  柳家小さん、金原亭馬生(志ん生の長男:私が一番好きだった
 落語家)、林家三平、古今亭志ん朝(志ん生次男)、立川談志、
 三遊亭円楽、春風亭柳朝(先代正蔵の弟子)、月の家円鏡、柳家小三治・・。
 私の落語はこの時点でほぼ終わっている。以下偏見と独断の私見。
 東京落語の本質は、目立たないよう、あっさりと。
 しかし、本質的には知的で良質。ものすごく力量のある
噺家がいかにも簡単そうにあっさりと話をするところに
私は東京落語の最大の魅力を感じている。そうした視点からすると
金原亭馬生(先代)は最も東京落語を体現していたように
思う。弟の古今亭志ん朝は輝いていた。光っていた。
兄の馬生は黒ずんだ見栄えのしない噺家風に見えるが、
その中に時折、きらっと光るものを見つけられた。
こんな噺家が私は好きだった。
 自殺した桂枝雀を大阪で聞いたが、何とも大げさで私は最初から
好きになれなかった。
 最近評判の春風亭昇太の落語を聞いたが、
 ただ大声でがなっているようにしか聞こえなかった。
 品がなく、わざとらしさについけ行けない。

第1次、 第2次落語ブームのそれぞれの落語家との
著者の付き合いを書き綴っている。興味津々の
本だった。
私の知っている落語家の多くが既に鬼籍に入ってしまった。
付き合いのあった若手の柳家小きん(4代目桂三木助)は
自殺してしまった。
今付き合っている(時々メール)のは五街道雲助くらいか?

今でも毎晩の寝話は、落語のCDを聞きながら。
数年前は桂文楽(先代)の「明烏」(あけがらす)、
「寝床」を毎晩聞きながら寝ていた。昨年までは
柳家小三治の「湯屋番」。今は、昔に戻り
三遊亭金馬(先代)の「居酒屋」。

馬生、柳朝、志ん朝が死んだ今、柳家小三冶を高く評価
している。この人の落語は「まくら」がとにかく面白い。
「まくら」だけを取り上げた本もでている。
「まくら・まくら・まくら」。
師匠の柳家小さんを小さんの息子に譲るとのこと。
こぶ平といい、花禄といい親の七光りで名跡を継ぐ。
この世界も政治家と同じく世襲の世界となってきた。
ということは、歌舞伎の世界と同じことになる。
歌舞伎が庶民から遊離し、博物館に入ってように
落語も庶民の芸能から博物館芸能にお蔵入りする
日も近いのではないのか? 小さんが人間国宝になった
時から落語は「世襲→博物館芸能」の道を歩んでいるように思えて
ならない

投稿者 koyama : 05:00 | コメント (0)

2006年05月18日

晴天だが寒い冬のNZ

晴天。寒い。15度。

ニュージーランドまでの飛行機などの疲れで朝9時まで就寝。
昨夜ベッドで寝たが、「ハウスダスト」のためか喘息となり
息苦しい夜を過ごす。目のかゆみ、鼻水。
ニュージーランドの冬にREDDYさんの家に来ると毎回
喘息が起こる。以前は喘息の薬を持って来ていたが、
ベトナムでの生活が中心となり、喘息のことをすっかり
忘れていた。

午前10時、シャワーを浴びる。日差しは強い。
午前11時。CITY CENTRE まで徒歩40分。
簡単な昼食。

買い物。フロッピー1枚。手持ちの変圧器が壊れる。
アメリカ製の変圧器を買う。日本製のパソコンを
使うため、ニュージーランド240Vを100Vに
落とす。

40分かけて帰宅。冬の強い日差しと当たり一面の
緑の中を歩く。ひさしびりのウオーキング。

午後3時から1時間ほど休息。
その後読書。

午後6時から夕食を作る。
生野菜(セロリ、ニンジン、レタス、スプラウト)の
ミソマヨ付け。ハム、鮭のバター炒め。
ジャポニカ米をナベで炊く。多少水っぽくなるがうまく炊ける。

ニュージーランドを代表する「スタインラガー」ビールを多少
たしなむ。

今日1日で17通のメール。
ニュージーランドでOCNをローミングできるように山西さんに
セットしてもらう。お影様で日本やベトナムからのメールを
ニュージーランドのREDDYさんの家の電話で送受信できるようになった。
接続料金が1分間18円。短時間の接続で仕事が終わるよう
事前にワードでメールや日記内容を書き、貼り付けるようにしている。
残念ながら日記に写真を添付できない。私の携帯パソコンの機能の
問題か?

投稿者 koyama : 15:52 | コメント (0)

2006年05月17日

ニュージーランド着 

5月17日 晴天。

5月13日にフエを発ち、東京へ。
5月14日午前7時25分、成田着。:

5月15日午前9時、ボランティア貯金普及協会の取材担当者と上野で
懇談。5月下旬「子どもの家」への取材の打ち合わせ。午前11時まで。
午後5時、成田発ソウル行きの大韓航空二時間半でソウルへ。午後9時
ソウル発大韓航空でオークランドへ。6月16日午前11時、オークランド
着。オークランドで1泊。

5月17日、知り合いのREDDYさんがオークランドまで迎えに来て
くれた。午後3時、北島のタウランガ市に到着。気温13度。寒い。
ニュージーランドは冬の入口。
REDDYさんとは3年振りに会う。

今回、ニュージーランドでインターネットが出来るのはJASS副代表に
山西さんのお世話による。山西さんが私のインターネットがニュージーランド
で使えるようにセットしてくれた。ニュージーランドで見事にインターネット
が使えた。山西さんに感謝。

投稿者 koyama : 17:19 | コメント (0)

2006年05月13日

ベトナム事務所員会議

快晴。

午前8時半、ベトナム事務所員会議。

(ソン)日本語学校宿題多い。日本語のテストがあった。
(ラーム)妻、体調が少し良くなった。しかし余り動けない。
(フーン)日本語学校関係、特に問題ない。
     来週水曜日ガイドクラス最後の実習。ティエンムー寺
(税田)バンベの準備。竹とんぼ作製。メー元知事に
    日本語を教えた。1年半で2課進んだ。
(ハン)子どもたちの手紙の翻訳。25人分。
(中村)日本語学校問題なし。
(松下)日本語学校中級5、昨日テスト。
    「子どもの家」では学校の期末テスト中。
(石岡)来週中級4クラスのテスト
(サン)中級4・5クラスのテストをした。
    自動車の運転免許を取りに行っている。
    ミンさん、ソン君も一緒に。
(ミン)渡辺和代さんに「子どもの家」入所希望の
   子どもたちの家庭調査結果を報告した。4人入所決定。
   ボランティア貯金「クローバー」取材(5月23日~27日)
   神奈川県青少年協会ツアー、フエフェスティバル、
   ピースボート、静岡市国際交流協会ツアーなどの
  申し込みがあった。

午前9時過ぎ、ラームさん、ミンさん、税田さんと話し合い。

日本語学校の先生たちの打ち合わせ


午前10時、在宅支援の「VU君」の状況を聞く。

先日まで大学から実習に行っていた。コンピュータ会社へ。
5月22日終了式。6月10日卒業式と決まった。
フエのコンピュータ会社に就職を希望しているが未定。

午後3時、フエ空港へ。

午後6時40分。ホーチミン空港で日本料理店ボランティア支援
希望の久保田さんと懇談。

午後11時40分の飛行機で成田→ソウル経由でニュージーランドへ。
2週間ほど滞在の予定。

投稿者 koyama : 14:37 | コメント (0)

2006年05月12日

静岡市邦楽ボランティアの会演奏会準備

晴天。暑い。

午前7時50分。バオミン・ベトナム事務所長と一緒に
「子どもの家」へ。セン運営委員長と「子どもの家」の子ども
Bさんの高校進学問題で懇談。

その足でグエンフエ高校へ。
二人の副校長先生と懇談。6月3日、静岡市邦楽ボランティアの会
演奏会の詳細打ち合わせ会を行った。

その足で静岡市邦楽ボランティアの会が行う
「2006 フエ フェスティバル」OFF会場での演奏会の
現場視察を行った。コックホック高校前の広場。


フエはいよいよ「火焔樹の花」の季節となった。
火焔樹の花はフエ市の「市花」。


「子どもの家」では第2期末試験の勉強中の子どもたちと
既に試験が終わり、読書などで休みをエンジョイしている
子どもたちがいた。


午後2時。日本料理店スタッフ全員会議。
ラームさんの通訳で開店10日間の総括を行った。

日本料理店会議では5月1日開店後の総合的総括を行った。

①日本料理店の指揮命令系統の確認
②毎日の勤務
③各部署の総括 
  ・警備員 
  ・接客
  ・調理

函館北高校から靴ふた箱が送られてきた。

午後6時半、日本料理店開店。


投稿者 koyama : 00:16 | コメント (0)

2006年05月11日

5月11日日記② フエ市人民委員会打ち合わせ

晴天・快晴。

午前8時半からラームさんと当面の諸問題について
詳細打ち合わせ。午前10時半まで。

午前10時半からバオミンさん、税田さんと当面の
ベトナム事務所運営につて打ち合わせ。

午後2時半、バオミンさんとフエ市人民委員会外務部長宅を訪問。
縫製研修工場建築問題について突っ込んだ話し合いを行う。
大きな問題は解決。

午後3時半、JASS機関紙29号の全原稿に目を通し若干の
訂正等を行う。

「子どもの家」の子どもの高校進学問題で関係者と打ち合わせ。

日本料理店では大塚さんと子どもたちで料理の準備中。


午後5時半、子どもたちと恒例の夕食会。



献立は今日の日本料理店のメニューの中から。


●おくら

●てんぷら

●カレーライス

お客さんが来るまでの間、束の間の「ベトナム・井戸端会議」

午後6時40分。オランダ人、タイ人入店。
食後、子どもたちと記念写真。

午後9時前、アン元市長など4人が来店。
午後10時過ぎまで会食。

今日のお客さんは合計6人。
オランダ(1)、タイ(1)、日本(1)、ベトナム(3)。

午後10時半、ACCL代表渡辺和代さんからメール。
フエ中央病院小児科医長HUONG先生が無事日本に到着し
千葉の病院、東京の病院などでの視察交流を行っているとのこと。
15日、16日は静岡の病院を訪問。JASS静岡の会の笠井さん、
滝下さん、静岡市国際課などの協力で藤枝市にいるベトナム語
通訳を紹介してもらう。

宇都宮縫製工業組合佐藤理事長より電話。

今日は1日中、話し合いが続いた。

投稿者 koyama : 18:46 | コメント (0)

5月11日日記① 「京滋YOUの会」リーフレット・活動紹介

京都や滋賀を中心に関西地方で活動している「子どもの家」
支援団体「京滋YOUの会」。
昨日、「京滋YOUの会」や同会若者のグループ「teamSAO」から
活動報告が届いた。
JASS(ベトナムの「子どもの家」を支える会)には函館、札幌、
茨城、静岡、京都・滋賀などに各地の支援する会がある。
東京にある日本事務所と協力しながら現地への支援を行っている。
各地の会は、それぞれの地域性と特徴を生かし、楽しみ
ながら支援活動を進めている。各地で支援活動を進める中で
「人と人との出会い」があり、「地域に仲間」が出来、同時に
世界の動き流れを知る事が出来る。今後も、各地の会を
増やし、一層、「子どもの家」などへの支援活動を強化して
行きたいと念願している。
以下、昨日、「京滋YOUの会」から届いたレポートである。

「京滋YOUの会」の活動紹介。
 
5月3日水曜日、京都市国際交流会館にてベトナム『子どもの家』パネル展が開催されました。今回、私たち京滋YOUの会、teamSAOは京都紫野ローターアクトクラブさんの協力という形で参加させてもたいました。

 準備として、私たちは今回、展示に使う写真のパネルを作ったり、新しい京滋YOUのパンフレットを作りました。

当日はパネル展示だけでなく、ベトナム料理のレシピが紹介されているコーナーや、刺繍製品の展示・ベトナム刺繍の体験コーナー、子どもたちにメッセージを書いてもらうコーナー、「子どもの家」のビデオのコーナー、記念写真のコーナーなどあり、来てもらった方にベトナムコーヒーやベトナムの蓮茶を味わってもらいました。よい天候だったのとチラシ配布などの呼び込みのおかげで、さらにたくさんの方に見にきていただけたと思います。来ていただいた方のなかには、時間を忘れて熱心にベトナム刺繍に取り組んでおられる方もいました。また京滋YOUの会で計画している夏のスタディーツアーのことや京都にあるベトナム料理屋さんを教えてほしいとおっしゃる方もいて、少しでもベトナムに興味をもってもらったみたいで嬉しかったです。

 今回のローターアクトクラブさんが計画された催し物にはアオザイを着た女の人のパネルを作ってインスタントカメラで記念写真をとれるコーナーがあったり、ベトナムの刺繍を実際に体験できるコーナーがあったりと、今までになかったものが多く、これからの私たちの活動の参考にしていきたいなと思いました。

 最後になりましたが、今回こういった場でお手伝いさせていただき、たくさんの方とお話ができ、楽しかったし、とても勉強になりました。紫野ローターアクトクラブの皆様ありがとうございました。

2006年5月、「京滋YOUの会」では新しいリーフレット
を作成した。以下をクリック。

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投稿者 koyama : 13:35 | コメント (0)

2006年05月10日

函館から春の便り

晴天。

真夏の日差し。

「JASSはこだて」から春の便り。
「JASSはこだて」は昨年川人さんや菊さんたちを中心に
ベトナムの「子どもの家」を支える函館の会という位置づけで
結成された。函館からベトナムのストリートチルドレンや
「子どもの家」を支援する会。

五稜郭公園の桜が「五分咲き」になったとのこと。
春の花が一気に咲き始めたという便りがあった。
また、「JASSはこだて」は以下のような活動を計画している。
函館の皆さんご苦労様。

☆「JASSはこだて」の主な予定(決定)

・5月26日(金) 新会員(1名)歓迎会
・10月7日(金)8日(土) 地球まつり参加
・10月23日(月)~11月2日(金) 「ベトナムの子どもの家」作品展 
  (渡島支庁1階ロビー)
・11月20日(月)~12月1日(金)         同          
  (函館市役所1階ロビー)


午前9時、日本料理店のハン・ニーさんと叔父さんが
ベトナム事務所を訪問。

ハン・ニーさんは父親が死亡。母親と姉・妹が事情でホーチミン市へ。
1993年に私が最初に作ったチーラン通り「子どもの家」に入所。
その後、私は現在の「子どもの家」を作る。ハン・ニーさんは
事情でTHUY XUAN「子どもの家」に入る。
今日、THUY XUAN「子どもの家」を退所して来た。
叔父さん(父親の弟)が親代わりに同行した。
叔父さんが「昔からニーがお世話になっている。今日、THUY
XUAN「子どもの家」を正式に退所した。今後は小山さんの
日本料理店でお世話になる。給料をもらって独立できる事を
本当に感謝している。今後も姪をよろしく」との挨拶があった。

午前10時からバオミンさんなどと当面の諸問題について
打ち合わせ。午前11時半まで。

午後2時半、日本料理店。
大塚さん、イエンさんの指導で今夜の日本料理店で出す
料理の「仕込み」中。この数日顔を見せなかったターオ君が
やって来た。大塚さんの指導で「さつま揚げ」の種作りを
学んでいた。


「仕事は嫌でも休まずに来ること。今日は仕事に来て偉い」と
ターオ君に声をかける。

兄のリー君も「揚げ春巻き」の仕込みを手伝う。


午後3時過ぎ、日本料理店内で税田さんとサンさんがターオ君
のインタビュー。バンベ原稿用。

午後5時半、子どもたち、大塚さん、日本人スタッフで夕食。
13人での食事は楽しく且つ美味しい。

今日の夕食のハイライトは大塚さんの「すきやき」。
美味しい。子どもたちも良く食べた。


リー君・ターオ君兄弟も家族のようにみんなで楽しく
食事をする「家族団らん」を楽しんでいた。

午後6時半開店の予定だったが、午後6時に来客あり。
フランス人二人が入店。

その後、日本人二人、スペイン人二人の合計6人の
来店。

午後9時閉店。


投稿者 koyama : 22:27 | コメント (0)

2006年05月09日

各種打ち合わせ・懇談

晴天。外出時目がくらむ。

43通のメール受信。16通のメール送信。

午前9時。ベトナム事務所でサンベトナム事務所員の誕生祝い。
寄せ書きとプレゼントを渡す。
これからもベトナム事務所で活躍して欲しい。

午前9時半から2時間ほどラームさんと諸問題について
意見交換をする。

「子どもの家」では「キャノン支援」の特別教育支援教室
が行われていた。これは、小学校段階、中学校卒業段階、
高校受験、大学受験など、子どもたちの進級段階にあわせて
一人一人の子どもたちの『能力』を引き出し向上させるために
設置したもの。キャノン株式会社様の財政支援で行われて
いる。この支援のお陰で子どもたちは途中で学校から
脱落せずに進級することが出来る。また、高校進学、
大学進学を果たせる子どもたちも出てきた。
キャノンの社会貢献活動に心から感謝したい。


午後2時。日本料理店で大塚さん、税田さんと打ち合わせ。
日本料理店の体勢を再構築した。
ホン店長が体調の関係で長期休暇となっている。
代わりの大塚さんに臨時店長をお願いした。
会計も担当していたホン店長の代わりに税田さんが
会計をしてくれることになった。これは当面の緊急措置。
日本料理店の日常的管理・運営のシステムを作り上げる
ことが課題。
調理のターオ君が無断欠勤。時々、無断で仕事を休む
悪癖あり。

午後5時半。日本料理店関係者全員で夕食。
今日は大塚さんの試作で「茶碗蒸し」「手作りさつま揚げ」
が出る。美味しく出来ていた。お客さんも喜ぶことだろう。

午後6時半、日本料理店開店。
今日のメニューをリー君も協力(絵を描く)して作成掲示。


投稿者 koyama : 07:57 | コメント (0)

2006年05月08日

縫製研修工場建築問題・ミンさん一族懇談

晴天。

午前9時、ベトナム事務所で「子どもの家」卒業生のメンさん
(フエ経済大学1年生)と懇談。
現在の生活状況、問題などを聞く。元気に生活して
ことが分かる。一安心。

6月6日~前期試験に入るとのこと。試験科目は以下のよう。
・環境科学  ・経済学  ・政治学  ・心理学
・英語  ・コンピュータ  ・ビジネス経済

午前9時半、縫製研修工場建築関連会社と打ち合わせ。
建築に関わる諸問題を検討する。バオミンさん・税田さん同席。
縫製研修工場を建築するという日本ではそれほど難しいことでも
ない事業だが、フエでは諸問題続出。


午後3時、フエ市人民委員会外務部へ。バオミンさん、
税田さんと一緒に。縫製研修工場建築問題、「静岡市邦楽
ボランティアの会」のフエ訪問についての詳細打ち合わせ。
邦楽訪問団とフエ市長との会談などの相談。

日本料理店では、税田さんとサンさんが、JASS機関紙
「バンベー」29号掲載予定のインタビュー。
日本料理店で研修しているトゥオイさんに日本料理店での
体験・仕事などを聞く。


午後6時。バオミンさん一族の皆さんを招待しての夕食会。
オアシスの会の大塚さん主催。大塚さんはバオミンさんの
従兄弟の家に下宿している。下宿のお礼として大塚さんが
企画した晩餐会。


ミンさん一族に挨拶するオアシスの会の大塚さん



ミンさんの従兄弟の大家さんと大塚さん


バオミン・ベトナム事務所長と娘さん

最近はリー君も日本料理店に定着してきた。毎日の仕事にも熱が
入っている。

ミンさんの甥・姪

大塚さんと「子どもの家」の子どもたちで「ひな寿司」を作り、
ミンさん一族の子どもたちにプレゼント。

日本料理店の手伝いをする日本語教師の石岡先生

子どもと打ち合わせをする中村先生

ミンさんの娘さん(アルファー)と小山

バオミンさんのご両親を中心に一族の結束の強さを改めて
感じた。ご両親はほぼ私と同年代。ベトナム戦争に参加し
その『戦後』もフエで生活してきた。多くの苦難を体験して
来ている。

晩餐会終了後、日本料理店の子どもたちも「子どもの家」へ
帰る。その後、日本人で午前0時近くまで「世間話」をする。

投稿者 koyama : 18:56 | コメント (0)

2006年05月07日

久々の休日

晴天。

昨日から左目に「麦粒腫」(ものもらい)が出来てしまった。
目が腫れて活動しにくい。小さな腫れだとは思うが、
目に出来ると何かうっとおしい。昨夕から「ホウ酸水」で目を
洗っている。今日は1日部屋で静養。目の腫れを何度か
ホウ酸水で洗う。明日朝までに何とか治っていれば良いのだが・・。
ものもらいのお陰で読書が出来ない。

午前10時、入浴。久しぶりに低温浴。30分程ゆっくりと入浴。
フダビール3缶。醤油漬けのするめをおつまみに。
NHKのど自慢を見る。2月10日に帰国して3ヶ月。
こうした日曜日を過ごせるのは、今日で2回目。
メール受信。4通のメールを送信。

日本は今日で大型連休も終わる。お疲れ様。
NHK海外放送を見ると成田空港でのインタビュー。
子どもが「グアムで泳いできた」とか「家族でシンガポール
で休養して来た」などと答えていた。幸せな日本ではある。

夕方、夕食のコムデイアを買いに行く。途中で日本料理店
調理人のターオ君に会う。喉と頭が痛い、兄のリー君の
所に行き、薬を買いたいとのこと。5万ドン(300円)渡す。
この兄弟との付き合いも長い。12年位になる。紆余曲折の
後、日本料理店に落ち着いた(?)と言えるかどうかは
分からないが、落ちついて欲しい。

午後2時から大相撲を見る。三役の半分は外国人だという。
国際化が最も進んでいるのが「国技」と称する相撲である。
これからの日本社会を暗示するようである。
横綱審議会の女性委員が横綱朝青龍が左手で「手刀」を
切ったら「右手にすべきだ」と言ったそうだ。馬鹿げた話で
ある。大相撲は朝青龍様にただただ頼っているだけの現状
なのである。

午後8時半。フダ缶ビール3本。静岡吟醸酒「磯自慢大吟醸」
を飲む。NHKテレビを見るが、「何とか倶楽部」という意味の
分からない歌番組。出来たら寄席中継などをして欲しい。

数日前、順子・ひろしの漫才を見た。よかった。年輪の芸。
NHK「笑いが一番」。若手はただうるさくて何を言いたいのか
分からない。

投稿者 koyama : 18:45 | コメント (0)

2006年05月06日

「子どもの家」入所希望者の家庭訪問

晴天。快晴・高温多湿。非常に蒸し暑い。

ベトナム事務所まで徒歩。外はまぶしく目を開けられないくらい。

午前8時、ベトナム事務所員会議。

日本語学校教師の松下先生が6月15日頃を区切りに
帰国することとなった。ベトナム事務所員に知らせ、
松下先生のご苦労を皆さんで感謝。

8時半、「子どもの家」入所希望者の家庭調査へ出発。
小山・ミン・ロック・税田・石岡の5人。
今日は3家族、4人の入所希望の家庭調査の予定。

最初にTY君(5歳)の家へ。ベトナム事務所から
車で20分。国道1号線を南下。フエ空港途中から左折し、
農村地帯へ。フーロク郡の純農村地域へ。
TY君の家へ到着。一見して生活の困難さを感じる。

TY君一家は母親(30歳)と弟(3歳)、祖母(60歳)の4人家族。
お父さんはいない。母親は土地をもっていないため、土地を
持っている農家の農作業の手伝いを日雇いでしながら、細々と
生活している。1日の日雇い農作業代は15000ドン。(100円)。
月収は不安定。平均して2000円程度。家族4人での生活は
無理である。4人家族で最低1万円程度は必要。
日本料理店の子どもたちの研修手当ですら30万ドン(2000円)、
18歳以上は50万ドン(3500円)。

母親に何故子ども(長男5歳)を「子どもの家」に入れたいのかを
聞く。「学校へ行かせたい」とのこと。
諸般の事情で母親は学校へ行っていない。読み書きが
出来ない。せめて子どもは学校へ行かせたいとのこと。
TY君に「子どもの家に入る?」と意思を確認。多少躊躇して
いたが「うん」と答える。生まれてから5年。祖母・母と暮らし、
外の世界をほとんど知らないTY君にとっては、フエ市内の
「子どもの家」への入所は「清水の舞台から飛び降りる」
程の度胸が必要。5歳での入所は可愛そうと思いながらも
このまま祖母・母・弟とここで過ごしていれば、確実に
学校へは行けないまま生涯を送ることになる。
TY君に勉学の機会を与え、努力するスタートラインに
立たせてやることが大人の仕事と考え、入所を勧める。

ミンさん、ロックさんと話し、TY君の入所を確認。
TY君には戸籍がない。ロックさんが母親に戸籍の作り方を教える。
戸籍がないと学校へ行けない。
「お母さんはどこで子どもの家を知りましたか?」と聞いてみる。
フエ市内に住んでいる親戚から聞いたことのこと。
TY君家族4人は、一度もフエ市内に行った事がないとのことだった。

TY君の家族と別れ、再度フエ市内を通過し、市内のはずれの墓地に
住んでいるPHUONGさん(11歳)、QUON君(10歳)姉弟の家へ。
TY君の家から40分ほど。ビニールシートに覆われた家へ到着。
家はお墓の中に不法に建築されていたい。

PHUONGさん(11歳)・QUAN君(10歳)。
シクロ運転手だった父親は2003年病死。母親は39歳で
ノン(ベトナム菅笠)を作っている。次男(3歳)とあわせて
家族は4人。母親のノン菅笠作りの月収入40万ドン(3000円)
で生活している。
なかなかしっかりしている母親である。PHUONGさん(5年生)、
QUON君(4年生)と子どもたち二人を学校へ行かせている。
二人とも学校では成績優秀賞を受けている。
子どもたちは母親の菅笠作りを手伝っている。
母親に聞いた。「どうして子どもたちを子どもの家へ入所させたい
のですか?」と。「今の生活では子どもたちを学校へ行かせ
られない。市役所へ行って生活困難者の認定を申請したが
何もしてくれない。子どもたちを学校へ行かせたい」とのこと。
キリスト教施設にお願いに行ったが、キリスト教への入信が
条件と言われた。私は仏教徒なので・・・と話していた。

PHUONGさん、QUAN君に入所の意思を確認。
母親も3歳の次男との生活となり寂しいだろうが、気丈に
振舞っていた。しかし、目からは一筋の涙が光っていた。
どんな時代・どんな世界であれ子どもと離れ離れで
生きなければならない母親がさびしくない訳はない。
悲しくないはずがない。3歳の弟も泣いていた。
子どもも母親にも責任はない。
『人民のため、働く人々のために』と言っているベトナム共産党
のスローガンに空しさを感じた。
真っ当に働いている真面目な親子を引き裂く「社会主義」とは
いったいなんだろうか? ハノイの交通大臣関連の建築会社
の社長が8億円もの大金をギャンブルでなくした。貧富の
格差の増大。ベトナム「社会主義」はどこへ行くのか?

ミンさん・ロックさんと話し、入所を決定。ロックさんが入所の
細かい手続きを話す。

石岡さんは入所聞き取りの様子をビデオ撮り。
税田さんは記録用にデジタルカメラ係り。

既に時刻は10時を過ぎていた。

続いて3番目の家庭HUEさん(14歳)の家へ。
PHUONGさんの家から車で1時間15分かかった。
フエ市郊外フーバン郡の農村地帯。

HUEさんの家に着いたのは、午前11時半過ぎ。


HUEさんの家は、6畳程度の何もない土間の家だった。
となりに同一一族の廟がある。廟の隣に掘っ立て小屋を作った。

HUEさんは14歳。中学2年生(日本の)。
10年前に生後数ヶ月で姉が死亡。8年前に43歳で父親が
病死。現在51歳の母親と二人家族。
母親は近所の農家の日雇いの手伝い。1日2万ドン(120円)。
母親は地元で生まれ地元の男性と結婚。


母親に「何故、HUEさんを入所させたいのですか?」と聞いてみる。
「私は地元の農家で生まれ学校も行っていない。せめて娘には学校で
勉強をさせてやりたい」とのこと。
HUEさんに入所の意思を確認。入所したいとのこと。
母親に「一人での生活になりますが、大丈夫ですか?」と
聞いてみる。「寂しいが娘のために我慢します。娘を宜しく
お願いします」との答え。母親の心中を思うと言葉が出ない。
フランスのカミューが不条理という言葉を使ったが、
正に『世の中の不条理』を感じた。母一人娘一人の
家庭の母娘を引き裂くこの世の中の不条理を恨めしく思う。
母親から「娘を宜しくお願いします」と言われ、言葉が詰まってしまう。
今、私たちのできることはHUEさんを「子どもの家」でしっかりと
育てることだと改めて心に誓った。

HUEさんの家からまた1時間15分。フエ市内へ戻る。
入所希望者と直接会いし、話を聞き、実情を調査する
ことは海外NGOにとっては一番大事な仕事である。

午後1時近く。
ミンさん、ロックさん、税田さん、石岡さんで大衆食堂へ行き
昼食を摂る。

午後1時半トンチンカンホテルの自室へ戻る。
朝8時半から4時間。蒸し暑い中、精神的にも強い打撃を
受けた。部屋に戻った時、暑さと湿気、精神的な疲れもあり
直ぐに昼寝。

午後4時過ぎ、日本料理店へ。大塚さん、税田さん、
中村さんと子どもたちが夕食の準備。

午後6時半、フエ市人民委員会の関係者を招待。
フエ市長、フエ副市長、フエ市財政部長などが来店。

カオ市長、タン副市長

外務部長、セン「子どもの家」運営委員長、ミンさん

フリーでフランス人、ベトナム人医師、越境のお客さん
5人が来店。

投稿者 koyama : 10:20 | コメント (0)

2006年05月05日

終日、各種の仕事

晴天。快晴。34度。夕方小雨。


NHK海外放送を見る。日本はGW後半の真っ只中。
既に今日の午後から「帰省ラッシュ」が始まったとのこと。
多くの人が海外へ。たくさんの家族が国内旅行に。
テレビだけ見ていたのでは、日本は好景気に浮かれているとしか
思えない。階層格差の中で旅行も出来ない人たちもまたたくさん
いるという現実も知らなければならない、と自戒。

ベトナム事務所員の皆さんは、日本のGWを尻目に
仕事に集中。「子どもの家」、ベトナム事務所、日本語学校、
日本料理店など様々な分野での仕事をそれぞれの担当者が
きちんとこなしていた。皆さん、ご苦労様。

午前中、昨日の日記を書く。90%出来上がったところで
パソコンの事情で全て消えた。1時間半かけたのに。
しばらくは「もう一度書こう」という意欲喪失。
再度、気持ちを奮い立たせて書き出す。今度も80%程度
書き上げたところでまたもや消えてしまう。
やっと書き上げたのは昼ごろ。

トンチンカンホテルからベトナム事務所へ徒歩15分。
暑い。外に出ると目があけないほどまぶしい。

いくつかの大事なメールを送信。
実際に読んでもらえるのは、来週月曜日。
フエフェスティバル参加の件、縫製工場建築の件。
役員会の皆様へいくつかの事項を報告し確認してもらう。

午後、ボランティア日本語教師関連の文書を読む。
バンベ原稿と写真の最終チェック。(小山分)

午後2時過ぎ、日本料理店の子どもたちは定刻に『出勤』。
今日は午後6時半から6人の予約が入っている。
大塚さんの指導で日本料理店の料理作りに入る。

午後6時半、医療船関係者が来店。
オアシスの会(大塚合子さん代表)が主催している
船上生活者支援のための医療船関係者。
医師・看護師・薬剤師・船長さんなど6人。

午後8時過ぎ、写真家の後藤さんが来店。今日明日と
「子どもの家」で子どもたちの写真を撮ってくれる。

今日のメニュー


投稿者 koyama : 18:33 | コメント (0)

2006年05月04日

北垣さんツアー「ファンダンルー高校」へ

晴天・快晴。

午前8時過ぎ、ラームさん・ミンさんと一緒に北垣さんツアー(5人)
の宿泊先ホテルへ。ホテルはフエ駅近くのフランス植民地時代の
仏中部総督府跡。最近フランスが高級ホテルに改装。

午前8時半、フエ市郊外のフーバン郡にある省立ファンダンルー
高校へ。2年前からツアー参加者の一人である大阪の志村さんが
25人の生徒に奨学金を贈呈している。

高校はちょうど学年末の試験中。校内は試験中ということもあり
静まり返っていた。

副校長先生や試験のない奨学生が出迎えてくれた。
会議室で志村さんをはじめ日本側参加者と奨学生との
懇談を行った。

初めに副校長先生から学校説明。その後、奨学生の進路、
学業成績などの報告があった。

昨年度、25人の奨学生のうち高校3年生は13人。
10人が4年制大学に進学。2人がフエ師範短大。
一人が専門学校へ進学したとのこと。
その中には、トゥアティエンフエ省(100万人)の
高校生の中で物理が全県2番目の成績を残した生徒も
いた。またベトナムのドボットコンテストに参加した生徒も
いたという話である。
奨学生全員の進路が定まり、将来へ向けての大きな一歩を
踏み出したとのお礼の言葉があった。

今年度は、トゥアティエンフエ省の成績優秀者のコンテスト
で優勝し、全国大会へいく生徒がいるそうだ。また、省の
陸上競技会に参加し、女子100Mで銀メダルを獲得した
生徒もいるとの報告があった。

続いて奨学金贈呈者の志村さんより生徒へ励ましの言葉。
この奨学金で是非立派な人間になってもらいたいと挨拶。

志村さんの支援は人間作りである。志村さんの支援の姿勢と
結果に感謝。

最後の生徒・関係者と全員記念写真。


ファンダンルー高校から「子どもの家」へ行く途中、ベトナム事務所
を訪問。ベトナム事務所スタッフにお土産や激励の言葉を頂く。

午前10時過ぎ、「子どもの家」へ。
子どもたちの歓迎の歌と踊り。

子どもたちとの交流後、各施設を案内した。
団長の北垣さんは、1994年2月に初めておあいした。
最初に建てた「子どもの家」のA棟の建築資金を寄贈して
頂いたのが始まりで、その後、様々な支援をして頂いている。
現在は200人以上の生徒・学生に奨学金を贈呈している。


午後3時過ぎ、ベトナム事務所で松下先生と懇談。

午後5時過ぎ、日本料理店では子どもたちが夕食。
日本料理店は開店以来正常な人事配置が出来ないままでいる。
現在も4人のスタッフが休んでいる。店長は病気休養中、
調理主任ははしかで休み。子どもたちも二人がはしかなどで
休んでいる。大塚さんを中心に現員で何とか毎晩6時半から
の開店を維持している。病気中のスタッフの元気回復を祈る。


午後6時過ぎ、北垣さん一行が日本料理店へ来店。
バオミンさん、ラームさん、私も相伴。


今夜のメニューは子どもたちがほとんの料理を作る。
2月に鳥取から来て日本料理を教えてくれた徳岡さんの
「教え」をしっかりと守り、美味しい料理を提供することが
出来た。

●徳岡スペシャル1(そうめんサラダ)

●徳岡スペシャル2(牛すじ煮込み)


フエ生ビールから日本酒へ。
純米大吟醸「玉の光」を飲む。接客担当のホンニーさんは
升の中にあるグラスに日本酒を一杯注ぎ、あふれさせ、
升半分ほどまでこぼすように注いでいた。
教えた通りの接客。なかなか頭の良い子である。

午後8時半、北垣さんたちとの懇談夕食会を終わる。

子どもたちは午後9時過ぎに帰宅。
その後、大塚さん、税田さん、松下さん、石岡さんと
しばらく懇談。

ーーーーーーーーーーーーーーー
地元トゥアティエンフエ省共産党機関誌
「トゥアティエンフエ新聞」に日本料理店と私たちの活動が
紹介された。

『続きを読む』をクリックすると全文が読める。


JASSの家庭料理店と貧しい子どもたちの就職ヘのチャンス

フエの町を回ってみるとチャンカオバン通りに日本風のレストランがあります。
この日本料理店はJASS代表の小山道夫さんのアイディアから出来たお店です。この店は生活困難な子どもたちの就職の受け皿です。


(記事)

 もうけることが目的ではない


 JASSはフエで13年間活動しています。この間、300人以上の子どもたちがJASS「子どもの家」を卒業し社会に巣立っています。
『しかし、卒業する子どもたちは就職口がなく大変です。そこで私はこの日本料理店を作り、子どもたちに働く機会を与え、同時に日本料理をベトナム人や観光客に紹介しようと思いました』と小山道夫さんは話しています。

小山道夫さんによると、ベトナムには100軒近くの日本料理店があるそうです。しかし、専門の日本人の料理人がいるお店は少ないそうです。この日本料理店にも専門の日本人料理人はいません。小山さんを含め6人の日本人が日本料理の作り方や日本料理店の運営を子どもたちに教えています。
この日本料理店の名前をベトナム語に翻訳すると、家庭料理店「子どもの家」となります。開店から2ヶ月ちょっとたちましたが、日本料理は多くのお客さんに知られるようになりました。
今年の4月11日にはピースボート42人が日本料理店に来ました。
この日本料理店を日本のテレビや観光雑誌も紹介しています。
現在までお客さんのほとんどは日本人です。これからはベトナム人にも来てもらいたい。日本料理店を紹介するために、4月末と5月初めにフエ省・フエ市の関連機関の人たちを招待したいと思っています。
ホーチミン市やハノイ市の日本料理店では最低一人10ドルはかかりますが、
家庭料理「子どもの家」では、一人3万ドン(200円)から5万ドン(350円)程度で満足出来る日本料理を用意しています。これからたくさんのベトナム人に来て欲しいです。


記者が家庭料理「子どもの家」に到着するとは店頭は明るく、若い男性警備員がオートバイを片付けてくれました。日本料理店の中は日本風建築で、落ち着いた雰囲気です。壁にはたくさんJASS活動や子どもたちの写真が飾ってありました。
午後4時。子どもたちは日本人の指導を受けて料理の準備をしていました。日本から来た大塚合子先生が楽しそうに自分の「生徒たち」について話してくれました。
「子どもたちは料理の飲み込みが早い。一人がわかったら他の子どもにも教えています。現在、子どもたちは簡単なメニューの日本料理は自分で作れるようになりました。また、接客にも慣れて来ています。私たちは子どもたちに教えるだけですが、子どもたちはどんどん成長していきます。毎日が楽しいです」。

次に子どもたちにインタビュー。
女の子の名前のような『グエン・ゴック・タオ君』(阮玉草)は言いました。
「僕は料理が好きです。毎日、1つの日本料理を覚えようと頑張っています。
日本人の先生が教えてくれます」。

21歳の「TON NU HANG NI」(尊女永弥)です。
「ここでの仕事は楽しいです。毎月50万ドンの月給を頂いています。
18歳以上の人には給料、18歳以下には30万ドンの研修補助金をくれます」。

その時、小山道夫さんは他の子どもたちと打ち合わせ会をしていました。
小山さんと先生方、子どもたちと話し合っている様子を見ると暖かい家庭のような雰囲気を感じました。


JASSの新しい計画

グエンチャイ「子どもの家」以外にJASSはオートバイ修理研修工場、
日本語学校を作りました。最近は日本料理店も作りました。
困難な子どもたちの就職問題を何とか解決しようとしています。
今年、JASSは更に新しい試みに挑戦をしています。それは縫製研修工場の建設です。
フエ市人民委員会の許可を受けて日本政府からODA支援をもらい縫製研修工場を作ろうとしています。
縫製研修工場は2006年末に完成予定。縫製工場では100人の子どもたちが働く予定です。37「子どもの家」の子どもたちだけでなく、フエ市の貧しい子どもたちのための縫製研修工場でもあります。JASSはたくさんの実績を作りました。しかし、記者がたくさん質問をても小山道夫さんはまだ満足していないと言っています。
「ほかのプロジェクトをしたいですが、問題は財政です。現在、私はフエ市人民委員会と契約し2014年までフエで活動する予定です。13年間フエで活動して、ストリートチルドレンは少なくなりましたが、貧しい子どもたちは増えたように思います。「子どもの家」支援活動を継続し、多くの貧しい子どもたちを救い、子どもたちにたくさんの仕事を与えたいと願っています」。
小山道夫氏はフエ市と静岡市の友好都市の仲介をした人です。6月には静岡市邦楽ボランティアの会が「2006年フエフェスティバル」に参加します。


(小山道夫写真付き記事)

毎年、JASSは20万ドルのお金を子どもたちの生活費、奨学金、ベトナム人スタッフの給料などに出しています。
JASS会員(1500人)から会費をもらい、他の日本人から支援金をもらいながら活動を続けています。今までオートバイ修理研修工場から70人の子どもたちが卒業。現在、「子どもの家」には63人の子どもたちがいます。
その他、25人の在宅支援。400人の貧しい子どもたちに奨学金をあげています。


投稿者 koyama : 11:18 | コメント (0)

2006年05月03日

憲法記念日 北垣さん一行出迎え

晴天。快晴・暑い。

午前9時、バオミン・ベトナム事務所長と一緒にフエ市人民委員会
外務部へ。縫製研修工場の最終製図を確認。製図作成会社と
打ち合わせ。いくつかの大きな問題が出てくる。建築確認までは
まだ相当時間がかかりそう。いつものことではあるが、建物一つ
作るのにも大変なエネルギーを使う。全てベトナム現地での
仕事となる。お金の工面、設計図作成、設計図の公認許可、
建築許可、その後三社見積もり、そして実際の建築。
これら全ての過程で諸問題が起こり、具体的な解決が必要。
この13年間、「子どもの家」(5回増築)、医療センター、
フールー小学校建築、静岡フエ青年会館、
オートバイ修理研修工場、日本料理店と何度、問題が起こり、
解決という過程を繰りかえしたことか?
私たちの各種建築工事に「嫌がらせ」(ジェラシー)を
する勢力あり。自分たちの「利権」にならないとなると攻撃する
卑怯な連中。今回も頭をもたげて来た。


ベトナム事務所へ。先日ベトナム事務所を訪問した井寄さんを
通して支援者の孫(ソン)さんからベトナム事務所のソン君へ
お土産を預かる。「日本語能力検定試験2級問題集」
ソックス2足。ソン君に渡す。孫さんに感謝。

ベトナム事務所でミンさん、税田さん、ハンさんと
打ち合わせ。

午前11時半、大塚さんと諸問題の打ち合わせ。
大塚さんと一緒に「コムディア屋」で精進料理。6000ドン(40円)

午後3時、バオミン・ベトナム事務所長と「THUY XUAN]
「子どもの家」へ。日本料理店で仕事をしている ハイン・ニー
さんの正式採用について所長に正式に申し入れる。
所長も喜んでいた。これから住所変更など退所の手続きをする。
5月1日からニーさんを正式採用とし、当面は叔父さんの家へ下宿
する。叔父さんの家から日本料理店へ通うことで合意。

今日はニーさんは病気で休む。部屋にお見舞いに行くが、
病院へ行って不在。

その足で、先日フエに来られたアクセサリーの花田さんが
「ペンチ」製造を依頼した村の鍛冶屋さんへ。
6丁のペンチが出来上がっていた。出来がどうかは
何ともいえない。私的にはおおよそはいいのではないかと
思うが、専門家の目は厳しいかも?
見本をあわせ9丁のペンチを日本へ持ち帰り花田さんに送る予定。

「子どもの家」へ。セン委員長と日本料理店研修生(3人)の
ことで相談。はしかで寝ているグエットさんを見舞う。
体の赤い斑点はなくなる。数日の休養が必要。
「子どもの家」では4人がはしかにかかる。ベトナム全体でも
はしかが大流行とのこと。

午後5時。ラームさんと一緒にフエ空港へ。太平観光会長の
北垣さん、大阪から奨学金を送ってくれている志村さんたち
5人がフエ訪問。空港で出迎え。

午後6時過ぎ、北垣・志村さん一行と夕食会。
ベトナム料理店。

午後8時。北垣・志村一行を送り、日本料理店へ戻る。
日本料理店では4人が病欠。ホン店長、イエン・グエットははしか。
ハン・ニーもはしかの模様。今日は大塚さん、松下さん、税田さん
子どもたちで来客を待っていたが、雨のためもあり来客なし。

午後8時半過ぎ、閉店。子どもたちを帰し、今日中に食べなければ
痛んでしまう料理を若干つまみに大塚さん、税田さん、松下さんで
会食しながら、今後の日本料理店の運営などを話し合う。

投稿者 koyama : 06:49 | コメント (0)

2006年05月02日

日本料理店夜開店2日目

晴れのち曇り


ベトナムは4月30日解放記念日、5月1日メーデーは
国民の休日。今日5月2日は、5月1日祝日が日曜日だった
ために代休。4月30日から今日まで3日間の大型「連休」。
ベトナムでは国民の祝日はほとんどない。3日間の連休は
文字通り大型。ただし、学校や公務員だけが休みで
一般庶民やお店など個人経営者は仕事。

午前8時半、昨夜日本料理店を訪れて井寄さんと
フォンザンホテルで懇談。バオミン・ベトナム事務所と。

その後、バオミン・ベトナム事務所長が案内し、王宮、カイディン帝廟
を見学。

私はベトナム事務所に行き、税田さんと今後のベトナム事務所・
日本料理店などの運営、今後のJASSの活動など諸般の問題を
話し合う。

午後、日本料理店の名刺(お店紹介)とリーフレットを作る。
手作りで写真をいれ、何故「子どもの家」の日本料理店
を作ったかなどを紹介。英語、日本語併記。

バンベ原稿の最終チェック。

午後2時、日本料理店へ。中村先生が従業員の出勤表を
作ってくれた。午後2時に「出社」し、個人の出勤表に出勤時刻を
記入するというシステム。全てに大雑把なベトナムである。
一般会社・役所などの出勤時刻も大雑把。
子どもたちに定刻に出勤することを教える。子どもたちは
出勤表に自分の出勤時刻を記入。いつも大幅遅刻の
ターオ君も2時07分に出勤。出勤表には2時05分と記入。
少しでも定刻に合わせようとの姿勢が見える。出勤表は
子どもたちが定刻に出勤するという当たり前のことを覚える
のには大いに効果があるようだ。

中村さんや税田さん、ハンさんたちが、メニューを作る。
日本語、英語、ベトナム語の3ヶ国語併記。
現在出来る日本料理、飲み物などの値段などを記入。
これで初めてお店としての体裁が出来る。

出勤後、日本料理店開店の準備。
私とリー君、イン君とで玄関のドア、屋根などの大掃除。
日本人スタッフは毎日一人「当番」で日本料理店を
手伝うことになった。今日は税田さんが当番。

5月1日から公式開店(夜だけ)をしたが、未だに
変則的な開店である。
店長は既に1ヶ月以上休んでいる。(体調不良)
料理主任のイエンさんは、はしかで既に数日休んでいる。
今日から料理・接客のグエットさんも「はしか」で休む。

再度、日本料理店の運営体制を変える。
店長に大塚さんをお願いする。また、会計もホン店長が
していたが、税田さんにお願いする。ある意味で人事を
再度一新。それでも3人もの店員が休んでいる中での
毎日の開店である。

その後、大塚店長を中心に厨房で今日の夜6時半からの
開店にあわせて料理の準備。

午後5時半、子どもたち・日本人で夕食を摂る。

午後6時半、日本料理店開店。雨が降っている。
店の前では、リー君がメニューを持って「客引き」。
「外国人」に声をかけ、日本料理店に案内するのは
慣れたものである。今までの長い間の路上生活の経験が
生きている。外国人を見ると「あの人は何人」と的確に
国名を当てる。
小学校卒業ではあるが、フランス語、英語でフンブオン通りを
歩いている観光客に「ジャパニズ・レストラン」、
「ジャパニズ・フーズ、ナンバーワン」と声をかける。
「先生、早く日本料理店の名刺を作って欲しい。俺が
町に出て、外国人やシクロの運転手に渡したい。
1日100枚は必要だからたくさん作って欲しい」との
提案。観光客に声をかけ、断られたら次の人と慣れたもので
ある。

午後7時過ぎ、ベトナム人夫妻が来店。ビール、カレーなどを
注文。

続いて日本人が来店。

厨房・接客のホン・ニーさんは仲間のグエットさんが
はしかで休んでいることもあり、接客を一人でこなす。
注文取り、配膳、ビールや飲み物注文、そして「会計」、
中村先生がテーブル毎に会計伝票を作った。
ニーさんは、テーブル毎の会計伝票にお客さんが
注文した料理を記入漏れなく的確に書き込んでいる。


記入の仕方などを大塚さんや税田から聞きながら、
一品の料理の記入漏れもないよう「真剣な眼」。

午後8時過ぎ、アメリカ人。昨夜も来店した方。ニューヨーク市
役所で障害者を担当していた役員。
昨夜、JICAの障害児支援のプロジェクトなどを話したのに
興味を持っての再来店。
1999年~2002年の「JICA障害児支援プロジェクト」など
英文のJASS関連の資料を渡す。

何種類かの日本料理を注文。上手に箸を使う。
ニューヨークで日本料理店に通った形跡あり。

そのうち、私の渡した英文の資料に興味を持ち出す。
熟読。結局午後10時半まで2時間半、日本料理店で
2冊のJASS関連の英文資料を「読破」。
午後9時には子どもたちを帰宅させる。
午後10時近くには大塚さんも遅くなたの引き取って
もらう。

結局、午後10時半まで英文資料を読んでいたい。
それだけ、私たちの障害児への取り組みに興味が
あったようだ。午後10時半、退店。
「あなたのやっている仕事は本当に立派だ。
アメリカ人の私たちには何もできないが、あなたの
活動を支援したい。自分の知り合いの観光会社の
社長がいるので、日本料理店の情報が欲しい」
とのこと。急いで3階の部屋に戻り作りつつある
日本料理店の名刺を印刷し渡す。
ノラさんという。私にメールアドレスを教える。
メールに情報を書いて送って欲しいとのこと。

午後10時半、日本料理店は閉店。最後は私と今日の担当の
税田さん。
今日のお客さんは4人。昨日は8人。こうして毎日、
コツコツと仕事を積み重ねる必要がある。
毎月、20日には従業員に給料や研修補助費を出さなければ
ならない。

投稿者 koyama : 06:46 | コメント (0)

2006年05月01日

日本料理店夜開店初日

晴天ー曇りー雨

午前8時半、散髪屋へ。
午前中と午後、バンベ原稿執筆。
ODA縫製研修工場関連。障害児父母の会
第12回JASS総会報告、寄金呼びかけ原稿。

日本料理店パンフレット原稿。

午後6時過ぎ、フォンザンホテルへ井寄さんを迎えに。
午後6時半過ぎ、井寄さん、日本料理店へ。

今日から毎日、午後6時半から9時半まで日本料理店を
開店する。

今日は予約で井寄さん。その他にお客さんが来るか心配
していた。
開店早々、ベトナム人が来店。15歳、中学3年生。
カレーライスを食べて帰る。私が質問すると英語でしっかりと
答えた。高級幹部の娘さんと見た。


続いてリー君が日本料理店前で呼び込んで二人のフランス人
が来店。

更に観光フリーペーパー雑誌「ベトナム・スケッチ」を見て
日本人の若者が一人。

続いて、アメリカのニューヨークから3人。

今日は合計8人の来店。

井寄さん、ベトナム・スケッチを見た日本人、アメリカ人
から大金の寄金を頂いた。

閉店は午後10時半。

投稿者 koyama : 00:39 | コメント (0)