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2006年05月23日

終日雨

終日雨。気温14度。

やはり南半球。季節は見事に反対。今は真冬。

タウランガ市に滞在して丁度1週間。
喘息の発作に苦しんでいる。

今日は1日中頭痛、倦怠。ほぼ寝ていた。

21日の日曜日には大きなパーティーに参加。
20年前から付き合っている画家SHIRLEYの
夫DAVIDの80歳誕生祝賀会。
DAVIDの65歳の誕生会にも参加している。
午前11時から始まったパーティーには、50人
程が参加。3人の子ども、孫、友人、知人。
実に素朴な心暖まるものだった。
午前11時過ぎに三々五々集まった皆さんは、
ビールかワインを飲みながら1時間ほど歓談。
4~5人で集まり、色々と話し合っている。
おつまみもないビールだけの飲み物で良く
長時間話が出来るものだと感心する。

午後12時過ぎになった。DAVIDの長男が
「さあ、みなさん、昼食を召し上がってください」
と呼びかけ、ランチパーティーとなる。
70センチほどのブロックの牛肉ステーキ。
鶏肉。ハム・ソーセージ、色々な生野菜。
ペンネの料理。イタリア風チャーハン。
ムール貝、その他色々。大きなテーブルに並ぶ。
小さな山を一つ買い切ったDAVID家の庭は
広大。庭にいくつもテーブルを並べ、
延々とランチの会食。食事をしながら話し合う。

奥さんの画家SHIRLEYさんは、広島・長崎
の原爆を題材にした油絵を描いている。
平和・人権をテーマにした絵画、彫刻が多い。
私の書いた「火炎樹の花」を英語に翻訳し、知り合いに
読ませていた。英文の「火炎樹の花」を読んだ人が
何人かいた。私が食事をしているとやって来て
ベトナム、ストリートチルドレンや障害児のこと
などを話す。
午後2頃、長男が一言挨拶。その後、主役のDAVID
さんが挨拶。1946年に南アフリカの農業大学を
卒業したとのこと。80年の人生を短時間語り、
皆さんとの交流に感謝と締めくくる。
午後3時過ぎパーティーは終了。

午後5時半、グィーナス・マッケンジーの家へ。
マッケンジー夫妻とピーさんと友人の薬学博士
とデイナー。
これらの人たちはREDDYさんのダンス仲間。
1987年、REDDYさんとミス・ピーさん、薬学博士
の3人と新幹線で出会う。偶然、私の隣に3人が座って
いた。東京武道館で行われて世界アマチュアダンスコンテスト
に出場のため。その帰り、北海道旅行のため新幹線に
乗ったとのこと。私は仕事で鳴子に行く途中。
隣のREDDYさんと簡単な挨拶。中学で勉強した
「ジャク アンド ベティー」を駆使しての
簡単な会話の後、住所交換をした。この出会いが
その後、20年も続くとは夢にも思っていなかった。
1987年末、REDDYさんからクリスマスカード
が届く。翌年3月、2週間ニュージーランドのREDDY
さん宅を訪問。その後、多くの日本人を連れてREDDY
さんの所へ行ったことか。
教え子の中学生男女(合計14人)を連れて行ったこと
もあった。次男は高校1年生の7月から2年間、
REDDYさんの家にホームステーすることとなる。
長男もREDDYさんの主催でニュージーランドで
結婚式をした。
人との出会いは不思議なものである。偶然新幹線で
知り合ったニュージーランドの人と20年間もの
交流がもてることに感謝している。これも人生の
喜びの一つ。私は人との出会いと付き合いを大事に
している。損得で人と付き合うことはしない。
人間同士の信頼。言葉は十分通じなくとも人間は
心が通じるものである。ボランティアの心は
REDDYさんとの付き合いで学んだものである。

午後6時頃まではビールかワインを飲みながら
四方山話に花を咲かせる。
その後、ディナータイム。一言でいって
「膨大」と言って良いほどの量。到底食べきれない
量の夕食が出る。その後、大量のケーキ。
更に大量のアイスクリーム。その後、チョコレート
となる。
うーん、これで太らないわけはないと感心する。
ニュージーランドの町を歩けば、これでもかと
言うほど、肥満の人がいる。というのか、正確には
肥満国家である。生半可の肥満ではない。
子どもの頃、「ビヤ樽デブ」という悪口を聞いたことが
あるが、その頃は本当の意味がわからなかった。
しかし、アメリカ、カナダ、ニュージーランド、
オーストラリアなどを旅行して見ると、ビール樽
程の大きさまで太った人が町中を闊歩している。
その原因が、意味のないほど食べるということだった。
「世界の南北問題」などと硬いことを言う気はないが、
この超肥満国家を見れば、富の偏在を実感する。
町には、肥満解消のためのジムや医療機関もある。

この1週間、喘息(ハウスダスト、家ダニ)のため
あまり外出は出来なかった。
部屋で読書。

● 「馬鹿の壁」(養老孟司著:新潮新書)
書名が嫌いで読まなかった。長男に借りて読む。
内容はある意味の人生論。真っ当な意見と見た。
藤原正彦の「国家の品格」よりはよっぽど立派な
内容。解剖学者が見た世の中と人生。


● 「共産党」(筆坂秀世著:新潮新書)
「セクハラ問題」で議員を辞職。日本共産党の
 書記局長代理、政策委員長、幹部会委員。
 本には「共産党NO4」と書いてあった。
 何故、共産党に入党したのかから始まり、
 いわゆるセクハラ問題の経過。その後、共産党を
 離党した理由などが書かれている。
  全体を読んだ印象では、率直な筆坂氏の気持ちと
意見が書かれているように思った。日本共産党からは
 不破議長、志井委員長など幹部からの反論が出ている。

●「落語名人会 夢の勢揃い」(京須偕充著:文春新書)
  著者は私より5歳年上。旧CBSソニー(現ソニー・ミュージック)
  のプロデューサー。
   東京神田で育ち、東京落語の繁栄と衰退とを体験している。
  私とほぼ同じ東京落語を体験している。私の周りでこの種の
  話が出来ないでいたが、この本を読んで溜飲を下げる。
  戦後第一次落語ブーム(1950年代後半)。
  三遊亭歌笑、7代目林家正蔵(三平の父)、三遊亭金馬、
  2代目三遊亭円歌、古今亭今輔、昔昔亭桃太郎・・。
  私の父親は浅草で若い頃過ごしたこともあり、演芸が好きだった。
  1950年代、真空管ラジオで毎日のように浪曲を聞いて
  いた。浪曲と寄席が同時に放送される。聞くともなく、
  これら1950年代の落語家の話を聞いていたように思う。
  どういう訳か我が家に蓄音機があった。LP版で三遊亭金馬(先代)
  の「居酒屋」を何度も聞いた。小学校の頃だろうか?
  とにかく面白かった。酔っ払いの職人が居酒屋に入り、小僧さん
  をからかいながら、さかなにしながらお酒を飲むという単純な
  ストーリー。私が落語を聞き始めたのはこの頃だった。
   第2次落語ブームは1970年代。この頃私は演芸評論家に
  なろうとせっせと寄席やホール落語会に通っていた。
   桂文楽、古今亭志ん生(寄席には出ていなかったが)
、三遊亭円生、林家正蔵(彦六)、
  柳家小さん、金原亭馬生(志ん生の長男:私が一番好きだった
 落語家)、林家三平、古今亭志ん朝(志ん生次男)、立川談志、
 三遊亭円楽、春風亭柳朝(先代正蔵の弟子)、月の家円鏡、柳家小三治・・。
 私の落語はこの時点でほぼ終わっている。以下偏見と独断の私見。
 東京落語の本質は、目立たないよう、あっさりと。
 しかし、本質的には知的で良質。ものすごく力量のある
噺家がいかにも簡単そうにあっさりと話をするところに
私は東京落語の最大の魅力を感じている。そうした視点からすると
金原亭馬生(先代)は最も東京落語を体現していたように
思う。弟の古今亭志ん朝は輝いていた。光っていた。
兄の馬生は黒ずんだ見栄えのしない噺家風に見えるが、
その中に時折、きらっと光るものを見つけられた。
こんな噺家が私は好きだった。
 自殺した桂枝雀を大阪で聞いたが、何とも大げさで私は最初から
好きになれなかった。
 最近評判の春風亭昇太の落語を聞いたが、
 ただ大声でがなっているようにしか聞こえなかった。
 品がなく、わざとらしさについけ行けない。

第1次、 第2次落語ブームのそれぞれの落語家との
著者の付き合いを書き綴っている。興味津々の
本だった。
私の知っている落語家の多くが既に鬼籍に入ってしまった。
付き合いのあった若手の柳家小きん(4代目桂三木助)は
自殺してしまった。
今付き合っている(時々メール)のは五街道雲助くらいか?

今でも毎晩の寝話は、落語のCDを聞きながら。
数年前は桂文楽(先代)の「明烏」(あけがらす)、
「寝床」を毎晩聞きながら寝ていた。昨年までは
柳家小三治の「湯屋番」。今は、昔に戻り
三遊亭金馬(先代)の「居酒屋」。

馬生、柳朝、志ん朝が死んだ今、柳家小三冶を高く評価
している。この人の落語は「まくら」がとにかく面白い。
「まくら」だけを取り上げた本もでている。
「まくら・まくら・まくら」。
師匠の柳家小さんを小さんの息子に譲るとのこと。
こぶ平といい、花禄といい親の七光りで名跡を継ぐ。
この世界も政治家と同じく世襲の世界となってきた。
ということは、歌舞伎の世界と同じことになる。
歌舞伎が庶民から遊離し、博物館に入ってように
落語も庶民の芸能から博物館芸能にお蔵入りする
日も近いのではないのか? 小さんが人間国宝になった
時から落語は「世襲→博物館芸能」の道を歩んでいるように思えて
ならない

投稿者 koyama : 2006年05月23日 05:00

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