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2006年04月30日
サイゴン「解放」31周年
曇りのち雨。
今日はサイゴン「解放」31周年記念日。31年前の今日、
サイゴンが陥落した。30周年は盛大にお祝いをしたが
31周年はこれと言った祝賀会はない。
今日はベトナムの休日。多くのベトナム人観光客が
フエ王宮参観に訪れていた。王宮の壁には
「4月30日の戦勝・5月1日のメーデーの精神は永遠」
との横断幕が掲げられていた。
午前9時半、ホーチミン市に駐在している只木さんが
日本料理店を訪問。只木さんは1年前に夫の仕事の関係でに
ホーチミン市に駐在。日本にいた時にベトナム語を勉強する
ため「京滋YOUの会」主催のベトナム語講座に参加。
それが縁でJASS支援者になって頂いた方。
今日は小5の娘さんと一緒にお越しになり、午後12時まで
交流。税田さん、松下さん、石岡さんも。
日本料理店の食材をホーチミン市でたくさん購入し
寄贈して頂いた。感謝。
午後12時過ぎ、部屋に戻り昼寝。
午後3時半、バオミンさんの迎えで「子どもの家」ロック寮長の
母親の1周忌の法事に参列。
ロック寮長の自宅には「子どもの家」スタッフも訪問。
ロック寮長の母親の「あの世」へ行く日を記念して会食。
午後5時20分までロック寮長の母親の1周忌に参列。
その足でフエ師範短大学長の娘さんの結婚式に参加。
娘さんは現在国費留学生で東大で化学を学んでいる。
4月からは大学院に進学するとのこと。夫は、ハノイの人。
東大大学院で勉強している。
渡辺和代さんの主催する「ACCL」
(アシア・チャイルド・ケヤ・リーグ)はフエ中央病院
小児科医長のHUONG先生を日本へ招待する。
5月10日~20日まで。
今日結婚するお二人に通訳をお願いした。その関係も
あり結婚式に参加。お二人の結婚をお祝いする。
今日の参加者は500人。フエ最高級のフォンザンホテルの大広間
を二部屋借り切っての結婚式。盛大なものだった。
ミンさんと試算したが、今日の披露宴だけで推定80万円。
一般庶民の年収が3万円から5万円のフエで80万円は
気の遠くなる費用である。一般庶民の16年から25年位の
年収に値する。日本円に換算すると結婚費用は6400万円
~1億円に当る。庶民では絶対に出来な披露宴である。
新郎新婦両家ともベトナムでは超エリート共産党幹部の家庭。
日本への国費留学もこうした特権階級の人々の「利権」と化
している。今日の結婚披露宴に参加し、お祝いの気持ちをもちつつ、
こうした超お金持ちの師弟を日本人の税金で教育する
必要はない、両家の親が出せるのにとつくづく思った。
日本人の多くは「ベトナムは貧しい」と思い込んでいる。
貧富の格差の増大の実態を知るべきである。
1ヶ月2000円のお金がなく、子どもたちを「子どもの家」へ
預ける親もたくさんいる現実を見て、どうしようもない
人間社会の不平等を感じる。私たちの出来る所で
少しでも生活困難な子どもたちが自立できるようにして
やりたいと、改めて決意した今日1日であった。
結婚するお二人には何も罪はないのだが・・・・・。
●結婚式第1会場
●結婚式第2会場
披露宴会場の厨房には「子どもの家」の卒業生THUYさんが
仕事をしている。厨房に会いに行く。元気に仕事をしていた。
厨房主任・副主任、厨房の仲間(20人程)に挨拶。
「THUYさんを宜しく」とお願いした。
ロック寮長の家へ行く途中、「子どもの家」へ。
午後4時、子どもたちは庭で「ダーカウ」(羽のけまり)
をして遊んでいたい。子どもたちが何の憂いもなく
ダーカウで遊べる「子どもの家」に存在意義もあると感じた。
日本で行われる「子どもの家」の絵画展の絵を20枚選び、
トンチンカンホテルの部屋へ持って帰る。日本へ帰国する際、
手持ちで持ち帰る予定。
2006年04月29日
ベトナム事務所員会議 :日本料理店スタッフ会議
雨。寒い
昨日は猛暑だったが、今日は一転雨で寒くなった。
気温差の大きさに朝から喉と頭が痛い。体がだるい。
町の人たちもセーターを着ている。10度から15度の気温差。
午前8時半。ベトナム事務所でベトナム事務所員会議。
会議が始まる前にドック君から電話。ドック君は1997年の
テレビ東京「ドキュメタリー人間劇場」で橋の上に寝ている
所で出会い「子どもの家」へ入ったこである。北部から
来た子どもであった。「子どもの家」で18歳まで過ごしその後
トンチンカンホテルの前で貸し自転車屋さんを開店し
店員にした。初めは1台1日1ドルで結構繁盛じていた
のだが、そのうち、貸し自転車を1台、また1台と売ってしまい、
大筋売れ終わったら、家出をしてしまった。北部に行ったとの
噂があった。そのうち、ハノイの刑務所から手紙が来た。
今日の電話は北部のTHAI NGUYEN省で仕事をしている。
今は真面目にやっている。フエで先生に迷惑をかけたことを
謝りたいとの電話だった。頑張って生活するように、
フエ遊びに来なさいと話した。人間は「年齢」というものが
必要である。あり年齢にならないと理解できないこともある。
ドック君は28歳。社会や人間というもんが、少しずつわかって
来た年齢である。ドック君の幸せを祈る。
(ミン)今週の反省と来週の計画などを報告して欲しい。
(ソン)ベトナム事務所の倉庫の整理をした。ベトナム事務所の
指示で自動車の免許を取りに行っている。
(サン)特にない。
(税田)倉庫の整理。全教松原さんの刺繍発送した。
日本から注文があった竹の民芸品を日本へ郵送した。
(フーン)日本語学校は特に問題ない。
一昨日、昨日とガイドクラスの生徒連れてダナン・ホイアン
・ミーソンなどへ行った。無事帰って来た。生徒は熱心に
勉強した。
(石岡)フーン先生・中村先生とダナン実習へ行った。
(ハン)奨学金を支給している学校の先生を呼んで
奨学金支援者に手紙を書くように頼んだ。
手紙は具体的に書くように依頼した。卒業後の進路は?
仕事は? 大学は?夏の予定は?
(松下)月曜にガイドクラスの生徒と一緒にミンマン帝廟、カイディン
帝廟の案内をした。
(ラーム)日本料理店に新たに採用したイエンさんが「はしか」
になった。
(ミン)アクセサリー花田社長を4日間案内した。
ベトナムテレビ取材の案内をした。
静岡市国際交流協会の山田さんとメールで打ち合わせ。
ハノイの日新電機で働く希望のTY君とチュン君の
就職用に履歴書が出来た。急いで採用依頼をする。
(ミン)反省が終わったら、バンベ編集会議をしたい。
今回からできるだけベトナム事務所でバンベの
編集をしたい。私の方で次号のバンベの編集内容を
書いてみた。字数と内容である。以下、各項目を
説明したい。
午前9時40分。会議終了。
「子どもの家」で退所式に参加。
ヒエウ君(17歳)が退所する。
ヒエウ君は1998年に入所。母親は再婚し、新しい父親と再婚。
ヒエウ君は家庭の様々な事情で「子どもの家」へ入所してきた。
現在、中学4年生。しかし、学校へ行かずに「家へ帰りたい」と
何度もセン委員長に話し、勝手に家へ帰ってしまう。
何度も「子どもの家」へ帰るが「家へ帰りたい」と繰り返す。
母親も「ヒエウを家へ引き取りたい」とのこと。
本人と母親・家庭の希望で家へ帰ることになり退所。
義父は農業。母親は天秤棒でうどんなどを売っている。
11歳の弟、9歳の妹。何とか生活できると母親は言っていた。
母親はヒエウ君の退所承諾書に署名。
今後、ヒエウ君は家の農業を手伝いながら、靴作りの研修を
したいと言っていた。ヒエウ君が家族と同居することで
家庭生活を楽しみ、未来への希望を実現できるように
なって欲しい。子どもは基本的には親と生活した方がよい。
例外を除いて。
午後3時。日本料理店でスタッフ会議。
今日のスタッフ会議で改めて日本料理店の仕事運営の
システムについて話し合う。
オーナーそして店長の指示で仕事をすること。
最近、子どもたちは日本人の指示に従わず、狭い自説に
こだわり、日本料理店の仕事にも支障をきたす傾向が
現れてきた。また、無断欠勤や日本料理店終了後、
「子どもの家」に帰らず、寄り道をしていることもある。
子どもたちは現在どのような立場にあるのかを
説明。現在は「研修中」「日本料理店を勉強している途中」
日本料理を教える先生に指示に従わない場合には、
2回注意し、それでも勝手な行動をした場合は研修を
辞めさせる。仕事は気分でしてはいけない。責任がある。
したい時に好きな仕事をするという態度はやめるように。
給料や手当てをもらうということは、大変な努力が要る。
この数年でしっかりと日本料理を勉強して欲しい。
勉強中は謙虚でなければならない。日本料理店で
日本料理を教えている日本人はみんな子どもたちの
自立のために無報酬で教えているということに感謝の
気持ちをもつように・・・・・・。
こんな話をする。子どもたちは「子どもの家」で支援を受けていた
時と同じ気持ちでいる。日本料理店ではお客さんにサービスと
美味しい料理を提供し、お金をもらう。「お金をもらう」ということは
全身全霊で仕事に打ち込まなければならないということを
伝えたかった。また、関係する日本人への尊敬と感謝の
気持ちを持つように。日本料理を教えている日本人の
していることが「当たり前」と思いがちな態度が見えるように
なったので・・・・。
子どもたちと話し合う。子どもたちも私たちも主旨を理解した
ようだ。
午後6時、子どもたちと日本人スタッフと夕食会。
2006年04月28日
ベトナムテレビ取材2日目 省関係者を日本料理店へ招待
晴天 猛暑
ベトナムテレビ取材第2日目。
午前9時、フーハウ地区診療所へ。「フエ市障害児父母の会」
が行われていた。
「フエ市障害児父母の会」はボランティア貯金交付金で運営
されている。現在、フエ市内にある25箇所の診療所で
毎月1回を基準に、障害児の親と子ども、医師が集まり、
懇談、交流、リハビリなどを行っている。
本部は障害児医療センターにあり、3人の医師を採用し
障害児や父母へのあどばいすをなどを行っている。
帯広の芳村さんが支援しているヒエウ君も来ていた。
昨年、高熱で精神に障害を起こしたヒエウ君だったが、
その後の治療の甲斐あり、普通に話をする事が出来た。
日本の里親のお母さんは元気ですか? お父さんは?
などと細かいことを聞いてきた。元気になったヒエウ君
を見て安心。
フーハウ地区診療所は船上生活者も多い低所得者の居住
地域。フーハウ地区障害児父母の会」に集まって
17人の障害児は保険に入るお金がない。保険に入らないと
薬や治療費など限界がある。年間10万ドン(700円)の
保険に入ると治療費・薬代など保険会社gが出す事に
なる。今回、フーハウ地区17人に年間700円の保険料を
寄付する事とした。
続いて障害児リハビリセンター「フエ平和村」へ。
1998年~2001年までの年間、JICAと協力して
トゥア・ティエン・フエ省全域の障害児総合支援プロジェクト
を行った。
その際、フエ平和村と協力して多くの障害児のリハビリを
行った。JICA支援で障害児の治療器具も寄贈。
午前11時半、午前中の取材終了。
午後4時、フエ中央病院小児科医長のHUONG先生と
訪日の打ち合わせ。5月10日~20日までの10日間、
渡辺和代さんが主催する「ACCL」(あじあ・チャイルド・ケア・
リーグ)の招待で訪日する。日本の小児科・小児ガンの
医療関係者と懇談。いくつかの病院を視察する。
訪日のスケジュールの確認、通訳の問題、ホテル宿泊等の
打ち合わせなどを行う。訪日中の希望なども聞く。
日本料理店ではトゥア・ティエン・フエ省幹部の
皆さんを日本料理店に招待し、お披露目をする予定である。
子どもたち・大塚さん・日本人スタッフはその準備におおわらわ。
今日は大塚さんの指導で「茶巾寿司」を作る。
既に招待状を出し、10数人の人たちが来店するとのこと。
ベトナムテレビ取材の最後に日本料理店全景を取材する事に
なっていた。
午後5時半、警備員のリー君がのれんと提灯を出す。
午後6時、日本語学校観光ガイドコースの実習でダナン・ホイアン・
ミーソンへ行っていた中村先生、石岡先生が生徒と帰って来た。
午後6時半、元市長のアンさん、省観光局副局長の二人が
来店。しばらく他の参加者を待つ。午後7時過ぎ。
とうとう二人以外に来店なし。
アン元市長、観光局副局長と私、ミンさん、サンさんで
会食を開始。
テレビ局の取材の皆さんにも日本料理店を試食してもらう。
午後9時。日本料理店の全ての業務を終わる。
その後、大塚さん、税田さん、松下さん、ミンさん、
サンさんで「何故、参加すると言った省の幹部が欠席したのか」
について深く討論をする。
中村さん、石岡さんは1泊2日の日本語学校観光コースの
実習で疲れ休む。
長い1日だった。
2006年04月27日
ベトナムテレビ取材
晴天。気温35度。湿度も高い。
午前7時10分。日本語学校ガイドクラスの生徒と先生
(中村・石岡・フーン先生)がダナン・ホイアン・ミーソンへガイド実習。
1泊2日のツアーである。
ベトナムにある日本語学校でここまで懇切丁寧に学生への
指導をしている日本語学校はない。日本語学校の教師の
皆さんのご苦労に感謝。
午前8時半、ハノイのベトナムテレビ(日本のNHKにあたる)の取材。
5月15日に30分の番組として放映するとのこと。
内容は私が13年ベトナムに来て苦労の中で子どもたちのために
様々な活動をしているという内容をハノイから全国放送する。
既に数年前から計画を立てていた。JICA障害児支援プロジェクト、
中秋祭りなどその時々の行事などのビデオ取材を既に行っていた。
今回は今まで撮ったビデオを編集し、今日と明日の二日間の
新しい取材もまじえての放映となる。
午前9時、「子どもの家」へ到着。
「子どもの家」には「4月30日戦争勝利・5月1日国際労働日の
精神は永遠だ」との横断幕が掲げられていた。
3日後の4月30日は31年前のこの日、サイゴン解放があった日。
5月1日はメーデー。ベトナムの数少ない祝日である。
図書室や子どもたちの部屋で子どもたちとの交流を取材。
「子どもの家」のベトナム人スタッフのキムアンさんにインタビュー。
日本料理店で料理を担当しているTHUYさんにインタビュー。
子どもたちと一緒に昼食を摂る。
午後12時過ぎ、午前中の取材が終了。
トンチンカンホテルへ。若干の昼寝。
いくつかの重要なメールを書く。
午後3時。ベトナムテレビ午後の取材。
オートバイ修理工場。
その後、日本料理店を取材。
日本料理店で私へのインタビュー。
生い立ち、ベトナムへ来た理由、活動の動機、活動の内容、
活動の目指すもの、今後の計画・・・・・。
日本料理店厨房を取材。
午前中インタビューした料理のTHUYさんを厨房内で
再度インタビュー。
長い1日だった。朝から夜まで。朝から暑く湿度も高い。
通訳をしてくれたミンさんも大変だったと思う。
日曜日から連続5日間の『人との付き合い』。
訪問者に失礼があってはならない。
さすがにテレビ取材終了後はくたくた状態。人と会うのも
話すもの嫌になるほど疲れ切った。
明日も朝8時から夜8時近くまでテレビの取材。
頑張ろう。
=========================
午後11時のNHKニュースで横田さきえさんの米国議会
での証言を見た。話に説得力がある。聞いていて
涙が出てくる。横田さきえさんの話が何故説得力が
あるのか。それは、真実の心を真実の言葉で
語っているからだ。今の日本では「言葉に
真実がない」。ただ言葉だけが踊っているだけだ。
意味のない言葉遊び。政治家がその好例。
我がアメリカべったり首相はその典型。
横田さきえさんの思想・信条が何か私は知らないが、
この人の口から発せられる一言一言に真実の
重みを感じる。母親として、娘が突如いなくなった
という現実に正対し、母親としての心の痛みを
吐露しているからこそ、真実の言葉となっている
ように思う。人間の発する言葉には、真実の
思いがなければ虚無の世界である。
NHKテレビで「ホリエンモン」が保釈されたとの
報道があった。
「ホリエモン騒動」ではホリエモンを「我が弟、子ども」と
叫んでいた自民党幹事長武部氏、自民党本部で
ホリエモンと握手をし励ました小泉首相。
「小泉首相とホリエモンと私で日本か改革します」と
豪語した竹中平蔵総務大臣。
これらの人たちの言葉が「軽い」言葉になっている。
自らの行動と言葉への自省が全くない。
日本の政治家は言葉を語れない。横田さきえさんの
「爪の垢でも煎じろ」と言いたいところではある。
2006年04月26日
花田社長フエを発つ。
晴天。 34度(バオミン気象予報士)
4月24日付けの日記に「火焔樹の花咲き出す」
との記述で写真を掲載しました。
日本のT花博士より、あれは「おおごちょう」ではとの
ご指摘がありました。インドネシアでは ピーコック花
とも言うそうです。お詫びし訂正致します。
T花博士のご指摘に感謝致します。
T花博士から送られた「おおごちょう」の写真と
私が「火焔樹の花」として掲載して写真は瓜二つ。
●フエの「おおごちょう」の花が咲き出す。(別名ピーコック花)
●T花博士から送られた「おおごちょう」の写真
フエはすっかり「夏模様」。
午前9時半、アクセサリー花田社長と「金メッキ」工場を
視察。
その後、竹細工・籐細工の工場を視察。
午前10時45分、JASSベトナム事務所を訪問し
ベトナム事務所員と交流。
午後12時過ぎ、中国系の大衆食堂で「チャーハン」を
食べる。花田さん、ミンさんと。1食70円。
午後3時、花田さん、ミンさんと一緒にフエ空港へ。
花田さんは午後5時過ぎ、フエ空港経由で
ホーチミン市へ。
4日間のフエ滞在だった。子どもたちの就職口としての
アクセサリー工場の創設。そのための各種調査を行った。
早期にアクセサリー工場の創設が出来る事を祈る。
花田さんの無事帰国を祈念する。
トンチンカンホテルの部屋に戻り、いくつかの問題に
ついてメールを書く。
午後6時、日本料理店で夕食。
子どもたち、日本人スタッフ、大塚さんと一緒に
子どもたちや大塚さんの作った日本料理や
ベトナム料理を食べる。今日は暑く、かなり体力を
消耗。食欲減退。
ベトナム共産党第10回大会が終わった。
今回の特徴は共産党委員長候補の一本化が
出来ず、事実上、大会代議員の選挙で決めると言う
異例の事態となったことである。
前職委員長ノン・ドック・マイン氏とホーチミン市の
国会議長との対立だった。
町の噂では、ベトナムの一層の資本主義化を求める
勢力が押すホーチミン市の国会議長とハノイなどを
拠点とする社会主義路線堅持派との「妥協」が出来ず、
最後まで候補者の一本化が出来なかったとのこと。
この問題の裏には、現在のベトナムが抱える大きな問題が
ある。両派とも共通している危機感は「汚職腐敗」の蔓延
である。このまま行けば、共産党一党独裁体制そのものが
崩壊するとの強い危機感があった。
中間的な人々が「社会主義路線維持派」に寄り添った
結果、ノンドックマインが再選されたとの見方がある。
いずれにしろ、このままドイモイ路線を突き進めば、
貧富の格差の一層の増大、汚職の蔓延を通して、
ベトナム社会主義そのものが崩壊する過程を辿っている
との見方もある。
庶民の中にある不満と矛盾が共産党大会にも
明確に反映されていることは明らか。
2006年04月25日
花田さんと鍛冶屋へ:日本料理店
晴天。38度(バオミン気象予報士による)
午前9時、アクセサリー会社社長の花田氏と「ネックレス」
工場へ。街中の家内工業。若者が8人ほど仕事をしていた。
主に金のネックレスなどを「蝋付け」していた。
1971年から18年間、東京駒込の小学校に勤めていた。
駒込は徳川幕府時代以来「金細工」の職人の地域だった。
私の勤務中も家庭訪問をすると家内工業で金細工の
指輪、ネックレスなどをバーナーで「ロウ付け」し細工をしていた。
今日、フエの金細工の家内工業を花田さんと視察し、
1971年当時の駒込の教え子の家の「金細工」の家内工業
と全く同じ雰囲気を感じた。
金細工の親父に「ペンチやクイッキリなどを作る鍛冶屋を
紹介して欲しい」と頼む。近くに専門の鍛冶屋があると
聞き、訪ねる。
この鍛冶屋も家内工業。数人の家族で鍛冶屋をしていた。
はさみや農器具などを手作りで作っていた。
ふいごを使って石炭を燃やしていた。
人間が働くという原点を見た思いがする。
鍛冶屋視察を終え次の視察場所へ行こうとした時、
「子どもの家」にいた子どもが「お葬式の紙人形」を作っている
家の前を通った。
A君は未婚の母。数年前に母親も死亡。現在は天涯孤独。
親切な方が引き取ってくれ、お葬式の特に使う紙人形を
作り、生活をしている。卒業生がこうした形で生活している
現場を見て、ほっとする。A君の幸せを祈る。
人生とは偶然である。私とミンさん、花田さんがA君と
話しあっていると、これまた「子どもの家」の卒業生が
道を歩いているではないか・・・・。
ラム君である。偶然にフエ市郊外で二人の卒業生と
出会った。二人ともしっかりと生活をしていた。
少し時間があり、花田さんも疲れを見せていた。
ミンさんと相談し、中国茶を飲ませる茶園へ行く。
茶園はティエンアン山の麓。
午後12時過ぎ、フエ名物「チャオバインカイン」
の店へ。チャオバインカインは、キャッサバと米粉を
混ぜた手打ちうどん。
午後3時から縫製研修工場視察。午後4過ぎ、
ベトナム事務所の刺繍みやげ物店視察。
午後4時半、日本語学校視察・交流。
花田さんが日本のアクセサリー業界の現状を説明する。
午後6時半、再度、日本料理店支援も兼ねて日本料理店へ。
日本料理店に赤提灯とのれんを出した。
直ぐに日本人のお客さんが一人、スイス人の家族3人が来店。
日本人の方はフエ中央病院の建築工事に来て4日目。
町を歩いていて「赤提灯とのれんをみてほっとした」と
言っていたい。日本料理店をフエ作って社会貢献が
出来たような気がした。
●日本人・スイス人家族・花田さんなどの来店で賑わう
日本料理店
スイス人は、中学生らしきお子さんを連れて来訪。
建築家夫妻とのこと。3週間、日本の建築を
視察に来た経験があるとのこと。
スイスでは「ドイツ語・イタリア語・フランス語・ラテン語」が
共通語。学校では英語を学んでいるとのこと。
5ヶ国語の勉強をしている。スイス建築家夫妻は
流暢な英語を話す。家族ではドイツ語を話していた。
しばらくストリートチルドレンや「子どもの家」などの
話をする。退店の際、全員で記念撮影。
2006年04月24日
アクセサリー工場創立のための視察
晴天。34度。
午前9時、アクセサリーを作るための道具鍛冶工場を見学。
「ペンチ」(2種)、「クイッキリ」・・・。
フエ郊外の道具鍛冶へ。しかし、精巧なペンチなどは作れない、
数が少ない仕事はしないとのこと。その後、いくつかの鍛冶屋
さんを訪ねるが思ったような道具がない。更に明日、調査の予定。
午前10時、ガラス工場を視察
フエ郊外のティエンアン山の中腹にある「薬ビン」を作る小さな
町工場。くずのガラスを回収し、1000度近い温度で溶かし、
型にはめ込み、空気を入れて茶色のビンに仕上げる。
暑い空気の中で更にあつい大変な仕事である。
午後12時過ぎ、フエの大衆食堂で昼食。今回の旅で花田さんは
フィリピン、バンコクと旅行する。アクセサリーという仕事上、
海外出張が多いそうだ。海外旅行では高級レストランには
行かず、大衆食堂で食事をしているとのこと。
「大衆食堂の方が美味しい、一般庶民が一番美味しいものを
食べている」との私の持論と一致。花田さん、バオミンさん
私で900円。一人300円の昼食ではあるが、栄養満点。
アヒルの玉子焼き、豚肉とエビの甘辛煮、もやし炒め、
ニガウリスープ、ご飯。
午後1時から昼寝。
フエ市内もいよいよ「夏の様相」を呈してきた。
フエ市の花「火焔樹の花」が咲き始めた。
これから猛暑の夏となる。私の一番好きな季節。
午後3時、ラデン細工の家内工場を見学。
アクセサリーの一部にラデン細工が関係あるようだ。
町の木工場視察
ドンバ市場でアオザイ布、水牛の角細工、ガラス瓶各種を
調査視察。
その後、レロイ通りのみやげ物店を視察。
ラデン細工のみやげ物、水牛角のみやげ物などを調査。
あるみやげ物店を視察すると日本語学校の学生さんが
仕事をしていた。初級から上級まで2年間、我が日本語学校
で勉強したとのこと。日本語も結構話せる。
現在は、上級クラスを卒業した学生用の「特別コース」で
更に日本語を磨いているとのこと。日本語学校の
卒業生がこうしてフエで活躍する現場をみることができる
のは嬉しい事。福田もえ子・西山優子・坂本文子・橋本さん
などの先人や現在の日本語教師の努力がこうした見えない
ところで結実していることを改めて知った。
午後5時過ぎ、ホテルへ。休息。
日本料理店では日本料理店スタッフと日本語教師が
夕食。
午後6時半、花田さんが日本料理店へ。
税田さん、大塚さんなどスタッフの皆さんと
交流・夕食。
子どもたちは久しぶりの日本料理店開店を喜んでいた。
久しぶりの開店。オランダの弁護士さんもフリーで入店。
交流。
今日は朝からフエの町や郊外を動き回り、忙しい1日だった。
2006年04月23日
アクセサリー会社の花田さん「子どもの家」訪問
晴天。34度。日曜日。
フエに戻って10回目の日曜日。休めたのは2回だけ。
午前7時45分、ミンさんと一緒にフエ空港へ。
東京浅草橋のアクセサリー会社の花田社長がフエ空港へ
到着。
花田社長は昨年10月テレビ東京で放映された
私のフエでの活動の番組をご覧になり支援をしたいとの
連絡があった方。今年、浅草橋の花田社長の会社を訪問し
親交を深めた。
フエで子どもたち支援のための「起業」ができないか?
今回の視察はそのためのもの。わざわざフエに来て
子どもたちのために仕事作りを考えてくれるというのは
本当にありがたいことである。私とほぼ同年代の
「団塊の世代」。花田社長は「お金儲けは、もういい。
これからの人生、人のために何か役立つ仕事をしたい、
人を育てたい」「小山さんのテレビ番組を見て、こんなことを
している日本人がいるのを知り、感動し支援をもし出た」と話し
ていた。
午前9時、バオミンホテルへ。暫時休憩し、「子どもの家」へ。
午前9時半、「子どもの家」着。
セン委員長へ記念品の贈呈。子どもたちに「三色ボールペン」
を。
セン委員長・私・バオミンベトナム事務所長と懇談。
「子どもの家」支援、子どもたちの自立支援、財政支援の
プロジェクトについて詳細説明。
その後、私の案内で「子どもの家」の各施設を視察。
●コンピュータ教室でコンピュータの研修をする子ども
午前11時、子どもたちと一緒に昼食を摂る。
●子どもたちと食事をする花田さん
●子どもたちにも「ホワイトバンド」が流行っていた。
子どもたちに「このバンドはどんな意味があるの?」と
聞いてみた。子どもたちは「2006年ワールドカップ成功」
のためと言っていた。ホワイトバンドが明らかに
ファッションの一つと堕してしまった一例を見た思いがする。
何事も当初の意図や気持ちは時間の流れの中で変質
してしまうものである。私たちの活動も同じ。
「初心忘るべからず」
午後12時過ぎ、「子どもの家」を後にする。
花田さんはバオミンホテルで休息。
私は昼寝。先週は体調を崩した。途中強行日程でハノイへも
行った。まだ完全体調復活とは行っていない。
時間がある時は、とにかく体を休めるだけ。
午後2時過ぎ、5通のメール受信。4通のメール送信。
今後のベトナム事務所体制、5月以降、7月8月9月の
訪問者ラッシュ時の日本料理店の体制などの案を考える。
午後5時、花田さん、ラームさん、私で「ボイチャンさん」の
画廊開所式に出席。ボイチャンさんはベトナムで有名な
フエの作曲家「チンコンソン」とも知り合いの画家。
今日はこの画家の招待で自宅兼別荘にある画廊のオープニング
セレモニーに参加。アクセサリー会社の花田さんが
籐・漆などの作品を見たいとの希望があったため。
フエ市内から車で20分。ティエンアン山に麓にある
閑静な別荘地。5千㎡(1500坪)の敷地の中に北部山岳地帯
から持ってきた「少数民族」の高床式住居を住まいとしている。
いくつかの施設もある。庭はきれいに手入れされている。
フエにもこうした『お金持ち』がいるのだと感心する。
ボイチャンさんの息子さんとも食事をしたことがある。
アメリカの高校から大学に進み、大学卒業旅行で
海に行き、友達がおぼれかかったのを助けようとして
自分が水死してしまった。卒業式前に一度フエに帰国
した。その時、食事をしたのだが、明るく聡明な男の子
だった。その後、チャンさんはしばらく再起できずに
いたようである。
有名なベトナムの画家が描いたボイチャンさんの若い頃の
肖像画
5000平方メートルの敷地には池があり、あずまやが建っていたい。
ギャラリーにはフエを初めベトナムの画家の各種の
絵が飾られていた。ボイチャンさんの絵もいくつかあった。
広大な庭では多くの招待者がパーティーを楽しんでいたい。
花田さん・ラームさんとしばらく飲んだり交流したりする。
途中、花田さんの希望で漆(うるし)細工、籐工芸などの工場、
作品を調査。
午後8時過ぎ、パーティーを退出。
三遊亭円楽師匠が引退すると言う。
私が小学校から中学の頃、テレビで売り出した。
「星の王子様」。師匠の三遊亭円生が「落語協会」から脱退
した。円楽も師匠と共に脱退し、そのまま円楽党などを結成
し、独立独歩の生き方をした。落語協会を共に脱退した
人が直ぐに復帰したのとは、対照的だ。こうした「筋を通す」
生き方に共感を覚える。
今日行われた「注目選挙」の多くで自民党・公明党推薦
候補が落選した。
岩国市長選挙で「国の米軍移転計画の撤回」を主張した
井原氏が当選した。沖縄市長選では東門美津子氏(63)
(無=民主・共産・社民・自連合推薦)が米軍嘉手納基地の
自衛隊の共同使用に反対を主張して当選。
千葉衆議院補欠選挙では民主党が当選した。
広島県東広島市長選で自民党の中川政調会長の二男が敗れる。
自分の息子を跡継ぎの政治家にする「性事家」議員。
中川氏も自民党の山崎拓氏と共に「女性スキャンダル」に
まみれた。二号さんを囲って、寝室でスピッツを抱いた二号
さんの写真が暴露された人物。この種の人物に何ら期待する
気持ちはない。親の地盤で政治家になるなどという道を
賢明な息子は拒否するものである。この息子はそうでは
なかったようだ。安部晋三、麻生太郎、谷垣、福田など
「親の七光り」にすがろうとする情けない人物と同じ系列。
期待はできない。
自民・公明候補が相次いで落選した。
世の中の流れが少し変わり始めたのか?
民主党の当選syは26歳だそうだ。だがほとんど期待できない。
社会で苦労もしていない議員は結局メール問題の永田議員の
ような無様なことしかできない。若いから良いともいえない。
小沢一郎代表しか選択先がない選挙もむなしいものである。
自民党と呉越同舟。異床同夢。野党と与党の差異がほとんどない
選択肢は民主社会を崩壊させる。
明確な対立軸があって初めて選択と民主政治の基礎ができる
というものである。
2006年04月22日
ベトナム事務所員会議
晴天 暑い
午前8時半、ベトナム事務所員会議。
(ミン)先週はベトナム事務所員会議ができなかった。
先週と今週の反省、来週の計画などを報告して欲しい。
(ラーム)4月24日、アクセサリー会社の花田さんをペンチ鋳造所
や漆、ラデン細工の工場へ案内するはずだったが
いけなくなった。ラームさん、小山先生、兄のタイさんに
行ってもらう。
(税田)全教千葉の松原さん注文の刺繍ができた。
ハンさんと話し合い、刺繍土産物店の給料を改善した。
基本的に工賃を上げた。最高で30%程度上がった。
最低1ヶ月55万ドン(4200円)、最高80万ドン(6千円)。
(中村)・4月7日、日本語学校ガイドクラスの総合テストを実施。
16人が合格し、7人が落第した。2人は観察中。
・今週から「復習クラス」を特設した。月水金。16人入学。
日本語の基礎を学ぶ。3ヶ月半。90時間のコース。
・4月24日、ガイドクラス実習。ミンマン帝廟等。
・4月27日・28日いんはダナン、ホアイン・ミーソン
のガイド実習をする。1泊。石岡先生、フーン先生と
私、17人の生徒が参加。
(フーン)特別クラスはガイドクラス不合格者。上級クラスよりは
良くできる。読み書き、会話が上手。
(ハン)スタディーツアーに参加した人からのお礼の手紙が
たくさんきている。翻訳し子どもたちに渡している。
毎週50通ほど来る。1ヶ月に200通。
(石岡)中級1に二人入学してきた。
(松下)中級2も4人増えて、21人から25人になった。
札幌VOの足立さんからメール。高校生のかまたさん
が「子どもの家」のフオンさんと日本語で文通する
ことになった。
(ミン)4月19日・20日とハノイへ行ってきた。
PACCOMと日新電機ベトナム工場。
日新電機にはチュン君とTY君を入社させたい。
入所希望者の家庭調査に行く予定。
4月23日からアクセサリー会社の花田さんが来る。
ベトナム事務所員会議終了後、ソン君の誕生祝いをする。
ベトナム事務所員全員の寄せ書き、シャツのプレゼント
午前10時、フエ経済大学生のメンさんと懇談。
メンさんは「子どもの家」で11年間生活し、昨年8月に
フエ経済大学に入学。先日、正式に「子どもの家」を
退所し、ラームさんの実家での下宿生活に入った。
その後の生活の様子、問題点、希望などを聞いた。
オートバイで通学しているが、ガソリン代が急騰し
2倍になったので、ガソリン代が足りなくなったとのこと。
学用品代などの詳細を打ち合わせし、学業に支障が
出ないよう話し合った。メンさんは、大学生・下宿生活を
エンジョイしているようだった。食事は下宿で3食食べている
とのこと。
午後2時、日本料理店の子どもたちがやってきた。
日本料理店の掃除、料理の練習などに励んでいたい。
4月24日・25日は午後6時半から日本料理店を開店する。
4月28日はトゥア・ティエン・フエ省の幹部の皆さんを
日本料理店に招待し、日本料理店の宣伝を行う。
5月1日からいよいよ本格的に日本料理店を開店する。
5月1日からしばらくは、午後6時半から午後9時まで。
その後は、午前11時から午後2時。午後6時半から
午後9時までの営業となる。
●最近は調理実習にも熱が入るターオ君。ターオ君の
調理を指導する中村先生
警備員のリー君。部屋の掃除など雑用を率先してやっている。
午後6時。実習した料理を関係者全員で試食する。
こうして10人という大勢で食べると美味しい。
子どもたちも食事の楽しさを味わっているようである。
夕食のハイライトは、中村先生特製の「カボチャサラダ」。
これは美味しい。おつまみにも良い。ご飯にも合っている。
夕食の終わりごろ、大塚さんがフエの名物お菓子「フーテー」
の手作り実習に行ってきたとのこと。フーテーの試作品を
もってきてくれた。暫く懇談。
2006年04月21日
フエ師範短大学長訪問
晴天
午前中、50通のメールに目を通す。20数通の返信メールを書く。
午後2時、ラームさんと懇談。今後の諸問題について。
午後4時半、フエ師範短大学長を訪問。娘さんの日本語通訳の依頼。
5月10日から20日までNPO法人「ACCL」(アジア・チャイルド
・ケア・リーグ)の招待でフエ中央病院小児科医長が訪日する。
日本の小児がん関係者・小児科関係者との懇談、関連病院の
視察などを行う。その際の通訳を学長の娘さんに依頼した。
学長の娘さんは東大大学院で化学の勉強をしている。
フエ中央病院医長の訪日期間中の病院などの視察・懇談の
際の通訳を頼む。学長は「娘に聞いてみる」とのこと。
うまく時間が取れれば良いのだが。学長の娘さんは同じ東大で
勉強しているフエの男性と結婚する。4月30日にフエで結婚式を
行う。学長は結婚式の招待状をくれる。参加する予定。
午後5時半、ミンさん、税田さんとベトナム事務所運営について
懇談する。
午後5時半、1ヶ月間の仮採用だったNIさんの正式採用を
伝える。NIさんも喜んでいた。5月から毎月50万ドンの
月給を出す。下宿を借り、給料で生活できるようにしたい。
午後6時、大塚さんの指導で子どもたちは午後2時から
日本料理の勉強。今日は天ぷら、香の物などの試作。
子どもたち、日本人スタッフ、大塚さんと夕食を摂る。
午後7時、子どもたちは「子どもの家」へ帰る。
リー君、ターオ君は二人で下宿へ帰る。
その後、日本人スタッフと大塚さんで諸問題を遅くまで
話す。
何とか体調が回復しつつある。
2006年04月20日
日新電機ベトナム工場視察;越外務省PACCOM訪問
曇り。23度。
朝8時、ミンさんとホテルで朝食。フォーを食べる。美味しい。
野菜、果物をたくさん摂る。
午前9時、日新電機から車が迎えに来るはずだったが、来ない。
日新電機ベトナム工場はハノイ市内から24キロにある。
郊外から市内に入る道が大混雑のため1時間半遅れて
午前10時半にホテルへ到着。日新電機の車でハノイ郊外の
工業団地にある工場へ。この工業団地には50社の会社が
工場などを作っている。現在、日本の会社は日新電機だけ。
韓国・マレーシアなどの海外からの工場が多いとのこと。
日新電機は京都にある一部上場企業。日新電機の
常務さんがインターネットでJASSを知り、連絡。
昨年、「京滋YOUの会」講演会に来て頂き懇談。
その後、常務さんや関連企業の社長さんたちが「子どもの家」
を視察。交流が始まった。皆さんは個人として私やJASSを
支援してくれるとのこと。常務さんや日新電機ベトナム工場長
が「子どもの家」を視察された時、「子どもの家」の子どもたち
で仕事をして自立したいのなら日新電機ベトナム工場で
受け入れてくれるとの話があった。その後、ベトナム工場長と
何度も連絡を取り合い、当面2名の「子どもの家」の子どもを
受け入れても良いとの返事があった。
今日はバオミン・ベトナム事務所長と一緒にベトナム工場を
直接視察し、「子どもの家」の子どもたちがどんな仕事をするのか?
子どもたちで出来る仕事なのか? 労働条件は? 下宿は?
将来性などを直接私の目で見たいとの気持ちで視察した。
自分の子どもたちが仕事をする場所である。「適当に?」と
言う訳にはいかない。大変でも自分で調べてから子どもたちを
送り出したい。
工場の敷地は3万3千㎡、工場は1万㎡。大きい。
現在、64人の従業員を採用し、5月初旬の工場開始に向けて
準備中。今年一杯に200名ほど。数年以内に500人の従業員を
採用する予定とのこと。
日新電機の仕事は、当面は「はこもの」を作るとのこと。
配電盤、溶接や電気加工などの仕事。
「子どもの家」の子どもたちの給料は見習い期間の
2ヶ月は50万ドン(4000円)。その後は75万ドン(6000円)。
下宿は近くにあるとのこと。家賃は月10万ドン程度。
昼食は工場が無料で提供。朝食と夕食代で30万ドン程度。
家賃と食事で50万ドン。25万ドンは貯金や小遣い。
75万ドンは公務員の給料にほぼ近い。
「子どもの家」の子どもたちの就職をことを工場長にお願いし、
工場内を視察。工場の中には食堂や喫茶店もある。
工場視察を終え、ハノイ市内へ車で送ってもらう。
市内の大衆食堂でコムディア(ご飯の上に野菜・肉などを乗せる)
を食べる。
午後2時、ベトナム外務省の海外NGO管理機関「PACCOM」
を訪問。アジア・パシフィック地区局長・日本主任と面会。
ベトナムで海外ボランティアをするライセンスの継続発行を
受ける。更に海外NGO最高ライセンスの発行について
協議。現在、日本のNGOでは、JVC,セーブザチルドレン、
もう一つ。3つのNGOしか受けていない最高ライセンスを
もらうことになった。フエに拠点を置いての最高級ライセンス
発給は異例。13年間のフエでの活動を高く評価する、
ベトナム大統領表彰、フエ市名誉市民など長年の実績を
知っているので、申請後、3ヶ月以内に最高ライセンスを
発給することになった。
PACCOM事務所には、ベトナム全土の地図が貼られていた。
PACCOMからライセンスを受けている海外NGOの名前が
都市毎に記入されていた。ハノイ、ホーチミン市に集中していた。
フエは「JASS」だけだった。
午後3時過ぎ、外務省PACCOMを出て、ハノイのノイバイ空港へ。
2時間ほど、空港内の待合室で「寝た」。午後5時20分、
フエへ向けて出発。午後6時20分、フエ着。
ハノイの街は「ベトナム共産党第10回大会」一色。
町中に横断幕「熱烈に祝す。ベトナム共産党第10回大会」。
デパートにも何十枚の共産党大会のポスター。学校もホテル
も全ての機関が大会一色に塗られていた。午後1時半頃、
大会代議員(1000人程度)を乗せた大型バスが町を通る。
前後をパトカーで護衛され。聞くところによれば、代議員は
大会中、ホテルに缶詰のされ、大会会場の行きかえり
は警察の護衛付きとのこと。
フエに戻り、赤い横断幕が極端に少ないのでほっとする。
町中に赤い横断幕が張り巡らされると「興奮」気味になる。
今回のハノイ行きは、ベトナム事務所での活動が今後、一層
強化されるよう多くの「権限」や「特例措置」を受けられる
PACCM最高級ライセンスの取得の確約を受ける事。
日新電機に「子どもの家」の男子を就職させるために
工場視察、労働条件や生活条件などの実態を見る事であった。
1日半という短い時間であったが、バオミン・ベトナム事務所長
と精力的に視察・懇談を進め、大きな成果をあげて帰宅。
フエ空港から市内までのタクシーなかで「フエに戻ると
ほっとするね」と話し合った。私も心身ともに『フエ人』になった。
フエは30度とのこと。しかし、私には寒く感じた。
かなり疲れた1日半だった。
50通近いメール受信。今日はさすがに読む意欲なし。
明日、精読し、返事を書くことにする。
2006年04月19日
ハノイへ
晴天。
午前中、K大学のインターンシップの日程案4種類を作る。
8通のメール送信。
午後12時過ぎ、バオミン・ベトナム事務所長と一緒に昼食を
摂ってフエ空港へ。午後2時40分フエ発ハノイ行きの飛行機で
ノイバイ空港へ。
午後3時50分。ハノイのノイバイ空港到着。
午後4時半、ハノイ市内のホテル着。ハノイの知り合いAさん
と懇談。ベトナム外務省のNGOライセンスをグレードアップ
する相談。
午後7時、チャーカーへ。
今日のハノイは雨。寒い。体調を崩したままのハノイ行き。
かなり疲れた。
(デジカメを忘れたので写真添付が出来ない。残念)
2006年04月18日
体調を壊す
晴天
昨日から体調を壊す。寒気と疲労感。
何とか1日、頑張る。
今日1日で46通のメール受信。20通の送信。
毎日、20通前後のメールを受信する。受信したその時に
返信しないと、メールが溜まってしまい翌日になったら
送信不能となる。
「静岡市邦楽ボランティアの会」のフエ来訪関連の書類作成。
K大学のインターンシップの日程案作成。
午後2時、昨日ベトナム事務所にやってきた在宅支援の
フエンさんが日本料理店にやって来た。
日本料理店スタッフに紹介。
新人の日本料理店スタッフ(イエンさん・フエンさん)
ターオ君、いんげん豆を調理。
午後6時、日本料理店スタッフ・日本語教師で夕食会。
●今日入ったばかりのフエンさんも一緒に夕食
「同じ釜の飯を食う」という言葉がある。
日本料理の作り方、接客方法なども大事だが、こうして
「仲間意識」を育てることも大事な事だと思っている。
日本料理店を成功させるためには、みんなで協力・共同
していかなければ仕事はできない。
時間はかかるが、人間としての接点をたくさん作り、
相互理解をしながら、共通の目標に向って協力して
行くことが必要。
午後6時40分。子どもたちは夕食を摂って帰宅。
店長のホンさんの病気療養。調理のフオンさんの退職。
日本料理店の店長と調理主任が一気にいなくなってしまい
当初の日本料理店の予定が大幅に狂ってしまった。
大塚さんや日本語教師の皆さんの協力を得てこの数週間
日本料理店の建て直しに取り組んできた。
新しく調理主任にイエンさん、接客の見習いにフエンさんを
加え、オアシスの会の大塚さんに当面全体的な
コーディネートをして頂き、何とか日本料理店を再開したい。
5月1日を期して、午後6時半から「夜の部」を再開する
ことにした。
午後7時過ぎ、部屋に戻る。頭痛と倦怠。何もする気力が
起こらない。
明日からベトナム事務所長のバオミンさんとハノイへ行く。
男子の就職先の一つである京都日新電機ハノイ工場の
視察打ち合わせ。NGOライセンスの更新のためベトナム
外務省のPACCOM事務所へ。ハノイのNGO関係の
Aさんと懇談などいくつかの仕事がある。この体調で
明日からのハノイ行きの体力が持つか不安。
今日は早めに寝る。
2006年04月17日
トゥア・ティエン・フエ新聞取材
曇り・寒い
昨日から体調不良。悪寒。吐き気。風邪の様相。
午前8時半、バオミン・ベトナム事務所長と打ち合わせ。
午前9時、在宅支援のフエンさんがベトナム事務所へやってくる。
「日本料理店で仕事をさせて欲しい」とのこと。
13年前、フエンさんは兄と弟がチーランン通り「子どもの家」
に入所。チーランン通り「子どもの家」は私が最初に作った
「子どもの家」。兄と弟の自宅を訪ねてフエンさんの家へ。
王宮の中のお堀のそばに建てられた「違法住宅」に住んでいた。
それから今日まで在宅支援をしている。母親は死亡。父親は
大病をして療養中。5人兄弟。現在は、夜間の単位制のような
高校の3年生。6月に卒業予定の20歳。
明日から日本料理店で「仮採用」することにする。
午前10時。「子どもの家」へ。セン委員長と18歳になった
男子の就職問題で話し合う。
京都の日新電機ベトナム工場で2人位なら採用してくれるとの
話がある。現在、18歳以上で就職が決まっていない子どもたち
を洗い出す。一度、ハノイにある日新電機ベトナム工場へ行き
条件や労働内容などを実際に見てくることになった。
午後2時半、トゥア・ティエン・フエ省共産党機関紙
「トゥア・ティエン・フエ新聞」の取材。
この13年間の私のフエでの取り組みの取材。
日本料理店を作った意味などの取材があった。
その後、日本料理店へ行き子どもたちの仕事の様子
を取材。ニーさんとターオ君にインタビュー。
何枚かの写真を撮る。
午後3時半、日本料理店に入った料理のイエンさんを紹介し
日本料理店の今後の運営などを大塚さんや子どもたちと
話し合う。
18歳以上で正式採用した子どもたちは、下宿を借りて
自立するよう50万ドンの給料を出す事にした。
下宿代が15万ドン(千円)から20万ドン(千2百円)。
食事は日本料理店で1食から2食は摂る。外食が1食程度
で15万ドン(千円)。小遣いと身の回りの雑費15万ドン。
「子どもの家」から通っている18歳未満の子どもたちは
30万ドンの手当て。10万ドン(600円)は小遣いとして
渡し、20万ドン(1200円)は「子どもの家」のセン委員長
に預け、個人貯金通帳に入れてもらうこととした。
リー君・ターオ君も50万ドンずつの給料を5月1日から
あげる事にした。二人で下宿代を折半し、給料の範囲内
で計算して生活するよう話す。ギャンブルは絶対にしないよう
強く言う。
話し合いの後、リー君は大塚さんの所へ行き、握手し、
給料がもらえるようになった、嬉しいと言っていたそうだ。
21歳のNIさんも下宿し、自活するように言う。
子どもたちに給料を出すようになると、頑張って日本料理店
で収益をあがなければならない。急に財政が気になりだした。
話し合いの後、調理実習に入る。今日はターオ君も調理室に
復帰。
午後6時、調理実習の料理をみんなで賞味・批評しながら
会食。
リー君・ターオ君兄弟も日本料理店に復帰しにぎやかと
なった日本料理店の夕食会。大勢で食事をすると美味しい。
この兄弟との付き合いも長い。10年以上。紆余曲折は
あるものの少しずつ、人生についての自覚が出てきた
ように思われる。
●豪華な今夜の夕食。一人分。
今日は1日、立っているのがつらかった。
少しでも時間があれば寝ていた。
投稿者 koyama : 21:57 | コメント (0) | トラックバック
2006年04月16日
休日
終日雨。
午前8時、東京の支援者から電話。
4月2日にハンさんを通して送ったはずの資料と手紙が
未だに届いていないとのこと。FAX番号を聞いてベトナム事務所
から送信する。
ベトナム事務所から郵送したはずの手紙が東京に届いていない
という理由は何なのか? 不可思議。
「階級社会=グローバリズムと不平等」を読む。
3月末に「子どもの家」を訪問したベテラン勢の多いスタディーツアー
の代表からメール。参加者からの感想を頂いた。
多くの皆さんが帰国後、発熱・下痢・体力消耗という現象が
でたとのこと。旅行中、皆さん、相当無理をしたのか?
13通のメール受信。9通のメール送信。
===========================
4月18日~25日まで「ベトナム共産党大会」が開催される。
今回の大会では、共産党員が企業の社長になって良いとの
規約改正案が提案される。
ハノイの交通大臣が辞任をほのめかし、警察の
捜索を受けようとしている。容疑は汚職。
問題の発端は、ハノイの建築会社の社長がイギリスの
インターネットギャンブルサイトでギャンブルをし、8億円
(噂による)もの大金をすってしまった事件である。
一般国民の年収が4万円程度のベトナムで8億円と
いう法外な大金をギャンブルに使えるベトナム人が
いるということも驚異だが、8億円を失っても本体の
お金がまだあるというベトナム国家主導大企業の実態
にも驚いた。
このハノイの大企業の建築会社は交通大臣が事実上
経営している会社である。名義だけ家族・親戚とし
実際には交通大臣の個人経営の会社である。
その会社の社長が8億円ものギャンブルをした。
数週間前にその会社のフエ支店長が逮捕された。
この建築会社フエ支店はフエの中心街の主な土地を
買い占めている。
ハノイ本社社長が各地の支社長を集め、大金をばらまき
「本社社長が逮捕されないよう各地の警察に工作を
するよう」指示。フエの支店長がハノイやフエの警察に
事件のもみ消しを依頼したことが発覚・逮捕。
何故、交通大臣が事実上経営している建築会社の
社長が8億円のギャンブルが出来たのか?
以下、そのカラクリである。
ベトナムは海外からのODAで成り立っている所の
ある国である。
多額のODA支援金が入ってくる。ベトナム政府高官に取って
これらODAは利権の一つである。
海外からのODAの多くは道路工事、トンネル、高速道路
建築支援などである。
交通大臣は、海外からのODA資金で道路工事やトンネル
工事などする際、建築会社を割り当てる権限を持っている。
数キロごとに工事道路を建築会社に割り当てる。
その際、割り当てた建築会社に工事費の10%から20%
程度の上納金を求める。数億円、数十億円のODA支援金
で道路工事は行われる。10%でも数千万円から数億円の
上納金となる。ベトナム全土に張り巡らされた道路網。
この工事全てで交通大臣は上納金を取っていた。
莫大な上納金である。その一部がハノイの建築会社の
本社社長に流れ、8億円のギャンブルとなった訳である。
一党独裁国家の高級共産党幹部の「錬金術」である。
特権階級と化した共産党幹部が、その特権を利用し、
莫大なお金を私物化している。これはハノイ中央政府
だけではない。地方行政・共産党幹部も同じである。
一度に8億円もの大金をギャンブルですっても何ら困らない
共産党幹部がいれば、私たちが付き合っている庶民は
1ヶ月2000円、3000円のお金がなく、「子どもの家」に
子どもたちを入所せざるを得ないでいる。
今まで共産党の規約で共産党員は企業の社長には
なれないとなっていた。それを認めれば、ベトナム共産党
が目指す社会主義とは相容れないからである。
資本の論理に則り収益を上げる大手大企業の社長に
共産党員がなるということは、ベトナム共産党がそもそも
社会主義をめざすもものではない、との理屈もなりたつ。
その証拠に今回の規約改正には、多くの関係者が
「異論」を述べている。ベトナムの新聞には様々な異論
が掲載されている。珍しいことである。
中国の国営大企業が日本のトヨタなど大企業以上に大きな
企業となり、その社長が
共産党員であるという現実を見ると、社会主義ではなく
国家資本主義という人もいる。あながち的を得ていないとも
いえない。ベトナムも遅ればせながら、その路線に
追随するようである。
4月18日からの共産党全国大会で
公式に共産党員が大企業の社長になっても良いとの
規約改正が行われれば、公然と共産党幹部が特権を
利用し、ぼろもうけをする体制が制度化される。
そうなれば、もはやベトナムは社会主義でも何でもない。
共産党主導の国家資本主義である。
この13年間、ベトナムに住んでいて、これら共産党の
多くの人々は、ストリートチルドレンや障害児、生活困難
な家庭の子どもたちにほとんど興味をもっていない。
彼らの興味は海外からの資本導入。海外資本との
提携。ODA/ボランティアなどからの資金援助である。
ストリートチルドレンの関係者もストリートチルドレンや
障害児を利用して自らの出世か財政的支援金を
もらうことを目的としていると断言できる。
ごく一部、良心的な人々もいる。私がフエで
協力・提携している人々の一部である。
そうした良心的な共産党の人々がいることで、わずかに
今の制度が保たれているかに見える。
「社会主義」であれ「資本主義」であれ、弱い立場の
人間を無慈悲に扱う組織・システムには憎悪を覚える。
わが小泉首相も「社会に格差があっても良い」と言っている。
ポスト小泉と称される人間も異口同音に「格差はあっても良い」
と言っている。あなたたちにそうした発言をする資格はない
といいたい。あなたたちは、生まれた時から格差の苦しみに
合わない生い立ちなのだ。小泉首相は祖父(国会議長)・父
(防衛庁長官)の子どもである。麻生氏がどんなに立派な
お説教を垂れても「あなたのおじいさんは吉田茂首相です」
といいたい。本当に格差の最底辺で生活もしていないで
偉そうなことを言って欲しくない。
安部官房長官は祖父がA級戦犯の岸首相、父が外務大臣の
安部晋太郎氏である。谷垣氏も父親は自民党の谷垣衆議院
議員である。福田氏も父親は福田首相。
「格差があっても良い」などと言っている人たちは、誰もが
格差社会の中で苦しみもがいていた実体験のない人々である。
私はこうした人たちの言う事を信用していない。
2006年04月15日
終日雨:日本語学校ガイドクラスは実習
雨。寒い。
ベトナム事務所は今週の土日を休みとした。
皆さんも長期間のスタディーツアー等の受け入れで
相当疲れているため。
朝、10時。電動自転車で雨の中、コムデイア(ビンサン)
を買いに。バオミン・ベトナム事務所長に紹介してもらった
店へ。トンチンカンホテルからは多少遠いところにある。
ご飯の上に野菜、肉、油揚げの煮物などを載せて
8000ドン(60円)。安い。美味しい。
半身低温浴30分。午前11時「ブランチ」。
終日、読書。この2ヶ月あまりに忙しく、読書をする余裕すら
なかった。
日本滞在中に買って来た「階級社会=グローバリズムと
不平等」(ジェレミー・シーブルック著:青土社)
翻訳もので読みにくいが翻訳はしっかりしている。
活字が小さく、読みにくい。数年前なら簡単に読めた
活字の大きさなのだが・・・・。
「階級」という言葉の現代的な意味。グローバリズムの
中で階級が一国の中だけの概念ではなく、世界的な
規模での階級ができている事。読み終わるまで数日必要。
午後5時、雨の中、ドンバ市場へ買出し。
駐車場に電動自転車を置く。帰りに駐車料金を取られる。
自転車は500ドン。オートバイは1000ドン。
どちらの料金を取るのか興味津津。オートバイ料金を
とられる。やはり「自転車ではなくオートバイだったのだ」。
豚肉、チャオ・バイン・カイン2キロ、ネギ、チャートゥーを
買う。
夕食は冷たい小麦粉で作ったうどんを豚肉と醤油のつけ汁
で食べる。フダビール2缶。
ベトナム事務所は休みだが、松下先生は「子どもの家」で
日本語クラス、石岡先生は日本語学校へ。ご苦労様。
午後8時。NHK海外衛星放送。NHKのチーフディレクターが
また千数百万円の架空出張でお金をごまかしたという
ことを報道していた。アナウンサーなどがペコペコ謝って
いたが、橋本会長が「受信料支払いに法的拘束力かける」と
言っていることには、全く触れずにいる。
自己反省もしっかり出来ない、反省の体勢も作れないで
受信料金だけはしっかり取ろうなどという橋本会長の姿勢
自身を反省しなければならない。口ばかりの反省には
何の意味もない。
=============================
日本語学校ガイドクラスは7月の卒業に向けて
最後の追い込み。観光ガイドの実習に入っている。
4月6日には王宮へ行き、ガイドの実習を行った。
以下、ガイドクラス担当の中村先生の報告。
4月6日(木)、当日の内容
8:30 午門前に集合。
ラームさんのガイドで研修(午門、太和殿、世祖廟など)
11:00 昼
12:00 午後の実習:生徒が自分でガイドをする(先生がお客さん役)
15:30 終了
当日の参加者は
ガイドクラスの生徒17人(女子14人、男子3人)
ラームさん、ガイドの担任(フーン、石岡、中村)です。
当日の様子(中村先生の感想)
生徒は日本語のガイドをはじめて聞いたので、かなり刺激になったようだった。
また、ラームさんのガイドを聞いて、簡単に説明するところと、詳しく説明するとこ
ろを知った。
自分達がもっと勉強しなければならないことも気がついたようだった。
ガイドのメリハリが少しわかったようだった。
今後もこのような実習を続けて、実践的な授業をしていきたい。また、生徒の自信に
も繋げたい。
今後の実習の予定。
4月24日(月) 7:30~ ミンマン帝廟、トゥドゥック帝廟
【生徒、ラーム、フーン、石岡、中村、松下】
4月27日(木)、28日(金) 7:30~ ダナン・ホイアン・ミーソン遺跡の
見学 【生徒、フーン、石岡、中村】
5月2日(火) 博物館の見学 【生徒、フーン、石岡、中村】
5月3日(水) カイディン帝廟、ホンチェン殿の研修、実習
【生徒、ラーム、フーン、石岡、中村、松下】
今後も実習が目白押しになっている。
4月7日の『大総合復習テスト』について
ガイドクラスは4月7日に大きなテストをして、今までの出席と提出物も点数化して
生徒に結果をわたしました。全部で500点満点です。
筆記テスト200点(作文、漢字、聞き取り、文法)、会話テスト100点、出席率
100点、提出物100点
このテストで、250点以下の7人の生徒(男子6人、女子1人)は不合格になりま
した。これに対して、生徒からは異議、意見がなかったので、もう一度、日本語の復
習を1からやり直すクラスに入ってもらいます。
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2006年04月14日
フエ市人民委員会へ
曇り・小雨。寒い。
急に気温が10度近く下がる。体調不良。寒気。
午前9時、日本料理店の厨房スタッフを新たに一人新規仮採用。
店長(ラームさんの妻)の従兄弟。来週の月曜日から仮採用。
日本料理店のスタッフは「子どもの家」の子どもたち6人を
中心にホン店長(全体の責任者)と厨房責任の大人が必要で
ある。先日までフオンさんが厨房の中心にいたが、諸般の事情で
「日本料理店のしごとを辞めたい」との申し出。
ホン店長は体調を崩し、最低1ヶ月間ほどの自宅安静が
必要となった。料理の中心にいたフオンさんも退職。
こうして現在、日本料理店では子どもたちは頑張っているが
大人のベトナム人が誰もいなくなるという異常事態に陥っている。
オアシスの会の大塚さんや日本語教師の努力で何とか
『予約客』の対応は出来ているが、毎日開店する力はない。
緊急措置として、ホン店長の従兄弟(32歳)を迎えることとなった。
4月一杯は予約のお客を中心に日本料理店を運営。
子どもたちの教育・力量強化、更に子どもたちを採用するなどの
人的な補強をしながら、早期に夕方の日本料理店開店をめざし
たい。
とにかく、全てが素人で始めた日本料理店である。
子どもたちに力量をつけることが第1の課題。
第2が大人の関係者も含めてお客さんが満足する日本料理店
にすること。味、メニュー、サービス・・・・。
時間はかかるが子どもたちやスタッフとの話し合いを続け、
一人一人が自覚を持って日本料理店で働くような雰囲気を
作りたいものである。私の責任は、日本料理店が全体として
きちんと経営できるような人的条件・内容的条件などをしっかり
と作ることである。全てが「走りながら」、「問題を解決しながら」
「人を育てながら」進めていく「大きな挑戦の世界」でもある。
ピースインツアーやフエ中央病院小児科などへのメールや
関連文書の作成。
トゥア・ティエン・フエ省警察鑑識課から連絡。
「子どもの家」訪問者がフォンザンホテルへ泊まり、室内で
数万円のお金を盗まれた。急いでホテルを通して警察へ届ける。
トゥア・ティエン・フエ省警察鑑識課員が部屋に来て、
被害者の日本人夫妻の指紋を採取。財布とあわせて持ち帰る。
被害者夫妻は日本へ帰国。被害者の代理人として私が
フエ警察との折衝に当たる。今日、フエ警察鑑識課より
正式な回答が文書であった。被害者の指紋を採取し
証拠品として財布を預かったが財布にたくさんの指紋が
付いていること、また財布に油が付着し、指紋採取が困難な
ため犯人を特定することが出来なかったというもの。
フォンザンホテルの部屋担当者のローテーション表もある。
部屋に入れる従業員は特定されている。盗難の時刻も
特定されている。従業員の事情聴取もしていない。
日本人の指紋採取だけは異常に熱心にしていた。
両手10本の指全ての指紋採取。直接被害者でもない
奥さんまで両手10本の指の指紋を採取している。
どう考えても「日本人の指紋採取のために捜査にきた」と
としか思えない捜査の仕方。防犯よりも『治安維持』
が優先する警察のシステムである。
財布を日本へ持ち帰ることしか出来ない。
午後2時半。バオミン・ベトナム事務所長とフエ市人民委員会
外務部へ。
小雨が降ってきた。寒い。昨日まで真夏だったフエである。
今日は急に寒い。これでは体がもたない。
4月19日(フエ市)、21日(フエ省)の知事や市長、共産党委員長
などを招待し、日本料理店を知ってもらう会食会をする予定だった。
しかし、4月18日~25日まで「ベトナム共産党全国大会」が
ハノイで行われ、省と市の幹部20数名が代議員として参加。
日本料理店への招待は無理となる。
4月28日(フエ省)、5月初旬(フエ市)の幹部を招待することに
した。ニエン外務部長と省・市の招待者を誰にするのか
打ち合わせ。県警・市警本部長なども追加で招待することとした。
●フエ省招待者一覧
・省共産党委員長
・省共産党本部事務所長(共産党書記長)
・省知事
・3人の副知事
・省人民委員会事務局長
・省人民委員会総務局長
・同外務局長
・同観光局長
・文化局長
・省警察本部副本部長
・省対外連絡員会委員長
●フエ市招待者一覧
・フエ市共産党委員長
・フエ市長
・フエ市共産党副委員長
・3人の副市長
・フエ市人民委員会事務局長
・同副事務局長
・「子どもの家」委員長
・フエ市外務部員(20人)
・フエ市長秘書
・フエ市共産党本部組織部長
・フエ市共産党本部書記長
・フエ市警察署長
静岡フエ青年交流会館の庭の所有をめぐって隣の
文化会館ともめている。文化会館が勝手にわが静岡会館の
庭に建物を増築してしまった。静岡会館を作った時から
文化会館側は静岡会館は『自分たちのもの』と言って
はばからなかった。それから数年。様々な取り組みを行い
昨年、フエ市長や共産党委員長の
決定で静岡会館の建物は「越日交流委員会」(委員長ニエン氏、
副委員長小山)の所有と確定した。しかし、静岡会館の庭の
所有をめぐっては、未だに決着がついていない。
文化会館側はそうした「隙間をぬって」建物の増築を強行してきた。
卑怯な連中である。文化会館の館長は13年前にチーランン通り
「子どもの家」で私とストリートチルドレン支援を行った
ホーチミン青年同盟の「社会工作隊」隊長だった人物。
フランス・アメリカ、そして私から子どもたちの支援の3重取りを
した人物。ストリートチルドレンを利用して私利私欲をほしいままに
していた。私は、チーランン通り「子どもの家」をやめて、現在の
37グエンチャイ「子どもの家」を設立した。そんないわく因縁のある
人間関係でもある。
静岡会館の回りの塀を新たに作り直し、文化会館との境に
花壇を作り、大きな木を植え、文化会館と静岡会館との
境界をはっきりさせるよう、フエ市側、共産党側に働きかける
ことにした。これからかなり粘り強い努力が必要。
支援は利権と言っているが、本当に現地で活動していると
この種の問題のあまりに多いことに驚く。13年間、
私が一番して来たことは、この種の問題の「政治的な解決」
である。敵も出来る。しかし、それを恐れては、子どもたちを
本当に救うことは出来ない。支援を利権と考える連中との
間断のない闘いが続く。
日本から電話。日本のプチポアン刺繍の第1人者の久家道子さん
から。6年ほど前、お宅へ伺い懇談したことがあった。
ベトナムで「プチポアン刺繍」をしたいとのこと。
昨日から下痢状態。
夕方、体を休める。
午後6時過ぎ、税田さんから電話。日本料理店で大塚さんを
囲んで夕食会をする準備が出来ているとのこと。
有難いこと。早速、1階の日本料理店へ。大塚さんや
日本人スタッフの皆さんの手作り料理が出来ていた。
大塚さんがフエに来てちょうど3週間。早いものである。
日本料理店の中心となって子どもたちに調理を教えたり、
お客さんの対応などの仕事をしてくれている。
まずは生ビールで乾杯、したかったが、午前中業者が
生ビールの機械の故障を直していた。その際、生ビールの
電源を切って帰ってしまったらしい。生ビールは「生暖かい」
ビール。暫く飲んでいくうちに機械が正常化し冷たい生ビール
となった。
日本人スタッフの手作り料理はどれも美味しい。
生ビールのおつまみにもなった。
●大塚さん手作りのフランス料理「ドリア」(ライス・グラタン)
●あさりの酒蒸し
●えびの香り揚げ
●にがうりの揚げ物。塩味で食べるとビールのおつまみに最適
●じゃがいもの炒め物(歯ごたえがり美味しい)
夕食交流会は遅くまで続く。話題は非公開と決定。
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2006年04月13日
日本料理店反省会
晴天
午前9時、ピースボート(42人)夕食会の反省。
ベトナム事務所員全員、日本料理店関係者。
4月11日に42人のピースボートの夕食を準備し成功させた。
今日はその教訓を今後に活かすため、関係者全員による
話し合いを行った。
(準備段階の反省)
・冷蔵庫が小さく少なかった。 クーラーボックスは
発砲スチロールに替えたい。
・子どもたちから。肉や魚を市場に買いに行ったが
大人がいないと相場が分からず買いにくかった。
・料理は全部で20種類あったが、30%程度は
子どもたちで作れるようになった。
これからも時間をかけて子どもたちが料理を覚えるよう
回りで配慮して行きたい。
(当日)
・箸袋が足りなくなった。
・厨房や倉庫の整理整頓が出来ていないので
どこに何があるのか分からなかった。
・厨房とバイキング会場との間の連絡がうまく行かず、
料理が足りなくなっても連絡が届いていない事があった。
・食器の「糸尻」が荒く、テーブルに傷をつけてしまった。
今後は、テーブルに布を敷いておきたい。
・生ビールを出す場所と生絞りジュースを出す場所が
同じだったので人が殺到し混雑した。今後は、
場所を変える必要がある。生ビールのジョッキを入れておく
小さな冷蔵庫を買いたい。
→食器や器具、衣類、布巾等の整理整頓の計画を作る
責任者に税田さんが指名された。
・ピースボートの多くの参加者からは「美味しかった」との
お褒めの言葉を頂いている。
・子どもたちが手書きの「飲み物券」を作ったが好評だった。
・バイキングなのでコップやお皿の汚れたものがテーブルに
たくさんあった。今後は、担当をきちんと決めて、汚れた
食器などを片付けたい。
●子どもたちの感想
・Tさん 厨房コンロの調子が悪かった。仕事に慣れて
自信をもって料理を作った
・Gさん 個室(掘りごたつ)の前にお客さんが脱いだ靴を
入れる「靴箱」を作ったら良いと思う。
・HNさん お盆がすべるので、熱い味噌汁をこぼしそうに
なった。
・Nさん 3月20日から仕事をしているが、大体仕事が
分かってきた。日本料理店を作ることには
まだ、自信がない。
・刺繍のコースターを置いたが、コップにくっついてしまった。
・おしぼり載せが、12個しかない。50個ほど欲しい。
・自分の仕事以外にも全体の仕事の進み具合も見ながら
臨機応変に仕事に取り組みたい。
ーーーーー
4月19日(水)午後6時~フエ市人民委員会20人を呼んで
日本料理店を紹介する。
4月21日(金)午後6時~トゥア・ティエン・フエ省人民委員会の
共産党委員長・知事など幹部20人を招待し
日本料理店を紹介する。
日本料理店反省会は午前11時まで2時間も続いた。
4月11日、42人という大人数のピースボートの皆さんを
迎えて、初めて大きなバイキング方方式による夕食会を
行った。今日の反省を次回のバイキングに生かしていきたい。
昼食はフエ師範大近くの「コムディア屋」。大衆食堂に
ある「テイクアウト」の店。ご飯の上に野菜炒め、肉、玉子焼き
などが乗って1万ドン(75円)。トンチンカンホテルの部屋で
食べる。数時間後、急激に腹痛を催す。ひどい吐き気と下痢状態。
何かにあたたったものと思われる。
午後3時過ぎ、ベトナム事務所でミン・ベトナム事務所長と
当面の問題について意思統一。
日本料理店では大塚さんと子どもたちがお店の大掃除。
午後5時半。日本料理店で子どもたちは調理実習中。
大塚さんの指導で『お好み焼き』、なす焼きなどの実習中。
今まで3食作ってもらっていた料理のフオンさんが退職。
昨日から朝食はトンチンカンホテルの掃除係りの
Tさんが作る。昼食は各自。午後、子どもたちが大塚さん
や日本人スタッフなどから家庭料理の作り方1品を実習し、
午後6時から子どもたち・日本人スタッフと合評会をしながら
夕食を摂る方式に変える。
●お好み焼き
●いかめし
●なす焼き
●子どもたち・大塚さん、日本人スタッフ全員で夕食合評会
投稿者 koyama : 20:53 | コメント (0) | トラックバック
2006年04月12日
ピースボート食事作り・昼食交流
晴天。気温39度(とミンさんは言っていた)
立っているだけで体中から汗が吹き出る。
午前8時、フエ省刑事警察本部へ。
トンチンカンホテルの部屋の掃除係りの女性が数年にわたり
私の部屋のかぎ付きの引き出しから2万ドル以上の会の
お金を盗んだ事件についての警察の聞き取り。
2004年9月に警察へ被害届けを提出。引き出しから
掃除係りの女性がお金を盗むビデオを証拠として添付。
それから1年半。未だに捜査は進展していない。
犯人の掃除係りの女性は証拠のビデオを突きつけられ
「2回盗んだ。1回目は100ドル、2回目は15万ドン(1000円)」
と自白。しかし、実際には20回程度の盗みを行っている。
会から子どもたちの生活費・スタッフ給料などを預かり
自室に持ち帰った。ベトナム事務所会計のハンさんに
渡す数日の間、部屋の鍵付きの机に一時保存。
5000ドル程度の会のお金から500ドル~1000ドル程を
抜き取っていた。私は盗られたことを知らずに封筒のまま
ベトナム事務所会計係りのハンさんに渡す。
「先生500ドル足りません」などど何度言われたことだろう。
私はお金を盗まれたとは夢にも思っていなかった。
500ドルた足りないということは、私がどこかに置き忘れたのか?
などと思い、何日も部屋の中やバッグ、スーツケースの中
などを探し続けた。年齢的なこともあり、結構忘れることが
多いので「盗まれる」ということは、「想定外」だった。
結局、盗まれたお金は会のお金なので、全額私が返済する
こととなった。
一昨年、隣の部屋(日本人スタッフ)でも数十万円相当の
お金がなくなった。この時点で私は始めて掃除係りの
女性を疑った。この女性は、1995年、私が「日本の警察の
スパイ」との容疑でミニホテルに軟禁されていた時の
ホテルの掃除係りをしていた。その後、ラームさんが
トンチンカンホテルの掃除係りに採用。既に10年近くの
付き合いがあり、「真面目な係りの人」と思っていた。
ラームさんと相談し、私の部屋の戸棚の中にビデオカメラを
設置し、掃除の女性の様子を撮影。撮影した翌日に
「手馴れた様子」で鍵を隠してあるある場所から鍵を取り出し、
手早く机をあけ、お金を盗んでいる所が写っていた。
1年半前に警察の告発し、事情運聴取もされていたにも
関わらず、未だに起訴するかどうかさえ決まっていない。
ベトナムでは7000円以上(100万ドン)の盗みは
懲役刑となる。掃除の女性は100ドル(150万ドン)の
盗みを自白している。実際は2万ドル以上の盗みだが。
今日は犯人の掃除の女性と私が対面させられた。
盗みのビデオを見せられ、掃除の女性は「ビデオで
お金を盗んでいるのは私です」との調書を取られ、
ビデオの盗みの場面を指差し写真を取られていた。
私は「私が撮ったビデオに間違いない」との調書を取られた。
刑事警察の言い分。本人は100ドルと15万ドンの盗みを
自白している。小山さんは起訴して欲しいかどか意見を聞きたい
とのことであった。
警察は、2時間にわたり私の私の活動、住所、13年間の
取り組みなど「根掘り葉掘り」聞いてくる。
彼らの目的は、盗み問題を解決
することではなく、この機会に私を徹底的に調査し資料を
作ろうとの姿勢がミエミエ。お金の盗難とは全く関係ない
ことを事細かに聞いてきた。
ベトナム警察の本質を見た思いがする。刑事警察は
本質的には「治安・政治警察」である。国民の願っている
盗難防止などには、熱意がなく、治安対策が異常に
最優先されている警察機構となっている。
その証拠にこれだけ明白な証拠を突きつけた事件ですら
告発してから1間半も手をつけていないことをみれば、
本質が分かると言うものである。
刑事警察は、「外国人事件が起こるとフエ省警察の
ハノイ警察本部からの評価が低くなる。出来たら
告訴したくない」との姿勢が彼らの言葉の端はしに
にじみでていた。一党独裁国家の警察の本質は、
国民の悩み・犯罪の解決ではなく、一党独裁を
守るための「治安・公安」警察が主流の警察である
ことが体験的に分かった。2時間の事情聴取は
本当に疲れた。私は「本人が2万ドル程度の
お金を盗んだと正直に自白し、私に謝罪をすれば
起訴しないくても良い。しかし、2回しか盗んで
いない、100ドル程度の盗みという嘘の立場に
固執するなら起訴して欲しい」との意見を述べ
帰宅する。
掃除の女性は貧しい家庭の奥さんである。
以前、何度か自宅(貧しいあばら家)に呼ばれ、
家族に会ったことがある。自宅が泥の床だったの
でコンクリートを塗り直す工事費を出してやったり
したこともあった。旦那は、貧しさの中でギャンブルに
のめり込み、一度に100ドル・200ドルという大金を
かけたギャンブルを行っていた。年収300ドル(3万円)
程度の生活をしている家庭である。
掃除の女性は私や日本人スタッフから盗んだ大金を
夫のギャンブル代として使っていた。夫は仕事もしないで
お酒を飲み、掃除の女性を殴り、「金を持って来い」
と始終言っていたそうだ。ベトナムという社会の現実を
見た思いがする。大金を盗むと言うことは絶対に許される
ものではない。社会の最底辺で生きている庶民の実像
を見た思いがする。貧しさの中でお酒とギャンブルに
のめり込んでいく夫。夫の暴力と家族の生活のために
盗みを働く妻。どうしようもないベトナムの庶民の現実・
見えない生活がある。日本のテレビで放送される
ホーチミン市の「繁栄」。フエの「王宮料理」「宮廷音楽」の世界。
日本人の知らされるベトナムはその表面をなぜただけの
もの。13年間ベトナムに住んで、ベトナムという国の実像を
少し知った程度だという「私のベトナム認識」の度合いを
改めて知った事件であった。
39度の猛暑の中、2時間の聴取中、汗が体中を走る。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
午前10時半、「子どもの家」へ。ピースボートの
皆さんは子どもたちと一緒に近くの「タイロック市場」へ
行き昼食の食材を買う。その後、子どもたちと昼食作りを
する。
昼食の準備が出来、昼食の始まるわずかの時間、
子どもたちと交流。
午前11時、子どもたちと昼食を楽しむ。
午前11時50分。ピースボートの皆さんは「子どもの家」を
後にしベトナム事務所へ。ベトナム事務所でたくさんの
刺繍作品を買ってくれる。感謝。
午後12時半、バオミンさんの案内でピースボートが
停泊しいるダナン港へ帰る。42人の参加者の半数以上は
60歳以上の方々。ご夫婦の方も多い。残りの40%
近くの方は20歳代の女性。ピースボートは、この二つの
年齢層の方々で構成されていた。
午後2時、日本料理店で研修をしている「子どもの家」の
子どもたちを呼んで話し合い。
日本料理店開店から2ヶ月。その間の子どもたちの頑張りと
同時に行動の上での諸問題も多々あった。今日は、率直に
問題点を提起し、反省・改善の話をする。
子どもたちからも2ヶ月の日本料理店での問題、要望などを
聞く。リー君も積極的に意見を言う。
投稿者 koyama : 19:25 | コメント (0) | トラックバック
2006年04月11日
ピースボート(42人)を迎えて
晴天 33度
午前9時、ラームさん、ソン君と共に大型バスに乗り、
ダナン港へ。今日はピースボートの皆さんが「子どもの家」
を訪問する日。1週間ほどまえに横浜港を出港したピースボート
の皆さん(900人)は、今日の午前10時頃ダナン港へ着岸。
その後、10コースに分かれてベトナム中部の観光や交流を
体験する。フエ「子どもの家」訪問コースには40人の参加者が
応募。3人で出迎えに行くことになった。
フエからダナン港まで大型バスで3時間。ハイバン峠には
日本政府の援助で「ハイバントンネル」(6キロ)が完成。
午後12時過ぎ、ダナン港へ到着。既にピースボートの大型客船は
到着していた。
午後1時過ぎ、ピースボートスタッフ2人を含め42人の皆さんと
大型バスで「子どもの家」へ。
午後1時半~2時半位までダナン近郊で昼食。
車中で「子どもの家」創設の経緯、ボランティア、ベトナムの
ことなど2時間話す。
また、ラームさん、ソンさんと日本料理店で使う「飲み物券」
を販売。生ビール券30枚、生絞りジュース券30枚ほどが
売れる。感謝。
午後5時半、「子どもの家」へ到着。
「子どもの家」2階で交流会を行う。
子どもたちの歓迎の歌と踊り
●ドゥオック君が「涙そうそう」を歌う。
●ピースボートの出し物(歌・上を向いて歩こう・・・・)
ピースボートの皆さんの指導で「アブラハム」の踊りを
みんなで踊り、子どもたちとの交流会を終了。
その後、バオミンさんグループ、税田さんグループに分かれて
「子どもの家」の諸施設を参観。
午後6時50分、日本料理店へ向け「子どもの家」を出発。
午後7時過ぎ、家庭料理「子どもの家」へ到着。
今日はベトナム事務所員全員、日本料理店スタッフ
全員で応対する。42人という多くのお客さんを一度に
受け入れるのははじめての体験。何度も打ち合わせを行い
今日を迎えて。厨房で数日前から買い物を始めていた。
今日はハイキング形式。
●飲み物
・生ビールジョッキ
・生ビールグラス
・缶ビール(ハイネケン・タイガー・フダ)
・生絞りジュース(オレンジ・パイナップル・すいか・マンゴー)
・カンジュース(各種)
・ミネラルウオーター
●料理は
・コロッケ ・エビのつけやき ・太巻き ・かっぱまき
・和え物小鉢 ・牛すじ煮込み ・いかめし ・そうめん
・冷やしトマト ・いかのさしみ ・かぼちゃのくき炒め
・いんげんのゴマ和え ・さといものにっころがし
・ぬか漬け ・魚の甘辛煮 ・金平大根 ・マカロニサラダ
・味噌汁
●デザート(マンゴー、スイカ、バナナ)
日本料理店1階個室(掘りコタツ形式)
●40杯近い生ビールをジョッキやグラスに注いだグエットさん
リー君も料理提供などの仕事を行う
午後8時45分、日本料理店での会食を終わる。
その後、料理のフオンさんと仕事の件で話し合う。午後10時半まで。
話し合い終了後、夕食。部屋に戻りいくつかのメールに返事を書く。
午前0時20分。就寝。長い1日だった。
投稿者 koyama : 18:18 | コメント (0) | トラックバック
2006年04月10日
「子どもの家」退所式
晴天。夕方曇り。
高湿度で真夏日。気温34度。日本の真夏。
1日が終わると暑さでぐったり。体力をかなり消耗。
午前9時、「子どもの家」で退所式。
今日は3人の子どもたちが「子どもの家」を退所する。
(チュン君)
チュン君は1997年に「子どもの家」へやって来た。
この年の旧正月(テト)、フエ警察のストリートチルドレン
一斉検束があった。お正月は外国からたくさんの人々が
フエにやって来る。ストリートチルドレンがいるのは
「見苦しい」との理由。10数人の子どもたちが路上で
補導された。警察は補導したが、保護する施設を持っていない。
私たちの「子どもの家」に一人のストリートチルドレンを
2週間と言う約束で預けた。チュン君である。13歳だった。
チュン君は2週間「子どもの家」にいた。2週間がたった
ある日、私が「チュン君がいたいのなら、このまま
子どもの家にいても良いよ」と話した。チュン君はそのまま
「子どもの家」に住み着いた。それから10年の歳月が
流れた。チュン君は23歳。
「子どもの家」で学校に通い、高校を卒業、電気の専門学校へ
通った。現在は、電気専門店で研修をしている。
父親は小さい頃死亡。母親は妹を連れて再婚し、行方不明。
チュン君が小学生の頃、路上に放り出されてしまった。
(セン委員長)
・チュン君は23歳になった。18歳で「子どもの家」を出ると
言う基準からすると5年間も長く「子どもの家」にいる。
「子どもの家」を出て、自立すべき年になった。
チュン君はJASSの支援で学校へ行けただけでなく
人間としても成長させてもらった。退所しても「子どもの家」や
JASSを思い出して欲しい。
(チュン君の叔母さん)-身元引受人
・JASSと「子どもの家」に感謝している。チュン君をここまで
育ててもらい、死んだ兄も喜んでいることと思う。
家庭の問題があり、チュン君の面倒が見られなかったが、
JASSと「子どもの家」のお陰で立派な青年に育ててもらい
本当に感謝している。
しかし、私の家は狭い。家族も多い。私の家には引き取れない。
(チュン君)
・23歳になったので「子どもの家」を出て下宿し、電気の研修を
して、自立したい。
●チュン君は「子どもの家」を出て、下宿し、しばらくは「在宅支援」
としてJASSが支援をすることになった。
退所の書類にサインするチュン君の叔母さん
(フー君)19歳
フー君のお母さんは未婚でフー君を生んだ。父親所の在は不明。
お母さんは知的障害を持っている。フー君も少し知的障害が
ある。フー君はお母さんと二人で生活していたが、
お母さんの言うことがいつも急に変わり、対人拒否症のような
症状になる。1997年入所。
「子どもの家」に来たばかりの頃は、2段ベッドに
座ったきり、人と話したり交流することが出来なかった。
オートバイ修理研修センターで何年か研修を続けたが
オートバイ修理研修を習得できなかった。
10年間「子どもの家」で生活し、人との交流や簡単な仕事は
出来るようになった。
7ヶ月前に家に帰りたいと言って帰り今日に至る。
母親は農業をして野菜やくだものを作り生計を立てている。
フー君は近くのレストランのウエーターとして働いている。
1ヶ月30万ドン(2200円)程度の給料をもらっている。
母親の農業収入とウエーターの給料で親子二人生活が
出来ると判断し、退所することとなった。
(カン君)19歳
カン君1997年入所。「子どもの家」で10年間を過ごす。
両親が病気で死亡し、二人の姉とカン君が残された。
知り合いの紹介で「子どもの家」を知り、年下のカン君だけが
「子どもの家」に入所。小学生だったカン君は中学・高校と
優秀な成績を残した。昨年、ベトナム中部で最難関な
名門大学「フエ師範大学」数学科に見事合格。
●カン君と姉
将来、高校か大学の数学の先生になりたいと言っていた。
「子どもの家」を出て、大学の寮で生活したいとのこと。
引き続き「在宅支援」として、大学の寮での生活を支援し、
家庭教師などのアルバイトもしながら卒業まで勉学に
励むこととなった。
3人の子どもたちの退所式ではあったが、それでも
3人とも10年間の付き合いである。10年間、一人の
子どもを育てるのも大変なことである。日本の里親、
日本事務所の関係者、特にベトナム事務所に常駐した
多くの日本人ボランティアの皆さん、そして「子どもの家」の
ベトナム人スタッフの皆さんの見えないところでの様々な
努力・支援があったればこその退所式である。
私たちの取り組みは小さなものかも知れないが、
それでも「チュン君」「フー君」「カン君」は、「子どもの家」が
なければ今日の彼らはないと断言できる。
10年間は長い年月である。私たちのめざすものは
建物や物資の支援ではない。子どもたち一人一人を人間として
育てることである。支援とは何かを改めて考えさせられ
る退所式であった。そして、この10年間の取り組みが
けして無駄なものではなかったことを3人の子どもたちの
退所の様子を見て確信した。
午前10時半~午後12時半までミンさんと諸問題を
ベトナム事務所で打ち合わせ。
午後3時からいくつかの問題についてメール送信。
明日の午後7時、ピースボート(42人予定)が
日本料理店へやってくる。午後4時、日本料理店では
その準備に忙しい。
午後6時、夕食。大塚さん、税田さんなど日本語教師たちと。
午後8時過ぎまで食事をしながら様々な問題を話し合う。
明日のピースボートの受け入れ態勢なども打ち合わせをする。
2006年04月09日
終日休息
午前中は晴天。午後雨。
フエに戻って2ヶ月。初めての休日となった。
2ヶ月間連続の仕事はやはりきつかった。
体が固まり動かなくなってしまった。
特に訪問者の接待はそれなりに気苦労もある。
これで死んだら典型的な「過労死」だ、などと思いながら
この2ヶ月を過ごした。
昨日まで数日間、背中の腰上の左側が痛んでいた。
ビールの飲みすぎで『肝臓』が痛んだのかと心配して
いたが、今日は痛みが取れた。
午前中9時まで寝ていた。
午前8時、NHKTV日曜討論を寝ながら見る。
民主党新代表の小沢一郎氏が出演。
『本社の社長(自民党党首)になり損ね、支店長になった』
などと揶揄されている。こうなると民主党が文字通り
第2自民党であることが、看板にも明記されたようなもの。
小沢氏は盛んに「2大政党で政権交代」が目的と言っていた。
政権が変わっても政治の中身が変わらないのでは、意味の
ないこと。自民党の田中角栄から三木武夫に代わったようなもの。
三木武夫元首相には申し訳ないが・・。
自民党加藤紘一元幹事長のHPを見た。
http://www.katokoichi.org/
加藤紘一氏と民主党国会対策委員長の渡部恒三氏の対談。
加藤氏は「小沢氏が党首になったら民主党は第二自民党に
なったようなもの」(主旨)といっている。
渡部氏は「おもしろいもので、小沢氏を一番おしているのが
元社会党の人たち。(前原)憎しになると昨日の敵が今日の
味方になったしまう」(主旨)と言っている。
昔の仲間にこんなことを言われている野党第一党首ではある。
晴天なので布団を干す。スニーカの靴を古い歯ブラシで洗う。
午前9時半、半身浴。30分。汗が吹き出る。支援者の方から頂いた
納豆エキス入りの入浴剤を使用。
さすがに納豆エキス入りなのでヌルヌルする。
息子から電話。
NHKのど自慢を見ながら軽くビールを飲む。
午後12時半、昼寝。
午後4時、4月11日に迎えるピースボート(42人)のために
簡単な「子どもの家」紹介のチラシを作る。
今日は1日外出せず。部屋で寝ていた。
夕方、いくつかのメール送信。
午後7時半、再度入浴。私の一番好きな「小樽の鮭とば」を
おつまみにビールを飲む。のり、静岡の「たたみいわし」。
こうした軽いおつまみが一番美味しくビールがすすむ。
金原亭馬生師匠は、朝から食事をしないで、軽いおつまみで
日本酒を飲んでいたそうだ。食事の代わりがお酒。
そんな生活で結局50代の初めになくなった。今生きていたら
名人。今日は1日、金原亭馬生師匠となってしまった。
阪神・金本知憲選手の連続904試合フル出場世界新記録を
祝う。8年間連続の快挙。
某札束球団のように人形の首を取り替えるように
選手を交代させる球団にいては達成できなかったかも
知れない。
投稿者 koyama : 20:30 | コメント (0) | トラックバック
2006年04月08日
ピースインツアー社長ホーチミン市へ。
午前中、快晴。午後雷雨。その後夜半まで雨。
今日、ベトナム事務所は休み。トンチンカンホテルの
日本人教師たちは、午前中ゆっくりと休み(?)
午後2時から大塚さんと一緒にドンバ市場へピースボート来店
食材の買出し。
午前9時、「ラ・レジデンセ」ホテルへ松永社長を迎えに。
「ラ・レジデンセホテル」は、1945年以前、フランス植民地時代
のベトナム中部フランス総督府のあと。現在は4つ星の
ホテルとなっている。
松永社長、ラームさんと東京平和産業事務所で話し合い。
内容は現在実施しているスタディーツアーの検討、新たな
スタディーツアーなどの計画など。
午前11時過ぎまで話し合う。その後、「ラ・レジデンセホテル」
へ行き、ホテルの内容を視察する。
午後12時過ぎ、オンターオレストランでベトナムの庶民家庭料理
を食べる。ピースインツアーのお客さんへのベトナム料理の
市場調査。
午後2時過ぎ、いくつかのホテルを見学に行く。
その後、日本語学校、オートバイ修理研修センター、
「子どもの家」を視察。
夕方、ラームさんと一緒にフエ空港へ見送り。
松永社長のフエ滞在は20時間と言う
ごく短い時間だった。本当にお疲れ様でした。
投稿者 koyama : 17:15 | コメント (0) | トラックバック
2006年04月07日
ベトナム事務所全員会議:ピースインツアー社長来訪
晴天 暑い。
午前8時半、ベトナム事務所員全員会議。
2月中旬から多くのスタディーツアーなどを受け入れている。
ベトナム事務所員も相当の疲労状態。
明日の土日、ベトナム事務所は休みとする。そのため
金曜日の今日、一週間の報告と来週の計画会議を行った。
(税田)刺繍のホアさんが体の調子を崩し病院で診療中。
刺繍作品の値段についてミンさんハンさんと相談する。
(ハン)3月から4月7日までの5週間で刺繍みやげ物店の
売り上げは0000ドル。多くの訪問者に買って頂き感謝
している。刺繍を作っている子どもたちの生活自立に
直結する。有難い。
(中村)月曜日 上級の卒業式があった。9人卒業した。
4月6日はガイドクラスの王宮観光実習を行った。
ラームさんの協力を得て午前8時半から11時まで。
午後1時から午後4時までは実習をしての感想を
話し合った。
(石岡)ガイドクラスの授業を行う。4月6日、中級のテストをした。
(ラーム)メンさんの運転免許が取れた。
(松下)月曜日、日本語学校の卒業式。初級は来月から中級に。
昨夜、メー前フエ省知事と精進料理を食べに行った。
(フーン)ガイドクラスの実習をした。まだまだ生徒の力では
ガイドとして自立は出来ない。更に勉強が必要。
(ソン)4月3日、日本語学校上級クラスの卒業式があった。
お陰さまで無事卒業できた。皆さんの応援で卒業できた
のでお礼をいいたい。
(ミン)4月10日、午前9時から「子どもの家」で退所式をしたい。
カン君、チュン君、フー君。
更に入所希望の子どもたちが6人いる。急いで
家庭調査に入りたい。
来週4月11日のピースボート(42人)の受け入れが
終わると一休み。4月14日、ベトナム事務所員全員で
そこかへ行って休息したい。行きたいところ、食べたい
ものがあったら言って欲しい。
(小山)宇都宮縫製工業組合佐藤理事長の来訪。
京都企業家の来訪などがあった。
午後2時、日本料理店の子どもたち、大塚さん、税田さんと
当面の日本料理店の運営について打ち合わせ。
店長のホンさんが体調を崩ししばらく自宅療養となった。
日本料理を作っていたフオンさんが退職することとなった。
4人の日本人の皆さんもかなりの疲労が蓄積。
日本語教師をしながら日本料理店を手伝うのは本当に
大変なことである。4人の日本人も輪番で日本料理店を
手伝うことになった。基本的には週1日。
日本料理店をめぐって状況が大きく変化。
新たな体制を作る。当面、オアシスの会の大塚さんを
中心に献立、買い物、調理などの計画を立てて
日本人教師と協力しながら日本料理店の運営を進めることとした。
午後6時半。ラームさんと一緒にピースインツアーの
松永社長を出迎えにフエ空港へ。
7時40分、30分遅れで松永社長が到着。
フエ空港から直行で日本料理店へ。
バオミンさんも交えて松永社長と交換会。
夕方NHKTVを見た。渡辺まりなという歌手が
「お雑巾を着れなくなった衣類で作りましょう」と言っていた。
この言葉がやたら頭にひっかかってしまった。
雑巾に「お」をつける必要があるのか? 雑巾には
やたら丁寧な言葉を使っているわりに「着れる」と
日本語をいやに乱暴に使う。「おぞうきん」というのなら
「着られる」といって欲しい。うーん、どうしても
気になるこの言葉。考え出すと眠れなくなってしまう
のは春日三球だが・・・。
投稿者 koyama : 19:17 | コメント (0) | トラックバック
2006年04月06日
精進料理
晴天。気温34度。
17通のメール受信。8通のメール送信。
午前中、K県ツアーの問題で関係者と打ち合わせ。
数日前、フエテレビで日本語学校卒業式の様子が
放映された。
昨夜、ベトナムテレビで日本料理店の様子が放映された。
朝食後、日本料理店のフオンさん、ラームさんと話し合う。
先日、フオンさんより「日本料理店の仕事がきついので
やめたい。日本人の食事作りだけしたい。給料をあげて
欲しい」という趣旨の話があった。
今日はのその返事。「日本料理店で仕事をして欲しかったが
家庭の事情などもあり、フオンさんの言うことも理解できるの
で、日本料理店での仕事は終わりにする。
日本人の食事作りは、日本料理店が出来たので、日本人は
日本料理店で食事をする。従って、フオンさんに作ってもらう
必要がなくなった。」こんな話のやり取りがあり、結局、
4月11日を最後に料理のフオンさんは仕事を辞めることとなった。
1995年9月から私の食事を作ってくれた人である。
長い間の仕事に心から感謝したい。
午後、ベトナム事務所で仕事。
バオミン・ベトナム事務所長、大塚さん、ソン君とドンバ市場近くの
自転車屋へ。電動自転車を買う。
自転車で軽いこと、ガソリンを使わないこと、時速30キロ出ること。
充電は2時間半などを総合的に考え大塚さんと1台ずつ購入した。
午後5時40分、前フエ省知事で現国会議員のメー氏差し向けの
車で山の中のお寺へ。
先日、日本料理店へメー氏を招待した。今日はその返礼の
精進料理の会。お寺はフエで名門の禅宗の尼寺。
大塚さん、バオミンさん、税田さん、松下さんと私が参加。
中村先生と石岡先生は日本語学校の授業があり不参加。
豆類のスープ
豆の煮物(唐辛子が効いて美味しい。不謹慎ではあるが、
ビールのおつまみに最高。お寺は禁酒)
鶏肉風精進料理(ミット・ジャックフルーツで出来ている)
豚肉・牛肉風の精進料理(豆で出来ている)
メー前フエ省知事と精進料理
フエには各所に精進料理屋がある。私もかなり精進料理を
食べているが、このお寺の精進料理が一番美味しかった。
投稿者 koyama : 22:06 | コメント (0) | トラックバック
2006年04月05日
京都企業家視察団第2日目
快晴 35度。
今日はまさに真夏そのもの。強い日差し。高湿度。
続いて「うちわ」「扇工場」へ。
続いて竹・籐細工工場へ。
偶然、竹と籐工場は「フエ福建省県人会館」にあった。
1979年、中国が「生意気なベトナムに懲罰を加える」として
ベトナムのカンボジア侵攻を理由にベトナムを侵略し
「中越戦争」が勃発した。
当時、フエには500人ほどの中国系ベトナム人が
チャイナタウンを形成していた。私が1993年に創設した
チーランン通り「子どもの家」のある「チーランン通り」である。
しかし、ベトナム政府の中国系ベトナムへの弾圧政策もあり
多くの中国系ベトナム人は中国へ行ったり、難民として
海外へ脱出した。現在フエに残っている福建省系中国人は
5家族程度である。2004年、アメリカに在住するフエにいた
中国系ベトナム人400人が寄金を出し合い、「福建省県人会館」
を設立した。
その後、ベトナム事務所を訪問。ベトナム事務所員と交流。
ベトナム事務所1階の刺繍みやげ物店でたくさんの
刺繍作品を買って頂いた。
皆さん相当の疲労状態。近くの「ティエンアン山」の麓に
ある「中国茶園」へ。1時間ほどウーロン茶を飲みながら
休息。
午後12時。市内でベトナム風ラーメン、フォー、炒飯を
食べる。
昼食後、フエ空港へ。午後2時40分、ハノイへ。
フエ滞在は短期間であったが、内容の濃い視察だった。
今後のJASSへの支援を期待したい。
午後6時、「子どもの家」卒業生で現在フエ経済大学で
勉強しているメンさんの下宿先を訪問。下宿して1ヶ月ほどの
様子を視察。下宿先で真面目に勉強をしていた。
下宿先の大家さんとも仲良く過ごしていた。
1995年に「子どもの家」へ妹と一緒に入所したメンさんである。
それから11年。20歳となり大学生。これも年月を経た結果だ。
「海外支援は2年か3年で自立させるべきだ」という意見もある。
そうした意見からすれば、私たちの活動は、失敗の実例である。
しかし、「人間を育てる」という視点に立ち、13年間現地で
1人の子どもを大人に成長させ「自立」させるための
様々な活動をしたと考えれば、それも大いに意義のあること。
人を育てるということは、手間と暇と時間がかかるもの。
こうして大学へ通学し、下宿しながら自立への道を歩んでいる
メンさんを見ると、支援というものがどうあるべきかを考えさせられ
る。小学校3年か4年の頃から大学生になるまでを見続けることが
できると言うのも支援の一形態だと思っている。
メンさんの幸せを祈る。
投稿者 koyama : 23:05 | コメント (0) | トラックバック
2006年04月04日
京都企業家支援者の方々と共に
晴天 気温34度。
午前8時、ベトナム事務所へ。
栃木県の幼稚園園長先生と懇談。園長先生は、シュタイナー
教育などを幼稚園に取り入れているとのこと。
30分ほどベトナム事務所で教育や子どものことなどについての
意見交換。
午前9時、「子どもの家」へ。セン委員長と挨拶。「子どもの家」の
各施設を案内。「子どもの家」の歴史、目的などを話す。
午前11時過ぎ、視察終了。
バオミン・ベトナム事務所長とフエ空港へ。
京都の企業家支援者の方3人の出迎え。
飛行機が予定より3時間近く遅れる。
午後4時40分、ハノイからフエ空港到着。
バオミンホテルへ。
直ぐにオートバイ修理研修センター視察。
「子どもの家」視察。
「子どもの家」ではキャノン支援の「教育特別支援教室」が
行われていた。中学4年生を集めて7月の高校受験対策教室。
中学1年生を集めての補習教室。
「子どもの家」の台所を視察
続いて日本語学校を視察。石岡先生の教えている中級クラス。
企業家の皆さんの自己紹介。その後、京都の言葉と共通語の
違いを実際に話してみる。生徒たちからの質問に答える。
日本語学校参観後、日本料理店で夕食。
午後9時半過ぎ今日の日程を終了。
京都企業家の皆さんは私と同じ「団塊の世代」。
皆さんの企業のトップの方たちではあるが、
『2007年問題』を受けて、これからの人生を何か
社会に役立つ生き方をしたいとの気持ちを持っている
方々でもある。
午後10時、子どもたちは自分たちの好きな夕食を
作り遅い夕食。今日の担当の税田さんと一緒に
子どもたちと話しながらしばらく時を過ごす。
投稿者 koyama : 17:49 | コメント (0) | トラックバック
2006年04月03日
日本料理店全体会議=日本語学校卒業式
晴天。
午前8時半、日本料理店で「日本料理店全体会議」を開く。
参加者はベトナム事務所員全員。日本料理店全スタッフ。
会議の内容は、4月11日のピースボート対応。
42人ほどのピースボート乗客が「子どもの家」などを訪問。
夕食を日本料理店で食べることになった。
42人という今まで経験をしていない大人数をどう受け入れたら
よいのか? 誰も経験していない大人数の受け入れの計画を
みんなで話し合う。
税田さんを中心に日本語教師の皆さんが原案を示す。
「バイキング方式」とし、1階に30人程度、2階に10人程度
入ってもらうこととする。
料理は20種類程度。その他、1階・2階の人員配置、各担当
などを決める。
当日は全員日本料理店服を着ることを確認。
会議終了後、日本料理店2階を全員で確認。
午後2時、ピースボート先遣隊到着。4月11日の
詳細な打ち合わせを行う。ラームさん、ミンさんと。
バオミン・ベトナム事務所長と一緒に日本料理店の関係物品の
買出しに行く。日本料理店の時計、日本酒の小さなクラスの見本。
料理を置く台などを調査。
ベトナム事務所には東京農業大学の学生さんが訪ねて
きていた。税田さんが応対。
午後6時、日本語学校の卒業式・終了式が日本語学校
で行われた。初級21人、上級9人の終了・卒業式。
司会はバオミンさんと石岡先生。
日本語学校校長の私が挨拶。JASSが何故日本語学校を
運営しているのか、日越の平和・友好に頑張って欲しいなどの
話をする。
ベトナムテレビ・フエテレビの2局の取材が来ていた。
「越日交流委員会」委員長のニエン氏(フエ市人民委員会
外務部長)も参加。
ニエン氏が初級終了者に修了証書を授与。
初級担当の松下先生挨拶
初級の生徒から担当の松下先生へお礼の記念品贈呈
同じく初級クラス担当だったサン先生に生徒からお礼の
記念品贈呈
ニエン氏上級卒業生一人一人に卒業証書授与
上級クラスで勉強していたベトナム事務所員のソン君へ
卒業証書を授与。
ベトナム事務所員のソン君から日本語学校の先生へ
お礼の言葉を言う。上級の生徒の中では一番上手に
日本語を話していた。
上級クラス担当の中村先生の挨拶
上級クラス卒業生から担任の中村先生、フーン先生へ
お礼の花束贈呈
上級クラスを代表してビン君(ラームさんの弟)から
私に花束贈呈
上級クラスの生徒から花束を贈呈されたニエン氏と小山
初級修了生と担任の松下先生、サン先生たちの記念写真
上級卒業生と担任の中村先生、フーン先生たちの記念写真
投稿者 koyama : 19:36 | コメント (0) | トラックバック
2006年04月02日
宇都宮縫製工業組合佐藤理事長ホーチミン市へ。
晴天。
昨夜の夕食会で飲みすぎ。朝起きられない。
午前7時、バオミンさんと宇都宮縫製工業組合の佐藤理事長
を見送りにフエ空港へ。
1日半と言う短い時間ではあったが
誠心誠意、縫製研修工場の諸問題についてアドバイスを
戴いた。心のある人だ。改めて感謝したい。
昨夜は深更まで縫製研修工場の合理的かつ安価な設計を
考え、夜も余り寝ていなかったとのこと。
佐藤理事長は今朝6時に設計図会社の社長を電話で呼び出し
設計図の一部変更を指示した。熱意のあふれ出ている人。
縫製研修工場は現在、建築確認の申請中。
5月初めから建築開始予定。10月頃建築完了予定。
これは全て予定。今までの建築経験だと予定通り建築できた
ことは一度もない。今回はどうなるか。気の休まらない
毎日ではある。
午前10時過ぎ、トンチンカンホテルへ「帰還」。
朝食の「ビンザン」を買いに3軒の大衆食堂へ行くが
どこも11時過ぎからの開店とのこと。
とにかく眠い。帰宅後、食事抜きで再び寝る。
NHK日曜討論を見る。民主党の前原党首が出演。
未だに「次の総裁に望むことは・・・」などと言っていた。
「恥を知れ」という言葉がある。前原党首がいかに政治的
「犯罪」を犯したかについて、未だに自覚が全くないというのは、
前原氏自身、政治家ではなく素人と言った方が良い。
前原党首は党首討論で「武部幹事長にお金が渡っていたという
確たる証拠がある」と明言していた。しかし、実際には確たる証拠
もなく、情報提供者にお金を上げて「情報を買うのも問題とは
言えない」などという暴言すら吐いている。
前原党首の無能・無責任のお陰で、国民は大変な迷惑を
蒙っている。4点セットの追及が出来なかっただけでなく、
国民の福祉・教育・生活切捨ての2006年度予算が
いとも簡単に国会を通過してしまったということである。
前原氏はそうした国民への「政治的犯罪」への自覚が
全くない。情けない野党第1党を持った日本国民ではある。
選んだ国民の責任でもあるのだが・・・。
投稿者 koyama : 18:30 | コメント (0) | トラックバック
2006年04月01日
宇都宮縫製工業組合佐藤理事長フエ訪問
曇り後雨。
朝7時、バオミン・ベトナム事務所長と一緒にフエ空港へ。
ODA支援が決定し建築申請に入っている縫製研修工場
の建築設計の指導に佐藤理事長が来てくれる。
午前9時、バオミンホテル着。その足でベトナム事務所訪問。
ベトナム事務所スタッフを紹介。
縫製研修工場建築予定地訪問。佐藤理事長が直に
縫製研修工場予定地を視察する。
「子どもの家」訪問。セン委員長と懇談。
「子どもの家」では、理容学校の生徒がボランティアで
子どもたちの髪を切っていた。ありがたいことである。
佐藤理事長と昼食。チャオ・バイン・カイン(フエ煮込みうどん)
午後2時過ぎ、フォンザンホテルへ。佐藤洋作さんたち
教育関係者ツアーの皆さんが帰国。お別れの挨拶に行く。
午後3時、縫製研修工場の設計図について、佐藤理事長に意見を
聞く。かなりの部分について貴重な提言を戴く。
フエ設計会社技師等も参加。
佐藤理事長は細部にわたり設計図を検討し、設計図を修正。
検討会は3時間に及ぶ。
午後6時、日本料理店で夕食。
今日は16人の団体の予約が入っていたが、午後5時半頃、急に
フエ省知事のリーさんが日本料理店に来たいとの問い合わせが
あった。省幹部の打ち合わせ会。リー知事とは10年来の
知り合い。8人のフエ省幹部としばらく懇談する。
日本料理店ではリー君・ターオ君兄弟が頑張って仕事を
している。オアシスの会の大塚さんの協力で日本料理店
は順調にお客さんが入っている。
今日は16人の日本人団体、2人の日本人、フエ省知事さんたち
ベトナム人8人、合計26人のお客さん。日本料理店は満席。
最後のお客さんが帰ったのは午後9時過ぎ。長い1日だった。
午後9時半、大塚さん、子どもたちや日本料理店スタッフと夕食。