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2006年04月10日

「子どもの家」退所式

晴天。夕方曇り。

高湿度で真夏日。気温34度。日本の真夏。
1日が終わると暑さでぐったり。体力をかなり消耗。

午前9時、「子どもの家」で退所式。

今日は3人の子どもたちが「子どもの家」を退所する。

(チュン君)
チュン君は1997年に「子どもの家」へやって来た。
この年の旧正月(テト)、フエ警察のストリートチルドレン
一斉検束があった。お正月は外国からたくさんの人々が
フエにやって来る。ストリートチルドレンがいるのは
「見苦しい」との理由。10数人の子どもたちが路上で
補導された。警察は補導したが、保護する施設を持っていない。
私たちの「子どもの家」に一人のストリートチルドレンを
2週間と言う約束で預けた。チュン君である。13歳だった。
チュン君は2週間「子どもの家」にいた。2週間がたった
ある日、私が「チュン君がいたいのなら、このまま
子どもの家にいても良いよ」と話した。チュン君はそのまま
「子どもの家」に住み着いた。それから10年の歳月が
流れた。チュン君は23歳。
「子どもの家」で学校に通い、高校を卒業、電気の専門学校へ
通った。現在は、電気専門店で研修をしている。
父親は小さい頃死亡。母親は妹を連れて再婚し、行方不明。
チュン君が小学生の頃、路上に放り出されてしまった。

(セン委員長)
・チュン君は23歳になった。18歳で「子どもの家」を出ると
 言う基準からすると5年間も長く「子どもの家」にいる。
 「子どもの家」を出て、自立すべき年になった。
 チュン君はJASSの支援で学校へ行けただけでなく
 人間としても成長させてもらった。退所しても「子どもの家」や
 JASSを思い出して欲しい。

(チュン君の叔母さん)-身元引受人
・JASSと「子どもの家」に感謝している。チュン君をここまで
 育ててもらい、死んだ兄も喜んでいることと思う。
 家庭の問題があり、チュン君の面倒が見られなかったが、
 JASSと「子どもの家」のお陰で立派な青年に育ててもらい
 本当に感謝している。
  しかし、私の家は狭い。家族も多い。私の家には引き取れない。
 
(チュン君)
・23歳になったので「子どもの家」を出て下宿し、電気の研修を
 して、自立したい。

●チュン君は「子どもの家」を出て、下宿し、しばらくは「在宅支援」
 としてJASSが支援をすることになった。

退所の書類にサインするチュン君の叔母さん


(フー君)19歳
フー君のお母さんは未婚でフー君を生んだ。父親所の在は不明。
お母さんは知的障害を持っている。フー君も少し知的障害が
ある。フー君はお母さんと二人で生活していたが、
お母さんの言うことがいつも急に変わり、対人拒否症のような
症状になる。1997年入所。
「子どもの家」に来たばかりの頃は、2段ベッドに
座ったきり、人と話したり交流することが出来なかった。
オートバイ修理研修センターで何年か研修を続けたが
オートバイ修理研修を習得できなかった。
10年間「子どもの家」で生活し、人との交流や簡単な仕事は
出来るようになった。
7ヶ月前に家に帰りたいと言って帰り今日に至る。
母親は農業をして野菜やくだものを作り生計を立てている。
フー君は近くのレストランのウエーターとして働いている。
1ヶ月30万ドン(2200円)程度の給料をもらっている。
母親の農業収入とウエーターの給料で親子二人生活が
出来ると判断し、退所することとなった。


(カン君)19歳
カン君1997年入所。「子どもの家」で10年間を過ごす。
両親が病気で死亡し、二人の姉とカン君が残された。
知り合いの紹介で「子どもの家」を知り、年下のカン君だけが
「子どもの家」に入所。小学生だったカン君は中学・高校と
優秀な成績を残した。昨年、ベトナム中部で最難関な
名門大学「フエ師範大学」数学科に見事合格。

●カン君と姉

将来、高校か大学の数学の先生になりたいと言っていた。
「子どもの家」を出て、大学の寮で生活したいとのこと。

引き続き「在宅支援」として、大学の寮での生活を支援し、
家庭教師などのアルバイトもしながら卒業まで勉学に
励むこととなった。

3人の子どもたちの退所式ではあったが、それでも
3人とも10年間の付き合いである。10年間、一人の
子どもを育てるのも大変なことである。日本の里親、
日本事務所の関係者、特にベトナム事務所に常駐した
多くの日本人ボランティアの皆さん、そして「子どもの家」の
ベトナム人スタッフの皆さんの見えないところでの様々な
努力・支援があったればこその退所式である。
私たちの取り組みは小さなものかも知れないが、
それでも「チュン君」「フー君」「カン君」は、「子どもの家」が
なければ今日の彼らはないと断言できる。
10年間は長い年月である。私たちのめざすものは
建物や物資の支援ではない。子どもたち一人一人を人間として
育てることである。支援とは何かを改めて考えさせられ
る退所式であった。そして、この10年間の取り組みが
けして無駄なものではなかったことを3人の子どもたちの
退所の様子を見て確信した。

午前10時半~午後12時半までミンさんと諸問題を
ベトナム事務所で打ち合わせ。

午後3時からいくつかの問題についてメール送信。

明日の午後7時、ピースボート(42人予定)が
日本料理店へやってくる。午後4時、日本料理店では
その準備に忙しい。

午後6時、夕食。大塚さん、税田さんなど日本語教師たちと。
午後8時過ぎまで食事をしながら様々な問題を話し合う。
明日のピースボートの受け入れ態勢なども打ち合わせをする。

投稿者 koyama : 2006年04月10日 23:02

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