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2006年06月10日

板橋総合ボランティアセンター開設記念のつどい

終日曇り。

メールの送受信。

昼自宅を出て大山にある「板橋区立グリーンホール」へ。
今年4月に「いたばし総合ボランティアセンター」が開設された。
しかし、あまり区民に知られていないとのことで、今日の
開設記念のつどいを行う(呼びかけ趣旨書)運びとなった。
運営委員会、ボランティア総合センター関係者の皆さん、
ご苦労様。

私の家にも呼びかけ書が届いたので参加する。

参加者は150人。土曜日の午後、150人の区民が集まったのは
素晴らしいこと。50歳代以上の方々が大半だった。
社会福祉協議会や町内会などの組織としての参加者もいたようだ。

はじめに開会挨拶  運営委員会実行委員長
運営委員紹介     運営委員長
記念講演     「ボランティア・NPOの推進とボランティアセンターの
            役割」
           興ろき 寛氏(世田谷ボランティア協会理事長)
板橋総合ボランティアセンターの設立と経過と運営方針
           いたばし総合ボランティアセンター所長

いたばし総合ボランティアセンターは板橋区福祉協議会が
「いたばしボランティアセンター」を開設。(平成3年)
平成11年、板橋区もボランティア活動推進主査を設置し
「いたばしボランティア基金条例」を創設。
こうした経過を踏まえ2006年4月「いたばし総合ボランティアセンター」
が開設された。

説明を聞くと「組織」「形」は行政主導で出来ているが、中身が伴って
いないといういのが現状のlようだ。
運営委員会の』委員長には大東文化大学の先生が就任。
板橋商店街連合会、板橋区町会連合会、青年会議所、。
板橋区社会福祉協議会、板橋区(行政)から2人。
その他若干のボランティア団体の代表が就任。
運営委員会の構成を見ると行政と町内会、商店会、
社会福祉協議会など既存の団体を主体として構成された
いることが分かる。これは、ボランティアセンターが始まった
ばかりという事情もある。

記念講演の「こうろき ひろし」氏の話を聞いて大変勉強に
なった。こうろき氏はボランティア学などを大学等で
教えている先生。イギリスでボランティアなどを学ぶ。
40分の講演時間が与えられていた。
講演の冒頭に「今日の講演会の準備をしたが、忘れてきて
しまった」とのこと。
その後、雑談風の話が30分ほど続く。どんな話をするのか
興味深く聞いていた私は、30分間の雑談風の話を
聞きながら、この講師の言いたいことは一体何なのか?
頭の中でグルグルと考えが回っていたが結局分からなかった。
残り時間が10分ほどになって、33項目のポイントに
ついて話を始めたが、時間がなく、読み上げて終わって
しまった。大変残念な講演だった。
講演会の事前の準備が不足していたことが最大の原因。
40分間に何を話すか? 事前にしっかりとレジュメを作り
頭の中に入れるか、メモにしておくべきであった。
せっかく150人もに区民が集まった「開設記念のつどい」
だったのだが、講師が何を言いたいかが、参加者に
伝わらないままに40分(持ち時間を超過)の時間が
終わってしまった。
私には、大変参考になった。聞き手の立場で話を聞くとき、
講師が何を言いたいのかをきちんと「打ち出さないと」
いけないということである。自分の持ち時間の中で
「これを言いたい」という講演の主題を事前にしっかりと
自分の頭の中で整理しておくことがいかに重要かが
改めて分かった。

その後、5つの分科会に分かれて話し合う。
私は国際協力の分科会に入ろうとしたがなかったので、
『学生ボランティアネットワーク・地球市民の形成』分科会へ。

分科会は
① 第1分科会(保健・医療・福祉関係)
② 第2分科会(環境・まちづくり関係)
③ 第3分科会(社会教育、子育て)
④ 第4分科会(男女共同参画社会)
⑤ 第5分科会(学生ボランティアネットワーク地球市民)

参加者に配布された資料を見るとやたら「カタカナ語」が
多い。

「バズセッション トータルコーデイネーター」
「ファイシリテーター」などのカタカナ語が踊っている。
この会を主導しているひとたちが西欧型のボランティアを
参考・見本にしていることが分かる。年齢の高い人も
相当数参加している会である。
ファシリテーターなどなんだか分からない言葉を
使う主催者の気持ちが分からない。

ついでに言うと、この種のボランティアの会合に行くと
必ずと言って良いほど主催者や中心的な人は、
「あごひげ」をたくわえていたり、男性で髪を後ろに
束ねている。この会もその種の人たちがいた。
これもボランティアのひとつに流行なのだろうか?

カタカナ語が多様されやイギリス、アメリカではボランティアは
こうやっていると言う趣旨の話が出てくる。
強い違和感を感じる。

分科会には「コーディネーター」と「ファシリテーター」
がいる。
分科会の部屋に入る。15人ほどの参加者。
6人位が丸く座るようになった机が8つほどある。
その回りにだんご状になり座る。部屋の中に
8つの団子状の塊が出来る。
これでは、お互いが顔を見ながら話し合う体勢ではない。
話し合いの基本は、顔を見ながら相手の意見を聞きながら
自分の意見をいうということなのだが。
分科会が始まる。コーディネーターという若い学生が
「1ヶ月半ほど前にコーディネーターをやるようにいわれた」
との言葉で始まる。今日は、今後この分科会で進める
活動について話しあおうとのこと。

しばらくして会場を出る。

5歳から小学校4年生まで池袋に住んだ。
大山はそのころの遊び場。
大山銀座を散策する。小学校の頃、父親と一緒に来た
蕎麦屋もそのままの形で残っていた。

せっかく大山まで来たので久しぶりに「旧中仙道」
を散策する。

小学校から教員になった頃までの13年間ほどを
板橋で過ごした。旧中仙道は小中高校時代の
思い出の地であり、同級生の親がお店をやっていた
場所でもあった。
40年ぶりに旧中仙道を歩いてみる。昔とお店は大きく
変わっていた。友達のお店がなくいなっていた。
下駄屋(金波屋)がなくなっていた。洗い張り屋(ますだや)
もない。大きな肉屋もない。私が一番通った古本屋もなくなって
いた。小学校5年・6年の頃、良く通った古本屋だった。
講談本の古本がたくさんあった。忠臣蔵から猿とび佐助・・。
1冊30円~50円。この古本屋にある主な講談本はほとんど
読んだような気がする。私の読書の原点である。

しばらく歩くと「板橋」に出る。板橋区名の発祥の地。

1959年9月の伊勢湾台風の時には板橋の下を流れる「音無し川」
が氾濫。この橋に上流から流れてきた「家」が引っかかっているの
見た記憶がある。


板橋をわたり岩の坂に入る。
中学の同級生の大きな本屋さんは残っていた。
途中に「縁切りえのき」がある。

岩の坂を登り、環七を横断したあと、清水町に出る。更に歩く。
小学校の頃、映画館が2軒あったが、なくなっていた。
柔道場もない。
途中、中学の同級生がやっている「八百屋」と「自転車」を通る。
店の奥に同級生がいた。声をかえようと思ったが、やめた。
二人とも年を重ねた様子が良く分かる。頭が真っ白になった
八百屋さん。髪の毛がなくなっていた自転車屋さん。
私の脳裏には45年前の詰襟姿の同級生の顔が浮かんでくる。
二人の年を重ねた様子を見ながら「私自身」を改めて見た思いが
した。

しばらく歩くと「国道17号」(新中仙道)に合流する。
そのまま17号を歩く。蓮沼を通り、志村坂上近くへ出る。

志村一里塚」がある。

日本橋を起点にし中仙道の3番目の「一里塚」である。
文京区の「本郷一里塚」、板橋の「仲宿一里塚」に次ぐ
第3番目の一里塚だった。
志村一里塚で日本橋から3里。12キロ。

志村坂上から左折し、高速道路の下を通り、西台まで。

都営三田線の「板橋区役所前」から「西台」まで7つの駅を
歩いたことになる。2時間半の散策だった。

投稿者 koyama : 2006年06月10日 09:02

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