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2006年07月31日
地球の歩き方ツアー(1)「子どもの家」訪問
晴天 休肝日
イスラエルのレバノン無差別爆撃を糾弾する。
テロリストを爆撃するという口実でレバノンに駐在する国連軍を
虐殺。既に400人以上のレバノン人を空爆し殺している。
7月30日早朝、イスラエル軍はレバノン南部カナ村の住民が避難して
いる建物を空爆し、57人以上を殺害。このうち27人は子ども。
報道では15人の知的障害の子どもたちが避難している建物を
爆撃したとのこと。この空爆は50回以上も続いたとのことである。
イスラエルはテロリストを空爆すると言いながら、実際には
救急車や孤児院など一般市民を目標に無差別爆撃を行っている。
イスラエル自身が国家テロリストである。後ろでイスラエルを
操っているブッシュ米政権の責任と本質を暴露した国家犯罪である。
国際世論の力でイスラエルのレバノン爆撃を直ちに停止させることが
必要。48時間停戦を言いながら、実際には空爆を続行している
イスラエルである。これだけ明らかな国家犯罪をブッシュ政権が
免罪してことも犯罪である。
午前8時、トンチンカンホテル停電。昨日の日記を書いていたが
停電でパソコンが使えない。
電動バイクでベトナム事務所へ。ベトナム事務所で昨日の
日記を途中まで書く。
午前9時半、電動バイクで「子どもの家」へ。
「子どもの家」を地球の歩き方ツアー(第1陣)12人が訪問。
子どもたちと交流していた。バオミンさん・税田さんが案内。
セン委員長と雑談。
午前10時から午前11時20分まで講演会。
フエでの活動、ボランティアのめざすもの、人生・・・などを
話す。
夏休みの子どもたちは昼食作りに精を出していた。
講演会終了後、地球の歩き方スタディーツアーの皆さん、
ミンさんと一緒に市内のレストランで昼食。
午後1時半、トンチンカンホテルに戻り30分ほど昼寝。
洗濯。
午後3時過ぎ、フランスのテレビ局が日本料理店のハン・ニーさん
の取材に来た。
日本料理店では、大塚さん、中村さん、久保田さんが
明後日から実施する「昼の日本料理店開店」に向けて
準備を進めていた。
午後5時半、子どもたち・日本人スタッフと一緒に夕食を摂る。
午後6時15分、日本料理店開店。
日本人2人、ベトナム人1人、日系アメリカ人と欧米人1人。
総計5人の来店。
午後9時半日本料理店終了。
L君が昨日の地球の歩き方ツアー出迎えに行く筈だったが
無断で欠勤。今日も1日欠勤。
日本料理店ボランティアの久保田さんが今日の営業を
最後に日本料理店のボランティアを終了した。
内田征子さんからメール。訪日しているメンさんは
元気に過ごしているとのこと。ディズニーランド、東京タワー、
上野動物園、都庁、伊豆高原などを訪問し、日本理解を
深めているとのこと。引率の内田さんに心から感謝。
2006年07月30日
日本料理店フエンさんの母親16回忌法要へ。
晴れのち曇り。32度。湿度84%。
午前6時半起床。血圧・体重を量る。
フエに来て2週間。体重が2キロ減った。
午前6時半過ぎ、ベトナムTVで昨日の日本語学校卒業式の
様子を放映していた。昨夜と今朝放映とのこと。
午前7時、NHK海外衛星放送「日曜討論」を見る。
公共放送のNHKが1時間も使って自民党の宣伝を
行うのは、放送法違反。
自民党の若手・中堅議員による「ポスト小泉」を語るという
内容。全員一致して靖国問題は「人の心の問題」。政争の具に
すべきではない、などと言っていた。
しかし、靖国問題は「心の問題」ではなく、本質的には
第2次世界大戦、アジア太平洋戦争を「侵略戦争」と
見るのか『日本の正義の防衛戦争』と見るのかと
いう問題である。極東軍事裁判でもサンフランシスコ講和条約
でも日本国は極東軍事裁判の判決を受け入れている。
A級戦犯を合祀した靖国神社への首相の参拝に
アジア諸国が反発するのは当然のことである。
反対の立場を考えてみれば一目瞭然。けして「心の問題」
ではない。至って重要な政治問題、国際問題であり、
平和の問題でもある。
NHK「中堅・若手議員が語る」番組はこうした問題の
本質について何も語らない。放送法では、一つのテーマに
ついて反対意見や異論があれば紹介することが基本の
はず。一つの政党の問題を1時間もかけて党員に語らす
NHKの体制順応体質は腐っている。
などと考えながら、やっと目が覚める。
午前9時。中村友香先生から電話。
日本料理店前に「子どもの家」のドゥオック君が来ているとの
こと。急いで1階の日本料理店へ降りていく。
中村先生は朝食の買出し。
ドゥオック君は今日の夜、フエ省文化会館主催の
「2006 フエ 夏の歌コンテスト」に参加し「涙そうそう」を
日本語で歌うそうだ。
その際、「涙そうそう」の大雑把な意味を紹介したいとのこと。
歌詞を持ってきた。大雑把な意味を説明するがベトナム語での
説明に苦労。
作詞者の森山良子が40歳代の頃(1980年代末)に若くして
亡くなった兄を思い作詞した歌。「涙(なだ)そうそう」は
沖縄の言葉で「涙がぽろぽろ落ちる」と言う意味。
大雑把な意味は、古いアルバムを見ると若くして亡くなった兄
の写真があり兄をを想い出す。兄との生活や色々な思い出が
よみがえり私を元気付けてくれる。亡くなった兄にありがとうと
感謝の言葉を言いたい。
日本では亡くなった人は空の星になるという言い伝えがある。
夕空に最初に輝きだす星を見ると亡くなった兄がなった星かと
思い、また兄に会えることを祈る。私が悲しかったり嬉しかったり
する度に私を空から励ましてくれる兄に「もし、空から地上の
私が見えるのならいつか会える」ことを信じてこれからも
人生を生きて行きたい。
大雑把でうろ覚えであったがこんな趣旨だと話す。
午前10時。コムディア屋にご飯、野菜炒め、肉の煮物を買いに
行く。途中、税田さんで出会う。イン君と出会う。イン君は
昨夜日本料理店前に置いた自転車を盗まれてしまった。
同じような自転車に乗っていた。友達に借りたとのこと。
NHK『のど自慢』を見ながらフダ缶ビールを3本。
昼寝。
午後2時からメール受信。15通の受信。9通送信。
午後4時半。日本料理店前に日本人、日本料理店スタッフ
全員集合。
日本料理店のフエンさんの母親16回忌法要に参加。
フエンさんとの出会いは古い。1993年から94年までの
1年間、私が最初に作ったチーランン通り「子どもの家」
に入所していた。弟と一緒に。数年前に母親が病死。
父親も病弱で仕事が出来ず、父親が育てられないということで
チーラン通り「子どもの家」でフエンさんと弟を受け入れた。
その後、父親が入院・胃がんの手術をした。病院にいる父親
のお世話などの手伝いが必要ということで、ウエンさんは
「子どもの家」を退所し家へ帰る。「在宅支援」として
引き続き支援することになった。
家庭は王宮のお堀の横に『違法建築』で竹を編んだ簡単な
家を作って住んでいたい。
父と姉(17歳)、弟、妹。フエンさんが9歳位という家族構成。
1995年秋、「子どもの家」のロック寮長から突然連絡が
あった。17歳の姉が服毒自殺をしたとのこと。葬式など
出来ない、急いでフエンさんの家へ行って欲しいと。
当時フエ師範大学で日本語を教えていた渡辺和代さん
・ラームさんと一緒に王宮のお堀の横に作った簡素な家へ
行く。
父親は胃がんになり入院して3ヶ月。17歳の姉が家の
切り盛りをして、フエンさんと妹が住んでいた。弟は「子どもの家」。
生活費は私たちが支援している1ヶ月2000円だけであった。
父親の入院費、手術費などもかかり、姉が生活苦に追い込まれ
3ヶ月間、何とか私たちの支援金で生活を続けたがどうにも
ならず17歳の姉は将来への展望を失い自らの命を絶った
ということが分かった。
近所の人が集まっているが、そこはフエの「スラム街」。
近所の皆さんも王宮の塀に穴を掘って家にしたり、
掘っ立て小屋を勝手に作りして住んでいる。フエン一家の
葬式を支援することの出来る経済状態ではない。
結局、私が200ドル程のお金を出し、お通夜と葬式を
行った。父親は手術後であり病院にいて葬式の
取り仕切りも出来ない状態だった。
姉を失い、茫然自失のフエンさんと弟、妹の3人が
17歳の姉の葬式の主体であった。これほど悲しい出来事は
なかった。
通夜を過ごし、翌日の葬式を行ったが、何とも心の重い
出来事だった。その後、フエンさん家族の事が気になり、何度も
家庭を訪問。支援を続けた。父親が退院した。
しかし、手術後の経過が思わしくない。力仕事はできない。
フエンさんの家の横に豚小屋を作り、子豚を何頭か買って
上げる。父親が子豚を育て大きくし売り、収入を得るようにした。
その後、体力も回復した父親が『シクロ』の運転手をしたい
と言ってきた。シクロの世界は親方にシクロを借り、毎日
借り賃を支払うというものだった。借り賃が法外に高い。
親方の収奪である。父親はシクロを自分で持ちたい、
自営シクロになりたいとのこと。シクロを1台買ってあげる。
2万円ほどしたように思う。当時の庶民の年収である。
そんなこんなでフエンさんとの付き合いは続く。
その後、中学を卒業し、夜間の高校へ行きたいとの
ことで支援する。夜間の高校の途中で今度は、
フエ伝統の歌手になりたい、歌手の学校へ行きたいと
の希望があり、歌手学校へ通わせるも、途中退学。
次に料理を勉強したいとのことでハノイの料理学校
(フランスのNGOが経営)に1年間通わせる。
そして、日本料理店を立ち上げることを聞き
就職をしたいと訪ねてきた。就職を受け入れ
数ヶ月がたった。何とか日本料理店の料理に慣れる
ことを期待したい。
私たちの支援はどの子5年、10年と長い付き合いである。
結局はその子の人生そのものとかかわってきている。
また、支援とはそうしたものだと思う。人間とかかわり、
人を育てる。
税田さん、大塚さん、久保田さん、日本料理店の
グエットさn、トゥオイさんと一緒にフエンさんの家へ。
フエンさんの家を知っているのが私だけということで
家まで案内役を引き受ける。
フエンさんの家は以前の通り、お堀の横に違法建築の一つとして
建っていた。
以前よりも大分きれいな家になっていた。床や家の回りをコンクリート
で固めていた。
お母さんの16回忌、位牌にお焼香。
家の中と以前買った豚小屋を見る。家計に多少ゆとりが出てきた
のか、以前よりも家財道具が増え、こざっぱりしていた。
嬉しいことである。フエンさんが日本料理店で働き給料をもらい、
弟もラデン細工工場で働き収入がある。この10年間の支援で
やっと子どもたちが大きくなり、家計を助かるようになったのである。
豚小屋を見た。以前は竹で作った粗末なものだったが、コンクリート
で清潔な豚小屋となっていた。
父親が胃の手術をし退院。体力がなく仕事が出来ない。
子どもたちの面倒もみなければならない。そこで私たちが子豚を
数匹買い、豚小屋を作る支援をした。父親は子豚にお堀の水草
などのえさをやり大きく育てる。子豚は6ヶ月で大人になり売れる。
1頭60万ドン(4000円)。4000円あれば最低限度の生活は
出来る。何頭かの子豚を飼い育てれば、生きていけた。
親戚の人たちも若干来ていたが、今日は日本料理店で
お世話になっていると父親が思っている日本人や
子どもたちを招待し会食することが主目的。
既に美味しそうなご馳走が用意されていた。
父親・フエさん、親戚の人などが接待してくれる。
氷入りのビールが出る。ビールは飲みたいがなんとなく
「怪しい」氷。飲まないと失礼である。コップ2杯ほど飲む。
豚肉の煮物が何ともいえない美味しさを出していた。
1時間ちょっとご馳走になり退席。
13年間、フエンさんを見てきた。私の印象は表情や喜怒哀楽の
ない「暗い感じの子」というイメージだった。
今日のフエさんは、「ケラケラ」笑い、かなりトーンの高い声で
はしゃいでいた。日本料理店の関係者・日本人を我が家に
招待してご馳走することが出来たことを心から喜んで
いるようだった。
これからも日本料理店でしっかりと日本料理を覚え、
自立し、父親の面倒をみることの出来る人間に成長して
行って欲しいと思った。
午後7時半。フオン川にかかるチャンティエン橋のたもとで
「2006 フエ 夏の歌 コンテスト」が行われていた。
「子どもの家」のドゥオック君も出場する。今日は20人ほど
出場者。主催者はトゥアティエンフエ省文化会館。
フエ省で一番歌のうまい人を決めるというコンテストだとのこと。
私が行って時には既に大塚さん、税田さん、中村さんが
来ていた。聴衆は100人ほど。
審査員とフエ省・フエ市の「お偉いさん」が真ん中前列に座る。
副市長に挨拶。
ドゥオック君の出番は10番目。2番から9番までの歌を聞くが
音量が異常に大きく、一種の「拷問」であった。
うまいも下手も分からないほどの大音響の中で歌っていた。
ボリューム右回し全開状態。
この歌のコンテストはトゥアティエンフエ省にある各種団体
から歌のうまい人が一人代表として選ばれうまさを競うもの
である。
ドゥオック君はトゥアティエンフエ省立芸術専門学校から
選ばれて代表となりこのコンテストに出場することになった。
待合場に行く。トゥアティエンフエ省立芸術専門学校の
先生がドゥオック君についている。ありがたいことである。
参加者は正装していた。ドゥオック君だけネクタイをしていなかった。
大塚さんが急いで買ってきてくれた。
ドゥオック君が出場する10番目までの参加者の歌を聞く。
午後8時半。いよいよドゥオック君の出番。
日本人支援者の大声援に送られて登壇。
「涙そうそう」の意味をベトナム語で解説。フルコーラスを
堂々と歌い上げた。
その後更に10人の出場者があったが、既に時間も遅い。
参加者全員で記念写真。「子どもの家」のTY君も
友達のドゥオック君の歌が心配で励ましに来ていた。
午後9時前、トンチンカンホテルに帰宅。
大塚さん、税田さん、中村さんの4人で日本料理店など
いくつかの問題を話し合いながら「反省会」。
気がつくと午前1時になっていた。
その後の情報によるとドゥオック君は見事に予選を通過。
近日中に行われる準決勝出場を決めた。
2006年07月29日
日本語学校「ガイドコース」卒業式
晴天 36度 休肝日
午前6時起床。血圧・体重測定。
朝食。ブンボー。
午前8時半、スーツに着替えて静岡ーフエ青年交流会館
付属日本語学校「ガイドコース」卒業式に臨む。
静岡ーフエ青年交流会館は静岡市とフエ市の「友好都市提携」
のシンボルとして小嶋善吉静岡市長をはじめ静岡ライオンズクラブ
や市民有志によって設立された。現在、私たちJASSと
フエ市人民委員会が運営する「フエ市越日越交流委員会」
(委員長:ニエン外務部長、副委員長:小山JAA代表)
が管理運営している。
日本語ガイド養成コースは2004年8月に開講され2年間の
コースが終了した。日本語ガイド養成コースは、フエ省(100万人)
観光局からの依頼を受け、フエ省と提携して日本語ガイドを養成
する日本語コースである。
フエはユネスコの世界文化遺産に登録され、最近は多くの
日本人観光客が訪ねてきている。しかし、日本人観光客の
増加に日本語ガイドが追いつかない現状である。
フエはこれと言った産業もない。主な産業は観光業である。
フエ省・フエ市からの要請を受け、省・市と提携し、早期に
良質な日本語ガイドを大量に養成するという課題に
JASSが挑戦しているのが現状である。
日本語ガイド養成コースは、毎日5時間の日本語集中講義を
行い、毎週5日間開講している。1週間30時間という授業を
こなしている。
また、日本人教師4名、ベトナム人教師2名という教師陣も
強力な布陣となっている。ベトナム中部最大の日本語学校
(最高時170名の学生)となっている。
午前9時から卒業式が始まる。
トゥア・ティエン・フエ省観光局長、フエ市副市長(教育文化担当)、
フエ市外務部長ニエン氏などが来賓として参加。
地元フエテレビとハノイの中央テレビからも取材陣が来ていた。
卒業式には12名の卒業生が参加。
バオミンさん・税田真理子さんの司会で卒業式は進行した。
来賓紹介。
トゥア・ティエン・フエ省観光局代表の挨拶。
日本語学校校長の私の挨拶。
『フエ市と静岡市の友好のシンボルであるこの学校から
第1期の日本語ガイドが卒業することは本当に嬉しいことで
ある。皆さんが卒業するまでには、多くの人たちの目に見えない
協力と努力があったことを忘れないで欲しい。
これから日本語ガイドの現場に出て頑張って欲しい。』
続いて卒業証書授与。
トゥア・ティエン・フエ省観光局長より卒業生へ証書の授与。
フエ副市長より卒業証書の授与。
卒業証書授与の後、成績最優秀の生徒2名に特別賞を授与。
日本語学校教師を代表して石岡先生より励ましの言葉。
学生代表より感謝のことばがあった。日本語とベトナム語。
卒業式は無事終了。
中村先生・石岡先生・税田先生・フーン先生・サン先生
2年間の授業ご苦労様でした。また、日本へ帰国した
先任日本語教師の皆さんの努力にも敬意を表したい。
式典終了後、来賓・卒業生・日本語学校スタッフ一同記念写真
●卒業生と先生方
●石岡先生・フーン先生・中村先生
●日本語学校スタッフ一同の記念写真
●最後に「静岡ーフエ青年交流会館」前で全員写真
こうして微力ではあるが12人の日本語ガイドを養成する事が
出来た。私たちの日本語学校の卒業証書があればベトナムの
日本語ガイド国家ライセンスが取得できる。
地道な仕事ではあるが、「人間を育てる」という海外活動こそ
今求められているのではないだろうか?
紛争地への緊急支援も必要だろう。しかし、時間をかけて
コツコツと人間・人を育てることを抜きにした海外支援は
結局「物を与える」支援でしかない。物を与える支援は
あくまで手段のはずだ。
紛争地やその時々の世界情勢の焦点になった地域を
渡り歩き、物を与える支援もあるだろう。
私は目立たないところで、時間をかけ、人間を育てたい。
今回12人の日本語ガイドが2年間の歳月と多くの
日本人の支援・協力で育ったことに誇りを感じている。
静岡市長の小嶋善吉氏、元国会議員の藤田栄氏、
笠井氏・滝下氏などJASS静岡の会の皆さん、
静岡市ライオンズクラブ、清水・清水北ロータリークラブ、
静岡市国際課、ホット・ライン社長須賀孝氏を初め多くの日本人の
支援によって「人を育てる」と言う大きな仕事が出来たことを喜びたい。
午後12時半~午後1時半まで昼寝。
午後1時半から午後4時までメール受信・送信。
午後4時、日本料理店フエンさんが来て話しをする。
明日、午後5時からフエンさんのお母さんの14回忌の法事を
するとのこと。日本料理店の皆さんを招待したいとのことだった。
日本料理店の皆さんと相談し、明日午後5時に行く事にした。
午後5時半、子どもたち・日本人スタッフと夕食。
午後6時半、日本料理店開店。
直ぐに二人の日本人の来客。千葉県浦安市当代島の方。
浦安市のニコニコフリーマーケットでJASSのパンフレットを
見てJASS事務所(浦安市)に連絡。山西さんから日本料理店
を紹介され訪ねて来たとのこと。ありがたいことである。
日本食はとても美味しいとの言葉を頂く。食後、寄金を頂く。
その後、ホーチミン市でSONYと提携し電気関係の会社を
している韓国人4人が来店。韓国焼酎「ジンロ」をお土産に
もらう。越の寒梅、八海山、純米吟醸酒の3本を飲む。
グラスビーツ11杯。刺身・・・・。
今までの来客の中では一番お酒を飲んでくれる。
その後、フランス人、ベルギー人、ベトナム人など4人。
ハワイの日系日本人と欧米系の人。
今日は合計13人の来客があった。
韓国の皆さんが大量の日本酒、生ビールを飲んでくれた
せいもあり、今までの1ヶ月間の平均収益の10日分を
今日1日で得る事が出来た。こんな日は滅多にないが・・。
日本料理店のボランティア久保田さん(静岡市清水区
清水東高校出身)は2ヶ月半にわたり
午後2時から午後10時まで毎日日本料理店を手伝って
くれている。特に欧米系の来客の英語に子どもたちは
対応できない中で久保田さんの英語で助かっている。
接客の子どもたちにはなくてはならない存在となっている。
午後10時前、閉店。日本料理店の前においてあった
リー君の自転車が盗まれる。
今日も長い1日だった。
2006年07月28日
ピースボート:ダナン発→「子どもの家」へ交流
晴天 休肝日
今日は午前3時過ぎに目が覚める。出発の準備・入浴。
午前5時過ぎにホテルフロントへ。ラームさんと落ち合う。
バスでダナン港へ。午前6時過ぎ到着。
ダナン港には午前1時過ぎにピースボートの船は到着していた。
●「子どもの家」交流コース参加者がバスに乗車
午前6時半。ダナン港を出発したピースボートの一行34人。
20代の若者と50代以降の年齢の方々が半々と言った
年齢構成。
バスの中でベトナム紹介。「子どもの家」やボランティアに
ついて様々な角度から話す。
途中ランコービーチで休憩。フエ飛行場近くで小型バス2台に
分乗しフエ市内へ。
「子どもの家」到着午前9時半。
「子どもの家」ではセン運営委員長の歓迎の挨拶があった。
バオミン・ベトナム事務所長の通訳。
その後、子どもたちとともに近くの「タイロック市場」へ昼食の
買出し。
子どもたちと昼食の食材やお土産を買う。「子どもの家」に
戻り昼食作り。
午前11時半。「子どもの家」と34人のピースボート参加者が
一緒に昼食を摂る。
午後12時。2階音楽室で子どもたちとピースボートの
皆さんとの交流会。
初めにピースボートの皆さんから文房具などの支援物資の
贈呈が行われた。
初めに「子どもの家」の子どもたちの歌と踊り。
ピースボートの皆さんからの歌
ピースボートの皆さんと子どもたちと踊りで交流
午後1時。参加者と「子どもの家」関係者全員で記念写真
交流を終えてピースボートの皆さんは再びダナンヘ。
今回のピースボートは本来は昨日の午後、「子どもの家」へ
来る予定であった。しかし、日本を出発したあと、大きな台風
に見まわれ、途中、停泊を余儀なくされた。
結局1日遅れでダナンヘ到着。「子どもの家」にも1日遅れで
訪問すると言う異例の形になってしまった。
短い交流時間ではあったが、ピースボートの皆さんと
子どもたちとの交流は心温まるものだった。
午後1時半、トンチンカンホテルに帰る。昨日ダナへ行き、
今朝は3時に起床し、3時間かけて「子どもの家」へ来ると言う
強行軍だった。さすがに疲れが出る。
午後1時半から午後2時まで30分体を横にする。
午後2時から1時間ほど、送信されたメールを開き、
メール内容を熟読。必要な返事を出す。
午後3時、バオミン・ベトナム事務所長と一緒にフエ市人民委員会
外務部へ。ニエン外務部長と1時間半の懇談。
話し合いの内容は
①縫製工場建築遅延問題。その原因などを詳細に打ち合わせをする。
その対策を協議。一致した方針を出す。
8月初旬から建築が始められるよう対策と解決策を決める。
②日本語学校卒業式について
③縫製工場でアクセサリー工場を経営することも決定。
④その他、当面の様々な問題について意見交換。
ベトナムの現状、支援の問題などを話し合う。
来週の土曜。外務部長とホアン外務部員の家族を日本料理店
に招待して日本料理を紹介することとなった。
午後4時半、ベトナム事務所へ。バオミンさん・税田さんと
いくつかの問題について意思統一。
午後5時半、子どもたち、日本人スタッフと夕食。
夕食が終わる頃、日本人とベトナム人の来客。
食事が完全に終わらないうちに終わりにし、来客への対応。
刺身・焼き鳥・アジフライ、タイガー缶ビールなど・・。
その後午後8時半まで来客なし。
午後8時半過ぎ今日の営業を終わる。
今日の来客は2人。
(昨日の来客は5人だったそうだ)
2006年07月27日
ピースボート出迎えにダナンへ:日本料理店全員会議
終日曇り。少し肌寒い?
午前8時過ぎ、ベトナム事務所へ。ベトナム事務所は
停電。部屋は蒸し暑い。バオミン・ベトナム事務所長、
税田ベトナム事務所員と当面のいくつかの問題について
分析し方針の意思統一。
午前10時。大塚さんの電動バイクが故障。
バオミンさんと一緒にドンバ市場近くのバイク屋へ。
電動用バッテリーの故障。夕方までに直すと言う。
バイクの速度調整が出来ない。速度をゼロにしても
高速で走ってしまう。危険このうえない。
MADE IN CHINA。
その足で大塚さん・ミンさんと一緒にフエの「秋葉原」へ。
日本料理店で大型冷蔵庫がもう一台必要とのこと。
イタリヤ製大型冷凍冷蔵庫を購入。約700ドル。
日本料理店には数台の冷蔵庫、冷凍庫、冷水・温水器
なども購入している。店を経営するということは、結構
お金のかかること。
帰りにバオミンさんと一緒にコムディア屋へ。
午後12時半から午後1時半まで昼寝。今日は気候が変わり
体がだるい。
午後1時半からダナン行きの持ち物・荷物の整理。
午後2時。日本料理店全員会議。8月2日から開始する
「昼」「夜」ニ交代制の日本料理店について、昨日の子どもたちや
スタッフの意見を取り入れて、再度整理した新たな提案を
行う。
●調理A組 A10~P5:30 (主任:ホン トゥオイ・ヒエン)
●調理B組 P3~P10 (主任:イエン イン・ハンニイー)
★接客 A10~P2:30(途中「子どもの家」で休憩)
P6~P10 (グエット・ホンニー)
8月2日~9月30日までの2ヶ月間、昼夜2回開店を試行して
みることに決まる。
その後、昨日の料理・接客試験を行った結果を日本人が発表する。
午後3時。新しく買ったイタリアの冷蔵庫が届く。
新冷蔵庫を掃除する
既に日本料理店で購入し活用している3つの冷蔵庫・冷凍庫を
別室に3つ並べて、使い勝手を良くする。
旧冷蔵庫・冷凍庫を3つ並べ終わる
午後4時。ラームさんと一緒に車でダナンへ。
大型バスで出発。日本人の皆さんの見送りを受けて。
今日はダナンに泊まり、明日の朝6時半にピースボート(41人)
を出迎え、フエの「子どもの家」へ案内する。
途中バスで3時間。その3時間を使い、「子どもの家」、
ボランティア、ベトナムの現状、ベトナム戦争、戦争と平和の
問題などを話す。
「子どもの家」で近くのタイロック市場へ買い物。昼食を作り
一緒に食べる予定。
午後6時過ぎ、ダナン着。
ホテルで若干休憩し、ラームさんと二人でチェコビール園へ。
生ビールではあっても「泡でふたをしない」生ビール。
炭酸味は少なく、ホップの苦味も不足気味。
まあまあ。係りの人に泡を30%ほど上に乗せて欲しいと
頼む。係りの人は、ベトナム人はビンの上までビールがないと
損すると言って泡を入れると怒られると言っていたが、
無理に30%の泡を蓋にして持ってきてもらう。
0、3Lビン4本飲む。
2006年07月26日
日本料理店全員会議
晴天
午前7時朝食。フォー。
午前8時半。ベトナム事務所でバオミン・ベトナム事務所長の
誕生祝い。33歳。
ベトナム事務所員全員でお祝いの会。
石岡先生からお祝いの寄せ書き贈呈。
ソン君からお祝いのプレゼント。フダビール2ダース。
HAPPY BIRTHDAY を歌い記念撮影。
今後も健康に気をつけて幸せな家庭作りを進めながら、
ベトナム事務所長として頑張って欲しい。
その後、ラームさん・ミンさんと当面の諸問題について
意見交換。縫製研修工場建築遅延問題の現状、
その他の重要な諸問題について状況分析、方針等を
話し合う。
昼食。
「閨閥」の続きを読む。
午後2時。日本料理店全員会議。
昨日、大人で話し合った内容を子どもたちに提案し、子どもたち
一人一人の意見を聞く。子どもたちからも意見が出て、
更に修正することになった。
特に昼と夜の開店となった場合の勤務時間、勤務分担などに
ついて子どもたちの意見を聞いた上、更に明日の午後2時から
再度具体案を提案することとした。
午後6時から日本料理店の「調理」「接客」についての
総合的なテストを行った。
日本人スタッフ全員がお客となり、料理の味、見栄え、
接客の態度など「お客の視点」で日本料理店がどのように
運営されているのかをテストした。
お客は大塚さん、税田さん、中村さん、石岡さん、小山。
フリーのお客さんと同じように入店し注文を行った。
午後6時過ぎには、フリーのお客さん(日本人)が3人来店。
私たち5人と合わせて8人の来客を応対することとなった。
私はフダ生ビールを注文。
●注文の生ビールを持ってくるニーさん
大塚さんたちは、それぞれ分担して「刺身」など各種料理の注文をする
●刺身は、「まぐろ」「いか」「サーモン」
大分の大学から来た学生さんは、『天ぷら定食』を注文。
ベトナム語を勉強しているそうだ。先生は「田原先生」で
我が次男の先輩で友人だった。私も田原さんの教えている
学生に「子どもの家」の話をしたことがある。
午後8時過ぎまでに生ビール7杯ほど飲む。「徳岡スペシャル・
牛すじ煮込み」とあじのマリネを注文。牛すじ煮込みは
ビールにも合ってとても美味しかった。
料理の味は全て良かった。
注文の際に若干の問題があった。料理が出てくるまでに
時間がかかったなどいくつかの問題も明らかとなった。
日本人5人の総合評価、改善点などは明日午後2時の
日本料理店全員会議で検討する。
その後、引き続きフェスティバルビールが飲みたくなり
近くの大衆食堂へ。
帰宅午後9時15分。更に部屋で手作りおつまみ(イカ)
で吟醸酒を「若干」飲む。今日は痛飲。
2006年07月25日
日本料理店全員協議会
晴天。午後、スコール。 休肝日
午前8時半、ベトナム事務所へ。
バオミンさん・税田さんといくつかの問題を協議。
ベトナム事務所では、7月29日(土)日本語学校ガイドコース
卒業式の準備でおおわらわ。
午前中、12通のメール受信。必要な返信。
昼食は野菜とご飯中心のコムデイア。1万ドン(70円)。
午後12時半から「閨閥 特権階級の盛衰の系譜」続きを読む。
午後2時、日本料理店全員協議会。
昨日、「牛すじ煮込み」「豚の角煮」の注文があり、料理を出したが
両方とも『腐って』いた。お客さんに指摘され、大塚さん、久保田
さんが平身低頭、謝罪をし一応事なきを得た。
子どもたちは誰も「腐った」料理をチェックしないままお客さんに
提供してしまった。
間違ったこと自体は取り返しがつかないが、この失敗を重要な
教訓にし今後の日本料理店に活かすために話し合った。
子どもたち全員、妊娠で休んでいた店長のホンさん、ラームさん、
大塚さん、中村さん、税田さん、石岡さん、久保田さんの参加。
●腐った料理を出してしまった原因は何かを分析し話し合う。
①第1の原因は、しばらく前に作っておいた、「牛すじ煮込み」
「豚の角煮」を冷凍庫ではなく冷蔵庫に入れてしまったことで
ある。
当然数週間もたってしまえば、品質が落ち、腐敗してしまう。
本来は冷凍庫に入れておくべきものだった。
子どもたちは、今まで冷蔵庫そのものを使った経験がないの
で、冷蔵庫と冷凍庫の区別があまりはっきりしないまま、
とにかく冷蔵庫のどこかに入れておけばよいという
『冷蔵庫神話』にとらわれてしまっていた。
②第2の原因は調理をする子どもたちが、食材の適否、食材の
手触りや臭い、色合いなどを確認し、料理がお客に出せる
ものなのかどうかを吟味しないまま機械的に調理したこと。
③第3に最終的にお客さんに料理を出した接客係りがきちんと
料理そのものの最終をチェックしていなかったことである。
料理の適否は、少なくとも3箇所でチェックができたはずである。
しかし、そこでも誰もチェックをしないまま、最終的に腐った料理
が提供されるという、日本料理店の「自殺行為」をしてしまった
訳である。
昨日の様子を見ていると子どもたちは、「重大な問題」との
認識が弱いように思えた。食べ物を扱う仕事をする人間の
社会的な役割りについての認識に根本的な弱さがあることが
露呈された。
調理グループ、接客グループなどそれぞれの担当者の意見
も聞きながら、日本料理店の根本的な責務は、腐ったり、
伝染病などの原因となる料理を出さないことであることを
改めて全員で確認した。手洗いの励行、料理の確認。
清潔・整理整頓。
ただ、料理を作り、お金をもらうということが日本料理店の
仕事ではない事、社会的な重大な役割を持っていることを
子どもたちとともに確認した。
その後、大塚さん、久保田さんなどから、料理の作り方
について、細かい点の指摘があった。
「味噌汁」の作り方を子どもたちに尋ねる。子どもたちは
だしと野菜をと味噌を入れて煮ると答えた。
味噌は「風味」のもの、だしをしっかりとり、野菜を入れて
煮ること、野菜の味をきちんとだし汁の中に出す事。
味噌は「煮てはいけない」ことなどを教える。
子どもたちとの話し合いが終了した後、大人だけの
打ち合わせ。
近日中に実施を予定している日本料理店の「昼開店計画」に
ついて話し合う。
私のほうで昨年から準備をして来た日本料理店の
1年間を振り返り、簡単な総括、昼夜の日本料理店開店計画
と問題点を文章にして提出。
5月1日から公式に午後6時~日本料理店開店を開始。
月別の来客数は以下の通り。
5月 153人
6月 155人
7月 132人(7月24日現在)
約3ヶ月間で440人の来客があった。
大幅な黒字にはならなかったが、小幅ながら黒字となった。
7人の子どもたちの給料、1人のベトナム人スタッフの
給料、子どもたちや日本人の夕食、日本人の朝食、
光熱費、食材費等必要経費を落とした上で
「小幅な黒字」となったことは、日本料理店開店が基本的に成功した
ことを意味している。
私たちは誰一人日本料理店の経験がない。経験がない
中で「手探り」で始めた日本料理店が開店3ヶ月間で
曲がりなりにも黒字になったことは、大成功と言って
良い。日本語教師の皆さんは、ボランティアである。
フエ滞在費用の半額は自己負担となっている。
今回、日本料理店を開店した事で、日本語教師の
皆さんの朝食と夕食代を無料にする事が出来た。
それだけでも日本料理店開店の意味は大きい。
この間、日本語教師の松下さんの子どもたちへの
日本語指導、鳥取の徳岡さんや茨城の中村さんの
日本料理指導、大塚さんのボランティアによる
臨時店長、2ヶ月半におよぶボランティア日本料理員
として活躍してくれた静岡市清水区出身の久保田さん、
日本語教師の皆さんの協力など多くの人々の
見えない所での努力・協力があったことに改めて
感謝したい。
昼・夜の日本料理店開店を実施することとした。
子どもたちを昼と夜のグループに分け、ニ交代勤務体制を
作る事にした。子どもたちの勤務時間に無理や違法がないよう
十分配慮し、ニ交代制を実施。
7月26日(水)午後2時、子どもたちとの全員会議を再度行い
ニ交代制について子どもたちの意見や希望を聞く事にした。
その結果も加味し、最終案を私が作ることになった。
昼・夜の日本料理店開店も未知の分野である。
小さなことかも知れないが「新しいことへの挑戦」ともいえる。
とにかく考えていても進まない。8月・9月と2ヶ月実施してみて
途中問題が起これば、問題にあわせて柔軟に対応し、
変更しながら進めることにした。
午後5時半、子どもたちと夕食。
午後6時過ぎから日本料理店を開店するがリー君が無断欠勤。
のれんを出す人がいない。
リー君が出勤してきたのは午後7時。午後2時出勤のはずが
5時間の「遅刻」である。しかし、リー君は至って平静に堂々と
入店してきた。「遅刻と無断欠勤」を注意する。「眠っていた」
そうだ。なかなか身についた生活は直らないところがある。
時間をかけて、「仕事をすることは責任をもつこと」を体験的に
知ってもらう必要あり。二人で「遅刻・無断欠勤記念写真」
を撮影。
今日の来客は日本人3人。
豚の角煮、大根金平、かぼちゃサラダ、味噌汁、ご飯。
午後9時閉店。
7月27日に「子どもの家」と日本料理店に来るはずだった
ピースボート(41人)は台風の影響でダナン港入りが遅れ
7月28日の深夜1時過ぎにダナンに入港。
午前6時半にダナンを出て、41人の「子どもの家」訪問者が
やってくる来る事になった。
私とラームさんの二人は、7月27日の夜ダナンへ行き、
7月28日の午前6時半にダナン港から41人の皆さんを
案内し「子どもの家」へ行く事になった。
2006年07月24日
デンマークテレビ関係者:フエ省観光局長懇談
晴天 暑い 夕方一時小雨 休肝日
午前9時、デンマークのテレビ関係者が「子どもの家」を
訪問。「子どもの家」を案内する。
デンマークの二人は数日前に日本料理店に来てくれた
お客さんだった。
日本料理店で私が「子どもの家」を紹介。その際、
自分たちはハノイでストリートチルドレンなどの番組を作っている
テレビ関係者との話をしていた。
今朝、ベトナム事務所に電話があり、午後フエを出るので
その前に「子どもの家」を視察したいとのことだった。
男性はカメラマン、女性はディレクターだった。
今回は「子どもの家」の視察だが、出来たら「子どもの家」
の番組を作りたいと言っていた。デンマークに帰ったら
寄金を募り支援したいとも言っていた。
昨日の香港のセメント会社の社長さんと言い、今日の
デンマークのテレビ関係者といい、どこの国にも心の
ある人たちはいるものである。
日本料理店が「子どもの家」を紹介する場になるとは
思っていなかった。今後、偶然、日本料理店に来る事で
初めて「子どもの家」やJASS活動を知るということが
起こりうると思った。午前11時過ぎまで「子どもの家」で
デンマーク人を案内し、様々な質問に答える。
「子どもの家」には日本から3人の訪問者があり、税田さんが
案内していた。
午後12時半から午後1時半まで昼寝。
午後2時。トゥア・ティエン・フエ省観光局長と懇談。
私、バオミン・ベトナム事務所長、フーン日本語学校主任。
観光局長とガイドライセンス支給担当者
7月29日の日本語学校ガイドクラス卒業式を前にして、
18人の卒業予定者への国家ライセンス支給問題に
ついて協議した。
日本語学校が卒業証書を発行した学生には
全員日本語国家ライセンスを支給することを再確認。
また、第2期生の募集を行い、9月末から「第2期ガイドコース」
の授業を開始することでも意見が一致。
第2期生募集に当たっては、事前に一般教養試験を実施し
一定程度の教養のある人を第2期生として合格させる
ようにすることでも意見が一致。2時間の協議を終了。
午後4時、私・ミン・フーン・税田の皆さんと
ベトナム事務所で今日のフエ省観光局長との
協議内容について検討した。
午後5時半から子どもたちと一緒に夕食を摂る。
午後6時。東京の内田さんから電話。
訪日している「子どもの家」卒業生のメンさんの様子に
ついて。今日は半日ハトバスで東京見物。東京タワー、皇居など
を見学したそうだ。多少疲れもあり、夜は早く寝てしまったとのこと。
訪日2日間、元気に過ごしているとの連絡を頂き、一安心。
これからの日本滞在が有意義なものであることを祈る。
内田ご夫妻に感謝。
午後6時15分、日本料理店開店。
今日は9人の来客あり。日本人2人、ベトナム人7人。
2006年07月23日
フエ・セメント会社社長「子どもの家」視察
晴天
昨夜遅くまで飲み、起床は午前7時過ぎ。
NHK海外衛星放送で「日曜討論」を見る。
消費税問題など・・・。
政権与党の出席者が「2007年には大量の団塊世代が
退職し、年金、医療などに財政的な負担をかける」と
発言していた。私たちは社会に迷惑をかける世代なのか・・・
と改めて政権政党の出席者の発言を聞いて「ひがん」でしまった。
悲しい政治家たちである。私たちがどんな悪い事をした
というのか?
戦後直ぐ大量の子どもたちが生まれたのは
第2時世界大戦、アジア太平洋戦争が終わり、
海外から多くの兵士が日本に帰って来て子どもたちが
たくさん生まれたという客観的な理由である。
これは世界的な出来事でもある。「ベビーブーマー」とい
ことばもある。強いて言えば、国家が行った無謀な侵略戦争
の結果である。
「寿司詰め教室」「受験競争」などという言葉にも代表
されるように、団塊の世代は、かなり「粗雑」に扱われて
来た世代でもある。
1970年・80年代の日本の経済成長を支えた世代。
60歳になり退職して使い物にならなくなったら、急に
政権政党の政治家たちは「人数が多いので財政を圧迫し」と
いかにもその存在自体が迷惑な世代と言いたげな
発言をしている。私たちを利用する時だけは利用し、
利用価値がなくなったら「迷惑者」と切り捨てる。
本来なら「国家の責任でアジア太平洋戦争という侵略戦争を
行い、アジア諸国にたくさんの兵士を送り出し、戦争に負け、
たくさんの兵士が一挙に帰国し、多くの子どもたちが生まれました。
一度にたくさんの子どもたちが生まれ、これらの子どもたちの
みなさんには、きちんとして施設や食料も与えられずに申し訳
なかったです。その後も政府の施策が十分でなく、学校も
足りず、1クラス65人、1学年15クラスなどという教育的に
考えれば、およそ申し訳ない教育条件の中でもみなさんは
良く頑張り成長し、1960年代後半から今日まで40年近く
日本国家のために身を粉にして良く働いてくれました。
感謝します」という言葉がでなければ、人間として、
政治家として情けないことである。
「団塊の世代」が財政を圧迫し迷惑な人々であるかの
ような発言は、政治的な差別発言である。
戦後直ぐに生まれたことをいまさら迷惑などといわれても
どうしようもないでしょう・・・・・
それにこの40年間、団塊の世代は多くの税金や
社会保障費を支払っているのですよ。
60歳で年金がもらええるという国家の嘘を信じて、
せっせと年金をかけて来ました。突然、年金支給は
65歳からですと言われた時もそれほど「怒らず」に
来ました。昨年の総選挙前でしょうか「100年安心の年金改革」
という素晴らしい年金改革で支給金額もおよそ退職時給与の
60%支給から50%に減らせれました。50%程度は大丈夫
だろうなと思っていたら、何と最低30%程度まで減らされる
というではないか・・・・。それも出生率が1、25になった今では
全く意味のない「100年安心年金」である。
団塊世代の人数が多いので医療費も抑制するそうだ。
日本語とは便利なもの。抑制といえば聞こえが良いが、
結局、病気になっても面倒を見ないよということ。
40年間、頑張って国家に税金と社会保障関連の費用を
大量に支払ってきたのに、いざ退職、老後となったらこの
仕打ち。
昨夜午前2時まで飲んだアルコールがまだ頭に残っている。
ついイライラし、朝から怒ってしまった。気持ちを抑える。
午前8時半。東京の内田征子さんから電話。
昨日フエを発って訪日した「子どもの家」卒業生の
メンさんが無事日本に到着したとのこと。
中野の内田さんのお宅に着き、そのまま疲れもあり
寝ているとのことだった。ほっとする。
初めての海外旅行。それもたった一人での訪日で
ある。一昨年はベトナム事務所のソン君が一人で
訪日したが、成田の入管で1時間以上「取調べ」
を受けた。ブライセンに来ているホアン君も同様。
メンさんが成田の入管で「取調べ」を受けなければ
良いのだが、と心配していた。
ほっとする。これからしばらく内田さんご夫妻に
お世話様になる。感謝。
午前9時。日本料理店前でバオミン・ベトナム事務所長、
Tセメント会社社長と待ち合わせ。
セメント会社社長の車で「子どもの家」へ。
「子どもの家」でセン運営委員長と懇談。セン委員長は日曜日
だったが、訪問者があるということでわざわざ出勤。
T社長は中部・トゥア・ティエン・フエ省最大のセメント工場の社長。
セメント工場は香港資本とベトナムの合弁会社。
T社長はフエに来て11年。従業員800人の最高責任者。
T社長との出会いは日本料理店だった。T社長は日本料理店
に何度か足を運んで日本料理を楽しんでくれていた。
今回、私がフエに帰り、T社長が日本料理店に来られたので
挨拶し交流すると『私は11年フエにいて企業活動をしているが
お金儲けだけで社会貢献をしていない。小山さんのしている
ストリートチルドレン支援の活動を応援したい』との話だった。
T社長は香港出身の中国人。ベトナム中部でも大きな企業の
経営者である。中々忙しい方であり「子どもの家」視察の時間が
とれず、今日の日曜日となった次第である。
バオミン・ベトナム事務所長と「子どもの家」を案内する。
T社長は「今後、JASS、子どもの家に対する財政的な
支援をしていきたい」とのことだった。
なかなか心のある社長さんである。
同時に人間の出会いとは不思議なものでもある。
T社長は日本料理店に「お刺身」「お寿司」を食べに
来ていた。カナダのバンクーバーに長年住んでいた
とのこと。カナダで日本料理を食べていたようだ。
私がもし、日本料理店を作らなければ、T社長との
出会いもなかった。また、私の方で声をかけ、日本料理店
の「いわく因縁」を説明しなければ、今日の「子どもの家」
視察もなかったかも知れない。人間の不思議な縁というもの
を感じたい。帰りの車の中で繰り返し、「自分は何か社会的な
貢献活動をした。フエでたくさんの貧しい人々を見ていて
いつも心が痛んでいた」と話していていた。
T社長がどんな方かは知らないが、ベトナム中部最大の
会社の社長の一人であるT社長が、わざわざ日曜日に
「子どもの家」へ視察に来る必要も本来はないのである。
こうしてわざわざ来てくれたT社長の人間性が分かると
いうものである。13年間フエに住んでいるが、地元フエのベトナム人
の「お偉いさん」「お金持ち」がこうした形で視察に来た事は
一度もない。
「子どもの家」では、夏休み中であり日曜日ということもあり
子どもたちはリラックスして休みを楽しんでいた。
●休みを楽しむタン君たち
●昼食を作るクーアちゃん
●パソコンでゲームを楽しむチュン君
一昨日発表があった高校受験である。
ハイバーチュン高校に合格したターオさん(チュン君の姉)
の受験の成績が分かった。50点満点で換算して46、5とのこと。
合格したハイバーチュン高校の合格基準点は35点。
基準点を10点以上も上回っていた。
ちなみにトゥア・ティエン・フエ省で最難関校である
グエンフエ高校の合格基準点は40点。それさえ6、5点も
超えている。
セン委員長や「子どもの家」の関係者からは最初から
グエンフエ高校を受ければ良かったとの声しきり。
そういえばこの1年、「子どもの家」に行く度にターオちゃんは
いつも自分のベッドの上で勉強していたっけ。
「46、5」ということは、100満点に換算すると93点である。
高校入試の全ての教科で93点だったということである。
この13年間「子どもの家」に来た子どもたちの中では、
最も成績優秀な子どもとも言える。「子どもの家」は
特別勉強しやすい環境でもない。そうした中でも
ターオさんがこうした受験結果を出したということは、
もって生まれた能力と本人の努力としか言いようがない。
今後の精進を期待したい。本人は「先生になりたい」と
言っていたが、今はどんな将来を夢見ているのだろうか?
一人の子どもではあるがこうして自分の能力と力を信じて
生きて行く機会を作ってやれたことに喜びを感ずる。
●高校合格を喜ぶ「ターオさん」
昼前にトンチンカンホテルに帰る。その足でコムディア屋へ。
ぬるま湯に20分ほど入浴。
コムディア屋さんで野菜を中心としたおかずを買う。
それらをおつまみにフダビール3缶。
午前中、洗濯。
午後3時過ぎまで昼寝。7月15日にフエへ戻って10日目。
かなり疲れが溜まっているというのか、年齢的なこともあるの
だろうか? 体が相当硬直しることが分かる。
体を温めるように努める。
「放送禁止歌」(森達也著:知恵の森文庫)読了。
大変興味深い本だった。
ドキュメンタリーのディレクターである森氏が
1960年代後半から1970年初め頃までの
「フォークブーム」で歌われた「竹田の子守唄」
の追跡をしながら、「放送禁止歌」のドキュメント番組を
作り、フジテレビの深夜番組で放送した時の体験を
中心にまとめたもの。
多くの日本人は「放送禁止歌」があると思っている。
私もそうだった。しかし、森氏が実際に関係者に当たって
事実を究明していくと「放送禁止」という歌はなかった。
民間放送連盟(民放連)が作成した「要注意歌謡曲指定
制度」に基づき18章143項からなる「放送基準」に
よるものである。しかし、これはあくまで「基準」であり、
強制力はもっていない。制度的には各放送局が自主的に
放送するのかどうかを決めるというのが制度である。
森氏も含めて「竹田の子守唄」は部落差別の歌なので
『放送禁止だ」と皆が思っていた。
森氏が60年代、70年代の放送関係者や現在の
放送関係者にインタビューをするとほとんど全員が
「放送禁止」だといっている。しかし、実際に森氏が
調べてみると上記のような基本的な制度がある以上、
どこでも「放送禁止」を決めることは出来ない。
最終的には放送局自身が自ら決めるものだのだが、
どこの放送局の担当者も自ら判断をもたず、
調べもせずに「放送禁止」のような感じがすると
言うだけで放送しない、というのが現在の
マスコミ・放送関係者の実情だ、ということが
良く分かった。
現在の放送関係者は差別用語、政治的な発言、
皇室や特定宗教、右翼など、抗議や問題追求が
少しでもありそうなことが予想される場合には、
何も考えず、全局が横並びに「自粛」してしまう。何となく
指示されたり強制される前に「自らが雰囲気を
察知し」放送しないという現在のマスコミ・放送業界の
実態に強く警告をあたえてる。放送業界が死ぬ
一歩手前、「薄皮で首がなんとかつながっている」
状態と書いているが、私には、既に「首は落ちている」
としか思えないのだが・・・・・。
森氏はマスコミ・放送業界の現状を厳しく指摘しているが
これは放送・マスコミ業界だけではなく、今の日本の
社会情勢そのものを象徴しているようでもある。
何ごとも「無難に」「人と違ったことはしないように」という
国民の何ともいえないフヤケタ空気が蔓延している。
同時に「非国民」などという物騒な発言や空気が日本に吹き始め
ている。
W杯なども「サムライ日本万歳」といわなければ、
「非国民」と言われそうな嫌な雰囲気があった。
「憲法を守る」「9条は日本の命」などという発言は
10年ほど前なら何憚ることなく言えた言葉であるが、
最近のマスコミ、放送では中々そうした発言をする
人間がいなくなった。
「放送禁止歌」を読んで、NHKETV2001の従軍慰安婦
問題の番組について「偏向」発言をし、変更を求めたという
疑惑があるポスト小泉の最有力候補である安部氏という
人間の本質的な怖さを考えた。
午後8時。数日前に作った私の大好物のおつまみで
一杯。するめ、人参、昆布をだし汁にいれ、お酒と
醤油、少量のつけ汁に2日間つけておく。
するめがやわらかくなり、するめの何とも言えない味が
出る。
「閨閥 特権階級の盛衰の系譜」(神一行著:角川文庫)
を読みながら、『小樽 ふなくち酒 搾(しぼりたて)』を
飲む。するめと日本酒は古来より調和する食物。
2006年07月22日
ベトナム事務所員全員会議:ピースボート先遣隊と打ち合わせ
晴天。終日蒸し暑い。
午前7時過ぎ。訪日するメンさんがトンチンカンホテル
(日本料理店)にやってくる。
ラームさん、日本人スタッフと持ち物などの最後の点検を
行う。
●航空券等の確認をする
メンさんは始めての海外旅行である。
たった一人での訪日は私たちが想像する以上に
勇気がいると思う。不安一杯な気持ちで
ホーチミン市へ旅立って行った。今夜午後11時半頃の
ホーチミン市発の飛行機で成田へ行く予定である。
日本へ無事たどり着くよう祈っている。
午前9時。ベトナム事務所員全員会議。
私がフエに戻ってから初めての全員会議。
ベトナム事務所員全員会議はバオミン・ベトナム事務所長の
司会で始まった。
初めに私の方から日本滞在中の活動について報告。
続いて各事務所員の諸活動について報告があった。
(ソン)ガイドクラスの卒業試験のビデオ撮影を行った。
(税田)日本語学校中級5の授業をした。16人。
奨学金のお礼の手紙の翻訳
(石岡)ガイドクラスの卒業試験。
(ハン)毎月20日の月給の用意をした。
里親への手紙を書いた。
(ラーム)メンさんのパスポート・ビザ取得作業
(フーン)ガイドクラス卒業試験
7月26日のガイドクラス卒業試験筆記の準備
7月29日(土)ガイドクラス卒業式の準備
(サン)ガイドクラス卒業試験の試験官
(ミン)同上 7月24日午後、省観光局との打ち合わせ準備
日本料理店のT君の問題
高校受験生5人の結果。
・ハイバーチュン高校合格 2名
・ヤーホイ合格 2名
・失敗 1名
日新電機への就職。TY君、TRUONG君。
ミンと「子どもの家」のタム医師で連れて行く。
●続いて8月・9月のスタディーツアーの日程と分担確認。
・7月27日・28日 ピースボート(40名)
・7月30日~8月4日 地球の歩き方ツアー(Ⅰ)(12名)
・8月4日~8月8日「京滋YOUの会」スタディーツアー(11名)
・8月16日~21日 神奈川県教育委員会スタディーツアー
・8月21日~8月26日 JASSスタディーツアー(11名)
・8月22日~8月27日 地球の歩き方ツアー(Ⅱ)(12名)
・8月23日~8月27日 全国大学生協ツアー(1)(8名)
・8月23日 ウオータービジョンスタディーツアー(10名)
・8月25日 金沢大学医学部スタディーツアー(22名)
・8月29日~9月3日 地球の歩き方ツアー(Ⅲ)
・8月30日~9月3日 全国大学生協ツアー(Ⅱ)
・9月5日~10日 地球の歩き方ツアー(Ⅳ)
・9月6日~10日 全国大学生協ツアー(Ⅲ)
・9月7日~10日 静岡市国際交流協会スタディーツアー
・その他個人訪問者
★16スタディーツアー 165名
●日本語学校ガイドクラス卒業式要綱決定
・日時 2006年7月27日(土)午前9時~
・場所 静岡フエ青年交流会館
・出席者 フエ市越日越交流委員会
フエ省観光局
ベトナム事務所員
日本語学校教師
テレビ局・新聞社
生徒(18名)
ベトナム事務所員全員会議は午前11時半まで続いた。
午前12時半から午後1時半まで昼寝。
午後2時。ピースボートのレオさんが日本料理店へ。
7月27日・28日に第54回ピースボートの皆さん40人が
日本料理店や「子どもの家」を訪問する。
「子どもの家」での活動、日本料理店での食事などについ
て打ち合わせをした。レオさんはピースボートの先遣隊。
ミンさん、ラームさん、大塚さん、税田さん、私で対応。
午後4時。昨日、欠勤した男子スタッフ2名を呼んで
勤務の問題について厳重注意。ラームさん、税田さん同席。
午後5時半子どもたちと夕食。
午後6時、イタリア人とベトナム人(ニューヨーク在住)が来店。
カツどん、天丼、かっぱ巻きを注文。
子どもたちが見事に注文の食事を作る。
●カツどんを上手に作るターオ君
●出来上がった「天丼・カツどん」
●かっぱ巻きを作るトゥオイさん
●出来上がった「かっぱ巻き」と野菜の小鉢
午後8時半、日本人と韓国系アメリカ人が来店。
2週間前に入れた60リットルの生ビールがなくなる。
来客係りのニー、グエットが上手に新しい生ビールに取り替える。
こうして時間はかかるが、子どもたちは日本料理店での様々な
仕事を体験で覚えていく。
午後10時閉店。
閉店後、韓国系アメリカ人は帰宅。
残った日本人の若者(23歳)と日本人(4人)で
様々な話をする。最終的に午前2時まで。
2006年07月21日
日本語学校卒業試験第2日目
晴天。夕立あり。
フエに帰国し1週間経った。早いものである。
昼間の仕事と夜の日本料理店の二つに立ち会っている
せいもあり、疲労が溜まる。この1週間の疲れが出た。
午前中、昨日(7月20日)の日記を書く。
午後12時半~午後1時半まで昼寝。
午後2時から日本語学校卒業試験第2日目。
今日は受験生18人の残り半分9人の試験を行う。
●ベトナム事務所員・日本人スタッフが試験官。
●中村友香先生の開会の挨拶から第2日目の試験が始まる。
午後2時、室温は36度以上。天井のファンのガタゴトという
音が暑さを一層厳しく感じさせる。席に座っただけで、体中に
汗が噴きでる。
初めの受験生の説明が始まる。第4代トゥードゥック帝廟
について、ビデオを使いながらガイドを行う。
二人目は「王宮」のガイド。
3人目はティエンムー寺。
一人20分。3人の試験で1時間。3人の試験を終えると
5分間ほど休憩。
9人全員の試験が終わり講評。
トゥア・ティエン・フエ省観光局代表、続いて私。
その後、各審査員の感想が述べられる。
●サン先生の講評
●フーン日本語学校主任の講評
●バオミン・ベトナム事務所長の講評
●ラーム・ベトナム事務所員兼東京平和産業社長の講評
●ボランティアで日本料理店を手伝ってくれている久保田さんの
講評
9人の学生は皆さんかなり緊張して試験に臨んでいた。
午後5時過ぎ、全ての日程を終える。
7月26日(水)には、卒業筆記試験を行う。
7月24日(月)にトゥア・ティエン・フエ省観光局と
ガイド国家ライセンス授与の件について協議の予定。
午後5時半から日本料理店で子どもたちと夕食。
午後6時半、明日日本へ旅たつメンさんが妹の
トゥーイさんと日本料理店に来る。バオミンさんのスーツケースを
借りて訪日。スーツケースに必要な荷物をつめる。
中村さん、石岡さんが荷造りの手伝いをする。
●明日、フエを発ち訪日するメンさんと妹のトゥーイさん
日本料理店にて
午後6時半、日本料理店開店。開店と同時に豪雨。
町を歩く人たちがいなくなる。
午後8時まで来客なし。午後8時過ぎにデンマーク人2人、
スペイン人2人の4人が来店。
天ぷら、刺身、にぎり寿司を注文。フダ生ビール、
フダ缶ビールを飲む。
フエに来て1週間目。4人、4人、17人、14人と毎日それなりの
来客があった。フエは現在観光のOFFシーズン。
10月から来年の初めまでがONシーズン。
8月・9月と日本人もたくさん来る予定。何とか日本料理店も
赤字にならずに運営できそうな見通しである。
無報酬で手伝ってくれている大塚さん、久保田さん、
日本語学校教師の皆さんの無私の協力があればこその
ことである。感謝。
午後10時ちょっと前に日本料理店は全て終了。
子どもたちは9時過ぎに全員帰っている。
今日は男子スタッフ2名が出勤しない。
午後8時頃になってフラフラとやって来た。
2006年07月20日
日本語学校卒業試験: 日本料理店盛況
快晴。眩しい程の真夏。
午前8時から20通のメール受信。必要な答えを送信。
午前9時、「子どもの家」から在宅支援へ移行し、現在も
支援中のA君と懇談。
A君は1993年9月から支援している。当時私が最初に
作ったチーラン通り「子どもの家」にA君は入所してきた。
事情があって母とA君の二人暮らし。母親は地雷で片足が
なく、仕事も出来ず仮小屋に住んでいた。
近所の人の紹介でチーランン通り「子どもの家」にA君を
受け入れ数年過ごす。その後、母親は一人暮らしが寂しく
なりA君を家に引き取るが生活が出来ない。私たちが
「在宅支援」として、通学させ母子の生活を支えてきた。
A君は学校へ行くと成績最優秀。ベトナムの名門高校
「コックホック高校」に入学。4年前には、地元の名門大学
の難関学部「フエ科学大学コンピュータ学科」に見事入学。
今年8月に卒業の運びとなっている。
事情があり数年前に母親は死去。現在、A君は「天涯孤独」
の身の上。
今日はA君を呼び、卒業後の身の振り方について話し合った。
両親がいないこともあり、親の代わりに今後の進路について
突っ込んだ話し合いを行う。
現在、地元の小さなコンピュータ会社で研修生として働いている。
採用されるかどうかは不明。当面もらえる給料は80万ドン(6千円)
程とのこと。今後の見通しは現在はっきりしていない。
今回の日本帰国で私たちの支援者であるIT企業社長より
「フエから2名のIT研修生を受け入れても良い」との話があった。
東京にあるIT企業がベトナム人研修生を受け入れ、2年ほど
日本語学校へ通わせ、更にIT専門学校で基礎教育を行う。
3年から4年ほど日本語とITの基礎教育を行った後、
そのIT企業で4年程実習しベトナムへ帰り、フエでIT企業の
仕事を分担し行うというプロジェクトである。
A君に日本での研修の機会があることを話す。A君は
是非日本で研修をし、ITのスキルをアップしたいとの
強い希望を持っていた。私の方からは「日本での研修終了後
フエに戻り、JASSや子どもの家に協力しながらIT関係
の仕事をして欲しい」「ストリートチルドレンの後輩のために
努力するという気持ちを忘れないで訪日研修をして欲しい」との
話をする。
一応、A君の訪日希望の意思を確認した。これから日本の
IT企業と詳細打ち合わせを行い、更にもう1人の訪日希望学生
を見つけ、来年の初めには訪日研修に行かせたいと思っている。
私たちの仕事は生活条件の悪い若者に「チャンス」を上げる
ことである。訪日して成功するかどうかは本人の努力次第である。
生活困難な若者にチャンスをあげたい。とかくベトナムでは
海外留学をする若者は共産党など一部特権階級の師弟に
限定されている。日本人の税金を使って訪日する国費留学生
の多くは一部特権階級の子弟である。日本の税金を使わなくても
十分お金のある家庭の師弟に更に日本の税金を使って
訪日させている現状には、幻滅を感ずる時もある。
今、私の置かれている環境の中で少しでもこうした不平等に
挑戦し、生活困難な若者に人生のチャンスをあげたいと
思っている。小さな抵抗ではあるが・・・・・。
午後12時半から1時半まで昼寝。
午後2時から日本語学校の「卒業試験」の審査官を行う。
日本語学校にはいくつかのコースがある。その中でも
一番難しい「日本語ガイドコース」の卒業試験である。
日本語ガイドコースは2年間という長い期間、毎週5日間、
毎日5時間の日本語の特訓を行う最難関コース。
今日は、いよいよ2年間の勉強が終わり、日本語ガイド
(国家ライセンス支給)として合格させるかどうかの
判断を行う試験である。
試験内容はフエの有名な観光地の一つを選び、自分で
ビデオを使って観光地を撮影し、テレビで上映さながら
観光地を日本語で説明する。私たち審査官は説明した
内容について、日本語で質問し応答の内容をチェックする
というもの。更にガイドをして起こりそうな問題をくじ引きで
引き、適切な答えを日本語で説明するというもの。
審査官はトゥア・ティエン・フエ省観光局から人事部長、
ライセンス発行担当部長が出席。JASS側から
オアシスの会の大塚さん、税田真理子さん、バオミンさん、
ラームさん、サン先生、石岡先生、小山という陣容。
卒業試験受験生は18名。今日9人。明日21日9人と二日に
分けて試験を行う。
9人の受験生。アオザイなど正装で試験に臨んでいた。
明日試験を受ける「後半組」の生徒は試験の様子を戦々恐々
として見守っていた。
途中3回の短い休憩を挟んで3時間の試験を行う。
9人の生徒の話す日本語しっかりと聞き取り、必要な
質問をするという作業はかなり疲れる。
午後5時に9人の試験を終え、記入用紙に個々の受験生の
採点を書き、日本語学校主任のフーン先生に渡す。
午後5時半、日本料理店で子どもたちや日本人の皆さんと
夕食。
午後6時、日本料理店開店。
直ぐにベトナム人2人が来店。にぎり寿司を注文。
更に日本人一人。焼き魚定食。
更にベトナム人3人。カレーライス。
最後にオーストラリア人の家族4人。天ぷら定食。
厨房では10人の来客の注文に応えて、てきぱきと調理を
していた。子どもたちも大塚さん、中村さんなどの指導で
十分自分たちだけで調理が出来るようになっていたい。
天ぷら定食用の天ぷら。からっと揚がっていて美味しい。
今日は10人の来客。日本人は一人だけ。
接客担当のグエットさん、ホン・ニーさんはどうしても英語を
勉強しなければならなくなった。注文をとつるために特化した
英語教育の方途を考える事にした。
午後9時日本料理店閉店。
今日は20日の給料日。閉店後、18歳以上の子どもたちに
正規の給料(50万ドン・3500円)を手渡す。
研修生には、「子どもの家」のセン委員長に
研修費(30万ドン・2000円)を渡している。
毎月25万ドン(1800円)を貯金してもらい退所時に
全額本人に自立費用として渡し、残りの5万ドン(350円)
を小遣いとして渡してもらっている。
子どもたちに給料や研修費を手渡しながら、励ましや、
気づいたこと・仕事上や生活上の問題などを注意したりした。
午後9時半頃から今日の日本語学校卒業試験、日本料理店
ご苦労さん会を行う。大塚さん、税田さん、中村さん、石岡さん、
久保田さん、小山、リー君、ターオ君。
午後10時過ぎ、大塚さん、久保田さん、リー君・ターオ君が
帰宅。
更にトンチンカンホテル住人4人で諸問題を徹底討論。
午前12時半過ぎ、徹底討論会は終了。
2006年07月19日
「子どもの家」の様子。大入り満員の日本料理店
快晴。暑い。休肝日(3日目)
午前9時ベトナム事務所へ。ベトナム事務所では通常業務が
粛々と行われていた。
●バオミン・ベトナム事務所長、会計担当ハンさん
●税田真理子ベトナム事務所員
●サン・日本語学校教師
●明日からの日本語学校「ガイドコース」卒業試験の準備
ソン君・石岡先生・フーン先生
午前中、ベトナム事務所で仕事。38通のメール受信。
14通のメール送信。
午後1時から午後2時まで昼寝。
「放送禁止歌」(森達也著:知恵の森文庫)半分読む。
午後3時過ぎ「子どもの家」へ。
「子どもの家」では夏休みということもあって子どもたちは
リラックスして毎日を過ごしているようだった。
特別学校からの宿題もない。
●へちまの種を取る子どもたち
こやま峰子さんの書いた絵本。昨年、静岡市の講演会で
こやま峰子さんと一緒に講演会をした仲である。
セン「子どもの家」委員長に直接渡し、図書室に置くことになった。
5月・6月で6人の新入所の子どもたちがいた。
●新入所 5歳の男子と9年生の女子
●6年生の女子
午後5時半、日本料理店の子どもたち、日本人で夕食。
午後6時日本料理店開店。リー君がのれんを出す。
リー君は夕方、日本料理店前をきれいに掃き清める。
午後6時過ぎ、中国人(香港)2人が来店。にぎり寿司などを
注文。日本人の若者が来店。天ぷら定食を注文。
続いて常連の日本人が一人。生ビールや吟醸酒。
更に2人の日本人。生ビールなど。
●3対7の「ゴールデン比率」に注意しながら生ビールを注ぐ
9人のベトナム人。ソフトドリンク。刺身、カレーライス
など・・。
●満員状況の日本料理店
●ベトナム人グループのお客さん
更にアメリカ人とベトナム人。
午後9時までに17人の来客。
日本料理店は満席となり、続々と来る注文に厨房は
追われる。刺身がなくなる。
●注文の刺身を運ぶボランティアの久保田さん
●17人の伝票をしっかりと記入し、金銭授受をする
グエットさんとニーさん
●日本料理店警備員に復帰し張り切っているリー君
午後9時過ぎ全てのお客さんが帰宅。
17人というかなり多くのお客さんが来店し、日本料理店の
厨房は活気に満ちていた。接客の子どもたちも多少興奮気味。
手が足りなくなり、日本語学校教師の中村さん、石岡さんも
緊急助太刀状態。子どもたちと日本人の総力で17人の
「思いがけないお客」さんへの対応を見事にこなす。
売り上げもかなりのものとなる。
20歳の日本の大学生が来店し、同じく20歳のリー君と
記念写真。
このところ1人から4人程度の来客だっただけに
予約なしの17人の来店は今後のよい勉強となった。
子どもたちも日本人もかなり疲れた夜だったが、
心地よい疲れでもあった。子どもたちは満足感を
もって「子どもの家」や下宿へ帰って行った。
今日のようなある意味では「非常事態」になった時、
人間は男女・年齢・国籍・人種を忘れて、
緊急事態(この場合は17人もの『予定外のお客』が
来てしまい、対応できないほどの状態)に一致団結
して立ち向かうものなのである。日本料理店スタッフの
皆さんの様子を見ていると、何とかお客さんに満足して
もらえるようなサービスを提供したい、自分に与えられた
仕事をしっかりと完遂したいという気持ちが厨房や
接客担当スタッフの雰囲気に充満していた。
こうしたことが人間の強い絆となっていくのだと改めて
感じた次第である。
人生に於ける人間の幸せとは、あるいはこうした
瞬間なのかもしれない。誰もが金儲けや出世、
損得などを度外視して「仕事に埋没し」、みんなで
力をあわせて「仕事を成し遂げた」時の満足感
というものが「幸せ」という概念にかなり近いものなの
かも知れない。
何でもない来客への対応をした3時間ほどだったが、
一人一人の人生の中の小さな「しあわせ」という
戸棚に収まった時間だったのではないのだろうか?
2006年07月18日
ベトナム事務所打ち合わせ・・・・・
曇天。蒸し暑い。休肝日。
朝食ブンボー(牛肉と米うどん)。
午前8時半、ベトナム事務所でバオミン・ベトナム事務所長、
税田さんと8月・9月2ヶ月のスタディーツアー等受け入れ
体制・人員配置案について詳細打ち合わせ。
現在分かっているだけで15のスタディーツアー、推計200人
の訪問者がある。「子どもの家」訪問は半日から1日程度で
あるが、山岳少数民族、日本語学校、日本料理店、
フエ平和村、関係小中高校などへの訪問も行う。
ベトナム事務所員総出の案内等の人員配置案を
詳細に検討する。
午前10時。ベトナム事務所にて日本語学校「ガイドコース」
最終卒業試験打ち合わせ。
2年間の「日本語ガイドクラス」がいよいよ終了する。
このコースの第1期生である。毎週5日間、毎日5時間の
充実したコースである。
7月20日・21日の2日間をかけて、一人20分間の
日本語会話面接試験を行う。
試験官は、校長の私、バオミンさん、ラームさん、
省観光局副局長、サン先生、税田先生、オアシスの会の
大塚さん、日本料理店手伝いの久保田さん、石岡先生の
9人。
フエの観光地のガイドの実演を日本語で行い、その内容に
ついて9人の試験官から日本語で質問を受ける。
その後、日本語ガイドを実際に行った時予想される
「様々なトラブル」の対処法について
質問を行う予定。日本語学校の先生方の
事前の準備が周到になされていた。当日の試験で
出来るだけ多くの学生が合格することを祈る。
午後12時半から午後1時半まで昼寝。
午後2時。ベトナム事務所で訪日を予定している
「子どもの家」卒業生のメンさんと面談。
訪日の細かい打ち合わせを行う。
ラームさん・バオミンさん・税田さんも同席。
持ち物・飛行機の乗り方、入管・税関の通り方などホーチミン空港、
成田空港での行動の仕方を細部にわたり図を書いて説明。
成田の入管で質問を受けた場合の説明書を私が日本語で
書いて渡す事になった。
午後4時。日本料理店で全員会議。私の不在中の5月・6月の
日本料理店での経験、問題、教訓などについて、率直な
話し合い、総括を行った。
①料理関係
・大塚さんがこの間60種類程の日本料理を教えた。
現在、日本料理店でメニューに書いてある料理の
ほとんどは子どもたちで調理できるようになった。
・日本料理の名前を中々覚えられない。
・注文伝票の扱いについて、様々な意見が出て
当面の扱い方を決める。
・定刻に出勤しない調理係りの男子がいる。
仕事なので頑張って定刻に出勤するようにしたい。
②接客
・お客さんは日本人40%、英語を使う人60%
お客様係りのニーさん、グエットさんは
どうしても英語の学習が必要である。
急いで日本料理店で使う英語に特化して
英語学習を行えるよう準備をする。
・ホーチミン市で3軒の日本料理店に行って
接客の様子を見てきたが、なっていないかった。
我が日本料理店の接客はしっかりしている。
③警備関係
・気分で出勤したりしなかったりということが
常態化している。仕事なので必ず出勤して欲しい。
日本料理店では警備員さんの仕事が必要である。
午後2時に出勤し、日本料理店の前をきれいにする。
玄関の掃除、自転車やオートバイの整理。
調理場・接客関係で緊急に必要な仕事・用事などを
率先して行う。
午後6時からは、日本料理店前に出て、行きかう
人々に「日本料理はいかがですか?」と声をかけ
日本料理店のパンフレットを渡す。警備員の一声で
お客が入店するかどうか決まるという「決定的に大事な
仕事だ」との自覚を持って欲しい。
・普段着で日本料理店前に立っていては見苦しい。
2~3週間一度は理髪屋に行くように。また、
半袖の白いワイシャツ、ズボン、蝶ネクタイを着用し
品の良い日本料理店とのイメージを持ってもらうような
服装等にも気をつけてほしい。
1時間半の話し合いを終わり、直すべき点は直すという
意思統一を行う。
午後5時半。子どもたち、日本人スタッフ全員13人で夕食。
夕食内容。
午後6時過ぎ開店。
警備員のリー君はこの所出勤をしていなかった。
久しぶりの仕事である。今日の全員会議での話し合いを
受けて、ワイシャツときれいなズボンをはいて店の前で
お客さんに声をかけていた。
やる気満々だった。いつもこうあって欲しい。
今日は4人のベトナム人が来店。
午後9時閉店。
部屋に戻ったのは、午後9時過ぎだった。
朝8時半から午後9時過ぎまで、結構長い一日だった。
「子どもの家」の子どもたちの日本料理の上達には
目を見張るものがある。昨年の8月から様々な研修を
行ってきた。鳥取の徳岡さんや中村さんなどの料理指導
を受けながら今日まで歩んできた。
子どもたちの熱心な態度、多くの日本人の指導のお陰で
子どもたちは基本的に当面日本料理店で提供する
日本料理は自分たちで調理することが出来るように
なった。偉いものである。
今日の話し合いを受けて、当面8月と9月に限定し
午前11時~午後1時か2時までの「昼食」のための
日本料理店開店を検討している。
子どもたち、ベトナム人スタッフに様々な経験をして
もらいながら、基本的には「人を育てる」ことを目標に
日本料理店運営を進めている。
私たち自身が日本料理店の運営・経営の素人である。
素人ではあるが、智慧を絞り、体験を通して日本料理店
経営のノウハウを身に付ける努力をしている。
勤務時間と勤務態度が「不規則」で「不安定」な男子2名
についても時間をかけて説得し、経験を積ませながら
成長と自覚を待つ努力をしている。これも「人を育てる」
ということかもしれない。二人の男子の成育暦を見れば
「さもありなん」と思える所がある。せめて、私たちだけでも
二人の男子の味方となり応援団として存在することも
必要だと思っている。彼らとの付き合いは10年以上に
なる。これも何かの「縁」である。
「子どもの家」の子どもたちと付き合っていると、
物はなくても生きる意欲と力は十分持っているいるように
思われる。日本の子どもたちとどちらが幸せか?
考えてしまう。
2006年07月17日
フエ仕事開始初日
晴天。気温36度。休肝日。
暑く、非常に蒸し暑い。
朝食。2ヶ月ぶりに日本人の皆さん(税田さん、中村さん、
石岡さん)と朝食フォーを食べる。懐かしい美味しさ。
午前9時過ぎ、ベトナム事務所へ。ベトナム事務所の
皆さんも元気に仕事をしていた。
バオミン・ベトナム事務所長、税田さんと当面の
諸問題について意思統一。午前11時過ぎまで。
昼食はコムディア。
午後12時から午後1時半まで昼寝。
午後2時、ベトナム事務所へ。
ラームさんに電話をするが通じない。
聞いてみると携帯電話の仕方が変わったとのこと。
携帯に登録されている電話番号を全て直す。
ハンさん、税田さんと会計打ち合わせ。
私が日本に滞在している間に預かった暖炉寄金、
奨学金などをハンさんに渡し、領収書を送ってもらう。
午後3時半、トンチンカンホテルに戻りメールのチェック。
メールの調子が悪い。
日本料理店では大塚さん、久保田さんと一緒に子どもたち
が開店のための準備をしていた。
午後4時、オアシスの会の大塚さんと日本料理店関係の
諸問題について意思統一。
日本料理店の夕食メニューはほぼ固まってきた。
これらのメニューはほとんど子どもたちの力で作れるようになった。
・定食 肉定食 魚定食 5ドル
・にぎり寿司(味噌汁) 8ドル
・いなり寿司(味噌汁) 3ドル
・きしめん
・浅漬け 0、5ドル
・いんげんごまあえ 1ドル
・じゃがいもキンピラ 1ドル
・大根の酢の物 1ドル
・なすの味噌炒め 2ドル
・手作りさつま揚げ 3ドル
・天ぷら盛り合わせ 4ドル
・牛筋煮込み(吉岡スペシャル)2ドル
・ベトナム揚げ春巻き 1ドル
・豚の角煮煮玉子付き(中村スペシャル)3ドル
午後4時半、バオミンさんと一緒に「子どもの家」へ。
セン委員長と打ち合わせ。私の不在中の「子どもの家」の
諸問題について説明を受ける。TY君、TRUNG君の
ハノイ日新電機就職の件などの最終意思統一。
日本料理店の件、子どもたちの大学受験、高校受験に
ついて説明を受ける。高校3年生のPさんは、
フエ科学大学コンピュータ科とフエ師範大学を受験。
音楽専門学校に通っていたD君はフエ高等師範大学
音楽科を受験。中学4年生4人は、グエンフエ高校1人、
ハイバーチュン高校2人、ヤーホイ高校1人の受験。
結果は20日間ほど経ってからとのこと。
全員の合格を祈る。
午後5時半から日本料理店で夕食。
日本人、ベトナム人スタッフ全員で夕食の「チャオバンカン」
(小麦粉の煮込みうどん)を食べる。美味しい。
午後6時、日本料理店開店。
今日から日本料理店に照明付きの看板を付ける。
残念ながら初日から照明の半分が壊れてつかない。
これが「ベトナムの現実」。
午後6時過ぎ、香港からの中国人の来客。
にぎり寿司ときしめんを注文。
にぎり寿司は子どもたちが握っていた。
にぎり寿司は「鮭、トロ、イカ、貝、海老、かっぱ巻き」。
きしめん
午後7時頃、イギリス人。天ぷらの盛り合わせを注文。
午後8時過ぎ、イギリス人の女性2人。
今日は合計4人の来店。香港1人、英国3人。
会計の担当はニーさん。計算に余念がない。
静岡の会事務局長の笠井さんから送られた富士山ののれん
前で。小山、久保田さん。午後9時、閉店。
2006年07月16日
日曜日 休日ー6月帰国中の活動結果
晴天。真夏。
昨夜は午前1時頃就寝。
今朝、午前6時頃起床というのか目が覚めた。
しばらくうとうと。
NHK衛星放送のニュースを見る。
北朝鮮のミサイル問題で国連安保理事会の
決議が出る。トーンダウンという意見もあるが、
6者協議参加を全会一致で要請することなど
意義のある決議となる。話し合いでの解決が
何より大事。
2回洗濯。2ヶ月間、部屋に置いてあった衣類全てを洗濯。
午前8時、床屋へ。5月末、フエで床屋に行ってから
日本では行かなかった。2ヶ月ちょっと、髪は伸び放題。
日本で4000円払うのなら、多少の見苦しさは我慢して
150円のフエでの散髪まで待った。
15分ほど待たされ散髪。ただ髪を切るだけ。
洗髪もひげ当たりもなし。13年間通いなれた店である。
私がただ座るだけで散髪をしてくれる。
4000円の散髪代はフエでの生活をしている私には大金。
30分ほどで終了。さっぱりする。
その足で徒歩ベトナム事務所へ。帰りに朝食のコムデイアを
買う。コムデイアの店の近くで大塚さんと出会う。
大塚さんは朝の礼拝に行ったのだろうか?
コムデイア屋でご飯、野菜炒め、玉子焼き、豚肉など
のTAKE OUTを買う。1万ドン(70円)。
午前11時半、入浴。ブランチ。フダ缶ビール3本。
昼寝。
午後3時から読書。昨日、日暮里から成田のスカイライナー、
成田での2時間の待ち時間、機中6時間、ホーチミン飛行場
での待ち時間2時間、ホーチミン市→フエの機中2時間読書。
「閔妃(ミンビ)暗殺 朝鮮王朝末期の国母」(角田房子著:新潮
文庫)の残り10%程度を読み、読了。
非常に意義深い本だった。角田房子という作家の名前は知って
いたがどんな本を書くのか詳細は知らなかった。
日韓併合(1910年:明治43年)の15年前の1895年、
朝鮮最後の王朝李氏朝鮮王朝(1392~1910:27代続く)
第26代高宗帝の皇后閔妃が日本政府・軍部・民間人によって
殺された事件があった。閔妃(ミンビ)は、閔一族から出た
お妃という意味。
今から考えると大変な事件だ。日本に当てはめれば、
外国の軍隊と政府関係者が皇居に乱入し、皇后を惨殺する
という前代未聞の事件であった。
当時の大使館関係者、警察、現地の日本軍関係者数十人が
逮捕されたが、日本の裁判で全員無罪となっている。
関係者の多くは自分が皇后を殺したと言っているのに・・・。
「閔妃(ミンビ)暗殺事件」は朝鮮では至ってポピュラー
な話だとのことで、日本人が忠臣蔵を知っているのと
同じようなものだとのこと。
そのような話があった程度には私も聞きかじったことは
あったが、角田房子さんの綿密な調査で460ページにわたる
大作に仕上げた「「閔妃(ミンビ)暗殺」は、読みごたえの
ある本であると共に、朝鮮問題を深く考えさせるに十分な
本である。100年ほど前に始まった日本の朝鮮支配を
既に過去のものとして、何も知らない私たちであるが、
朝鮮の人々はけして忘れていないのだということも知った。
自分の無知を恥じる。
角田房子さんは、3年間かけて調査をし、現地に5回足を
運んでいる。著者は特別の思い込みも先入観もなしに
事実を選び淡々と書き進めている。事実かどうか不明な
点は角田さんの推測と断って書いている。
とかくこの種の本に対して「今頃になって日本の恥部を
暴き出す事はない」「自虐的な本だ」などの批判を
する人もいるが、100年前と同じようにアジアの
焦点は朝鮮半島にある。ここで何があったのかを
私たち日本人はきちんと知っておく必要と義務がある。
日韓併合の1910年は私の父親の生まれた年でも
ある。けして昔ではない。この本は20年前に
書かれた。
今、拉致事件が大きな問題になっているが、この本に
よると1592年の豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に多くの
朝鮮人を拉致して日本へ連れてきている。
15年後の1607年、徳川秀忠の時代に両国は
修好を回復し、朝鮮から使節団が訪日し1400人の
拉致された朝鮮人を連れて帰っている。
昨夜、フエに着いたばかりだが今日はすんなりと
フエでの生活に入っている。13年の生活経験は
恐ろしいものである。
夕食もコムディア。
小樽からもらった「鮭トバ」を小分けにして冷凍室に
入れてある。1年以上たつが、鮮度も落ちずに
美味しい。特製鮭とばをおつまみにフダビール
3本。その後、小樽「ふなくち酒 搾(しぼりたて)」
を多少嗜む。昔、お酒を搾る道具を「ふね」と
いったそうだ。その「搾り口」からでるお酒なので
「ふなくち」。炭酸ガスを含んでいて、金属の前止め
を後ろに倒すと「ポン」と炭酸ガスの音がした。
味は「どぶろく」のような味。どぶろくから酸味の
80%を取ったような味と香り。飲む価値あり。
こうして美味しいビール(フダビール)と美味しい
お酒を飲めるだけで、他に何を望むというのか?
人生、最高の幸せ?
出来たらもう少し美味しいおつまみと00がいれば・・
小樽の亀甲蔵(田中酒造)販売元0134-23-0390
へ問い合わせ可能。
http://www.tanakashuzo.com/
小山 2006年6月~7月帰国日程 2006年7月15日現在
6/03(土)P12 明治大学成田市民大学打ち合わせ
05(月)P12 Mさん懇談
06(火)P2 通院
07(水)
08(木)
09(金)
10(土)P1:30 板橋区総合ボランティアセンター開設記念の集い
11(日)
12(月)
13(火)
14(水)縫製工場打ち合わせ(佐藤さん・花田さん)
15(木)
16(金)A11:30 ソロプチミスト東京―東役員会 ホテルニューオータニ
17(土)P12:00 ソロプチミスト東京―東例会
18(日)P2 内田さん・高橋さん 池袋メトロポリタンホテル
19(月)P2オアシスの会(雙葉学園)四谷駅
20(火)P1横浜市市ヶ尾中学校講演会(600人)
21(水)A9法政大学講演会(市ヶ谷)(70人)
22(木)P6:30都立葛飾商業定時制講演会(京成高砂駅)(70人)
23 (金)
24(土)A10加藤さん・森田さんたち
P1:00 OYKOTネットワーク講演会(渋谷勤労福祉会館)(12人)
25(日)P12栃木県小山市「まちかど美術館」講演会(40人)
26(月)
27(火)P3 ACCL代表と小児がん支援懇談
29(木)
28(水)P4神田外語大学講演会(京葉線・京浜幕張)(70人)
30(金)
7/01(土)P2 支援者打ち合わせ
02(日)P3フリースペース 三鷹(25人)
03(月)P1:15 羽田→札幌
04(火)P12 札幌大学講演会(230人)
05(水)P1北星学園大学講演会(70人)P4頃大島先生懇談
06(木)江別市松山さん懇談 P1帯広芳村さん懇談
07(金) 札幌→羽田
08(土)A1:30火焔樹の会講演会(茨城)(40人)
09(日)P1:30日本事務所講演会(北区教育会館)(40人)
10(月)A11 横浜市立鴨居中学校講演会(600人)
11(火)P4 NPO法人 エルダー旅倶楽部 P6 ブライセン藤木氏懇談
12(水)
13(木)通院
14(金)P6:30 高校クラス会
15(土)A11成田発→ ホーチミン市→フエ
●講演会 12回(参加者 1887人)
・ 中学校 2校
・ 高校 1校
・ 大学 4校
・ 各種団体 5団体
●個人面談 13回
ベトナムへ帰る
東京は快晴
午前11時成田発のベトナム航空機でホーチミン市へ。
午後3時ホーチミン市タンソンニャット空港着。
ホーチミン市は雨だった。気温28度。
午後5時25分ホーチミン市発フエ行きの飛行機に乗る
予定だったが、遅れて午後6時発。
フエ着午後8時前。フエの気温は32度。暑い。
空港タクシーでトンチンカンホテルへ。
日本料理店では、子どもたちや大塚さん、税田さん、
久保田さんなどが仕事をしていた。久保田さんの
知り合いの鵜沢さんが日本料理店を訪問。
子どもたちは元気に日本料理店の仕事に励んでいた。
石岡さんも交えて、午後11時過ぎまで懇談。
トンチンカンホテルの部屋は天井の張替えとかで
全て模様替えされていた。とんでもない所に
知らない絵が飾ってあったり、写真が掲げられて
いた。2ヶ月前に住んでいた部屋とは全く違う
所に物が置かれていた。知らない間に
部屋中が変わっているというのは、あまり気持ちの
良いものではない。
メール等のチェック。
2006年07月14日
高校クラス会
真夏日。朝から30度近い。
日本語学校の教師中村先生のお祖父様から「切り絵」を頂いた。
「百福」は百種類の福という漢字を切り絵にしたもの。
福という漢字が百種類もあることすら知らなかったが、それを
一つずつ切り絵にするというのは、並大抵のエネルギーでは
出来ない。琵琶湖浮御堂、ひょうたんの福船。
どれを取っても我が家の宝物。中村友香先生のご家族の
皆様、特にお祖父様に感謝。
●百福
●琵琶湖浮御堂
●ひょうたん福船
午前中、姫路青年会議所から依頼された「ビデオレター」を
作成。青年会議所主催でチャリティーをしてくれるとのこと。
参加者にビデオで挨拶を送る。
ビデオに挨拶を録画し、姫路の大西さんに郵送する。
午後6時半。巣鴨で高校のクラス会。
1963年に入学し、3年間同じクラスだった。
2006年07月13日
通院
曇り、時々真夏の太陽
今日はフエの日常と同じ湿気と暑さ。
私にはやっとフエに「帰れた」と思えるような気候。
朝7時過ぎに自宅を出て新宿へ。通院。
心電図等の定期健診。投薬を受ける。
人間の命とははかないものである。
米原万理が急逝し、辺見庸が脳出血・癌にかかり、
今日は忌野清志郎が喉頭がんであることを明らかにした。
辺見庸が62歳位だろうか? あとの二人は50代。
辺見庸も言っているが、ただ、だらだらと長生きはしたくない。
何のために生きるのか?
出来る限りの努力(禁煙・暴飲暴食防止・定期健診・・・)はしたい。
今ある健康と「元気」が明日あるとは限らない。
NSビル内の大型書店で何冊かの本を買う。
昼過ぎ全て終了。新宿西口の通りを歩く。
真夏のような太陽が顔を出す。
午後山西さんから電話。
夕方、法政大学からスタディーツアーの連絡あり。
12通のメール受信あり。必要な返信を書く。
夕方、太巻きが食べたくなり作る。
納豆まき、人参、きゅうり、卵焼き、ハムを入れた太巻き。
太巻きの真ん中に具が入るように作るのは中々難しい。
具に野菜をたくさん入れるようにしたい。
何度か作っているうちに多少はうまくなったような気がする。
海苔を簡単に焼いて作ると太巻きに香りが出てくる。
酢飯を食べると心が落ち着くのは何故なのか?
先日、上野のアメ横に行き、「奥の松」(あだたら吟醸)
(奥の松酒造:0243-22-2153)を買って来た。
軽く冷やして飲む。淡白な甘い独特の香り。嫌味のない
品のよい香りと味がする。
日本へ戻って1ヶ月半。何となく国中がキナ臭い。
北朝鮮のミサイル発射を契機に「敵にミサイルを打ち込まれる
ことが分かっているなら、先制的に日本から敵国を
攻撃する権利がある」ような発言が出てきたのには驚いた。
防衛庁長官、内閣官房長官、政権与党の幹事長などが
声高に叫んでいる。
戦前の「鬼畜米英」を呼号し、実際の国際情勢を全く理解して
いなかった過去を思い出す。
私は声高に言う人間は本能的に嫌悪を覚える。
いつから日本は「敵国に攻撃をしかける」ことが出来るように
なったのか?
こんなめちゃくちゃな発言をマスコミも世論も批判しない
わが日本ではある。
国連の安保理事会に制裁決議案を提案している日本。
親分のアメリカと一緒だから決議案は通ると踏んでいた。
しかし、ここのところへきて「雲行きが怪しく」なってきた。
中国・ロシアに続いて、フランスもイギリスもトーンダウン
してきた。とうとう親分のアメリカまで安保理決議にこだわらず、
などと言ったトーンになってきている。我が日本だけが、
こぶしを振り上げたは良いが、誰もついてこないという
無様な状況に陥りそうである。
外交とは難しいものである。我が日本だけが一人孤立したのは
今回だけではない。前回の日本の安保理常任理事国入り問題
の際もそうであった。大金を使い、多くの国々へ工作をし、
親分のアメリカのお許しも得て、安保理常任理事国いりに
自信をのぞかせていたが、ふたを開けると、親分のアメリカにも
「反対」されるしまつ。アジアで日本の安保理常任理事国入りに
賛成したのはたった2カ国という惨敗を喫した。
日本の外交は単細胞のように思えてならない。
人間と人間の複雑なつながりである。自分が思っていたことを
外国がそう思っているかどうかは、また別の話である。
私がフエに13年間住んで活動しても「日本の常識はベトナム
では通じない」などということは良くあることである。
時間をかけて、人脈をつくり、5年、10年先を読んで「今」を
行動するという姿勢が必要だと思うのだが、日本の外交は
「お金を上げる」ことが本質であるかの様な金銭ばら撒き
外交である。
現在、小泉首相が中東のイスラエルとパレスチナに行っているが
案の定、お金をばら撒くだけの外交。たまに行って、「共存共栄を」
などとお説教を垂れても政治的な影響力にはならない。
今回の北朝鮮制裁決議問題も、安保理常任理事国問題も
日ごろのお付き合いをしっかりとするという外交のいろはを
してこなかった日本の外交の付けであるような気がしてならない。
私たちのような小さな海外ボランティア団体ですら、地元フエでは
様々な政治状況を把握し、必要な関係者と常日頃からつながりを
もったり、「持ちつもたれつ」「お互い様」の関係を構築することに
一番力を入れているのである。そうした努力がなければ、
共産党一党独裁国家で13年間も活動は出来なのである。
日ごろの目に見えない努力の積み重ねが、外交である。
日ごろの努力をしないで「強硬論」をぶったり、声高に
叫んでも国際的には相手にされない。
靖国問題一つ解決できない連中に外交は出来ないと思う。
小泉首相の「意固地な」姿勢を、次期首相候補と目される
連中の誰一人、諫言できないでいる。小泉首相に諫言する
勇気がない人間が、外に向かっては大声で叫んでいるように
思えてならない。次期首相の最有力候補と目される人物など
「内弁慶」の典型のように思えるのだが。
2006年07月12日
久しぶりの休日
終日曇り。蒸し暑い。
久しぶりの1日休日。
長いスパンで見ると6月14日から。約1ヶ月。
やはり疲れた。
8通のメール受信。12通のメール送信。
昨夜はブライセンの社長さんのお宅にお邪魔し、痛飲。
帰宅は午前1時半。朝は起きられず。
メールの送受信後、読書。
「審問」(辺見庸著:毎日新聞社)を読む。
読み応えのある「剛速球」の本である。久しぶりに心動かされる。
マスコミやテレビが誰も責任を持たない体制の中で口走っている
昨今であるある。辺見庸は、数年前に脳出血で倒れ生死をさ迷い
右半分が麻痺している。その上、癌の手術をし、二重の苦しみの
中で書いた本書である。私が辺見庸を読み出したのは、彼が
共同通信のハノイ支局長という経歴があったからである。
詳細は省くが辺見庸は二重苦の中で今の日本を呪い、日本を
変質させて市場原理、弱いものいじめの資本主義に命を
かけて闘っているように見えた。本書はけして明るい内容では
ないが、どのページを読んでも今の日本と世界、自分自身を
考えさせられる内容である。私よりたった3歳年上での辺見庸
が「自殺」を常に考えながら今を生きていることに何か共感する
ものを感じる。読後、精神的に相当疲れる本でもある。
投稿者 koyama : 19:33 | コメント (0) | トラックバック
2006年07月11日
エルダー倶楽部懇談、ブライセン訪問
終日曇り。湿度高し。
午前中11通のメール受信。7通のメール送信。
3通の葉書投函。
午後1時過ぎ自宅を出て霞ヶ関のベトナム航空東京支社へ。
午後4時、渋谷で「エルダー倶楽部」の代表O氏と懇談。
エルダー倶楽部は50歳以上の方々に海外での体験などを
企画したり、国内での様々な講座などを企画している
NPO法人である。
今回、エルダー倶楽部とANA(全日空)が協力して
ベトナム・カンボジアジニアの体験スタディーツアーを
企画している。今回、このシニア・スタディーツアーの
中にフエのJASS日本語学校訪問・交流などの
企画を入れる件の具体的な話し合いをする。約2時間。
O氏は物腰の柔らかい知的なしかし心のどこかに
熱いものをもった方だった。
エルダー倶楽部のO氏とは渋谷の「ハチ公」前で
待ち合わせ。30分ほど早くハチ公前に着いたため
しばらく渋谷駅前に立っていた。
とにかく騒音でうるさい、町を行く人たちは無表情で
歩いている。ビルの壁面には大型スクリーンが3つ。
大音響で音楽を流す。
渋谷の町は、多くの人間が歩いているにも関わらず
私には、無機質な人間の匂いのしない町に感じた。
ベトナムと比較してしまうためなのか・・・。
午後6時、五反田にあるIT企業「ブライセン」を訪問。
藤木社長と懇談。
ブライセンには、ベトナム事務所のラームさんの
弟であるホアン君とトアン君がお世話になっている。
長兄のホアン君はブライセン藤木社長のお世話で
1年間の日本語学校へ通学し、2年間のIT専門学校へ。
3年間の語学とIT研修を終わり、現在はIT企業の
ブライセン(従業員106人。年商20億円)で実習している。
弟のトアン君は、今年の初めに藤木社長の招請で
来日。現在、日本語学校で日本語を勉強している。
日本語学校で勉強が終わると毎日ブライセンに来社し
更に日本語を勉強している。
ホアン君は社外に出ていたが、トアン君が社内で日本語を
勉強していた。
トアン君は元気に生活していた。今は漢字を200字覚えな
ければならず、「毎日大変」と話していた。まだ、日本語会話は
それほどうまくない。今後の精進を期待したい。
午後7時過ぎ、藤木社長と二人で食事へ。
今後、フエからのIT関連研修生受け入れについての
打ち合わせを行う。
午後9時過ぎ、藤木社長のお宅へ。更に日本酒を飲む。
午後11時過ぎまで。
自宅着、午前1時過ぎ。痛飲。
2006年07月10日
横浜市立鴨居中学校全校講演会
終日曇り。湿度が高いがフエに比べれば問題外。
朝、昨夜受信のメールに返事を書く。
午前7時過ぎ自宅を出て、巣鴨→渋谷→菊名→鴨居と
乗り継ぎ横浜市立鴨居中学校へ。鴨居駅ではJASS教育担当
のKさんと合流。徒歩で鴨居中へ。片道2時間強。
鴨居中学校には昨年JASSスタディーツアーに参加した
大学生のAさんも手伝いに来てくれていた。
校長室で今日の全校講演会主催の「鴨居中生徒会本部役員」と
懇談。副会長には昨年のJASSスタディーツアーに参加した
中3のK君もいた。今回の講演会は昨年JASSスタディーツアー
に参加したK君の努力の主導もあった。生徒会本部と道徳教育
の2つの意味をもつ講演会となった。
副校長先生、担当の先生と打ち合わせ。
午前11時、600人の生徒が待つ体育館へ。
鴨居中は生徒会が先導し自分たちの靴をベトナムへ送る活動を
している。
「子どもの家」、ボランティア、世界の貧困、私たちの
生きる道、8月20日からのJASSスタディーツアーなどをに
ついて話す。
今日はかなり湿度が高い。600人の人間が体育館に入ると
かなり蒸す熱くなる。生徒さんは暑い中、熱心に話を聞いて
くれた。感謝。
講演会が終わる。生徒会長より「お礼の言葉」があった。
鴨居中学校はさすが中学生。講演会の準備から当日の運営まで
全て生徒がしっかりと進めていた。
生徒会本部副会長のK君は今年のJASSスタディーツアーにも
参加予定とのこと。K君は今年のJASSスタディーツアーでは
主任を勤めるとのこと。自主性があり有能な若者が育っている
ことを実感した。
講演会の最後に花束を生徒さんから頂く。
午後3時自宅着。
今日で今回帰国の講演会を全て終わる。7月1日から今日まで
連続10日間の講演会となった。かなり疲れた。講演会が全て
終わりほっとする。あとは、支援者や関係者との懇談があるのみ。
今回の帰国で12回の講演会を行った。支援者との懇談は13回。
結構忙しい毎日であった。
この数日の講演会の行き帰りに
「チルドレンな日本」(香山リカ・佐高信著:七つ森書館)
を読む。
この数年の小泉政治、プチナショナリズムといわれる昨今の
日本の「右傾化」はなぜ起こっているのかを対談形式で
話し合っている。
香山リカさんは精神科医師である大学の教師でもある。
本書で「自分は、多数はの尻尾についていたつもりだったのに
いつのまにかやら少数派の先頭集団になっていて、何ともいえ
ない居心地の悪さと、ま、やるしかないか、という諦めが
ごちゃ混ぜの日々を送っている」と書いている。
香山リカさんは精神科の患者と多く付き合い、今の社会の
ゆがみをつぶさに見ている学者でもある。
二人とも小泉「構造改革」になって日本が大きく舵を切った
と言っている。市民派(革新派)は、その潮目を見誤った。
革新派は国民・世論の潮目が変わったことに無頓着。
自分だけが正しいと頑固に思い込み、世の中が大きく
変わっていく実態に鈍感な人たちと批判している。
一読の書。
夜、21通のメール受信。ウーン、多い。
全てのメールに目を通す。必要なメールに返事を書く。
全て2時間。
2006年07月09日
日本事務所主催講演会
終日雨。
午前中、メール受信、送信。
午前11時自宅を出て、西巣鴨経由都電で飛鳥山。
北区教育会館へ。
午後1時半から日本事務所主催の講演会。
はじめに司会者による自己紹介・日程説明。
続いて寒河江日本事務所長の挨拶
ビデオを使い、13年間の軌跡、現在の取り組みの
重点である「自立」などについて説明する。
約40人の方々の参加。
続いて2年間「子どもの家」日本語クラスや日本語学校で
日本語を教えて帰国した松下さんの現地報告。
JASS主催のスタディーツアーの説明会を行った。
JASSスタディーツアーに参加経験のある工藤さん、山本さんから
参加した体験談などが話され、責任者の加藤さんから参加要請が
あった。
午後4時半、講演会終了。
その後、参加者の皆さんと反省会。
午後8時過ぎ散会。
2006年07月08日
茨城「火炎樹の会」講演会(勝田市)
終日曇り
昨夜はベトナム事務所との連絡、札幌滞在中に受信した
メールへの返事、講演会ビデオ編集などの仕事があり
午前1時過ぎまで仕事をした。その後、中々眠れず、朝5時半
起床。その後、受信したいくつかの問題についてのメールに
返事をだす。手紙を2通書く。
午前9時自宅を出て、巣鴨経由上野へ。
フレッシュひたちで茨城県の「勝田」へ。
午後12時に勝田駅着。勝田は土浦の近くと思っていたが
車内放送で水戸の更に先と知る。ということは、今日の会場は
勝田ではなく違う場所か? 車内で「又、会場を間違えたか?」と
思いつつ、勝田駅改札へ。思った通り待ち合わせの時間に誰も
いない。慌てて関係者に問い合わせようと電話を調べるが
電話番号が分からない。福田もえ子さんのお父さんの電話が
分かったので失礼ではあったが、電話する。関係者に問い合わ
せをしたもらった結果、やはり勝田駅で良かった。
電話中に松下さんが改札口まで迎えに来てくれた。一安心。
火炎樹の会代表の森嶋さんの運転で昼食。地元の海で採れた
魚介類を握る回転寿司へ。
午後1時、会場の「ひたちなか市青少年センター」へ。
会場入り口で後藤弁護士ご家族とお会いする。後藤弁護士は
火炎樹の会の創始者。
10年ほど前に偶然日本語の看板を見つけてベトナム事務所を
訪問。その後、水戸弁護士会を中心に「子どもの家」の支援を
続ける。後藤弁護士とは別に7年ほど前に茨城県主催の
「青年の翼」事業で相馬団長を中心に多くの茨城県の
若者が「子どもの家」を訪問し、子どもたちと交流を行った。
後藤弁護士は自宅を『ベトナムの「子どもの家」を支える茨城の会』
として支援活動を継続していたが、青年の翼の若者との合体を
発意。後藤弁護士の呼びかけで茨城県の若者と後藤弁護士が
合流。火炎樹の会発足に至る。
後藤弁護士と言う一人の人間の思い入れと忍耐強い努力が
10年を経てこのような大きな会となって結実したように
思う。現在も後藤弁護士は火炎樹の会の顧問的存在として
色々な相談などに乗ってくれている。現在は日本弁護士会
の「法教育」の責任者の一人として、学校教育の中に
法教育を位置づける活動を進めている。文部省の
中央教育審議会の専門部会の委員として、教育課程の
中に法教育を位置づけさせる活動を進めている。
午後1時40分、火炎樹の会主催の講演会が始まる。
はじめに森嶋博代表の挨拶。
現在のJASSの到達点と今後の展望についての概略を
的確にまとめて説明してくれる。
その後、1時間半ほど最新のビデオなどを使いながら
「子どもの家」13年間の歴史、到達点、自立に向けての
諸活動などを話す。
続いて2年間ベトナム事務所で活動した松下安希子さんが
「フエでの2年間の経験」と題して現地報告を行った。
「子どもの家」日本語クラスでの教師の仕事の大変さ、
静岡会館日本語学校での日本語教育、子どもたちのことなど
をコンパクトにまとめて参加者に分かりやすく報告する。
小山・松下さんの報告後、会場参加者から質疑・意見表明。
午後4時半、火炎樹の会講演会終了。40人の方々の参加。
講演会終了後、講演会にお越しになった隣りの市の市議会議員
の方と懇談。地域でのボランティア活動を進めたいとのこと。
火炎樹の会員の紹介で参加した保育園・養護施設の方と懇談。
更に商店街を使ってフリーマケットをされている地元ボランティア
団体の関係者3人と懇談。毎年、フリーマーケットを主催して
集まる寄金の寄贈先を探しているとのこと。JASS活動を
報道したテレビ番組5本ほどを収録したCDを手渡し、
寄金の要請を行う。
講演会後、参加者と勝田駅近くで交流会。
交流会の席上、火炎樹の会から18100円の寄金を頂く。
午後7時40分位まで交流会を行う。
午後8時20分勝田発のスーパーひたちで上野へ。
自宅着午後10時40分。
メール12通受信。返事を書く。
火炎樹の会10年。継続の力と皆さんの努力に敬服。
2006年07月07日
小樽→新千歳→羽田
曇り・雨の七夕。
昨夜から小樽へ泊まる。午前中、ホテルで日記・メールを開く。
今回の札幌行きには東京からパソコンを持って来た。
日記を書き、メール送受信のため。携帯電話の接続のため
回線容量が少なく、また短時間でかなりの電話代となるので
日記もメールも長くはかけなかった。
昼前に再度、拝田家を訪問。帰京の挨拶をする。
その後、小樽の蕎麦屋で軽く一杯・昼食。
古い家屋を蕎麦屋に改装した洒落た店。
狭い店内で数人のお客が「タバコ」を吸っている。
無粋な人たちだ。室内はタバコの煙がもうもう。
タバコ臭く、蕎麦の微妙な味が分からない。
蕎麦の味も知らないたちでもある。吟醸酒を軽く飲むが
やはりタバコの匂いで微妙な吟醸酒の香りが分からない。
食事処でタバコを吸う人は、人が影で苦しみ悩んで
いることすら気がつかない人間でもある。
体中がタバコ臭くなり、お蕎麦の味が分からず、
吟醸酒の香りと味覚も分からないまま、非常に不愉快な
気持ちで店を出る。私はタバコを吸う人一般を非難する
気持ちはないが、食べ物のお店でタバコを吸う人は
無粋な人間だと思っている。
小樽から札幌経由で千歳空港へ。
午後6時過ぎ、羽田着。午後8時過ぎ自宅へ。
5日間の札幌・小樽訪問だった。
札幌大学・北星学園大学、支援者の松山さん、鹿又さん
芳村さんなどとの懇談。新たな支援者も増えた。
新しい友人も出来た。HPやメール、チラシ、機関紙での
交流の意義はあるが、やはり直接顔を合わせての交流の
意義は大きい。各地に出て行くことは、体力的にはかなり
きついものがあるが、人と人とが顔を合わせることの意義を
改めて感じた今回の札幌行きであった。
午後9時から明日の茨城県での火炎樹の会講演会の
ビデオをダビング。メール送信13通。午前1時半就寝。
2006年07月06日
江別の松山さん・帯広の芳村さんと懇談
札幌は終日雨。
午前9時過ぎ、札幌の会の鹿又さんがホテルまで迎えに来て下さる。
車で1時間、江別市の支援者松山さんのお宅へ。
松山さんは江別市で書店と画廊を経営している。
2000年に松山さんの画廊で私の講演会、土田英順氏のチェロのチャリティーコンサートを行い、「子どもの家」への支援を続けてくれている。
2003年には同じく松山さんの画廊で「ベトナムの子どもたち絵画展」を
開催。こうした形でチャリティー金を寄金して頂いている。
今年2006年春には松山さんや鹿又さんたちが「子どもの家」訪問ツアーを実施。
2006年4月21日から4月30日まで松山さんの画廊「ギャラリー カナリヤ」で「大麻元気倶楽部」主催で「掘り出しノミの市」を開催。
「アンティーク ララ」さんの協力も受けて、
・ SPレコードの音楽会「1925年アメリカ製のグレデンザー蓄音機」使用
・ オークション(絵画・アンティーク)
・ ベトナム最新情報とビデオ上映(2006年春の「子どもの家」訪問ツアーで撮ったビデオを上映)
・ 土田英順チェロコンサート
松山さんの画廊で松山さんをはじめ「大麻元気倶楽部」の皆さんと
懇談し、チャリティー寄金を頂く。
松山さんをはじめ、江別の「大麻元気倶楽部」の皆さんに感謝。
また、お忙しい中、札幌から車で江別までお付き合い頂いた鹿又さんに
お礼を申し上げたい。懇談は午後12時過ぎまで。
午後1時、札幌駅で帯広の支援者・里親の芳村さんと懇談。
芳村さんは10年前から里親を続けてくれている。また、進学を希望している障害児を学校へ進学させる「暖炉基金」を創設し、ベトナム事務所を通じて現在5人の障害児の通学支援を行っている。夕方まで支援・障害児などの話をする。
夕方、列車で小樽へ。昨年亡くなった長男の義父であり「子どもの家」の
チュン君の里親でもある拝田和夫氏の霊前へ。お線香を上げる。
2006年07月05日
北星学園大学講演会
晴天。
この数日、メールが開けなかった。20通のメール受信。
札幌までパソコンを持ってくる。携帯電話を使って火炎樹日記を
書く。帯広の芳村さんと電話で待ち合わせの連絡。
江別の松山さんと連絡。札幌の鹿又さんと連絡を取り、明日、
江別へ一緒に行ってもらうこととなった。
午前11時、札幌市内のホテルを出る。地下鉄で大谷地駅まで。
徒歩10分。北星学園大学へ。
担当の田渕先生と事前の打ち合わせ。校内ボランティアサークル
「コパン」の皆さんと懇談。
午後1時から午後2時半までの90分、経済学入門受講生などの授業を
行う。受講生40人ほど。
体の具合がよくない中で講演会を開催してくださった
田渕先生のご努力に感謝。ストリートチルドレン、
ドイモイ、自立などについて話す。
午後3時頃から北星学園大学『心理・応用コミュニッケーション学科』の
鹿内学科長、大島先生と懇談。「子どもの家」訪問スタディーツアーの
ことで打ち合わせ。
2006年07月04日
札幌大学講演会
札幌は快晴。湿度も低く、過ごしやすい気候。
聞くところによると7月初めが1年中で一番良い季節だとのこと。
午前中、日記など。
午前11時過ぎ、地下鉄で「澄川駅」まで。札幌大学へ。
札幌大学岩崎徹先生の研究室で講演会の準備。
午後1時、札幌大学経済学部主催の講演会が開かれた。
この講演会は、岩崎教授の「現代経済入門」の授業も兼ねている。
230人程の参加者があった。岩崎教授の授業受講生・札幌大学の
先生方と学生・北海道大学や北海学園大学の先生方や学生さんなども参加。
初めに札幌大学経済学部の松本学部長先生の開会挨拶。
引き続き岩崎教授による講師略歴紹介。
その後、ビデオなども交え1時間半の講演を行う。
・ ストリートチルドレンの生活や実情
・ ストリートチルドレンがベトナムに存在する理由
・ ベトナムで活動をして「支援」の実態と支援の意味。支援―利権論
・ ボランティアについての私見。ボランティア道楽論
その後、岩崎教授の研究室で休憩。
午後4時から講演会参加者と懇談会。講演会では質問時間がなかったこともあり、支援の実態、ストリートチルドレンの詳細などについて更に話し合う。
午後5時半から生協食堂で関係者と懇親会。午後7時半頃終了。
岩崎教授と共に私の宿泊ホテルへ戻り、岩崎教授の奥さんを迎え、
更にススキノで懇親会を行う。
今回の講演会は札幌大学の岩崎教授と岩崎ゼミの学生さんたちが
準備・開催したものである。岩崎教授は約30年にわたってゼミを主催。
今日の講演会の実質的な準備・運営は岩崎ゼミの学部学生が中心に
進められた。「今時の若者はなっていない」などという声を耳にするが、
今日半日、札幌大学に滞在し、岩崎ゼミの学生さんの動きをつぶさに
見ていたが、なかなかどうして、素晴らしい行動力と気遣いのある学生
さんたちであった。細かい所に気がつく若者が育っている現実をみた。
研究室で待機している際、ゼミ生がそっとコーヒーを出してくれたり、
講演会中、後ろの方で私語をしていた学生さんを、ゼミの学生さんが
分からないように注意するなど、人間としての行動力・配慮力を持って
いた。色々と様子を見ていると岩崎先生がこうした人間の行動の仕方を
細かく指導していることが分かった。学ぶということは知識を通して
人間の生き方を学ぶ事だということを改めて知った。岩崎教授の指導は、学生に準備などを任せながら同時にその推移を側面でしっかりと見つめているという「つきつ離れつ」方式のように思えた。こうした大学の先生もまだ日本に「存在」することにうれしさを感じる。
2006年07月03日
札幌へ
東京は曇り
札幌は晴天。18度。
昨夜は午前2時就寝。今日は午前6時起床。受信メールに返信。
日記を書く。
午前10時自宅を出て地下鉄で羽田空港へ。第1ターミナル。
SKY(スカイマーク・エヤーラインズ)で札幌へ。インターネットで調べた
安売り航空券。羽田=札幌(1泊付き)で往復26000円。
SKYということなのだろうか? 羽田空港は24番ゲート、一番端のはし
まで歩かされた。その上30分の遅延。
午後3時過ぎ札幌・新千歳空港着。JRで札幌駅まで。
出張で札幌に来ていた長男家族が札幌駅まで迎えに来てくれていた。
市内中島公園付近のホテルに宿泊。SKYの指定するホテルに
宿泊すれば1泊3000円。
午後7時過ぎと言うのに「すすきの」はまだ昼間。18度と言う
気温は私には寒く感じられた。湿度も低く、過ごしやすい。長男家族と市内で食事。
季節の生ものを食べる。ホヤ・・・。
投稿者 koyama : 08:27 | コメント (0) | トラックバック
2006年07月02日
「子育て文化共同」ベトナムスタディーツアー総括会
曇り・時々雨・夕方晴れ
午前中、池袋で次男と打ち合わせ。
午後、中央線「三鷹駅」。井の頭公園前にある「フリースペース
・コスモ」へ。
2年に1度の割合で「フリースペース・コスモ」「学習塾 文化学習
センター」の子どもたちが「子どもの家」へ来ている。
フリースペース・コスモは「NPO法人 文化学習共同ネットワーク」
が主催している。文化・学習・共同ネットワークは、
子どもたちの自立促進のためにコミュニティーベーカリー
「風のすみか」という「パン屋」を経営している。
「コスモ」の子どもたちが上手にパンを焼いて販売して
いる。売り上げも上々だとのこと。
今年3月27日~4月2日まで「子育て文化共同全国世話人」
が企画したベトナム・スタディーツアーに参加した26人の
皆さんの帰国後初の懇親・反省会が行われた。
参加者の皆さんの自己紹介、法政大学学生さんなどの
紹介などが行われた。
懇談の後、ベトナム・スタディーツアーの際撮影したビデオを
上映し、ベトナム・スタディーツアーを語り合った。
午後5時過ぎに懇談反省会を終わり、三鷹駅近くの
北欧料理店(ベトナム・スタディーツアー参加者のお子さんの経営)
を借り切り懇親会を行う。
綿貫懇親会幹事(自称)の司会・乾杯の音頭で開会。
懇親会には「子どもの家」を訪問した子どもたちも参加。
8年ほど前に参加した頃の子どもたちを思い出す。
皆さんの成長(体格と人間性)に驚く。すっかりと「大人」に
なっていた。初めて「子どもの家」の来た頃は、小学生・
中学生だった。コスモや学習塾文化共同の子どもたち
の成長を見ていると、しっかりした大人に
囲まれて育つことが出来た彼らは幸せだなと思った。
日本もベトナムも世界中の子どもたちは回りに
子どもたちを思う大人がいてはじめて育つものである。
世界中の大人の責務もそこになる。子どもたちに
乱暴な大人、乱暴な政治(小泉・石原国政都政)は
結局子どもと国家を滅亡に追いやる。
「子育て文化共同」に集まる人々との交流は数年前の千葉大で
行われた全国大会からである。その後、浦和での学習会、
「子どもの家」訪問などを通して会員の皆さんとお付き合いをさせて
もらっている。このネットワークに集う人々と付き合って一番感じる
ことは、「安心」して付き合えることである。威張ったり、虚勢を
張っている人もいない。ごく自然に集い、子どもたちのことを
考えている皆さんではあるが、子どもたちや世の中を思う
気持ちは「熱いもの」があるように推測した。
午後9時頃(?)懇親会終了。
その後、文化学習ネットワークの佐藤氏などと三鷹駅付近の
「ハーモニカ横丁」へ。11時半頃まで引き続き懇親会。
三鷹駅JR東京行きの最終列車は既に終わっていた。
何とか新宿→池袋→巣鴨までたどり着く。
巣鴨からの地下鉄いの最終も終わっていた。
仕方なくタクシーで自宅まで。午前12時半自宅着。
メールチェック。25通のメール。最低返事をすべき
7通に返事のメール送信。午前2時就寝。
2006年07月01日
支援者懇談会
終日曇り(時々雨)
19通のメール受信。20通のメール送信。
送受信の大半はベトナムとの間。
午前11時過ぎ、上野アメ横散策。
午後支援者と懇談。
夜帰宅。
「お言葉ですが・・・漢字語源の筋違い」(高島俊男著:文春文庫)
著者は中国文学研究者。
週刊文春に連載中のエッセーをまとめたもの。
政治的な文脈では意見を異にするが、興味津々の本。
中国に「けつ後語」というのがあるそうだ。これは一種の
言葉の遊び。「駄じゃれ」。
「昨日のマージャンどうだった?」と聞かれたら
「孔子の引越しさ」となるそうだ。「孔子の引越し」とは
「負けてしまったよ」という意味。
これは同音語を使った言葉あ遊び。
日本で言えば「便所の火事だ」=「やけそく」みたいなもの。
学者である孔子の引越し荷物は全て本。本は書と書く。
「全是書」。「書」は「シュー」。「輸」も「シュー」と読むそうだ。
「輸」は「負ける」という意味。「全是輸」。(全部負け)となる。
「全是書」(全て是れ書)と「全是輸」(全てこれ負け)が同音となる
しゃれ。これは一般庶民の中でも結構使われている言葉遊びだ
そうだ。
1970年、アメリカのジャーナリスト「エドガースノー」が毛沢東と
会見。スノーが会見録を発表した。その中に毛沢東が言った
として「私は傘を手に歩む孤高な行脚僧だ」とのことばが
あったそうだ。この言葉は、毛沢東が死んだ1976年の
朝日新聞の天声人語にも引用され「毛主席は肉体労働
を重んずる行動主義者であると同時に、詩人であり愚公山を移す
という農民的なしぶとさを持つ革命家であると同時に
、孤高の思索家であったらしい。晩年の主席がスノー氏に
自分は破れ傘を片手に歩む孤高な修行僧に過ぎないともらした
言葉は、この不世出の革命家の内面を知る上で実に印象的だ」
と書かれている。
スノー氏と毛沢東の会見の通訳をしたのは唐聞生(当時25歳位)。
彼女はアメリカ育ち。英語力を買われて25歳で通訳をした訳
である。アメリカ育ちのため、中国の庶民の生活は知らなかった
ようだ。
毛沢東は「まあ、俺なんか、坊主が傘をさすんだから」とけつ後語
(しゃれ)を言ったのだが、アメリカで育った唐聞生は「しゃれ」を知らず
そのまま訳した。それを聞いたスノーが更に脚色し、「私は
傘を手に歩む孤高な行脚僧だ」と書き世界に発信してしまった。
毛沢東は『無髪無天』(無髪は髪がないので坊主。無天は傘で
空が見えないい意味。そこから坊主が傘をさすとなる)の
音で「無法無天」と言ったのである。髪(ファ)と法(ファ)の同音
をかけて、『坊主が傘をさす」という音で「法もなければ天もない」
つまり「勝手放題、やり放題」と言ったのだ。
しかし、通訳はそうした「しゃれ」が分からずに「孤高の行脚僧」と
なってしまい、それが高名なジャナリストが英語で世界中に発信
し、天声人語となってしまったのである。
1993年頃、アメリカの高名なジャーナリストがベトナム戦争後
初めて南北縦断体験記を書き出版した。
その中に「ベトナムの農村に行くと農民が私を指差し
MY(マイ)と言った」との記述があった。
これでは、意味が全く分からない。そのまま訳せば
「農民が私を指差し、私の と言った」となってしまい、意味が
通じない。ベトナムに多少でも住んだことのある人なら
ベトナム語でアメリカを「MY」(ミー)と言う。
これは中国語の「美国」(アメリカ)から来たベトナム語だと
思われる。「農民が私を指差し、アメリカ と言った」となるのが
普通である。
世界への発信が英語となっている昨今、欧米人の発想で
発信された情報も結構怪しいものがあることをもっと
知る必要があるのでは・・・。