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2006年07月30日
日本料理店フエンさんの母親16回忌法要へ。
晴れのち曇り。32度。湿度84%。
午前6時半起床。血圧・体重を量る。
フエに来て2週間。体重が2キロ減った。
午前6時半過ぎ、ベトナムTVで昨日の日本語学校卒業式の
様子を放映していた。昨夜と今朝放映とのこと。
午前7時、NHK海外衛星放送「日曜討論」を見る。
公共放送のNHKが1時間も使って自民党の宣伝を
行うのは、放送法違反。
自民党の若手・中堅議員による「ポスト小泉」を語るという
内容。全員一致して靖国問題は「人の心の問題」。政争の具に
すべきではない、などと言っていた。
しかし、靖国問題は「心の問題」ではなく、本質的には
第2次世界大戦、アジア太平洋戦争を「侵略戦争」と
見るのか『日本の正義の防衛戦争』と見るのかと
いう問題である。極東軍事裁判でもサンフランシスコ講和条約
でも日本国は極東軍事裁判の判決を受け入れている。
A級戦犯を合祀した靖国神社への首相の参拝に
アジア諸国が反発するのは当然のことである。
反対の立場を考えてみれば一目瞭然。けして「心の問題」
ではない。至って重要な政治問題、国際問題であり、
平和の問題でもある。
NHK「中堅・若手議員が語る」番組はこうした問題の
本質について何も語らない。放送法では、一つのテーマに
ついて反対意見や異論があれば紹介することが基本の
はず。一つの政党の問題を1時間もかけて党員に語らす
NHKの体制順応体質は腐っている。
などと考えながら、やっと目が覚める。
午前9時。中村友香先生から電話。
日本料理店前に「子どもの家」のドゥオック君が来ているとの
こと。急いで1階の日本料理店へ降りていく。
中村先生は朝食の買出し。
ドゥオック君は今日の夜、フエ省文化会館主催の
「2006 フエ 夏の歌コンテスト」に参加し「涙そうそう」を
日本語で歌うそうだ。
その際、「涙そうそう」の大雑把な意味を紹介したいとのこと。
歌詞を持ってきた。大雑把な意味を説明するがベトナム語での
説明に苦労。
作詞者の森山良子が40歳代の頃(1980年代末)に若くして
亡くなった兄を思い作詞した歌。「涙(なだ)そうそう」は
沖縄の言葉で「涙がぽろぽろ落ちる」と言う意味。
大雑把な意味は、古いアルバムを見ると若くして亡くなった兄
の写真があり兄をを想い出す。兄との生活や色々な思い出が
よみがえり私を元気付けてくれる。亡くなった兄にありがとうと
感謝の言葉を言いたい。
日本では亡くなった人は空の星になるという言い伝えがある。
夕空に最初に輝きだす星を見ると亡くなった兄がなった星かと
思い、また兄に会えることを祈る。私が悲しかったり嬉しかったり
する度に私を空から励ましてくれる兄に「もし、空から地上の
私が見えるのならいつか会える」ことを信じてこれからも
人生を生きて行きたい。
大雑把でうろ覚えであったがこんな趣旨だと話す。
午前10時。コムディア屋にご飯、野菜炒め、肉の煮物を買いに
行く。途中、税田さんで出会う。イン君と出会う。イン君は
昨夜日本料理店前に置いた自転車を盗まれてしまった。
同じような自転車に乗っていた。友達に借りたとのこと。
NHK『のど自慢』を見ながらフダ缶ビールを3本。
昼寝。
午後2時からメール受信。15通の受信。9通送信。
午後4時半。日本料理店前に日本人、日本料理店スタッフ
全員集合。
日本料理店のフエンさんの母親16回忌法要に参加。
フエンさんとの出会いは古い。1993年から94年までの
1年間、私が最初に作ったチーランン通り「子どもの家」
に入所していた。弟と一緒に。数年前に母親が病死。
父親も病弱で仕事が出来ず、父親が育てられないということで
チーラン通り「子どもの家」でフエンさんと弟を受け入れた。
その後、父親が入院・胃がんの手術をした。病院にいる父親
のお世話などの手伝いが必要ということで、ウエンさんは
「子どもの家」を退所し家へ帰る。「在宅支援」として
引き続き支援することになった。
家庭は王宮のお堀の横に『違法建築』で竹を編んだ簡単な
家を作って住んでいたい。
父と姉(17歳)、弟、妹。フエンさんが9歳位という家族構成。
1995年秋、「子どもの家」のロック寮長から突然連絡が
あった。17歳の姉が服毒自殺をしたとのこと。葬式など
出来ない、急いでフエンさんの家へ行って欲しいと。
当時フエ師範大学で日本語を教えていた渡辺和代さん
・ラームさんと一緒に王宮のお堀の横に作った簡素な家へ
行く。
父親は胃がんになり入院して3ヶ月。17歳の姉が家の
切り盛りをして、フエンさんと妹が住んでいた。弟は「子どもの家」。
生活費は私たちが支援している1ヶ月2000円だけであった。
父親の入院費、手術費などもかかり、姉が生活苦に追い込まれ
3ヶ月間、何とか私たちの支援金で生活を続けたがどうにも
ならず17歳の姉は将来への展望を失い自らの命を絶った
ということが分かった。
近所の人が集まっているが、そこはフエの「スラム街」。
近所の皆さんも王宮の塀に穴を掘って家にしたり、
掘っ立て小屋を勝手に作りして住んでいる。フエン一家の
葬式を支援することの出来る経済状態ではない。
結局、私が200ドル程のお金を出し、お通夜と葬式を
行った。父親は手術後であり病院にいて葬式の
取り仕切りも出来ない状態だった。
姉を失い、茫然自失のフエンさんと弟、妹の3人が
17歳の姉の葬式の主体であった。これほど悲しい出来事は
なかった。
通夜を過ごし、翌日の葬式を行ったが、何とも心の重い
出来事だった。その後、フエンさん家族の事が気になり、何度も
家庭を訪問。支援を続けた。父親が退院した。
しかし、手術後の経過が思わしくない。力仕事はできない。
フエンさんの家の横に豚小屋を作り、子豚を何頭か買って
上げる。父親が子豚を育て大きくし売り、収入を得るようにした。
その後、体力も回復した父親が『シクロ』の運転手をしたい
と言ってきた。シクロの世界は親方にシクロを借り、毎日
借り賃を支払うというものだった。借り賃が法外に高い。
親方の収奪である。父親はシクロを自分で持ちたい、
自営シクロになりたいとのこと。シクロを1台買ってあげる。
2万円ほどしたように思う。当時の庶民の年収である。
そんなこんなでフエンさんとの付き合いは続く。
その後、中学を卒業し、夜間の高校へ行きたいとの
ことで支援する。夜間の高校の途中で今度は、
フエ伝統の歌手になりたい、歌手の学校へ行きたいと
の希望があり、歌手学校へ通わせるも、途中退学。
次に料理を勉強したいとのことでハノイの料理学校
(フランスのNGOが経営)に1年間通わせる。
そして、日本料理店を立ち上げることを聞き
就職をしたいと訪ねてきた。就職を受け入れ
数ヶ月がたった。何とか日本料理店の料理に慣れる
ことを期待したい。
私たちの支援はどの子5年、10年と長い付き合いである。
結局はその子の人生そのものとかかわってきている。
また、支援とはそうしたものだと思う。人間とかかわり、
人を育てる。
税田さん、大塚さん、久保田さん、日本料理店の
グエットさn、トゥオイさんと一緒にフエンさんの家へ。
フエンさんの家を知っているのが私だけということで
家まで案内役を引き受ける。
フエンさんの家は以前の通り、お堀の横に違法建築の一つとして
建っていた。
以前よりも大分きれいな家になっていた。床や家の回りをコンクリート
で固めていた。
お母さんの16回忌、位牌にお焼香。
家の中と以前買った豚小屋を見る。家計に多少ゆとりが出てきた
のか、以前よりも家財道具が増え、こざっぱりしていた。
嬉しいことである。フエンさんが日本料理店で働き給料をもらい、
弟もラデン細工工場で働き収入がある。この10年間の支援で
やっと子どもたちが大きくなり、家計を助かるようになったのである。
豚小屋を見た。以前は竹で作った粗末なものだったが、コンクリート
で清潔な豚小屋となっていた。
父親が胃の手術をし退院。体力がなく仕事が出来ない。
子どもたちの面倒もみなければならない。そこで私たちが子豚を
数匹買い、豚小屋を作る支援をした。父親は子豚にお堀の水草
などのえさをやり大きく育てる。子豚は6ヶ月で大人になり売れる。
1頭60万ドン(4000円)。4000円あれば最低限度の生活は
出来る。何頭かの子豚を飼い育てれば、生きていけた。
親戚の人たちも若干来ていたが、今日は日本料理店で
お世話になっていると父親が思っている日本人や
子どもたちを招待し会食することが主目的。
既に美味しそうなご馳走が用意されていた。
父親・フエさん、親戚の人などが接待してくれる。
氷入りのビールが出る。ビールは飲みたいがなんとなく
「怪しい」氷。飲まないと失礼である。コップ2杯ほど飲む。
豚肉の煮物が何ともいえない美味しさを出していた。
1時間ちょっとご馳走になり退席。
13年間、フエンさんを見てきた。私の印象は表情や喜怒哀楽の
ない「暗い感じの子」というイメージだった。
今日のフエさんは、「ケラケラ」笑い、かなりトーンの高い声で
はしゃいでいた。日本料理店の関係者・日本人を我が家に
招待してご馳走することが出来たことを心から喜んで
いるようだった。
これからも日本料理店でしっかりと日本料理を覚え、
自立し、父親の面倒をみることの出来る人間に成長して
行って欲しいと思った。
午後7時半。フオン川にかかるチャンティエン橋のたもとで
「2006 フエ 夏の歌 コンテスト」が行われていた。
「子どもの家」のドゥオック君も出場する。今日は20人ほど
出場者。主催者はトゥアティエンフエ省文化会館。
フエ省で一番歌のうまい人を決めるというコンテストだとのこと。
私が行って時には既に大塚さん、税田さん、中村さんが
来ていた。聴衆は100人ほど。
審査員とフエ省・フエ市の「お偉いさん」が真ん中前列に座る。
副市長に挨拶。
ドゥオック君の出番は10番目。2番から9番までの歌を聞くが
音量が異常に大きく、一種の「拷問」であった。
うまいも下手も分からないほどの大音響の中で歌っていた。
ボリューム右回し全開状態。
この歌のコンテストはトゥアティエンフエ省にある各種団体
から歌のうまい人が一人代表として選ばれうまさを競うもの
である。
ドゥオック君はトゥアティエンフエ省立芸術専門学校から
選ばれて代表となりこのコンテストに出場することになった。
待合場に行く。トゥアティエンフエ省立芸術専門学校の
先生がドゥオック君についている。ありがたいことである。
参加者は正装していた。ドゥオック君だけネクタイをしていなかった。
大塚さんが急いで買ってきてくれた。
ドゥオック君が出場する10番目までの参加者の歌を聞く。
午後8時半。いよいよドゥオック君の出番。
日本人支援者の大声援に送られて登壇。
「涙そうそう」の意味をベトナム語で解説。フルコーラスを
堂々と歌い上げた。
その後更に10人の出場者があったが、既に時間も遅い。
参加者全員で記念写真。「子どもの家」のTY君も
友達のドゥオック君の歌が心配で励ましに来ていた。
午後9時前、トンチンカンホテルに帰宅。
大塚さん、税田さん、中村さんの4人で日本料理店など
いくつかの問題を話し合いながら「反省会」。
気がつくと午前1時になっていた。
その後の情報によるとドゥオック君は見事に予選を通過。
近日中に行われる準決勝出場を決めた。
投稿者 koyama : 2006年07月30日 16:52