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2006年08月31日

地球の歩き方ツアー(Ⅲ)第3日目 TBSテレビ取材

快晴。・猛暑

午前8時。地球の歩き方ツアー(Ⅲ)はホテルからシクロで
「子どもの家」へ。30台近くのシクロの列は壮観。


「子どもの家」に到着後、子どもたちと一緒に近くの
「タイロック市場」へ。




「子どもの家」のハイ君が見事「県立技術短期大学」に合格。
おめでとう。3年間の勉強の後、電気技術者として社会に
出て行く予定。

市場から帰り、子どもたちと一緒に昼食を作る。
いんげんの皮むき、芋の葉の整理・・・・。

午前10時。TBSテレビ取材団が到着。
早速、ベトナム事務所で取材の打ち合わせ。
事前に取材打ち合わせをしていない。今日始めて
どんな場所でどんな場面を取材したいのかが分かる。
TBS側の要望を受け入れつつ、取材日程を決める。
8月31日午後から9月7日まで。1時間半ほどの
打ち合わせを終わる。テーマは「熱血日本人海外で活躍」
のような内容。

トンチンカンホテルの部屋に戻る。日本からWさんの電話。
1時間ほど電話を受ける。

午後2時。TBSテレビ取材団を「子どもの家」へ案内。
セン委員長に紹介。TBSテレビの取材が始まる。
私が「子どもの家」の施設などを案内する場面から
取材が始まる。
取材途中でミン・ベトナム事務所長とバオミンホテルへ。

午後3時。ベトナム研究者のN先生を案内し、
フーハ地区へ。船上生活者が多く、フエでも低所得者の
いる地域。今日はフーハウ地区の障害児父母の会が
行われていた。N先生は障害児父母の会を取材。

フーハウ診療所長のトゥー先生、リハビリ担当の看護師、
そして20人ほどの障害児とその母親やかぞくが集まっていた。
リハビリの練習。母親同士の話し合い、子どもたちも
一緒に遊んでいる。

午後5時頃、フーハウ診療所での障害児父母の会視察を終え
N先生、バオミンさんと一緒に帰る。

トンチンカンホテルの戻り、30分の仮眠。今日は朝から
地球の歩き方ツアー、TBSテレビ、N先生とめまぐるしく
お付き合いする人が変わる。昼寝なし。疲労困憊。

午後6時半。地球の歩き方本社宣伝担当者、ピースインツアー
添乗員、ラームさん、ミンさんと今後の地球の歩き方ツアー
のあり方などを話し合う。日本料理店で。
午後11時近くまで。

投稿者 koyama : 18:51 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月30日

地球の歩き方ツアー(Ⅲ)第2日目

晴天。

午前8時。地球の歩き方ツアーの皆さんはベトナム事務所
を訪問。ベトナム事務所でベトナム事務所員紹介。

「子どもの家」へ。子どもたちと文化交流。

私はベトナム研究者のNさんと1時間半ほど懇談。

地球の歩き方ツアーの皆さんは「子どもの家」で
子どもたちと交流。

今日は訪日したメンさんが「子どもの家」に遊びに来ていた。
妹や子どもたちと久しぶりの再開。

午前10時。地球の歩き方ツアーの皆さんに「子どもの家」、
ボランティア、人生などについて話す。

1時間半の話を終え、昼食レストランへ。

午後2時半。地球の歩き方ツアーはベトナム語講座へ。
静岡青年会館付属日本語学校でサン先生、フーン先生から
ベトナム語初級講座を受講。
その後、日本語学校で勉強しているベトナム人生徒とベトナム語
会話の練習。


午後6時半。地球の歩き方ツアーの皆さんと夕食会。


午後8時半過ぎ、日本料理店へ。
午後10時閉店。今日は10人のお客さん。昨日は17人。
明日1日あるが8月は400人の来客があった。
日本料理店にフエ教育大2年生のユオンさんが
妹のグエットさんを迎えに来た。ユオンさんは「子どもの家」の
第1期生。現在「子どもの家」から大学に通学している。来年度
終了後、小学校の先生になる。8月の夏休み1ヶ月間
軍隊に入隊し軍事訓練が終わったばかりとのこと。
大変だったねと聞いたら、「楽しかった」とのこと。
銃の使い方、行進・・・軍事の基礎訓練を受けた。

夜の部担当の子どもたち全員で記念写真を撮る。

投稿者 koyama : 22:10 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月29日

地球の歩き方ツアー(Ⅲ)フエ着

朝雨。昼間真夏。夜豪雨。

午前7時半。雨の中、日本語教師の石岡先生が2週間の
一時帰国。

昨夕の送別会から下痢と嘔吐状態。原因不明。
参加者で症状が出ているのが私だけのようなので
疲労と飲みすぎなどで消化能力が減退した中で
冷たい生ビールをイカリングなどをおつまに飲んだのが
原因かもしれない。
朝食は摂れず、昼食は自分でおかゆを作る。

午前8時半。ボランティア貯金等の打ち合わせ。
ミンさん、ハンさんと。

ベトナム事務所では新任日本語教師石塚先生の相談に
快く中村先生が応じていた。

午前10時。地球の歩き方ツアーなど当面のスタディーツアー
TBSテレビ取材、N研究者訪問など
への総合的な対応について関係者と協議。
バオミンさん・ラームさん・税田さん。

午後、ベトナム事務所で仕事。

午後6時半。ラームさん、ミンさん、ソン君とフエ空港へ。
地球の歩き方ツアー第3陣の出迎え。
7時40分。30分ほど送れてフエ空港へ到着。
フエは雨。28人の参加者が元気に空港から出てくる。
記念写真を撮る。男性2名、女性26名。大半は
大学生。

ソン君はお客さんの荷物を小型トラックに積んで
ホテルへ。

私とラームさん、ミンさんはスタディーツアー参加者・添乗員
の皆さんとバスに乗る。バオミンさん自己紹介。
私からはJASSとして歓迎の挨拶。ラームさんのガイド。


20分程でフエ市内へ。市内は雨。

フォー(米うどん)の専門店へ。
さっぱりとした鶏肉スープとやわらかい米のうどんは
日本人の舌にフィット。好評だった。

バスでホテルへ。

添乗員さんの説明を聞き、午後9時40分、各自部屋へ入る。


午後9時50分。バオミンさんとトンチンカンホテルへ。
バオミンさんのオートバイを取りに。
丁度日本料理店が閉店。今日は10数人のお客さんが
あった。8月だけで370人ほどの来客。

日本料理店にいた大塚さん、石塚さん、税田さん、
日本語学校から戻った中村さん、ボランティアの
Sさん、そしてバオミンさんと1時間ほどビール懇親。

投稿者 koyama : 07:36 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月28日

明日からの各種スタディーツアーへの対策会議 日本料理店ボランティア矢吹さんお別れ会

朝雨。その後晴天。

午前7時朝食。今日から新任日本語教師石塚先生も加わる。
中村先生は友人とホイアンから帰る途中。


午前8時半。ベトナム事務所で9月29日からの各種
スタディーツアーについて協議。私、バオミンさん、税田さん。

8月初めから10月初めまで続くスタディーツアーの中間点。
この1ヶ月は本当に忙しかった。ベトナム事務所員がそれぞれ
の分担に責任を持って活動した。なかなか全員が集まって
細かい総括が出来ない。今日は、この間のベトナム事務所員
から聞いた様々な話なども総合し、8月・9月スタディーツアー
中間総括を行い、早速、明日からくる地球の歩き方ツアー(Ⅲ)
に役立ている方策を検討した。

・食事の工夫(食事が同じ傾向にならないような工夫)
・熱中症対策(朝ホテルを出る際水を持っていくよう)
・ベトナム事務所員の案内の人数増と内容の充実
・それぞれのプログラムの内容を充実させる
・ベトナム事務所員全体の健康保全と休養の問題

また、8月31日から9月7日までTBSテレビが取材に来る。
「海外で活躍する熱血日本人」を紹介する番組。詳細不明。
取材への対応を考える。
午前11時半まで検討・話し合いをする。

地球の歩き方ツアー(Ⅱ)案内人から電話。昨夜2時間遅れで
ホーチミン市に無事到着。今日はクーチトンネルなどに
行った人、ホーチミン市内観光・ベンタイン市場買い物などを
行っているとのこと。一安心。

午後2時。バオミン・ベトナム事務所長と「フエ高等師範大学」
の学長面会。「子どもの家」の子どもの教育、日本語学校・
日本語教育などの件について話し合う。

午後6時。1ヶ月間日本料理店のボランティアをしてくれた
Yさんのお別れ会。8月初めから1ヶ月間、午前10時から
午後10時まで日曜を除く毎日日本料理店で子どもたちに
接客指導をしていただいた。明日、フエを発つ。
今日は日本料理店を閉店しお別れ会を行った。

ベトナム事務所員・日本料理店スタッフ全員参加で
Yさんのボランティアを慰労。


●税田さんの司会で開会

●小山お礼の言葉

●ラームさん挨拶

●大塚さんの音頭で乾杯

送別会は8時半頃終了。
その後、トンチンカンホテル住人の日本人、京都からのボランティア
O君、Yさんの代わりに今後2週間日本料理店ボランティアを
してくれるSさん、大塚さんなどで午後10時半頃まで懇親。

送別会終了間際に腹痛と吐き気。懇親会終了後部屋で
休む。

投稿者 koyama : 17:36 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月27日

地球の歩き方ツアー(Ⅱ)ホーチミン市へ

晴天。25度。
非常に蒸し暑い1日だった。

午前6時。JASSスタディーツアー森田団長より電話。
今、成田空港に無事到着したとのこと。義理堅い方である。
皆さん無事帰国されてほっとする。

午前7時。ボーッとした頭でNHK海外衛星放送を見るとはなし
に見る。自民党総裁候補予定安倍氏の対抗馬と目される
麻生氏と谷垣氏の登場。麻生氏は祖父の吉田茂を自慢げに
語っていたが、同時に父親の麻生太賀吉氏も語るべきで
ある。父親は九州の炭鉱を牛耳っていた麻生財閥。
朝鮮半島から強制連行された朝鮮人を何人炭鉱で
殺しているのかも語るべきである。
自民党の総裁が首相になる可能性は高いが、
飽くまで一政党の党首選びである。
社会の公器である電波を使って毎週特定政党の宣伝番組を
提灯持ちの如く制作しているNHKの大勢順応体質には
呆れる。戦前、マスコミの体勢迎合がどれだけ国民を
悲惨な事態に追い込んだかを考えるべきである、などど
考えているうちに午前7時半になる。シャワーを浴びて
急いで地球の歩き方ツアーの宿泊ホテルへ行く。
朝食を摂る暇はなかった。

午前8時。地球の歩き方ツアー(20人)は、市内観光。
王宮へ。私も同行案内。

王宮からティエンムー寺へ。

●ベトナム戦争中、サイゴンで「宗教の自由」などを求めて
 焼身自殺したお坊さんが乗ったオースティンの前で
 説明を聞く。1965年のことだった。


ティエンムー寺から見るフォン川

続いて、フエ市内最大の市場「ドンバ市場」へ行き買い物。
1時間ほど、自由時間となり、買い物をする。
するめ、フエ名物お菓子「メースン」、ベトナム茶・・・。

午後12時過ぎから自由時間に。

午後2時チェックアウト。
日本事務所の税田さんが、刺繍みやげ物店の刺繍を
ホテルまで持ってきてくれる。多くのスタディーツアー
参加者が刺繍などを買ってくれる。

午後3時、フエ空港へ出発するはずだったが、突然連絡があり
出発が1時間遅れるという。ホテルを出発しハイバーチュン高校
コックホック高校、フエ駅などを車窓から見学し、フエ空港へ。

午後4時、フエ空港着。しばらく待ち、チェックイン。
飛行機は午後6時10分発。
地球の歩き方ツアー、全国大学生協スタディーツアーの
二つの団体を見送りトンチンカンホテルに戻る。

しばらくすると地球の歩き方ツアー案内人から電話。
飛行機が更に遅れるとの場内放送があったとのこと。
早速、フエ空港にいるバオミンさんの知り合いに連絡して
もらい状況を聞く。2回の飛行延期は悪い前兆。
今までの体験からするとそのまま3回目の延期になり
飛行中止なる例が多い。
飛行中止になった場合の具体的対応を考える。
しばらくするとバオミンさんから連絡。午後6時50分に
飛ぶ飛行機がフエ空港に着いたとのこと。ひと安心。
一緒に待機中の全国大学生協スタディーツアー(添乗員なし)
にも状況を説明するよう依頼する。
午後6時40分。フエ空港内の地球の歩き方ツアー案内人
から電話。飛行機に入るところとの連絡。
何とか二つのスタディーツアーは無事ホーチミン市へ飛行した。

ベトナ航空の営利至上主義は行き着くところまで行ってしまった。
お客のためという概念すらなくなったかのような出たら目な
運行である。乗客がすくなるなると飛行を中止する。
お客を何機分かまとめて一機に乗せるなど、目に余る。
だれもこうした異常さを止められないところに一党独裁国家の
恐ろしさがある。

午後7時過ぎ、夕食のコムデイアを買いに行く。
午後9時前。ビールを飲もうと思い冷蔵庫を開けるが
冷えたビールがない。絶望的な気分になるが、気持ちを
取り直し、温かいフダビールを氷で飲む。不満だが
飲まないよりはいい。野菜コムデイア(ビンザン:庶民)を
おつまみに氷フダビールを飲む。
今週は多くの問題とスタディーツアーの案内、食事会などが
あり、疲れがその極地に達している。今日は本当に暑く
蒸していた。地球の歩き方ツアーの案内をしながら
水を補給した。
先週の日曜日は神奈川県青少年海外派遣団の案内だった。

とにかくビールを飲んで明日からの英気を養わなければ
ならない。


MIXIにたくさんのメッセージあり。

投稿者 koyama : 19:12 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月26日

JASSスタディーツアーハノイへ。地球の歩き方ツアー(Ⅱ)晩餐会

快晴。36度。

午前7時。JASSスタディーツアーの皆さんとフエ空港へ。
JASSスタディーツアーは8月21日から26日までの
6日間フエに滞在し、様々なボランティア活動を行った。
フエ空港からハノイのノイバイ空港へ。今夜、ハノイを
発って明朝成田へ。6日間のスタディーツアーご苦労様。

その足でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所では昨夜赴任した日本語教師の石塚先生
と日本語教師の皆さんとの打ち合わせが行われていた。

岡山の明誠学院高校(20人)が昨夕、突然連絡してきた。
サイトラベルに業務委託し昨日の午後と今日の午前中
「子どもの家」などを訪問する予定になっていたのだが、
予約されていない。急な話だが訪問したいとのこと。
今日は、地球の歩き方ツアー、全国大学生協スタディーツアー
が「子どもの家」で子どもたちと交流や昼食作りをしている。
常識的に受け入れは無理だったが、教頭先生、引率の
先生方の立場、事前に生徒さんたちと「子どもの家」訪問の
準備などもしてきているとのことを伺い、何とか融通を
つけて短時間受け入れることとした。
教頭先生、引率の先生方、そして生徒さんたちは至って
真面目な態度で「子どもの家」訪問を行った。
おどり、「子どもの家」の子どもたちとの交流にも真剣に
参加していた。先生方の日ごろの指導の結果だと思えた。

1時間半ほど、ストリートチルドレン、ボランティア、「子どもの家」
人生などについての講義をする。

明誠学院高校の生徒さん・先生と子どもたちとの交流

岡山伝統の鬼踊り

全員写真


明誠学院高校スタディーツアーについて来ている「サイトラベル」の
ガイドは、「子どもの家」に明誠学院高校の皆さんが
入った途端にどこかへ消えてしまった。結局、子どもたちとの
交流そのたの通訳はベトナム事務所スタッフが行う事となった。
明誠学院高校の皆さんが「子どもの家」を発つ頃になって
どこからか戻ってきた。私が「貴方はサイトラベルのガイドとして
仕事をしなければならない。何故仕事をしない」と詰問しました。
サイトラベルのガイドは「私は王宮など名所旧跡だけ説明する
のが仕事なので子どもの家などでのガイドは仕事ではない」と
しゃあしゃあとして答えるのである。呆れて言葉が出ない。
この程度のガイドを使って日本人客からお金をもらている
サイトラベルという会社の低レベルぶりにもあきれる。
夜、サイトラベルホーチミン支店の宮島氏に問い合わせの
電話をするが、謝罪の言葉すらない。改めてサイトラベルに
厳重抗議をしたい。
サイトラベルが催行している明誠学院高校のスタディーツアー
が「子どもの家」に早期予約もなしにやって来る、
ガイドはどこかへ逃亡。結局、ベトナム事務所員が無料で
通訳までするという羽目になった。
観光業を行うということの社会的な意味すら理解していない
会社である。自分の催行するツアーが一方的に押しかけ、
その上、我が事務所員に通訳までさせ、またそのことについて
ツアーを催行した観光会社として謝罪の言葉すらいえない
会社には社会的な制裁が必要である。


午前11時過ぎ、「子どもの家」では昼食。地球の歩き方ツアーの
皆さんと子どもたちは一緒に昼食を摂る。


午後2時。地球の歩き方ツアーの皆さんは「子どもの家」で
子どもたちと音楽・絵画・日本語などを通して交流。

午後6時半。地球の歩き方ツアーは最後の晩餐会を行う。

明日誕生日のスタディーツアー参加者がいた。
バースデーケーキをプレゼント。

晩餐会の最後に案内人が明日の日程を説明し、晩餐会は終了。
午後9時過ぎだった。

今日も朝7時から夜9時過ぎまでの長い1日だった。
サイトラベルの出来事は人間の生き方を考えさせられた。
自分の会社が催行したスタディーツアーで「子どもの家」を
訪問し、通訳・ガイド問題で迷惑をかけているのに
その迷惑の社会的な意味すら理解できない会社の
存在意義を疑う。腹を立てて怒るのも情けない会社である。
こうした低次元の問題を一つ一つ解決するのも神経と
エネルギーを要する。この1ヶ月半近くの疲労が一層
深まる。日本の無責任社会をそのまま反映したかの
ような出来事である。

投稿者 koyama : 00:27 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月25日

地球の歩き方ツアー(Ⅱ)「子どもの家」へ

快晴。

午前8時半。教員時代の友人杉田さんが突然ベトナム事務所を
訪ねてきた。1時間ほど懇談する。東京の教育の状況、学校・
職場の様子などを聞く。

午前9時半。地球の歩き方ツアー(19人)の皆さんは、
「子どもの家」で子どもたちとカレー作り。
地元のジャガイモなどの野菜を子どもたちと調理。
骨付きの肉で出汁をとり、日本から持ってきたルーで
カレーを作る。


カレー作り後、子どもたちと交流。

子どもたちとカレーで昼食を摂る。



午後12時半。帰りはシクロでホテルへ。




午後2時。金沢大学医学部学生20人が「子どもの家」へ。
1時間ほど施設を案内。
午後3時。2階の音楽室で2時間、講演をする。

「子どもの家」の取り組み、
障害児医療支援の内容、JICA障害児支援、枯葉剤散布と
障害児問題・・・。

その後子どもたちと交流し、午後5時過ぎに帰る。

金沢大医学部学生と記念写真


午後7時。JASSスタディーツアーのお別れ夕食会に参加。

一人一人の参加者がスタディーツアーに参加しての感想を
披露しあう。


多くの参加者が「来年も参加したい」との意見を言っていた。
自費で引率役を買って出てくれている森田さん、加藤さん、
山田さんに感謝。

午後9時。日本料理店前で記念写真

午後9時半。新任日本語教師の石塚さんが飛行機の
遅れで1時間遅れて日本料理店ートンチンカンホテルに
到着。

その後、石塚さんを歓迎して日本人全員で午後11時半まで
交流を深める。

この2週間、スタディーツアーの応対で早朝から深夜まで
活動した。昼寝の時間も取れない。病気、怪我、日程のミス
など様々な問題が起こり、一つ一つ具体的に解決して
いった。かなり疲労が蓄積してきた。
日記を書く時間がない。早朝、昼寝の時間などをとって
何とか毎日の日記を続けている。日記が遅れた場合は
ご勘弁を。

投稿者 koyama : 08:41 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月24日

JASSスタディーツアー「ティエンアン山」運動会

日記は続きがあります。時間がないため続きは
数時間後に・・。暫時お待ちください。小山


快晴。36度。蒸し暑い。


地球の歩き方ツアーはナムドン山岳地帯へ。
全国大学生協スタディーツアーはオートバイ修理研修センター。

午前8時。JASSスタディーツアーはティエンアン山へ。
「子どもの家」運動会。

45人乗りの大柄バス2台を連ねていく。子どもたちは
朝からおおはしゃぎ。

午前9時前、ティエンアン山に到着。

早速、「子どもの家」大運動会を開催。

森田団長、開会挨拶。

●紙飛行機飛ばし大会
  新聞紙から手作り紙飛行機を作り、どこまで飛ぶか?
  飛行距離を競う。


●じゃんけんゲーム

午前11時半。楽しみにしていた昼食。
もち米で出来た「バインチュン」。肉まん。果物。ジュース・・・。





暑い日差しをの照り注ぐ「ティエンアン山」。
子どもたちもスタッフも汗だく。水をたくさん飲みながらの昼食。

昼食後、暫時休憩。

午後の運動会が始まる。

綱引き大会。

最後は赤白青黄の4組に分かれてのリレー徒競走。


大運動会終了。運動会の運営はJASSスタディーツアーに参加した
中学生を中心に子どもたちスタッフが行う。時間をかけ、しっかりと
運営されていた。

いよいよ赤白青黄の表彰式。

第1位の金メダルは白組。

第2位の銀メダルは黄組。


午後2時半過ぎ、ティエンアン山を出発。
王宮前前のフォン川横に到着。大型バスのためそこから
「子どもの家」までは徒歩30分。
「子どもの家」に到着した時にはさすがクタクタ状態。

午後4時過ぎ、木田盈四郎先生と一緒にベトナムの
障害児実態調査をされている看護師さん一行4人が
「子どもの家」にこられる。私が案内。しばらく懇談。
JASSスタディーツアーに参加している横浜の中学生に
学区域に住んでいる方がいて、中学生としばらく懇談。

しかし、JASSスタディーツアーは引き続き、夜の
夏祭り大会の準備に入る。午後5時半で準備。
午後5時半過ぎ、JASSスタディーツアーは
夕食を摂りに市内のレストランへ。

午後7時半。JASSスタディーツアー主催「夏祭り大会」。

●「子どもの家」の最年少男子、開会の挨拶。立派に話す。

●加藤副団長の諸注意

●かき氷


●くじ引き


●ヨーヨーつり

●水あめ


●綿アメ

●最後の花火大会

夏祭り大会は午後10時まで続いた。

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2006年08月23日

JASSスタディーツアー第3日目(ナムドン山岳へ)

晴天。

今日はJASSスタディーツアー、地球の歩き方ツアー(Ⅱ)、
全国大学生協ツアー、ウオータービジョンと4つの
スタディーツアーが、山岳地帯、日本語学校、
「子どもの家」などを訪問した。ベトナム事務所は分担して
案内。その対応におおわらわ。

午前8時。地球の歩き方ツアー(19人)がベトナム事務所
を訪問。ベトナム事務所スタッフとお顔見知りになるための
紹介を行う。

ベトナム事務所から「子どもの家」までのバスの中で
「子どもの家」設立の経過などを説明する。

午前8時半。「子どもの家」到着。
「子どもの家」の子どもたちと文化交流。

セン委員長の歓迎の挨拶

子どもたちの出し物


地球の歩き方ツアーの出し物(歌2曲)

10年前から愛知県で「子どもの家」を支えてくれている岡本さん
も交流に参加。

交流会後、案内人の案内で「子どもの家」を視察。

午前9時半。トンチンカンホテルに戻り、JASSスタディーツアーと
一緒にナムドン山岳地帯へ行く。

小型バスで1時間半。午前11時過ぎにナムドン郡の
中心部到着。しばらく休憩し、昼食。

昼食は日本料理店特製の「おにぎり弁当」。
おにぎり弁当を食べると不思議に元気が出る。
JASSスタディーツアーの皆さんも一つ残らず
おにぎり弁当を平らげる。

午前1時20分。ナムドン山岳少数民「カトゥー族の
THUONG LO 村に到着。

支援物資を持って歓迎会場へ。

森田団長と村長さんの挨拶

支援物資贈呈

日本側出し物


その後、村人と森の中の滝に行く。

ナムドン山岳少数民族カトゥー族の皆さんとの交流を終え、
午後5時過ぎ、フエ市内へ戻る。

午後6時半。愛知の岡本さんと日本料理店で懇親。
午後9時過ぎ交流を終え岡本さんは山のホテルへ。

今日は朝から夜まで休みがなかった。かなりきつかった。

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2006年08月22日

JASSスタディーツアー第2日目

終日曇り、時々雨。肌寒く感じる。

午前8時半、京都の大学生がベトナム事務所を訪問。
3週間のボランティア体験を希望。1時間ほど、様々な
話をする。3週間、「子どもの家」やベトナム事務所などで
の活動をすることとなる。

その後、ベトナム事務所である新聞社が募集している賞の
申請書原案を書く。

午後2時、ベトナム事務所でJASSスタディーツアー参加者に
「13年間の体験から得たもの」というテーマで1時間ほど
話をする。


話をする直前に引率者のお一人が体調を崩し何人かの
参加者が手当てをする。

午後4時過ぎから引き続きある賞の申請書を書く。

午後6時半。JASSスタディーツアーの夕食会を日本料理店
で行う。

●森田団長の乾杯の挨拶

午後8時過ぎ、夕食会を終えホテルへ。


午後9時。地球の歩き方ツアー第2班が隣のズイタンホテルに
到着。出迎える。日本から来た案内人の人とホーチミン市で
合流したラームさんがホテルまで案内する。

17人の地球の歩き方ツアー参加者は全員無事、ホテルの到着。

ツアー案内人の説明を聞く。

●ツアー案内人とラームさん

●リー君・ソン君も地球の歩き方ツアーの手伝い

午後10時。全ての仕事を終わりトンチンカンホテルの戻る。
夕方から雨が降り続いている。

午後10時過ぎ、NHK海外衛星放送で国本武春の浪曲を聞く。
あまりに新しいものを追求し、現実に妥協するあまり、面白くない。
浪曲が好きな私にとっては、下手に小細工を弄せず、オーソドックス
な浪曲に徹して欲しいと思った。残念。

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2006年08月21日

JASSスタディーツアーフエ到着

晴天。午後~大雨。  休肝日


昨夜午後11時過ぎから停電。今朝になっても電気がつかない。
エヤコンが止まり一晩中、暑く眠れなかった。部屋がエヤコン用
になっているので密封されエヤコンが止まると蒸し風呂状態。
午前5時半、眠れなく暑いので部屋の外に出る。
丁度朝日が上り、きれいな朝焼け。

朝、1階で食事をして「3階と4階だけが停電」したことを知った。
昨夜からの停電はトンチンカンホテルの電気の故障によるもの。
このホテルはお客だけしか泊まっていないので、こうした事故が
あった場合に修理をしたりする人がいない。


午前7時40分。ラームさんと一緒にフエ空港へ。
午前8時過ぎ、JASSスタディーツアー11人が到着。


20分でフエ市内フォンザンホテルに到着。

JASSスタディーツアーはそのまま市内観光へ。

私はベトナム事務所で「暖炉基金」で奨学金を贈呈している
障害児と家族との懇談会を行った。
「暖炉基金」とは帯広の芳村さんが創設した障害児の教育の
ための奨学金のことである。
現在5人の障害児を通学させるために奨学金を贈呈している。

午後2時半。フォンザンホテルへ。JASSスタディーツアーの
皆さんと「子どもの家」へ。子どもたちは夏休みを元気に遊び
楽しんでいた。

「子どもの家」の子どもたちと交流。初めに子どもたちの
歓迎会。

●セン委員長の歓迎の挨拶


●JASSスタディーツアーからは「手品」の披露があった。


午後5時。子どもたちと夕食を共にする。


午後6時半から日本語教室で子どもたちと交流。

はじめにカルタ取り遊び。


カルタ大会をしながら子どもたちと交流が進む。



午後7時。「子どもの家」ではCANON支援の英語教室が
行われていた。

午後8時。JASSスタディーツアー交流会は終了。ホテルへ。

私はホテルまで一緒に行き、皆さんとはお別れ。
日本料理店に帰る。
日本料理店は大繁盛。午後9時のラストオーダー時点で
16人。(日本人7人、ヨーロッパ2人、韓国2人、スペイン5)
その後、午後9時半、更にスペイン人2人。

今日は午後10時半閉店。18人の来客があった。
ヨーロッパ系の皆さんは、お寿司、刺身、天ぷらを注文する
人たちが多い。箸も上手に使っている。

昨夜の停電事件で眠れなかったが、今日も1日、色々と
仕事があり、夜の日本料理店も大繁盛で嬉しい悲鳴である。

神奈川県青少年海外派遣団の皆さんは午後6時25分、
フエ空港を後にした。みなさんの「子どもの家」交流、
ご支援に深謝。

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2006年08月20日

神奈川県青少年海外派遣団5日目

晴天。暑い。

午前8時半から「子どもの家」へ。
子どもたちと一緒に近くの「タイロック市場」へ行き昼食の
食材を買う。
子どもたちと一緒に昼食作り。

昼食作りと「子どもの家」周辺の壁の塗り替えボランティアを
行う。塗り替えは、一昨日壁のカビを落とす作業を行った。
今日はその上に「下塗り」。その後、「ホン塗り」となる。

●カビを落とした塀

●壁の下塗り


午後2時から引き続き「壁塗り」の最終段階である「上塗り」
を行う。


二日間かけて壁塗りが終わり、参加者一同で記念撮影
毎年雨期になると「子どもの家」の塀は黒かびで真っ黒になる。
今回神奈川県青少年海外派遣団の皆さんが「カビ取り」「下塗り」
「上塗り」と手をかけて塀塗りをしてくれた。団長さん、青少年協会
の「監督さん」も率先して暑い中塀のペンキ塗りをしてくれた。
頭が下がる思いである。理屈は何とでもいえるが、気温34度、
湿度90%の中で丸一日の作業は体に堪える。


絵画教室では大きな布に子どもたちの「手形」を記念に
つけるプログラムが行われていた。
子どもたちは勝手に手に絵の具をつけて「ペタペタ」と
布に手形をつけていた。見ていると子どもたちは本当に
楽しそうだった。本能的に子どもたちはこの種の遊びが
好きなのだ。


●子どもたちと参加者は数日間の交流でかなり親密な関係に
 なっている。

午後5時まで塀塗り、子どもたちとの交流を行う。

5日間、神奈川県青少年海外派遣団(18人)の皆さんと
お付き合いする。団長さん、青少年協会の役員のお二人の
引率者の「心」が子どもたちを引っ張っているように思えた。
引率責任者のお二人の行動をつぶさに観察した。
けして子どもたちに強圧的に命令したりしてはいない。
むしろ子どもたちの自主性・自発性を促進するように
一歩子どもたちと距離を置いているかに見えた。
引率者の見識と能力でスタディーツアーは大きく変わる。
神奈川県スタディーツアーと行動を共にして、「頼れる大人」
と「日本の未来を託くせる若者」がいたことに感謝したい。

時間の空いている時を利用して『ボランティア貯金完了報告書』
を仕上げ、必要な写真を添付し、関係者に送信。

午後3時、JASSスタディーツアーがホーチミン市に到着。
バオミン・ベトナム事務所長がホーチミン市に出迎えに。

加藤紘一自民党元幹事長自宅放火事件は日本の
民主主義にとって大きな問題を孕んでいる。

私は加藤紘一衆議院議員と政治的な立場は異にする。
しかし、今回の右翼の自宅放火事件が加藤氏の
「小泉首相の靖国神社参拝に対する加藤氏の批判」に
対する暴力である可能性が強いと言われている。
民主主義はあくまで言論で戦うべきである。
加藤氏の小泉首相への批判が気に入らないからと
言って、自宅に放火した右翼の「テロリズム」を強く糾弾したい。
加藤氏の自宅には97歳の母親が住んでいたという。
偶然外出していた難を逃れたという。不幸中の幸いである。
加藤紘一氏のHPを見た。http://www.katokoichi.org/
加藤氏は「小泉首相の靖国神社参拝を批判した後、
抗議のメールや手紙が増えた。中にはカミソリが送られた
こともある。しかし、私は自分の主張を今後も言い続ける」
と述べている。
加藤紘一氏は意見は異にしていても尊敬できる人物である。
民主主義は意見の異なる人たちが、言論戦という土俵を
守るためには、大同団結する必要がある。
戦前の井上日召の「一人一殺」など言論を暴力とテロリズムで
圧殺した歴史がある。

民主党の小沢代表が加藤氏自宅放火事件を民主主義の危機と
して糾弾する発言をしている。

日本共産党の市田書記局長も「民主主義の危機」との発言を
している。

しかし、首相官邸、政府は何らの発言も動きもしていない。
鈍感な小泉首相と安部官房長官である。
小泉・安部氏の人間性を象徴するようである。二人とも
民主主義、言論での闘い、説明責任という概念に乏しい
政治家である。
小泉首相も安部官房長官も「靖国参拝」について、国民に
納得できる説明をしていない。民主主義政治とは、
説明責任である。「意見が違う」「個人の心の問題」などと
言って、説明責任を回避する姿勢こと反民主主義である。
加藤氏自宅放火事件への対応がないこの二人の人間性と
思想を象徴しているようである。

投稿者 koyama : 23:05 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月19日

神奈川県青少年海外派遣団 ナムドン山岳少数民族と交流

快晴。蒸し暑い。

午前8時半、ベトナム事務所員全員会議。

午前9時45分、神奈川県スタディーツアーと一緒に
ナムドン山岳少数山岳民族の皆さんと交流へ。
ラームさん、リー君、タン君(日本語学校卒業生)、私。
18人のスタディーツアーの皆さんは多少体調を壊した
人もいたが至って元気。足の怪我をした人も松葉杖で
参加。

フエ市内から1時間半。バスでナムドン山岳地帯へ。

午前11時半、ナムドン山岳地帯の中心地へ到着。昼食と休憩。

午後1時、THUONG LO 村へ。

カトゥー族の皆さんの歓迎

支援物資を持って村の集会場へ。

リー君もスタディーツアーの手伝いとして参加。

集会場の中で交流会は行われた。
最初に村長さんの挨拶。

神奈川県スタディーツアー参加者より支援物資として
食料などを贈呈。

カトゥー族の歓迎の踊り

神奈川県スタディーツアーの歌どよさこいソーラン踊り


その後、日・カトゥー族との踊りの交流

午後3時半、カトゥー族との交流を終えてフエ市内へ。
午後5時、フエ市内へ到着。しばらく休息。

午後6時半、日本料理店で夕食会。
18人の参加者と小山、ラームさんの参加。

初めに日本料理店スタッフの紹介。7人の子どもたち、大塚さん、
矢吹さんたちを紹介。

金平、海老・イカの野菜サラダ、茶巾寿司、コロッケ・串揚げ、
マカロニと生野菜、ぬか漬け、野菜一夜漬け、味噌汁、ご飯、
空芯菜炒め、デザート・。

神奈川県スタディーツアーの参加者の若者は本当に
真面目である。夕食中も様々な話を話しかけてきた。
能力と行動力のある若者が日本に存在することに嬉しさを
感じる。

「子どもの家」へのスタディーツアーでは、自分たちの
参加費用を安くするために、極端に低価格なツアー費用を
ベトナム人に要求する人たちもいる。私たちは極力安く
スタディーツアーが出来るよう協力しているが、それも
常識的な範囲の話である。ある団体の
スタディーツアーでは、日本料理店での食事代を
日本のラーメン1杯分の値段程度にするようにと要求してきた。
海外で日本料理を食べてみれば分かるがそれなりの
料金を支払わなければならない。
日本から調味料、関連の食材を輸入しなければならない。
現地にはいない日本料理の専門家や日本料理を作る日本人を
常駐させなければならない。
常識的に考えて「ラーメン1杯分」程度の値段で上記の日本料理を
食べる事は出来る訳がない。
ちなみにフエ宮廷料理などは30ドル(3000円)程度はする。
日本の旅行社主催のベトナムツアーでは1食20ドル程度の
費用はかかる。一般的にはこんなものである。
口では「国際協力」「ボランティア支援」などといっているが、
実際には自分たちのスタディーツアー参加費用を安くするために
ベトナム人を超低賃金で働かせるということになっている。
またそうしたことに何ら矛盾を感じない「海外協力」「海外支援」
を旗印にしている団体もある。
それに比べ、神奈川県青少年海外派遣団のスタディーツアー
は名実ともに国際協力、海外支援、ボランティアを現地で
体験し、なおかつ海外支援を実際に行動で示そうとする強い
姿勢を持っている。「子どもの家」の子どもたちの自立を
めざす日本料理店で世間常識的な金額で食事をしてくれたことは
それ自身で「子どもの家」の支援・国際支援に直結している。
ラーメン一杯分の値段で『金平、海老・イカの野菜サラダ、
茶巾寿司、コロッケ・串揚げ、ぬか漬け、空芯菜炒め、味噌汁、
ご飯、デザート、ミネラルウオーター1本』を
済まそうとする考えは、自分たちの参加費用を
安く出来るのなら自立のために必死に働いている「子どもの家」の
子どもたちからもその上前をはねても良いとの考えを持っていると
考えてしまう。悲しいことではある。
口で「国際協力」「国際ボランティア」といくら言っても
日本料理店での原価すら割る値段で日本料理を出すように
要求する非常識さにあきれている。国際支援、スタディーツアー
も色々あるものだと実際に現地で活動てしみじみと感じる。
結局はスタディーツアーを担当する人間の「心」と気持ちである。
本物かどうかは、口で何を言っているのかではなく、実際の
行動を見れば分かるというものである。人の振り見てわが振り
なおせ、である。私自身の反省材料と自戒している。

神奈川県青少年海外派遣団は、引率者の姿勢が違う。
引率者の海外支援に対する認識・造詣が深い。
やはり海外支援について「本心」で
考えるということが「本物か偽者か」を区別する試金石になるのだ
と改めて思った。県教育委員会担当者の方の識見もあろう。
神奈川スタディーツアーの二人の引率者の良識と見識・行動力
の高さもある。今回のスタディーツアーに
参加した16人の中高大学生はある意味で幸せだと
思った。神奈川県青少年海外派遣団スタディーツアー
の皆さんと4日間ともに行動させて頂いたことに感謝した。
こうした仕事は損得ではない。日本の若者と一緒に
行動できることだけでも幸せなことだと思っている。
神奈川県の若者の皆さん、ありがとう。

投稿者 koyama : 19:56 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月18日

神奈川県青少年海外派遣団第3日目

晴天。


午前8時半、「子どもの家」へ。神奈川県派遣団は
「子どもの家」でボランティアワーク。「子どもの家」の塀に
ペンキ塗り、花壇の植え替え。

午後2時半、「子どもの家」の児童文化センター交流。

綱引きや子どもたちとの交流を行う。

午後5時半、日本料理店の子どもたち・スタッフと夕食。

午後7時、神奈川県海外派遣団員で体調を崩した子どもたち
とスタッフが日本料理店で日本料理を食べる。

午後9時、神奈川県派遣団スタッフ2人とベトナム事務所
日本人スタッフと日本料理店で交流。
その後、日本人スタッフ4人で様々な問題を話し合う。
午前12時半まで。

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2006年08月17日

神奈川県青少年海外派遣団フエ第2日目

晴天。気温35度。湿度高し。

午前8時。神奈川県スタディーツアーはJASSベトナム事務所
訪問。

JASSベトナム事務所員自己紹介

その後、「子どもの家」を訪問。歌と踊りの交流を行う。

午前10時。「子どもの家」2階の音楽室で私が1時間20分ほど
話をする。海外支援、ボランティア、生きると言う事・・・・・。


講演会終了後、「子どもの家」へ神奈川県派遣団より
文房具の寄贈。大量のボールペン、クレヨンなど。
感謝。


講演会終了後、皆さんと一緒にレストランで昼食。

午後2時からトゥア・ティエン・フエ省の名門校「グエンフエ高校」
を訪問。夏休み中だったが、グエンフエ高校1年から3年生まで
の「ホーチミン共産青年同盟」の生徒14人と交流。
副校長先生の司会で交流会が始まる。

グエンフエ高校から神奈川県派遣団へ花束贈呈。

神奈川県派遣団長よりグエンフエ高校へお土産贈呈

グエンフエ高校の歓迎の歌

日越「ソーラン踊り交流」

グエンフエ高校側の出し物「バンブーダンス」を楽しむ。

最後に全員でゲームなどで交流

●日越両国参加者全員の記念写真


午後4時過ぎ。静岡青年交流会館の日本語学校へ。
日本語学校卒業生と交流する。

自己紹介ゲームをしながらベトナム青年と交流。
剣玉、習字、ヨーヨーなど日本の遊びも紹介。

午後6時前、トンチンカンホテルに戻る。
日本語学校での交流あたりから体がボーッとしていた。
今日は久々に35度と気温も高く湿度も高い。
講演会、グエンフエ高校、日本語学校と、いるだけで
体内で汗が滴り落ちる。トンチンカンホテルの日本料理店
についた頃には、しゃべるのも嫌になっていた。
後で考えると軽い熱中症だったのかも知れない。
部屋に戻り、水を飲みしばらくベッドで休む。
考えてみればフエに戻って1ヶ月ちょっと経過した。
その疲れもでたのだろう。これから9月末まで9つの
スタディーツアーがあり、日本のテレビの取材も入っている。
長い道のりである。今日は早めに休む。

毎日様々な課題に追われている。縫製研修工場建築も
未だに始まっていない。様々な勢力が暗躍している
不可思議なフエの世界である。常識が全くと言って
良いほど通らないこの世界でどのようにして縫製研修工場
建築を開始し完成させるか?悩みは多い。
毎日数十通のメール全てに目を通し、必要な返事を出す。
日記も1時間から2時間はかかる。ボランティア貯金の
報告書、その他の申請書作成もある。スタディーツアーの
案内をしながらの諸業務、諸課題をこなすのには
「要領」が必要。目の前に課題に追われながらも
常に将来に目を目を見据えての活動をしたいものである。
などと考えているうちに睡魔に襲われる。

投稿者 koyama : 12:14 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月16日

2006年度神奈川県青少年海外派遣団フエ到着

晴天。3日ぶりに雨が止み晴天となる。

午前中、ベトナム事務所で仕事。

午後3時過ぎ、ラームさん、ミンさん、ソン君とフエ空港へ。
「神奈川県青少年海外派遣団」出迎え。
午後4時20分、川向団長さん以下、18人の団員の皆さんは
無事ホーチミン市からフエ空港へ到着。

団員の皆さんのスーツケースは持ち上げられないほど重い。
子どもたちへ文房具や絵の具などをたくさん持って来てくれた
とのこと。


フエ空港からバスで20分。バオミン・ベトナム事務所長の経営する
「バオミン・ホテル」へ到着。

午後6時から神奈川県青少年海外派遣団の皆さんと交流しながら
夕食。

引率責任者の団長さんと青少年協会の役員の方。

スタディーツアーは、4人の中学生、10人の高校生、2人の
大学生と2人の引率責任者で構成されている。
食事中も中学生や参加者は積極的にベトナムのこと、
ストリートチルドレンのことなどを質問してきた。

午後8時過ぎ夕食会終了。

日本料理店へ戻る。今日のお客さんは7人。
午後9時、閉店。
引き続き、大塚さん、中村さん、矢吹さんや
子どもたちと懇談。

大人はフダ生ビールを飲む。子どもたちは、大塚さんが作った
「づけご飯」の試作品を堪能する。

リー君も仕事のあとの「一杯」。

大塚さんと子どもたちは午後9時半頃帰宅。
その後、残った人間でフダ生ビールを飲む。午後11時頃
散会。


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2006年08月15日

小泉首相の靖国神社参拝に抗議する

雨。終日の雨。  休肝日。

午前中、ベトナム事務所で仕事。

午後2時、ベトナム事務所。
東京北区と板橋区の小学校の先生がベトナム事務所を
訪ねてくる。1時間半ほど、教育問題、子どもたちの問題、
ストリートチルドレン、「子どもの家」のことなどを話す。
若い真面目な先生。日本の教育現場の「圧力」に負けないで
頑張って欲しいと願う。

午後4時。木田盈四郎先生の教え子の学生さんとその友人
がベトナム事務所を訪ねてくる。
しばらく話して、「子どもの家」まで案内。豪雨の中「子どもの家」
までタクシーで行く。

「子どもの家」を案内する。
子どもたちは雨で外へ出られないが「子どもの家」で
元気良く夏休みをエンジョイしていた。


午後5時半、トンチンカンホテルへ帰る。日本料理店の
子どもたち、スタッフと一緒に夕食。

午後6時から日本料理店開店。リー君・イン君無断欠勤。
午後9時閉店。

来客日本人3人、ベトナム人4人。合計7人。
雨の中良くお客さんは来てくれたと感謝。
昼と合わせて11人の来客。
午後9時半部屋に戻る。


小泉首相の靖国参拝に抗議する。

NHK海外衛星放送を見る。
小泉首相の記者会見。8月15日に靖国神社を参拝した
理由を3点にわたって述べている。

最大の理由は「祖国と家族のために命を投げ打った人」を追悼
するためと述べている。
その他の閣僚や自民党関係者の発言も『祖国のために命を
捧げて戦った人たちを追悼する』と言う点は一致していた。
満蒙開拓団に狩り出され政府関係者と関東軍が逃げてしまった
後、ソ連の侵入で多くの日本人の子どもたちが死んで行った。
その後の引き上げの途中でも多くの子どもたちが死んだ。
子どもたちは「祖国のために命をかけて戦った訳ではない」。
広島・長崎で死んだ人、東京大空襲や各地の空襲で死んだ
非戦闘員の一般庶民も「祖国のために命をかけて戦った
訳ではない」。
小泉首相の靖国神社参拝は、こうした一般市民の死者、
国家の無謀な戦争のために殺された庶民に哀悼の
気持ちを持っていないということである。
靖国神社の持っている特殊な性格(国家・天皇のために
戦って死んだ人のみを追悼する)から戦争に関連して死んだ
人一般を追悼する施設ではないという最大の問題点がある。

第1の参拝理由は「中国や韓国反対するからやめる」というのは
間違いだ。どこの国とも「一つや二つの意見の違い」がある。
それを理由に首脳同士の交流をしないというのはおかしい。

首相の靖国参拝が「一つや二つの意見の違い」程度の問題
なのだろうか?
国と国とのお付き合いをする最低限度の認識の一致を超えた
問題である。A級戦犯の合祀問題である。
極東軍事裁判、サンフランシスコ「講和」条約でもA級戦犯の
判決を日本政府は受け入れている。
そこから戦後の世界秩序は出来上がっている。A級戦犯を
「祖国のために命を捧げた英霊」として日本の首相が
追悼することは、アジア太平洋戦争の決着をもう一度振り出し
にもどすことになる。日本は明らかにアジア諸国に多大な被害を
与えているのであり、その責任者はA級戦犯(だけではないが)
であることは確かである。今になって、A級戦犯を無罪放免する
かのような首相の参拝は日本国家がアジア太平洋戦争を
反省していないことを意味する。中国・韓国をはじめアジア
諸国が黙っていないのも道理があると言える。

第2の参拝理由
A級戦犯を追悼しているのではない。多くの兵士のために
参拝しているのである。

今日は「戦没者慰霊祭」があった。小泉首相の論法で行けば
戦没者慰霊祭に行き哀悼の気持ちを表せばよいのである。
わざわざ私的宗教施設の靖国神社に行かなくても
戦没者の慰霊は出来る。
河野洋平衆院議長が全国戦没者追悼式で
「戦争を主導した当時の指導者たちの責任をあいまいにして
はならない」と述べ事実上A級戦犯を批判している。
小泉首相の「心の問題」と開き直っている態度とは一線を
画している。


第3の理由
憲法違反というが、憲法9条、19条、20条をよく読め。
首相といえども「個人の思想信条の自由」はある。
私がそんな気持ちを持とうと思想の自由だ。

首相は公的な立場である。人権も一定程度の制約を
受ける。個人の資産を公開したり、日常行動を公にするなど
私人・市民に比べればある程度の制約を受ける。
公人である首相が特定の宗教施設を内閣総理大臣との
記帳をして参拝するのは、憲法上疑義が生じる。

いずれにしても、こうした形でアジア諸国に『挑戦状』を
突きつけるようなやり方自体、品性と知性のない方法である。
人間性が良く出ているといえる。

投稿者 koyama : 23:31 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月14日

ティン君誕生会

「戦争で死ぬ、ということ」(島本慈子著:岩波新書)推薦。

朝から雨。途中何度も豪雨。 休肝日。

二日間続いた豪雨。10月の雨季が始まったかのような
雨が続く。時々集中豪雨を思い出させるよう降る。
ベトナム事務所付近の道路は20センチほど冠水した。

しっかりとした排水システムが出来ていないため庶民は
少しでも雨が降ると町中の冠水に苦労しているが、
これも年中行事であるかのように、「自己防衛」し平然と暮らして
いる生命力旺盛な人々でもある。

午前中ベトナム事務所で仕事。

午後3時、「子どもの家」で上原さんの里子「THINH」君の11回目の
誕生会。豪雨の中電動バイクで。「子どもの家」の着いた時には
びしょ濡れ。税田さん・ソン君はバイクで。

里親の上原さんの希望でTHINH君と「子どもの家」全員に
誕生ケーキを食べて欲しいとのこと。
3つのケーキ代は上原さんからの寄贈。
子どもたちは3ヶ月間の長い夏休み。こうして誕生会を行い
3ヶ月間の夏休みにアクセントをつける必要がある。
上原さんのご好意に感謝したい。

今日はTHINH君のお母さん(41歳)も招待。
事情があってお母さんはTHINH君と親子二人。
現在はお母さんは下宿し、仕事を頼まれれば皿洗い、
荷物運搬、農作業などの仕事を行い日当をもらって
生計を立てている。月収は20万ドン(1200円)~
30万ドン(2000円)ほど。その中から10万ドンの
家賃を支払わなければならない。
実際の生活費は毎月600円から1000円。
お母さんに生活の様子を聞いてみた。
毎日仕事があるわけではない。雨の季節(10月~
2月)は仕事がない。1日70円程度で3食と生活を
しなければならない。フエ市人民委員会や地元の
行政は何も支援や相談に乗ってくれない、とのこと。
1日70円で生活するとは、1食20円。フランスパンに
野菜と肉1片を入れたものが20円程度。
素うどん(ブンボー、フォー)でも30円ほどする。
こうした生活では、THINH君を育てる事も
学校へ行かせることもできない。
8億円をギャンブルですったハノイの「お偉いさん」も
いる国であるが、毎日「素うどん」やパン一切れを
かじって生きている人間もいる。

THINH君は久しぶりに会ったお母さんの膝に乗って甘えていた。
11歳(小5年)のTHINH(ティン)君にとってはまだまだ
お母さんに甘えたい年頃である。本来なら母親と一緒に
暮らした方が良いのかも知れない。しかし、現在の生活状態
で母親と生活をしたら結局通学も出来ず、健康すら害する可能性が
ある。世の中の不条理を感じる。

THINH君の11回目の誕生会が始まる。


ケーキ点燈

●里親の上原さんからのプレゼントを代わりに渡す

●「子どもの家」の仲間の子どもたちから誕生祝の歌のプレゼント

●THINH君のケーキカット

カットしたケーキをTHINH君が「子どもの家」スタッフ、子どもたち全員に
配る。



お母さんと誕生祝いのケーキを食べる

「子どもの家」の子どもたちは今までの短い人生の中で
「スポットライト」を当てられた経験が少ない。
今日1日ではあるが、THINH君は自分のために誕生会に
集まってくれた仲間の中でスポットを浴びた。

午後5時半、日本料理店の子どもたち・スタッフと夕食。

午後6時過ぎ日本料理店開店。外は大雨。
こんな日は来客はないと思っていた。

しばらくして香港のセメント会社の社長さんと技術者3人が
来店。カレー、カツカレーライスが美味しいという。
その後、スペイン人の男女が来店。サーモンだけの握りずし、
かっぱ巻きを頼む。

その後、フエ中央病院建築の日本人と通訳のベトナム人が来店。

午後9時過ぎ閉店。子どもたちも着替え帰ろうと日本料理店の
玄関を出ようとしたところ、8人のフランス人が来店。
警備員のリー君が『8人のお客さんですが、どうしますか?』と
聞く。私はラストオーダーの9時も過ぎているし、厨房はガスも
止め、全員帰る支度も整っている。今日はこれで終わろうと
思ったが、子どもたちが『先生、お客を入れてください。』という。
8人のフランス人の入店を受け入れる。大雨の中、おなかが
すいているとのこと。

生姜焼き定食など全員が定食をばっちりと食べる。
8人はフースアン地区にあるフランスのNGOが運営している
「子どもの家」のボランティアスタッフ。
私が名刺を渡し交流する。全員が帰ったのが午後10時半。

日本料理店夜は15人の来店。
日本人1人、ベトナム人1人、スペイン人2人、
香港3人、フランス人8人。

商いは水物とは良く言ったものである。
今日のように大雨の日に来客があるとは思えなかった。
しかし、結果的には15人もの来店。この数週間では
最大の来店数となった。

料理を出し終わり、更なる注文がなくなった時点で
子どもたちや大塚さんは帰宅。
税田・石岡さん(今日の当番)・矢吹さん(ボランティア)
が残りフランス人に対応。
部屋に戻ったのは午後11時近かった。
日本料理店が始まってから私の生活スタイルは大きく
変わった。日本料理店では特別仕事をする訳ではないが
それでも来客に日本料理店の「いわく因縁」を説明する
のも「子どもの家」支援には欠かせない役割かもしれない。
スペイン人の若い男女は「素晴らしい仕事だ。明日の昼も
又来るから」と励ましてくれた。

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2006年08月13日

『戦争で死ぬ、ということ』(島本慈子著)岩波新書

終日雨。時々豪雨。

午前6時起床。
午前7時 NHK日曜討論。
中曽根元首相インタビュー。
戦後61年をどうみるのか? 2人の学者の討論。

中曽根首相の話は特別なものではなかったが、
それでも首相の靖国神社参拝問題には慎重な態度を
取っていた。自分が首相の時に靖国に行ったのは、
一度行くべきだと思ったからで、一度行ったのでその後は
参拝をやめたと言っていたい。日米同盟を機軸にアジアでの
日本の役割を考えるべきだと述べ、小泉首相との違いを
主張。

戦後61年、これからの日本の進むべき道、を語る2学者の
討論はほとんど意味のないものだった。
討論と言っても二人の学者の基本的な対立軸がないのである。
二人とも「日米同盟は正しかった」との認識では一致していた。
従って今後も日米同盟を機軸にアジア外交をするめるとの
主張。
中曽根氏と言い2学者といい、特定の主張の人たちしか
出演さえないNHKの報道の仕方は、偏ったものであることは
事実である。日米同盟に批判的な学者・世論も強い。
学者に討論をさせるならそうした討論をこそ組織すべきである。

「戦争で死ぬ、ということ」(島本慈子著:岩波新書)読了。


2006年7月20日発行。
素晴らしい本である。8月15日の敗戦記念日を前に
この本は全国民、特に若者に戦争というものの本質を教えてくれ
ているものである。
1日あれば読める本であるが内容は非常に豊かで、示唆に
富むものであった。
読んだあと、様々な考えや思いが浮かんだ。


著者が一番言いたかったことを想像すると、戦争の実態とは
人間がするものであり、人間が人間を殺す事である。
戦争で人間が死ぬということは、肉片が飛び散り、
鉄片が刺さり、首がなくなりと具体的に一人の人間が
この世の中から突然いなくなるという事実をもう一度考えよう、
その事実を知ろう、と呼びかけているように思えた。
右翼も左翼もどのような思想を持っている人も、もう一度
61年前に終わった戦争で人間が具体的にどのように死んで
行ったのかという事実を知ろうではないかと呼びかけている。

広島・長崎に原爆が落ちたくさんの人が亡くなった。
その後も白血病・ガンなどになり多くの人が死んでいる。
アメリカが行った「人類に対する戦争犯罪」である。
多くの日本人が「広島・長崎の原爆で日本がひどい被害を
蒙った」と思っている。アメリカは残酷なことをしたと。
これはその通りの話であるが、著書は「日本人は被害者
と思っているが、もしかしたら日本が世界最初の原爆投下国
になっていたかも知れない」と書いている。
具体的には、日本、ドイツ、アメリカと原爆の研究を進めていた。
これは結果的に誤報であったが、戦争末期、日本の新聞は
「ドイツがロンドンにロケットを飛ばし原爆を落とした。たくさんの
イギリス人を殺した」の記事が掲載されている。このときの
日本の新聞の論調は「鬼畜米英に原爆が落ちて良かった」という
論調になっていた。それは同時に当時の日本人の気持ちを表した
言葉でもある。日本も1941年4月、大日本帝国陸軍は正式に
原子爆弾の開発開始を決定している。
東京の理化学研究所と京都帝国大学を中心に軍部の指示で
原爆の研究を行っていた。福島県石川町にある阿武隈高地から
原爆用のウラン鉱を採掘するため、旧制石川中学
(現学法石川高校)の生徒が勤労動員させられている。
あるいは、日本が一歩早く原爆を作ったら
明らかに連合国に投下していたことは間違いない。

著書の島本氏は戦争は「殺す事と殺されること」がセットになっている
と言いたいのではないかと推察した。

小泉首相が「国家のために命をかけて戦ってくれた英霊」として
アジア太平洋戦争で死んだ・殺された日本人を語っているが、
本書に出てくる「伏龍特攻隊」は国のために死んだのではなく
国家に意味なく殺された若者という事実を突きつけている。
潜水帽子をつけ、背中に酸素製造機をつけて、7Mの棒の先に
地雷をセットし、本土決戦の水際でアメリカの上陸用舟艇を
爆破するための潜水夫特攻隊が伏龍特攻隊であった。
その他、国のために死んだのではなく、いかに無駄な死に方を
人間はしたのか、を体験者を訪ね具体的な聞き取りを
行っている。

戦争中朝日新聞の従軍記者だった「むのたけじ」氏の言葉は重い
意味を持っている。
『戦争になれば人間はゴミみたいに扱われる。そうならざるをえない。
だから戦争はやっちゃだめなのだ。』
『国会で有事に備えて国民保護法をつくると言っているけどね。
1945年3月11日の朝、私は大空襲をうけた東京をの下町を
歩き回りました。したいが道路にいっぱいだった。戦争って一晩に
10万人死ぬんですよ。あんた、誰がどうしてそれを助けるの。
要するに、戦争が起こってしまえば助けようがない。本当に
国民の安全を守ろうと思ったら、戦争をやっちゃだめなんだよ。
やってしまってから助けるなんてことはできなないということを
、3月10日(東京大空襲の日)は教えている』。

東京大空襲と同じ大空襲をその4年前に日本は中国の
重慶で行っている。1941年6月4日のことである。
原爆を落とされた広島の地元紙は「重慶市街廃墟と化す」
「巨弾命中 燃えたぞ重慶」「重慶市街数ヶ所から燃え上がる
火焔は昼をあざむいて死の街の形相を表す」と書いて
重慶空襲を喜んだ記事をかいているのである。
広島原爆投下を呪う日本人は、同時に重慶空襲を呪う
日本人でなければならない。被害と加害は紙の裏表。

著者は現在の「労働力流動化」つまりはフリーターと
派遣派遣労働者が多い社会は実は、戦前の社会だった
と言っている。「二極分化社会」である。
上流階級は戦争で更に大もうけをしたい、下流社会の
人々は社会への不満を戦争・排外主義に向けていく。
小泉首相・安部官房長官内閣は日本に戦前のような
「格差社会」を作り出した。
1995年に野口悠紀夫は「1940年体制・・・・・」
という本を書いた。その中で戦後日本的と言われた
従業員重視の企業構造や平等主義などは、もともと
日本になかった。1940年まで戦争につき
進んでいった日本の会社は以下のようだった。
今日の日本を見るとあまりにも似ていてびっくりする。

・会社とは「株主の利益追求のための組織」であり
 従業員は契約に基づいて「雇われる」にすぎない。
 会社があげる利益の大部分は株主に分配。
・従業員同士も平等ではない。少数の正社員、
 日給で働く「工員」「職員」との間は画然とした差があった。
・会社が資金を調達する方法は銀行からではなく
 直接金融(証券による資金調達)が中心。
 戦前の日本は多額の資産を保有する資産階級がいた。

現在の日本が、株主の利益を確保するために従業員を
リストラし、正社員を削減し、非正規労働者が激増し、’
信託銀行が富裕層の取り込みにしのぎを削る一方、
ホームレスたちが野宿を続けているのである。
戦前と同じ「格差社会」の実像である。

9・11テロの際、世界中のマスコミが「カミカゼ・アタック」
などと言い、飛行機によるNYのビルへの突入を
日本の特攻隊(かみかぜ)と言った。
アラビヤ語の新聞では「カーミーカーズ」と書いてあったそうだ。
自爆攻撃の元祖は日本である。

今、私たちが冷静に戦争の実態、生きた人間がいったい
どうなるのか、なったのかと言った視点でもう一度立ち止まり、
戦争を考え、見直すチャンスである。

戦争を声高に叫ぶ風潮がある。国際貢献、血や汗を流す
国際貢献・・・・。
北朝鮮のミサイル攻撃を阻止するために「敵の基地をたたく
権利がある」といった先制攻撃論とも思える主張が
自民党・公明党政権の閣僚の口から出ている。
そうした時だからこそ、島本氏の著書は今、光を発している
ように私には見えるのである。

私が島本氏の著書を高く評価するのは以下の点である。
①戦争を理屈や理論でみるのではなく、「生きた人間」という
 視点見ていること。
②戦争は「人を殺し、自分も殺される」。
 被害と加害の両面を持っているということを明確に指摘している
 点である。
③島本氏がこの本を完成するまでにどの位の時間と労力を
 かけたのかは不明だが、できるだけ生きた人間に会い、
 話を聞いているという姿勢を高く評価したい。
 直接体験した人の意見は本に書いてある内容や学者・研究者
 のものとはかなり趣を異にしている。真実が込められていること
 が多い。

日本の若者に是非読んで頂きたい本である。

「戦争で死ぬ、ということ」(島本慈子著:岩波新書)740円

見ず知らずの著者だが島本氏に「よくぞ私が求めていた本を
書いてくれた」と感謝の言葉を送りたい。

私たち団塊の世代は戦争に直接参加していない。
しかし両親・家族・親戚の多くが直接戦争に参加し、戦争の
実相を多少でも聞き及んでいる世代でもある。
団塊の世代の次の世代になるとかなり戦争から遠のいている。

私自身も両親・兄・姉が中国で生まれ戦争に参加。
兄は中国からの引き上げ中に5歳で肺炎で死亡。
二人の叔父は特攻隊でパレンバン、パラオで戦死している。
こうして身近に戦争の体験者を多数持っている世代でもある。
戦争世代がもはや極少数となった今、団塊の世代が
戦争を語っていく役割を担っているいるように思えてならない。
この本を読んで著者の人間性が推測できる。理屈や理論も
大事だが何よりも「人間が好き」な人のように思えた。また、
ステレオタイプの平和論、反戦論ではなく、「生きた人間」
を主軸においた「生身の平和論」を書こうとしたのではないか。
今、人間関係と人間そのものがますます軽んじられる社会に
なっている。そうした時代に『人間を主軸』にした島本氏という
人間の生い立ちと人生にひどく興味を持った。

本書は「京滋YOUの会」の豊田陽氏の寄贈による。
豊田氏に感謝。


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2006年08月12日

「子どもの家」恒例大バーベキュー大会

晴天 35度。

午前中、22通のメール受信。10通のメール送信。
昨夜送信したボランティア貯金完了報告書の添付資料が
「ウイルスチェック」で削除されてしまい、日本事務所の
皆さんに届かなかった。
ボランティア貯金完了報告書を「貼り付け方式」で
JASS役員会の皆さんに送信。

昼食は日本料理店で「きつねうどん」。
アメリカ人と日本人夫妻来店。太巻きなど注文。

午後2時から読書。
「戦争で死ぬ、ということ」(島本慈子著:岩波新書)

午後3時半。電動バイクで「子どもの家」へ。
今日は夏休み恒例「子どもの家」の「大バーベキュー大会」。

「子どもの家」の子どもたち、スタッフ、在宅支援の子どもたちと
家族、JASSベトナム事務所スタッフなど120人の参加。

初めに私がJASSと支援者を代表して挨拶。
「このバーベキュー大会は日本の支援者の高橋さん・柳沢さん・
内田さん・景山さんの支援で行われる。あと20日間で夏休み
が終わる。焼肉や野菜をたくさん食べて、後半の夏休みを
楽しく過ごそう」。

続いてセン運営委員長が「子どもの家」を代表して挨拶。
「高橋さんたち日本人の支援に感謝しよう。9月から勉強や
生活などしっかりとしよう」。


以下、大バーベキュー大会スナップ写真。

毎年のこととはいえ、大金を支援して頂いた高橋さん・柳沢さん
内田さん・景山さんに感謝したい。
子どもたちは数日前からバベキュー大会に興奮気味だった。






●セン委員長などスタッフ

●フエ科学大コンピュータ科を卒業し訪日研修を目指している
 VU君


●在宅支援の子どもたちと家族





途中、雨が降ったりと多少の問題もあったが、午後6時半、無事
ベーベキュー大会は終了。

その後、日本料理店に場所をかえ、日本人スタッフと更に
親交を深める。

投稿者 koyama : 10:10 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月11日

ボランティア貯金完了報告書作成

晴天 35度。  休肝日

午前8時半。ベトナム事務所へ。
バオミンさんさから電話あり。
昨日夕方フエ駅を出て2時間半遅れで今朝8時に
ハノイ駅に着いたとのこと。15時間。ソフトシートに15時間
座ったとのこと。ハノイから更に車で1時間。
日新電機ハノイ工場へ直行。社長さん、人事部長さんなどと
面会し、TY君、TRUNG君のことを頼んだとのこと。
日新電機側は既に二人の下宿を見つけてくれていたそうだ。
親切な会社である。
バオミン・ベトナム事務所長、タム医師、TY君、TRUONG君
で下宿を見た上で、たんすや洗面用具などの身の回りの
品々を買出しに行った、という報告があった。

フエだけで生活した二人が言葉も文化も気質も違うハノイで
生活するのはなかなか大変なことである。二人の健闘を
祈りたい。


今日は1日かけて「ボランティア貯金完了報告書」を書き上げる。
2005年7月~2006年6月までの1年間の医療活動を
まとめる。出来るけで具体的な記述に心がけた。

10日間位かけて書き上げた。単純計算すると15000字。
400字の原稿用紙37枚分。結構な枚数である。

日本事務所の関係者にメールで送る。報告はさらに
必要な証拠写真や資料、会計領収書等を添付しなければ
ならない。これから2週間ほどの時間を要する。
事情は不明だが、「ウイルス」のためか添付した完了報告書が
削除されてしまう。送信できず困ってしまう。

昼、日本料理店では、警備員のリー君が店の前を掃除し
水撒きをしていた。まだ仕事にムラがある。無断欠勤も
ある。しかし、「螺旋階段」のように少しずつではあるが、
仕事の責任、仕事の楽しさは分かってきたかとも思える
ようなところが無きにしも非ず。今後の成長を期待したい。


また、接客のグエットさんは、入り口のドアをきれいに掃除
していた。


子どもたちは少しずつ日本料理店のシステムに慣れてきた
ようである。

午後5時半、子どもたちと夕食。

夕食メニューに使うサンプル写真撮り。

●刺身盛り合わせ(8ドル)
 生臭さが全くなかった。本当に新鮮で美味しい。

●小口冷奴三昧(大塚さん新作考案)

●写真用サンプルを今日の夕食とした。


今日の来客は3人。

NHK海外衛星放送によると日本は今日から「お盆の帰省ラッシュ」
とのこと。考えてみればこの13年間一度もこの時期日本にいたこと
はなかった。7月8月9月はベトナム事務所への訪問者が一番
多い時期。
お盆の休みと言うのにフエには日本人の姿が余り見えない。
例年ならたくさんのバックパカーが市内をふらついているの
だが、今年はほとんどその姿を見ない。何があったのか?

投稿者 koyama : 18:14 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月10日

TY君・TRUNG君の旅立ち

晴天。36度。暑い。

午前8時半。ベトナム事務所。
バオミンさん、税田さんと追加のスタディーツアー日程に
ついての相談。
8月23日・24日はフエに5つのスタディーツアーが来る。
ナムドン山岳、「子どもの家」などを訪問する。
今まで3つのスタディーツアー受け入れの計画を立てていたが
更に2つのツアーが増えた。ベトナム事務所員の案内分担が
かなり難しくなった。そこを何とかうまく案内できるように
3人で知恵を出し合った。
9月7日からは法政大学の先生と学生がスタディーツアーで
フエを訪問する。今年6月21日に法政大学で講演会を
行った。その際、私の話を聞いてくれた学生さんと担当の
先生がこられる。日程確認、担当者決定。

午前10時40分。シクロの運転手が私を訪ねてきた。

話は「シクロの仕事は体が続かない。警備員などの
仕事を世話して欲しい」との生活相談。45歳のシクロの運転手。
奥さんは50歳。幼稚園の先生。月給は3500円程度。
中学2年生の男子、小学4年生の男子と二人の子どもたちが
いる。シクロ運転手の生活は天候に左右され、雨の時は
収入がない日もある。子どもたちが高校に入る時期になってきた。
貧しくても良いから安定した生活をしたい。何とか仕事を世話
して欲しいとの話。いつもフォンザンホテル前などで会う人だ。
30分ほどの話だったが話に誇張はないように思えた。
私の知り合いで何か良い仕事とがあったら世話をする事を
話す。シクロの運転手はフエの人。8億円もの大金を
ギャンブルですってしまうハノイの「お偉いさん」もいれば、
こうしてわずかな月給と不安定なシクロ運転の収入で
糧を得ている人たちもいる。ベトナム社会の「二重構造」
「2極分化」の実情を見る思いがする。
『ベトナムは貧しい国』と決め込んでいる人も多い。
しかし、現実に行政や共産党幹部、大手企業家など
一部の特権階級の人々は私たち日本人よりはるかに
「豊かな生活」をしている。
『ベトナムは一部の「豊かな人」もいれば多くの低所得の人たち
もいる」と言う言い方が正確なのかもしれない。
ベトナムと聞いてだけで「貧しい」と思い込み、意味のない
支援を続ける「ボランティア」も考えものである。

午前11時半昼食。日本料理店で。「他人丼」(3ドル)。
味もよく美味しかった。豚肉が硬かった。大塚さんに
聞いたら豚肉の質が良いので脂身ではないところを
入れたとのこと。今後はもっと安い豚肉を買い、
脂身の部分を他人丼に入れるとコクが出て美味しい。

午後2時40分。フエ駅へ。
今日は「子どもの家」のTY君(21歳)、TRUNG君(23歳)
がハノイの「日新電機ハノイ工場」へ就職するためフエを
旅立つ記念すべき日である。
「子どもの家」のTAM医師、バオミン・ベトナム事務所長が引率。

TY(ティー)君は1993年10月から私が最初に作った
チーラン通り「子どもの家」に妹と入所。それから13年間、
私と付き合ったことになる。8歳から21歳まで。
児童期から思春期を経て成人まで、長い付き合いではある。
その間、TY君も紆余曲折があった。ハイバーチュン高校と
いう地元フエでは名門高校に入学したが、途中で多少
道が曲がって行った。髪にメッシュの着色をするようになったり・・・、
路上生活があったために小学校入学が遅れ、昨年高校を卒業。
今回の日新電機就職がTY君の自立の第1歩である。
新しい門出を祝いたい。

TRUNG君(23歳)は1997年2月に入所。2月のテト正月に
あたり、フエ警察は一斉「ストリートチルドレン狩り」を行った。
外国からテトでフエに来る人たちの「目障りになる」との理由で
ある。10数人の路上生活の子どもたちがフエ警察に補導された。
警察は子どもたちを保護する場所を持っていない。
フエ警察からストリートチルドレンを預かって欲しいと頼まれ
偶然TRUNG君が私たちの「子どもの家」に連れてこられた。
2週間程「子どもの家」で保護した。その後、「子どもの家」
を出ることになっていたが、私が「TRUNG君がいたいのなら
子どもの家にいても良いよ」と話す。それから9年半。
TRUNG君は「子どもの家」生徒会長を勤め、高校を卒業、
電気専門学校も卒業し、今日、日新電機への就職のため
フエを旅立つ。

長い年月ではあったが、こうして就職のために旅立つ
子どもたちを見送る事が出来ることは幸せなことである。

私たちの取り組みは子どもたちの人間的な自立・独立・自活である。

午後3時半。フエ駅待合室に入る。
それほど大きくない「全財産」の荷物を前に二人は心持ち
不安そうな顔で列車を待っていた。

二人とも生まれてこのかたフエから外に出たことはない。
これから待っている首都ハノイでの仕事。不安と希望の入り混じった
二人の気持ちが手に取るように分かる。
こうして子どもたちは次々に「子どもの家」を出て自立して
行くものである。寂しいと言えば寂しいことでもあるが、
致し方のないことでもある。

TY君とTRUNG君をフエ駅で見送った。私の脳裏には
1960年代の集団就職列車に乗って上野駅にやって来た
東北地方の若者のあの不安そうで希望に満ちた不思議な
顔が蘇った来た。私と同年代の若者が遠く離れた東北から
見ず知らずの中小企業の社長やお店に就職するために
東京の上野駅にやってきた。上野駅で社長や親方に引き
取られていく。
TY君、TRUNG君も同じような気持ちなのだろうか・・・

二人の幸せな人生を祈るのみである。後は、二人の努力次第だ。

TY君・TRUNG君を受け入れてくれた京都の「日新電機」に
心から感謝したい。

トンチンカンホテルの自室に戻り、23通のメール受信。
10通のメール送信。

午後5時半。日本料理店の夕食。
子どもたちと日本人スタッフで食事。私は午後6時半に
日本料理店に来る税田さんの友人と会食するため夕食は
摂らなかった。

午後6時半。税田さんの友人のIさんと日本料理店で
会食。

午後9時過ぎ。日本料理店のスタッフが帰った後、
I日本語教師も交えて懇親を深める。

日本料理店・夜の部は14人の来客。

投稿者 koyama : 18:50 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月09日

フエ・セメント工場社長より寄金

晴天 気温36度。

午前7時前、停電。

午前9時ベトナム事務所で日本語教師と懇談。
フーン主任、中村先生、石岡先生。今後の日本語学校の
運営と担当教師問題。

午後2時半。ベトナム事務所でバオミンさん・税田さんと
懇談。当面する諸問題について。

午後4時。フエセメント工場社長がベトナム事務所を訪問。

寄金の取り扱い、寄金についての基本的考えについて
意見を求められる。
社長さんは香港の人。日本料理店に何度も足を運んで頂き
先日の日曜日にはわざわざ「子どもの家」を視察している。
JASSは寄金をどのように考えているのか? 寄金をどの
ように扱っているのか? との質問。
今まで何度も省や市、フエの各種団体からの寄金申し入れを
断っている。それは、何度も騙され寄金を行政当局者に着服
されていた苦い経験があるからだ、との話だった。
私とバオミンさんでJASSの寄金に対する基本方針を説明する。
社長さんは、『実際に「子どもの家」を訪問し、日本料理店での
ストリートチルドレンの仕事振りも見た。本当に子どもたちの
ために活動しているNGOと思えるので個人的に寄付をしたい」
との話だった。ベトナム人の「年収分」に相当する金額の寄金を
頂く。感謝。

午後5時半。日本料理店で子どもたち・日本人スタッフと夕食。

午後6時。ホーチミン市在住のTさん親子が日本料理店へ。
Tさんは日本料理店のミニパンフレットの原案を考えてくれて
いた。パソコン上で見ると日本風でしゃれて上品なデザインの
パンフレットの原案が出来ていた。これを基にメニューなどを
加え、新しいミニパンフを作ることにした。
Tさんには心から感謝したい。

投稿者 koyama : 22:02 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月08日

「京滋YOUの会」帰国 

晴天。気温35度。 休肝日

午前7時半、「京滋YOUの会」の皆さんと一緒にフエ空港へ。
8月4日~8月8日までの5日間という短い滞在だったが
様々な取り組みを行い、「子どもの家」や日本料理店に
大きな足跡を残して帰国された。
特に近畿地方に台風が近づいているとの報道もある。
「京滋YOUの会」ツアーの皆さんの無事帰国を祈る。

空港には朝早いのにも関わらずリー君が荷物運搬などの仕事
をするためツアーの皆さんに同行。紆余曲折のあるリー君では
あるが、様々な経験・体験を通して、責任を持って仕事をする
ことは楽しい事だということを知って欲しい。
フエ空港でホーチミン市在住日本人のAさん親子と合流。
Aさん親子の友人のT親子も見送りに来ていた。
見送りを終わり、バオミンさん・税田さん・リー君と
一緒にTさん親子の宿泊しているティエン山近くのホテルまで
送り帰宅。

昨日の日記を書く。

昼食は日本料理店。太巻き(3ドル)を食べる。
臨時店長の大塚さんと一緒に世間話をしながら。

30分ほど昼寝。

午後3時。ベトナム事務所でバオミンさん・会計のハンさん・
税田さんとボランティア貯金完了報告書について打ち合わせ。


午後4時、電動バイクで王宮裏のスーパーでベトナム製の
インスタントラーメンとツナ缶詰を買う。


日本料理店ではホーチミン市のTさん親子が「みたらし団子」
を作ってくれていた。
午後5時半から一緒に日本料理店のスタッフと夕食を摂る。

その頃、日本料理店前をうろつく「不信な男」がいた。
日本料理店の玄関、看板などの写真をバチバチ撮っていた。
フエのどこかに新しい日本料理店を作るための偵察か?

この前もそんな不信な「写真男」がいたが・・・。

夜、1時間ほどフエの街を歩く。人の流れ、どこの国の人が多い
のか、日本料理店のある「フンブオン通り」への人の流れは
どこからどう来ているのかを実際に歩いてみる。

フォンザンホテル、センチュリーリバーサイドホテル前の「レロイ通り」
には多くの欧米系のお客が歩いていた。チャンカオバン通り、
グエンチフン通り、グエンタイホック通り、ベンゲー通りを歩く。
日本人には一人も出会わなかった。レストランはオープンカフェー
に欧米系のお客が集中していた。人の流れは、レロイ通りから
途中のフエ師範大学前までの数本の道を左折して終わってしまった。
「チャンティエン橋」まで歩いている人は少なかった。
日本料理店へ来るのはどうしてもレロイ通りをチェンティエン橋まで
歩き、左折しフンブオン通りを歩かない限りたどり着かない。


人の集中と流れはレロイ通りとフォザン・センチュリーホテルにある
ことが判った。

今後、これらの人々を何とかフンボン通り、日本料理店に向ける
方策を考える必要がある。1時間ちょっとの散策中、「子どもの家」
のTY君、チュン君(明後日ハノイの日新電機工場就職)が
自転車に乗ってレロイ通りにいた。しばらくハノイ行きの話しを
する。

午後8時、日本料理店で税田さんと日本料理店について話す。

本日の来客は「昼2人」「夜8人」、合計10人。
日本料理店は9時前に閉店する。

今日は元首相の橋本竜太郎氏の内閣・自民党合同葬。
文部科学省は合同葬儀の際に、弔意を表明するよう求める通知
を各都道府県教育委員会などに出した。通知は黒い布を付した
日の丸を掲揚し、葬儀中の黙とうを求めている。
これを受けて、東京都教育委員会は同様の通知を各区市町村
教委や都立学校に送った。
一般的に人間の死に対して弔意の気持ちを持つことは自然な
気持ちであるが、橋本元首相の場合には、「1億円もの大金を
もらっておいて、もらったと言われればもらったかも知れない」
などととぼけた態度を最後まで持ち続け、本質的には、
犯罪者の一歩手間状態の人物である。
どうしても「1億円問題」があるので、自然な気持ちで弔意を
持つことは出来ない。
ましてや国家権力で「弔意」をもつことを学校や子どもたちに
強制することは、人間の心の中を支配する恐るべき発想
である。例え首相だからと言って「弔意」をもたない人間の
心の中にまで手を突っ込んで「弔意を持て」などと国家権力が
命令する東京都教育委員会の愚行にはあきれる。

投稿者 koyama : 18:55 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月07日

「京滋YOUの会」夏祭り

晴天  気温35度。

午前7時前、停電。
午後12時前再度停電。

午前8時半、ベトナム事務所へ。メール受信、メール送信。
2005年度ボランティア貯金完了報告書作成。
2005年度(2005年7月~2006年6月)の活動全体を
振り返る。必要な資料を準備・精査する。更に必要な資料等を
準備し完了報告書を仕上げる方針。

午後1時過ぎ停電。

午後2時半。「京滋YOUの会」と「子どもの家」へ。

「子どもの家」の大学受験生「フオンさん」が『フエ医科大学』に
見事合格した。
入試は30点満点。21点以上で合格。フオンさんは、24点だった。
フエ医科大学はベトナム中部10数省でたった一つの医科大学
である。ベトナム中部最難関の大学でもある。
「子どもの家」で初めての医科大学入学をみんなでお祝いした。
フオンさんは父親が亡くなり事情で母親は不明。
4年前にフオンさん・妹・弟の3人で「子どもの家」へ入所。
その後グエンフエ高校に入学し、将来医師になりたいとの
強い希望を持ち勉学に励んだ。
私たちも高校受験者、大学受験者のための特別支援教室を
CANON株式会社の支援を受けて「子どもの家」に設置し、
入試対策も行ってきた。
子どもたちの持っている能力があれば様々な力を引き出して
やりたいと思っている。

●フオンさんのフエ医科大学合格を祝う小山、セン・ミンさん。

里親の中村さんから里子のターオちゃんに送られたお守りと
本。ターオさんは生まれながらに心臓病を持っている。
9月にフエ中央病院で心臓病の手術を行う。里親の中村さんは
ターオさんの手術が無事成功することを祈り「寒川神社」の
お守りと絵本(ベトナム語訳)を贈る。

里親の大極さんから里子のCHUC(チュック)君に
サッカーのシャツが届いた。


今日は午前中と午後の2回、地元の理髪店がボランティア
で子どもたちの散髪をしてくれた。2ヶ月に一度程度の
ボランティアである。「子どもの家」は日本人だけでなく
地元のボランティアにも支えられ子どもたちの成長を
見守っている。


午後3時。いよいよ子どもたちと夏祭りの準備。今
回は昨年好評だった「夏祭り=縁日大会」。
午後6時の開会前に準備を終えるため子どもたちと
協力して準備を始める。

●ダーツケームの準備

●夜の照明のため「電源」を設置するロック寮長

●景品などの準備をする「京滋YOUの会」の皆さん

●子どもたちも早く夏祭りが始まらないかとかなり興奮気味


午後5時半。早めの夕食を摂る。


午後6時。待ちに待った「夏祭り=縁日大会」が始まる。

●初めに仁枝さんの開会の言葉と遊び方の説明

●座って説明を聞く子どもたち

●初めはみんなでゲームをして楽しむ

●セン委員長も子どもたちとゲームを楽しむ

●ジェンカを楽しむ

●全ての縁日を回るとお土産がもらえる。そのための
 スタンプカードを配る。

●子どもたちが一斉に押しかけた「ダーツ」

●医科大合格のフオンさんもダーツに興じていた

●輪投げ


●景品をもらい喜ぶ姉弟



最後に花火を楽しむ。


午後8時過ぎに夏祭り大会を終わる。

その後、日本料理店に場所を変えて大反省会。
午後10時過ぎまで反省は続く。

子どもたちも大人も十分満足した1日だった。

投稿者 koyama : 13:53 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月06日

「京滋YOUの会」とベトナム事務所員夕食交流会

快晴 36度。湿度80%

午前6時目が覚める。
しばらくボーッとする。

午前7時。NHK『日曜討論』を見る。
テーマは「靖国問題をどう考えるか?」。
5人の出席者。2名は基本的に首相等の靖国参拝賛成。
2人は基本的には反対。一人は動揺賛成派?

靖国問題の核心は「アジア・太平洋戦争」を侵略戦争とみる
のかどうかに尽きる。色々と粉飾しているが、靖国参拝者の
底流には、「大東亜戦争」は自存自衛の正義の戦いとの認識
がある。

更に「極東軍事裁判」(いわゆる東京裁判)を受け入れるかどうか
である。

靖国参拝派は「アジア・太平洋戦争」や「極東軍事裁判」の
部分的な一部の問題を取り上げ、全体が意味のないもの
と認定する手法をとっている。

アジア太平洋戦争は米英仏などの西欧帝国主義国と
日本帝国主義との「帝国主義・植民地主義」間の戦争であった
側面は否定できない。
しかし、第2次世界大戦全体の構図をきちんと見れば、
明らかに「ファシズム」枢軸国(日独伊)と反ファシズム連合
(英米仏・ソ連・中国・・・・)との戦いが基調となった世界戦争
であった。

極東運軍事裁判自体も様々な矛盾を持った裁判ではあった。
天皇の戦争責任を不問にしたり、戦勝国主導の裁判だった
などの問題があるのは事実である。
しかし、アジアだけで2000万人もの人間が死に、ヨーロッパを
含めればとてつもない人々が死んでいった世界戦争。
その戦争を政治的に決着することは当時の国際情勢と
国際社会の中では大きな課題であった。
A級・B級・C級戦争犯罪人の処罰も全てが正当なものだったか
どうかは問題を残すところである。特にC級戦犯で死刑となった
人々の中にはきちんとした調査がなされないままに死刑執行
となった人もいる。こうした様々な問題を抱えながらも
全体としては、極東軍事裁判は、日本人200万人、
アジア人2000万人を死に追いやった戦争の責任者を
裁いた裁判として意義の大きなものであった。
極東軍事裁判、ニルンベルグ軍事裁判(ナチズム等)の
裁判を通して、曲がりなりにも法に基づいて戦争を決着させ
新しい世界平和の秩序を作ろうとしたことは世界史的に
大きな意味のあるものだった。
日本政府は公式に「極東軍事裁判」の結果を受け入れている。
またサンフランシスコ講和条約でも日本は「極東軍事裁判」の
結果を受け入れ、「平和条約」を締結している。

極東軍事裁判を占領下の裁判、勝者が敗者を裁く裁判
として今になって否定する人たちがいるが、時代錯誤である。

今日時点で極東軍事裁判そのものを否定する立場をとれば、
1945年以降の戦後世界秩序=国際連合体制そのものを否定
することになり日本は世界から再び孤立することになる。
戦後世界秩序は「日独伊」ファシズムを廃棄した上で成り立った
世界秩序である。

靖国神社参拝は個人の心の問題として、一切論議自体を
否定している小泉首相や安倍官房長官などは卑怯である。
心の問題、個人の問題に全てをすり替え、論議を一切
拒否している。一民間人が靖国神社を訪問するのは自由であるが、
日本国の総理大臣、官房長官、謂わば日本国のNO1,NO2
と言われる人物が靖国神社に参拝し、個人の自由、
心の自由として社会からの批判を一切受け付けない姿勢こそ、
正にファシストの姿勢そのものである。「日本の国のために命を
ささげた英霊を讃えるのが何故悪い」との論法を取っている。
しかし、広島長崎で殺された人々、東京大空襲で殺された
人々は入っていない。靖国神社が『天皇のために死んだ
官軍を祭る』という基本的な性格がある以上、日本のために
死んだ御霊という言葉は、明らかにうそとなる。
明治維新の際、官軍の死者を祀り、幕府軍の死者は祀って
いないという歴史をもつ靖国神社である。
アジア・太平洋戦争の戦争犯罪人・指導者として確定した
人々を靖国神社が祭祀している事に対し、中国や韓国、
アジア諸国が意見を言う事は当然のことである。
自分の親兄弟親族が殺された戦争指導者、しかも国際的な
裁判で犯罪が確定している指導者を日本国を代表する
小泉首相や安倍官房長官(今年4月密かに参拝)が
慰霊することに反対するのは、ある意味で当たり前のこと
ではないだろうか?
昭和天皇が「A級戦犯を祀ったから靖国神社には参拝しない」
と言ったなどという報道もある。
真っ当に物事を考えるならば、おのずから結論は出るという
ものである。

今、ブッシュ大統領やヨーロッパ、アジアなど世界の
首脳がドイツのヒトラー総統やイタリアのムッソリーニー総統
を慰霊すると発言しただけでも「世界中からバッシング」されるのは
明らかである。
小泉首相・安倍官房長官の靖国神社参拝は、ブッシュ大統領が
ヒトラーのお墓(あるかどうか知らないが)に参拝するような
ものである。時代錯誤、61年前に時計の針を巻き戻したような
愚行である。

テレビを見ながらこんなことを考えていた。

午前8時。NHKテレビで広島原爆慰霊式典放映。
秋葉広島市長の挨拶は具体的で格調の高いものであった。
都市や一般市民への原水爆の禁止を要求している。
それに対し、小泉首相は役人が書いた紋切り型の
短い文章を心も込めずに読んでいるように聞こえた。
靖国神社の「英霊に誠を捧げる」という人物が、
広島の原爆で殺された人々には冷淡な態度のようにみえた。
その証拠に国の原爆症の認定が少数に限定されている
ことに対して被爆者が「原爆症の認定」を求めて裁判に
持ち込んだ。裁判は被爆者が勝訴している。
小泉首相・安倍官房長官は「控訴」して争おうとしている。
広島の原爆を慰霊する本当の気持ちがあれば、原爆症の
患者を認定しないなどおよそ考えれない行動をとっている。
30年前の三木首相以来15回続いた広島原爆慰霊祭の
日に首相が被爆者と懇談する行事にも小泉首相は参加
しなかった。テレビ放映がある慰霊祭には参加するが、
被爆者の声を聞くという一番重要な仕事には興味のない
首相である。

午前9時半、久しぶりに「半身浴」(20分)。
フエに戻って今日でちょうど3週間。
日本料理店を作ったことでこの13年間では一番忙しい
時を過ごしている。朝から夜10時頃まで毎日仕事が
入る。ゆっくり読書をしたりする時間が全く取れない。
昨夜もフエ市人民委員会との一種の外交宴会だった。

午前10時、NHKニュース。その後、NHKのど自慢。
今日は小樽市から。小樽運河や小樽の建物などが
出ていた。何度も行った場所が映る。条件反射的に
小樽の刺身と亀甲蔵酒造が思い浮かぶ。
昨夜、作り冷蔵庫に入れておいた「おつまみ」で
フダ缶ビール3本。
先日、フエに出来たスーパーに行った。ツナ缶があった。
たまねぎ3個をスライスし水に泳がせ、10分ほど置き
シャキッとさせる。スライスたまねぎ、ツナ缶、マヨネーズ
を混ぜる。塩味を調整。一晩冷蔵庫に寝かせる。
美味しい「おつまみ」に変身。

午後3時半。ホーチミン市のTさんと友人家族が日本料理店
を訪問。「京滋YOUの会」の友人。明日の夜「子どもの家」で
行われる「京滋YOUの会」と「子どもの家」の「2006 夏祭り」
に参加予定。


午後6時半。「京滋YOUの会」の皆さんとベトナム事務所員全員
の夕食交流会。

●藤井「京滋YOUの会」事務局長の挨拶





午後9時前交流会が終了。帰宅。

投稿者 koyama : 17:59 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月05日

京滋YOUの会「子どもの家」訪問

晴天 気温35度 湿度83%

午前8時。「京滋YOUの会」の皆さんを案内して「子どもの家」へ。
株式会社「VIC」より寄贈して頂いた衣類でバザーを行った
「京滋YOUの会」。その売上金を直接セン委員長に寄贈。

午前9時、「子どもの家」2階音楽室で子どもたちと交流会。


●セン運営委員長より歓迎の挨拶。

●子どもたちの歓迎の踊り

●ドゥオック君の「涙そうそう」
 8月18日にトゥア・ティエン・フエ省の「夏の歌コンテスト」の
 準決勝に出場する。涙そうそうは持ち歌。
 


●「京滋YOUの会」の出し物(カエルの夜回りなど)


午前11時。子どもたちと昼食を摂りながら交流

初代JALベトナム支店長だった高野氏(ベトナム航空機の
墜落事故でカンボジアで死去)を記念して作られた
「高野メモリアル基金」の支援で「子どもの家」の回りの
手すりが改修された。高野基金に感謝。

午後2時。ベトナム事務所でミンさん・税田さん、「京滋YOUの会」
の関係者と2時間ほど懇談。

午後6時。フエ市人民委員会外務部長ニエン氏、イックホアン氏
などと日本料理店で交流・懇親をする。
フエ省最大の英語学校長(学生1800人)ホーチミン市鉄鋼会社
社長など。

午後6時半から「京滋YOUの会」が日本料理店で
夕食会。


午後9時。フエ市人民委員会関係者と「京滋YOUの会」
関係者と交流会が始まる。


投稿者 koyama : 08:30 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月04日

「京滋YOUの会」フエ到着

晴天 気温35度

この2週間ほど気温は30度から35度程度の毎日である。
フエの人々は何でもない日常として暑さを受け取り、
平常な日常生活を送っている。暑さに対する防衛態勢は
先祖代々から受け継がれている。

午前9時。ベトナム事務所でバオミンさん・税田さんと
諸問題について協議。

午前11時半、日本料理店へ。お客として日本料理店で
食事。8種類の昼食メニューから「牛丼」を選ぶ。
牛丼、味噌汁、干し大根。どれも本当に美味しい。

日本料理店が昼食を始めてから日本人スタッフは
希望すれば昼食を日本料理店で摂ってもらうことに
した。

日本語教師の中村先生は「太巻き」を注文。

こうしてフエで日本食が食べられるようになったことは
夢のようでもある。

昼の来客。17名。ベトナム人2人。日本人の団体15名。


「あきない」とはよく言ったものである。本当に商売は
「飽きず」に毎日コツコツと開店して初めてお客さんも
つくものだと改めて「商い」ということばを実感した。

午後15通のメール受信。4通のメール送信。
2ヶ月間日本に帰国していた間に屋根の張替え
工事で室内が全く変わっていた我が部屋の
整理をする。

洗濯。

午後5時半、子どもたちと日本料理店スタッフは
夕食を摂る。

午後6時半、今日午後2時半に列車でフエ駅に着いた
「京滋YOUの会」の皆さん(6人:明日から11人)と
夕食を共にする。バオミンさん・税田さんと一緒に。
痛飲。

午後8時過ぎ日本料理店へ帰る。
日本料理店の夜の部。日本人4人、アメリカ人4人。計8人。

午後9時半閉店。今日1日の来客は23人。

閉店後、60リットルの生ビール樽が購入して2週間となり
味が落ちてきた。代わりのビール樽を購入。
残ったビールを捨てるのももったいないので、日本人スタッフ
で試飲。小山、税田、中村、石岡、矢吹。
午後11時終了。

投稿者 koyama : 19:16 | コメント (0)

2006年08月03日

地球の歩き方ツアー ナムドン山岳少数民族交流へ

晴天。

午前8時半、訪日したメンさんと妹のTHUYさんが
訪日結果報告のためベトナム事務所を訪ねてきた。

内田さんから託されたお土産を持って来てくれた。
私宛、ベトナム事務所宛など。

訪日での感想を聞いた。
日本の第1印象は「日本人は歩くのが速い」ということだった。
また「建物がきれいだ」との印象も持っている。

困ったことは? との質問に
・食事が合わなかった。特に野菜が食べられなかった

楽しかった思い出は?
・ディスニーランドで遊んだこと

短い日本滞在ではあったが、多くの体験をしたことと思う。
メンさんの長い人生に貴重な1ページを書き込んだのは
間違いない。受け入れて頂いた内田さんに感謝したい。

午前10時。地球の歩き方ツアー(12人)の皆さんと
一緒にナムドン山岳少数民族との交流に出かける。
ラームさん、日本料理店警備員のリー君と一緒に。

フエ市内から車で1時間半。ナムドン郡の中心地に到着。
ナムドン郡はフエ市内から60キロ。人口は21000人。
65000ヘクタールと大変広い地域である。山岳森林地帯
に少数民族が点在しているという地域である。
少数民族カトゥー族が45%、主流民族キン族が55%。
ベトナム戦争中は大量の枯葉剤が散布された。

中心地の食堂で昼食。一休みして、THUONG LO 村へ。
THUONG LO村はカトゥー族の村である。
村に一つあるTHUONG LO 小学校(150人)全員に
奨学金を贈呈している。

午後1時半、THUONG LO 村に到着。
支援物資を持って民族集会所へ。
入り口では村人が音楽で歓迎してくれた。

高床式の民族集会所に入り、日本からの支援物資を贈呈。
参加者12人は各自衣類などの支援物資を日本から
持って来てくれた。また、ラーメンなどの物資も贈呈。

集会所でしばらくカトゥー族の皆さんと交流。

●子どもたちを含む村人の歓迎の踊り

●スタディーツアー参加者の返礼の歌
「大きな古時計」などを歌う。

●村人と一緒にカトゥー族伝統の踊りを踊る。

交流会終了後、徒歩15分ほどの山中にある滝に行く。
私は疲れたので集会所で休んでいた。2時間ほど滝や
山中の川で少数民族の若者や子どもたちと遊んでくる。
午後4時、村を出発。午後5時半過ぎ、フエ市内の
ホテルに到着。1時間ほど休憩し、日本料理店での
「お別れパーティー」。

女性参加者は全員フエで作ったアオザイ(民族衣装)を
着て参加。最初に私から「子どもの家」訪問のお礼、
スタディーツアーが楽しいものであることを祈ると
挨拶。乾杯。

途中、5人の日本料理店入店者あり。
スタディーツアー参加者はかなりの盛り上がりを見せる。
午後10時近くまで交流は続く。

この間、忙しく日記を書く時間が取れないでいた。


投稿者 koyama : 10:15 | コメント (0)

2006年08月02日

TY君退所式:日本料理店「昼開店」:訪日メンさん帰国

晴天

火焔樹日記4周年。


2002年8月2日から始めた火焔樹日記。今日でちょうど
4周年を迎えた。この4年間に19万通のアクセスがあった。
火焔樹日記にアクセスして頂いた19万通の皆さんに
心からお礼を申し上げたい。
この4年間、色々なことがあった。ベトナム事務所の改編。
子どもたちの自立。日本料理店の開店。縫製研修工場の
建築。「子どもの家」だけみても大きな変化が起こっている。
ベトナムをめぐる情勢も変化している。先日、ベトナム国内の
汚職の頻発を理由に首相が辞任。
新しい大統領と首相が就任した。二人とも南部出身。
11月のWTO加盟をにらんだ布石と思える。これから
ベトナムはさらに資本主義市場に取り込まれていくことに
なるのだろう。一層「貧富の格差」が増大する。
貧しい子どもたちが大量に作り出される社会的・経済的な
基盤作りに拍車がかかりそうだ。「子どもの家」の存在が
改めて必要になってくるように思える。

この4年間、日本の政治の変化にも触れてきた。
この4年間は小泉「構造改革」政治に翻弄された4年間でもあった。
小泉政治が何だったのかは、これから様々な矛盾・負の遺産が
露呈し国民も身に滲みて理解することになるのだろう。
「構造改革・官から民へ」の路線の結果するものは、
弱者の切捨てに他ならない。お年寄り、障害のある人、
経済弱者など「弱い立場」の人々が一層苦しい立場に
追い込まれることを意味している。

この4年間、基本的には毎日日記を書いてきたつもりである。
同時に日記を書く際、できるだけ手抜きをせずに全力で
書いてきたつもりである。時には日記が長すぎるとの
苦情を頂くこともあった。写真を多用し、できるだけ現地の
「匂い」と「雰囲気」が判るように工夫したつもりではある。
約1500日。一言で「4年間、毎日日記を書く」ということは
簡単だが、それなりに「根性」を入れないと続かないものである。
人間一度「言葉を発した以上、言葉は生きてゆくもの」である。
『有言実行』。「一億円もらったといわれればもらったかも知れない」
などという無責任な言葉を発したくはない。
また、火焔樹日記は日本の若者に日本の社会、ボランティアなど
を考えて欲しいとの気持ちから書いていることもある。

火焔樹日記のテーマは、海外ボランティア、海外協力、
海外支援の実態はどんなものなのかを知ってもらうことであった。
残念ながら本当の苦しみ、本当の苦労、本当のベトナムの実態の
全てを火焔樹日記に書く事は出来なかった。
ベトナムに住んでいる現在、書いたり言ったり出来ないことが
あまりにも多い。政治的な理由である。
子どもたちを守るためには、いえないこと、書けないことを「甘受」
せざるを得ない。「00と協議」とか「ミン・ベトナム事務所長と話し合う」
などと言った所の「行間」を想像して頂ければ幸いである。

私の愛読していたいくつかの日記WEBが閉鎖された。
やはり毎日日記を書き続けるということがいかに大変かを
物語っている。
私の日記がいつまで続けられるか? 8月から多くのスタディーツアー
や訪問者があり、日本料理店も昼夜2回開店となった。とにかく
忙しい。日記を書くことは『睡眠時間』を削ることを意味している。
体力と仕事と日記のバランスをとりながら、日記を書き続けて
行きたい。これからもご愛読の程、よろしく。

午前8時半、ベトナム事務所へ。1ヶ月のボランティア体験
希望の矢吹さんと懇談。
午前9時、地球の歩き方ツアー(12人)は日本料理店前から
シクロで「子どもの家」へ。


「子どもの家」へ到着。

「子どもの家」ではキャノン支援の特別支援教室が
実施されていた。9月中学4年生(日本の中3)になる
子どもたちが特別講師による基礎学力増強コース
の授業を行っていた。キャノンからの支援はこうした
形で「子どもの家」で息づき、生きた支援となっている。
キャノン支援に感謝。


「子どもの家」で子どもたちに日本のカレー作りを紹介。
一緒にカレーライスを作る。日本からカレールー100皿分を
持参。日本風カレーライスを試食する。

地球の歩き方ツアーの皆さんは「子どもの家」で子どもたちと
「シクロ乗り」で遊んでいた。


午前10時から日本料理店は「昼開店」の準備。

●中村友香先生を中心に昼食メニュー(写真付き)
 の作成を急いでいた。午前11時の開店に間に合うよう。
 ボランティア体験の矢吹さんも手伝ってくれる。有難い。

●日本料理店の入り口をきれいに掃除するニーさん

●日本料理店玄関の清掃、提灯の準備。
  来客に昼食メニューを見せる練習をするリー君


●初めて昼食開店した日本料理店


はたして来客があるのか? 誰もわからない「水物」である。
開店後、しばらくして韓国人の家族と運転手5人が来店。
日本料理店前の「5つ星」ホテルに宿泊しているが、
お子さん(2人)がベトナム料理が食べられず、ホテルから
外を見たら『日本料理店』という英語の看板がありやって
きたとのこと。「太巻き」が食べたいとの希望。
急いで大塚さんに太巻きを作ってもららう。その他各種
料理を食べてくれた。
昼開店初日は5人の来客。大成功。午後2時閉店。

午後3時。バオミン・ベトナム事務所長と「子どもの家」へ。
母親も呼んで「子どもの家」のTY君の退所式を行う。


TY君は21歳。1993年にチーラン通りの「子どもの家」に入所。
私がフエに来て1ヶ月後に入所した子どもである。妹と一緒に
入所。それから13年間、チーラン通り・グエンチャイ「子どもの家」と
TY君と付き合ってきた。入所当時8歳。今は21歳になっている。
TY君と「子どもの家」のTRUNG君はハノイの「日新電機」に
入社するため8月10日にハノイに行く事になった。そのため
退所式を行った。
セン委員長から退所に当たっての話があり、お母さんからは
長い間お世話になったとお礼の言葉があった。
13年前、TY君と妹が入所した時、お母さんはフエ中央病院
前の公園で子どもたちと寝ていた。それから13年。色々な
ことがあったが立派に成人したTY君がハノイでの就職を
前に退所式を行う事が出来た事は本当に嬉しいことである。
13年間の様々な思い出が頭をめぐる。

●母親が無筆のためTY君が代書して「退所承諾書」にサイン

●8歳から21歳まで「子どもの家」で生活したTY君が成人。
 就職口も見つかった。今日はTY君の新しい旅立ちの記念日

続いてTRUNG君も呼んでTY君、TRUNG君の二人と
8月10日に行くハノイの仕事について打ち合わせを行う。


日記電気の宮崎常務さんを始め京都の関係者のお陰で
「子どもの家」のTY君、TRUNG君がハノイの日新電機
ハノイ工場で仕事をすることが出来るようになった。
宮崎常務様をはじめ日新電気関係者の皆さんに
心から感謝したい。

夜の日本料理店来客3人。

午後7時15分、訪日していたメンさんが無事フエ空港へ
帰国。日本でたくさんの経験をして帰って来た。
受け入れてくれた内田さんご夫妻に心から感謝したい。


投稿者 koyama : 10:28 | コメント (0)

2006年08月01日

久保田さん送別会

晴天。夕方豪雨。

午前中ベトナム事務所でメールの送受信。

午後、日本料理店「昼メニュー」用の写真を撮る。

昼メニューは8種類。

①きつねうどん

②焼きうどん

③きしめん

④牛丼

⑤他人丼

⑥中華丼


⑦カレーライス

⑧太巻き

●にぎり寿司(夜の部用)

午後5時過ぎ。日本料理店を閉店し、「久保田さんを送る会」
を行う。
参加者は日本料理店スタッフ、ベトナム事務所スタッフ21名。
久保田さんは5月15日から8月1日までの2ヶ月半、日本料理店
専従のボランティアとして無料で日本料理店を手伝ってくれた。
特に接客の子どもたちに接客のノウハウをしっかりと教えてくれた。
久保田さんのボランティア支援に心から感謝したい。

送別会は日本語教師の中村先生の司会で始まる。

初めに参加者を代表して私の挨拶。

続いて臨時店長をしている大塚さんよりお礼の言葉

東京平和産業・トンチンカンホテルオーナーのラームさんの挨拶

会食が始まる。




久保田さんからお礼の言葉

●久保田さん手製のケーキをリー君とニーさんが入刀


午後8時過ぎ、送別会は終了した。
引き続き送別の気持ちを表すためトンチンカンホテル4階の
「カラオケルーム」で惜別の気持ちを確認し合う。


久保田さんの2ヶ月半のフエ滞在は日本料理店の
子どもたちに大きな影響を残した。
久保田さんのボランティアに心から感謝したい。
こうした若者が日本中で育ってくれることを祈りたい。

痛飲。

投稿者 koyama : 18:46 | コメント (0)