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2006年08月02日

TY君退所式:日本料理店「昼開店」:訪日メンさん帰国

晴天

火焔樹日記4周年。


2002年8月2日から始めた火焔樹日記。今日でちょうど
4周年を迎えた。この4年間に19万通のアクセスがあった。
火焔樹日記にアクセスして頂いた19万通の皆さんに
心からお礼を申し上げたい。
この4年間、色々なことがあった。ベトナム事務所の改編。
子どもたちの自立。日本料理店の開店。縫製研修工場の
建築。「子どもの家」だけみても大きな変化が起こっている。
ベトナムをめぐる情勢も変化している。先日、ベトナム国内の
汚職の頻発を理由に首相が辞任。
新しい大統領と首相が就任した。二人とも南部出身。
11月のWTO加盟をにらんだ布石と思える。これから
ベトナムはさらに資本主義市場に取り込まれていくことに
なるのだろう。一層「貧富の格差」が増大する。
貧しい子どもたちが大量に作り出される社会的・経済的な
基盤作りに拍車がかかりそうだ。「子どもの家」の存在が
改めて必要になってくるように思える。

この4年間、日本の政治の変化にも触れてきた。
この4年間は小泉「構造改革」政治に翻弄された4年間でもあった。
小泉政治が何だったのかは、これから様々な矛盾・負の遺産が
露呈し国民も身に滲みて理解することになるのだろう。
「構造改革・官から民へ」の路線の結果するものは、
弱者の切捨てに他ならない。お年寄り、障害のある人、
経済弱者など「弱い立場」の人々が一層苦しい立場に
追い込まれることを意味している。

この4年間、基本的には毎日日記を書いてきたつもりである。
同時に日記を書く際、できるだけ手抜きをせずに全力で
書いてきたつもりである。時には日記が長すぎるとの
苦情を頂くこともあった。写真を多用し、できるだけ現地の
「匂い」と「雰囲気」が判るように工夫したつもりではある。
約1500日。一言で「4年間、毎日日記を書く」ということは
簡単だが、それなりに「根性」を入れないと続かないものである。
人間一度「言葉を発した以上、言葉は生きてゆくもの」である。
『有言実行』。「一億円もらったといわれればもらったかも知れない」
などという無責任な言葉を発したくはない。
また、火焔樹日記は日本の若者に日本の社会、ボランティアなど
を考えて欲しいとの気持ちから書いていることもある。

火焔樹日記のテーマは、海外ボランティア、海外協力、
海外支援の実態はどんなものなのかを知ってもらうことであった。
残念ながら本当の苦しみ、本当の苦労、本当のベトナムの実態の
全てを火焔樹日記に書く事は出来なかった。
ベトナムに住んでいる現在、書いたり言ったり出来ないことが
あまりにも多い。政治的な理由である。
子どもたちを守るためには、いえないこと、書けないことを「甘受」
せざるを得ない。「00と協議」とか「ミン・ベトナム事務所長と話し合う」
などと言った所の「行間」を想像して頂ければ幸いである。

私の愛読していたいくつかの日記WEBが閉鎖された。
やはり毎日日記を書き続けるということがいかに大変かを
物語っている。
私の日記がいつまで続けられるか? 8月から多くのスタディーツアー
や訪問者があり、日本料理店も昼夜2回開店となった。とにかく
忙しい。日記を書くことは『睡眠時間』を削ることを意味している。
体力と仕事と日記のバランスをとりながら、日記を書き続けて
行きたい。これからもご愛読の程、よろしく。

午前8時半、ベトナム事務所へ。1ヶ月のボランティア体験
希望の矢吹さんと懇談。
午前9時、地球の歩き方ツアー(12人)は日本料理店前から
シクロで「子どもの家」へ。


「子どもの家」へ到着。

「子どもの家」ではキャノン支援の特別支援教室が
実施されていた。9月中学4年生(日本の中3)になる
子どもたちが特別講師による基礎学力増強コース
の授業を行っていた。キャノンからの支援はこうした
形で「子どもの家」で息づき、生きた支援となっている。
キャノン支援に感謝。


「子どもの家」で子どもたちに日本のカレー作りを紹介。
一緒にカレーライスを作る。日本からカレールー100皿分を
持参。日本風カレーライスを試食する。

地球の歩き方ツアーの皆さんは「子どもの家」で子どもたちと
「シクロ乗り」で遊んでいた。


午前10時から日本料理店は「昼開店」の準備。

●中村友香先生を中心に昼食メニュー(写真付き)
 の作成を急いでいた。午前11時の開店に間に合うよう。
 ボランティア体験の矢吹さんも手伝ってくれる。有難い。

●日本料理店の入り口をきれいに掃除するニーさん

●日本料理店玄関の清掃、提灯の準備。
  来客に昼食メニューを見せる練習をするリー君


●初めて昼食開店した日本料理店


はたして来客があるのか? 誰もわからない「水物」である。
開店後、しばらくして韓国人の家族と運転手5人が来店。
日本料理店前の「5つ星」ホテルに宿泊しているが、
お子さん(2人)がベトナム料理が食べられず、ホテルから
外を見たら『日本料理店』という英語の看板がありやって
きたとのこと。「太巻き」が食べたいとの希望。
急いで大塚さんに太巻きを作ってもららう。その他各種
料理を食べてくれた。
昼開店初日は5人の来客。大成功。午後2時閉店。

午後3時。バオミン・ベトナム事務所長と「子どもの家」へ。
母親も呼んで「子どもの家」のTY君の退所式を行う。


TY君は21歳。1993年にチーラン通りの「子どもの家」に入所。
私がフエに来て1ヶ月後に入所した子どもである。妹と一緒に
入所。それから13年間、チーラン通り・グエンチャイ「子どもの家」と
TY君と付き合ってきた。入所当時8歳。今は21歳になっている。
TY君と「子どもの家」のTRUNG君はハノイの「日新電機」に
入社するため8月10日にハノイに行く事になった。そのため
退所式を行った。
セン委員長から退所に当たっての話があり、お母さんからは
長い間お世話になったとお礼の言葉があった。
13年前、TY君と妹が入所した時、お母さんはフエ中央病院
前の公園で子どもたちと寝ていた。それから13年。色々な
ことがあったが立派に成人したTY君がハノイでの就職を
前に退所式を行う事が出来た事は本当に嬉しいことである。
13年間の様々な思い出が頭をめぐる。

●母親が無筆のためTY君が代書して「退所承諾書」にサイン

●8歳から21歳まで「子どもの家」で生活したTY君が成人。
 就職口も見つかった。今日はTY君の新しい旅立ちの記念日

続いてTRUNG君も呼んでTY君、TRUNG君の二人と
8月10日に行くハノイの仕事について打ち合わせを行う。


日記電気の宮崎常務さんを始め京都の関係者のお陰で
「子どもの家」のTY君、TRUNG君がハノイの日新電機
ハノイ工場で仕事をすることが出来るようになった。
宮崎常務様をはじめ日新電気関係者の皆さんに
心から感謝したい。

夜の日本料理店来客3人。

午後7時15分、訪日していたメンさんが無事フエ空港へ
帰国。日本でたくさんの経験をして帰って来た。
受け入れてくれた内田さんご夫妻に心から感謝したい。


投稿者 koyama : 2006年08月02日 10:28

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