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2006年09月29日

成田着

東京は曇り。

昨夜、フエ空港で3回飛行機が遅れる。結局4時間フエ空港で
待たされた。

ホーチミン空港でも1時間ほど飛行機が遅れる。
ベトナム空港の遅延・欠航は日常化している。困ったものである。

朝7時半、無事成田に着く。富士宮市の支援者の皆さんと出会う。ハノイに行っていたとのこと。
午前9時半、上野に着く。御徒町寄りアメ横にある鮨屋に行くが潰れていた。ネタ良し安かったのに。買い物をし11時半アメ横で生ビール。

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2006年09月28日

日本帰国の途へ 

晴天。暑い。

今日、日本へ一時帰国する。
朝食後、帰国の荷物準備。ベトナム事務所へ。日本へ留学する
「子どもの家」卒業生などの必要書類を受け取る。

電動バイクで縫製研修工場建築現場へ。日本での講演会で
使用するビデオ用に縫製研修工場建築の様子を写す。
台風5号の影響で基礎工事用に掘った1メートル程度の
溝に雨が溜まっている。ポンプで水を吸い上げようとしていたが
ポンプが動かず、まず、ポンプの修理から始めていた。
いつ工事がはじまるのやら・・・・・・。

「子どもの家」へ。地球の歩き方ツアーⅥの皆さん13人は
シクロで「子どもの家」へ。市場へ買い物に行き、昼食を
作る。その後、子どもたちと庭で遊ぶ。

9月24日の台風5号の影響で壊れた「子どもの家」の駐輪場の
工事が終了。きれいな屋根が出来上がる。

同じく台風5号で壊れた食堂の雨どいの工事も行ってる。

地球の歩き方ツアーの皆さんと一緒に昼食を摂る。

同じテーブルになった子どもたちと話をする。将来の夢を聞く。
グエンフエ高校1年生のターオさんは、会社の社長になりた
とのこと。
ハイバーチュン高校1年生のバーさんは、学校の先生。
フエ科学大に飛び級で入学した15歳のニャンさんは
物理か数学関係の博士になりたいとのこと。
なれるかどうかは、別として、「子どもの家」の子どもたち
が『夢を持って』生きているということは素晴らしいことだ。
私たちが子どもたちに夢を持てる環境を提供できる
ことも幸せなことである。

午後12時。日本料理店。

午後、帰国の荷物整理。部屋の整理。
午後4時半。トンチンカンホテルを出てフエ空港へ。
午後8時、ホーチミン空港着。
午後11時半、ホーチミン空港を出て成田へ。

投稿者 koyama : 15:57 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月27日

地球の歩き方スタディーツアーⅥ

晴天。

日本ハム、レギュラーシーズン第一位 万歳。札幌ドームで
「札幌生ビール」を飲みながら応援したことを思い出す。
今日最終戦で第1位。
札幌、北海道に元気が出ることを期待する。

阪神7連勝、おめでとう。


急に気温が高くなる。気温の大きな高低差に体がついて
ゆけない。

午前8時。ベトナム事務所へ。地球の歩き方ツアー第Ⅵ陣。
13人がベトナム事務所を訪問。ベトナム事務所員紹介。



スタディーツアーの皆さんにフエでの生活の諸注意をする
税田ベトナム事務所員。
交通事故、「子どもの家」の子どもたちとの帰国後の文通
は直接子どもたちにしないで欲しい、ベトナム事務所へ。
日本語学校で学生と交流した後、個人的に食事にいったり
することはしないで欲しい・・・。

午前10時。「子どもの家」音楽室で講演。
講演の趣旨。何故45歳で教員を退職してフエに来たのか?
短い人間の一生を精一杯生きよう。立身出世やお金持ち、
名誉などにこだわらずに、高い志をもち、死ぬまで人生に挑戦しよう
など・・・・。この13年間の体験に基づき1時間半話す。
私は地球の歩き方ツアー参加者(大半が大学生)に講演する
時、全力投球をする。これからの日本を背負う若者に今の日本、
これからの日本を考え、平和と民主主義の貫徹した、弱いものを
いじめない国にして欲しいとの願いを込めて話している。



「子どもの家」の庭では9月24日(日)の台風号の暴風雨
折れた大木のため全壊した駐輪場の再建工事が行われて
いた。昨日。セン「子どもの家」運営委員長に直ぐに工事を
行うよう要請。


9月3日に家庭訪問を行い、5日に入所したニャンさん。
入所して3週間。「子どもの家」での生活に慣れて来たようだ。
15歳でフエ科学大学生。これからの活躍を期待したい。


午前11時45分。昼食。ラームさんと一緒に13人の
地球の歩き方スタディーツアー参加者と食事。

昼食後、スタディーツアー参加者と記念写真

午後2時半。地球の歩き方ツアーは、ベトナム語学習。
静岡ーフエ青年交流会館。
日本語学校教師のフーン先生の指導でベトナム語の文法、
簡単な基礎会話を勉強する。

●日本語学校生徒と習いたてのベトナム語会話の練習。


私は「イノシシ歳」ということもあって、どんな仕事でも
手を抜かず「全力投球」をモットーに生きてきた。
7月15日にフエへ戻って2ヶ月半。全力で訪問者への
対応をしてきた。この2ヶ月半に応対した日本人は
数えられるだけで276人。頑張ったと思う。
今、私の体は「コチコチ」に固まっている。
頭もコチコチ。休養が必要。
明日日本へ帰国予定。数日、長男家族と休養の予定。

投稿者 koyama : 20:35 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月26日

「京都フェアートレード」関連、日本料理店総括会議

晴天。

久しぶりに太陽が出る。

午前9時、ベトナム事務所へ。
午前10時。「京都フェアートレード」より依頼の
うちわの柄のサンプルが出来上がる。
ベトナムの民間会社にサンプル作りを依頼した。
とにかく仕事が早い。又、仕事がうまい。
日本から送ってきた竹の見本通りのサンプルを
2つ作ってくれた。しかし、竹の色が悪い。もっと
白い色の竹で作って欲しいと依頼したら、夕方には
5つの新たなサンプルを作って持ってきた。
13年間フエに住んでいるが、こうした仕事の仕方を
したフエ人は初めて。公的機関、公営の仕事は
とくにかく「やる気」がない。仕事もトロトロ。
良い仕事をしようとするフエ人と会ったことがない。
ベトナム共産党の「ドイモイ政策」の中でこうした
資本主義的なビシネスマンが育ってきたのだと改めた実感した。

私が帰国した折、京都フェアートレードの会の皆さんにサンプル
を送ることになっている。

帰りに「子どもの家」に寄る。
9月24日の台風5号の被害が大きかった。
「子どもの家」にある10メール近くの大木が暴風雨で折れる。
折れたい勢いで「子どもの家」の駐輪場の屋根を直撃。
駐輪場の屋根が壊れる。同時に折れた大木が送電線を
切ってしまい、9月24日の日曜日の「子どもの家」は
停電だったとのこと。

セン委員長と台風被害の回復工事について打ち合わせを行う。

昼食は久しぶりに日本料理店。焼きうどんを食べる。

昼寝。12r通のメール受信。数通のメール送信。

午後4時。日本料理店全員会議。

8月・9月の総括、今後の改善点について、子どもたちも
含め一人一人の意見を聞く。

(フエン)10月から昼の部を止めるという噂を聞いたが、
     もったいない。昼も夜もやった方が良い。

(グエット)英語が出来ないので、欧米系のお客が来た時
      接客が出来ない。英語を勉強したい。
(トゥオイ)日本料理をもっと勉強したい。
(大塚)昼の部の担当者の一部は午後2時になると 
     帰ってしまう。後片付けをしない。私たちは
     日本料理店の従業員なので、自分の担当が
     終わっても日本料理店の仕事が終わるまでは
     責任を持つべきだ。
(ハン・ニー)大塚さんの注意は良く理解した。今後
       気をつけたい。
(ホン・ニー)みんなと同じ意見。
(大塚)フエンさんは、下働きをしっかりする。偉い。評価したい。
    トゥオイさんは、仕事に責任感が出て来た。
    お客の人数・金額・メニュー・日本人か欧米人かなど
    をしっかりとメモし自分で団体来客の計画を立てられる
    ようになった、今後、自分団体客のメニューを決められる
    ようになって欲しい。
     イン君は味を自分の舌で覚える感覚を持っている。
    力がある。
     私は一生懸命やる子どもたちに全力で教えたい。

ホン)私が9月一杯で出産のために仕事を休む。
   出来れば昼もやって欲しい。
   *ラームさんの奥さんのホンさんは10月中旬に
    出産予定。その後、しばらくは日本料理店を休む。

(石塚)お客さんにはもっと自信を持って接して欲しい。
(石岡)接客係りは基本的には仕事に慣れてきたが、
    仕事が乱雑にっている。もっと心を込めて、「丁寧に」
    仕事をして欲しい。
(税田)オーダーを受けて料理を出す順番を間違えない
   ようにして欲しい。
   調味料の残りのチェックをしっかりして欲しい。

午後5時半。日本料理店スタッフで夕食。

今日はピンチヒッターで通訳をしてくれたバオミンさんと
日本料理店全員会議の反省会を日本料理店で行う。
バオミンさんは今夜、家族全員がダナンの親戚の結婚式
に参加。一人で家にいるとのこと。

午後7時までバオミンさんと飲む。日本料理店には何人かの
常連のお客さんが来店。私やミンさんが日本料理店にいるもの
野暮というもの。
その後外に出て、大衆の飲み屋で2時間程、フダビールを飲む。

部屋に戻って「越乃影虎」を飲みながら日本への帰国の
諸準備を考える。私がフエ滞在中にしておかなければならない
仕事を整理する。ベトナム事務所・「子どもの家」・フエの
色々なことを考えていると午前12時になってしまう。

投稿者 koyama : 00:13 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月25日

台風一過・ 縫製研修工場建築工事問題発生

午前中、晴天。午後曇り。夕方から再び雨。 休肝日。

この数日の豪雨と暴風は台風5号の影響。台風5号は
中部の北(ゲアン省・ハティン省)付近。

朝は台風一過の晴天。フォン河の氾濫もほぼ収まる。
浸水家屋の被害も小さかったようだ。一安心。
部屋の屋根から漏水。ベッドの3分の1が水浸しとなる。
午前中、バオミンさん・ソン君に手伝ってもらい清掃。

午前中、バオミンさん・税田さんと縫製研修工場建築の
新たな問題を協議。

「子どもの家」卒業生のメンさん、引越し完了。

午後2時。バオミン・ベトナム事務所長とフエ市人民委員会
外務部へ。ニエン外務部長と「新たな縫製研修工場建築問題」
について協議。フエでは常識では考えられないことが起こる
ものである。
ODA援助金を本当に無駄なく使おうとすると繰り返し、
嫌がらせが来る。ODA援助金の調印式を行ってから実際に
工事が始まったのは6ヶ月後。やっと工事が始まったと思ったら
また工事が出来なくなるような「嫌がらせ」。フエの甘い汁を
吸えない一部の人たちの陰湿な嫌がらせに辟易している。
縫製研修工場建築だけで私は膨大なエネルギーを消耗している。

夕方、部屋の整理。この2ヶ月半、部屋の整理をする時間が
全くなかった。洗濯2回。

日本料理店では、大塚さんがベトナム人スタッフに
「手作り餃子」の作り方を教えていた。
初めに「餃子の皮」を作る。小麦粉を練る。

餃子の種を作る。白菜・キャベツ・ひき肉・ニンニク・ごま油・・・。

餃子のたねを皮につめる。

焼きあがった餃子。
夕食で食べる。日本の中華料理店の餃子より美味しい。

自民党総裁・三役決まる。
民主党大会。小澤・菅・鳩山。

投稿者 koyama : 15:37 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月24日

フォン河氾濫・ 京都・東南アジア理解講座始まる

暴風雨。
ベトナム中部に台風接近。

朝から暴風雨。豪雨の音で5時に目が覚める。しばらくボーッとし、
再度睡眠。
午前8時起床。血圧測定。メール等チェック。
この数日、雨。豪雨だった。
今日は久しぶりの休日。数えてみると40日ぶりの休日。
今年はスタディーツアー訪問者が多い事、日本料理店開店で
忙しいこと、縫製研修工場建築工事等々、例年より課題も
多く休めなかった。

午前9時、暴風雨の中、ドンバ市場近くの「チャートゥー」屋へ。
チャートゥーは豚の耳で作ったソーセージ。1本100円。
塩コショウの味付けでコリコロと歯ごたえがある。
途中、水がかなり溜まっている。フオン川が泥水。
上流から相当量の水が流れてきている。氾濫寸前の状態。

バオミンさんに教えてもらった「コムディア屋」(テイクアウトの
ご飯屋)。ご飯にアヒルの玉子焼き、豚肉の甘辛煮、野菜炒めで
8000ドン(60円)。

午前10時。低温で15分ほど入浴。
午前10時20分。NHニュースの最後の部分を聞きながら、
フダビールを飲む。おつまみは、数日前に作っておいた
「するめの醤油漬け」と「チャートゥー」。コムディアの野菜炒め。

NHK素人のど自慢(ゲスト:森進一、石川さゆり)を見ながら
冷えたフダビールを飲む。好きなおつまみでビールや吟醸酒を
飲むのが私のストレス解消の方法。
食べ物が食べられなくなった。悲しいことだ。おつまみで少し飲むと
もう食欲はなくなる。コムディア4分の3残す。

7月15日、フエに戻ってきてから、本当に忙しかった。
本を読む時間が全くない。朝から夜まで訪問者への対応、
毎日起こる様々な問題の現実的な解決・・・・・。

今日は何度も停電になりそうな状況。

午後、フォン河が氾濫。フォンザンホテル付近の道路が冠水。
フォン河支流に隣接する家では床下30センチほどの浸水。

●フォンザンホテル付近の道路が冠水し、通行止めとなった。


●チャンティエン橋も増水。上流の山岳地帯にたくさんの雨が降った。


深更になっても豪雨は降り続く。午後11時過ぎからカミナリと
嵐のような豪雨が続く。稲光で眠れず。睡眠薬として新潟県の
「越乃景虎」を飲む。フエ市内の洪水が心配。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


9月9日から東南アジア理解講座=ベトナム語編=が京都府国際センターで
始まった。「京滋YOUの会」の協力主催である。

始まりました東南アジア理解講座
=ベトナム語編=
9月9日から始まったベトナム語講座。全8回行われます。

教えて頂く先生は前回に引き続きクアン先生。第1回目は申し
込んでいただいた方16名全員の参加者。第1回目は多少の
緊張した様子の中、2人1組で会話をしてみたり、先生の質問
に答えてみたり、文章を考えてみたり実践が多くてだんだん
和やかな雰囲気になっていきました。

最後にクアン先生から「何故、今回ベトナム語講座にきましたか?」
の質問に「仕事で話せたら」や「お店をだしたい」、「ベトナムに語学
留学するから」、などみなさん色んな思いでこの講座を申し込まれて
るんだなぁと。
それぞれの思いを大切に充実した講座になればいいなぁと思いました。
                      (文責:「京滋YOUの会」仁枝さん)


投稿者 koyama : 12:24 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月23日

ベトナム事務所員全員会議 地球の歩き方ツアー晩餐会

終日雨。午後豪雨。

雨期の到来。これから半年間、悩ましい雨期となり、カビ、異臭、
日照不足との闘いが始まる。

午前8時半。ベトナム事務所員全員会議。


(サン)地球の歩き方ツアーの案内。カレーやハヤシライスを
    作った。グエンフエ高校交流の案内をした。
    21日、中級4の総合テストを行った。26人中2名が落第。

(ハン)地球の歩き方ツアーで市場へ買い物に行き昼食を作った。
    子どもたちと交流。日本語、絵画、音楽に分かれて。
    奨学金をもらっている生徒から支給者へお礼の手紙が来た。
     現在翻訳中。

(フーン)20日、地球の歩き方ツアーのベトナム語講座をした。

(石塚)今週、初めて1時間の日本語授業を行った。
    生徒がどれだけ理解したの反応を見るのが大変だ。
    また、生徒の能力・学力のばらつきがあり教えるもの
    大変。
(石岡)21日、中級4の総合テストをした。

(税田)地球の歩き方ツアーとカレーを作った。
     「子どもの家」側の準備が不足していた。
    刺繍みやげ物店で仕事を1時間早くやめて帰って
    しまった。今後は、事前に相談するように話す。

(ソン)地球の歩き方ツアーの案内。
    24人がシクロに乗ったが、チップを要求したシクロが
    いた。

(ミン)科学大コンピュータ科長に会った。
    JASS記念誌の写真集めをした。
    水本先生と「子どもの家」図書室の使い方について話した。
    9月25日(月)「子どもの家」の健康診断を行う。
    「子どもの家」のマイ寮母さんが退職する。

(小山)
    ・フエ科学大学コンピュータ科とは、ブライセンと提携して
     日本への留学学生を紹介してもらうために行った。
    ・「子どもの家」卒業生のメンさんがハンさんの家に下宿。
    ・うちわの柄のサンプルの仕事。(30万個の注文)
    ・縫製研修工場の建築が始まり、今のところ、順調に
     工事が行われている。
    ・「子どもの家」のマイさんが9月一杯で退職。補充をいれず
     に現在のスタッフでカバーしてもらうようにセン委員長と
     話した。
    ・「子どもの家」のターオさんの心臓手術は成功した。
    ・暖炉基金の口蓋・口唇裂の子どもがフエ中央病院に
     入院し、初めに心臓の手術をする。その後、口蓋・口唇裂
     の手術。


午前9時過ぎ。日本語学校教師打ち合わせ会が始まる。

バオミンさんと打ち合わせ。

午後、TBS-BSのOディレクターから問い合わせ。
子どもたちのことなど詳細な質問への回答のための
調査。1時間ほどして回答する。

13通のメール受信。5通の送信。

ベトナムの中学3年生「歴史」教科書の翻訳を終わる。
現近代史129ページの記載中、日本のアジア・太平洋
侵略に関する記述は20ページ。

午後6時半、地球の歩き方ツアー(24人)の最後の晩餐会。
日本料理店で日本料理を食べながら交流。

●乾杯

●24人分の食事を作り、片づけをする日本料理店スタッフ


●今日1日ナムドン山岳地帯に行った

晩餐会が午後6時半から午後9時過ぎまで続いた。


    

ベトナム中学9年生歴史教科書(教育訓練省)
 
 ●翻訳の責任は小山道夫・BAO MINHにある。教科書を直接翻訳したが、日本   
  人が理解しやすいように若干工夫した。
★中学9年生は日本では中学3年生
★中学9年生の歴史教科書(近現代史中心129P。日本の侵略記述部分は20P)
  

(インドシナ独立・自由・民主のために)

インドシナの独立・自由の最大の敵はフランスであった。

従ってべナム共産党はインドシナが独立するためフランス植民地主義を
追い出し、地主の土地の没収と農民への分配という方針を掲げた。インドシナ人民の任務は反ファシズム、反帝国主義戦争、自由・民主・平和を求めることである。

インドシナ独立・自由・民主の目的を達成するため、マルクス・レーニン主義を共産党と人民に普及する。そして国際共産主義運動を人民に普及し、教育を進める。マルクス・レーニン主義を普及しながら共産主義に反対する反政府運動を殲滅し、100何万人の市民・農民をベトナム共産党に結集し教育を行った。

(第3章)1945年8月革命を達成するための運動

21課 1939年から1945年までのべトナムの状況


フランスがベトナム侵略の手をゆるめ、日本と妥協。
人民は日仏の弾圧で生活が苦しくなる
そうした状況の中、最初の3つ暴動・蜂起が行なわれた
(BAC SON、NAM KI DO LUONG)

1 世界とインドシナの状況

1939年9月第2次世界大戦が勃発。
ヨーロッパ戦線。1940年6月、ドイツファシズム軍がフランスに侵入。
フランス政府はドイツファシズムに降伏する。極東では日本軍が中国を侵略し、ベトナム・中国国境まで進駐してきた。

この時期、インドシナのフランス植民地主義は不安となってきた。
フランス植民地主義の支配が不安定となった理由は2つ。
第1はインドシナの人民解放運動の前進 第2は日本ファシズムのインドシナ進出によりフランス支配の脆弱化である。

1940年9月、ランソン省(中越国境付近)で 、フランス軍は日本軍に降伏。
フランスはインドシナをコントロールできなくなってきた。
日本がインドシナを自分の領地にした。
1941年7月23日、ハノイでフランスは日本との間にインドシナ管理に関する協定を結んだ。
その内容は以下のようである。
・ 日本が全ての飛行場とインドシナ港湾管理を行い、軍事目的のために使用することができる。
・ 太平洋戦争を起こした時(1941年12月7日)日本がインドシナを一層アジア侵略に活用出来る協定を結ぶようフランス政府に要求
(日本軍の自由な移動、食料供給、軍事基地、インドシナの治安)
・ 実際にフランスと日本は提携しインドシナ人民を弾圧した。

フランスは日本に押さえられたが、出来るだけ利潤をあげられるようベトナム人民を搾取、収奪した。
命令による経済政策を行った。戦争を利用してインドシナの経済を把握し、
独占した。特に物を略奪し、投機を行い、多額の利潤を手に入れた。
  増税した。酒・塩・アヘンは1939年から1945年までの間に3倍に値上がりしている。

日本の手法は食糧、特に米を安い強制値段で買った。
強制安価で買った米を日本軍に供出。また、今後のアジア全域への侵略のため戦争のための準備として安価強制的に買い付けた米を保管・貯蔵した。こうしたことが原因で食料が不足し、1944年から1945年の間、特に北部の農民200万人が餓死した。

2 最初の暴動

●BAC SONの暴動(1940年9月27日)

日本軍がランソン(中越国境付近)に入り、フランス軍はBAC SONに逃げてきた。
BAC SONの共産党は人民を組織し、フランス軍の武器を奪った。
そして、BAC SONに革命政権を樹立。しかし、日本軍はフランスと妥協して
ベトナム人民を弾圧し、人民幹部を捕まえ虐殺。人民の家を焼いた。
地方の共産党リーダーのお陰で人民が奮闘し、フランスと日本の手先となったベトナム人スパイを懲罰した。
日仏帝国主義者と日本・フランスの手下となったベトナム人の財産を没収し、人民に分配した。人民は喜び、革命軍に参加した。
BAC SONのゲリラ組織が設立された。1941年、救国軍と改称。

●NAM KI(南部地方)の暴動
フランスがヨーロッパでドイツに敗北。フランス植民地主義はタイ軍を使って、ラオスとカンボジア国境で衝突を起こした。
日本軍はフランス軍と戦うかわりにベトナム人を使って、フランスと戦わせた。NAM KIのベトナム軍は不満を持ち、軍から脱走。秘密裏にNAM KIの共産党軍と連絡を取り合う。緊急な状況の中でNAM KI の共産党軍は中央の意見を聞かずに暴動を起こした。ベトナム北部にある中央本部からの指示がNAM KIへ行くのが遅かったので、中央の指示が届く前に暴動計画が漏洩(ろうえい)。フランス軍は暴動を計画したベトナム軍を捕まえ武器を没収。しかし、暴動は計画とおりに1940年1月23日夜、22時勃発した。人民はフランス軍の基地から武器・弾薬を取り、人民政権を樹立した。

●DO LUONGの暴動(1941年1月13日)北部
革命の雰囲気が増大し、フランス軍にいるベトナム人も革命軍に参加するようになった。1941年1月13日、共産党員ドイクン氏の指導で暴動が起こされる。
ベトナム人民軍はDO LUONGのフランス軍基地を奪取し、車でVINH省に移動。しかし、計画が失敗しドイクン氏はフランス軍に逮捕される。拷問を受ける。ドイクン氏は何も言わずに10人の同士と共にフランス軍により処刑される。

22課 1945年の8月革命への運動

グエンアイコック(ホーチミン)が主催し、共産党第8回中央委員会が開催された。ベトミン(ベトナム独立同盟)を設立し人民解放のため武装勢力(軍隊)を設立した。反日運動が発展し、1945年8月革命に向けて人民の力が高揚してきた。

1 ベトミン戦線(ベトナム独立同盟)誕生(1941年5月19日)

第2次世界大戦は3年目に入る。フランス・ベルギー・オランダを占領したドイツは、1941年6月、ソ連に侵入。世界は二つに戦線に分かれた。
民主主義陣営(リーダーはソ連)とファシズム陣営(ドイツ・イタリア・日本)。最初からベトナム軍は民主主義陣営に参加していた。
1941年1月28日。グエンアイコック(ホーチミン)が中国から帰国しインドシナ共産党中央委員会第8回会議を開催。

(第8回中央委員会の内容)
フランスと日本の弾圧から人民を解放する。日仏帝国主義者の土地とベトナム人の手下どもの土地を没収し、貧しい人に分配。税金を減らす。農民が土地を持てるようにする。ベトミンを創設。名前は「救国会」とする。その目的は
愛国人士を団結させ、貧しい・金持ち・男女の区別なく、救国のために総団結する。ベトミン戦線は1941年5月19日、正式に設立された。
1940年末、BAC SON の暴動が失敗した。共産党中央は各地の小さなゲリラ闘争を統合組織し、1941年BAC SON地域の救国中隊とした。
CAO VAN省(北部)は救国会(ベトミン)の実験場である。1942年までにCAO VAN省内9箇所で救国会を作るようにする。各村にベトミン委員会があるようにする。1943年、カオ・バク・ラン3省でベトミン連合省となるようにする。

政治を大事にしながらインドシナ共産党は人民各層(学生、知識人、資本家・・)を救国戦線に組織した。

共産党の新聞とベトミン戦線の新聞も発展した。多くの人民が革命に参加。
1944年。世界情勢が大きく変わった。革命の情勢が強まった。
1944年5月、ベトミン本部は人民に呼びかけ、武器を準備させ、敵を追放するよう呼びかける。
1944年10月、ホーチミン(グエンアイコック)は人民に手紙を出す。
『侵略者はもう過ぐ全滅する。あと1年か1年半の間にベトナム民族解放の
時がやってくる。緊急事態なので活動を早く起こそう。』

指導者ホーチミンの指示により、ベトナム解放戦線が設立される。

1944年12月終わり、カオバン省まで解放される。最初の勝利を生かして
各地の組織を強化した。
各地域の敵は恐れをなし、ベトナム人スパイは人民のものを返したいと出頭してきた。


2 救国のための反日運動

①日本がフランスを追放(1945年3月9日)
1945年、第2次世界大戦がその終末を迎えた。フランス本国が連合国により解放された。太平洋戦線では日本軍がイギリスとアメリカの攻撃を受ける。
連合国が日本をインドシナから追放した後、インドシナではフランス軍がその後釜となることを狙っていた。
インドシナを独占するため、日本軍はフランス軍をインドシナから追い出した。

②1945年8月革命への運動

日本軍がフランス軍を追放したことを見て、共産党中央常務委員会は会議を開く。会議の指示(日本とフランスが戦うのはベトナム側のチャンスだ。当面、インドシナ人民の敵は日本ファシズムだ。全国で救国のため「反日」運動を起こそう。)

1945年4月15日、北部のバクザン省で軍事革命会議を行う。会議の決定により、各武装勢力は「ベトナム解放軍」とした。政治と軍事幹部学校を開校。
ゲリラ戦争も発展させ、各地に反日勢力を組織し、8月革命の準備を行った。
北部軍事革命委員会が設立され、この組織の任務は北部全体の軍事について指導するものであった。

反日運動が大きく発展している所でも、北部・中部の北では餓死が起こっていた。
餓死問題を解決するため、日本軍の米保管所を襲撃しようというスローガンを掲げた。スローガンは全国にあふれ、運動は発展した。


23課 1945年8月革命の総運動とベトナム民主共和国
     建国

 (説明)指導者ホーチミンとインドシナ共産党により総運動
     の命令が発せられた。ハノイ、全国各地人民が総決起
     し、政権を奪取した。
      1945年8月革命成功―ベトナム民主共和国誕生
     ベトナム民族の新しい歴史に突入

1 総決起命令発令

  第2次世界大戦が終結に近づき、ヨーロッパのドイツファシズムは
敗北し、1945年5月、正式にドイツファシズムは崩壊した。
アジアでは日本ファシズムが連合国に敗北。(1945年8月)
日本政府の無条件降伏の情報を聞いたインドシナ共産党は
トゥエン・クアン省(北部)に全国会議を召集。1945年8月14日~15日にかけて
全国総決起―革命(政権奪取)を行うことを決めた。
 全国総決起委員会は「軍令1」を発令。

  1945年8月16日トゥエン・クアン省で北部・中部・南部の代表が集まり
  国民大会が開催された。この時初めて指導者ホーチンが国民代表の前に姿を現した。国民大会は総決起決定に賛意を表しした。
  指導者ホーチミンは[ベトナム民族解放委員会]委員長となった。
ホーチミンは全国国民に「総決起を呼びかける手紙」を出す。
 8月16日午後、決起委員会の命令に従い、ボーグエンザップの指導で
 ティエン・クアン省からタイグエン村にいる日本軍を総攻撃した。
 その後,ハノイへ移動。

2 ハノイ政権を奪取
 
  ハノイにあったフランス・日本の支配権力を共産党が奪取してから革命の風潮は
高まった。人民各層、特に青年たちは救国団体、自衛軍に参加。ベトミン宣伝隊は
町中で活動。ベトミン名誉団は日本の手下となったベトナム人スパイを摘発し、厳しく懲罰を加えた。

8月15日夜、ベトミン宣伝隊はハノイ市内の3つの大劇場で大演説会を開催。
8月16日、ビラと決起スローガンを書いた横断幕をハノイ市内各所に貼り出す。
ベトナムに侵略していた日本軍は弱体化した。8月19日、ハノイ市は革命の雰囲気に溢れる。人民は一番大きな劇場前広場に集まり、ベトミン代表が宣言を発表した。
初めて公開の場で「インターナショナル」を歌った。そのあと、参加者が市内をデモ行進を行い、市内にある公的機関を人民が接収した。デモ行進を見た日本軍は反抗することはできなかった。この時、ハノイ全体で革命側が勝利することになった。

3 全国政権奪取
  8月初め、総決起の雰囲気が高まり、8月14日から18日まで各省・各村に
革命政権が樹立される。BAC GIANG省、HAI DUONG省、HA TINH省、
QUANG NAM省の4省が最初に革命政権を樹立。
日本の無条件降伏のニュースを聞き、更にハノイ解放の知らせを聞くに至り
全国的な総決起状況となる。
フエは8月23日、サイゴンは8月25日に解放。フエにいたグエン王朝のバオダイ帝が退位。8月14日から8月28日までの間、全国総決起・。蜂起が成功。
1945年9月2日、ハノイのBA DINH広場でホーチミン主席が臨時革命政府の
代表となり[独立宣言]を発表した。ベトナム民主共和国が誕生した。

4 8月革命の成功の原因と歴史的な意義

8月革命はベトナム民族の偉大な歴史であり、フランス植民地主義、日本帝国主義を
打倒し勝利を収めた革命であった。
ベトナムは植民地から民主共和国に生まれ変わった。人民は奴隷から独立・自由な人民となり、国の主人公となった。
国際的に見て、8月革命の勝利は小国が植民地主義・帝国主義に勝利したと言う大きな意義のあるものである。
この勝利は世界の植民地で苦しんでいる人民を励まし、特にアジア・アフリカの人民に勇気を与えた偉大な勝利であった。

8月革命勝利の原因は
-1 ベトナムの伝統は「独立と自由のためには勇気をもって戦う」というものである
   その結果、インドシナ共産党とベトミン戦線の呼び掛けに多くの国民が呼応し  
    た。

-2  強い絆の労農同盟が確立されていた。
     各愛国団体と労農同盟が団結し、農村のゲリラと団結し、封建主義と帝国主   
     義との闘いを進め政権奪取に成功した。
 
-3  8月革命勝利が早まったのは世界の世論の力である。第2次世界大戦が終
    結近くなったことがその原因である。ソ連軍と連合軍がドイツファシズム、日本
    ファシズムを崩壊させたことが世界の平和に大きな貢献をした。
 

  

投稿者 koyama : 18:44 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月22日

火焔樹日記20万アクセス達成 TBSテレビ放映決定

曇り。 休肝日

「TBS-BSi 」で私のフエでの活動が放映される事になった。
知り合いの方にも知らせて頂ければ幸いである。
9月30日(土)午後8時~午後8時54分。
タイトル:『オーレ!俺道(おーれ、おれっち』
(海外で活動する熱血日本人を紹介する番組)

*「TBS-BSi 」の詳細は http://www.bs-i.co.jp/

今朝、火焔樹日記のアクセス数が20万を越える。
感慨無量。この4年間、私としては火焔樹日記を毎日書いて
来たが、できるだけ「手抜き」をしないよう気をつけて書いて
きたつもりである。今後も宜しく。

午前9時。バオミン・ベトナム事務所長の翻訳を聞きながら
ベトナム中学3年生歴史教科書を日本語に翻訳。
今日は1945年9月2日、ベトナム独立前後の日本軍と
独立闘争についての記述部分。

午前10時半。「子どもの家」へ。
「子どもの家」では地球の歩き方ツアーの皆さんが
カレーライスとハヤシライスを作っていた。
午前11時。子どもたちと一緒に昼食。私はハヤシライスを
食べるが、美味しい。


2週間、「子どもの家」の図書室指導をしてくれた水本先生が
今日帰国する。帰国時間ギリギリまで図書室の整理・指導を
する。水本先生、本当にお世話様。
子どもたちと一緒に昼食。


午後12時過ぎ。地球の歩き方ツアーは子どもたちとお別れ。
最後の記念写真を撮る。

30分ほど昼寝。

午後2時半。ラームさんの両親と面談。「子どもの家」卒業生で
現在フエ経済大学2年生のメンさんが下宿している。
フエ経済大学に新校舎が出来上がり、9月からメンさんは
勉強する校舎が変わった。メンさんの下宿しているラームさんの
実家からオートバイで40分もかかる場所となった。
途中の交通事故、大幅に伸びた通学時間を考え、下宿を
変えることにした。今日は、1年間お世話になったラームさんの
ご両親にお礼の言葉を述べに行く。

30分ほど、ラームさん・ご両親・メンさんと懇談。
その後、ラームさんとメンさんと一緒に引越し予定先の
ベトナム事務所会計ハンさんの家へ行く。ハンさんの
家はフエ経済大学新校舎の直ぐそばにある。オートバイで
5分ほどのところとのこと。
二人のお子さんと家族4人生活。5室の大きな家である。
メンさんの使う部屋はまだ物置となっていた。
4畳半ほどの寝室と6畳ほどの居間。

来週、引っ越す予定である。

午後4時半。トンチンカンホテルに戻る。
31通のメール受信。21通の返信。

午後5時半。日本料理店スタッフと一緒に夕食。

午後8時。1ヶ月間にわたり日本料理店の仕事を放棄し
悪友とつるんで問題を起こしていたT君が日本料理店に来る。
今までの問題行動を反省するという。
現在、借りていた下宿を追放され、食事のお金もないと訴える。
T君は下宿をするために必要なIDカードを持っていない。
下宿のおばさんはT君が可愛そうだと思い特別の配慮で
貸してくれていた。しかし、夜中に悪友を連れ込み、お酒、
ギャンブル、AVを高音で見る、トイレを土足で使うなど
下宿住人から大ブーイング。とうとう、大家さんから追放
される。
今日、再度、大家さんにお願いし、1ヶ月の猶予期間を
設けて問題があれば今度は本当に追放するということで
話をまとめる。
午後8時。ラームさんを通訳にT君と話し合う。というより、
私からお説教をする。兄のL君立会いの下で。
本人は今までの悪行を反省すると言っているが、こうした
話し合いをこの数年、何度したことか分からない。
私から
①大人や回りの人を「なめた」ような態度を取るな。
②これからの自分の人生を考えろ
③兄のL君を見習い、人生を考えろ
④今後、日本料理店で仕事をしたいのなら
 朝10時定刻出勤。勤務時間終了まで職場離脱を
 しないこと。
⑤兄弟仲良く共同生活すること。
⑥今度、同じようなことをするようだったら、日本料理店
 を解雇する。仕事には責任が必要。

などと話す。

T君は神妙に話を聞いていた。
午後8時40分話し合い終了。明日からどんな行動をとるの
だろうか? 子どもたちの成長は本当に「螺旋階段」である。
右に左に揺れながらの相対的には上昇・成長していくもので
ある。子どもたちには、愛情と規律が必要。
T君の再起を望む。

投稿者 koyama : 22:39 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月21日

1日中、活動する

曇り。  休肝日。

この火焔樹日記のアクセス数が20万に近づく。
明日あたり20万になりそう。
2002年8月2日から書き始めた火焔樹日記であるが、
20万アクセスを目標としていた。フエでの海外ボランティア
が毎日何をしているのか、何を考えているのかを
知ってもらいたいとの気持ちから始めた火焔樹日記である。
20万アクセス到達を願う。

数日前からNHK海外衛星放送が映らなくなる。
調査の結果、タイのクーデターの影響と判明。
タイの会社がNHK、CNNなどいくつかの放送をセットに
してホーチミン市の会社に売っている。私はホーチミン市の
会社からセットになった衛星放送を買っている。
タイでクーデターが起き、軍事政権が海外への衛星放送の
送信を禁止しているため、フエでNHK衛星放送が見られないと
いう訳である。

午前9時。「子どもの家」でセン委員長、水本さん、バオミンさん
と「子どもの家」図書館の利用法について協議。

水本さんは2週間「子どもの家」の図書館に張り付き、
図書館の利用について指導してくれた。
2週間の図書館体験から水本さんは以下のような問題点、
成果を報告してくれた。
①毎日20人以上の子どもたちが図書を借りて部屋で読んでいる。
 また、20人程度の子どもたちが図書館で本を読んでいる。
②シャーロックホームズ、ハリーポッター、五体不満足などの
 内容があり分厚い本を読む子どもたちが多い。「子どもの家」の
 子どもたちはしっかしとした読書をしている。
 また毎日1冊文庫本を読んでいる子どももいる。
 歴史関係の本が多く読まれている。
 参考書など勉強に関する本を借りる子どもたちも多い。
③図書貸し出しのルールを守れない子どもたちやスタッフが
  大変多い。
 貸し出しルールは、1日一人2冊から3冊、3日間で返すという
 ものだったが、返さない子どもたちがいる。
 この1年間に130冊の本が見当たらなくなっている。
 貸し出しノートに書き込まない子どもたちもいる。
④図書の整理整頓が出来ていない。
 あった場所に図書を返さない。1年前に種類別、学年別に
 図書を整理したが、1年後に着てみるとメチャクチャになっていた。

今後、セン委員長を中心に「子どもの家」スタッフ会議で指摘された
問題を話し合うということになった。

その後、セン委員長、バオミンさんと家庭の事情で退職を
希望しているスタッフの件について協議。
またスタッフ給料の値上げ問題について話し合う。

午前11時から地球の歩き方ツアーの皆さんと一緒に昼食。


午後2時過ぎ、バオミンさんと一緒に京都「フェアートレード」から
依頼された竹製の「うちわの柄」を作る工場を訪問。
10個のサンプルを作ってもらうことにする。

その足で縫製研修工場工事現場を視察。
基礎工事がかなり進捗していた。

「子どもの家」へ。
「子どもの家」では地球の歩き方ツアーの皆さん24人が
子どもたちと交流。音楽、絵画、日本語などを通して。

心臓の手術で9月19日にフエ中央病院に入院したターオちゃん
のお見舞いに行く。今日から一般病棟へ移され、お見舞いが
可能となった。心臓弁膜症。手術は成功し、あと10日間ほどで
退院できるとのこと。ターオちゃん(小2)は、青白い顔をしていた。
点滴をうけて、表情もなかったが、私に手を振っていた。

ターオちゃんは、日本の里親Nさんの支援の下、手術のできる
年齢になるまで頑張ってきた。やっと小学校にも入学し
体力もついてきたということで、手術を断行。
手術費用(20万円)は、「高野メモリアル基金」より寄贈。
基金の皆様に感謝。

フエ中央病院の入り口で帯広のYさんの「暖炉基金」で
口蓋・口唇裂の手術と心臓の手術を受けるQ君と父親に
出会う。今日入院したとのこと。近日中に心臓の手術をする。

帯広のYさんより1000ドルの心臓手術代をもらい、Q君父子に
渡した。その結果、入院と手術が決まったのである。
ベトナムの病院も現金である。手術代を前納しないと
手術をしないそうだ。Q君父子は最初に心臓の手術、
その後、口蓋・口唇裂の手術をすると喜んでいた。

午後4時半。日本料理店で日本料理店スタッフ全員会議。
この1ヶ月間、お客が多く、あまりに忙しいこともあり
全員会議が出来なかった。8月は402人の来客。
9月は既に300人以上の来客である。
8月1日から始めた昼の部の問題点、今後の日本料理店の
あり方などを話し合った。来週、もう一度話し合いを持つ予定。

午後5時45分、子どもたちや日本人スタッフと一緒に
久しぶりに夕食。子どもたちが「おこげご飯」を作った。
塩・胡椒・唐辛子をつけて食べると美味しい。

午後7時過ぎ、日本料理店を勝手に辞めて「悪い友達」と
付き合っていたT君が「もう一度、日本料理店で働かせて
欲しい」とやって来た。しばらく話をする。
この1ヶ月間、悪い友人と悪い事をしていたとの反省。
昨年起こした警察事件が昨日最終的に終了したとのこと。
これからは「真面目に」働きたいといっている。
こうした話し合いをこの数年間で何度したことか・・・・・。
①毎日定刻に出勤する事。仕事が嫌でも出勤すること。
②仕事の途中で消えないこと

この二つを守れるなら「もう一度チャンスを上げる」と
話す。T君は頑張るという。兄と同居していたアパート
からも出て行き、「悪い友達」のアパートにいたとのこと。
今は住むところもない、生活も出来ないので助けて欲しい
と言う。今日から仕事するように言う。兄も「自分のアパート
で生活させても良い」と言う。これからしっかりと日本料理店
の厨房で仕事をして欲しい。

投稿者 koyama : 21:34 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月20日

地球の歩き方ツアー(Ⅴ)講演会

終日雨。寒い。

午前9時半、「子どもの家」へ。
昨夜から地球の歩き方ツアー(Ⅴ)の皆さん24人がフエ滞在。
午前10時。「子どもの家」で講演会。今回は男性4人。
ほとんどが大学生。9月一杯夏休みとのこと。


1時間半の講演を終わり、地球の歩き方ツアーの皆さん、
バオミン・ベトナム事務所長と一緒に昼食。午後1時半終了。


午後2時45分。バオミン・ベトナム事務所長と一緒にフエ科学大学
コンピュータ学科長を訪問。東京のIT会社「ブライセン」より委託され
た研修生募集の件で学科長と懇談。3名の研修生候補生を紹介
してもらうことになった。

豪雨の中、京都の「フェアートレード」より依頼された団扇(うちわ)
の柄(竹製)のサンプルを作れる竹細工の工場を視察。
残念ながら見本の竹の柄の精巧でこの工場では作れないとの
こと。


日本に竹製品を輸出している工場へ行くが移転して所在不明
とのこと。豪雨の中、バオミンさんと途方にくれる。
フエ空港近くの工業団地に竹製品を専門に作っているベトナムの
工場があるとのこと。早速、近日中に行く事にする。

バオミンさん・ハンさんと一緒に下宿探しをする。

午後5時過ぎ。ベトナム事務所へ。ベトナム事務所で
バオミンさんに協力してもらい、中学4年生の歴史教科書の
翻訳をする。ベトナムは国定教科書。国定教科書の
中学4年生の歴史で第2次世界大戦、日本のベトナム占領
などがどのように扱われているのかを調べる。
1940年から1945年の日本の占領、ベトナムの独立の
部分だけで20ページも使っている。
バオミンさんに訳してもらいながら、適正な日本語に翻訳する。
20ぺージの翻訳は数時間を要する。
10月、日本に帰国し大学での講演会を行うが、その際の
参考資料として使う予定。ベトナムでは日本の5年間の
占領支配を教科書でどのように教えているのかを
日本の大学生に知らせるため。
バオミンさんに数時間かけて翻訳してもらい、その後、
2時間ほどかけて私が日本語らしい表現に直す。
午後9時過ぎ、全て終了。

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2006年09月19日

暖炉基金夕食会

終日雨。昨夜半から豪雨。

午前9時。京都の水本さんと懇談。水本さんは「子どもの家」
の図書室の指導を行ってくれている。
終日、「子どもの家」の図書室に入り、図書の分類、整理、
貸し出し、新規図書購入などを行っている。
この1週間ほどの図書室管理運営上の諸問題を話し合う。
バオミン・ベトナム事務所長も同席。
・1週間の図書貸し出しは110冊。(「子どもの家」の子どもたち
 が部屋の借りて行った本の数。図書室で読んだ本は入らない)
・毎日20人以上の「子どもの家」の子どもたちが本を借りている。
 日本の子どもたちよりたくさんを本を読んでいる。
 図書室があることの意味は大きい。子どもたちの精神的な
 成長の一助になる。
・借りる本の内容は、小説、参考書、まんが・・・・・。
・図書室の整理が出来ていない。
 昨年、図書の整理をしたが、1年後に再訪したが、図書が
 図書の整理が出来ていない。子どもたちが借りた場所に
 返却しないことも問題だが、担当のベトナム人スタッフが
 真剣に整理整頓、貸し出し等の仕事をしていない。
・図書を借りて返さない子どもたちが多い。数十冊の本が
 なくなっている。
・「子どもの家」スタッフが自分の子どもに本を借りていって
 数十冊返していない。
・セン委員長と9月21日に図書問題で話し合う。

午前10時過ぎ。ACCLの渡辺和代さんがベトナム事務所
訪問。今日、渡辺さんは帰国する。帰国の挨拶。
ベトナム事務所2階で今後のベトナム中部白血病支援の
進め方などを話し合う。


●ベトナム事務所員とお別れの挨拶


昨夜からの雨で気温が急降下。寒い。ひどい頭痛。倦怠。

1時間ほど昼寝。

午後3時。ラームさんと話し合う。

午後4時。ベトナム事務所でバオミンさん、税田さんと
話し合い。

午後6時。暖炉基金で奨学金をもらっている障害児と
家族を日本料理店に招待し、会食。
暖炉基金は帯広のYさんが5人の障害児で学校へ行きたい
子どもたちに奨学金を上げている。
今日は5人のうち4人の障害児と家族が日本料理店へ来た。

初めに帯広のYさんに代わり私が挨拶。
これからも生活や障害に屈せず、生きていって欲しい。
帯広のYさんも大学卒業まで奨学金を贈呈すると言っている。
家族の皆さんと帯広のYさん、JASSと協力して子どもたちの
ために頑張って生きていこう・・・。


障害児の母親が家族を代表して挨拶。自分たちも頑張りたい、
帯広のYさんに宜しく・・・・。

子どもたちを代表してAさん(20歳)が挨拶。
Aさんは今年見事にフエ医療短大に合格。3年間の
勉強の後、看護師になるという。
Aさんは生まれた時から片足が麻痺している。

『私は帯広のYさんの奨学金で9月からフエ医療短大で
勉強している。足が悪いので病気の人を助けたい。
看護師になって社会に役立つ仕事をしたい。
日本のYさんにくれぐれも宜しく伝えて欲しい』

●ビール、ジュースなどで乾杯


D君は13歳・6年生。生まれつき両手の指が使えない。
ものを持つことが出来ないが、両手の手のひらを上手に
使い、字を書いたり食事をする。

帯広のYさんから万年筆がD君に贈呈。その場で
手のひらをつかって上手に名前を書く。




Q君は口蓋・口唇裂。同時に心臓病も持っている。
口蓋・口唇裂の手術をするためには、初めに心臓病の
手術を成功させ、その後に口蓋・口唇裂の手術が出来る。
口蓋・口唇裂の手術は国が無料でしてくれるとのことだが、
心臓病の手術は自己負担。10万円ほどの費用が
必要。Q君の家庭状況では手術代が出せない。
今回、帯広のYさんが心臓病の手術代10万円を
寄付してくれることになった。心臓の手術は来週にも
行われる予定。Q君は18歳。年頃なので口蓋・口唇裂
が気になり、いつも口に手を当て回りの目を気にしている。
心臓の手術、そして口蓋・口唇裂の手術が成功することを
祈りたい。帯広のYさんの気持ちと行動に感謝。

午後8時、暖炉基金会食終了。

その後、日本料理店の日本人のお客さんに呼ばれ
一緒に飲む。私のフエでの活動に興味を持ってくれている。
会報を渡し、この13年間の活動を紹介する。
午後9時半終了。

投稿者 koyama : 10:32 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月18日

ACCL渡辺さんと各所参観

晴れ時々曇り。寒暖の差激しい。

午前9時。渡辺和代さん、バオミンさんと在宅支援のHIEU君
の自宅を訪問。ヒエウ君は9年前にテレビ東京の
「ドキュメンタリー人間劇場」を見た帯広のYさんが支援を申し出て
くれ、在宅支援の里子となる。
事情がありお母さんと二人の生活。ヒエウ君は生まれて直ぐに
発熱し右手足が麻痺。家庭も貧しく、フエ市の美術館の裏の
倉庫に住んでいた。学校にも行けなかったが、帯広のYさんの
支援で数年遅れで通学。学校で勉強したら毎年「成績最優秀」。
昨年、中学を卒業する数ヶ月前に急に発熱。精神的なダメージを
受け、フエ中央病院に通院。当初は自分の名前も言えなくなる
事態に至った。お母さんも心配し、通院、幼稚園の給食の仕事
と苦労した。帯広のYさんと私たちは通院費用と生活費を支援した。
それから1年。学校へは行けないが、精神的なダメージもほぼ
普通に戻りつつある。
今日は、帯広のYさんから預かった万年筆をヒエウ君に渡す。
Yさんは、ボールペンよる万年筆の方が力がなくても字が
書きやすいのではないかと、ご自分で使っていた万年筆を
ヒエウ君に贈る。
ヒエウ君はしっかりと万年筆で自分の名前を書く。


しばらくヒエウ君と歓談。

その後、縫製研修工場建築現場へ。
縫製研修工場は基礎工事の真っ最中。


縫製研修工場建築現場を視察し、「子どもの家」へ。
渡辺和代さんはJASS日本事務所の里親担当を10年以上
引き受けてくれている。
「子どもの家」でセン委員長と懇談。「子どもの家」の
子どもたちの様子などを聞き、「子どもの家」を視察。
子どもたちと交流。
図書室では京都から来ている水本さんと子どもたちの
読書傾向などについて懇談。

午前11時、ドンバ市場近くの本屋で画用紙などを買う。

午前11時半。フエ高等師範大学学長宅へ。
今年ACCLがフエ中央病院小児科医長のHUONG先生を
日本へ招待した際、フエ高等師範大学学長の娘さんが
東大に留学していて通訳をお願いした。その縁で、
今日学長から昼食の招待を受けた。
学長、奥さん、三女(中3)と一緒に昼食をご馳走になりながら
懇談。午後1時半終了。

午後6時半。日本料理店で渡辺さんと夕食会。
渡辺和代さんは明日日本へ帰国する。今日は最後の晩餐会。
午後9時過ぎまで日本料理店で会食交流。


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2006年09月17日

クアンチ省小児白血病患者訪問 

快晴。

午前8時。ACCLの渡辺和代さん、バオミンさん、フエ中央病院
小児科医師(白血病担当)リン先生とクアンチ省ドンハ近くの
小児白血病患者の自宅を訪問。
渡辺和代さんが理事長を勤めるACCLはアジアの小児ガンを
支援するNPO法人である。ACCLは当面、ベトナム中部の
小児白血病の子どもたちの支援を行うこと決めている。
具体的には、白血病の治癒率(現在20%)を50%まで高め
子どもたちの生活向上をめざすというもの。
今回は実際に生活している白血病の子どもたちの家庭と家庭での
生活実態を知るために家庭訪問を行った。

クアンチ省まで車で2時間。今回訪問する小児白血病の
子どもたちは、昨年渡辺さん、リン先生と訪問した家庭である。
子どもたちはフエ中央病院小児科白血病棟に入院。現在は
退院。月に1回程度フエ中央病院に通院し白血病の治療を
行っている。リン先生の担当している子どもたちである。

昨年、渡辺さん、リン先生と訪問した二人の子どもたちであるが、
残念ながら5歳の女子は3ヶ月前に力尽きて亡くなってしまった。
哀悼。今回は、お宅を弔問。ご両親に哀悼の気持ちを伝えた。
ご両親は亡くなった5歳の女の子だけの家庭。
リン先生に「子どもが欲しいが白血病が遺伝するかも知れないので
妊娠が怖い」と相談。リン先生が白血病は遺伝しないと話す。
私も1966年、16歳の弟が白血病になり6ヶ月で死亡したことを
話し、私も含め、兄弟に遺伝していないことを伝える。

続いて昨年訪問した小学校4年生の男子の家庭を訪問。
父親は建設業、母親は小学校の先生。
両親や子どもも自分たちのことを気にしてくれているリン先生
や関係者がいるということを心から喜んでくれていた。
小4の男子は成績「最優秀賞」を受賞している。
両親に子どもの状態、生活の問題、通院、治療の現状・問題
などを聞く。

更に車で30分。7歳の男子の家庭を訪問。
お母さんは父親不明で男の子を出産。その後、再婚し家を出る。
現在、64歳の祖母が男子の面倒を見ている。
フエ中央病院に入院治療後、自宅療養中。学校へは行って
いない。祖母は生活の大変さ、病気の孫の未来・治療などに
ついての悩みを話す。
男子は月の1回バスでフエ中央病院に通院している。

午後12時45分。ドンハ市内の大衆食堂で昼食。

午後3時過ぎ、フエ市に戻る。

午後5時、フエ中央病院小児科医長HUONG先生招待の
夕食会。フオン河畔の静かなレストラン。
小児科医医師、渡辺さん、税田さん、ミンさん、私。
2時間半ほどの歓談。

●レストランから見える夕日のフオン川

今日は1日車に乗っていた。かなり疲れる。

投稿者 koyama : 08:31 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月16日

ベトナム事務所員会議 日本料理店ハン・ニーさん22歳の誕生日

晴天。 休肝日

午前7時34分。トゥア・ティエン・フエ省観光学校開校式参加。
バオミンさんと。

トゥア・ティエン・フエ省観光学校はハノイ国民経済大学と提携し
週3日、4ヶ月のコースである。内容は観光ガイドの一般的な知識・
法律などを学ぶものである。

●トゥア・ティエン・フエ省観光学校開講式

●ハノイ国民経済大学の先生挨拶

開校式ではハノイ国民経済大学教授、トゥア・ティエン・フエ省
観光局長、私と紹介される。


2005年のフエ省への観光客(国内・国際)は100万人。
学生は50人。4ヶ月の観光専門学校を出た後、専門の言語(日本語、
英語・・・)の認定証書を得て、観光ガイドの国家ライセンスが出る。

午前9時。久しぶりのベトナム事務所員会議。
8月・9月と多くのスタディーツアーを受け入れ、ベトナム事務所員
会議を開く時間がなかなか取れなかった。
中村友香先生が座る席に誰もいないのが寂しく感じたが、
全員参加で開かれた。

●ベトナム事務所員全員会議

(ソン)日本語学校特別クラスの卒業試験があった。
    訪問者の案内などが多く、あまり日本語の勉強が出来
    なかった。
(税田)「JASSはこだて」の作品展の対応。全教千葉松原先生
     の刺繍注文などの準備。
(フーン)月曜日、特別クラス卒業テスト、結果5人上級、
      3人中級の認定。
(石岡)火曜日に一時帰国から帰った。9月21日中級4の
     総合テスト。会話は石塚先生に手伝ってもらう)
(石塚)月曜日、特別クラステストの手伝い
     金曜より少しずつ日本語学校の授業を始める。
(ハン)大極さんと一緒に各所でタッチセラフィーを行う。
(ラーム)今週は仕事がなく休みだった。
(サン)大極さんとフールー小学校へ行った。
(ミン)大極さん、渡辺さん、観光局長打ち合わせ。
    日本語学校は9月25日再卒業試験、10月15日
    第2期観光専門コース開講式(40人定員)
    JASS記念誌作りの準備をしている。皆さんの
    協力を。
     セン委員長より。高校・大学合格の子どもが5人いる。
    自転車がないので買って欲しいとの依頼あり。
    合格祝いも兼ねて購入することに¥とする。
(小山)・縫製研修工場起工式を行い、11日から工事が始まった。
    ・フエ省観光局との交渉。日本語ガイドコース第2期は
    「観光専門コース」とした。今まで日本語は特殊な言語と
   いう扱いであったが、既にホーチミン市やハノイ市などでは
   英語やフランス語と一緒に普通の外国語となった。
   ベトナムでは外国語観光ガイドは基本的には大学卒業の
   資格が必要である。今まで日本語は特殊な言語だったので  
   日本語が出来れば高卒でも国家ライセンスを出していた。
   今後は、高卒では日本語国家ライセンスが出ない可能性が
   ある。従って「日本語ガイドコース」とsてしまうと高卒の入学
   が出来なくなるので、観光専門コースとし日本語ガイド、
   その他観光に関する総合学習をsることとした。
    高卒に日本語ガイドライセンスを出すかどうかは
   ハノイの観光省の決定次第であるが、方向としては
   大卒に出すようになるだろう・・。
   ・渡辺和代さんが来ている。フエ中央病院小児科と提携し
    ベトナム中部の小児ガン支援のプロジェクトを行う。
    明日、クアンチ省の白血病の子どもたちの家庭を視察する。
  ・スタディーツアーが多数合った。8月9月で300人弱。
   皆さんの協力に心から感謝したい。皆さん、1日も休み
   なく仕事をことと思う。体調に気をつけてほしい。
   したこと



午前10時、「子どもの家」在宅支援のVU君が来た。
2007年4月から訪日し日本語学校で勉強。その後、
コンピュータ専門学校で勉強。最終的にIT専門会社「ブライセン」
で研修を行う。今回の訪日の招待はブライセンの藤木社長である。
VU君の訪日に関する心構え、書類の準備などの打ち合わせを行う。
VU君は今年の8月、フエ科学大学コンピュータ学科を卒業した。

●VU君の訪日打ち合わせ

午前11時。渡辺和代さんがベトナム事務所を訪問。
小児ガン支援プロジェクトなどについて意見交換。

体調がまだ完全ではない。昼以降、ベッドでしばらく休む。

午後3時からこの2週間ほど整理していなかったパソコン
のメールなどの整理を行う。

午後5時半。日本料理店スタッフと夕食。
今日は日本料理店のハン・ニーさんの誕生日。
大塚さんの配慮で調理のハン・ニーさんの誕生会を行う。
ハン・ニーさんは1993年10月に私が作ったチーランン通り
「子どもの家」に入所。その後、縁があって日本料理店で
調理をすることとなった。ハン・ニーさんは22回目の誕生会
が生まれて初めての誕生会だそうだ。

●「22」 と書かれたケーキ


投稿者 koyama : 16:33 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月15日

中村友香先生帰国 

晴天。暑さ復活。

午前7時。中村先生最後の朝食。食べなれたフォー。

午前7時半。約2年間日本語学校で教師を勤めてくれた
中村友香先生が離任し帰国。トンチンカンホテル前でお別れ。


ベトナム事務所全員でフエ空港まで見送る。

フエ空港には日本語学校の教え子多数が見送りに来ていた。

フエ空港でベトナム事務所一人一人にお礼とお別れの
挨拶。


日本語学校の教え子、ベトナム事務所員全員の見送りを
受けてホーチミン空港へ旅立った。
多くの人々の見送りは、中村友香先生の2年間の実績と
人間性を物語るものである。感情と人間味豊かな性格、
知性と教養の香りが漂う中村友香という人間が
フエに2年間滞在したことの痕跡はしっかりと人々の
心の中に残ったものと思う。2年間のボランティア日本語教師
の仕事に改めて感謝したい。日本での新たな出発の成功を
祈る。

午前9時から11時までベトナム事務所で打ち合わせ。

午前11時半。大学の同級生である大極安子さんと
日本料理店で昼食。

午後3時。札幌や東京からの訪問者と話し合う。
午後5時まで2時間。刺繍をたくさん買って頂く。


この数日、体調を崩した。発熱、倦怠、食欲不振・・・。
昨日、夕方から寝る。久しぶりに長時間の睡眠をとる。
今日はかなり楽になる。まだ本調子ではない。

夜、中部小児学会に出席していた渡辺和代さんから電話。
小児学会のこと、今後のプロジェクトのことなどを
話す。明日、ベトナム事務所でお会いすることにした。

投稿者 koyama : 21:40 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月14日

ベトナム中部小児科学会

曇り、時々晴れ。
熱帯低気圧の影響はなくなったようだ。

朝から倦怠感。食欲不振。

午前7時半、モーリンホテルにて
「ベトナム中部小児科学会」はあった。中部17省から
270人の医師、医療行政責任者などが参加。


ハノイからは厚生次官、ハノイ医科大学関係者・・・・・などが参加。
国際機関からはユニセフ、シンガポール、ラオス・・・・・。
日本からは国立ガンセンター中央病院の牧本先生、
AUULの渡辺さんが参加。


1時間ほど、開会式に参加したが体調が悪く退席。

投稿者 koyama : 20:24 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月13日

中村友香先生「離任・送別会」 渡辺和代さん一行フエ中央病院小児科へ

曇り。寒い。

一昨日からの体調不良が頂点へ。頭痛、喉痛、倦怠。
ほとんどダウン寸前。

昨夜、一時帰国から戻ってきた石岡先生が朝食。


午前8時45分。ACCLの渡辺和代さん、国立ガンセンター
中央病院小児科医長牧本先生、バオミンさんと一緒に
フエ中央病院小児科へ。HUONG小児科医長、小児科医師と
懇談。明日から開かれるベトナム中部小児科学会(3年に一度)
についての打ち合わせを行う。

懇談後、フエ中央病院小児科の小児ガン病棟を視察。

2時間ほどの視察を終え、医長室で懇談。


午後12時。トンチンカンホテルに戻る。そのまま横になり休む。

午後2時半。バオミンさんが迎えに来てくれる。縫製研修工場建築
現場視察。既に工機が入り、地下数メートルまで掘られていた。

縫製研修工場工事開始。私にとっては感慨深いものがある。
様々な問題が起こり、一つ一つ忍耐強く解決してきた。
その影には宇都宮縫製工業組合佐藤裕信理事長を初め
多くの人たちの目に見えない支援・応援があった。
改めて感謝申し上げたい。これから完成するまで紆余曲折が
予想される。また完成後は更に問題が山積している。
縫製研修工場は高い山を上るが如く、一歩一歩問題を
解決しながら進んで行かなければならない。


その足で「子どもの家」へ。タッチセラフィー大極安子さんが
「子どもの家」スタッフを治療中。警備員さんの「50肩」か?

午後5時半。中村友香先生の離任送別会。
中村友香先生が2004年11月に赴任。約2年間日本語学校教師
として活動。同時に日本料理店の立ち上げも手伝ってくれた。
子どもたちに料理を教え、メニューを考えてくれたりと日本料理店
立ち上げになくてはならない存在だった。
今、ベトナム事務所を離れるのはとても残念なことではあるが、
中村友香先生の将来を考えるといつまでもベトナム事務所に
「拘束」しておく事も出来ない。

参加者
・フエ市人民委員会(外務部長、外務部員)
・ベトナム事務所員
・日本料理店大人スタッフ
・大極さん
・水本さん

●小山の送別の言葉



●セン「子どもの家」委員長と中村先生


●司会の税田真理子さん

●中村友香先生送別会全景


●サン日本語教師の送別の言葉

●ハンベトナム事務所員送別の言葉

●ソン・ベトナム事務所員の送別の言葉

●大塚さんの激励の言葉

●ニエンフエ市人民委員会外務部長より記念品贈呈

午後9時。参加者全員写真を撮りお開き。



やるべき仕事が山積。明日からの体調が心配だが何とか
この難局を乗り越えなければならない。

投稿者 koyama : 22:58 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月12日

マブベ笑顔の会大極さん小児針治療 

寒い。朝、夕方雨。

午前8時半。大極さん、ミンさんと一緒に障害児医療センターへ。
障害児医療センターは国際ソロプチミスト東京ー東が
1998年に設立。

BUI障害児医療センター所長(兼フエ市立病院院長)

フエ市立病院東洋医学科・小児科で小児針治療。

午後12時過ぎ、宿舎へ戻る。

今日は朝から体調が悪い。頭痛と倦怠。直ぐに寝る。

午後2時半。トゥア・ティエン・フエ省観光局長・次長と懇談。
小山・バオミン・フーン日本語学校主任。

日本語学校の日本語ガイドコース第2期生募集の件。
・定員 40人
・2年間コース。1週間5日間授業。1日4時間。
・コース名 「観光専門コース」
・9月18日から入学募集。10月10日募集締め切り
・10月15日開講式

午後4時半まで2時間半日本語学校の様々な問題
について話し合う。

午後4時半。ベトナム事務所でバオミンさん・税田さん、
ハンさんと4人である問題についての意見交換。
慎重に対処することを話し合う。

午後5時半。「子どもの家」へ。リーさんの誕生会。
りーさんは1年前にテレビ東京の取材で入所した。
番組作成ディレクターのMさんが里親になってくれる。



誕生会を喜ぶリーさん

誕生ケーキの点灯



「子どもの家」の子どもたちもリーさんの誕生を祝福

夕食時、リーさんと一緒に食事を摂る。

昨年、入所した頃のリーさんにはあまり笑い顔はなかった。
今日の誕生会では終始笑顔だった。1年間と言う時間が
リーさんを成長させた。

昨日、サウ君(10歳)の誕生日だった。
里親の元日本語教師のA・Mさんから誕生プレゼントが
届いた。サウ君に手渡す。

里親のA・Mさんの手紙を翻訳して渡す。


今日は朝から体がだるい。頭痛もひどい。
観光局長との懇談中、喉が痛く咳がでる。風邪の症状。
何とか、風邪にならないようにしたい。

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2006年09月11日

法政大学スタディーツアー マブベの会大極さん

雨。曇り。気温24度。

寒い。フエ人は冬服を着用。
急激な気温の変化で風邪を引く人が多い。

午前8時。ベトナム事務所で武蔵大学経済学部学生に
ベトナムのドイモイ、社会主義市場経済、ODAの実態などを
話す。2時間半。


午前10時半、武蔵大。京都産業大の学生を連れて
「子どもの家」へ。

「子どもの家」では法政大学スタディーツアー(7人)の皆さんが
市場へ買い物に行き、子どもたちと昼食を作っていた。


午前11時。「子どもの家」で法政大学スタディーツアーの皆さん
と一緒に昼食。

「マブベの会」大極安子さんも「子どもの家」でタッチセラフィー
を子どもたちに施術していた。里子のチュック君と一緒に昼食を摂る。

子どもたちは冬服に着替えていた。やはりかなり寒い。


法政大学スタディーツアーの皆さんと記念撮影

法政大学の皆さんとホテルへ。私は日本料理店へ。
日本料理店には15人程の学生さんが来ていた。
法政大学文学部の先生と学生さん。昼食を摂っていたので
挨拶をする。フエのエイズ問題、性問題、枯葉剤障害児支援で
来ているとのこと。午後1時半まで1時間は程、先生と話す。

午後4時。法政大学野々垣先生たちのスタディーツアーが
日本料理店で早い夕食。午後6時過ぎにはフエ市内を発ち
フエ空港へ。

短い時間だったが、法政大学の学生さんと行動をともにした。
なかなか賢い若者である。人と違う「自分」というものを持ちつつ
あるように思えた。自分の生きる確かな道を見つけて欲しい
ものである。また、これらの若者が平和な社会・世界で暮らせる
ことを祈る。

午後6時過ぎ、法政大スタディーツアーの皆さんはフエ空港へ。

午後6時半。マブベ笑顔の会の大極さんが日本料理店へ。
一緒に食事をしながら日本の情勢、一緒に東京学芸大で
学んだ当時の仲間の消息などを話し合う。

午後9時。日本人も交えて交流会。午後11時過ぎまで。

投稿者 koyama : 10:04 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月10日

縫製研修工場起工式

気温24度。急に寒くなる。早朝雨。夕方雨。
ベトナム中部に熱帯低気圧が来ているとのこと。
いよいよフエの「雨期」が近づいて来たのか?

朝から頭痛・倦怠感。気温が急に10度近く下がる。
急激な気温変化に体が対応できない。終日頭痛が続く。

今日は午前8時から縫製研修工場の起工式がある。
縫製研修工場はオートバイ修理研修センターの空いている
土地に建築する。2階建て、総建築面積は700㎡弱。
数年前から様々な検討を行い、ハノイの日本大使館と交渉。
昨年、大量の申請書を作成し大使館に「ODA支援」を要請。
今年2月14日、ハノイの日本大使館で服部日本大使と調印式を
行い、縫製研修工場建築が決定された。
ODAの基本的な性格から支援金(約1000万円弱)は、
ベトナム現地の行政などに支援するものである。
縫製研修工場支援ODAは、フエの公的機関である
「フエ市越日交流委員会」に支給された。
フエ市越日交流委員会の委員長はニエンフエ市人民委員会
外務部長。副委員長は私。制度上から言えば私は
ベトナムフエ市の公的機関の副責任者である。

一昨日、縫製研修工場建築許可が出た。急いで
フエ市人民委員会外務部と協議。起工式を早急に
行う事とした。建築会社の『占い』だと今日の午前中が
「良い日」とのこと。昨日1日で起工式の諸準備を全て
行う。会場準備、横断幕、招待者決定、招待状送付・・・。

午前7時10分。バオミン・ベトナム事務所長のオートバイで
縫製研修工場建築予定地へ。
既に建築会社、オートバイ修理研修センター所員などが
参集。

●起工式横断幕

「日本のODA支援 フエ市越日交流委員会
 縫製研修工場起工式」


午前8時20分。起工式が始まった。

参加者はフエ市副市長、外務部長、外務部員
JASS事務所員、法政大学先生と学生、
「子どもの家」関係者、建築会社関係者、マスコミ。

●副市長(右)、外務部長(左)



バオミン・ベトナム事務所長とイックホアン越日交流委員会
委員(フエ市外務部員)の司会で始まる。
二人とも私が1993年9月、フエ師範大学日本語クラスで
日本語を教えた第1期生。13年前に教えた学生がこうした
形で私の活動を支えてくれていることに感謝する。
13年前は20歳の若者だった。今はお父さんになっている。

●フエ市人民委員会を代表してタン副市長の挨拶。

 


●「フエ市越日交流委員会」を代表して私が経過報告と
 縫製研修工場建築の意味などを話す。
 縫製研修工場は、「子どもの家」の子どもたちの自立の
 ための受け皿となり、同時に地域の生活困難な子女の
 自立を促進するための職業訓練センター兼、仕事の
 場でもある。

ちょうど法政大学の野々垣先生と学生さんのスタディーツアー(7人)
がフエに来ていたの参加して頂いた。

●鍬入れ式を行う。

副市長・外務部長、税田さん、野々垣先生、フリースクールの
先生、小山の6人。3回、スコップで砂を掘る。

起工式には地元「フエテレビ」とハノイの「ベトナムテレビ」が
取材に来ていた。


午前9時。起工式終了。

法政大参加者と記念写真


参加者が帰った後、工事予定で「地鎮祭」が行われた。
土地の神様に「迷惑」をかけますが、怒らないくださいと
お願いするという主旨だそうだ。建築会社が独自に行った。


税田さん・中村さん・石塚さんとトンチンカンホテルに戻る。
ブランチを買いに行く。テイクアウト。ご飯の上に野菜炒め、
豚肉の煮物、玉子焼きなどを選んで乗せる。100円。

朝食兼昼食を済ませる。何としても体がだるい。
しばらく横になる。

午後2時半。地球の歩き方ツアーⅣ帰国のためホテルを
出発。ホテルまで見送りに行く。ソン君、リー君がお客さんの
荷物などの整理をしている。

午後3時ホテル出発予定だったがバスと荷物を運ぶトラックが
来ない。しばらくしてやっとバスとトラックが来る。
地球の歩き方ツアーの皆さんにお別れを言う。

その足で「子どもの家」へ。法政大学の先生と学生が
子どもたちと遊んでいた。バオミンさんの案内。

午後5時まで「子どもの家」に。
トンチンカンホテルに戻る途中雨が降り出す。
深夜まで雨。

夕食の代わりにフダビール3本。日本酒若干。
酒の肴がない。この2ヶ月、あまりに忙しくおつまみを
買いに行く時間がなかった。冷蔵庫の味噌と鰹節で「ネギ味噌」
を作り、酒の肴にする。美味。
小樽「ふなくち酒 搾(しぼりたて)」を飲む。軽く酸味があり
美味しい。韓国のマッコリに似た味。

夜のNHKニュースを見る。
「両陛下、お子様と初の対面」とテロップが出た。
へーなんだろう? 皇太子、秋篠宮と初めて会う訳もないし?
と思った。良く内容を聞いてみると「孫」と会ったということ。
何故、孫と会ったとならないのだろうか?
朝日、読売などのインターネットを見たが全て「お子様」と
なっていた。私たちからすれば、天皇のこどもは皇太子か
秋篠宮だと思うのだが・・・・。
今回の出産では、マスコミは「胎児様」という言葉を使った
そうだ。こうなると「お祝い」を通り越して滑稽になってくる。
子どもが生まれると言う事は、お目出たいこと。しかし、
物事には限度がある。胎児様はないでしょう。

自民党加藤紘一元幹事長のHPからの引用。
http://www.katokoichi.org/
右翼が加藤氏の発言「小泉首相の靖国神社参拝は
アジア外交に問題を残す」(?)に反発し、
加藤氏の自宅に放火し、割腹自殺を図るが命を
取り留めるとういう事件があった。
私は思想的には加藤氏と異なる所があるのかも
知れない。しかし、以下の加藤氏の発言には
賛意を表明したい。
加藤氏は自民党のサラブレッドだった。
「加藤の乱」から路線が「ずれて」来たのだろうか?
現状についての認識は共有できるものがある。
意見が違う所があっても加藤氏と共同して日本の
民主主義を守る運動をしたいものである。
自民党総裁候補の3氏と比べると遥かに品格と
教養がある。自民党総裁候補3氏の人間的な
薄さは隠しようもない。3氏とも「格差社会」を作った
張本人。その自己批判が一切ない。
格差社会を作り出した『戦犯』が格差社会をなくすなどいう
言葉を発する。笑止千万。
加藤氏は現在の日本社会の深部をしっかり見ている。
偏見を捨てて、現実をみる科学者のような視点がある。
加藤紘一氏の言葉には十分耳を傾ける価値があると
私には思える。個人的には人間的には魅力すら
感じるのである。意見は違っても人間として通じるものを
感じた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下、加藤氏のHPより
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

事件から1週間が経って

自宅全焼という事件が起きてから、1週間が経ちました。
犯人に対する怒りはもちろん強いのですが、少し客観的に今回の事件を見る余裕も生まれてきたように思います。
犯人は65歳、自分と似たような年齢でした。また、どうも母が散歩に出かけたのを見届けてから、ガソリンを撒いて火をつけたのではないかという風に思える部分もあり、本人に対する憎しみの感情に向き合うというよりは、どうしてこんなことをする人が生まれてきたのか、何が彼を追い込んだのか、ということを考え始めています。
たぶん、彼もいろんな意味での閉塞感があったでしょう。割腹自殺を図った直前、実家の近所にある食堂で最高の品――1300円の天丼――を1時間かけて食べています。そのあとにはポケットに500円しかありませんでした。そして、車の助手席には、雑誌『SAPIO』が転がっていたといいます。

些細なことがきっかけで、異常な行動に出る人が増えている社会になっていやしまいか。そんな思いがよぎりました。家庭の絆が薄れ、会話が減っている。地域社会の人間のふれあいも希薄になった。派遣社員が増えるにつれて会社への帰属意識が薄れ、退社後に上司と若者がビールをいっしょに呑むことも少なくなってきた。決して現実と乖離したイメージではないと思います。
自由になったといえば、自由になったのだけれど、糸の切れた小さな風船がいっぱい漂っているような、物理学的にいえば自由になった電子があちらこちらを走り回っているような……自由になった浮遊物の集合体としての社会では、ちょっとした力とか磁場が働いたり、そよぐ程度の風が吹いたくらいでも、グラッと動いてしまうのではないでしょうか。そんななかで、若者がオウム真理教に引っ張られてしまったり、“セカチュー”(『世界の中心で、愛をさけぶ』)が売れているとなるとまたたく間に320万部のヒットとなる現象が起こる。韓流ブームというと、おばさまたちは一斉に「ヨン様」になるし、小泉劇場に酔うし、政治家が隣国に対して強い言葉を言えば、一斉にそれに流れる。少し心配な世の中になってきたと感じています。

今、我々が立っている社会の土台が、もしかしたら0.8度くらい、ちょっと下り坂へと傾き始めているのかもしれません。ほんの少しですから、誰も気づきませんが。戦前、日本社会は少し下り坂に向かっていました。それを誰も気づかないまま、精一杯対応しているうちに、だんだん加速していってしまった。スピードが出てしまえば、誰もそれを止められません。ひとつ方向にわーっと皆が動くから、それと逆のことを言う人間が自由にものを言えなくなる。自由な意見、活発な発信ができなくなった社会のなかで、過去の日本は大きな間違いを犯していったのです。

今の状態が、戦前と酷似しているというつもりはありません。しかし怖い、というよりは不健康な現象だと思います。自由を手に入れ、価値観が多様化し、選択肢も増え、競争社会になった、そんな“個人の時代”のなかで、拠るべきものがないからこそ、微風にでも流されてしまう。そんな風景が見えた気がしました。

だからこそ、人間が集う場をもっといっぱい作らなければいけません。家庭の中の会話も多くする。小中学校での会話も多くする。若干「うざい」と思っても、近所づきあいも少しは復活させる。面倒くさくても、職場のおじさんと若い者はビールを飲みに行くべきです。一回断られても、上司は声をかけ続けましょう。そういう小さな努力から始めることでも、人間が集う場を回復することは可能だと思います。

みなさまからは、本当に多くの激励をいただきました。これを励みに、そしてこの事件が教えてくれた日本の現状をしっかりと見据えて、これからも一生懸命に考え、未来のヴィジョンを描いていきたいと思います。
ぜひ、みなさんのご意見もお聞かせください。


平成18年8月23日
加藤紘一

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2006年09月09日

地球の歩き方ツアーⅣナムドン山岳地帯へ

36度。蒸し暑い。

午前9時半。地球の歩き方ツアーⅣ(33人)の皆さんと一緒に
ナムドン山岳地帯へ。バオミン・ベトナム事務所長、リー日本料理店
警備員。

リー君は「ナムドンツアー専門家」と自称する程、ナムドン山岳
地帯スタディーツアーに同行している。時間があるとギャンブル
などをすることが多かったので、できるだけ仕事をし、人と交流し
人のために尽くす経験をして欲しいとの願いからである。
これで7回か8回はナムドンへ行っている。ナムドンスタディーツアー
は往復最低7時間はかかる。暑さと発汗のため相当体力は消耗
する。リー君は仕事が好きだ。また、良く気がつく。

午前11時半。ナムドン『銀座』着。昼食。リー君は直ぐに
参加者の皆さんに冷たい水を配る。気が利く。

昼食後、約50分ほどの自由時間。参加者の皆さんは
近くの市場などへ買い物。私は食堂のソファーの
縁に横になっているうちに熟睡。リー君に起こされて
初めて出発を知る。体と頭が動かない。

ナムドン郡「THUONG LO 村」に到着。


村長さんの挨拶

●衣類・食料品などスタディーツアー参加者から支援物資贈呈

●村人の歓迎の踊り


●地球の歩き方ツアーのお礼の歌

●村人と庭で交流




交流終了後、村人と山の中にある滝へ。
滝で交流するが途中で豪雨。急いで村の集会場へ帰る。


しばらく村の集会場で雨宿り。
午後4時。村人に別れを告げる。

●記念写真


午後5時半フエ市内到着。

午後6時半。地球の歩き方ツアーⅣ最後の晩餐。日本料理店。
バオミン・ベトナム事務所長、私が参加。
今日は35人という大人数。日本料理店は貸切。

●今日のメニュー

●飲み物

●今日の日本酒

●ナムドン山岳スタディーツアーにも同行したリー君は
 夜の地球の歩き方ツアー晩餐会の手伝いもした。
 真面目に仕事をしていた。

午後9時45分。地球の歩き方ツアー晩餐会終了。

●3週間日本料理店をボランティアで手伝ってくれた
 仙波さんが今日で仕事を終えた。
 3週間の手伝い、本当に感謝したい。8月から9月は
 多くのスタディーツアーがあり、日本料理店で食事を
 することも多かった。仙波さんのお陰で日本料理店の
 接客が滞りなく進める事が出来た。


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2006年09月08日

静岡市国際交流協会スタディーツアー

快晴。37度。

今日は4つのスタディーツアーが来ている。
①地球の歩き方ツアーⅣ(33人)
②全国大学生協連合会スタディーツアー(21人)
③法政大学スタディーツアー(7人)
④静岡市国際交流協会スタディーツアー(11人)

合計71人の皆さんの案内をしている。
ベトナム事務所員は全員が各担当を決めて
連日案内・通訳などを行い、スタディーツアー参加者の
皆さんが少しでも「子どもの家」やボランティアなどを
理解してもらえればと思っている。

午前7時朝食。フォー。体調を崩していた日本語教師のI先生が
何とか復調。新任で来て直ぐに体調を崩してしまい
大変だったと思う。ハンさん・税田さん・中村さんなど
女性のベトナム事務所スタッフが協力して通院や
おかゆ作りなどをしてくれた。感謝。

午前7時40分。電動バイクでバオミン・ホテルへ。
静岡市国際交流協会スタディーツアーの皆さんを
迎えに。皆さん元気に昨夜ホテルに到着。朝を迎えた。
協会の宮本さん、山田と挨拶。
その足でフエ市人民委員会へ。今日は、CAO市長への表敬訪問。

午前8時、フエ市人民委員会応接室でCAOフエ市長と懇談。

初めに私の方から静岡市国際交流協会を紹介。

CAOフエ市長の歓迎の挨拶。

『フエ市と静岡市は昨年友好都市となった。私も静岡市に伺い
調印式を行った。その後、静岡市の小嶋市長様にフエ市へ
お越し頂きフエ市でも調印確認式を行った。
こうして両市は文化・教育・経済などの交流をすすめることを
約束した。小嶋市長様の人柄と決断に感謝している。
その後、民間レベルでの交流も進んでいる。今年は
静岡市ラジオ体操連盟の皆さんがフエに来られた。
私も懇談させて頂いた。また2006年フエフェスティバルには
静岡市邦楽ボランティアの皆さんがお越し頂き、日本の
伝統音楽(尺八・琴・詩吟・・)を披露して頂いた。
私も含めフエ市民も大変興味深く日本の伝統音楽を楽しんだ。
また機会があったら是非、フエ市に来て頂きたい。
小嶋善吉静岡市長様にもぐれぐれも宜しくお伝え頂きたい。』

続いて静岡市国際交流協会を代表して静岡大学生が挨拶。


懇談会にはフエ市から静岡市へ研修に行った職員・また今年新たに
研修に行く職員も参加。

CAOフエ市長より静岡市スタディーツアーにお土産。

静岡市側からフエ市へお土産。


懇談会後、市長と記念撮影。

宇都宮縫製工業組合佐藤裕信理事長より電話。
縫製研修工場建築にこぎ着けて良かったとの励ましの言葉。
有難いことである。昨日の火焔樹日記を読んでのこと。

午前9時フエ市長表敬訪問を終え、「子どもの家」へ。
「子どもの家」で1時間半ほど、ボランティア・「子どもの家」など
について私が話をする。

午前10時40分、講演会終了。
その後、バオミン・ベトナム事務所長が施設を案内する。
バオミン・ベトナム事務所長は過労から体調を崩す。
今日から職務に復帰。若いだけあった回復も早い。

「子どもの家」には、9月3日(日)に家庭訪問をし、9月4日に
入所してきた3人の子どもたちが生活を始めていた。

●A家庭 11歳 5年生のCHUONG君は部屋で熱心に
 勉強していた。

●妹のTANさん 8歳 3年生。
 小さいせいもあり「子どもの家」には未だ慣れてないようだ。
 かなり緊張している。それも当然のことではあるが・・・。
 二人が早く「子どもの家」に生活になれることを祈る。

●B家庭 15歳 フエ科学大学1年生に飛び級のNHANさん 
  「子どもの家」や大学の新生活にもかなり慣れてきたようだ。
 笑顔が出るようになった。


午後12時過ぎ。静岡市国際交流協会スタディーツアーの
皆さんはホテルへ戻る。昼食はフリー。午後12時半
自宅へ。

既に午前中で気温37度。暑い。朝食から5時間。
頭がぼーっとしてくる。体が動かない。
部屋にもどり水を飲みそのまま横になる。

午後1時40分。バオミン・ベトナム事務所長が
迎えに来てくれる。フエ市人民委員会外務部へ。
ニエン外務部長と懇談。

9月10日(日)午前8時から開催される縫製研修工場
起工式の式次第、参加者、諸準備などを打ち合わせする。
急いで起工式を行い、建築開始を出来るだけ早めることで
意見が一致。
起工式の参加者は30名程度。
フエ市人民委員会・JASS関係・地元行政・マスコミ。

午後6時半。法政大学スタディーツアーの皆さんを
迎えにバオミン・ホテルへ。徒歩10分。日本料理店へ。
日本料理店で学生さん、先生と懇談。

今日の日本料理店は20人近くの来客で満席。ありがたい
ことである。

午後10時半。来客が帰り閉店。

今週一杯で日本料理店ボランティアを辞める仙波さんの
送別会を行う。午後11時40分終了。

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2006年09月07日

地球の歩き方ツアー(Ⅳ) TBSテレビ取材 法政大学研修団 静岡市国際交流協会スタディーツアー

晴天。37度。本当に蒸し暑い。

午前7時50分。地球の歩き方ツアー(33人)の泊まっている
ホテルへ。
午前8時。33人の皆さんと引率のベトナム事務所員(ハン、ソン
中村、小川・ボランティア)と挨拶。
シクロの乗り方など諸注意を話す。

33台のシクロで「子どもの家」へ向う。私はソン君のオートバイの
後ろに乗る。

「子どもの家」到着後、「子どもの家」スタッフ、子どもたちと
一緒に近くのタイロック市場へ昼食の食材買出し。

子どもたちと一緒に昼食作り。生きた蟹をさばき、いんげん豆、
野菜を切る。小エビの皮むき・・・・・。



午前11時。いよいよ昼食開始。
ご飯、蟹と冬瓜のスープ、インゲンと豚肉炒め、魚の煮付け。



午後2時。縫製研修工場建築許可書が出た。早速、建築会社の
責任者・技師と打ち合わせ。
契約書にサイン。「越日交流委員会」副代表としてニエン委員長の
了解のもとにサインをする。(ニエン委員長はクアンチ省に出張中)

●トゥア・ティエン・フエ省建築局建築許可書

早速、建築会社と一緒に縫製研修工場建築予定地に行き
詳細打ち合わせ。

9月10日(日)午前8時から「起工式」。占いによると
この日が良いそうだ。
建築工事予定期間は5ヶ月半。2007年3月初旬に
完成予定。

2006年2月24日、ハノイの日本大使館でODA支援の
調印式を行ってから半年が過ぎている。この半年間、
気がきではなかった。大きくはベトナムの実情、狭くは
フエ社会の政治状況の反映である。
フエの各種勢力が水面下で暗躍していた。ODA支援金
で甘い汁を吸おうとする勢力は陰に陽に縫製研修工場
建築に圧力をかけてきた。今回の縫製研修工場建築は
日本大使館と「越日交流委員会」との間で契約が
結ばれた。私たちが直接建築会社に見積もりを出させ
「公開入札」を行い、業者を指定。
通常のODA支援は、フエ市人民委員会やその財政部、
トゥア・ティエン・フエ省人民委員会やその財政部などが
直接ODA支援金を取り扱う。建築業者も彼らが
気脈を通じる業者を指名する。そうした「経路」を
通過するうちにお金が徐々に各所に落ちる仕組みである。
今回、こうした地元人民委員会などを一切通さず、
「越日交流委員会」が直接全てのODA支援金を取り扱い
業者も公開入札という形にした。
こうしたやり方で「入るお金が入らなくなった」勢力が各所に
ある。これらの人々は、様々な妨害工作を行い、二度と
海外ODAが人民委員会以外の組織が直接支出できない
よう、その前例となるやり方を叩きつぶす事がその目的で
あった。
「越日交流委員会」は人民員会などと同様のベトナムの
公的機関。謂わばベトナムの福祉事務所のようなもの。
私はベトナム福祉事務所のようなものの副所長的な
存在である。数年前にフエ市とフエ省知事が「越日交流委員会」
を公認したことで、現在、ODA支援を直接取り扱う事が出来るよう
になった。
数ヶ月前のベトナム新聞で「フエに支援している日本のODA
12プロジェクトのうち7つは不正の可能性がある」と指摘されている。
この半年間、私が闘ってきた「甘い汁勢力」は現実に存在し、
彼らの存在を脅かす人たちには「権力」をつかって攻撃してくる。
私たちがこうした実態に無知であったり、闘わずに地元行政に
ただ任せるような姿勢でODAを扱うと、ベトナムの新聞でも
指摘しているようにODA支援金が「甘い汁勢力」の懐に
消えてしまう運命にある。しかし徒手空拳でこの絶大な
権力と闘うのは、口で言うのや易しいが行うのは本当に
大変なことである。この半年、「甘い汁勢力」との水面下での
死闘があった。具体的な攻撃、嫌がらせは記載できないが
陰湿である公然非公然であり、個人攻撃を伴う密告であり、
本人は深く身を隠しての攻撃と闘うのは生易しいものではない。


午後4時。「子どもの家」へ。地球の歩き方ツアーの
皆さんが子どもたちと絵画、音楽、日本語などでの
交流の様子を視察。


「子どもの家」にはフエ経済大学2年生のメンさんが妹や
子どもたちと交流するために来ていた。

午後5時半。トンチンカンホテルへ。
メールのチェック。たくさんのメールを受信。全てに目を通すのは
大変。

午後6時40分。ソン君が迎えに来る。フエ空港へ。
40分ほど遅れ、午後8時近くに法政大学の先生と学生7人が
到着。
今年、法政大学で授業を行った。その時の学生さんたちが
先生と一緒に実際の「子どもの家」やフエを視察したいとの
ことでベトナム研修となった。

午後9時前。バオミンホテルへ。遅れて静岡市国際交流協会
スタディーツアーがバオミンホテルへ到着。

法政大学ツアーの皆さんと近くの大衆食堂へ。
5人の学生さん、2人の先生、ソン君と遅い夕食を摂る。
交流をしながら午後11時まで。


帰宅午後11時半。

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2006年09月06日

地球の歩き方ツアー・全国大学生協スタディーツアー

快晴  休肝日

午前7時半。バオミン・ベトナム事務所長より電話。
体調を崩し、発熱。動けない。今日は休みたいとのこと。
この数週間のスタディーツアー等案内の疲労の結果。
しばらく休養するよう話す。

午前8時。ベトナム事務所へ。地球の歩き方ツアー(33人)
の皆さんがベトナム事務所へ。ベトナム事務所員紹介。

同時刻、拓殖大学の学生さん5人来訪。JICA支援、ボランティア、
国際支援などについて話を聞きたいとのこと。

午前9時半まで1時間半話す。

その足で「子どもの家」へ。
午前10時から午前11時半まで地球の歩き方ツアー(Ⅳ)の
皆さんに講演。「子どもの家」の生い立ち、ベトナム事情、
ボランティア、生甲斐・・・・・・。

午後12時。地球の歩き方ツアーの皆さんと昼食。


午後1時過ぎ、トンチンカンホテルに戻る。

午後2時。TBSテレビ取材。小樽のはな嬢と電話で話す。
幼稚園で色々な言葉を覚えてきたようだ。

午後3時。電動バイクで「子どもの家」へ。
全国大学生協スタディーツアーの皆さん(21人)に講演。
午後4時半まで。

今日は1日で3回の講演会を行う。合計4時間半。
最後は声が出なくなる。頭で何かを考える力がなくなる。

午後5時半。日本料理店で子どもたちと夕食。


午後6時半、TBSテレビ取材。

バオミンさん、日本語教師のIさんと風邪が流行している。
睡眠と休養、食事が肝要だが、なかなか思うように取れない。

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2006年09月05日

グエンフエ高校開講式  「京滋YOUの会」料理教室成功

快晴。37度。
蒸し暑い。

朝から頭痛。倦怠。

今日はベトナム全土で学校の開講式。
日本流に言えば入学式兼始業式。
ベトナム事務所にも3つの学校から招待状が届いた。
私とミンさんはグエンフエ高校、税田さんとハンさんは
フールー小学校と手分けをして出席。

●フールー小学校開講式に出席する税田さん、ハンさん


午前6時50分。

バオミンさんと一緒にトゥア・ティエン・フエ省のトップ
進学校グエンフエ高校の開講式に参加。案内状は
午前7時開会とあった。午前7時に到着。既に生徒全員が
真夏の太陽の照りつける校庭に座って待機している。
私を含めた来賓は7時5分に校庭の前に設えた来賓席に
着席。来賓席には『二日酔い』のアルコール臭が漂う。
昨夜飲みすぎか?



しかし開講式は始まらない。省のお偉いさんが来ないのだ。
20分、真夏の太陽の下、省共産党のお偉いさんが来るのを
待つ。生徒は午前6時半から校庭で待機状態。
既に50分間待っている。
校門に黒塗りの高級車が入ってくる。省のお偉いさんは
そのまま校長室へ。校長室でお連れの皆さんと一緒に
ゆっくりとお茶を飲む。
生徒と私たちは結局30分以上も校庭の直射日光の中で
待たされる。

やっとお偉いさんが校長先生、副校長先生の案内で
お出まし。色々聞くと、フエの共産党のお偉いさんは、
必ず30分程遅れて会場に来るそうだ。
偉いので忙しい、従って遅れるとの理屈だそうだ。
こんな理屈でお偉いさんを1時間以上待たされる生徒は
たまったものではない。しかし、誰も批判できない所に
この国の悩みがある。

午前7時45分開会。来賓紹介。
・省祖国戦線議長
・フエ市共産党委員長
・省教育局副局長
・省労働組合連合副議長
・省ベトナム赤十字代表
・省ホーチミン青年団副議長
・地区人民委員会委員長
・JASS 小山
・SACOM銀行代表
・父母会会長

・国家静聴(テープで流れる国家を聴く)

・トーチ入場 (グエンフエ高校に贈られた労働勲章を掲げ)

●ベトナム国家主席(元ホーチミン市共産党委員長)の手紙代読
 ・興味深いことは、教育の分野での「賄賂」を厳しく取り締まる
  と、国家主席が手紙で主張していることである。

●校長先生の開講宣言(2006年9月から2007年8月)
  ・昨年度の卒業率は99、8%。大学進学率は57%。
  ・今年の新入生は795人。全校生徒数は2065人。

●省祖国戦線議長挨拶
●先生、生徒のカラオケ
●新入生代表挨拶(入試の成績1番の男子生徒)

1時間15分後に終了。
暑かった。

開講式終了後、校長先生、副校長先生(政治指導)に
「子どもの家」のターオさんが入学しているので
宜しくお願い致します、と挨拶。

●校長・副校長・ターオさんと

グエンフエ高校の新入生は795人。異常に多い。
今年から高額授業料を取る特別クラスを
4つ作ったとのこと。グエンフエ高校は省立高校でトップクラスの
高校である。100万人のトゥア・ティエン・フエ省の中学生の
憧れの高校でもある。入試の最低点は50点満点で40.5。
ターオさんは46.5点。
しかし、高額授業料徴収クラスは、50点満点中21点で入れる
特別クラスである。

一般入試で入った生徒の月謝は毎月5万ドン(400円)。
特別高額授業料クラスの月謝は60万ドン(4600円)。
一般入試合格者の10倍の授業料を払えば、合格できる
というシステムを全国的に作っている。

ターオさんのように100点満点で平均点93点を取って合格した
生徒と100点満点で40点程度で合格した生徒と一緒に
授業をするのは到底無理なことである。

この入試システムは同時に生徒の中に大きな差別を生む。
お金のある家庭は、成績が悪くても「お金でグエンフエ高校」に
入れるのである。同時に本当に実力で入った生徒とお金で入った
生徒とは能力の差もあり、一緒に勉強するのは難しい。
結局、お金組は特別クラスで「適当な授業」をし、
一般入試で入った生徒は高度な学習をするということになる。
何のことは、お金入試組は、グエンフエ高校のお金儲けの
ための「お客さん」的な存在となるのは必死である。
これも「ドイモイ」の教育政策の行き着くところである。
教育がお金に支配されることになってしまう。
「社会主義市場経済」などと立派な言葉で粉飾しているが
結局はお金が全ての社会を露骨に作り出す社会システム
を作っているといえるのである。
お金組で入った生徒はある意味でかわいそうである。
ベトナムでは、共産党や行政の幹部、お金持ちの親は
子どもたちの意向を無視して、小さいうちから家庭教師、
塾、ピアノなどの習い事をさせ、無理やり子どもたちに
「教育」を押し付けている。『社会的な地位』に見合った
進路を子どもたちに与えたいとの「社会的な見栄」である。
子どもたちもたまったものではない。
ベトナムのドイモイはこうした形でベトナム社会に
深刻な「金権体質」「拝金主義」を作り出しているのである。

グエンフエ高校の帰り、日曜日に家庭訪問した入所希望者
が「子どもの家」に来ているとの連絡が入り「子どもの家」に
行く。

高校1年生でフエ科学大に入学したNHANさんと父親が来ていた。


「子どもの家」の女子の部屋に入所。
持ってきた教科書などをロッカーに入れていた。左端。

CHUONG君(11歳)とTANちゃん(8歳)の兄妹と父親

3人の子どもたちが早く「子どもの家」に慣れて欲しいと
祈る。
 
その後ベトナム事務所で「子どもの家」の子どもの進路問題に
ついてバオミン・ベトナム事務所長と協議。
結局、朝食は摂れずに昼となってしまった。

午後3時。「子どもの家」の子ども、と言っても23歳になるのだが・・、
の進路について協議。フエ高等師範大学に入学することになった。
将来、小学校の音楽の先生になるコースである。

午後5時半。日本料理店スタッフと一緒に夕食。

午後9時。2週間フエに滞在し、1週間日本料理店のボランティア
をしてくれた平田さんのお別れ会をする。

「京滋YOUの会」主催ベトナム料理教室報告

9月3日に京都府国際センターと京滋YOUの会主催でベトナム料理教室を行いました。

メニューは、フォー、揚げ春巻き、緑豆ぜんざいの3品でした。30人近くの方が来られて大変盛況でした。教えていただいたのは、今回でお世話になるのは3回目の藤本定子先生でした。ベトナムやベトナム料理に興味を持っている方が多くいることを知って、嬉しく思いました。ベトナム料理を作るのは初めての方が多くて、戸惑うところもあったようですが、皆さん和気あいあいと楽しんで作っておられました。フォーなどはかなり現地の味に近かったような感じがしました。



最後に京滋YOUの会やJASSについて簡単に説明をして、来られた方にチラシをもらっていただきました。

今回習った料理は、11月25日に火焔樹の会の方が来られた時に一緒に作って交流する予定になっています。そしてさらに、来年のワンワールドフェスティバルでは、今回の経験を生かしてフォーと緑豆ぜんざいとベトナムコーヒーの店を出そうと張り切っているので、それまでに練習しておかないとなあと思っているところです。

やはり食べ物は生活の中で重要な位置を占めていますし、その国の食べ物を一緒に作って、料理を通してベトナムを知るというのはとてもいい試みだと思いました。食事をしながらだと話も弾みますし。これからもこういう機会を持っていきたいと感じました。

京滋YOUの会 team SAO 

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2006年09月04日

フエ中央病院小児科医長懇談 

晴天。 休肝日。

午前8時半。ベトナム事務所へ。
中央大学の学生さん4人。ベトナム事務所ボランティア希望者
2人が来ていた。

しばらくベトナム事務所でメールや必要な仕事。
午前9時過ぎ、フエ中央病院小児科医長のHUONG先生が
訪ねてきた。しばらくボランティア、国際支援、「開発」などに
ついて話す。

9月14日、15日と2日間にわたって行われるベトナム中部
小児科学会の案内。学会に参加するACCL代表と日本人医師の
受け入れについて相談する。


午前11時。散髪屋へ。2ヶ月ぶりに散髪。100円。

久しぶりに昼寝。

午後2時半。ベトナム事務所へ。バオミン・ベトナム事務所長、
税田さんと当面の諸問題を打ち合わせ。

少し体調を崩していたIさんをベトナム事務所のハンさんが
フエ中央病院へ。風邪とのこと。食事をしっかり摂ること、
何があっても休養することを伝える。

午後4時過ぎ、日本料理店のメニューに載せる料理の写真を
摂る。既に昼食は写真入りの立派なメニューが出来ている。
大塚さんが夕食の数多いメニューを全て試作してくれる。
料理が出来た順にメニューに載せる写真を撮る。

●枝豆

●焼きいか

●キンピラ大根

●焼き鳥

●コロッケ定食

●生姜焼き定食

●焼き魚定食


●ハンバーグ定食


午後5時半。日本料理店スタッフと一緒に試作品を夕食とする。

午後6時半、日本料理店開店。
直ぐに日本人の若者1人。常連日本人2人。ベトナム人2人。
ベトナム系アメリカ人2人。

 今日は、財務省は05年度の法人企業統計調査を発表。
売上高は3年連続、経常利益は4年連続の増加。
いずれもバブル期を上回って過去最高だそうだ。
大企業を中心に大もうけをしていることが分かる。
徹底したリストラの上に成り立った史上最大の儲けである。
一方、パート・アルバイトを含む従業員の給与は同0.5%減
の351万円で、3年連続のマイナス。
ピーク時の97年より10%下がり、大企業と中堅・中小零細企業
との給与格差が大きくなっているという。
いつの時代、どこの社会でも「強いものが更に強くなる」
傾向がある。
弱い人たちを犠牲にし、足蹴にした上での史上最大の
儲けなのだ。

今日もNHKテレビは自民党の総裁選挙を集中報道していた。
候補者全員が格差社会を作った責任者。しかし、誰一人
格差社会を作ったことについての自己批判がない。
格差社会を是認した上での「再チャレンジ」なのである。
大企業は史上最大の大もうけをしているのに反し、
労働者の賃金は10%も下がっているのである。
こうした社会を作り出した小泉政権。その政権を支えた
安部・麻生・谷垣候補である。
田中眞紀子議員は「小泉さんは5尺玉。安部さんは線香花火」
と言ったそうだ。
「ドーンと上がってみんなが政治が変わると飛び出したら、
5年たったら何だったの、というのが小泉さん」。
安倍氏は「線香花火がつくと思ったら、すぐ落ちてしまうことに
国民は気づく」と。

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2006年09月03日

「子どもの家」入所希望者自宅訪問 地球の歩き方ツアーホーチミン市へ

快晴。蒸し暑い。

午前8時。TBSテレビ取材団、私の部屋での生活を取材。

午前9時。「子どもの家」入所希望者の自宅を訪問する。
バオミン・ベトナム事務所長、ロック寮長、日本料理店
ボランティアの仙波さん、平田さんも同行。
TBS取材。

トンチンカンホテルから車で20分。キムロン地区へ。

Aさんの家庭を訪問する。
Aさんは40歳。8ヶ月前に妻をガンで亡くす。
1年半ほど前までフォン川の船上生活者だった。
現在は、アルバイトで船に乗り砂や砂利を取る
仕事をしている。日当35000ドン(200円)。
かなり厳しい肉体労働なので3日働くと2日ほど
休む。背骨に異常があり厳しい肉体労働は出来ないが
家庭を守るために砂・砂利取りをしている。

子どもは5人。祖父(90歳)と姉の子どもも同居している。
8人家族。月収は60万ドン(4000円程度)。
収入が低く家族8人が生きていく事は出来ない。
食事などは90歳の祖父と父親がしている。

長男は15歳。経済的理由で小学校6年退学。無職。求職中。
長女14歳。 経済的理由で小学校5年退学。ミシン研修。
次男12歳。小学校6年生通学中。
次女8歳。小学校3年通学中。
3男6歳。小学校1年生。

次男(12歳・6年生)と次女(8歳・3年生)を「子どもの家」に
入れて欲しいとのこと。父親は読み書きが出来ない。
今、通学している子どもたちだけは、何とか学校へ行かせたい
という切なる希望を持っている。
次男・次女に入所する気があるかどうかを確認。
入所したいとのこと。

出生届けを探す父親


6畳ほどの部屋で家族8人が寝て生活している。客観的に
みて今の状況では子どもたちは通学は無理と判断。
2人の入所を認める。9月5日午前8時に「子どもの家」へ
入所することとなった。

近所の子どもたちがたくさん集まってきた。


更に車で30分国道1号線を北上。純農村地帯へ。
農村のBさんの家へ。

両親と5人の子ども。母親は病気で通院。
父親は農業と工事の手伝い。月収は60万ドン(4000円)。

長女(17歳) 高校3年生
次女(15歳) 高校1年生
3女(13歳) 中学2年生
長男(10歳) 小学校5年生
次男(7歳) 小学校2年生

父親は自分が学校へ行っていないので子どもたちだけは
何とか学校へ行かせたいと言っていた。

次女(15歳)は高校1年生でフエ科学大学への入学が
決まった秀才。

ベトナム教育訓練省は科学振興のため、理系で優秀な
中学3年生を選抜し、大学へ入学させ、15歳から大学教育を
行う「飛び級」を試行している。
こうした方針に従ってトゥア・ティエン・フエ省(人口100万人)
では、全省で23人の理系の秀才を選抜。15歳の次女も
中学3年生で理数系が優秀と認められ、23人の中に入る。
9月5日にはフエ科学大学入学にが決まった15歳の次女は
「家が貧しく食事も十分出来ない家庭の中で自分だけが
15歳で大学にいくことは出来ない。入学を辞退して、家事の
手伝いをする」と言い出した。父親は何とかして優秀な次女に
学問をさせたいと願い、村長と相談。村長から「子どもの家」に
入所依頼状が来たという次第である。けなげな次女である。
昨日、ナムドンの滝で出会った日本の幼児的大学生とつい
比較してしまう。
15歳の次女は自分の位置・立場・環境をしっかりと理解している。
昨日の滝の学生はまったく自己中心性・幼児性から脱却できず
自分の置かれている位置を測れないのである。

15歳の次女と話すがはっきりと自分の意見を言う。
勉強も出来るが、フエ科学大入学を投げうっても家族のために
生きてゆきたいと思う次女の健気な(けなげな)気持ちに感動する。
100万人の省で選ばれた23人に入り、飛び級で15才で
フエ科学大に入学が決まった才能を見捨てることは出来ない。
一人の人間ではあっても次女にとっては、人生の大きな
分かれ道でもある。

次女に「子どもの家」入所の意思があるか確認。
出来たら「子どもの家」に入って勉強したいとのこと。
家族と離れての生活になるが大丈夫?と聞く。
「寂しいが勉強をしたい。寂しさを乗り越えて頑張ります」との
答えだった。私がベトナムできるのかこの位のことであるが、
次女の人生に何らかの影響を与える事が出来れば
幸いである。
バオミンさん・ロックさんと相談し、入所を決める。
明日、「子どもの家」に入る事となる。

午前11時過ぎ、Bさん家族に別れを告げる。

午前11時半。トンチンカンホテルに戻る。
朝食兼昼食。ひやむぎ。

午後3時。地球の歩き方ツアーの皆さんはホーチミン市へ。
宿泊ホテルからフエ空港まで見送る。

フエ空港で地球の歩き方ツアーの皆さんにお別れの挨拶をする。
地球の歩き方のIさん、ピースインツアーの堀江さんと
心のある人たちと一緒に仕事が出来て楽しい6日間であった。
地球の歩き方ツアー参加者の無事な帰国を祈る。

帰宅午後5時過ぎ。
昨日の日記を書く。
部屋に帰って久しぶりに一休みする。疲れがどっと出る。
午後6時過ぎ、近くの大衆食堂にテイクアウトの「コムディア」
を買いに行く。野菜3種、豚肉をご飯の上に乗せた弁当。
10000ドン(65円)。
部屋に戻り小樽鮭とばでフダ缶ビール3本を飲む。
何となく疲れが取れたような気持ちになる。

この3週間、全く休みなく仕事をしてきた。個人的な時間は
取れないかった。

朝のNHK日曜討論、夜7時のNHK特集では、安部氏など
自民党総裁候補3候補の特集。
NHKは自民党の宣伝放送局と化している。
3候補の違いをいくら取り上げても同じ穴のむじな。
対立軸のない3候補である。
こうしてNHKが率先して自民党総裁を持ち上げ
提灯持ちをしているのである。
安部氏の自宅や妻を紹介するなど大宣伝を買って出ている。
安部氏を首相に作り上げているのはNHKである。
ETV2001問題の『反省』に立ってのことなのだろうか?

竹中総務大臣はNHKの受信料支払いを義務化するための
関連法案を07年の通常国会に提出することを目指すとしている。
08年にも受信料の支払いが義務化される可能性が出ている。
それなら、これほど露骨に特定政党の宣伝をしているNHKを
「見る見ない」の選択をさせて欲しいものである。

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2006年09月02日

地球の歩き方ツアー(Ⅲ)ナムドン山岳地帯へ

快晴。気温36度。異常に蒸し暑い。

午前7時。日本料理店で朝食。税田さん、中村さん、石塚さん。
TBSテレビ取材。

午前7時30分。TBS トンチンカンホテルの私の部屋を取材。

午前8時半。ベトナム事務所でベトナム事務所員全員会議。
今週1週間の活動、来週の計画日程などを協議。
TBSテレビ取材。

(サン)日本語学校で中級5クラスのテスト
(ハン)地球の歩き方ツアーを「子どもの家」に案内した。
    ゲームなどを楽しんだ。グエンフエ高校にも行った。
    40人の生徒が交流に参加した。
   神奈川県青少年海外派遣団の皆さんが披露し、
   グエンフエ高校の生徒と一緒踊った「ソーラン節」
   を地球の歩き方ツアーに披露した。とても上手だった。
(中村)石岡先生の代理で中級4.5クラスの授業をした。
(石塚)着任して1週間たった。まだ分からないことばかりだ。
    日本語学校の見学、中級5クラス。
(フーン)特別クラスの授業をした。
(税田)地球の歩き方ツアー案内。JASSはこだての刺繍、絵画
     子どもたちから里親などへの手紙の翻訳更正
(ソン)地球の歩き方ツアーを案内。その際、運転していた
    オートバイとシクロがぶつかり、足を怪我した。数日休む。
(ミン)今日はこれからナムドンへ行く。明日は2軒の入所希望者の
   家庭訪問。来週もたくさんのスタディーツアーあり。
(小山)・来週のスタディーツアーは3つ。地球の歩き方ツアー(34人)
     大学生協(21人)、静岡市国際交流協会(12人)。みんなで
     力をあわせて成功させたい。
    ・縫製研修工場建築許可が出そうだ。来週『起工式』。
     その後、建築開始。完成は2007年2月末の予定。 
    ・日本語学校のガイドクラスについての省観光局長との
     話し合いをする。
    

午前10時。地球の歩き方ツアー(29人)とナムドン山岳少数民族
交流へ。私、ミン、リー、京都ボランティア小川君、千葉ボランティア
平田さんも手伝いに。TBSテレビ取材団も同行。

午前11時半。ナムドン中心街に到着。昼食を摂る。
昼食開始時に日本から電話。30分ほど話す。
その間に昼食が終わってしまっていた。
結局、昼食摂れず。

午後1時。ナムドン郡のTHUONG LO 村に到着。
早速、支援物資を贈呈。

●歓迎の踊り

●日越友好地球の歩き方ツアーの出し物


その後、村集会場の前庭で日越綱引き大会。

子どもたちと交流


午後3時。カトゥー族のみなさんと一緒の山奥の滝へ。

地球の歩き方ツアーの皆さんと滝に行く途中、日本人の
男性が話しかけてきた。地球の歩き方ツアー参加者の
学生さんだと思ったら、「自分はベトナムの環境問題を
調べている学生だ」とのこと。私が「君はどうして
地球の歩き方ツアーのみんなと一緒に滝に行くの?」と
聞く。学生は「私はフエ農業大学の学長の許可を受けて
日本人の若者とナムドン少数民族交流に同行する」と言う。
私が「貴方が何を研究するかは自由だが、地球の歩き方
ツアーとナムドン青年との交流で滝に行く事は、
地球の歩き方・ピースインツアー・JASSの三者で企画した
スタディーツアーの一環なので、君がこの交流に参加したい
のなら、私たちに許可を取らなければ駄目だよ」と諭す。
若者は「いや、私はフエ農業大学学長の許可を受けているので
問題ない」と繰り返す。炎天下。10分ほど学生を叱責する。
学生は「私は村長の許可を受けている」と言い出す。
「学長とか村長とかは、私たちには関係ない。
貴方は人の家に許可もなく土足で入ろうとしているから
注意しているのだ。人の家に入るのなら、きちんとした
挨拶が必要でしょ」と再度諭す。
若者は「貴方は、お金が欲しいのですか?」と私と
地球の歩き方ツアー添乗員の堀江氏に言う。
私は暑さと疲れもあり、切れる。
「貴方に言っているのはお金のことではない。
世間の常識、人間社会の常識をわきまえろと
言っているのだ」と声を荒げて注意する。
すると若者は怖くなったのか「すみません。すみません」
と言い出す。「あなたは、すみませんといったが、
なにがすみませんなのか言ってみろ」と詰問。若者は
ただただ、すみませんを繰り返すのみ。そのうち、
「ここでおいて行かれたら、僕は、村へ帰れないので
連れて行って欲しい」と泣き言を言い出す始末。
日本のアホ学生を無視して滝へいく。
日本人の学生の質も低下したものだ。この程度の
常識すら理解する能力がないのである。論理的思考
が出来ない大学生。ベトナムの環境問題などと偉そうなことを言う
前に「フエ農業大学学長の許可で地球の歩き方ツアーに参加
出来る」と考えている己の頭の中を少し整理した方が良い。
環境問題以前に小学生程度の常識をもう一度学ぶべきである。
やくざですら「仁義」で自己紹介はするものだ。
この学生は「フエ農業大学学長とか村長」などと言った「肩書き」
のある人が偉いと単純に思っているようである。
自己の論理も理屈も何もない、厳しく叱責すればペコペコと
謝るだけ。挙句の果てに「一人では帰れない」と泣き言を言う。
昔、幼稚園で教育実習をしたことがあったが、、こんな幼児が
いたような気がする。つまらないところでエネルギーを消耗。

午後5時半。フエ市内に到着。部屋に戻りシャワーを浴びる。

午後6時半。日本料理店で地球の歩き方ツアー最後の晩餐会。
今日はベトナム独立記念日。TBS取材。

添乗員の堀江氏より挨拶。日本料理店の夕食会が始まる。

スタディーツアー参加者代表の乾杯の音頭で会食が始まる。

午後8時半過ぎ、地球の歩き方ツアー夕食会は散会。

午後9時頃から日本人スタッフで簡単な反省会。午前12時終了。

投稿者 koyama : 15:59 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月01日

TBS取材 地球の歩き方ツアーカレー作り

快晴。

午前4時起床。午前5時過ぎ、バオミンさんのオートバイで
「子どもの家」へ。TBSテレビ取材、子どもたちの起床、
朝食を撮影。

子どもたちは蚊帳(かや)で寝ていたい。

午前5時半。さすがに早朝。子どもたちも起き抜けのボーッと
した顔をして、しばらくは階段に座っていた。

午前5時45分、朝の体操。全員が庭に集まりベトナム式体操。


体操後、朝食の「ブンボー」を食べる。

9月5日・始業式練習のため登校する子どもたちもいる。

TBSテレビはしばらく「子どもの家」で子どもたちの生活などを
取材撮影。

その後、幼稚園に行っている5歳のTI君の登園の様子を
追跡取材。

私とミンさんはしばらく「子どもの家」で待機していたが、
私は会議室のいすを5つ並べて横になったが、熟睡して
しまう。ミンさんも保健室で寝てしまった。

午前9時。地球の歩き方ツアーが訪問している
グエンフエ高校へ。応接室で副校長先生と懇談。
「子どもの家」のターオさん(チュン君の姉)が
グエンフエ高校に入学できたことについてお礼を言う。
今年の1年生入学者は700人。18クラス。
グエンフエ高校はトゥア・ティエン・フエ省(100万人)立高校の
トップ校。
ターオさんは最高の成績で入学したとの話だった。
理系1クラス。グエンフエ高校は成績順にクラス編成を
おこなう。1組が入学試験で一番成績の良かった
生徒。ターオさんは理系の1組なので700人のトップ
成績。副校長先生もターオさんに頑張ってもらいたい
と言っていた。
講堂では地球の歩き方ツアーの皆さんと生徒さんたちが
交流を行っていた。

地球の歩き方ツアー参加者の歌の出し物

この時点でまだ朝食を摂っていない。ミンさんと
二人で朝食を摂りに行く。
午前9時半過ぎ。バオミンさんとフォーを食べる。
生鶏卵2個をフォーに入れて食べる。美味。

午前10時。フエ市人民委員会外務部長と懇談。
縫製研修工場建築遅延問題について協議。
今日、やっと縫製研修工場の建築許可がでるとのこと。
来週から何とか工事が始まり、2007年2月末に完成予定。

午後12時。トンチンカンホテルに戻る。
部屋に着いた時、TBSテレビ取材団より連絡。
チャンティエン橋でストリートチルドレンを見つけた
時の様子を橋の上で話して欲しいとのこと。
取材団とチャンテシエン橋へ。1時間ほど取材。

午後1時、トンチンカンホテルへ。
午後2時、日本料理店にTBS取材団。
「子どもの家」の子どもたちに厨房での様子を取材。
トゥオイさんのお母さんが娘の日本料理店での仕事を
見にやってくる。

午後3時半。「子どもの家」へ。地球の歩き方ツアーは
子どもたちと日本のカレー作りをし、一緒にカレー夕食を
楽しんでいた。

午後6時。地球の歩き方ツアーの皆さんから「子どもの家」の
子どもたちに寄せ書きの贈呈。
子どもたちを代表してフエ医科大に入ったフオンさんが
地球の歩き方ツアー代表よりもらう。

最後に全員で記念写真

地球の歩き方ツアー(Ⅲ)はこれで「子どもの家」とはお別れ。
子どもたちとの別れを惜しんでいた。

今日は早朝からの活動。昼食を摂る時間がなかった。
夕食は「子どもの家」でカレー茶碗1杯。
とにかく忙しい1日だった。途中で体と頭が固まって
しまった。明日、明後日ともう一頑張り。

夜洗濯。

日本料理店の夜の部は15人の来店。
8月1ヶ月間で402人の来店があった。
口内炎3つあり。食事がしにくい。

投稿者 koyama : 20:56 | コメント (0) | トラックバック