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2006年09月23日

ベトナム事務所員全員会議 地球の歩き方ツアー晩餐会

終日雨。午後豪雨。

雨期の到来。これから半年間、悩ましい雨期となり、カビ、異臭、
日照不足との闘いが始まる。

午前8時半。ベトナム事務所員全員会議。


(サン)地球の歩き方ツアーの案内。カレーやハヤシライスを
    作った。グエンフエ高校交流の案内をした。
    21日、中級4の総合テストを行った。26人中2名が落第。

(ハン)地球の歩き方ツアーで市場へ買い物に行き昼食を作った。
    子どもたちと交流。日本語、絵画、音楽に分かれて。
    奨学金をもらっている生徒から支給者へお礼の手紙が来た。
     現在翻訳中。

(フーン)20日、地球の歩き方ツアーのベトナム語講座をした。

(石塚)今週、初めて1時間の日本語授業を行った。
    生徒がどれだけ理解したの反応を見るのが大変だ。
    また、生徒の能力・学力のばらつきがあり教えるもの
    大変。
(石岡)21日、中級4の総合テストをした。

(税田)地球の歩き方ツアーとカレーを作った。
     「子どもの家」側の準備が不足していた。
    刺繍みやげ物店で仕事を1時間早くやめて帰って
    しまった。今後は、事前に相談するように話す。

(ソン)地球の歩き方ツアーの案内。
    24人がシクロに乗ったが、チップを要求したシクロが
    いた。

(ミン)科学大コンピュータ科長に会った。
    JASS記念誌の写真集めをした。
    水本先生と「子どもの家」図書室の使い方について話した。
    9月25日(月)「子どもの家」の健康診断を行う。
    「子どもの家」のマイ寮母さんが退職する。

(小山)
    ・フエ科学大学コンピュータ科とは、ブライセンと提携して
     日本への留学学生を紹介してもらうために行った。
    ・「子どもの家」卒業生のメンさんがハンさんの家に下宿。
    ・うちわの柄のサンプルの仕事。(30万個の注文)
    ・縫製研修工場の建築が始まり、今のところ、順調に
     工事が行われている。
    ・「子どもの家」のマイさんが9月一杯で退職。補充をいれず
     に現在のスタッフでカバーしてもらうようにセン委員長と
     話した。
    ・「子どもの家」のターオさんの心臓手術は成功した。
    ・暖炉基金の口蓋・口唇裂の子どもがフエ中央病院に
     入院し、初めに心臓の手術をする。その後、口蓋・口唇裂
     の手術。


午前9時過ぎ。日本語学校教師打ち合わせ会が始まる。

バオミンさんと打ち合わせ。

午後、TBS-BSのOディレクターから問い合わせ。
子どもたちのことなど詳細な質問への回答のための
調査。1時間ほどして回答する。

13通のメール受信。5通の送信。

ベトナムの中学3年生「歴史」教科書の翻訳を終わる。
現近代史129ページの記載中、日本のアジア・太平洋
侵略に関する記述は20ページ。

午後6時半、地球の歩き方ツアー(24人)の最後の晩餐会。
日本料理店で日本料理を食べながら交流。

●乾杯

●24人分の食事を作り、片づけをする日本料理店スタッフ


●今日1日ナムドン山岳地帯に行った

晩餐会が午後6時半から午後9時過ぎまで続いた。


    

ベトナム中学9年生歴史教科書(教育訓練省)
 
 ●翻訳の責任は小山道夫・BAO MINHにある。教科書を直接翻訳したが、日本   
  人が理解しやすいように若干工夫した。
★中学9年生は日本では中学3年生
★中学9年生の歴史教科書(近現代史中心129P。日本の侵略記述部分は20P)
  

(インドシナ独立・自由・民主のために)

インドシナの独立・自由の最大の敵はフランスであった。

従ってべナム共産党はインドシナが独立するためフランス植民地主義を
追い出し、地主の土地の没収と農民への分配という方針を掲げた。インドシナ人民の任務は反ファシズム、反帝国主義戦争、自由・民主・平和を求めることである。

インドシナ独立・自由・民主の目的を達成するため、マルクス・レーニン主義を共産党と人民に普及する。そして国際共産主義運動を人民に普及し、教育を進める。マルクス・レーニン主義を普及しながら共産主義に反対する反政府運動を殲滅し、100何万人の市民・農民をベトナム共産党に結集し教育を行った。

(第3章)1945年8月革命を達成するための運動

21課 1939年から1945年までのべトナムの状況


フランスがベトナム侵略の手をゆるめ、日本と妥協。
人民は日仏の弾圧で生活が苦しくなる
そうした状況の中、最初の3つ暴動・蜂起が行なわれた
(BAC SON、NAM KI DO LUONG)

1 世界とインドシナの状況

1939年9月第2次世界大戦が勃発。
ヨーロッパ戦線。1940年6月、ドイツファシズム軍がフランスに侵入。
フランス政府はドイツファシズムに降伏する。極東では日本軍が中国を侵略し、ベトナム・中国国境まで進駐してきた。

この時期、インドシナのフランス植民地主義は不安となってきた。
フランス植民地主義の支配が不安定となった理由は2つ。
第1はインドシナの人民解放運動の前進 第2は日本ファシズムのインドシナ進出によりフランス支配の脆弱化である。

1940年9月、ランソン省(中越国境付近)で 、フランス軍は日本軍に降伏。
フランスはインドシナをコントロールできなくなってきた。
日本がインドシナを自分の領地にした。
1941年7月23日、ハノイでフランスは日本との間にインドシナ管理に関する協定を結んだ。
その内容は以下のようである。
・ 日本が全ての飛行場とインドシナ港湾管理を行い、軍事目的のために使用することができる。
・ 太平洋戦争を起こした時(1941年12月7日)日本がインドシナを一層アジア侵略に活用出来る協定を結ぶようフランス政府に要求
(日本軍の自由な移動、食料供給、軍事基地、インドシナの治安)
・ 実際にフランスと日本は提携しインドシナ人民を弾圧した。

フランスは日本に押さえられたが、出来るだけ利潤をあげられるようベトナム人民を搾取、収奪した。
命令による経済政策を行った。戦争を利用してインドシナの経済を把握し、
独占した。特に物を略奪し、投機を行い、多額の利潤を手に入れた。
  増税した。酒・塩・アヘンは1939年から1945年までの間に3倍に値上がりしている。

日本の手法は食糧、特に米を安い強制値段で買った。
強制安価で買った米を日本軍に供出。また、今後のアジア全域への侵略のため戦争のための準備として安価強制的に買い付けた米を保管・貯蔵した。こうしたことが原因で食料が不足し、1944年から1945年の間、特に北部の農民200万人が餓死した。

2 最初の暴動

●BAC SONの暴動(1940年9月27日)

日本軍がランソン(中越国境付近)に入り、フランス軍はBAC SONに逃げてきた。
BAC SONの共産党は人民を組織し、フランス軍の武器を奪った。
そして、BAC SONに革命政権を樹立。しかし、日本軍はフランスと妥協して
ベトナム人民を弾圧し、人民幹部を捕まえ虐殺。人民の家を焼いた。
地方の共産党リーダーのお陰で人民が奮闘し、フランスと日本の手先となったベトナム人スパイを懲罰した。
日仏帝国主義者と日本・フランスの手下となったベトナム人の財産を没収し、人民に分配した。人民は喜び、革命軍に参加した。
BAC SONのゲリラ組織が設立された。1941年、救国軍と改称。

●NAM KI(南部地方)の暴動
フランスがヨーロッパでドイツに敗北。フランス植民地主義はタイ軍を使って、ラオスとカンボジア国境で衝突を起こした。
日本軍はフランス軍と戦うかわりにベトナム人を使って、フランスと戦わせた。NAM KIのベトナム軍は不満を持ち、軍から脱走。秘密裏にNAM KIの共産党軍と連絡を取り合う。緊急な状況の中でNAM KI の共産党軍は中央の意見を聞かずに暴動を起こした。ベトナム北部にある中央本部からの指示がNAM KIへ行くのが遅かったので、中央の指示が届く前に暴動計画が漏洩(ろうえい)。フランス軍は暴動を計画したベトナム軍を捕まえ武器を没収。しかし、暴動は計画とおりに1940年1月23日夜、22時勃発した。人民はフランス軍の基地から武器・弾薬を取り、人民政権を樹立した。

●DO LUONGの暴動(1941年1月13日)北部
革命の雰囲気が増大し、フランス軍にいるベトナム人も革命軍に参加するようになった。1941年1月13日、共産党員ドイクン氏の指導で暴動が起こされる。
ベトナム人民軍はDO LUONGのフランス軍基地を奪取し、車でVINH省に移動。しかし、計画が失敗しドイクン氏はフランス軍に逮捕される。拷問を受ける。ドイクン氏は何も言わずに10人の同士と共にフランス軍により処刑される。

22課 1945年の8月革命への運動

グエンアイコック(ホーチミン)が主催し、共産党第8回中央委員会が開催された。ベトミン(ベトナム独立同盟)を設立し人民解放のため武装勢力(軍隊)を設立した。反日運動が発展し、1945年8月革命に向けて人民の力が高揚してきた。

1 ベトミン戦線(ベトナム独立同盟)誕生(1941年5月19日)

第2次世界大戦は3年目に入る。フランス・ベルギー・オランダを占領したドイツは、1941年6月、ソ連に侵入。世界は二つに戦線に分かれた。
民主主義陣営(リーダーはソ連)とファシズム陣営(ドイツ・イタリア・日本)。最初からベトナム軍は民主主義陣営に参加していた。
1941年1月28日。グエンアイコック(ホーチミン)が中国から帰国しインドシナ共産党中央委員会第8回会議を開催。

(第8回中央委員会の内容)
フランスと日本の弾圧から人民を解放する。日仏帝国主義者の土地とベトナム人の手下どもの土地を没収し、貧しい人に分配。税金を減らす。農民が土地を持てるようにする。ベトミンを創設。名前は「救国会」とする。その目的は
愛国人士を団結させ、貧しい・金持ち・男女の区別なく、救国のために総団結する。ベトミン戦線は1941年5月19日、正式に設立された。
1940年末、BAC SON の暴動が失敗した。共産党中央は各地の小さなゲリラ闘争を統合組織し、1941年BAC SON地域の救国中隊とした。
CAO VAN省(北部)は救国会(ベトミン)の実験場である。1942年までにCAO VAN省内9箇所で救国会を作るようにする。各村にベトミン委員会があるようにする。1943年、カオ・バク・ラン3省でベトミン連合省となるようにする。

政治を大事にしながらインドシナ共産党は人民各層(学生、知識人、資本家・・)を救国戦線に組織した。

共産党の新聞とベトミン戦線の新聞も発展した。多くの人民が革命に参加。
1944年。世界情勢が大きく変わった。革命の情勢が強まった。
1944年5月、ベトミン本部は人民に呼びかけ、武器を準備させ、敵を追放するよう呼びかける。
1944年10月、ホーチミン(グエンアイコック)は人民に手紙を出す。
『侵略者はもう過ぐ全滅する。あと1年か1年半の間にベトナム民族解放の
時がやってくる。緊急事態なので活動を早く起こそう。』

指導者ホーチミンの指示により、ベトナム解放戦線が設立される。

1944年12月終わり、カオバン省まで解放される。最初の勝利を生かして
各地の組織を強化した。
各地域の敵は恐れをなし、ベトナム人スパイは人民のものを返したいと出頭してきた。


2 救国のための反日運動

①日本がフランスを追放(1945年3月9日)
1945年、第2次世界大戦がその終末を迎えた。フランス本国が連合国により解放された。太平洋戦線では日本軍がイギリスとアメリカの攻撃を受ける。
連合国が日本をインドシナから追放した後、インドシナではフランス軍がその後釜となることを狙っていた。
インドシナを独占するため、日本軍はフランス軍をインドシナから追い出した。

②1945年8月革命への運動

日本軍がフランス軍を追放したことを見て、共産党中央常務委員会は会議を開く。会議の指示(日本とフランスが戦うのはベトナム側のチャンスだ。当面、インドシナ人民の敵は日本ファシズムだ。全国で救国のため「反日」運動を起こそう。)

1945年4月15日、北部のバクザン省で軍事革命会議を行う。会議の決定により、各武装勢力は「ベトナム解放軍」とした。政治と軍事幹部学校を開校。
ゲリラ戦争も発展させ、各地に反日勢力を組織し、8月革命の準備を行った。
北部軍事革命委員会が設立され、この組織の任務は北部全体の軍事について指導するものであった。

反日運動が大きく発展している所でも、北部・中部の北では餓死が起こっていた。
餓死問題を解決するため、日本軍の米保管所を襲撃しようというスローガンを掲げた。スローガンは全国にあふれ、運動は発展した。


23課 1945年8月革命の総運動とベトナム民主共和国
     建国

 (説明)指導者ホーチミンとインドシナ共産党により総運動
     の命令が発せられた。ハノイ、全国各地人民が総決起
     し、政権を奪取した。
      1945年8月革命成功―ベトナム民主共和国誕生
     ベトナム民族の新しい歴史に突入

1 総決起命令発令

  第2次世界大戦が終結に近づき、ヨーロッパのドイツファシズムは
敗北し、1945年5月、正式にドイツファシズムは崩壊した。
アジアでは日本ファシズムが連合国に敗北。(1945年8月)
日本政府の無条件降伏の情報を聞いたインドシナ共産党は
トゥエン・クアン省(北部)に全国会議を召集。1945年8月14日~15日にかけて
全国総決起―革命(政権奪取)を行うことを決めた。
 全国総決起委員会は「軍令1」を発令。

  1945年8月16日トゥエン・クアン省で北部・中部・南部の代表が集まり
  国民大会が開催された。この時初めて指導者ホーチンが国民代表の前に姿を現した。国民大会は総決起決定に賛意を表しした。
  指導者ホーチミンは[ベトナム民族解放委員会]委員長となった。
ホーチミンは全国国民に「総決起を呼びかける手紙」を出す。
 8月16日午後、決起委員会の命令に従い、ボーグエンザップの指導で
 ティエン・クアン省からタイグエン村にいる日本軍を総攻撃した。
 その後,ハノイへ移動。

2 ハノイ政権を奪取
 
  ハノイにあったフランス・日本の支配権力を共産党が奪取してから革命の風潮は
高まった。人民各層、特に青年たちは救国団体、自衛軍に参加。ベトミン宣伝隊は
町中で活動。ベトミン名誉団は日本の手下となったベトナム人スパイを摘発し、厳しく懲罰を加えた。

8月15日夜、ベトミン宣伝隊はハノイ市内の3つの大劇場で大演説会を開催。
8月16日、ビラと決起スローガンを書いた横断幕をハノイ市内各所に貼り出す。
ベトナムに侵略していた日本軍は弱体化した。8月19日、ハノイ市は革命の雰囲気に溢れる。人民は一番大きな劇場前広場に集まり、ベトミン代表が宣言を発表した。
初めて公開の場で「インターナショナル」を歌った。そのあと、参加者が市内をデモ行進を行い、市内にある公的機関を人民が接収した。デモ行進を見た日本軍は反抗することはできなかった。この時、ハノイ全体で革命側が勝利することになった。

3 全国政権奪取
  8月初め、総決起の雰囲気が高まり、8月14日から18日まで各省・各村に
革命政権が樹立される。BAC GIANG省、HAI DUONG省、HA TINH省、
QUANG NAM省の4省が最初に革命政権を樹立。
日本の無条件降伏のニュースを聞き、更にハノイ解放の知らせを聞くに至り
全国的な総決起状況となる。
フエは8月23日、サイゴンは8月25日に解放。フエにいたグエン王朝のバオダイ帝が退位。8月14日から8月28日までの間、全国総決起・。蜂起が成功。
1945年9月2日、ハノイのBA DINH広場でホーチミン主席が臨時革命政府の
代表となり[独立宣言]を発表した。ベトナム民主共和国が誕生した。

4 8月革命の成功の原因と歴史的な意義

8月革命はベトナム民族の偉大な歴史であり、フランス植民地主義、日本帝国主義を
打倒し勝利を収めた革命であった。
ベトナムは植民地から民主共和国に生まれ変わった。人民は奴隷から独立・自由な人民となり、国の主人公となった。
国際的に見て、8月革命の勝利は小国が植民地主義・帝国主義に勝利したと言う大きな意義のあるものである。
この勝利は世界の植民地で苦しんでいる人民を励まし、特にアジア・アフリカの人民に勇気を与えた偉大な勝利であった。

8月革命勝利の原因は
-1 ベトナムの伝統は「独立と自由のためには勇気をもって戦う」というものである
   その結果、インドシナ共産党とベトミン戦線の呼び掛けに多くの国民が呼応し  
    た。

-2  強い絆の労農同盟が確立されていた。
     各愛国団体と労農同盟が団結し、農村のゲリラと団結し、封建主義と帝国主   
     義との闘いを進め政権奪取に成功した。
 
-3  8月革命勝利が早まったのは世界の世論の力である。第2次世界大戦が終
    結近くなったことがその原因である。ソ連軍と連合軍がドイツファシズム、日本
    ファシズムを崩壊させたことが世界の平和に大きな貢献をした。
 

  

投稿者 koyama : 2006年09月23日 18:44

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