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2006年09月10日

縫製研修工場起工式

気温24度。急に寒くなる。早朝雨。夕方雨。
ベトナム中部に熱帯低気圧が来ているとのこと。
いよいよフエの「雨期」が近づいて来たのか?

朝から頭痛・倦怠感。気温が急に10度近く下がる。
急激な気温変化に体が対応できない。終日頭痛が続く。

今日は午前8時から縫製研修工場の起工式がある。
縫製研修工場はオートバイ修理研修センターの空いている
土地に建築する。2階建て、総建築面積は700㎡弱。
数年前から様々な検討を行い、ハノイの日本大使館と交渉。
昨年、大量の申請書を作成し大使館に「ODA支援」を要請。
今年2月14日、ハノイの日本大使館で服部日本大使と調印式を
行い、縫製研修工場建築が決定された。
ODAの基本的な性格から支援金(約1000万円弱)は、
ベトナム現地の行政などに支援するものである。
縫製研修工場支援ODAは、フエの公的機関である
「フエ市越日交流委員会」に支給された。
フエ市越日交流委員会の委員長はニエンフエ市人民委員会
外務部長。副委員長は私。制度上から言えば私は
ベトナムフエ市の公的機関の副責任者である。

一昨日、縫製研修工場建築許可が出た。急いで
フエ市人民委員会外務部と協議。起工式を早急に
行う事とした。建築会社の『占い』だと今日の午前中が
「良い日」とのこと。昨日1日で起工式の諸準備を全て
行う。会場準備、横断幕、招待者決定、招待状送付・・・。

午前7時10分。バオミン・ベトナム事務所長のオートバイで
縫製研修工場建築予定地へ。
既に建築会社、オートバイ修理研修センター所員などが
参集。

●起工式横断幕

「日本のODA支援 フエ市越日交流委員会
 縫製研修工場起工式」


午前8時20分。起工式が始まった。

参加者はフエ市副市長、外務部長、外務部員
JASS事務所員、法政大学先生と学生、
「子どもの家」関係者、建築会社関係者、マスコミ。

●副市長(右)、外務部長(左)



バオミン・ベトナム事務所長とイックホアン越日交流委員会
委員(フエ市外務部員)の司会で始まる。
二人とも私が1993年9月、フエ師範大学日本語クラスで
日本語を教えた第1期生。13年前に教えた学生がこうした
形で私の活動を支えてくれていることに感謝する。
13年前は20歳の若者だった。今はお父さんになっている。

●フエ市人民委員会を代表してタン副市長の挨拶。

 


●「フエ市越日交流委員会」を代表して私が経過報告と
 縫製研修工場建築の意味などを話す。
 縫製研修工場は、「子どもの家」の子どもたちの自立の
 ための受け皿となり、同時に地域の生活困難な子女の
 自立を促進するための職業訓練センター兼、仕事の
 場でもある。

ちょうど法政大学の野々垣先生と学生さんのスタディーツアー(7人)
がフエに来ていたの参加して頂いた。

●鍬入れ式を行う。

副市長・外務部長、税田さん、野々垣先生、フリースクールの
先生、小山の6人。3回、スコップで砂を掘る。

起工式には地元「フエテレビ」とハノイの「ベトナムテレビ」が
取材に来ていた。


午前9時。起工式終了。

法政大参加者と記念写真


参加者が帰った後、工事予定で「地鎮祭」が行われた。
土地の神様に「迷惑」をかけますが、怒らないくださいと
お願いするという主旨だそうだ。建築会社が独自に行った。


税田さん・中村さん・石塚さんとトンチンカンホテルに戻る。
ブランチを買いに行く。テイクアウト。ご飯の上に野菜炒め、
豚肉の煮物、玉子焼きなどを選んで乗せる。100円。

朝食兼昼食を済ませる。何としても体がだるい。
しばらく横になる。

午後2時半。地球の歩き方ツアーⅣ帰国のためホテルを
出発。ホテルまで見送りに行く。ソン君、リー君がお客さんの
荷物などの整理をしている。

午後3時ホテル出発予定だったがバスと荷物を運ぶトラックが
来ない。しばらくしてやっとバスとトラックが来る。
地球の歩き方ツアーの皆さんにお別れを言う。

その足で「子どもの家」へ。法政大学の先生と学生が
子どもたちと遊んでいた。バオミンさんの案内。

午後5時まで「子どもの家」に。
トンチンカンホテルに戻る途中雨が降り出す。
深夜まで雨。

夕食の代わりにフダビール3本。日本酒若干。
酒の肴がない。この2ヶ月、あまりに忙しくおつまみを
買いに行く時間がなかった。冷蔵庫の味噌と鰹節で「ネギ味噌」
を作り、酒の肴にする。美味。
小樽「ふなくち酒 搾(しぼりたて)」を飲む。軽く酸味があり
美味しい。韓国のマッコリに似た味。

夜のNHKニュースを見る。
「両陛下、お子様と初の対面」とテロップが出た。
へーなんだろう? 皇太子、秋篠宮と初めて会う訳もないし?
と思った。良く内容を聞いてみると「孫」と会ったということ。
何故、孫と会ったとならないのだろうか?
朝日、読売などのインターネットを見たが全て「お子様」と
なっていた。私たちからすれば、天皇のこどもは皇太子か
秋篠宮だと思うのだが・・・・。
今回の出産では、マスコミは「胎児様」という言葉を使った
そうだ。こうなると「お祝い」を通り越して滑稽になってくる。
子どもが生まれると言う事は、お目出たいこと。しかし、
物事には限度がある。胎児様はないでしょう。

自民党加藤紘一元幹事長のHPからの引用。
http://www.katokoichi.org/
右翼が加藤氏の発言「小泉首相の靖国神社参拝は
アジア外交に問題を残す」(?)に反発し、
加藤氏の自宅に放火し、割腹自殺を図るが命を
取り留めるとういう事件があった。
私は思想的には加藤氏と異なる所があるのかも
知れない。しかし、以下の加藤氏の発言には
賛意を表明したい。
加藤氏は自民党のサラブレッドだった。
「加藤の乱」から路線が「ずれて」来たのだろうか?
現状についての認識は共有できるものがある。
意見が違う所があっても加藤氏と共同して日本の
民主主義を守る運動をしたいものである。
自民党総裁候補の3氏と比べると遥かに品格と
教養がある。自民党総裁候補3氏の人間的な
薄さは隠しようもない。3氏とも「格差社会」を作った
張本人。その自己批判が一切ない。
格差社会を作り出した『戦犯』が格差社会をなくすなどいう
言葉を発する。笑止千万。
加藤氏は現在の日本社会の深部をしっかり見ている。
偏見を捨てて、現実をみる科学者のような視点がある。
加藤紘一氏の言葉には十分耳を傾ける価値があると
私には思える。個人的には人間的には魅力すら
感じるのである。意見は違っても人間として通じるものを
感じた。

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以下、加藤氏のHPより
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事件から1週間が経って

自宅全焼という事件が起きてから、1週間が経ちました。
犯人に対する怒りはもちろん強いのですが、少し客観的に今回の事件を見る余裕も生まれてきたように思います。
犯人は65歳、自分と似たような年齢でした。また、どうも母が散歩に出かけたのを見届けてから、ガソリンを撒いて火をつけたのではないかという風に思える部分もあり、本人に対する憎しみの感情に向き合うというよりは、どうしてこんなことをする人が生まれてきたのか、何が彼を追い込んだのか、ということを考え始めています。
たぶん、彼もいろんな意味での閉塞感があったでしょう。割腹自殺を図った直前、実家の近所にある食堂で最高の品――1300円の天丼――を1時間かけて食べています。そのあとにはポケットに500円しかありませんでした。そして、車の助手席には、雑誌『SAPIO』が転がっていたといいます。

些細なことがきっかけで、異常な行動に出る人が増えている社会になっていやしまいか。そんな思いがよぎりました。家庭の絆が薄れ、会話が減っている。地域社会の人間のふれあいも希薄になった。派遣社員が増えるにつれて会社への帰属意識が薄れ、退社後に上司と若者がビールをいっしょに呑むことも少なくなってきた。決して現実と乖離したイメージではないと思います。
自由になったといえば、自由になったのだけれど、糸の切れた小さな風船がいっぱい漂っているような、物理学的にいえば自由になった電子があちらこちらを走り回っているような……自由になった浮遊物の集合体としての社会では、ちょっとした力とか磁場が働いたり、そよぐ程度の風が吹いたくらいでも、グラッと動いてしまうのではないでしょうか。そんななかで、若者がオウム真理教に引っ張られてしまったり、“セカチュー”(『世界の中心で、愛をさけぶ』)が売れているとなるとまたたく間に320万部のヒットとなる現象が起こる。韓流ブームというと、おばさまたちは一斉に「ヨン様」になるし、小泉劇場に酔うし、政治家が隣国に対して強い言葉を言えば、一斉にそれに流れる。少し心配な世の中になってきたと感じています。

今、我々が立っている社会の土台が、もしかしたら0.8度くらい、ちょっと下り坂へと傾き始めているのかもしれません。ほんの少しですから、誰も気づきませんが。戦前、日本社会は少し下り坂に向かっていました。それを誰も気づかないまま、精一杯対応しているうちに、だんだん加速していってしまった。スピードが出てしまえば、誰もそれを止められません。ひとつ方向にわーっと皆が動くから、それと逆のことを言う人間が自由にものを言えなくなる。自由な意見、活発な発信ができなくなった社会のなかで、過去の日本は大きな間違いを犯していったのです。

今の状態が、戦前と酷似しているというつもりはありません。しかし怖い、というよりは不健康な現象だと思います。自由を手に入れ、価値観が多様化し、選択肢も増え、競争社会になった、そんな“個人の時代”のなかで、拠るべきものがないからこそ、微風にでも流されてしまう。そんな風景が見えた気がしました。

だからこそ、人間が集う場をもっといっぱい作らなければいけません。家庭の中の会話も多くする。小中学校での会話も多くする。若干「うざい」と思っても、近所づきあいも少しは復活させる。面倒くさくても、職場のおじさんと若い者はビールを飲みに行くべきです。一回断られても、上司は声をかけ続けましょう。そういう小さな努力から始めることでも、人間が集う場を回復することは可能だと思います。

みなさまからは、本当に多くの激励をいただきました。これを励みに、そしてこの事件が教えてくれた日本の現状をしっかりと見据えて、これからも一生懸命に考え、未来のヴィジョンを描いていきたいと思います。
ぜひ、みなさんのご意見もお聞かせください。


平成18年8月23日
加藤紘一

投稿者 koyama : 2006年09月10日 15:46

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