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2006年10月31日

横浜市立港南台第1中学校講演会 神奈川県青少年協会スタディーツアー

晴天

午前9時半。自宅を出る。都営三田線・巣鴨から田端。
田端から22駅目の港南台まで。午後12時半着。
日本事務所・教育担当のK氏と合流。
喫茶店で打ち合わせ。午後1時、横浜市立港南台第1中へ。
校長先生、教頭先生と懇談。

午後1時40分。全校集会「人権講演会」を行う。



講演会終了後、午後3時過ぎから午後4時近くまで生徒会役員
などと懇談。


午後4時、港南台第1中を出て、横浜へ。
横浜の神奈川県民センターで「神奈川県青少年協会
スタディーツアー」の皆さんとお会いする。
皆さんはベトナム事務所の刺繍などを買って、
日本で販売。その売上金4万円を「子どもの家」に
寄付してくれた。今日は、寄付の贈呈式。
監督の佐野さんをはじめ12人の参加者が参集。

●寄金贈呈式

●神奈川県青少年協会スタディーツアーの皆さんと


往復4時間近くの旅程だった。
「究極のいい女」(大石静著:角川文庫)を読む。

大石静に興味をもったのは、NHK朝の連続ドラマ「二人っ子」の
台本作家だったからだ。ベトナムでNHK朝のドラマは
午前6時15分から15分間、衛星放送で見られる。
この10年近く見ているが、一番面白かったのは
「二人っ子」だった。第2が「ちゅらさん」。
二人っ子の脚本を作った大石静がどんな文章を書くか、
非常に興味があった。大石静はもともと女優志願。
「二兎社」という二人劇団を作っていたが、うだつが
あがらず脚本作家に転身。このエッセー集はなかなか
興味のあるものが多かった。軽い気持ちで読める本。
イタリアで痴漢にあったが、イタリアと日本の痴漢の
違いを分析。日本の痴漢は「ねちっこい」痴漢。
イタリアはおっぱいをグイグイ掴むような痴漢だった
とのこと。痴漢も国情によってちがうとのこと。
桂枝雀が「二人っ子」の将棋に先生役となり
大石静との付き合いがあったそうだが、
やはり躁鬱的な気質があったとのこと。
女性が男性をどうにているのか、大石静的な
見方を披露している。

投稿者 koyama : 20:41 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月30日

ピースボート乗船準備  読書

晴天

「感動禁止 涙を消費する人びと」(八柏龍世著:ベスト新書)

「感動をありがとう」「勇気をもらいました」と言って涙を
流す人が多くなった。元々『感動』や『勇気』は、与えられるもの
ではなく、内発的に抱くものではなかったのか?だからこそ
価値があるのではないか?・・・・・。
一体いつから「涙』は軽くなり、「感動」はお安いものに
なってしまったのだろうか?
内実なき熱狂を買い求める空っぽ人間が何故多数派を
占めるようになったのか? という疑問点から始まった
著者(元高校教師・予備校講師・東大で自主ゼミ開催)
が感動や涙が消費経済社会の中で資本の利潤の
対象となっていく現代社会の構造を分析している。
団塊の世代の「70年安保」時代から現在までの
感動と涙の変遷史でもある。戦後の歴史をこうした
視点で見るのも学ぶものがある。私的で内面的で
あり内発的であったはずの「涙」や「感動」すら
利潤の対象となってしまった現在社会の病理。
人間が人間として生きられない利潤追求、
資本に従属する人間社会が作られた。
「疎外」ということばが、現実感を持って感じられる
昨今である。

10月は12冊の読書。読書は娯楽。読書数が全く少ない。


11月2日からピースボートに乗船する。
3回の講演会の内容を準備する。同時に荷物の
整理と準備。

ソフトバンクのテレビCMを見た。何か陰湿で暗い感じだ。
命令と従属。ファシズムを本質に持っている。
孫社長の人間性が現れているように思えた。
人間を人間として見る視点がない。
人間を将棋の駒と見ている、そうしたことを通して
お金が全てとアピールしているCMに思えてしまうほど
暗い陰湿なCMだった。

投稿者 koyama : 17:08 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月29日

JASS・12周年記念誌編集会議ー懇談ー高校クラス会

晴天

前日受信した13通のメールを読み、9通の返信。

昼前自宅を出て地下鉄西巣鴨下車。都電荒川線に乗り換え
10分。飛鳥山下車。東京で唯一つの都電となってしまった
荒川線。早稲田から三ノ輪まで。

北区教育会館で行われた「JASS12周年記念誌編集会議」
に参加。

●ベトナム事務所、日本語学校、日本料理店などで
 ボランティア支援をしてくれた皆さん。日本へ帰国後
 引き続き「子どもの家」への支援を続けている。感謝。

●JASS創立当時からの日本事務所員。長いお付き合いである。

 
1時間半ほど編集会議に参加。2007年2月の総会をめざし
一層、「現地の自立」を進めることになっている。
JASS創立12年間を写真と文章に残そうということになり、
今日の編集会議が行われている。
私はベトナムにいるので、編集そのものにはタッチしてないが
素晴らしい記念誌ができそうだ。関係者の皆さんの努力に
お礼。


午後3時、巣鴨駅前の喫茶店でA氏と懇談。
A氏は小学校と高校で同級生だったAさんの弟さん。
現在、剣道や柔道などの武道具会社を経営。
ベトナムで剣道の小手や防具などが出来ないかとの
こと。お姉さんから私のベトナムでの活動を聞き、
こうした形で「支援」したいという話だった。
弟さんと2時間ほど話し合う。現在50歳代半ば。
偶然、A氏のお姉さんと小学校3年・4年と同級生だった。
私は5年で板橋区へ引越した。その後、高校で
又偶然お姉さんと同じクラスになり3年間過ごす。
当時A氏のお父さんは小学校PTA会長、
地元の信用金庫だったと思うが、理事長。
私は、父親が事業に失敗、文京区大塚・
林町と転々とし、Aさんの住んでいる豊島区の親類の
6畳一間に6人家族で間借りしていた時期だった。
私から見るとAさんは、地元のお金持ちのお嬢さん。
私は家が倒産し、親類の一間に間借りしている
「貧乏人」という社会の両極に位置する存在。
弟さんの話だとその後、A氏のお父さんが騙されて
保証人となり家屋一切を没収され、かなり苦労された
とのこと。小学校から数えると50年という年月が
流れた。Aさんもこの50年の間にそんな苦労があったのか
と改めて人生というものを考えた2時間だった。

午後5時、巣鴨で高校クラス会。14人参加。
海外在住組では、キューバーのCさん、ベトナムの私。

高校を卒業して40年。同級生の皆さんそれそれがそれの人生を
歩んできた。いよいよ来年度、「還暦」の年となった。
「第2の人生」に足を踏み入れる時期がやってきた。皆さんは
どんな第2の人生を歩んでいくのだろうか?


B君は大学院に合格したとのこと。社会福祉運動論を学び直す
とのこと。素晴らしいことだ。Cさんは、キューバ人と結婚。
キューバから日本へ「今のキューバ」を発信している。
お子さんが小学校を卒業するまでPTA会長をしていたD君。
今年やっと小学校を卒業したとのこと。まだ10年間は、
子育てだと言っていた。


60年の年輪をさらに育て、健康で意義のある人生を
送りたいものである。団塊の世代と呼ばれている
私たちではあるが、一まとめにはけして出来ない
一人ひとりの人生である。
 和食夕食会後、近くの喫茶店で更に話し合う。
午後10時半、解散。2008年に「還暦記念クラス会」を
しようとの話となる。
こうして毎年何度もクラス会ができるのは、G君や
Tさんなどが下働きしてくれるおかげである。
毎回、会場を設定、みんなに連絡をしてくれる人がいて
初めてこの種の会合は成立するのである。ありがたい
ことである。
午後11時、自宅着。

投稿者 koyama : 09:16 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月28日

静岡の会講演会

晴天。

午前中、投宿したホテル、喫茶店で休息・講演会の骨子を
まとめる。

午後12時半、講演会場である静岡県教育会館へ。
会場は旧駿府城にあった。

午後1時から午後3時半まで講演会。30人ほどの参加。
高校生や静岡の会の皆さん。土曜日の午後、わざわざ
講演会に来てくれたことに感謝。

「子どもの家」の実態、自立に向けた新たな試みなどを
話す。日本語学校、日本料理店、縫製研修工場など。

ベトナムの「子どもの家」を支える静岡の会は12月24日
からベトナムへのスタディーツアーを行う。

今回の静岡行きでは笠井さん、滝下さん、牧田さんなど
多くの静岡の会に皆さんのお世話になった。感謝。

午後6時。自宅へ。午後9時、BS-2「男はつらいよ 柴又より
愛をこめて」を見る。

何とか、15キロの上野ウオーキングの筋肉痛が解消中。

投稿者 koyama : 21:08 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月27日

静岡ー長田西小講演会ー小島静岡市長懇談

曇り

午前4時起床。昨日の4時間半「上野ウオーキング」の
筋肉痛がひどい。午前6時半、自宅発。東京駅へ。
こだまの各駅停車で静岡へ。午前9時55分、静岡駅で
ベトナムの「子どもの家」を支える静岡の会の滝下さんと
合流。滝下さんの車で静岡市立長田西小学校の講演会へ。
午前10時半。長田西小。静岡の会の藤井先生の案内で
6年生130人の学年集会へ。

ベトナムの子どもたちの様子、「子どもの家」を作る経過、
人間が生きるということ、人間社会で人は生きるという意味
などを話す。

講演会が終わり、児童代表が「お礼の言葉」を言ったが、
感極まったのか、ないていた。何と感受性の強い女の子
だろう。長田西小講演会は2回目だと思うが、日本にも
こうした小学校がまだあるのだと改めて感動した。
子どもたちが「純」である。真っ当な子どもたちが育っている
ように感じた。校長先生をはじめ先生方の姿勢の影響
なのだろうか?

昼近くに講演会終了。静岡の会の滝下さんは推薦する
100%そば粉の蕎麦屋へ行く。確かに小麦粉のつなぎを
使わない「蕎麦」はこしがあり、美味しかった。

午後2時、静岡市役所へ。小島静岡市長と懇談。
静岡の会の滝下さん・牧田さん・笠井さんに同行して頂く。

静岡市とフエ市の友好都市の話。フエ市から下水道・環境担当
職員を研修生として静岡市に招待している話。
2007年2月の静岡市議会議員団のフエ訪問の話など。
30分間の懇親。いつものことではあるが、小島市長はなかなか
心のある方。政治的信条は違うのかも知れないが、
人間的には信頼できる方である。私と同い年。


懇談会終了後、笠井さんの案内で静岡駅近くの日本茶専門
喫茶店へ。しばらく諸問題を話す、その後新静岡駅にあるホテルへ。
ホテルに荷物を置き、ホテルの近くで笠井さんと「子どもの家」
や今後のJASSのあり方などについて意見交換。

午後6時。ベトナムの「子どもの家」を支える静岡の会懇親会。



ベトナムの「子どもの家」を支える静岡の会代表山崎先生と。
静岡大学教育学部教授。11年前に静岡の会が発足して
以来、静岡の会の代表をして頂いている。有難いことである。


投稿者 koyama : 20:31 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月26日

上野まで4時間半のウオーキング

晴天。

午前7時45分自宅発。上野まで15キロの個人ウオーキングを
敢行。
高島平から城山を通って志村坂上ー中仙道へ出る。中仙道を
歩く。大和町交差点へ。中仙道と環状7号線との交差点。
自宅を出てちょうど1時間。かなり左足の付け根が痛くなる。
交通量が非常に多い。

中仙道を左折し環状7号線に入る。この辺は、小学校5年から
教員に就職するまで住んでいたところ。

途中まで来たついでに卒業した稲荷台小学校を見る。
既になくなっていた。現在は加賀小学校となっていた。
環七「姥ヶ橋」交差点を右折。卒業した「加賀中学校」の前を
通る。まだ残っていた。

JR十条駅踏切を通る。

徒歩15分ほどで北区役所へ。

北区役所の隣りの「音無川」「音無橋」へ。自宅からちょうど2時間。


このあたりで左足の付け根が異常に痛くなる。

音無橋は、本郷通りと明治通りのT字路。
後ろに江戸時代からの桜の名所「飛鳥山」がある。

本郷通りを駒込方面へ。
飛鳥山の正面にJASS総会などの会合に使っている
北区教育会館がある。私は1971年、北区の教員になった時
から北区教育会館に毎日通い、各種会合などを行っていた
思い出の場所である。

本郷通りを駒込駅方面に行く途中にお札を印刷する「大蔵省印刷局」
がある。

明治の古河財閥が作った「古河庭園」。1971年から1988まで
この近くの小学校に勤めていた。子どもたちを連れて良く遊びに
来ていた。当時は無料。現在は150円。

更に本郷通りを歩く。霜降り交差点。教員時代の学区域。
この付近に教え子が住んでいた。家庭訪問で何度も
霜降り交差点を通った。

JR「駒込駅」につく。17年間この駅を使った。

疲労が溜まる。ひと休み。
「六義園」。元禄時代(1702年)柳沢吉保が作った庭園。
教員時代は無料だった。やはり子どもたちを連れて
よく遊びに来た。今は300円の入園料。当時は美濃部都知事
時代。

20分ほど園内のベンチで寝る。かなり疲れる。
この時点で自宅を出て既に3時間ほど経過。

更に本郷通りを進む。上富士交差点で左折し
不忍通り(しのばずとおり)に入る。

不忍通りを上野方面へ。動坂、道灌山、千駄木へ。
千駄木2丁目交差点を右折すると日本医科大学病院へ。

10分ほど歩くと根津へ。昔は根津八重垣町といった。
「八重垣煎餅」というお店に江戸時代からの名前が
残っていた。

直ぐに根津神社。

このあたりで左足付け根の筋肉痛が酷く歩けない状態。
何とか頑張って歩く。

しばらく歩くと池之端へ。上野動物園へ(水上動物園)。

水上動物園の隣が「不忍池」。

最後の力を振り絞り、ゴールの「上野広小路」へ。
現代に例えると「渋谷センター街」のような場所だったようだ。

終着点の上野広小路まで自宅から4時間半。午後12時半
近かった。アメ横で買い物などと思っていたが、あまりに
足が痛く到底買い物という状況ではなくなった。
はやり4時間半のウオーキングは少し強引だったかも
知れない。JR上野駅まで歩き、自宅へ。
自宅でゆっくりと休む。

とにかく自宅から徒歩で上野まで歩いたということは、
それなりに自信ともなったが、楽しい4時間半だった。
歩くと色々なものが目に入る。こんなお店があったのか
と新しい発見がある。
車がそれほど普及する前の日本人は毎日この程度が
歩いていたのかも知れない。情けないが当時の日本人
には到底勝てない。しかし、時間があれば出来るだけ
歩きたい。車をやめて既に20年。歩くことで新しい
世界と少し出会ったような半日だった。

夕方から足が痛く、明日の静岡講演会にいけるのか
不安になってしまった。


投稿者 koyama : 15:32 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月25日

ウオーキング

晴天 寒い

午前9時。自宅を出てウオーキング。赤塚公園→東京大仏
→自宅(1時間半)

途中、東京大仏に区内の小学生が社会科見学で来ていた。
子どもたちが大仏の前で大騒ぎ。20歳代の担任の先生も
一緒になって騒いでいる。このお寺には天保の大飢饉で
亡くなった多くの農民を慰霊するお墓がある。
そうしたお墓・霊場で馬鹿騒ぎをする子どもたちも馬鹿だが、
それを容認する若い教師も異常である。若い教師は子どもたち
の馬鹿騒ぎをデジタルカメラで撮影。自分も一緒に撮影されて
いる。校長先生が「君たち静かに」と微かな注意をしてはいたが。
こういう時代になったのだと改めて考えてしまった。
子どもたちがお墓で馬鹿騒ぎをするのは、あるかも知れないが、
先生が子どもたちと一緒にお墓で馬鹿騒ぎしているのには
驚いた。人間の死、霊場という意味が全く分からない先生が
現実に存在する恐ろしい教育現場である。この教師は
簡単な「ノリ」で子どもをいじめの対象にしかねないなと思った。

1時間半のウオーキングはやはり疲れた。しかし、やっと
ウオーキングをしようという気力が出てきた。

22通のメール受信。11通のメール送信。
何人かの支援者にTBS-BSのビデオを郵送。

夕方、上野アメ横へ。「根昆布」を買いに行く。
山手線で昔の保護者に会う。1971年、最初に私が教えた
子どもの母親である。当時の子どもは44歳になったとのこと。

読書。

投稿者 koyama : 18:57 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月24日

終日、休息

終日、雨。すごく寒い。

「兄弟」(なかにし礼 著:文春文庫)
古本屋で350円。

なかにし礼の「赤い月」を以前読んだが、その続編。
赤い月が、なかにし礼一家が満州でどのような生活をし
どのようにして逃避行を行い、日本へ帰って来たかが
小説として書かれていた。

『兄弟』は日本へ帰国し、小樽で生活し、自宅を担保に
30万円という大金を借り、増毛で「にしんの網」を3日間買い、
3日目に大量のにしんが捕れるが、兄が更に儲けようと
本土ににしんを売るため船で日本海をわたる。大しけで
結局、大量のにしんを日本海に捨て、すってんてんになる。
そこからなかしに礼と兄、家族の苦闘が始まる。
兄は、その後も仕事をしないで借金を重ね、全て、弟の
なかにし礼は尻拭いをする。
兄と弟のなかにし礼との確執という設定ではあるが、
兄の虚無的な生活と人生は、「特攻隊」予備軍としての
訓練中に戦争が終わったことから始まる。
なかにし礼の戦後の貧困と苦闘、兄と家族との確執など
の全ての出発点が「中国からの引き上げ」から始まる。

私は自分と我が家の経歴とを重ねながら読んだ。
結局、兄も弟も「国家」というものを根本的に信じていない
というスタンスをもって戦後を生き抜いてきた。
終始貧しさとの闘いの中で苦闘した兄と弟。
なかにし礼の表現力に感嘆する。「赤い月」よりも
表現力と説得力のある小説。

石原慎太郎の「兄弟」も読んだ。良く出来ていた。しかし、
なかにし礼の「兄弟」を読んでしまうと、石原慎太郎の
「兄弟」はとても薄っぺらいものに感じた。
石原慎太郎が逗子でヨットに乗って遊んでいる調度その時、
なかにし礼は兄の借金に追われ、東京の3畳の安下宿で
ゴキブリに追われ、布団の周りにDDTを巻き、新聞紙を布団に
かぶせて寝るという生活をしていた。
なかにし礼が作詞家として出発するのは、なかにし礼が新婚旅行
に行き、ホテルの庭にいると、石原裕次郎は映画の撮影に来ていた。
ホテルの庭で偶然裕次郎に「新婚旅行ですか?」と無名の
なかにし礼が声をかけられ、この一言がなかにし礼にシャンソンの
訳詞、流行歌の作詞で生きていく道を開いたのではある。

この 本を読むと、「人間は時代に制約される」ということが分かる。
その時代から超越は出来ない、時代と共に人間は生きるというとが
分かる。1947年(昭和22年)生まれの私もその時代の中でもまれ
時代の経済に制約され、時代の政治に追い詰められ生きてきたの
である。時代を恨むことは出来ないが、時代を変えようとする努力は
出来る。1947年は日本国憲法、教育基本法、独占禁止法が
施行された年である。これら憲法、法律の出生と同時に生まれた
私がこれらの影響なしに今日まで生きてくることは出来なかった。
「時代が人間を作る」と言うのは、本当だと「兄弟」を読んで
感じた。

同じ「兄弟」でも前福島県知事兄弟の腐敗ぶり。
教育再生会議で「子どもたちに規範意識」を持たせるという。
その前に大人たちこそ、規範意識がないのではないだろうか?

昨年9月11日の「郵政民民営化選挙」。自民党は刺客を
立てて、国民に訴えた。郵政民営化が構造改革の原点だと。

昨日、安部首相は、昨年の郵政選挙で刺客を立てて落選
させようとした、元自民党議員や落選した元議員を入党
させるという。議会制民主主義の原点である総選挙である。
公党が国民に対立候補を立てて「あなたの考えは間違いです」
と訴えたのである。その相手を入党させるということは
道義・道徳・国民の規範としても最低の行動である。
安部首相が教育基本法を「改正」を言う前に、自分の規範意識が
相当低下していることを自戒すべきでである。
首相になる前に安部首相が言っていたことと首相になって
言っていることが大分違う。以前の支持者から相当な批判がで
いるという。非核三原則を堅持するといっていることは良いことだ。
でも以前、言っている自らの発言との整合性がない。
そのことについて、自己釈明が必要である。政治だから
事情に合わせて意見は変わるではそれこそ「社会的規範意識
がない」ということになる。


午後、池袋へ。本屋を数軒回る。外は豪雨。西口、地下には
私と同年齢の ホームレスの「おじさん」たちが、床に座り、
おにぎりを食べていた。私と同じ年恰好のこの人たちが
どんな事情でホームレスになったのか? 
脇を通りながら、何かやるせない気持ちになった。

日本ハムが勝った。よしよし。

17通のメール受信。11通のメール送信。

投稿者 koyama : 21:16 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月23日

京都フェアートレードの皆さんと打ち合わせ

京都ー曇り  東京ー雨

午前10時。京都駅の喫茶店で「京都フェアートレード」の
Yさんたちと懇談。
数ヶ月前に依頼された「団扇の竹の柄」サンプルについての
打ち合わせ。やはりベトナム・フエ製のサンプルは、様々な
問題があった。
1時間半ほど打ち合わせを行い、更にフエに戻って改良を
加えることを約束する。
京都フェアートレードの皆さんからは、刺繍の依頼を新たに
受ける。
フエで出来る様々な仕事を「受けて」現地の自立に結び付け
たい。紆余曲折はあるが、人との出会いの中で何とか
現地の財政的な自立の目処を立てたい所である。

午後12時過ぎ、京都発の新幹線で帰京。
車中で読書。「兄弟」(なかにし礼 著)


夕方自宅着。

たいした仕事もしなかったが、やけに疲れる。
そのまましばらく横になる。

火炎樹日記を書く。パソコンのタッチ・パッドの
調子が悪い。日記を書くのと合わせて、画面が消えてしまう。
タッチパッドを調整しようとして、間違ってタッチパッドを
OFFにしてしまう。ポインターが動かなくなりパソコン
が使えない。仕方なく、小型マウスを買い、何とか
火炎樹日記を書き上げる。

前福島県知事 佐藤栄佐久知事が収賄の容疑で逮捕。
腐っている。

10月23日朝日新聞夕刊。
アフガンでボランティアをしている私の尊敬する
「ペシャワール会」の中村哲氏。
火野葦平著「花と竜」の主人玉井金五郎の孫だと書いてあった。
なるほどと思った。北九州の若松の沖仲仕を束ねた「花と竜」
の主人公玉井金五郎の孫。義理と人情、意気に感じて行動する
祖父のDNAが流れている。ODA批判を厳しくしている中村氏の
原点を見る思いがする。

投稿者 koyama : 17:59 | コメント (0) | トラックバック

京都国際センター講演会

曇り


「今だから書ける 父母への手紙」(壇 ふみ他35人 
新潮文庫)を読む。家の前の古本屋で200円。
親が著名人の子どもたちから見た素顔の親への手紙。既に
故人となった親への手紙である。非常に興味深いものだった。
手塚治虫の子ども、斉藤茂吉の子(北杜夫)、福田赳夫元総理
の娘、本田宗一郎の息子、小林亜星から父へ、瀬戸内寂聴から
父親へ、高見順へ娘の恭子から、泉ピン子から父親へ、田中角栄
へ息子・京から、南海鶴岡一人監督へ息子から、作家島尾敏雄
へ息子から、女子プロアズアコングから母親へ、岸田国士へ
娘岸田今日子、石井ふく子から母親へ・・・・・・・。

それぞれの子どもたちがそれぞれ違った人生を歩んでいるが、
ほぼ共通して「有名人の父や母に対して、自分は違うという
強烈な自己主張をし、有名人の親に反撥」する人生を送っている
ことだ。自分は自分、親は親。
親の有名なことを利用して生きるということを「潔し」としない、
強い人間性をもっていたことが良く分かる。

これらの子どもたちから比べると、今の二世、三世の政治家たち
がいとも簡単で安直な人生を歩んでいるように思えてならない。
 一昔前の「有名人」の子どもたちは親の作った道を唯々諾々と
して追随することを嫌う根性があったが、安部首相も含めて今の
多くの二世・三世政治家はそうした「自己確立のための自己闘争」
すらしないまま、親の決めた道を安直に歩んでいるように思えて
ならない。
二世・三世議員の多くは、精神的な自己確立をしないまま
政治家になった人が多いように思われる。

午前7時過ぎ、自宅を出て東京駅へ。東京から新幹線で京都へ。
2時間半。車内で上記読書。
京都駅は大勢の人でごった返していた。今日は「時代祭り」があり
夜は「鞍馬の火祭り」があるとのこと。そういえば、東京駅から
大勢の観光客(案内ガイドの小旗を先頭に)が京都行きの
新幹線に乗っていたっけ。

午前11時半、「京滋YOUの会」の藤井さんたちの出迎えを受け、
近くのホテルの喫茶室でサンドイッチの軽食。

午後1時半から午後3時半過ぎまで講演会。
京都府国際センター・「京滋YOUの会」主催の『東南アジア理解講座』
の一環。

京都府国際センターより「京滋YOUの会」へ日ごろの諸活動・
協力に対して「感謝状」の贈呈。

「京滋YOUの会」学生会員の司会で講演会が始まる。

60人ほどの参加の方々が熱心に話を聞いてくれた。


私は、「東南アジア講座」と銘打ているので、簡単な
ベトナム略史を報告。その後、「子どもの家」の様子、
自立に向けての日本語学校、日本料理店、縫製研修工場
などの取り組みについて報告する。


その後、若干の質疑応答。
午後3時半過ぎ終了。

午後4時、近くの喫茶店で参加者と懇談

午後5時半。京都駅前の料理屋で「京滋YOUの会」との
懇親会を行う。

中村代表が乾杯の挨拶。

大学生や若者も多く参加。老若男女で
懇親。

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2006年10月21日

こうばこの会口演会

晴天

「智恵子抄」(高村光太郎著 新潮社)を読む。
家の前の古本屋で100円で売っていた。

この詩集は、光太郎の独身時代、智恵子との出会い、
結婚、智恵子の発病、智恵子の死、死後の孤独な
光太郎、そして光太郎の死までを年代順に詩が編集
されいる。
光太郎と言う人間の生の叫びと声が、その時々の
光太郎のおかれている生活実態に合わせて、聞こえてくる。

光太郎は明治の高名な彫刻家高村光雲の子供として
生まれ、フランスなどに留学。昭和初期にすでに16ミリ
フィルムで智恵子を撮影している。

智恵子は福島県二本松町漆原(当時)の裕福な
造り酒屋の長女として生まれる。
日本女子大で学ぶ。卒業後、油絵を勉強。
平塚雷鳥などの「青鞜」運動にも参加。雑誌青鞜の表紙なども
描いている。

智恵子が「東京に空はない」と言ったのは、精神に変調を
来たことも原因かと思っていたが、そうではなかった。
智恵子は生まれ故郷の福島県二本松をこよなく愛していた。
結局、東京での生活には最後まで慣れないまま結婚生活
に入っている。年に3ヶ月ほどは福島の実家に帰っていた
とのこと。東京に空はない、と言う詩は、当初の智恵子抄
には入っていなかった。光太郎の死後、新しい詩が出てきて
改定時に付け加えられた。「あどけない話」と言う詩の一部
である。

光太郎と智恵子の恋愛中、結婚中の詩は有名なので
この際省き、私の興味のある部分は以下の詩である。

これは戦後直ぐに書いた光太郎の詩である。

「報告」(智恵子に)

日本はすっかり変わりました。
あなたの身ぶるひする程いやがっていた
あの傍若無人のがさつな階級が
とにかく存在しないことになりました。
すっかり変わったといつても、
それは他力による変革で
(日本の再教育と人はいひます。)
内からの爆発であなたのように
あんないきいきした新しい世界を
命をかけてしんから望んだ
さういう自力で得たのではないことが
あなたの前では恥しい。
あなたこそまことの自由を求めました。
求められない鉄の囲の中にいて、
あなたがあなたに求めたものは
結局あなたのこの世の意識の外に遂て
あなたの頭をこわしました。
あなたの苦しみを今こそ思ふ。
日本の形は変わりましたが、
あなたの苦しみを持たないわれわれの変革を
あなたに報告するのはつらいことです。
(昭和22年 6月 1947年)

★この詩は戦後の民主化が国民一人ひとりの戦争への
 厳しい反省の上に立って行われたものではないことを
 痛烈に批判しているように思えてならない。この戦後
 の民主化の中途半端さが靖国問題、9条問題にも
  持ち越されているのではないだろうか?
  光太郎の言っている「あなたの苦しみを持たないわれわれ
  の変革」という言葉の重い意味。
   未だに多くの「世襲議員」にコントロールされている
   日本の偽民主主義を予見している。


「報告」

あなたのきらひな東京へ
山からこんどきてみると
生まれ故郷の東京が
文化のがらくたに埋もれて
足のふみ場もないようです。
ひと皮かぶせたアスファルトに
無用のタキシが充満して
人は南にゆかうとすると
結局北によかされます。
空に爆音、
地にはラウドスピーカー。
鼓膜を鋼(はがね)で張り詰めて
意思のない不生産的生きものが
他国のチリンチリン的敗物を
がつがつ食べて得意です。
あなたのきらひな東京が
わたしもきらひになりました。
仕事が出来たらすぐ山へかえりませう、
あの清潔なモラルの天地で
も一度新鮮無比なあなたに会いませう
(昭和27年 11月 1952年)

今日の「資本本位」「金儲け第一主義」による
日本の荒廃を見事に予見している。

戦後の光太郎の二つの「報告」は
その後の日本、今日の日本を見事に予言している
ように思えてならない。


智恵子抄を読んで一番衝撃を受けた詩

「淫心」

をんなは多淫
われも多淫
飽かずわれらは
愛欲に光る

縦横無碍(むげ)の淫心
夏の夜の
むんむんと蒸しあがる
瑠璃漆黒の大気に
鳥魚と化して踊る
つくるなし
われら共に超凡
すでに尋常規矩(じんじょうきく)の網目を破る
われらが力のみなもとは
常に創生期の混沌に発し
歴史はその果実に生きて
その時劫(こう)を滅す
されば
人間世界の成譲は
われら現前の一点にあつまり
われらの大は無辺際に充る

淫心は胸をついて
われらを憤らしめ
万物を拝せしめ
肉身を飛ばしめ
われら大声を放って
無二の栄光に浴す

をんなは多淫
われも多淫
淫をふかめて往くところを知らず
万物をここに持す
われらますます多淫
地熱のごとし
烈 烈ーーーーーーーー

(大正3年 1914年)


この詩は二人が結婚した年のものである。
多少、言葉が難しいところがあるが、
内容を熟読すると、スポーツ紙の下手な愛欲小説
など足元にも及ばない明け透けな男女のからみあい
が想像されてくる。93年前に書かれたものとは
思えないような描写ではある。


終日曇り

午後3時過ぎ、自宅を出て西台→巣鴨→新宿→武蔵境(中央線)。
午後5時中央線「武蔵境駅」へ。40年前に二つとなりの武蔵小金井に住んでいた。その頃、武蔵境に何度か来たが当時は、駅前に大衆食堂があっただけ。40年ぶりに武蔵境に行ったが、あまりの変貌振りに驚く。
40年の時間の乖離は大きなものがあった。
午後5時、武蔵野スイングホール着。司会の方などと打ち合わせ。
午後6時、「2006年秋季(第39回)チャリティー公演」が始まる。
参加者は100名。

「こうばこの会」は1993年に物語を語ることの好きな視覚障害者数人によって結成される。それから10年弱。会員も100人を超え、見える人、
見えない人も、男の人も女の人も、若い人もそうでない人も
「トークパフォーマンス」の世界を作り出している。「こうばこ」とは
「香箱」。お香を炊いて心をしずめた古来の雅な風習になぞらえた名前。
今回で39回の公演と
なる。私は「こうばこの会」が出来た翌年の1994年に公演会に参加。
「子どもの家」への支援を訴えた。それから10数年から一貫して
こうばこの会は「子どもの家」への支援を続けている。今回も入場料の
純益を「子どもの家」へ寄贈してくれた。

初めに「舞扇」。
続いて「セメント樽の中の手紙」。戦前のプロレタリア文学。葉山佳樹作。
コント。「力」「しりとり病」「勇者ですけど」。


中入り休憩。

私のお礼と挨拶。


「つ」の字(なまくら より)

最後の参加者全員の挨拶。


午後8時過ぎに全て終了。
公演会には福田もえ子副代表も参加。



今日の感想をインタビュー。


自宅宅午後11時。


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2006年10月20日

グエン・タン・ズン ベトナム新首相訪日歓迎会

終日曇り。

「べけんや わが師匠、桂文楽」(柳家小満ん著 河出文庫)
私の大好きな桂文楽の内弟子の小満んの「弟子体験記」。
品格があり明るく、粋ないかにも東京の咄家然としたところ
あった。
小満んは、東京農工大学の学生時代、横浜相鉄ビルにあった
「相鉄演芸場」で桂文楽の噺を聞き、大学を中退し入門。
文楽が死ぬまで内弟子として文楽の家(上野黒門町)に
すんでいた。文楽の人間像が良く出ていて読んで楽しい。
文楽の十八番(おはこ)に『寝床』という噺がある。
義太夫に熱中した大店の旦那が、当たりかまわず、
義太夫を聞かせるという噺。私はテープで100回以上は
聞いている。ほとんど細部まで暗記している。
文楽も義太夫に凝って同じことをしたようだ。
1971年8月31日、国立小劇場「落語研究会」で
「大仏餅」を話したが、途中で「神谷幸衛門」という言葉が
出てこなくなり、「・・・まことに申し訳ありません。勉強し直して
まいります」と言って退席。それ以来、落語を一切止めてしまった。

午後5時、自宅を出て、地下鉄で永田町へ。
ホテルニューオータニへ。宇都宮縫製工業組合の
佐藤理事長と合流し、グエン・タン・ズンベトナム新首相の
歓迎レセプションに参加。
数百人の参加で午後7時40分に開会。

ベトナム代表団は、ズン新首相をはじめ商工大臣など経済
関係の大臣、主な省の知事、大企業の社長など60人の
代表団を編成。

はじめにズン新首相の挨拶。典型な南部のことば。

ズン新首相の挨拶の最後に「天皇陛下のために乾杯をしましょう」
と乾杯となる。


続いて、塩崎官房長官の挨拶。特に内容なし。

その後、参加者と懇談。

●日本共産党 市田書記局長と

●新党 大地 鈴木宗男代表と
 鈴木宗男氏は私と同い年(1947年生まれ)
 私が東京学芸大で勉強していたとき、拓殖大学にいたとのこと。
 もちろん考え方は鈴木氏とは違うが、それでも同じ団塊の世代
ということと、主流に居た人が主流を外された悲哀に何か
同情する気持ちがある。


●LY(リー)トゥア・ティエン・フエ省知事と
副知事時代からの知り合い(左から二人目)



●ベトナム商工大臣と

●ズン新首相と佐藤・宇都宮縫製工業組合委員長

経済関係の参加者は「お金儲け」と顔に書いてある異様な雰囲気を
感じた。参加者全体が「損得」で生きている人たち大集合パーティー
に思えたのは私一人だけだろうか?

午後10時過ぎ、自宅着。

投稿者 koyama : 15:50 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月19日

上尾市商工会議所「聚正義塾」講演会

晴れのち曇り

「蟹工船」「党生活者」(小林多喜二著:新潮文庫)を読む。
高校生か大学の頃読んだ記憶があるが、改めて読んで見た。
小林多喜二が小樽の人(出身は秋田県)と言うこともあって。
1929年発表。日本が戦争に突入していく時期にこうした
「根性」をもった日本人がいたことは、日本人の誇りでもある。

函館で季節労働者として雇われた農民、坑夫、漁民、土方、
学生、貧民街の少年たちが蟹工船「博光丸」に乗せられ
カムチャッカのソ連領内に違法に侵入して蟹を取る。
無権利状態の労働の中で何人もの人間が死んでいく。
自然に労働者からサボタージュが起こるが、結局
密漁をする蟹工船を護衛している駆逐艦の水兵によって
弾圧されるというストーリー。たこ部屋のたことは、
自分の体を食べて生きていくという意味だそうだ。
蟹工船の労働者はまさに自分の体をかけての
労働である。病気になり死んでいくことを前提に
蟹工船で仕事をしている。タコと同じである。
「たこ部屋」。

日本の大企業が行っている「偽装請負」はまさに現代の
蟹工船ー近代的「タコ部屋」である。
偽装請負の実態がいかに非人間的なものか、
派遣労働が体を切り売りして生きている実態がある。
先日の衆議院予算委員会でその実態が明らかになった。

「党生活者」は1932年に書かれた。著者の小林多喜二は
翌年、築地警察で拷問により虐殺される。その年、中央公論に
発表されたが、5分の1が伏字。全文が発表されたのは戦後。
今、改めて読む意味の十分ある小説と感じた。それは、
国が戦争に突入しようとするとき、国民全体を狂気と熱狂
に駆り立て、一部の全うな人間を「異端者」(当時は赤)として、
排斥することという常套手段がおこなわれる。
今から75年前にあった「昔の話」とはいえない切実感を感じた。

午後、浮間舟渡駅から大宮へ。大宮のみどりの窓口で
明後日の京都行きの新幹線切符、静岡行きの新幹線切符を
買う。窓口の担当者に『「東京電環」で下車できますね?』
と聞く。担当者は「東京電環って何ですか?」と逆に質問される。
東京電環、知らないですか?と質問すると、JRにそんなことばは
ありませんとのこと。「水戸発東京電環行き」などいう切符が
あったのに・・・・・・。仕方がないので、新幹線は東京発だが
山手線とその付近の駅から乗降できるという切符、と説明。
それならありますとのこと。これほどはっきりと「ありません」
と言われると私が間違っていたのか、と思ってしまう。
自分の仕事に対する責任感(知識・技術等の習得)がなくなって
来た日本社会ではある。

午後4時、上尾駅着。駅には星野さん、加藤さんがわざわざ
出迎えに来てくれていた。恐縮。

加藤さんの会社でしばらく星野さんと懇談。星野さんの案内で
会場である「上尾市商工会議所」へ。

午後6時から講演会。
『上尾未来大学「聚正義塾」(しゅうせいぎじゅく)10月講座』
聚正義塾は、江戸時代に栃木県の足利学校と同じ時期に
上尾で開講していた学校だったそうだ。
星野さんたち商工会議所の皆さんがその名前を現代に
生かし、若手の企業家育成のための学校として「聚正義塾」
という名前を復興したとのこと。
塾長は星野理一氏。参加者は65名。

はじめに星野理一塾長の挨拶。

その後、私の講演。テーマは「たった一人でのベトナムでの挑戦」
はじめに自己紹介も兼ねて5本のテレビ放映等の一部を上映する。
ドキュメンタリー人間劇場、テレビ大阪ボランティア21、
テレビ東京学校に行こう・・・・。

・「子どもの家」の設立の経過と苦労
・自立に向けた起業の実際
・13年間の活動の中で学んだ8つの教訓

こんな話を90分ほどした。

その後、参加者から質疑応答あり。

最後に2007年3月実施される「ジュニア・グローバル・スタディー
ツアー」(JGST)参加の呼びかけを加藤氏が行う。

午後8時過ぎ講演会は終了。

上尾駅前で「子どもの家」へ上尾市国際交流協会スタディーツアー
で訪問した皆さんとの懇談会。

星野さんたちは上尾市国際交流協会を設立し、上尾市の中高校生
をアジアの国に連れて行き交流をしたいとの気持ちをもっていた。
インドなどいくつかの候補地を視察したが、その中に「子どもの家」
も入っていた。1998年、上尾氏の関係者が「子どもの家」を
視察。2000年、第1回「JGST」が実施された。星野団長、
加藤事務局長など何人かの大人と中高校生が「子どもの家」へ
やってきて、子どもたち同士の交流が行われた。

これが切っ掛けで私たちとの付き合いが始まる。
その後、6回スタディーツアーを実施。今夜の交流会に
参加した若者の中には、当時中学3年生だった人も
いる。みなさん大学生や社会人になっている。
6年間の月日は長くもあり速くもある。
何人かの参加した若者が「スタディーツアーに参加して
人生が変わった、参加して自分を見つめなおし・・・・」
などの感想を言っていた。

午後11時前まで交流懇親会は続く。
最後に素晴らしい「胡蝶蘭」をお土産に頂く。

懇親会終了後、星野氏のジャガーで拙宅まで送って頂く。
上尾から高島平まで15分か20分ほどであった。驚くほど
速かった。

人間の社会である。たった一人の人間が「やる気」を起こし、
行動をする。10年近くたつ。多くの子どもたちが育ち
何らかの影響を受けて生きている。会社や役所・・・などで。
私たちの生きている社会とはそうしたものである。
他人を追求する以前に星野さんや加藤さんが行動している
子どもたちのための海外スタディーツアーや若手企業家の
ための「聚正義塾」などは、まさにボランティアのサンプルで
ある。私たちが学ぶべきことが多い活動である。
私とどこかで通じるものがある。こうした皆さんと行動している
と安心してお付き合いできる。私利私欲がないといういとか?

投稿者 koyama : 12:35 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月18日

エルダー旅倶楽部関係者と懇談

晴れ・曇り

午前9時過ぎ自宅を出て、渋谷へ。渋谷駅徒歩15分。
途中、渋谷の宮下公園には、ブルーのシートで出来た
ホームレスの小屋がたくさん出来ていた。
渋谷駅前の雑踏から直ぐ近くにこんなにたくさんの
ホームレスの人たちが住んでいるのである。

エルダー旅倶楽部のOさんとHさんと懇談。
エルダー旅倶楽部は、文字通り「年配者」に国内外での
交流体験を提供するNPO団体である。
国内では
・釧路湿原の源流を行くカヌーツーリング
・軽井沢花紀行
・鷹匠と行く月山スノーシューイング
・着物で歩く京の雅のもっと奥へ  など

国外では
・パリの舞踏と芸能
・チュスター英語研修
・イギリスの庭園と田園生活
・騎馬民族と草原の風モンゴル
・ザルツブルッグ音楽祭   など

今回、「インドシナ半島に眠る遺跡を訪ねて」
ベトナム( ホーチミン市・フエ・ホイアン)
カンボジア(シェムリアップ)を訪問する。

私たちは主にフエとホイアンの案内を行う。
通常は50代から70代の方々が参加されるとのこと。
皆さん、大変お元気とのこと。
ベトナムやカンボジアを訪問し、その後の生き方の参考に
するとのこと。海外でのボランティア、海外生活・・・・・。

日程の詳細、ホテル、食事など細かい点の打ち合わせを行う。
エルダー旅倶楽部のO氏、Hさんは大変真面目な方々。
 年配者に人との交流、新しい「社会」への挑戦の
機会を作り、人生の幅を広げ、生きていることが楽しいとの
思いを持ってもらうことをめざしている。年配者の社会貢献
を促すことをめざすNPOでもある。
私たちもこうしたNPOと提携し、少しでも年配者の
「老後の生きがい」を模索する機会を作りたいと思っている。

昼過ぎ、打ち合わせを終了。

午後2時。自宅着。自宅ー巣鴨ー渋谷と出歩くと疲れる。
家へ帰りしばらく休息。

その後、明日上尾市商工会議所「聚正義塾」主催の
講演会で話す内容をまとめ、私ようのレジュメを作る。
今回の私なりのテーマは「一人で行ったベトナムで
一人で進めた起業」-「ベトナム起業で学んだもの」
といった内容。90分。話す内容の精選。話す順番の検討など
を行う。
明日の講演会のシュミレーションを行う。
せっかくきて頂いた皆さんである。出来るだけ事前の準備をして、
参加して頂いた方々に何か感じるものがあるような、
来て損をしたと思わないような内容の話をしたいものである。
明日はどうなるか?

投稿者 koyama : 19:28 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月17日

終日休息

晴天。

1日中、寝ていた。外に出るエネルギーがない。
自宅に戻り60通以上のメールに目を通す。
15通の返事を出す。

食欲なし。明日から6日間連続の講演会などが続く。
どうしても今日中に体調を回復しなければ・・・・。
とにかく、静かに横になっていることが最大の防衛策。

投稿者 koyama : 22:01 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月16日

福島から東京へ

晴天。

午前中、長男宅で寝ていた。

午後、新幹線で上野経由で自宅へ。

そのまま自宅で横になる。

頭痛、咳、倦怠感。詳細不明だが、とにかく体調悪し。

投稿者 koyama : 21:58 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月15日

終日、休養

晴天

高村智恵子が「二本松安達太良山には本当の
空がある」と言っていたが、その通りの突き抜けるような
青空。

体調を崩し、終日、長男宅で寝ていた。

投稿者 koyama : 21:55 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月14日

福島大学講演会二日目

晴天。

体調不良。風邪で声がガラガラ。

午後12時過ぎ、福島大学へ。

今日の授業は福島大学経済経営学類主催、福島大学経済学会
共催の学術講演会。

今回の授業は後藤教授の「現代教養コース 世界経済論」
の一環。
この講座のテーマは「グローバリゼーションと地球市民の成立
ー私の地球体験論」

4回連続講座。
第1回目「中米コスタリカ 軍隊を捨てて、命が一番と教える」
第2回目「アジア・ベトナム ストリートチルドレン支援活動」
第3回目「アジア・カンボジア 学生からみたNGO」
第4回目「学生から見たEU統合・市場経済化後のチェコと
      ドイツ」
ビデオなどを使い1時間半の講演。

講演会終了後、参加者と懇談会。
参加者からの一問一答。


学生の多くは社会人。ドイモイ、社会主義市場経済など
問題意識も高く、意義のある話し合いであった。
福島大学の学生は概して真面目であった。

投稿者 koyama : 10:35 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月13日

福島大学講演会

晴天。

午前中、通院。風邪と喘息治療。
家ダニの喘息。布団の交換(防ダニ布団)、喘息薬をもらう。

午後1時過ぎ自宅を出て、上野へ。上野から新幹線で1時間半。
福島駅へ。その足で福島大学へ。
数日寝ていた上、まだ体調が本調子ではないのでフラフラ
している。風邪と喘息で声がでない。困ったものだ。
東北新幹線車中で今日の授業の内容を再度確認。

大学で関係者と打ち合わせ。夕方生協食堂で「讃岐うどん」。

午後7時半から午後9時まで。経済学部・経済政策、地域経済
合同授業。

今回は「プチナショナリズム」についての私見を語る。
北朝鮮の核実験などに対抗すべしとして、日本の核武装を
主張する世論も出ている。日本の防衛力を強化すべきだ
との考えが若者を中心に広がっている。憲法「改正」、
9条の破棄などにつながる意見が、若者を中心に支持される
状況が一方にある。中国、韓国を一方的に非難する
空気も強い。

今日の授業は今までの私の講演会では話さなかった
新しい試みの授業であった。

ベトナムの9年生(日本の中3)の歴史教科書と日本の
中3の歴史教科書(東京書籍)を比較しながら、ベトナムでは
1940年から1945年までの「アジア・太平洋戦争」を
どのように教えているのかを講義した。更に「新しい歴史教科書」
ではどのように書かれているかも紹介。

ベトナムの国定教科書ではこの時期の記述は20ページ。
特に8月に入ってからのベトナム国内での半日運動、
日本軍国主義打倒運動、人民の武装蜂起などを詳細に
記述している。

日本の教科書は6ページ。読みやすくするため写真やイラスト
が多用され、実質的な記述は数ページ。

21世紀はアジアの時代といわれているが、アジアの若者が
どのような教育を受けているのかを知る必要があることを
強調した。ベトナムは国定教科書のためこの教科書を
全ての国民が使っている。少なくとも45歳以下の
国民はこの教科書で育った世代である。


講義の後、質問。「今日の授業を聞いて、少し自虐的な歴史
ではないかと思った。自分の国の暗いところを教えるのは
問題があるのでは?」との質問があった。

授業前に何人かの先生に最近の学生の状況を聞く。
政治的なことを話したがらない、自分の意見を言わない、
自分の意見と人の意見が違うのを嫌う傾向がある、
戦争・平和などの問題について、関心が薄い、
テレビやマスコミなどの影響を受けて、「戦後の
歴史教育は自虐史観だ」という意見を持っている
学生も多い・・・・。

あまり時間はなかったが、学生と話し合う。
この学生は大変真面目な学生さんであった。
しかし、日本の歴史の事実をきちんと学んでいない
ということが一方では、こうした「暗い歴史」観という
意見にうなずいてしまう原因なのかとも思えた。

午後9時半、福島大学経済学部の他の先生の
官舎を訪問、懇談する。

投稿者 koyama : 08:07 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月12日

終日自宅

晴天。

終日寝ている。

ボランティア貯金中間報告書を書く。

27通のメール受信。11通のメール送信。


「憲法9条を世界遺産に」(太田光:中沢新一著 集英社新書)

私が「爆笑問題」の太田光に興味持ち始めたのは、
昨年の秋だった。日本に帰り、夜眠れないままに
ラジオを聴いていた。
チャンネルを回すと突然、興奮気味に「大演説」をぶっている
声が聞こえた。おや?と思い聞き入ると、「憲法9条は大事だ、
何としても守もらなければならない。」と言う趣旨の話だった。
かれこれ20分程の大演説だった。こんなことをラジオで言う人は
誰だろう?と思い、聴いていると漫才コンビ「爆笑問題」の
太田光だった。ふた昔ほど前なら芸人さんでも政治的な
発言をする人はかなりいたが、今では誰も「怖がって」
無難な体勢順応なことしかいえなくなっている。そんな中で
真夜中とは言え、20分にわたり「日本国憲法、特に9条は
世界に誇れるものだ」といえる芸人さんは立派だと思い
聞いていた。

太田光は自分でも「私は左翼でも右翼でもない」としている。
憲法9条の矛盾も十分理解しながら、それでも世界遺産に
したいほど、世界に誇れるものだと言っている。

終日ショスタコービッチ5番を聞いていた。
教員になったばかりの1974年頃だったと思う。
春闘の賃上げで年度末にかなりのお金が入った。
学校に「世界クラシック音楽全集」を売りに来た業者が
いた。業者の口車に乗り、買わされてしまった。
30枚位のLPのレコード全集だった。その中に
ソ連のショスタコービッチの5番があった。通称「革命」。
20代の頃、何か苦しいことはあったり嫌なことがあった時
良く聞いた。1930年代。ショスタコービッチはスターリンに
たびたび批判され、その都度、「真摯な反省」をして
交響曲を9つ作ったと記されていた。

今年はショスタコービッチ生誕100周年とのこと。
久しぶりにCDで5番を聞いてみた。明日からの講演会を
頑張ろうといく気力が出てきた。20歳代、30歳代の苦悶
していた頃の自分が音の向こうでうごめいているように思えた。
懐かしい。

投稿者 koyama : 20:59 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月11日

終日自宅

晴れのち曇り雨。

終日、薬を飲み、水分を取って寝ていた。
自分の体であって体ではない感覚。

16通のメール受信。8通のメール送信。

柳家小せんが死んだ。好きな咄家だった。晩年の話をよく聞いた。
派手でなく地味に目立たず、淡々と話して高座を降りる。
嫌味のない噺家だった。

投稿者 koyama : 17:45 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月10日

終日自宅

晴天。

とうとうダウン。1日、家で寝ていた。発熱と倦怠。
薬を飲んで静かに休む。

15通のメール受信。9通送信。

メールは、1日溜めると、もうたまってしまい返事を書くチャンスを
失ってしまう。ベトナムでの体験。その日に来たメール(正確には
開いた時に目に入ったメール)は、その場で返事を書く習性に
している。そうしないと支援者の方に失礼なことになってしまう。
13年間の体験。

早く風邪を治さないと。

午後、衆議院予算委員会の中継をラジオで聞く。
安部首相はすっかり「おとなしく」なっている。
中国、韓国首脳との懇談で「戦略的互恵関係を構築」することで合意
したとのこと。良いことだ。
中国・韓国側は安部首相の「靖国参拝はない」と理解。
安部首相は「行くか行かないか?行ったか行かなかった」を
言わないことが理解されたとしている。
今後に問題の種を残した。安部首相はこの2週間ほどの間に
今まで自ら主張していた歴史認識とは正反対の言辞を弄している。
どちらが 本当か? そのうち、本質が現れるのか?

「それから どうなる」(佐藤愛子 文春文庫)を読む。
読んでいて3回思わず笑ってしまった。肩が凝らずに読める娯楽
の本。孫が蔭山氏たちの「百マス計算」をしている場面あり。
著者がストップウオッチで今日は2秒早く計算が出来たなどと
言う場面。思わず噴出す。
父は佐藤紅緑、異母兄弟はサトウハチロー。「血脈」は一読の
価値あり。

投稿者 koyama : 19:04 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月09日

北朝鮮の核実験に強く抗議する。世界中の核兵器の廃絶を

晴天。汗が出るほど。

昨日から風邪を引く。気温の急激な変化。
喉痛、倦怠、鼻水。

午前11時頃、北朝鮮で核実験が行われたとの報道あり。
事実確認ができていないようだが、強く抗議する。
世界中の全ての核兵器の廃絶をめざす。

駅前の薬局に風邪薬を買いに行く。

15通のメール受信。13通のメール送信。
ボランティア貯金中間報告書作成。

講演会の資料整理。関連する本の引用部分を整理。


・「ベトナム200万人餓死の記録 1945年日本占領下で」(早乙女勝元 大月書店)
・「私たちは戦争が好きだった」(本島等 森村誠一など 朝日文庫)
・「閔妃(ミンビ)暗殺 朝鮮王朝末期の国母」(角田房子 新潮文庫)
・「戦争で死ぬ、ということ」(島本慈子 岩波新書)
・「新しい歴史教科書」(西尾幹二等  扶桑社)
・「戦後 歴史の真実 」(前野 徹  扶桑社)
・「憲法9条を世界遺産に」(「爆笑問題」大田光・中沢新一 集英社新書)
・「赤い月」(なかにし礼 新潮社)
・「大地の子」4巻(山崎豊子 文芸春秋)

投稿者 koyama : 12:44 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月08日

終日自宅  「子どもの家」中秋祭り詳報

晴天。風強し。

午前9時から1時間半、ウオーキング。自宅→赤塚公園→
東京大仏。1時間半かけてゆっくりと歩く。緑と町並みを
楽しみながら。


(赤塚公園)

(東京大仏)


日中と朝晩との気温差あり。

「会長への道」(著:鈴々舎馬風 小学館)を読む。
15年か20年ほど前だろうか? 鈴々舎馬風の「会長への道」
と言う落語というのか、漫談というのか、池袋演芸場で聞いた
ことがある。
落語協会の会長になるためには、三遊亭円生会長をはじめ、
何十人の先輩が死なないと自分は落語協会の会長になれない、
と言う話。しかし、、チャンスはある。誰々は糖尿病で死期も近い、
誰々は高血圧、誰々は・ と一人ひとりまな板にのせ、同業者を
酷評していく。
しかし、今年6月に自分自身が落語協会会長になってしまい、
「会長への道」という話は出きなくなってしまた。
私は柳家かゑる時代の印象の方が強い。キックボクシングの
リングアナウンサーをしていた。
古今亭志ん朝と同日の入門だそうだ。志ん朝の若い頃の
付き合いなど1960年代から70年代に落語界の裏側が
書かれていて興味深く読んだ。

故人となった人間国宝の5代目「柳家小さん」の弟子。
若い頃の兄弟弟子立川談志や柳家小三冶なども出てくる。

先日、5代目小さんの長男である柳家三語桜が父親の名跡「小さん」
を継いで6代目小さんとなった。
私など当然、柳家小三冶が継ぐものと思っていた。
こぶ平が林家正蔵を継ぎと、咄家の世界も政治家と同じく
世襲の時代に入ってきたようだ。質が落ちるということを
伴って。

喘息の発作あり。布団や毛布の家ダニ。
やらなけれないけない仕事がたくさんある。しかし、気力が
出ない。好きな本を好きに読むのが一番のストレス解消。

(以下、文責 バオミン・ベトナム事務所長)

10月6日、「子どもの家」の中秋祭りに参加しました。
ベトナム事務所スタッフの皆さんも参加しました。

(中秋祭りの流れ)

1.中秋祭り開始挨拶
2.出席者紹介
3.ベトナム大統領の手紙代読(セン委員長)
4.J小山JASS代表の手紙代読(税田さん)
5.京滋YOUの会の水本さんのお土産贈呈
6.フエ師範大学の学生からのお土産贈呈
7.獅子舞
8.お菓子を配り(事務所のスタッフ)
9.歌ー踊りーゲーム
10.お土産を配り(事務所のスタッフ)
11.お礼挨拶


中秋祭りは予定通りにP6:30に開始しました。
「子どもの家」の子ども以外に在宅支援の子どもたちも
半数以上が参加しました。日本料理店で研修している子供たちも
仕事を休んで参加しました。
P7:40に終了しました。

●ロック寮長とバオミン・ベトナム事務所長の司会

●「子どもの家」の子どもたちの様子

●子どもたちのお祝いの踊りと歌


ベトナムの中秋祭りは日本の「子どもの日」に似ている。
お祝いのお菓子をもらう。

日本語教師も子どもたちと一緒に中秋祭りを祝う


投稿者 koyama : 16:39 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月07日

JASSスタディーツアー反省会

晴天。

午前8時半より1時間、ウオーキング。自宅ー赤塚公園

ベトナム事務所とメールでいくつかの問題解決のやり取り。
21通のメール受信。10通のメール送信。

『江戸の性愛学』(福田和彦著:河出書房新書)
著者は浮世絵研究者。
趣旨は日本の各時代、各階層の性教育の歴史書ともいえる。

天皇がどのような性教育を受けたのか?の考察は興味ある
ものであった。
皇太子時代に「乳母」から実地教育を受けていたとのこと。
乳母が皇太子に添い寝をして実地の性教育を行っている。
後深草天皇の告白記「問はず語り」には、『わが新枕は
故典待大(こてんじだい)にしも習いしかば、とにかく
人知れず覚えしを、いまだ、言うかいなきほどの心地して・・」
と書いている。典待大は乳母の役名。当時、25歳。
乳母に性を教えてもらったが、その快感が忘れなれない、と
告白している。

10月13日・14日、福島大学講演会の授業準備。

午後6時。JASSスタディーツアーの森田さんから電話。
横浜の中学校で私の講演会の打ち合わせをしている。
事情で遅れるとのこと。
午後7時。森田さん、加藤さん、山田さんと落ち合い、
懇談。11月1日の横浜市立左近山中学校での講演会
内容について説明を受ける。
その後、今年のJASSスタディーツアーの反省。
2007年8月20日前後に行う予定の来年の
スタディーツアーについて話し合う。


室内はタバコを吸う人が多く、タバコの煙がいっぱい。
喉が痛くなり、声がかすれてくる。体中がくさいけむりの
臭いで覆われる。

投稿者 koyama : 11:11 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月06日

自宅で仕事  「子どもの家」では中秋のお祭り

終日雨。途中何回か豪雨、強風。

日本へ帰国し、初めて1日自宅にいた。
午前中、ベトナム事務所からのメールへの返事。
何人かの支援からの手紙への返事、9月30日放映の
TBSテレビ放映のビデオ送る。
ピースボートへ乗船のための書類などを送る。
豪雨の中、郵便局までいく。強い雨と風。

午後、団塊の世代の方からベトナムでボランティアを
したいとのメールが届き、長文の返事を書く。
お酒を送ってくれた支援者へお礼のメール。

自宅で仕事をしながら国会の予算委員会の討論を聞く。
民主党の菅氏、岡田氏の質問は、それなりに事前の
準備が見られた。田中真紀子さんの質疑は、あまり内容が
なかった。きつい皮肉の言葉はあったが首相を問い詰める
質問内容がない。

午後、共産党の志井委員長の質問は、具体的であった。
太平洋戦争について、以前、安部首相が言っていたことと
照らしての具体的質問。
安部首相は太平洋戦争については、1995年の「村山談話」
を踏襲すると答弁しながら、以前それと全く逆の発言をしている
ことを質問されても、村山談話を踏襲としか答えられなかった。
首相としては、村山談話を踏襲するとは言ったが、自分の
意見は?と聞かれると、一切答弁を拒否していた。
従軍慰安婦問題も「河野洋平官房長官談話」を踏襲としか
答えられなかった。以前、国会質問で、「河野談話はその
基礎が崩れている」「従軍慰安婦を強制した事実はない」
発言していたことと、河野談話を踏襲することとの矛盾は
最後まで答えられなかった。

今までの自分の意見と首相としての意見の根本的な違いに
ついて国民への説明が出来ない。


来月になると「いざなぎ景気」を超えて、戦後最長の好景気だと
言う。全く実感なし。大企業のみ好景気に酔っているようだ・・。

今日は中秋の名月。「子どもの家」でも夜、「中秋祭り」を
行っているはず。詳報は明日か?

投稿者 koyama : 17:29 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月05日

通院  ピースボート打ち合わせ

終日雨。

午前8時、自宅を出て地下鉄で都庁前へ。
都庁第2本庁舎前の地下道には数十人のホームレスの
人たちが寝ていた。朝から雨のためか?
新宿NSビル前の喫煙所にはスーツ姿のNSビル入所の
サラリーマンがタバコを吸っている。その1メートル横で
多くのホームレスの人たちが寝ている。格差社会の日本の
現実を見る思いである。

S記念クリニックへ。20分ほど待たされる。心電図の検査。
診療室前で30分ほど待たされる。超音波の心臓チェック。
20分ほど待たされる。主治医の診断。
その後、採血。支払い。11000円。あまりに高いので
びっくり。5万円の」国民年金では11000円の支払いは
出来ない。投薬。今回から血液の凝固を阻止する薬を
もらう。隔日で飲むとのこと。1日4錠の薬を飲む。
午後12時過ぎに」全て終わる。

外は雨。新宿西口でラーメンを食べる。一番安いのが
ラーメン730円。そのほかの何とかラーメンは1000円から
1200円。うーん、高い。

午後5時、高田の馬場へ。ピースボートで11月2日からの
乗船の打ち合わせ。
数年前に現行のトパーズに代わる。定員1400人ほど。
今回は11月2日午前8時半に横浜港から乗船。
途中、2回の講演会と1回か2回の中講演会を予定している。
11月9日ダナン港着。その足でダナン経由 ホーチミン。そして
成田へ。11月11日、明治大学の講演会。

投稿者 koyama : 20:22 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月04日

自宅へ戻る

曇り。


7月15日にフエへ戻り、2ヶ月半仕事を続けた。その間、
350人ほどの訪問者と交流。
9月29日に帰国。その後、6日間、休養。
この間、福島大学講演会のための準備。プチナショナリズム
について。アジア・太平洋戦争をアジアではどう教えられている
のか? 
ベトナム中学4年生歴史教科書に「アジア・太平洋戦争」が
そのように記述され、教えられているのか?
日本の中3の教科書では?


●読書「貧乏クジ世代」(香山リカ著*PHP新書)
ーーーこの時代に生まれて損をした!?ーーー

団塊の世代の子どもたちである「団塊ジュニア」(1973年生前後)
はバブルも大人で体験せず、親から「頑張れば良い人生が
待っている」と言われ頑張って大学に入ったものの「バブル崩壊」。
企業が採用をしないなど就職もままならず。団塊ジュニア世代の
特徴を分析。団塊の世代は「自分が思うようにならなかった」ら
『社会が悪い』と居直り、うまく行くと「自分の力がある」と
自信満々になる世代と分析。(異論はあるが・・)
一番貧乏クジを引いている世代と分析。だからこそ、世の中を
変える力をもっていると世代と分析。

ーーーーー
●「我が愛する孫たちへ伝えたい 戦後 歴史の真実」
 (前野徹著 扶桑社)

著者の前野氏は東急グループの総師五島昇氏の秘書。
安部新首相の思想をはっきりと伝えている。

・東京裁判は日本を侵略国とするための茶番劇
・戦後55年、日本の誤りは「東京裁判」から始まる
・「大東亜戦争」は「自存・自衛のための戦争だった」
・アジアを侵略していた欧米列強
・日本を開戦に追い込んだアメリカ
・真珠湾攻撃はアメリカの陰謀
・アジア独立の契機となった大東亜戦争
・先人たちはアジアの人々に尊敬されていた
・大東亜戦争は人種差別戦争
・忠孝の国、日本こそが21世紀のパラダイムを創出できる

新しい教科書を作る会、安部新首相などの本心が赤裸々に
書かれている。参考になる一書。

9月30日、TBS-BS1で放映された私のフエでの活動。
そのビデオが札幌の鹿又さんから届いた。いつものことでは
あるがありがたいことである。感謝。

「子どもの家」や日本料理店のことを中心に構成されていた。
最新の「子どもの家」や現地での取り組みの一端が分かる。
やはり映像は力がある。


投稿者 koyama : 18:00 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月03日

フエ台風ー洪水

ベトナム事務所から台風・洪水の情報が入った。

9月30日(土)、10月1日(日)とベトナム中部を襲った台風の
影響で強風と豪雨。市内の木がかなり倒れたそうだ。
また、フォン川が氾濫し、ベトナム事務所から「子どもの家」まで
オートバイでは行かなかったそうだ。「子どもの家」も停電、
雨漏りもあったそうだ。現在、落ち着き、台風も去り、安定している
とのこと。「子どもの家」、ベトナム事務所などにも大きな被害
はなかったようで一安心。

縫製研修工場工事現場の基礎工事部分が1メートルほど浸水。
現在、懸命にポンプで水を吸い上げている。
主な柱も少しずつできつつある。


投稿者 koyama : 18:35 | コメント (0) | トラックバック

2006年10月02日

9月30日・10月1日のグローバルフェスタ大成功

9月30日・10月1日と日比谷公園でグローバルフェスタ。
日本事務所の皆さんが参加。例年二日間で20万人もの
人たちが集まる。

飲食ブースでは日比谷名物、 ブン・ボー・フエ’とベトナムコーヒー。
展示ブースでは、子どもたちの絵や絵手紙の展示、
刺繍作品や雑貨の販売。

二日目の午後から雨がパラツキ始め、やがて本降り。
その中でもブンボーは売れ続け、『ここのはおいしいって評判だよ!』
という声も多く、リピーターもかなりいたようだ。

ブンボー880食、コーヒー370杯も売れたとのこと。
展示ブースと食事で40万円もの売り上げがあったそうだ。
(以上、寒河江日本事務所長の文書より抜粋)

日比谷グローバルフェスタの準備、運営、当日の業務に参加
された皆さん、本当にご苦労様。

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