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2006年08月10日

TY君・TRUNG君の旅立ち

晴天。36度。暑い。

午前8時半。ベトナム事務所。
バオミンさん、税田さんと追加のスタディーツアー日程に
ついての相談。
8月23日・24日はフエに5つのスタディーツアーが来る。
ナムドン山岳、「子どもの家」などを訪問する。
今まで3つのスタディーツアー受け入れの計画を立てていたが
更に2つのツアーが増えた。ベトナム事務所員の案内分担が
かなり難しくなった。そこを何とかうまく案内できるように
3人で知恵を出し合った。
9月7日からは法政大学の先生と学生がスタディーツアーで
フエを訪問する。今年6月21日に法政大学で講演会を
行った。その際、私の話を聞いてくれた学生さんと担当の
先生がこられる。日程確認、担当者決定。

午前10時40分。シクロの運転手が私を訪ねてきた。

話は「シクロの仕事は体が続かない。警備員などの
仕事を世話して欲しい」との生活相談。45歳のシクロの運転手。
奥さんは50歳。幼稚園の先生。月給は3500円程度。
中学2年生の男子、小学4年生の男子と二人の子どもたちが
いる。シクロ運転手の生活は天候に左右され、雨の時は
収入がない日もある。子どもたちが高校に入る時期になってきた。
貧しくても良いから安定した生活をしたい。何とか仕事を世話
して欲しいとの話。いつもフォンザンホテル前などで会う人だ。
30分ほどの話だったが話に誇張はないように思えた。
私の知り合いで何か良い仕事とがあったら世話をする事を
話す。シクロの運転手はフエの人。8億円もの大金を
ギャンブルですってしまうハノイの「お偉いさん」もいれば、
こうしてわずかな月給と不安定なシクロ運転の収入で
糧を得ている人たちもいる。ベトナム社会の「二重構造」
「2極分化」の実情を見る思いがする。
『ベトナムは貧しい国』と決め込んでいる人も多い。
しかし、現実に行政や共産党幹部、大手企業家など
一部の特権階級の人々は私たち日本人よりはるかに
「豊かな生活」をしている。
『ベトナムは一部の「豊かな人」もいれば多くの低所得の人たち
もいる」と言う言い方が正確なのかもしれない。
ベトナムと聞いてだけで「貧しい」と思い込み、意味のない
支援を続ける「ボランティア」も考えものである。

午前11時半昼食。日本料理店で。「他人丼」(3ドル)。
味もよく美味しかった。豚肉が硬かった。大塚さんに
聞いたら豚肉の質が良いので脂身ではないところを
入れたとのこと。今後はもっと安い豚肉を買い、
脂身の部分を他人丼に入れるとコクが出て美味しい。

午後2時40分。フエ駅へ。
今日は「子どもの家」のTY君(21歳)、TRUNG君(23歳)
がハノイの「日新電機ハノイ工場」へ就職するためフエを
旅立つ記念すべき日である。
「子どもの家」のTAM医師、バオミン・ベトナム事務所長が引率。

TY(ティー)君は1993年10月から私が最初に作った
チーラン通り「子どもの家」に妹と入所。それから13年間、
私と付き合ったことになる。8歳から21歳まで。
児童期から思春期を経て成人まで、長い付き合いではある。
その間、TY君も紆余曲折があった。ハイバーチュン高校と
いう地元フエでは名門高校に入学したが、途中で多少
道が曲がって行った。髪にメッシュの着色をするようになったり・・・、
路上生活があったために小学校入学が遅れ、昨年高校を卒業。
今回の日新電機就職がTY君の自立の第1歩である。
新しい門出を祝いたい。

TRUNG君(23歳)は1997年2月に入所。2月のテト正月に
あたり、フエ警察は一斉「ストリートチルドレン狩り」を行った。
外国からテトでフエに来る人たちの「目障りになる」との理由で
ある。10数人の路上生活の子どもたちがフエ警察に補導された。
警察は子どもたちを保護する場所を持っていない。
フエ警察からストリートチルドレンを預かって欲しいと頼まれ
偶然TRUNG君が私たちの「子どもの家」に連れてこられた。
2週間程「子どもの家」で保護した。その後、「子どもの家」
を出ることになっていたが、私が「TRUNG君がいたいのなら
子どもの家にいても良いよ」と話す。それから9年半。
TRUNG君は「子どもの家」生徒会長を勤め、高校を卒業、
電気専門学校も卒業し、今日、日新電機への就職のため
フエを旅立つ。

長い年月ではあったが、こうして就職のために旅立つ
子どもたちを見送る事が出来ることは幸せなことである。

私たちの取り組みは子どもたちの人間的な自立・独立・自活である。

午後3時半。フエ駅待合室に入る。
それほど大きくない「全財産」の荷物を前に二人は心持ち
不安そうな顔で列車を待っていた。

二人とも生まれてこのかたフエから外に出たことはない。
これから待っている首都ハノイでの仕事。不安と希望の入り混じった
二人の気持ちが手に取るように分かる。
こうして子どもたちは次々に「子どもの家」を出て自立して
行くものである。寂しいと言えば寂しいことでもあるが、
致し方のないことでもある。

TY君とTRUNG君をフエ駅で見送った。私の脳裏には
1960年代の集団就職列車に乗って上野駅にやって来た
東北地方の若者のあの不安そうで希望に満ちた不思議な
顔が蘇った来た。私と同年代の若者が遠く離れた東北から
見ず知らずの中小企業の社長やお店に就職するために
東京の上野駅にやってきた。上野駅で社長や親方に引き
取られていく。
TY君、TRUNG君も同じような気持ちなのだろうか・・・

二人の幸せな人生を祈るのみである。後は、二人の努力次第だ。

TY君・TRUNG君を受け入れてくれた京都の「日新電機」に
心から感謝したい。

トンチンカンホテルの自室に戻り、23通のメール受信。
10通のメール送信。

午後5時半。日本料理店の夕食。
子どもたちと日本人スタッフで食事。私は午後6時半に
日本料理店に来る税田さんの友人と会食するため夕食は
摂らなかった。

午後6時半。税田さんの友人のIさんと日本料理店で
会食。

午後9時過ぎ。日本料理店のスタッフが帰った後、
I日本語教師も交えて懇親を深める。

日本料理店・夜の部は14人の来客。

投稿者 koyama : 2006年08月10日 18:50

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