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2010年11月30日
通常業務
晴れ・午後曇り
気温の変化が大きい。
何故かこの10日間ほど「声がでない」状態が続く。
原因不明。
午前4時起床。
読書「カラマーゾフの兄弟3」
(ドストエフスキー著:亀山郁夫訳 光文社)
人間の生き方、宗教、人間の感情・気持ちの複雑な
変化を実に丁寧に描写している。
同時に「推理小説」とも思えるような「次にどうなるのかな?」
などという気持ちを喚起する。
午前7時、朝食。ブンボー
静岡市役所とメールで連絡。
メーの送受信。
テレビ局との連絡。
自治労スタディーツアーへの連絡
昼食 春雨麺
読書「カラマーゾフの兄弟3」
(ドストエフスキー著:亀山郁夫訳 光文社)
東京太平観光北垣会長から電話。1時間ほど
話し合う。
午後5時過ぎ、日本料理店へ。
大塚さんが「オアシスの会」の皆さんをハノイまで見送り
帰宅。
午後5時半、こどもたちと夕食。
今日はいつもいる「変なの」がいない。
午後1時過ぎごろ、ハノイにいる大塚さんに「痛い」との電話が
あったそうだ。
どうも雰囲気からすると昼間から飲んでしまって日本料理店
への出勤ができなくなった可能性あり。
接客はグエットさん一人。
午後9時までに7人の来客あり。
日本人一人。6人は欧米系。
グエットさんは、きちんと英語と日本語を使って注文を
とることができた。
いつもはリー君が「専売」で注文係りをしていたのだが。
良いことである。
午後9時過ぎ閉店。
2010年11月29日
岡山大学関係者と懇談:縫製マルサ佐藤社長と夕食
雨のち曇り
午前1時(日本時間午前3時)目覚める。
ラジオの短波放送「NHK国際放送」を聴く。
「クレージーキャッツ」特集。1時間、懐かしいクレージーキャッツの
歌を聴いた。「スーダラ節」「無責任一代男」「ホンダラ行進曲」
「はい、それまでよ」(この映画を見た記憶有)・・・・
読書「カラマーゾフの兄弟2」
(ドストエフスキー著:亀山郁夫訳 光文社)
午前3時再度就寝
午前6時半起床。
午前7時半、朝食。キャッサバ芋の手打ちうどん。
気候が急変。頭痛と食欲不振。倦怠。
午前8時半、徒歩、ベトナム事務所へ。
午前9時前、岡山大学国際センターのI先生と懇談。
3月初旬に「子どもの家」などのスタディーツアーをしたいとのこと。
JASSのフエでの17年間の取り組み、現在の活動、
地球の歩き方・大学生協などのスタディーツアーの実例などを
話す。大学の実情について意見交換。
同時刻、マルサの佐藤社長がベトナム事務所を訪問。
先客があり、バオミンさんが「縫製研修センター」へ同行。
午前11時過ぎ、話が終わり宿舎へ。
午前11時半昼食。豚肉雑炊。生野菜をたっぷりにしてもらった。
量が多いので3分の1を別のお碗に取り、残した。
午後12時半から1時間ほど昼寝。
気候の変動が大きいので不調。
読書「カラマーゾフの兄弟2」
(ドストエフスキー著:亀山郁夫訳 光文社) 読了。
続いて、読書「カラマーゾフの兄弟3」
(ドストエフスキー著:亀山郁夫訳 光文社)
テーマはロシア正教の信仰。空想的社会主義も入り、
宗教と人間の生き方。
今まで私の読んだ本の中では一番衝撃の強い本であった。
人間の存在(正義・不正を含め)を明らかにし、宗教が
どのように関係するのか? そうした複雑な人生の中で
人間はどう生きるのか? 本書の基本的な基調は
「人間の原罪」。人間は誰でも完全潔癖に罪を犯していない
人間はいない、ということ。そうした罪を犯している人間が
尚且つどのように「真っ当に生きていくのか?」を深く
考えさせられる。日本の漱石・鴎外の時代の著作だが、
やはり壮大な人間の大きな生き方を問うている。
私は日本の純文学が嫌いだ。本書は、人間が生きるという
ことを真正面にぶつけ、取り組み、苦闘している文学である。
メール送受信。
ピースインツアーの関係者とSKYPEで当面の諸問題に
ついて話し合う。
2011年1月2月3月にかけての活動についての事前の
準備・計画を立てる。
午後5時半、日本料理店へ。
先日、日本料理店に来店してくれた欧米系のお客さんが
再度来店。支援物資を贈呈してくれる。
午後6時半、マルサ佐藤社長と北海道福島支店長の
Nさん、「縫製研修センター」のAさん・Hさんと会食。
午後9時閉店。
今日は20人の来客あり。
接客係りのリー君・グエットさんも喜んでいた。
2010年11月28日
終日読書
終日雨。
午前1時目覚める。NHK短波放送を聴く。
「ラジオ深夜便」。昭和60年代の流行歌特集。
工藤静香・美空ひばり(川の流れのように)・・・・。
1時間の放送の全曲知っていた。
読書「カラマーゾフの兄弟2」
(ドストエフスキー著:亀山郁夫訳 光文社)
会話が長く、延々と宗教論議をしている。
ロシア正教、キリスト教の基礎知識は必要。
人間の原罪を書いている。父親フョードルは
酒好き、好色、金好きと一般的に言えば「どうしようもない」
父親であるが、これは、一般社会の一般的な性向を体現した
人物として表現されていると思う。
長男ミーチャも父親とほぼ同一の性向を持っている。
母親違いの次男イワンは、知識人。神を否定。
イワンと同じ母親の三男アリューシャ修道院の見習い。
3人兄弟の中では世間的に見れば「真っ当な」人間。父親と
3人の兄弟は宗教、女性問題(恋愛観)、人間の生き方で
対立・討論・闘争する。
第2巻は、宗教問題が主問題。神がいるのか?
からはじまり、人間の幸せと何か?など人間の存在の
根本を提起している。
午前8時半起床。
暑いシャワーを浴びる。
部屋の掃除。洗濯・片付け。
食欲なし。
引き続き読書。読書「カラマーゾフの兄弟2」
亀山翻訳は所謂(いわゆる)翻訳調の文面でなく
読みやすいのだが、ひらがなが多く、読みづらい。
漢字をもっと使って欲しい。
午前11時半。昨日の昼食チャオバインカイン(煮込み手打ちうどん)
の残り(お碗1杯)を温めて食す。(ブランチ)
午後1時から1時間昼寝。
読書「カラマーゾフの兄弟2」5分の4ほど読了。
引き続き読書。
岡山大学のベトナムスタディーツアー担当の先生から
メールあり。明日、ベトナム事務所で打ち合わせをしたい
とのこと。返事を出す。
午後3時半頃、税田さんより電話。「オアシスの会」
の皆さんと大塚さん。無事ハノイへ移動完了とのこと。
税田さんとソン君が見送りに行った。
JASS静岡の会年末スタディーツアーの日程検討。
ベトナムからラオス訪問を計画。ラオスのビエンチャンに
いる高校同級生の與芝彰夫君にツアーの日程・予約等
を依頼。誠意を持って処理してくれている。感謝。
午後7時、福島の孫から電話。誕生日おめでとう
とお祝いの電話。
SKYPEに切り替え、映像を見ながら、福島家族と
しばらく懇談。3人とも元気に生活してるので安心した。
フエにいると「孤独」である。こうして時々、家族と
会話・交流できると「心が休まる」。
今日は1日部屋にいた。誰とも話をしていない。
午後8時、沖縄知事選の結果が気になる。
午後7時半(日本時間)で投票率が6、8%ほど低下。
選挙結果にどんな影響がでるのか?
食欲なし。缶ビール2本、ウイスキーの水割り1杯。
支援者から贈られた「ピーナッツ」「柿の種」、
「ゆず塩」を「なめて」おつまみに。
朝鮮半島の状況に不安を持つ。戦争は、当事者が思わない
方向に行ってしまうことが多々ある。
北朝鮮の明白な「侵略」攻撃。朝鮮戦争と同じ、北朝鮮の仕掛けた
戦争。
北朝鮮(金正日グループ)の「戦争瀬戸際政策」が
思わぬ方向に行かないことを願っている。
この北朝鮮を「社会主義国」として認知し交流している
日本の革新政党があることに慄然とする。
前近代的な「封建的ニセ社会主義」。
午後8時17分(日本時間午後10時17分)
現職仲井真氏が再選確実沖縄知事選(22:17)の報道あり。
民主党の裏切りと仲井真氏の「争点ぼかし」が革新派の
敗因と見た。
宜野湾市長選、共・社推薦の安里氏が初当選。
2010年11月27日
「オアシスの会」現地視察団と夕食会
終日快晴。
午前4時半目覚める。
読書「カラマーゾフの兄弟1」
(ドストエフスキー著:亀山郁夫訳 光文社) 読了。
続いて読書「カラマーゾフの兄弟2」を読み始める。
午前7時、朝食。フォー
午前8時半、ベトナム事務所へ。
日本語教師とフエ高等師範大学日本語学科教師と
懇談。
JASS函館の会(北海道教育大函館校学生)のSさんが
JASS日本語学校教師の手伝いをしてくれている。
日本語学校フオン先生と授業の打ち合わせ。
ベトナム事務所でいくつかの仕事。
午前11時半、昼食。チャオ・バイン・カイン
1時間ほど昼寝。
午後2時 読書「カラマーゾフの兄弟2」
男女の微妙な意識の違い、恋愛の利害打算。
宗教論争。
午後3時半、徒歩、日本料理店へ。
部屋の電気が切れてしまった。リー君に買ってきてもらうよう
頼みに行く。
日本料理店は、開店前の忙しい時。
リー君は日本料理店の床の掃除をしていた。
なんだかんだと紆余曲折はしているが、リー君は確実に
成長していることは事実だ。仕事をしっかりするようになった。
責任を持って自分の部署の仕事をしている。
今や、日本料理店に「いなくてはならない」「いないと困る」
存在になっている。
①全ての国のお客さんの注文をとることが出きるのは
こどもたちの中ではリー君だけである。お客さんの
様々な要求(水に氷をしれて。日本酒のお燗・・・)を
きちんと聞き、要求通りの品物を厨房に伝えることが出きる。
②日本料理店の電気が切れた、ショートした、壁が壊れた、
停電になったので発電機を始動するなどの仕事は、
全てリー君がやっている。
お客さんの「おしぼり」を冷やす準備をしているグエットさん
厨房では料理の下ごしらえ
一度、徒歩宿舎へ帰る。当面のスタディーツアーの日程、
2011年の現地報告会へ向けての提案内容などを考える。
午後5時半過ぎ、宿舎を出て徒歩、日本料理店へ。
今日は「オアシスの会」の現地視察の最終日。
「オアシスの会」は、5年間の期間フエでボランティアをする
との契約で大塚さんを派遣している。
2010年が「オアシスの会」の契約の最終年度になり、
2010年12月をもって「オアシスの会」は解散する。
今回、「オアシスの会」の中心メンバーの方二人が、
「オアシスの会」の5年間のフエでの活動の実績を
確認に来た。船上生活者支援、希望の家支援・・・・。
「オアシスの会」2人、大塚さん、私、税田さん、
バオミンさん、日本人教師4人(原田・古竹・富岡・土井先生)
の10人で「オアシスの会」10年活動記念・終結祝いの
会食会を行う。
「オアシスの会」代表の大塚さんの挨拶
「オアシスの会」の会を代表してTさんの挨拶
バオミンさんの音頭で乾杯
ベトナム事務所側スタッフの自己紹介
2時間ほどの会食・交流を終わる。日本料理店スタッフの
自己紹介。
こどもたちはそれぞれ大塚さんに感謝の気持ちを言う。
最後に全員で記念写真
私から「オアシスの会」・大塚さんたちの5年間の活動に
感謝の言葉
午後8時過ぎ、終了。
小雨の中、バオミンさんのオートバイで帰る。
2010年11月26日
通常業務
終日快晴・時々曇り
午前7時朝食。ブンボー。
バンベー38号関連でレイアウト担当者、日本のバンベー担当者
などとメールで連絡。
読書「カラマーゾフの兄弟1」3分の2程読了
メール受信・送信。
昼食 ご飯と煮魚、生野菜、スープ。
食事の量が多すぎて食べきれない。
午後1時間程昼寝。
バンベー関連の仕事。関係者と連絡。
読書「カラマーゾフの兄弟1」
(ドストエフスキー著:亀山郁夫訳 光文社)
訳者の亀山氏の翻訳がうまい。
三遊亭円生や先代林家正蔵などの「人情話」を
聞いているようだ。
先代正蔵の「鰍沢」を聞くと、雪山と川と筏の
風景が目に見えるようだ。
主人公は「三男」と著者は冒頭の「解説」で書いているが
とにかく3人兄弟の「親父」の放蕩の様子とたまに宗教的な
気持ちになるかに見える「人間の機微」が、手に取るように
イメージされる。登場人物が、それぞれ、私たちの身近な
所にいそうな類型的な人間を描いている。
午後5時半、日本料理店。こどもたち・日本人スタッフと
夕食。
今日は「三色ご飯」
私は食べられなかったので、日曜日の食事用に持ち帰る。
今日は夜、少し雨が降ったが、21人の来客あり。
午後9時過ぎに閉店。
2010年11月25日
オランダ人を「子どもの家」に案内
早朝雨。のち曇り・時々快晴。
午前7時、朝食。赤米のおかゆ。
午前8時半、ベトナム事務所へ。
1時間ほど打ち合わせ。
午前10時、オランダ人2人がベトナム事務所へ。
私は電動バイク。オランダ人はオートバイで
「子どもの家」へ。
二人は昨夜、日本料理店に来店。英語のガイドブック
「ロンリープラネット」を読んで来店したという。
色々な質問があり、「子どもの家」へ行きたいとの
ことだったので、今日案内することとなった。
「子どもの家」の各施設を案内。
男性は余り英語が分からない。私の下手な英語を
女性がオランダ語に訳し男性に伝える作業を続ける。
午前11時、こどもたちと一緒に昼食を摂る。
私も「子どもの家」で昼食。1膳。
12時過ぎ、「子どもの家」を後にする。
宿舎で昼寝。
午後、バンベー関連の仕事をする。
来客4人。
最後の来客2人が8時50分に入店。
結局、午後9時半まで開店。
宿舎着 午後10時前。
2010年11月24日
バンベー38号最終編集
午前中快晴。夕方雨の走りの風。
風邪気味。体調悪し。
午前5時起床。読書「カラマーゾフの兄弟1」。
午前7時朝食。キャッサバ芋の煮込みうどん
午前中、バンベー38号の最終編集。
午前11時半、昼食。春雨麺
昼寝をしないで「バンベー38号」編集。
原稿50枚、写真50枚ほどある。
レイアウトしてくれる方に分かりやすいように分類し
写真に「キャプション」をつける。
各項目に大きな題名をつける。
午後4時から20通程のメールで原稿と写真を送る。
写真の容量が多いので、送信に相当時間がかかる。
午後5時半、日本料理店へ。
今夜の夕食は「雑炊」。
日本人は雑炊の味を堪能。
ベトナム人は、「唐辛子」を堪能。文化と風土の違いを
改めて感じる。
大塚さんが、カンテンで「デザート」を作ってくれる。
こどもたちが喜んで食べる。私は「甘味」が苦手。
お酒が好きなリー君が「意外」にも「甘いデザート」を食べていた。
飲酒同盟から「除名」。
数人の来客あり。
午後9時閉店。
午後9時半、宿舎に帰る。
バンベー編集の方に送った20通程のメールが全て
「返送」されている。ショック。
明日、再度挑戦してみる。
2010年11月23日
バンベー38号編集
快晴
午前7時朝食。風邪気味。喉が痛い。声が出にくい。
朝食は「ブンボー」。生野菜をたくさん入れる。食欲なし。
半分残す。
朝から太陽ギラギラ。早速、毛布、掛け布団を干す。
午前8時過ぎ、徒歩ベトナム事務所へ。
午前8時半、私の誕生会をしてくれる。
これは、福田もえ子JASS日本代表委員会委員長が
ベトナム事務所で仕事をしていた10年前からの
「伝統」。今から考えるとベトナム事務所で仕事をしてくれた
日本人スタッフは、こうした人間関係を大事にする様々な
取り組みの「伝統」をベトナム事務所に残してくれた。
そして、次に来る日本人スタッフが、伝統を継承し、今日まで
来ている。ありがたいことである。
私は例年10月・11月は講演会等で日本に帰っている。
この10年ほどは誕生祝いの会をしていない。
今回は、10月18日にフエに戻って来た。
10年振りの「誕生会」である。
前回は、福田もえ子さんたちが、スーツを1着プレゼントしてくれた。
今でもそのスーツを着て結婚式や各種会合に出ている。
富岡先生から「ワイシャツ」とネクタイのプレゼントをもらう。
土井先生からベトナム事務所員全員の「寄せ書き」をもらう。
古竹先生から「ミートパイ」詰め合わせをもらう。
誕生会で皆さんで食べる。
今日は日本料理店の大塚さん、ブライセンのスタッフも
私の00歳の誕生日を祝ってくれた。感謝。
ブライセンベトナム支社のスタッフ
大塚さん・税田さん等ベトナム事務所スタッフ
コックホック高校同級生のバオミンさんとフーン先生
ベトナム事務所日本語教師3人姉妹
誰が長女だかは「JASS企業秘密」。
原田先生と「子どもの家」卒業生のチュン君(「子どもの家」生徒会長)
富岡先生
ベトナム事務所三00トリオ。(00に何が入るか?)
3といって「トリオ」というのも変なのだが・・・・・。
ベトナム事務所員・大塚さんが書いてくれた「寄せ書き」
私に取っては貴重な宝物。
皆さんから頂いた「ワイシャツ」と「ネクタイ」を試着
こうして私の「00回目」の誕生を祝って頂き、感謝している。
私などその存在がそもそも必要のない人間であるが、こうして
誕生日を祝って頂き、心から恐縮している。
そして、こうした誕生会などの交流を通してベトナム事務所員は
団結していく。せっかく「縁があって(リー君の発言)ベトナム事務所
で一緒に仕事をする仲」である。今までの先輩のように日本へ帰って
も交流を続けて欲しい。
1時間ほど、懇談。誕生会終了。
その後、「子どもの家」を代表してロック寮長が誕生祝いの
花束を持って来てくれる。しばらく懇談。
ついでと言っては何だが、「子どもの家」の実情、問題点などを
話す。
午前11時。ベトナム事務所をでて、宿舎へ帰る。
体調が悪い。昼食を摂る食欲なし。昼食は摂らなかった。
そのまま、バンベー38号の編集。結構、細かい作業が
続く。誤字脱字から全体の「トーン」まで配慮する。
かなりのメール受信あり。必要な返信。
日本から電話あり。3人の孫の一人の「某00人」なる孫が
「誕生日おめでとう」というはずの電話だったようだが、
「ゴセイドンの00人形を買って」とお祝いなのか
プレゼント請求なのか分からない電話あり。
それでも孫の声を聞くと力がでてくる。風邪で体調が超不良。
立っているのがつらい。それでも孫の声は、「百薬の長」である
お酒の次に「元気が出る玉手箱」である。
午後5時半、日本料理店へ。
食欲なし。頭痛。ビールを小グラスで2杯飲むが、美味しくない。
1時間ほど日本料理店にいて、体調が悪いので帰宅。
そのまま寝る。
2010年11月22日
終日、バンベ38号編集作業
快晴 午後曇り
午前2時半に目覚める。
読書「大学崩壊ー合併、身売り、倒産の内幕」(諸星裕著:角川)
を読み終える。
一理あり。大学関係者に「大学倒産」の危機感が弱いとの指摘
は妥当。
午前7時朝食。フォー。
バンベー38号編集。
読書「カラマーゾフの兄弟1」(ドストエフスキー・亀山郁夫訳
:光文社)
冒頭から不思議な小説である。作者の注意書きから始まる。
「この本は第1部と第2部があり、これは第1部。本当に
書きたいのは第2部」。そして、作者は第2部を書かずに
死んでいった。私たちは、第2部を分かり易く(作者の言)
するための第1部だけを読まされることになる。
午前11時半、昼食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)
今日は仕事が多いので、昼寝を断念。期限がある仕事が
何種類か入っている。
昼過ぎから「寒気」「倦怠感」「喉痛」の症状あり。風邪の前期症状。
午後5時半、日本料理店へ。大塚さんも風邪気味とのこと。
フエでは風邪が流行っているとのこと。
ビールを少し飲んだが、全く美味しくない。飲むのを止める。
私食欲なし。飲酒欲なし。体がだるい。
来客8人。
午後9時閉店。
明日、風邪が重症にならなければ良いのだが・・・・・。
2010年11月21日
16周年式典の日記を書く
終日晴天 青空
午前8時起床。
毛布、掛け布団を干す。太陽と青空を見る。身持ちが良い。
ストレッチ。
昨日の「子どもの家」16周年記念式典の日記を書く。
写真を71枚掲載したので、3時間ほど日記を書くのに
時間を費やす。
写真は、私のカメラ、原田先生のカメラなどの写真を
パソコンに取り込み、それぞれの良い写真を使う。
16周年記念式典全体の様子とこどもたちの
表情が分かるように気をつけた。
午前11時。「ブランチ」。昨日の16周年記念式典昼食会の
あまりの「チャーハン」を持って帰り、温めて食べる。
今日は昼寝をしないことにする。仕事がたくさんある。
洗濯をする。
部屋の掃除。衣類の仕分け・・・・・・。
午後2時から読書。
読書「大学崩壊ー合併、身売り、倒産の内幕」(諸星裕著:角川)
現在、桜美林大学院教授・副学長。「大学アドミニストレーション科)
アメリカで大学経営の責任者(ミネソタ大学機構秋田校長就任)
をしていた経験から、大学の管理・運営を論じている。
一理ある所とアメリカ流の「大学の経営効率至上主義」
の理論を解説。
一理あるのは、確かに2万人などという多くの学生を擁する
大学の学長と理事長職を兼務した最高責任者に、大学の研究者
がなっている。大学の管理・運営の経験と知識のない人間が
大学を経営する矛盾を突いている。特に少子化、事実上の
大学全入時代の今日、私立大学は7校ほど倒産している。
著者の主張は、大学と企業とほぼ同じ経済感覚で運営する
所にある。この点に一理あることを認めながら、同意できない点が
ある。つまり、大学が企業と同じ営利目的、常時黒字化が必要と
言う論理は、結局、儲け主義の大学を育成することになる。
諸星氏の基本的な主張は「大学はお客さんである学生に奉仕し、
授業料を支払っている学生の希望が実現ようにするための
ものである」とうことに尽きる。しかし、大学は大学教育と研究の
「二兎を追う」複雑な組織でもある。大学を単なる教育機関としか
見ていない傾向が強い。研究、特に基礎研究は、直ぐに成果も
あがらない、学生に直接成果をその場で還元出来ない。
諸星氏の主張では、そうしたことは、大学の経営効率からして
意味のないものになってしまう。諸星氏の主張からすれば
研究は、各企業の研究所でするということになる。
研究をしながら、教育をする大学という特殊な機関について、
単純に割り切っているところに大いなる疑義を感ずる。
しかし、日本の大学は700校以上あり、4年生大学の
進学率が51%となり、希望者全員入学が事実上実現した
今日の大学に大きな問題提起をしていることも事実である。
18歳人口と大学進学率の推移のグラフが掲載されている。
1960年は大学進学率10%(18歳人口200万人)
1964年、進学率17%程度(18歳人口170万人)に上がるが、
団塊の世代が大学に入る1966年には、大学進学率は14%
程度に落ちる(18歳人口が一気に250万人となる)。
2009年を見ると大学進学率51%。18歳人口150万人程度
となっている。
そういえば私たちが大学受験をした頃には、新聞に『受験地獄』
とか『受験戦争』という見出しが躍っていた。
それから45年。大学を出た友達も出なかった友だちも
それぞれ「重たい人生」を歩んできている。大学教育に
どれだけの意味があったのだろうか?大卒という「切符」に
ほとんど意味の無くなった今日である。
私的には、何の損得勘定も無い大学4年間を過ごせる
機会をもらえる人は、貴重な4年間である。
ストレッチ。
バンベー38号の編集。
かなりの量の原稿が入って来ている。全ての原稿の
「てにをは」、整合性、敬語の使い方などのチェック。
バンベー全体の語調を統一する。
2時間ほどかかる。
午後5時。フダビールを飲む。昨夜の日本料理店の
残りの「野菜味噌炒め」、枝豆の残りをおつまみに。
2010年11月20日
「子どもの家」設立16周年記念式典
曇り
午前5時半起床。
読書「気になる仏像がひと目で分かる本」(大和書房)読了
読書「正しい団塊の世代白書」(高田文夫著)
古本屋で200円。
著者は、私と同世代の台本作家であり立川談志の弟子で
真打ち。たけしの台本作家などもしている。
昭和22年から1988年までの団塊の世代の出来事。
主に1947年位から1970年代中葉まで。
力道山から美空ひばり、ビートルズ・・・・。
団塊の世代なら「そうだ、そうだ」と思える『昔話』。
興味深く読んだ。よく当時の出来事を「拾い出し」
「整理」している。
団塊の世代の歴史を書いているのであるが、一点抜けている
のは、政治闘争が一切かかれていないこと。
著者 高田文夫が、当時の政治闘争に背を向け、
落語・演芸、音楽、映画に埋没していたと書いているので
致し方ないことであるが、「正しい団塊の世代白書」
と銘打つのであれば、60年代の政治闘争は抜かせない。
三田誠広が、高校から早稲田での自らの政治闘争の経験
を書いているのとは、対極であるが、多分、高田の
一種の「ユーモア」「お笑い」を狙ったものと理解する。
彼も日大芸術学部にいたので、何らかの影響は持っている。
演芸欄が充実している。
トリオスカイライン(東八郎・小島三児)。東八郎の門下に
萩本欽一、ビートたけしがいる。
てんぷくトリオ(三波伸介・伊東四郎・戸塚睦男)台本は
井上ひさしが書いていた。
「トリオ・ザ・パンチ」(内藤陳)私は都会的な雰囲気が好きだった。
親亀の背中に・・・の「ナンセンス・トリオ」。
ドンキー・カルテット(楽器演奏はプロ。好きだった)
ケーシ高峰(テレビ 「ベン・ケーシー」から名前を取った)
東京ぼん太(ヤクザとの付き合い、博打で消えて行った)
漫才の春乃チックタック。獅子てんや・わんや(都会的で好きだった)
三平・談志・円鏡(現円蔵)
その頃、一番売れていた演芸番組は日曜日の昼に放映された
「大正テレビ寄席」。ウクレレ漫談の牧伸二の司会。
この番組のアシスタントをしていたのが、現たけし夫人、
牧伸二の弟子でギター漫談をしていたのが、泉ピン子。
テレビで東京の演芸が多く放送されていた楽しい時代だった。
午前7時朝食。「精進ブン麺」
午前8時時過ぎ、徒歩、ベトナム事務所へ。
午前8時半、ベトナム事務所スタッフ、日本料理店スタッフ
と一緒に車で「子どもの家」へ。
午前9時。「子どもの家」で「子どもの家」設立16周年記念式典
を行う。
開会前。既にこどもたちは、「興奮気味」。
開会前に「ザーホイ高校」の副校長先生と生徒がやってくる。
「子どもの家」創立16周年と「先生の日」のお祝いに花を
持ってきてくれた。
午前9時、式典開会
誕生16年のお祝いのケーキ
始めにこどもたちの開会の踊りの披露
(小学生の踊り)
(中学生の踊り)
(高校生の踊り)
お祝いの踊りが終わり、式典開会
「子どもの家」ロック寮長とバオミンさんの司会で始まる
●来賓等紹介
「子どもの家」セン運営委員長の「2010年活動総括と次年度方針」
の発表
現在「子どもの家」には48人のこどもたちが在籍。
小学生 8人
中学生 18人
高校生 7人
大学生 9人
職業訓練 6人 合計48名
ーー
在宅支援 12人
JASS支援総計 60名
私たち「子どもの家」のスタッフは、こどもたちの指導者であると
同時に「第2のお父さん、お母さん「である。
2010年は8人のこどもたちが成長し自立・退所した。
おめでたいことである。私たちの活動の目標は
こどもたちの自立である。8人の退所は「子どもの家」の
活動の大きな成果である。8人のこどもたちが人生の
荒波を乗り越え幸せになってもらいたい。
学校の勉強の結果は非常に良かった。
大学在籍者9人のうち7人は、全てが「優」という最優秀だった。
特にフエ医科大学のフオンさんが5年間連続成績「最優秀」だった。
「京滋YOUの会」支援のこどもたちの「定期健康診断」で
こどもたちの健康状況は良好である。
6月1日の「子どもの日」のお祭り、中秋蔡、フエフェスティバル等
への参加。
日本のスタディーツアーの若者と交流。
こどもたちが一番楽しみにしていた「ベーベキュー大会」、
「像の滝での遊び」「クリスマス会」などこどもたちは
内田さんなどJASSの支援者のお陰で様々な体験をし、
楽しい思い出を作ることができた。
続いてJASSを代表して小山が挨拶。
①16年間の思い出
②卒業生への激励の気持ち
③現在の「子どもの家」のこどもたちへは、
『自分の人生を見つけて、自立して欲しい』
『勉強だけが人生ではない。自分の好きなことを見つけて
欲しい』
続いて「子どもの家」こども代表でグエンフエ高校3年生の
ホンニーさんがお礼の挨拶。現在、ホンニーさんは
グエンフエ高校の「理系」で最優秀の成績である。
日本語学校で日本語勉強し、2011年3月には、静岡大学
工学部への入試を準備中である。
「私はグエンフエ高校3年生。16周年おめでとうございます。
こどもの家で私たちは幸せに暮らすことができます。
日本の支援者の期待に応えて、私たちは頑張って生活し、勉強をし、
人間的にも成長して行きたい。改めて、JASSに感謝します。」
続いて、2010年の成績最優秀者表彰
左から フエ師範大学(生物)、(化学)、(教育)、フエ医科大(歯学)
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式典に参加したこどもたち
グエフエ高校2人組
左の「ホーターロン君」は「子どもの家」創立初日から
今日まで「子どもの家」で生活している。
最後にこどもたち・「子どもの家」スタッフ、ベトナム事務所スタッフ
全員で「16周年記念」の決定的記念撮影をする。
(1名不穏分子が画面最前面に『乱入』。結局
1名の「不穏分子」中心の記念写真になってしまった)
1名の不穏分子は「必要な時」いなくて「必要ではないとき出没する」。
「神出鬼没」な憎めない『不穏分子』ではある。
ベトナム事務所スタッフと大塚さん
「子どもの家」スタッフ(お子さんの結婚式等で2名欠席)
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日本料理店のこどもたち
ベトナム事務所スタッフのアオザイ姿(両側の人物は無視)
ベトナム事務所も春近し
日本料理店の大塚さんと里子
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式典終了後、全参加者で昼食会
左のタン君も「子どもの家」設立当初からのこどもである
日本料理店のこどもたち
姉妹(フエ医科大・グエンフエ高校)
姉妹(フエ師範大・グエンフエ高校)
日本料理店のHさん。先日まで「子どもの家」で一緒に
生活していた仲間と食事
ーーーーー
大人スタッフは、お祝いのお酒を極微量(はやぶさ1が
イトカワから持ち帰った微粒子程度)飲む。
ベトナムは「おおらか」で良い。日本では学校での飲酒を
一切禁止されている。私がまだ東京の学校現場にいた頃は、
卒業式・入学式・放課後勤務時間終了後には、校長・教頭
多くの先生たちと飲みながら「教育談義」ができたのだが。
ぎすぎすした日本からベトナムに来ると何事も「ゆるやか」
な軟体質の社会がある。日本は何事にも「ヒステリック」
になる「怒り社会」となっている。精神的「豊かさ」は
ベトナム社会の方が勝っているように思われる。
午後1時、宿舎へ。
昼寝。寝ていて気づいたら午後4時になっていた。
今日は土曜日。午後は休み。
「読書「正しい団塊の世代白書」(高田文夫著)
午後5時過ぎ、日本料理店へ。
日本料理店についたら日本料理店のこどもたちが
今日の「先生の日」のお祝いに手作りのレイと
寄せ書きをプレゼントしてくれた。
感謝。
トゥオイさんから「花束贈呈」があった。
グエットさんから日本料理店のこどもたちなどの「寄せ書き」を。
リー君から手作りのクビ掛けレイのプレゼント
日本料理店のこどもたちに感謝の言葉を言う。
今日は日本料理店の月給日。30%程度の賃上げ。
一人一人に月給を渡す。
リー君には「借金をしないこと」「貯金をすること」『無駄遣いをしない』
よう話す。現在借金はしていないと「本人」は言っていた。
日本料理店のこどもたち・日本人で夕食。
日本料理店で今日2度目の「ビール」の試飲をする。
枝豆とサケの塩炒め。
午後6時から午後9時半まで連続して来客あり。9人。
途中の時間をつかい、全員にアイスクリームが配られる。
「子どもの家」創立16周年記念か?
一人「かなりな量」のアイスクリームだ。
こどもたちは「ぺロッ」と食べてしまった。素晴らしい。
私一人、全く食べられなかった。
最終、アイスクリームの「締め」は富岡先生
午後9時半閉店。
徒歩で宿舎へ。千鳥足。
読書「正しい団塊の世代白書」(高田文夫著)読了。
楽しみながら、追憶の気持ちで読めた。
2010年11月19日
バンベー38号編集
終日曇り
午前4時半、目覚める。
読書「漢語日暦」読了。
午前7時朝食。キャッサバ芋の手打ちうどん
バンベー38号の編集。午前中続く。
バオミンさんから追加の原稿、写真などが来る。
12ページ分の原稿と写真を分類する。まだ、原稿が届いて
いないものもあり、印刷へ送るまでには、まだ若干時間が
かかる。
読書「気になる仏像がひと目で分かる本」(大和書房)
いわゆるハウツー物であるが、単純に仏教の解説、
仏像の分類、顔、着物、持ち物などでの分類等
図解入りで分かりやすい。
午前11時半、昼食。ご飯と魚の煮物、野菜炒め、野菜スープ。
1時間ほど昼寝。
読書「気になる仏像がひと目で分かる本」(大和書房)
如来 →菩薩 →明王 →天の順番に解説。
色々なことが分かる。
バンベー38号の原稿が引き続きバオミンさんから送られる。
内容を確認し、添削。写真の確認。
原稿だけで写真がないものをバオミンさんと電話で確認する。
午後4時、フエ高等師範大学学長と副学長がベトナム事務所へ
来る。明日(9月30日)は、「先生の日」。
先生の日のお祝い・お礼に花束を持って来てくれる。
フエ高等師範大学の日本語学科の日本語教育の進め方を
若干話し合う。
フエ高等師範大学の日本語先生である富岡先生も同席。
ニフィープログラムで静大工学部へ留学した第1期生の3人の
親が「先生の日」のお祝いに花を持って来てくれた。
午後5時半、日本料理店でこどもたち・日本人スタッフと夕食。
途中からお客さんが来る。
おかずは、「魚のから揚げ」
午後5時45分から午後9時45分まで29人の
来客あり。
4時間、接客係りも厨房も日本人も休まずに仕事。
29人の来客の国別内訳
私が全てのお客さんに挨拶し、国名などを聞いた。
ほとんどのお客さんは「ロンリープラネット」を読んで
来ている。挨拶に行くと、そもそも「子どもの家」を
作ったいきさつは?から聞かれる。
・オースとラリア人 10人
・日本人 2人
・イギリス人 2人
・ギリシャ人 3人
・スイス人 2人
・スエーデン人 1人
・ドイツ人 2人
・フランス人 2人
・タイ人 4人
最近良く出る注文が「お好み焼き」。
午後9時45分、閉店。店の片づけをし徒歩帰宅。
2010年11月18日
バンベー編集:ブライセン業績評価
「洪水一過」快晴
数週間ぶりに太陽を見た。
午前7時朝食。「赤豆粥」。甘辛煮の小魚つき。邪気払い。
数週間ぶりに青空を見た。
毛布、フトン、衣類などを干す。太陽に当てる。
バンベー編集。各地の会、関係者からの原稿が徐々に集まり
始める。必要な写真を考える。
バオミンさんといくつかも件で電話で話し合う。
ストレッチ。
読書「漢語日歴(かんご ひごよみ)」(興膳 宏:元京都国立博物館長)
岩波新書。
午前11時半、昼食。マカロニスープと生野菜多量。
ブライセンベトナム支社社員の業績評価。
6人について各評価項目事に詳細な評価を行い、文章表記する。
読書「漢語日歴(かんご ひごよみ)」(興膳 宏:元京都国立博物館長)
岩波新書。
午後4時半、ベトナム事務所へ。
午後5時、日本料理店会議。
日本料理店のこどもたちの給料を30%ほどアップする。
物価上昇に伴う措置。
午後5時半、日本料理店でこどもたち・日本人スタッフと夕食。
午後9時過ぎ閉店。今日は14人の来客あり。
2010年11月17日
引き続き、洪水続く
朝から断続的に雨。
洪水の影響か? 部屋中に「蚊」が蔓延。
蚊にキンチョールを吹きかけるのだが私の目が飛蚊症(ひぶんしょう)
なので、既にメン玉の中に「蚊が住んで」いるのだ。
目の水晶体の混濁で起こる飛蚊症(ひぶんしょう)のために
「蚊」のようなものが常に見えるので、それと本当の蚊が区別
できない。困ったもんだ。
午前7時朝食。フォー
昨夜、テレビ朝日系列「報道ステーション」で放映された
故木村百合子さんの「自死」についての報道を見た
方々から反響のメールが来た。
どの方も自死した木村百合子さんを支えられない学校と
いう社会のいびつさに憤りを感じ、こどもたちを救う
手立てをしっかりと学校に確立しなければとの憂慮を
持っている。
木村百合子さんの「自死」の原因とその後の校長や教育委員会の
対応に、今日の日本の歪んだ社会の本質が投影されている。
誰も責任をもたない社会である。一人の人間が、何度も救済を
訴え校長や副校長などに訴願している。それらを、「月給泥棒」
などと罵倒する管理職には、何の管理能力もない。
私的には、校長や副校長などを木村百合子さんを
「死に追いやった」殺人罪で告訴したい気持ちである。
ご両親が、「二度と、木村百合子さんのような先生を出さないように
世論に訴え、社会を変えたい」との意向で、当面「公務災害申請」を
行い、静岡県の公務災害基金が、木村百合子さんの公務が原因に
よる「自死」ではないとして、申請を却下したため、
「木村百合子さんの公務災害認定裁判を支援する会」を作り、当面、
公務による自死との裁定を出させるための裁判を応援しているのである。
一人の人間が学校という場所で、教師としての仕事をしている
なかで自死したのに、教育委員会や校長など学校関係者が
全く口を拭って「知らん振り」を決め込んでいるという社会は異常である。
だれかがどこかで「不正義」を質す闘いをしなければ、世の中は
真っ暗である。
是非、読者の皆様の中で会員になり、支援していただける方は
以下の蓮井氏に連絡を。(静岡県磐田市)
「木村百合子さんの公務災害認定裁判を支援する会」問い合わせ先
代表 蓮井康人
0538-32-8063
kimurakousai@gmail.com
午前中、バンベ38号の原稿を全てチェックする。
必要な写真をチェック。
読書「漢語日歴(かんご ひごよみ)」(興膳 宏:元京都国立博物館長)
岩波新書。
1年間(365日)の毎日、1つの漢語の単語を提示し、解説する。
知らなかった語源や本当に意味が分かり参考になる。
力を抜いて、軽く読める本。
赤豆粥(せきとうしゃく) 旧暦1月15日(小正月)。
中国では、小豆粥を食べて、邪気を追い払う習慣があったという。
私は毎週1回は赤豆粥を食べている。これも中国からベトナム
に入った風習だと思う。
「呂律(ろれつ)」がまわらない。飲みすぎるとそうなる。
呂律は中国の伝統音楽の音調。呂が陰調、律が陽調。
陰調と陽調がうまく合わさってきれいが音楽が演奏される。
欠伸(あくび)。私は、欠伸(あくび)をする時に体を伸ばすので
伸びを欠いた状態なので「欠伸」と書くのかと思っていた。
「欠」は口を大きくあけることをいうそうだ。
午前11時半、昼食 チャオ・バイン・カイン(小麦粉のうどん)
大塚さんから電話。日本料理店のこどもたちの家が洪水で
外に出られない状態。今日は日本料理店を休みにしたいとの
こと。了解する。日本人は夕食が必要なので、午後6時から
日本料理店で一緒に夕食を摂ることになった。
まだ、フエ郊外は洪水の被害あり。
バオミンさんとバンベー編集についての件で打ち合わせ。
原稿の集まり具合い、写真の状況など。
また、新たに必要な写真の追加などを打ち合わせする。
読書「漢語日歴(かんご ひごよみ)」(興膳 宏:元京都国立博物館長)
岩波新書。7月まで読む。肩の凝らない本ではあるが、面白い。
無知を痛感する。
午後6時前、日本料理店へ。夕食、日本人で「鍋物」を食べる。
仕上げの「〆」は、「玉子雑炊」。出汁がしみ込んで美味しい。
午後9時半閉会。
洪水の影響でお客さんが町を歩いていない。
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【ロンドン=大内佐紀】12月10日にオスロで開かれる
中国民主活動家・劉暁波(りゅうぎょうは)氏(54)の
ノーベル平和賞授賞式典に招待された駐オスロ日本大使が、
回答期限の15日を過ぎても出欠を「保留」していることがわかった。
同大使館筋によると、本省からの指示がなく返答できないという。
劉氏への授与に反発する中国政府は、各国政府に出席しないよう
要求しており、前原外相も中国から働きかけがあったことを認めている。
(2010年11月17日10時35分 読売新聞)
なんとも姑息な日本政府の対応である。日中友好と
ノーベル平和賞授賞式出席問題は、別問題だ。
今日のニュースで、日本大使は出席するとのこと。
申し込み期限を遅らせることで、中国に配慮したなどと
菅内閣が思っているとしたら、間違った「信号」を中国に
送ってしまう。
菅内閣は、全てのことに「基本方針」を持っていなく、
また貫徹していない。常に『動揺』を繰り返している。
政治は「信念」である。
小手先の政治手法で誤魔化しているが、今まで
国内では「誤魔化し」が通用しても「国際社会」では、
通用しない。自らの意見と見解ははっきりと示さないと
相手に「間違った信号」を送ってしまう。
私がベトナムで17年間生活した経験から言えることである。
姑息な小手先の「手練手管」を弄しても仕方がない。
「百術不如一誠」である。菅首相の本当の心と気持ちを
相手にぶつけることである。たとえ相手が気に入らない
ことであっても。そこから対話が始まる。
ノーベル平和賞出席を 止める様に中国から言われ、
締切日が過ぎてから出席するという、姑息なやり方は
人間を見られてしまう。貧相な人間であると思われても
仕方がない。国際関係は意見の違うところから出発する。
2010年11月16日
「子どもの家」卒業生ホンニーさん結婚式
終日雨。 フエ市内洪水。
午前5時起床。
読書「読書「中国侵略の証言者ー「認罪」の記録を読む」
(岡部牧夫・荻野富士夫・吉田裕:岩波新書)
午前7時朝食。「キャッサバ芋の麺」
午前9時集合で「子どもの家」卒業生・元日本料理店店長
のホンニーさんの結婚式に参加する。
スーツを出してみる。見事に「カビ」状態。
仕方がないので、濡れタオルで拭く。嫌な季節だ。
午前8時40分。宿舎を出ようとしたが、宿舎の前の通りが
洪水で歩けない。長靴を履いて、何とか通りの一番端を
歩いて「大通り」に出る。しかし、大通りが洪水で歩けない。
ベトナム事務所に電話をして「SOS」。
ソン君がオートバイで「救援」に駆けつけてくれる。
途中、水深が膝上まで来ている所もあり、オートバイが
止まってしまうのではと心配したが、何とかフォザンホテル
とフォン河の交流点まで来る。既にフォン河は氾濫し、
レロイ通りも浸水状態。南部に台風らしきものが来ているとのこと。
ベトナム事務所着。
ホンニーさんから招待状が来たベトナム事務所スタッフ
と「子どもの家」のセン運営委員長が、車で30分ほどの
ホンニーさんの夫の実家(かなり田舎)まで行く。
途中、フォン河の支流が随所で氾濫していた。
午前9時半、何とか結婚式場に着く。
しかし、誰もお客が来ていない。1時間後とか2時間後
に始まるという「噂」もあり、なんとも「田舎」ののんびりした
結婚式である。1時間以上、式場前で待たされる。
立派なお墓が新郎の実家の前にある。
(結婚式後、リー君・ハイ君一派が、このお墓で放尿する
現場を目撃。信仰心ゼロ)
新郎の実家の目の前は海。
1時間ほどして、少しずつ結婚式の雰囲気が出来上がって
来る。
新郎・新婦の写真を会場入り口に据える。
式場到着1時間半程して「新郎・新婦」登場。
午前7時からホンニーさんの親戚の家で祖先に結婚を報告する
儀式をしていたとのこと。えらく長い報告会だった。
新郎の実家の結婚式場入り口で。バオミンさんと。
まだまだ結婚披露宴は始まらない。
今度は、新郎の祖先に結婚報告。両家の親族が参加。
新郎側親族。
新婦側親族。人数が少ない。
新郎新婦にベトナム事務所としての結婚お祝い金(大枚?)
を渡す。
「子どもの家」運営委員長のセンさんが、「子どもの家」の
結婚お祝い金を渡す。
新郎新婦と記念撮影
どうも「式次第」なども細かく決まっていないようだ。
のんびりした農家の結婚式だ。何か、のんびりして
救われるような気持ちになる。
恒例の結婚式披露宴料理が次から次へと出てくる。
一人1000円見当の料理だそうだ。
お祝いに駆けつけたJASS関係者。
ビールが出たが、温かいビール。氷が用意されているが、
怪しい氷。私は、氷をいれずに「温かいビール」を飲む。
まずい。
第1部の結婚式。親戚や大事なお客さん。
午前11時過ぎから友達が集まる披露宴も用意されているが、
既に11時に近い。どうなるのだろう。
そのうち午前11時開からとの招待状を送っている「友だち」
関係者の一部が到着。「子どもの家」関係者。
結局、「子どもの家」関係者の「友だちグループ」は
親戚など「大事なお客さん」に紛れ込んで披露宴に
参加してしまう。
こうした場合、一番張り切るのが、例の「お調子男」
その名も「リー元日本料理店長」である。
アルコール類があると「興奮状態」となる。
「子どもの家」でホンニーさんと一緒に暮らした仲間が
集合。
『ハイリーホテル』の「ハイ君」と「リー君」が久しぶりに揃った。
「子どもの家」の画家ゴッポことフック君。
両家の「長老」も参加
結婚披露宴はお偉いさんの挨拶もないまま、突然「カラオケ大会」
と化した。
ハイ君が歌う。見事な歌。完璧に1度ほど音程をずらして
歌っている。並の人間に出きる技ではない。
「変ナ長調」。
3回目の「お色直し」。今度はピンクのドレス
(1回目は伝統的なアオザイ。2回目は純白のウエディングドレス)
日本料理店のグエットさん、バオミンさんと。
午後12時過ぎに第1回目の披露宴終了。
こどもたちと一緒(20人)にフエ市内へ帰る。
途中、洪水状態。
午後1時近くベトナム事務所へ。解散。
今日は、日本料理店も閉店。
私は宿舎へ帰ろうとしたが、洪水で帰れない。
ソン君のオートバイで送ってもらう。
しかし、私の宿舎の前の道に入った途端に水深数十センチ。
オートバイのエンジンの上まで水がきてしまい、エンジンが
ストップ。
ソン君には申し訳ないことをした。ソン君はオートバイを
直しに修理工場へ。
私は歩いて宿舎へ。モモまで水が上がってきている。
スーツのズボンは、腰の下まで水に浸かる。
部屋に帰りシャワーを浴びる。洪水の水は、雨水では
なく、フォン河と「汚水」。不潔極まりない。
温かいビールを飲んだので少し酔う。昼寝。
午後3時、読書
「読書「読書「中国侵略の証言者ー「認罪」の記録を読む」
(岡部牧夫・荻野富士夫・吉田裕:岩波新書)読了。
今までのこの種の本はかなり読んでいるので、新しい
ことは特になかったが、反中国感情が「国粋主義」と
結びつきそうな日本の現状では、本書の意味は大きい。
戦後戦犯として中国で裁判にあった1000人の
「自己批判書」を調査し、中国で日本人が何をしたのか
を本人の証言で綴ったもの。
従軍慰安婦はいなかったとか、日本は中国に侵略していない
など、戦後繰り返し起こる日本の侵略を否定する勢力に
読んで欲しい本である。当時の師団長など中将・少将クラスの
証言である。「三光作戦」(殺しつくす、焼き尽くす、奪いつくす)
の実態を克明に告白している。
1000名のうち45名のみが起訴され、服役。
帰国した1000名の皆さんが、「中国帰還者連絡会(中帰連)」を
結成し、侵略の実態を訴え続けている。
731部隊の『細菌作戦』、三光作戦、新兵教育のための
中国人刺殺訓練など、実行した人たちの告白なので
重みがある。
1960年代の中国文化大革命を巡って、日本共産党と
中国共産党が対立。「日中友好協会」も分裂。
中国盲従グループの「正統派」と日本共産党系。
「中国帰還者連絡会(中帰連)」も同様に分裂し、20年間
争っていた。
日本人の対外盲従精神は欧米だけではなく、こうしたことにも
表れるのだと改めて思った次第である。
午後7時、ソン君と一緒に買ってきた「ベトナム風ほか弁」(100円)
を食べる。
読書「漢語日歴(かんご ひごよみ)」(興膳 宏:元京都国立博物館長)
岩波新書。
報道ステーションでJASS会員だった「木村百合子さん自死」の報道
緊急
本日(11月16日:火) テレビ朝日系列「報道ステーション」
でJASS会員だった故「木村百合子さんの自死」事件の
報道があります。
午後10時から報道ステーションは始まります。
是非、ご覧ください。
木村百合子さんは静岡大学時代からJASSの会員・JASS静岡の
会員でした。卒業後、4月に教員になり、9月に自死しました。
校長以下管理職などの無責任な人事配置などが原因です。
現在、私も呼びかけ人となり、「公務災害認定」の裁判闘争中です。
「病んだ学校現場」で真面目な新任教員が、どのように
自死していったのか? 私は木村百合子さんを無念な自死、
「憤死」に追い込んだ教育委員会や校長など管理職の
無責任な態度を絶対許せないという気持ちから、裁判闘争を
支援しています。
詳細は、報道ステーションをご覧ください。
2010年11月15日
バンベー38号編集
終日雨。午前中、時々豪雨
朝起きられず。午前6時半起床。
簡単なストレッチ。熱めのシャワーを浴びる。
午前7時、朝食。ブンボー。
バオミンさん(バンベー原稿の集め役)から次々と原稿が
メールで送られてくる。
11月15日が、バンベー原稿の「締め切日」。
ベトナム事務所員の原稿、「子どもの家」ベトナム人スタッフの
原稿など・・・・。
一つずつ目を通し、全体のテーマに沿った内容になっているか、
分かり易くなっているかをチェック。
読書「半音楽史」読了。
17世紀・18世紀・19世紀のヨーロッパ音楽史の概要が
よく分かった。
本書の帯にある西洋音楽史を「ドイツ聖楽史」に変えてしまった
事情を実証的に証明している。
音楽の主流は歌。楽器は歌の補助。音楽は文字通り、
音を楽しむものというのが、当時の一般的な音楽理解。
皇帝や貴族の食事会の後ろで「演奏する」ものだった。
楽士も作曲家も皇帝・貴族の下僕であった。もちろん
人文貴族は音楽家のパトロンとなり音楽家を保護した。
そして、イタリヤが音楽の中心であり、更にフランス
などの音楽もあくまで娯楽であり、楽しむものであった。
中心は「オペラ」。
当時のウイーンやドイツはなどアルプスの北には、そうした
文化が届いていなかった。多くのドイツ楽士や音楽家は
イタリヤへ勉強に行ったというのが、著者の最初に言いたいこと。
シンホニー(交響曲)は当時の音楽会の「序幕」的な、ざわめきを
消すための音楽としか位置づいていなかった。
1808年に行われたウイーンの劇場でベートーヴェン主催の
の音楽会のプログラム。
第1部
1、田園生活の思い出という題の交響曲(初演)
(これがベートヴェンの「田園」)ー落語で言えば「前座」扱い
2、アリア ああ不実な人よ
3、独唱と合唱によるラテン語の頌歌
4、ピアノ協奏曲ト長調 演奏ベートヴェン
第2部
1、大交響曲ハ単調(初演)ーこれが「運命)
2、ラテン語による聖歌
3、ピアノ独奏 (ベートーヴェン)
4、ピアノ独奏つきの合唱幻想曲
交響曲(シンホニー)は、あくまで「序幕扱い」だった。
メインは、歌、そしてモーツアルトのような楽器の名人の演奏を
聞くというものだった。
18世紀に入り、後進国のドイツでは、国威発揚、愛国主義
が盛んとなり、「先進国」を追い越せとの運動が起こる。
その一環としてドイツ人のシューマンたちが愛だの恋だの
というオチャラケた音楽でなく、「美」と「崇高」こそが
音楽だとの主張をし、ベートーベンなどがシラーや
ダンテの詩を使い、ソナタ形式を取り入れ、シンホニー
を作り上げる。そして、19世紀・20世紀前半までは
大バッハ、モーツアルト、ベートヴェン・・などドイツ人の
「美と崇高」を目指したクラシック音楽が主流となっかたに
見えたが、実際には、ロッシーニなど「美と崇高」とは
一線を画し、大衆に奉仕する作曲家の演奏回数の方が
圧倒的に多く演奏されていた。
日本のように後発国の音楽は強国「プロイセン」(ドイツ)から「輸入」
したので、「美と崇高」こそが音楽という伝統がいまでも続いている。
その基本は①楽譜が全て。 ②作曲者が全て ③交響曲が音楽の
最高 ④協奏曲は不純なジャンル。独奏者の芸を見せる
ショビジネスー ⑤弦楽四重曲は純粋で高貴な形式
⑥セレナード、ディヴェルティメント、食事の音楽は宴席音楽で
卑しい ⑦あらゆる編曲行為は、原曲を損なう
こうした流れをせき止めたのが、ジャズ。楽譜の読めない
黒人にアメリカ南北戦争の敗者南軍が、楽器を売り、
娼婦街で客寄せのために楽器を鳴らすところから始まった
ジャズが、「ソウルの音楽」といわれるまでに成長し、
ドイツクラッシク音楽をしのぐようになったと著者は言っている。
著者の説明には納得するところもあるが、何しろ当方が
音楽に無知な人間のため、可否を認定する能力がないが、
17・18・19世紀の「石井宏流音楽史」を学んだことが確か。
バオミンさんと電話でいくつかの打ち合わせをする。
メールの受信・送信。
午前11時半、昼食。「春雨麺」。
午後12時過ぎから1時間ほど昼寝。
午後2時、ブライセン本社と電話会議。
読書「中国侵略の証言者ー「認罪」の記録を読む」
(岡部牧夫・荻野富士夫・吉田裕:岩波新書)
中国の山西省「太原(たいげん)」と遼寧省「撫順(ぶじゅん)」
の戦犯管理所に収容されていた1109人の日本軍人などを
裁いた法廷の記録。結果は1956年6月・7月に45名が
裁判を受け、懲役20年から12年の刑を宣告され服役。
死刑・無期懲役は一人もいない。被告の一人は、40数人の
試し切りをしたり、新兵の度胸試しに殺害を指示したり
している。当時の中国共産党の指示で「死刑と無期懲役」
は出さないという原則のもとで裁判が行われている。
1109人もの被告がいたが、結局懲役刑は45人にとどまって
いる。
多くの服役者は満期前に日本へ帰国している。
私が本書を読もうとした切欠(きっかけ)は、山西省「太原」
という町が出てきたからである。我が家はこの山西省太原に
住み、兄、姉はこの太原で生まれている。内陸部の町。
アジア・太平洋戦争が終わるまで家族は太原にいた。
どんな町なのか? 太原で暮らしていた軍人の父とその
仲間が何をしたのか?を知りたい。
静岡大学滝下さんへ電話。
静岡大学W教授と電話で話をする。
バンベーの原稿がどんどん私のメールに入る。
入り次第、添削し、題名をつけて保存する。
午後は大雨。
午後5時過ぎ、日本料理店へ。
途中、豪雨で町の道は浸水。水深20センチほど。
日本料理店のこどもたち、日本人スタッフと夕食。
野沢菜のような発酵した漬け菜。少し酸っぱくて美味しい。
滝下さんと電話で打ち合わせ
来客3人。
日本料理店のヒエウさんの家が浸水したとのこと。
日本料理店副店長・厨房主任のトゥオイさんの
妹がトゥオイさんを迎えに来た。家の付近が
浸水とのこと。
トゥオイさんの妹のクアーさん。高校2年生。
1999年のフエ大洪水で父親は亡くなり「子どもの家」に
入所した。小学校1年か2年生位だった。
1ヶ月ほど「家に帰りたい」と毎晩泣いていた。
午後8時、こどもたちを早く家に帰すため閉店。
私はフォンザンホテルとフオン側の交流する場所へ行く。
フエ市内の洪水はここから始まる。
既に鉄の柵が張られ、通行止め。この調子で雨が降れば
明日は市内全域が浸水する。
フエ市内と郊外との結ぶ道。浸水で道路閉鎖。
フエ市内と郊外を結ぶ道は『洪水』で歩行困難。
フエ市内と郊外を結ぶ「結節点」にあるレストランは、かなりの
浸水状態。
午後8時半、宿舎に着く。
2010年11月14日
終日雨、時々豪雨。
午前7時起床。
簡単なストレッチ。
午前8時半朝食。昨夜の日本料理店の夕食の残りの
「チャオ・バイン・カイン」を温めて食べる。
部屋の掃除。洗濯。
読書「反音楽史ーさらばベートーヴェン」(石井宏著:新潮文庫)
17世紀・18世紀の音楽の歴史、協奏曲・交響曲の「起こり」
を知る。当時の音楽の主流は「声楽」。人間の歌である。
当時の歌手は3オクターブの音域があったそうだ。現在は
2オクターブもかなりきついようだが・・・・。
イタリアでヴァイオリンが発明され、人間の歌と同様の
音域と微妙な音色。
ヴァイオリンを「声楽」の代わりに「ヴァイオリン協奏曲」が
出きる。
更に音楽界の序曲(ざわめき止め)のために交響曲が
出現するが、あくまで絵画で言えば「額縁」。つけたし
である。
午後12時過ぎ、2時間昼寝。
読書「「反音楽史ーさらばベートーヴェン」(石井宏著:新潮文庫)
私は音楽については、全く素人そのもの。
しかし、石井氏は、かなり「過激派」。通説の「大ハイドン・ベートヴェン・
モーツアルト・ブラームス」というドイツ人の音楽家が世界の音楽の
主流としている日本の音楽界に「殴り込み」をかけていることは
分かる。読んでいる範囲では、納得でき、17世紀・18世紀・19世紀
前半の音楽史・楽器の歴史などが良く分かった。
午後5時過ぎ、日本料理店でもらった「冷凍カレー」を解凍し、
ベトナム米を5勺炊いて、久しぶりのカレーライスを食べる。
5勺のご飯が食べきれない現実に愕然とする。
読書「「反音楽史ーさらばベートーヴェン」(石井宏著:新潮文庫)
今年は、諸般の事情で読書があまりできなかった。
毎年、100冊を目標に読書をしているが、10月18日、
フエに戻った段階で、53冊。2009年はこの時点で63冊、
2008年は60冊。
幸い、11月から12月中旬まではスタディーツアーなども
ないので、読書月間とした。時間があれば、読書。現在66冊。
更に読みたい本が20冊ほどある。何とか、年末までに
読了したい。読書は私のベトナムでの活動の知的エネルギー
である。
2010年11月13日
ベトナム事務所員会議
終日雨。
午前6時半起床。多少疲労が溜まり起きられなかった。
ストレッチ
午前7時、朝食。
午前8時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。
午前8時半。ベトナム事務所員会議。今日からベトナム事務所
は12人の大所帯になった。日本人6人、ベトナム人6人。
女性7人、男性5人。
(ソン)「子どもの家」のこどもたちの写真を写す。(全員)
在宅支援のこどもたちの写真は2人を除き終了。
バンベー原稿の担当分の依頼を終わる。
(原田)日本語学校「特進クラス・2・3」を教えた。
バンベーの越 →日の翻訳の清書
フエ高等師範大学THUY先生と打ち合わせ
フエ高等師範大学の担当は副学長。
(富岡)日本語学校中級クラスの授業
フエ高等師範大学3年生 読解指導
(フーン)月・水・金 授業
フエ高等師範大学テスト11月30日
(古竹)週3回 フエ高等師範大学会話の授業
週2回 日本語学校特進クラス2の授業。
2週間でひらがな・カタカナを教えたが生徒はついてきた。
(土井)月・金 特進クラス3授業(良い雰囲気になっている)
フエ高等師範大学2年生授業 会話テスト
(アン)フールー小学校の奨学生の翻訳
「フェリシモ」の仕事
(税田)昨日、フエに戻った。予定より3ヶ月早く。
日本滞在中は父親との交流の時間を取った。
5年半のフエ滞在中の活動を振り返って見た。
7月に短期間ソン君・メンーさんの結婚式に参加したが
各地の会の方たちと交流し、ベトナム事務所への強い
期待を感じた。
日本滞在中「充電」してきた。
(ハン)奨学金関係
「子どもの家」のバンベー関係者への原稿依頼
(フオン)日本語学校特進クラス3の授業
日本語学校中級クラス授業(ひらがな・カタカナ)
(バオミン)バンベ38号関係の仕事
この間、ベトナム事務所のパソコンが壊れてしまい
パソコンが使えなかった。インターネットも故障。
文章作成、メールの連絡ができなかった。
ブライセン本社の皆さんの接待
バンベー38号は11月15日締め切りである。
(来週の日程)
・元日本料理店店長 ホンニーさんの結婚式
(11月16日 A9時ベトナム事務所集合)
小山・ミン・ハン・税田・大塚・原田・フーン参加
・11月20日「子どもの家」創立16周年記念式典
A9開始(A8:30ベトナム事務所集合)
(式次第)司会ロック寮長 通訳 ミン・ハン
・来賓紹介
・16年間の活動報告 (セン運営委員長)
・フエ市人民委員会代表祝辞(ニエン外務部長)
・JASS代表挨拶(小山)
・「子どもの家」のこどもたちの言葉
・成績優秀者表彰式
●A11~参加者全員で会食(こどもたちも含む)
●当日分担(写真係り) 原田・ソン
ベトナム事務所員会議後、日本語教師会議。
いくつか問題提起を受ける。早速、問題の実態を調べ、当面の
解決をする。
午前10時半、宿舎へ戻る。
読書「反音楽史 さらば ベートヴェン」(石井宏著:新潮文庫)
著者は「ドイツ人による音楽史の歪曲」を証明するために
本書を書いたが、私には、17世紀・18世紀の音楽史を
勉強するようなもの。イタリア(ナポリとベネチア)が
ヨーロッパ世界の音楽の中心。「オペラ」全盛時代。
今はオーストリアの首都となっている「ウイーン」も
プロイセンと同様に「ドイツ圏」に入っていて、音楽では
地方都市。中心はイタリア。
オペラは王侯貴族というパトロンの保護の下に発展。
モーツアルトもイタリアのオペラを学ぶ。
「ドイツ音楽史観」の人たちは、イタリアへ行き、ヨーロッパで
有名になり、音楽史に数々の歴史を刻むべき、ドイツ人
をほとんど「無視」していると著者は嘆く。
モーツアルトを含めて当時の「楽士」(演奏家)は、船乗り
などと同様に低い身分であり粗野で乱暴者が多かったとのこと。
モーツアルトの父親は、早熟のモーツアルトを
イタリヤやパリの王侯貴族に長期間の「売り込み旅行」を敢行
している。17世紀・18世紀はイタリアでなければ、音楽ではない
と言った時代だと著者は主張する。
午前11時半、昼食。 豚肉入りベトナム風「おじや」。美味しい。
2時間ほど昼寝というのか、寝てしまった。起きられない。
午後3時
読書「反音楽史 さらば ベートヴェン」(石井宏著:新潮文庫)
当時やっとチェンバロの時代。ピアノはなかった。
多くの音楽家は、何らかの楽器の演奏者だった。
演奏をしながら、作曲、特に教会音楽やオペラを学んでいった。
本書を読んで当時のヨーロッパにも中国・ベトナムと
と同様「宦官」(かんがん)と同じ人間がいたことが分かる。
子どものうちに睾丸を切り取ることで、女性的なきれいな高音
で歌える「カストラーナ」。貧しい家庭のこどもたちが、
「カストラーナ」になることを目指し、去勢する様式があった。
当時のイタリアの音楽楽士の養成所は教会の「孤児院」
だった。イタリアでは3つの有名な孤児院(私たちのような
「子どもの家」)で教会の司祭などが、こどもたちに
音楽の演奏、合唱などを教えた。そうしたなかから、
「カストラーナ」が生まれ、
有名なオペラ歌手が輩出され、巨万の富を稼ぐようになる。
「四季」のビバルディーもイタリアの「ピエタ孤児院」の司祭
としてこどもたちに終生音楽を教えていた。
著者によれば、「音楽ドイツ史観」がバイアスで、ビバルデイー
が200年間、知られずにいた。1949年、イタリアで
ビバルデイーの楽譜が発見され、LPレコードで発売。
イギリスの会社が発売。人気を博す。
1955年、「イム・ジチ」という無名の楽団に『四季』を演奏させ
LPレコードで発売し、世界中で爆発的な人気を博す。
その後は、「ビバルディー」 →「四季」 →「イム・ジチ」と
定着したとのこと。「イム・ジチ」は、22歳位の新進気鋭の
若者楽団だった、現在、販売されている「四季」は
1955年録音「「イム・ジチ」版だそうだ。
午後5時過ぎ、雨の中、日本料理店へ。
午後5時半、日本料理店のこどもたち・日本人スタッフと
夕食。
今晩の食事は、小麦粉の手打ちうどん(チャオ・バイン・カイン)
こどもたちはかなり大量の唐辛子を「ぶち込む」。
用事があって午後6時に出勤したヒエウさん。
今日は8人の来客あり。
スペイン人 6人
オーストラリア人 2人
午後9時15分閉店。
2010年11月12日
税田さんベトナム事務所へ着任:ブライセン本社スタッフ見送り
雨・曇り・少し明るくなった
午前5時半起床。ストレッチ。
読書「反音楽史」(石井宏著)
午前7時、朝食。フォー。野菜いっぱい。
午前8時、ベトナム事務所へ。
昨夜、ホーチミン市で一泊した税田さんが無事ベトナム事務所
へ到着。
ベトナム事務所員と挨拶。今日から仕事を再開する。
初顔合わせの土井先生・富岡先生と挨拶を交わす
税田さんからベトナム事務所スタッフへ挨拶。
ベトナム事務所スタッフもこれからベトナム事務所員一丸と
なってこどもたちのために頑張ろうとの決意を固める。
2週間ぶりだろうか?少し空が明るくなる
午前11時半、昼食。マカロニスープ
昼食後、2時間昼寝。今日は少し太陽が出た。
寒暖の差が激しく、体調悪し。
午後2時過ぎベトナム事務所。
ブライセンリンター部長のHさんと業績評価の最終
打ち合わせを行う。
日本料理店では、富岡先生がこどもたちに日本語を
教えていた。
午後4時半、ブライセンベトナム支社で、全てのスタッフ
と2人の本社スタッフ、私で最後の総括会議。
H部長より6日間の総括の話がある。
総括会議を終えて、ブライセンスタッフはフエ空港へ。
午後5時過ぎ、ベトナム事務所を発って、フエ空港へ。
ブライセン本社のHさんとHさんと私で。
午後6時過ぎ、二人のHさんがチェックインを終え、
空港内へ。6日間の活動、ご苦労様。
午後6時半、税田さんと大塚さんと私で日本料理店内で
夕食。
次から次へと来客あり。午後9時半までに30人の来客。
イングランド 2人
スイス 2人
日本 12人
オーストラリア 2人
スペイン 3人
タイ 4人
その他
合計 30人
土井先生も日本料理店の手伝いをしてくれる。
感謝。
滋賀県のツアーの皆さん。障害児教育を行っている。
午後9時半閉店。その後、大塚さん・税田さん・私・
古竹先生・土井先生・リー君で税田さんの歓迎の
気持ちも込めて簡単なお祝い飲み会。午後11時まで。
徒歩、宿舎へ。午後11時20分着。
2010年11月11日
ハンさん誕生会:ブライセン本社スタッフと懇談会
曇り・雨
午前6時起床。
簡単なストレッチ。
午前7時朝食。お赤飯のおかゆ。
読書「イギリス近代史講義」(川北稔著:講談社現代新書)
イギリスの産業革命についての様々な異なる意見を
紹介。イギリス産業革命は、フランスのようなブルジョワに
よる革命でなく、名誉革命・清教徒革命を経て、ジェントル
層(貴族・大地主)によるものであり、ワットの蒸気機関
発明が出発との通説を否定している。
蒸気機関を作っても売れなければ意味がない。購買層の
需要があったからと説明。購買層は、新たにできた工場
(ロンドンではなく、マンチェスターなどの地方都市)などで
働く女性層・こどもたちだと著者は言う。
産業革命でイングランドは煤煙の巣窟となり、児童労働は悲惨を
極めとエンゲルスは、「イギリスの労働者階級の状態」
で書いているが、もともとこどもたちは、工場で働く前は
農業などの家事労働うや家内労働に従事していた。
著者は、こどもたちや女性は、家内労働なでは、夫のみが
給料をもらっていたが、工場労働者となり、給料をもらえるように
なったといっている。
午前9時過ぎ、ベトナム事務所へ。
今日はハンさんの00回目の誕生日。ベトナム事務所で
誕生会をする。
原田先生から記念品贈呈
古竹先生が中心となり作成した「誕生祝いのカード」贈呈
その後、1時間ほど、会議室で懇談。
3階ブライセン事務所では、リンターの学習などをしていた。
ハンさんの誕生祝い会を終わり、再び、ベトナム事務所で
仕事をするスタッフの皆さん。一致団結した力は素晴らしい
仕事をするものと期待している。スタッフの「和」は意外と
大きな力になる。
午前11時、徒歩宿舎へ。
午前11時半、昼食。小麦粉の(チャオバインカイン)
その後、30分ほど昼寝。
メール受信・送信。
読書「イギリス近代史講義」(川北稔著:講談社現代新書)読了。
2010年10月20日発行
私の期待していた内容はかかれていなかったが、イギリスの
植民地政策(アメリカ・インド・カリブ海)、産業革命から
世界1の経済大国となり、「衰退」するまでの経過について
各種の異論・反対論も紹介しながら、学会内での論議の
実態を披露している。
イギリス経済は「衰退したのか?」との問いには、各種の
回答があるとし、衰退した、衰退していないなどの意見を
紹介している。著者の立場は、衰退したいかどうかは
別にして、衰退したとしても、それほど恐れることはないとの
立場。オランダ・ポルトガルが先行した「経済大国」。
その後衰退しても不幸になったいるか?と立論している。
私的には著者の立ち位置はいまいち不明である。
バオミンさんでテト休み、その後の訪日の件などを相談。
読書「反音楽史 さらば ベートヴェン」(石井宏著:新潮文庫)
著者はこの作品で2004年「山本七平賞」。受賞
本書の帯には「バッハ、モーツアルト、ベートヴェン・・・・
音楽室に並んだ『楽聖』たちは、何故ドイツ人ばかりなのか?
実際には、17世紀~18世紀の音楽の主流はイタリアにあり
、ベートヴェンでさえイタリヤ語でサインした。
にもかかわらず、こうした史実を隠し、西洋音楽史をあたかも
「ドイツ楽聖伝」のように書き直したのは誰だったのか?
既成の音楽史を覆す画期的な論評」と書いてある。
帯は、「誇大広告か?」「内容に偽りありかなしか?」
読んでみたくなる興味をそそる。
2010年10月発行。
午後6時、日本料理店でブライセン本社スタッフ・バオミンさん、
VU君・THI君と夕食懇親会。
明日、ブライセンスタッフは帰国する。ベトナム事務所主催での
送別晩餐会。
ブライセンスタッフにラオス「ラオディー ラム酒」を
試飲してもらう。
午後9時、閉店。
ラム酒の残りをリー君にあげる。
リー君と「子どもの家」で一緒に過ごしたヒエウさん。
リー君とは兄妹のような関係だ。
二人とも真面目に仕事をしている。二人の幸せな人生を
祈る。
午後9時半、雨の中宿舎へ帰る。
税田さんが午後8時40分フエ着の飛行機でフエへ到着予定だったが
ホーチミン空港からの飛行機が飛行停止になった。
今晩は、ホーチミン市で宿泊するこのこと。
理由は「フエの天候が悪いから」とのこと。
これは真っ赤な嘘。フエは曇りだが、午後7時半時点では曇りで
飛行に問題はない。
ホーチミン市からフエ行きの飛行機の乗客が少ないことが
原因である。
ベトナム航空は明日の朝、4時にホーチミン空港へ来いという。
明朝午前6時の飛行機に乗れるかどうかは、その時決めるとのこと。
今晩のホテルは、「自分で取るように」とのこと。その理由は、
天候の事情なのでベトナム航空には責任はないという。
ホーチミン市からフエ行きの乗客が少ないので、明日朝6時の
飛行機にひとまとめに乗せようという「魂胆」である。
しかし、今夜の飛行機と明朝6時の飛行機のお客を合わせると
超過状態。そこで午前4時に飛行場に来て、ベトナム航空が
乗客を選抜するという。これがベトナム社会主義の実態で
ある。ドイモイの実態でもある。「金儲け」だげが至上命題に
なっている。国際的な常識が全く通らないベトナム「社会主義」
である。乗客・国民のことは頭にない。
ベトナム航空の都合で飛行機が飛ばなくなったのに、ホーチミン市
のホテルは自分で見つけろ、明日は午前4時に飛行場に来いという
態度は、官僚主義の極地である。これがまかり通る社会である。
現在、ベトナム共産党の幹部が日本共産党と社会主義について
理論交流をしている。
(以下日本共産党機関誌「赤旗」の記事)
日本共産党代表団(団長・不破哲三社会科学研究所所長)と
ベトナム共産党代表団(団長・トー・フイ・ルア党政治局員・
中央理論評議会議長)は9日、前日に続き党本部で会談を行い
、2日間の理論交流を終えました。
不破氏は、理論会談でのベトナム代表の発言にふれながら、
ベトナムが祖国を統一して社会主義の道を選択し、
その後の実践のなかで市場経済を通じて社会主義にいたる
方向をすすんでいることを指摘。資本主義ではなく、社会主義を目指す
という立場に立っているからこそ国民全体の利益にかなう発展が可能だ
ということを、あらゆる機会を通じて国民全体に事実で証明していく努力
が重要になっていることを強調しました。
ルア氏は、とくに党員一人ひとりが草の根のレベルで国民に
説明と説得をすることができる共産党になる必要がある、
という不破氏の指摘は重要だと応じ、「われわれに対する信頼と評価に
感謝します。ぜひ今後も理論交流を続けましょう」と述べました。
ーー
日本共産党不破哲三社会科学研究所所長(元議長)は、
『資本主義ではなく、社会主義を目指す
という立場に立っているからこそ国民全体の利益にかなう発展
が可能だ』と述べているが、今日の税田さんの飛行機事件
をどう評価するの聞きたい。
「国民全体の利益」にかなっているのか?
国営ベトナム航空の都合で飛行機を止めてしまい、
「フエの天候がわるいから」と嘘の理由をいい、
自分でホテルを取れ、明朝4時にホーチミン空港に来いという
この国営ベトナム航空のどこが、国民の利益にかなう発展
なのか?」。不破哲三氏に聞きたいところである。
不破氏は、その著書「マルクスは生きている」の中で
社会主義は「科学だ」と何度も繰り返していた。
社会主義ベトナムの国営航空の税田さんへの仕打ちの
どこが、「国民の利益」になっているのか、「どこが科学なのか」
聞きたいものである。無知とは恐ろしいものである。
日越共産党の「理論交流」をするのなら、こうした具体的な
問題を日本共産党は率直にベトナム共産党に指摘すべきである。
ただ、ベトナム共産党万歳では、交流の意味がない。
ベトナム社会で今何が起こっているのか? を具体的に
調査し率直に指摘することがない限り交流の意味は
「ごますり」というしかない。科学的は「事実」「客観的現実」
である。このことを指摘しない不和氏の「科学的」には
説得力がない。不破氏の「科学的」を科学的に検証する必要アリ。
2010年11月10日
通常業務
終日・雨・曇り。
午前6時半起床。
軽く柔軟運動(ストレッチ)
午前7時、朝食。ブンボー。
読書「思春期 ポストモダンー成熟はいかにして可能か」
(斉藤環著:幻冬舎新書) 読了。
著者の主張が最後まで見えなかった。残念。
著者は「ニート」「引きこもり」「不登校」「摂食障害」
「自傷行為」などを分析し、『病因論的ドライブ』という
独自の理論を開発した、と称している。
しかし、、『病因論的ドライブ』という自らの精神分析の
仮説について、なかなか説明がないまま、、、『病因論的ドライブ』
という言葉ばかりが踊っている。
最後の方で、、『病因論的ドライブ』という仮説について若干の
説明をしている。結局、思春期の様々な精神問題は、
個人ー家族ー社会という総合的な「関係性」でみていかなければ
ならない。個人の精神的病理としてみるのには、消極的だ
という考えが、著者の、『病因論的ドライブ』論のようだ。
これは、ヘーゲルからマルクスまでの哲学にある
「弁証法」ということを現代用語で語ったようにしか思えない。
物事を静止して捉えず、常に流動し、発展している。
同時に一つ一つの事情を「孤立して」見るのではなく、
関連性で捉え、一つ一つの事情を全体の関連の中に
位置づけて考えるという弁証法的な考え方である。
これは、ニート、引きもり、不登校などを「個人の精神的な
病理」として捉える傾向が精神医学の世界は、増えてきており、
個人の問題・個人の医学的な治療対象としてとられる傾向に
著者は疑問を投げかけ、個人ー家族ー社会の相対的な
人間関係・社会・歴史・経済関係の中で捉えようとする
思考に傾いている。「境界線」と言う言葉。医療の対象ともいえず
社会的な問題も含む、複雑な関係をそのまま受け入れようと
いう姿勢である。何となく分かったようなわからないような
本だった。精神医学会の歴史と諸問題の概要が掴めた
だけでも収穫はあった。著者の基本は、全てアメリカの
理論や経験、研究を引き合いにだしての論理だった点が
気にかかる。日本は日本の独自の社会構造があり、文化と
伝統がある。アメリカの精神分析をそのまま適用すようとしている
点がきがかりではあった。
(古本屋で350円 2007年11月発行)
読書「イギリス近代史講義」(川北稔著:講談社現代新書)
本書を読むきっかけは、日本料理店に来るお客さんに
「どこから来ましたか?」と聞くと「イングランド」
とか「アイルランド」「ウエールズ」などとの答えが返ってくる。
どうして「イングリッシュ(英国)」と言わないのか?との
疑問を持っていた。
本書の解説によると「英国」は「イングランド」を指し、
イングランド・スコットランド・ウエールズをあわせて
「グレート・ブリテン」(大英国)という言葉があるそうだ。
同時に世界最初の産業革命を行い、大英帝国を作り
世界一の「金持ち」になったイギリス。1960年代には、
既に高校生の私の耳にも、「イギリス病」という言葉が
入って来ている。経済停滞・下降で経済発展できない
イギリス。
1970年代には、イギリスに行った日本人が、
「日本の経済発展でイギリスは、貧しくなった」という
「日本脅威論」を聞かされたことも報告されている。
今日、20年にもわたる経済混迷が続き、中国脅威論、
韓国・インドにも追い越されるのではないかと危惧する
多くの日本人がいる。「中国脅威論」「インド・韓国・ロシア脅威論」
が台頭し、日本人全体が「一つの方向」に動いていく危機も
感じている。
経済世界1の座から転落したイギリス人は、当時、何を
考え、どんな行動をとったのか? 多分、今の日本人
と同じ様な「中国脅威論」的な「日本脅威論」のような脅威を
感じていただろう。そうして、イギリスが何をし、今日に
至ったかの「イギリス近代史」を読んで見たい。
本書の始めは「都市」の成立史と社交。
午前11時半、昼食。ご飯とスープ、豚肉の脂を落としたもの
1時間程、昼寝。
読書「「イギリス近代史講義」(川北稔著:講談社現代新書)
2010年新刊書。
著者は大阪大学大学院教授。
ロンドンの都市化の歴史を辿る。キーワードは、「ジェントル」
と社交。貴族や大地主など「労働しない階級」を「ジェントル」と
呼んだ。「ジェントル・ウーマン」という言い方もあったそうだ。
ジェントル階級が、ロンドンに遊歩道つきの大庭園を造る。
そこへ地方の「シェントル階級」の人々が、年に1回集まり
美味しいものを食べ、楽しいことをする社交が始まる。
そうしてロンドンは、50万人の大都市になる。第2位の都市は
2万人程度。17世紀。その背景には、南北アメリカ、カリブ海
インドなどの植民地からの収奪からくる「豊かさ」があった。
バオミンさんと当面の諸課題について話し合う。
バンベ38号の件、ホンニー結婚式参加の件・・・。
筋トレ。多少負荷を上げる。
午後5時、小雨の中、ベトナム事務所へ。
午後5時半、日本料理店でこどもたちと夕食。
大根と豚肉の煮物
スルメ 軽く炙り、少し「こげる」ようにし、醤油をかけ
数日、冷蔵庫で寝かせておく。私が一番好きな「おつまみ」。
「子どもの家」のこどもたちは「こども」が大好きだ。
カナダ来たお客さんの10ヶ月のお子さん。
日本人・欧米系の来客あり。
午後9時閉店。
----ーーー
報道では
沖縄・尖閣諸島沖の漁船衝突事件をめぐる映像流出問題で、
10日、神戸海上保安部の43歳の海上保安官が映像の流出に
関与したことを認める話をしていることがわかった。警視庁は、
国家公務員法の守秘義務違反の疑いで事情聴取を開始している。
この海上保安官はNNNの取材に対し、「誰にも相談せず一人で
やった」と話していた。
事情聴取を受けているのは、神戸海上保安部に所属する男性の
海上保安官。関係者らによると、この海上保安官は9月、
尖閣諸島沖で起きた中国漁船と巡視船の衝突事故をめぐり、
海上保安庁が撮影したビデオ映像をインターネット上の
動画投稿サイト「YouTube」に公開し、流出させた疑いが
持たれている。
この海上保安官は10日午前、巡視船での勤務中、
神戸市内の港に接岸した後、任意同行に応じ、第5管区海上保安
本部で事情聴取が行われている。
この事件は4日、「sengoku38」を名乗る投稿者が衝突場面を含む
約44分間の映像を公開したもの。東京地検はYouTubeを運営する
「グーグル」から通信記録を押収して分析したところ、
神戸市内の漫画喫茶から映像が投稿されたことがわかっている。
この海上保安官はNNNの取材に対し、映像の流出にかかわったこと
を認めた上で、「誰にも相談せず一人でやった」と話した。
また、「映像は元々、国民が知るべきものであり、国民全体の倫理に
反するものであれば甘んじて罰を受ける」という趣旨の主張をしていた。
ということのようだ。
菅内閣は、流失犯人を徹底追及する構え。
鳩山前首相は「官僚のクーデター」と言っている。
たとえは悪いが、今回の尖閣ビデオ流失問題は、
ストリートチルドレンが食べ物がなくお腹がすいて
店のバナナを盗んで食べてしまった事件と似ている。
ストリートチルドレンがバナナを盗んで食べたという目に見える
現象だけ見れば、犯罪である。当然、警察に捕まる事例であるが
更に本質問題を究明すれば、ストリートチルドレンが食べ物を
盗まなければならない状況に追い込んだ大人社会の罪はないのか?
という問題に行き着く。
私たち大人でも食べ物がなければ、最終的には、泥棒をしても
食べ物を口に入れるだろう。
今回のビデオ流失事件は、ビデオを流失させた職員に形式的な
罪はあるかも知れないが、更に本質を考えれば、そもそも菅内閣が
この種のビデオを隠蔽して、30人の国会議員に6分間程度に
短縮して閲覧させたと言う、主権者である国民無視の態度への
抗議である。
海上保安庁職員は、「捕まえてください」といっている。確信犯
である。
尖閣ビデオ自体、それほど国家秘密ではない。
そもそもは、国民に開示すべき情報である。
菅内閣が秘匿し、隠したことに本質的な問題がある。
ストリートチルドレンの食べ物盗みをいくら逮捕してもしても
何ら問題の解決にならないように、尖閣ビデオを国民の
目から隠しても問題の解決にならない。主権者である日本国民を
はじめ中国含め世界中に公開し、何が事実だったのか?
を公開して初めて、公の論争になるのである。
外交上のテクニックで解決できる問題ではない。
菅内閣がビデオ流失の犯人探しに狂奔している様子は
異様で無様である。
既に30人の国会議員に見せているビデオである。
国家秘密ではない。国家公務員秘密漏洩罪での
起訴は難しいし、公判維持も難しいと思う。
むしろ菅内閣・仙谷官房長官は、自らが国民の知る権利を
侵害した犯罪人としての自覚を持つべきである。
試しに海上保安庁職員を起訴しても公判維持は難しいと
思う。海上保安庁職員の起訴の「矢」はブーメランのように
菅・仙谷に返ってくるのである。
木を見て森を見ない菅・仙谷路線は、尖閣ビデオ問題で
墓穴を掘る可能性が濃厚である。
2010年11月09日
ブライセン「業績評価」打ち合わせ:「子どもの家」ターオさん誕生会
雨・くもり・雨。
午前6時起床。
簡単な柔軟運動。
午前7時朝食。「キャッサバ芋の手打ちうどん」
午前8時過ぎ、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所員の皆さんは、雨で「憂鬱(ゆううつ)」な季節と
闘いながら和気藹々(わきあいあい)と協力して仕事を進めて
いる。お互い「譲り合い」「気を遣いながら」協力して仕事をする
場所が「職場」だ。ベトナム事務所は今、正に「職場」と言って
良い状況である。ベトナム事務所員の目標はただ一つ。
「ベトナムのこどもたちの幸せ」だけである。
机の配置の関係でアンさんは、どうしても一人の撮影となってしまう。
「フェリシモ」の大きな仕事をバオミンさんと協力しながら進めている。
今年の2月から始めた「フェリシモ」の仕事だが、既に軌道に乗って
着々と製品が出来上がり日本へ送っている。
『ポストカード」のポーチは既に5000個の注文があったとのこと。
「子どもの家」刺繍みやげ物店の自立、こどもたちの自立に
大きな財源を供給することになる重要な仕事をコツコツと頑張って
してくれている。感謝したい。
3階のブライセンベトナム支社では、本社からの
技術指導部長・リーダーが来訪し、6人のスタッフに
リンターの技術指導を行っている。
バオミンさんと若干の打ち合わせ。
午前9時。ブライセン本社部長さんと「ブライセンベトナム支社」
業績評価について最終打ちあわせ。明日から、個人面接。
ブライセン本社との打ち合わせを終わり、急いで「子どもの家」へ。
今日は「子どもの家」のターオさん(11歳・5年生)の誕生会。
里親のNさんから誕生プレゼントも届く。
午前11時、「子どもの家」に到着。フエに戻って3週間。
初めて電動バイクに乗る。
男の子はつかの間の「曇り」の中で「ビー玉」遊びをしていた。
午前11時過ぎ、ターオさんの誕生会が始まる。
誕生ケーキ 「11月9日 HIEU THAO」と書かれている。
「子どもの家」のこどもたち全員にケーキを振舞うように
3つのケーキが用意されている。
11歳と書かれたケーキ
里親のNさんからの誕生祝いの手紙
誕生祝いの「ジグゾーパズル」。「子どもの家」のこどもたち
がみんなで遊べるように里親からの配慮のお祝い品。
11本のローソクを吹き消す
昼食のため食堂に集まったこどもたちが「HAPPY BIRTH DAY
TO THAO」と歌う。
誕生会を終わり、昼食に入る。ここが不思議なところだ。
食事をしてケーキが食べられるのか? 私は絶対に無理だが。
こどもたちは食後、見事にケーキを食べきった。
「子どもの家」の画家ゴッホさんことフック君(フエ芸術大)
食事が終わり、「ケーキ」タイムに入る。
ターオさんの誕生会が終わる。
ターオさんは、2004年8月に「子どもの家」に入所してきた。
諸般の事情があり、「父親死亡」「母親行方不明」。農業の
祖母に育てられていたが、生活ができなくなっていた。
同時にかなり重い心臓病に罹っての入所だった。
5歳で「子どもの家」に入所したターオさんの唇と爪は
「紫色」だった。呼吸もかなり苦しそうだった。
フエ中央病院に連れて行き診断。手術が必要だが、
小さいので体力がない。今は手術は出来ない。
小学校に入学したら手術をするということになった。
小学校に入学。心臓の手術を行う。費用は20万円。
大金である。「高野道郎メモリアル基金」などからの支援を
頂き、手術は成功し、今は11歳、5年生。元気に走り回っている。
「子どもの家」がなければ、今日の誕生祝いができたか
どうかも分からない。私たちの活動はささやかなものでは
あるが、こうしてターオさんという一人のこどもの人生を
大きく左右する仕事が出きることに感謝している。
また、長年にわたりターオさんの里親として実際の支援を
してくれているNさんにも心から感謝したい。
「どの子どもも幸せになる権利を持っている」。
横を見ると「子どもの家」を卒業し、日本料理店で店長をしていた
ニーさんがいる。
某日本料理店から多額の給料を出すという「誘惑」に乗り、
我が日本料理店を突然退職。某日本料理店は、日本語ができ
接客が出きるニーさんが欲しかったのだが、結局数ヶ月で
「ポイ捨て」同然にクビにされてしまい、その後、色々と
あったニーさんである。
何も知らないこどもを「お金」で吊り上げ、もてあそぶがごとき
振る舞いをし、直ぐにクビにした某日本料理店の責任者の
責任は重い。お金のためなら、こどもたちを「紙くず」のように
捨ててしまう人間性に嫌悪を感じる。
今日11月16日に結婚式をするので「子どもの家」の
スタッフに招待状を持ってきたとのこと。
その前にベトナム事務所にも招待状を持っていったと
言っていた。ニーさんは21歳。新郎は26歳で携帯電話の
修理をしているとのこと。
日本料理店の突然の退職問題など色々とあったが、
結婚はおめでたいこと。11月16日、午前9時半から
新郎の実家(フエ郊外の田舎)で行われる結婚式には
出席し、お祝いしてやりたい。ニーさんは、「子どもの家」が
できた当初から「子どもの家」にいた。小学校入学
前からの「子どもの家」っ子である。
12時前に全てを終わり、帰宅しようとしたら、「ハイリーホテル」名の
生みの親である「ハイ君」が「子どもの家」の門の前に
ボーッと立っていた。
「子どもの家」の「食堂に行きなさい」といい、昼食を摂るように促す。
今は、オートバイの掃除をしているという。
1ヶ月90万ドン(4500円)の月給。食事は自分のお金で
食べられると言っていた。
JASS活動・「子どもの家」は、結局、こどもたちが帰る最後の
場なのである。色々と問題を起こしても、最後に帰るところは
「子どもの家」なのだ。私は、どんな事情と経過があっても
こうしたこどもたちを100%受け入れる気持ちでいる。
電動バイクで20分、宿舎へ。昼食は春雨麺」。
1時間ほど昼寝。
読書「「思春期 ポストモダンー成熟はいかにして可能か」
(斎藤環著:幻冬舎新書)
引きこもり、ニート、学校のいじめ問題の精神の問題。
全編を通じて著者は、ほとんど断定的なことは言っていない。
境界線がキーワード。
バオミンさん・ハンさんと電話でいくつかの問題を打ち合わせ。
午後5時過ぎ、雨の中、宿舎を出て徒歩でベトナム事務所へ。
午後5時半、こどもたち・スタッフと夕食。
日本語の先生は、授業が終わってから日本料理店に来る。
午後8時半、閉店。
2010年11月08日
ブライセン本社スタッフ活動:フエ師範大学教え子と会う
終日雨。
午前6時半起床。昨夜、遅かったため、起きられなかった。
午前7時朝食。フォー。野菜たっぷり。
午前8時半、徒歩ベトナム事務所へ。
午前9時、ベトナム事務所3階のブライセンベトナム支社で
ブライセン本社スタッフの各種指導。
ブライセン本社部長とテクニカルリーダーの方の
各種指導・教育。
ベトナム事務所スタッフも新しい週に入り、仕事に精を出してる。
午前11時半、雨の中帰宅。昼食。
カカロニスープ。
何故か疲労。2時間昼寝をする。
読書「「思春期 ポストモダンー成熟はいかにして可能か」
(斎藤環著:幻冬舎新書)
学ぶところあり。人間の心理・精神の動きに最近は
直ぐに何か「病名」をつけないと収まらない社会になっているが
必ずしも病(やまい)ではない精神の動きがある。
引きこもり、ニートなどの分析を行っている。
午後2時半からブライセンスタッフとブライセンベトナム支社
スタッフの「業績評価」の仕方について、突っ込んだ話を
行う。
メール受信・送信。
日本とSKYRE交信。
午後5時半、フエ師範大学日本語学科第1期生の
バオミンさんとバオトアン(学級委員長)と懇談。
バオトアンさんは現在ホーチミン市の日系肥料会社に
勤めている。10数年振りの対面。
昔話に花が咲く。52歳になったという。
私が教えた頃は、35歳だったのだ。17年前、学生の
年齢など全く気にしていなかった。ただ一生懸命、「学生の
ために」と毎日を過ごしていたような気がする。
こうして、17年経って、教え子が訪ねて来てくれることは
嬉しいことである。
生活も安定し、ホーチミン市に家も買い、お孫さんも生まれたそうだ。
フエで日本語を教えた教え子は、ホーチミン市でおおかた「成功」
しているようだ。ほとんどの教え子が、自家用車を乗り回している
とのこと。17年の時間の経過と時代の流れの速さを考えてしまう。
午後10時から「断水」。 トイレの水が出ない。
2010年11月07日
ブライセンスタッフ来訪
終日雨
午前5時半、雨の音で目覚める。
読書「思春期 ポストモダンー成熟はいかにして可能か」
(斎藤環著:幻冬舎新書)
若者論。
午前8時、昨日の残りの「チャオバインカイン」を温めて朝食。
メール受信・送信。
ラオスの與芝君にメール。
柔軟運動(ストレッチ)。体の柔軟さがかなり復活。
今回のフエ滞在は3ヶ月。3ヶ月間、ストレッチと筋トレを続けてみる。
どのような結果になるか?
既に3週間。体を動かす事が「軽く」なったことは事実である。
ベトナム事務所までは全て徒歩で行く。
筋トレの中心は、足と膝の筋肉維持。
20代、30代の頃のわたしの健康の目標は、60歳になっても
「せんべいをバリバリ食べ、スルメで一杯飲む」ことだった。
そのためには、「歯」が一番大事。歯が悪くなくてもきちんと
定期的に歯医者に行っていた。歯垢除去。親知らずを2本抜き、
2本「」インプラント」のような義歯を入れているが、いまのところ、
せんべいバリバリ・スルメで一杯状態は堅持できている。
が、しかしである。このところ「老化」を実感している。
一番感じるのは、「誤嚥(ごえん)」食べたものが、食道でなく
気管に入ってしまい、咳き込むことが多くなった。
特にベトナムでは、どんな料理にも唐辛子が入っている。
唐辛子が気管に入ったら、咳き込み、「涙と洟(はな)」で
大変だ。次に感じるのは、膝の衰え。階段を下りるとき、
必ず手すりをつかまりながら降りることにしている。
階段を踏み外す危機感を持っている。
記憶力の減退、言葉の喪失は、問題外で、日常化している。
今日は日曜日。朝から雨が降っている。部屋に一人でいる。
そこはかとない「寂寥感」を感じる。
こんな時「いつまでフエにいられるのか?」「私が病気になっら
ベトナム事務所はどうなるのか?」などと考えてしまう。
考えても何も解決策はでないのだが。・・・・・。
40歳で「虚血性心疾患」と『命名』され、この20年間、
心臓の病院へ通い、1日8錠ほどの薬を飲んでいる。
心筋梗塞・脳梗塞の初期段階ということ。
そのため、血液が「凝固」しない薬(バイアスピリン)を飲んで
いる。この薬は血液を固まらせる血小板の活動を鈍らせる。
最近、蚊に刺された後を掻くと血が止まらず、「かさぷた」が
出来ない状態が続く。薬を止めると血液中に血の塊ができ、
大きくなり、血管を塞ぎ、破裂する。ちょっとの出血でも
青あざになり、後が残るようになった。
こういう現状は、老化の副作用。受け入れながら、共存して
いかなければならない。最近は「アンチ・エイジング」という
言葉に代わり、「スローライフ」というようになったようだ。
アンチエイジングは、いかにも不遜な人間の考えだ。
年をとることを否定する思いあがった不遜な考え。
誰も年は取り、体と心、頭が衰える。こうしたことを「受容」し、
年を重ねて生きたいものだ。沢村貞子から学んだもの。
バスタブにゆっくりと入浴。疲れが取れる。
食欲なし。昼食は摂らない。
昼寝。
読書「思春期 ポストモダンー成熟はいかにして可能か」
(斎藤環著:幻冬舎新書)
明日、ブライセン本社のプログラミング専門指導者と打ち合わせを
する「人事考課」の資料(かなり長く、細かい)を熟読する。
ブライセンベトナム支社の人事考課は、私が担当する。
本社の方針に従って、ベトナム流にアレンジした人事評価法を
作り上げたい。
本社の細かい人事評価表や手順などを細かくチェックし、
私見を考える。
---------
最近のインターネット紙面の各紙は、「尖閣諸島ビデオ」問題
一色に塗りつぶされたようだ。
その裏でTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の締結問題が
密かに進められている。
以下、昨日の新聞報道。
『菅内閣は6日、包括的経済連携に関する閣僚委員会を
首相官邸で開き、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)について
「情報収集を進めながら対応し、国内の環境整備を早急に進める
とともに、関係国との協議を開始する」と明記した基本方針を決めた。
参加に前向きな姿勢は示したが、民主党内などの慎重派に配慮して
「参加表明」までは打ち出さない内容になった。9日に閣議決定する。』
『菅首相は6日の閣僚委で「農業再生を念頭に『国を開く』という
重大な基本方針をとりまとめることができた。
日本の新たな繁栄を築くための大戦略のスタートだ。
『平成の開国』は必ずプラスになる」』
結局、APECの場で「日本がTPPに参加するのか、しないのか?」
という基本方針を決めることができないまま、しかし、菅首相の
言葉は、明らかにTPP参加方針である。閣議決定は「曖昧模糊」
としていながら、事実上、TPPに足を踏み入れる方針と見た。
私は日本がTPPに参加することに絶対反対である。
昨日読了した民主党のブレーンの一人であり、民主党に
かなり幻滅気味の山口二郎北大教授は「民主党は良い政策を
実施しようとしているのだが、理念やその政策でどんな日本を
作るのかというビジョンを出していない。一つ一つの政策が
ばらばらに10年後、50年後の日本との関わりで国民に
説明する能力がない、と指摘している。
TPP問題は、日本の農業、更には、日本国民の命を
守るかどうかの決定的に大きな問題である。
民主党・菅政権に欠けている最大の問題は、「農業を
どう考えるのか」という問題です。
TPPは現在、事実上、アメリカ主導の農産物輸出国の
協定である。これらの農産物輸出国は、農産物も
車も薄型テレビも「輸出商品」として同一に考えている。
そうした考えの協定に日本が参加してよいのかどうかの
根本的な論議が必要なのである。
農産物は、人間が生きていく上で「絶対的に必要」なものである。
テレビや車はなくても最低生きてはいける。
農産物が、一般の産業輸出物と違う点は、その点である。
先進国のほどんどの国は、「農業だけは、高い関税をかけて
保護している」。当然のことである。
更に農業はただ農産物を作るだけではないのである。
昔から「百姓」と言ってきた。米を作ったり野菜を作ることを通して
百ものことしてきているのである。地域社会を作る、治山・治水
をし、水をろ過し、洪水を防ぐなど農業は、農業商品を作る
だけの役割ではなく、日本という国の基幹・根本を作ってきた
ものである。
日本のTPP参加は、そうした日本人の命を守り、社会を支える
根幹である農産物を、一般の工業製品と同列において論じている
所に大きな問題がある。
農水省の試算では、日本がTPPに加盟した場合、食料自給率
は14%に低下するという。現在でも日本の食料自給率は50%
を割っている。50%とか14%はエネルギー換算である。
エネルギー換算の食料自給率も怪しいところがある。
つまり、米も野菜も全てエネルギーに換算している。
この理屈でいけば、日本全土にサトウキビを作れば、
エネルギー換算の食料自給率は100%を超えてしまう。
それにしても「食料自給率14%」は、国民の命を守り、日本国を
存続させる政策でも方針でもない。菅首相はAPECでTPPに
参加する前提としての協議に参加するという態度である。
民主党・菅内閣に農業政策がないのだ。農業を工業製品と
同等の輸出製品と扱うのか、日本人の生命と国土を守る
絶対的に必要なものと考えるのかの基本論議がないまま、
財界の要望に従って、TPP加盟に舵を切ろうとしている。
10年後、50年後のこどもたちや孫に大きな禍根を残し、
日本国そのものがなくなる危険を感じている。
日本人の食べるものは、日本で作るという理念と政策転換が
必要である。主な先進国は100%の関税をかけて自国の
農業を守っているのは上記の理由からだと推測する。
====
午後3時頃、バオミンさんから電話。フエ師範大学で教えた
第1期生の学級委員長がホーチミン市から出て来ている
とのこと。明日、一杯飲むことにする。
部屋の掃除。筋トレ。
読書「思春期 ポストモダンー成熟はいかにして可能か」
(斎藤環著:幻冬舎新書)
午後8時、ブライセンベトナム支社の
VU君・THI君が車で迎えに来てくれる。
3人でフエ空港へ。ブライセン本社のコンピュータの
指導者2人が来訪。既にフエ空港の時刻は午後9時過ぎ。
予定の時刻を30分程遅れて到着。
車でフエ市内へ。フォンザンホテル着。チェックイン。
午後10過ぎ、4階の「ホアマイレストラン」で軽く夕食。
5人で明日からのコンピュータ指導等の打ち合わせをする。
午後11時半閉会。徒歩で宿舎まで。
部屋へ戻ったのは、午後11時半過ぎ。
ベトナムでは、予定は全て「未定」なのだ。
2010年11月06日
ベトナム事務所員会議
終日雨。これで何日目になるのか?
午前5時起床。読書「ポピュリズムへの反撃」(山口二郎:角川)
民主主義について学ぶべき点、多々あり。
午前7時、朝食。ブンボー。
朝日・読売・毎日・東京・産経・赤旗の社説(主張)を読む。
(赤旗は一般記事)
全社説が「尖閣諸島流失ビデオ問題」であった。(赤旗はTPP
環太平洋戦略的経済連携協定)
朝日・毎日は、ビデオ流失は、国家情報の管理に重大問題あり
との点に力点がおかれた社説。
東京・読売・産経は、「ビデオで中国との尖閣諸島問題に
ついての真相を世界に明らかにできた、政府がビデオを
公開しなかった点に大きな問題がある」という趣旨に力点が
置かれていた。
赤旗は、両者の中間。
私は東京・読売・産経の主張に意見が近い。
石原都知事は、「『冗談じゃない。実態を見てもらいたい』
という内部告発だろうが、結構なことじゃないか」と述べた。
石原知事は「尖閣の領有権を中国が主張する法的、
歴史的根拠は何なのかを、公式に政府から中国に質問したらいい。
すべきだし、国民もそれを望んでいる」と政府に注文をつけた。
(11月6日毎日朝刊)
私の一番嫌いな石原都知事と私はほぼ同じ意見である。
午前8時、ベトナム事務所へ。
午前8時半、ベトナム事務所員会議。
男性スタッフは、「ぱっちりシート」(目の疲れを取る)を
目に貼っての撮影。
(ソン)バンベー38号の担当部分を取材した。
渡辺和代先生の航空券関係の仕事
明日、「子どもの家」へ行き、里親への新年の
挨拶の手紙につける写真を撮りに行く。
(原田)「子どもの家」案内文を作成
バンベー38号関連で各地の会に原稿依頼
日本料理店のこどもたちにインタビュー。
静大留学生のアンさんに連絡
日本語学校特進3(静大留学コース)の説明会、
今週の火曜日から授業開始。
フエ高等師範大学学長等と話し合い
(富岡)フエ高等師範大学3年生の授業を一人でした。
日本語学校中級授業(作文を始める)
(フーン)火曜日 フエ高等師範大学
週3回授業
(古竹)フエ高等師範大学1年・2年・3年の中間テスト(反応良い)
日本語学校静大留学コース(特進3)更に反応よい。8人
(土井)静大留学コース(特進2)の授業
同特進3の授業(生徒は初めて日本語勉強する。)
フエ高等師範大学会話(反省する点もある)
(フオン)特進2
特進3 (週4回教える)
日本語学校中級 来週火か木に定期テスト
(ハン)こどもたちの手紙翻訳
奨学生の名簿作り
バンベー原稿依頼
11月9日A11よりターオさんの誕生会。
(アン)「フェリシモ」の仕事で各所に連絡、うまく行っている。
(ミン)バンベー38号関連の仕事は多すぎの準備は終わった。
来週の月・火位に原稿が届く予定。
今後のスタディーツアーの日程を考える
税田さんが11月11日午後8時40分、フエに到着する。
12月24日のクリスマス会。会場が既に一杯になっている。
12月23日も視野に入れて、クリスマス会を考えたい。
11月20日(土)午前9時から「子どもの家」創立16周年
記念式典を行う。正装で参加して欲しい。
記録係りは原田先生
ベトナム事務所員会議終了後、日本語学校教師会議
私とバオミンさんは、3階のブライセンベトナム支社へ。
明日からブライセン本社の担当者2人が6日間ほど
フエに滞在し、ブライセンベトナム支社への技術指導等を
行う。
ブライセン本社からの指導者の指導内容、指導日程等を
事前に説明しておく。
午前11時半、昼食。豚肉入りの「おじや」。
1時間ほど昼寝。
読書「ポピュリズムへの反撃」(山口二郎著:角川書店)読了。
本書は著者が2008年から2010年にかけて「フォーラム神保町」
での講演に加筆・再構成したもの。
政治に興味のある方は一読の書である。
著者は民主党のブレインの一人でもある。社会民主主義者
と自称している。
ポピュリズムという言葉を「大衆迎合主義」などと訳しているが
元々は、アメリカの労働者や貧しい人々が、アメリカの政治は
一部の上流階級に独占されていると主張し、そこから生まれた
もの。平等を求める政治運動だった。
19世紀末米国には、「ポピュリスト党(人民党)」という政党が
民主・共和党に次ぎ、第3党だった。
日本では小泉内閣から新聞雑誌などに「ポピュリズム」と言う
ことばが頻繁に登場し、マイナスの用語として使われている。
著者は、ポピュリズムの歴史と民主主義の歴史を辿って
いる。
小泉流ポピュリズムは、「悪と善」と人間を分類する。
それに伴い、「悪の官」「善の民」、悪の生産者対善の消費者
、悪の業界団体・労働組合、医師会、郵便局長会・・・対、
民間という対立構図を作り上げ、一方を徹底的に叩く手法。
これは、ヒトラーがユダヤ人を攻撃する際に使用した手法と
同様。第1次世界大戦で敗北し、多額の賠償金とインフレで
苦しみを味わっているドイツ人に「大金持ちのユダヤ人、
ドイツ人の利益を横取りしているユダヤ人をやっつけろ」
とのスローガンの下に国民を上げてのユダヤ人排斥へ
と行く手法である。小泉「改革」は、郵政民営化が構造改革
の全て、のようなスローガンを掲げ、国民も小泉の呼びかけ
に応え、小泉を選挙で圧勝させた。しかし。構造改革が
何かも、郵政民営化がどうなるのかの具体的なものも
ないなかでの「単純化」したスローガンであった。
著者は民主党の政策作成にも協力したと書いているが、
現在は幻滅している。しかし、と言って最終章で
二人の作家の言葉を引用している。
堀田善衛「自由と解放の後には幻滅が来ないとしたら
そっちの方が不思議なのであって、自由と解放の輝光
があまりに美しかった場合、その後に来るものが、
絶えることのない政党間の抗争であり、裏取引であり、
不決定でであり、旧悪の暴露合戦であったりした時、
幻滅は不可避である」。
丸山眞男「したがって、こういう政治と言うものをベストと
考える方は、容易に政治に対する手ひどい幻滅、あるいは
失望に転化します。つまり、政治的な権威に対する
盲目的な信仰と政治に対する冷笑とはうらはらの形で
同居している。政治にベストを期待することは、強力な
指導者による問題解決の期待につながる」。
自民党から民主党に政権交代をさせた多くの国民は
現在の民主党の「体たらく」に幻滅と失望を感じている。
しかし、堀田・丸山氏が言うように「幻滅と失望」を
忍耐強く乗り越え、時間をかけて民主主義は進んで
行くものだ・・・・。
最近の政治学では「熟議」ということばが使われるそうだ。
熟成した論議。情報を共有し、事実に基づいた論理的な
論議が必要ということ。
小泉ポピュリズムの「前車の轍を踏まない」ようにするため
には、社会全体が「熟議」に慣れる必要がある。
全ての事柄を単純に「善悪」「赤白」に分けて理解する
思考方式が日本では一層強まっている。危険な兆候で
ある。
午後5時過ぎ、ベトナム事務所へ。雨。
午後5時半、日本料理店のこどもたち・日本人教師の
皆さんと夕食。
雨の中、既に5時半時点で来客あり。日本人。
マグロ一本届く。トゥオイさん・チャンさんが捌く。
お寿司には、どうしても「マグロ」はつきもの。
今日は9人の来客。
タイ人 4人
日本人 1人
豪州 1人
英国 1人
オランダ 2人
一度に9人が来店したので厨房は大忙し。
日本語の先生方が手伝ってくれたので
何とか無事に調理が出きる。
天ぷら定食
ヒエウさんは「太巻き」を作れるようになった。
富岡先生も手伝ってくれる
欧米系の来客は英語観光ガイドブック「ロンリープラネット」
を読んで、支援したいと言う気持ちで日本料理店に
来てくれている。
英国・豪州のカップルと話す。ロンリープラネットを
読んできた。素晴らしい活動をしている。応援したい。
オランダのカップルは、日本料理店に貼ってある
写真とロンリープラネットの「MR.JASS MAN」
と言う記事を読んで、私に「どうしてフエで活動しているのか?」
と質問してきた。
午後9時過ぎ閉店。
雨の中、帰宅。
2010年11月05日
終日雨
終日、雨。寒い。
午前5時起床。読書「マルクスの逆襲」(三田誠広著)
30歳前後に早稲田文学部在学中の「全共闘運動」
体験を書いた「僕って何」で芥川賞を受賞。
著者は大企業「三田工業」の次男。世間的に言えば
「いいとこのお坊ちゃん」である。
大阪の名門府立高校時代、10人程の友達と「マルクス主義
研究会」を作り、マルクスの「経済学哲学草稿」などの
読書会をし、段々実践活動に入り、ベトナム戦争反対、日韓
条約反対のデモに参加するようになった。50人程の
同級生もデモにかなりの頻度で参加していたとある。
同時期、私も東京の都立高校に通っていたが、大阪以上に
東京は政治の影響を強く受けていた。私も高校1年生から
春闘のデモに参加し、10・21集会、社共一日共闘集会、
ベトナム戦争反対デモ、日韓条約反対デモや朝鮮高校
との交流などに参加していた。三田氏も含めて
当時の団塊の世代の一定の部分は、こうして政治的な社会
の空気と戦後民主主義教育の影響もあり、高校1年生位
でデモや政治集会にかなり頻繁に参加していた。
三田氏が私と同じ体験をかいていることに少し驚く。
本書の対象は、大学生や若者である。60年代から
70安保闘争を知らない若者に、当時の大学生が
どんな動機と状況の中で学生運動に参加していったのかを
自らの体験を通して分かりやすく説明している。
マルクス主義の歴史を概略を説明している。
当時の後進国であり40ほどに分裂していたドイツ生まれの
ユダヤ人だったマルクスの境遇から説き起こし、何故、
マルクスが「資本論」を書いたか? マルクスの言っている
共産主義の本質は何なのか?を語る。
更に日本のマルクス主義の歴史の概観を述べ、
特に日本共産党とそれに反撥し除名された学生集団
共産主義者同盟(ブンド)の60年安保闘争の歴史を概観。
その後、革命的共産主義者同盟(革共同)から更に分裂し、
仲間同士の近親憎悪的な「革マル」「中核」の内ゲバの
歴史。更に社会主義学生同盟(社学同)、日本社会党の
青年組織「社会主義青年同盟(社青同)にもぐりこんだ
解放派などのいわゆる「新左翼」(日本共産党はニセ左翼と呼称)
の解説を行っている。
本書のテーマは「マルクスの逆襲」なのだが、戦後、特に
60年代から70年安保の学生運動の略史を知るのには、
適当な教材となるが、日本共産党系の民主青年同盟などが
抹殺されているので、当時の状況の「一端」を書いたというべき。
いずれにしろ、1960年代の政治・経済状態の中で、
何故、当時の学生が運動を起こしたのかの一端は分かる。
簡単なストレッチ(柔軟体操)
2週間ちょっと続けると、かなり体がやわらかくなる。
午前7時、朝食。キャッサバ芋と米の「チャオバインカイン」。
メール受信、必要な送信。
バンベー38号編集。
ベトナム人の原稿を日本語らしく添削する。
部屋の掃除。衣類の整理。
読書「マルクスの逆襲」(三田誠広著:集英社新書)読了。
三田氏はソ連・東欧の崩壊、既存の社会主義といわれている
国々の官僚主義、一党独裁などの状況で、一度マルクスは
死んだが、今、再び生き返って来たと言っている。
それは、現在は資本主義の末期症状を示し、サブプライムローン
の破綻など、資本主義の本来の矛盾の最終へ到達しつつある、
としている。マルクスの述べていることの一つの本質は、
「生きがい」、別の言葉で言えば「人間疎外の克服」である。
そのためにはと、三田氏は「農業の再生」を上げている。
農業を再生氏、地域共同体を作り、人間の生きがい、働く
喜びを作り上げることが必要であり、マルクスの言っている
ことは大富豪・大金持ちをなくし、皆が真面目に働き
それなりに生きがいを持って生きていく社会をつくることだと。
1970年代の日本は、ある意味でマルクスの言っていた
平等と生きがいのある社会を作ったと。ソ連の崩壊で
マルクスは否定されたかに見えたが、今、貧富の格差の
増大、悪辣で表に出ないな国際金融資本の大もうけなど
の事態の中で、マルクスは復活していると。
午前11時半、昼食。「春雨麺」。
食後、1時間ほど昼寝。
読書「ポピュリズムへの反撃」(山口二郎著:角川)
2010年10月発行。
ブライセン本社から電話。
筋トレ。
尖閣諸島での中国漁船衝突ビデオをインターネットで見る。
冷静にこのビデオを見ると、どうみても中国漁船が
意図的に日本の哨戒船に2回「体当たり」していると
断言できる。
先日、衆参両院の予算委員会の理事さん30人だけに
6分程度に短縮した「衝突」ビデオを見せたそうだが、
特別なビデオでもなく、中国船が「違法操業」で
魚を獲っている場面があり、海上保安庁の哨戒船が
注意を喚起し、中国漁船が2回体当たりしたというだけの
ビデオである。国民の代表である国会議員全員にも
見せないなどという措置を菅内閣は何故取ったのか?
理解出来ない。国民には知る権利があり、行政は
国民に知らせる義務がある。
ビデオを公開したら中国が反撥するとの憶測から
一部の国会議員に密室でみせたのだろうが、
あまりに姑息なやり方だ。
むしろ真実のビデオを世界に公開し、中国人の日本領土へ
の不法侵入という事実を公にした方が良かったように思った。
変に「地下の人脈」などを使って中国と交渉しても
交渉上手な中国に取り込まれてしまう。
日本の外交の下手さがまたも露呈した。
以前北朝鮮の「金正日」の長男、正男が偽造パスポートで
不法入国したが、無罪放免している。
正々堂々と事実は事実として明らかにし、外交交渉をする
方が中国側も交渉がしやすいのではないだろうか?
中国政府も尖閣諸島が中国の領土でないこと、またそれまで
の歴史は知っている筈である。そこを「横車」を押している
現実である。日本側が、尖閣諸島が無人島であり、最初に
占有した国のものであることは国際慣例で明らかであり、
無人島の尖閣諸島を最初に見つけたのは、日本である点
74年間、中国は日本の尖閣諸島占有について、一切抗議を
してこなかった事実など、正当性をしっかりと主張すべきでる。
(続きを読む に尖閣諸島問題についての日本共産党の
態度を記載した。各種新聞などの解説の中では一番まとまっている。
詳細を知りたい方は、一読を)
午後5時過ぎ、ベトナム事務所へ。
午後5時半、日本料理店でこどもたちと夕食。
日本人の先生方は寒いので「登山用防寒服」。
私とリー君は半袖。
今日は12人の来客。大半の来客は、英語版観光ブック
「ロンリープラネット」を読んで支援の気持ちもあって来店している。
タイ人 4人
オーストラリア人 2人
スペイン人 6人
12人がほぼ同時に入店したので、厨房は大忙し。
鉄火巻き
野菜炒め
接客担当のリー君とグエットさん。
リー君が時々「ちょっかい」を出しているが、一方は、無視。
頑張れ、寅さん。
午後9時、閉店。
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尖閣諸島問題 日本の領有は歴史的にも国際法上も正当
――日本政府は堂々とその大義を主張すべき――
2010年10月4日 日本共産党
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日本の尖閣諸島周辺で起きた中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突事件をきっかけに、尖閣諸島の領有権にかかわる日本と中国の主張の対立が、国際的にも注目を集めている。日本共産党はすでに1972年に日本の尖閣諸島の領有は正当であるとの見解を発表しているが、この機会にあらためて尖閣諸島の領有の正当性について明らかにする。
1、日本の領有と実効支配
近代まで「無主の地」
尖閣諸島の存在は、古くから日本にも中国にも知られており、中国の明代や清代の文献に登場する。当時、琉球は中国との間で朝貢貿易をおこなっており、中国の使節である冊封使が琉球国王の代替わりにさいして往来した。琉球と中国大陸の福州とを結ぶ航路のほぼ中間に位置する尖閣諸島は、海路の目標とされていた。しかし、中国側の文献にも、中国の住民が歴史的に尖閣諸島に居住していたことを示す記録はなく、明代や清代に中国が国家として領有を主張していたことを明らかにできるような記録も出ていない。
一方、日本側にも、この時期について日本の領有を示すような歴史的文献は存在しない。近代にいたるまで尖閣諸島は、いずれの国の領有にも属せず、いずれの国の支配も及んでいない、国際法でいうところの「無主の地」であった。
日本による領有
「無主の地」の尖閣諸島を1884年(明治17年)に探検したのは日本人古賀辰四郎だった。古賀氏は翌85年に同島の貸与願いを申請した。同島でアホウドリの羽毛の採取などが試みられ、周辺の海域で漁業をおこなう漁民の数も増えるなか、沖縄県知事は実地調査をおこなうこととし、尖閣諸島が日本の領土であることを示す国標を建てるべきかどうかについて、政府に上申書を提出する。政府内での検討の結果は、国標を建てて開拓にあたるのは他日の機会に譲る、というものだった(『日本外交文書』第23巻)。
日本政府はその後、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで、1895年1月14日の閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為である。これは、「無主の地」を領有の意思をもって占有する「先占」にあたり、国際法で正当と認められている領土取得の権原のひとつである。
日本の実効支配
日本政府は、尖閣諸島を沖縄県八重山郡に編入したあとの1896年9月、以前から貸与を願い出ていた古賀辰四郎氏に4島(魚釣、久場、南小島、北小島)の30年間の無料貸与の許可を与えた。古賀氏は尖閣諸島の開拓に着手し、貯水施設、船着き場、桟橋などの建設をすすめ、アホウドリの羽毛の採取や鳥糞の採掘などを主な事業にして「古賀村」が生まれた。これが尖閣諸島における最初の居住である。大正期に入ってからは鰹節の製造や海鳥のはく製製造がおもにおこなわれた。最盛期には漁夫やはく製づくりの職人など200人近い人びとが居住していた。
1919年には、中国福建省の漁民が魚釣島付近で遭難し、同島に避難した31人を住民が救助し、全員を中国に送還した。この救援活動にたいし、中華民国の長崎駐在領事から、1920年5月20日に感謝状が届けられた。感謝状のなかには、尖閣諸島がはっきりと日本の領土として記述されていた。
このように、尖閣諸島にたいしては、第二次世界大戦まで中断することなく日本の実効支配がおこなわれてきた。
1945年の日本の敗戦により、日本が中国から奪った台湾などの地域は、連合国のカイロ宣言(1943年11月)やポツダム宣言(1945年7月)にもとづいて、中国への返還が決められ、実行された。このなかには、尖閣諸島は含まれていない。
尖閣諸島は、沖縄の一部として、アメリカの軍事支配下におかれることになった。1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約によって、尖閣諸島を含む「北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)」などは米軍の施政権下に置かれ、米国は、一定の地代を支払うことと引き換えに、尖閣諸島の大正島と久場島を米軍射撃場として使ってきた。施政権は奪われていたとはいえ、尖閣諸島にたいする主権は日本にあった。日米の間で1971年6月に調印された沖縄返還協定が1972年5月15日に発効したことにともなって、尖閣諸島の施政権は日本に返還され、今日にいたっている。
2、国際法上明白な日本の領有
中国は75年間異議をとなえず
中国側は、尖閣諸島の領有権を主張しているが、その最大の問題点は、中国が1895年から1970年までの75年間、一度も日本の領有に対して異議も抗議もおこなっていないという事実である。
中国、台湾が尖閣諸島の領有権を主張しはじめたのは1970年代に入ってからである。台湾は1970年に尖閣諸島の領有を初めて主張し、71年に入って主権声明を出した。中国政府は、1971年12月30日の外交部声明で領有権を公式に主張した。尖閣諸島のある東シナ海から黄海について、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)は、1969年5月に公刊した報告書で、石油天然ガスの海底資源が豊かに存在する可能性を指摘していた。
侵略による奪取とは異なる
尖閣諸島に関する中国側の主張の中心点は、同諸島は台湾に付属する島嶼として中国固有の領土であり、日清戦争に乗じて日本が不当に奪ったものだ、という点にある。
日清戦争(1894~95年)で日本は、台湾とその付属島嶼、澎湖列島などを中国から不当に割譲させ、中国への侵略の一歩をすすめた。しかし、尖閣諸島は、日本が不当に奪取した中国の領域には入っていない。
この問題では、台湾・澎湖の割譲を取り決めた日清講和条約(下関条約)の交渉過程、とりわけ、割譲範囲を規定した同条約第2条の「二、台湾全島およびその付属諸島嶼」のなかに尖閣諸島が含まれていたのかどうかが、重要な論点となる。
第一に、経過の点で、日本が尖閣諸島の領有を宣言したのは1895年1月14日であり、台湾・澎湖の割譲を取り決めた講和条約の交渉が開始される同年3月20日よりも2カ月ほど前のことである。
第二に、下関条約は、割譲範囲について第2条で、「台湾全島及其ノ附屬諸島嶼」、「澎湖列島即英國『グリーンウィチ』東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼」と規定しており、尖閣諸島については一切言及してない。
第三に、下関条約を締結する交渉の過程で、中国側の代表は台湾とその付属島嶼や澎湖列島の割譲要求にたいしては強く抗議したが、尖閣諸島についてはなんら触れなかった。かりに中国側が尖閣諸島を自国領土だと認識していたならば、尖閣諸島の「割譲」も同じように強く抗議したはずだが、そうした事実はない。それは、公開されている交渉議事録から疑問の余地がない。
第四に、1895年4月17日に下関条約が締結されたのちの同年6月2日、「台湾受け渡しに関する公文」に署名する際、台湾の付属島嶼とは何かが問題になったときに、日本側代表は、台湾の付属島嶼は、それまでに発行された地図や海図で公認されていて明確だとのべ、中国側はそれを了解している。当時までに日本で発行された台湾に関する地図や海図では、例外なく台湾の範囲を、台湾の北東56キロメートルにある彭佳嶼までとしており、それよりさらに遠方にある尖閣諸島は含まれていない。尖閣諸島は、台湾の付属島嶼ではないことを、当時、中国側は了解していたのである。いま、中国側は、尖閣諸島が台湾付属の島嶼であり、日本によって強奪されたと主張しているが、それが成り立たないことは、この歴史的事実を見れば明らかである。
中国側の立場を擁護する主張の中には、日清戦争で敗戦国となった清国には、尖閣諸島のような絶海の小島を問題にするゆとりがなかった、とする見解もある。しかし、国際法上の抗議は、戦争の帰趨とは無関係にいつでもできるものである。もし、尖閣諸島が台湾に属すると認識していたのなら、講和条約の交渉過程でも、またその後でも、抗議できたはずである。
このように、日本による尖閣諸島の領有は、日清戦争による台湾・澎湖列島の割譲という侵略主義、領土拡張主義とは性格がまったく異なる、正当な行為であった。
戦後の25年間も異議をとなえず
第二次世界大戦後、中国政府は、サンフランシスコ平和条約について、中華人民共和国が参加したものではなく無効という態度を表明した(1951年9月18日の周恩来外交部長の声明)が、尖閣諸島について、それが米国の施政権下に置かれ、日本への「返還区域」に含められたことは不法と主張するようになったのは、1970年代に入ってからである。戦後の25年間も、尖閣諸島については領有権を主張することはなかったのである。
このように、1970年代にいたる75年間、第二次世界大戦が終了してからも25年間、中国側から日本の領有にたいする異議申し立ても抗議も一度もなされてこなかったことは、戦後も中国側が、尖閣諸島を中国の領土とは認識していなかったことを裏付けている。
逆に、1953年1月8日付の中国共産党機関紙「人民日報」は、「米国の占領に反対する琉球群島人民の闘争」と題して、米軍軍政下の沖縄での日本人民の闘争を報道し、そのなかで、「琉球群島は、わが国台湾の東北および日本九州島の西南の間の海上に散在し、尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、吐か喇(とから)諸島、大隅諸島など7つの島嶼からなっている」と、「尖閣諸島」という日本の呼称を使って同諸島を日本領土に含めて紹介していた。
また、北京市地図出版社から1958年や1966年に発行された中国全図などでは、尖閣諸島は中国領の外に記載されている。
このように、尖閣諸島が台湾など中国の領土に属するものではなく、中国側も1970年代にいたるまではそのように認識していたことは明白である。
日本の領有は国際法上も明白
日本は1895年1月14日の領有宣言によって、国際法上の先占の法理にもとづいて尖閣諸島を領有した。
先占の法理は、特定の条約に明文化されているものではなくて、近代を通じての主権国家の慣行や国際裁判所(国際仲裁裁判や国際司法裁判所など)の判例の積み重ねによって国際慣習法として確立してきたものである。その核心として、領有が国際的に認められるには「主権の継続的で平和的な発現」が基本的な要件となる。「平和的な発現」とは、領有にたいして歴史的に異議がとなえられてこなかったことを指す。先占については通例、(1)占有の対象が無主の地であること、(2)国家による領有の意思表示、(3)国家による実効的な支配――この三つが国際法上の条件としてあげられる。また、関係国への領有の通告は、あらかじめ取り決めなどがある場合を除いて、国際法上、一般には義務とはされていない。尖閣諸島にたいする日本の領有は、このいずれの条件も満たしており、国際法上、まったく正当なものである。
一方、領土紛争においては、相手国による占有の事実を知りながらこれに抗議などの反対の意思表示をしなかった場合には、相手国の領有を黙認したとみなされるという法理も、国際裁判所の判例などを通じて、確立してきている。この法理にもとづいて、1895年の日本の領有宣言以来、中国側が75年間にわたって一度も抗議をおこなっていないことは、日本の領有が国際法上、正当なものである決定的な論拠の一つとなる。
このように、尖閣諸島にたいする日本の領有権は、歴史的にも国際法上も明確な根拠があり、中国側の主張には正当性がない。
3、領有に関わる紛争の解決のために
尖閣諸島をめぐる紛争問題を解決するために、何よりも重要なことは、日本政府が、尖閣諸島の領有の歴史上、国際法上の正当性について、国際社会および中国政府にたいして、理を尽くして主張することである。
この点で、歴代の日本政府の態度には、1972年の日中国交正常化以来、本腰を入れて日本の領有の正当性を主張してこなかったという弱点がある。
領土画定を明確にするよい機会であった1978年の日中平和友好条約締結の際に、中国のトウ小平副首相が尖閣諸島の領有問題の「一時棚上げ」を唱えたが、日本側は、日本の領有権を明確な形では主張しなかった。それは、尖閣諸島の領有権が日本にあることについて中国側に確認を申し出ることは「全く要らざることである」(福田首相の衆院外務委員会答弁、1978年10月16日)という立場からの態度だった。
1992年に中国が「領海および接続水域法」を採択し、尖閣諸島を自国領と明記した際には、外務省が口頭で抗議しただけで、政府としての本腰を入れた政治的・外交的対応はなかった。
今回の事件でも、民主党政権は「国内法、司法で対処する」というだけで、肝心の外交的主張を怠ってきた。
このように長期にわたって積極的主張を回避してきたことについて、わが党の議員の質問に閣僚から「中国や国際社会に対して日本の立場を発信してきたかどうかについては、大いに反省するところがある」(9月30日衆院予算委員会)との答弁がなされている。
わが党は、日本政府に、こうした態度をあらため、歴史的事実、国際法の道理にそくして、尖閣諸島の領有の正当性を、国際社会と中国政府に堂々と主張する外交努力を強めることを求める。
同時に、中国政府に対しても、今回のような問題が起こった場合、事態をエスカレートさせたり、緊張を高める対応を避け、冷静な言動や対応をおこなうことを求める。日本と中国との間で、あれこれの問題で意見の違いや行き違いが起こっても、問題をすぐに政治問題にすることを戒め、実務的な解決のルールにのせる努力が大切であり、話し合いで平和的に解決することが何よりも重要である。
日中両国政府は、2008年5月の共同声明の中で「ともに努力して東シナ海を平和・協力・友好の海とする」と合意している。今後さらに、その分野をはじめ日中の「戦略的互恵関係」を発展させ、東アジアの平和と安定に貢献するよう求めるものである。
【資料】
尖閣列島問題に関する日本共産党の見解(1972年3月31日)(PDF)
地図出版社(北京市)発行「世界地図集」1958年版日本図(画像)
中華民国の長崎駐在領事からの感謝状(画像)
1953年1月8日付の「人民日報」(画像)
「人民日報」該当部分の拡大(画像)
2010年11月04日
終日、雨。寒い。
JASSの里親担当を16年間勤めてくれている
渡辺和代さんは、ACCLという「小児ガン」支援のNGOの代表
もしています。
今回、以下のような「チャリティーコンサート」を開催します。
ご希望の方は、是非ご参加ください。
チャリティーコンサートの内容と連絡先は以下のようです。
=========
NPO法人 アジア・チャイルドケア・リーグ(ACCL)主催
平原綾香 藤澤ノリマサ
アジア小児がん CURE & CARE チャリティーコンサート
~ 希望から生まれるつながり ~
【 出 演 】
ヴォーカル :平原綾香
ヴォーカル :藤澤ノリマサ
ピアノ :坂本昌之
ベース :渡辺等
ハープ :早川りさこ
ヴァイオリン :弦一徹
ナビゲーター:渡辺真理
日 時:2011年1月10日(月・祝) 開場16:45 開演17:30
場 所:Bunkamuraオーチャードホール(東京都渋谷区道玄坂)
全席指定 7,000円(税込)
【お申し込み方法】
E-mailにて,ACCL・渡辺 (accl@accl.jp)まで
「お名前,ご住所(チケットご郵送先),お電話番号,希望枚数」
をお申し込みください.
(「火炎樹日記を見て」と添えていただけましたら幸いです.)
折り返しこちらから受付のご連絡をさせていただきます.
定員数を越えた場合は何卒ご容赦くださいませ.
NPO法人 アジア・チャイルドケア・リーグ(ACCL) http://www.accl.jp
*********************************************************
朝から雨。これで1週間ほど連続の雨。
気温も20度を割っている。昨年だと「湯たんぽ」を使っていた。
午前6時半起床。
簡単なストレッチ。朝からだの筋肉をほぐしておくと1日の
活動がし易い。
午前7時朝食。フォー。
朝食後、洗濯。
部屋の掃除。
メール受信、送信。
バオミンさんと電話でいくつかの件について打ち合わせ。
原田先生と電話で若干の話し合い。
筋トレ。徐々に負荷を高める。
筋トレと言っても目的は、階段から「よろけて」落ちないように。
箸を持って食事をしても「箸が重い」ほど、筋肉が落ちているので
最低「箸」位はもてるようにという「完全」「100%」老化遅延の
筋トレ。20歳代の頃、1ヶ月程入院した。その際、足の筋肉が
落ちないようにと「鉄だか鉛だか」をつけて、トレーナーの人が
寝ながら足の曲げ伸ばしなどをし指導してくれた記憶がある。
現在の筋トレは「これ以上筋肉が落ちないように」「腰が曲がら
ないように周りの筋肉をつけておく」という程度の「遊び」。
けして筋骨隆々になる筋トレではない。残念ながら、現在
筋骨隆々になる筋肉の基礎自体がなくなっている。
悲しい現実である。
読書「ジャーナリズム崩壊」(上杉隆著)
一読に値する本。私たち日本人が得ているマスコミ情報が
いかに「大手のマスコミ」に統制され、権力と迎合した
情報になっているのかの裏幕を詳細に暴露している。
外は雨。
午前11時半、昼食。「マカロニスープ」。
1時間半ほど昼寝。気温が下がり、体がだるい。
読書「ジャーナリズム崩壊」(上杉隆著)読了
日本のジャーナリズムの腐敗の一つの根源は「記者クラブ」
制度にあるというのが著者のメイン主張。外国にはその例を
みないという。日本独特のもの。
その元凶が「記者クラブ」制度。
上杉氏は、フリーランスのジャーナリスト。個人の一匹狼
ジャーナリストである。鳩山邦夫法務大臣が「死刑輪番制」
発言をして、社会で顰蹙(ひんしゅく)を買った際、鳩山法務大臣
へのインタビューの了解を取った。(上杉氏は元鳩山邦夫氏の
秘書だった)
ところが、記者クラブから「鳩山法相とのインタビューは、記者クラブを
通し、記者クラブの了解を取らなければ、認めない」、との横槍が
入った。結局、インタビューはできなくなった。
本来は権力の横暴などをチェックするジャーナリストが、
記者クラブを使い、一匹狼のジャーナリストを追い出し、
権力と癒着し、迎合していると著者は指摘する。
毎日1回か2回行われる「首相のぶら下がり記者会見」。
首相は「のそのそ」と出てきて、周りを何人かの記者が囲み、
代表の記者一人がマイクを持ち、「00000はどうですか?」
などと質問し、首相が適当に応えて直ぐに終わる。
これなども数時間前に首相秘書官と記者クラブの面々が
質問事項を相談し、この質問は駄目などと打ち合わせををする。
事前に首相と記者クラブの「談合記者会見」である。
首相に取って「痛くも痒くもない会見」であり、むしろ自己宣伝
の場と化している。首相に2回質問して首相が答えない場合は、
それ以上質問しないと言う「暗黙の了解」もあるという。
官房長官や首相などの首相官邸での大きな記者会見も
質問するのは、記者クラブだけ。私も何度かこの種の
記者会見をテレビで見ていて「何で、このことを聞かないの?」
とイライラしたことが何度もあった。首相に一番痛いところ、
国民が一番聞きたいことをずばり聞く記者がいない。
どうでも良いこと、問題の表面を撫でる程度の質問しか
しない事情が良く分かった。
記者クラブの面々は「メモあわせ」という「談合」をしている
とのこと。国会の廊下などでその時にあった大臣などの
会見の内容をそれぞれのメモを見ながら確認し、
「みんな同じ内容にしようね・・」ということで、確認しあって
いると書かれていた。
読書「マルクスの逆襲」(三田誠広著:集英社新書)
2009年版(古本屋で350円)
三田氏は私と同年齢。早稲田文学部出身ということは
核マル支配下の文学部の中でそれなりの学生運動を
行った。
「僕って何?」で29歳の時芥川賞受賞。内容は
全共闘運動にまつわる話。
実家は「コピーの三田」で知られた三田工業(現京セラミタ)
を経営している。
私は「団塊老人」しか読んでいないが。
大企業の御曹司ではあるが、マルクスなど社会主義関連の
本をしっかりと読んでいることが分かる。
午後5時前、バオミンさん・原田先生でいくつかの件に
付いて相談。
午後5時半、日本料理店でこどもたちと夕食。
日本語学校が終わって夕食。
私も軽く「フダ生ビール」を飲む。
今日は15人の来店。厨房も接客係りの大忙し。
雨の中、多くのお客さんに来て頂き感謝している。
午後9時閉店。リー君も今日は真面目に仕事をしていた。
閉店後、友達とどこかへ飲みに行くとのこと。
2010年11月03日
通常業務
雨・午後曇り
午前6時起床。雨。かなりの豪雨。
簡単なストレッチ。
午前7時朝食。ブンボー。
午前8時半。バオミンさんで電話でいくつかの打ち合わせ。
バンベー38号編集上のいくつの問題・・・・・・。
読書「淳之介さんのこと」(宮城まり子著:文春文庫)
いくつかのメール受信・送信。
筋トレ。少しずつ、筋苦痛が取れてきている。
外は大雨。
午前11時半、昼食。小麦粉のチャオバインカイン。
昼寝。2時間熟睡。
読書「淳之介さんのこと」(宮城まり子著)読了。2003年版。
全編を通して、まり子はそれだけ吉行淳之介を愛していたか
と言うことが良く分かる。
沢村貞子もそうだが、今で言う「不倫」関係で男性を
奥さんから取り上げた形の事実婚。こうした場合、
男性は、沢村も吉行も私から見ると一種の「暴君」の
ように振る舞い、女性がそうした「暴君男性」に身も心も
捧げているという図式である。女性はこうしたものなのか?
などと感心しながら読む。宮城まり子(1933年・昭和2年生まれ)
沢村貞子は、それより少し年上。この世代の人たちの
意識と時代を反映しているのか?
戦後民主主義教育を受けた私たちの世代には、少し理解
出来ないところもある。
宮城まり子は、吉行淳之介の作家としての大成と
良い本がかけるよう、日常生活に細心の努力をしている。
自分のミュージカルの仕事なども犠牲にして・・・・。
静岡に作った『ねむの木学園』も多少、吉行の影響も
あるように思えたが、同時に宮城まり子の性格が
純粋な一直線の少女のようなものだともいえる。
どんな経過にせよ、二人が幸せならば「HAPPY END」なの
だが、本書を読みながら、吉行淳之介の本妻は、どんな気持ち
でどんな態度で二人をみていたのか? 毎月の生活費は
吉行が送っていたと書いてあったが。
本妻さん側の本を読みたいものである。多分、本妻さん側は
そうした「はしたない」ことはしないのだろう。
読書「ジャーナリズム崩壊」(上杉隆著:幻冬舎新書)
2008年版(古本屋で350円)
フリーランスのジャーナリストで上杉氏の体験を通した
既成マスコミ批判。趣旨は、権力の監視人たるジャーナリズム
精神を日本の既成マスコミ(大手)はなくしているということに
尽きる。
最初に槍玉にあげているのが、「記者クラブ」制度。
大手マスコミは企業の談合を紙面で厳しく批判するが、
自らは、記者クラブを作り、フリーのジャーナリストを参入させず、
権力に迎合した記事を各社「横並び」で書いていると批判している。
私もインターネット版であるが、毎日、「朝日」「読売」「毎日」
「産経」「東京」5社の社説を読んでいるが、ほとんどどの社も
同様の内容である。「赤旗」「社民」新聞は、政党なので
独自の見解を書いているが。
時々夕刊紙「日刊ゲンダイ」HPを読むが、日刊ゲンダイが一番
赤旗に近い記事を書き、権力を批判している。
午後5時過ぎ日本料理店へ。
午後5時半、日本料理店でこどもたちと夕食。
おかずは「インゲンの肉炒め」
午後7時頃から来客あり。一度に14人ものお客さんが
入店。
午後9時前まで開店。
全てのお客さんと話す。
ニュージーランド人(2人)
ベルギー人(2人)
フランス人(2人)
タイ人(2人)
台湾人(4人)
オランダ人(2人)
午後9時閉店したが、閉店前にリー君は
どこかへ行ってしまった。友達と飲む約束でもしたのか?
せっかく、しっかりと仕事をしたのに、最後の態度が悪い。
24歳になってもまだ、仕事の最低のルールが心の中に
確立していない。何度も注意をしているのだが・・・・・・。
日本料理店の前の「チュウバンアン通り」には、人影まばら。
隣りの精進料理屋も前のベトナム料理屋も来客は非常に
少ない。我が日本料理店だけは、毎日多くの来客あり。
有難いことである。
2010年11月02日
フエ高等師範大学長・副学長と懇談
昨日、「禁煙ファシズムと戦う」の書評を書いたが、
JASS静岡の会の笠井さんが、新聞に私と同趣旨の
投稿をしていた。笠井英彦さんから送られた
新聞は以下の通り。これは常識的な意見だと私は
思う。日本の禁煙対策はやはり相当遅れていると
言わざるを得ない。こうして新聞に投稿し、世論を
喚起する活動を永続的に進めることは大事なことだと
思う。10数年前には新幹線で禁煙席は少なく、
已む無く禁煙席に乗り、2時間ほど嫌な気持ちになった
時代があったが、今は、新幹線は全て禁煙。
20年ほど前、シンガポールからニュージーランドの
オークランドまで9時間の旅をしたが、禁煙席の
後ろが喫煙席だったので、禁煙席の意味がなく
9時間、洟をたらしていた。
それからすると、笠井さんの投書などの地味な活動が
功を奏し、徐々にではあるが、禁煙の動きがでてきている。
終日、大雨。
午前5時起床。
読書「沢村貞子という人」(山崎洋子著:新潮文庫)読了。
戦前、プロレタリア演劇運動に参加し、1年間の留置所
生活をした、その気骨が、87歳でなくなるまで「生き方」に
貫かれている。
ものを大事にし、贅沢をしない。80歳になって「週刊金曜日」
を読み、「最近、井上ひさしが週刊金曜日にでないわね」と
言っているところなどは、戦前の左翼活動の名残りがある。
全てに筋を通し、他人に出来るだけ迷惑をかけないように
「気配りをする」人生。なくなる直前まで自分で「用をたそう」
と努力している。亡くなった後、夫の遺骨とともに
甥の津川雅彦たちが湘南の海に散骨している。
夫婦の関係は不倫関係から出発している。複雑な心境で
生涯をすごしているが、一本筋の通った生き方を見習いたい。
午前7時朝食。
チャッサバ芋ともち米の「チャオバインカイン」。
唐辛子を入れると更に美味しい。
午前8時40分。バオミンさんがオートバイで来る。
フエ高等師範大学へ。
今日はフエ高等師範大学日本語学科の運営問題で
学長、副副学長、外国学部長などと懇談。
ベトナム事務所側は私、バオミンさん、フーン先生、原田先生。
日本語学科のより一層の効率的な運営などについて協議。
2時間ほどの協議を終え、バオミンさんと帰宅。
フォン河が「氾濫」しているのでは?と思い、一番最初に
氾濫するフォンザンホテルの近くを視察。まだ氾濫までは
行っていないが、この調子で今日一日中雨が降れば
明日あたり氾濫しそう。
午前11時半、昼食。かなり量が多い。先日も3分の2程度に
減らして欲しいとお願いしたのだが・・・・。
1時間ほど昼寝。寒い。
読書「淳之介さんのこと」(宮城まり子著:文春文庫)
吉行淳之介が亡くなった時、新聞か何かで
事実婚の宮城まり子の存在を知った。吉行淳之介には
奥さんと女の子がいた。
二人の出会いから始まる。二人のラブレターのやりとりが
公開されている。人間の出会いとは不思議なものである。
当初、宮城まり子(眞理子)は、不倫関係に相当悩んでいたが
徐々に淳之介との生活を始める中で、幸福感を感じ、二人の
関係を外にもオープンにしていく。高見順夫妻と一緒に旅行
などにも行っている。当時、宮城まり子は、日本で一番売れていた
ミュージカル歌手(歌って踊れる)であった。
沢村貞子は老いて死んでいく内容であり、宮城まり子は
青春と不倫関係の中での溌剌とした喜びと躍動の感じる
内容である。
2冊とも古本屋で買った。沢村(150円)、宮城(340円)。
沢村貞子も宮城まり子も私たちの世代以上でないと
既に分からなくなっている人たちかも知れないが、
私には、刺激のある内容の本である。
人間、特に有名人の人生(恋と老い)も
誰もが通る途であり、有名人も一般庶民も同じ悩みと
同じ道を通って死んでいくのが分かる。
バオミンさんと電話でいくつかの打ち合わせ。
午後5時過ぎ、徒歩日本料理店へ。
こどもたちと夕食。
夕方、雨はほぼ止んだ。
夕食は「かたヤキソバ」。
量が多そうに見えるが、揚げたので多量になる。
来客有。
午後9時、閉店。
午後9時半過ぎ、豪雨。
2010年11月01日
静岡大学「ニフィー留学」希望日本語学校生徒説明
終日雨。時々、豪雨。フォン川は洪水寸前。
昨夕から寒くなった。午前3時頃、寒いのに気づき、
毛布を1枚かける。
お陰で風邪の前期症状を呈す。喉痛、倦怠感、多少の発熱。
午前3時に寒くて目が覚め、その後眠れない。
読書「禁煙ファシズムと戦う」(小谷野敦編:ベスト新書)
3部構成となっている。第1部は総論的に編者の小谷野氏
第2部は、斉藤貴男氏、第3部は栗原雄一郎氏。
第1部の編者でもある小谷野氏は、東大非常勤講師など。
小谷野氏の記述と思える「前書き風の帯」には、以下のよう
な禁煙ファシズムに対する『闘争宣言』が記されている。
「 しょうけつ(悪いものの勢いが盛んなこと)を極める
昨今の禁煙運動の根源にあるのは、特定の集団を差別したい
という心理である。現在の先進社会では、性別、人権、などに
よっては人を差別することは、たてまえ上、許されていない。
そこで、他人に害を与えるという理由のもとに、喫煙者を
「汚い」ものと認定し、差別しようとしているのである。これは
かつて肺結核患者ヤハンセン氏病患者が受けた差別と、
ほぼ同質のものだ。
二言目には「喫煙者のマナーが悪い、国や自治体が規制
してほしい」と言い出し、分煙さえ認めず、全面禁煙を
主張する禁煙運動家は、再び全体主義を招来する、恐るべき
国家依存症にかかっているのだ」。
ここにほぼ編者小谷野氏の主張は要約されている。
小谷野氏は喫煙者。
第1章の小谷野氏の内容は、自分中心(喫煙者)の
発想であり、タバコの匂いとその害が嫌いな人には、
(その程度は我慢しろ)と言っている。非常に身勝手な
理論構成である。
タバコの害についても、科学的な証明されていないと
主張している。
副流煙の害も科学的な根拠がないといっている。
アメリカの「プロテスタント」(清教徒)の純粋主義の
偏った理論でアメリカは異常は「反喫煙」国家になった
としている。
タバコの害はないとする筆者の科学的根拠などが
一切証明されてなく、感情論と精神論で喫煙問題を
論じていて、批判するに値しない。
どこでもタバコを吸わせろとしか聞こえない。
第2章の斉藤貴男氏の論拠は、検討に値するものである。
斉藤氏自身は、タバコを吸わない。タバコを吸わない
斉藤氏は、禁煙運動が厚生省・政府と結びつき、
国家の指令で「健康になりましょう」という運動をするのは、
ヒトラーが、徹底して「禁煙運動」をおこなったのと
同じだと断じている。この意見に同調は出来ないが、
「健康増進法」で「国民は健康になる義務がある」という
趣旨の文言が入ったことに斉藤氏は、個人の健康問題に
国家が介入し、管理することに対する不信感を
述べている。
第3章の栗原氏は、小谷野氏と斉藤氏などの書いた
文章を引用しての「禁煙ファシズム論」で検討に値しない。
禁煙運動の最終目標をどう定めるのか?
喫煙の権利を認めるのか、それともタバコ自体を
麻薬と同種の「依存性薬物」と同類の全面禁止に
するのか? 今後の禁煙運動に問われているが、
私見ではあるが、タバコは、依存性の薬物であり、
大麻・覚せい剤と同様に全面禁止にすべきと
改めて思った次第である。大麻吸引ですら犯罪なのだから・・・。
3人の著者に共通する禁煙擁護論は、
「タバコを吸うことで、リラックスできる」
ということに尽きる。
覚せい剤や大麻も同様にリラックスできのである。
禁煙派と反禁煙派の著書を読み比べ、禁煙派
は科学的・医学的な検証と、タバコの依存性を
強く主張しており、軍配は、「現代たばこ戦争」
(伊佐山芳郎著:岩波新書)に上げたい。
斉藤氏の主張には一理あるのではあるが、喫煙者が
自主的に(他人に迷惑をかけずにタバコをすう)ことを
期待できない現状である。小谷野氏のように
「開き直り」喫煙者もいる。
私自身はタバコを吸ったことはない。大学時代、教員時代
に会議などで密室になり、周りの人間多数がタバコを吸うと
30分位すると涙がと洟が出てくる。そのうち、体中がだるくなり
会議などに参加できなくなる。
何度もタバコをやめて欲しいというのだが、喫煙者は
「それは、小山の気持ちが弱いからだ。タバコくらいで
仕事ができなくなるなど、甘えている」と何度も言われた
経験を持っている。私がタバコが嫌いな原因は
「自分の快楽のために他人を犠牲にしても憚らない人間」
が嫌いだという1点である。こうした人間が「人権」「民主主義」
などの論議をしているの聞くと(片腹痛い)心境になる。
私が居酒屋に飲みに行く。しばらくカウンターで飲んでいると
隣りに来客が来る。やおらタバコを取り出し、吸い出す。
私に煙が「モロ」にふりかかる。その時点で、もっと飲みたいの
だが、私は店を出る。喫煙者はこうした「タバコの嫌いな人」
のことは頭にないのであろう。現実の世界では、「喫煙」こそが
ファシズムなのだ。タバコの嫌いな人間は、喫煙者の煙草で
居酒屋や食堂・レストランから「コソコソ」と退出しているのが
現実なのである。喫煙者の横暴と他人を省みない態度には
人間の悲しさを感じる。
私からすると「喫煙ファシズム」が現実なのである。
3人の著者が共通して主張している点は、
喫煙は、低所得者・低学歴者の(一番の娯楽だ)
禁煙を主張している人たちは、高学歴・高収入の人たちの
主張だといっているが、これほど、人間を差別した意見は
ない。喫煙は学歴や収入とは関係ない。
喫煙者を差別していると主張している著者たちが、実は
人間を差別していることに気づいていなのである。
午前7時朝食。お赤飯風の「おかゆ」と小魚の甘辛煮
気温の急激な変化で風邪の症状。
午前中、寝ていた。
読書「禁煙ファシズムと闘う」読了。
小谷野氏の「タバコのことばかり言うが、車の排気ガスなど
自動車事故の死者年間8000人(当時)など、車の
方がもっと問題なのに何故、タバコばかり文句のいうのか?
との記述に呆れ返る。車は車、タバコはタバコなのである。
「あいつも悪いことをしているのに、何故、俺だけに文句をいう」
との小学生の言い訳にしか聞こえない。
午前11時半昼食。「春雨麺」。外は雨。
午後1時45分、バオミンさんが雨の中、オートバイで迎えに
来てくれた。
日本語学校で「静大にニフィー留学希望日本語学校生徒」
(高校1年生、2年生)に説明会。
「静大ニフィーの概要」「選抜方法」「日本語学校での学習内容」
など留学希望者19人に説明。
説明後、2階の「静大ニフィー受験希望者(高校3年生)」の
授業を参観。土井先生が教えていた。
2011年3月には、受験が控えている。
「子どもの家」のニーさんも参加している。
グエンフエ高校の理系で勉強している。頑張って静大に
留学して欲しい。
静大ニフィープログラムの留学希望生を教える土井先生
1時間ほど「静岡フエ青年交流会館」内にある日本語学校
に滞在。
その後、ベトナム事務所へ。
リー君が「これから毎月、100万ドン(5000円)貯金したい
と言って私に100万ドン預けた。ハンさんに渡す。
リー君の給料が100万ドン程度。どうして、給料全額ほどの
お金を毎月貯金できるのか?
考え出すと眠れなくなる・・・・。
部屋に戻り。横になる。
読書「沢村貞子という人」(山崎洋子著:新潮文庫)
古本屋で買った。140円。
沢村貞子は戦前、共産青年同盟に加入し、1年間ほど
治安維持法で拷問を受け、拘置所に入れられていた。
兄は四代目澤村國太郎、弟は加東大介、甥は長門裕之・津川雅彦。
俳優の藤原釜足は元夫である。
沢村貞子のマネージャーだった山崎洋子の「沢村貞子」の
日常と人となり。学ぶべきこと多々あり。
ーーーーーーーーー
大学の同級生の大極安子さんが「子どもの針」で起業を
めざします。現在も「モモの木治療院」の院長ですが、
更にこどもたちにための「針治療」を目指しています。
(以下、大極さんのメッセージです)
日本に子どもはり専門の治療院を作って、そこから子どもはり
に関する様々な発信をしていこうと考えました。スタッフに
子どもはリを教えたり、お母さん向けの講習会を開いたりと。
将来は子どもの家の子どもが研修に来られたらいいなと
願っています。
現在の日本では、子どもはリは絶滅状態です。
でも、ニーズはあり、わざわざネットで調べてやってくる人もいます。
ニーズと、供給のルートがずれているのでしょう
子どもはりを特化して提示することにより需要を掘り起こせたらと
思っています。
ということで、11月7日に起業家夢市場でネットで応援を呼びかけます。
子どもはりのことを話し起業する決意を表明します。応援投票があります。
持ち時間は5分ですが、当然、ベトナムフエでのことを話します。
子どもの家そのほかの写真も提示されます。
日本で絶滅状態の子どもはリは、フエでは喜んで受け入れられ
ていますと、コメントも入ります。使ってもよろしいでしょうか。いえ、
使いたいのですがというお願いです。
発表会は11月7日(日)午後4時からです。
時間のある方は以下の要領でインターネットを
開き、大極安子さんに「投票してください」
JASSのことも少しでるようですので。
宜しくお願いします。
2010年11月7日(日)(午後4時
①インターネットでの放送アドレス。
http://www.ustream.tv/channel/kigyo-jissen2010
②応援フォーム。
http://www.p-alt.co.jp/wwb/inq/index-event2.html
11月7日(日)16時より放送を開始いたしますので、①よりご覧下さい。
応援表明をしていただける場合は、②よりご送信ください。