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2010年11月13日

ベトナム事務所員会議

終日雨。

午前6時半起床。多少疲労が溜まり起きられなかった。

ストレッチ

午前7時、朝食。


午前8時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。

午前8時半。ベトナム事務所員会議。今日からベトナム事務所
は12人の大所帯になった。日本人6人、ベトナム人6人。
女性7人、男性5人。

(ソン)「子どもの家」のこどもたちの写真を写す。(全員)
    在宅支援のこどもたちの写真は2人を除き終了。
    バンベー原稿の担当分の依頼を終わる。

(原田)日本語学校「特進クラス・2・3」を教えた。
    バンベーの越 →日の翻訳の清書
    フエ高等師範大学THUY先生と打ち合わせ
    フエ高等師範大学の担当は副学長。


(富岡)日本語学校中級クラスの授業
     フエ高等師範大学3年生  読解指導

(フーン)月・水・金 授業
      フエ高等師範大学テスト11月30日

(古竹)週3回 フエ高等師範大学会話の授業
     週2回 日本語学校特進クラス2の授業。
      2週間でひらがな・カタカナを教えたが生徒はついてきた。

(土井)月・金 特進クラス3授業(良い雰囲気になっている)
     フエ高等師範大学2年生授業 会話テスト


(アン)フールー小学校の奨学生の翻訳
    「フェリシモ」の仕事

(税田)昨日、フエに戻った。予定より3ヶ月早く。
    日本滞在中は父親との交流の時間を取った。
    5年半のフエ滞在中の活動を振り返って見た。
    7月に短期間ソン君・メンーさんの結婚式に参加したが
    各地の会の方たちと交流し、ベトナム事務所への強い
    期待を感じた。
     日本滞在中「充電」してきた。
    

(ハン)奨学金関係
    「子どもの家」のバンベー関係者への原稿依頼

(フオン)日本語学校特進クラス3の授業
     日本語学校中級クラス授業(ひらがな・カタカナ)

(バオミン)バンベ38号関係の仕事
       この間、ベトナム事務所のパソコンが壊れてしまい
       パソコンが使えなかった。インターネットも故障。
       文章作成、メールの連絡ができなかった。
       ブライセン本社の皆さんの接待
       バンベー38号は11月15日締め切りである。

       (来週の日程)
        ・元日本料理店店長 ホンニーさんの結婚式 
         (11月16日 A9時ベトナム事務所集合)
        小山・ミン・ハン・税田・大塚・原田・フーン参加

        ・11月20日「子どもの家」創立16周年記念式典
         A9開始(A8:30ベトナム事務所集合)

         (式次第)司会ロック寮長 通訳 ミン・ハン
         ・来賓紹介
         ・16年間の活動報告 (セン運営委員長)
         ・フエ市人民委員会代表祝辞(ニエン外務部長)
         ・JASS代表挨拶(小山)
         ・「子どもの家」のこどもたちの言葉
         ・成績優秀者表彰式

         ●A11~参加者全員で会食(こどもたちも含む)
         ●当日分担(写真係り) 原田・ソン

ベトナム事務所員会議後、日本語教師会議。


いくつか問題提起を受ける。早速、問題の実態を調べ、当面の
解決をする。

午前10時半、宿舎へ戻る。


読書「反音楽史 さらば ベートヴェン」(石井宏著:新潮文庫)

著者は「ドイツ人による音楽史の歪曲」を証明するために
本書を書いたが、私には、17世紀・18世紀の音楽史を
勉強するようなもの。イタリア(ナポリとベネチア)が
ヨーロッパ世界の音楽の中心。「オペラ」全盛時代。
今はオーストリアの首都となっている「ウイーン」も
プロイセンと同様に「ドイツ圏」に入っていて、音楽では
地方都市。中心はイタリア。
オペラは王侯貴族というパトロンの保護の下に発展。
モーツアルトもイタリアのオペラを学ぶ。
「ドイツ音楽史観」の人たちは、イタリアへ行き、ヨーロッパで
有名になり、音楽史に数々の歴史を刻むべき、ドイツ人
をほとんど「無視」していると著者は嘆く。
モーツアルトを含めて当時の「楽士」(演奏家)は、船乗り
などと同様に低い身分であり粗野で乱暴者が多かったとのこと。
モーツアルトの父親は、早熟のモーツアルトを
イタリヤやパリの王侯貴族に長期間の「売り込み旅行」を敢行
している。17世紀・18世紀はイタリアでなければ、音楽ではない
と言った時代だと著者は主張する。

午前11時半、昼食。 豚肉入りベトナム風「おじや」。美味しい。

2時間ほど昼寝というのか、寝てしまった。起きられない。

午後3時
読書「反音楽史 さらば ベートヴェン」(石井宏著:新潮文庫)

当時やっとチェンバロの時代。ピアノはなかった。
多くの音楽家は、何らかの楽器の演奏者だった。
演奏をしながら、作曲、特に教会音楽やオペラを学んでいった。
本書を読んで当時のヨーロッパにも中国・ベトナムと
と同様「宦官」(かんがん)と同じ人間がいたことが分かる。
子どものうちに睾丸を切り取ることで、女性的なきれいな高音
で歌える「カストラーナ」。貧しい家庭のこどもたちが、
「カストラーナ」になることを目指し、去勢する様式があった。
当時のイタリアの音楽楽士の養成所は教会の「孤児院」
だった。イタリアでは3つの有名な孤児院(私たちのような
「子どもの家」)で教会の司祭などが、こどもたちに
音楽の演奏、合唱などを教えた。そうしたなかから、
「カストラーナ」が生まれ、
有名なオペラ歌手が輩出され、巨万の富を稼ぐようになる。

「四季」のビバルディーもイタリアの「ピエタ孤児院」の司祭
としてこどもたちに終生音楽を教えていた。

著者によれば、「音楽ドイツ史観」がバイアスで、ビバルデイー
が200年間、知られずにいた。1949年、イタリアで
ビバルデイーの楽譜が発見され、LPレコードで発売。
イギリスの会社が発売。人気を博す。
1955年、「イム・ジチ」という無名の楽団に『四季』を演奏させ
LPレコードで発売し、世界中で爆発的な人気を博す。
その後は、「ビバルディー」 →「四季」 →「イム・ジチ」と
定着したとのこと。「イム・ジチ」は、22歳位の新進気鋭の
若者楽団だった、現在、販売されている「四季」は
1955年録音「「イム・ジチ」版だそうだ。

午後5時過ぎ、雨の中、日本料理店へ。

午後5時半、日本料理店のこどもたち・日本人スタッフと
夕食。


今晩の食事は、小麦粉の手打ちうどん(チャオ・バイン・カイン)

こどもたちはかなり大量の唐辛子を「ぶち込む」。

用事があって午後6時に出勤したヒエウさん。

今日は8人の来客あり。

スペイン人  6人
オーストラリア人 2人

午後9時15分閉店。

投稿者 koyama : 2010年11月13日 16:25

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