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2010年10月31日
「京滋YOUの会」秋の活動報告
9月から11月の京滋YOUの会の活動報告 ―
「京滋YOUの会」(京都・滋賀方面の会)の秋の活動報告を
以下に掲載します
●NPO等との協働事業「ベトナム理解講座」(国際センターと京滋YOUの会との協働)
-講演会 「ベトナムの子どもたち」- 9月26日(日)14:00~16:30
ベトナム人留学生、フィン・ゴック・チャウさんと、税田眞理子さんに講師としてきていただき、ベトナムの子ども達について話していただきました。30名ほどの参加者があり、14:00~16:30まで、講演のあと、参加者の皆さんから、「子どもの家」の活動について、たくさんの質問がでて、有意義な会となりました。
● -ベトナム語会話講座-
10/10から、毎日曜日8回にわたってとりくんでいます。チャウさん、チャンさん姉妹が講師となって、今、3回目が終わったところです。10人の参加者で、楽しく勉強中です。
●国際協力ステーション2010 10月2日、3日 京都駅ビルにて
国際センターと、JICA、そして、京都の国際協力の団体との共同の取り組みです。10/2は、駅ビルの大階段の舞台での催し、駅前広場での、体験ブースをしました。舞台では、京滋YOUの会の30分の持ち時間を、ベトナムの遊び、ダ・カウとバンブーダンスをしました。ベトナム人留学生と日本人が一緒になって又会場の人の飛び入り参加も得て楽しくベトナムの遊びを紹介しました。体験ブースでは、ベトナムの竹とんぼの色づけをしました。とてもたくさんの方がブースに来てくれました。両方とも大好評でした。
10/3は、駅ビル2階のブースで、「子どもの家」の様子を知らせるパネル展示と刺繍製品の販売をしながら、「子どもの家」を支える活動について、多くの皆さんにお話しました。
又、展示と併せて、9階の会議室での、「報告会」に参加して、「子どもの家」を支える会の活動について税田さんに話してもらいました。ここにも50名くらいの方が参加してくれました。
● TRE VIET コンサート・・・出演:チェ・ヴィエット・ファミリーバンド
10月5日(火)午後6時30~午後8時
京都府国際センターとベトナム総領事館との協働事業ですが、京滋YOUの会は、共催ということで参加しました。すばらしい、ベトナムの伝統音楽を聴かせていただきました。当日は、200名ほどの方の参加があり、とてもステキな時間を持ちました。
●エコ音楽祭に出展・・・10月10日(日)「藤の森」の公園にて
初めてのとりくみでしたが、ステキな音楽を聴きながら、刺繍製品の販売をしました。私たちの活動に関心を持ってくれる方がたくさんいました。
以上、このメールでは、簡単にどんな取り組みをしたのかだけを記しましたが、取り組みの報告の詳細を、京滋YOUの会のホームーページ(イベントを開いてください)に、写真と併せて載せていますので、是非こちらをご覧下さい。
http://www.cansoon.com/~tao/ (京滋YOUの会HP)
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10月31日(日)
終日雨・曇り 寒い。
午前8時起床。
読書「現代たばこ戦争」(伊佐山芳郎著:岩波新書)
弁護士の方の書いたの本なのでかなり記述が硬い。
部屋の掃除。洗濯3回。夏物と冬物の衣類の入れ替え。
バオミンさんと電話いくつかの件について打ち合わせ。
ストレッチ。
昨日の残りの食事を少量摂る。
心臓の薬を飲む。
筋トレ。10日間ほど続けるとかなり「上限」がアップする。
体が軽くなり、ストレッチも楽になる。
昼食を摂る食欲なし。
昼から2時間ほど昼寝。
読書「現代たばこ戦争」(伊佐山芳郎著:岩波新書)読了。
10年ちょっと前の本なので掲載されている資料は
今日からすると古いものとなるが、基本的な内容は
問題ないと思う。
①タバコの医学的問題。(肺がん・喉頭がん・心臓病・・・・)
②副流煙の大きな医学的な問題。
③禁煙をしようとしても止められない人を「根性のない人」
ということの大きな間違い。
タバコは、「ニコチン依存症」という薬物依存症と同じ
病気なのである。喫煙はけして「嗜好」ではない。
タバコ会社は、子ども・中高校生をターゲットに
TVコマーシャルなどをし、若い時期からタバコ依存症
にして、「死にいたる」まで人間を取り込む「死の商人」だ。
日本ではJTが厚生省管轄ではなく、大蔵省管轄に
なっており、税収の対象である。けして人間の命を
守る厚生省(実際は守っていないことが多いが・・・)に
なってっていない問題。
タバコ税をはらっているのだから「文句を言うな」と喫煙者の
一部の人は言っているいるが、喫煙による医療費は、タバコ税の
何倍にもなり、国家税収を圧迫している。
アメリカでは、各州がアメリカのタバコ会社にタバコのせいで
病気になった患者の医療をタバコ会社が払えとの裁判を
おこし、タバコ会社は40兆円の和解金を出している。
日本のJTもアメリカでは同様の和解金を出している。
喫煙は、個人の「好み・嗜好」の問題でなく、タバコ会社の
膨大な儲けに国民が「餌食」になっている問題がその本質
であるというのが著者の言いたいことのようである。
午後6時、昨日作った「マカロニスープ」を食べる。
日本の野球の「日本シリーズ」が地上波では中継されていない
そうだ。
私は1980代、小学校の教員をしていたが、既にその頃、
小学校では、「少年野球」は絶滅し、「少年サッカーチーム」が
学校や地域にたくさんでききていた。
既にこどもたちは野球からサッカーへシフトしていた。
私は、1980年代に「野球の時代は終わった」と思った。
こどもたちは野球に関心を持たず、三浦カズなどサッカーに
シフトしたいた。
それから30年。とうとう、私の想像した現実が到来。
地上波で「日本シリーズ」が放映されないという事態に
なった。
読売のドン「渡ツネ」や長島などにいつまでもたよっていた
野球業界の無能の結末である。
「相撲」も既に野球以上に「過去」のものになっている。
国技などといっても外国人が幕内の3分の1以上になって
いる。度重なる不祥事を何ら解決する「自浄能力」がない。
プロ野球と同じである。今まで築いた地平に「胡坐(あぐら)」
をかいていると、結局は破滅するのである。
「百術不如一誠」(ひゃくじゅつはいっせいにしかず)という
言葉がある。
いくら手先で姑息な対応策をしても駄目である。本当の
真心を持って対応する指導者がいない、野球界・相撲界
なのだ。トップが馬鹿だとこういう結果になる。
日本の政治もほぼそれに近い。
2010年10月30日
ベトナム事務所員会議:日本語学校会議
終日曇り・時々小雨
寒い。気温の急な低下。フエの気温21度。
昨年までの経験によれば気温20度を割ると寒く感じ、
「湯たんぽ」を使っていた。
疲れからか朝起きられなかった。(飲み過ぎかも知れないが・・・)
午前7時朝食。フォー。野菜をたくさん摂る様に努力している。
朝食後、簡単なストレッチ。
徒歩、ベトナム事務所へ。
午前8時半、ベトナム事務所員会議。
今週末のベトナム事務所員会議にも全員が元気に出席するを
見て感謝。確かに20歳から30前後までの皆さんなので
元気であるのは当然なのだが・・・・。
考えてみれば、一番「危ない」のは私だ。今度の誕生日が
くれば00歳となる。
(ソン)12月スタディーツアー、2011年春スタディーツアーの
計画立案。航空券等の取得業務。
(富岡)日本語学校中級ー漢字が難しくなってきた。差が出てきた。
(原田)「子どもの家」案内原稿原案作成
フエ高等師範大学3年生(次週から富岡先生に移管)
昨日、静大留学生コース(特進クラス3)入学希望生(19人)
を集め、説明。コックホック高校・グエンフエ高校・
ハイバーチュン高校のから希望者が集まったが、
授業時間を決めることができなかった。(各学校の
授業がない時間帯が異なっているため)
(古竹)フエ高等師範大学1年・2年・3年生を教える。
来週から「中間テスト」。
(フーン) 月ー日本語学校初級(反応良い)、
水ーフエ高等師範大学3年(3級試験)
金ー日本語学校特進クラス(まあまあ)
(土井) 月ー日本語学校特進クラス(良くできている)
木ーフエ高等師範大学2年生(テストの準備)
(ハン) 里親への冬のメッセージ作成準備
(里親への手紙をこどもたちが書いている)
「子どもの家」・在宅支援のこどもたち写真撮影
(フオン)特進クラス、中級の授業
(アン)こどもたちの手紙翻訳
「フェリシモ」の仕事
(ミン) たくさんのメールを受信し、返信した。
12月のスタディーツアーの準備
JASS静岡の会スタディーツアーの準備
セン「子どもの家」運営委員長と打ち合わせ
(「子どもの家」創立16周年記念式典について)
「子どもの家」から物価が上昇したので、こどもたち
の生活費、特別学習教室費用等が高騰しているので
生活費等の「値上げ」をして欲しいと要望あり。
受け入れる予定。
税田さんより連絡があった。2010年2月に
お父さんの病気看病で一時帰国していたが、
11月11日にフエに帰るとのこと。
お父さんの病気も安定しているとのことで安心した。
バンベー38号の要綱を配った。内容を説明。
それぞれの分担の部分は責任を持って原稿と
写真を用意して欲しい。
バンベー38号は、『「子どもの家」創立16周年特集』
とする。今までの「子どもの家」・ベトナム事務所に
関係した人たちに原稿をかいてもらう。
原稿の締め切りは11月15日。厳守して欲しい。
ベトナム事務所員会議終了後、日本語教師の皆さん・バオミンさん
とフエ高等師範大学日本語学科運営問題について「突っ込んで」
話をする。
徒歩宿舎へ。外は寒い。
「かび」ている冬物の洗濯。
午前11時半、昼食。チャオバインカイン(小麦粉の手打ちうどん)
その後、2時間ほど昼寝。
読書「現代たばこ戦争」(伊佐山芳郎著:岩波新書)
東京に帰っていた際、自宅付近の「BOOK OFF」で
「現代たばこ戦争」(100円・1999年著)と
「禁煙ファシズムと戦う」(小谷野敦:斉藤貴男・栗原雄一郎著)
(2005年発行) 400円)というなんとも「戦闘的な反禁煙本」
の古本があったので買った。
10年ほど前の内容ではあるが、禁煙派と反禁煙派の主張を
知りたいと思い買った。私は徹底した禁煙派なので
反禁煙グループ、特に「禁煙」をファシズムといい、戦うと
言っている人たちがどんな論拠で禁煙をファシズムと言っている
のか? また、何故、禁煙と戦闘的に闘わなければならないのか?
を知りたい。禁煙ファシズムと闘うと主張している著者の中に
私の好きな「斉藤貴男氏」が入っているので特に興味を
持った。数年前にJASS静岡の会の講演会に斉藤貴男氏
が来て講演をした。教育問題。なかなか良い内容だった。
何故、禁煙がファシズムなのか、何故、禁煙と闘うのか?
古本とは有難いものではある。岩波新書は660円 →100円
禁煙ファシズムは850円 →400円。
資本主義は本までも内容を『抜き』に商品としてしまう。
私たちの方は、内容は変らずに多少古くなっただけで
半額で買えるので有難いのではあるが・・・・。著者には
申し訳ない気がする。
第2回目の冬着の洗濯。
午後5時、徒歩で日本料理店へ。こどもたちと夕食。
午後になり、「寒気」がする。風邪の前期症状。
今晩の夕食は「三色丼」。私は食べられず、明日の朝食用に
持ち帰った。
今日は寒い。小雨。来客は7人。
午後9時前に閉店。
今日は土曜日。リー君・大塚さん・原田先生・古竹先生・富岡先生
と軽く飲む。
午後10時半、閉会。
2010年10月29日
通常業務
終日雨
寒い。今日は長袖を着た。
午前5時起床。読書「中原の虹Ⅳ」。
柔軟体操。10日間ほど続けているが、硬くなった体がかなり
ほぐれる。この10年近く、運動らしいことは何もして来なかった。
あまりに忙しく、その日、その日を過ごしてきた。
朝食。ブンボー。
メールの受信・送信。
バオミンさんと電話で当面の諸問題について話す。
筋トレも10日間ほど続けているが、最初の頃に比べると
かなりの回数を持ち上がられるようになった。
無理をしないで毎日少しずつ。この時期しか出来ない。
スタディーツアーの集中する「春」「夏」「秋の初め」は
疲労困憊状況で余裕なし。
読書「中原の虹Ⅳ」。
午前11時半昼食。ベトナム風うなぎのオジヤ。
食事の量が多いので3分の2に減らしてもらう。それでも多い。
外は雨。食後1時間半ほど昼寝。
JASS静岡の会スタディーツアーの日程、ラオスでの日程等の
検討・整理。
バンベー38号の検討。
当面の来客日程にあわせて自分の日程を調整する。
昨日からハノイで「アセアン」の会議が始まった。
菅首相もハノイにいる。
アセアン諸国に『原子力発電所』を売り込んでいる。
チェルノブイリの二の舞になる可能性濃厚。
更に原子兵器の基を作る能力を与えてしまう。
金儲けだけを考えての「首相外交」は危なっかしい。
今回のアセアンと日・中・米・韓などの首脳会議の
一つのメインテーマは『中国の尖閣列島・南沙諸島(長沙諸島)
問題』。ここでも中国の拡張主義・覇権主義が目立つ。
読書「中元の虹Ⅳ」(浅田次郎著:講談社)読了。
欧米列強の清侵略の歴史と中国の人々の様々な
思いが分かる。登場人物が非常に多い。ほぼ実在の
人物を描いているが、そうでない登場人物もいる。
浅田次郎の構成が実に面白い。場面がころころと
代わり主人公がその度に変わるが、強いて言えば、
張作霖を中心人物にし、袁世凱、清朝皇帝、西太后。
蒼穹の昴(そうきゅうのすばる)(4巻)と「珍妃の井戸」
そしてこの「中原の虹(4巻)」で清朝の滅亡とそれをとりまく
列強の侵略が分かる。本書の半分の主人公は西太后と言っても
過言ではない。西太后はありとあらゆる「悪女」のレッテルを
張られているが、浅田は、「西太后は清朝を滅ぼし、
欧米列強の侵略の餌食とならない「統一中国」が出きることを
望み、自らを「最強の悪女」にしたと描いている。
もう一人の主人公は張作霖。
蒼穹の昴、珍妃の井戸、中原の虹を通読して一番感じることは、
清朝時代も含めて中国人が国の主人公になったことは今日も
含めて一度もなかったということに尽きる。
清朝皇帝か中華民国大統領・中華帝国皇帝(袁世凱)が主権者。
国共内戦。1949年共産党が国民党との内戦に勝利し、
中華人民共和国成立。今日に至るが、その間、本当に国民が
政治の主人公・主権者になったことはない。
今日に至っても中国は「共産党一党独裁」である。清朝皇帝に
代わって中国共産党が専制支配をしている実態である。
本当の民主主義社会、国民主権の体験をしたことのない
中国である。そうした意味では、政治的に未開の部分を
包含しつつ、経済大国になっている現状の中国のいびつな
実態とその近代史を浅田は描いていると私は見た。
ベトナム人が本名とは別に必ずニックネーム
を持っている。ミンさんのお子さんだと「アルファー」「ベーター」。
通常は子どもをニックネームで呼ぶ。
浅田の本を読んで中国では「親からつけてもらった大切な名前」
を人に呼ばれるのは名前が穢れるとの意識から、
「字」が作られたとかかれている。
チャイナ・ドレスは、中国服ではなく騎馬民族である満州・女真族
の服とのこと。馬に乗りやすいように両足のモモが出るように
作られたと書かれていた。なるほど。
ホーチミン市の更に南の省にいる「イン君」(リー君の弟)
から電話あり。
12月に結婚するので招待したいとのこと。
イン君は電線の工事人の手伝いのような仕事をしている
とのこと。彼女は喫茶店に勤めているとのこと。
結婚式はホーチミンの更に南の省でするという。
短時間の電話だったが、元気に暮らしているようにイン君の
声は聞こえた。
午後5時半、日本料理店でこどもたちと夕食。
今夜の夕食は、なすの唐辛子とニンニクの漬物、豆腐料理
今晩のお客さんは「お寿司」の注文が多かった。
午後8時頃、ホーチミン市南方にいるイン君から電話。
日本料理店で働きたいとの申し入れ。
午後9時閉店。
2010年10月28日
フオン先生誕生祝い
終日雨
午前6時半起床。
軽く柔軟体操。
午前7時朝食。チャオバインカイン(キャッサバと米麺)
唐辛子を入れると美味しい。キャッサバがはいっているので
「モチモチ感」がある。
読書「中原の虹Ⅳ」(浅田次郎著)
新王朝が倒れ、孫文などが率いる「国民党」主導の
総選挙で国民党が臨時大統領袁世凱派に圧勝。
中国が新たな共和制国家に生まれ変わろうとする
矢先、実質的な国民党指導者の宋教仁が暗殺される。
一波乱が・・・・。
筋トレ。食後2時間位が一番エネルギーの消耗率が
高いそうだ。
午前9時半、徒歩、ベトナム事務所へ。
フエ大留学生で「JASS函館の会」のSさんがベトナム事務所へ。
原田先生とJASS日本語学校教師の打ち合わせ。
1週間に2回、JASS日本語学校で日本語を教えてもらう
打ち合わせ。
新婚のソン君。12月のスタディーツアー・訪問者などの
計画を作っていた。
今日はベトナム事務所のフオン先生(バオミンさんの従兄弟)
の誕生日。何度目の誕生日かは分からない。
古竹先生を中心に今日の誕生会を密かに準備。
誕生祝の「HAPPY BIRTH DAY」の歌を歌い、
その後、恒例のお茶会。
ベトナム事務所員全員の寄せ書きをプレゼント
1時間ほど、お茶などを飲みながら歓談。
ベトナム事務所は、「和」を一番大事にしている。
午前11時半、昼食。
その後1時間半ほど昼寝。
読書「中原の虹Ⅳ」(浅田次郎著)
多数のメール受信。必要な送信。
バオミンさんと電話で日本料理店のこどもたちの
給料値上げの件を打ち合わせ。
午後5時半、徒歩、日本料理店へ。こどもたちと夕食
チャオ・バイン・カイン(小麦粉の煮込みうどん)
こどもたちは唐辛子をたくさん「ぶち込む」。
どんぶりは「真っ赤」。日本人は辛くて食べられない。
こどもたちのチャオバインカイン(多量の唐辛子入り)
日本人のチャオバインカイン(少量の唐辛子入り)
今日は雨。
午後9時までに4人の来客。
午後9時過ぎ閉店。
2010年10月27日
バンベー38号編集会議
終日曇り雨。湿度高し。
蒸し暑く気分が優れない。
午前5時起床。読書「中原の虹Ⅳ」(浅田次郎)
清朝崩壊。孫文の革命政府樹立も袁世凱が、
実権を奪取。
柔軟体操。以前は、両手を回すことができなかった。
柔軟体操で両手を回したりと体の柔軟さを保持する。
毎日継続することが「鍵」。
午前7時朝食。フォー。生野菜(ミント、もやし、どくだみ・・・)
をたっぷり入れる。
お米のご飯ではないが、栄養学上では、米を食べたことに
なる。
午前8時半。筋トレ。6キロのバーベルで腕、膝などの
強化。高校時代陸上部でバーベル・ダンベルを使っての
筋トレをした経験が意外な時に生きてきた。
まだ、筋肉痛が残る。回数と負荷を徐々に増やしている。
午前9時半、徒歩でベトナム事務所へ。
リー君を呼んで昨夜の日本料理店での出来事を注意。
昨日、リー君は酒を飲んで2時間半も遅刻し、午後5時に
日本料理店に出勤。
呼び出して事情を聞き、注意。リー君の言い訳は、
友達の誕生日だったので、参加した。事前に
日本料理店のヒエウさんに連絡しておいた・・。
私。友達の誕生日パーティーでいちいち仕事を休んで
いては、他の日本料理店のスタッフに迷惑。
更に日本料理店の責任者(バオミンさん・大塚さん)に
きちんと連絡し、許可をもらわなければならない。
ヒエンさん(一番年下)に連絡したなどと言っても
単なる言い訳に過ぎない。
仕事には、責任が伴う。リー君が2時間半遅刻をすれば
接客係りのグエットさんが日本料理店の掃除や準備を
一人でしなければならない。人に迷惑をかけるような
生活の仕方は、良くない。24歳になったのだから、自分だけの
ことを考えずに、日本料理店全体のことをいつも考えて
行動するように。更に、飲酒で勤務は絶対に許さない。
バオミンさんと二人でリー君の勝手な行動を厳しく注意した。
本人も一応は「分かりました・・・」と言ってはいたが、
何度、同じことを繰り返しているのか? トホホ・・・・・。
午前10時過ぎ、バオミンさん・原田先生と「バンベー38号」
の掲載内容について協議。既にバオミンさんが、計画私案を
作っていた。バオミンさんの計画私案に基づき、意見を言う。
今後は、ベトナム人スタッフだけでバンベーの計画・編集・
発行ができるようにしていきたい。
私の方から一つの意見をだす。いままでの形式を
変えて新しい雰囲気の紙面にいたい。具体的な
提案をする。
午前11時半昼食。
ご飯、野菜スープ、サラダ、魚の甘辛煮
食後、1時間半ほど昼寝。今日は気温が低く、湿度が高い。
気分が悪くなるほどの気候。体が疲れる。熟睡。
午後2時半、読書「中原の虹Ⅳ』(浅田次郎著)
大塚さんから電話あり。日本料理店のヒエウさんが
退職したいと言っている、直ぐ日本料理店に来て欲しいとのこと。
急いで徒歩、日本料理店へ。
バオミンさんも入れて、ヒエウさん(18歳)、大塚さん、私で
話し合う。
ヒエウさんは、4歳で「子どもの家」に入所。3年前から
日本料理店に勤務。昨年、「子どもの家」を退所し、母親
と同居。母親は「天秤棒」にガムや駄菓子を載せて町中を
売り歩いている。1日の収入が2万ドン(100円)。
ホーチミン市にいる叔母さん(母親の妹)から、ホーチミン市
の縫製工場に来れば「いい生活が出きるよ」と言われたの
でホーチミン市に行き、「縫製工場」の研修生になる、との
こと。
私、大塚さん、バオミンさんで、「ホーチミン市の縫製工場
の研修生になっても給料は安く、ホーチミン市の物価は
フエの2倍もあり、家賃もフエの2倍。
日本料理店での生活よりもホーチミン市に行けば、苦しく
なる。フエでの日本料理店でコツコツと日本料理を勉強し
しっかりと日本料理を覚えたほうが良い。11月から
給料も上げることになっているのだから、日本料理店
に残るように」と説得する。
私や大塚さん、バオミンさんの考えでは、①ホーチミン市に
行く。ヒエウさんの憧れの大都会。ホーチミン市に行けば
自分の欲望が全て満たされると錯覚する大都会。
②しかし、現実は縫製工場の正社員ではなく、研修生。
ヒエンさんはミシンを使えない。結局、超低級の給料しか
もらえない。③給料が安く、生活出来ないことを知った
ヒエウさんは、「水商売」に転向(100%その可能性あり)
ということで、結局、ヒエウさんのホーチミン市行きは、
ヒエンさんが「身を持ち崩す」最短距離でもあることが分かる。
ヒエウさんは18歳。社会を何も知らない。私、大塚さん
バオミンさんで必至に「社会はそんな甘くない」「ホーチミン市
に行っても結局は手に職もないヒエウさんの将来は切り開けない」
と話す。
1時間程話し、最終的には「分かりました」とのこと。
今回のヒエウさんのホーチミン市行きは、一応断念したことになるが、
いつ、ヒエウさんのホーチミン市行きが再燃するかは分からない。
ベトナム社会の急激な変化。貧富の格差。ホーチミン市や
ハノイなど大都市の繁栄とその影で「豊かさを見てしまった
多くの貧しい人々の苦悩」という、現在のベトナム社会の根本矛盾
を反映した、ヒエウさんとの話し合いであった。
フエも都会。ヒエウさんの周りには親が共産党の幹部や一時成金
のこどもたちがウヨウヨいる。そうしたこどもたちや友達を
見ているヒエウさんに取って、現在の母親との貧しい生活が
我慢ならない気持ちは良く分かる。しかし、そうした気持ちを
自分でコントロールする人間性を持たなければ、急激に
貧富の格差が増大するベトナム社会、特に都会では生きて
いけない。リー君もヒエウさんも自分の生い立ちと置かれている
客観的な事実と存在をしっかりと認識し、「大地に足をついた」
生き方を身につけて欲しいものだ。
私はフエで17年間、こどもたちと付き合っている。
戦争などで避難生活している「緊急支援」の意義は否定しない。
しかし、緊急支援で「命は取りとめた」ものの、その後の長い
人生をどう生きるのか、という大きな問題が残る。
イラク戦争の開始時にイラクに行き、ストリートチルドレンを
助けると言った某女性がいた。2回、私たちの「子どもの家」で
活動した方だ。緊急時にイラクのこどもたちを助けたいという
気持ちに私は共感を持つ。当時の自民党の大臣が、
彼女を非難した。彼女を高く評価したのは、侵略者の
アメリカのブッシュ大統領だったことも皮肉なことではある。
緊急支援はそれなりに重要である。しかし、問題は、
こどもたちはその後も生きて「人生を歩んでいる」という
事実である。極一時(ごくいっとき)、支援をすることも否定
はしないが、結局、私たちが本当にしたいことは、こどもたちに
幸せな人生を送って欲しいということである。人間教育である。
諸般の事情で幸せな人生を歩めないこどもたちに長い時間と
労力をかけて「教育と陶冶」をすることこそ本当のNGO.
海外ボランティアの仕事だと思っている。
今日のリー君ヤヒエウさんとの話・・・・・。
イラク戦争の時に戦場に入り、ストリートチルドレンを支援する
との行動をすれば、それなりに「目立つ」が、その後のこどもたち
の長期的な成長と幸せな人生を考えれば、イラク戦争の時に
イラクに行き、捕まった某女性などは今こそ、イラクに常駐し
ストリートチルドレンなどの長い人生を構築する闘いをすべき
であるなどと考えてしまう。日本で「海外支援の専門家」
などと講演会をしている現状を見てがっかりしている。
本物ではない。
午後5時半、日本料理店でこどもたち・日本語教師との
皆さんと夕食。
外は雨。時々豪雨。
午後6時頃から来客はあり、午後9時過ぎまでに
21人のお客さんとなった。
現在、フエの観光は「OFF」シーズン。隣りの精進料理屋、
前のベトナムレストランなどはほとんど来客なし。
今日はお寿司、太巻き類が多く出た。
来客のほとんどは、欧米系。
ドイツ人、ベルギー人、オランダ人、オーストラリア人、
アイルランド人、タイ人、台湾、フランス人、ベトナム人・・・・。
今日は調理主任のトゥオイさんが休み。調理が2人となり
21人の来客の調理は大変だったが、大塚さん、富岡先生、
原田先生、古竹先生、土井先生の奮闘で何とか、
21人の料理を出すことができた。
今年は、日本料理店の来客が過去最高となっている。
午後9時半、外は豪雨。皆さんしばらく雨が鎮まるのまち
帰る。
2010年10月26日
通常業務
朝小雨 昼から晴天 夕方雨
気温の変化が大きい。終日「頭痛」。
午前5時起床。読書「中原の虹Ⅲ」(浅田次郎著)
柔軟体操
午前7時朝食。豆入りのおかゆ。消化に良い。飲みすぎの
翌日には最適。いわしと小魚の甘辛煮。
筋トレ。多少筋肉痛の傾向あり。
午前中、バオミンさんと電話で打ち合わせ。
ハンさんと冬の里親への手紙の件、退所したこどもたちの
件などで打ち合わせ。
メール受信・送信。
ブライセンと電話で打ち合わせ。
午前11時半昼食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の上打ちうどん)
私は「ブンボー」の次に「チャオ・バイン・カイン」が好きだ。
1時間半昼寝。フエに戻って1週間。スタディーツアーの訪問者も
なく、ゆっくりと過ごすことが出きる。疲労も少しずつ取れる。
精神的にゆとりがでてきた。体調管理に精神を割り当てる
余裕が出た。
読書「中原の虹Ⅲ」(浅田次郎)読了。
清王朝の12代目皇帝『溥儀』が廃帝の詔を発する。
事実上、清王朝壊滅。孫文の「革命団」、張作霖などの
対立構図となる。
午後5時半、日本料理店で夕食。
7人の来客あり。英国、イスラエル(3人の男性。パレスチナ問題、
特にハマス問題を話し合っていた)
ドイツ人、日本人・・・・。
午後9時40分閉店。
2010年10月25日
通常業務
快晴 真夏日
午前5時起床。読書「中原の虹(Ⅲ)」(浅田次郎)
柔軟体操。
午前7時朝食。ブンボー。
火炎樹日記に「日比谷フェスタ」の記事を掲載。
筋力トレーニング。腕、胸、足を中心にメニューを作り、
少しずつ実施。最初から強くすると「筋肉痛」になる。
読書「中原の虹(Ⅲ)。
バオミンさんと電話で打ち合わせ。
ハンさんと電話打ち合わせ。
午前11時半昼食。マカロニスープ。
量が多くて食べきれない。
1時間半ほど昼寝。昨日のリー君父親宅訪問の
疲れが残る。
読書「中原の虹(Ⅲ)」
内容に引き込まれる。袁世凱そして中心人物の一人
張作霖・息子の張学良などが出てくる。
中国という広大な国土と多くの人口を抱えた他民族国家の
統一の難しさを知る。たった30万人の満州族が数億人の
漢族を支配した時代が清朝。清朝のラストエンペラー「溥儀」
も5歳で皇帝となり登場する。
作者浅田次郎は、西太后を清朝の最後を演出した英傑として
描いている。
満州という言葉が「文殊菩薩」の文殊から来ていることを知る。
満州族は文殊菩薩を崇拝していた。
また、「黄土色(おうどいろ)」という色が、日本が中国侵略を
企み(たくらみ)それまでの黒服の軍服から、黄砂の中国に
合う軍服として黄土色の軍服にしたことも知る。
日清・日露戦争では軍服は黒だった。黒い軍服は「狙われ」やすい。
そこで中国の黄砂の色に似せて作った軍服の色が「黄土色」。
つまり黄砂の色である。
昭和の戦争の映画などを見ると何となく冴えない色の軍服の
兵隊が出てくる。黄土色の日本軍。中国の色に馴染ませて
作った軍服。黄土色は、軍服の色から来た色。
12月、スタディーツアーでフエに来るいくつかの団体に
メール。
受信メールへの返信。
午後4時半、ベトナム事務所へ。
今日はブライセンベトナム支社の給料日。
給料を一人一人手渡す。
午後5時半、夕食。
昨日、リー君の父親の家へ行った。地鶏の有精卵をもらう。
原田先生・富岡先生たちが、ぶっかけご飯で食べる。
今日は米・カナダ・NZなどの大学生連合11人の予約あり。
午後7時過ぎ、11人の欧米系の大学生が来店。
そのほか、NZ、フランスなど合計17人来店。
一度に注文が殺到したので午後8時半に入店を打ち切る。
入店を打ち切った後8人の来店あり。
こどもたちの負担を考え、オーバーワークになりそうなので
途中で入店をやめにした。
原田先生・富岡先生たちもたくさんの来店があり
奮闘。
接客係りのグエットさんも大忙し
今日はかなりの「売り上げ」があった。
午後9時閉店。
第10回「日比谷グローバルフェスタ報告」(JASS東京の会)
10月2・3日、毎年恒例の「日比谷グローバルフェスタ」に参加し
ました。グローバルフェスタは「JASS東京の会」にとって1年の中で
最大のイベントです。今年は、去年に引き続き料理ブースで
「バイン・ミー・サンドイッチ(ベトナム風焼き肉ドッグ)」と
「ベトナムコーヒー」を販売。
(料理ブース)
昨年までフエの日本語学校がフエ高等師範大学
で日本語を教えていたI先生も参加。また、常連の
TさんKさんも参加。
大学受験勉強中のM君(今春、日本料理店で手伝いをしてくれた)
や以前、フエの日本語学校で日本語を教えてくたSさんも
奮闘
「バインミー・サンドイッチ」や「ベトナムコーヒー」を宣伝する
Aおじさん。男性用アオザイを着ての奮闘
展示ブースでは刺繍やベトナム雑貨等
の販売とJASSの活動についてのパネルを展示し説明。
(JASSの宣伝・呼び込み中のIさん)
Iさんは、上野動物園の英語ガイドをしているので
フェスタに参加した外国人に「JASSの宣伝」を上手に
していた。
(展示ブース)
そしてメイン
は昨年より始めた『フエの景色の前でアオザイを着て写真を撮ろう!』
という企画と、それに加えて今年は『ベトナムの結婚式を体験しよう!』
ということで、ソン君とメンちゃんの結婚式の写真をお借りして、
ベトナムの結婚式を体験してもらう企画を行いました(この場を借りて
お2人にお礼を言いたいと思います。ありがとうございました)。
2日間とも晴天に恵まれたことや、昨年よりもブースの位置が
良かったこと、また年々良くなっている(であろう)ブースのレイアウト
の効果で、料理ブースと展示ブースの売上は前年比プラス10万円の、
合計30万円以上となりました!全員の協力と努力の結果だと思い
ます。
また、今年はお客さんの投票による“グローバル・グルメグランプリ”
という企画があり、なんと我が会の「バイン・ミーサンドイッチ」が
グランプリに選ばれました!!予想もしなかった結果にとても驚いて
いますが、これも努力の賜物、次回集まった時にみんなで
お祝いしたいと思います。
今年は売上アップやグルメグランプリに選ばれる等嬉しいことが続き
ましたが、それ以上にまた新しいメンバーも増え、いつも通り楽しく、
無理をせず、会のモットーである“それぞれが出来る範囲で出来る
こと”を出来たことが良かったと思います。これからもこのモットーの
もとに、楽しく活動していきたいと思います。
(追伸)なお 第1回「日比谷フェスタ」の総合NGOグランプリは
JASSが受賞しています。「2001 プロジェクト オブ ザ イヤー」。
(JASS東京の会会長 松下安希子)
2010年10月24日
リー君の父親の家へ行く
終日、真夏のような暑さ。快晴
午前5時起床。読書「中原の虹(Ⅱ)」(浅田次郎著)読了
午前6時半、昨日の「春雨麺」の残りを軽く朝食。
柔軟体操。バーベルで筋力トレーニング。
部屋の掃除。洗濯。
午前10時、日本料理店へ。今日は、リー君の父親が
住んでいるフエ空港付近の農家を訪問する。
日本料理店のこどもたち、大塚さん、日本人教師全員。
車で20分ほどでリー君の父親が住んでいる農村へ。
父親はアヒルを2000羽飼育している。
父親の家の近くまで車で入ったが、雨季で水が増水。
父親の家は「陸の孤島」さながら、周りを水で囲まれて
しまい孤立状態。
仕方がないので舟でリー君の父親の家まで行く。
リー君の5歳の弟が出迎えてくれる。
リー君の子どもの頃の顔にそっくり。
早速、ニワトリ3羽、アヒル2羽を捌く(さばく)。
リー君と日本料理店のこどもたちは生きたニワトリやアヒルを
捌く専門家。なかなか手際よく「息の根」を止め、熱湯に
つけて羽根をむしり、捌いていた。
私は「怖い」ので「捌き業務」には従事せず。
富岡先生は、積極的に「捌き業務」に従事。
日本料理店のチャンさんも
台所には「豚小屋」があり、いかつい大豚がいた。
にらみ付けられると「食われて」しまいそうな迫力がある。
船便の第2弾で原田先生、土井先生がリー君のお父さんの
船頭さんで到着。
日本料理店のこどもたち、大塚さん・富岡先生・古竹先生・土井先生
たちが料理。
リー君の家庭は複雑。父親は、57歳。二人目の奥さんの
家に住んでいる。子どもが二人いる。5歳と2歳。
リー君の父親の家の周りは湖のよう
湖の真ん中に家が1軒建っているような感じである。
「リー君のお父さんの家」と紹介はしたが、実際には、
お父さんの2番目の奥さんの亡くなった夫の家。
家には、リー君の2番目の奥さんの義父、義母、
亡くなった夫の子ども2人とリー君の父親の
子ども2人がいる。土地や家は義父の所有。
平たく言えば、病気で2人の子どもを残して
亡くなった夫の家へ、リー君のお父さんが転がり込んだ
ともいえる。そして、未亡人との間に2人の子どもができた。
75歳の農民だった義父。矍鑠(かくしゃく)としている。
農民の体である。
リー君の兄弟。
二人はリー君の血の繋がった弟と妹。2人は、奥さんの
亡くなった夫の子ども。
リー君とお父さん。リー君はお父さんが大好きだ。
57歳のお父さん。2歳、5歳、小学生2人と4人の
お父さんであり、23歳のリー君と20歳のイン君の
お父さんでもある。なかなか精力的且つ怪しい魅力のある
お父さん。
リー君の弟。あまりにリー君の子どもの頃ににているの
驚く。
私が初めてリー君の会ったのは、16年前。リー君が
6歳の時である。丁度、今の弟(5歳)位の頃だ。
路上を野生の狼のように鋭い目つきをして動き回って
いた。
リー君は子どもが大好き。弟を本当に父親のような
顔で可愛がっていた。
元気だったニワトリさんの最後の姿。捌きたての鶏肉は
美味しい。
私は捌くところを見てしまったので、食欲減退。
もっぱらビールを飲んでいた。
捌いたニワトリやオヒルの血を塩などで固めて茹でた。
私は箸が動かなかった。
おこわ(もち米に豆)。日本のお赤飯の原点。
豚肉の脂の乗っている部分を茹でて、脂を落とした。
美味しい。豚肉の「とろっと」としたところがなんともいえない。
ベトナム事務所の日本人スタッフもご馳走に「舌鼓」を
打っていた。
リー君の弟・妹も一緒に食事をする。
リー君の義理の祖母と異父兄弟。
原田先生。リー君の父親とベトナム語の歌を上手に歌う。
どこで覚えたのか?
土井先生。めったに出来ない体験に驚いたのか?
堪能したのか? は不明。
リー君のこんな良い笑顔はなかなか見られない。
いつも何かイライラしていることが多い。
やはり父親・弟・妹など肉親と一緒にいる時は
心休まる時なのだ。リー君の23年の人生を考えてしまう。
リー君が幸せな人生を送ってくれることを心から祈っている。
今日のニワトリを捌くところから、全ての料理は日本料理店の
こどもたちが作った。20歳前後のこどもたちが、これだけの
料理を作れることに驚かされる。日本の若者はどうなのか?
勉強はしているのかも知れないが、生きたニワトリを捌き、
これだけの料理を作ることは出来ない。
日本の学校教育は益々「学力」「学力」へと傾斜して行っている。
百マス計算、公文、塾、進学教室は大流行(おおはやり)である。
中卒の日本料理店のこどもたちであるが、
「生きる力」「生活力」は日本のこどもたち・若者を凌駕(りょうが)
している。
こうして家族、来客が車座になって食事をする。家庭の原点を
感じた。
大塚さんからリー君の弟・妹にお土産贈呈
私は引き続きリー君のお父さんとビールを飲んでいたが、
日本料理店のこどもたちは、湖で「舟遊び」をしていた。
リー君の5歳の弟を膝に抱いてビールを飲む。
この弟もリー君の気質を引き継いであるのか、なかなか
ヤンチャである。人の言うことを聞かない。
台所は薪(まき)。料理も美味しいはず。
午後3時過ぎ、閉会。
再び舟に乗って陸に上がり、車でベトナム事務所まで帰る。
私は直ぐに宿舎に帰り眠る。
午後5時過ぎ目覚める。今日は正直「捌き(さばき)行為」
を目撃してしまったので食欲なし。飲欲のみあり。
ほとんど食事をしないでビールだけ飲んでいた。
かなり酔った。
午後7時過ぎから火炎樹日記を書く。
日本の支援者に何通かメールを送信。
2010年10月23日
ベトナム事務所員会議:「子どもの家」退所式
快晴 気温高し
午前5時起床。
読書「中原の虹(2)」(浅田次郎著)
軽く柔軟体操。
午前7時朝食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の煮込みうどん)
美味しい。唐辛子をたくさん入れて食べる。
午前8時半、ベトナム事務所員会議。
1ヶ月振りのベトナム事務所員会議である。
11人のベトナム事務所員皆さんが元気であることに感謝。
始めにバオミン運営委員長から挨拶。
「1週間ほど日本へ行っていた。「フェリシモ」の仕事の打ち合わせ、
フエ市人民委員会スタッフとして「第12回世界歴史都市連盟総会」
に出席。フエ市が2012年の第13回総会主催都市になることに
決定した、そのために頑張った・・・」などの報告あり。
(ソン)古竹先生のビザ延長の手続き
ツアー案内の練習。ナムドン、列車の件、枯葉剤のこと
などを原田先生の指導を受けて、お客さんに説明できる
よう日本語の勉強をした。
(原田)フエ高等師範大学の作文指導(ひらがな、カタカナ・・)
テストの採点。一人一人出来るだけ丁寧に採点した。
フエの風土病のような湿疹になった。抵抗力が
落ちた時、気候の急激な変化が加わるとなるという。
治療し完治した。
(富岡) 日本語学校の教育
フエ高等師範大学の教育(今週から一人で授業をした)
(フーン)特進クラス、初級クラス、フエ高等師範大学
フオン先生と授業を交換し、お互い授業を見て批評を
し合った。
(古竹)フエ高等師範大学(2年生・3年生の授業)作文。
字の間違い(ひらがな、カタカナ)が多かった。
フエ高等師範大学日本語学科の新任ベトナム人教師の
授業を観た。
(フオン)日本語学校の特進クラス、中級
(土井)日本語学校の特進クラス フエ高等師範大学2年生の
会話の授業。フエでの生活、日本語教師の仕事に
慣れてきた。
(ハン)こどもたちの手紙の翻訳
月給支給の準備
(アン)「フェリシモ」の仕事
日本語の勉強をした。
(ミン)12月にはいくつかのスタディーツアーが来る。
全教、JASS静岡の会、内田さん、地球の歩き方ミニツアー
大学生協・・・・・
現在、日程の調整をしている。
昨日、地域の警察がベトナム事務所に来た。
以下、フエ警察からJASSへの情報提供。
・10月20日(水)午後8時頃、シクロに男女の外国人
が乗った。無料で町を案内すると言って乗せた。
町を一回りし、2人の外国人は無料では申し訳ないと
思い、サイフを出して適当なお礼を支払おうとしたら
シクロはサイフ(200ドル程在中)を奪い逃走。現在捜査中。
・バイクタクシーに外国人が乗った。フエ郊外の
飲み屋に連れて行かれ、ビールを2~3本飲んだら
100ドル請求され、怖いので支払った。
(以下、私のコメント)
最近、上記のようなシクロ、オートバイタクシーの
犯罪がフエで多発している。JASSが被害にあわない
ように情報を提供したいとのこと。
警察がわざわざこの種の情報を知らせてくれるのは
有難いことである。
日本人の個人訪問者がよくベトナム事務所に来る。
彼らの多くはこの種の犯罪については、全く無知で
あり、警戒心もない。私はかなり個人訪問者に
この種の事件があるので注意するようにいうのだが、
ほとんどの若者訪問者は、「小山さんは大げさ」
「ベトナム人は、笑顔で目が澄んでいる」などと
のどかなことを言って、私の注意を聞かない人が
多い。若い女性がオートバイタクシーに乗り、
フエの郊外に連れて行かれ、被害にあった実例も
知っている。
経済成長と「豊かさ」は同時に『目の澄んだベトナム人』
をも犯罪に駆り立てる。
ベトナム事務所員会議終了後、長野県小諸市の
ソバ打ちのAさんがベトナム事務所へ来訪。
今年、富岡先生のお父さんと一緒にフエ高等師範大学などで
「ソバ打ち」の指揮をしてくれた。
同時並行で日本語教師会議。
JASS函館の会員でフエ大に交換留学生で来ているBさん
も出席。日本語学校で日本語教育を手伝ってくれている。
私は直ぐにバオミンさんと一緒に「子どもの家」へ行こうとしたら
リー君がベトナム事務所前にいた。まだ午前10時過ぎだ。
日本料理店の勤務は午後2時半開始なのに。
リー君の世界はベトナム事務所と日本料理店だけのようだ。
仕事があってもなくても、いつもベトナム事務所の近くに
いる。
私が3週間日本に行っている間に「寅さん」のように
リー君の何度目かの恋愛もはかなく終わっていた。
が、リー君は全く失恋にめげず、新たな恋に挑戦している。
闘争心旺盛な若者である。23歳になった。
「子どもの家」到着。
日本でバオミンさんが里親のNさんから預かった里子の
ターオさんへのお土産を渡す。
セン「子どもの家」運営委員長、ロック寮長、私、バオミンさん
が参加し、THANH(タイン)さん(19歳)の退所式を行う。
タインさんは10年間「子どもの家」に在籍した。
なかなか複雑な家庭事情があった。
父親は二人の奥さんがいた。最初の奥さんの子どもが
今日、THANHさんの身元引受人となってる人。
二人目の奥さんの子どもがTHANHさんである。
姉妹ではあるが、年齢は親子ほども違う。
THANHさんを産んだ若いお母さんは、出産がうまく行かず
THANHさんを産む際に死亡。その後、父親も死亡。
THANHさんは両親がいなく、2番目の奥さんの子ども
3人兄弟で10年前に「子どもの家」に入所した。
既に上の二人は退所し、自立して生活している。
THANHさんは今年高校を卒業し、大学受験したが失敗。
ホーチミン市より更に南にある「ブンタオ」に伯父さんがいる。
小さな縫製工場をしている。この伯父さんがTHANHさんを
引き受け、会計学校へ2年行かせ、その後縫製工場の
会計とするので引き取るとのこと。
どうみても親子に見えるTHANHさん姉妹。
THANHさんは、叔母さんと言っているが・・・・
(セン運営委員長)
THANHさんの家族から退所させたいとの手紙をもらった。
今日は親戚の代表(お姉さん)も参加し、退所式を行う。
10年間「子どもの家」で過ごした。高校も卒業し、大学受験も
した。JASSや「子どもの家」の先生にお世話になったことを
忘れないように。これからは、自分の力で生きていくように
頑張って欲しい。THANHさんは「わがまま」な性格のところが
あるので、直しなさい。
THANHさんの幸せな人生を祈っている。
(小山)THNAHさんは、退所することに同意しているの?
(THANH)私もブンタオに行って、会計学校で勉強し、
経理の仕事をしたと想っている。
THANHさんがお礼と退所の挨拶をする。
JASSや「子どもの家」の先生方のお世話で10年間「子どもの家」
で生活させてもらった。高校も卒業させてもらい感謝している。
これからは、ブンタオの叔父さんの家で生活し、会計の勉強を
し、頑張って生きて行きたい。ありがとうございます。
(お姉さん)
家族・親戚を代表してお礼を言いたい。3人のこどもたちを
「子どもの家」で面倒見てもらい感謝している。
私が3人のこどもたちを「子どもの家」に連れてきた時には
3人ともまだ小さなこどもだった。高校にも入れてもらい
感謝している。里親の方にも宜しくお伝えください。
10年間の「子どもの家」での生活は長い。新しい生活や環境に
慣れるまでは大変こともあろうかと思うが「頑張って」としか
言いようがない。こうして一人また一人と長い付き合いの
こどもたちが自立していく。
私たちのフエでの取り組みは、こどもたちがきちんと自立するまで
根気良く、時間をかけてこどもたちと付き合うことである。
THANHさんの幸せな人生を祈りたい。
9月21日、自宅を訪問し入所希望の確認、家庭環境の調査など
した兄妹がすっかり「子どもの家」にも慣れて生活していた。
こどもたちの生活適応能力の速さを実感した。
以下、9月21日農村の家庭訪問をした際の「兄妹」は
少しビクビクした感じがあった。
入所して1ヶ月ほどの二人は明るく元気だった。
「子どもの家」のチュン君は8年生(日本の中2)になった。
午前11時半昼食。「春雨麺」
午後12時半から1時間半昼寝。
読書「中原の虹(Ⅱ)」(浅田次郎著)
メールの受信・送信。
午後5時過ぎ、日本料理店へ。
こどもたち・日本語教師・大塚さんと夕食。
来客多し。
午後9時半、閉店。
宿舎徒歩帰宅午後9時50分。
平常業務
終日晴天
午前5時起床。
読書「中原の虹(2)」
簡単な運動。
午前7時朝食。
今日はベトナムの「精進料理」を食べる日。
午前89時ベトナム事務所へ。
バオミンさんと当面の諸問題を話し合う。
午前11時半、昼食。アヒルの肉のおかゆ。
バーベルを使った「筋肉トレーニング」。
高校時代陸上部で筋トレをやった経験が生かされる。
腕、ももなどの筋肉の衰えを強化する。
午後12時半から1時間半昼寝。
まだ訪日の疲れが取れていない。
読書「中原の虹(2)」。学ぶべきこと多し。
ピースインツーに電話。JASS静岡スタディーツアーの
打ち合わせ。
バオミンさん・ハンさんと電話に「ベトナムのプライバシー」法律
の件で電話。
午後5時、ベトナム事務所へ。
バオミンさんと「ベトナムのプライバシー法」の翻訳の
不明な点について話し合う。
午後7時。小諸のA氏が日本料理店に来る予定だった。
私と富岡先生が待っていたが来訪せず。
多数の来客あり。
私、原田先生・富岡先生・土井先生で軽くフダ生ビールを
飲む。大塚さんが「ごぼうテンプラ」「水餃子」「焼き餃子」を
作ってくれる。
リー君は「世界偉人伝」を読んでいた。どういう訳か、
伊藤博文も載っていた。
午後9時半、最後の来客であるニュージランド、オランダ
の人たちが帰る。
午後9時45分、閉店。帰宅。
部屋でフダ缶ビール1本。ラオス・ラオディーの「ラム酒」を
飲みながら日記を書く。
昨日から日記に写真が掲載できなった。私の技術力の
不足もある。様々な方途を駆使し、何とか通常の方法ではなく
日記に写真をアップする途を見つけ、日記に写真を掲載。
2010年10月21日
平常業務
昼間晴れ。夜雨
気候の変動大きい。
午前7時朝食。フォー。
バオミンさんから電話。
午前8時半、散髪。
午前11時半昼食。
マカロニスープ。
1時間昼寝。
「中原の虹(1)」(浅田次郎著)読了
引き続き(2)を読む。
午後5時過ぎ日本料理店へ。
こどもたちと夕食。
夕食は小麦粉の煮込みうどん。
日本料理店のこどもたちは唐辛子を「かけまくる」。
こどもたちのチャオ・バイン・カイン。唐辛子で「まっかっか」。
原田先生のチャオ・バイン・カイン
日本人3人の旅行客あり。団塊の世代の女性。
25年前、ネパールに一緒に旅行して以来、
一緒に外国旅行に行っているとのこと。
14人の来客。
午後9時閉店。
外は雨。徒歩で宿舎へ帰る。
2010年10月20日
ベトナム事務所・日本料理店給料日
曇り時々晴れ
午前6時起床。
午前7時朝食。おかゆ。
宿舎のパソコンに静大に留学した学生・内田さんと一緒に
写した写真を貼る
午前8時半、ベトナム事務所。
今日はベトナム事務所の給料日。
ベトナム事務所員に給料を渡す。
午前11時半、昼食。
1時間ほど昼寝。
読書「中原の虹(1)」(浅田次郎:講談社)
メール受信・送信。
バオミンさんから電話。体調を崩し、勤務困難とのこと。
日本での1週間の活動が相当無理だったことが分かる。
しばらく休養するようにはなす。
午後5時過ぎ、日本料理店へ。
日本料理店のこどもたちに給料を渡す。
午後5時半から夕食。
日本人、欧米系の来客あり。
午後9時前閉店。
2010年10月19日
フエ仕事開始初日
雨・時々曇り
午前6時起床。
血圧測定その他のルーティン。
午前7時、朝食。「ブンボー」。
メール受信・送信
午前9時、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所の皆さんとは3週間振りの対面
皆さん、熱心に仕事をしている。
バオミンさん・ハンさんに「日本からの支援金」「奨学金」
などを渡す。
その後、バオミンさんと当面の諸問題を協議。
小雨。
午前11時半、昼食。
小麦粉の煮込みうどん。
午後12時半から1時間半昼寝。
日本での活動の疲れが出る。
午後2時。読書「中原の虹(1)」(浅田次郎著:講談社)
満州某重大事件で日本軍に爆殺された張作霖の物語。
午後5時過ぎ、徒歩、日本料理店へ。
こどもたち・日本語教師・大塚さんたちと夕食。
富岡先生は日本語学校。
来客あり。
午後9時閉店。
2010年10月18日
ベトナム・フエ「帰国」
午前5時起床。
シャワーを浴び、目を覚ます。
フエ帰国荷物最終チェック。
「最終チェック一覧表」に基づき、パスポートなど必要な
ものをチェック。
午前6時半、自宅を出て日暮里駅へ。
京成日暮里でトーストとコーヒーで朝食。
午前9時、成田空港駅到着。
順調にチェックイン、出国手続きを行い、午前9時半
ホーチミン市行きの待合室へ。
午前10時45分(15分遅れ)で成田を発つ。
機中で「読書「完本 戒老録ー自ら救いのために」
(曽野 綾子著:祥伝社黄金文庫)で読了。
90%同じ意見。
午後2時40分(日本時間午後4時40分)ホーチミン空港着。
気温32度。
出国手続きもスムースに進む。
フエ行きのチェックインも無事終了。
今日は、何も問題なくフエへ帰れるかな?と甘い願望を
抱いたが、そこがベトナム。ホーチミン →フエ行きの
飛行機が1時間半遅れる。
結局、ホーチミン空港で4時間近く待たされる。
読書「中原の虹(1)」(浅田次郎著;講談社)を読み始める。
午後7時15分、ホーチミン市を出発。
午後8時半、フエ空港到着。
フエは豪雨。
豪雨の中、空港から急いで宿舎に寄り荷物を置いて、
日本料理店へ。既に9時半近くになっていた。
最後のお客さんが数人いた。
こどもたち・ベトナム事務所日本人スタッフの皆さん、
元気に生活をしていたのでほっとした。
日本料理店のこどもたちも大塚さんの指導の下で
元気に仕事をしていた。
こどもたちは午後9時半過ぎに仕事を終わり帰宅。
日本人スタッフで若干交流会。
雨の中、午後11時前に日本料理店を出る。
途中、徒歩で帰っていると突然リー君がオートバイで
近づいて来て「近くまで送ります」とのこと。
リー君のオートバイに乗り、帰宅。
荷物の整理。外は豪雨。
午前0時就寝。長い1日だった。
2010年10月17日
日本滞在最終日
曇り
フエ帰国の最終荷物準備。
いくつかの買い物。
読書「完本 戒老録ー自ら救いのために」
(曽野 綾子著:祥伝社黄金文庫)
寝る前に最終持ち物点検。
パスポート
航空券
預かり金
必要な持ち物
今日は半日買い物
半日は寝ながら読書
在日中、お世話になった皆さんに心からお礼
申し上げたい。
2010年10月16日
終日休息
晴れ
9月25日から昨日まで連続の仕事。
さすがに疲れ、今日は1日ほとんど寝ていた。
9月25日にフエを出て3週間。ベトナム人の案内で
毎日を過ごした。個人の時間はほとんどなかった。
読書の時間が全くなかった。
1日読書「珍妃の井戸」(浅田次郎著:講談社)読了。
本書は「蒼穹の昴(そうきゅうのすばる)」を読んだ後に
読むと内容が十分理解できる。
「蒼穹の昴」が清王朝の末期の全史だとすれば、「珍妃の井戸」
は清朝11代皇帝光緒帝の側室、珍妃の殺害の
犯人捜しをしながら、清朝末期の日本も含む西欧列強の
侵略の実態を明らかにしている。
蒼穹の昴や「珍妃の井戸」を読む中で、中国と言う国の
今日に至る複雑な歴史が分かる。
清王朝がモンゴル系の満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)
が建てた王朝。
漢民族は300年近く異民族の満洲族の支配下にあったことが
わかる。
義和団事件などを通し、清朝が日本を含む西欧列強の
侵略の中で滅亡する時代背景が分かる。
同時に中国人の複雑な精神構造も多少わかるような
気になった。尖閣列島問題や反日デモの精神構造の
中に異民族の300年もの支配下にあった中国人の
心は複雑だ。
18日、フエに帰る。この3週間の荷物の整理。
フエ滞在のための荷物、持ち帰りの品の整理などを
行う。
大東文化大学より講演会を依頼される。2011年6月2日。
2010年10月15日
フエ市人民員会代表団帰国:高校クラス会
大阪は晴れ
昨夕から関空付近のホテルに泊まっていた。
午前5時起床。火炎樹日記を書く。
午前8時過ぎ、ホテルのバスで関空へ。
チェックイン手続き
午前9時過ぎ、関空→ホーチミン市へ。入管・出国へ。
今回のフエ市人民員会代表団は大きな仕事をし、成果を
あげた。
2012年に開催される「第13回世界歴史都市連盟総会」主催都市に
フエ市が指名・決定された。
京都・パリ・ウイーン・アムステルダム・アテネ・バルセロナ・
ブダペスト・タイのチェンマイ・リスボン・ミンスク・メルボルン・
オデッサ・プラハ・カナダのケベック・西安・その他
21011年にはフエ市で「理事会」が行われ、2012年総会
の準備を行う。
短い日程ではあったが、ニエンン外務部長・ヒエン副部長、
を中心にバオミンさんの通訳・案内などが加わり、
大きな収穫があった1週間であった。
ニエン氏・バオミンさんなどを関空で見送り、急いで
「はるか」で関空から新大阪へ。1時間。
更に新大阪から新幹線で東京へ。関空から東京まで4時間。
東京着午後3時。自宅へ。
若干荷物の整理などを行い、急いで池袋へ。
午後6時半、高校のクラス会。
ラオスでラム酒工場をしている與芝君・清水君、キューバ人と結婚し
キューバに定住している御姓(みせい)さん、ソン君メンさんの
結婚式に参加した福田さん・青木君・北田君・五井君・・・・・。
退職後、大学院に行き福祉の研究者になった若林君。
午後8時、第1次会「無事」終了。
引き続き2次会へ
キューバ在住の御姓さんと「社会主義」の現実に
ついて意見交換。近未来に一度キューバに行くことを
話す。
第2次会終了。
自宅着午後10時半。
9月25日から今日10月15日まで1日も休みなく
活動をした3週間。さすがに体が「ボロボロ」状態。
明日は1日休日。
バオミンさんたちフエ市人民員会一行が無事帰国るすること、
ベトナム事務所員のみなさんの健康を考えながら熟睡へ・・・。
2010年10月14日
世界歴史都市連盟2012年総会(第13回)フエ決定
快晴
昨日から奈良市滞在。
午前7時半、朝食
今日は、午前8時から「世界歴史都市連盟理事会」。
会場は奈良市会館
午前中は83都市が加盟している「世界歴史都市会議」理事会
フエ市は理事国ではないが、2012年の「世界歴史都市連盟総会」
に立候補しているので参加。
以下、理事国
昨年の理事会には、中国の揚州市(人口500万人)も立候補していた。
揚州市は当選するために様々な「政治的な工作」をしていた。
フエは人口30万人。到底揚州市の強引なパワーに勝てる訳がない。
2012年の第13回「世界大会総会」開催国は、中国揚州市に事実上ほぼ
決まっていたようなもの。
私たちフエ代表団は、一切の政治工作(物品の贈呈・・・)などは
しなかった。そして、今日の理事会の決定、総会での承認では、
間違いなく揚州市が決定されるとの見通しを持って参加した。
ところが、理事会では、「揚州市が立候補を辞退した」との公式報告が
あり、フエ市のみの立候補挨拶・フエ市の説明を行うことになった。
プレゼンテーションを行う「ニエンフエ市外務部長」。
ニエン外務部長ノプレゼンテーションを聞くバオミン・JASS運営委員長
(臨時フエ市外務部員)
理事会では、いくつかの理事からフエ市へ質問があった。
オーストラリアの人口9万人の市長さんからは、
「フエ市には通訳はいるのか?」との全く失礼な質問が
あった。世界歴史都市連盟理事会に出席するのなら、
最低の教養位は身につけて来い、と思った。
この市長はオーストラリアが、ベトナム戦争に参戦し、
ベトナムで悪逆非道な行為を行ったことすら理解していない
可能性すらある。
今でもベトナムは、英語などもできる人がいない、英語などの
通訳がいない貧困な国と考えている可能性が大。
フエ市は数100人規模の国際会議を何度も行っていると
ニエン外務部長が直前にプレゼンテーションしているのに。
英語、フランス語、日本語、韓国語、中国語学科をもつ
大学もある。
この女性市長を非難する気持ちもないが無知ほど恐ろしい
ことはないと痛感した。
理事会では満場一致で「フエ市」が2012年開催の
「第13回総会」の開催都市に決定される。
昼食後、総会が行われる。
京都市(事務局都市)の事務局長より理事会報告が行われ、
13回総会をフエ市で開催することが報告され、総会で
承認される。
ニエン外務部長が再度、総会でフエ市を紹介。
満場一致で総会で「第13回総会」をフエ市で開催することが承認される。
その後、閉会セレモニー。
奈良市提案の「奈良宣言」に各都市代表が署名。
閉会。
理事と公式加盟都市代表の記念写真
奈良市長(中)と連盟事務局長(左)とフエ市代表ニエン市。
奈良市からフエ市へバトンタッチ。
全ての会議が終わり、関西空港へ向かう皆さん。
奈良市から関空までのリムジンバス
関空付近のホテルへ投宿。
その後、会議成功、フエ市開催国決定にために奮闘した
ことをお互いに祝い、焼き肉の夕食。
2010年10月13日
世界歴史都市連盟総会
終日快晴
午前7時半、フエ市人民員会スタッフと朝食。
午前9時から終日、世界歴史都市連盟総会参加。
午後5時まで諸会議。
午後6時半、JR奈良駅付近の居酒屋で今日の活動の
反省会。
2010年10月12日
フエ市外務部長ニエン氏、成田着
曇り
午前5時起床。
午前6時半、自宅を出て、日暮里のホテルへ。
バオミンさんと待ち合わせをし、京成スカイライナーで
成田へ。
午前9時、成田空港でニエンさんと合流。
ニエン外務部長、バオミンさんと日暮里のホテルへ一度
戻り、チェックアウト。荷物を預ける。
皆さんの希望で浅草の浅草寺を見学しに行く。
山手線・日暮里駅ホームにて
浅草寺前で「スカイタワー」が見えた。
浅草寺参詣。
お線香の煙で体の弱い部分を撫でる。
バオミンさんはどこを撫でたか? 秘密。
浅草から上野「アメ横」へ戻り、昼食。
大衆食堂のおかみさんと。
午後、新幹線と地下鉄・近鉄を使い、近鉄奈良駅へ。
徒歩でJR奈良駅付近のホテル日航へ。奈良市が用意。
世界歴史都市連盟総会参加。
開会式典が始まっていた。
加盟都市代表と懇談するニエン外務部長とヒエン部長
フエ市人民員会外務部副部長のヒエンさん
奈良市の担当役員の方と懇談するバオミンさん
数百人の参加者が参集したオープニングセレモニー
世界歴史都市連盟事務局である京都市の担当責任者
と懇談するニエンさんとバオミンさん
午後10時、レセプションが終わり、部屋へ戻る。
長い1日だった。
2010年10月11日
JASS日本・東京主催「フエ市人民員会歓迎会」
終日快晴
午前6時起床。
朝食。
多数のメール受信。送信。
明日からの奈良市行きの荷物整理。
午前11時、自宅を出て日暮里へ。
バオミンさんたちフエ市人民員会代表団の皆さんと
落ち合う。
一緒に御徒町駅へ。徒歩で広小路の焼肉屋へ。
今日は、JASS日本・東京主催の「フエ市人民員会代表団」
歓迎会。
午後12時半、福田もえ子JASS日本代表委員長の
開会の挨拶・司会。
フエ市人民員会代表団
挨拶するバオミンさん
乾杯
JASS日本・東京からお土産贈呈
中村さんからベトナム事務所へお土産
フエ市人民員会より友好の挨拶
バオミンさんよりお礼の挨拶
最後に「関東の一本締め」
午後3時過ぎ閉会。
その後、歓迎会参加の皆さんと上野広小路の「風月堂」
でお茶を飲み懇親。
午後8時、自宅着。
2010年10月10日
ミンさん・フエ市人民員会一行「秋葉原」視察
終日雨。
午前2時目覚める。
ベトナム→成田→シンガポール→ニュージーランド→シンガポール
→成田と時差6時間の間を行き来した。まだ、時差ぼけ中。
昨日の火炎樹日記を書く。
午前6時朝食。
9月25日から昨日までの2週間ちょっとの連続行動で整理されて
いない仕事を整理し、これから一週間の行動の計画・準備をする。
午前8時、自宅を出て、バオミンさん一行の泊まっている日暮里の
ホテルへ。
バオミンさん一行は多少疲れ気味。
今日は秋葉原電気街の視察。
日暮里から秋葉原へ。
今日は日曜日。人出も多い。中国人の訪問者を多数見かける。
いくつかの大き家電量販店を視察。
人出の多い秋葉原の町を散策。
フエ市人民員会の役員のお二人は初めての日本訪問。
午前9時半から午後1時過ぎまで秋葉原を視察。
その後、上野の「アメ横」へ。昼食。
ホヤ酢、イカの塩辛、焼きトンなどで「美味しい麦系」
の昼食を摂る。
午後3時過ぎ、昼食後「アメ横」を散策。若干の買い物。
途中、1996年から2000年までベトナム事務所で
太平観光から派遣され、ベトナム事務所を手伝ってくれた
舟山さん家族と出会う。小学生1年と幼稚園のお子さんの
運動会が雨で延期となり、上野にお子さんを連れてきた
とのこと。早いものである。舟山さんがベトナム事務所に
来たのは14年も前になる。ベトナム人の美人奥さんと
結婚。二人のお子さんに恵まれ、幸せな人生を
歩んでいる現実を見て、私もうれしい。
私がベトナムで活動して初めての日越の結婚だった。
舟山さんは体を張って「日越友好」を行動で実践した
最初の人だった。
舟山さんのフエ滞在4年間の様々な出来事が走馬灯の
ように頭に浮かんでくる。
お子さんが小学生になったということを聞き、私も長い間
フエにいたのだと改めて感じた次第だ。
舟山さんのお子さんたちが幸せな世界と時代に
なることを祈っている。
その後バオミンさん一行を日暮里まで送り、自宅へ。
2010年10月09日
バオミンさんとフエ市人民員会幹部、成田着
小雨
午前5時起床。
都営三田線・山手線で日暮里へ。
午前7時過ぎ、日暮里発スカイライナーで成田空港へ。
バオミンさんやフエ市人民員会幹部の皆さんが午前7時50分に
成田空港到着の予定。
しかし1時間待っても出てこない。結局、午前9時過ぎに
成田空港到着ロビーから出てくる。
ベトナム航空機に乗っていたベトナム人やバングラディシュ人
が英語か日本語での「入国カード」が書けず、バオミンさんが
数人のベトナム人やバングラディシュ人の入国カードを
書いてやったため、入国が最後になったとのこと。
午前11時、日暮里駅着
私は寒いのだが、フエ市人民員会の皆さんは半袖。
15年前からJASSを支援してくれている「赤い顔」会長
の直井高一郎さんと社員のWさんの招待で、フェリシモの
仕事を一緒にしているマルタカ本社付近の両国の
ちゃんこ料理屋へ。元宮城野部屋そのものを
ちゃんこ料理屋にしている。
横綱「吉葉山」が作った宮城野部屋の土俵そのものが
部屋の真ん中にある。
横綱時代の「吉葉山」
午後12時半、会食。
直井さんが会長をしている「マルタカ」とはフェリシモの
仕事を一緒にしている。
今日は休日であるが、マルタカ社員のW氏とバオミンさん
がフェリシモの業務打ち合わせ。
午後2時半過ぎ、両国駅まで歩く。
途中、両国国技館前を通り、国技館を見る。
ホーチミン市から成田までの機中では寝られなかったので
ホテルへ戻りチェックイン。夕方まで休息。
フエ市人民員会の皆さんの訪日目的は、奈良市で行われる
「世界歴史都市連盟」総会への出席。2013年の
世界歴史都市連盟総会への立候補。
私も朝早く成田へ行ったこともあり、かなり疲れる。
2010年10月08日
10月6日・7日・8日
6日、7日は、シンガポール滞在。
マーライオンを見物
10月6日午後11時45分、シンガポール発。
10月7日午前7時50分、成田着。
その後、長男家族とディスニーランドへ。
10月7日は午前10時過ぎから午後8時半まで
デズニーランドに滞在。色々とディズニーランドへ参集している
若い親子に感じるところあり。
10月18日、朝、新浦安のホテルを出て、東京駅へ。
長男家族と別れ、その足で新宿のNSビルにある
心臓の病院へ。
東京自宅へ戻る。
9月26日に静大留学生3人を連れて帰国した。それから
12日ぶりに自宅へ戻る。
今夜0:05 バオミンさんやフエ市人民員会の幹部の
方たちがjホーチミン空港を出発。
明日(9日)朝、7時50分成田着。
明朝は私が成田まで出迎えに行く。
2010年10月05日
10月1日から5日 NZ/シンガポール
10月1日 ニュージーランド
2日 ニュージーランド
3日 ニュージーランド
4日 朝7時 NZタウランガ市発→オークランド空港(4時間)
A11;30オークランド発→シンガポール(10時間)
以下、NZにて
REDDYさんの家の前で
REDDYさんの家で3日間生活。
採れたての「生ガキ」を食べる。
REDDYさんと長男・次男の嫁さん。
NZで一番おいしい『スタイン・ラガー』ビールを飲む。
日本の春。桜の季節。
お花見感覚で海の近くのエストランで休憩。
夕食もREDDYさんの家で。海辺の町なので
魚の燻製など美味しい「おつまみ」の宝庫。
野菜も新鮮。
REDDYさんと出会ったのは、1987年。
それから23年間の付き合い。
NZ滞在最終日。22年間の付き合いである
グイナス夫妻と夕食会。
夕食会の隣に広島からNZ人と結婚した方がいた。
一緒に写真を撮る。
10月5日朝7時半、タウランガ市からバスで
オークランド空港へ。REDDYさんとお別れ。
オークランド空港。SQ(シンガポール航空機で)
10時間の飛行を終え、シンガポール空港へ到着。
午後8時ホテルへ着く。オーチャドー通りの「フードコート」
へ夕食を摂りに。気温は30度。
10月5日はホテルのプールでこどもたちと遊ぶ