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2010年11月05日

終日雨

終日、雨。寒い。

午前5時起床。読書「マルクスの逆襲」(三田誠広著)
30歳前後に早稲田文学部在学中の「全共闘運動」
体験を書いた「僕って何」で芥川賞を受賞。
著者は大企業「三田工業」の次男。世間的に言えば
「いいとこのお坊ちゃん」である。
大阪の名門府立高校時代、10人程の友達と「マルクス主義
研究会」を作り、マルクスの「経済学哲学草稿」などの
読書会をし、段々実践活動に入り、ベトナム戦争反対、日韓
条約反対のデモに参加するようになった。50人程の
同級生もデモにかなりの頻度で参加していたとある。
同時期、私も東京の都立高校に通っていたが、大阪以上に
東京は政治の影響を強く受けていた。私も高校1年生から
春闘のデモに参加し、10・21集会、社共一日共闘集会、
ベトナム戦争反対デモ、日韓条約反対デモや朝鮮高校
との交流などに参加していた。三田氏も含めて
当時の団塊の世代の一定の部分は、こうして政治的な社会
の空気と戦後民主主義教育の影響もあり、高校1年生位
でデモや政治集会にかなり頻繁に参加していた。
三田氏が私と同じ体験をかいていることに少し驚く。

本書の対象は、大学生や若者である。60年代から
70安保闘争を知らない若者に、当時の大学生が
どんな動機と状況の中で学生運動に参加していったのかを
自らの体験を通して分かりやすく説明している。
マルクス主義の歴史を概略を説明している。
当時の後進国であり40ほどに分裂していたドイツ生まれの
ユダヤ人だったマルクスの境遇から説き起こし、何故、
マルクスが「資本論」を書いたか? マルクスの言っている
共産主義の本質は何なのか?を語る。
更に日本のマルクス主義の歴史の概観を述べ、
特に日本共産党とそれに反撥し除名された学生集団
共産主義者同盟(ブンド)の60年安保闘争の歴史を概観。
その後、革命的共産主義者同盟(革共同)から更に分裂し、
仲間同士の近親憎悪的な「革マル」「中核」の内ゲバの
歴史。更に社会主義学生同盟(社学同)、日本社会党の
青年組織「社会主義青年同盟(社青同)にもぐりこんだ
解放派などのいわゆる「新左翼」(日本共産党はニセ左翼と呼称)
の解説を行っている。

本書のテーマは「マルクスの逆襲」なのだが、戦後、特に
60年代から70年安保の学生運動の略史を知るのには、
適当な教材となるが、日本共産党系の民主青年同盟などが
抹殺されているので、当時の状況の「一端」を書いたというべき。
いずれにしろ、1960年代の政治・経済状態の中で、
何故、当時の学生が運動を起こしたのかの一端は分かる。

簡単なストレッチ(柔軟体操)
2週間ちょっと続けると、かなり体がやわらかくなる。

午前7時、朝食。キャッサバ芋と米の「チャオバインカイン」。


メール受信、必要な送信。

バンベー38号編集。
ベトナム人の原稿を日本語らしく添削する。

部屋の掃除。衣類の整理。

読書「マルクスの逆襲」(三田誠広著:集英社新書)読了。

三田氏はソ連・東欧の崩壊、既存の社会主義といわれている
国々の官僚主義、一党独裁などの状況で、一度マルクスは
死んだが、今、再び生き返って来たと言っている。
それは、現在は資本主義の末期症状を示し、サブプライムローン
の破綻など、資本主義の本来の矛盾の最終へ到達しつつある、
としている。マルクスの述べていることの一つの本質は、
「生きがい」、別の言葉で言えば「人間疎外の克服」である。
そのためにはと、三田氏は「農業の再生」を上げている。
農業を再生氏、地域共同体を作り、人間の生きがい、働く
喜びを作り上げることが必要であり、マルクスの言っている
ことは大富豪・大金持ちをなくし、皆が真面目に働き
それなりに生きがいを持って生きていく社会をつくることだと。
1970年代の日本は、ある意味でマルクスの言っていた
平等と生きがいのある社会を作ったと。ソ連の崩壊で
マルクスは否定されたかに見えたが、今、貧富の格差の
増大、悪辣で表に出ないな国際金融資本の大もうけなど
の事態の中で、マルクスは復活していると。


午前11時半、昼食。「春雨麺」。

食後、1時間ほど昼寝。

読書「ポピュリズムへの反撃」(山口二郎著:角川)
2010年10月発行。

ブライセン本社から電話。

筋トレ。

尖閣諸島での中国漁船衝突ビデオをインターネットで見る。
冷静にこのビデオを見ると、どうみても中国漁船が
意図的に日本の哨戒船に2回「体当たり」していると
断言できる。
先日、衆参両院の予算委員会の理事さん30人だけに
6分程度に短縮した「衝突」ビデオを見せたそうだが、
特別なビデオでもなく、中国船が「違法操業」で
魚を獲っている場面があり、海上保安庁の哨戒船が
注意を喚起し、中国漁船が2回体当たりしたというだけの
ビデオである。国民の代表である国会議員全員にも
見せないなどという措置を菅内閣は何故取ったのか?
理解出来ない。国民には知る権利があり、行政は
国民に知らせる義務がある。
ビデオを公開したら中国が反撥するとの憶測から
一部の国会議員に密室でみせたのだろうが、
あまりに姑息なやり方だ。
むしろ真実のビデオを世界に公開し、中国人の日本領土へ
の不法侵入という事実を公にした方が良かったように思った。
変に「地下の人脈」などを使って中国と交渉しても
交渉上手な中国に取り込まれてしまう。
日本の外交の下手さがまたも露呈した。
以前北朝鮮の「金正日」の長男、正男が偽造パスポートで
不法入国したが、無罪放免している。
正々堂々と事実は事実として明らかにし、外交交渉をする
方が中国側も交渉がしやすいのではないだろうか?
中国政府も尖閣諸島が中国の領土でないこと、またそれまで
の歴史は知っている筈である。そこを「横車」を押している
現実である。日本側が、尖閣諸島が無人島であり、最初に
占有した国のものであることは国際慣例で明らかであり、
無人島の尖閣諸島を最初に見つけたのは、日本である点
74年間、中国は日本の尖閣諸島占有について、一切抗議を
してこなかった事実など、正当性をしっかりと主張すべきでる。
続きを読む に尖閣諸島問題についての日本共産党の
 態度を記載した。各種新聞などの解説の中では一番まとまっている。
詳細を知りたい方は、一読を)


午後5時過ぎ、ベトナム事務所へ。

午後5時半、日本料理店でこどもたちと夕食。


日本人の先生方は寒いので「登山用防寒服」。


私とリー君は半袖。


今日は12人の来客。大半の来客は、英語版観光ブック
「ロンリープラネット」を読んで支援の気持ちもあって来店している。

タイ人  4人
オーストラリア人 2人
スペイン人  6人


12人がほぼ同時に入店したので、厨房は大忙し。



鉄火巻き


野菜炒め



接客担当のリー君とグエットさん。
リー君が時々「ちょっかい」を出しているが、一方は、無視。
頑張れ、寅さん。

午後9時、閉店。

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尖閣諸島問題 日本の領有は歴史的にも国際法上も正当
 ――日本政府は堂々とその大義を主張すべき――
2010年10月4日  日本共産党

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 日本の尖閣諸島周辺で起きた中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突事件をきっかけに、尖閣諸島の領有権にかかわる日本と中国の主張の対立が、国際的にも注目を集めている。日本共産党はすでに1972年に日本の尖閣諸島の領有は正当であるとの見解を発表しているが、この機会にあらためて尖閣諸島の領有の正当性について明らかにする。
1、日本の領有と実効支配
 近代まで「無主の地」
 尖閣諸島の存在は、古くから日本にも中国にも知られており、中国の明代や清代の文献に登場する。当時、琉球は中国との間で朝貢貿易をおこなっており、中国の使節である冊封使が琉球国王の代替わりにさいして往来した。琉球と中国大陸の福州とを結ぶ航路のほぼ中間に位置する尖閣諸島は、海路の目標とされていた。しかし、中国側の文献にも、中国の住民が歴史的に尖閣諸島に居住していたことを示す記録はなく、明代や清代に中国が国家として領有を主張していたことを明らかにできるような記録も出ていない。

 一方、日本側にも、この時期について日本の領有を示すような歴史的文献は存在しない。近代にいたるまで尖閣諸島は、いずれの国の領有にも属せず、いずれの国の支配も及んでいない、国際法でいうところの「無主の地」であった。

 日本による領有
  「無主の地」の尖閣諸島を1884年(明治17年)に探検したのは日本人古賀辰四郎だった。古賀氏は翌85年に同島の貸与願いを申請した。同島でアホウドリの羽毛の採取などが試みられ、周辺の海域で漁業をおこなう漁民の数も増えるなか、沖縄県知事は実地調査をおこなうこととし、尖閣諸島が日本の領土であることを示す国標を建てるべきかどうかについて、政府に上申書を提出する。政府内での検討の結果は、国標を建てて開拓にあたるのは他日の機会に譲る、というものだった(『日本外交文書』第23巻)。

 日本政府はその後、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで、1895年1月14日の閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為である。これは、「無主の地」を領有の意思をもって占有する「先占」にあたり、国際法で正当と認められている領土取得の権原のひとつである。

 日本の実効支配
 日本政府は、尖閣諸島を沖縄県八重山郡に編入したあとの1896年9月、以前から貸与を願い出ていた古賀辰四郎氏に4島(魚釣、久場、南小島、北小島)の30年間の無料貸与の許可を与えた。古賀氏は尖閣諸島の開拓に着手し、貯水施設、船着き場、桟橋などの建設をすすめ、アホウドリの羽毛の採取や鳥糞の採掘などを主な事業にして「古賀村」が生まれた。これが尖閣諸島における最初の居住である。大正期に入ってからは鰹節の製造や海鳥のはく製製造がおもにおこなわれた。最盛期には漁夫やはく製づくりの職人など200人近い人びとが居住していた。

 1919年には、中国福建省の漁民が魚釣島付近で遭難し、同島に避難した31人を住民が救助し、全員を中国に送還した。この救援活動にたいし、中華民国の長崎駐在領事から、1920年5月20日に感謝状が届けられた。感謝状のなかには、尖閣諸島がはっきりと日本の領土として記述されていた。

 このように、尖閣諸島にたいしては、第二次世界大戦まで中断することなく日本の実効支配がおこなわれてきた。

 1945年の日本の敗戦により、日本が中国から奪った台湾などの地域は、連合国のカイロ宣言(1943年11月)やポツダム宣言(1945年7月)にもとづいて、中国への返還が決められ、実行された。このなかには、尖閣諸島は含まれていない。

 尖閣諸島は、沖縄の一部として、アメリカの軍事支配下におかれることになった。1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約によって、尖閣諸島を含む「北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)」などは米軍の施政権下に置かれ、米国は、一定の地代を支払うことと引き換えに、尖閣諸島の大正島と久場島を米軍射撃場として使ってきた。施政権は奪われていたとはいえ、尖閣諸島にたいする主権は日本にあった。日米の間で1971年6月に調印された沖縄返還協定が1972年5月15日に発効したことにともなって、尖閣諸島の施政権は日本に返還され、今日にいたっている。

2、国際法上明白な日本の領有
 中国は75年間異議をとなえず
 中国側は、尖閣諸島の領有権を主張しているが、その最大の問題点は、中国が1895年から1970年までの75年間、一度も日本の領有に対して異議も抗議もおこなっていないという事実である。

 中国、台湾が尖閣諸島の領有権を主張しはじめたのは1970年代に入ってからである。台湾は1970年に尖閣諸島の領有を初めて主張し、71年に入って主権声明を出した。中国政府は、1971年12月30日の外交部声明で領有権を公式に主張した。尖閣諸島のある東シナ海から黄海について、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)は、1969年5月に公刊した報告書で、石油天然ガスの海底資源が豊かに存在する可能性を指摘していた。

 侵略による奪取とは異なる
 尖閣諸島に関する中国側の主張の中心点は、同諸島は台湾に付属する島嶼として中国固有の領土であり、日清戦争に乗じて日本が不当に奪ったものだ、という点にある。

 日清戦争(1894~95年)で日本は、台湾とその付属島嶼、澎湖列島などを中国から不当に割譲させ、中国への侵略の一歩をすすめた。しかし、尖閣諸島は、日本が不当に奪取した中国の領域には入っていない。

 この問題では、台湾・澎湖の割譲を取り決めた日清講和条約(下関条約)の交渉過程、とりわけ、割譲範囲を規定した同条約第2条の「二、台湾全島およびその付属諸島嶼」のなかに尖閣諸島が含まれていたのかどうかが、重要な論点となる。

 第一に、経過の点で、日本が尖閣諸島の領有を宣言したのは1895年1月14日であり、台湾・澎湖の割譲を取り決めた講和条約の交渉が開始される同年3月20日よりも2カ月ほど前のことである。

 第二に、下関条約は、割譲範囲について第2条で、「台湾全島及其ノ附屬諸島嶼」、「澎湖列島即英國『グリーンウィチ』東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼」と規定しており、尖閣諸島については一切言及してない。

 第三に、下関条約を締結する交渉の過程で、中国側の代表は台湾とその付属島嶼や澎湖列島の割譲要求にたいしては強く抗議したが、尖閣諸島についてはなんら触れなかった。かりに中国側が尖閣諸島を自国領土だと認識していたならば、尖閣諸島の「割譲」も同じように強く抗議したはずだが、そうした事実はない。それは、公開されている交渉議事録から疑問の余地がない。

 第四に、1895年4月17日に下関条約が締結されたのちの同年6月2日、「台湾受け渡しに関する公文」に署名する際、台湾の付属島嶼とは何かが問題になったときに、日本側代表は、台湾の付属島嶼は、それまでに発行された地図や海図で公認されていて明確だとのべ、中国側はそれを了解している。当時までに日本で発行された台湾に関する地図や海図では、例外なく台湾の範囲を、台湾の北東56キロメートルにある彭佳嶼までとしており、それよりさらに遠方にある尖閣諸島は含まれていない。尖閣諸島は、台湾の付属島嶼ではないことを、当時、中国側は了解していたのである。いま、中国側は、尖閣諸島が台湾付属の島嶼であり、日本によって強奪されたと主張しているが、それが成り立たないことは、この歴史的事実を見れば明らかである。

 中国側の立場を擁護する主張の中には、日清戦争で敗戦国となった清国には、尖閣諸島のような絶海の小島を問題にするゆとりがなかった、とする見解もある。しかし、国際法上の抗議は、戦争の帰趨とは無関係にいつでもできるものである。もし、尖閣諸島が台湾に属すると認識していたのなら、講和条約の交渉過程でも、またその後でも、抗議できたはずである。

 このように、日本による尖閣諸島の領有は、日清戦争による台湾・澎湖列島の割譲という侵略主義、領土拡張主義とは性格がまったく異なる、正当な行為であった。

 戦後の25年間も異議をとなえず
 第二次世界大戦後、中国政府は、サンフランシスコ平和条約について、中華人民共和国が参加したものではなく無効という態度を表明した(1951年9月18日の周恩来外交部長の声明)が、尖閣諸島について、それが米国の施政権下に置かれ、日本への「返還区域」に含められたことは不法と主張するようになったのは、1970年代に入ってからである。戦後の25年間も、尖閣諸島については領有権を主張することはなかったのである。

 このように、1970年代にいたる75年間、第二次世界大戦が終了してからも25年間、中国側から日本の領有にたいする異議申し立ても抗議も一度もなされてこなかったことは、戦後も中国側が、尖閣諸島を中国の領土とは認識していなかったことを裏付けている。

 逆に、1953年1月8日付の中国共産党機関紙「人民日報」は、「米国の占領に反対する琉球群島人民の闘争」と題して、米軍軍政下の沖縄での日本人民の闘争を報道し、そのなかで、「琉球群島は、わが国台湾の東北および日本九州島の西南の間の海上に散在し、尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、吐か喇(とから)諸島、大隅諸島など7つの島嶼からなっている」と、「尖閣諸島」という日本の呼称を使って同諸島を日本領土に含めて紹介していた。

 また、北京市地図出版社から1958年や1966年に発行された中国全図などでは、尖閣諸島は中国領の外に記載されている。

 このように、尖閣諸島が台湾など中国の領土に属するものではなく、中国側も1970年代にいたるまではそのように認識していたことは明白である。

 日本の領有は国際法上も明白
 日本は1895年1月14日の領有宣言によって、国際法上の先占の法理にもとづいて尖閣諸島を領有した。

 先占の法理は、特定の条約に明文化されているものではなくて、近代を通じての主権国家の慣行や国際裁判所(国際仲裁裁判や国際司法裁判所など)の判例の積み重ねによって国際慣習法として確立してきたものである。その核心として、領有が国際的に認められるには「主権の継続的で平和的な発現」が基本的な要件となる。「平和的な発現」とは、領有にたいして歴史的に異議がとなえられてこなかったことを指す。先占については通例、(1)占有の対象が無主の地であること、(2)国家による領有の意思表示、(3)国家による実効的な支配――この三つが国際法上の条件としてあげられる。また、関係国への領有の通告は、あらかじめ取り決めなどがある場合を除いて、国際法上、一般には義務とはされていない。尖閣諸島にたいする日本の領有は、このいずれの条件も満たしており、国際法上、まったく正当なものである。

 一方、領土紛争においては、相手国による占有の事実を知りながらこれに抗議などの反対の意思表示をしなかった場合には、相手国の領有を黙認したとみなされるという法理も、国際裁判所の判例などを通じて、確立してきている。この法理にもとづいて、1895年の日本の領有宣言以来、中国側が75年間にわたって一度も抗議をおこなっていないことは、日本の領有が国際法上、正当なものである決定的な論拠の一つとなる。

 このように、尖閣諸島にたいする日本の領有権は、歴史的にも国際法上も明確な根拠があり、中国側の主張には正当性がない。

3、領有に関わる紛争の解決のために
 尖閣諸島をめぐる紛争問題を解決するために、何よりも重要なことは、日本政府が、尖閣諸島の領有の歴史上、国際法上の正当性について、国際社会および中国政府にたいして、理を尽くして主張することである。

 この点で、歴代の日本政府の態度には、1972年の日中国交正常化以来、本腰を入れて日本の領有の正当性を主張してこなかったという弱点がある。

 領土画定を明確にするよい機会であった1978年の日中平和友好条約締結の際に、中国のトウ小平副首相が尖閣諸島の領有問題の「一時棚上げ」を唱えたが、日本側は、日本の領有権を明確な形では主張しなかった。それは、尖閣諸島の領有権が日本にあることについて中国側に確認を申し出ることは「全く要らざることである」(福田首相の衆院外務委員会答弁、1978年10月16日)という立場からの態度だった。

 1992年に中国が「領海および接続水域法」を採択し、尖閣諸島を自国領と明記した際には、外務省が口頭で抗議しただけで、政府としての本腰を入れた政治的・外交的対応はなかった。

 今回の事件でも、民主党政権は「国内法、司法で対処する」というだけで、肝心の外交的主張を怠ってきた。

 このように長期にわたって積極的主張を回避してきたことについて、わが党の議員の質問に閣僚から「中国や国際社会に対して日本の立場を発信してきたかどうかについては、大いに反省するところがある」(9月30日衆院予算委員会)との答弁がなされている。

 わが党は、日本政府に、こうした態度をあらため、歴史的事実、国際法の道理にそくして、尖閣諸島の領有の正当性を、国際社会と中国政府に堂々と主張する外交努力を強めることを求める。

 同時に、中国政府に対しても、今回のような問題が起こった場合、事態をエスカレートさせたり、緊張を高める対応を避け、冷静な言動や対応をおこなうことを求める。日本と中国との間で、あれこれの問題で意見の違いや行き違いが起こっても、問題をすぐに政治問題にすることを戒め、実務的な解決のルールにのせる努力が大切であり、話し合いで平和的に解決することが何よりも重要である。

 日中両国政府は、2008年5月の共同声明の中で「ともに努力して東シナ海を平和・協力・友好の海とする」と合意している。今後さらに、その分野をはじめ日中の「戦略的互恵関係」を発展させ、東アジアの平和と安定に貢献するよう求めるものである。

【資料】

尖閣列島問題に関する日本共産党の見解(1972年3月31日)(PDF)
地図出版社(北京市)発行「世界地図集」1958年版日本図(画像)
中華民国の長崎駐在領事からの感謝状(画像)
1953年1月8日付の「人民日報」(画像)
「人民日報」該当部分の拡大(画像)


投稿者 koyama : 2010年11月05日 13:09

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