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2010年11月15日
バンベー38号編集
終日雨。午前中、時々豪雨
朝起きられず。午前6時半起床。
簡単なストレッチ。熱めのシャワーを浴びる。
午前7時、朝食。ブンボー。
バオミンさん(バンベー原稿の集め役)から次々と原稿が
メールで送られてくる。
11月15日が、バンベー原稿の「締め切日」。
ベトナム事務所員の原稿、「子どもの家」ベトナム人スタッフの
原稿など・・・・。
一つずつ目を通し、全体のテーマに沿った内容になっているか、
分かり易くなっているかをチェック。
読書「半音楽史」読了。
17世紀・18世紀・19世紀のヨーロッパ音楽史の概要が
よく分かった。
本書の帯にある西洋音楽史を「ドイツ聖楽史」に変えてしまった
事情を実証的に証明している。
音楽の主流は歌。楽器は歌の補助。音楽は文字通り、
音を楽しむものというのが、当時の一般的な音楽理解。
皇帝や貴族の食事会の後ろで「演奏する」ものだった。
楽士も作曲家も皇帝・貴族の下僕であった。もちろん
人文貴族は音楽家のパトロンとなり音楽家を保護した。
そして、イタリヤが音楽の中心であり、更にフランス
などの音楽もあくまで娯楽であり、楽しむものであった。
中心は「オペラ」。
当時のウイーンやドイツはなどアルプスの北には、そうした
文化が届いていなかった。多くのドイツ楽士や音楽家は
イタリヤへ勉強に行ったというのが、著者の最初に言いたいこと。
シンホニー(交響曲)は当時の音楽会の「序幕」的な、ざわめきを
消すための音楽としか位置づいていなかった。
1808年に行われたウイーンの劇場でベートーヴェン主催の
の音楽会のプログラム。
第1部
1、田園生活の思い出という題の交響曲(初演)
(これがベートヴェンの「田園」)ー落語で言えば「前座」扱い
2、アリア ああ不実な人よ
3、独唱と合唱によるラテン語の頌歌
4、ピアノ協奏曲ト長調 演奏ベートヴェン
第2部
1、大交響曲ハ単調(初演)ーこれが「運命)
2、ラテン語による聖歌
3、ピアノ独奏 (ベートーヴェン)
4、ピアノ独奏つきの合唱幻想曲
交響曲(シンホニー)は、あくまで「序幕扱い」だった。
メインは、歌、そしてモーツアルトのような楽器の名人の演奏を
聞くというものだった。
18世紀に入り、後進国のドイツでは、国威発揚、愛国主義
が盛んとなり、「先進国」を追い越せとの運動が起こる。
その一環としてドイツ人のシューマンたちが愛だの恋だの
というオチャラケた音楽でなく、「美」と「崇高」こそが
音楽だとの主張をし、ベートーベンなどがシラーや
ダンテの詩を使い、ソナタ形式を取り入れ、シンホニー
を作り上げる。そして、19世紀・20世紀前半までは
大バッハ、モーツアルト、ベートヴェン・・などドイツ人の
「美と崇高」を目指したクラシック音楽が主流となっかたに
見えたが、実際には、ロッシーニなど「美と崇高」とは
一線を画し、大衆に奉仕する作曲家の演奏回数の方が
圧倒的に多く演奏されていた。
日本のように後発国の音楽は強国「プロイセン」(ドイツ)から「輸入」
したので、「美と崇高」こそが音楽という伝統がいまでも続いている。
その基本は①楽譜が全て。 ②作曲者が全て ③交響曲が音楽の
最高 ④協奏曲は不純なジャンル。独奏者の芸を見せる
ショビジネスー ⑤弦楽四重曲は純粋で高貴な形式
⑥セレナード、ディヴェルティメント、食事の音楽は宴席音楽で
卑しい ⑦あらゆる編曲行為は、原曲を損なう
こうした流れをせき止めたのが、ジャズ。楽譜の読めない
黒人にアメリカ南北戦争の敗者南軍が、楽器を売り、
娼婦街で客寄せのために楽器を鳴らすところから始まった
ジャズが、「ソウルの音楽」といわれるまでに成長し、
ドイツクラッシク音楽をしのぐようになったと著者は言っている。
著者の説明には納得するところもあるが、何しろ当方が
音楽に無知な人間のため、可否を認定する能力がないが、
17・18・19世紀の「石井宏流音楽史」を学んだことが確か。
バオミンさんと電話でいくつかの打ち合わせをする。
メールの受信・送信。
午前11時半、昼食。「春雨麺」。
午後12時過ぎから1時間ほど昼寝。
午後2時、ブライセン本社と電話会議。
読書「中国侵略の証言者ー「認罪」の記録を読む」
(岡部牧夫・荻野富士夫・吉田裕:岩波新書)
中国の山西省「太原(たいげん)」と遼寧省「撫順(ぶじゅん)」
の戦犯管理所に収容されていた1109人の日本軍人などを
裁いた法廷の記録。結果は1956年6月・7月に45名が
裁判を受け、懲役20年から12年の刑を宣告され服役。
死刑・無期懲役は一人もいない。被告の一人は、40数人の
試し切りをしたり、新兵の度胸試しに殺害を指示したり
している。当時の中国共産党の指示で「死刑と無期懲役」
は出さないという原則のもとで裁判が行われている。
1109人もの被告がいたが、結局懲役刑は45人にとどまって
いる。
多くの服役者は満期前に日本へ帰国している。
私が本書を読もうとした切欠(きっかけ)は、山西省「太原」
という町が出てきたからである。我が家はこの山西省太原に
住み、兄、姉はこの太原で生まれている。内陸部の町。
アジア・太平洋戦争が終わるまで家族は太原にいた。
どんな町なのか? 太原で暮らしていた軍人の父とその
仲間が何をしたのか?を知りたい。
静岡大学滝下さんへ電話。
静岡大学W教授と電話で話をする。
バンベーの原稿がどんどん私のメールに入る。
入り次第、添削し、題名をつけて保存する。
午後は大雨。
午後5時過ぎ、日本料理店へ。
途中、豪雨で町の道は浸水。水深20センチほど。
日本料理店のこどもたち、日本人スタッフと夕食。
野沢菜のような発酵した漬け菜。少し酸っぱくて美味しい。
滝下さんと電話で打ち合わせ
来客3人。
日本料理店のヒエウさんの家が浸水したとのこと。
日本料理店副店長・厨房主任のトゥオイさんの
妹がトゥオイさんを迎えに来た。家の付近が
浸水とのこと。
トゥオイさんの妹のクアーさん。高校2年生。
1999年のフエ大洪水で父親は亡くなり「子どもの家」に
入所した。小学校1年か2年生位だった。
1ヶ月ほど「家に帰りたい」と毎晩泣いていた。
午後8時、こどもたちを早く家に帰すため閉店。
私はフォンザンホテルとフオン側の交流する場所へ行く。
フエ市内の洪水はここから始まる。
既に鉄の柵が張られ、通行止め。この調子で雨が降れば
明日は市内全域が浸水する。
フエ市内と郊外との結ぶ道。浸水で道路閉鎖。
フエ市内と郊外を結ぶ道は『洪水』で歩行困難。
フエ市内と郊外を結ぶ「結節点」にあるレストランは、かなりの
浸水状態。
午後8時半、宿舎に着く。
投稿者 koyama : 2010年11月15日 14:01